その一つ、――すなわち積極の頂点からとんぼ返りを打って、魂が消極の末端にひょっくり現われる奇特である。平たく云うと、生きてる事実が明瞭になり切った途端に、命を棄てようと決心する現象を云うんである。自分はこれを活上より死に入る作用と名けている。この作用は矛盾のごとく思われるが実際から云うと、矛盾でも何でも、魂の持前だから存外自然に行われるものである。論より証拠発奮して死ぬものは奇麗に死ぬが、いじけて殺されるものは、どうも旨く死に切れないようだ。人の身の上はとにかく、こう云う自分が好い証拠である。梯子の途中で、ええ忌々しい、死んじまえと思った時は、手を離すのが怖くも何ともなかった。無論例のごとくどきんなどとはけっしてしなかった。ところがいざ死のうとして、手を離しかけた時に、また妙な精神作用を承当した。
第 6 章
自分は元来が小説的の人間じゃないんだが、まだ年が若かったから、今まで浮気に自殺を計画した時は、いつでも花々しくやって見せたいと云う念があった。
短銃でも九寸五分でも立派に――つまり人が賞めてくれるように死んでみたいと考えていた。
できるならば、華厳の瀑まででも出向きたいなどと思った事もある。
しかしどうしても便所や物置で首を縊るのは下等だと断念していた。
その虚栄心が、この際突然首を出した。
どこから出したか分らないが、出した。
つまり出すだけの余地があったから出したに相違あるまいから、自分の決心はいかに真面目であったにしても、さほど差し逼ってはいなかったんだろう。
しかしこのくらい断乎として、現に梯子段から手を離しかけた、最中に首を出すくらいだから、相手もなかなか深い勢力を張っていたに違ない。
もっともこれは死んで銅像になりたがる精神と大した懸隔もあるまいから、普通の人間としては別に怪しむべき願望とも思わないが、何しろこの際の自分には、ちと贅沢過ぎたようだ。
しかしこの贅沢心のために、自分は発作性の急往生を思いとまって、不束ながら今日まで生きている。
全く今はの際にも弱点を引張っていた御蔭である。
話すとこうなる。
――いよいよ死んじまえと思って、体を心持後へ引いて、手の握をゆるめかけた時に、どうせ死ぬなら、ここで死んだって冴えない。
待て待て、出てから華厳の瀑へ行けと云う号令――号令は変だが、全く号令のようなものが頭の中に響き渡った。
ゆるめかけた手が自然と緊った。
曇った眼が、急に明かるくなった。
カンテラが燃えている。
仰向くと、泥で濡れた梯子段が、暗い中まで続いている。
是非共登らなければならない。
もし途中で挫折すれば犬死になる。
暗い坑で、誰も人のいない所で、日の目も見ないで、鉱と同じようにころげ落ちて、それっきり忘れられるのは――案内の初さんにさえ忘れられるのは――よし見つかっても半獣半人の坑夫共に軽蔑されるのは無念である。
是非共登り切っちまわなければならない。
カンテラは燃えている。
梯子は続いている。
梯子の先には坑が続いている。
坑の先には太陽が照り渡っている。
広い野がある、高い山がある。
野と山を越して行けば華厳の瀑がある。
――どうあっても登らなければならない。
左の手を頭の上まで伸ばした。
ぬらつく段木を指の痕のつくほど強く握った。
濡れた腰をうんと立てた。
同時に右の足を一尺上げた。
カンテラの灯は暗い中を竪に動いて行く。
坑は層一層と明かるくなる。
踏み棄てて去る段々はしだいしだいに暗い中に落ちて行く。
吐く息が黒い壁へ当る。
熱い息である。
そうして時々は白く見えた。
次には口を結んだ。
すると鼻の奥が鳴った。
梯子はまだ尽きない。
懸崖からは水が垂れる。
ひらりとカンテラを翻えすと、崖の面を掠めて弓形にじいと、消えかかって、手の運動の止まる所へ落ちついた時に、また真直に油煙を立てる。
また翻えす。
灯は斜めに動く。
梯子の通る一尺幅を外れて、がんがらがんの壁が眼に映る。
ぞっとする。
眼が眩む。
眼を閉って、登る。
灯も見えない、壁も見えない。
ただ暗い。
手と足が動いている。
動く手も動く足も見えない。
手障足障だけで生きて行く。
生きて登って行く。
生きると云うのは登る事で、登ると云うのは生きる事であった。
それでも――梯子はまだある。
それから先はほとんど夢中だ。
自分で登ったのか、天佑で登ったのかほとんど判然しない。
ただ登り切って、もう一段も握る梯子がないと云う事を覚った時に、坑の中へぴたりと坐った。
「どうした。上がって来たか。途中で死にゃしねえかと思って、――あんまり長えから。見に行こうかと思ったが、一人じゃ気味がわるいからな。だけども、好く上がって来たな。えらいや」と待ちかねて、もじもじしていた初さんが大いに喜んでくれた。
何でも梯子の上でよっぽど心配していたらしい。
自分はただ、「少し気分が悪るかったから途中で休んでいました」と答えた。
「気分が悪い? そいつあ困ったろう。途中って、梯子の途中か」「ええ、まあそうです」「ふうん。じゃ明日は作業もできめえ」 この一言を聞いた時、自分は糞でも食えと思った。
誰が土竜の真似なんかするものかと思った。
これでも美しい女に惚れられたんだと思った。
坑を出れば、すぐ華厳の瀑まで行くんだと思った。
そうして立派に死ぬんだと思った。
最後に半時もこんな獣を相手にしていられるものかと思った。
そこで、自分は初さんに向って、簡単に、「よければ上がりましょう」と云った。
初さんは怪訝な顔をした。
「上がる? 元気だなあ」 自分は「馬鹿にするねえ、この明盲目め。人を見損なやがって」と云いたかった。
しかし口だけは叮嚀に、一言、「ええ」と返事をして置いた。
初さんはまだぐずぐずしている。
驚いたと云うよりも、やっぱり馬鹿にしたぐずつき方である。
「おい大丈夫かい。冗談じゃねえ。顔色が悪いぜ」「じゃ僕が先へ行きましょう」と自分はむっとして歩き出した。
「いけねえ、いけねえ。先へ行っちゃいけねえ、後から尾いて来ねえ」「そうですか」「当前だあな。人つけ。誰が案内を置き去にして、先へ行く奴があるかい、何でい」と初さんは、自分を払い退けないばかりにして、先へ出た。
出たと思うと急に速力を増した。
腰を折ったり、四つに這ったり、背中を横っ丁にしたり、頭だけ曲げたり、坑の恰好しだいでいろいろに変化する。
そうして非常に急ぐ。
まるで土の中で生れて、銅脈の奥で教育を受けた人間のようである。
畜生中っ腹で急ぎやがるなと、こっちも負けない気で歩き出したが、そこへ行くと、いくら気ばかり張っていても駄目だ。
五つ六つ角を曲って、下りたり上ったり、がたつかせているうちに、初さんは見えなくなった。
と思うと、何とかして、何とか、てててててと云う歌を唄う。
初さんの姿が見えないのに、初さんの声だけは、坑の四方へ反響して、籠ったように打ち返してくる。
意地の悪い野郎だと思った。
始めのうちこそ、追っついてやるから今に見ていろと云う勢で、根限り這ったり屈んだりしたが、残念な事には初さんの歌がだんだん遠くへ行ってしまう。
そこで自分は追いつく事はひとまず断念して、初さんのてててててを道案内にして進む事にした。
当分はそれで大概の見当がついたが、しまいにはそのててててても怪しくなって、とうとうまるで聞えなくなった時には、さすがに茫然とした。
一本道なら初さんなんどを頼りにしなくっても、自力で日の当る所まで歩いて出て見せるが、何しろ、長年掘荒した坑だから、まるで土蜘蛛の根拠地みたようにいろいろな穴が、とんでもない所に開いている。
滅多な穴へ這入るとまた腰きり水に漬る所か、でなければ、例の逆さの桟道へ出そうで容易に踏み込めない。
そこで自分は暗い中に立ち留って、カンテラの灯を見詰めながら考えた。
往きには八番坑まで下りて行ったんだから帰りには是非共電車の通る所まで登らなければならない。
どんな穴でも上りならば好いとする。
その代り下りなら引返して、また出直す事にする。
そうして迂路ついていたら、どこかの作事場へ出るだろう。
出たら坑夫に聞くとしよう。
こう決心をして、東西南北の判然しない所を好い加減に迷ついていた。
非常に気が急いて息が切れたが、めちゃめちゃに歩いたために足の冷たいのだけは癒った。
しかしなかなか出られない。
何だか同じ路を往ったり来たりするような案排で、あんまり、もどかしものだから、壁へ頭をぶつけて割っちまいたくなった。
どっちを割るんだと云えば無論頭を割るんだが、幾分か壁の方も割れるだろうくらいの疳癪が起った。
どうも歩けば歩くほど天井が邪魔になる、左右の壁が邪魔になる。
草鞋の底で踏む段々が邪魔になる。
坑総体が自分を閉じ込めて、いつまで立っても出してくれないのがもっとも邪魔になる。
この邪魔ものの一局部へ頭を擲きつけて、せめて罅でも入らしてやろうと――やらないまでも時々思うのは、早く華厳の瀑へ行きたいからであった。
そうこうしているうちに、向うから一人の掘子が来た。
ばらの銅をスノコへ運ぶ途中と見えて例の箕を抱いてよちよちカンテラを揺りながら近づいた。
この灯を見つけた時は、嬉しくって胸がどきりと飛び上がった。
もう大丈夫と勇んで近寄って行くと、近寄るがものはない、向うでもこっちへ歩いて来る。
二つのカンテラが一間ばかりの距離に近寄った時、待ち受けたように、自分は掘子の顔を見た。
するとその顔が非常な蒼ん蔵であった。
この坑のなかですら、只事とは受取れない蒼ん蔵である。
あかるみへ出して、青い空の下で見たら、大変な蒼ん蔵に違ない。
それで口を利くのが厭になった。
こんな奴の癖に人に調戯ったり、嬲ったり、辱しめたりするのかと思ったら、なおなお道を聞くのが厭になった。
死んだって一人で出て見せると云う気になった。
手前共に口を聞くような安っぽい男じゃないと、腹の中でたしかに申し渡して擦れ違った。
向うは何にも知らないから、これは無論だまって擦れ違った。
行く先は暗くなった。
カンテラは一つになった。
気はますます焦慮って来た。
けれどもなかなか出ない。
ただ道はどこまでもある。
右にも左にもある。
自分は右にも這入った、また左にも這入った、また真直にも歩いて見た。
しかし出られない。
いよいよ出られないのかと、少しく途方に暮れている鼻の先で、かあんかあんと鳴り出した。
五六歩で突き当って、折れ込むと、小さな作事場があって、一人の坑夫がしきりに槌を振り上げて鑿を敲いている。
敲くたんびに鉱が壁から落ちて来る。
その傍に俵がある。
これはさっきスノコへ投げ込んだ俵と同じ大きさで、もういっぱい詰っている。
掘子が来て担いで行くばかりだ。
自分は今度こそこいつに聞いてやろうと思った。
が肝心の本人が一生懸命にかあんかあん鳴らしている。
おまけに顔もよく見えない。
ちょうどいいから少し休んで行こうと云う気が起った。
幸い俵がある。
この上へ尻をおろせば、持って来いの腰掛になる。
自分はどさっとアテシコを俵の上に落した。
すると突然かあんかあんがやんだ。
坑夫の影が急に長く高くなった。
鑿を持ったままである。
「何をしやがるんでい」 鋭い声が穴いっぱいに響いた。
自分の耳には敲き込まれるように響いた。
高い影は大股に歩いて来る。
見ると、足の長い、胸の張った、体格の逞しい男であった。
顔は背の割に小さい。
その輪廓がやや判然する所まで来て、男は留まった。
そうして自分を見下した。
口を結んでいる。
二重瞼の大きな眼を見張っている。
鼻筋が真直に通っている。
色が赭黒い。
ただの坑夫ではない。
突然として云った。
「貴様は新前だな」「そうです」 自分の腰はこの時すでに俵を離れていた。
何となく、向うから近づいてくる坑夫が恐ろしかった。
今まで一万余人の坑夫を畜生のように軽蔑していたのに、――誓って死んでしまおうと覚悟をしていたのに、――大股に歩いて来た坑夫がたちまち恐ろしくなった。
しかし、「何でこんな所を迷子ついてるんだ」と聞き返された時には、やや安心した。
自分の様子を見て、故意に俵の上へ腰をおろしたんでないと見極めた語調である。
「実は昨夕飯場へ着いて、様子を見に坑へ這入ったばかりです」「一人でか」「いいえ、飯場頭から人をつけてくれたんですが……」「そうだろう、一人で這入れる所じゃねえ。どうしたその案内は」「先へ出ちまいました」「先へ出た? 手前を置き去りにしてか」「まあ、そうです」「太え野郎だ。よしよし今に己が送り出してやるから待ってろ」と云ったなり、また鑿と槌をかあんかあん鳴らし始めた。
自分は命令の通り待っていた。
この男に逢ったら、もう一人で出る気がなくなった。
死んでも一人で出て見せると威張った決心が、急にどこへか行ってしまった。
自分はこの変化に気がついていた。
それでも別に恥かしいとも思わなかった。
人に公言した事でないから構わないと思った。
その後人に公言したために、やらないでも済む事、やってはならない事を毎度やった。
人に公言すると、しないのとは大変な違があるもんだ。
その内かあんかあんがやんだ。
坑夫はまた自分の前まで来て、胡坐をかきながら、「ちょっと待ちねえ。一服やるから」と、煙草入を取り出した。
茶色の、皮か紙か判然しないもので、股引に差し込んである上から筒袖が被さっていた。
坑夫は旨そうに腹の底まで吸った煙を、鼻から吹き出している間に、短い羅宇の中途を、煙草入の筒でぽんと払いた。
小さい火球が雁首から勢いよく飛び出したと思ったら、坑夫の草鞋の爪先へ落ちてじゅうと消えた。
坑夫は殻になった煙管をぷっと吹く。
羅宇の中に籠った煙が、一度に雁首から出た。
坑夫はその時始めて口を利いた。
「御前はどこだ。こんな所へ全体何しに来た。身体つきは、すらりとしているようだが。今まで働いた事はねえんだろう。どうして来た」「実は働いた事はないんです。が少し事情があって、来たんです。……」とまでは云ったが、坑夫には愛想が尽きたから、もう、帰るんだとは云わなかった。
死ぬんだとはなおさら云わなかった。
しかし今までのように、腹の内で畜生あつかいにして、口先ばかり叮嚀にしていたのとはだいぶん趣が違う。
自分はただ洗い攫い自分の思わくを話してしまわないだけで、話しただけは真面目に話したんである。
すこしも裏表はない。
腹から叮嚀に答えた。
坑夫はしばらくの間黙って雁首を眺めていた。
それからまた煙草を詰めた。
煙が鼻から出だした真最中に口を開いた。
自分がその時この坑夫の言葉を聞いて、第一に驚いたのは、彼の教育である。
教育から生ずる、上品な感情である。
見識である。
熱誠である。
最後に彼の使った漢語である。
――彼れは坑夫などの夢にも知りようはずがない漢語を安々と、あたかも家庭の間で昨日まで常住坐臥使っていたかのごとく、使った。
自分はその時の有様をいまだに眼の前に浮べる事がある。
彼れは大きな眼を見張ったなり、自分の顔を熟視したまま、心持頸を前の方に出して、胡坐の膝へ片手を逆に突いて、左の肩を少し聳して、右の指で煙管を握って、薄い唇の間から奇麗な歯を時々あらわして、――こんな事を云った。
句の順序や、単語の使い方は、たしかな記憶をそのまま写したものである。
ただ語声だけはどうしようもない。
――「亀の甲より年の功と云うことがあるだろう。こんな賤しい商売はしているが、まあ年長者の云う事だから、参考に聞くがいい。青年は情の時代だ。おれも覚がある。情の時代には失敗するもんだ。君もそうだろう。己もそうだ。誰でもそうにきまってる。だから、察している。君の事情と己の事情とは、どのくらい違うか知らないが、何しろ察している。咎めやしない。同情する。深い事故もあるだろう。聞いて相談になれる身体なら聞きもするが、シキから出られない人間じゃ聞いたって、仕方なし、君も話してくれない方がいい。おれも……」と云い掛けた時、自分はこの男の眼つきが多少異様にかがやいていたと云う事に気がついた。
何だか大変感じている。
これが当人の云うごとくシキを出られないためか、または今云い掛けたおれもの後へ出て来る話のためか、ちょっと分りにくいが、何しろ妙な眼だった。
しかもこの眼が鋭く自分をも見詰めている。
そうしてその鋭いうちに、懐旧と云うのか、沈吟と云うのか、何だか、人を引きつけるなつかしみがあった。
この黒い坑の中で、人気はこの坑夫だけで、この坑夫は今や眼だけである。
自分の精神の全部はたちまちこの眼球に吸いつけられた。
そうして彼の云う事を、とっくり聞いた。
彼はおれもを二遍繰り返した。
「おれも、元は学校へ行った。中等以上の教育を受けた事もある。ところが二十三の時に、ある女と親しくなって――詳しい話はしないが、それが基で容易ならん罪を犯した。罪を犯して気がついて見ると、もう社会に容れられない身体になっていた。もとより酔興でした事じゃない、やむを得ない事情から、やむを得ない罪を犯したんだが、社会は冷刻なものだ。内部の罪はいくらでも許すが、表面の罪はけっして見逃さない。おれは正しい人間だ、曲った事が嫌だから、つまりは罪を犯すようにもなったんだが、さて犯した以上は、どうする事もできない。学問も棄てなければならない。功名も抛たなければならない。万事が駄目だ。口惜しいけれども仕方がない。その上制裁の手に捕えられなければならない。(故意か偶然か、彼はとくに制裁の手と云う言語を使用した。)しかし自分が悪い覚がないのに、むやみに罪を着るなあ、どうしても己の性質としてできない。そこで突っ走った。逃げられるだけ逃げて、ここまで来て、とうとうシキの中へ潜り込んだ。それから六年というもの、ついに日光を見た事がない。毎日毎日坑の中でかんかん敲いているばかりだ。丸六年敲いた。来年になればもうシキを出たって構わない、七年目だからな。しかし出ない、また出られない。制裁の手には捕まらないが、出ない。こうなりゃ出たって仕方がない。娑婆へ帰れたって、娑婆でした所業は消えやしない。昔は今でも腹ん中にある。なあ君昔は今でも腹ん中にあるだろう。君はどうだ……」と途中で、いきなり自分に質問を掛けた。
自分は藪から棒の質問に、用意の返事を持ち合せなかったから、はっと思った。
自分の腹ん中にあるのは、昔どころではない。
一二年前から一昨日まで持ち越した現在に等しい過去である。
自分はいっその事自分の心事をこの男の前に打ち明けてしまおうかと思った。
すると相手は、さも打ち明けさせまいと自分を遮るごとくに、話の続きを始めた。
「六年ここに住んでいるうちに人間の汚ないところは大抵見悉した。でも出る気にならない。いくら腹が立っても、いくら嘔吐を催しそうでも、出る気にならない。しかし社会には、――日の当る社会には――ここよりまだ苦しい所がある。それを思うと、辛抱も出来る。ただ暗くって狭い所だと思えばそれで済む。身体も今じゃ銅臭くなって、一日もカンテラの油を嗅がなくっちゃいられなくなった。しかし――しかしそりゃおれの事だ。君の事じゃない。君がそうなっちゃ大変だ。生きてる人間が銅臭くなっちゃ大変だ。いや、どんな決心でどんな目的を持って来ても駄目だ。決心も目的もたった二三日で突ッつき殺されてしまう。それが気の毒だ。いかにも可哀想だ。理想も何にもない鑿と槌よりほかに使う術を知らない野郎なら、それで結構だが。しかし君のような――君は学校へ行ったろう。――どこへ行った。――ええ? まあどこでもいい。それに若いよ。シキへ抛り込まれるには若過ぎるよ。ここは人間の屑が抛り込まれる所だ。全く人間の墓所だ。生きて葬られる所だ。一度踏ん込んだが最後、どんな立派な人間でも、出られっこのない陥穽だ。そんな事とは知らずに、大方ポン引の言いなりしだいになって、引張られて来たんだろう。それを君のために悲しむんだ。人一人を堕落させるのは大事件だ。殺しちまう方がまだ罪が浅い。堕落した奴はそれだけ害をする。他人に迷惑を掛ける。――実はおれも