その三人が三人ながら、宿無である。顔も洗わず朝飯も食わずに、雲の中を迷って歩く連中である。この連中と道伴になって登り一里、降り二里を足の続く限り雲に吹かれて来たら、雨になった。時計がないんで何時だか分らない。空模様で判断すると、朝とも云われるし、午過とも云われるし、また夕方と云っても差支ない。自分の精神と同じように世界もぼんやりしているが、ただちょっと眼についたのは、雨の間から微かに見える山の色であった。その色が今までのとは打って変っている。いつの間にか木が抜けて、空坊主になったり、ところ斑の禿頭と化けちまったんで、丹砂のように赤く見える。今までの雲で自分と世間を一筆に抹殺して、ここまでふらつきながら、手足だけを急がして来たばかりだから、この赤い山がふと眼に入るや否や、自分ははっと雲から醒めた気分になった。色彩の刺激が、自分にこう強く応えようとは思いがけなかった。――実を云うと自分は色盲じゃないかと思うくらい、色には無頓着な性質である。――そこでこの赤い山が、比較的烈しく自分の視神経を冒すと同時に、自分はいよいよ銅山に近づいたなと思った。虫が知らせたと云えば、虫が知らせたとも云えるが、実はこの山の色を見て、すぐ銅を連想したんだろう。とにかく、自分がいよいよ到着したなと直覚的に――世の中で直覚的と云うのは大概このくらいなものだと思うが――いわゆる直覚的に事実を感得した時に、長蔵さんが、「やっと、着いた」と自分が言いたいような事を云った。それから十五分ほどしたら町へ出た。山の中の山を越えて、雲の中の雲を通り抜けて、突然新しい町へ出たんだから、眼を擦って視覚をたしかめたいくらい驚いた。それも昔の宿とか里とか云う旧幕時代に縁のあるような町なら、まだしもだが、新しい銀行があったり、新しい郵便局があったり、新しい料理屋があったり、すべてが苔の生えない、新しずくめの上に、白粉をつけた新しい女までいるんだから、全く夢のような気持で、不審が顔に出る暇もないうちに通り越しちまった。すると橋へ出た。長蔵さんは橋の上へ立って、ちょっと水の色を見たが、「これが入口だよ。いよいよ着いたんだから、そのつもりでいなくっちゃ、いけない」と注意を与えた。しかし自分には、どんなつもりでいなくっちゃいけないんだか、ちっとも分らなかったから、黙って橋の上へ立って、入口から奥の方を見ていた。左が山である。右も山である。そうして、所々に家が見える。やっぱり木造の色が新しい。中には白壁だか、ペンキ塗だか分らないのがある。これも新しい。古ぼけて禿げてるのは山ばかりだった。何だかまた現実世界に引き摺り込まれるような気がして、少しく失望した。長蔵さんは自分が黙って橋の向を覗き込んでるのを見て、「好いかね、御前さん、大丈夫かい」とまた聞き直したから、自分は、「好いです」と明瞭に答えたが、内心あまり好くはなかった。なぜだかしらないが、長蔵さんはただ自分にだけ懸念がある様子であった。赤毛布と小僧には「好いかね」とも「大丈夫かい」とも聞かなかった。頭からこの両人は過去の因果で、坑夫になって、銅山のうちに天命を終るべきものと認定しているような気色がありありと見えた。して見ると不信用なのは自分だけで、だいぶ長蔵さんからこいつは危ないなと睨まれていたのかも知れない。好い面の皮だ。
第 4 章
それから四人揃って、橋を渡って行くと、右手に見える家にはなかなか立派なのがある。
その中で一番いかめしい奴を指して、あれが所長の家だと長蔵さんが教えてくれた。
ついでに左の方を見ながら「こっちがシキだよ、御前さん、好いかね」と云う。
自分はシキと云う言葉をこの時始めて聞いた。
よっぽど聞き返そうかと思ったが、大方これがシキなんだろうと思って黙っていた。
あとから自分もこのシキと云う言葉を明瞭に理解しなければならない身分になったが、やっぱり始めにぼんやり考えついた定義とさした違もなかった。
そのうち左へ折れていよいよシキの方へ這入る事になった。
鉄軌についてだんだん上って行くと、そこここに粗末な小さい家がたくさんある。
これは坑夫の住んでる所だと聞いて、自分も今日から、こんな所で暮すのかと思ったが、それは間違であった。
この小屋はどれも六畳と三畳二間で、みんな坑夫の住んでる所には違ないが、家族のあるものに限って貸してくれる規定であるから、自分のような一人ものは這入りたくたって這入れないんだった。
こう云う小屋の間を縫って、飽きずに上って行くと、今度は石崖の下に細長い横幅ばかりの長屋が見える。
そうして、その長屋がたくさんある。
始めはわずか二三軒かと思ったら、登るに従って続々あらわれて来た。
大きさも長さも似たもんで、みんな崖下にあるんだから位地にも変りはないが、向だけは各々違ってる。
山坂を利用して、なけなしの地面へ建てることだから、東だとか西だとか贅沢は言っていられない。
やっとの思いで、ならした地面へ否応なしに、方角のお構なく建ててしまったんだから不規則なものだ。
それに、第一、登って行く道がくねってる。
あの長屋の右を歩いてるなと思うと、いつの間にかその長屋の前へ出て来る。
あれは、すぐ頭の上だがと心待ちに待っていると、急に路が外れて遠くへ持ってかれてしまう。
まるで見当がつかない。
その上この細長い家から顔が出ている。
家から顔が出ているのが珍らしい事もないんだが、その顔がただの顔じゃない。
どれも、これも、出来ていない上に、色が悪い。
その悪さ加減がまた、尋常でない。
青くって、黒くって、しかも茶色で、とうてい都会にいては想像のつかない色だから困る。
病院の患者などとはまるで比較にならない。
自分が山路を登りながら、始めてこの顔を見た時は、シキと云う意味をよく了解しない癖に、なるほどシキだなと感じた。
しかしいくらシキでも、こう云う顔はたくさんあるまいと思って、登って行くと、長屋を通るたんびに顔が出ていて、その顔がみんな同じである。
しまいにはシキとは恐ろしい所だと思うまで、いやな顔をたくさん見せられて、また自分の顔をたくさん見られて――長屋から出ている顔はきっと自分らを見ていた。
一種獰悪な眼つきで見ていた。
――とうとう午後の一時に飯場へ着いた。
なぜ飯場と云うんだか分らない。
焚き出しをするから、そう云う名をつけたものかも知れない。
自分はその後飯場の意味をある坑夫に尋ねて、箆棒め、飯場たあ飯場でえ、何を云ってるんでえ、とひどく剣突を食った事がある。
すべてこの社会に通用する術語は、シキでも飯場でもジャンボーでも、みんな偶然に成立して、偶然に通用しているんだから、滅多に意味なんか聞くと、すぐ怒られる。
意味なんか聞く閑もなし、答える閑もなし、調べるのは大馬鹿となってるんだから至極簡単でかつ全く実際的なものである。
そう云う訳で飯場の意味は今もって分らないが、とにかく崖の下に散在している長屋を指すものと思えばいい。
その長屋へようやく到着した。
多くある長屋のうちで、なぜこの飯場を選んだかは、長蔵さんの一人ぎめだから、自分には説明しにくい。
が、この飯場は長蔵さんの専門御得意の取引先と云う訳でもなかったらしい。
長蔵さんは自分をこの飯場へ押しつけるや否や、いつの間にか、赤毛布と小僧を連れてほかの飯場へ出て行ってしまった。
それで二人はほかの飯場の飯を食うようになったんだなと後から気がついた。
二人の消息はその後いっこう聞かなかった。
銅山のなかでもついぞ顔を合せた事がない。
考えると、妙なものだ。
一膳めし屋から突然飛び出した赤い毛布と、夕方の山から降って来た小僧と落ち合って、夏の夜を後になり先になって、崩れそうな藁屋根の下でいっしょに寝た明日は、雲の中を半日かかって、目指す飯場へようやく着いたと思うと、赤毛布も小僧もふいと消えてなくなっちまう。
これでは小説にならない。
しかし世の中には纏まりそうで、纏らない、云わばでき損いの小説めいた事がだいぶある。
長い年月を隔てて振り返って見ると、かえってこのだらしなく尾を蒼穹の奥に隠してしまった経歴の方が興味の多いように思われる。
振り返って思い出すほどの過去は、みんな夢で、その夢らしいところに追懐の趣があるんだから、過去の事実それ自身にどこかぼんやりした、曖昧な点がないとこの夢幻の趣を助ける事が出来ない。
したがって十分に発展して来て因果の予期を満足させる事柄よりも、この赤毛布流に、頭も尻も秘密の中に流れ込んでただ途中だけが眼の前に浮んでくる一夜半日の画の方が面白い。
小説になりそうで、まるで小説にならないところが、世間臭くなくって好い心持だ。
ただに赤毛布ばかりじゃない。
小僧もそうである。
長蔵さんもそうである。
松原の茶店の神さんもそうである。
もっと大きく云えばこの一篇の「坑夫」そのものがやはりそうである。
纏まりのつかない事実を事実のままに記すだけである。
小説のように拵えたものじゃないから、小説のように面白くはない。
その代り小説よりも神秘的である。
すべて運命が脚色した自然の事実は、人間の構想で作り上げた小説よりも無法則である。
だから神秘である。
と自分は常に思っている。
赤毛布と小僧が連れて行かれたのは後の事だが、自分らが飯場に到着した時は無論二人ともいっしょであった。
ここで長蔵さんがいよいよ坑夫志願の談判を始めた。
談判と云うと面倒なようだが、その実極めて簡単なものであった。
ただ、この男は坑夫になりたいと云うから、どうか使ってくれと云ったばかりである。
自分の姓名も出生地も身元も閲歴も何にも話さなかった。
もちろん話したくったって、知らないんだから、話せようもないんだが、こうまで手っ取り早く片づける了簡とは思わなかった。
自分は中学校へ入学した時の経験から、いくら坑夫だって、それ相応の手続がなくっちゃ採用されないもんだとばかり思っていた。
大方身元引受人とか保証人とか云うものが証文へ判でも捺すんだろう、その時は長蔵さんにでも頼んで見ようくらいにまで、先廻りをして考えていた。
ところが案に相違して、談判を持ち込まれた飯場頭は――飯場頭だか何だかその時は無論知らなかった。
眉毛の太くって蒼髯の痕の濃い逞しい四十恰好の男だった。
――その男が長蔵さんの話を一通り聞くや否や、「そうかい、それじゃ置いておいで」とさも無雑作に云っちまった。
ちょうど炭屋が土釜を台所へ担ぎ込んだ時のように思われた。
人間が遥々山越をして坑夫になりに来たんだとは認めていない。
そこで自分は少々腹の中でこの飯場頭を恨んだが、これは自分の間違であった。
その訳は今直に分る。
飯場頭と云うのは一の飯場を預かる坑夫の隊長で、この長屋の組合に這入る坑夫は、万事この人の了簡しだいでどうでもなる。
だからはなはだ勢力がある。
この飯場頭と一分時間に談判を結了した長蔵さんは、「じゃ、よろしくお頼みもうします」と云ったなり、赤毛布と小僧を連れて出て行った。
また帰ってくる事と思ったが、その後いっこう影も形も見せないんで、全く、置去にされたと云う事が分った。
考えるとひどい男だ。
ここまで引っ張って来るときには、何のかのと、世話らしい言葉を掛けたのに、いざとなると通り一片の挨拶もしない。
それにしてもぽん引の手数料はいつ何時どこで取ったものか、これは今もって分らない。
こう云うしだいで飯場頭からは、土釜の炭俵のごとく認定される、長蔵さんからは小包のように抛げ込まれる。
少しも人間らしい心持がしないんで、大いに悄然としていると、出て行く三人の後姿を見送った飯場頭は突然自分の方を向いた。
その顔つきが変っている。
人を炭俵のように取扱う男とは、どうしても受取れない。
全く東京辺で朝晩出逢う、万事を心得た苦労人の顔である。
「あなたは生れ落ちてからの労働者とも見えないようだが……」 飯場掛の言葉をここまで聞いた時、自分は急に泣きたくなった。
さんざっぱらお前さんで、厭になるほどやられた揚句の果、もうとうてい御前さん以上には浮ばれないものと覚悟をしていた矢先に、突然あなたの昔に帰ったから、思いがけない所で自己を認められた嬉しさと、なつかしさと、それから過去の記憶――自分はつい一昨日までは立派にあなたで通って来た――それやこれやが寄って、たかって胸の中へ込み上げて来た上に、相手の調子がいかにも鄭寧で親切だから――つい泣きたくなった。
自分はその後いろいろな目に逢って、幾度となく泣きたくなった事はあるが、擦れ枯しの今日から見れば、大抵は泣くに当らない事が多い。
しかしこの時頭の中にたまった涙は、今が今でも、同じ羽目になれば、出かねまいと思う。
苦しい、つらい、口惜しい、心細い涙は経験で消す事が出来る。
ありがた涙もこぼさずに済む。
ただ堕落した自己が、依然として昔の自己であると他から認識された時の嬉し涙は死ぬまでついて廻るものに違ない。
人間はかように手前勘の強いものである。
この涙を感謝の涙と誤解して、得意がるのは、自分のために書生を置いて、書生のために置いてやったような心持になってると同じ事じゃないかしら。
こう云う訳で、飯場掛りの言葉を一行ばかり聞くと、急に泣きたくなったが、実は泣かなかった。
悄然とはしていたが、気は張っている。
どこからか知らないが、抵抗心が出て来た。
ただ思うように口が利けないから、黙って向うの云う事を聞いていた。
すると飯場掛りは嬉しいほど親切な口調で、こう云った。
――「……まあどうして、こんな所へ御出なすったんだか、今の男が連れて来るくらいだから大概私にも様子は知れてはいるが――どうです、もう一遍考えて見ちゃあ。きっと取ッ附坑夫になれて、金がうんと儲かるてえような旨い話でもしたんでしょう。それがさ、実際やって見るととうてい話の十が一にも行かないんだからつまらないです。第一坑夫と一口に云いますがね。なかなかただの人に出来る仕事じゃない、ことにあなたのように学校へ行って教育なんか受けたものは、どうしたって勤まりっこありませんよ。……」 飯場頭はここまで来て、じっと自分の顔を見た。
何とか云わなくっちゃならない。
幸いこの時はもう泣きたいところを通り越して、口が利けるようになっていた。
そこで自分はこう云った。
――「僕は――僕は――そんなに金なんか欲しかないです。何も儲けるためにやって来た訳じゃないんですから、――そりゃ知ってるです、僕だって知ってるです……」と、この時知ってるですを二遍繰り返した事を今だに記憶している。
はなはだ穏かならぬ生意気な、ものの云いようだった。
若いうちは、たった今まで悄気ていても、相手しだいですぐつけ上っちまう。
まことに赤面の至りである。
しかもその知ってるですが、何を知ってるのかと思うと、今自分を連れて来た男、すなわち長蔵さんは、一種の周旋屋であって、すべての周旋屋に共通な法螺吹きであると云う真相をよく自覚していると云う意味なんだから、いくら知ってたって自慢にならないのは無論である。
それを念入に、瞞着れて来たんじゃない、万事承知の上の坑夫志願だなどと説明して見たって今更どうなるものじゃない。
ところが年が若いと虚栄心の強いもので――今でも弱いとは云わないが――しきりに弁解に取り掛ったのは実に冷汗の出るほどの愚であった。
幸い相手が、こう云う家業に似合わぬ篤実な男で、かつ自分の不経験を気の毒に思うのあまり、この生意気を生意気と知りながら大目に見てくれたもんだから、どやされずに済んだ。
まことにありがたい。
この飯場に住み込んだあとで、頭の勢力の広大なるに驚くにつれて、僕は知ってるですを思い出しては独り赧い顔をしていた。
ついでに云うがこの頭の名は原駒吉である。
今もって自分は好い名だと思ってる。
原さんは別に厭な顔つきもせずに、黙って自分の言訳を聞いていたが、やがて頭を振り出した。
その頭は大きな五分刈で額の所が面摺のように抜き上がっている。
「そりゃ物数奇と云うもんでさあ。せっかく来たから是非やるったって、何も家を出る時から坑夫になると思いつめた訳でもないんでしょう。云わば一時の出来心なんだからね。やって見りゃ、すぐ厭になっちまうな眼に見えてるんだから、廃すが好うがしょう。現に書生さんでここへ来て十日と辛抱したものあ、有りゃしませんぜ。え? そりゃ来る。幾人も来る。来る事は来るが、みんな驚いて逃げ出しちまいまさあ。全く普通のものの出来る業じゃありませんよ。悪い事は云わないから御帰んなさい。なに坑夫をしなくったって、口過だけなら骨は折れませんやあ」 原さんはここに至って、胡坐を崩して尻を宙に上げかけた。
自分はどうしても落第しそうな按排である。
大いに困った。
困った結果、坑夫と云う事から気を離して、自分だけを検査して見ると、――何だか急に寒くなった。
袷はさっきの雨で濡れている。
洋袴下は穿いていない。
東京の五月もこの山の奥へ来るとまるで二月か三月の気候である。
坂を登っている間こそ体温でさほどにも思わなかった。
原さんに拒絶されるまでは気が張っていたから、好かった。
しかし飯場へ来て休息した上に、坑夫になる見込がほとんど切れたとなると、情ないのが寒いのと合併して急に顫え出した。
その時の自分の顔色は定めし見るに堪えんほど醜いもんだったろう。
この時自分はまた何となく、今しがた自分を置去にして、挨拶もしずに出て行った長蔵さんが恋しくなった。
長蔵さんがいたら、何とか尽力して坑夫にしてくれるだろう。
よし坑夫にしてくれないまでも、どうにか片をつけてくれるだろう。
汽車賃を出してくれたくらいだから、方角のわかる所までくらいは送り出してくれそうなものだ。
蟇口を長蔵さんに取られてから、懐中には一文もない。
帰るにしても、帰る途中で腹が減って山の中で行倒になるまでだ。
いっその事今から長蔵さんを追掛けて見ようか。
飯場飯場を探して歩いたら逢えない事もないだろう。
逢ってこれこれだと泣きついたら、今までの交際もある事だから、好い智慧を貸してくれまいものでもない。
しかし別れ際に挨拶さえしない男だから、ひょっとすると……自分は原さんの前で実はこんな閑な事を、非常に忙しく、ぐるぐる考えていた。
好な原さんが前にいるのに、あんまり下さらない、しかも消えてなくなった長蔵さんばかりを相談相手のように思い込んだのは、どう云う理由だろう。
こんな事はよくあるもんだから、いざと云う場合に、敵は敵、味方は味方と板行で押したように考えないで、敵のうちで味方を探したり、味方のうちで敵を見露わしたり、片方づかないように心を自由に活動させなくってはいけない。
弱輩な自分にはこの機合がまだ呑み込めなかったもんだから、原さんの前に立って顫えながら、へどもどしていると、原さんも気の毒になったと見えて、「あなたさえ帰る気なら、及ばずながら相談になろうじゃありませんか」と向うから口を掛けてくれた。
こう切って出られた時に、自分ははっとありがたく感じた。
ばかりなら当り前だがはっと気がついた。
――自分の相談相手は自分の志望を拒絶するこの原さんを除いて、ほかにないんだと気がついた。
気がつくと同時にまた口が利けなくなった。
是非坑夫にしてくれとも、帰るから旅費を貸してくれとも言いかねて、やっぱり立ちすくんでいた。
気がついても何にもならない、ただ右の手で拳骨を拵えて寒い鼻の下を擦ったように記憶している。
自分はその前寄席へ行って、よく噺家がこんな手真似をするのを見た事があるが、自分でその通りを実行したのは、これが始めてである。
この手真似を見ていた原さんが、今度はこう云った。
「失礼ながら旅費のことなら、心配しなくっても好ござんす。どうかして上げますから」 旅費は無論ない。
一厘たりとも金気は肌に着いていない。
のたれ死を覚悟の前でも、金は持ってる方が心丈夫だ。
まして慢性の自滅で満足する今の自分には、たとい白銅一箇の草鞋銭でも大切である。
帰ると事がきまりさえすれば、頭を地に摺りつけても、原さんから旅費を恵んで貰ったろう。
実際こうなると廉恥も品格もあったもんじゃない。
どんな不体裁な貰い方でもする。
――大抵の人がそうなるだろう。
またそうなってしかるべきである。
――しかしけっして褒められた始末じゃない。
自分がこんな事を露骨にかくのは、ただ人間の正体を、事実なりに書くんで、書いて得意がるのとは訳が違う。
人間の生地はこれだから、これで差支ないなどと主張するのは、練羊羹の生地は小豆だから、羊羹の代りに生小豆を噛んでれば差支ないと結論するのと同じ事だ。
自分はこの時の有様を思い出すたびに、なんで、あんな、さもしい料簡になったものかと、吾ながら愛想が尽きる。
こう云う下卑た料簡を起さずに、一生を暮す事のできる人は、経験の足りない人かも知れないが、幸な人である。
また自分らよりも遥に高尚な人である。
生小豆のまずさ加減を知らないで、生涯練羊羹ばかり味わってる結構な人である。
自分は、も少しの事で、手を合せて、見ず知らずの飯場頭からわずかの合力を仰ぐところであった。
それをやっとの事で喰い止めたのは、せっかくの好意で調えてくれる金も、二三日木賃宿で夜露を凌げば、すぐ無くなって、無くなった暁には、また当途もなく流れ出さなければならないと、冥々のうちに自覚したからである。
自分は屑よく涙金を断った。
断った表向は律義にも見える。
自分もそう考えるが、よくよく詮索すると、慾の天秤に懸けた、利害の判断から出ている事はたしかである。
その証拠には補助を断ると同時に、自分は、こんな事を言い出した。
「その代り坑夫に使って下さい。せっかく来たんだから、僕はどうしてもやって見る気なんですから」「随分酔興ですね」と原さんは首を傾げて、自分を見つめていたが、やがて溜息のような声を出して、「じゃ、どうしても帰る気はないんですね」と云った。
「帰るったって、帰る所がないんです」「だって……」「家なんかないんです。坑夫になれなければ乞食でもするより仕方がないです」 こんな押問答を二三度重ねている中に、口を利くのが大変楽になって来た。
これは思い切って、無理な言葉を、出にくいと知りながら、我慢して使った結果、おのずと拍子に乗って来た勢いに違ないんだから、まあ器械的の変化と見傚しても差支なかろうが、妙なもので、その器械的の変化が、逆戻りに自分の精神に影響を及ぼして来た。
自分の言いたい事が何の苦もなく口を出るに連れて――ある人はある場合に、自分の言いたくない事までも調子づいてべらべら饒舌る。
舌はかほどに器械的なものである。
――この器械が使用の結果加速度の効力を得るに連れて、自分はだんだん大胆になって来た。
いや、大胆になったから饒舌れたんだろう、君の云う事は顛倒じゃないかとやり込める気なら、そうして置いてもいい。
いいが、それはあまり陳腐でかつ時々嘘になる。
嘘と陳腐で満足しないものは自分の言分をもっともと首肯くだろう。
自分は大胆になった。
大胆になるに連れて、どうしても坑夫に住み込んでやろうと決心した。
また饒舌っておれば必ず坑夫になれるに違ないと自覚して来た。
一昨日家を飛び出す間際までは、夢にも坑夫になろうと云う分別は出なかった。
ばかりではない、坑夫になるための駆落と事がきまっていたならば、何となく恥ずかしくなって、まあ一週間よく考えた上にと、出奔の時期を曖昧に延ばしたかもしれない。
逃亡はする。
逃亡はするが、紳士の逃亡で、人だか土塊だか分らない坑掘になり下る目的の逃亡とは、何不足なく生育った自分の頭には影さえ射さなかったろう。
ところが原さんの前で寒い奥歯を噛みしめながら、しょう事なしの押問答をしているうちに、自分はどうあっても坑夫になるべき運命、否天職を帯びてるような気がし出した。
この山とこの雲とこの雨を凌いで来たからには、是非共坑夫にならなければ済まない。
万一採用されない暁には自分に対して面目がない。
――読者は笑うだろう。
しかし自分は当時の心情を真面目に書いてるんだから、人が見ておかしければおかしいほど、その時の自分に対して気の毒になる。
妙な意地だか、負惜みだか、それとも行倒れになるのが怖くって、帰り切れなかったためだか、――その辺は自分にも曖昧だが、とにかく自分は、もっとも熱心な語調で原さんを口説いた。
「……そう云わずに使って下さい。実際僕が不適当なら仕方がないが、まだやって見ない事なんだから――せっかく山を越して遠方をわざわざ来た甲斐に、一日でも二日でも、いいですから、まあ試しだと思って使って下さい。その上で、とうてい役に立たないと事がきまれば帰ります。きっと帰ります。僕だって、それだけの仕事が出来ないのに、押を強く御厄介になってる気はないんですから。僕は十九です。まだ若いです。働き盛りです……」と昨日茶店の神さんが云った通りをそのまま図に乗って述べ立てた。
後から考えると、これはむしろ人が自分を評する言葉で、自分が自分を吹聴する文句ではなかった。
そこで原さんは少し笑い出した。
「それほどお望みなら仕方がない。何も御縁だ。まあやって御覧なさるが好い。その代り苦しいですよ」と原さんは何気なく裏の赤い山を覗くように見上げた。
おおかた天気模様でも見たんだろう。
自分も原さんといっしょに山の方へ眼を移した。
雨は上がったが、暗く曇っている。
薄気味の悪いほど怪しい山の中の空合だ。
この一瞬時に、自分の願が叶って、自分はまず山の中の人となった。
この時「その代り苦しいですよ」と云った原さんの言葉が、妙に気に掛り出した。
人は、ようやくの思いで刻下の志を遂げると、すぐ反動が来て、かえって志を遂げた事が急に恨めしくなる場合がある。
自分が望み通りここへ落ちつける口頭の辞令を受け取った時の感じはいささかこれに類している。
「じゃね」――原さんは語調を改めて話し出した。
――「じゃね。何しろ明日の朝シキへ這入って御覧なさい。案内を一人つけて上げるから。――それからと――そうだ、その前に話して置かなくっちゃなりませんがね。一口に坑夫と云うと、訳もない仕事のように思われましょうが、なかなか外で聞いてるような生容易い業じゃないんで。まあ取っつけから坑夫になるなあ」と云って自分の顔を眺めていたが、やがて、「その体格じゃ、ちっとむずかしいかも知れませんね。坑夫でなくっても、好うがすかい」と気の毒そうに聞いた。
坑夫になるまでには相当の階級と練習を積まなくっちゃならないと云う事がここで始めて分った。
なるほど長蔵さんが坑夫坑夫と、さも名誉らしく坑夫を振り廻したはずだ。
「坑夫のほかに何かあるんですか。ここにいるものは、みんな坑夫じゃないんですか」と念のために聞いて見た。
すると原さんは、自分を馬鹿にした様子もなく、すぐそのわけを説明してくれた。
「銅山にはね、一万人も這入っててね。それが掘子に、シチュウに、山市に、坑夫と、こう四つに分れてるんでさあ。掘子ってえな、一人前の坑夫に使えねえ奴がなるんで、まあ坑夫の下働ですね。シチュウは早く云うとシキの内の大工見たようなものかね。それから山市だが、こいつは、ただ石塊をこつこつ欠いてるだけで、おもに子供――さっきも一人来たでしょう。ああ云うのが当分坑夫の見習にやる仕事さね。まあざっと、こんなものですよ。それで坑夫となると請負仕事だから、間が好いと日に一円にも二円にも当る事もあるが、掘子は日当で年が年中三十五銭で辛抱しなければならない。しかもそのうち五分は親方が取っちまって、病気でもしようもんなら手当が半分だから十七銭五厘ですね。それで蒲団の損料が一枚三銭――寒いときは是非二枚要るから、都合で六銭と、それに飯代が一日十四銭五厘、御菜は別ですよ。――どうです。もし坑夫にいけなかったら、掘子にでもなる気はありますかね」 実のところはなりますと勢いよく出る元気はなかったが、ここまで来れば、今更どうしたって否だと断られた義理のもんじゃない。
そこで、出来るだけ景気よく、「なります」と答えてしまった。
原さんにはこの答が断然たる決心のように受けとれたか、それとも、瘠我慢のつけ景気のごとく響いたか、その辺は確と分らないが、何しろこの一言を聞いた原さんは、機嫌よく、「じゃまあ、御上がんなさい。そうして、あした人をつけて上げるから、まあシキへ這入って御覧なさるがいい。何しろ一万人もいて、こんなに組々に分れているんだから、飯場を一つでも預かってると、毎日毎日何だかだって、うるさい事ばかりでね。せっかく頼むから置いてやる、すぐ逃げる。――一日に二三人はきっと逃げますよ。そうかと云って、おとなしくしているかと思うと、病気になって、死んじまう奴が出て来て――どうも始末に行かねえもんでさあ。葬いばかりでも日に五六組無い事あ、滅多にないからね。まあやる気なら本気にやって御覧なさい。腰を掛けてちゃ、足が草臥れるだろう。こっちへ御上り」 この逐一を聞いていた自分はたとい、掘子だろうが、山市だろうが一生懸命に働かなくっちゃあ、原さんに対して済まない仕儀になって来た。
そこで心のうちに、原さんの迷惑になるような不都合はけっしてしまいときめた。
何しろ年が十九だから正直なものだった。
そこで原さんの云う通り、足を拭いて尻をおろしているうちに、奥の方から婆さんが出て来て、――この婆さんの出ようがはなはだ突然で、ちょっと驚いたが、「こっちへ御出なさい」と云うから、好加減に御辞儀をして、後から尾いて行った。
小作な婆さんで、後姿の華奢な割合には、ぴんぴん跳ねるように活溌な歩き方をする。
幅の狭い茶色の帯をちょっきり結にむすんで、なけなしの髪を頸窩へ片づけてその心棒に鉛色の簪を刺している。
そうして襷掛であった。
何でも台所か――台所がなければ、――奥の方で、用事の真っ最中に、案内のため呼び出されたから、こう急がしそうに尻を振るんだろう。
それとも山育だからかしら。
いや、飯場だから優長にしちゃいられないせいだろう。
して見ると、今日から飯場の飯を食い出す以上は自分だって安閑としちゃいられない。
万事この婆さんの型で行かなくっちゃなるまい。
――なるまい。
――と力を入れて、うんと思ったら、さすがに草臥れた手足が急になるまいで充満して、頭と胸の組織がちょっと変ったような気分になった。
その勢いで広い階子段を、案内に応じて、すとんすとんと景気よく登って行った。
が自分の頭が階子段から、ぬっと一尺ばかり出るや否や、この決心が、ぐうと退避いだ。
胸から上を階子段の上へ出して、二階を見渡すと驚いた。
畳数は何十枚だか知らないが遥の突き当りまで敷き詰めてあって、その間には一重の仕切りさえ見えない。
ちょうど柔道の道場か、浪花節の席亭のような恰好で、しかも広さは倍も三倍もある。
だから、ただ駄々ッ広い感じばかりで、畳の上でもまるで野原へ出たとしきゃあ思えない。
それだけでも驚く価値は十分あるが、その広い原の中に大きな囲炉裏が二つ切ってある、そこへ人間が約十四五人ずつかたまっている。
自分の決心が退避いだと云うのは、卑怯な話だが、全くこの人間にあったらしい。
平生から強がっていたにはいたが、若輩の事だから、見ず知らずの多勢の席へ滅多に首を出した事はない。
晴の場所となると、ただでさえもじもじする。
ところへもって来て、突然坑夫の団体に生擒られたんだから、この黒い塊を見るが早いか、いささか辟易じまった。
それも、ただの人間ならいい。
と云っちゃ意味がよく通じない。
――ただの人間が、坑夫になってるなら差支ない。
ところが自分の胸から上が、階子段を出ると、等しく、この塊の各部分が、申し合せたように、こっちを向いた。
その顔が――実はその顔で全く畏縮してしまった。
と云うのはその顔がただの顔じゃない。
ただの人間の顔じゃない。
純然たる坑夫の顔であった。
そう云うより別に形容しようがない。
坑夫の顔はどんなだろうと云う好奇心のあるものは、行って見るより外に致し方がない。
それでも是非説明して見ろと云うなら、ざっと話すが、――頬骨がだんだん高く聳えてくる。
顎が競り出す。
同時に左右に突っ張る。
眼が壺のように引ッ込んで、眼球を遠慮なく、奥の方へ吸いつけちまう。
小鼻が落ちる。
――要するに肉と云う肉がみんな退却して、骨と云う骨がことごとく吶喊展開するとでも評したら好かろう。
顔の骨だか、骨の顔だか分らないくらいに、稜々たるものである。
劇しい労役の結果早く年を取るんだとも解釈は出来るが、ただ天然自然に年を取ったって、ああなるもんじゃない。
丸味とか、温味とか、優味とか云うものは薬にしたくっても、探し出せない。
まあ一口に云うと獰猛だ。
不思議にもこの獰猛な相が一列一体の共有性になっていると見えて、囲炉裏の傍の黒いものが等しく自分の方を向くと、またたく間に獰猛な顔が十四五揃った。
向うの囲炉裏を取捲いてる連中も同じ顔に違いない。
さっき坂を上がってくるとき、長屋の窓から自分を見下していた顔も全くこれである。
して見ると組々の長屋に住んでいる総勢一万人の顔はことごとく獰猛なんだろう。
自分は全く退避んだ。
この時婆さんが後を振り返って、「こっちへおいでなさい」と、もどかしそうに云うから、度胸を据えて、獰猛の方へ近づいて行った。
ようやく囲炉裏の傍まで来ると、婆さんが、今度は、「まあここへ御坐んなさい」と差しずをしたが、ただ好加減な所へ坐れと云うだけで、別に設けの席も何もないんだから、自分は黒い塊りを避けて、たった一人畳の上へ坐った。
この間獰猛な眼は、始終自分に喰っついている。
遠慮も何もありゃしない。
そうして誰も口を利くものがない。
取附端を見出すまでは、団体の中へ交り込む訳にも行かず、ぽつねんと独りぼッちで離れているのは、獰猛の目標となるばかりだし、大いに困った。
婆さんは、自分を紹介する段じゃない、器械的に「ここへ坐れ」と云ったなり、ちょっ切り結びの尻を振り立てて階子段を降りて行ってしまった。
広い寄席の真中にたった一人取り残されて、楽屋の出方一同から、冷かされてるようなものだ、手持無沙汰は無論である。
ことさら今の自分に取っては心細い。
のみならず袷一枚ではなはだ寒い。
寒いのは、この五月の空に、かんかん炭を焼いて獰猛共が囲炉裏へあたってるんでも分る。
自分は仕方がないからてれ隠しに襯衣の釦をはずして腋の下へ手を入れたり、膝を立てて、足の親指を抓って見たり、あるいは腿の所を両手で揉んで見たり、いろいろやっていた。
こう云う時に、落ついた顔をして――顔ばかりじゃいけない、心から落ちついて、平気で坐ってる修業をして置かないと、大きな損だ。
しかし、十九や、そこいらではとうてい覚束ない芸だから、自分はやむを得ず。
前記の通りいろいろ馬鹿な真似をしていると、突然、「おい」と呼んだものがある。
自分はこの時ちょうど下を向いて鳴海絞の兵児帯を締め直していたが、この声を聞くや否や、電気仕掛の顔のように、首筋が急に釣った。
見るとさっきの顔揃で、眼がみんなこっちを向いて、光ってる。
「おい」と云う声は、どの顔から出たものか分らないが、どの顔から出たにしても大した変りはない。
どの顔も獰猛で、よく見るとその獰猛のうちに、軽侮と、嘲弄と、好奇の念が判然と彫りつけてあったのは、首を上げる途端に発明した事実で、発明するや否や、非常に不愉快に感じた事実である。
自分は仕方がないから、首を上げたまま、「おい」の声がもう一遍出るのを待っていた。
この間が約何秒かかったか知らないが、とにかく予期の状態で一定の姿勢におったものらしい。
すると、いきなり、「やに澄ますねえ」と云ったものがある。
この声はさっきの「おい」よりも少し皺枯れていたから、大方別人だろうと鑑定した。
しかし返答をするべき性質の言葉でないから――字で書くと普通のねえのように見えるが、実はなよの命令を倶利加羅流に崩したんだから、はなはだ下等である。
――それでやっぱり黙ってた。
ただ内心では大いに驚いた。
自分がここへ来て言葉を交したものは原さんと婆さんだけであるが、婆さんは女だから別として、原さんは思ったよりも叮嚀であった。
ところが原さんは飯場頭である。
頭ですらこれだから、平の坑夫は無論そう野卑じゃあるまいと思い込んでいた。
だから、この悪口が藪から棒に飛んで来た時には、こいつはと退避む前に、まずおやっと毒気を抜かれた。
ここでいっその事毒突返したなら、袋叩きに逢うか、または平等の交際が出来るか、どっちか早く片がついたかも知れないが、自分は何にも口答えをしなかった。
もともと東京生れだから、この際何とか受けるくらいは心得ていたんだろう。
それにもかかわらず、兄に類似した言語は無論、尋常の竹箆返しさえ控えたのは、――相手にならないと先方を軽蔑したためだろうか――あるいは怖くって何とも云う度胸がなかったんだろうか。
自分は前の方だと云いたい。
しかし事実はどうも後の方らしい。
とにかくも両方交ってたと云うのが一番穏のように思われる。
世の中には軽蔑しながらも怖いものが沢山もある。
矛盾にゃならない。
それはどっちにしたって構わないが、自分がこの悪口を聞いたなり、おとなしく聞き流す料簡と見て取った坑夫共は、面白そうにどっと笑った。
こっちがおとなしければおとなしいほど、この笑は高く響いたに違ない。
銅山を出れば、世間が相手にしてくれない返報に、たまたま普通の人間が銅山の中へ迷い込んで来たのを、これ幸いと嘲弄するのである。
自分から云えば、この坑夫共が社会に対する恨みを、吾身一人で引き受けた訳になる。
銅山へ這入るまでは、自分こそ社会に立てない身体だと思い詰めていた。
そこで飯場へ上って見ると、自分のような人間は仲間にしてやらないと云わんばかりの取扱いである。
自分は普通の社会と坑夫の社会の間に立って、立派に板挟みとなった。
だからこの十四五人の笑い声が、ほてるほど自分の顔の正面に起った時は、悲しいと云うよりは、恥ずかしいと云うよりは、手持無沙汰と云うよりは、情ないほど不人情な奴が揃ってると思った。
無教育は始めから知れている。
教育がなければ予期出来ないほどの無理な注文はしないつもりだが、なんぼ坑夫だって、親の胎内から持って生れたままの、人間らしいところはあるだろうくらいに心得ていたんだから、この寸法に合わない笑声を聞くや否や、畜生奴と思った。
俗語に云う怒った時の畜生奴じゃない。
人間と受取れない意味の畜生奴である。
今では経験の結果、人間と畜生の距離がだいぶん詰ってるから、このくらいの事をと、鈍い神経の方で相手にしないかも知れないが、何しろ十九年しか、使っていない新しい柔かい頭へこのわる笑がじんと来たんだから、切なかった。
自分ながら思い出すたびに、まことに痛わしいような、いじらしいような、その時の神経系統をそのまま真綿に包んで大事にしまって置いてやりたいような気がする。
この悪意に充ちた笑がようやく下火になると、「御前はどこだ」と云う質問が出た。
この質問を掛けたものは、自分から一番近い所に坐っていたから、声の出所は判然分った。
浅黄色の手拭染みた三尺帯を腰骨の上へ引き廻して、後向きの胡坐のまま、斜に顔だけこっちへ見せている。
その片眼は生れつきの赤んべんで、おまけに結膜が一面に充血している。
「僕は東京です」と答えたら、赤んべんが、肉のない頬を凹まして、愚弄の笑いを洩らしながら、三軒置いて隣りの坑夫をちょいと顎でしゃくった。
するとこの相図を受けた、願人坊主が、入れ替ってこんな事を云った、「僕だなんて――書生ッ坊だな。大方女郎買でもしてしくじったんだろう。太え奴だ。全体この頃の書生ッ坊の風儀が悪くっていけねえ。そんな奴に辛抱が出来るもんか、早く帰れ。そんな瘠っこけた腕でできる稼業じゃねえ」 自分はだまっていた。
あんまり黙っていたので張合が抜けたせいか、わいわい冷かすのが少し静まった。
その時一人の坑夫――これは尋常な顔である。
世間へ出しても普通に通用するくらいに眼鼻立が調っていた。
自分は、冷かされながら、眼を上げて、黒い塊を見るたびに、人数やら、着物やら、獰猛の度合やらをだんだん腹に畳み込んでいたが、最初は総体の顔が総体に骨と眼でできた上に獣慾の脂が浮いているところばかり眼に着いて、どれも、これも差別がないように思われた。
それが三度四度と重なるにつけて、四人五人と人相の区別ができるに連れて、この坑夫だけが一際目立って見えるようになった。
年はまだ三十にはなるまい。
体格は倔強である。
眉毛と鼻の根と落ち合う所が、一段奥へ引っ込んで、始終鼻眼鏡で圧しつけてるように見える。
そこに疳癪が拘泥していそうだが、これがために獰猛の度はかえって減ずると云っても好いような特徴であった。
――この坑夫が始めてこの時口を利いた。
――「なぜこんな所へ来た。来たって仕方がないぜ。儲かる所じゃない。ここにいる奴あ、みんな食詰ものばかりだ。早く帰るが好かろう。帰って新聞配達でもするがいい。おれも元はこれで学校へも通ったもんだが、放蕩の結果とうとう、シキの飯を食うようになっちまった。おれのようになったが最後もう駄目だ。帰ろうたって、帰れなくなる。だから今のうちに東京へ帰って新聞配達をしろ。書生はとても一月と辛抱は出来ないよ。悪い事は云わねえから帰れ。分ったろう」 これは比較的真面目な忠告であった。
この忠告の最中は、さすがの獰悪派もおとなしく交っ返しもせずに聞いていた。
その惰性で忠告が済んだあとも、一時は静であった。
もっともこれはこの坑夫に多少の勢力があるんで、その勢力に対しての遠慮かも知れないと勘づいた。
その時自分は何となく心の底で愉快だった。
この坑夫だって、ほかの坑夫だって、人相にこそ少しの変化はあれ、やっぱり一つ穴でこつこつ鉱塊を欠いている分の事だろう。
そう芸に巧拙のあるはずはない。
して見ると、この男の勢力は全く字が読めて、物が解って、分別があって――一口に云うと教育を受けたせいに違ない。
自分は今こんなに馬鹿にされている。
ほとんど最下等の労働者にさえ歯されない人非人として、多勢の侮辱を受けている。
しかし一度この社会に首を突込んで、獰猛組の一人となりすましたら、一月二月と暮して行くうちには、この男くらいの勢力を得る事はできるかも知れない。
できるだろう。
できるにきまってるとまで感じた。
だから、いくら誰が何と云っても帰るまい、きっとこの社会で一人前以上になって成功して見せる。
――随分思い切ってつまらない考えを起したもんだが、今から見ても、多少論理には叶っているようだ。
そこでこの坑夫の忠告には謹んで耳を傾けていたが、別段先方の注文通りに、では帰りましょうと云う返事もしなかった。
そのうちいったん静まりかけた愚弄の舌がまた動き出した。
「いる気なら置いてやるが、ここにゃ、それぞれ掟があるから呑み込んで置かなくっちゃ迷惑だぜ」と一人が云うから、「どんな掟ですか」と聞くと、「馬鹿だなあ。親分もあり兄弟分もあるじゃねえか」と、大変な大きな声を出した。
「親分たどんなもんですか」と質問して見た。
実はあまりがみがみ云うから、黙っていようかしらんとも思ったけれども、万一掟を破って、あとで苛い目に逢うのが怖いから、まあ聞いて見た。
すると他の坑夫が、すぐ、返事をした。
「しようのねえ奴だな。親分を知らねえのか。親分も兄弟分も知らねえで、坑夫になろうなんて料簡違えだ。早く帰れ」「親分も兄弟分もいるから、だから、儲けようたって、そう旨かあ行かねえ。帰れ」「儲かるもんか帰るが好い」「帰れ」「帰れ」 しきりに帰れと云う。
しかも実際自分のためを思って帰れと云うんじゃない。
仲間入をさせてやらないから出て行けと云うんである。
さぞ儲けたいだろうが、そうは問屋で卸さない、こちとらだけで儲ける仕事なんだから、諦めて早く帰れと云うんである。
したがってどこへ帰れとも云わない。
川の底でも、穴の中でも構わない勝手な所へ帰れと云うんである。
自分は黙っていた。
この形勢がこのままで続いたら、どんな事にたち至ったか思いやられる。
敵はこの囲炉裏の周囲ばかりにゃいない。
さっきちょっと話した通り、向うの方にも大きな輪になって、黒く塊っている。
こっちの団体だけですら持ち扱っているところへ、あっちの群勢が加勢したら大事である。
自分は愚弄されながらも、時々横目を使って、未来の敵――こうなると、どれもこれも人間でさえあれば、敵と認定してしまう。
――遠方にはおるが、そろそろ押し寄せて来そうな未来の敵を、見ていた。
かように自分の心が、左右前後と離れ離れになって、しかも独立ができないものだから、物の後を追掛け、追ん廻わしているほど辛い事はない。
なんでも敵に逢ったら敵を呑むに限る。
呑む事ができなければ呑まれてしまうが好い。
もし両方共困難ならぷつりと縁を截って、独立自尊の態度で敵を見ているがいい。
敵と融合する事もできず、敵の勢力範囲外に心を持ってく事も出来ず、しかも敵の尻を嗅がなければならないとなると、はなはだしき損となる。
したがってもっとも下等である。
自分はこう云う場合にたびたび遭遇して、いろいろな活路を研究して見たが、研究したほどに、心が云う事を聞かない。
だからここに申す三策は、みんな釈迦の空説法である。
もし講釈をしないでも知れ切ってる陳説なら、なおさら言うだけが野暮になる。
どうも正式の学問をしないと、こう云う所へ来て、取捨の区別がつかなくって困る。
自分が四方八方に気を配って、自分の存在を最高度に縮小して恐れ入っていると、「御膳を御上がんなさい」と云う婆さんの声が聞えた。
いつの間に婆さんが上がって来たんだか、自分の魂が鳩の卵のように小さくなって、萎縮した真最中だったから、御膳の声が耳に入るまではまるで気がつかなかった。
見ると剥げた御膳の上に縁の欠けた茶碗が伏せてある。
小さい飯櫃も乗っている。
箸は赤と黄に塗り分けてあるが、黄色い方の漆が半分ほど落ちて木地が全く出ている。
御菜には糸蒟蒻が一皿ついていた。
自分は伏目になってこの御膳の光景を見渡した時、大いに食いたくなった。
実は今朝から水一滴も口へ入れていない。
胃は全く空である。
もし空でなければ、昨日食った揚饅頭と薩摩芋があるばかりである。
飯の気を離れる事約二昼夜になるんだから、いかに魂が萎縮しているこの際でも、御櫃の影を見るや否や食慾は猛然として咽喉元まで詰め寄せて来た。
そこで、冷かしも、交ぜっ返しも気に掛ける暇なく、見栄も糸瓜も棒に振って、いきなり、お櫃からしゃくって茶碗へ一杯盛り上げた。
その手数さえ面倒なくらい待ち遠しいほどであったが、例の剥箸を取り上げて、茶碗から飯をすくい出そうとする段になって――おやと驚いた。
ちっともすくえない。
指の股に力を入れて箸をうんと底まで突っ込んで、今度こそはと、持上げて見たが、やっぱり駄目だ。
飯はつるつると箸の先から落ちて、けっして茶碗の縁を離れようとしない。
十九年来いまだかつてない経験だから、あまりの不思議に、この仕損を二三度繰り返して見た上で、はてなと箸を休めて考えた。
おそらく狐に撮まれたような風であったんだろう。
見ていた坑夫共はまたぞろ、どっと笑い出した。
自分はこの声を聞くや否や、いきなり茶碗を口へつけた。
そうして光沢のない飯を一口掻き込んだ。
すると笑い声よりも、坑夫よりも、空腹よりも、舌三寸の上だけへ魂が宿ったと思うくらいに変な味がした。
飯とは無論受取れない。
全く壁土である。
この壁土が唾液に和けて、口いっぱいに広がった時の心持は云うに云われなかった。
「面あ見ろ。いい様だ」と一人が云うと、「御祭日でもねえのに、銀米の気でいやがらあ。だから帰れって教えてやるのに」と他のものが云う。
「南京米の味も知らねえで、坑夫になろうなんて、頭っから料簡違だ」とまた一人が云った。
自分は嘲弄のうちに、術なくこの南京米を呑み下した。
一口でやめようと思ったが、せっかく盛り込んだものを、食ってしまわないと、また冷かされるから、熊の胆を呑む気になって、茶碗に盛っただけは奇麗に腹の中へ入れた。
全く食慾のためではない。
昨日食った揚饅頭や、ふかし芋の方が、どのくらい御馳走であったか知れない。
自分が南京米の味を知ったのは、生れてこれが始てである。
茶碗に盛っただけは、こう云う訳で、どうにか、こうにか片づけたが、二杯目は我慢にも盛う気にならなかったから、糸蒟蒻だけを食って箸を置く事にした。
このくらい辛抱して無理に厭なものを口に入れてさえ、箸を置くや否や散々に嘲弄された。
その時は随分つらい事と思ったが、その後日に三度ずつは、必ずこの南京米に対わなくっちゃならない身分となったんで、さすがの壁土も慣れるに連れて、いわゆる銀米と同じく、人類の食い得べきもの、否食ってしかるべき滋味と心得るようになってからは、剥膳に向って逡巡した当時がかえって恥ずかしい気持になった。
坑夫共の冷かしたのも万更無理ではない。
今となると、こんな無経験な貴族的の坑夫が一杯の南京米を苦に病むところに廻り合わせて、現状を目撃したら、ことに因ると、自分でさえ、笑うかも知れない。
冷かさないまでも、善意に笑うだけの価値は十分あると思う。
人はいろいろに変化するもんだ。
南京米の事ばかり書いて済まないから、もうやめにするが、この時自分の失敗に対する冷評は、自然のままにして抛って置いたなら、どこまで続いたか分らない。
ところへ急に金盥を叩き合せるような音がした。
一度ではない。
二度三度と聞いているうちに、じゃじゃん、じゃららんと時を句切って、拍子を取りながら叩き立てて来る。
すると今度は木唄の声が聞え出した。
純粋の木唄では無論ないが、自分の知ってる限りでは、まあ木唄と云うのが一番近いように思われる。
この時冷評は一時にやんだ。
ひっそりと静まり返る山の空気に、じゃじゃん、じゃららんが鳴り渡る間を、一種異様に唄い囃して何物か近づいて来た。
「ジャンボーだ」と一人が膝頭を打たないばかりに、大きな声を出すと、「ジャンボーだ。ジャンボーだ」と大勢口々に云いながら、黒い塊がばらばらになって、窓の方へ立って行った。
自分は何がジャンボーなんだか分らないが、みんなの注意が、自分を離れると同時に、気分が急に暢達したせいか、自分もジャンボーを見たいと云う余裕ができて、余裕につれて元気も出来た。
つくづく考えるに、人間の心は水のようなもので、押されると引き、引くと押して行く。
始終手を出さない相撲をとって暮らしていると云っても差支なかろう。
それで、みんなが立ち尽したあとから、自分も立った。
そうしてやっぱり窓の方へ歩いて行った。
黒い頭で下は塞がっている上から背伸をして見下すと、斜に曲ってる向の石垣の角から、紺の筒袖を着た男が二人出た。
あとからまた二人出た。
これはいずれも金盥を圧しつぶして薄っ片にしたようなものを両手に一枚ずつ持っている。
ははあ、あれを叩くんだと思う拍子に、二人は両手をじゃじゃんと打ち合わした。
その不調和な音が切っ立った石垣に突き当って、後の禿山に響いて、まだやまないうちに、じゃららんとまた一組が後から鳴らし立てて現れた。
たと思うとまた現れる。
今度は金盥を持っていない。
その代り木唄――さっきは木唄と云った。
しかしこの時、彼らの揚げた声は、木唄と云わんよりはむしろ浪花節で咄喊するような稀代な調子であった。
「おい金公はいねえか」と、黒い頭の一つが怒鳴った。
後向だから顔は見えない。
すると、「うん金公に見せてやれ」とすぐ応じた者がある。
この言葉が終るか、終らない間に、五つ六つの黒い頭がずらりとこっちを向いた。
自分はまた何か云われる事と覚悟して仕方なしに、今までの態度で立っていると、不思議にも振り返った眼は自分の方に着いていない。
広い部屋の片隅に遠く走った様子だから、何物がいる事かと、自分も後を追っ懸けて、首を捻じ向けると、――寝ている。
薄い布団をかけて一人寝ている。
「おい金州」と一人が大きな声を出したが、寝ているものは返事をしない。
「おい金しゅう起きろやい」と怒鳴つけるように呼んだが、まだ何とも返事がないので、三人ばかり窓を離れてとうとう迎に出掛けた。
被ってる布団を手荒にめくると、細帯をした人間が見えた。
同時に、「起きろってば、起きろやい。好いものを見せてやるから」と云う声も聞えた。
やがて横になってた男が、二人の肩に支えられて立ち上った。
そうしてこっちを向いた。
その時、その刹那、その顔を一目見たばかりで自分は思わず慄とした。
これはただ保養に寝ていた人ではない。
全くの病人である。
しかも自分だけで起居のできないような重体の病人である。
年は五十に近い。
髯は幾日も剃らないと見えてぼうぼうと延びたままである。
いかな獰猛も、こう憔悴ると憐れになる。
憐れになり過ぎて、逆にまた怖くなる。
自分がこの顔を一目見た時の感じは憐れの極全く怖かった。
病人は二人に支えられながら、釣られるように、利かない足を運ばして、窓の方へ近寄ってくる。
この有様を見ていた、窓際の多人数は、さも面白そうに囃し立てる。
「よう、金しゅう早く来いよ。今ジャンボーが通るところだ。早く来て見ろよ」「己あジャンボーなんか見たかねえよ」と病人は、無体に引き摺られながら、気のない声で返事をするうちに、見たいも、見たくないもありゃしない。
たちまち窓の障子の角まで圧しつけられてしまった。
じゃじゃん、じゃららんとジャンボーは知らん顔で石垣の所へ現れてくる。
行列はまだ尽きないのかと、また背延びをして見下した時、自分は再び慄とした。
金盥と金盥の間に、四角な早桶が挟まって、山道を宙に釣られて行く。
上は白金巾で包んで、細い杉丸太を通した両端を、水でも一荷頼まれたように、容赦なく担いでいる。
その担いでいるものまでも、こっちから見ると、例の唄を陽気にうたってるように思われる。
――自分はこの時始めてジャンボーの意味を理解した。
生涯いかなる事があっても、けっして忘れられないほど痛切に理解した。
ジャンボーは葬式である。
坑夫、シチュウ、掘子、山市に限って執行される、また執行されなければならない一種の葬式である。
御経の文句を浪花節に唄って、金盥の潰れるほどに音楽を入れて、一荷の水と同じように棺桶をぶらつかせて――最後に、半死半生の病人を、無理矢理に引き摺り起して、否と云うのを抑えつけるばかりにしてまで見せてやる葬式である。
まことに無邪気の極で、また冷刻の極である。
「金しゅう、どうだ、見えたか、面白いだろう」と云ってる。
病人は、「うん、見えたから、床ん所まで連れてって、寝かしてくれよ。後生だから」と頼んでいる。
さっきの二人は再び病人を中へ挟んで、「よっしょいよっしょい」と云いながら、刻み足に、布団の敷いてある所まで連れて行った。
この時曇った空が、粉になって落ちて来たかと思われるような雨が降り出した。
ジャンボーはこの雨の中を敲き立てて町の方へ下って行く。
大勢は「また雨だ」と云いながら、窓を立て切って、各々囲炉裏の傍へ帰る。
この混雑紛に自分もいつの間にか獰猛の仲間入りをして、火の近所まで寄る事が出来た。
これは偶然の結果でもあり、また故意の所作でもあった。
と云うものは火の気がなくってははなはだ寒い。
袷一枚ではとても凌ぎ兼ねるほどの山の中だ。
それに雨さえ降り出した。
雨と云えば雨、霧と云えば霧と云われるくらいな微かな粒であるが、四方の禿山を罩め尽した上に、筒抜けの空を塗り潰して、しとどと落ちて来るんだから、家の中に坐っていてさえ、糠よりも小さい湿り気が、毛穴から腹の底へ沁み込むような心持である。
火の気がなくってはとうていやり切れるものじゃない。
自分が好い加減な所へ席を占めて、いささかながら囲炉裏のほとぼりを顔に受けていると、今度は存外にも度外視されて、思ったよりも調戯われずに済んだ。
これはこっちから進んで獰猛の仲間入りをしたため、向うでも普通の獰猛として取扱うべき奴だと勘弁してくれたのか、それとも先刻のジャンボーで不意に気が変った成行として、自分の事をしばらく忘れてくれたのか、または冷笑の種が尽きたか、あるいは毒突くのに飽きたんだか、――何しろ自分が席を改めてから、自分の気は比較的楽になった。
そうして囲炉裏の傍の話はやっぱりジャンボーで持ち切っていた。
いろいろな声がこんな事を云う。
――「あのジャンボーはどこから出たんだろう」「どこから出たって御ジャンボーだ」「ことによると黒市組かも知れねえ。見当がそうだ」「全体ジャンボーになったらどこへ行くもんだろう」「御寺よ。きまってらあ」「馬鹿にするねえ。御寺の先を聞いてるんだあな」「そうよ、そりゃ寺限で留りっこねえ訳だ。どっかへ行くに違えねえ」「だからよ。その行く先はどんな所だろうてえんだ。やっぱしこんな所かしら」「そりゃ、人間の魂の行く所だもの、大抵は似た所に違えねえ」「己もそう思ってる。行くとなりゃ、どうもほかへ行く訳がねえからな」「いくら地獄だって極楽だって、やっぱり飯は食うんだろう」「女もいるだろうか」「女のいねえ国が世界にあるもんか」 ざっと、こんな談話だから、聞いているとめちゃめちゃである。
それで始めのうちは冗談だと思った。
笑っても差支ないものと心得て、口の端をむずつかせながら、ちょっと様子を見渡したくらいであった。
ところが笑いたいのは自分だけで、囲炉裏を取り捲いている顔はいずれも、彫りつけたように堅くなっている。
彼らは真剣の真面目で未来と云う大問題を論じていたんである。
実に嘘としか受け取れないほどの熱心が、各々の眉の間に見えた。
自分はこの時、この有様を一瞥して、さっきの笑いたかった念慮をたちまちのうちに一変した。
こんな向う見ずの無鉄砲な人間が――カンテラを提げて、シキの中へ下りれば、もう二度と日の目を見ない料簡でいる人間が――人間の器械で、器械の獣とも云うべきこの獰猛組が、かほどに未来の事を気にしていようとは、まことに予想外であった。
して見ると、世間には、未来の保証をしてくれる宗教というものが入用のはずだ。
実際自分が眼を上げて、囲炉裏のぐるりに胡坐をかいて並んだ連中を見渡した時には、遠慮に畏縮が手伝って、七分方でき上った笑いを急に崩したと云う自覚は無論なかった。
ただ寄席を聞いてるつもりで眼を開けて見たら鼻の先に毘沙門様が大勢いて、これはと威儀を正さなければならない気持であった。
一口に云うと、自分はこの時始めて、真面目な宗教心の種を見て、半獣半人の前にも厳格の念を起したんだろう。
その癖自分はいまだに宗教心と云うものを持っていない。
この時さっきの病人が、向うの隅でううんと唸り出した。
その唸り声には無論特別の意味はない。
単に普通の病人の唸り声に過ぎんのだが、ジャンボーの未来に屈託している連中には、一種のあやしい響のように思われたんだろう。
みんな眼と眼を見合した。
「金公苦しいのか」と一人が大きな声で聞いた。
病人は、ただ、「ううん」と云う。
唸ってるのか、返事をしているのか判然しない。
するとまた一人の坑夫が、「そんなに嚊の事ばかり気にするなよ。どうせ取られちまったんだ。今更唸ったってどうなるもんか。質に入れた嚊だ。受出さなけりゃ流れるなあ当り前だ」と、やっぱり囲炉裏の傍へ坐ったまま、大きな声で慰めている。
慰めてるんだか、悪口を吐いているんだか疑わしいくらいである。
坑夫から云うと、どっちも同じ事なんだろう。
病人はただううんと挨拶――挨拶にもならない声を微かに出すばかりであった。
そこで大勢は懸合にならない慰藉をやめて、囲炉裏の周囲だけで舌の用を弁じていた。
しかし話題はまだ金さんを離れない。
「なあに、病気せえしなけりゃ、金公だって嚊を取られずに済むんだあな。元を云やあ、やっぱり自分が悪いからよ」と一人が、金さんの病気をさも罪悪のように評するや否や、「全くだ。自分が病気をして金を借りて、その金が返せねえから、嚊を抵当に取られちまったんだから、正直のところ文句の附けようがねえ」と賛成したものがある。
「若干で抵当に入れたんだ」と聞くと、向側から、「五両だ」と誰だか、簡潔に教えた。
「それで市の野郎が長屋へ下がって、金しゅうと入れ代った訳か。ハハハハ」 自分は囲炉裏の側に坐ってるのが苦痛であった。
背中の方がぞくぞくするほど寒いのに、腋の下から汗が出る。
「金しゅうも早く癒って、嚊を受け出したら好かろう」「また、市と入れ代りか。世話あねえ」「それよりか、うんと稼いで、もっと価に踏める抵当でも取った方が、気が利いてらあ」「違ねえ」と一人が云い出すのを相図に、みんなどっと笑った。
自分はこの笑の中に包まれながら、どうしても笑い切れずに下を向いてしまった。
見ると膝を並べて畏まっていた。
馬鹿らしいと気がついて、胡坐に組み直して見た。
しかし腹の中はけっして胡坐をかくほど悠長ではなかった。
その内だんだん日暮に近くなって来る。
時間が移るばかりじゃない、天気の具合と、山が囲んでるせいで早く暗くなる。
黙って聞いていると、雨垂の音もしないようだから、ことによると、雨はもう歇んだのかも知れない。
しかしこの暗さでは、やっぱり降ってると云う方が当るだろう。
窓は固り締め切ってある。
戸外の模様は分りようがない。
しかし暗くって湿ッぽい空気が障子の紙を透して、一面に囲炉裏の周囲を襲って来た。
並んでいる十四五人の顔がしだいしだいに漠然する。
同時に囲炉裏の真中に山のようにくべた炭の色が、ほてり返って、少しずつ赤く浮き出すように思われた。
まるで、自分は坑の底へ滅入込んで行く、火はこれに反して坑からだんだん競り上がって来る、――ざっと、そんな気分がした。
時にぱっと部屋中が明るくなった。
見ると電気灯が点いた。
「飯でも食うべえ」と一人が云うと、みんな忘れものを思い出したように、「飯を食って、また交替か」「今日は少し寒いぞ」「雨はまだ降ってるのか」「どうだか、表へ出て仰向いて見な」などと、口々に罵りながら、立って、階下段を下りて行った。
自分は広い部屋にたった一人残された。
自分のほかにいるものは病人の金さんばかりである。
この金さんがやっぱり微な声を出して唸ってるようだ。
自分は囲炉裏の前に手を翳して胡坐を組みながら、横を向いて、金さんの方を見た。
頭は出ていない。
足も引っ込ましている。
金さんの身体は一枚の布団の中で、小さく平ったくなっている。
気の毒なほど小さく平ったく見えた。
その内唸り声も、どうにか、こうにかやんだようだから、また顔の向を易えて、囲炉裏の中を見詰めた。
ところがなんだか金さんが気に掛かってたまらないから、また横を向いた。
すると金さんはやっぱり一枚の布団の中で、小さく平ったくなっている。
そうして、森としている。
生きてるのか、死んでるのか、ただ森としている。
唸られるのも、あんまり気味の好いもんじゃないが、こう静かにしていられるとなお心配になる。
心配の極は怖くなって、ちょっと立ち懸けたが、まあ大丈夫だろう、人間はそう急に死ぬもんじゃないと、度胸を据えてまた尻を落ちつけた。
ところへ二三人、下からどやどやと階下段を上がって来た。
もう飯を済ましたんだろうか、それにしては非常に早いがと、心持上がり段の方を眺めていると、思も寄らないものが、現れた。
――黒か紺か色の判然しない筒服を着ている。
足は職人の穿くような細い股引で、色はやはり同じ紺である。
それでカンテラを提げている。
のみならず二人が二人とも泥だらけになって、濡れてる。
そうして、口を利かない。
突っ立ったまま自分の方をぎろりと見た。
まるで強盗としきゃあ思えない。
やがて、カンテラを抛り出すと、釦を外して、筒袖を脱いだ。
股引も脱いだ。
壁に掛けてある広袖を、めりやすの上から着て、尻の先に三尺帯をぐるりと回しながら、やっぱり無言のまま、二人してずしりずしりと降りて行った。
するとまた上がって来た。
今度のも濡れている。
泥だらけである。
カンテラを抛り出す。
着物を着換える。
ずしんずしんと降りて行く。
とまた上がって来る。
こう云う風に入代り、入代りして、何でもよほど来た。
いずれも底の方から眼球を光らして、一遍だけはきっと自分を見た。
中には、「手前は新前だな」と云ったものもある。
自分はただ、「ええ」と答えて置いた。
幸い今度はさっきのようにむやみには冷やかされずに、まあ無難に済んだ。
上がって来るものも、来るものも、みんな急いで降りて行くんで、調戯う暇がなかったんだろう。
その代り一人に一度ずつは必ず睨まれた。
そうこうしている内に、上がって来るものがようやく絶えたから、自分はようやく寛容いだ思いをして、囲炉裏の炭の赤くなったのを見詰めて、いろいろ考え出した。
もちろん纏まりようのない、かつ考えれば考えるほど馬鹿になる考えだが、火を見詰ていると、炭の中にそう云う妄想がちらちらちらちら燃えてくるんだから仕方がない。
とうとう自分の魂が赤い炭の中へ抜出して、火気に煽られながら、むやみに踊をおどってるような変な心持になった時に、突然、「草臥れたろうから、もう御休みなさい」と云われた。
見ると、さっきの婆さんが、立っている。
やっぱり襷掛のままである。
いつの間に上がって来たものか、ちっとも気がつかなかった。
自分の魂が遠慮なく火の中を馳け廻って、艶子さんになったり、澄江さんになったり、親爺になったり、金さんになったり、――被布やら、廂髪やら、赤毛布やら、唸り声やら、揚饅頭やら、華厳の滝やら――幾多無数の幻影が、囲炉裏の中に躍り狂って、立ち騰る火の気の裏に追いつ追われつ、日向に浮かぶ塵と思われるまで夥しく出て来た最中に、はっと気がついたんだから、眼の前にいる婆さんが、不思議なくらい変であった。
しかし寝ろと云う注意だけは明かに耳に聞えたに違ないから、自分はただ、「ええ」と答えた。
すると婆さんは後ろの戸棚を指して、「布団は、あすこに這入ってるから、独で出して御掛けなさい。一枚三銭ずつだ。寒いから二枚はいるでしょう」と聞くから、また「ええ」と答えたら、婆さんは、それ限何にも云わずに、降りて行った。
これで、自分は寝てもいいと云う許可を得たから、正式に横になっても剣突を食う恐れはあるまいと思って、婆さんの指図通り戸棚を明けて見ると、あった。
布団がたくさんあった。
しかしいずれも薄汚いものばかりである。
自宅で敷いていたのとはまるで比較にならない。
自分は一番上に乗ってるのを二枚、そっとおろした。
そうして、電気灯の光で見た。
地は浅黄である。
模様は白である。
その上に垢が一面に塗りつけてあるから、六分方色変りがして、白い所などは、通例なら我慢のできにくいほどどろんと、化けている。
その上すこぶる堅い。
搗き立ての伸し餅を、金巾に包んだように、綿は綿でかたまって、表布とはまるで縁故がないほどの、こちこちしたものである。
自分はこの布団を畳の上へ平く敷いた。
それから残る一枚を平く掛けた。
そうして、襯衣だけになって、その間に潜り込んだ。
湿っぽい中を割り込んで、両足をうんと伸ばしたら踵が畳の上へ出たから、また心持引っ込ました。
延ばす時も曲げる時も、不断のように軽くしなやかには行かない。
みしりと音がするほど、関節が窮屈に硬張って、動きたがらない。
じっとして、布団の中に膝頭を横たえていると、倦怠のを通り越して重い。
腿から下を切り取って、その代りに筋金入りの義足をつけられたように重い。
まるで感覚のある二本の棒である。
自分は冷たくって重たい足を苦に病んで、頭を布団の中に突っ込んだ。
せめて頭だけでも暖にしたら、足の方でも折れ合ってくれるだろうとの、はかない望みから出た窮策であった。
しかしさすがに疲れている。
寒さよりも、足よりも、布団の臭いよりも、煩悶よりも、厭世よりも――疲れている。
実に死ぬ方が楽なほど疲れ切っていた。
それで、横になるとすぐ――畳から足を引っ込まして、頭を布団に入れるだけの所作を仕遂げたと思うが早いか、眠てしまった。
ぐうぐう正体なく眠てしまった。
これから先きは自分の事ながらとうてい書けない。
…… すると、突然針で背中を刺された。
夢に刺されたのか、起きていて、刺されたのか、感じはすこぶる曖昧であった。
だからそれだけの事ならば、針だろうが刺だろうが、頓着はなかったろう。
正気の針を夢の中に引摺り込んで、夢の中の刺を前後不覚の床の下に埋めてしまう分の事である。
ところがそうは行かなかった。
と云うものは、刺されたなと思いながらも、針の事を忘れるほどにうっとりとなると、また一つ、ちくりとやられた。
今度は大きな眼を開いた。
ところへまたちくりと来た。
おやと驚く途端にまたちくりと刺した。
これは大変だとようやく気がつきがけに、飛び上るほど劇しく股の辺をやられた。
自分はこの時始めて、普通の人間に帰った。
そうして身体中至る所がちくちくしているのを発見した。
そこでそっと襯衣の間から手を入れて、背中を撫でて見ると、一面にざらざらする。
最初指先が肌に触れた時は、てっきり劇烈な皮膚病に罹ったんだと思った。
ところが指を肌に着けたまま、二三寸引いて見ると、何だか、ばらばらと落ちた。
これはただ事でないとたちまち跳ね起きて、襯衣一枚の見苦しい姿ながら囲炉裏の傍へ行って、親指と人差指の間に押えた、米粒ほどのものを、検査して見ると、異様の虫であった。
実はこの時分には、まだ南京虫を見た事がないんだから、はたしてこれがそうだとは断言出来なかったが――何だか直覚的に南京虫らしいと思った。
こう云う下卑た所に直覚の二字を濫用しては済まんが、ほかに言葉がないから、やむを得ず高尚な術語を使った。
さてその虫を検査しているうちに、非常に悪らしくなって来た。
囲炉裏の縁へ乗せて、ぴちりと親指の爪で圧し潰したら、云うに云われぬ青臭い虫であった。
この青臭い臭気を嗅ぐと、何となく好い心持になる。
――自分はこんな醜い事を真面目にかかねばならぬほど狂違染みていた。
実を云うと、この青臭い臭気を嗅ぐまでは、恨を霽らしたような気がしなかったのである。
それだから捕っては潰し、捕っては潰し、潰すたんびに親指の爪を鼻へあてがって嗅いでいた。
すると鼻の奥へ詰って来た。
今にも涙が出そうになる。
非常に情ない。
それだのに、爪を嗅ぐと愉快である。
この時二階下で大勢が一度にどっと笑う声がした。
自分は急に虫を潰すのをやめた。
広間を見渡すと誰もいない。
金さんだけが、平たくなって静かに寝ている。
頭も足も見えない。
そのほかにたった一人いた。
もっとも始めて気がついた時は人間とは思わなかった。
向うの柱の中途から、窓の敷居へかけて、帆木綿のようなものを白く渡して、その幅のなかに包まっていたから、何だか気味が悪かった。
しかしよく見ると、白い中から黒いものが斜に出ている。
そうしてそれが人間の毬栗頭であった。
――広い部屋には、自分とこの二人を除いて、誰もいない。
ただ電気灯がかんかん点いている。
大変静かだ、と思うとまた下座敷でわっと笑った。
さっきの連中か、または作業を済まして帰って来たものが、大勢寄ってふざけ散らしているに違ない。
自分はぼんやりして布団のある所まで帰って来た。
そうして裸体になって、襯衣を振るって、枕元にある着物を着て、帯を締めて、一番しまいに敷いてある布団を叮嚀に畳んで戸棚へ入れた。
それから後はどうして好いか分らない。
時間は何時だか、夜はとうていまだ明けそうにしない。
腕組をして立って考えていると、足の甲がまたむずむずする。
自分は堪え切れずに、「えっ畜生」と云いながら二三度小踊をした。
それから、右の足の甲で、左の上を擦って、左の足の甲で右の上を擦って、これでもかと歯軋をした。
しかし表へ飛び出す訳にも行かず、寝る勇気はなし、と云って、下へ降りて、車座の中へ割り込んで見る元気は固りない。
さっき毒突かれた事を思い出すと、南京虫よりよっぽど厭だ。
夜が明ければいい、夜が明ければいいと思いながら、自分は表へ向いた窓の方へ歩いて行った。
するとそこに柱があった。
自分は立ちながら、この柱に倚っ掛った。
背中をつけて腰を浮かして、足の裏で身体を持たしていると、両足がずるずる畳の目を滑ってだんだん遠くへ行っちまう。
それからまた真直に立つ。
またずるずる滑る。
また立つ。
まずこんな事をしていた。
幸い南京虫は出て来なかった。
下では時々どっと笑う。
いても立ってもと云うのは喩だが、そのいても立ってもを、実際に経験したのはこの時である。
だから坐るとも立つとも方のつかない運動をして、中途半端に紛らかしていた。
ところがその運動をいつまで根気にやったものか覚えていない。
いとど疲れている上に、なお手足を疲らして、いかな南京虫でも応えないほど疲れ切ったんで、始めて寝たもんだろう。
夜が明けたら、自分が摺り落ちた柱の下に、足だけ延ばして、背を丸く蹲踞っていた。
これほど苦しめられた南京虫も、二日三日と過つにつれて、だんだん痛くなくなったのは妙である。
その実、一箇月ばかりしたら、いくら南京虫がいようと、まるで米粒でも、ぞろぞろ転がってるくらいに思って、夜はいつでも、ぐっすり安眠した。
もっとも南京虫の方でも日数を積むに従って遠慮してくるそうである。
その証拠には新来のお客には、べた一面にたかって、夜通し苛めるが、少し辛抱していると、向うから、愛想をつかして、あまり寄りつかなくなるもんだと云う。
毎日食ってる人間の肉は自然鼻につくからだとも教えたものがあるし、いや肉の方にそれだけの品格が出来て、シキ臭くなるから、虫も恐れ入るんだとも説明したものがある。
そうして見るとこの南京虫と坑夫とは、性質がよく似ている。
おそらく坑夫ばかりじゃあるまい、一般の人類の傾向と、この南京虫とはやはり同様の心理に支配されてるんだろう。
だからこの解釈は人間と虫けらを概括するところに面白味があって、哲学者の喜びそうな、美しいものであるが、自分の考えを云うと全くそうじゃないらしい。
虫の方で気兼をしたり、贅沢を云ったりするんじゃなくって、食われる人間の方で習慣の結果、無神経になるんだろうと思う。
虫は依然として食ってるが、食われても平気でいるに違ない、もっとも食われて感じないのも、食われなくって感じないのも、趣こそ違え、結果は同じ事であるから、これは実際上議論をしても、あまり役に立たない話である。
そんな無用の弁は、どうでもいいとして、自分が眼を開けて見たら、夜は全く明け放れていた。
下ではもうがやがや云っている。
嬉しかった。
窓から首を出して見ると、また雨だ。
もっとも判然とは降っていない。
雲の濃いのが糸になり損なって、なっただけが、細く地へ落ちる気色だ。
だからむやみに濛々とはしていない。
しだいしだいに雨の方に片づいて、片づくに従って糸の間が透いて見える。
と云っても見えるものは山ばかりである。
しかも草も木も至って乏しい、潤のない山である。
これが夏の日に照りつけられたら、山の奥でもさぞ暑かろうと思われるほど赤く禿げてぐるりと自分を取り捲いている。
そうして残らず雨に濡れている。
潤い気のないものが、濡れているんだから、土器に霧を吹いたように、いくら濡れても濡れ足りない。
その癖寒い気持がする。
それで自分は首を引っ込めようとしたら、ちょっと眼についた。
――手拭を被って、藁を腰に当てて、筒服を着た男が二三人、向うの石垣の下にあらわれた。
ちょうど昨日ジャンボーの通った路を逆に歩いて来る。
遠くから見ると、いかにもしょぼしょぼして気の毒なほど憐れである。
自分も今朝からああなるんだなと、ふと気がついて見ると、人事とは思われないほど、向へ行く手拭の影――雨に濡れた手拭の影が情なかった。
すると雨の間からまた古帽子が出て来た。
その後からまた筒袖姿があらわれた。
何でも朝の番に当った坑夫がシキへ這入る時間に相違ない。
自分はようやく窓から首を引き込めた。
すると、下から五六人一度にどやどやと階下段を上って来る。
来たなと思ったが仕方がないから懐手をして、柱にもたれていた。
五六人は見る間に、同じ出立に着更えて下りて行った。
後からまた上がってくる。
また筒袖になって下りて行く。
とうとう飯場にいる当番はことごとく出払ったようだ こう飯場中活動して来ると、自分も安閑としちゃいられない。
と云って誰も顔を御洗いなさいとも、御飯を御上がんなさいとも云いに来てくれない。
いかな坊っちゃんも、あまり手持無沙汰過ぎて困っちまったから、思い切って、のこのこ下りて行った。
心は無論落ついちゃいないが、態度だけはまるで宿屋へ泊って、茶代を置いた御客のようであった。
いくら恐縮しても自分には、これより以外の態度が出来ないんだから全くの生息子である。
下りて見ると例の婆さんが、襷がけをして、草鞋を一足ぶら下げて奥から駆けて来たところへ、ばったり出逢った。
「顔はどこで洗うんですか」と聞くと、婆さんは、ちょっと自分を見たなりで、「あっち」と云い捨てて門口の方へ行った。
まるで相手にしちゃいない。
自分にはあっちの見当がわからなかったが、とにかく婆さんの出て来た方角だろうと思って、奥の方へ歩いて行ったら、大きな台所へ出た。
真中に四斗樽を輪切にしたようなお櫃が据えてある。
あの中に南京米の炊いたのがいっぱい詰ってるのかと思ったら、――何しろ自分が三度三度一箇月食っても食い切れないほどの南京米なんだから、食わない前からうんざりしちまった。
――顔を洗う所も見つけた。
台所を下りて長い流の前へ立って、冷たい水で、申し訳のために頬辺を撫でて置いた。
こうなると叮嚀に顔なんか洗うのは馬鹿馬鹿しくなる。
これが一歩進むと、顔は洗わなくっても宜いものと度胸が坐ってくるんだろう。
昨日の赤毛布や小僧は全くこう云う順序を踏んで進化したものに違ない。
顔はようやく自力で洗った。
飯はどうなる事かと、またのそのそ台所へ上った。
ところへ幸い婆さんが表から帰って来て膳立てをしてくれた。
ありがたい事に味噌汁がついていたんで、こいつを南京米の上から、ざっと掛けて、ざくざくと掻き込んだんで、今度は壁土の味を噛み分ないで済んだ。
すると婆さんが、「御飯が済んだら、初さんがシキへ連れて行くって待ってるから、早くおいでなさい」と、箸も置かない先から急き立てる。
実はもう一杯くらい食わないと身体が持つまいと思ってたところだが、こう催促されて見ると、無論御代りなんか盛う必要はない。
自分は、「はあ、そうですか」と立ち上がった。
表へ出て見ると、なるほど上り口に一人掛けている。
自分の顔を見て、「御前か、シキへ行くなあ」と、石でもぶっ欠くような勢いで聞いた。
「ええ」と素直に答えたら、「じゃ、いっしょに来ねえ」と云う。
「この服装でも好いんですか」と叮嚀に聞き返すと、「いけねえ、いけねえ。そんな服装で這入れるもんか。ここへ親分とこから一枚借りて来てやったから、此服を着るがいい」と云いながら、例の筒袖を抛り出した。
「そいつが上だ。こいつが股引だ。そら」とまた股引を抛げつけた。
取りあげて見ると、じめじめする。
所々に泥が着いている。
地は小倉らしい。
自分もとうとうこの御仕着を着る始末になったんだなと思いながら、絣を脱いで上下とも紺揃になった。
ちょっと見ると内閣の小使のようだが、心持から云うと、小使を拝命した時よりも遥に不景気であった。
これで支度は出来たものと思込んで土間へ下りると、「おっと待った」と、初さんがまた勇み肌の声を掛けた。
「これを尻の所へ当てるんだ」 初さんが出してくれたものを見ると、三斗俵坊っちのような藁布団に紐をつけた変挺なものだ。
自分は初さんの云う通り、これを臀部へ縛りつけた。
「それが、アテシコだ。好しか。それから鑿だ。こいつを腰ん所へ差してと……」 初さんの出した鑿を受け取って見ると、長さ一尺四五寸もあろうと云う鉄の棒で、先が少し尖っている。
これを腰へ差す。
「ついでにこれも差すんだ。少し重いぜ。大丈夫か。しっかり受け取らねえと怪我をする」 なるほど重い。
こんな槌を差してよく坑の中が歩けるもんだと思う。
「どうだ重いか」「ええ」「それでも軽いうちだ。重いのになると五斤ある。――いいか、差せたか、そこでちょっと腰を振って見な。大丈夫か。大丈夫ならこれを提げるんだ」とカンテラを出しかけたが、「待ったり。カンテラの前に一つ草鞋を穿いちまいねえ」 草鞋の新しいのが、上り口にある。
さっき婆さんが振ら下げてたのは、大方これだろう。
自分は素足の上へ草鞋を穿いた。
緒を踵へ通してぐっと引くと、「駑癡だなあ。そんなに締める奴があるかい。もっと指の股を寛めろい」と叱られた。
叱られながら、どうにか、こうにか穿いてしまう。
「さあ、これでいよいよおしまいだ」と初さんは饅頭笠とカンテラを渡した。
饅頭笠と云うのか筍笠というのか知らないが、何でも懲役人の被るような笠であった。
その笠を神妙に被る。
それからカンテラを提げる。
このカンテラは提げるようにできている。
恰好は二合入りの石油缶とも云うべきもので、そこへ油を注す口と、心を出す孔が開いてる上に、細長い管が食っついて、その管の先がちょっと横へ曲がると、すぐ膨らんだカップになる。
このカップへ親指を突っ込んで、その親指の力で提げるんだから、指五本の代りに一本で事を済ますはなはだ実用的のものである。
「こう、穿めるんだ」と初さんが、勝栗のような親指を、カンテラの孔の中へ突込んだ。
旨い具合にはまる。
「そうら」 初さんは指一本で、カンテラを柱時計の振子のように、二三度振って見せた。
なかなか落ちない。
そこで自分も、同じように、調子をとって揺して見たがやっぱり落ちなかった。
「そうだ。なかなか器用だ。じゃ行くぜ、いいか」「ええ、好ござんす」 自分は初さんに連れられて表へ出た。
所が降っている。
一番先へ笠へあたった。
仰向いて、空模様を見ようとしたら、顎と、口と、鼻へぽつぽつとあたった。
それからあとは、肩へもあたる。
足へもあたる。
少し歩くうちには、身体中じめじめして、肌へ抜けた湿気が、皮膚の活気で蒸し返される。
しかし雨の方が寒いんで、身体のほとぼりがだんだん冷めて行くような心持であったが、坂へかかると初さんがむやみに急ぎ出したんで、濡れながらも、毛穴から、雨を弾き出す勢いで、とうとうシキの入口まで来た。
入口はまず汽車の隧道の大きいものと云って宜しい。
蒲鉾形の天辺は二間くらいの高さはあるだろう。
中から軌道が出て来るところも汽車の隧道に似ている。
これは電車が通う路なんだそうだ。
自分は入口の前に立って、奥の方を透かして見た。
奥は暗かった。
「どうだここが地獄の入口だ。這入れるか」と初さんが聞いた。
何だか嘲弄の語気を帯びている。
さっき飯場を出て、ここまで来る途中でも、方々の長屋の窓から首を出して、「昨日のだ」「新来だ」と口々に罵っていたが、その様子を見ると単に山の中に閉じ込められて物珍らしさの好奇心とは思えなかった。
その言葉の奥底にはきっと愚弄の意味がある。
これを布衍して云うと、一つには貴様もとうとうこんな所へ転げ込んで来た、いい気味だ、ざまあ見ろと云う事になる。
もう一つは御気の毒だが来たって駄目だよ。
そんな脂っこい身体で何が勤まるものかと云う事にもなる。
だから「昨日のだ」「新来だ」と騒ぐうちには、自分が彼らと同様の苦痛を甞めなければならないほど堕落したのを快く感ずると共に、とうていこの苦痛には堪えがたい奴だとの軽蔑さえ加わっている。
彼らは他人を彼らと同程度に引き摺り落して喝采するのみか、ひとたび引き摺り落したものを、もう一返足の下まで蹴落して、堕落は同程度だが、堕落に堪える力は彼らの方がかえって上だとの自信をほのめかして満足するらしい。
自分は途上「昨日のだ」と聞くたんびに、懲役笠で顔を半分隠しながら通り抜けて、シキの入口まで来た。
そこで初さんがまた愚弄したんだから、自分は少しむっとして、「這入れますとも。電車さえ通ってるじゃありませんか」と答えた。
すると初さんが、「なに這入れる? 豪義な事を云うない」と云った。
ここで「這入れません」と恐れ入ったら、「それ見ろ」と直こなされるにきまってる。
どっちへ転んでも駄目なんだから別に後悔もしなかった。
初さんは、いきなり、シキの中へ飛び込んだ。
自分も続いて這入った。
這入って見ると、思ったよりも急に暗くなる。
何だか足元がおっかなくなり出したには降参した。
雨が降っていても外は明かるいものだ。
その上軌道の上はとにかく、両側はすこぶる泥っている。
それだのに初さんは中っ腹でずんずん行く。
自分も負けない気でずんずん行く。
「シキの中でおとなしくしねえと、すのこの中へ抛り込まれるから、用心しなくっちゃあいけねえ」と云いながら初さんは突然暗い中で立ち留った。
初さんの腰には鑿がある。
五斤の槌がある。
自分は暗い中で小さくなって、「はい」と返事をした。
「よしか、分ったか。生きて出る料簡なら生意気にシキなんかへ這入らねえ方が増しだ」 これは向うむきになって、初さんが歩き出した時に、半分は独り言のように話した言葉である。
自分は少からず驚いた。
坑の中は反響が強いので、初さんの言葉がわんわんわんと自分の耳へ跳ねっ返って来る。
はたして初さんの言う通りなら、飛んだ所へ這入ったもんだ。
実は死ぬのも同然な職業であればこそ坑夫になろうと云う気も起して見たんだが、本当に死ぬなら――こんな怖い商売なら――殺されるんなら――すのこの中へ抛げ込まれるなら――すのことは全体どんなもんだろうと思い出した。
「すのことはどんなもんですか」「なに?」と初さんが後を振り向いた。
「すのことはどんなもんですか」「穴だ」「え?」「穴だよ。――鉱を抛り込んで、纏めて下へ降げる穴だ。鉱といっしょに抛り込まれて見ねえ……」で言葉を切ってまたずんずん行く。
自分はちょっと立ち留った。
振り返ると、入口が小さい月のように見える。
這入るときは、これがシキならと思った。
聞いたほどでもないと思った。
ところが初さんに威嚇かされてから、いかな平凡な隧道も、大いに容子が変って来た。
懲役笠をたたく冷たい雨が恋しくなった。
そこで振り返ると、入口が小さい月のように見える。
小さい月のように見えるほど奥へ這入ったなと、振り返って始めて気がついた。
いくら曇っていてもやっぱり外が懐かしい。
真黒な天井が上から抑えつけてるのは心持のわるいものだ。
しかもこの天井がだんだん低くなって来るように感ぜられる。
と思うと、軌道を横へ切れて、右へ曲った。
だらだら坂の下りになる。
もう入口は見えない。
振返っても真暗だ。
小さい月のような浮世の窓は遠慮なくぴしゃりと閉って、初さんと自分はだんだん下の方へ降りて行く。
降りながら手を延ばして壁へ触って見ると、雨が降ったように濡れている。
「どうだ、尾いて来るか」と、初さんが聞いた。
「ええ」とおとなしく答えたら、「もう少しで地獄の三丁目へ来る」と云ったなり、また二人とも無言になった。
この時行く手の方に一点の灯が見えた。
暗闇の中の黒猫の片眼のように光ってる。
カンテラの灯なら散らつくはずだが、ちっとも動かない。
距離もよく分らない。
方角も真直じゃないが、とにかく見える。
もし坑の中が一本道だとすれば、この灯を目懸けて、初さんも自分も進んで行くに違ない。
自分は何にも聞かなかったが、大方これが地獄の三丁目なんだろうと思って、這入って行った。
すると、だらだら坂がようやく尽きた。
路は平らに向うへ廻り込む。
その突き当りに例の灯が点いている。
さっきは鼻の下に見えたが、今では眼と擦々の所まで来た。
距離も間近くなった。
「いよいよ三丁目へ着いた」と、初さんが云う。
着いて見ると、坑が四五畳ほどの大さに広がって、そこに交番くらいな小屋がある。
そうしてその中に電気灯が点いている。
洋服を着た役人が二人ほど、椅子の対い合せに洋卓を隔てて腰を掛けていた。
表には第一見張所とあった。
これは坑夫の出入だの労働の時間だのを検査する所だと後から聞いて、始めて分ったんだが、その当時には何のための設備だか知らなかったもんだから、六七人の坑夫が、どす黒い顔を揃えて無言のまま、見張所の前に立っていたのを不審に思った。
これは時間を待ち合わして交替するためである。
自分は腰に鑿と槌を差してカンテラさえ提げてはいるが、坑夫志願というんで、シキの様子を見に這入っただけだから、まだ見習にさえ採用されていないと云う訳で、待ち合わす必要もないものと見えて、すぐこの溜を通り越した。
その時初さんが見張所の硝子窓へ首を突っ込んで、ちょいと役人に断ったが、役人は別に自分の方を見向もしなかった。
その代り立っていた坑夫はみんな見た。
しかし役人の前を憚ってだろう、全く一言も口を利いたものはなかった。
溜を出るや否や坑の様子が突然変った。
今までは立ってあるいても、背延びをしても届きそうにもしなかった天井が急に落ちて来て、真直に歩くと時々頭へ触るような気持がする。
これがものの二寸も低かろうものなら、岩へぶつかって眉間から血が出るに違ないと思うと、松原をあるくように、ありったけの背で、野風雑にゃやって行けない。
おっかないから、なるべく首を肩の中へ縮め込んで、初さんに食っついて行った。
もっともカンテラはさっき点けた。
すると三尺ばかり前にいる初さんが急に四ん這いになった。
おや、滑って転んだ。
と思って、後から突っ掛かりそうなところを、ぐっと足を踏ん張った。
このくらいにして喰い留めないと、坂だから、前へのめる恐がある。
心持腰から上を反らすようにして、初さんの起きるのを待ち合わしていると、初さんはなかなか起きない。
やっぱり這っている。
「どうか、しましたか」と後から聞いた。
初さんは返事もしない。
――はてな――怪我でもしやしないかしら――もう一遍聞いて見ようか――すると初さんはのこのこ歩き出した。
「何ともなかったですか」「這うんだ」「え?」「這うのだてえ事よ」と初さんの声はだんだん遠くなってしまう。
その声で自分は不審を打った。
いくら向うむきでも、普通なら明かに聞きとられべき距離から出るのに、急に潜ってしまう。
声が細いんじゃない。
当り前の初さんの声が袋のなかに閉じ込められたように曖昧になる。
こりゃただ事じゃないと気がついたから、透して見るとようやく分った。
今までは尋常に歩けた坑が、ここでたちまち狭くなって、這わなくっちゃ抜けられなくなっている。
その狭い入口から、初さんの足が二本出ている。
初さんは今胴を入れたばかりである。
やがて出ていた足が一本這入った。
見ているうちにまた一本這入った。
これで自分も四つん這いにならなくっちゃ仕方がないと諦めをつけた。
「這うんだ」と初さんの教えたのもけっして無理じゃないんだから、教えられた通り這った。
ところが右にはカンテラを提げている。
左の手の平だけを惜気もなく氷のような泥だか岩だかへな土だか分らない上へぐしゃりと突いた時は、寒さが二の腕を伝わって肩口から心臓へ飛び込んだような気持がした。
それでカンテラを下へ着けまいとすると、右の手が顔とすれすれになって、はなはだ不便である。
どうしたもんだろうと、この姿勢のままじっとしていた。
そうして、右の手で宙に釣っているカンテラを見た。
ところへぽたりと天井からしずくが垂れた。
カンテラの灯がじいと鳴った。
油煙が顎から頬へかかる。
眼へも這入った。
それでもこの灯を見詰めていた。
すると遠くの方でかあん、かあん、と云う音がする。
坑夫が作業をしているに違ないが、どのくらい距離があるんだか、どの見当にあたるんだか、いっこう分らない。
東西南北のある浮世の音じゃない。
自分はこの姿勢でともかくも二三歩歩き出した。
不便は無論不便だが、歩けない事はない。
ただ時々しずくが落ちてカンテラのじいと鳴るのが気にかかる。
初さんは先へ行ってしまった。
頼はカンテラ一つである。
そのカンテラがじいと鳴って水のために消えそうになる。
かと思うとまた明かるくなる。
まあよかったと安心する時分に、またぽたりと落ちて来る。
じいと鳴る。
消えそうになる。
非常に心細い。
実は今までも、しずくは始終垂れていたんだが、灯が腰から下にあるんで、いっこう気がつかなかったんだろう。
灯が耳の近くへ来て、じいと云う音が聞えるようになってから急に神経が起って来た。
だから這う方はなお遅くなる。
しかもまだ三足しか歩いちゃいない。
ところへ突然初さんの声がした。
「やい、好い加減に出て来ねえか。何をぐずぐずしているんだ。――早くしないと日が暮れちまうよ」 暗いなかで初さんはたしかに日が暮れちまうと云った。
自分は這いながら、咽喉仏の角を尖らすほどに顎を突き出して、初さんの方を見た。
すると一間ばかり向うに熊の穴見たようなものがあって、その穴から、初さんの顔が――顔らしいものが出ている。
自分があまり手間取るんで、初さんが屈んでこっちを覗き込んでるところであった。
この一間をどうして抜け出したか、今じゃ善く覚えていない。
何しろできるだけ早く穴まで来て、首だけ出すと、もう初さんは顔を引っ込まして穴の外に立っている。
その足が二本自分の鼻の先に見えた。
自分はやれ嬉しやと狭い所を潜り抜けた。
「何をしていたんだ」「あんまり狭いもんだから」「狭いんで驚いちゃ、シキへは一足だって踏ん込めっこはねえ。陸のように地面はねえ所だくらいは、どんな頓珍漢だって知ってるはずだ」 初さんはたしかに坑の中は陸のように地面のない所だと云った。
この人は時々思い掛けない事を云うから、今度もたしかにとただし書をつけて、その確実な事を保証して置くんである。
自分は何か云い訳をするたんびに、初さんから容赦なくやっつけられるんで、大抵は黙っていたが、この時はつい、「でもカンテラが消えそうで、心配したもんですから」と云っちまった。
すると初さんは、自分の鼻の先へカンテラを差しつけて、徐に自分の顔を検査し始めた。
そうして、命令を下した。
「消して見ねえ」「どうしてですか」「どうしてでも好いから、消して見ねえ」「吹くんですか」 初さんはこの時大きな声を出して笑った。
自分は喫驚して稀有な顔をしていた。
「冗談じゃねえ。何が這入てると思う。種油だよ、しずくぐらいで消てたまるもんか」 自分はこれでやっと安心した。
「安心したか。ハハハハ」と初さんがまた笑った。
初さんが笑うたんびに、坑の中がみんな響き出す。
その響が収まると前よりも倍静かになる。
ところへかあん、かあんとどこかで鑿と槌を使ってる音が伝わって来る。
「聞えるか」と、初さんが顋で相図をした。
「聞えます」と耳を峙てていると、たちまち催促を受けた。
「さあ行こう。今度あ後れないように跟いて来な」 初さんはなかなか機嫌がいい。
これは自分が一も二もなく初さんにやられているせいだろうと思った。
いくら手苛くきめつけられても、初さんの機嫌がいいうちは結構であった。
こうなると得になる事がすなわち結構という意味になる。
自分はこれほど堕落して、おめおめ初さんの尻を嗅いで行ったら、路が左の方に曲り込んでまた峻しい坂になった。
「おい下りるよ」と初さんが、後も向かず声を掛けた。
その時自分は何となく東京の車夫を思い出して苦しいうちにもおかしかった。
が初さんはそれとも気がつかず下り出した。
自分も負けずに降りる。
路は地面を刻んで段々になっている。
四五間ずつに折れてはいるが、勘定したら愛宕様の高さぐらいはあるだろう。
これは一生懸命になって、いっしょに降りた。
降りた時にほっと息を吐くと、その息が何となく苦しかった。
しかしこれは深い坑のなかで、空気の流通が悪いからとばかり考えた。
実はこの時すでに身体も冒されていたんである。
この苦しい息で二三十間来るとまた模様が変った。
今度は初さんが仰向けに手を突いて、腰から先を入れる。
腰から入れるような芸をしなければ通れないほど、坑の幅も高さも逼って来たのである。
「こうして抜けるんだ。好く見て置きねえ」と初さんが云ったと思ったら、胴も頭もずる、ずると抜けて見えなくなった。
さすが熟練の功はえらいもんだと思いながら、自分もまず足だけ前へ出して、草鞋で探を入れた。
ところが全く宙に浮いてるようで足掛りがちっともない。
何でも穴の向うは、がっくり落か、それでなくても、よほど勾配の急な坂に違ないと見当をつけた。
だから頭から先へ突っ込めばのめって怪我をするばかり、また足をむやみに出せば引っ繰り返るだけと覚ったから、足を棒のように前へ寝かして、そうして後へ手を突いた。
ところがこの所作がはなはだ不味かったので、手を突くと同時に、尻もべったり突いてしまった。
ぴちゃりと云った。
アテシコを伝わって臀部へ少々感じがあった。
それほど強く尻餅を搗いたと見える。
自分はしまったと思いながらも直両足を前の方へ出した。
ずるりと一尺ばかり振ら下げたが、まだどこへも届かない。
仕方がないから、今度は手の方を前へ運ばせて、腰を押し出すように足を伸ばした。
すると腿の所まで摺り落ちて、草鞋の裏がようやく堅いものに乗った。
自分は念のためこの堅いものをぴちゃぴちゃ足の裏で敲いて見た。
大丈夫なら手を離してこの堅いものの上へ立とうと云う料簡であった。
「何で足ばかり、ばたばたやってるんだ。大丈夫だから、うんと踏ん張って立ちねえな。意久地のねえ」と、下から初さんの声がする。
自分の胴から上は叱られると同時に、穴を抜けて真直に立った。
「まるで傘の化物のようだよ」と初さんが、自分の顔を見て云った。
自分は傘の化物とは何の意味だか分らなかったから、別に笑う気にもならなかった。
ただ「そうですか」と真面目に答えた。
妙な事にこの返事が面白かったと見えて、初さんは、また大きな声を出して笑った。
そうして、この時から態度が変って、前よりは幾分か親切になった。
偶然の事がどんな拍子で他の気に入らないとも限らない。
かえって、気に入ってやろうと思って仕出かす芸術は大抵駄目なようだ。
天巧を奪うような御世辞使はいまだかつて見た事がない。
自分も我が身が可愛さに、その後いろいろ人の御機嫌を取って見たが、どうも旨い結果が出て来ない。
相手がいくら馬鹿でも、いつか露見するから怖いもんだ。
用意をして置いた挨拶で、この傘の化物に対する返事くらいに成功した場合はほとんどない。
骨を折って失敗するのは愚だと悟ったから、近頃では宿命論者の立脚地から人と交際をしている。
ただ困るのは演舌と文章である。
あいつは骨を折って準備をしないと失敗する。
その代りいくら骨を折ってもやっぱり失敗する。
つまりは同じ事なんだが、骨を折った失敗は、人の気に入らないでも、自分の弱点が出ないから、まあ準備をしてからやる事にしている。
いつかは初さんの気に入ったような演説をしたり、文章を書いて見たいが、――どうも馬鹿にされそうでいけないから、いまだにやらずにいる。
――それはここには余計な事だから、このくらいでやめてまた初さんの話を続けて行く。
その時初さんは、笑いながら、下から、自分に向って、「おい、そう真面目くさらねえで、早く下りて来ねえな。日は短えやな」と云った。
坑の中でカンテラを点けた、初さんはたしかに日は短えやなと云った。
自分が土の段を一二間下りて、初さんの立ってる所まで行くと、初さんは、右へ曲った。
また段々が四五間続いている。
それを降り切ると、今度は初さんが左へ折れる。
そうしてまた段々がある。
右へ折れたり左へ折れたり稲妻のように歩いて、段々を――さあ何町降りたか分らない。
始めての道ではあるし、ことに暗い坑の中の事であるから自分には非常に長く思われた。
ようやく段々を降り切って、だいぶ浮世とは縁が遠くなったと思ったら急に五六畳の部屋に出た。
部屋と云っても坑を切り広げたもので、上と下がすぼまって、腹の所が膨らんでいるから、まるで酒甕の中へでも落込んだ有様である。
あとから分った話だが、これは作事場と云うんで、技師の鑑定で、ここには鉱脈があるとなると、そこを掘り拡げて作事場にするんである。
だから通り路よりは自然広い訳で、この作事場を坑夫が三人一組で、請負仕事に引受ける。
二週間と見積ったのが、四日で済む事もあり、高が五日くらいと踏んだ作事に半月以上食い込む事もある。
こう云う訳で、シキのなかに路ができて、路のはたに銅脈さえ見つかれば、御構なくそこだけを掘り抜いて行くんだから、電車の通るシキの入口こそ、平らでもあり、また一条でもあるが、下へ折れて第一見張所のあたりからは、右へも左へも条路ができて、方々に作事場が建つ。
その作事をしまうと、また銅脈を見つけては掘り抜いて行くんだから、シキの中は細い路だらけで、また暗い坑だらけである。
ちょうど蟻が地面を縦横に抜いて歩くようなものだろう。
または書蠹が本を食うと見立てても差し支ない。
つまり人間が土の中で、銅を食って、食い尽すと、また銅を探し出して食いにゆくんでむやみに路がたくさんできてしまったんである。
だから、いくらシキの中を通っても、ただ通るだけで作事場へ出なければ坑夫には逢わない。
かあんかあんという音はするが、音だけでは極めて淋しいものである。
自分は初さんに連れられて、シキへ這入ったが、ただシキの様子を見るのが第一の目的であったためか、廻り道をして作事場へは寄らなかったと見えて、坑夫の仕事をしているところは、この段々の下へ来て、初めて見た。
――稲妻形に段々を下りるときは、むやみに下りるばかりで、いくら下りても尽きないのみか、人っ子一人に逢わないものだから、はなはだ心細かったが、はじめて作事場へ出て、人間に逢ったら、大いに嬉しかった。
見ると丸太の上に腰をかけている。
数は三人だった。
丸太は四つや丸太で、軌道の枕木くらいなものだから、随分の重さである。
どうして、ここまで運んで来たかとうてい想像がつかない。
これは天井の陥落を防ぐため、少し広い所になると突っかい棒に張るために、シチュウが必要な作事場へ置いて行くんだそうだ。
その上に二人腰を掛けて、残る一人が屈んで丸太へ向いている。
そうして三人の間には小さな木の壺がある。
伏せてある。
一人がこの壺を上から抑えている。
三人が妙な叫び声を出した。
抑えた壺をたちまち挙げた。
下から賽が出た。
――ところへ自分と初さんが這入った。
三人はひとしく眼を上げて、自分と初さんを見た。
カンテラが土の壁に突き刺してある。
暗い灯が、ぎろりと光る三人の眼球を照らした。
光ったものは実際眼球だけである。
坑は固より暗い。
明かるくなくっちゃならない灯も暗い。
どす黒く燃えて煙を吹いている所は、濁った液体が動いてるように見えた。
濁った先が黒くなって、煙と変化するや否や、この煙が暗いものの中に吸い込まれてしまう。
だから坑の中がぼうとしている。
そうして動いている。
カンテラは三人の頭の上に刺さっていた。
だから三人のうちで比較的判然見えたのは、頭だけである。
ところが三人共頭が黒いので、つまりは、見えないのと同じ事である。
しかも三つとも集っていたから、なおさら変であったが、自分が這入るや否や、三つの頭はたちまち離れた。
その間から、壺が見えたんである。
壺の下から賽が見えたんである。
壺と、賽と、三人の異な叫び声を聞いた自分は、次に三人の顔を見たんである。
よくはわからない顔であった。
一人の男は頬骨の一点と、小鼻の片傍だけが、灯に映った。
次の男は額と眉の半分に光が落ちた。
残る一人は総体にぼんやりしている。
ただ自分の持っていた、カンテラを四五尺手前から真向に浴びただけである。
――三人はこの姿勢で、ぎろりと眼を据えた。
自分の方に。
ようやく人間に逢って、やれ嬉しやと思った自分は、この三対の眼球を見るや否や、思わずぴたりと立ち留った。
「手前は……」と云い掛けて、一人が言葉を切った。
残る二人はまだ口を開かない。
自分も立ち留まったなり、答えなかった。
――答えられなかった。
すると「新めえだ」と、初さんが、威勢のいい返事をしてくれた。
本当のところを白状すると、三人の眼球が光って、「手前は……」と聞かれた時は、初さんの傍にいる事も忘れて、ただおやっと思った。
立すくむと云うのはこれだろう。
立ちすくんで、硬くこわ張り掛けたところへ「新めえだ」と云う声がした。
この声が自分の左の耳の、つい後から出て、向うへ通り抜けた時、なるほど初さんがついてたなと思い出した。
それがため、こわ張りかけた手足も、中途でもとへ引き返した。
自分は一歩傍へ退いた。
初さんに前へ出てもらうつもりであった。
初さんは注文通り出た。
「相変らずやってるな」とカンテラを提げたまま、上から三人の真中に転がってる、壺と賽を眺めた。
「どうだ仲間入は」「まあよそう。今日は案内だから」と初さんは取り合わなかった。
やがて、四つや丸太の上へうんとこしょと腰をおろして、「少し休んで行くかな」と自分の方を見た。
立ちすくむまで恐ろしかった、自分は急に嬉しくなって元気が出て来た。
初さんの側へ腰をおろす。
アテシコの利目は、ここで始めて分った。
旨い具合に尻が乗って、柔らかに局部へ応える。
かつ冷えないで、結構だ。
実はさっきから、眼が少し眩らんで――眩らんだか、眩らまないんだか、坑の中ではよく分らないが、何しろ好い気持ではなかったが、こう尻を掛けて落ちつくと、大きに楽になる。
四人がいろいろな話をしている。
「広本へは新らしい玉が来たが知ってるか」「うん、知ってる」「まだ、買わねえか」「買わねえ、お前は」「おれか。おれは――ハハハハ」と笑った。
これは這入って来た時、顔中ぼんやり見えた男である。
今でもぼんやり見える。
その証拠には、笑っても笑わなくっても、顔の輪廓がほとんど同じである。
「随分手廻しがいいな」と初さんもいささか笑っている。
「シキへ這入ると、いつ死ぬか分らねえからな。だれだって、そうだろう」と云う答があった。
この時、「御互に死なねえうちの事だなあ」と一人が云った。
その語調には妙に咏嘆の意が寓してあった。
自分はあまり突然のように感じた。
そうしているうちに、一間置いて隣りの男が突然自分に話しかけた。
「御前はどこから来た」「東京です」「ここへ来て儲けようたって駄目だぜ」と他のが、すぐ教えてくれた。
自分は長蔵さんに逢うや否や儲かる儲かるを何遍となく聞かせられて驚いたが、飯場へ着くが早いか、今度は反対に、儲からない儲からないで立てつづけに責められるんで、大いに辟易した。
しかし地の底ではよもやそんな話も出まいと思ってここまで降りて来たが、人に逢えばまた儲からないを繰り返された。
あんまり馬鹿馬鹿しいんで何とか答弁をしようかとも考えたが、滅多な事を云えば擲りつけられるだけだから、まあやめにして置いた。
さればと云って返事をしなければまたやりつけられる。
そこで、こう云った。
「なぜ儲からないんです」「この銅山には神様がいる。いくら金を蓄めて出ようとしたって駄目だ。金は必ず戻ってくる」「何の神様ですか」と聞いて見たら、「達磨だ」と云って、四人ながら面白そうに笑った。
自分は黙っていた。
すると四人は自分を措いてしきりに達磨の話を始めた。
約十分余りも続いたろう。
その間自分はほかの事を考えていた。
いろいろ考えたうちに一番感じたのは、自分がこんな泥だらけの服を着て、真暗な坑のなかに屈んでるところを、艶子さんと澄江さんに見せたらばと云う問題であった。
気の毒がるだろうか、泣くだろうか、それともあさましいと云って愛想を尽かすだろうかと疑って見たが、これは難なく気の毒がって、泣くに違ないと結論してしまった。
それで一目くらいはこの姿を二人に見せたいような気がした。
それから昨夜囲炉裏の傍でさんざん馬鹿にされた事を思い出して、あの有様を二人に見せたらばと考えた。
ところが今度は正反対で、二人共傍にいてくれないで仕合せだと思った。
もし見られたらと想像して眼前に、意気地のない、大いに苛められている自分の風体と、ハイカラの女を二人描き出したら、はなはだ気恥ずかしくなって腋の下から汗が出そうになった。
これで見ると、坑夫に堕落すると云う事実その物はさほど苦にならぬのみか、少しは得意の気味で、ただ坑夫になりたての幅の利かないところだけを、女に見せたくなかった訳になる。
自分の器量を下げるところは、誰にも隠したいが、ことに女には隠したい。
女は自分を頼るほどの弱いものだから、頼られるだけに、自分は器量のある男だと云う証拠をどこまでも見せたいものと思われる。
結婚前の男はことにこの感じが深いようだ。
人間はいくら窮した場合でも、時々は芝居気を出す。
自分がアテシコを臀に敷いて、深い坑のなかで、カンテラを提げたまま、休んだ時の考えは、全く芝居じみていた。
ある意味から云うと、これが苦痛の骨休めである。
公然の骨休めとも云うべき芝居は全くここから発達したものと思う。
自分は発達しない芝居の主人公を腹の中で演じて、落胆しながら得意がっていた。
ところへ突然肺臓を打ち抜かれたと思うくらいの大きな音がした。
その音は自分の足の下で起ったのか、頭の上で起ったのか、尻を懸けた丸太も、黒い天井も一度に躍り上ったから、分からない。
自分の頸と手と足が一度に動いた。
縁側に脛をぶらさげて、膝頭を丁と叩くと、膝から下がぴくんと跳ねる事がある。
この時自分の身体の動き方は全くこれに似ている。
しかしこれよりも倍以上劇烈に来たような気がした。
身体ばかりじゃない、精神がその通りである。
一人芝居の真最中でとんぼ返りを打って、たちまち我れに帰った。
音はまだつづいている。
落雷を、土中に埋めて、自由の響きを束縛したように、渋って、焦って、陰に籠って、抑えられて、岩にあたって、包まれて、激して、跳ね返されて、出端を失って、ごうと吼えている。
「驚いちゃいけねえ」と初さんが云った。
そうして立ち上がった。
自分も立ち上がった。
三人の坑夫も立ち上がった。
「もう少しだ。やっちまうかな」と、鑿を取り上げた。
初さんと自分は作事場を出る。
ところへ煙が来た。
煙硝の臭が、眼へも鼻へも口へも這入った。
噎せっぽくって苦しいから、後を向いたら、作事場ではかあん、かあんともう仕事を始めだした。
「なんですか」と苦しい中で、初さんに聞いて見た。
実はさっきの音が耳に応えた時、こりゃ坑内で大破裂が起ったに違ないから、逃げないと生命が危ないとまで思い詰めたくらいだのに、初さんはますます深く這入る気色だから、気味が悪いとは思ったが、何しろ自由行動のとれる身体ではなし、精神は無論独立の気象を具えていないんだから、いかに先輩だって逃げていい時分には、逃げてくれるだろうと安心して、後をつけて出ると、むっとするほどの煙が向うから吹いて来たんで、こりゃ迂濶深入はできないわと云う腹もあって、かたがた後を向く途端に、さっきの連中がもう、煙の中でかあん、かあん、鉱を叩いているのが聞えたんで、それじゃやっぱり安心なのかと、不審のあまりこの質問を起して見たんである。
すると初さんは、煙の中で、咳を二つ三つしながら、「驚かなくってもいい。ダイナマイトだ」と教えてくれた。
「大丈夫ですか」「大丈夫でねえかも知れねえが、シキへ這入った以上、仕方がねえ。ダイナマイトが恐ろしくっちゃ一日だって、シキへは這入れねえんだから」 自分は黙っていた。
初さんは煙の中を押し分けるようにずんずん潜って行く。
満更苦しくない事もないんだろうが、一つは新参の自分に対して、景気を見せるためじゃないかと思った。
それとも煙は坑から坑へ抜け切って、陸の上なら、大抵晴れ渡った時分なのに、路が暗いんでいつまでも煙が這ってるように感じたり噎せっぽく思ったのかも知れない。
そうすると自分の方が悪くなる。
いずれにしても苦いところを我慢して尾いて行った。
また胎内潜りのような穴を抜けて、三四間ずつの段々を、右へ左へ折れ尽すと、路が二股になっている。
その条路の突き当りで、カラカラランと云う音がした。
深い井戸へ石片を抛げ込んだ時と調子は似ているが、普通の井戸よりも、遥に深いように思われた。
と云うものは、落ちて行く間に、側へ当って鳴る音が、冴えている。
ばかりか、よほど長くつづく。
最後のカラランは底の底から出て、出るにはよほど手間がかかる。
けれども一本道を、真直に上へ抜けるだけで、ほかに逃道がないから、どんなに暇取っても、きっと出てくる。
途中で消えそうになると、壁の反響が手伝って、底で出ただけの響は、いかに微な遠くであっても、洩らすところなく上まで送り出す。
――ざっとこんな音である。
カラララン。
カカラアン。
…… 初さんが留った。
「聞えるか」「聞えます」「スノコへ鉱を落してる」「はああ……」「ついでだからスノコを見せてやろう」と、急に思いついたような調子で、勢いよく初さんが、一足後へ引いて草鞋の踵を向け直した。
自分が耳の方へ気を取られて、返事もしないうちに、初さんは右へ切れた。
自分も続いて暗いなかへ這入る。
折れた路はわずか四尺ほどで行き当る。
ところをまた右へ廻り込むと、一間ばかり先が急に薄明るく、縦にも横にも広がっている。
その中に黒い影が二つあった。
自分達がその傍まで近づいた時、黒い影の一つが、左の足と共に、精一杯前へ出した力を後へ抜く拍子に、大きな箕を、斜に抛げ返した。
箕は足掛りの板の上に落ちた。
カカン、カラカランと云う音が遠くへ落ちて行く。
一尺前は大きな穴である。
広さは畳二畳敷ぐらいはあるだろう。
箕に入れたばらの鉱を、掘子が抛げ込んだばかりである。
突き当りの壁は突立っている。
微なカンテラに照らされて、色さえしっかり分らない上が、一面に濡れて、濡れた所だけがきらきら光っている。
「覗いて見ろ」 初さんが云った。
穴の手前が三尺ばかり板で張り詰めてある。
自分は板の三分の一ほどまで踏み出した。
「もっと、出ろ」と初さんが後から催促する。
自分は躊躇した。
これでさえ踏板が外れれば、どこまで落ちて行くか分らない。
ましてもう一尺前へ出れば、いざと云う時、土の上へ飛び退く手間が一尺だけ遅くなる。
一尺は何でもないようだが、ここでは平地の十間にも当る。
自分は何分にも躊躇した。
「出ろやい。吝な野郎だな。そんな事で掘子が勤まるかい」と云われた。
これは初さんの声ではなかった。
黒い影の一人が云ったんだろう。
自分は振り返って見なかった。
しかし依然として足は前へ出なかった。
ただ眼だけが、露で光った薄暗い向うの壁を伝わって、下の方へ、しだいに落ちて行くと、約一間ばかりは、どうにか見えるが、それから先は真暗だ。
真暗だからどこまで視線に這入るんだか分らない。
ただ深いと思えば際限もなく深い。
落ちちゃ大変だと神経を起すと、後から背中を突かれるような気がする。
足は依然としてもとの位地を持ち応えていた。
すると、「おい邪魔だ。ちょっと退きな」と声を掛けられたんで、振り向くと、一人の掘子が重そうに俵を抱えて立っている。
俵の大きさは米俵の半分ぐらいしかない。
しかし両手で底を受けて、幾分か腰で支えながら、うんと気合を入れているところは、全く重そうだ。
自分はこの体を見て、すぐ傍へ避けた。
そうして比較的安全な、板が折れても差支なく地面へ飛び退けるほどの距離まで退いた。
掘子は、俵で眼先がつかえてるから定めし剣呑がるだろうと思いのほか、容赦なく重い足を運ばして前へ出る。
縁から二尺ばかり手前まで出て、足を揃えたから、もう留まるだろうと見ていると、また出した。
余る所は一尺しきゃあない。