坑夫

8/8

その一万人はことごとく理非人情を解しない畜類の発達した化物とのみ思い詰めたこの時、この人に逢ったのは全くの小説である。夏の土用に雪が降ったよりも、坑の中で安さんに説諭された方が、よほどの奇蹟のように思われた。大晦日を越すとお正月が来るくらいは承知していたが、地獄で仏と云う諺も記憶していたが、窮まれば通ずという熟語も習った事があるが、困った時は誰か来て助けてくれそうなものだくらいに思って、芝居気を起しては困っていた事もたびたびあるが、――この時はまるで違う。真から一万人を畜生と思い込んで、その畜生がまたことごとく自分の敵だと考え詰めた最強度の断案を、忘るべからざる痛忿の焔で、胸に焼きつけた折柄だから、なおさらこの安さんに驚かされた。同時に安さんの訓戒が、自分の初志を一度に翻えし得るほどの力をもって、自分の耳に応えた。

第 8 章
しばらくは二人ふたりして黙っだまっていた。
安あんさんは一応いちおう云ういうだけの事ことを云っいってしまったんだから、口くちを利かりかないはずであるが、自分じぶんは先方せんぽうに対したいして、何なんとか返事へんじをする義務ぎむがある。
義務ぎむをかいては安あんさんに済ますまない。
心底しんそこから感謝かんしゃの意いを表しあらわした上うえで、自分じぶんの考えかんがえも少しすこし聞いきいてもらいたいのは山々やまやまであったが、何分なんふんにも鼻はなの奥おくが詰っなじって不自由ふじゆうである。
しかも強いてしいて言葉ことばを出そうでそうとすると、口くちへ出でないで鼻はなへ抜けぬけそうになる。
それを我慢がまんすると、唇くちびるの両端りょうたんがむずむずして、小鼻こばながぴくついて来るくる。
やがて鼻はなと口くちを塞かさいかれた感動かんどうが、出端ではなを失っうしなって、眼めの中なかにたまって来きた。
睫まつげが重くおもくなる。
瞼まぶたが熱くあつくなる。
大におおいに困っこまった。
安あんさんも妙みょうな顔かおをしている。
二人ふたりともばつが悪くわるくなって、差し向いさしむかいで胡坐こざをかいたまま、黙っだまっていた。
その時じ次つぎの作事さくじ場ばで鉱こうを敲くたたく音おとがかあんかあん鳴っなった。
今いま考えるかんがえると、自分じぶんと安あんさんが黙然もくぜんと顔かおを見合せみあわせていた場所ばしょは、地面じめんの下した何百なんびゃく尺さしくらいな深さふかさだか、それを正確せいかくに知っしって置きおきたかった。
都会とかいでも、こんな奇遇きぐうは少いすくない。
銅山どうざんの中なかでは有ろうあろうはずがない。
日ひの照らてらない坑こうの底そこで、世よから、人ひとから、歴史れきしから、太陽たいようからも、忘れわすれられた二人ふたりが、ありがたい誨を垂れたれて、尊みこととい涙なみだを流しながした舞台ぶたいがあろうとは、胡坐こざをかいて、黙然もくぜんと互たがいに顔かおを見守っみまもっていた本人ほんにんよりほかに知るしるものはあるまい。
安あんさんはまた煙草たばこを呑みのみ出しだした。
ぷかりぷかりと煙けむりが出でた。
その煙けむりが濃くこく出でては暗がりくらがりに消えきえ、濃くこく出でては暗がりくらがりに消えるきえる間まに、自分じぶんはようやく声こえが自由じゆうになった。
「ありがたいです。なるほどあなたのおっしゃる通りとおり人間にんげんのいる所ところじゃないでしょう。僕ぼくもあなたに逢うあうまでは、今日きょう限りかぎり銅山どうざんを出ようでようかと思っおもってたんです。……」 さすが山やまを出でて死ぬしぬつもりだったとは云いいいかねたから、ここでちょっと句くを切っきったら、「そりゃなおさらだ。さっそく帰るかえるがいい」と、安あんさんが勢いいきおいをつけてくれた。
自分じぶんはやっぱり黙っだまっていた。
すると、「だから旅費りょひはおれが拵えこしらえてやるから」と云ういう。
自分じぶんはさっきから旅費りょひ旅費りょひと聞かさきかされるのを、ただ善意ぜんいに解釈かいしゃくしていたが、さればと云っいって毫もごうも貰うもらう気きは起らおこらなかった。
昨日きのう飯場はんば頭あたまの合力ごうりきを断っことわった時じの料簡りょうけんと同じおなじかと云ういうと、それとも違うちがう。
昨日きのうは是非ぜひ貰いもらいたかった、地平ちへいへ手てを突いついてまで貰いもらいたかった。
しかし草鞋銭わらじせんを貰うもらうよりも、坑夫こうふになる方ほうが得とくだと勘定かんじょうしたから、手てを出しだして頂きいただきたいところを、無理むりに断っことわったんである。
安あんさんの旅費りょひは始めはじめから貰いもらいたくない。
好意こういを空しくむなしくすると云ういう点てんから見れみれば、貰わもらわなければ済ますまないし、坑夫こうふをやめるとすれば貰うもらう方ほうが便利べんりだが、それにもかかわらず貰いもらいたくなかった。
これは今いまから考えるかんがえると、全くまったく向うむこうの人格じんかくに対したいして、貰っもらっては恥ずはずべき事ことだ、こちらの人格じんかくが下がるさがるという念ねんから萌しきざしたものらしい。
先方せんぽうがいかにも立派りっぱだから、こっちも出来るだけできるだけ立派りっぱにしたい、立派りっぱにしなければ、自分じぶんの体面たいめんを損うそこなう虞おそれがある。
向うむこうの好意こういを享けうけて、相当そうとうの満足まんぞくを先方せんぽうに与えるあたえるのは、こちらも悦ばしいよろこばしいが、受けるうけるべき理由りゆうがないのに、濫りみだりに自己じこの利得りとくのみを標準ひょうじゅんに置くおくのは、乞食こじきと同どう程度ていどの人間にんげんである。
自分じぶんはこの尊敬そんけいすべき安あんさんの前まえで、自分じぶんは乞食こじきである、乞食こじき以上いじょうの人物じんぶつでないと云ういう事実上じじつじょうの証明しょうめいを与えるあたえるに忍びしのびなかった。
年ねんが若いわかいと馬鹿ばかな代りかわりに存外ぞんがい奇麗きれいなものである。
自分じぶんは「旅費りょひは頂きいただきません」と断っことわった。
この時安じやすさんは、煙草たばこを二三にさんぶく吸きゅうして、煙管きせるを筒つつへ入れいれかけていたが、自分じぶんの顔かおをひょいと見みて「こりゃ失敬しっけいした」と云っいったんで、自分じぶんは非常ひじょうに気の毒きのどくになった。
もしやるから貰っもらって置けおけとでも強いつよいられたならきっと受けうけたに違いない。
その後あと気きをつけて、人ひとが金きんを貰うもらうところを見みていると、始めはじめは一応いちおう辞退じたいして、後あとでは大抵たいてい懐ふところへ入れるいれるようだが、これは全くまったくこの心理状態しんりじょうたいの発達はったつした形式けいしきに過ぎすぎないんだろうと思うおもう。
幸いさいわい安あんさんがえらい男おとこで、「こりゃ失敬しっけいした」と云っいってくれたんで、自分じぶんはこの形式けいしきに陥らおちいらずに済んすんだのはありがたかった。
安あんさんはすぐさま旅費りょひの件けんを撤回てっかいして「だが東京とうきょうへは帰るかえるだろうね」と聞き直しききなおした。
自分じぶんは、死ぬしぬ決心けっしんが少々しょうしょう鈍っにぶった際さいだから、ことによれば、旅費りょひだけでも溜めためた上うえ、帰るかえる事ことにしようと云ういう腹はらもあったんで、「よく考えかんがえて見みましょう。いずれその中なかまた御ご相談そうだんに参りまいりますから」と答えこたえた。
「そうか。それじゃ、とにかく路みちの分るわかる所ところまで送っおくってやろう」と煙けむり草入くさいりを股引ももひきへ差し込んさしこんで、上うえから筒つつ服ふくの胴どうを被せかぶせた。
自分じぶんはカンテラかんてらを提げさげて腰こしを上げあげた。
安あんさんが先さきへ立つたつ。
坑こうは存外ぞんがい登りのぼり安かっやすかった。
例れいの段々だんだんを四五しご遍へん通り抜けとおりぬけて、二に度どほど四つん這いよつんばいになったら、かなり天井てんじょうの高いたかい、真直まっすぐに立ったって歩けるあるけるような路みちへ出でた。
それをだらだらと廻りまわり込んこんで、右みぎの方ほうへ登り詰めるのぼりつめると、突然とつぜん第一だいいち見張みはり所ところの手前てまえへ出でた。
安あんさんは電気灯でんきとうの見えるみえる所ところで留っとめった。
「じゃ、これで別れようわかれよう。あれが見張みはり所ところだ。あすこの前まえを右みぎへついて上がるあがると、軌道きどうの敷いしいてある所ところへ出るでる。それから先さきは一いち本道ほんどうだ。おれはまだ時間じかんが早いはやいから、もう少しすこし働いはたらいてからでなくっちゃあ出でられない。晩ばんには帰るかえる。五ご時じ過すぎならいるから、暇ひまがあったら来るくるがいい。気きをつけて行きいきたまえ。さようなら」 安あんさんの影かげはたちまち暗いくらい中なかへ這入っはいった。
振り向いふりむいて、一口ひとくち礼れいを云っいった時じは、もうカンテラかんてらが角かくを曲っきょくっていた。
自分じぶんは一人ひとりでシキしきの入口いりぐちを出でた。
ふらふら長屋ながやまで帰っかえって来るくる。
途中とちゅうでいろいろ考えかんがえた。
あの安あんさんと云ういう男おとこが、順当じゅんとうに社会しゃかいの中なかで伸びのびて行っいったら、今頃いまごろは何なんに成っなっているか知らしらないが、どうしたって坑夫こうふより出世しゅっせしているに違いない。
社会しゃかいが安あんさんを殺しころしたのか、安あんさんが社会しゃかいに対したいして済ますまない事ことをしたのか――あんな男おとこらしい、すっきりした人ひとが、そうむやみに乱暴らんぼうを働くはたらく訳わけがないから、ことによると、安あんさんが悪いわるいんでなくって、社会しゃかいが悪いわるいのかも知れしれない。
自分じぶんは若年じゃくねんであったから、社会しゃかいとはどんなものか、その当時とうじ明瞭めいりょうに分らわからなかったが、何しろなにしろ、安あんさんを追い出すおいだすような社会しゃかいだから碌なろくなもんじゃなかろうと考えかんがえた。
安あんさんを贔屓ひいきにするせいか、どうも安あんさんが逃げにげなければならない罪つみを犯しおかしたとは思わおもわれない。
社会しゃかいの方ほうで安あんさんを殺しころしたとしてしまわなければ気きが済ますまない。
その癖くせ今いま云ういう通りとおり社会しゃかいとは何者なにものだか要領ようりょうを得とくない。
ただ人間にんげんだと思っおもっていた。
その人間にんげんがなぜ安あんさんのような好いよい人ひとを殺しころしたのかなおさら分らわからなかった。
だから社会しゃかいが悪いわるいんだと断定だんていはして見みたが、いっこう社会しゃかいが憎らしくにくらしくならなかった。
ただ安あんさんが可哀想かわいそうであった。
できるなら自分じぶんと代っかわってやりたかった。
自分じぶんは自分じぶんの勝手かってで、自分じぶんを殺しころしにここまで来きたんである。
厭いやになれば帰っかえっても差支さしつかえない。
安あんさんは人間にんげんから殺さころされて、仕方なししかたなしにここに生きいきているんである。
帰ろうかえろうたって、帰るかえる所ところはない。
どうしても安あんさんの方ほうが気の毒きのどくだ。
安あんさんは堕落だらくしたと云っいった。
高等こうとう教育きょういくを受けうけたものが坑夫こうふになったんだから、なるほど堕落だらくに違いない。
けれどもその堕落だらくがただ身分みぶんの堕落だらくばかりでなくって、品性ひんせいの堕落だらくも意味いみしているようだから痛ましいいたましい。
安あんさんも達磨だるまに金きんを注ぎ込むそそぎこむのかしら、坑こうの中なかで一六いちろく勝負しょうぶをやるのかしら、ジャンボーじゃんぼを病人びょうにんに見せみせて調ちょう戯たわむれうのかしら、女房にょうぼうを抵当ていとうに――まさか、そんな事こともあるまい。
昨日きのう着きつき立てたての自分じぶんを見みて愚弄ぐろうしないもののないうちで、安あんさんだけは暗いくらい穴あなの底そこながら、十分じゅうふん自分じぶんの人格じんかくを認めみとめてくれた。
安あんさんは坑夫こうふの仕事しごとはしているが、心こころまでの坑夫こうふじゃない。
それでも堕落だらくしたと云っいった。
しかもこの堕落だらくから生涯しょうがい出るでる事ことができないと云っいった。
堕落だらくの底そこに死んしんで活きつきてるんだと云っいった。
それほど堕落だらくしたと自覚じかくしていながら、生きいきて働いはたらいている。
生きいきてかんかん敲いたたいている。
生きいきて――自分じぶんを救おうすくおうとしている。
安あんさんが生きいきてる以上いじょうは自分じぶんも死んしんではならない。
死ぬしぬのは弱いよわい。
…… こう決心けっしんをして、何なんでも構わかまわないから、ひとまず坑夫こうふになった上うえとして、できるだけ急ぎ足いそぎあしで帰っかえって来るくると、長屋ながやの半丁はんちょうばかり手前てまえに初はつさんが石いしへ腰こしを掛けかけて待っまっている。
雨あめは歇んやすんだ。
空そらはまだ曇っくもっているが、濡れるぬれる気遣きづかいはない。
山やまから風かぜが吹いふいて来るくる。
寒くさむくても、世界せかいの明かるいあかるいのが、非常ひじょうに嬉しいうれしい。
自分じぶんが嬉しさうれしさの余りあまり、疲れつかれた足あしを擦りすりながら、いそいそ近づいちかづいてくると、初はつさんは奇怪きっかいな顔かおをして、「やあ出でて来きたな。よく路みちが分っわかったな」と云っいった。
自分じぶんが案内あんないにつけられながら、他ほかを置き去りおきざりにして、何なんとかして何なんとか、てててててと云ういう唄うたをうたって、大いにおおいに焦しこがして置いおいて、他ほかが大おお迷めいつきに、迷めいついて、穴あなの角かくへ頭あたまをぶっつけて割っわりって見ようみようとまで思っおもったあげく、やっとの事ことで安あんさんの御ご情じょうで出でて来れこれば、「よく路みちが分っわかったな」と空とぼけそらとぼけている。
その癖くせ親方おやかたが怖いこわいものだから、途中とちゅうで待ち合せまちあわせて、いっしょに連れつれて帰ろうかえろうと云ういう目算もくさんである。
自分じぶんは石いしへ腰こしを掛けかけて薄笑いうすわらいをしているこの案内あんないの頭あたまの上うえへ唾液だえきを吐きはきかけてやろうかと思っおもった。
しかし自分じぶんは死ぬしぬのを断念だんねんしたばかりである。
当分とうぶんはここに留まらとどまらなくっちゃならない身体しんたいである。
唾液だえきを吐きはきかければ、喧嘩けんかになるだけである。
喧嘩けんかをすれば負けるまけるだけである。
負けまけた上うえにスノコすのこの中なかへぶちこまれてはせっかく死ぬしぬのを断念だんねんした甲斐かいがない。
そこで、こう云ういう答こたえをした。
「どうか、こうか出でて来きました」 すると初はつさんはなおさら不思議ふしぎな顔かおをして、「へえ。感心かんしんだね。一人ひとりで出でて来きたのか」と聞いきいた。
その時じ自分じぶんは年ねんの割わりにはうまくやった。
旨くうまくやったと云ういうくらいだから、ただ自分じぶんの損そんにならないようにと云ういうだけで、それより以外いがいに賞めるほめる価値かちのある所作しょさじゃないが、とにかく十九じゅうきゅうにしては、なかなか複雑ふくざつな曲者くせものだと思うおもう。
と云ういうのは、こう聞かきかれた時じに、安あんさんの名前なまえがつい咽喉のどの先さきまで出でたんである。
ところをとうとう云わいわずにしまったのが自慢じまんなのだ。
随分ずいぶんくだらない自慢じまんだが訳わけを話せはなせば、こんな料簡りょうけんであった。
山中やまなか組くみの安あんさんは勢力せいりょくのある坑夫こうふに違いない。
この安あんさんがわざわざ第一だいいち見張みはり所ところの傍そばまで見みず知らしらずの自分じぶんを親切しんせつに連れつれて来きてくれたと云ういう事ことが知れ渡れしれわたれば、この案内者あんないしゃは面目めんぼくを失ううしなうにきまっている。
責任せきにんのある自分じぶんが、責任せきにんを抛り出しほうりだして、先さきへ坑こうを飛び出しとびだしてしまったと分るわかる以上いじょうは――しかもそれが悪意あくいから出でたと明瞭めいりょうに証拠しょうこだてられる以上いじょうは、こいつは親方おやかたに対したいして済ましすましちゃいられない。
となると後あとできっと敵てきを打つうつだろう。
無責任むせきにんが露ろ見るみるのは痛快つうかいだが――自分じぶんはけっして寛大かんだいの念ねんに制せせいせられたなんて耶蘇教やそきょう流りゅうの嘘うそはつかない。
――そこまでは痛快つうかいだが、敵てき打だは大におおいに迷惑めいわくする。
実じつのところ自分じぶんはこの迷惑めいわくの念ねんに制せせいせられた。
それで、「ええ、いろいろ路みちを聞いきいて出でて来きました」とおとなしい返事へんじをして置いおいた。
初はつさんは半分はんぶん失望しつぼうしたような、半分はんぶん安心あんしんしたような顔つきかおつきをしたが、やがて石いしから腰こしを上げあげて、「親方おやかたの所ところへ行こういこう」とまた歩きあるき出しだした。
自分じぶんは黙っだまって尾おいて行っいった。
昨日きのう親方おやかたに逢っあったのは飯場はんばだが、親方おやかたの住んすんでる所ところは別べつにある。
長屋ながやの横よこを半丁はんちょうほど上るのぼると、石垣いしがきで二方にほうの角かくを取っとって平たいらした地面じめんの上うえに二に階かい建けんがある。
家いえはさほど見苦しくみぐるしくもないが、家いえのほかには木きも庭にわもない。
相そう変らかわらず二に階かいの窓まどから悪魔あくまが首くびを出しだしている。
入口いりぐちまで来きて、初はつさんが外そとから声こえを掛けるかけると、窓まどをがらりと開けあけて、飯場はんば頭あたまが顔かおを出しだした。
米利べいり安あんの襯衣の上うえへどてらを着きたままである。
「帰っかえったか。御苦労ごくろうだった。まああっちへ行っいって休みやすみねえ」と云ういうが早いはやいか初はつさんは消えきえてなくなった。
後あとは二人ふたりになる。
親方おやかたは窓まどの中なかから、自分じぶんは表ひょうに立ったったまま、談話だんわをした。
「どうです」「大概たいがい見みて来きました」「どこまで降りふりました」「八はち番ばん坑こうまで降りふりました」「八はち番ばん坑こうまで。そりゃ大変たいへんだ。随分ずいぶんひどかったでしょう。それで……」と心持こころもち首くびを前まえの方ほうへ出しだした。
「それで――やっぱりいるつもりです」「やっぱり」と繰り返しくりかえしたなり、飯場はんば頭あたまはじっと自分じぶんの顔かおを見みていた。
自分じぶんも黙っだまって立ったっていた。
二に階かいからは依然いぜんとして首くびが出でている。
おまけに二につばかり殖えふえた。
この顔かおを見るみると、厭いやで厭いやでたまらない。
飯場はんばへ帰っかえってから、この顔かおに取り巻かとりまかれる事ことを思い出すおもいだすと、ぞっとする。
それでもいる気きである。
どんな辛抱しんぼうをしてもいる気きである。
しかし「やっぱりいるつもりです」と断然だんぜん答えこたえて置いおいて、二に階かいの顔かおを不意ふいに見上げみあげた時じには、さすがに情なかっなさけなかった。
こんな奴やつといっしょに置いおいてくれと、手てを合せあわせて拝まおがまなければ始末しまつがつかないようになり下がっなりさがったのかと思うおもうと、身体しんたいも魂たましいも塩しおを懸けかけた海鼠なまこのようにたわいなくなった。
その時じ飯場はんば頭あたまはようやく口くちを利いきいた。
奇麗きれいさっぱりと利いきいた。
「じゃ置くおく事ことにしよう。だが規則きそくだから、医者いしゃに一いち遍へん見みて貰っもらってね。健康けんこうの証明書しょうめいしょを持っもって来きなくっちゃいけない。――今日きょうと――今日きょうは、もう遅いおそいから、明日あすの朝あさ、行っいって見みて貰っもらったらよかろう。――診察しんさつ場ばかい。診察しんさつ場ばはこれから南みなみの方ほうだ。上がっあがって来るくる時じ、見えみえたろう。あの青いあおいペンキぺんき塗りぬりの家いえだ。じゃ今日きょうは疲れつかれたろうから、飯場はんばへ帰っかえって緩くゆるくり御ご休みやすみ」と云っいって窓まどを閉へいてた。
窓まどを閉へいてる前まえに自分じぶんはちょっと頭あたまを下げさげて、飯場はんばへ引返しひきかえした。
緩かんくり御ご休きゅうと云っいってくれた飯場はんば頭あたまの親切しんせつはありがたいが、緩かんくり寝ねられるくらいなら、こんなに苦しみくるしみはしない。
起きおきていれば獰猛ねいもう組くみ、寝れねれば南京虫なんきんむしに責めせめられるばかりだ。
たまたま飯めしの蓋ふたを取れとれば咽喉のどへ通らとおらない壁土かべつちが出でて来るくる。
――しかしいる。
いるときめた以上いじょうは、どうしてもいて見せるみせる。
少くすくなくとも安あんさんが生きいきてるうちはいる。
シキしきの人間にんげんがみんな南京虫なんきんむしになっても、安あんさんさえ生きいきて働いはたらいてるうちは、自分じぶんも生きいきて働くはたらく考えかんがえである。
こう考えかんがえながら半丁はんちょうほどの路みちを降りふりて飯場はんばへ帰っかえって、二に階かいへ上がっあがった。
上がるあがると案のじょうあんのじょう大勢おおぜい囲炉裏いろりの傍そばに待ち構えまちかまえている。
自分じぶんはくさくさしたが、できるだけ何なん喰わくわぬ顔かおをして、邪魔じゃまにならないような所ところへ坐っすわった。
すると始まっはじまった。
皮肉ひにくだか、冷評れいひょうだか、罵詈ばりだか、滑稽こっけいだか、のべつに始まっはじまった。
一々いちいち覚えおぼえている。
生涯しょうがい忘れわすれられないほどに、自分じぶんの柔らかいやわらかい頭あたまを刺激しげきしたから、よく覚えおぼえている。
しかし一々いちいち繰返すくりかえす必要ひつようはない。
まず大体だいたい昨日きのうと同じおなじ事ことと思えおもえば好いよい。
自分じぶんは急きゅうに安あんさんに逢いあいたくなった。
例れいの夕食ゆうしょくを我慢がまんして二に杯さかずき食っしょくって、みんなの眼めにつかないようにそっと飯場はんばを抜け出しぬけだした。
山中やまなか組くみはジャンボーじゃんぼの通っとおった石垣いしがきの間まを抜けぬけて、だらだら坂さかの降りふり際さいを、右みぎへ上るのぼると斜しゃに頭あたまの上うえに被さっかぶさっている大きなおおきな槐えんじゅの奥おくにある。
夕暮ゆうぐれの門口かどぐちを覗いのぞいたら、一人ひとりの掘子ほりこがカンテラかんてらの灯あかりで筒つつ服ふくの掃除そうじをしていた。
中なかは存外ぞんがい静かしずかである。
「安あんさんは、もうお帰りかえりになりましたか」と叮嚀ていねいに聞くきくと、掘子ほりこは顔かおを上げあげてちょいと自分じぶんを見みたまま、奥おくを向いむかいて、「おい、安あんさん、誰だれか尋ねたずねて来きたよ」と呼び出しよびだしにかかるや否いなや、安あんさんは待っまってたと云わいわんばかりに足音あしおとをさせて出でて来きた。
「やあ来きたな。さあ上れのぼれ」 見るみると安あんさんは唐桟とうざんの着物きものに豆まめ絞しぼりか何になんにかの三さん尺さしを締めしめて立ったっている。
まるで東京とうきょうの馬丁ばていのような服装ふくそうである。
これには少しすこし驚いおどろいた。
安あんさんも自分じぶんの様子ようすを眺めながめて首くびを傾げかしげて、「なるほど東京とうきょうを走っはしったまんまの服装ふくそうだね。おれも昔むかしはそう云ういう着物きものを着きたこともあったっけ。今いまじゃこれだ」と両袖りょうそでの裄ゆきを引っ張っひっぱって見せるみせる。
「何なんと見えるみえる。車引くるまひきかな」と云ういうから、自分じぶんは遠慮えんりょしてにやにや笑っわらっていた。
安あんさんは、「ハハハハはははは根性こんじょうはこれよりまだ堕落だらくしているんだ。驚いおどろいちゃいけない」 自分じぶんは何なんと答えこたえていいか分らわからないから、やはりにやにや笑っわらって立ったっていた。
この時分じぶんは手持無沙汰てもちむさたでさえあればにやにやして済ましすましたもんだ。
そこへ行くいくと安あんさんは自分じぶんより遥かはるか世馴れよなれている。
この体からだを見みて、「さっきから来るくるだろうと思っおもって待っまっていた。さあ上れのぼれ」と向うむこうから始末しまつをつけてくれた。
この人ひとは世馴れよなれた知識ちしきを応用おうようして、世馴れよなれない人ひとを救けるたすける方ほうの側がわだと感心かんしんした。
こいつを逆ぎゃくにして馬鹿ばかにされつけていたから特別とくべつに感心かんしんしたんだろう。
そこで安あんさんの云ういう通りとおり長屋ながやへ上っのぼって見みた。
部屋へやはやっぱり広いひろいが、自分じぶんの泊っとまった所ところほどでもない。
電気灯でんきとうは点いついている。
囲炉裏いろりもある。
ただ人数にんずうが少いすくない、しめて五六ごろく人ひとしかいない。
しかも、それが向うむこうに塊かたまりってるから、こっちはたった二人ふたりである。
そこでまた話はなしを始めはじめた。
「いつ帰るかえる」「帰らかえらない事ことにしました」 安あんさんは馬鹿ばかだなあと云わいわないばかりの顔かおをして呆れあきれている。
「あなたのおっしゃった事ことは、よく分っわかっています。しかし僕ぼくだって、酔興すいきょうにここまで来きた訳わけじゃないんですから、帰るかえるったって帰るかえる所ところはありません」「じゃやっぱり世の中よのなかへ顔かおが出せだせないような事ことでもしたのか」と安あんさんは鋭いするどい口調くちょうで聞いきいた。
何なんだか向うむこうの方ほうがぎょっとしたらしい。
「そうでもないんですが――世の中よのなかへ顔かおが出しだしたくないんです」と答えるこたえると、自分じぶんの態度たいどと、自分じぶんの顔つきかおつきと、自分じぶんの語勢ごせいを注意ちゅういしていた安あんさんが急きゅうに噴き出しふきだした。
「冗談じょうだん云っいっちゃいけねえ。そんな酔狂すいきょうがあるもんか。世の中よのなかへ顔かおが出しだしたくないた何なんの事ことだ。贅沢ぜいたくじゃねえか。そんな身分みぶんに一日いちにちでも好いよいからなって見みてえくらいだ」「代れれかわれれば代っかわって上げあげたいと思いおもいます」と至極しごく真面目まじめに云ういうと、安あんさんは、また噴き出しふきだした。
「どうも手てのつけようがないね。考えかんがえて御覧ごらんな。世の中よのなかへ顔かおが出しだしたくないものがさ、このシキしきへ顔かおが出しだしたくなれるかい」「ちっとも出しだしたくはありません。仕方しかたがないから――仕方しかたがないんです。昨夕さくゆうも今日きょうも散々さんざん苛責かしゃくられました」 安あんさんはまた笑いわらい出しだした。
「太えふてえ野郎やろうだ。誰だれが苛責かしゃくた。年ねんの若いわかいものつらまえて。よしよしおれが今いまに敵てきを打っうってやるから。その代りかわり帰るかえるんだぜ」 自分じぶんはこの時じ大おお変心へんしん丈夫じょうぶになった。
なおなお留まるとまる気きになった。
あんな獰猛ねいもうもこっちさえ強くつよくなりゃちっとも恐ろしおそろしかないんだ、十じゅう把わ一いち束たばに罵倒ばとうするくらいの勇気ゆうきがだんだん出でてくるんだと思っおもった。
そこで安あんさんに敵てきは取っとってくれないでも好いよいから、どうか帰さきさずに当分とうぶん置いおいて貰えもらえまいかと頼んたのんだ。
安あんさんは、あまりの馬鹿ばからしさに、気の毒きのどくそうな顔かおをして、呆れ返っあきれかえっていたが、「それじゃ、いるさ。――何なんも頼むたのむの頼またのまないのって、そりゃ君きみの勝手かってだあね。相談そうだんするがものはないや」「でも、あなたが承知しょうちして下さらくださらないと、いにくいですから」「せっかくそう云ういうんなら、当分とうぶんにするがいい。長くながくいちゃいけない」 自分じぶんは謹んつつしんで安あんさんの旨むねを領しりょうした。
実際じっさい自分じぶんもその考えかんがえでいたんだから、これはけっして御ご交際こうさいの挨拶あいさつではなかった。
それからいろいろな話はなしをしたがシキしきの中なかの述懐じゅっかいと大したたいした変りかわりはなかった。
ただ安あんさんの兄さんあにさんが高等官こうとうかんになって長崎ながさきにいると云ういう事ことを聞いきいて、大いにおおいに感動かんどうした。
安あんさんの身みになっても、兄さんあにさんの身みになっても、定めしさだめし苦しいくるしいだろうと思うおもうにつけ、自分じぶんと自分じぶんの親おやと結びつけむすびつけて考え出しかんがえだしたら何なんとなく悲しくかなしくなった。
帰るかえる時じに安あんさんが出口でぐちまで送っおくって来きて、相談そうだんでもあるならいつでも来るくるが好いよいと云っいってくれた。
表ひょうへ出るでると、いつの間まにか曇っくもった空そらが晴れはれて、細いほそい月つきが出でている。
路みちは存外ぞんがい明るいあかるい、その代りかわり大変たいへん寒いさむい。
袷あわせを通しとおして、襯衣を通しとおして、蒲鉾形かまぼこがたの月つきの光ひかりが肌はだまで浸み込んしみこんで来るくるようだ。
両袖りょうそでを胸むねの前まえへ合せあわせて、その中なかへ鼻はなから下したを突込んつっこんで肩かたをできるだけ聳やかしそびやかして歩行きあるき出しだした。
身体しんたいはいじけているが腹はらの中なかはさっきよりだいぶん豊かゆたかになった。
何なんの当分とうぶんのうちだ。
馴れれなれればそう苦くにする事ことはない。
何しろなにしろ一万いちまん余人よにんもかたまって、毎日まいにち毎日まいにちいっしょに働いはたらいて、いっしょに飯めしを食っしょくって、いっしょに寝ねているんだから、自分じぶんだって七なな日ひも練習れんしゅうすれば、一人前いちにんまえに堕落だらくする事ことはできるに違いない。
――この時じ自分じぶんの頭あたまの中なかには、堕落だらくの二に字じがこの通りとおりに出でて来きた。
しかしただこの場合ばあいに都合つごうのいい文字もじとして湧いわいて出でたまでで、堕落だらくの内容ないようを明かあきらかに代表だいひょうしていなかったから、別べつに恐ろしいおそろしいとも思わおもわなかった。
それで、比較的ひかくてき元気げんきづいて飯場はんばへ帰っかえって来きた。
五六ごろく間ま手前てまえまで来るくると、何なんだかわいわい云っいっている。
外そとは淋しいさびしい月つきである。
自分じぶんは家いえの騒ぎさわぎを聞いきいて、淋しいさびしい月つきを見上げみあげて、しばらく立ったっていた。
そうしたら、どうも這入るはいるのが厭いやになった。
月つきを浴びあびて外そとに立ったっているのも、つらくなった。
安あんさんの所ところへ行っいって泊めとめてもらいたくなった。
一いち歩あゆみ引き返しひきかえして見みたが、あんまりだと気きを取り直しとりなおして、のそのそ長屋ながやへ這入っはいった。
横手よこてに広いひろい間まがあって、上り口あがりぐちからは障子しょうじで立てたて切っきってある。
電気灯でんきとうが頭あたまの上うえにあるから影かげは一いちつも差さささないが、騒ぎさわぎはまさにこの中なかから出るでる。
自分じぶんは下駄げたを脱いぬいで、足音あしおとのしないように、障子しょうじの傍そばを通っとおって、二に階かいへ上がっあがった。
段々だんだんを登りのぼり切っきって、大きなおおきな部屋へやを見渡しみわたした時じ、ほっと一息ひといきついた。
部屋へやには誰だれもいない。
ただ金きんさんが平たくひらたく煎餅せんべいのようになって寝ねている。
それから例れいの帆ほ木綿もめんにくるまって、ぶら下がっぶらさがってる男おとこもいる。
しかし両方りょうほうとも極めてきわめて静かしずかだ。
いてもいないと同じくおなじく、部屋へやは漠然ばくぜんとしてただ広いひろいものだ。
自分じぶんは部屋へやの真中まなかまで来きて立ちたちながら考えかんがえた。
床ゆかを敷いしいて寝ねたものだろうか、ただしは着きのみ着きのままで、ごろりと横よこになるか、または昨夕さくゆうの通りとおり柱はしらへ倚れよれて夜よるを明そうあかそうか。
ごろ寝ごろねは寒いさむい、柱はしらへ倚りより懸るかかるのは苦しいくるしい。
どうかして布団ふとんを敷きしきたい。
ことによれば今日きょうは疲れつかれ果てはてているから、南京虫なんきんむしがいても寝ねられるかも知れしれない。
それに蒲団ふとんの奇麗きれいなのを選っえったらよかろう。
ことさら日ひによって、南京虫なんきんむしの数すうが違わちがわないとも限るかぎるまい。
といろいろな理窟りくつをつけて布団ふとんを出しだして、そうっと潜り込んもぐりこんだ。
この晩ばんの、経験けいけんを記憶きおくのまま、ここに書きつけかきつけては、自分じぶんがお話しはなしにならない馬鹿ばかだと吹聴ふいちょうする事ことになるばかりで、ほかに何なんの利益りえきも興味きょうみもないからやめる。
一口ひとくちに云ういうと、昨夜さくやと同じおなじような苦しみくるしみを、昨夜さくや以上いじょうに受けうけて、寝るねるが早いはやいか、すぐ飛び起きとびおきちまった。
起きおきた後あとで、あれほど南京虫なんきんむしに螫ささされながら、なぜ性せい懲ちょうもなくまた布団ふとんを引っ張りひっぱり出しだして寝ねたもんだろうと後悔こうかいした。
考えるかんがえると、全くまったくの自業自得じごうじとくで、しかも常識じょうしきのあるものなら誰だれでも避けさけられる、また避けさけなければならない自業自得じごうじとくだから、我れわれながら浅ましいあさましい馬鹿ばかだと、つくづく自分じぶんが厭いやになって、布団ふとんの上うえへ胡坐こざをかいたまま、考え込んかんがえこんでいると、また猛烈もうれつにちくりと螫ささされた。
臀しりと股またと膝頭ひざがしらが一時いちじに飛び上がっとびあがった。
自分じぶんは五位ごい鷺さぎのように布団ふとんの上うえに立ったった。
そうして、四囲しいを見廻しみまわした。
そうして泣きなき出しだした。
仕方しかたがないから、紺こんの兵児帯へこおびを解いといて、四よんつに折っおって、裸はだかの身体しんたい中なか所ところ嫌わいやわず、ぴしゃぴしゃ敲きたたき始めはじめた。
それから着物きものを着きた。
そうして昨夜さくやの柱はしらの所ところへ行っいった。
柱はしらに倚りよりかかった。
家いえが恋しくこいしくなった。
父ちちよりも母ははよりも、艶子つやこさんよりも澄江すみえさんよりも、家いえの六ろく畳たたみの間まが恋しくこいしくなった。
戸棚とだなに這入っはいってる更紗さらさの布団ふとんと、黒くろ天鵞絨びろーどの半襟はんえりの掛かっかかった中形ちゅうがたの掻捲が恋しくこいしくなった。
三さん十分じゅうふんでも好いよいから、あの布団ふとんを敷いしいて、あの掻捲を懸けかけて、暖だんたかにして楽々らくらく寝ねて見みたい、今頃いまごろは誰だれがあの部屋へやへ寝ねているだろうか。
それとも自分じぶんがいなくなってから後あとは、机つくえを据えすえたまんま、空そらん胴どうにしてあるかしらん。
そうすると、あの布団ふとんも掻捲も、畳んたたんだなり戸棚とだなにしまってあるに違いない。
もったいないもんだ。
父ちちも母ははも澄江すみえさんも艶子つやこさんも南京虫なんきんむしに食わくわれないで仕合せしあわせだ。
今頃いまごろは熟睡じゅくすいしているだろう。
羨ましいうらやましい。
――それとも寝ねられないで、のつそつしているかしらん。
父ちちは寝ねられないと疳かん癪しゃくを起しおこして、夜中よなかに灰吹はいふきをぽんぽん敲くたたくのが癖くせだ。
煙草たばこを呑むのむんだと云ういうが、煙草たばこは仮託かたくで、実じつは、腹はら立たて紛れまぎれに敲きたたきつけるんじゃないかと思うおもう。
今頃いまごろはしきりに敲いたたいてるかも知れしれない。
苦々しいにがにがしい倅せがれだと思っおもって敲いたたいてるか、どうなったろうと心配しんぱいの余りあまり眼めを覚ましさまして敲いたたいてるか。
どっちにしても気の毒きのどくだ。
しかしこっちじゃそれほどにも思っおもっていないから、先方せんぽうでもそう苦くにしちゃいまい。
母ははは寝ねられないと手水ちょうずに起きるおきる。
中庭なかにわの小窓こまどを明けあけて、手てを洗っあらって、桟さんをおろすのを忘れわすれて、翌朝よくあさよく父ちちに叱らしかられている。
昨夜さくやも今夜こんやもきっと叱らしかられるに違いない。
澄江すみえさんはぐうぐう寝ねている――どうしても寝ねている。
自分じぶんのいる前まえでは、丸くまるくなったり、四角しかくになったりいろいろな芸げいをして、人ひとを釣っつってるが、いなくなれば、すぐに忘れわすれて、平生へいぜいの通りとおり御ご膳ぜんをたべて、よく寝るねる女おんなだから、是非ぜひに及ばおよばない。
あんな女おんなは、今までいままで見みた新聞しんぶん小説しょうせつにはけっして出でて来きないから、始めはじめは不思議ふしぎに思っおもったが、ちゃんと証拠しょうこがあるんだから確かたしかである。
こう云ういう女おんなに恋着れんちゃくしなければならないのは、よッっぽどの因果いんがだ。
随分ずいぶん憎らしいにくらしいと思うおもうが、憎らしいにくらしいと思いおもいながらもやッぱりやっぱり惚れ込んほれこんでいるらしい。
不都合ふつごうな事ことだ。
今いまでも、あの色いろの白いしろい顔かおが眼前がんぜんにちらちらする。
怪しからあやしからない顔かおだ。
艶子つやこさんは起きおきてる。
そうして泣いないてるだろう。
はなはだ気の毒きのどくだ。
しかしこっちで惚れほれた覚さとしもなければ、また惚れほれられるような悪戯いたずらをした事ことがないんだから、いくら起きおきていても、泣いないてくれても仕方しかたがない。
気の毒きのどくがる事ことは、いくらでも気の毒きのどくがるが仕方しかたがない。
構わかまわない事ことにする。
――そこで最後さいごには、ほかの事ことはどうともするから、ただ安々やすやすと楽寝らくねがさせて貰いもらいたい。
不断ふだんの白いしろい飯めしも虫むし唾つばが走るはしるように食いくいたいが、それよりか南京虫なんきんむしのいない床ゆかへ這入りはいりたい。
三さん十分じゅうふんでも好いよいからぐっすり寝ねて見みたい。
その後そのあとでなら腹はらでも切るきる。
…… こう考えかんがえているとまた夜よるが明けあけた。
考えかんがえている途中とちゅうでいつか寝ねたものと見えみえて、眼めが覚めさめた時じは、何になんにも考えかんがえていなかった。
それからあとは、のそのそ下したへ降りふりて行っいって、顔かおを洗っあらって、南京なんきん米べいを食うくう。
万事ばんじ昨日きのうの通りとおりだから、省いはぶいてしまう。
九きゅう時じの例刻れいこくを待ちまちかねて病院びょういんへ出掛けるでかける。
病院びょういんは一昨いっさく日ひ山やまを登っのぼって来るくる時じに見みた、青いあおいペンキぺんき塗ぬりの建物たてものと聞いきいているから道みちも家いえも間違えまちがえようがない。
飯場はんばを出でて二に丁ていばかり行くいくと、すぐ道端みちばたにある。
木造もくぞうではあるがなかなか立派りっぱな建築けんちくで、広さひろさもかなりだけに、獰猛ねいもう組くみとはまるで不ふ釣合つりあいである。
野蛮やばん人ひとが病気びょうきをするんでさえすでに不思議ふしぎなくらいだのに、病気びょうきに罹っかかったものを治療ちりょうしてやるための器械きかいと薬品やくひんと医者いしゃと建物たてものを具えそなえつけたんだから、世の中よのなかは妙みょうだと云ういう感じかんじがすぐに起るおこる。
まるで泥棒どろぼうが金きんを出し合っだしあって、小学校しょうがっこうを建てたてて子弟していを通学つうがくさせてるようなもんだ。
文明ぶんめいと蒙昧もうまいの両極端りょうきょくたんがこのペンキぺんき塗ぬりの青いあおい家いえの中なかで出逢っであって、一方いっぽうが一方いっぽうへ影響えいきょうを及ぼすおよぼすと、蒙昧もうまいがますますぴんぴん蒙昧もうまいになってくる。
下手へたに食い違っくいちがった結果けっかが起るおこるもんだ。
と考えかんがえながら歩いあるいて来るくると、また鬼おに共ともが窓まどから首くびを出しだして眺めながめている。
せっかくの考えかんがえもこの気味きみのわるい顔かおを見上げるみあげるとたちまち崩れくずれてしまう。
あの顔かおのなかに安あんさんのようなのが、たった一いちつでもあれば、生き返るいきかえるほど嬉しいうれしいだろうに、どれもこれも申し合せもうしあわせたように獰猛ねいもうの極致きょくちを尽しつくしている。
あれじゃ、どうしたって病院びょういんの必要ひつようがあるはずがないとまで思っおもった。
天気てんきだけは好都合こうつごうにすっかり晴れはれた。
赤土あかつちを劈いつんざいたような山やまの壁かべへ日ひが当るあたる。
昨日きのう、一昨いっさく日ひの雨あめを吸込んすいこんだ土つちは、東ひがしから差すさす日ひを受けうけて、まだ乾かいぬいかない。
その上うえ照るてる日ひをいくらでも吸い込んすいこんで行くいく。
景色けしきは晴れがましいはれがましいうちに湿とりしっとりと調子ちょうしづいて、長屋ながやと長屋ながやの間まから、下したの方ほうの山やまを見るみると、真しん蒼あおな色いろが笑み割れえみわれそうに濃くこく重なっかさなっている。
風かぜは全くまったく落ちおちた。
昨夕さくゆうと今朝けさとではほとんど十五じゅうご度ど以上いじょうも違うちがうようである。
道傍みちばたに、たった一いちつ蒲公英たんぽぽが咲いさいている。
もったいないほど奇麗きれいな色いろだ。
これも獰猛ねいもうとはまるで釣り合つりあいない。
病院びょういんへ着いついた。
和土わどの廊下ろうかが地面じめんと擦れ擦れすれすれに五六ごろく間ま続いつづいている突き当りつきあたりに、診察室しんさつしつと云ういう札さつが懸っかかって、手前てまえの右手みぎてに控ひかえ所ところと書いかいてある。
今いま云っいった一いち間ま幅はばの廊下ろうかを横切っよこぎって、控ひかえ所ところへ這入るはいると、下したはやはり和土わどで、ベンチべんちが二に脚あしほど並べならべてある。
小さいちいさい硝子窓がらすまどには受附うけつけと楷書かいしょで貼りつけはりつけてある。
自分じぶんはこの窓口まどぐちへ行っいって、自分じぶんの姓名せいめいを書いかいた紙片しへんを出すだすと、窓まどの中なかに腰こしを掛けかけていた二に十じゅう二に三さんの若いわかい男おとこが、その紙片しへんを受取っうけとって、ありもしない眉まゆへ八はちの字じを寄せよせて、むずかしそうにとくと眺めながめた上うえ、「こりゃ御前ごぜんか」と、さも横風おうふうに云っいった。
あまり好いよい心持こころもちではなかった。
何なんの必要ひつようがあって、こう自分じぶんを軽蔑けいべつするんだか不平ふへいに堪えこらえない。
それで単にたんに、「ええ」と出来るだけできるだけ愛嬌あいきょうのない返事へんじをした。
受附うけつけは、それじゃ、まだ挨拶あいさつが足りたりないと云わいわんばかりに、しばらくは自分じぶんを睨めにらめていたが、こっちもそれっ切り口きりくちを結んむすんで立ったっていたもんだから、「少しすこし待っまっていろ」と、ぴしゃりと硝子戸がらすとを締めしめて出でて行っいった。
草履ぞうりの音おとがする。
あんなにばたばた云わいわせなくっても好さよさそうなもんだと思っおもった。
自分じぶんはベンチべんちへ腰こしを掛けかけた。
受附うけつけはなかなか帰っかえって来きない。
ぼんやりしていると、眼めの前まえにジャンボーじゃんぼが出でて来きた。
金きんさんがよっしょいよっしょいと担がたんがれて来るくるところが見えるみえる。
あれでも病院びょういんが必要ひつようなのかと思っおもった。
何なんのために薬くすりを盛っもって、患者かんじゃを施療せりょうするのか、ほとんど意義いぎをなさない。
こんな体裁ていさいのいい偽善ぎぜんはない。
病人びょうにんはいじめるだけいじめる。
ジャンボーじゃんぼは囃しはやしたいだけ囃すはやす。
その代りかわり医者いしゃにかけてやると云ういうのか。
鄭重ていちょうの至りいたりである。
「おいあっちへ廻れまわれ」と突然とつぜん受附うけつけの声こえがした。
見るみると受附うけつけは硝子窓がらすまどの中なかに威丈いたけ高こうに突立っつきたって、自分じぶんを眼下がんかに睥睨へいげいしている。
自分じぶんは控ひかえ所ところを出でた。
右みぎへ折れおれて、廊下ろうか伝いつたいに診察しんさつ場ばへ上がっあがったら、薬くすりの臭においがぷんとした。
この臭においを嗅ぐかぐと等しくひとしく、自分じぶんも、もうやがて死ぬしぬんだなと思い出しおもいだした。
死んしんでここの土つちになったら不思議ふしぎなものだ。
こう云ういうのを運命うんめいというんだろう。
運命うんめいの二に字じは昔むかしから知っしってたが、ただ字じを知っしってるだけで意味いみは分らわからなかった。
意味いみは分っわかっても、納得なっとくがむずかしかった。
西洋せいよう人ひとが筍たけのこを想像そうぞうするように定義ていぎだけを心得こころえて満足まんぞくしていた。
けれども人間にんげんの一いち大事だいじたる死しと云ういう実際じっさいと、人間にんげんの獣類じゅうるいたる坑夫こうふの住んすんでいるシキしきとを結びつけむすびつけて、二三にさん日ひ前まえまで不足ふそくなく生い立っおいたった坊っぼっちゃんを突然とつぜん宙ちゅうに釣るつるして、この二につの間まに置いおいたとすると、坊っぼっちゃんは始めはじめてなるほどと首肯しゅこうする。
運命うんめいは不可思議ふかしぎな魔力まりょくで可憐かれんな青年せいねんを弄ぶもてあそぶもんだと云ういう事ことが分るわかる。
すると今までいままでただの山やまであったものが、ただの山やまでなくなる。
ただの土つちであったものがただの土つちでなくなる。
青いあおいばかりと思っおもった空そらが、青いあおいだけでは済ますまなくなる。
この病院びょういんの、この診察しんさつ場ばの、この薬品やくひんの、この臭いくさいまでが夢ゆめのような不思議ふしぎになる。
元来がんらいこの椅子いすに腰こしを掛けかけている本人ほんにんからしてが、何物なにものだかほとんど要領ようりょうを得とくない。
本人ほんにん以外いがいの世界せかいは明瞭めいりょうに見えるみえるだけで、どんな意味いみのある世界せかいかさっぱり見当けんとうがつかない。
自分じぶんは、診察しんさつ場ばと薬局やっきょくとをかねたこの一室いっしつの椅子いすに倚っよって、敷物しきものと、洋よう卓たくと、薬瓶くすりびんと、窓まどと、窓まどの外そとの山やまとを見廻しみまわした。
もっとも明瞭めいりょうな視覚しかくで見廻しみまわしたが、すべてがただ一いち幅はばの画がと見えるみえるだけで、その他ほかには何物なにものをも認めるみとめる事ことができなかった。
そこへ戸とを開けあけて、医者いしゃがあらわれた。
その顔かおを見るみると、やっぱり坑夫こうふの類型るいけいである。
黒くろのモーニングもーにんぐに縞しまの洋よう袴はかまを着きて、襟えりの外そとへ顎あごを突き出しつきだして、「御前ごぜんか、健康診断けんこうしんだんをして貰うもらうのは」と云っいった。
この語勢ごせいには、馬うまに対したいしても、犬いぬに対したいしても、是非ぜひ腹はらの内うちで云ういうべきほどの敬意けいいが籠っこもっていた。
「ええ」と自分じぶんは椅子いすを離れはなれた。
「職業しょくぎょうは何なんだ」「職業しょくぎょうって別べつに何になんにもないんです」「職業しょくぎょうがない。じゃ、今までいままで何なんをして生きいきていたのか」「ただ親おやの厄介やっかいになっていました」「親おやの厄介やっかいになっていた。親おやの厄介やっかいになって、ごろごろしていたのか」「まあ、そうです」「じゃ、ごろつきだな」 自分じぶんは答こたえをしなかった。
「裸はだかになれ」 自分じぶんは裸はだかになった。
医者いしゃは聴診器ちょうしんきで胸むねと背中せなかをちょっと視みた上うえ、いきなり自分じぶんの鼻はなを撮んつまんだ。
「息いきをして見ろみろ」 息いきが口くちから出るでる。
医者いしゃは口くちの所ところへ手てをあてがった。
「今度こんど口くちを塞ぐふさぐんだ」 医者いしゃは鼻はなの下したへ手てをあてた。
「どうでしょう。坑夫こうふになれますか」「駄目だめだ」「どこか悪いわるいですか」「今いま書いかいてやる」 医者いしゃは四角しかくな紙片しへんへ、何なんか書いかいて抛り出すほうりだすように自分じぶんに渡しわたした。
見るみると気管支炎きかんしえんとある。
気管支炎きかんしえんと云えいえば肺病はいびょうの下地したじである。
肺病はいびょうになれば助かりたすかりようがない。
なるほどさっき薬くすりの臭においを嗅いかいで死ぬしぬんだなと虫むしが知らしらせたのも無理むりはない。
今度こんどはいよいよ死ぬしぬ事ことになりそうだ。
これから先さき二三にさん週間しゅうかんもしたら、金きんさんのようによっしょいよっしょいでジャンボーじゃんぼを見せみせられて、そのあげくには自分じぶんがとうとうジャンボーじゃんぼになって、それから思うおもう存分ぞんぶん囃し立てはやしたててられて、敲きたたき立てたてられて、――もっとも新参しんざんだから囃しはやしてくれるものも、敲いたたいてくれるものも、ないかも知れしれないが――とどの詰りとどのつまりは、――どうなる事ことか自分じぶんにも分らわからない。
それは分らわからなくってもよろしい。
生きいきて動いうごいている今いまですら分らわからない。
ただ世界せかいがのべつ、のっぺらぽうに続いつづいているうちに、あざやかな色いろが幾いく通りとおりも並んならんでるばかりである。
坑夫こうふは世の中よのなかで、もっとも穢えないものと感じかんじていたが、かように万物ばんぶつを色いろの変化へんかと見るみると、穢えないも穢えなくないもある段だんじゃない。
どうでも構わかまわないから、どうとも勝手にかってにするがいい、自分じぶんが懐手ふところでをしていたら運命うんめいが何なんとか始末しまつをつけてくれるだろう。
死んしんでもいい、生きいきてもいい。
華厳けごんの瀑ばくなどへ行くいくのは面倒めんどうになった。
東京とうきょうへ帰るかえる?
何なんの必要ひつようがあって帰るかえる。
どうせ二三にさん度ど咳せきをせくうちの命いのちだ。
ここまで運命うんめいが吹きつけふきつけてくれたもんだから、運命うんめいに吹き払わふきはらわれるまでは、ここにいるのが、一番いちばん骨ほねが折れおれなくって、一番いちばん便利べんりで、一番いちばん順当じゅんとうな訳わけだ。
ここにいて、ただ堕落だらくの修業しゅぎょうさえすれば、死ぬしぬまでは持てるもてるだろう。
肺病はいびょう患者かんじゃにほかの修業しゅぎょうはむずかしいかも知れしれないが、堕落だらくの修業しゅぎょうなら――ふと往きゆきに眼めについた蒲公英たんぽぽに出逢っであった。
さっきはもったいないほど美しいうつくしい色いろだと思っおもったが、今いま見るみると何なんともない。
なぜこれが美しかっうつくしかったんだろうと、しばらく立ち留まったちどまって、見みていたが、やっぱり美しくうつくしくない。
それからまたあるき出しだした。
だらだら坂さかを登るのぼると、自然しぜんと顔かおが仰あおぐ向むかいになる。
すると例れいの通りとおり長屋ながやから、坑夫こうふが頬杖つらづえを突いついて、自分じぶんを見下しみくだしている。
さっきまではあれほど厭いやに見えみえた顔かおがまるで土細工どさいくの人形にんぎょうの首くびのように思わおもわれる。
醜くみにくくも、怖くこわくも、憎らしくにくらしくもない。
ただの顔かおである。
日本一にっぽんいちの美人びじんの顔かおがただの顔かおであるごとく、坑夫こうふの顔かおもただの顔かおである。
そう云ういう自分じぶんも骨ほねと肉にくで出来できたただの人間にんげんである。
意味いみも何なんもない。
自分じぶんはこう云ういう状態じょうたいで、無人むじんの境さかいを行くいくような心持こころもちで、親方おやかたの家いえまでやって来きた。
案内あんないを頼むたのむと、うちから十じゅう五ご六ろくの娘むすめが、がらりと障子しょうじをあけて出でた。
こう云ういう娘むすめがこんな所ところにいようはずがないんだから、平生へいぜいならはっと驚くおどろく訳わけだが、この時じはまるで何なんの感じかんじもなかった。
ただ器械きかいのように挨拶あいさつをすると、娘むすめは片手かたてを障子しょうじへ掛けかけたまま、奥おくを振り向いふりむいて、「御ご父さんちちさん。御客ごきゃく」と云っいった。
自分じぶんはこの時じ、これが飯場はんば頭あたまの娘むすめだなと合点がてんしたが、ただ合点がてんしたまでで、娘むすめがまだそこに立ったっているのに、娘むすめの事ことは忘れわすれてしまった。
ところへ親方おやかたが出でて来きた。
「どうしたい」「行っいって来きました」「健康診断けんこうしんだんを貰っもらって来きたかい。どれ」 自分じぶんは右みぎの手てに握っにぎっていた診断書しんだんしょを、つい忘れわすれて、おやどこへやったろうかと、始めはじめて気きがついた。
「持っもってるじゃないか」と親方おやかたが云ういう。
なるほど持っもっていたから、皺しわを伸しのして親方おやかたに渡しわたした。
「気管支炎きかんしえん。病気びょうきじゃないか」「ええ駄目だめです」「そりゃ困っこまったな。どうするい」「やっぱり置いおいて下さいください」「そいつあ、無理むりじゃないか」「ですが、もう帰れかえれないんだから、どうか置いおいて下さいください。小使こづかいでも、掃除そうじ番ばんでもいいですから。何なんでもしますから」「何なんでもするったって、病気びょうきじゃ仕方しかたがないじゃないか。困っこまったな。しかしせっかくだから、まあ考えかんがえてみよう。明日あすまでには大概たいがい様子ようすが分るわかるだろうからまた来きて見るみるがいい」 自分じぶんは石いしのようになって、飯場はんばへ帰っかえって来きた。
その晩ばんは平気へいきで囲炉裏いろりの側がわに胡坐こざをかいていた。
坑夫こうふ共ともが何なんと云っいっても相手あいてにしなかった。
相手あいてにする料簡りょうけんも出でなかった。
いくら騒いさわいでも、愚弄ぐろうっても、よしんば踏んふんだり蹴たりしても、彼かれらは自分じぶんと共ともに一いち枚ばいの板いたに彫りつけほりつけられた一団いちだんの像ぞうのように思わおもわれた。
寝るねるときは布団ふとんは敷かしきかなかった。
やはり囲炉裏いろりの傍そばに胡坐こざをかいていた。
みんな寝ね着いついてから、自分じぶんもその場ばへ仮寝かりねをした。
囲炉裏いろりへ炭すみを継ぐつぐものがないので、火の気ひのけがだんだん弱くよわくなって、寒ささむさがしだいに増しまして来きたら、眼めが覚めさめた。
襟えりの所ところがぞくぞくする。
それから起きおきて表ひょうへ出でて空そらを見みたら、星ほしがいっぱいあった。
あの星ほしは何なんしに、あんなに光っひかりってるのだろうと思っおもって、また内うちへ這入っはいった。
金きんさんは相そう変らかわらず平たくひらたくなって寝ねている。
金きんさんはいつジャンボーじゃんぼになるんだろう。
自分じぶんと金きんさんとどっちが早くはやく死ぬしぬだろう。
安あんさんは六ろく年ねんこのシキしきに這入っはいってると聞いきいたが、この先このさき何なん年ねん鉱こうを敲くたたくだろう。
やっぱりしまいには金きんさんのように平たくひらたくなって、飯場はんばの片隅かたすみに寝るねるんだろう。
そうして死ぬしぬだろう。
――自分じぶんは火ひのない囲炉裏いろりの傍そばに坐っすわって、夜明よあけまで考えかんがえつづけていた。
その考えかんがえはあとから、あとから、仕切りしきりなしに出でて来きたが、いずれも干かん枯びからびていた。
涙なみだも、情じょうも、色いろも香こうもなかった。
怖いこわい事ことも、恐ろしいおそろしい事ことも、未練みれんも、心残りこころのこりもなかった。
夜よるが明けあけてから例れいのごとく飯めしを済ましすまして、親方おやかたの所ところへ行っいった。
親方おやかたは元気げんきのいい声こえをして、「来きたか、ちょうど好いよい口くちが出来できた。実じつはあれからいろいろ探しさがしたがどうも思わしいおもわしいところがないんでね、――少しすこし困っこまったんだが。とうとう旨いうまい口くちを見み附けつけた。飯場はんばの帳とばり附ふだがね。こりゃ無けれなければ、なくっても済むすむ。現にげんに今までいままでは婆ばあさんがやってたくらいだが、せっかくの御ご頼みたのみだから。どうだねそれならどうか、おれの方ほうで周旋しゅうせんができようと思うおもうが」「はあありがたいです。何なんでもやります。帳とばり附ふと云ういうと、どんな事ことをするんですか」「なあに訳わけはない。ただ帳面ちょうづらをつけるだけさ。飯場はんばにああ多勢おおぜいいる奴やつが、やや草鞋わらじだ、やや豆まめだ、ヒジキひじきだって、毎日まいにちいろいろなものを買うかうからね。そいつを一々いちいち帳面ちょうづらへ書き込んかきこんどいて貰もらえやあ好いよいんだ。なに品物しなものは婆ばあさんが渡すわたすから、ただ誰だれが何なんをいくら取っとったと云ういう事ことが分るわかるようにして置いおいてくれればそれで結構けっこうだ。そうするとこっちでその帳面ちょうづらを見みて勘定かんじょう日ひに差し引いさしひいて給金きゅうきんを渡すわたすようにする。――なに力業ちからわざじゃないから、誰だれでもできる仕事しごとだが、知っしっての通りとおりみんな無筆むひつの寄合よりあいだからね。君きみがやってくれるとこっちも大変たいへん便利べんりだが、どうだい帳とばり附ふは」「結構けっこうです、やりましょう」「給金きゅうきんは少くすくなくって、まことに御ご気の毒きのどくだ。月つきに四よん円えんだが。――食料しょくりょうを別べつにして」「それでたくさんです」と答えこたえた。
しかし別段べつだんに嬉しいうれしいとも思わおもわなかった。
ようやく安心あんしんしたとまでは固りかたまり行かいかなかった。
自分じぶんの鉱山こうざんにおける地位ちいはこれでやっときまった。
翌日よくじつから自分じぶんは台所だいどころの片隅かたすみに陣取っじんどって、かたのごとく帳とばり附ふを始めはじめた。
すると今までいままであのくらい人ひとを軽蔑けいべつしていた坑夫こうふの態度たいどががらりと変っかわって、かえって向うむこうから御世辞ごせじを取るとるようになった。
自分じぶんもさっそく堕落だらくの稽古けいこを始めはじめた。
南京なんきん米べいも食っしょくった。
南京虫なんきんむしにも食わくわれた。
町まちからは毎日まいにち毎日まいにちポン引ぽんびきが椋鳥むくどりを引張っひっぱって来るくる。
子供こどもも毎日まいにち連れつれられてくる。
自分じぶんは四よん円えんの月給げっきゅうのうちで、菓子かしを買っかっては子供こどもにやった。
しかしその後あと東京とうきょうへ帰ろうかえろうと思っおもってからは断然だんぜんやめにした。
自分じぶんはこの帳とばり附ふを五ご箇月かげつ間ま無事ぶじに勤めつとめた。
そうして東京とうきょうへ帰っかえった。
――自分じぶんが坑夫こうふについての経験けいけんはこれだけである。
そうしてみんな事実じじつである。
その証拠しょうこには小説しょうせつになっていないんでも分るわかる。
8/8