草枕

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一

第 1 章
山路やまじを登りのぼりながら、こう考えかんがえた。
智さとしに働けはたらけば角かくが立つたつ。
情じょうに棹させさおさせば流さながされる。
意地いじを通せとおせば窮屈きゅうくつだ。
とかくに人ひとの世よは住みすみにくい。
住みすみにくさが高じるこうじると、安いやすい所ところへ引き越しひきこしたくなる。
どこへ越しこしても住みすみにくいと悟っさとった時じ、詩しが生れうまれて、画がが出来るできる。
人ひとの世よを作っつくったものは神かみでもなければ鬼おにでもない。
やはり向うむこう三さん軒のき両隣りりょうどなりにちらちらするただの人ひとである。
ただの人ひとが作っつくった人ひとの世よが住みすみにくいからとて、越すこす国くにはあるまい。
あれば人でなしひとでなしの国くにへ行くいくばかりだ。
人でなしひとでなしの国くには人ひとの世よよりもなお住みすみにくかろう。
越すこす事ことのならぬ世よが住みすみにくければ、住みすみにくい所ところをどれほどか、寛容かんようて、束の間つかのまの命いのちを、束の間つかのまでも住みすみよくせねばならぬ。
ここに詩人しじんという天職てんしょくが出来できて、ここに画家がかという使命しめいが降るふる。
あらゆる芸術げいじゅつの士しは人ひとの世よを長閑のどかにし、人ひとの心こころを豊かゆたかにするが故こに尊みこととい。
住みすみにくき世よから、住みすみにくき煩いわずらいを引き抜いひきぬいて、ありがたい世界せかいをまのあたりに写すうつすのが詩しである、画がである。
あるは音楽おんがくと彫刻ちょうこくである。
こまかに云えいえば写さうつさないでもよい。
ただまのあたりに見れみれば、そこに詩しも生きいき、歌うたも湧くわく。
着想ちゃくそうを紙かみに落さおとさぬとも※鏘の音おとは胸裏きょうりに起るおこる。
丹青たんせいは画架がかに向っむかって塗抹とまつせんでも五彩ごさいの絢爛けんらんは自からみずから心眼しんがんに映るうつる。
ただおのが住むすむ世よを、かく観じかんじ得とくて、霊台れいだい方寸ほうすんのカメラかめらに澆季ぎょうき溷濁こんだくの俗界ぞっかいを清くきよくうららかに収めおさめ得れえれば足るたる。
この故こに無声むせいの詩人しじんには一句いっくなく、無色むしょくの画家がかには尺さし※なきも、かく人世じんせいを観じかんじ得るうるの点てんにおいて、かく煩悩ぼんのうを解脱げだつするの点てんにおいて、かく清浄せいじょう界さかいに出入でいりし得るうるの点てんにおいて、またこの不同ふどう不二ふじの乾坤けんこんを建立こんりゅうし得るうるの点てんにおいて、我利がり私慾しよくの覊絆きはんを掃蕩そうとうするの点てんにおいて、――千金せんきんの子こよりも、万まん乗のりの君きみよりも、あらゆる俗界ぞっかいの寵児ちょうじよりも幸福こうふくである。
世よに住むすむこと二十にじゅう年ねんにして、住むすむに甲斐かいある世よと知っしった。
二十五にじゅうご年ねんにして明暗めいあんは表裏ひょうりのごとく、日ひのあたる所ところにはきっと影かげがさすと悟っさとった。
三十さんじゅうの今日きょうはこう思うおもうている。
――喜びよろこびの深きふかきとき憂いうれいよいよ深くふかく、楽みたのしみの大いなるおおいなるほど苦しみくるしみも大きいおおきい。
これを切り放そうきりはなそうとすると身みが持てもてぬ。
片づけようかたづけようとすれば世よが立たたたぬ。
金きんは大事だいじだ、大事だいじなものが殖えれふえれば寝るねる間まも心配しんぱいだろう。
恋こいはうれしい、嬉しいうれしい恋こいが積もれつもれば、恋こいをせぬ昔むかしがかえって恋しかろこいしかろ。
閣僚かくりょうの肩かたは数百すうひゃく万まん人ひとの足あしを支えささえている。
背中せなかには重いおもい天下てんかがおぶさっている。
うまい物ものも食わくわねば惜しいおしい。
少しすこし食えくえば飽き足らあきたらぬ。
存分ぞんぶん食えくえばあとが不愉快ふゆかいだ。
…… 余よの考かんがえがここまで漂流ひょうりゅうして来きた時じに、余よの右足みぎあしは突然とつぜん坐りすわりのわるい角石かどいしの端はしを踏みふみ損そんくなった。
平衡へいこうを保つたもつために、すわやと前まえに飛び出しとびだした左足ひだりあしが、仕し損じそんじの埋め合せうめあわせをすると共ともに、余よの腰こしは具合ぐあいよく方ほう三さん尺さしほどな岩いわの上うえに卸おろしりた。
肩かたにかけた絵の具えのぐ箱ばこが腋の下わきのしたから躍りおどり出しだしただけで、幸いさいわいと何なんの事こともなかった。
立ち上がるたちあがる時じに向うむこうを見るみると、路みちから左ひだりの方ほうにバケツばけつを伏せふせたような峰みねが聳えそびえている。
杉すぎか檜ひのきか分からぶんからないが根元ねもとから頂きいただきまでことごとく蒼黒いあおぐろい中なかに、山桜やまざくらが薄赤くうすあかくだんだらに棚引いたなびいて、続つづくぎ目めが確としかと見えみえぬくらい靄もやが濃いこい。
少しすこし手前てまえに禿山はげやまが一いちつ、群ぐんをぬきんでて眉まゆに逼るせまる。
禿げはげた側面そくめんは巨人きょじんの斧おので削り去っけずりさったか、鋭するどどき平面へいめんをやけに谷たにの底そこに埋めうめている。
天辺てっぺんに一いち本ほん見えるみえるのは赤松あかまつだろう。
枝えだの間まの空そらさえ判然はんぜんしている。
行く手ゆくては二に丁ていほどで切れきれているが、高いたかい所ところから赤いあかい毛布もうふが動いうごいて来るくるのを見るみると、登れのぼればあすこへ出るでるのだろう。
路みちはすこぶる難義なんぎだ。
土つちをならすだけならさほど手間てまも入るはいるまいが、土つちの中なかには大きなおおきな石いしがある。
土つちは平らたいらにしても石いしは平らたいらにならぬ。
石いしは切りきり砕いくだいても、岩いわは始末しまつがつかぬ。
掘ほり崩しくずした土つちの上うえに悠然ゆうぜんと峙っそばだって、吾われらのために道みちを譲るゆずる景色けしきはない。
向うむこうで聞かきかぬ上うえは乗り越すのりこすか、廻らまわらなければならん。
巌いわのない所ところでさえ歩あゆみるきよくはない。
左右さゆうが高くたかくって、中心ちゅうしんが窪んくぼんで、まるで一いち間ま幅はばを三角さんかくに穿っほじって、その頂点ちょうてんが真中まなかを貫いつらぬいていると評しひょうしてもよい。
路みちを行くいくと云わいわんより川底かわぞこを渉るわたると云ういう方ほうが適当てきとうだ。
固よりもとより急ぐいそぐ旅たびでないから、ぶらぶらと七曲りななまがりへかかる。
たちまち足あしの下したで雲雀ひばりの声こえがし出しだした。
谷たにを見下しみくだしたが、どこで鳴いないてるか影かげも形かたちも見えみえぬ。
ただ声こえだけが明らかあきらかに聞えるきこえる。
せっせと忙しくいそがしく、絶間たえまなく鳴いないている。
方ほう幾里いくさとの空気くうきが一面いちめんに蚤のみに刺ささされていたたまれないような気きがする。
あの鳥とりの鳴くなく音おとには瞬時しゅんじの余裕よゆうもない。
のどかな春はるの日ひを鳴きなき尽くしつくし、鳴きなきあかし、また鳴きなき暮らさくらさなければ気きが済ますまんと見えるみえる。
その上うえどこまでも登っのぼって行くいく、いつまでも登っのぼって行くいく。
雲雀ひばりはきっと雲くもの中なかで死ぬしぬに相違そういない。
登り詰めのぼりつめた揚句あげくは、流れながれて雲くもに入っはいって、漂うただようているうちに形かたちは消えきえてなくなって、ただ声こえだけが空そらの裡りに残るのこるのかも知れしれない。
巌いわ角かくを鋭どくするどく廻っまわって、按摩あんまなら真逆様まぎゃくさまに落つるおつるところを、際どくきわどく右みぎへ切れきれて、横よこに見下すみくだすと、菜の花なのはなが一面いちめんに見えるみえる。
雲雀ひばりはあすこへ落ちるおちるのかと思っおもった。
いいや、あの黄金おうごんの原はらから飛び上がっとびあがってくるのかと思っおもった。
次つぎには落ちるおちる雲雀ひばりと、上るのぼる雲雀ひばりが十じゅう文字もじにすれ違うすれちがうのかと思っおもった。
最後さいごに、落ちるおちる時じも、上るのぼる時じも、また十じゅう文字もじに擦れ違うすれちがうときにも元気げんきよく鳴きなきつづけるだろうと思っおもった。
春はるは眠くねむくなる。
猫ねこは鼠ねずみを捕るとる事ことを忘れわすれ、人間にんげんは借金しゃっきんのある事ことを忘れるわすれる。
時じには自分じぶんの魂たましいの居所きょしょさえ忘れわすれて正体しょうたいなくなる。
ただ菜の花なのはなを遠くとおく望んのぞんだときに眼めが醒めるさめる。
雲雀ひばりの声こえを聞いきいたときに魂たましいのありかが判然はんぜんする。
雲雀ひばりの鳴くなくのは口くちで鳴くなくのではない、魂たましい全体ぜんたいが鳴くなくのだ。
魂たましいの活動かつどうが声こえにあらわれたもののうちで、あれほど元気げんきのあるものはない。
ああ愉快ゆかいだ。
こう思っおもって、こう愉快ゆかいになるのが詩しである。
たちまちシェレーしぇれの雲雀ひばりの詩しを思い出しおもいだして、口くちのうちで覚えおぼえたところだけ暗誦あんしょうして見みたが、覚えおぼえているところは二三にさん句くしかなかった。
その二三にさん句くのなかにこんなのがある。
Welookbeforeandafter    Andpineforwhatisnot:  Oursincerestlaughter    Withsomepainisfraught;Oursweetestsongsarethosethattellofsaddestthought.
「前まえをみては、後あとえを見みては、物欲ぶつよくしと、あこがるるかなわれ。腹はらからの、笑わらいといえど、苦しみくるしみの、そこにあるべし。うつくしき、極みきわみの歌うたに、悲しかなしさの、極みきわみの想そう、籠るこもるとぞ知れしれ」 なるほどいくら詩人しじんが幸福こうふくでも、あの雲雀ひばりのように思い切っおもいきって、一心いっしん不乱ふらんに、前後ぜんごを忘却ぼうきゃくして、わが喜びよろこびを歌ううたう訳わけには行くいくまい。
西洋せいようの詩しは無論むろんの事こと、支那しなの詩しにも、よく万まん斛こくの愁うれいなどと云ういう字じがある。
詩人しじんだから万斛ばんこくで素人しろうとなら一いち合あわせで済むすむかも知れしれぬ。
して見るみると詩人しじんは常つねの人ひとよりも苦労性くろうせいで、凡骨ぼんこつの倍ばい以上いじょうに神経しんけいが鋭敏えいびんなのかも知れしれん。
超俗ちょうぞくの喜びよろこびもあろうが、無量むりょうの悲ひも多かろうおおかろう。
そんならば詩人しじんになるのも考えかんがえ物ものだ。
しばらくは路みちが平たいらで、右みぎは雑木ぞうき山やま、左ひだりは菜の花なのはなの見みつづけである。
足あしの下したに時々ときどき蒲公英たんぽぽを踏みつけるふみつける。
鋸のこぎりのような葉はが遠慮えんりょなく四方しほうへのして真中まなかに黄色きいろな珠たまを擁護ようごしている。
菜の花なのはなに気きをとられて、踏みつけふみつけたあとで、気の毒きのどくな事ことをしたと、振り向いふりむいて見るみると、黄色きいろな珠たまは依然いぜんとして鋸のこぎりのなかに鎮座ちんざしている。
呑気のんきなものだ。
また考えかんがえをつづける。
詩人しじんに憂うれいはつきものかも知れしれないが、あの雲雀ひばりを聞くきく心持こころもちになれば微塵みじんの苦くもない。
菜の花なのはなを見みても、ただうれしくて胸むねが躍るおどるばかりだ。
蒲公英たんぽぽもその通りとおり、桜さくらも――桜さくらはいつか見えみえなくなった。
こう山やまの中なかへ来きて自然しぜんの景物けいぶつに接すれせっすれば、見るみるものも聞くきくものも面白いおもしろい。
面白いおもしろいだけで別段べつだんの苦しみくるしみも起らおこらぬ。
起るおこるとすれば足あしが草臥れくたびれて、旨いうまいものが食べたべられぬくらいの事ことだろう。
しかし苦しみくるしみのないのはなぜだろう。
ただこの景色けしきを一いち幅はばの画がとして観かん、一いち巻まきの詩しとして読むよむからである。
画がであり詩しである以上いじょうは地面じめんを貰っもらって、開拓かいたくする気きにもならねば、鉄道てつどうをかけて一儲けひともうけする了見りょうけんも起らおこらぬ。
ただこの景色けしきが――腹はらの足したしにもならぬ、月給げっきゅうの補いおぎないにもならぬこの景色けしきが景色けしきとしてのみ、余よが心こころを楽らくませつつあるから苦労くろうも心配しんぱいも伴わともなわぬのだろう。
自然しぜんの力ちからはここにおいて尊みこととい。
吾人ごじんの性情せいじょうを瞬まどか刻こくに陶冶とうやして醇乎じゅんことして醇あつしなる詩境しきょうに入らはいらしむるのは自然しぜんである。
恋こいはうつくしかろ、孝こうもうつくしかろ、忠君ちゅうくん愛国あいこくも結構けっこうだろう。
しかし自身じしんがその局きょくに当れあたれば利害りがいの旋風せんぷうに捲き込ままきこまれて、うつくしき事ことにも、結構けっこうな事ことにも、目めは眩んくらんでしまう。
したがってどこに詩しがあるか自身じしんには解しかいしかねる。
これがわかるためには、わかるだけの余裕よゆうのある第三者だいさんしゃの地位ちいに立たたたねばならぬ。
三者さんしゃの地位ちいに立てたてばこそ芝居しばいは観かんて面白いおもしろい。
小説しょうせつも見みて面白いおもしろい。
芝居しばいを見みて面白いおもしろい人ひとも、小説しょうせつを読んよんで面白いおもしろい人ひとも、自己じこの利害りがいは棚たなへ上げあげている。
見みたり読んよんだりする間まだけは詩人しじんである。
それすら、普通ふつうの芝居しばいや小説しょうせつでは人情にんじょうを免かれまぬかれぬ。
苦しんくるしんだり、怒っどったり、騒いさわいだり、泣いないたりする。
見るみるものもいつかその中なかに同化どうかして苦しんくるしんだり、怒っどったり、騒いさわいだり、泣いないたりする。
取柄とりえは利り慾よくが交こうらぬと云ういう点てんに存するそんするかも知れしれぬが、交こうらぬだけにその他ほかの情緒じょうちょは常つねよりは余計よけいに活動かつどうするだろう。
それが嫌いやだ。
苦しんくるしんだり、怒っどったり、騒いさわいだり、泣いないたりは人ひとの世よにつきものだ。
余よも三十さんじゅう年ねんの間まそれを仕し通しとおして、飽々あきあきした。
飽き飽きあきあきした上うえに芝居しばいや小説しょうせつで同じおなじ刺激しげきを繰り返しくりかえしては大変たいへんだ。
余よが欲するほっする詩しはそんな世間せけん的まとの人情にんじょうを鼓舞こぶするようなものではない。
俗念ぞくねんを放棄ほうきして、しばらくでも塵界じんかいを離れはなれた心持ちこころもちになれる詩しである。
いくら傑作けっさくでも人情にんじょうを離れはなれた芝居しばいはない、理非りひを絶しぜっした小説しょうせつは少かろうすくなかろう。
どこまでも世間せけんを出るでる事ことが出来できぬのが彼かれらの特色とくしょくである。
ことに西洋せいようの詩しになると、人事じんじが根本こんぽんになるからいわゆる詩歌しいかの純粋じゅんすいなるものもこの境さかいを解脱げだつする事ことを知らしらぬ。
どこまでも同情どうじょうだとか、愛あいだとか、正義まさよしだとか、自由じゆうだとか、浮世うきよの勧工場かんこうじょうにあるものだけで用ようを弁じべんじている。
いくら詩的してきになっても地面じめんの上うえを馳はせけてあるいて、銭せんの勘定かんじょうを忘れるわすれるひまがない。
シェレーしぇれが雲雀ひばりを聞いきいて嘆息たんそくしたのも無理むりはない。
うれしい事ことに東洋とうようの詩歌しいかはそこを解脱げだつしたのがある。
採菊さいぎく東ひがし籬下りか、悠然ゆうぜん見み南山なんざん。
ただそれぎりの裏うらに暑苦しいあつくるしい世の中よのなかをまるで忘れわすれた光景こうけいが出でてくる。
垣かきの向うむこうに隣りとなりの娘むすめが覗いのぞいてる訳わけでもなければ、南山なんざんに親友しんゆうが奉職ほうしょくしている次第しだいでもない。
超然ちょうぜんと出世しゅっせ間ま的まとに利害りがい損得そんとくの汗あせを流し去っながしさった心持ちこころもちになれる。
独坐どくざ幽ゆう篁たかむら裏うら、弾琴だんきん復また長嘯ちょうしょう、深林人ふかばやしにん不知ふち、明あきら月来げつらい相そう照てらし。
ただ二に十字じゅうじのうちに優にゆうに別べつ乾坤けんこんを建立こんりゅうしている。
この乾坤けんこんの功徳くどくは「不如帰ふじょき」や「金色きんいろ夜叉やしゃ」の功徳くどくではない。
汽船きせん、汽車きしゃ、権利けんり、義務ぎむ、道徳どうとく、礼れい義ぎで疲れつかれ果てはてた後あとに、すべてを忘却ぼうきゃくしてぐっすり寝込むねこむような功徳くどくである。
二十にじゅう世紀せいきに睡眠すいみんが必要ひつようならば、二十にじゅう世紀せいきにこの出世しゅっせ間ま的まとの詩し味あじは大切たいせつである。
惜しいおしい事ことに今いまの詩しを作るつくる人ひとも、詩しを読むよむ人ひともみんな、西洋せいよう人ひとにかぶれているから、わざわざ呑気のんきな扁舟へんしゅうを泛べうかべてこの桃源とうげんに溯るさかのぼるものはないようだ。
余よは固よりもとより詩人しじんを職業しょくぎょうにしておらんから、王維おういや淵明えんめいの境界きょうかいを今いまの世よに布教ふきょうして広げようひろげようと云ういう心掛こころがけも何なんもない。
ただ自分じぶんにはこう云ういう感興かんきょうが演芸会えんげいかいよりも舞踏会ぶとうかいよりも薬くすりになるように思わおもわれる。
ファウストふぁうすとよりも、ハムレットはむれっとよりもありがたく考えかんがえられる。
こうやって、ただ一人ひとり絵の具えのぐ箱ばこと三脚さんきゃく几つくえを担いにないで春はるの山路やまじをのそのそあるくのも全くまったくこれがためである。
淵明えんめい、王維おういの詩境しきょうを直接ちょくせつに自然しぜんから吸収きゅうしゅうして、すこしの間までも非人情ひにんじょうの天地てんちに逍遥しょうようしたいからの願がん。
一いちつの酔興すいきょうだ。
もちろん人間にんげんの一いち分子ぶんしだから、いくら好きすきでも、非人情ひにんじょうはそう長くながく続くつづく訳わけには行かいかぬ。
淵明えんめいだって年ねんが年中ねんじゅう南山なんざんを見詰めみつめていたのでもあるまいし、王維おういも好んこのんで竹藪たけやぶの中なかに蚊帳かやを釣らつらずに寝ねた男おとこでもなかろう。
やはり余っよった菊きくは花屋はなやへ売りうりこかして、生えはえた筍たけのこは八百屋やおやへ払い下げはらいさげたものと思うおもう。
こう云ういう余よもその通りとおり。
いくら雲雀ひばりと菜の花なのはなが気きに入っはいったって、山やまのなかへ野宿のじゅくするほど非人情ひにんじょうが募っつのってはおらん。
こんな所ところでも人間にんげんに逢うあう。
じんじん端折りじんじんばしょりの頬冠りほおかむりや、赤いあかい腰巻こしまきの姉さんあねさんや、時じには人間にんげんより顔かおの長いながい馬うまにまで逢うあう。
百万ひゃくまん本ほんの檜ひのきに取り囲まとりかこまれて、海面かいめんを抜くぬく何百なんびゃく尺さしかの空気くうきを呑んのんだり吐いはいたりしても、人ひとの臭いくさいはなかなか取れとれない。
それどころか、山やまを越えこえて落ちつくおちつく先さきの、今宵こよいの宿やどは那古なこ井いの温泉場おんせんじょうだ。
ただ、物ものは見み様ようでどうでもなる。
レオナルド・ダ・ヴィンチれおなるど・だ・ゔぃんちが弟子でしに告げつげた言げんに、あの鐘かねの音おとを聞けきけ、鐘かねは一いちつだが、音おとはどうとも聞かきかれるとある。
一人ひとりの男おとこ、一人ひとりの女おんなも見み様よう次第しだいでいかようとも見立てみたてがつく。
どうせ非人情ひにんじょうをしに出掛けでかけた旅たびだから、そのつもりで人間にんげんを見みたら、浮世うきよ小路こうじの何なん軒のき目めに狭苦しくせまくるしく暮しくらした時じとは違うちがうだろう。
よし全くまったく人情にんじょうを離れるはなれる事ことが出来できんでも、せめて御ご能のう拝見はいけんの時じくらいは淡いあわい心持ちこころもちにはなれそうなものだ。
能のうにも人情にんじょうはある。
七なな騎き落おちでも、墨田すみだ川かわでも泣かなきかぬとは保証ほしょうが出来できん。
しかしあれは情じょう三さん分ぶん芸げい七なな分ぶんで見せるみせるわざだ。
我われらが能のうから享けるうけるありがた味あじは下界かかいの人情にんじょうをよくそのままに写すうつす手際てぎわから出でてくるのではない。
そのままの上うえへ芸術げいじゅつという着物きものを何枚なんまいも着せきせて、世の中よのなかにあるまじき悠長ゆうちょうな振舞ふるまいをするからである。
しばらくこの旅たび中なかに起るおこる出来事できごとと、旅たび中なかに出逢うであう人間にんげんを能のうの仕組しくみと能役者のうやくしゃの所作しょさに見立てみたてたらどうだろう。
まるで人情にんじょうを棄てるすてる訳わけには行くいくまいが、根ねが詩的してきに出来できた旅たびだから、非人情ひにんじょうのやりついでに、なるべく節倹せっけんしてそこまでは漕ぎつけこぎつけたいものだ。
南山なんざんや幽ゆう篁たかむらとは性せいの違っちがったものに相違そういないし、また雲雀ひばりや菜の花なのはなといっしょにする事ことも出来できまいが、なるべくこれに近づけちかづけて、近づけちかづけ得るうる限りかぎりは同じおなじ観察かんさつ点てんから人間にんげんを視みてみたい。
芭蕉ばしょうと云ういう男おとこは枕元まくらもとへ馬うまが尿にょうするのをさえ雅みやびな事ことと見立てみたてて発句ほっくにした。
余よもこれから逢うあう人物じんぶつを――百姓ひゃくしょうも、町人ちょうにんも、村役場むらやくばの書記しょきも、爺じいさんも婆ばあさんも――ことごとく大自然だいしぜんの点景てんけいとして描き出さえがきだされたものと仮定かていして取とりこなして見ようみよう。
もっとも画中がちゅうの人物じんぶつと違っちがって、彼かれらはおのがじし勝手かってな真似まねをするだろう。
しかし普通ふつうの小説家しょうせつかのようにその勝手かってな真似まねの根本こんぽんを探もとむぐって、心理しんり作用さように立ち入ったちいったり、人事じんじ葛藤かっとうの詮議せんぎ立てたてをしては俗ぞくになる。
動いうごいても構わかまわない。
画中がちゅうの人間にんげんが動くうごくと見れみれば差しさし支しない。
画中がちゅうの人物じんぶつはどう動いうごいても平面へいめん以外いがいに出でられるものではない。
平面へいめん以外いがいに飛び出しとびだして、立方りっぽう的まとに働くはたらくと思えおもえばこそ、こっちと衝突しょうとつしたり、利害りがいの交渉こうしょうが起っおこったりして面倒めんどうになる。
面倒めんどうになればなるほど美的びてきに見みている訳わけに行かいかなくなる。
これから逢うあう人間にんげんには超然ちょうぜんと遠きとおき上うえから見物けんぶつする気きで、人情にんじょうの電気でんきがむやみに双方そうほうで起らおこらないようにする。
そうすれば相手あいてがいくら働いはたらいても、こちらの懐ふところには容易よういに飛び込めとびこめない訳わけだから、つまりは画がの前まえへ立ったって、画中がちゅうの人物じんぶつが画面がめんの中なかをあちらこちらと騒ぎさわぎ廻るまわるのを見るみるのと同じおなじ訳わけになる。
間ま三さん尺さしも隔てへだてていれば落ちついおちついて見みられる。
あぶな気きなしに見みられる。
言げんを換えかえて云えいえば、利害りがいに気きを奪わうばわれないから、全力ぜんりょくを挙げあげて彼かれらの動作どうさを芸術げいじゅつの方面ほうめんから観察かんさつする事ことが出来るできる。
余念よねんもなく美びか美びでないかと鑒かん識しきする事ことが出来るできる。
ここまで決心けっしんをした時じ、空そらがあやしくなって来きた。
煮えにえ切れきれない雲くもが、頭あたまの上うえへ靠垂れたれ懸っかかっていたと思っおもったが、いつのまにか、崩れくずれ出しだして、四方しほうはただ雲くもの海うみかと怪しまあやしまれる中なかから、しとしとと春はるの雨あめが降りふり出しだした。
菜の花なのはなは疾くとくに通りとおり過しすごして、今いまは山やまと山やまの間まを行くいくのだが、雨あめの糸いとが濃こかでほとんど霧きりを欺くあざむくくらいだから、隔たりへだたりはどれほどかわからぬ。
時々ときどき風かぜが来きて、高いたかい雲くもを吹き払うふきはらうとき、薄黒いうすぐろい山の背やまのせが右手みぎてに見えるみえる事ことがある。
何なんでも谷たに一いちつ隔てへだてて向うむこうが脈みゃくの走っはしっている所ところらしい。
左ひだりはすぐ山やまの裾すそと見えるみえる。
深くふかく罩めるこめる雨あめの奥おくから松まつらしいものが、ちょくちょく顔かおを出すだす。
出すだすかと思うおもうと、隠れるかくれる。
雨あめが動くうごくのか、木きが動くうごくのか、夢ゆめが動くうごくのか、何なんとなく不思議ふしぎな心持ちこころもちだ。
路みちは存外ぞんがい広くひろくなって、かつ平たいらだから、あるくに骨ほねは折れおれんが、雨具あまぐの用意よういがないので急ぐいそぐ。
帽子ぼうしから雨垂れあまだれがぽたりぽたりと落つるおつる頃ころ、五六ごろく間ま先きさきから、鈴すずの音おとがして、黒いくろい中なかから、馬子まごがふうとあらわれた。
「ここらに休むやすむ所ところはないかね」「もう十五丁じゅうごちょう行くいくと茶屋ちゃやがありますよ。だいぶ濡れぬれたね」 まだ十五じゅうご丁ていかと、振り向いふりむいているうちに、馬子まごの姿すがたは影画かげえのように雨あめにつつまれて、またふうと消えきえた。
糠ぬかのように見えみえた粒つぶは次第しだいに太くふとく長くながくなって、今いまは一筋ひとすじごとに風かぜに捲かまかれる様ようまでが目めに入るはいる。
羽織はおりはとくに濡れぬれ尽しつくして肌着はだぎに浸み込んしみこんだ水みずが、身体しんたいの温度おんどで生なま暖くあたたかく感ぜかんぜられる。
気持きもちがわるいから、帽ぼうを傾けかたむけて、すたすた歩行くあるく。
茫々ぼうぼうたる薄うす墨色すみいろの世界せかいを、幾いく条じょうの銀箭ぎんせんが斜めななめに走るはしるなかを、ひたぶるに濡れぬれて行くいくわれを、われならぬ人ひとの姿すがたと思えおもえば、詩しにもなる、句くにも咏まれる。
有体ありていなる己れおのれを忘れわすれ尽しつくして純じゅん客観きゃっかんに眼めをつくる時じ、始めはじめてわれは画中がちゅうの人物じんぶつとして、自然しぜんの景物けいぶつと美しきうつくしき調和ちょうわを保つたもつ。
ただ降るふる雨あめの心苦しくこころぐるしくて、踏むふむ足あしの疲れつかれたるを気きに掛けるかける瞬間しゅんかんに、われはすでに詩し中なかの人ひとにもあらず、画が裡りの人ひとにもあらず。
依然いぜんとして市井しせいの一いち豎子じゅしに過ぎすぎぬ。
雲煙うんえん飛ひ動どうの趣おもむきも眼めに入らはいらぬ。
落花らっか啼鳥ていちょうの情けなさけも心こころに浮ばうかばぬ。
蕭々しょうしょうとして独りひとり春山はるやまを行くいく吾われの、いかに美しきうつくしきかはなおさらに解せげせぬ。
初めはじめは帽ぼうを傾けかたむけて歩行ほこうた。
後あとにはただ足あしの甲こうのみを見詰めみつめてあるいた。
終りおわりには肩かたをすぼめて、恐る恐るおそるおそる歩行ほこうた。
雨あめは満目まんもくの樹梢じゅしょうを揺かわななかして四方しほうより孤客こかくに逼るせまる。
非人情ひにんじょうがちと強きょう過ぎすぎたようだ。
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