草枕

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五

第 5 章
「失礼しつれいですが旦那だんなは、やっぱり東京とうきょうですか」「東京とうきょうと見えるみえるかい」「見えるみえるかいって、一目いちもく見りゃみりゃあ、――第だい一いち言葉ことばでわかりまさあ」「東京とうきょうはどこだか知れるしれるかい」「そうさね。東京とうきょうは馬鹿ばかに広いひろいからね。――何なんでも下町したまちじゃねえようだ。山の手やまのてだね。山の手やまのては麹町こうじまちかね。え? それじゃ、小石川こいしかわ? でなければ牛込うしごめか四谷よつやでしょう」「まあそんな見当けんとうだろう。よく知っしってるな」「こう見えみえて、私わたくしも江戸っ子えどっこだからね」「道理どうりで生粋きっすいだと思っおもったよ」「えへへへへ。からっきし、どうも、人間にんげんもこうなっちゃ、みじめですぜ」「何なんでまたこんな田舎いなかへ流れ込んながれこんで来きたのだい」「ちげえねえ、旦那だんなのおっしゃる通りとおりだ。全くまったく流れ込んながれこんだんだからね。すっかり食い詰めくいつめっちまって……」「もとから髪結床かみゆいゆかの親方おやかたかね」「親方おやかたじゃねえ、職人しょくにんさ。え? 所ところかね。所ところは神田松永町かんだまつながまちでさあ。なあに猫ねこの額がく見みたような小さなちいさな汚ねえきたねえ町まちでさあ。旦那だんななんか知らしらねえはずさ。あすこに竜りゅう閑かん橋はしてえ橋はしがありましょう。え? そいつも知らしらねえかね。竜りゅう閑かん橋はしゃ、名代なだいな橋はしだがね」「おい、もう少しすこし、石鹸せっけんを塗ぬりけてくれないか、痛くいたくって、いけない」「痛ういとうがすかい。私ゃわたしゃ癇性かんしょうでね、どうも、こうやって、逆ぎゃく剃そりをかけて、一いち本ほん一いち本ほん髭ひげの穴あなを掘らほらなくっちゃ、気きが済ますまねえんだから、――なあに今時いまどきの職人しょくにんなあ、剃るそるんじゃねえ、撫でるなでるんだ。もう少しすこしだ我慢がまんおしなせえ」「我慢がまんは先さきから、もうだいぶしたよ。御ご願がんだから、もう少しすこし湯ゆか石鹸せっけんをつけとくれ」「我慢がまんしきれねえかね。そんなに痛いたかあねえはずだが。全体ぜんたい、髭ひげがあんまり、延びのび過ぎすぎてるんだ」 やけに頬ほおの肉にくをつまみ上げつまみあげた手てを、残念ざんねんそうに放しはなした親方おやかたは、棚たなの上うえから、薄うすっ片かたな赤いあかい石鹸せっけんを取りとり卸おろしろして、水みずのなかにちょっと浸しひたしたと思っおもったら、それなり余よの顔かおをまんべんなく一応いちおう撫でなで廻わしまわした。
裸はだか石鹸せっけんを顔かおへ塗りつけぬりつけられた事ことはあまりない。
しかもそれを濡らしぬらした水みずは、幾いく日ひ前まえに汲んくんだ、溜めため置きおきかと考えるかんがえると、余りあまりぞっとしない。
すでに髪結床かみゆいゆかである以上いじょうは、御客ごきゃくの権利けんりとして、余よは鏡かがみに向わむかわなければならん。
しかし余よはさっきからこの権利けんりを放棄ほうきしたく考えかんがえている。
鏡かがみと云ういう道具どうぐは平らたいらに出来できて、なだらかに人ひとの顔かおを写さうつさなくては義理ぎりが立たたたぬ。
もしこの性質せいしつが具わらそなわらない鏡かがみを懸けかけて、これに向えむかえと強いるしいるならば、強いるしいるものは下手へたな写真しゃしん師しと同じくおなじく、向うむこうものの器量きりょうを故意こいに損害そんがいしたと云わいわなければならぬ。
虚栄心きょえいしんを挫くくじくのは修養しゅうよう上うえ一種いっしゅの方便ほうべんかも知れしれぬが、何なんも己れおのれの真価しんか以下いかの顔かおを見せみせて、これがあなたですよと、こちらを侮辱ぶじょくするには及ぶおよぶまい。
今いま余よが辛抱しんぼうして向き合うむきあうべく余儀よぎなくされている鏡かがみはたしかに最前さいぜんから余よを侮辱ぶじょくしている。
右みぎを向くむくと顔かお中鼻なかはなになる。
左ひだりを出すだすと口くちが耳元みみもとまで裂けるさける。
仰向くあおむくと蟇ひき蛙かわずを前まえから見みたように真平まっぴらに圧し潰さおしつぶされ、少しすこしこごむと福禄寿ふくろくじゅの祈誓きせい児このように頭あたまがせり出しせりだしてくる。
いやしくもこの鏡かがみに対するたいする間まは一人ひとりでいろいろな化物ばけものを兼勤けんきんしなくてはならぬ。
写るうつるわが顔かおの美術びじゅつ的まとならぬはまず我慢がまんするとしても、鏡かがみの構造こうぞうやら、色合いろあいや、銀紙ぎんがみの剥げ落ちはげおちて、光線こうせんが通り抜けるとおりぬける模様もようなどを総合そうごうして考えるかんがえると、この道具どうぐその物ものからが醜体しゅうたいを極めきわめている。
小人こびとから罵詈ばりされるとき、罵詈ばりそれ自身じしんは別べつに痛痒つうようを感ぜかんぜぬが、その小人こびとの面前めんぜんに起臥きがしなければならぬとすれば、誰だれしも不愉快ふゆかいだろう。
その上うえこの親方おやかたがただの親方おやかたではない。
そとから覗いのぞいたときは、胡坐こざをかいて、長なが煙管きせるで、おもちゃの日英にちえい同盟どうめい国旗こっきの上うえへ、しきりに煙草たばこを吹きつけふきつけて、さも退屈たいくつ気きに見えみえたが、這入っはいって、わが首くびの所ところ置おけを托するたくする段だんになって驚ろいおどろいた。
髭ひげを剃るそる間まは首くびの所有権しょゆうけんは全くまったく親方おやかたの手てにあるのか、はた幾分いくぶんかは余よの上うえにも存するそんするのか、一人ひとりで疑がいうたがい出しだしたくらい、容赦ようしゃなく取り扱わとりあつかわれる。
余よの首くびが肩かたの上うえに釘付けくぎづけにされているにしてもこれでは永くながく持たもたない。
彼かれは髪剃かみそりを揮うふるうに当っあたって、毫もごうも文明ぶんめいの法則ほうそくを解しかいしておらん。
頬ほおにあたる時じはがりりと音おとがした。
揉みもみ上うえの所ところではぞきりと動脈どうみゃくが鳴っなった。
顋あごのあたりに利刃りじんがひらめく時分じぶんにはごりごり、ごりごりと霜柱しもばしらを踏みつけるふみつけるような怪しいあやしい声こえが出でた。
しかも本人ほんにんは日本一にっぽんいちの手腕しゅわんを有するゆうする親方おやかたをもって自任じにんしている。
最後さいごに彼かれは酔っ払っよっぱらっている。
旦那だんなえと云ういうたんびに妙みょうな臭いくさいがする。
時々ときどきは異ないな瓦斯がすを余よが鼻柱はなばしらへ吹き掛けるふきかける。
これではいつ何時なんじ、髪剃かみそりがどう間違っまちがって、どこへ飛んとんで行くいくか解らわからない。
使うつかう当人とうにんにさえ判然はんぜんたる計画けいかくがない以上いじょうは、顔かおを貸しかした余よに推察すいさつのできようはずがない。
得心とくしんずくで任せまかせた顔かおだから、少しすこしの怪我けがなら苦情くじょうは云わいわないつもりだが、急きゅうに気きが変っかわって咽のど喉笛のどぶえでも掻き切らかききられては事ことだ。
「石鹸せっけんなんぞを、つけて、剃るそるなあ、腕うでが生なまなんだが、旦那だんなのは、髭ひげが髭ひげだから仕方しかたがあるめえめー」と云いいいながら親方おやかたは裸はだか石鹸せっけんを、裸はだかのまま棚たなの上うえへ放り出すほうりだすと、石鹸せっけんは親方おやかたの命令めいれいに背いそむいて地面じめんの上うえへ転がり落ちころがりおちた。
「旦那だんなあ、あんまり見受けみうけねえようだが、何なんですかい、近頃ちかごろ来きなすったのかい」「二三にさん日ひ前まえ来きたばかりさ」「へえ、どこにいるんですい」「志保田しほでんに逗とうってるよ」「うん、あすこの御客ごきゃくさんですか。おおかたそんな事ことたろうと思っおもってた。実じつあ、私わたくしもあの隠居いんきょさんを頼らいて来きたんですよ。――なにね、あの隠居いんきょが東京とうきょうにいた時分じぶん、わっしが近所きんじょにいて、――それで知っしってるのさ。いい人ひとでさあ。ものの解っわかったね。去年きょねん御新造ごしんぞうが死んしんじまって、今いまじゃ道具どうぐばかり捻くっひねくってるんだが――何なんでも素晴らしいすばらしいものが、有るあるてえますよ。売っうったらよっぽどな金目かねめだろうって話さはなさ」「奇麗きれいな御嬢ごじょうさんがいるじゃないか」「あぶねえね」「何なんが?」「何なんがって。旦那だんなの前まえだが、あれで出で返りかえりですぜ」「そうかい」「そうかいどころの騒さわぎじゃねえんだね。全体ぜんたいなら出でて来きなくってもいいところをさ。――銀行ぎんこうが潰れつぶれて贅沢ぜいたくが出来できねえって、出でちまったんだから、義理ぎりが悪るいわるいやね。隠居いんきょさんがああしているうちはいいが、もしもの事ことがあった日ひにゃ、法ほう返しかえしがつかねえ訳わけになりまさあ」「そうかな」「当り前あたりまえでさあ。本家ほんけの兄あにたあ、仲なかがわるしさ」「本家ほんけがあるのかい」「本家ほんけは岡おかの上うえにありまさあ。遊びあそびに行っいって御覧ごらんなさい。景色けしきのいい所ところですよ」「おい、もう一遍いちぺん石鹸せっけんをつけてくれないか。また痛くいたくなって来きた」「よく痛くいたくなる髭ひげだね。髭ひげが硬かた過ぎるすぎるからだ。旦那だんなの髭ひげじゃ、三さん日ひに一度いちどは是非ぜひ剃そりを当てあてなくっちゃ駄目だめですぜ。わっしの剃そりで痛けりゃいたけりゃ、どこへ行っいったって、我慢がまん出来できっこねえ」「これから、そうしよう。何なんなら毎日まいにち来きてもいい」「そんなに長くながく逗留とうりゅうする気きなんですか。あぶねえ。およしなせえ。益えきもねえ事ことった。碌ろくでもねえものに引っかかっひっかかって、どんな目めに逢うあうか解りわかりませんぜ」「どうして」「旦那だんなあの娘むすめは面めんはいいようだが、本当ほんとうはき印きじるししですぜ」「なぜ」「なぜって、旦那だんな。村むらのものは、みんな気狂きちがいだって云っいってるんでさあ」「そりゃ何なんかの間ま違いだろう」「だって、現にげんに証拠しょうこがあるんだから、御ごよしなせえ。けんのんだ」「おれは大丈夫だいじょうぶだが、どんな証拠しょうこがあるんだい」「おかしな話しはなしさね。まあゆっくり、煙草たばこでも呑んのんで御ご出でなせえ話すはなすから。――頭あたまあ洗いあらいましょうか」「頭あたまはよそう」「頭あたま垢あかだけ落しおとして置くおくかね」 親方おやかたは垢あかの溜ったまった十じゅう本ほんの爪つめを、遠慮えんりょなく、余よが頭蓋骨ずがいこつの上うえに並べならべて、断わりことわりもなく、前後ぜんごに猛烈もうれつなる運動うんどうを開始かいしした。
この爪つめが、黒髪くろかみの根ねを一いち本ほんごとに押し分けおしわけて、不毛ふもうの境さかいを巨人きょじんの熊手くまでが疾風しっぷうの速度そくどで通るとおるごとくに往来おうらいする。
余よが頭あたまに何十なんじゅう万まん本ほんの髪の毛かみのけが生えはえているか知らしらんが、ありとある毛けがことごとく根こぎねこぎにされて、残るのこる地面じめんがべた一面いちめんに蚯蚓みみず腫しゅにふくれ上っふくれあがった上うえ、余勢よせいが地ち磐いわを通しとおして、骨ほねから脳味噌のうみそまで震盪しんとうを感じかんじたくらい烈しくはげしく、親方おやかたは余よの頭あたまを掻きかき廻わしまわした。
「どうです、好いよい心持こころもちでしょう」「非常ひじょうな辣腕らつわんだ」「え? こうやると誰だれでもさっぱりするからね」「首くびが抜けぬけそうだよ」「そんなに倦怠けんたいうがすかい。全くまったく陽気ようきの加減かげんだね。どうも春はるてえ奴やつあ、やに身体しんたいがなまけやがって――まあ一いちぷく御ご上がんあがんなさい。一人ひとりで志保田しほでんにいちゃ、退屈たいくつでしょう。ちと話しはなしに御ご出でなせえ。どうも江戸っ子えどっこは江戸っ子えどっこ同志どうしでなくっちゃ、話しはなしが合わあわねえものだから。何なんですかい、やっぱりあの御嬢ごじょうさんが、御愛想ごあいそに出でてきますかい。どうもさっぱし、見境みさかいのねえ女おんなだから困っこまっちまわあ」「御嬢ごじょうさんが、どうとか、したところで頭あたま垢あかが飛んとんで、首くびが抜けぬけそうになったっけ」「違いねえ、がんがらがんだから、からっきし、話はなしに締りしまりがねえったらねえ。――そこでその坊主ぼうずが逆ぎゃくせちまって……」「その坊主ぼうずたあ、どの坊主ぼうずだい」「観海みかい寺てらの納所なっしょ坊主ぼうずがさ……」「納所なっしょにも住持じゅうじにも、坊主ぼうずはまだ一人ひとりも出でて来きないんだ」「そうか、急きゅう勝かちだから、いけねえ。苦味走っにがみばしった、色いろの出来できそうな坊主ぼうずだったが、そいつが御前ごぜんさん、レコれこに参っまいっちまって、とうとう文ぶんをつけたんだ。――おや待てまてよ。口説くぜつたんだっけかな。いんにゃ文ぶんだ。文ぶんに違えちがえねえ。すると――こうっと――何なんだか、行きいきさつが少しすこし変へんだぜ。うん、そうか、やっぱりそうか。するてえと奴やつさん、驚ろいおどろいちまってからに……」「誰だれが驚ろいおどろいたんだい」「女おんながさ」「女おんなが文ぶんを受け取っうけとって驚ろいおどろいたんだね」「ところが驚ろくおどろくような女おんななら、殊勝しゅしょうらしいんだが、驚ろくおどろくどころじゃねえ」「じゃ誰だれが驚ろいおどろいたんだい」「口説くぜつた方ほうがさ」「口説くぜつないのじゃないか」「ええ、じれってえ。間違っまちがってらあ。文ぶんをもらってさ」「それじゃやっぱり女おんなだろう」「なあに男おとこがさ」「男おとこなら、その坊主ぼうずだろう」「ええ、その坊主ぼうずがさ」「坊主ぼうずがどうして驚ろいおどろいたのかい」「どうしてって、本堂ほんどうで和尚おしょうさんと御ご経きょうを上げあげてると、突然とつぜんあの女おんなが飛び込んとびこんで来きて――ウフフフフうふふふふ。どうしても狂きょう印しるしだね」「どうかしたのかい」「そんなに可愛いかわいいなら、仏ふつ様ようの前まえで、いっしょに寝ようねようって、出し抜けだしぬけに、泰安たいあんさんの頸くびっ玉たまへかじりついたんでさあ」「へええ」「面めん喰っくったなあ、泰安たいあんさ。気狂きちがいに文ぶんをつけて、飛んとんだ恥はじを掻かかかせられて、とうとう、その晩ばんこっそり姿すがたを隠しかくして死んしんじまって……」「死んしんだ?」「死んしんだろうと思うおもうのさ。生きいきちゃいられめえめー」「何なんとも云えいえない」「そうさ、相手あいてが気狂きちがいじゃ、死んしんだって冴えさえねえから、ことによると生きいきてるかも知れしれねえね」「なかなか面白いおもしろい話はなしだ」「面白いおもしろいの、面白くおもしろくないのって、村中むらなか大笑いおおわらいでさあ。ところが当人とうにんだけは、根ねが気きが違っちがってるんだから、洒唖洒唖して平気へいきなもんで――なあに旦那だんなのようにしっかりしていりゃ大丈夫だいじょうぶですがね、相手あいてが相手あいてだから、滅多めったにからかったり何なんかすると、大変たいへんな目めに逢いあいますよ」「ちっと気きをつけるかね。ははははは」 生温いなまぬりい磯いそから、塩気しおけのある春風しゅんぷうがふわりふわりと来きて、親方おやかたの暖簾のれんを眠たねむたそうに煽るあおる。
身みを斜しゃにしてその下したをくぐり抜けるくぐりぬける燕えんの姿すがたが、ひらりと、鏡かがみの裡りに落ちおちて行くいく。
向うむこうの家いえでは六十ろくじゅうばかりの爺じいさんが、軒下のきしたに蹲踞まりうずくまりながら、だまって貝かいをむいている。
かちゃりと、小刀しょうとうがあたるたびに、赤いあかい味あじが笊ざるのなかに隠れるかくれる。
殻からはきらりと光りひかりを放っはなって、二に尺さしあまりの陽炎かげろうを向むかいへ横切るよこぎる。
丘おかのごとくに堆たいかく、積み上げつみあげられた、貝殻かいがらは牡蠣かきか、馬鹿ばかか、馬刀貝まてがいか。
崩れくずれた、幾分いくぶんは砂川すながわの底そこに落ちおちて、浮世うきよの表ひょうから、暗あんらい国くにへ葬らほうむられる。
葬らほうむられるあとから、すぐ新しいあたらしい貝かいが、柳やなぎの下したへたまる。
爺じいさんは貝かいの行末ぎょうまつを考うるかんがうる暇ひまさえなく、ただ空そらしき殻からを陽炎かげろうの上うえへ放り出すほうりだす。
彼れあれの笊ざるには支うかうべき底そこなくして、彼れあれの春はるの日ひは無尽蔵むじんぞうに長閑かのどかと見えるみえる。
砂川すながわは二に間まに足らあしらぬ小橋こばしの下したを流れながれて、浜はまの方ほうへ春はるの水みずをそそぐ。
春はるの水みずが春はるの海うみと出合うであうあたりには、参差しんしとして幾いく尋ひろの干かん網あみが、網の目あみのめを抜けぬけて村むらへ吹くふく軟風なんぷうに、腥なまぐさき微温びおんを与えあたえつつあるかと怪しまあやしまれる。
その間まから、鈍刀どんとうを溶かしとかして、気長きながにのたくらせたように見えるみえるのが海うみの色いろだ。
この景色けしきとこの親方おやかたとはとうてい調和ちょうわしない。
もしこの親方おやかたの人格じんかくが強烈きょうれつで四辺しへんの風光ふうこうと拮抗きっこうするほどの影響えいきょうを余よの頭脳ずのうに与えあたえたならば、余よは両者りょうしゃの間まに立ったってすこぶる円えん※方ほう鑿のみの感かんに打たうたれただろう。
幸みゆきにして親方おやかたはさほど偉大いだいな豪傑ごうけつではなかった。
いくら江戸っ子えどっこでも、どれほどたんかを切っきっても、この渾然こんぜんとして駘蕩たいとうたる天地てんちの大おお気象きしょうには叶わかなわない。
満腹まんぷくの饒舌にょうぜつを弄しろうして、あくまでこの調子ちょうしを破ろうやぶろうとする親方おやかたは、早くはやく一いち微塵みじんとなって、怡々いいたる春光しゅんこうの裏うらに浮遊ふゆうしている。
矛盾むじゅんとは、力ちからにおいて、量りょうにおいて、もしくは意気いき体躯たいくにおいて氷炭ひょうたん相そう容すがたるる能わあたわずして、しかも同どう程度ていどに位くらいする物ものもしくは人ひとの間まに在っあって始めはじめて、見出しみだし得とくべき現象げんしょうである。
両者りょうしゃの間隔かんかくがはなはだしく懸絶けんぜつするときは、この矛盾むじゅんはようやく※※磨しまして、かえって大おお勢力せいりょくの一部いちぶとなって活動かつどうするに至るいたるかも知れしれぬ。
大人おとなの手足てあしとなって才子さいしが活動かつどうし、才子さいしの股肱ここうとなって昧まい者ものが活動かつどうし、昧まい者ものの心腹しんぷくとなって牛馬ぎゅうばが活動かつどうし得るうるのはこれがためである。
今いまわが親方おやかたは限りなきかぎりなき春はるの景色けしきを背景はいけいとして、一種いっしゅの滑稽こっけいを演じえんじている。
長閑のどかな春はるの感じかんじを壊すこわすべきはずの彼かれは、かえって長閑のどかな春はるの感じかんじを刻意こくいに添えそえつつある。
余よは思わおもわず弥生やよい半ばなかばに呑気のんきな弥次やじと近づきちかづきになったような気持ちきもちになった。
この極めてきわめて安価あんかなる気き※家いえは、太平たいへいの象ぞうを具しぐしたる春はるの日ひにもっとも調和ちょうわせる一いち彩色さいしきである。
こう考えるかんがえると、この親方おやかたもなかなか画がにも、詩しにもなる男おとこだから、とうに帰るかえるべきところを、わざと尻しりを据えすえて四方しほう八方はっぽうの話はなしをしていた。
ところへ暖簾のれんを滑っすべって小さなちいさな坊主頭ぼうずあたまが「御免ごめん、一いちつ剃っそって貰おうもらおうか」と這入っはいって来るくる。
白しろ木綿もめんの着物きものに同じおなじ丸絎まるぐけの帯おびをしめて、上うえから蚊帳かやのように粗いあらい法衣ほういを羽織っはおって、すこぶる気楽きらくに見えるみえる小坊主しょうぼうずであった。
「了りょう念ねんさん。どうだい、こないだあ道草みちくさあ、食っしょくって、和尚おしょうさんに叱らしかられたろう」「いんにゃ、褒めほめられた」「使しに出でて、途中とちゅうで魚さかななんか、とっていて、了りょう念ねんは感心かんしんだって、褒めほめられたのかい」「若いわかいに似にず了りょう念ねんは、よく遊んあそんで来きて感心かんしんじゃ云ういうて、老師ろうしが褒めほめられたのよ」「道理どうりで頭あたまに瘤こぶが出来できてらあ。そんな不作法ふさほうな頭あたまあ、剃るそるなあ骨ほねが折れおれていけねえ。今日きょうは勘弁かんべんするから、この次つぎから、捏ねこね直しなおして来きねえ」「捏ねこね直すなおすくらいなら、ますこし上手じょうずな床屋とこやへ行きいきます」「はははは頭あたまは凹凸おうとつだが、口くちだけは達者たっしゃなもんだ」「腕うでは鈍いにぶいが、酒さけだけ強いつよいのは御前ごぜんだろ」「箆棒べらぼうめ、腕うでが鈍いにぶいって……」「わしが云ういうたのじゃない。老師ろうしが云わいわれたのじゃ。そう怒るおこるまい。年甲斐としがいもない」「ヘンへん、面白くおもしろくもねえ。――ねえ、旦那だんな」「ええ?」「全体ぜんたい坊主ぼうずなんてえものは、高いたかい石段いしだんの上うえに住んすんでやがって、屈托くったくがねえから、自然しぜんに口くちが達者たっしゃになる訳わけですかね。こんな小坊主しょうぼうずまでなかなか口幅ってえくちはばってえ事ことを云いいいますぜ――おっと、もう少しすこし頭あたまを寝かしねかして――寝かすねかすんだてえのに、――言うゆう事ことを聴かきかなけりゃ、切るきるよ、いいか、血ちが出るでるぜ」「痛いいたいがな。そう無茶むちゃをしては」「このくらいな辛抱しんぼうが出来できなくって坊主ぼうずになれるもんか」「坊主ぼうずにはもうなっとるがな」「まだ一人前いちにんまえじゃねえ。――時じにあの泰安たいあんさんは、どうして死んしんだっけな、御ご小僧こぞうさん」「泰安たいあんさんは死しにはせんがな」「死なしなねえ? はてな。死んしんだはずだが」「泰安たいあんさんは、その後あと発憤はっぷんして、陸前りくぜんの大梅だいばい寺てらへ行っいって、修業しゅぎょう三昧さんまいじゃ。今いまに智識ちしきになられよう。結構けっこうな事ことよ」「何なんが結構けっこうだい。いくら坊主ぼうずだって、夜よる逃とうをして結構けっこうな法ほうはあるめえめー。御前ごぜんなんざ、よく気きをつけなくっちゃいけねえぜ。とかく、しくじるなあ女おんなだから――女おんなってえば、あの狂きょう印しるしはやっぱり和尚おしょうさんの所ところへ行くいくかい」「狂きょう印しるしと云ういう女おんなは聞いきいた事ことがない」「通じつうじねえ、味あじ噌擂だ。行くいくのか、行かいかねえのか」「狂きょう印しるしは来きんが、志保田しほでんの娘むすめさんなら来るくる」「いくら、和尚おしょうさんの御ご祈祷きとうでもあればかりゃ、癒るなおるめえめー。全くまったく先さきの旦那だんなが祟ったたってるんだ」「あの娘むすめさんはえらい女おんなだ。老師ろうしがよう褒めほめておられる」「石段いしだんをあがると、何なんでも逆様さかさまだから叶わかなわねえ。和尚おしょうさんが、何なんて云っいったって、気狂きちがいは気狂きちがいだろう。――さあ剃れそれたよ。早くはやく行っいって和尚おしょうさんに叱らしかられて来きめえめー」「いやもう少しすこし遊んあそんで行っいって賞めほめられよう」「勝手にかってにしろ、口くちの減らへらねえ餓鬼がきだ」「咄はなしこの乾いぬい屎くそ※」「何なんだと?」 青いあおい頭あたまはすでに暖簾のれんをくぐって、春風しゅんぷうに吹かふかれている。
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