草枕

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十

第 10 章
鏡かがみが池いけへ来きて見るみる。
観海みかい寺てらの裏道うらみちの、杉すぎの間まから谷たにへ降りふりて、向うむこうの山やまへ登らのぼらぬうちに、路みちは二股ふたまたに岐れわかれて、おのずから鏡かがみが池いけの周囲しゅういとなる。
池いけの縁えんには熊笹くまざさが多いおおい。
ある所ところは、左右さゆうから生いいい重なっかさなって、ほとんど音おとを立てたてずには通れとおれない。
木の間このまから見るみると、池いけの水みずは見えるみえるが、どこで始まっはじまって、どこで終るおわるか一応いちおう廻っまわった上うえでないと見当けんとうがつかぬ。
あるいて見るみると存外ぞんがい小さいちいさい。
三さん丁ていほどよりあるまい。
ただ非常ひじょうに不規則ふきそくな形かたちちで、ところどころに岩いわが自然しぜんのまま水際みずぎわに横わっよこたわっている。
縁えんの高さたかさも、池いけの形かたちの名状めいじょうしがたいように、波なみを打っうって、色々いろいろな起伏きふくを不規則ふきそくに連ねつらねている。
池いけをめぐりては雑木ぞうきが多いおおい。
何百なんびゃく本ほんあるか勘定かんじょうがし切れきれぬ。
中なかには、まだ春はるの芽めを吹いふいておらんのがある。
割合わりあいに枝えだの繁しげるまない所ところは、依然いぜんとして、うららかな春はるの日ひを受けうけて、萌え出でもえいでた下草したくささえある。
壺菫つぼすみれの淡あわき影かげが、ちらりちらりとその間まに見えるみえる。
日本にっぽんの菫すみれは眠っねむっている感じかんじである。
「天来てんらいの奇想きそうのように」、と形容けいようした西人せいじんの句くはとうていあてはまるまい。
こう思うおもう途端とたんに余よの足あしはとまった。
足あしがとまれば、厭いやになるまでそこにいる。
いられるのは、幸福こうふくな人ひとである。
東京とうきょうでそんな事ことをすれば、すぐ電車でんしゃに引き殺さひきころされる。
電車でんしゃが殺さころさなければ巡査じゅんさが追い立てるおいたてる。
都会とかいは太平たいへいの民みんを乞食こじきと間違えまちがえて、掏摸すりの親分おやぶんたる探偵たんていに高いたかい月俸げっぽうを払うはらう所ところである。
余よは草くさを茵しとねに太平たいへいの尻しりをそろりと卸しおろした。
ここならば、五六ごろく日ひこうしたなり動かうごかないでも、誰だれも苦情くじょうを持ち出すもちだす気遣きづかいはない。
自然しぜんのありがたいところはここにある。
いざとなると容赦ようしゃも未練みれんもない代りかわりには、人ひとに因っよって取りとり扱こきをかえるような軽薄けいはくな態度たいどはすこしも見せみせない。
岩崎いわさきや三井みついを眼中がんちゅうに置かおかぬものは、いくらでもいる。
冷然れいぜんとして古今ここん帝王ていおうの権威けんいを風馬牛ふうばぎゅうし得るうるものは自然しぜんのみであろう。
自然しぜんの徳とくは高くたかく塵界じんかいを超越ちょうえつして、対たい絶ぜっの平等びょうどう観かんを無辺際むへんざいに樹立じゅりつしている。
天下てんかの羣小を麾いさしまねいで、いたずらにタイモンたいもんの憤りいきどおりを招くまねくよりは、蘭らんを九きゅう※に滋きしげき、※を百ひゃく畦あぜに樹きえて、独りひとりその裏うらに起臥きがする方ほうが遥かはるかに得策とくさくである。
余よは公平こうへいと云いいい無私むしと云ういう。
さほど大事だいじなものならば、日ひに千せん人ひとの小しょう賊ぞくを戮りくして、満まん圃ほの草花くさばなを彼かれらの屍かばねに培養ばいよううがよかろう。
何なんだか考かんがえが理りに落ちおちていっこうつまらなくなった。
こんな中学ちゅうがく程度ていどの観想かんそうを練りねりにわざわざ、鏡かがみが池いけまで来きはせぬ。
袂たもとから煙草たばこを出しだして、寸すん燐りんをシュッしゅっと擦るする。
手て応おうはあったが火ひは見えみえない。
敷島しきしまのさきに付けつけて吸っすってみると、鼻はなから煙けむりが出でた。
なるほど、吸っすったんだなとようやく気きがついた。
寸すん燐りんは短かいみじかい草くさのなかで、しばらく雨竜うりゅうのような細いほそい煙りけむりを吐いはいて、すぐ寂滅じゃくめつした。
席せきをずらせてだんだん水際みずぎわまで出でて見るみる。
余よが茵しとねは天然てんねんに池いけのなかに、ながれ込んこんで、足あしを浸せひたせば生温いなまぬりい水みずにつくかも知れしれぬと云ういう間際まぎわで、とまる。
水みずを覗いのぞいて見るみる。
眼めの届くとどく所ところはさまで深しんそうにもない。
底そこには細長いほそながい水草みずくさが、往生おうじょうして沈んしずんでいる。
余よは往生おうじょうと云ういうよりほかに形容けいようすべき言葉ことばを知らしらぬ。
岡おかの薄うすなら靡くなびく事ことを知っしっている。
藻もの草くさならば誘うさそう波なみの情けなさけを待つまつ。
百ひゃく年ねん待っまっても動きうごきそうもない、水みずの底そこに沈めしずめられたこの水草みずくさは、動くうごくべきすべての姿勢しせいを調えととのえて、朝な夕なあさなゆうなに、弄らいじらるる期きを、待ち暮らしまちくらし、待ち明かしまちあかし、幾代いくよの思おもうを茎くきの先さきに籠めこめながら、今いまに至るいたるまでついに動きうごき得とくずに、また死にしに切れきれずに、生きいきているらしい。
余よは立ち上がったちあがって、草くさの中なかから、手頃てごろの石いしを二につ拾っじゅうって来るくる。
功徳くどくになると思っおもったから、眼めの先さきへ、一いちつ抛り込んほうりこんでやる。
ぶくぶくと泡あわが二につ浮いういて、すぐ消えきえた。
すぐ消えきえた、すぐ消えきえたと、余よは心こころのうちで繰り返すくりかえす。
すかして見るみると、三さん茎くきほどの長いながい髪かみが、慵に揺れゆれかかっている。
見つかっみつかってはと云わいわぬばかりに、濁っにごった水みずが底そこの方ほうから隠しかくしに来るくる。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ。
今度こんどは思い切っおもいきって、懸命けんめいに真中まなかへなげる。
ぽかんと幽かかすかに音おとがした。
静かしずかなるものは決してけっして取り合わとりあわない。
もう抛げるなげる気きも無くなっなくなった。
絵の具えのぐ箱ばこと帽子ぼうしを置いおいたまま右手みぎてへ廻るまわる。
二に間ま余りあまりを爪先つまさき上がりあがりに登るのぼる。
頭あたまの上うえには大きなおおきな樹きがかぶさって、身体しんたいが急きゅうに寒くさむくなる。
向う岸むこうぎしの暗いくらい所ところに椿つばきが咲いさいている。
椿つばきの葉はは緑みどりが深しんすぎて、昼ひる見みても、日向ひなたで見みても、軽快けいかいな感じかんじはない。
ことにこの椿つばきは岩角いわかどを、奥おくへ二三にさん間ま遠退いとおのいて、花はながなければ、何なんがあるか気きのつかない所ところに森閑しんかんとして、かたまっている。
その花はなが!
一いち日ひ勘定かんじょうしても無論むろん勘定かんじょうし切れきれぬほど多いおおい。
しかし眼めがつけば是非ぜひ勘定かんじょうしたくなるほど鮮かあざやかである。
ただ鮮かあざやかと云ういうばかりで、いっこう陽気ようきな感じかんじがない。
ぱっと燃え立つもえたつようで、思わおもわず、気きを奪らとられた、後あとは何なんだか凄くすごくなる。
あれほど人ひとを欺すだます花はなはない。
余よは深山ふかやま椿つばきを見るみるたびにいつでも妖女ようじょの姿すがたを連想れんそうする。
黒いくろい眼めで人ひとを釣りつり寄せよせて、しらぬ間まに、嫣然えんぜんたる毒どくを血管けっかんに吹くふく。
欺かあざむかれたと悟っさとった頃ころはすでに遅いおそい。
向う側むこうがわの椿つばきが眼めに入っはいった時じ、余よは、ええ、見みなければよかったと思っおもった。
あの花はなの色いろはただの赤あかではない。
眼めを醒すさますほどの派出はしゅつやかさの奥おくに、言うゆうに言わいわれぬ沈んしずんだ調子ちょうしを持っもっている。
悄然しょうぜんとして萎れるしおれる雨中うちゅうの梨花りかには、ただ憐れあわれな感じかんじがする。
冷やかひややかに艶あでなる月下げっかの海棠かいどうには、ただ愛らしいあいらしい気持ちきもちがする。
椿つばきの沈んしずんでいるのは全くまったく違うちがう。
黒ずんくろずんだ、毒気どくけのある、恐ろしおそろし味あじを帯びおびた調子ちょうしである。
この調子ちょうしを底そこに持っもって、上部じょうぶはどこまでも派出はしゅつに装っよそおっている。
しかも人ひとに媚こびぶる態たいもなければ、ことさらに人ひとを招くまねく様子ようすも見えみえぬ。
ぱっと咲きさき、ぽたりと落ちおち、ぽたりと落ちおち、ぱっと咲いさいて、幾いく百ひゃく年ねんの星霜せいそうを、人目ひとめにかからぬ山陰さんいんに落ちつきおちつき払っはらって暮らしくらしている。
ただ一いち眼め見みたが最後さいご!
見みた人ひとは彼女かのじょの魔力まりょくから金輪際こんりんざい、免るるまぬかるる事ことは出来できない。
あの色いろはただの赤あかではない。
屠らほふられたる囚人しゅうじんの血ちが、自ずからおのずから人ひとの眼めを惹いひいて、自からみずから人ひとの心こころを不快ふかいにするごとく一種いっしゅ異様いような赤あかである。
見みていると、ぽたり赤いあかい奴やつが水みずの上うえに落ちおちた。
静かしずかな春はるに動いうごいたものはただこの一いち輪わである。
しばらくするとまたぽたり落ちおちた。
あの花はなは決してけっして散らちらない。
崩れるくずれるよりも、かたまったまま枝えだを離れるはなれる。
枝えだを離れるはなれるときは一度いちどに離れるはなれるから、未練みれんのないように見えるみえるが、落ちおちてもかたまっているところは、何なんとなく毒々しいどくどくしい。
またぽたり落ちるおちる。
ああやって落ちおちているうちに、池いけの水みずが赤くあかくなるだろうと考えかんがえた。
花はなが静かしずかに浮いういている辺へんは今いまでも少々しょうしょう赤いあかいような気きがする。
また落ちおちた。
地ちの上うえへ落ちおちたのか、水みずの上うえへ落ちおちたのか、区別くべつがつかぬくらい静かしずかに浮くうく。
また落ちるおちる。
あれが沈むしずむ事ことがあるだろうかと思うおもう。
年々ねんねん落ちおち尽すつくす幾万いくまん輪わの椿つばきは、水みずにつかって、色いろが溶け出しとけだして、腐っくさって泥どろになって、ようやく底そこに沈むしずむのかしらん。
幾いく千せん年ねんの後あとにはこの古池ふるいけが、人ひとの知らしらぬ間まに、落ちおちた椿つばきのために、埋もれうずもれて、元もとの平地へいちに戻るもどるかも知れしれぬ。
また一いちつ大きいおおきいのが血ちを塗っぬった、人魂ひとだまのように落ちるおちる。
また落ちるおちる。
ぽたりぽたりと落ちるおちる。
際限さいげんなく落ちるおちる。
こんな所ところへ美しいうつくしい女おんなの浮いういているところをかいたら、どうだろうと思いおもいながら、元もとの所ところへ帰っかえって、また煙草たばこを呑んのんで、ぼんやり考え込むかんがえこむ。
温泉場おんせんじょうの御ご那美なみさんが昨日きのう冗談じょうだんに云っいった言葉ことばが、うねりを打っうって、記憶きおくのうちに寄せよせてくる。
心こころは大浪おおなみにのる一いち枚ばいの板子いたごのように揺れるゆれる。
あの顔かおを種しゅにして、あの椿つばきの下したに浮かうきかせて、上うえから椿つばきを幾いく輪わも落とすおとす。
椿つばきが長えなげえに落ちおちて、女おんなが長えなげえに水みずに浮いういている感じかんじをあらわしたいが、それが画がでかけるだろうか。
かのラオコーンらおこーんには――ラオコーンらおこーんなどはどうでも構わかまわない。
原理げんりに背いそむいても、背かせかなくっても、そう云ういう心持ちこころもちさえ出れでればいい。
しかし人間にんげんを離れはなれないで人間にんげん以上いじょうの永久えいきゅうと云ういう感じかんじを出すだすのは容易よういな事ことではない。
第一だいいち顔かおに困るこまる。
あの顔かおを借りるかりるにしても、あの表情ひょうじょうでは駄目だめだ。
苦痛くつうが勝っかってはすべてを打ちうち壊かいわしてしまう。
と云っいってむやみに気楽きらくではなお困るこまる。
一層いっそうほかの顔かおにしては、どうだろう。
あれか、これかと指ゆびを折っおって見るみるが、どうも思しくおぼしくない。
やはり御ご那美なみさんの顔かおが一番いちばん似合うにあうようだ。
しかし何なんだか物もの足らあしらない。
物もの足らあしらないとまでは気きがつくが、どこが物もの足らあしらないかが、吾われながら不明ふめいである。
したがって自己じこの想像そうぞうでいい加減いいかげんに作りつくり易えるかえる訳わけに行かいかない。
あれに嫉しつ※を加えくわえたら、どうだろう。
嫉しつ※では不安ふあんの感かんが多さわ過ぎるすぎる。
憎悪ぞうおはどうだろう。
憎悪ぞうおは烈れつげし過ぎるすぎる。
怒ど?
怒どでは全然ぜんぜん調和ちょうわを破るやぶる。
恨はん?
恨はんでも春恨しゅんこんとか云ういう、詩的してきのものならば格別かくべつ、ただの恨はんでは余りあまり俗ぞくである。
いろいろに考えかんがえた末すえ、しまいにようやくこれだと気きがついた。
多くおおくある情緒じょうちょのうちで、憐れあわれと云ういう字じのあるのを忘れわすれていた。
憐れあわれは神かみの知らしらぬ情じょうで、しかも神かみにもっとも近きちかき人間にんげんの情じょうである。
御ご那美なみさんの表情ひょうじょうのうちにはこの憐れあわれの念ねんが少しすこしもあらわれておらぬ。
そこが物もの足らあしらぬのである。
ある咄嗟とっさの衝動しょうどうで、この情じょうがあの女おんなの眉宇びうにひらめいた瞬時しゅんじに、わが画がは成就じょうじゅするであろう。
しかし――いつそれが見みられるか解らわからない。
あの女おんなの顔かおに普段ふだん充満じゅうまんしているものは、人ひとを馬鹿ばかにする微笑びしょうと、勝とうかとう、勝とうかとうと焦るあせる八はちの字じのみである。
あれだけでは、とても物ものにならない。
がさりがさりと足音あしおとがする。
胸裏きょうりの図案ずあんは三さん分ぶん二にで崩れくずれた。
見るみると、筒袖つつそでを着きた男おとこが、背せへ薪たきぎを載せのせて、熊笹くまざさのなかを観海みかい寺てらの方ほうへわたってくる。
隣りとなりの山やまからおりて来きたのだろう。
「よい御ご天気てんきで」と手拭てぬぐいをとって挨拶あいさつする。
腰こしを屈めるかがめる途端とたんに、三さん尺さし帯おびに落しおとした鉈なたの刃はがぴかりと光っひかりった。
四十よんじゅう恰好かっこの逞しいたくましい男おとこである。
どこかで見みたようだ。
男おとこは旧知きゅうちのように馴々しいなれなれしい。
「旦那だんなも画がを御ご描きえがきなさるか」余よの絵の具えのぐ箱ばこは開けあけてあった。
「ああ。この池いけでも画こうえがこうと思っおもって来きて見みたが、淋しいさびしい所ところだね。誰だれも通らとおらない」「はあい。まことに山やまの中なかで……旦那だんなあ、峠とうげで御ご降らふられなさって、さぞ御ご困りこまりでござんしたろ」「え? うん御前ごぜんはあの時じの馬子まごさんだね」「はあい。こうやって薪たきぎを切っきっては城下じょうかへ持っもって出でます」と源兵衛げんべえは荷にを卸しおろして、その上うえへ腰こしをかける。
煙草たばこ入いりを出すだす。
古いふるいものだ。
紙かみだか革かわだか分らわからない。
余よは寸すん燐りんを借かりしてやる。
「あんな所ところを毎日まいにち越すこすなあ大変たいへんだね」「なあに、馴れなれていますから――それに毎日まいにちは越しこしません。三さん日ひに一いち返かえし、ことによると四よん日ひ目めくらいになります」「四よん日ひに一いち返かえしでも御免ごめんだ」「アハハハハあはははは。馬うまが不憫ふびんですから四よん日ひ目めくらいにして置きおきます」「そりゃあ、どうも。自分じぶんより馬うまの方ほうが大事だいじなんだね。ハハハハはははは」「それほどでもないんで……」「時じにこの池いけはよほど古いふるいもんだね。全体ぜんたいいつ頃いつごろからあるんだい」「昔むかしからありますよ」「昔むかしから? どのくらい昔むかしから?」「なんでもよっぽど古いふるい昔むかしから」「よっぽど古いふるい昔むかししからか。なるほど」「なんでも昔むかしし、志保田しほでんの嬢じょう様ようが、身みを投げなげた時分じぶんからありますよ」「志保田しほでんって、あの温泉場おんせんじょうのかい」「はあい」「御嬢ごじょうさんが身みを投げなげたって、現にげんに達者たっしゃでいるじゃないか」「いんにえ。あの嬢じょうさまじゃない。ずっと昔むかしの嬢じょう様ようが」「ずっと昔むかしの嬢じょう様よう。いつ頃いつごろかね、それは」「なんでも、よほど昔むかししの嬢じょう様ようで……」「その昔むかしの嬢じょう様ようが、どうしてまた身みを投げなげたんだい」「その嬢じょう様ようは、やはり今いまの嬢じょう様ようのように美しいうつくしい嬢じょう様ようであったそうながな、旦那だんな様よう」「うん」「すると、ある日ひ、一人ひとりの梵論字ぼろじが来きて……」「梵論字ぼろじと云ういうと虚無きょむ僧そうの事ことかい」「はあい。あの尺八しゃくはちを吹くふく梵論字ぼろじの事ことでござんす。その梵論字ぼろじが志保田しほでんの庄屋しょうやへ逗留とうりゅうしているうちに、その美びくしい嬢じょう様ようが、その梵論字ぼろじを見染めみそめて――因果いんがと申しもうしますか、どうしてもいっしょになりたいと云ういうて、泣きなきました」「泣きなきました。ふうん」「ところが庄屋しょうやどのが、聞き入れききいれません。梵論字ぼろじは聟むこにはならんと云ういうて。とうとう追い出しおいだしました」「その虚無きょむ僧そうをかい」「はあい。そこで嬢じょう様ようが、梵論字ぼろじのあとを追うおうてここまで来きて、――あの向うむこうに見えるみえる松まつの所ところから、身みを投げなげて、――とうとう、えらい騒ぎさわぎになりました。その時じ何なんでも一いち枚ばいの鏡かがみを持っもっていたとか申し伝えもうしつたえておりますよ。それでこの池いけを今いまでも鏡かがみが池いけと申しもうしまする」「へええ。じゃ、もう身みを投げなげたものがあるんだね」「まことに怪しからあやしからん事ことでござんす」「何なん代だいくらい前まえの事ことかい。それは」「なんでもよっぽど昔むかしの事ことでござんすそうな。それから――これはここ限りかぎりの話はなしだが、旦那だんなさん」「何なんだい」「あの志保田しほでんの家いえには、代々だいだい気狂きちがいが出来できます」「へええ」「全くまったく祟りたたりでござんす。今いまの嬢じょう様ようも、近頃ちかごろは少しすこし変へんだ云ういうて、皆みなが囃しはやします」「ハハハハははははそんな事ことはなかろう」「ござんせんかな。しかしあの御袋おふくろ様ようがやはり少しすこし変へんでな」「うちにいるのかい」「いいえ、去年きょねん亡くなりなくなりました」「ふん」と余よは煙草たばこの吸殻すいがらから細いほそい煙けむりの立つたつのを見みて、口くちを閉じとじた。
源兵衛げんべえは薪たきぎを背せにして去るさる。
画がをかきに来きて、こんな事ことを考えかんがえたり、こんな話しはなしを聴くきくばかりでは、何日なんにちかかっても一いち枚ばいも出来できっこない。
せっかく絵の具えのぐ箱ばこまで持ち出しもちだした以上いじょう、今日きょうは義理ぎりにも下絵したえをとって行こういこう。
幸みゆき、向側むかいがわの景色けしきは、あれなりで略りゃく纏まっまとまっている。
あすこでも申し訳もうしわけにちょっと描こうえがこう。
一いち丈たけ余りあまりの蒼黒いあおぐろい岩いわが、真直まっすぐに池いけの底そこから突き出しつきだして、濃こき水みずの折れ曲るおれまがる角かくに、嵯々と構えるかまえる右側みぎがわには、例れいの熊笹くまざさが断崖だんがいの上うえから水際みずぎわまで、一いち寸すんの隙間すきまなく叢生そうせいしている。
上うえには三さん抱かかえほどの大きなおおきな松まつが、若わか蔦つたにからまれた幹みきを、斜めななめに捩っもじって、半分はんぶん以上いじょう水みずの面めんへ乗り出しのりだしている。
鏡かがみを懐ふところにした女おんなは、あの岩いわの上うえからでも飛んとんだものだろう。
三脚さんきゃく几つくえに尻しりを据えすえて、面めん画がに入るはいるべき材料ざいりょうを見渡すみわたす。
松まつと、笹ささと、岩いわと水みずであるが、さて水みずはどこでとめてよいか分らわからぬ。
岩いわの高さたかさが一いち丈たけあれば、影かげも一いち丈たけある。
熊笹くまざさは、水際みずぎわでとまらずに、水みずの中なかまで茂りしげり込んこんでいるかと怪かいまるるくらい、鮮やかあざやかに水底すいていまで写っうつっている。
松まつに至っいたっては空そらに聳ゆる高さたかさが、見上げみあげらるるだけ、影かげもまたすこぶる細長いほそながい。
眼めに写っうつっただけの寸法すんぽうではとうてい収りおさまりがつかない。
一層いっそうの事こと、実物じつぶつをやめて影かげだけ描くえがくのも一興いっきょうだろう。
水みずをかいて、水みずの中なかの影かげをかいて、そうして、これが画がだと人ひとに見せみせたら驚ろくおどろくだろう。
しかしただ驚ろかおどろかせるだけではつまらない。
なるほど画がになっていると驚かおどろきかせなければつまらない。
どう工夫くふうをしたものだろうと、一心いっしんに池いけの面めんを見詰めるみつめる。
奇体きたいなもので、影かげだけ眺めながめていてはいっこう画がにならん。
実物じつぶつと見比べみくらべて工夫くふうがして見みたくなる。
余よは水面すいめんから眸ひとみを転じてんじて、そろりそろりと上うえの方ほうへ視線しせんを移しうつして行くいく。
一いち丈たけの巌いわを、影かげの先さきから、水際みずぎわの継目つぎめまで眺めながめて、継目つぎめから次第しだいに水みずの上うえに出るでる。
潤沢じゅんたくの気合きあいから、皴しわ皺しわの模様もようを逐一ちくいち吟味ぎんみしてだんだんと登っのぼって行くいく。
ようやく登り詰めのぼりつめて、余よの双眼そうがんが今いま危巌きがんの頂きいただきに達したっしたるとき、余よは蛇へびに睨まにらまれた蟇ひきのごとく、はたりと画筆がひつを取り落しとりおとした。
緑みどりりの枝えだを通すとおす夕日ゆうひを背せに、暮れくれんとする晩春ばんしゅんの蒼黒くあおぐろく巌頭がんとうを彩どるいろどる中なかに、楚そ然さとして織り出さおりだされたる女おんなの顔かおは、――花下かかに余よを驚かしおどろかし、まぼろしに余よを驚ろかしおどろかし、振袖ふりそでに余よを驚かしおどろかし、風呂場ふろばに余よを驚かしおどろかしたる女おんなの顔かおである。
余よが視線しせんは、蒼あお白きしろき女おんなの顔かおの真中まなかにぐさと釘付けくぎづけにされたぎり動かうごかない。
女おんなもしなやかなる体躯たいくを伸せのばせるだけ伸しのして、高いたかい巌いわの上うえに一指いっしも動かさうごかさずに立ったっている。
この一いち刹那せつな!
余よは覚えおぼえず飛び上っとびあがった。
女おんなはひらりと身みをひねる。
帯おびの間まに椿つばきの花はなの如くごとく赤いあかいものが、ちらついたと思っおもったら、すでに向うむこうへ飛び下りとびおりた。
夕日ゆうひは樹梢じゅしょうを掠めかすめて、幽かかすかに松まつの幹みきを染むしむる。
熊笹くまざさはいよいよ青いあおい。
また驚かさおどろかされた。
十一じゅういち
山里やまざとの朧おぼろに乗じじょうじてそぞろ歩くあるく。
観海みかい寺てらの石段いしだんを登りのぼりながら仰あおぐ数すう春はる星ほし一二三いちにさんと云ういう句くを得とくた。
余よは別べつに和尚おしょうに逢うあう用事ようじもない。
逢うあうて雑話ざつわをする気きもない。
偶然ぐうぜんと宿やどを出でででて足あしの向くむくところに任せまかせてぶらぶらするうち、ついこの石磴せきとうの下したに出でた。
しばらく不ふ許もと葷酒くんしゅ入山にゅうざん門もんと云ういう石いしを撫でなでて立ったっていたが、急きゅうにうれしくなって、登りのぼり出しだしたのである。
トリストラムとりすとらむ・シャンデーしゃんでーと云ういう書物しょもつのなかに、この書物しょもつほど神かみの御ご覚さとし召めしに叶うかなうた書き方かきかたはないとある。
最初さいしょの一句いっくはともかくも自力じりきで綴るつづる。
あとはひたすらに神かみを念じねんじて、筆ふでの動くうごくに任せるまかせる。
何なんをかくか自分じぶんには無論むろん見当けんとうがつかぬ。
かく者ものは自己じこであるが、かく事ことは神かみの事ことである。
したがって責任せきにんは著者ちょしゃにはないそうだ。
余よが散歩さんぽもまたこの流儀りゅうぎを汲んくんだ、無責任むせきにんの散歩さんぽである。
ただ神かみを頼またのまぬだけが一層いっそうの無責任むせきにんである。
スターンすたーんは自分じぶんの責任せきにんを免れるまぬがれると同時どうじにこれを在天ざいてんの神かみに嫁しかした。
引き受けひきうけてくれる神かみを持たもたぬ余よはついにこれを泥溝どろどぶの中なかに棄てすてた。
石段いしだんを登るのぼるにも骨ほねを折っおっては登らのぼらない。
骨ほねが折れるおれるくらいなら、すぐ引き返すひきかえす。
一段いちだん登っのぼって佇むたたずむとき何なんとなく愉快ゆかいだ。
それだから二に段だん登るのぼる。
二に段だん目めに詩しが作りつくりたくなる。
黙然もくぜんとして、吾われ影かげを見るみる。
角石かどいしに遮らさえぎられて三さん段だんに切れきれているのは妙みょうだ。
妙みょうだからまた登るのぼる。
仰いおっしゃいで天てんを望むのぞむ。
寝ぼけねぼけた奥おくから、小さいちいさい星ほしがしきりに瞬きまばたきをする。
句くになると思っおもって、また登るのぼる。
かくして、余よはとうとう、上うえまで登り詰めのぼりつめた。
石段いしだんの上うえで思い出すおもいだす。
昔むかしし鎌倉かまくらへ遊びあそびに行っいって、いわゆる五山ごさんなるものを、ぐるぐる尋ねたずねて廻っまわった時じ、たしか円覚えんがく寺てらの塔頭たっちゅうであったろう、やはりこんな風かぜに石段いしだんをのそりのそりと登っのぼって行くいくと、門内もんないから、黄きな法衣ほういを着きた、頭あたまの鉢ばちの開いひらいた坊主ぼうずが出でて来きた。
余よは上るのぼる、坊主ぼうずは下るくだる。
すれ違っすれちがった時じ、坊主ぼうずが鋭どいするどい声こえでどこへ御ご出でなさると問うとうた。
余よはただ境内けいだいを拝見はいけんにと答えこたえて、同時どうじに足あしを停めとめたら、坊主ぼうずは直ちにただちに、何なんもありませんぞと言い捨ていいすてて、すたすた下りくだりて行っいった。
あまり洒落しゃれだから、余よは少しくすこしく先さきを越さこされた気味きみで、段上だんじょうに立ったって、坊主ぼうずを見送るみおくると、坊主ぼうずは、かの鉢ばちの開いひらいた頭あたまを、振り立てふりたて振り立てふりたて、ついに姿すがたを杉すぎの木の間このまに隠しかくした。
その間まかつて一度いちども振り返っふりかえった事ことはない。
なるほど禅僧ぜんそうは面白いおもしろい。
きびきびしているなと、のっそり山門さんもんを這入っはいって、見るみると、広いひろい庫裏くりも本堂ほんどうも、がらんとして、人影ひとかげはまるでない。
余よはその時じに心こころからうれしく感じかんじた。
世の中よのなかにこんな洒落しゃれな人ひとがあって、こんな洒落しゃれに、人ひとを取り扱っとりあつかってくれたかと思うおもうと、何なんとなく気分きぶんが晴々はればれした。
禅ぜんを心得こころえていたからと云ういう訳わけではない。
禅ぜんのぜの字じもいまだに知らしらぬ。
ただあの鉢ばちの開いひらいた坊主ぼうずの所作しょさが気きに入っはいったのである。
世の中よのなかはしつこい、毒々しいどくどくしい、こせこせした、その上うえずうずうしい、いやな奴やつで埋っうまっている。
元来がんらい何なんしに世の中よのなかへ面めんを曝しさらしているんだか、解しかいしかねる奴やつさえいる。
しかもそんな面めんに限っかぎって大きいおおきいものだ。
浮世うきよの風かぜにあたる面積めんせきの多いおおいのをもって、さも名誉めいよのごとく心得こころえている。
五ご年ねんも十じゅう年ねんも人ひとの臀しりに探偵たんていをつけて、人ひとのひる屁への勘定かんじょうをして、それが人世じんせいだと思っおもってる。
そうして人ひとの前まえへ出でて来きて、御前ごぜんは屁へをいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みたのみもせぬ事ことを教えるおしえる。
前まえへ出でて云ういうなら、それも参考さんこうにして、やらんでもないが、後ろうしろの方ほうから、御前ごぜんは屁へをいくつ、ひった、いくつ、ひったと云ういう。
うるさいと云えいえばなおなお云ういう。
よせと云えいえばますます云ういう。
分っわかったと云っいっても、屁へをいくつ、ひった、ひったと云ういう。
そうしてそれが処世しょせいの方針ほうしんだと云ういう。
方針ほうしんは人々ひとびと勝手かってである。
ただひったひったと云わいわずに黙っだまって方針ほうしんを立てるたてるがいい。
人ひとの邪魔じゃまになる方針ほうしんは差し控えるさしひかえるのが礼儀れいぎだ。
邪魔じゃまにならなければ方針ほうしんが立たたたぬと云ういうなら、こっちも屁へをひるのをもって、こっちの方針ほうしんとするばかりだ。
そうなったら日本にっぽんも運うんの尽きつきだろう。
こうやって、美しいうつくしい春はるの夜よるに、何なんらの方針ほうしんも立てたてずに、あるいてるのは実際じっさい高尚こうしょうだ。
興きょう来れこれば興きょう来るくるをもって方針ほうしんとする。
興きょう去れされば興きょう去るさるをもって方針ほうしんとする。
句くを得れえれば、得とくたところに方針ほうしんが立つたつ。
得とくなければ、得とくないところに方針ほうしんが立つたつ。
しかも誰だれの迷惑めいわくにもならない。
これが真正しんせいの方針ほうしんである。
屁へを勘定かんじょうするのは人身じんしん攻撃こうげきの方針ほうしんで、屁へをひるのは正当せいとう防禦ぼうぎょの方針ほうしんで、こうやって観海みかい寺てらの石段いしだんを登るのぼるのは随縁ずいえん放ほう曠の方針ほうしんである。
仰あおぐ数すう春はる星ほし一二三いちにさんの句くを得とくて、石磴せきとうを登りのぼりつくしたる時じ、朧おぼろにひかる春はるの海うみが帯おびのごとくに見えみえた。
山門さんもんを入るはいる。
絶句ぜっくは纏めるまとめる気きにならなくなった。
即座そくざにやめにする方針ほうしんを立てるたてる。
石いしを甃んたたんで庫裡くりに通ずるつうずる一筋ひとすじ道みちの右側みぎがわは、岡おかつつじの生垣いけがきで、垣かきの向むかいは墓場はかばであろう。
左ひだりは本堂ほんどうだ。
屋根瓦やねがわらが高いたかい所ところで、幽かかすかに光るひかる。
数すう万まんの甍いらかに、数すう万まんの月つきが落ちおちたようだと見み上るのぼる。
どこやらで鳩はとの声こえがしきりにする。
棟むねの下したにでも住んすんでいるらしい。
気きのせいか、廂ひさしのあたりに白いしろいものが、点々てんてん見えるみえる。
糞ふんかも知れしれぬ。
雨あめ垂れ落ちたれおちの所ところに、妙みょうな影かげが一列いちれつに並んならんでいる。
木きとも見えみえぬ、草くさでは無論むろんない。
感じかんじから云ういうと岩佐いわさ又兵衛またべえのかいた、鬼おにの念仏ねんぶつが、念仏ねんぶつをやめて、踊りおどりを踊っおどっている姿すがたである。
本堂ほんどうの端はしから端はしまで、一列いちれつに行儀ぎょうぎよく並んならんで躍っおどっている。
その影かげがまた本堂ほんどうの端はしから端はしまで一列いちれつに行儀ぎょうぎよく並んならんで躍っおどっている。
朧夜おぼろよにそそのかされて、鉦かねも撞木しゅもくも、奉加帳ほうがちょうも打ちすてうちすてて、誘いさそい合せるあわせるや否いなやこの山寺やまでらへ踊りおどりに来きたのだろう。
近寄っちかよって見るみると大きなおおきな覇王樹はおうじゅである。
高さたかさは七八しちはち尺さしもあろう、糸瓜へちまほどな青いあおい黄瓜きゅうりを、杓子しゃくしのように圧しおしひしゃげて、柄がらの方ほうを下したに、上うえへ上うえへと継ぎ合せつぎあわせたように見えるみえる。
あの杓子しゃくしがいくつ継がつぎがったら、おしまいになるのか分らわからない。
今夜こんやのうちにも廂ひさしを突き破っつきやぶって、屋根瓦やねがわらの上うえまで出でそうだ。
あの杓子しゃくしが出来るできる時じには、何なんでも不意ふいに、どこからか出でて来きて、ぴしゃりと飛びつくとびつくに違いちがいない。
古いふるい杓子しゃくしが新しいあたらしい小しょう杓子しゃくしを生んうんで、その小しょう杓子しゃくしが長いながい年月としつきのうちにだんだん大きくおおきくなるようには思わおもわれない。
杓子しゃくしと杓子しゃくしの連続れんぞくがいかにも突飛とっぴである。
こんな滑稽こっけいな樹きはたんとあるまい。
しかも澄ましすましたものだ。
いかなるこれ仏ふつと問わとわれて、庭前ていぜんの柏かしわ樹子きこと答えこたえた僧そうがあるよしだが、もし同様どうようの問もんに接しせっした場合ばあいには、余よは一いちも二にもなく、月下げっかの覇王樹はおうじゅと応えるこたえるであろう。
少時しょうじ、晁あきら補ほ之これと云ういう人ひとの記き行文こうぶんを読んよんで、いまだに暗誦あんしょうしている句くがある。
「時じに九きゅう月つき天てん高くたかく露ろ清くきよく、山やま空しくむなしく、月明げつめいかに、仰いおっしゃいで星斗せいとを視れみれば皆みな光大ひかりだい、たまたま人ひとの上うえにあるがごとし、窓まど間まの竹たけ数十すうじゅう竿さお、相そう摩戞して声こえ切々せつせつやまず。竹間ちくかんの梅うめ棕森然さとして鬼おに魅みの離り立たて笑わらい※の状じょうのごとし。二三子ふみこ相そう顧みかえりみ、魄はく動いうごいて寝るねるを得とくず。遅ち明あきら皆みな去るさる」とまた口くちの内うちで繰り返しくりかえして見みて、思わおもわず笑っわらった。
この覇王樹はおうじゅも時じと場合ばあいによれば、余よの魄はくを動かしうごかして、見るみるや否いなや山やまを追いおい下げさげたであろう。
刺さしに手てを触れふれて見るみると、いらいらと指ゆびをさす。
石いし甃いしを行きいき尽くしつくして左ひだりへ折れるおれると庫裏くりへ出るでる。
庫裏くりの前まえに大きなおおきな木蓮もくれんがある。
ほとんど一いちと抱かかえもあろう。
高さたかさは庫裏くりの屋根やねを抜いぬいている。
見上げるみあげると頭あたまの上うえは枝えだである。
枝えだの上うえも、また枝えだである。
そうして枝えだの重なり合っかさなりあった上うえが月つきである。
普通ふつう、枝えだがああ重なるかさなると、下したから空そらは見えみえぬ。
花はながあればなお見えみえぬ。
木蓮もくれんの枝えだはいくら重なっかさなっても、枝えだと枝えだの間まはほがらかに隙すきいている。
木蓮もくれんは樹下じゅかに立つたつ人ひとの眼めを乱すみだすほどの細いほそい枝えだをいたずらには張らちょうらぬ。
花はなさえ明かあきらかである。
この遥かはるかなる下したから見上げみあげても一いち輪わの花はなは、はっきりと一いち輪わに見えるみえる。
その一いち輪わがどこまで簇がっむらがって、どこまで咲いさいているか分らわからぬ。
それにもかかわらず一いち輪わはついに一いち輪わで、一いち輪わと一いち輪わの間まから、薄青いうすあおい空そらが判然はんぜんと望まのぞまれる。
花はなの色いろは無論むろん純白じゅんぱくではない。
いたずらに白いしろいのは寒かん過ぎるすぎる。
専らもっぱらに白いしろいのは、ことさらに人ひとの眼めを奪ううばう巧みたくみが見えるみえる。
木蓮もくれんの色いろはそれではない。
極度きょくどの白きしろきをわざと避けさけて、あたたかみのある淡黄たんこうに、奥床しくおくゆかしくも自らみずからを卑下ひげしている。
余よは石いし甃いしの上うえに立ったって、このおとなしい花はなが累々るいるいとどこまでも空裏くうりに蔓つるる様ようを見上げみあげて、しばらく茫然ぼうぜんとしていた。
眼めに落つるおつるのは花はなばかりである。
葉はは一いち枚ばいもない。
木蓮もくれんの花はなばかりなる空そらを瞻る
と云ういう句くを得とくた。
どこやらで、鳩はとがやさしく鳴きなき合うあうている。
庫裏くりに入るはいる。
庫裏くりは明け放しあけはなしてある。
盗人ぬすびとはおらぬ国くにと見えるみえる。
狗いぬはもとより吠えほえぬ。
「御免ごめん」と訪問ほうもんれる。
森もりとして返事へんじがない。
「頼むたのむ」と案内あんないを乞うこう。
鳩はとの声こえがくううくううと聞えるきこえる。
「頼みたのみまああす」と大きなおおきな声こえを出すだす。
「おおおおおおお」と遥かはるかの向むかいで答えこたえたものがある。
人ひとの家いえを訪うおとなうて、こんな返事へんじを聞かさきかされた事ことは決してけっしてない。
やがて足音あしおとが廊下ろうかへ響くひびくと、紙燭しそくの影かげが、衝立ついたての向側むかいがわにさした。
小坊主しょうぼうずがひょこりとあらわれる。
了りょう念ねんであった。
「和尚おしょうさんはおいでかい」「おられる。何なんしにござった」「温泉おんせんにいる画工がこうが来きたと、取次とりつぎでおくれ」「画工がこうさんか。それじゃ御ご上りのぼり」「断わらことわらないでもいいのかい」「よろしかろ」 余よは下駄げたを脱いぬいで上がるあがる。
「行儀ぎょうぎがわるい画工がこうさんじゃな」「なぜ」「下駄げたを、よう御ご揃えそろえなさい。そらここを御覧ごらん」と紙燭しそくを差しさしつける。
黒いくろい柱はしらの真中まなかに、土間どまから五ご尺さしばかりの高さたかさを見計っみはからって、半紙はんしを四よんつ切りつきりにした上うえへ、何なんか認めみとめてある。
「そおら。読めよめたろ。脚下きゃっかを見よみよ、と書いかいてあるが」「なるほど」と余よは自分じぶんの下駄げたを丁寧ていねいに揃えるそろえる。
和尚おしょうの室むろは廊下ろうかを鍵かぎの手てに曲っきょくって、本堂ほんどうの横手よこてにある。
障子しょうじを恭しくうやうやしくあけて、恭しくうやうやしく敷居しきい越しこしにつくばった了りょう念ねんが、「あのう、志保田しほでんから、画工がこうさんが来きられました」と云ういう。
はなはだ恐縮きょうしゅくの体からだである。
余よはちょっとおかしくなった。
「そうか、これへ」 余よは了りょう念ねんと入れ代るいれかわる。
室むろがすこぶる狭いせまい。
中なかに囲炉裏いろりを切っきって、鉄瓶てつびんが鳴るなる。
和尚おしょうは向側むかいがわに書見しょけんをしていた。
「さあこれへ」と眼鏡めがねをはずして、書物しょもつを傍そばへおしやる。
「了りょう念ねん。りょううねええん」「ははははい」「座布団ざふとんを上げあげんか」「はははははい」と了りょう念ねんは遠くとおくで、長いながい返事へんじをする。
「よう、来きられた。さぞ退屈たいくつだろ」「あまり月つきがいいから、ぶらぶら来きました」「いい月つきじゃな」と障子しょうじをあける。
飛び石とびいしが二につ、松まつ一いち本ほんのほかには何なんもない、平たいら庭にわの向うむこうは、すぐ懸崖けんがいと見えみえて、眼めの下したに朧夜おぼろよの海うみがたちまちに開けるあける。
急きゅうに気きが大きくおおきくなったような心持こころもちである。
漁火いさりびがここ、かしこに、ちらついて、遥かはるかの末すえは空そらに入っはいって、星ほしに化けるばけるつもりだろう。
「これはいい景色けしき。和尚おしょうさん、障子しょうじをしめているのはもったいないじゃありませんか」「そうよ。しかし毎晩まいばん見みているからな」「何なん晩ばん見みてもいいですよ、この景色けしきは。私わたくしなら寝ねずに見みています」「ハハハハはははは。もっともあなたは画工がこうだから、わしとは少しすこし違うちがうて」「和尚おしょうさんだって、うつくしいと思っおもってるうちは画工がこうでさあ」「なるほどそれもそうじゃろ。わしも達磨だるまの画がぐらいはこれで、かくがの。そら、ここに掛けかけてある、この軸じくは先代せんだいがかかれたのじゃが、なかなかようかいとる」 なるほど達磨だるまの画がが小さいちいさい床ゆかに掛っかかっている。
しかし画がとしてはすこぶるまずいものだ。
ただ俗気ぞくきがない。
拙つたなを蔽おうおおおうと力めりきめているところが一いちつもない。
無邪気むじゃきな画がだ。
この先代せんだいもやはりこの画がのような構わかまわない人ひとであったんだろう。
「無邪気むじゃきな画がですね」「わしらのかく画がはそれで沢山たくさんじゃ。気象きしょうさえあらわれておれば……」「上手じょうずで俗気ぞくきがあるのより、いいです」「ははははまあ、そうでも、賞めほめて置いおいてもらおう。時じに近頃ちかごろは画工がこうにも博士はかせがあるかの」「画工がこうの博士はかせはありませんよ」「あ、そうか。この間ま、何なんでも博士はかせに一人ひとり逢うあうた」「へええ」「博士はかせと云ういうとえらいものじゃろな」「ええ。えらいんでしょう」「画工がこうにも博士はかせがありそうなものじゃがな。なぜ無いないだろう」「そういえば、和尚おしょうさんの方ほうにも博士はかせがなけりゃならないでしょう」「ハハハハははははまあ、そんなものかな。――何なんとか云ういう人ひとじゃったて、この間ま逢うあうた人ひとは――どこぞに名刺めいしがあるはずだが……」「どこで御ご逢いあいです、東京とうきょうですか」「いやここで、東京とうきょうへは、も二十にじゅう年ねんも出んでん。近頃ちかごろは電車でんしゃとか云ういうものが出来できたそうじゃが、ちょっと乗っのって見みたいような気きがする」「つまらんものですよ。やかましくって」「そうかな。蜀しょく犬いぬ日ひに吠えほえ、呉ご牛うし月つきに喘ぐあえぐと云ういうから、わしのような田舎者いなかものは、かえって困るこまるかも知れしれんてのう」「困りゃこまりゃしませんがね。つまらんですよ」「そうかな」 鉄瓶てつびんの口くちから煙けむりが盛さかんに出るでる。
和尚おしょうは茶ちゃ箪笥たんすから茶器ちゃきを取り出しとりだして、茶ちゃを注いそそいでくれる。
「番茶ばんちゃを一いちつ御ご上りのぼり。志保田しほでんの隠居いんきょさんのような甘いあまい茶ちゃじゃない」「いえ結構けっこうです」「あなたは、そうやって、方々かたがたあるくように見受けるみうけるがやはり画がをかくためかの」「ええ。道具どうぐだけは持っもってあるきますが、画がはかかないでも構わかまわないんです」「はあ、それじゃ遊びあそび半分はんぶんかの」「そうですね。そう云っいっても善いよいでしょう。屁への勘定かんじょうをされるのが、いやですからね」 さすがの禅僧ぜんそうも、この語ごだけは解しかいしかねたと見えるみえる。
「屁への勘定かんじょうた何なんかな」「東京とうきょうに永くながくいると屁への勘定かんじょうをされますよ」「どうして」「ハハハハハははははは勘定かんじょうだけならいいですが。人ひとの屁へを分析ぶんせきして、臀しりの穴あなが三角さんかくだの、四角しかくだのって余計よけいな事ことをやりますよ」「はあ、やはり衛生えいせいの方ほうかな」「衛生えいせいじゃありません。探偵たんていの方ほうです」「探偵たんてい? なるほど、それじゃ警察けいさつじゃの。いったい警察けいさつの、巡査じゅんさのて、何なんの役やくに立つたつかの。なけりゃならんかいの」「そうですね、画工がこうには入りいりませんね」「わしにも入らはいらんがな。わしはまだ巡査じゅんさの厄介やっかいになった事ことがない」「そうでしょう」「しかし、いくら警察けいさつが屁への勘定かんじょうをしたてて、構わかまわんがな。澄ましすましていたら。自分じぶんにわるい事ことがなけりゃ、なんぼ警察けいさつじゃて、どうもなるまいがな」「屁へくらいで、どうかされちゃたまりません」「わしが小坊主しょうぼうずのとき、先代せんだいがよう云わいわれた。人間にんげんは日本橋にほんばしの真中まなかに臓腑ぞうふをさらけ出しさらけだして、恥ずかしくはずかしくないようにしなければ修業しゅぎょうを積んつんだとは云わいわれんてな。あなたもそれまで修業しゅぎょうをしたらよかろ。旅たびなどはせんでも済むすむようになる」「画工がこうになり澄ませなりすませば、いつでもそうなれます」「それじゃ画工がこうになり澄しすましたらよかろ」「屁への勘定かんじょうをされちゃ、なり切れきれませんよ」「ハハハハはははは。それ御覧ごらん。あの、あなたの泊っとまっている、志保田しほでんの御ご那美なみさんも、嫁よめに入っはいって帰っかえってきてから、どうもいろいろな事ことが気きになってならん、ならんと云ういうてしまいにとうとう、わしの所ところへ法ほうを問いといに来きたじゃて。ところが近頃ちかごろはだいぶ出来できてきて、そら、御覧ごらん。あのような訳わけのわかった女おんなになったじゃて」「へええ、どうもただの女おんなじゃないと思いおもいました」「いやなかなか機鋒きほうの鋭どいするどい女おんなで――わしの所ところへ修業しゅぎょうに来きていた泰安たいあんと云ういう若僧わかぞうも、あの女おんなのために、ふとした事ことから大事だいじを窮きゅう明あきらせんならん因縁いんねんに逢着ほうちゃくして――今いまによい智識ちしきになるようじゃ」 静かしずかな庭にわに、松まつの影かげが落ちるおちる、遠くとおくの海うみは、空そらの光りひかりに応おううるがごとく、応えこたえざるがごとく、有耶無耶うやむやのうちに微かかすかなる、耀きかがやきを放つはなつ。
漁火いさりびは明滅めいめつす。
「あの松まつの影かげを御覧ごらん」「奇麗きれいですな」「ただ奇麗きれいかな」「ええ」「奇麗きれいな上うえに、風かぜが吹いふいても苦くにしない」 茶碗ちゃわんに余っよった渋茶しぶちゃを飲み干しのみほして、糸底いとぞこを上うえに、茶托ちゃたくへ伏せふせて、立ち上るたちのぼる。
「門もんまで送っおくってあげよう。りょううねええん。御客ごきゃくが御ご帰だぞよ」 送らおくられて、庫裏くりを出るでると、鳩はとがくううくううと鳴くなく。
「鳩はとほど可愛いかわいいものはない、わしが、手てをたたくと、みな飛んとんでくる。呼んよんで見よみよか」 月つきはいよいよ明るいあかるい。
しんしんとして、木蓮もくれんは幾いく朶の雲華うんはなを空裏くうりに※げている。
※寥たる春はる夜よるの真中まなかに、和尚おしょうははたと掌てのひらを拍つうつ。
声こえは風かぜ中なかに死ししして一いち羽はねの鳩はとも下りくだりぬ。
「下したりんかいな。下りくだりそうなものじゃが」 了りょう念ねんは余よの顔かおを見みて、ちょっと笑っわらった。
和尚おしょうは鳩はとの眼めが夜よるでも見えるみえると思うおもうているらしい。
気楽きらくなものだ。
山門さんもんの所ところで、余よは二人ふたりに別れるわかれる。
見返みかえりえると、大きなおおきな丸いまりい影かげと、小さなちいさな丸いまりい影かげが、石いし甃いしの上うえに落ちおちて、前後ぜんごして庫裏くりの方ほうに消えきえて行くいく。
十二じゅうに
基督きりすとは最高さいこう度どに芸術家げいじゅつかの態度たいどを具足ぐそくしたるものなりとは、オスカーおすかー・ワイルドわいるどの説せつと記憶きおくしている。
基督きりすとは知らしらず。
観海みかい寺てらの和尚おしょうのごときは、まさしくこの資格しかくを有しゆうしていると思うおもう。
趣味しゅみがあると云ういう意味いみではない。
時勢じせいに通じつうじていると云ういう訳わけでもない。
彼かれは画がと云ういう名なのほとんど下すくだすべからざる達磨だるまの幅はばを掛けかけて、ようできたなどと得意とくいである。
彼かれは画工がこうに博士はかせがあるものと心得こころえている。
彼かれは鳩はとの眼めを夜よるでも利くきくものと思っおもっている。
それにも関わらかかわらず、芸術家げいじゅつかの資格しかくがあると云ういう。
彼かれの心こころは底そこのない嚢のうのように行き抜けゆきぬけである。
何になんにも停滞ていたいしておらん。
随処ずいしょに動きうごき去りさり、任意にんいに作さくし去っさって、些さの塵ごみ滓かすの腹部ふくぶに沈澱ちんでんする景色けしきがない。
もし彼かれの脳裏のうりに一いち点てんの趣味しゅみを貼し得とくたならば、彼かれは之これく所ところに同化どうかして、行こう屎くそ走そう尿にょうの際さいにも、完全かんぜんたる芸術家げいじゅつかとして存在そんざいし得るうるだろう。
余よのごときは、探偵たんていに屁への数すうを勘定かんじょうされる間まは、とうてい画家がかにはなれない。
画架がかに向うむこう事ことは出来るできる。
小手こて板いたを握るにぎる事ことは出来るできる。
しかし画工がこうにはなれない。
こうやって、名なも知らしらぬ山里やまざとへ来きて、暮れくれんとする春色しゅんしょくのなかに五ご尺さしの痩躯そうくを埋めうめつくして、始めはじめて、真しんの芸術家げいじゅつかたるべき態度たいどに吾われ身みを置きおき得るうるのである。
一いちたびこの境界きょうかいに入れいれば美びの天下てんかはわが有ゆうに帰するきする。
尺さし素もとを染めそめず、寸すん※を塗らぬらざるも、われは第だい一流いちりゅうの大おお画工がこうである。
技わざにおいて、ミケルアンゼロに及ばおよばず、巧みたくみなる事ことラフハエルに譲るゆずる事ことありとも、芸術家げいじゅつかたるの人格じんかくにおいて、古今ここんの大家おおやと歩武ほぶを斉ゅうひとしゅうして、毫もごうも遜るへりくだるところを見出しみだし得とくない。
余よはこの温泉場おんせんじょうへ来きてから、まだ一いち枚ばいの画がもかかない。
絵の具えのぐ箱ばこは酔興すいきょうに、担いにないできたかの感かんさえある。
人ひとはあれでも画家がかかと嗤うわらうかもしれぬ。
いくら嗤わわらわれても、今いまの余よは真しんの画家がかである。
立派りっぱな画家がかである。
こう云ういう境さかいを得とくたものが、名画めいがをかくとは限らかぎらん。
しかし名画めいがをかき得るうる人ひとは必ずかならずこの境さかいを知らしらねばならん。
朝飯あさめしをすまして、一いち本ほんの敷島しきしまをゆたかに吹かしふかしたるときの余よの観想かんそうは以上いじょうのごとくである。
日ひは霞かすみを離れはなれて高くたかく上っのぼっている。
障子しょうじをあけて、後ろうしろの山やまを眺めながめたら、蒼いあおい樹きが非常ひじょうにすき通っすきとおって、例れいになく鮮やかあざやかに見えみえた。
余よは常つねに空気くうきと、物象ぶっしょうと、彩色さいしきの関係かんけいを宇宙うちゅうでもっとも興味きょうみある研究けんきゅうの一いちと考えかんがえている。
色いろを主におもにして空気くうきを出すだすか、物ものを主におもにして、空気くうきをかくか。
または空気くうきを主におもにしてそのうちに色いろと物ものとを織り出すおりだすか。
画がは少しすこしの気合きあい一いちつでいろいろな調子ちょうしが出るでる。
この調子ちょうしは画家がか自身じしんの嗜好しこうで異なっことなってくる。
それは無論むろんであるが、時じと場所ばしょとで、自ずからおのずから制限せいげんされるのもまた当前とうぜんである。
英国人えいこくにんのかいた山水さんすいに明るいあかるいものは一いちつもない。
明るいあかるい画がが嫌いやなのかも知れしれぬが、よし好きすきであっても、あの空気くうきでは、どうする事ことも出来できない。
同じおなじ英えい人ひとでもグーダルぐーだるなどは色いろの調子ちょうしがまるで違うちがう。
違うちがうはずである。
彼かれは英えい人ひとでありながら、かつて英国えいこくの景色けしきをかいた事ことがない。
彼かれの画題がだいは彼かれの郷土きょうどにはない。
彼かれの本国ほんごくに比するひすると、空気くうきの透明とうめいの度どの非常ひじょうに勝っかっている、埃及えじぷとまたは波斯ぺるしゃ辺へんの光景こうけいのみを択んえらんでいる。
したがって彼かれのかいた画がを、始めはじめて見るみると誰だれも驚ろくおどろく。
英えい人ひとにもこんな明かあきらかな色いろを出すだすものがあるかと疑ううたがうくらい判然はんぜん出来上っできあがっている。
個人こじんの嗜好しこうはどうする事ことも出来できん。
しかし日本にっぽんの山水さんすいを描くえがくのが主意しゅいであるならば、吾々われわれもまた日本にっぽん固有こゆうの空気くうきと色いろを出さださなければならん。
いくら仏蘭西ふらんすの絵えがうまいと云っいって、その色いろをそのままに写しうつして、これが日本にっぽんの景色けしきだとは云わいわれない。
やはり面めんのあたり自然しぜんに接しせっして、朝な夕なあさなゆうなに雲くも容すがた煙けむり態たいを研究けんきゅうしたあげく、あの色いろこそと思っおもったとき、すぐ三脚さんきゃく几つくえを担いにないで飛び出さとびださなければならん。
色いろは刹那せつなに移るうつる。
一いちたび機きを失すれしっすれば、同じおなじ色いろは容易よういに眼めには落ちおちぬ。
余よが今いま見上げみあげた山の端やまのはには、滅多めったにこの辺へんで見るみる事ことの出来できないほどな好いよい色いろが充ちみちている。
せっかく来きて、あれを逃すのがすのは惜しいおしいものだ。
ちょっと写しうつしてきよう。
襖ふすまをあけて、椽えん側がわへ出るでると、向うむこう二に階かいの障子しょうじに身みを倚たして、那美なみさんが立ったっている。
顋あごを襟えりのなかへ埋めうめて、横顔よこがおだけしか見えみえぬ。
余よが挨拶あいさつをしようと思うおもう途端とたんに、女おんなは、左ひだりの手てを落としおとしたまま、右みぎの手てを風かぜのごとく動かしうごかした。
閃くひらめくは稲妻いなずまか、二に折れおれ三さん折れおれ胸むねのあたりを、するりと走るはしるや否いなや、かちりと音おとがして、閃めきひらめきはすぐ消えきえた。
女おんなの左ひだりり手てには九きゅう寸すん五ご分ぶんの白鞘しらさやがある。
姿すがたはたちまち障子しょうじの影かげに隠れかくれた。
余よは朝っぱらあさっぱらから歌舞伎座かぶきざを覗いのぞいた気きで宿やどを出るでる。
門もんを出でて、左ひだりへ切れるきれると、すぐ岨道そばみちつづきの、爪つめ上りのぼりになる。
鶯うぐいすが所々ところどころで鳴くなく。
左ひだりり手てがなだらかな谷たにへ落ちおちて、蜜柑みかんが一面いちめんに植えうえてある。
右みぎには高からたかからぬ岡おかが二につほど並んならんで、ここにもあるは蜜柑みかんのみと思わおもわれる。
何なん年ねん前まえか一度いちどこの地ちに来きた。
指ゆびを折るおるのも面倒めんどうだ。
何なんでも寒いさむい師走しわすの頃ころであった。
その時じ蜜柑山みかんさんに蜜柑みかんがべた生りなりに生るなる景色けしきを始めはじめて見みた。
蜜柑みかん取りとりに一枝かずえ売っうってくれと云っいったら、幾いく顆でも上げあげますよ、持っもっていらっしゃいと答えこたえて、樹きの上うえで妙みょうな節ふしの唄うたをうたい出しうたいだした。
東京とうきょうでは蜜柑みかんの皮かわでさえ薬種やくしゅ屋やへ買いかいに行かいかねばならぬのにと思っおもった。
夜よるになると、しきりに銃じゅうの音おとがする。
何なんだと聞いきいたら、猟師りょうしが鴨かもをとるんだと教えおしえてくれた。
その時じは那美なみさんの、なの字じも知らしらずに済んすんだ。
あの女おんなを役者やくしゃにしたら、立派りっぱな女形おやまが出来るできる。
普通ふつうの役者やくしゃは、舞台ぶたいへ出るでると、よそ行きよそいきの芸げいをする。
あの女おんなは家いえのなかで、常住じょうじゅう芝居しばいをしている。
しかも芝居しばいをしているとは気きがつかん。
自然しぜん天然てんねんに芝居しばいをしている。
あんなのを美的びてき生活せいかつとでも云ういうのだろう。
あの女おんなの御蔭みかげで画がの修業しゅぎょうがだいぶ出来できた。
あの女おんなの所作しょさを芝居しばいと見みなければ、薄うす気味きみがわるくて一いち日ひもいたたまれん。
義理ぎりとか人情にんじょうとか云ういう、尋常じんじょうの道具どうぐ立たてを背景はいけいにして、普通ふつうの小説家しょうせつかのような観察かんさつ点てんからあの女おんなを研究けんきゅうしたら、刺激しげきが強きょう過ぎすぎて、すぐいやになる。
現実世界げんじつせかいに在っあって、余よとあの女おんなの間まに纏綿てんめんした一種いっしゅの関係かんけいが成り立っなりたったとするならば、余よの苦痛くつうは恐らくおそらく言語げんごに絶するぜっするだろう。
余よのこのたびの旅行りょこうは俗ぞく情じょうを離れはなれて、あくまで画工がこうになり切るきるのが主意しゅいであるから、眼めに入るはいるものはことごとく画がとして見みなければならん。
能のう、芝居しばい、もしくは詩し中なかの人物じんぶつとしてのみ観察かんさつしなければならん。
この覚悟かくごの眼鏡めがねから、あの女おんなを覗いのぞいて見るみると、あの女おんなは、今までいままで見みた女おんなのうちでもっともうつくしい所作しょさをする。
自分じぶんでうつくしい芸げいをして見せるみせると云ういう気きがないだけに役者やくしゃの所作しょさよりもなおうつくしい。
こんな考かんがえをもつ余よを、誤解ごかいしてはならん。
社会しゃかいの公民こうみんとして不適当ふてきとうだなどと評しひょうしてはもっとも不届きふとどきである。
善ぜんは行いおこない難いがたい、徳とくは施こしこしにくい、節操せっそうは守りまもり安あんからぬ、義ぎのために命いのちを捨てるすてるのは惜しいおしい。
これらをあえてするのは何人なんにんに取っとっても苦痛くつうである。
その苦痛くつうを冒すおかすためには、苦痛くつうに打ち勝つうちかつだけの愉快ゆかいがどこかに潜んひそんでおらねばならん。
画がと云ういうも、詩しと云ういうも、あるは芝居しばいと云ういうも、この悲酸ひさんのうちに籠るこもる快感かいかんの別号べつごうに過ぎすぎん。
この趣きおもむきを解しかいし得とくて、始めはじめて吾人ごじんの所作しょさは壮烈そうれつにもなる、閑雅かんがにもなる、すべての困苦こんくに打ち勝っうちかって、胸中きょうちゅうの一いち点てんの無上むじょう趣味しゅみを満足まんぞくせしめたくなる。
肉体にくたいの苦しみくるしみを度外どがいに置いおいて、物質ぶっしつ上うえの不便ふべんを物ものとも思わおもわず、勇猛ゆうもう精進しょうじんの心こころを駆っかって、人道じんどうのために、鼎かなえ※に烹にらるるを面白くおもしろく思うおもう。
もし人情にんじょうなる狭きせまき立脚地りっきゃくちに立ったって、芸術げいじゅつの定義ていぎを下しおろし得るうるとすれば、芸術げいじゅつは、われら教育きょういくある士人しじんの胸裏きょうりに潜んひそんで、邪じゃを避けさけ正ただしに就きつき、曲きょくを斥けしりぞけ直じかにくみし、弱じゃくを扶けたすけ強きょうを挫かくじかねば、どうしても堪えこらえられぬと云ういう一念いちねんの結晶けっしょうして、燦さんとして白日はくじつを射返すいかえすものである。
芝居気しばいぎがあると人ひとの行為こういを笑うわらう事ことがある。
うつくしき趣味しゅみを貫かつらぬかんがために、不必要ふひつようなる犠牲ぎせいをあえてするの人情にんじょうに遠きとおきを嗤うわらうのである。
自然しぜんにうつくしき性格せいかくを発揮はっきするの機会きかいを待たまたずして、無理矢理むりやりに自己じこの趣味しゅみ観かんを衒うてらうの愚ぐを笑うわらうのである。
真しんに個こ中なかの消息しょうそくを解しかいし得とくたるものの嗤うわらうはその意いを得とくている。
趣味しゅみの何物なにものたるをも心得こころえぬ下司げす下郎げろうの、わが卑ひくしき心根こころねに比較ひかくして他ほかを賤しむいやしむに至っいたっては許しゆるしがたい。
昔むかしし巌頭がんとうの吟ぎんを遺しのこして、五十ごじゅう丈たけの飛瀑ひばくを直下ちょっかして急湍きゅうたんに赴いおもむいた青年せいねんがある。
余よの視るみるところにては、彼かれの青年せいねんは美びの一いち字じのために、捨つべからざる命いのちを捨てすてたるものと思うおもう。
死しそのものは洵ひとしに壮烈そうれつである、ただその死しを促がすうながすの動機どうきに至っいたっては解しかいしがたい。
されども死しそのものの壮烈そうれつをだに体したいし得とくざるものが、いかにして藤村ふじむら子この所作しょさを嗤いわらい得とくべき。
彼かれらは壮烈そうれつの最後さいごを遂すいぐるの情趣じょうしゅを味いあじわい得とくざるが故こに、たとい正当せいとうの事情じじょうのもとにも、とうてい壮烈そうれつの最後さいごを遂げとげ得とくべからざる制限せいげんある点てんにおいて、藤村ふじむら子こよりは人格じんかくとして劣等れっとうであるから、嗤うわらう権利けんりがないものと余よは主張しゅちょうする。
余よは画工がこうである。
画工がこうであればこそ趣味しゅみ専門せんもんの男おとことして、たとい人情にんじょう世界せかいに堕在だざいするも、東西とうざい両隣りりょうどなりの没ぼつ風流ふうりゅう漢かんよりも高尚こうしょうである。
社会しゃかいの一員いちいんとして優にゆうに他ほかを教育きょういくすべき地位ちいに立ったっている。
詩しなきもの、画がなきもの、芸術げいじゅつのたしなみなきものよりは、美びくしき所作しょさが出来るできる。
人情にんじょう世界せかいにあって、美びくしき所作しょさは正ただしである、義ぎである、直じかである。
正ただしと義ぎと直じかを行為こういの上うえにおいて示すしめすものは天下てんかの公民こうみんの模範もはんである。
しばらく人情にんじょう界さかいを離れはなれたる余よは、少なくすくなくともこの旅たび中なかに人情にんじょう界さかいに帰るかえる必要ひつようはない。
あってはせっかくの旅たびが無駄むだになる。
人情にんじょう世界せかいから、じゃりじゃりする砂すなをふるって、底そこにあまる、うつくしい金きんのみを眺めながめて暮さくれさなければならぬ。
余よ自らみずからも社会しゃかいの一員いちいんをもって任じにんじてはおらぬ。
純粋じゅんすいなる専門せんもん画家がかとして、己れおのれさえ、纏綿てんめんたる利害りがいの累るい索さくを絶ったって、優にゆうに画布がふ裏うらに往来おうらいしている。
いわんや山やまをや水みずをや他人たにんをや。
那美なみさんの行為こうい動作どうさといえどもただそのままの姿すがたと見るみるよりほかに致し方いたしかたがない。
三さん丁ていほど上るのぼると、向うむこうに白壁しらかべの一いち構かまえが見えるみえる。
蜜柑みかんのなかの住居じゅうきょだなと思うおもう。
道みちは間まもなく二に筋すじに切れるきれる。
白壁しらかべを横よこに見みて左ひだりりへ折れるおれる時じ、振り返っふりかえったら、下したから赤いあかい腰巻こしまきをした娘むすめが上っのぼってくる。
腰巻こしまきがしだいに尽きつきて、下したから茶色ちゃいろの脛すねが出るでる。
脛すねが出で切っきったら、藁わら草履ぞうりになって、その藁わら草履ぞうりがだんだん動いうごいて来るくる。
頭あたまの上うえに山桜やまざくらが落ちかかるおちかかる。
背中せなかには光るひかる海うみを負ふている。
岨道そばみちを登りのぼり切るきると、山やまの出鼻でばなの平たいらな所ところへ出でた。
北側きたがわは翠みどりりを畳むたたむ春はるの峰みねで、今朝けさ椽えんから仰いおっしゃいだあたりかも知れしれない。
南側みなみがわには焼野やけのとも云ういうべき地勢ちせいが幅はば半丁はんちょうほど広がっひろがって、末すえは崩れくずれた崖がけとなる。
崖がけの下したは今いま過ぎすぎた蜜柑山みかんさんで、村むらを跨いまたいで向むかいを見れみれば、眼めに入るはいるものは言わいわずも知れしれた青海あおうみである。
路みちは幾筋いくすじもあるが、合うあうては別れわかれ、別れわかれては合うあうから、どれが本筋ほんすじとも認めみとめられぬ。
どれも路みちである代りかわりに、どれも路みちでない。
草くさのなかに、黒くろ赤いあかい地ちが、見えみえたり隠れかくれたりして、どの筋すじにつながるか見分けんぶんのつかぬところに変化へんかがあって面白いおもしろい。
どこへ腰こしを据えすえたものかと、草くさのなかを遠近えんきんと徘徊はいかいする。
椽えんから見みたときは画がになると思っおもった景色けしきも、いざとなると存外ぞんがい纏まらまとまらない。
色いろもしだいに変っかわってくる。
草原そうげんをのそつくうちに、いつしか描くえがく気きがなくなった。
描かえがかぬとすれば、地位ちいは構わかまわん、どこへでも坐っすわった所ところがわが住居じゅうきょである。
染み込んしみこんだ春はるの日ひが、深くふかく草の根くさのねに籠っこもって、どっかと尻しりを卸すおろすと、眼めに入らはいらぬ陽炎かげろうを踏み潰しふみつぶしたような心持ちこころもちがする。
海うみは足あしの下したに光るひかる。
遮ぎるさえぎる雲くもの一いち片かたさえ持たもたぬ春はるの日影ひかげは、普ひろしねく水みずの上うえを照らしてらして、いつの間まにかほとぼりは波なみの底そこまで浸みしみ渡っわたったと思わおもわるるほど暖かあたたかに見えるみえる。
色いろは一いち刷毛はけの紺青こんじょうを平らたいらに流しながしたる所々ところどころに、しろかねの細ほそ鱗うろこを畳んたたんで濃やかこまやかに動いうごいている。
春はるの日ひは限り無きかぎりなき天が下あめがしたを照らしてらして、天が下あめがしたは限りなきかぎりなき水みずを湛えたたえたる間まには、白きしろき帆ほが小指こゆびの爪つめほどに見えるみえるのみである。
しかもその帆ほは全くまったく動かうごかない。
往昔おうせき入貢にゅうこうの高麗こま船ふねが遠くとおくから渡っわたってくるときには、あんなに見えみえたであろう。
そのほかは大おお千せん世界せかいを極めきわめて、照らすてらす日ひの世よ、照らさてらさるる海うみの世よのみである。
ごろりと寝るねる。
帽子ぼうしが額がくをすべって、やけに阿弥陀あみだとなる。
所々ところどころの草くさを一二いちに尺さし抽いて、木瓜もっこうの小しょう株かぶが茂っしげるっている。
余よが顔かおはちょうどその一いちつの前まえに落ちおちた。
木瓜もっこうは面白いおもしろい花はなである。
枝えだは頑固がんこで、かつて曲っきょくった事ことがない。
そんなら真直まっすぐかと云ういうと、けっして真直まっすぐでもない。
ただ真直まっすぐな短かいみじかい枝えだに、真直まっすぐな短かいみじかい枝えだが、ある角度かくどで衝突しょうとつして、斜しゃに構えかまえつつ全体ぜんたいが出来上っできあがっている。
そこへ、紅くれないだか白しろだか要領ようりょうを得とくぬ花はなが安閑あんかんと咲くさく。
柔かいやわらかい葉はさえちらちら着けるつける。
評しひょうして見るみると木瓜もっこうは花はなのうちで、愚かおろかにして悟っさとったものであろう。
世間せけんには拙つたなを守るまもると云ういう人ひとがある。
この人ひとが来世らいせに生れ変るうまれかわるときっと木瓜もっこうになる。
余よも木瓜もっこうになりたい。
小供こどものうち花はなの咲いさいた、葉はのついた木瓜もっこうを切っきって、面白くおもしろく枝えだ振ぶりを作っつくって、筆ふで架かをこしらえた事ことがある。
それへ二に銭せん五ご厘りんの水筆すいひつを立てかけたてかけて、白いしろい穂ほが花はなと葉はの間まから、隠見いんけんするのを机つくえへ載せのせて楽らくんだ。
その日ひは木瓜もっこうの筆ふで架かばかり気きにして寝ねた。
あくる日あくるひ、眼めが覚めるさめるや否いなや、飛び起きとびおきて、机つくえの前まえへ行っいって見るみると、花はなは萎えなえ葉はは枯れかれて、白いしろい穂ほだけが元もとのごとく光っひかりっている。
あんなに奇麗きれいなものが、どうして、こう一いち晩ばんのうちに、枯れるかれるだろうと、その時じは不審ふしんの念ねんに堪えこらえなかった。
今いま思うおもうとその時分じぶんの方ほうがよほど出世しゅっせ間ま的まとである。
寝るねるや否いなや眼めについた木瓜もっこうは二十にじゅう年ねん来きの旧きゅう知己ちきである。
見詰めみつめているとしだいに気きが遠くとおくなって、いい心持ちこころもちになる。
また詩興しきょうが浮ぶうかぶ。
寝ねながら考えるかんがえる。
一句いっくを得るうるごとに写生しゃせい帖じょうに記ししるして行くいく。
しばらくして出来上っできあがったようだ。
始めはじめから読み直しよみなおして見るみる。
出門しゅつもん多さわ所思しょし。
春はる風吹ふぶき吾衣われころも。
芳草ほうそう生なま車くるま轍てつ。
廃道はいどう入いり霞かすみ微かすか。
停てい※而矚目め。
万象ばんしょう帯おび晴暉はれあきら。
聴ちょう黄鳥こうちょう宛転えんてん。
観かん落おち英えい紛霏ふん。
行こう尽じん平たいら蕪かぶ遠とお。
題詩だいし古寺こじ扉とびら。
孤愁こしゅう高こう雲際うんさい。
大空おおぞら断だん鴻おおとり帰。
寸心すんしん何なん窈窕ようちょう。
縹緲ひょうびょう忘わすれ是非ぜひ。
三十さんじゅう我欲がよく老おい。
韶光しょうこう猶なお依い々。
逍遥しょうよう随物化ばけ。
悠然ゆうぜん対たい芬菲。
ああ出来できた、出来できた。
これで出来できた。
寝ねながら木瓜もっこうを観かんて、世の中よのなかを忘れわすれている感じかんじがよく出でた。
木瓜もっこうが出でなくっても、海うみが出でなくっても、感じかんじさえ出れでればそれで結構けっこうである。
と唸りうなりながら、喜んよろこんでいると、エヘンえへんと云ういう人間にんげんの咳せき払はらいが聞えきこえた。
こいつは驚いおどろいた。
寝返りねがえりをして、声こえの響いひびいた方ほうを見るみると、山やまの出鼻でばなを回っまわって、雑木ぞうきの間まから、一人ひとりの男おとこがあらわれた。
茶ちゃの中折れなかおれを被っかぶっている。
中折れなかおれの形かたちは崩れくずれて、傾くかたむく縁の下えんのしたから眼めが見えるみえる。
眼めの恰好かっこはわからんが、たしかにきょろきょろときょろつくようだ。
藍あいの縞物しまものの尻しりを端折っはしょって、素足すあしに下駄げたがけの出で立ちいでたちは、何なんだか鑑定かんていがつかない。
野生やせいの髯ひげだけで判断はんだんするとまさに野武士のぶしの価値かちはある。
男おとこは岨道そばみちを下りるおりるかと思いおもいのほか、曲り角まがりかどからまた引き返しひきかえした。
もと来きた路みちへ姿すがたをかくすかと思うおもうと、そうでもない。
またあるき直しなおしてくる。
この草原そうげんを、散歩さんぽする人ひとのほかに、こんなに行きいきつ戻りもどりつするものはないはずだ。
しかしあれが散歩さんぽの姿すがたであろうか。
またあんな男おとこがこの近辺きんぺんに住んすんでいるとも考えかんがえられない。
男おとこは時々ときどき立ち留るたちどまる。
首くびを傾けるかたむける。
または四方しほうを見み廻わすまわす。
大おおに考え込むかんがえこむようにもある。
人ひとを待ち合せるまちあわせる風かぜにも取らとられる。
何なんだかわからない。
余よはこの物騒ぶっそうな男おとこから、ついに吾われ眼めをはなす事ことができなかった。
別べつに恐しいおそろしいでもない、また画がにしようと云ういう気きも出でない。
ただ眼めをはなす事ことができなかった。
右みぎから左ひだり、左ひだりりから右みぎと、男おとこに添うそうて、眼めを働かはたらかせているうちに、男おとこははたと留っとめった。
留るとまると共ともに、またひとりの人物じんぶつが、余よが視界しかいに点てん出さだされた。
二人ふたりは双方そうほうで互たがいに認識にんしきしたように、しだいに双方そうほうから近づいちかづいて来るくる。
余よが視界しかいはだんだん縮まっちぢまって、原はらの真中まなかで一いち点てんの狭きせまき間まに畳またたまれてしまう。
二人ふたりは春はるの山やまを背せに、春はるの海うみを前まえに、ぴたりと向き合っむきあった。
男おとこは無論むろん例れいの野武士のぶしである。
相手あいては?
相手あいては女おんなである。
那美なみさんである。
余よは那美なみさんの姿すがたを見みた時じ、すぐ今朝けさの短刀たんとうを連想れんそうした。
もしや懐ふところに呑んのんでおりはせぬかと思っおもったら、さすが非人情ひにんじょうの余よもただ、ひやりとした。
男女だんじょは向き合うむきあうたまま、しばらくは、同じおなじ態度たいどで立ったっている。
動くうごく景色けしきは見えみえぬ。
口くちは動かしうごかしているかも知れしれんが、言葉ことばはまるで聞えきこえぬ。
男おとこはやがて首くびを垂れたれた。
女おんなは山やまの方ほうを向くむく。
顔かおは余よの眼めに入らはいらぬ。
山やまでは鶯うぐいすが啼くなく。
女おんなは鶯うぐいすに耳みみを借かりして、いるとも見えるみえる。
しばらくすると、男おとこは屹ときっと、垂れたれた首くびを挙げあげて、半ばなかば踵かかとを回らしまわらしかける。
尋常じんじょうの様ようではない。
女おんなは颯さっと体からだを開いひらいて、海うみの方ほうへ向き直るむきなおる。
帯おびの間まから頭あたまを出しだしているのは懐剣かいけんらしい。
男おとこは昂然こうぜんとして、行きいきかかる。
女おんなは二に歩あゆみばかり、男おとこの踵かかとを縫うぬうて進むすすむ。
女おんなは草履ぞうりばきである。
男おとこの留っとめったのは、呼びよび留めとめられたのか。
振り向くふりむく瞬間しゅんかんに女おんなの右手みぎては帯おびの間まへ落ちおちた。
あぶない!
するりと抜け出ぬけでたのは、九きゅう寸すん五ご分ぶんかと思いおもいのほか、財布さいふのような包み物つつみものである。
差し出しさしだした白いしろい手ての下したから、長いながい紐ひもがふらふらと春風しゅんぷうに揺れるゆれる。
片足かたあしを前まえに、腰こしから上うえを少しすこしそらして、差し出しさしだした、白いしろい手頸てくびに、紫むらさきの包つつみ。
これだけの姿勢しせいで充分じゅうぶん画がにはなろう。
紫むらさきでちょっと切れきれた図面ずめんが、二三にさん寸すんの間隔かんかくをとって、振り返るふりかえる男おとこの体からだのこなし具合ぐあいで、うまい按排あんばいにつながれている。
不即ふそく不離ふりとはこの刹那せつなの有様ありさまを形容けいようすべき言葉ことばと思うおもう。
女おんなは前まえを引くひく態度たいどで、男おとこは後あとえに引かひかれた様子ようすだ。
しかもそれが実際じっさいに引いひいてもひかれてもおらん。
両者りょうしゃの縁えんは紫むらさきの財布さいふの尽じんくる所ところで、ふつりと切れきれている。
二人ふたりの姿勢しせいがかくのごとく美妙びみょうな調和ちょうわを保ったもっていると同時どうじに、両者りょうしゃの顔かおと、衣服いふくにはあくまで、対照たいしょうが認めみとめられるから、画がとして見るみると一層いっそうの興味きょうみが深いぶかい。
背せのずんぐりした、色黒いろぐろの、髯ひげづらと、くっきり締っしまった細面ほそおもてに、襟えりの長いながい、撫肩なでがたの、華奢きゃしゃ姿すがた。
ぶっきらぼうに身みをひねった下駄げたがけの野武士のぶしと、不断ふだん着きの銘仙めいせんさえしなやかに着きこなした上うえ、腰こしから上うえを、おとなしく反り身そりみに控えひかえたる痩やせ形かたち。
はげた茶ちゃの帽子ぼうしに、藍あい縞しまの尻切りしりきり出立ちいでたちと、陽炎かげろうさえ燃やすもやすべき櫛目くしめの通っとおった鬢びんの色いろに、黒くろ繻子しゅすのひかる奥おくから、ちらりと見せみせた帯おび上うえの、なまめかしさ。
すべてが好よしみ画題がだいである。
男おとこは手てを出しだして財布さいふを受け取るうけとる。
引きひきつ引かひかれつ巧みたくみに平均へいきんを保ちたもちつつあった二人ふたりの位置いちはたちまち崩れるくずれる。
女おんなはもう引かひかぬ、男おとこは引かひかりょうともせぬ。
心的しんてき状態じょうたいが絵えを構成こうせいする上うえに、かほどの影響えいきょうを与えようあたえようとは、画家がかながら、今までいままで気きがつかなかった。
二人ふたりは左右さゆうへ分かれるわかれる。
双方そうほうに気合きあいがないから、もう画がとしては、支離滅裂しりめつれつである。
雑木林ぞうきりんの入口いりぐちで男おとこは一度いちど振り返っふりかえった。
女おんなは後あとをも見みぬ。
すらすらと、こちらへ歩行ほこうてくる。
やがて余よの真正面ましょうめんまで来きて、「先生せんせい、先生せんせい」と二に声こえ掛けかけた。
これはしたり、いつ目付めつけかったろう。
「何なんです」と余よは木瓜もっこうの上うえへ顔かおを出すだす。
帽子ぼうしは草原そうげんへ落ちおちた。
「何なんをそんな所ところでしていらっしゃる」「詩しを作っつくって寝ねていました」「うそをおっしゃい。今いまのを御覧ごらんでしょう」「今いまの? 今いまの、あれですか。ええ。少々しょうしょう拝見はいけんしました」「ホホホホほほほほ少々しょうしょうでなくても、たくさん御覧ごらんなさればいいのに」「実じつのところはたくさん拝見はいけんしました」「それ御覧ごらんなさい。まあちょっと、こっちへ出でていらっしゃい。木瓜もっこうの中なかから出でていらっしゃい」 余よは唯々いいとして木瓜もっこうの中なかから出でて行くいく。
「まだ木瓜もっこうの中なかに御用ごようがあるんですか」「もう無いないんです。帰ろうかえろうかとも思うおもうんです」「それじゃごいっしょに参りまいりましょうか」「ええ」 余よは再びふたたび唯々いいとして、木瓜もっこうの中なかに退いしりぞいて、帽子ぼうしを被りかぶり、絵えの道具どうぐを纏めまとめて、那美なみさんといっしょにあるき出すだす。
「画がを御ご描きえがきになったの」「やめました」「ここへいらしって、まだ一いち枚ばいも御ご描きえがきなさらないじゃありませんか」「ええ」「でもせっかく画がをかきにいらしって、ちっとも御ごかきなさらなくっちゃ、つまりませんわね」「なにつまってるんです」「おやそう。なぜ?」「なぜでも、ちゃんとつまるんです。画がなんぞ描いえがいたって、描かえがかなくったって、つまるところは同じおなじ事ことでさあ」「そりゃ洒落しゃれなの、ホホホホほほほほ随分ずいぶん呑気のんきですねえ」「こんな所ところへくるからには、呑気のんきにでもしなくっちゃ、来きた甲斐かいがないじゃありませんか」「なあにどこにいても、呑気のんきにしなくっちゃ、生きいきている甲斐かいはありませんよ。私わたくしなんぞは、今いまのようなところを人ひとに見みられても恥かしくはずかしくも何なんとも思いおもいません」「思わおもわんでもいいでしょう」「そうですかね。あなたは今いまの男おとこをいったい何なんだと御ご思いおもいです」「そうさな。どうもあまり、金持ちかねもちじゃありませんね」「ホホホほほほ善くよくあたりました。あなたは占いうらないの名人めいじんですよ。あの男おとこは、貧乏びんぼうして、日本にっぽんにいられないからって、私わたくしに御ご金きんを貰いもらいに来きたのです」「へえ、どこから来きたのです」「城下じょうかから来きました」「随分ずいぶん遠方えんぽうから来きたもんですね。それで、どこへ行くいくんですか」「何なんでも満洲まんしゅうへ行くいくそうです」「何なんしに行くいくんですか」「何なんしに行くいくんですか。御ご金きんを拾いひろいに行くいくんだか、死にしにに行くいくんだか、分りわかりません」 この時余じよは眼めをあげて、ちょと女おんなの顔かおを見みた。
今いま結んむすんだ口元くちもとには、微かかすかなる笑わらいの影かげが消えきえかかりつつある。
意味いみは解せげせぬ。
「あれは、わたくしの亭主ていしゅです」 迅雷じんらいを掩うおおうに遑いとまあらず、女おんなは突然とつぜんとして一いち太刀たち浴びせかけあびせかけた。
余よは全くまったく不意ふい撃げきを喰っくった。
無論むろんそんな事ことを聞くきく気きはなし、女おんなも、よもや、ここまで曝け出そうさらけだそうとは考えかんがえていなかった。
「どうです、驚ろいおどろいたでしょう」と女おんなが云ういう。
「ええ、少々しょうしょう驚ろいおどろいた」「今いまの亭主ていしゅじゃありません、離縁りえんされた亭主ていしゅです」「なるほど、それで……」「それぎりです」「そうですか。――あの蜜柑山みかんさんに立派りっぱな白壁しらかべの家いえがありますね。ありゃ、いい地位ちいにあるが、誰だれの家いえなんですか」「あれが兄あにの家いえです。帰り路かえりみちにちょっと寄っよって、行きいきましょう」「用ようでもあるんですか」「ええちっと頼またのまれものがあります」「いっしょに行きいきましょう」 岨道そばみちの登り口のぼりぐちへ出でて、村むらへ下りくだりずに、すぐ、右みぎに折れおれて、また一いち丁ていほどを登るのぼると、門もんがある。
門もんから玄関げんかんへかからずに、すぐ庭口にわぐちへ廻るまわる。
女おんなが無遠慮むえんりょにつかつか行くいくから、余よも無遠慮むえんりょにつかつか行くいく。
南向きみなみむきの庭にわに、棕梠しゅろが三四さんよん本ほんあって、土塀どべいの下したはすぐ蜜柑みかん畠はたけである。
女おんなはすぐ、椽えん鼻はなへ腰こしをかけて、云ういう。
「いい景色けしきだ。御覧ごらんなさい」「なるほど、いいですな」 障子しょうじのうちは、静かしずかに人ひとの気合きあいもせぬ。
女おんなは音おとのう景色けしきもない。
ただ腰こしをかけて、蜜柑みかん畠はたけを見下しみくだして平気へいきでいる。
余よは不思議ふしぎに思っおもった。
元来がんらい何なんの用ようがあるのかしら。
しまいには話はなしもないから、両方りょうほう共とも無言むごんのままで蜜柑みかん畠はたけを見下しみくだしている。
午うまに逼るせまる太陽たいようは、まともに暖かいあたたかい光線こうせんを、山やま一面いちめんにあびせて、眼めに余るあまる蜜柑みかんの葉はは、葉裏はうらまで、蒸し返さむしかえされて耀やいている。
やがて、裏うらの納屋なやの方ほうで、鶏にわとりが大きなおおきな声こえを出しだして、こけこっこううと鳴くなく。
「おやもう。御ご午うまですね。用事ようじを忘れわすれていた。――久一ひさいちさん、久一ひさいちさん」 女おんなは及び腰およびごしになって、立てたて切っきった障子しょうじを、からりと開けるあける。
内うちは空そらしき十じゅう畳たたみ敷しきに、狩野かの派はの双幅そうふくが空しくむなしく春はるの床ゆかを飾っかざっている。
「久一ひさいちさん」 納屋なやの方ほうでようやく返事へんじがする。
足音あしおとが襖ふすまの向むかいでとまって、からりと、開くひらくが早いはやいか、白鞘しらさやの短刀たんとうが畳たたみの上うえへ転がりころがり出すだす。
「そら御ご伯父おじさんの餞別せんべつだよ」 帯おびの間まに、いつ手てが這入っはいったか、余よは少しすこしも知らしらなかった。
短刀たんとうは二三にさん度どとんぼ返りとんぼがえりを打っうって、静かしずかな畳たたみの上うえを、久一ひさいちさんの足下あしもとへ走るはしる。
作りつくりがゆる過ぎすぎたと見えみえて、ぴかりと、寒いさむいものが一寸ちょっとばかり光っひかりった。
十三じゅうさん
川舟かわふねで久一ひさいちさんを吉田よしだの停車場ていしゃじょうまで見送るみおくる。
舟ふねのなかに坐っすわったものは、送らおくられる久一ひさいちさんと、送るおくる老人ろうじんと、那美なみさんと、那美なみさんの兄さんあにさんと、荷物にもつの世話せわをする源兵衛げんべえと、それから余よである。
余よは無論むろん御ご招伴に過ぎすぎん。
御ご招伴でも呼ばよばれれば行くいく。
何なんの意味いみだか分らわからなくても行くいく。
非人情ひにんじょうの旅たびに思慮しりょは入らはいらぬ。
舟ふねは筏いかだに縁えんをつけたように、底そこが平たいひらたい。
老人ろうじんを中なかに、余よと那美なみさんが艫とも、久一ひさいちさんと、兄さんあにさんが、舳へさきに座ざをとった。
源兵衛げんべえは荷物にもつと共ともに独りひとり離れはなれている。
「久一ひさいちさん、軍ぐんさは好きすきか嫌いきらいかい」と那美なみさんが聞くきく。
「出でて見みなければ分らわからんさ。苦しいくるしい事こともあるだろうが、愉快ゆかいな事ことも出でて来るくるんだろう」と戦争せんそうを知らしらぬ久一ひさいちさんが云ういう。
「いくら苦しくくるしくっても、国家こっかのためだから」と老人ろうじんが云ういう。
「短刀たんとうなんぞ貰うもらうと、ちょっと戦争せんそうに出でて見みたくなりゃしないか」と女おんながまた妙みょうな事ことを聞くきく。
久一ひさいちさんは、「そうさね」と軽くかるく首くび肯ううけがう。
老人ろうじんは髯ひげを掀げて笑うわらう。
兄さんあにさんは知らしらぬ顔かおをしている。
「そんな平気へいきな事ことで、軍ぐんさが出来るできるかい」と女おんなは、委細いさい構わかまわず、白いしろい顔かおを久一ひさいちさんの前まえへ突き出すつきだす。
久一ひさいちさんと、兄さんあにさんがちょっと眼めを見合せみあわせた。
「那美なみさんが軍人ぐんじんになったらさぞ強かろうつよかろう」兄さんあにさんが妹いもうとに話しかけはなしかけた第だい一いちの言葉ことばはこれである。
語調ごちょうから察するさっすると、ただの冗談じょうだんとも見えみえない。
「わたしが? わたしが軍人ぐんじん? わたしが軍人ぐんじんになれりゃとうになっています。今頃いまごろは死んしんでいます。久一ひさいちさん。御前ごぜんも死ぬしぬがいい。生きいきて帰っかえっちゃ外聞がいぶんがわるい」「そんな乱暴らんぼうな事ことを――まあまあ、めでたく凱旋がいせんをして帰っかえって来きてくれ。死ぬしぬばかりが国家こっかのためではない。わしもまだ二三にさん年ねんは生きるいきるつもりじゃ。まだ逢えるあえる」 老人ろうじんの言葉ことばの尾おを長くながく手繰たぐりと、尻しりが細くほそくなって、末すえは涙なみだの糸いとになる。
ただ男おとこだけにそこまではだまを出さださない。
久一ひさいちさんは何なんも云わいわずに、横よこを向いむかいて、岸きしの方ほうを見みた。
岸きしには大きなおおきな柳やなぎがある。
下したに小さなちいさな舟ふねを繋いつないで、一人ひとりの男おとこがしきりに垂しで綸を見詰めみつめている。
一行いっこうの舟ふねが、ゆるく波なみ足あしを引いひいて、その前まえを通っとおった時じ、この男おとこはふと顔かおをあげて、久一ひさいちさんと眼めを見合せみあわせた。
眼めを見合せみあわせた両人りょうにんの間まには何なんらの電気でんきも通わかよわぬ。
男おとこは魚さかなの事ことばかり考えかんがえている。
久一ひさいちさんの頭あたまの中なかには一いち尾おの鮒ふなも宿るやどる余地よちがない。
一行いっこうの舟ふねは静かしずかに太公望たいこうぼうの前まえを通り越すとおりこす。
日本橋にほんばしを通るとおる人ひとの数すうは、一いち分ぶんに何百なんびゃくか知らしらぬ。
もし橋畔きょうはんに立ったって、行くいく人ひとの心こころに蟠とぐろまる葛藤かっとうを一々いちいちに聞ききき得とくたならば、浮世うきよは目め眩しくまぶしくて生きいきづらかろう。
ただ知らしらぬ人ひとで逢いあい、知らしらぬ人ひとでわかれるから結句けっく日本橋にほんばしに立ったって、電車でんしゃの旗はたを振るふる志願者しがんしゃも出でて来るくる。
太公望たいこうぼうが、久一ひさいちさんの泣きなきそうな顔かおに、何なんらの説明せつめいをも求めもとめなかったのは幸みゆきである。
顧こり見るみると、安心あんしんして浮標ふひょうを見詰めみつめている。
おおかた日露にちろ戦争せんそうが済むすむまで見詰めるみつめる気きだろう。
川幅かわはばはあまり広くひろくない。
底そこは浅いあさい。
流れながれはゆるやかである。
舷げんに倚っよって、水みずの上うえを滑っすべって、どこまで行くいくか、春はるが尽きつきて、人ひとが騒いさわいで、鉢ばちち合せあわせをしたがるところまで行かいかねばやまぬ。
腥なまぐさき一いち点てんの血ちを眉間みけんに印ししるしたるこの青年せいねんは、余よら一行いっこうを容赦ようしゃなく引いひいて行くいく。
運命うんめいの縄なわはこの青年せいねんを遠きとおき、暗きくらき、物凄ものすごき北きたの国くにまで引くひくが故こに、ある日ひ、ある月つき、ある年ねんの因果いんがに、この青年せいねんと絡みからみつけられたる吾われらは、その因果いんがの尽じんくるところまでこの青年せいねんに引かひかれて行かいかねばならぬ。
因果いんがの尽じんくるとき、彼かれと吾われらの間まにふっと音おとがして、彼かれ一人ひとりは否応いやおうなしに運命うんめいの手元てもとまで手繰り寄せたぐりよせらるる。
残るのこる吾われらも否応いやおうなしに残らのこらねばならぬ。
頼んたのんでも、もがいても、引いひいていて貰うもらう訳わけには行かいかぬ。
舟ふねは面白いおもしろいほどやすらかに流れるながれる。
左右さゆうの岸きしには土筆つくしでも生えはえておりそうな。
土堤どていの上うえには柳やなぎが多くおおく見えるみえる。
まばらに、低いひくい家いえがその間まから藁屋根わらやねを出しだし。
煤けすすけた窓まどを出しだし。
時じによると白いしろい家鴨あひるを出すだす。
家鴨あひるはがあがあと鳴いないて川かわの中なかまで出でて来るくる。
柳やなぎと柳やなぎの間まに的まと※と光るひかるのは白桃はくとうらしい。
とんかたんと機きを織るおる音おとが聞えるきこえる。
とんかたんの絶間たえまから女おんなの唄うたが、はああい、いようう――と水みずの上うえまで響くひびく。
何なんを唄ううたうのやらいっこう分らわからぬ。
「先生せんせい、わたくしの画がをかいて下さいくださいな」と那美なみさんが注文ちゅうもんする。
久一ひさいちさんは兄さんあにさんと、しきりに軍隊ぐんたいの話はなしをしている。
老人ろうじんはいつか居眠りいねむりをはじめた。
「書いかいてあげましょう」と写生しゃせい帖じょうを取り出しとりだして、
春風しゅんぷうにそら解けとけ繻子しゅすの銘めいは何なん
と書いかいて見せるみせる。
女おんなは笑いわらいながら、「こんな一筆いっぴつがきでは、いけません。もっと私わたくしの気象きしょうの出るでるように、丁寧ていねいにかいて下さいください」「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔かおはそれだけじゃ画がにならない」「御ご挨拶あいさつです事こと。それじゃ、どうすれば画がになるんです」「なに今いまでも画がに出来できますがね。ただ少しすこし足りたりないところがある。それが出でないところをかくと、惜しいおしいですよ」「足りたりないたって、持っもって生れうまれた顔かおだから仕方しかたがありませんわ」「持っもって生れうまれた顔かおはいろいろになるものです」「自分じぶんの勝手かってにですか」「ええ」「女おんなだと思っおもって、人ひとをたんと馬鹿ばかになさい」「あなたが女おんなだから、そんな馬鹿ばかを云ういうのですよ」「それじゃ、あなたの顔かおをいろいろにして見せみせてちょうだい」「これほど毎日まいにちいろいろになってればたくさんだ」 女おんなは黙っだまって向むかいをむく。
川縁かわぶちはいつか、水みずとすれすれに低くひくく着いついて、見渡すみわたす田のもたのもは、一面いちめんのげんげんで埋っうまっている。
鮮やかあざやかな紅くれないの滴々てきてきが、いつの雨あめに流さながされてか、半分はんぶん溶けとけた花はなの海うみは霞かすみのなかに果しはてしなく広がっひろがって、見上げるみあげる半はん空そらには崢※たる一峰かずみねが半はん腹はらから微かかすかに春はるの雲くもを吐いはいている。
「あの山やまの向うむこうを、あなたは越しこしていらしった」と女おんなが白いしろい手てを舷げんから外そとへ出しだして、夢ゆめのような春はるの山やまを指すさす。
「天狗てんぐ岩いわはあの辺へんですか」「あの翠みどりの濃いこい下したの、紫むらさきに見えるみえる所ところがありましょう」「あの日影ひかげの所ところですか」「日影ひかげですかしら。禿げはげてるんでしょう」「なあに凹んへこんでるんですよ。禿げはげていりゃ、もっと茶ちゃに見えみえます」「そうでしょうか。ともかく、あの裏うらあたりになるそうです」「そうすると、七曲りななまがりはもう少しすこし左ひだりりになりますね」「七曲りななまがりは、向うむこうへ、ずっと外れはずれます。あの山やまのまた一いちつ先きさきの山やまですよ」「なるほどそうだった。しかし見当けんとうから云ういうと、あのうすい雲くもが懸っかかってるあたりでしょう」「ええ、方角ほうがくはあの辺へんです」 居眠いねむりをしていた老人ろうじんは、舷げんから、肘ひじを落しおとして、ほいと眼めをさます。
「まだ着かきかんかな」 胸むね膈かくを前まえへ出しだして、右みぎの肘ひじを後ろうしろへ張っちょうって、左ひだりり手てを真直まっすぐに伸しのして、ううんと欠伸あくびをするついでに、弓ゆみを攣く真似まねをして見せるみせる。
女おんなはホホホほほほと笑うわらう。
「どうもこれが癖くせで、……」「弓ゆみが御ご好よしみと見えみえますね」と余よも笑いわらいながら尋ねるたずねる。
「若いわかいうちは七なな分ぶん五ご厘りんまで引きひきました。押しおしは存外ぞんがい今いまでもたしかです」と左ひだりの肩かたを叩いたたいて見せるみせる。
舳へさきでは戦争せんそう談だんが酣たけなわである。
舟ふねはようやく町まちらしいなかへ這入るはいる。
腰障子こししょうじに御ご肴さかなと書いかいた居酒屋いざかやが見えるみえる。
古風こふうな縄なわ暖簾のれんが見えるみえる。
材木ざいもくの置場おきばが見えるみえる。
人力車じんりきしゃの音おとさえ時々ときどき聞えるきこえる。
乙おつ鳥とりがちちと腹はらを返しかえして飛ぶとぶ。
家鴨あひるががあがあ鳴くなく。
一行いっこうは舟ふねを捨てすてて停車場ていしゃじょうに向うむこう。
いよいよ現実世界げんじつせかいへ引きずりひきずり出さだされた。
汽車きしゃの見えるみえる所ところを現実世界げんじつせかいと云ういう。
汽車きしゃほど二十にじゅう世紀せいきの文明ぶんめいを代表だいひょうするものはあるまい。
何百なんびゃくと云ういう人間にんげんを同じおなじ箱ばこへ詰めつめて轟とどろきと通るとおる。
情けなさけ容赦ようしゃはない。
詰め込まつめこまれた人間にんげんは皆みな同どう程度ていどの速力そくりょくで、同一どういつの停車場ていしゃじょうへとまってそうして、同様どうように蒸むし※の恩沢おんたくに浴さよくさねばならぬ。
人ひとは汽車きしゃへ乗るのると云ういう。
余よは積み込まつみこまれると云ういう。
人ひとは汽車きしゃで行くいくと云ういう。
余よは運搬うんぱんされると云ういう。
汽車きしゃほど個性こせいを軽蔑けいべつしたものはない。
文明ぶんめいはあらゆる限りかぎりの手段しゅだんをつくして、個性こせいを発達はったつせしめたる後あと、あらゆる限りかぎりの方法ほうほうによってこの個性こせいを踏み付けようふみつけようとする。
一人前いちにんまえ何なん坪つぼ何なん合あわせかの地面じめんを与えあたえて、この地面じめんのうちでは寝るねるとも起きるおきるとも勝手にかってにせよと云ういうのが現今げんこんの文明ぶんめいである。
同時どうじにこの何なん坪つぼ何合なんごうの周囲しゅういに鉄柵てっさくを設けもうけて、これよりさきへは一歩いちほも出でてはならぬぞと威い嚇かすおどかすのが現今げんこんの文明ぶんめいである。
何なん坪つぼ何合なんごうのうちで自由じゆうを擅ほしいままにしたものが、この鉄柵てっさく外そとにも自由じゆうを擅ほしいままにしたくなるのは自然しぜんの勢いきおいである。
憐むあわれむべき文明ぶんめいの国民こくみんは日夜にちやにこの鉄柵てっさくに噛みついかみついて咆哮ほうこうしている。
文明ぶんめいは個人こじんに自由じゆうを与えあたえて虎とらのごとく猛たけしからしめたる後あと、これを檻おり穽わなの内うちに投げ込んなげこんで、天下てんかの平和へいわを維持いじしつつある。
この平和へいわは真しんの平和へいわではない。
動物園どうぶつえんの虎とらが見物人けんぶつにんを睨めにらめて、寝転んねころんでいると同様どうような平和へいわである。
檻おりの鉄棒てつぼうが一いち本ほんでも抜けぬけたら――世よはめちゃめちゃになる。
第だい二にの仏蘭西ふらんす革命かくめいはこの時じに起るおこるのであろう。
個人こじんの革命かくめいは今いますでに日夜にちやに起りおこりつつある。
北欧ほくおうの偉人いじんイブセンいぶせんはこの革命かくめいの起るおこるべき状態じょうたいについてつぶさにその例証れいしょうを吾人ごじんに与えあたえた。
余よは汽車きしゃの猛烈もうれつに、見み界さかいなく、すべての人ひとを貨物かもつ同様どうように心得こころえて走るはしる様ようを見るみるたびに、客車きゃくしゃのうちに閉じ籠めとじこめられたる個人こじんと、個人こじんの個性こせいに寸毫すんごうの注意ちゅういをだに払わはらわざるこの鉄車てつしゃとを比較ひかくして、――あぶない、あぶない。
気きをつけねばあぶないと思うおもう。
現代げんだいの文明ぶんめいはこのあぶないで鼻はなを衝かしょうかれるくらい充満じゅうまんしている。
おさき真しん闇やみに盲動もうどうする汽車きしゃはあぶない標本ひょうほんの一いちつである。
停車場ていしゃじょう前まえの茶店ちゃみせに腰こしを下ろしおろして、蓬餅よもぎもちを眺めながめながら汽車きしゃ論ろんを考えかんがえた。
これは写生しゃせい帖じょうへかく訳わけにも行かいかず、人ひとに話すはなす必要ひつようもないから、だまって、餅もちを食いくいながら茶ちゃを飲むのむ。
向うむこうの床几しょうぎには二人ふたりかけている。
等しくひとしく草鞋わらじ穿きはきで、一人ひとりは赤毛あかげ布ぬの、一人ひとりは千草ちぐさ色いろの股引ももひきの膝頭ひざがしらに継つぎ布ぬのをあてて、継つぎ布ぬののあたった所ところを手てで抑えおさえている。
「やっぱり駄目だめかね」「駄目だめさあ」「牛うしのように胃袋いぶくろが二につあると、いいなあ」「二につあれば申し分もうしぶんはなえさ、一いちつが悪るくわるくなりゃ、切っきってしまえば済むすむから」 この田舎者いなかものは胃病いびょうと見えるみえる。
彼かれらは満洲まんしゅうの野のに吹くふく風かぜの臭いくさいも知らしらぬ。
現代げんだい文明ぶんめいの弊へいをも見み認めみとめぬ。
革命かくめいとはいかなるものか、文字もじさえ聞いきいた事こともあるまい。
あるいは自己じこの胃袋いぶくろが一いちつあるか二につあるかそれすら弁じべんじ得とくんだろう。
余よは写生しゃせい帖じょうを出しだして、二人ふたりの姿すがたを描きえがき取っとった。
じゃらんじゃらんと号ごう鈴すずが鳴るなる。
切符きっぷはすでに買うかうてある。
「さあ、行きいきましょ」と那美なみさんが立つたつ。
「どうれ」と老人ろうじんも立つたつ。
一行いっこうは揃っそろって改札かいさつ場ばを通り抜けとおりぬけて、プラットフォームぷらっとふぉーむへ出るでる。
号ごう鈴すずがしきりに鳴るなる。
轟とどろきと音おとがして、白くしろく光るひかる鉄路てつろの上うえを、文明ぶんめいの長蛇ちょうだが蜿蜒えんえんて来るくる。
文明ぶんめいの長蛇ちょうだは口くちから黒いくろい煙けむりを吐くはく。
「いよいよ御ご別かれわかれか」と老人ろうじんが云ういう。
「それでは御機嫌ごきげんよう」と久一ひさいちさんが頭あたまを下げるさげる。
「死んしんで御出でおいで」と那美なみさんが再びふたたび云ういう。
「荷物にもつは来きたかい」と兄さんあにさんが聞くきく。
蛇へびは吾々われわれの前まえでとまる。
横腹よこばらの戸とがいくつもあく。
人ひとが出でたり、這入っはいったりする。
久一ひさいちさんは乗っのった。
老人ろうじんも兄さんあにさんも、那美なみさんも、余よもそとに立ったっている。
車輪しゃりんが一いちつ廻れまわれば久一ひさいちさんはすでに吾われらが世よの人ひとではない。
遠いとおい、遠いとおい世界せかいへ行っいってしまう。
その世界せかいでは煙硝えんしょうの臭いくさいの中なかで、人ひとが働いはたらいている。
そうして赤いあかいものに滑っすべって、むやみに転ぶころぶ。
空そらでは大きなおおきな音おとがどどんどどんと云ういう。
これからそう云ういう所ところへ行くいく久一ひさいちさんは車くるまのなかに立ったって無言むごんのまま、吾々われわれを眺めながめている。
吾々われわれを山やまの中なかから引き出しひきだした久一ひさいちさんと、引き出さひきだされた吾々われわれの因果いんがはここで切れるきれる。
もうすでに切れきれかかっている。
車くるまの戸とと窓まどがあいているだけで、御ご互たがいの顔かおが見えるみえるだけで、行くいく人ひとと留まるとまる人ひとの間まが六ろく尺さしばかり隔っへだたっているだけで、因果いんがはもう切れきれかかっている。
車掌しゃしょうが、ぴしゃりぴしゃりと戸とを閉へいてながら、こちらへ走っはしって来るくる。
一いちつ閉へいてるごとに、行くいく人ひとと、送るおくる人ひとの距離きょりはますます遠くとおくなる。
やがて久一ひさいちさんの車室しゃしつの戸ともぴしゃりとしまった。
世界せかいはもう二につに為っなった。
老人ろうじんは思わおもわず窓側まどがわへ寄るよる。
青年せいねんは窓まどから首くびを出すだす。
「あぶない。出でますよ」と云ういう声こえの下したから、未練みれんのない鉄車てつしゃの音おとがごっとりごっとりと調子ちょうしを取っとって動きうごき出すだす。
窓まどは一いちつ一いちつ、余よ等とうの前まえを通るとおる。
久一ひさいちさんの顔かおが小さくちいさくなって、最後さいごの三さん等とう列車れっしゃが、余よの前まえを通るとおるとき、窓まどの中なかから、また一いちつ顔かおが出でた。
茶色ちゃいろのはげた中折なかおれ帽ぼうの下したから、髯ひげだらけな野武士のぶしが名な残り惜のこりおし気きに首くびを出しだした。
そのとき、那美なみさんと野武士のぶしは思わおもわず顔かおを見合せみあわせた。
鉄車てつしゃはごとりごとりと運転うんてんする。
野武士のぶしの顔かおはすぐ消えきえた。
那美なみさんは茫然ぼうぜんとして、行くいく汽車きしゃを見送るみおくる。
その茫然ぼうぜんのうちには不思議ふしぎにも今までいままでかつて見みた事ことのない「憐れあわれ」が一面いちめんに浮いういている。
「それだ! それだ! それが出れでれば画がになりますよ」と余よは那美なみさんの肩かたを叩きたたきながら小声こごえに云っいった。
余よが胸中きょうちゅうの画面がめんはこの咄嗟とっさの際さいに成就じょうじゅしたのである。
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