草枕

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六

第 6 章
夕暮ゆうぐれの机つくえに向うむこう。
障子しょうじも襖ふすまも開け放つあけはなつ。
宿やどの人ひとは多くおおくもあらぬ上うえに、家いえは割合わりあいに広いひろい。
余よが住むすむ部屋へやは、多くおおくもあらぬ人ひとの、人ひとらしく振舞うふるまう境さかいを、幾いく曲きょくの廊下ろうかに隔てへだてたれば、物ものの音おとさえ思索しさくの煩はんにはならぬ。
今日きょうは一層いっそう静かしずかである。
主人しゅじんも、娘むすめも、下女げじょも下男げなんも、知らしらぬ間まに、われを残しのこして、立ち退いたちのいたかと思わおもわれる。
立ち退いたちのいたとすればただの所ところへ立ち退きたちのきはせぬ。
霞かすみの国くにか、雲くもの国くにかであろう。
あるいは雲くもと水みずが自然しぜんに近づいちかづいて、舵かじをとるさえ懶ものぐさき海うみの上うえを、いつ流れながれたとも心づかこころづかぬ間まに、白いしろい帆ほが雲くもとも水みずとも見分けみわけ難きがたき境さかいに漂いただよい来きて、果てはては帆ほみずからが、いずこに己れおのれを雲くもと水みずより差別さべつすべきかを苦しむくるしむあたりへ――そんな遥かはるかな所ところへ立ち退いたちのいたと思わおもわれる。
それでなければ卒然そつぜんと春はるのなかに消え失せきえうせて、これまでの四大よんだいが、今頃いまごろは目めに見えみえぬ霊れい氛となって、広いひろい天地てんちの間まに、顕微鏡けんびきょうの力ちからを藉せきるとも、些さの名残なごりを留めとめぬようになったのであろう。
あるいは雲雀ひばりに化しかして、菜の花なのはなの黄きを鳴きなき尽しつくしたる後あと、夕暮ゆうぐれ深きふかき紫むらさきのたなびくほとりへ行っいったかも知れしれぬ。
または永きながき日ひを、かつ永くながくする虻あぶのつとめを果しはてしたる後あと、蕋しべに凝るこる甘かんき露ろを吸いすい損ねそこねて、落おち椿つばきの下したに、伏せらふせられながら、世よを香ばしくこうばしく眠っねむっているかも知れしれぬ。
とにかく静かしずかなものだ。
空そらしき家いえを、空しくむなしく抜けるぬける春風しゅんぷうの、抜けぬけて行くいくは迎えるむかえる人ひとへの義理ぎりでもない。
拒むこばむものへの面めん当とうでもない。
自からみずから来りきたりて、自からみずから去るさる、公平こうへいなる宇宙うちゅうの意いである。
掌てのひらに顎あごを支えささえたる余よの心こころも、わが住むすむ部屋へやのごとく空しけれむなしければ、春風しゅんぷうは招かまねかぬに、遠慮えんりょもなく行きいき抜けるぬけるであろう。
踏むふむは地ちと思えおもえばこそ、裂けさけはせぬかとの気遣きづかいも起るおこる。
戴くいただくは天てんと知るしる故こに、稲妻いなずまの米べい噛に震うふるう怖こわも出来るできる。
人ひとと争わあらそわねば一いち分ぶんが立たたたぬと浮世うきよが催促さいそくするから、火宅かたくの苦くは免かれまぬかれぬ。
東西とうざいのある乾坤けんこんに住んすんで、利害りがいの綱つなを渡らわたらねばならぬ身みには、事実じじつの恋こいは讎あだである。
目めに見るみる富とみは土つちである。
握るにぎる名なと奪えるうばえる誉ほまれとは、小賢しょうけんかしき蜂はちが甘くあまく醸すかもすと見せみせて、針はりを棄て去るすてさる蜜みつのごときものであろう。
いわゆる楽らくは物ものに着するちゃくするより起るおこるが故こに、あらゆる苦しみくるしみを含むふくむ。
ただ詩人しじんと画が客きゃくなるものあって、飽くまであくまでこの待まち対たい世界せかいの精華せいかを嚼んかんで、徹とおる骨ほね徹とおる髄ずいの清きよしきを知るしる。
霞かすみを餐し、露ろを嚥みのみ、紫むらさきを品しなし、紅くれないを評しひょうして、死しに至っいたって悔いくいぬ。
彼かれらの楽らくは物ものに着するちゃくするのではない。
同化どうかしてその物ものになるのである。
その物ものになり済ましすました時じに、我われを樹立じゅりつすべき余地よちは茫々ぼうぼうたる大地だいちを極めきわめても見出しみだし得とくぬ。
自在じざいに泥団でいだんを放下しほうかして、破笠はりつ裏うらに無限むげんの青嵐せいらんを盛るもる。
いたずらにこの境遇きょうぐうを拈出ねんしゅつするのは、敢てあえて市井しせいの銅臭どうしゅう児この鬼おに嚇しおどして、好んこのんで高くたかく標ひょう置おけするがためではない。
ただ這裏しゃりの福音ふくいんを述べのべて、縁えんある衆生しゅじょうを麾くさしまねくのみである。
有体ありていに云えいえば詩境しきょうと云いいい、画が界さかいと云ういうも皆みな人々ひとびと具足ぐそくの道みちである。
春秋しゅんじゅうに指ゆびを折りおり尽しつくして、白頭はくとうに呻吟しんぎんするの徒とといえども、一生いっしょうを回顧かいこして、閲歴えつれきの波動はどうを順次じゅんじに点検てんけんし来るくるとき、かつては微光びこうの臭におい骸むくろに洩れもれて、吾われを忘れわすれし、拍手はくしゅの興きょうを喚び起すよびおこす事ことが出来ようできよう。
出来できぬと云わいわば生甲斐いきがいのない男おとこである。
されど一事いちじに即しそくし、一物いちぶつに化するかするのみが詩人しじんの感興かんきょうとは云わいわぬ。
ある時じは一いち弁べんの花はなに化しかし、あるときは一いち双そうの蝶ちょうに化しかし、あるはウォーヅウォースのごとく、一団いちだんの水仙すいせんに化しかして、心こころを沢風さわかぜの裏うらに撩乱りょうらんせしむる事こともあろうが、何なんとも知れしれぬ四辺しへんの風光ふうこうにわが心こころを奪わうばわれて、わが心こころを奪えるうばえるは那物なぶつぞとも明瞭めいりょうに意識いしきせぬ場合ばあいがある。
ある人ひとは天地てんちの耿こう気きに触ふれるると云ういうだろう。
ある人ひとは無む絃げんの琴ことを霊台れいだいに聴くきくと云ういうだろう。
またある人ひとは知りしりがたく、解しかいしがたき故こに無限むげんの域いきに※※して、縹緲ひょうびょうのちまたに彷徨ほうこうすると形容けいようするかも知れしれぬ。
何なんと云ういうも皆みなその人ひとの自由じゆうである。
わが、唐木とうぼくの机つくえに憑りうつりてぽかんとした心裡しんりの状態じょうたいは正にまさにこれである。
余よは明かあきらかに何事なにごとをも考えかんがえておらぬ。
またはたしかに何物なにものをも見みておらぬ。
わが意識いしきの舞台ぶたいに著るきるしき色彩しきさいをもって動くうごくものがないから、われはいかなる事物じぶつに同化どうかしたとも云えいえぬ。
されども吾われは動いうごいている。
世の中よのなかに動いうごいてもおらぬ、世よの外そとにも動いうごいておらぬ。
ただ何なんとなく動いうごいている。
花はなに動くうごくにもあらず、鳥とりに動くうごくにもあらず、人間にんげんに対したいして動くうごくにもあらず、ただ恍惚こうこつと動いうごいている。
強いてしいて説明せつめいせよと云わいわるるならば、余よが心こころはただ春はると共ともに動いうごいていると云いいいたい。
あらゆる春はるの色いろ、春はるの風かぜ、春はるの物もの、春はるの声こえを打っうって、固めかためて、仙丹せんたんに練り上げねりあげて、それを蓬莱ほうらいの霊液れいえきに溶いといて、桃源とうげんの日ひで蒸発じょうはつせしめた精気せいきが、知らしらぬ間まに毛孔けあなから染み込んしみこんで、心こころが知覚ちかくせぬうちに飽和ほうわされてしまったと云いいいたい。
普通ふつうの同化どうかには刺激しげきがある。
刺激しげきがあればこそ、愉快ゆかいであろう。
余よの同化どうかには、何なんと同化どうかしたか不ふ分明ふんみょうであるから、毫もごうも刺激しげきがない。
刺激しげきがないから、窈然として名状めいじょうしがたい楽らくがある。
風かぜに揉まもまれて上の空うわのそらなる波なみを起すおこす、軽薄けいはくで騒々しいそうぞうしい趣おもむきとは違うちがう。
目めに見えみえぬ幾いく尋ひろの底そこを、大陸たいりくから大陸たいりくまで動いうごいている※洋ようたる蒼海そうかいの有様ありさまと形容けいようする事ことが出来るできる。
ただそれほどに活力かつりょくがないばかりだ。
しかしそこにかえって幸福こうふくがある。
偉大いだいなる活力かつりょくの発現はつげんは、この活力かつりょくがいつか尽きつき果てるはてるだろうとの懸念けねんが籠るこもる。
常つねの姿すがたにはそう云ういう心配しんぱいは伴わともなわぬ。
常つねよりは淡あわきわが心こころの、今いまの状態じょうたいには、わが烈れつしき力ちからの銷磨しょうましはせぬかとの憂うれいを離れはなれたるのみならず、常つねの心こころの可かもなく不可ふかもなき凡ぼん境さかいをも脱却だっきゃくしている。
淡あわしとは単にたんに捕えとらえ難しむずかしと云ういう意味いみで、弱きよわきに過ぎるすぎる虞おそれを含んふくんではおらぬ。
冲おき融とおるとか澹たん蕩とか云ういう詩人しじんの語ごはもっともこの境さかいを切実せつじつに言いいい了せりょうせたものだろう。
この境界きょうかいを画がにして見みたらどうだろうと考えかんがえた。
しかし普通ふつうの画がにはならないにきまっている。
われらが俗ぞくに画がと称するしょうするものは、ただ眼前がんぜんの人事じんじ風光ふうこうをありのままなる姿すがたとして、もしくはこれをわが審美眼しんびがんに漉過ろっかして、絵絹えぎぬの上うえに移しうつしたものに過ぎすぎぬ。
花はなが花はなと見えみえ、水みずが水みずと映りうつり、人物じんぶつが人物じんぶつとして活動かつどうすれば、画がの能事のうじは終っおわったものと考えかんがえられている。
もしこの上うえに一いち頭あたま地ちを抜けぬけば、わが感じかんじたる物象ぶっしょうを、わが感じかんじたるままの趣おもむきを添えそえて、画布がふの上うえに淋漓りんりとして生動せいどうさせる。
ある特別とくべつの感興かんきょうを、己おのれが捕えとらえたる森羅しんらの裡りに寓するぐうするのがこの種しゅの技術家ぎじゅつかの主意しゅいであるから、彼かれらの見みたる物象ぶっしょう観かんが明瞭めいりょうに筆端ひったんに迸しっておらねば、画がを製作せいさくしたとは云わいわぬ。
己れおのれはしかじかの事ことを、しかじかに観かん、しかじかに感じかんじたり、その観方みかたも感じかんじ方ほうも、前人ぜんじんの籬下りかに立ちたちて、古来こらいの伝説でんせつに支配しはいせられたるにあらず、しかももっとも正しくただしくして、もっとも美びくしきものなりとの主張しゅちょうを示すしめす作品さくひんにあらざれば、わが作さくと云ういうをあえてせぬ。
この二に種しゅの製作せいさく家いえに主客しゅきゃく深浅しんせんの区別くべつはあるかも知れしれぬが、明瞭めいりょうなる外界がいかいの刺激しげきを待っまって、始めはじめて手てを下すくだすのは双方そうほう共同きょうどう一いちである。
されど今いま、わが描かえがかんとする題目だいもくは、さほどに分明ふんみょうなものではない。
あらん限りかぎりの感覚かんかくを鼓舞こぶして、これを心外しんがいに物色ぶっしょくしたところで、方円ほうえんの形かたち、紅緑こうりょくの色いろは無論むろん、濃淡のうたんの陰かげ、洪ひろし繊せんの線せんを見出しみだしかねる。
わが感じかんじは外そとから来きたのではない、たとい来きたとしても、わが視界しかいに横わるよこたわる、一定いっていの景物けいぶつでないから、これが源みなもと因いんだと指ゆびを挙げあげて明らかあきらかに人ひとに示すしめす訳わけに行かいかぬ。
あるものはただ心持ちこころもちである。
この心持ちこころもちを、どうあらわしたら画がになるだろう――否いなこの心持ちこころもちをいかなる具体ぐたいを藉りかりて、人ひとの合点がてんするように髣髴ほうふつせしめ得るうるかが問題もんだいである。
普通ふつうの画がは感じかんじはなくても物ものさえあれば出来るできる。
第だい二にの画がは物ものと感じかんじと両立りょうりつすればできる。
第だい三さんに至っいたっては存するそんするものはただ心持ちこころもちだけであるから、画がにするには是非ぜひ共ともこの心持ちこころもちに恰好かっこなる対象たいしょうを択ばえらばなければならん。
しかるにこの対象たいしょうは容易よういに出でて来きない。
出でて来きても容易よういに纏らまとまらない。
纏っまとっても自然界しぜんかいに存するそんするものとは丸まるで趣おもむきを異ことにする場合ばあいがある。
したがって普通ふつうの人ひとから見れみれば画がとは受け取れうけとれない。
描いえがいた当人とうにんも自然界しぜんかいの局部きょくぶが再現さいげんしたものとは認めみとめておらん、ただ感興かんきょうの上しのぼした刻下こっかの心持ちこころもちを幾分いくぶんでも伝えつたえて、多少たしょうの生命せいめいを※※しがたきムードむーどに与うれあたうれば大成功だいせいこうと心得こころえている。
古来こらいからこの難なん事業じぎょうに全然ぜんぜんの績いさおを収めおさめ得とくたる画工がこうがあるかないか知らしらぬ。
ある点てんまでこの流派りゅうはに指ゆびを染めそめ得とくたるものを挙きょぐれば、文ぶん与あたえ可かの竹たけである。
雲谷うんこく門下もんかの山水さんすいである。
下っしたって大雅たいが堂どうの景色けしきである。
蕪村ぶそんの人物じんぶつである。
泰西たいせいの画家がかに至っいたっては、多くおおく眼めを具象ぐしょう世界せかいに馳せはせて、神かみ往の気韻きいんに傾倒けいとうせぬ者ものが大多数だいたすうを占めしめているから、この種しゅの筆墨ひつぼくに物もの外そとの神韻しんいんを伝えつたえ得るうるものははたして幾いく人ひとあるか知らしらぬ。
惜しいおしい事ことに雪舟せっしゅう、蕪村ぶそんらの力めりきめて描出びょうしゅつした一種いっしゅの気韻きいんは、あまりに単純たんじゅんでかつあまりに変化へんかに乏しいとぼしい。
筆力ひつりょくの点てんから云えいえばとうていこれらの大家おおやに及ぶおよぶ訳わけはないが、今いまわが画がにして見ようみようと思うおもう心持ちこころもちはもう少しすこし複雑ふくざつである。
複雑ふくざつであるだけにどうも一いち枚ばいのなかへは感じかんじが収まりおさまりかねる。
頬杖つらづえをやめて、両腕りょううでを机つくえの上うえに組んくんで考えかんがえたがやはり出でて来きない。
色いろ、形かたち、調子ちょうしが出来できて、自分じぶんの心こころが、ああここにいたなと、たちまち自己じこを認識にんしきするようにかかなければならない。
生き別れいきわかれをした吾子あこを尋ね当てるたずねあてるため、六十ろくじゅう余よ州しゅうを回国かいこくして、寝ねても寤めさめても、忘れるわすれる間まがなかったある日ひ、十字じゅうじ街頭がいとうにふと邂逅かいこうして、稲妻いなずまの遮ぎるさえぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うおもうようにかかなければならない。
それがむずかしい。
この調子ちょうしさえ出れでれば、人ひとが見みて何なんと云っいっても構わかまわない。
画がでないと罵らののしられても恨はんはない。
いやしくも色いろの配合はいごうがこの心持ちこころもちの一部いちぶを代表だいひょうして、線せんの曲直きょくちょくがこの気合きあいの幾分いくぶんを表現ひょうげんして、全体ぜんたいの配置はいちがこの風韻ふういんのどれほどかを伝えるつたえるならば、形かたちにあらわれたものは、牛うしであれ馬うまであれ、ないしは牛うしでも馬うまでも、何なんでもないものであれ、厭わいとわない。
厭わいとわないがどうも出来できない。
写生しゃせい帖じょうを机つくえの上うえへ置いおいて、両眼りょうめが帖じょうのなかへ落ち込むおちこむまで、工夫くふうしたが、とても物ものにならん。
鉛筆えんぴつを置いおいて考えかんがえた。
こんな抽象的ちゅうしょうてきな興趣きょうしゅを画がにしようとするのが、そもそもの間ま違いである。
人間にんげんにそう変りかわりはないから、多くおおくの人ひとのうちにはきっと自分じぶんと同じおなじ感興かんきょうに触れふれたものがあって、この感興かんきょうを何なんらの手段しゅだんかで、永久えいきゅう化せんかせんと試みこころみたに相違そういない。
試みこころみたとすればその手段しゅだんは何なんだろう。
たちまち音楽おんがくの二に字じがぴかりと眼めに映っうつった。
なるほど音楽おんがくはかかる時じ、かかる必要ひつように逼らせまられて生まれうまれた自然しぜんの声こえであろう。
楽らくは聴くきくべきもの、習うならうべきものであると、始めはじめて気きがついたが、不幸ふこうにして、その辺へんの消息しょうそくはまるで不案内ふあんないである。
次つぎに詩しにはなるまいかと、第だい三さんの領分りょうぶんに踏み込んふみこんで見るみる。
レッシングれっしんぐと云ういう男おとこは、時間じかんの経過けいかを条件じょうけんとして起るおこる出来事できごとを、詩しの本領ほんりょうであるごとく論じろんじて、詩画しがは不一ふいつにして両様りょうようなりとの根本こんぽん義ぎを立てたてたように記憶きおくするが、そう詩しを見るみると、今いま余よの発表はっぴょうしようとあせっている境界きょうかいもとうてい物ものになりそうにない。
余よが嬉しいうれしいと感ずるかんずる心裏しんりの状況じょうきょうには時間じかんはあるかも知れしれないが、時間じかんの流れながれに沿うそうて、逓次ていじに展開てんかいすべき出来事できごとの内容ないようがない。
一いちが去りさり、二にが来りきたり、二にが消えきえて三さんが生まうまるるがために嬉しいうれしいのではない。
初はつから窈然として同所どうしょに把わ住するじゅうする趣きおもむきで嬉しいうれしいのである。
すでに同所どうしょに把わ住するじゅうする以上いじょうは、よしこれを普通ふつうの言語げんごに翻訳ほんやくしたところで、必ずかならずしも時間的じかんてきに材料ざいりょうを按排あんばいする必要ひつようはあるまい。
やはり絵画かいがと同じくおなじく空間的くうかんてきに景物けいぶつを配置はいちしたのみで出来るできるだろう。
ただいかなる景情けいじょうを詩し中なかに持ちもち来きって、この曠然として倚托なき有様ありさまを写すうつすかが問題もんだいで、すでにこれを捕えとらえ得とくた以上いじょうはレッシングれっしんぐの説せつに従わしたがわんでも詩しとして成功せいこうする訳わけだ。
ホーマーほーまーがどうでも、ヴァージルゔぁーじるがどうでも構わかまわない。
もし詩しが一種いっしゅのムードむーどをあらわすに適してきしているとすれば、このムードむーどは時間じかんの制限せいげんを受けうけて、順次じゅんじに進捗しんちょくする出来事できごとの助けたすけを藉せきらずとも、単純たんじゅんに空間的くうかんてきなる絵画かいが上うえの要件ようけんを充たしみたしさえすれば、言語げんごをもって描きえがき得るうるものと思うおもう。
議論ぎろんはどうでもよい。
ラオコーンらおこーんなどは大概たいがい忘れわすれているのだから、よく調べしらべたら、こっちが怪しくあやしくなるかも知れしれない。
とにかく、画がにしそくなったから、一いちつ詩しにして見ようみよう、と写生しゃせい帖じょうの上うえへ、鉛筆えんぴつを押しつけおしつけて、前後ぜんごに身みをゆすぶって見みた。
しばらくは、筆ふでの先さきの尖がっとがった所ところを、どうにか運動うんどうさせたいばかりで、毫もごうも運動うんどうさせる訳わけに行かいかなかった。
急きゅうに朋友ほうゆうの名なを失念しつねんして、咽喉のどまで出かかっでかかっているのに、出でてくれないような気きがする。
そこで諦めるあきらめると、出で損なっそこなった名なは、ついに腹はらの底そこへ収まっおさまってしまう。
葛湯くずゆを練るねるとき、最初さいしょのうちは、さらさらして、箸はしに手て応おうがないものだ。
そこを辛抱しんぼうすると、ようやく粘着ねんちゃくが出でて、攪き淆ぜる手てが少しすこし重くおもくなる。
それでも構わかまわず、箸はしを休まやすませずに廻すまわすと、今度こんどは廻しまわし切れきれなくなる。
しまいには鍋なべの中なかの葛くずが、求めもとめぬに、先方せんぽうから、争っあらそって箸はしに附着ふちゃくしてくる。
詩しを作るつくるのはまさにこれだ。
手掛りてがかりのない鉛筆えんぴつが少しすこしずつ動くうごくようになるのに勢いきおいを得とくて、かれこれ二三にさん十分じゅうふんしたら、
青春せいしゅん二三にさん月つき。
愁うれい随芳草くさ長なが。
閑かん花落はなおち空そら庭にわ。
素琴そきん横よこ虚堂きょどう。
※蛸たこ掛かかり不動ふどう。
篆てん煙けむり繞にょう竹たけ梁りょう。
と云ういう六ろく句くだけ出来できた。
読み返しよみかえして見るみると、みな画がになりそうな句くばかりである。
これなら始めはじめから、画がにすればよかったと思うおもう。
なぜ画がよりも詩しの方ほうが作りつくり易かっやすかったかと思うおもう。
ここまで出でたら、あとは大したたいした苦くもなく出でそうだ。
しかし画がに出来できない情じょうを、次つぎには咏っうたって見みたい。
あれか、これかと思い煩っおもいわずらった末すえとうとう、
独坐どくざ無む隻語せきご。
方寸ほうすん認にん微光びこう。
人間にんげん徒と多事たじ。
此これ境さかい孰じゅく可か忘わすれ。
会得えとく一いち日ひ静せい。
正知まさとも百ひゃく年ねん忙。
遐懐寄何処ところ。
緬めん※白雲はくうん郷さと。
と出来できた。
もう一いち返かえし最初さいしょから読み直しよみなおして見るみると、ちょっと面白くおもしろく読まよまれるが、どうも、自分じぶんが今しがたいましがた入っはいった神かみ境さかいを写しうつしたものとすると、索然さくぜんとして物もの足りたりない。
ついでだから、もう一いち首くび作っつくって見ようみようかと、鉛筆えんぴつを握っにぎったまま、何なんの気きもなしに、入口いりぐちの方ほうを見るみると、襖ふすまを引いひいて、開け放っあけはなった幅はば三さん尺さしの空間くうかんをちらりと、奇麗きれいな影かげが通っとおった。
はてな。
余よが眼めを転じてんじて、入口いりぐちを見みたときは、奇麗きれいなものが、すでに引き開けひきあけた襖ふすまの影かげに半分はんぶんかくれかけていた。
しかもその姿すがたは余よが見みぬ前まえから、動いうごいていたものらしく、はっと思うおもう間まに通り越しとおりこした。
余よは詩しをすてて入口いりぐちを見守るみまもる。
一いち分ぶんと立たたたぬ間まに、影かげは反対はんたいの方ほうから、逆ぎゃくにあらわれて来きた。
振袖ふりそで姿すがたのすらりとした女おんなが、音おともせず、向うむこう二に階かいの椽えん側がわを寂然じゃくねんとして歩行ほこうて行くいく。
余よは覚えおぼえず鉛筆えんぴつを落しおとして、鼻はなから吸いすいかけた息いきをぴたりと留めとめた。
花曇りはなぐもりの空そらが、刻こく一刻いっこくに天てんから、ずり落ちずりおちて、今いまや降るふると待たまたれたる夕暮ゆうぐれの欄干らんかんに、しとやかに行きいき、しとやかに帰るかえる振袖ふりそでの影かげは、余よが座敷ざしきから六ろく間まの中庭なかにわを隔てへだてて、重きおもき空気くうきのなかに蕭寥しょうりょうと見えみえつ、隠れかくれつする。
女おんなはもとより口くちも聞かきかぬ。
傍目はためも触らさわらぬ。
椽えんに引くひく裾すその音おとさえおのが耳みみに入らはいらぬくらい静かしずかに歩行いあるいている。
腰こしから下したにぱっと色づくいろづく、裾模様すそもようは何なんを染め抜いそめぬいたものか、遠くとおくて解かいからぬ。
ただ無地むじと模様もようのつながる中なかが、おのずから暈さぼかされて、夜よると昼ひるとの境さかいのごとき心地ここちである。
女おんなはもとより夜よると昼ひるとの境さかいをあるいている。
この長いながい振袖ふりそでを着きて、長いながい廊下ろうかを何度なんど往きゆき何度なんど戻るもどる気きか、余よには解かいからぬ。
いつ頃いつごろからこの不思議ふしぎな装そうをして、この不思議ふしぎな歩行ほこうをつづけつつあるかも、余よには解らわからぬ。
その主意しゅいに至っいたってはもとより解らわからぬ。
もとより解るわかるべきはずならぬ事ことを、かくまでも端正たんせいに、かくまでも静粛せいしゅくに、かくまでも度どを重ねかさねて繰り返すくりかえす人ひとの姿すがたの、入口いりぐちにあらわれては消えきえ、消えきえてはあらわるる時じの余よの感じかんじは一種いっしゅ異様いようである。
逝くいく春はるの恨はんを訴うったえうる所作しょさならば何なんが故こにかくは無頓着むとんちゃくなる。
無頓着むとんちゃくなる所作しょさならば何なんが故こにかくは綺羅きらを飾れるかざれる。
暮れくれんとする春はるの色いろの、嬋媛として、しばらくは冥めい※の戸口とぐちをまぼろしに彩どるいろどる中なかに、眼めも醒せいむるほどの帯地おびじは金襴きんらんか。
あざやかなる織物おりものは往きゆきつ、戻りもどりつ蒼然そうぜんたる夕べゆうべのなかにつつまれて、幽ゆう闃のあなた、遼遠りょうえんのかしこへ一いち分ぶんごとに消えきえて去るさる。
燦めききらめき渡るわたる春はるの星ほしの、暁あかつき近くちかくに、紫むらさき深きふかき空そらの底そこに陥いるおちいる趣おもむきである。
太玄たいげんの※おのずから開けあけて、この華やかはなやかなる姿すがたを、幽冥ゆうめいの府ふに吸い込ますいこまんとするとき、余よはこう感じかんじた。
金屏きんびょうを背せに、銀燭ぎんしょくを前まえに、春はるの宵よいの一刻いっこくを千金せんきんと、さざめき暮らしくらしてこそしかるべきこの装そうの、厭ういとう景色けしきもなく、争うあらそう様子ようすも見えみえず、色相しきそう世界せかいから薄れうすれて行くいくのは、ある点てんにおいて超自然ちょうしぜんの情景じょうけいである。
刻々こっこくと逼るせまる黒くろき影かげを、すかして見るみると女おんなは粛然しゅくぜんとして、焦しょうきもせず、狼狽ろうばいもせず、同じおなじほどの歩調ほちょうをもって、同じおなじ所ところを徘徊はいかいしているらしい。
身みに落ちかかるおちかかる災わざわいを知らしらぬとすれば無邪気むじゃきの極きょくである。
知っしって、災わざわいと思わおもわぬならば物凄いものすごい。
黒いくろい所ところが本来ほんらいの住居じゅうきょで、しばらくの幻影げんえいを、元もとのままなる冥めい漠きよしの裏うらに収めれおさめればこそ、かように間ま※の態度たいどで、有ゆうと無むの間まに逍遥しょうようしているのだろう。
女おんなのつけた振袖ふりそでに、紛ふんたる模様もようの尽きつきて、是非ぜひもなき磨墨するすみに流れ込むながれこむあたりに、おのが身みの素性そせいをほのめかしている。
またこう感じかんじた。
うつくしき人ひとが、うつくしき眠りねむりについて、その眠りねむりから、さめる暇ひまもなく、幻覚げんかくのままで、この世このよの呼吸こきゅうを引き取るひきとるときに、枕元まくらもとに病やまいを護るまもるわれらの心こころはさぞつらいだろう。
四苦八苦しくはっくを百ひゃく苦くに重ねかさねて死ぬしぬならば、生甲斐いきがいのない本人ほんにんはもとより、傍そばに見みている親しいしたしい人ひとも殺すころすが慈悲じひと諦たいらめられるかも知れしれない。
しかしすやすやと寝入るねいる児こに死ぬしぬべき何なんの科かがあろう。
眠りねむりながら冥府めいふに連れつれて行かいかれるのは、死ぬしぬ覚悟かくごをせぬうちに、だまし打ちうちに惜おししき一命いちめいを果すはたすと同様どうようである。
どうせ殺すころすものなら、とても逃れのがれぬ定業じょうごうと得心とくしんもさせ、断念だんねんもして、念仏ねんぶつを唱えとなえたい。
死ぬしぬべき条件じょうけんが具わらそなわらぬ先さきに、死ぬしぬる事実じじつのみが、ありありと、確かめたしかめらるるときに、南無阿弥陀仏なむあみだぶつと回向えこうをする声こえが出るでるくらいなら、その声こえでおういおういと、半ばなかばあの世あのよへ足あしを踏み込んふみこんだものを、無理むりにも呼び返しよびかえしたくなる。
仮りかりの眠りねむりから、いつの間まとも心づかこころづかぬうちに、永いながい眠りねむりに移るうつる本人ほんにんには、呼び返さよびかえされる方ほうが、切れきれかかった煩悩ぼんのうの綱つなをむやみに引かひかるるようで苦しいくるしいかも知れしれぬ。
慈悲じひだから、呼んよんでくれるな、穏かおだやかに寝かしねかしてくれと思うおもうかも知れしれぬ。
それでも、われわれは呼び返しよびかえしたくなる。
余よは今度こんど女おんなの姿すがたが入口いりぐちにあらわれたなら、呼びかけよびかけて、うつつの裡りから救っすくってやろうかと思っおもった。
しかし夢ゆめのように、三さん尺さしの幅はばを、すうと抜けるぬける影かげを見るみるや否いなや、何なんだか口くちが聴けきけなくなる。
今度こんどはと心こころを定めさだめているうちに、すうと苦くもなく通っとおってしまう。
なぜ何なんとも云えいえぬかと考うるかんがうる途端とたんに、女おんなはまた通るとおる。
こちらに窺ううかがう人ひとがあって、その人ひとが自分じぶんのためにどれほどやきもき思うおもうているか、微塵みじんも気きに掛からかかりからぬ有様ありさまで通るとおる。
面倒めんどうにも気の毒きのどくにも、初手しょてから、余よのごときものに、気きをかねておらぬ有様ありさまで通るとおる。
今度こんどは今度こんどはと思うおもうているうちに、こらえかねた、雲くもの層そうが、持ちもち切れきれぬ雨あめの糸いとを、しめやかに落しおとし出しだして、女おんなの影かげを、蕭々しょうしょうと封じふうじ了るおわる。
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