十
第 10 章
政樹公が大連の税関長になっていると聞いてちょっと驚いた。
政樹公には十年前上海で出逢ったきりである。
その時政樹公は、サー・ロバート・ハートの子分になって、やはりそこの税関に勤務していた。
政樹公の大学を卒業したのは余より二年前で、二人共同じ英文科の出身だから、職業違いであるにかかわらず、比較的縁が近いのである。
政樹公の姓は立花と云って柳川藩だから、立派な御侍に違ない。
それをなぜ立花さんと云わないで、政樹公と呼ぶかと云うに、同じ頃同じ文科に同藩から出た同姓の男がいた。
しかも双方共寄宿舎に這入っていたものだから、立花君や立花さんでは紛れやすくていけない。
で一方は政樹という名だから政樹公と呼び、一方は銑三郎という俗称だから銑さん銑さんと云った。
なぜ片っ方が公なのに、片っ方はさんづけにされてしまったのか、ちょっと分らない。
銑さんの方は、余と前後して洋行したが、不幸にして肺病に罹って、帰り路に香港で死んでしまった。
そこで残るは政樹公ばかりになった。
したがって政樹公をやめて立花君と云ったって、少しも混雑はしないのだが、つい立花よりは政樹公の方が先へ出る。
やっぱり中村とも総裁とも云わないで是公と云い馴れたようなものだろう。
ここだと云うので、二人馬車を下りて税関に這入って見ると、あいにく政樹公は先刻具合が悪いとかで家へ帰った後であった。
こっちの都合もあるし、所労の人に迷惑をかけるのも本意でないから、他日を期して税関を出た。
すると今度は馬車が満鉄の本社へ横づけになった。
広い階子段を二階へ上がって、右へ折れて、突き当りをまた左へ行くと、取付が重役の部屋である。
重役は東京に行ってるもののほかは皆出ていた。
それに一々紹介された。
その中で昔見た田中君の顔を覚えていた。
どうです始めて大連に御着きになった時の感想はと聞かれるから、そうです船から上がってこっちへ来る所は、まるで焼迹のようじゃありませんかと、正直な事を答えると、あすこはね、軍用地だものだから建物を拵える訳に行かないんで、誰もそう云う感じがするんですと教えられた。
しばらく椅子に腰を掛けて、おとなしく執務の様子を見ていると、じき午になった。
さあ飯を食おうと、食堂へ案内された。
ここへと云う席へ坐って、サーヴィエットを取り上げると、給仕が来て、それは国沢さんのですから、ただいま新しいのを持って参りますと云った。
食堂は社の表二階にあたる大広間で、晩になれば、それが舞踏室に変化するほどの大きなものであった。
これは社員全体に向って公開してあるのだそうだが、同じ食卓に着いた人の数を云うと、約三十人に過ぎなかった。
この人数から推して、あるいは制限でもありはせぬのかと思ったのは余の想像に過ぎなかった。
料理は大和ホテルから持って来るのだそうで、同席の三十余人が、みな一様の皿を平らげていた。
胃が痛いので肉刀と肉匙は人並に動かしたようなものの、その実は肉も野菜も咽喉の奥へ詰め込んだ姿である。
一つどうですと向う側の田中君から瓢箪形の西洋梨を勧られた時は、手を出す勇気すらなかった。
十一
河村調査課長の前へ行って挨拶をすると、河村さんは、まあおかけなさいと椅子を勧めながら、何を御調べになりますかと叮嚀に聞かれる。
何を調べるほどの人間でもないんだから、この問に逢った時は実は弱った。
先刻重役室へ河村さんが這入って来たとき、是公が余を紹介して、河村さん満鉄の事業の種類その他について、あとでこの男にすっかり説明してやって下さいと云ったのが本で、とうとう余は調査課へ来るような訳になったものの、その実世間の知るごとき人間なんだから、こう真面目に、どう云う方面の研究をやる気かと尋ねられるとはなはだ迷ついてしまう。
そうかと云って、けっして悪気があって冷かしに来た次第でない事もまた、世間の知る通りなんだから、河村さんに対して敬意を失するような冗談は云えた義理のものでない。
やむをえず、しかつめらしい顔をして、満鉄のやっているいろいろな事業一般について知識を得たいと述べた。
――何でも述べたつもりである。
固より内心に確乎たる覚悟があって述べる事でないんだから、顔だけはしかつめらしいが、述べる事の内容は、すこぶる赤毛布式に縹緲とふわついていたに違ない。
ただ今から顧みても、少し得意なのは、その時余の態度挙動は非常に落ちついて、魂がさも丹田に膠着しているかのごとく河村さんには見えたろうという自覚である。
人を欺し終せて知らん顔をしているのは善くない事だから、ここで全く懺悔してしまうが、実を云うと、その時は胃がしくしく痛んで、言葉に抑揚をつけようにも、声に張りを見せようにも、身体に活気を漲ぎらせようにも、とうてい自己が自己以上に沈着してしまって、一寸もあがきが取れなかったのである。
そこへ大きな印刷ものが五六冊出て来た。
一番上には第一回営業報告とある。
二冊目は第二回で、三冊目は第三回で、四冊目は第四回の営業報告に違ない。
この大冊子を机の上に置いて、たいていこれで分りますがねと河村さんが云い出した時は、さあ大変だと思った。
今この胃の痛い最中にこの大部の営業報告を研究しなければすまない事になっては、とうてい持ち切れる訳のものではない。
余はまだ営業報告を開けないうちに、早速一工夫してこう云った。
――私は専門家でないんですから、そう詳い事を調査しても、とても分りますまいと思いますので、ただ諸君がいろいろな方面でどんな風に働いていられるか、ざあっとその状況を目撃さしていただけばたくさんですから、縦覧すべき箇所を御面倒でもちょっと書いて下さいませんか。
河村さんははあそうですかと、気軽にすぐ筆を執ってくれた。
ところへどこからか突然妙な小さな男があらわれて、やあと声をかけた。
見ると股野義郎である。
昔「猫」を書いた時、その中に筑後の国は久留米の住人に、多々羅三平という畸人がいると吹聴した事がある。
当時股野は三池の炭坑に在勤していたが、どう云う間違か、多々羅三平はすなわち股野義郎であると云う評判がぱっと立って、しまいには股野を捕まえて、おい多々羅君などと云うものがたくさん出て来たそうである。
そこで股野は大いに憤慨して、至急親展の書面を余に寄せて、是非取り消してくれと請求に及んだ。
余も気の毒に思ったが、多々羅三平の件をことごとく削除しては、全巻を改板する事になるから、簡潔明瞭に多々羅三平は股野義郎にあらずと新聞に広告しちゃいけないかと照会したら、いけないと云って来た。
それから三度も四度も猛烈な手紙を寄こしたあとで、とうとうこう云う条件を出した。
自分が三平と誤られるのは、双方とも筑後久留米の住人だからである。
幸い、肥前唐津に多々羅の浜と云う名所があるから、せめて三平の戸籍だけでもそっちへ移してくれ。
これだけは是非御願するとあったんで、余はとうとう三平の方を肥前唐津の住人に改めてしまった。
今でも「猫」を御読みになれば分る。
肥前の国は唐津の住人多々羅三平とちゃんと訂正してある。
こう云う訳で余と因縁の浅からざる股野に、ここでひょっくり出逢うとは全く思いがけなかった。
しかも、その家へ呼ばれて御馳走になったり、二三日間朝から晩まで懇切に連れて歩いて貰ったり、昔日の紛議を忘れて、旧歓を暖める事ができたのは望外の仕合である。
実を云うと、余は股野がまだ撫順にいる事とばかり思っていた。
余は大連で見物すべき満鉄の事業その他を、ここで河村さんと股野に、表のような形に拵えて貰った。
十二
腹がしきりに痛むので、寝室へ退いて、長椅子の上に横になっていると、窓を撲つ雨の音がしだいに繁くなった。
これじゃ舞踏会に行く連中も、だいぶ御苦労様な事になったものだと思って、ポッケットから招待状を出して寝ながら、また眺めて見た。
絵葉書ぐらいの大きさの厚紙の一面には、歌麿の美人が好い色に印刷されている。
一面には中村是公同夫人連名で、夏目金之助を招待している。
よくこんなものを拵える時間があったなと感心して、うとうとしかけたところへ、ボーイ頭が来て、ただいま総裁からの電話で、今夜舞踏会へおいでになるか伺えと云う事でございますがと云うから、行かないと返事をしてくれと頼んで、本当に寝てしまった。
眼が覚めたら雨はいつの間にか歇んで、奇麗な空が磨き上げたように一色に広く見える中に、明かな月が出ていた。
余は硝子越にこの大きな色を覗いて、思わず是公のために、舞踏会の成功を祝した。
後で本人に聞いて見ると、是公はその夜舞踏の済んだ後で、多数の亜米利加士官と共に倶楽部のバーに繰り込んだのだそうだ。
そこで、士官連が是公に向って、今夜の会は大成功であるとか、非常に盛であったとか、口々に賛辞を呈したものだから、是公はやむをえず、大声を振り絞ってgentlemen!
と叫んだ。
すると今までがやがや云っていた連中が、総裁の演説でも始まる事と思って、一度に口を閉じて、満場は水を打ったように静かになった。
是公は固よりゼントルメンの後を何とかつけなければならない。
ところがゼントルメン以外の英語があいにく一言も出て来なかった。
英語と云う英語は頭の底からことごとく酒で洗い去られてしまっているので、仕方なしに、急に日本語に鞍換をして、ゼントルメンの次へもってきて、すぐ大いに飲みましょうと怒鳴った。
ゼントルメン大いに飲みましょうは、たいていの亜米利加人に通じる訳のものではないが、そこがバーのバーたるところで、ゼントルメン大いに飲みましょうとやるや否や、士官連がわあっと云って主人公を胴上にしたそうである。
明治二十年の頃だったと思う。
同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着日帰りの遠足をやった事がある。
赤毛布を背負って弁当をぶら下げて、懐中にはおのおの二十銭ずつ持って、そうして夜の十時頃までかかって、ようやく江の島のこっち側まで着いた事は着いたが、思い切って海を渡るものは誰もなかった。
申し合せたように毛布に包まって砂浜の上に寝た。
夜中に眼が覚めると、ぽつりぽつりと雨が顔へあたっていた。
その上犬が来て真水英夫の脚絆を啣えて行った。
夜が白んで物の色が仄に明るくなった頃、御互の顔を見渡すと、誰も彼も奇麗に砂だらけになっている。
眼を擦ると砂が出る。
耳を掘くると砂が出る。
頭を掻いても砂が出る。
七人はそれで江の島へ渡った。
その時夜明けの風が島を繞って、山にはびこる樹がさあと靡いた。
すると余の傍に立っていた是公が何と思ったものか、急にどうだ、あの樹を見ろ、戦々兢々としているじゃないかと云った。
草木の風に靡く様を戦々兢々と真面目に形容したのは是公が嚆矢なので、それから当分の間は是公の事を、みんなが戦々兢々と号していた。
当人だけは、いまだに戦々兢々で差支えないと信じているかも知れないんだから、ゼントルメン大いに飲みましょうも、この際亜米利加語として士官側に通用したと心得ているんだろう。
通じた証拠には胴上にしたじゃないかくらい、酔うと云いかねない男である。
十三
昨夕は川崎造船所の須田君からいっしょに晩食でも食おうと云う案内があったが、例のごとく腹が痛むので、残念ながら辞退して、寝室で肉汁を飲んで寝てしまった。
朝起きるや否や、もう好かろうと思って、腹の近所へ神経をやって、探りを入れて見ると、やッぱり変だ。
何だか自分の胃が朝から自分を裏切ろうと工んでいるような不安がある。
さてどこが不安だろうと、局所を押えにかかると、どこも応じない。
ただ曇った空のように、鈍痛が薄く一面に広がっている。
苦い顔をして食堂へ下りて飯をすましてまた室へ帰ってぼんやりしていると、河村さんが戸口まで来て、今夜満鉄のものが主人役になってあなたがた二三名を扇芳亭へ招待したいからと云う叮嚀な御挨拶である。
どうもせっかくですが、実はこれこれでと断ると、そうですか、実は総裁も今夜は所労で出られませんと答えて帰られた。
河村君が帰るや否や股野が案内もなくやって来た。
今日は襟の開いた着物を着て、ちゃんと白い襯衣と白い襟をかけているから感心した。
股野と少し話しているところへ、また御客があらわれた。
ボイの持って来た名刺には東北大学教授橋本左五郎とあったので、おやと思った。
橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りていっしょに自炊をしていた事がある。
その時は間代を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚いて、それで月々二円ですんだ。
もっとも牛肉は大きな鍋へ汁をいっぱい拵えて、その中に浮かして食った。
十銭の牛を七人で食うのだから、こうしなければ食いようがなかったのである。
飯は釜から杓って食った。
高い二階へ大きな釜を揚げるのは難義であった。
余はここで橋本といっしょに予備門へ這入る準備をした。
橋本は余よりも英語や数字において先輩であった。
入学試験のとき代数がむずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、その御蔭でやっと入学した。
ところが教えた方の橋本は見事に落第した。
入学をした余もすぐ盲腸炎に罹った。
これは毎晩寺の門前へ売りに来る汁粉を、規則のごとく毎晩食ったからである。
汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと団扇をばたばたと鳴らした。
そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。
したがって、余はこの汁粉屋の爺のために盲腸炎にされたと同然である。
その後左五は――当時余等は橋本を呼んで、左五左五と云っていた。
実際彼は岡山の農家の生れであった。
――左五はその後追試験に及第したにはしたが、するかと思うとまた落第した。
そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ這入ってしまった。
それから独逸へ行った。
独逸へ行って、いつまで経っても帰らない。
とうとう五年か六年かいた。
つまり留学期限の倍か倍以上も向うで暮した事になる、その費用はどうして拵えたものかとんと分らない。
この橋本が不思議にも余より二三月前に満鉄の依頼に応じて、蒙古の畜産事状を調査に来て、その調査が済んで今大連に帰ったばかりのところへ出っ食わしたのである。
顔を見ると、昔から慓悍の相があったのだが、その慓悍が今蒙古と新しい関係がついたため、すこぶる活躍している。
闥を排して這入って来るや否や、どうだ相変らず頑健かねと聞かざるを得なかったくらいである。
十四
ええまあ相変らずでと、橋本は案に相違した落ちつき方である。
昔予備門に這入って及第だとか落第だとか騒いでいた時分にはけっしてこう穏かじゃなかった。
彼の鼻の先が反返っているごとく、彼は剽軽でかつ苛辣であった。
余はこの鼻のためによく凹まされた事を記憶している。
その頃は大勢で猿楽町の末富屋という下宿に陣取っていた。
この同勢は前後を通じると約十人近くあったが、みんな揃いも揃った馬鹿の腕白で、勉強を軽蔑するのが自己の天職であるかのごとくに心得ていた。
下読などはほとんどやらずに、一学期から一学期へ辛うじて綱渡りをしていた。
英語は教場であてられた時に、分らない訳を好い加減につけるだけであった。
数学はできるまで塗板の前に立っているのを常としていた。
余のごときは毎々一時間ぶっ通しに立往生をしたものだ。
みんなが代数書を抱えて今日も脚気になるかなど云っては出かけた。
こう云う連中だから、大概は級の尻の方に塊まって、いつでも雑然と陳列されていた。
余のごときは、入学の当時こそ芳賀矢一の隣に坐っていたが、試験のあるたんびに下落して、しまいには土俵際からあまり遠くない所でやっと踏み応えていた。
それでも、みんな得意であった。
級の上にいるものを見て、なんだ点取がと云って威張っていたくらいである。
そうして、稍ともすると、我々はポテンシャル・エナージーを養うんだと云って、むやみに牛肉を喰って端艇を漕いだ。
試験が済むとその晩から机を重ねて縁側の隅へ積み上げて、誰も勉強のできないような工夫をして、比較的広くなった座敷へ集って腕押をやった。
岡野という男はどこからか、玩具の大砲を買って来て、それをポンポン座敷の壁へ向って発射した。
壁には穴がたくさん開いた。
試験の成績が出ると、一人では恐いからみんなを駆り催して揃って見に行った。
するとことごとく六十代で際どく引っ掛っている。
橋本は威勢の好い男だから、ある時詩を作って連中一同に示した。
韻も平仄もない長い詩であったが、その中に、何ぞ憂えん席序下算の便と云う句が出て来たので、誰にも分らなくなった。
だんだん聞いて見ると席序下算の便とは、席順を上から勘定しないで、下から計算する方が早分りだと云う意味であった。
まるで御籤みたような文句である。
我々はみんなこの御籤にあたってひやひやしていた。
そのうち下算にも上算にもまるで勘定に這入らないものが、ぽつぽつできて来た。
一人消え、二人消えるうちに橋本がいた。
是公がいた。
こう云う自分もいた。
大連で是公に逢って、この落第の話が出た時、是公は、やあ、あの時貴様も落第したのかな。
そいつは頼母しいやと大いに嬉しがるから、落第だって、落第の質が違わあ。
おれのは名誉の負傷だと答えておいた。
是公だの、余だの、今の旅順の警視総長だのが落ちながら、ぶら下がっている間に、左五だけは決然として北海道へ落ち延びたのである。
その落第の張本とも云うべき彼が、いくら年を取ったって、かほどに慇懃になろうとは思いも寄らぬ事であった。
今日は午後から満鉄の社へ行って、蒙古旅行に関する話をするんだと云っている。
十五
河村さんの書いてくれた表を見ると、娯楽機関という題目のもとに、倶楽部とか会とか名のつくものが十ばかり並べてある。
中にはゴルフ会だの、ヨット倶楽部だのと、名前からして洒落たのさえ、ちらほら見える。
ヨット倶楽部の下に(ただし一艘)と括弧で註がついているのは、新設だからまだ一艘しかないという意味なんだろう。
参観すべき場所と云う標題のもとには、山城町の大連医院だの、児玉町の従業員養成所だの近江町の合宿所だの、浜町の発電所だの、何だのかだのみんなで十五六ほどある。
なるほどこれでは大連に一週間ぐらいいなければ、満鉄の事業も一通り観る訳に行かないと云われるはずだ。
しかも是公は是非共万遍なくよく観て行かなくっちゃいけないよと命令的に注意するんだから、容易じゃない。
その上よく観て、何でも気がついた事があるなら、そう云いなさいと、あたかも余を視察家扱にするんだからなおさら痛み入る。
余は手に持った表に一通り眼を通しながら、傍にいる股野に、おい少し出て見るかなと云った。
股野は固より余を連れて、大連中ぐるぐる引き廻す気で来ている。
もっとも別段社からつけてくれたという訳じゃないんだが、本人の特志で社の用事をすっぽかす了見らしい。
そうしていつの間にか、ホテルへ馬車を云いつけている。
余は股野と相乗りで立派な馬車を走らして北公園に行った。
と云うと大層だが、車の輪が五六度回転すると、もう公園で、公園に這入ったかと思うと、もう突き抜けてしまった。
それから社員倶楽部と云うのに連れて行かれて、謡の先生の月給が百五十円だと云う事を聞いて、また馬車へ乗って、今度は川崎造船所の須田君の所の工場を外から覗き込んで、すぐ隣の事務所に這入って、須田君に昨日の御礼を述べた。
事務所の前がすぐ海で、船渠の中が蒼く澄んでいる。
あれで何噸ぐらいの船が這入りますかと聞いたら、三千噸ぐらいまでは入れる事ができますという須田君の答であった。
船渠の入口は四十二尺だとか云った。
余は高い日がまともに水の中に差し込んで、動きたがる波を、じっと締めつけているように静かな船渠の中を、窓から見下しながら、夏の盛りに、この大きな石で畳んだ風呂へ這入って泳ぎ回ったらさぞ結構だろうと思った。
今度はどこだと股野に聞いて見ると、今度は電気の工場へ行きましょうという事である。
鉄嶺丸が大連の港へ這入ったときまず第一に余の眼に、高く赤く真直に映じたものはこの工場の煙突であった。
船のものはあれが東洋第一の煙突だと云っていた。
なるほど東洋第一の煙突を持っているだけに、中へ這入ると、凄じいものである。
その一部分では、天井を突き抜いて、青空が見えるようにして、四方の壁を高く積み上げていた。
屋根の高さを増す必要があっての事だろうが、青空が煉瓦の上に遠く見えるばかりか、尋常の会話はとうてい聞えないくらいに、恐ろしい音が響いている中に、塵を浴びて立った時は、妙な心持がした。
ある所は足の下も掘り下げて、暗い所にさまざまの仕掛が猛烈に活動していた。
工業世界にも、文学者の頭以上に崇高なものがあるなと感心して、すぐその棟を飛び出したくらいである。
詮ずるに要領はただ凄まじい音を聞いて、同じく凄まじい運動を見たのみである。
股野はその間を馳け回って、おい誰さんはいないかねと、しきりに技師を探していた。
技師は股野に捕まるほど閑でなかったと見えて、とうとう見当らなかった。
十六
今日は化物屋敷を見て来たと云うと、田中君が笑いながら、夏目さん、なぜ化物屋敷というんだか訳を知っていますかと聞いた。
余は固より下級社員合宿所の標本として、化物屋敷の中を一覧したまでで、化物の因縁はまだ詮議していなかった。
けれども化物屋敷はこれだと云われた時には、うんそうかと云って、少しも躊躇なく足を踏込んだ。
なぜそんな恐ろしい名が、この建物に付纏っているのかと、立ちどまって疑って見る暇も何もなかった。
いわゆる化物屋敷はそれほど陰気にでき上がっていた。
でき上ったというと新規に拵えた意味を含んでいるから、この建築の形容としては、むしろ不適当であるかも知れない。
化物屋敷はそのくらい古い色をしている。
壁は煉瓦だろうが、外部は一面の灰色で、中には日の透りそうもない、薄暗い空気を湛えるごとくに思われた。
余はこの屋敷の長い廊下を一階二階三階と幾返か往来した。
歩けば固い音がする。
階段を上るときはなおさらこつこつ鳴った。
階段は鉄でできていた。
廊下の左右はことごとく部屋で、部屋という部屋は皆締め切ってあった。
その戸の上に、室の所有者の標札がかかっている。
烈しい光線に慣れた眼で、すぐその標札を読もうとすると、判然読めないくらい廊下は暗かった。
余はちょっと立ちどまって室の中を見る訳には行かないのかなと股野に聞いて見た。
股野はすぐ持っていた洋杖で右手の戸をとんと叩いた。
しかしはいとも、這入れとも応えるものはなかった。
股野はまた二番目の戸をとんとん叩いた。
これも中はしんとしている。
股野は毫も辟易した気色なく無遠慮にそこいら中こつこつ叩いて歩いたが、しまいまで人気のする室には打つからなかった。
あたかも立ち退いた町の中を歩いているような感じがした。
三階に来た時、細い廊下の曲り角で一人の女が鍋で御菜を煮ているのに出逢った。
そこには台所があった。
化物屋敷では五六軒寄って一つの台所を持っているのだそうだ。
御神さん水は上にありますかと尋ねたら、いえ下から汲んで揚げますと答えた。
余はこの暗い町内に、便所がどこにいくつあるか不審に思ったが、つい聞きもせず、女の前を行き過ぎて通ろうとすると、そっちは行きどまりでございますと注意された。
道理で真闇であった。
田中君の話によると、この建物は日露戦争の当時の病院だとか云う事である。
戦争が烈しくなって、負傷者の数が増して来るに従って、収容した人間に充分の手当ができないばかりでなく、気の毒ながら見殺しにしなければならない兵士がたくさんにできて、それらの創口から出る怨みの声が大連中に響き渡るほど凄じかったので、その以後はこの一廓を化物屋敷と呼ぶようになった。
しかし本当だか嘘だか実は僕も保証しないと、田中君自身が笑っていたから、余はなおさら保証しない。
ただ満鉄の重役が始めて大連に渡ったとき、この化物屋敷に陣を構えた事だけは事実である。
その時この建物は化物さえ住みかねるほどに荒れ果てて、残焼家屋として、骸骨のごとくに突っ立っていたそうである。
陣取った連中は死物狂で、天候と欠乏と不便に対して戦後の戦争を開始した。
汽車の中で炭を焚いて死に損なったり、貨車へ乗って、カンテラを点けて用を足そうとすると、そのカンテラが揺ぶれてすぐ消えてしまったり、サイホンを呑むと二三滴口へ這入るだけであとはすぐ氷の棒に変化したり、すべてが探険と同様であった。
「清野が毛織の襯衣を半ダース重ねて着たのは彼時だよ」「清野は驚いて、あれっきりやって来ない」 余は田中君と是公がこんな話をするのを聞いて、つい化物屋敷の事を忘れてしまった。
十七
三階へ上って見ると豆ばかりである。
ただ窓際だけが人の通る幅ぐらいの床になっている。
余は静かに豆と壁の間をぐるぐる廻って歩いた。
気をつけないと、足の裏で豆を踏み潰す恐れがある上に、人のいない天井裏を無益に響かすのが苦になったからである。
豆は砂山のごとく脚下に起伏している。
こちらの端から向うの端まで眺めて見ると、随分と長い豆の山脈ができ上っていた。
その真中を通して三カ所ほどに井桁に似た恰好の穴が掘ってある。
豆はその中から断えず下へ落ちて行って、平たく引割られるのだそうだ。
時々どさっと音がして、三階の一隅に新しい砂山ができる。
これはクーリーが下から豆の袋を背負って来て、加減の好い場所を見計らって、袋の口から、ばらに打ち撒けて行くのである。
その時はぼうと咽るような煙が立って、数え切れぬほどの豆と豆の間に潜んでいる塵が一度に踊り上る。
クーリーはおとなしくて、丈夫で、力があって、よく働いて、ただ見物するのでさえ心持が好い。
彼等の背中に担いでいる豆の袋は、米俵のように軽いものではないそうである。
それを遥の下から、のそのそ背負って来ては三階の上へ空けて行く。
空けて行ったかと思うとまた空けに来る。
何人がかりで順々に運んでくるのか知れないが、その歩調から態度から時間から、間隔からことごとく一様である。
通り路は長い厚板を坂に渡して、下から三階までを、普請の足場のように拵えてある。
彼等はこの坂の一つを登って来て、その一つをまた下りて行く。
上るものと下りるものが左右の坂の途中で顔を見合せてもほとんど口を利いた事がない。
彼等は舌のない人間のように黙々として、朝から晩まで、この重い豆の袋を担ぎ続けに担いで、三階へ上っては、また三階を下るのである。
その沈黙と、その規則ずくな運動と、その忍耐とその精力とはほとんど運命の影のごとくに見える。
実際立って彼等を観察していると、しばらくするうちに妙に考えたくなるくらいである。
三階から落ちた豆が下へ回るや否や、大きな麻風呂敷が受取って、たちまち釜の中に運び込む。
釜の中で豆を蒸すのは実に早いものである。
入れるかと思うと、すぐ出している。
出すときには、風呂敷の四隅を攫んで、濛々と湯気の立つやつを床の上に放り出す。
赤銅のような肉の色が煙の間から、汗で光々するのが勇ましく見える。
この素裸なクーリーの体格を眺めたとき、余はふと漢楚軍談を思い出した。
昔韓信に股を潜らした豪傑はきっとこんな連中に違いない。
彼等は胴から上の筋肉を逞しく露わして、大きな足に牛の生皮を縫合せた堅い靴を穿いている。
蒸した豆を藺で囲んで、丸い枠を上から穿めて、二尺ばかりの高さになった時、クーリーはたちまちこの靴のまま枠の中に這入って、ぐんぐん豆を踏み固める。
そうして、それを螺旋の締棒の下に押込んで、把をぐるぐると廻し始める。
油は同時に搾られて床下の溝にどろどろに流れ込む。
豆は全くの糟だけになってしまう。
すべてが約二三分の仕事である。
この油が喞筒の力で一丈四方もあろうという大きな鉄の桶に吸上げられて、静に深そうに淀んでいるところを、二階へ上がって三つも四つも覗き込んだときには、恐ろしくなった。
この中に落ちて死ぬ事がありますかと、案内に聞いたら、案内は平気な顔をして、まあ滅多に落ちるような事はありませんねと答えたが、余はどうしても落ちそうな気がしてならなかった。
クーリーは実にみごとに働きますね、かつ非常に静粛だ。
と出がけに感心すると、案内は、とても日本人には真似もできません。
あれで一日五六銭で食っているんですからね。
どうしてああ強いのだか全く分りませんと、さも呆れたように云って聞かせた。
十八
股野が先生私の宅へ来なさらんか、八畳の間が空いています、夜具も蒲団もあります。
ホテルにいるより呑気で好いでしょうと親切に云ってくれる。
何でも股野の家の座敷からは、大連が一目に見渡されるのみならず、海が手に取るように眺められるのみならず、海の向うに連なる突兀極まる山脈さえ、坐っていると、窓の中に向うから這入って来てくれるという重宝な家なんだそうである。
始めのうちは股野の自慢を好加減に聞き流して、そうかそうかと答えていたが、せっかくの好意ではあるし、もともと気の多い男だから、都合によっては少し厄介になっても好いぐらいに思って、ついでの時是公にこの話をすると、そんな所へ行っちゃいかんとたちまち叱られてしまった。
もしホテルが厭なら、おれの宅へ来い、あの部屋へ入れてやるからと云うんで、書斎の次の畳の敷いてある間を見せてくれるんだが、別に西洋流の宿屋に愛想をつかした訳でもないんだから、じゃ厄介になろうとも云わなかった。
是公は書斎の大きな椅子の上に胡坐をかいて、河豚の干物を噛って酒を呑んでいる。
どうして、あんな堅いものが胃に収容できるかと思うと、実に恐ろしくなる。
そうこうする内に、おいゼムを持っているなら少しくれ、何だかおれも胃が悪くなったようだと手を出した。
そうして、胃が悪いときは、河豚の干物でも何でも、ぐんぐん喰って、胃病を驚かしてやらなければ駄目だ。
そうすればきっと癒ると云った。
酔っていたに違ない。
余はポッケットから注文の薬を出して相手にあてがった。
これは二三日前是公といっしょに馬車に乗って、市中を乗り廻した時、是公の御者から二十銭借りて大連の薬屋で買ったものである。
その時は是公の御者に対する態度のすこぶる叮嚀なのに気がついて少しく驚かされた。
君ちょっとそこいらの薬屋へ寄って、ゼムを買ってやって下さいと云うんだから非凡である。
君は御者に対して叮嚀過ぎるよと忠告してやったら、うんあの時の二十銭をまだ払わなかったっけと思い出したように河豚の干物をまた噛っていた。
是公の御者には廿銭借があるだけだが、その別当に至っては全く奇抜である。
第一日本人じゃない。
辮髪を自慢そうに垂らして、黄色の洋袴に羅紗の長靴を穿いて、手に三尺ほどの払子をぶら下げている。
そうして馬の先へ立って駆ける。
よくあんな紳士的な服装をして汗も出さずに走られる事だと思うくらいに早く走ける。
もっとも足も長かった。
身の丈は六尺近くある。
別当と御者はこのくらいにしてまた股野にかえるが、余は是公に叱られたため、とうとう股野の家へは移らなかった。
けれども遊びには行った。
なるほど小山の上に建てられた好い社宅である。
もっとも一軒立ではない。
長い棟がいくつも灰色に並んでいるうちの一番はずれの棟の、一番最後の番号のその二階が彼の家族の領分であった。
岡の下から見ると、まるで英国の避暑地へ行ったようだとある西洋人が評したほど、外部は厚い壁で洋式にできているが、中には日本の香がする奇麗な畳が敷いてあった。
なるほど景色が好い。
大連の市街が見える、大連の海が見える、大連の向うの山が見える。
股野の家にはもったいないくらいである。
余はそこで村井君に逢って、股野の細君に逢って、手厚い御馳走になって帰った。
十九
支那の宿屋を一つ見ましょうと云いながら、股野は路の左側にある戸を開けて中へ這入った。
そこには日本人が三人ほど机を並べて事務を執っていた。
股野はそのうちの紺の洋服を着た人を捕まえて、話を始めた。
君ここは宿屋だろうと聞いている。
宿屋じゃないよと立ちながら返事をしている。
何だか様子が変になって来た。
やがて余はこの紺服の人に紹介された。
紹介されて見ると、これは商業学校出の谷村君で、無論旅屋の亭主ではなかった。
谷村君はこの地で支那人と組んで豆の商売を営んでいる。
したがって取引上の必要があって、奥の方から大連へ出て来る豆の荷主と接触しなければならないのだが、こっちの習慣として、こう云う荷主はけっして普通の旅籠を取らない。
出て来ればきっと取引先へ宿って、用の済むまではいつまででもそこに滞在している。
しかもその数は一人や二人ではない。
したがって谷村君の奥座敷は一種の宿屋みたような組織にできている。
じゃその奥座敷をちょっと拝見できますかと云うと、谷村君はさあさあと自分から席を離れて、快よく案内に立たれる。
余は谷村君の後へ追いて事務室の裏へ出た。
股野も食付いて出た。
裏は真四角な庭になっている。
無論樹も草も花も見当らない、ただの平たい場所である。
そこを突き抜けた正面の座敷が応接間であった。
応接間の入口は低い板間で、突当りの高い所に蒲団が敷いてある。
その上に腰をかけて談判をするのだそうだが、横着な事には大きな括枕さえ備えつけてある。
しかし肱を突くためか、頭を載せるためかは聞き糺して見なかった。
彼等は談判をしながら阿片を飲む。
でなければ煙草を吸う。
その煙管は煙管と云うよりも一種の器械と評した方が好いくらいである。
錫の胴に水を盛って雁首から洩れる煙がこの水の中を通って吸口まで登ってくる仕掛なのだから、慣れないうちは水を吸い上げて口中へ入れる恐れがある。
一服やって御覧なさいと勧められたから、やって見たが、ごぼごぼ音がしてまるで脂を呑むような心持がした。
二階が荷主の室だと云うんで、二階へ上って見ると、なるほど室がたくさん並んでいる。
その中の一つでは四人で博奕を打っていた。
博奕の道具はすこぶる雅なものであった。
厚みも大きさも将棋の飛車角ぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた。
その札は磨いた竹と薄い象牙とを背中合せに接いだもので、その象牙の方にはいろいろの模様が彫刻してあった。
この模様の揃った札を何枚か並べて出すと勝になるようにも思われたが、要するに、竹と象牙がぱちぱち触れて鳴るばかりで、どこが博奕なんだか、実はいっこう解らなかった。
ただこの象牙と竹を接ぎ合わした札を二三枚貰って来たかった。
一つの室では五六人寄って、そのうちの一人が笛を吹くのを聞いていた。
幕を開けて首を出したら、ぱたりと笛を歇めてしまった。
また吹き始めるかと思って、しばらく室の中に立っていたが、とうとう吹かなかった。
室の中には妙な書が麗々と壁に貼りつけてある。
いずれも下手いものだのに、何々先生のために何々書すと云ったようにもったいぶったのばかりであった。
股野が何か云うと、向うの支那人も何か云う。
しかし両方の云う事は両方へ通じないようである。
二十
波止場から上って真直に行くと、大連の町へ出る。
それを真直に行かずに、すぐ左へ折れて長い上屋の影を向うへ、三四町通り越した所に相生さんの家がある。
西洋館の二階を客間にして古い仏像やら鏡やら銅器陶器の類を奇麗に飾っているから、客間を見ただけではただ一通りの風流人としか見えない。
相生さんは満鉄の社員として埠頭事務所の取締である。
もっと卑近な言葉で云うと、荷物の揚卸に使われる仲仕の親方をやっている。
かつて門司の労働者が三井に対してストライキをやったときに、相生さんが進んでその衝に当ったため、手際よく解決が着いたとか云うので、満鉄から仲仕の親分として招聘されたようなものである。
実際相生さんは親分気質にでき上っている。
満鉄から任用の話があったとき、子供が病気で危篤であったのに、相生さんはさっさと大連へ来てしまった。
来て一週間すると子供が死んだと云う便りがあった。
相生さんは内地を去る時、すでにこの悲報を手にする覚悟をしていたのだそうだ。
相生さんは大連に来るや否や、仲仕その他すべて埠頭に関する事務を取り扱う連中を集めてここに一部落を築き上げた。
相生さんの家を通り越すと、左右に並んでいる建物は皆自分の経営になったものばかりである。
その中には図書館がある。
倶楽部がある。
運動場がある。
演武場がある。
部下の住宅は無論ある。
倶楽部では玉を突いていた。
図書館には沙翁全集があった。
ポルグレーヴの経済字彙があった。
余の著書も二三冊あった。
ここは柔道の道場に使っていますが、時によると講談をやったり演説をやったりしますと云う相生さん自身の説明について、中を覗き込むと、なるほど道場にはちょうど好い建物がある。
その奥に高座ができていて、いつでも寄席もしくは講演を開くような設備もある。
講演てどんな講演ですかと聞き返したら、相生さんは、まあ内地から来られた人だとか何とかいうのを頼んでやりますと答えられた。
ことによると、遠からぬうちに捕まって、ここへ引っ張り出されはしまいかと、その時すぐ気がついたが、真逆私はどうぞ廃しにして下さいと、頼まれもしないうちに断るのも失礼だと思って、はあなるほどと首肯いて通り過ぎた。
最後にもっとも長い二階建の一棟の前に出た。
これが共同生活をやらしている所でと、相生さんが先へ這入る。
中は勧工場のように真中を往来にして、同く勧工場の見世に当る所を長屋の上り口にしてある。
だから長屋と長屋とは壁一重で仕切られながら、約一丁も並んでいるばかりか、三尺の往来を越すとすぐ向うの家になる。
上り口を枕にして寝れば、吸付莨のやり取りぐらいはできるほど近い。
相生さんが先へ立って、この狭い往来を通ると、裁縫をしたり、子供を寝かしたりしている神さん達が、みんな叮嚀に挨拶をする。
しかし中には気がつかずに何か話しているのも見える。
この部落に住んでいる人間が総がかりになった上に、その何十倍か何百倍のクーリーを使っても、豆の出盛りには持て余すほど荷が後から後からと出てくる。
相生さんの話によると、多い時は着荷の量が一日ならし五千噸あるそうである。
これがため去年雨期を持ち越した噸数は四万噸で、今年はそれが十五万噸に上ったとか聞いた。
南北千五百尺東西四千二百尺の埠頭の側にこのくらい豆を積んだらずいぶん盛なものだろう。
二十一
旅順から電話がかかってこっちへはいつ来るかという問合わせである。
おい誰がかけてくれるんだろうなと橋本に聞いて見ると、橋本はそうだなあと云うだけで要領を得ない。
おい名前は分らないのかとやむをえずボイに尋ね返したら、ボイは依然として、ただ民政署だと云ってかけて参りましたと同じ事を繰返している。
おおかた友熊だろうぐらいに橋本と二人で見当をつけて返事をさせた。
これが白仁長官の好意から出た聞き合せであった事は旅順に着いて後始めて知った。
旅順には佐藤友熊と云う旧友があって、警視総長と云う厳しい役を勤めている。
これは友熊の名前が広告する通りの薩州人で、顔も気質も看板のごとく精悍にでき上がっている。
始めて彼を知ったのは駿河台の成立学舎という汚ない学校で、その学校へは佐藤も余も予備門に這入る準備のために通学したのであるからよほど古い事になる。
佐藤はその頃筒袖に、脛の出る袴を穿いてやって来た。
余のごとく東京に生れたものの眼には、この姿がすこぶる異様に感ぜられた。
ちょうど白虎隊の一人が、腹を切り損なって、入学試験を受けに東京に出たとしか思われなかった。
教場へは無論下駄を穿いたまま上った。
もっともこれは佐藤ばかりじゃない。
我等もことごとく下駄のままあがった。
上草履や素足で歩くような学校じゃないのだから仕方がない。
床に穴が開いていて、気をつけないと、縁の下へ落ちる拍子に、向脛を摺剥くだけが、普通の往来より悪いぐらいのものである。
古い屋敷をそのまま学校に用いているので玄関からがすでに教場であった。
ある雨の降る日余はこの玄関に上って時間の来るのを待っていると、黒い桐油を着て饅頭笠を被った郵便脚夫が門から這入って来た。
不思議な事にこの郵便屋が鉄瓶を提げている。
しかも全くの素足である。
足袋は無論の事、草鞋さえ穿いていない。
そうして、普通なら玄関の前へ来て、郵便と大きな声を出すべきところを、無言のまますたすた敷台から教場の中へ這入って来た。
この郵便屋がすなわち佐藤であったので大いに感心した。
なぜ鉄瓶を提げていたものかその理由は今日までついに聞く機会がない。
その後佐藤は成立学舎の寄宿へ這入った。
そこで賄征伐をやった時、どうした機勢か額に創をして、しばらくの間白布で頭を巻いていたが、それが、後鉢巻のようにいかにも勇ましく見えた。
賄に擲られたなと調戯って苛い目に逢ったので今にその颯爽たる姿を覚えている。
佐藤はその頃頭に毛の乏い男であった。
無論老朽した禿ではないのだが、まあ土質の悪い草原のように、一面に青々とは茂らなかったのである。
漢語でいうと短髪種々とでも形容したら好いのかも知れない。
風が吹けば毛の方で一本一本に靡く傾があった。
この頭は予備門へ這入っても黒くならなかった。
それで皆して佐藤の事を寒雀寒雀と囃していた。
当時余は寒雀とはどんなものか知らなかった。
けれども佐藤の頭のようなものが寒雀なんだろうと思って、いっしょになってやっぱり寒雀寒雀と調戯った。
この渾名を発明した男はその後技師になって今は北海道にいる。
話が前後するようだが、旅順に来て十何年ぶりかに佐藤に逢って、例の頭を注意して見ると、不思議な事に、その頭には万遍なく綿密に毛が生えていた。
もっとも黒いのばかりではなかった。
近頃は正当防禦のために、こう短く刈っているんだと云って、三分刈の濃い頭を笑いながら掻いて見せた。
旅順から二度目の電話がかかった翌日の朝、橋本と余は、この旧友に逢うため、また日露の戦跡を観るため、大連から汽車に乗った。
乗る時、是公が友熊によろしくと云った。
是公は何か用事があったと見えて、国沢君と二人で停車場の構内を横切って妙な方角へ向いて歩いて行った。
やがて二人の影は物に遮ぎられて、汽車の窓から見えなくなった。
そうして満洲に有名な高粱の色が始めて眼底に映じ出した。
汽車は広い野の中に出たのである。
二十二
おい旅順に着いたら久しぶりに日本流の宿屋へ泊ろうかと橋本に相談を掛けるとそうだな浴衣を着てごろごろするのも好いねという同意である。
橋本は新しく蒙古から帰ったので、しきりに支那宿に降参した話を始めた。
その支那宿には、名は塞北に馳せ、味は江南を圧すなどという広告の文字がべたべた壁に貼りつけてあるそうだ。
橋本はこう云う文句をたくさん手帳に控えている。
ほかに使い路のない文句だものだから、汽車の中で、それを残らず余に読んで聞かせてしまった。
二人は笑いながら日本流の奇麗な宿屋を想像して旅順のプラットフォームに降りた。
降りるとそこに馬車がある。
我々の名前を聞くものがある。
この馬車が民政署の馬車で、我々を尋ねてくれた人が、渡辺秘書であるという事を発見した時は両人ともだいぶ恐縮した。
橋本を振り返ると相変らず鼻の先を反らして、台湾パナマだか何だかペコペコになった帽子を被っている。
おい宿屋はどうするんだいと小さな声で聞くと、うんそうさなと云ったが、そのうち二人とも馬車へ乗らなければならない段になった。
いったい橋本といっしょにあるくときは、何でも橋本が進んで始末をつけてくれる事に昔からきまっているんだからこの際もどうかするだろうと思って放っておいた。
すると予想通、日本流の宿屋へ行くつもりで来たんですがと渡辺さんに相談し始めた。
ところが渡辺さんはどうも御泊りになられるような日本の宿屋は一軒もありませんから、やっぱり大和ホテルになさった方が好いでしょうと忠告している。
やがて馬車は新市街の方へ向いて動き出した。
二人は十五分の後ホテルの二階に導かれて、行き通いのできる室を二つ並べて取った。
そこで革鞄の中から刷毛を出して塵だらけの服を払ったあとで、しばらく休息のため安楽椅子に腰をおろして見ると、急に気がついたように四辺が森閑としている。
ホテルの中には一人も客がいないように見える。
ホテルの外にもいっさい人が住んでいるようには思われない。
開廊へ出て往来を眺めると、往来はだいぶ広い。
手摺の真下にある人道の石の中から草が生えて、茎の長さが一尺余りになったのが二三本見える。
日中だけれども虫の音が微かに聞える。
隣は主のない家と見えて、締め切った門やら戸やらに蔦が一面に絡んでいる。
往来を隔てて向うを見ると、ホテルよりは広い赤煉瓦の家が一棟ある。
けれども煉瓦が積んであるだけで屋根も葺いてなければ窓硝子もついてない。
足場に使った材木さえ処々に残っているくらいの半建である。
淋しい事には、工事を中止してから何年になるか知らないが、何年になってもこのままの姿で、とうてい変る事はあるまいと云う感じが起る。
そうしてその感じが家にも往来にも、美しい空にも、一面に充ちている。
余は開廊の手摺を掌で抑えながら、奥にいる橋本に、淋しいなあと云った。
旅順の港は鏡のごとく暗緑に光った。
港を囲む山はことごとく坊主であった。
まるで廃墟だと思いながら、また室の中に這入ると、寝床には雪のような敷布がかかっている。
床には柔かい絨毯が敷いてある。
豊かな安楽椅子が据えてある。
器物はことごとく新式である。
いっさいが整っている。
外と内とは全く反対である。
満鉄の経営にかかるこのホテルは、固より算盤を取っての儲け仕事でないと云う事を思い出すまでは、どうしても矛盾の念が頭を離れなかった。
食堂に下りて、窓の外に簇がる草花の香を嗅ぎながら、橋本と二人静かに午餐の卓に着いたときは、機会があったら、ここへ来て一夏気楽に暮したいと思った。
二十三
旅順に着いた時汽車の窓から首を出したら、つい鼻の先の山の上に、円柱のような高い塔が見えた。
それがあまり高過ぎるので、肩から先を前の方へ突き出して、窮屈に仰向かなくては頂点まで見上げる訳に行かなかった。
馬車が新市街を通り越してまたこの塔の真下に出た時に、これが白玉山で、あの上の高い塔が表忠塔だと説明してくれた。
よく見ると高い灯台のような恰好である。
二百何尺とかと云う話であった。
この山の麓を通り越して、旧市街を抜けると、また山路にかかる。
その登り口を少し右へ這入った所に、戦利品陳列所がある。
佐藤は第一番にそれを見せるつもりで両人を引張って来た。
陳列所は固より山の上の一軒家で、その山には樹と名のつくほどの青いものが一本も茂っていないのだから、はなはだ淋しい。
当時の戦争に従事したと云う中尉のA君がただ独り番をしている。
この尉官は陳列所に幾十種となく並べてある戦利品について、一々叮嚀に説明の労を取ってくれるのみならず、両人を鶏冠山の上まで連れて行って、草も木もない高い所から、遥の麓を指さしながら、自分の従軍当時の実歴譚をことごとく語って聞かせてくれた人である。
始め佐藤から砲台案内を依頼したときには、今日はちと差支えがあるから四時頃までならと云う条件であったが、山の出鼻へ立って洋剣を鞭の代りにして、あちらこちらと方角を教える段になると、肝心の要事はまるでそっちのけにして、満洲の赤い日が、向うの山の頂に、大きくなって近づくまで帰ろうとは云わなかった。
もし忘れたんじゃ気の毒だと思って、こっちから注意すると、何ようございます、構いませんと断りながら、ますます講釈をしてくれる。
あんまり不思議だから、全体何の御用事が御有りなのですかと、詮索がましからぬ程度に聞いて見ると、実は妻が病気でと云う返事である。
さすが横着な両人も、この際だけは、それじゃ御迷惑でもせっかくだからついでにもう少し案内を願おうと云う気にもなれなかった。
言葉は無論出なかった。
長い日が山の途中で暮れて、電気の力を借りなければ人の顔が判然分らない頃になって、我々の馬車がようやく旧市街まで戻った時、中尉はある煉瓦塀の所で、それじゃ私はここで失礼しますと挨拶して、馬車から下りて、門の中へ急いで這入って行かれた。
この煉瓦の塀を回らした一構は病院であった。
そうして中尉の妻君はこの病院の一室に寝ていたのである。
これほど世話になり、面倒を掛けた人の名前を忘れるのははなはだすまん事だが、どうしても思い出せない。
佐藤に、よろしくと伝言を頼んだ時は、ただ、あの中尉君と書いた。
ここに某中尉などとよそよそしく取り扱うのはあまり失礼だから、やむをえずA君としておいた。
A君の親切に説明してくれた戦利品の一々を叙述したら、この陳列所だけの記載でも、二十枚や三十枚の紙数では足るまいと思うが、残念な事にたいてい忘れてしまった。
しかしたった一つ覚えているものがある。
それは女の穿いた靴の片足である。
地が繻子で、色は薄鼠であった。
その他の手投弾や、鉄条網や、魚形水雷や、偽造の大砲は、ただ単なる言葉になって、今は頭の底に判然残っていないが、この一足の靴だけは色と云い、形と云い、いつなん時でも意志の起り次第鮮に思い浮べる事ができる。
戦争後ある露西亜の士官がこの陳列所一覧のためわざわざ旅順まで来た事がある。
その時彼はこの靴を一目観て非常に驚いたそうだ。
そうしてA君に、これは自分の妻の穿いていたものであると云って聞かしたそうだ。
この小さな白い華奢な靴の所有者は、戦争の際に死んでしまったのか、またはいまだに生存しているものか、その点はつい聞き洩らした。
二十四
今までは白馬を着けた佐藤の馬車に澄まして乗っていたが、山へかかるや否や、例の泥だらけの掘出しものの中へ放り込まれてしまった。
とうてい普通の馬車では上がれないと云うんだからやむをえない。
それでも露西亜人だけあって、眼にあまる山のことごとくに砲台を構えて、その砲台のことごとくに、馬車を駆って頂辺まで登れるような広い路をつけたのは感心ですとA君が語られる。
実際その当時は奇麗な馬車を傷めずに、心持よく砲台のある地点まで乗りつけられたものと見える。
ところが戦争がすんで往復の必要がなくなったので、せっかくできた山路に手を入れる機会を失ったため、我々ごとき物数奇は、かように零落した馬車をさえ、時々復活させる始末になるのである。
元来旅順ほど小山が四方に割拠して、禿頭を炎天に曝し合っている所はない。
樹が乏しい土質へ、遠慮のない強雨がどっと突き通ると、傾斜の多い山路の側面が、すぐ往来へ崩れ出す。
その崩れるものがけっして尋常の土じゃない。
堅い石である。
しかも頑固に角張っている。
ある所などは、五寸から一尺ほどもあろうと云う火打石のために、累々と往来を塞がれている。
零落した馬車は容赦なく鳴動してその上を通るのだから、凸凹の多い川床を渡るよりも危険である。
二百三高地へ行く途中などでは、とうとうこの火打石に降参して、馬車から下りてしまった。
そうして痛い腹を抱えながら、膏汗になって歩いたくらいである。
鶏冠山を下りるとき、馬の足掻が何だか変になったので、気をつけて見ると、左の前足の爪の中に大きな石がいっぱいに詰っていた。
よほど厚い石と見えて爪から余った先が一寸ほどもある。
したがって馬は一寸がた跛を引いて車体を前へ運んで行く訳になる。
席から首を延ばして、この様子を見た時は、安んじて車に乗っているのが気の毒なくらい、馬に対して痛わしい心持がした。
御者に注意してやると、御者は支那語で何とか云いながら、鞭を棄てて下へ下りたが、非常に固く詰っていたと見えて、叩いても引っ張っても石が取れないので、またのそのそ御者台へ上がった。
そうして、後にいる余の方をふりむいて、にやにや笑いながら、また鞭を鳴らし出した。
馬も存外平気なもので、そのままとうとう大和ホテルまで帰って来た。
橋本と余はこう云う馬車の中で、こう云う路の上に揺振られべく旧市街から出立した。
あれがステッセル将軍の家でと云うのを遠くから見ると、なかなか立派にできている。
戦争の烈しくならない時は、将軍がみごとな馬車を駆ってそこいらを乗り廻しているのが遥の先から見えたそうである。
A君の指して教えられた中で、ただ一つ質素な板囲の小さい家があった。
それがまるで日本の内地で見る普通の木造なのだから珍らしかった。
何とか云う有名な将軍の住宅だと説明されたが、不幸にしてその有名な将軍の名を忘れてしまった。
何でも非常に人望のある人で、戦争のときも一番先に打死をしたのだそうである。
ああ云う質素の家に住んでおられたのも、一つは人望のあった原因になっているのでありましょうとA君は丁寧に敬慕の意を表される。
この将軍は戦争だけには熱心で、ほかの事にはよほど無頓着であった人らしい。
この辺にある露国の将軍などの住宅は皆それ相応に立派なものばかりである。
新市街の白仁長官の家を訪ねた時、結構な御住居だが、もとは誰のいた所ですかと聞いたら、何でもある大佐の家だそうですと答えられた。
こう云う家に住んで、こういう景色を眼の下に見れば、内地を離れる賠償には充分なりますねと云ったら、白仁君も笑いながら、日本じゃとても這入れませんと云われたくらいである。
そのうち馬車は無鉄砲に山路を上って、旅順の市街を遥の下にうちやるようになった。
A君は坂の途中で車を留めて、私は近路を歩いて、御先へ行って御待ち申しますと云いながら、左手の急な岨路をずんずん登って行った。
我々の車はまたのそのそ動き出した。
二十五
下を見下すと、山の側面はそれほど急でないが、樹と名のつくような青いものはまるで眸を遮らない。
一眼に麓まで透かされるのみならず、麓からさき一里余の畠が真直に眉の下に集まって来る。
この辺の空気は内地よりも遥に澄んでいるから、遠くのものが、つい鼻の先にあるように鮮である。
そのうちで高粱の色が一番多く眼を染めた。
あの先に、小指の頭のような小さい白いものが見えるでしょう、あすこからこっちの方へ向いて対溝を掘出したのですとA君が遠くの方を指さしながら云った。
この辺に穴を掘るのは石を割ると一般なのだから一町掘るのだって容易な事ではない。
現に外濠から窖道へ通ずる路をつけるときなどは、朝から晩まで一日働いて四十五サンチ掘ったのが一番の手柄であったそうだ。
余は余の立っている高い山の鼻と、遠くの先にある白いものとを見較べて、その中間に横わる距離を胸算用で割り出して見て、軍人の根気の好いのにことごとく敬服した。
全体どこまで掘って来たのですかと聞き返すと、ついそこですと洋剣を向けて教えてくれた。
何でも九月二日から十月二十日とかまで掘っていたと云うのだから恐るべき忍耐である。
その時敵も砲台の方から反対窖道と云うのを掘って来た。
日本の兵卒が例のごとく工事をしているとどこかでかんかん石を割る音が聞えたので、敵も暗い中を一寸二寸と近寄って来た事が知れたのだと云う。
爆発薬の御蔭で外濠を潰したのはこの時の事でありますと、中尉はその潰れた土山の上に立って我々を顧みた。
我々も無論その上に立っている。
この下を掘ればいくらでも死骸が出て来るのだと云う。
土山の一隅が少し欠けて、下の方に暗い穴が半分見える。
その天井が厚さ六尺もあろうと云うセメントででき上っている。
身を横にして、その穴に這い込みながら、だらだらと石の廻廊に降りた時に、仰向いて見て始めてその堅固なのに気がついた。
外濠を崩した上に、この厚い壁を破壊しなければ、砲台をどうする事もできないのは攻手に取って非常な困難である。
しかもこの小さな裂け目から無理に割り込んで、一寸二寸とじりじりにセメントで築上げた窖道を専領するに至っては、全く人間以上の辛抱比べに違ない。
その時両軍の兵士は、この暗い中で、わずかの仕切りを界に、ただ一尺ほどの距離を取って戦をした。
仕切は土嚢を積んで作ったとかA君から聞いたように覚えている。
上から頭を出せばすぐ撃たれるから身体を隠して乱射したそうだ。
それに疲れると鉄砲をやめて、両側で話をやった事もあると云った。
酒があるならくれと強請ったり、死体の収容をやるから少し待てと頼んだり、あんまり下らんから、もう喧嘩はやめにしようと相談したり、いろいろの事を云い合ったと云う話である。
三人は暗い廻廊を這い出して、また土山の上に立った。
日は透き徹るように明かるく坊主山を照らしている。
野菊に似た小さな花が処々に見える。
じっと日を浴びて佇んでいると、微かに虫の音がする。
草の裏で鳴いているのか、崩れ掛った窖内で鳴いているのか分らなかった。
向うの方に支那人の影が二人見えたが、我々の姿を認めるや否や、草の中に隠れた。
ああやって、何か掘りに来るんです。
捕まると怖いものだから、すぐに逃げます、なかなか取り抑えるのが困難ですとA君が苦笑した。
後側へ回ると広い空堀の中に立派な二階建の兵舎がある。
もとは橋をかけて渡ったものと思われるが、今では下りる事もできない。
兵舎の背はもとより、山に囲われて、外からは見えなくなっている。
三人は空濠を横に通り越してなお高く上った。
とうとう四方にあるものは山の頭ばかりになった。
そうしてそれが一つ残らず昔の砲台であった。
中尉はそれらの名前をことごとく諳んじていた。
余は遮るもののない高い空の真下に立って、数限りもない山の背を見渡しながら、砲台巡りも容易な事ではないと思った。
二十六
大連に着いてから二三日すると、満洲日々の伊藤君から滞留中に是非一度講演をやって貰いたいという依頼であった。
ええ都合ができればと受合ったようなまた断ったような軽い挨拶をして旅順に来た。
するとその伊藤君が我々より一日前に同じ大和ホテルに泊っていたので、ただ、やあ来ているねぐらいでは事がすまなくなった。
伊藤君の話によると、余の承諾を得て講演を開くと云う事を、もう自分の新聞に広告してしまったと云うんだから、たちまち弱った。
どうしてもやらなければならないように伊藤君は頼むし、何だかやれそうもない気分ではあるし、かたがた安楽椅子に尻を埋めて、苦く渋り出した。
すると橋本がにやにや笑いながら、まあやってやるさと傍から余計な事を云う。
実を云うと、講演は馬車でホテルに着くや否や、ここの和木君からも頼まれている。
もっともこの方は暇がないので、頼まれ放しの体であるが、大連に帰ればそう多忙らしく見せる訳には行かない。
橋本はそこをよく見破っているので、君そう云うときには快よく承諾するものだよとか君のような人はやる義務があるさとかいろいろな口を出す。
余の大連でしゃべらせられたのは全くこの男の御蔭である。
しかも短い時日のうちに二遍もやらせられた。
その内の一遍では、云う事が無くって仕方がなかったから、私は今晩、なぜ講演というものが、そう容易にできるものでないか、すなわち講演ができない訳を講演致しますと云って、妙な事を弁じてしまった。
それを是公が聞きに来ていて、うん貴様はなかなか旨い、これからどこへ出て演説しようと勝手だ、おれが許してやると評したからありがたい。
けれども勧告の本人たる橋本は、平気な顔をして、どこか遊んで歩いていて聞きに来なかった。
そのくせ営口でまた頼まれると早速、君やるさ、せっかく頼むんだものと例の通りやり出したので、やむをえず痛い腹の上にかけていた蒲団を跳ね退けて、演説をしに行った。
その代りおれが先へやるよと断って、橋本のは聞かずに、すぐ宿屋へ帰って来て、また腹の上に蒲団を掛けていた。
橋本はこう云うところを見ると、君演説をやってる間は苦しいかなどと気楽な質問をする。
もっとも招待を断ったり何かするときには、いや実際この男は胃病でといつでも証人に立ってくれた。
して見ると、橋本はただ演説に対してだけ冷刻なのかも知れない。
奉天でも危うく高い所へ乗せられるところを、一日日取が狂ったため、いかな橋本にも、君頼まれたときにはやってやるべきだよを繰返す余地がなかった。
京城では発着が前後した上に、宿屋さえ違ったものだから、泰然と講演を謝絶する余裕があった。
これは偏に橋本のいなかった御蔭である。
面白い事に、この演説の勧誘家はその後札幌へ帰るや否や、自身と烈しい胃病に罹って、急に苦しみ出した。
それで普通ならば毎週十時間余も講義を持たせられるところを、わずか一時間に減らして貰って、その一時間が済むとすぐに薬を呑むそうだ。
旅行中は君の病気である事を知りながら、無理に講演を勧めて大いに悪かった。
何事も自分で経験しないうちは分らぬもので、こうして胃病に悩まされて始めて気がついたが、痛いときに演説などができる訳のものでは、けっしてない。
君があの際奮って演壇に立ったのは実際感心である、と大いに褒めたり詫まったりして来た。
実際橋本の云う通りである。
しかしはたして橋本の推察するほど胃が痛かったら、いかな余も、いくらせっかくだから君出るが好いよを繰返されたって、ついに講演を断ってしまったろう。
二十七
白仁さんから正餐の御馳走になったときは、民政部内の諸君がだいぶ見えた。
みんな揃ってカーキー色の制服を着ていた。
食事が済んで別室へ戻って話していると佐藤が、あしたは朝のうち二百三高地の方を見たら好かろう、案内を出すからと云ってくれる。
余も好かろうと答えた。
すると、大した案内にも及ぶまいと笑いながら相談を掛けた。
我々は一私人で、ただ遊覧に来たのだから、公の職務を帯びている人を使ってはすまないが、せっかく案内をつけてくれると云うなら、小使でも何でも構わない。
非番か閑散の人を一人世話してくれと頼んだ。
これは正直恐れ入った本当の謙遜である。
その時佐藤は懐中から自分の名刺を出して、端の方に鉛筆で何か書いて、じゃ明日の朝八時にこの人が来るから、来たらいっしょに行くが好いと云って分れた。
明日の朝の八時は例の通り強い日が空にも山にも港にも一面に輝いていた。
馬車を棄てて山にかかったときなどは、その強い日の光が毛孔から総身に浸込むように空気が澄徹していた。
相変らず樹のない山で、山の上には日があるばかりだから、眼の向く所は、左右ともに、また前後ともに、どこまでも朗らかである。
その明かな足元から、ばっと音がして、何物だか飛び出した。
案内の市川君が鶉ですと云ったので始めてそうかと気がついたくらい早く、鶉は眼を掠めて、空濶の中に消えてしまった。
その迹を見上げると、遥なる大きい鏡である。
その時我々はもう頂近くにいた。
ここいらへも砲丸が飛んで来たんでしょうなと聞くと、ここでやられたものは、多く味方の砲丸自身のためです。
それも砲丸自身のためと云うより、砲丸が山へ当って、石の砕けたのを跳ね返したためです。
こう云う傾斜のはなはだしい所ですから、いざと云う時に、すぐ遠くから駆け寄せて敵を追い退ける訳に行きませんので、みんなこう云うところへ平たくなって噛りついているのであります。
そうして味方の砲丸が眼の前へ落ちて、一度に砂煙が揚がるとその虚に乗じて一間か二間ずつ這い上がるのですから、勢い砂煙に交る石のために身体中創だらけになるのです。
と市川君は詳しい説明を与えられた。
味方の砲弾でやられなければ、勝負のつかないような烈しい戦は苛過ぎると思いながら、天辺まで上った。
そこには道標に似た御影の角柱が立っていた。
その右を少しだらだらと降りたところが新に土を掘返したごとく白茶けて見える。
不思議な事にはところどころが黒ずんで色が変っている。
これが石油を襤褸に浸み込まして、火を着けて、下から放り抛げたところですと、市川君はわざわざ崩れた土饅頭の上まで降りて来た。
その時遥下の方を見渡して、山やら、谷やら、畠やら、一々実地の地形について、当時の日本軍がどう云う径路をとって、ここへじりじり攻め寄せたかをついでながら物語られた。
不幸にして、二百三高地の上までは来たようなものの、どっちが東でどっちが西か、方角がまるで分らない。
ただ広々として、山の頭がいくつとなく起伏している一角に、藍色の海が二カ処ほど平たく見えるだけである。
余はただ朗かな空の下に立って、市川君の指さす方を眺めていた。
自分でここへ攻め寄せて来た経験をもっている市川君の話は、はなはだ詳しいものであった。
市川君の云うところによると、六月から十二月まで屋根の下に寝た事は一度もなかったそうである。
あるときは水の溜った溝の中に腰から下を濡らして何時間でも唇の色を変えて竦んでいた。
食事は鉄砲を打たない時を見計って、いつでも構わず口中に運んだ。
その食事さえ雨が降って車の輪が泥の中に埋って、馬の力ではどうしても運搬ができなかった事もある。
今あんな真似をすれば一週間経たないうちに大病人になるにきまっていますが、医者に聞いて見ると、戦争のときは身体の組織がしばらくの間に変って、全く犬や猫と同様になるんだそうですと笑っていた。
市川君は今旅順の巡査部長を勤めている。
二十八
旅順の港は袋の口を括ったように狭くなって外洋に続いている。
袋の中はいつ見ても油を注したと思われるほど平らかである。
始めてこの色を遠くから眺めたときは嬉しかった。
しかし水の光が強く照り返して、湾内がただ一枚に堅く見えたので、あの上を舟で漕ぎ廻って見たいと云う気は少しも起らなかった。
魚を捕る料簡は無論無かった。
露西亜の軍艦がどこで沈没したろうかなどと思い浮かべる暇も出なかった。
ただ頭へぴかぴかと、平たい研ぎ澄したものが映った。
余は大和ホテルの二階からもこの晴やかな色を眺めた。
ホテルの玄関を出たり這入ったりするときにもこの鋭い光の断片に眼を何度となく射られた。
それでも単に烈しい奇麗な色と光だなと感ずるだけであった。
佐藤から港内を見せてやるからと案内されるまでは、とうてい港内は人間の這入るところではないくらいに、頭の底で、無意識ながら分別していたらしい。
さあ行くんだと催促された時は、なるほど旅順に来る以上、催促されなければならんはずの場処へ行くんだと思った。
今日の同勢は朝大連から来た田中君を入れて五人である。
港務部を這入るときに水兵がこの五人に礼をした。
兵隊に礼をされたのは生れてこれが初てであった。
佐藤が真先に中へ這入って、やがて出て来たから、もう舟に乗れるのかと思ったら、おい這入れ這入れという。
我々は石垣の上に立っていた。
足元にはすぐ小蒸気が繋いである。
我々の足は、家の方より、むしろ水の方に向いていた。
十分の後五人はまた河野中佐といっしょに家を出てすぐ小蒸気に移った。
海軍の将校が下士や水兵を使うのは実に簡潔明瞭である。
船は河野中佐の云いなり次第の速力で、思う通りの方角へ出た。
港の入口ではここかしこの潜水器へ船の上から空気を送っている。
船の数は十艘近くあった。
みんな波に揺られて上ったり下ったりしている。
我々五人のも固より平ではない。
鏡のように見えた湾の入口がこうまで動いているとは思いがけなかった。
波で身体の調子が浮いたり沈んだりする上に、強い日が頭から射りつけるので、少し胸が悪くなった。
河野さんは軍人だから、そんな事に気のつくはずがない。
ああ云う喞筒で空気を送るのは旧式でね、時々潜水夫を殺してしまいますよと講釈をしている。
田中君はふうんとさも感心したらしく聞いている。
河野さんの話によると、日露戦争の当時、この附近に沈んだ船は何艘あるか分らない。
日本人が好んで自分で沈めに来た船だけでもよほどの数になる。
戦争後何年かの今日いまだに引揚げ切れないところを見てもおおよその見当はつく。
器械水雷なぞになるとこの近海に三千も装置したのだそうだ。
じゃ今でも危険ですねと聞くと、危険ですともと答えられたのでなるほどそんなものかと思った。
沈んだ船を引揚げる方法も聞いて見たが、これは委しく覚えている、百キロぐらいな爆発薬で船体を部分部分に切り壊して、それを六吋の針金で結えて、そうして六百噸のブイアンシーのある船を、水で重くした上、干潮に乗じて作事をしておいて、それから満潮の勢いと喞筒の力で引き揚げるのだそうだ。
しかし我々が眺めていた時は、いつまで立っても、何も揚って来そうになかった。
港の入口は左右から続いた山を掘り割ったように岸が聳えていて、その上に砲台がある。
あすこから探海灯で照らされると、一番困る。
まるで方角も何も分らなくなってしまうと河野さんが高い処を指さした。
やがて小蒸気は煙りを逆に吐いて港内に引返した。
戦闘艦が並んで撃沈されたという前を横に曲ってまた元の石垣の下へ着いた。
向う岸には戦利品のブイや錨がたくさん並んでいる。
あれで約三十万円の価格ですと河野さんが云った。
門の出口には防材の標本が一本寝かしてあった。
その先から尖った剣のようなものが出ていた。
二十九
風呂を注文しておいたら、用意ができたと見えて、向うの部屋で、湯の迸ばしる音が盛にする。
靴を脱いで、スリッパアをつっかけて、戸を開けに掛ると、まだ廊下に出ないうちに給仕がやって来た。
田中さんがいっしょにスキ焼を食べにいらっしゃいませんかと云う案内である。
スキ焼の名はこの際両人に取って珍らしい響がした。
けれども白状すると、毫も食う気にはならなかった。
スキ焼って家で拵えるのかいと尋ねると、いえ近所の料理屋ですと云う。
近所の料理屋はスキ焼よりも一層不思議な言葉である。
ホテルの窓から往来を一日眺めていたって、通行人は滅多に眼に触れないところである。
外へ出て広い路を岡の上まで見通すと、左右の家は数えるほどしか並んでいない。
そうしてそれがことごとく西洋館である。
しかも三分の一は半建のまま雨露に曝されている。
他の三分の一は空家である。
残る三分の一には無論人が住んでいる。
けれどもその主人はたいてい月給を取って衣食するものとしか受け取れない構である。
新市街という名はあるにしても、その実は閑静な寂れた屋敷町に過ぎない。
その屋敷のどこにスキ焼を食わす家があるかと思うと、一種小説に近い心持が起る。
ただ、昼の疲れを忘れるため、胃の不安を逃れるため、早く湯に入って、レースの蚊帳の中で、穏かに寝たかった。
そこで給仕に、今湯に這入りかけているからね、少し時間が取れるかも知れないから、田中さんに、どうか御先へと云ってくれと頼んだ。
すると傍にいる橋本が例のごとく、そりゃいかんよと云い出した。
せっかく誘ってくれるものを、そんな挨拶をする法はないぜと、また長い説教が始まりそうで恐ろしくなったので、仕方がないからうんよしよし、それじゃあね、今湯に這入っていますから、すぐ行きますってそう云ってくれ、よく云うんだよ、分ったかねと念を押してすぐ風呂に飛込んだ。
そうして、少しも弱った顔を見せずにみんなと連れ立って、ホテルを出た。
空はよく晴れて、星が遠くに見える晩であったが、月がないので往来は暗かった。
危のうございますから御案内を致しましょうと云って、ホテルの小僧がついて来た。
草の生えた四角な空地を横切って、瓦斯も電気もない所を、茫漠と二丁ほど来ると、門の奥から急に強い光が射した。
玄関に女が二三人出ている。
我々の来るのを待っていたような挨拶をした。
座敷は畳が敷いて胡坐がかけるようになっていた。
窓を見ると、壁の厚さが一尺ほどあったので、始めて普通の日本家屋でないと云う事が解った。
窓の高さは畳から一尺に足りないから、足をかけると厚い壁の上に乗る事ができる。
女が危のうございますと云った。
外を覗いたら真闇に静かであった。
女は三四人で、いずれも東京の言葉を使わなかった。
田中君はわざと名古屋訛を真似て調戯っていた。
女は御上手だ事とか、御上手やなとか、何とか云って賞めていた。
ところが前触のスキ焼はなかなか出て来ない。
酒を飲まないで、肴を突っついて手持無沙汰であった。
スキ焼があらわれても、胃の加減で旨くも何ともなかった。
天下に何が旨いってスキ焼ほど旨いものは無いと思うがねと田中君が云った。
田中君はスキ焼の主唱者だけあって、大変食べた。
傍で見ていて羨ましいほど食べた。
余はしようがないから畳の上に仰向に寝ていた。
すると女の一人が枕を御貸し申しましょうかと云いながら、自分の膝を余の頭の傍へ持って来た。
この枕では御気に入りますまいとか何とか弁じている。
結構だから、もう少しこっちの方へ出してくれと頼んで、その女の膝の上に頭を乗せて寝ていた。
不思議な事に、橋本も活動の余地がないものと見えて、余と同様の真似をして、向うの方に長くなっている。
枕元では田中君が女を相手に碁石でキシャゴ弾きをやって大騒ぎをしている。
余があまり静だものだから、膝を貸した女は眠ったのだと思って、顋の下をくすぐった。
帰るときには、神さんらしいものが、しきりに泊って行けと勧めた。
門を出るとまた急に暗くなった。
森閑として人の気合のない往来をホテルまで、影のように歩いて来て、今までの派出なスキ焼を眼前に浮かべると、やはり小説じみた心持がした。
三十
朝食に鶉を食わすから来いという案内である。
朝飯の御馳走には、ケムブリジに行ったときたしか浜口君に呼ばれた事があると云う記憶がぼんやり残っているだけだから、大変珍らしかった。
もっとも午前十一時に立つ客に晩餐を振舞う方法は、世界にないんだから仕方がない。
鶉に至っては生れてからあんまり食った事がない。
昔正岡子規に、手紙をもってわざわざ大宮公園に呼び寄せられたとき、鶉だよと云って喰わせられたのが初めてぐらいなものである。
その鶉の朝飯を拵えるからと云って、特に招待するんだから、佐藤は物数奇に違いない。
そうして、好いかほかに何にもない、鶉ばかりだよと念を押した。
いったい鶉を何羽喰わせるつもりか知らんと思って、どこから貰ったのかと聞くと、いや鶉は旅順の名物だ、もう出る時分だからちょうど好かろうとすでに鶉を捕ったような事を云っていた。
白仁さんのところへ暇乞に行ったので少し後れて着くと、スキ焼を推挙した田中君がもう来ていた。
田中君も鶉の御相伴と見える。
佐藤は食卓の準備を見るために、出たり這入ったりする。
立派な仙台平の袴を着けてはいるが、腰板の所が妙に口を開いて、まるで蛤を割ったようである。
そうして、それを後下りに引き摺っている。
それでもって、さあ食おうと云って、次の間の食堂へ案内した。
西洋流の食卓の上に、会席膳を四つ並べて、いよいよ鶉の朝飯となった。
まず御椀の蓋を取ると、鶉がいる。
いわゆる鶉の御椀だから不思議もなく食べてしまった。
皿の上にもいるが、これはたしか醤油で焼かれたようだ。
これも旨く食べた。
第三は何でも芋か何かといっしょに煮られたように記憶している。
しかし遺憾ながら、判然とその味を覚えていない。
これらを漸次に平げると、佐藤はまだあるよと云って、次の皿を取り寄せた。
それも無論鶉には相違なかった。
けれどもただ西洋流の油揚にしてあるばかりで、ややともすると前の附焼と紛れやすかった。
しかもこの紛れやすい油揚はだいぶ仕込んで有ったと見えて、まだ喰い切らない先に御代りが出て来た。
かくのごとく鶉が豊富であったため、つい食べ過ぎた。
余の胃の中に這入った骨だけの分量でもずいぶんある。
大連へ帰って胃の痛みが増したとき、あまり鶉の骨を喰ったせいじゃなかろうかと橋本に相談したら、橋本は全くそうだろうと答えた。
食事が終ってから応接間へ帰って来ると、佐藤が突然、時に君は何かやるそうじゃないかと聞いた。
是公に東京で逢ったとき、是公はにやにや笑いながら、いったい貴様は新聞社員だって、何か書いてるのかと聞いた。
こう云う質問になると、是公も友熊も同程度のものである。
何かやるなら一つ書いて行くが好いと云って、妙な短冊を出した。
それを傍へ置いて話をしていると、一つ書こうじゃないかと催促する。
今考えているところだと弁解すると、ああそうかと云って、また話をする。
しまいに墨を磨って、とうとう手を分つ古き都や鶉鳴くと書いた。
佐藤の事だから何を書いたって解るまいと思ったが、佐藤は短冊を取上げて、何だ年を分つ古き都やと読んでいた。
鶉の腹を抱えたなり、ホテルへ帰って勘定を済まして、停車場へ駆つけると、プラットフォームに大きな網籠があった。
その中に鶉の生きたのがいっぱい這入って雛鳥を詰めたようにむくむく動いている。
発車の時間に少し間があったので、田中君は籠の傍へ行って所有主と談判を始めた。
余が近寄ったときは、一羽が三銭だとか四銭だとか云っていた。
ところへ駅員が来て、宜しゅうございます、この汽車へ積込んで御届け申しますと受合った。
三人はとうとう鶉と別れて汽車へ乗った。
三十一
いよいよ腹が痛んだ。
ゼムを噛んだり、宝丹を呑んだり、通じ薬をやったり、内地から持って来た散薬を用いたりする。
毎日飯を食って呑気に出歩いているようなものの、内心ではこりゃたまらないと思うくらいであった。
大連の病院を見に行ったとき、苦し紛れに、案内をしてくれた院長の河西君に向って、僕も一つ診察を願おうかなと云ったら、河西君はとんだお客様だというような顔もせず、明日の十時頃いらっしゃいと親切に引き受けてくれた。
ところが明日の十時頃になると、診察の事はまるで忘れてしまって、相変らず鳥打帽子を被って、強い日の下を焦げながら、駆け廻った。
橋本が、全体どこまで行くつもりなんだいと聞くから、そうさまあ哈爾賓ぐらいまで行かなくっちゃ義理が悪いようだなと答えたが、その橋本はどうする料簡かちっとも分らない。
考えて見ると、内地ではもう九月の学期が始って、教授連がそろそろ講義に取りかかる頃である。
君はこれからどうするんだと反問して見た。
さあ僕も哈爾賓ぐらいまで行って見たいのだが、何しろ六月から学校を空けているんだからねと決心しかねている。
かように義務心の強い男を唆かして見当違の方角へ連れて行ったのは、全く余の力である。
その代り哈爾賓を見て奉天へ帰るや否や、橋本は札幌から電報をかけられた。
いよいよ催促を受けたと電報を見ながら苦笑しているので、いいや、急ぎ帰りつつありとかけておくさと、他の事だからはなはだ洒落な助言をした。
橋本がいよいよいっしょに北へ行くと云う事になってから、余はすべてのプログラムを橋本に委任してぶらぶらしていた。
橋本は汽車の時間表を見たり、宿泊地の里程を計算したり二三日の間はしきりに手帳へ鉛筆で何か付け込んでいた。
ときどき、おいどうも旨く行かんよ、ここを火曜の急行で出るとするとなどと相談を掛けるから、いいさ火曜がいけなければ水曜の急行にしようと、まるで無学な事を云っているので、橋本も呆れていた。
よく聞いて見て始めて了解したが、実は哈爾賓へ接続する急行は、一週にたった二回しかないのだそうである。
普通の客車でも、京浜間のようにむやみには出ない。
一日にわずか二度か三度らしい。
だから君のように呑気な事を云ったって駄目だよと橋本から叱られた。
なるほど駄目である。
しかも余の駄目は汽車にとどまらない。
地理道程に至っても悉皆真闇であった。
さすが遼陽だの奉天だのと云う名前は覚えているが、それがどの辺にあって、どっちが近いのだかいっさい知らなかった。
その上、これから先どことどこへ泊って、どことどこを通り抜けるのかに至るまで、全く無頓着であったのだから橋本も呆れるはずである。
しかし、おい鉄嶺へは降りるのかと聞いて、いや降りないと答えられれば、はあ、そうかと云ったなりで済ましていた。
別に降りて見たい気にもならなかったからである。
したがって橋本は実に順良な道伴を得た訳で、同時に余は結構な御供を雇った事になる。
いよいよプログラムがきまったので、是公に出立の事を持ち出すと、奉天へ行って、それから北京へ出て、上海へ来て、上海から満鉄の船で大連まで帰って、それからまた奉天へ行って、今度は安奉線を通って、朝鮮へ抜けたら好いだろうとすこぶる大袈裟な助言を与える。
その上、銭が無ければやるよと註釈を付けた。
銭が無くなれば無論貰う気でいた。
しかし余っても困るから、むやみには手を出さなかった。
余は銭問題を離れて、単に時間の点から、この大袈裟な旅行の計画を、実行しなかった。
そのくせ奉天を去っていよいよ朝鮮に移るとき、紙入の内容の充実していないのに気がついて、少々是公に無心をした。
もとより返す気があっての無心でないから、今もって使い放しである。
立つ時には、是公はもとより、新たに近づきになった満鉄の社員諸氏に至るまで、ことごとく停車場まで送られた。
貴様が生れてから、まだ乗った事のない汽車に乗せてやると云って、是公は橋本と余を小さい部屋へ案内してくれた。
汽車が動き出してから、橋本が時間表を眺めながら、おいこの部屋は上等切符を買った上に、ほかに二十五弗払わなければ這入れない所だよと云った。
なるほど表にちゃんとそう書いてある。
専有の便所、洗面所、化粧室が附属した立派な室であった。
余は痛い腹を忘れてその中に横になった。
三十二
トロと云うものに始めて乗って見た。
停車場へ降りた時は、柵の外に五六軒長屋のような低い家が見えるばかりなので、何だか汽車から置き去りにされたような気持であったが、これからトロで十五分かかるんだと聞いて、やっと納得した。
トロは昔軍人の拵えたのを、手入もせずに、そのまま利用しているらしい。
軌道の間から草が生えている。
軌道の外にも草が生えている。
先まで見渡すと、鉄色の筋が二本栄えない草の中を真直に貫ぬいている。
しかし細い筋が草に隠れて、行方知れずになるまで眺め尽しても、建物らしいものは一軒も見当らなかった。
そうして軌道の両側はことごとく高粱であった。
その大きな穂先は、眼の届く限り代赭で染めたように日の光を吸っている。
橋本と余と荷物とは、この広漠な畠の中を、トロに揺られながら、眩しそうに動いた。
トロは頑丈な細長い涼み台に、鉄の車を着けたものと思えば差支えない。
軌道の上を転がす所を、よそから見ていると、はなはだ滑らかで軽快に走るが、実地に乗れば、胃に響けるほど揺れる。
押すものは無論支那人である。
勢いよく二三十間突いておいて、ひょいと腰をかける。
汗臭い浅黄色の股引が背広の裾に触るので気味が悪い事がある。
すると、速力の鈍った頃を見計らって、また素足のまま飛び下りて、肩と手をいっしょにして、うんうん押す。
押さなければいいと思うぐらい、車が早く廻るので、乗ってる人の臓器は少からず振盪する。
余はこのトロに運搬されたため、悪い胃を著るしく悪くした。
車の上では始終ゼムを含んで早く目的地へ着けば好いと思っていた。
勢いよく駆けられれば、駆けられるほどなお辛かった。
それでも台からぶら下げた足を折らなかったのが、まだ仕合せである。
実際酒に酔って腰をかけたまま脛を折っぺしょった人があるそうだ。
見ると橋本の帽子の鍔が風に吹かれてひらひらと靡いている。
余は鳥打の前廂を深く下げてなるべく日に背を向けるようにしていた。
苦しい十五分か廿分の後車はようやく留まった。
軌道の左側だけが、畠を切り開いて平らにしてある。
眼を蔽う高粱の色を、百坪余り刈り取って、黒い砂地にした迹へ、左右に長い平屋を建てた。
壁の色もまだ新しかった。
玄関を這入って座敷へ通ると、窓の前は二間ほどしかない。
その縁に朝顔のような草が繁っているが、絡まる竹も杖もないので、蔓と云わず、葉と云わず、花を包んで雑然と簇がるばかりである。
朝顔の下はすぐ崖で、崖の向うは広い河原になる。
水は崖の真下を少し流れるだけであった。
橋本と余は、申し合せたように立って窓から外を眺めていた。
首を出すと、崖下にも家が一軒ある。
しかし屋根瓦しか見えない。
支那流の古い建物で、廻廊のような段々を藉りて、余のいる部分に続いているらしく思われる。
あれは何だいと聞いて見た。
料理場と子供を置く所になっていますと答えた。
子供とは酌婦芸妓の類を指すものだろうと推察した。
眼の下に橋が渡してある。
厚くはあるが幅一尺足らずの板を八つ橋に継いだものに過ぎない。
水はただ砂を洗うほどに流れている。
足の甲を濡らしさえすれば徒歩渉るのは容易である。
橋本の後に食付いて手拭をぶら下げて、この橋を渡った時、板の真中で立ち留まって、下を覗き込んで見たら、砂が動くばかりで水の色はまるでなかった。
十里ほど上に遡ぼると鮎が漁れるそうだ。
余は汽車の中で鮎のフライを食って満洲には珍らしい肴だと思った。
おそらくこの上流からクーリーが売りに来たものだろう。
三十三
足駄を踏むとざぐりと這入る。
踵を上げるとばらばらと散る。
渚よりも恐ろしい砂地である。
冷たくさえなければ、跣足になって歩いた方が心持が好い。
俎を引摺っていては一足ごとに後しざるようで歯痒くなる。
それを一町ほど行って板囲の小屋の中を覗き込むと、温泉があった。
大きい四角な桶を縁まで地の中に埋け込んだと同じような槽である。
温泉はいっぱい溜っていたが、澄み切って底まで見える。
いつの間に附着したものやら底も縁も青い苔で色取られている。
橋本と余は容赦なく湯の穴へ飛び込んだ。
そうして遠くから見ると、砂の中へ生埋にされた人間のように、頭だけ地平線の上に出していた。
支那人の中には、実際生埋になって湯治をやるものがある。
この河原の幅は、向うに見える高粱の畠まで行きつめた事がないからどのくらいか分らないが、とにかく眼が平になるほど広いものである。
その平らなどこを、どう掘っても、湯が湧いて来るのだから、裸体になって、手で砂を掻き分けて、凹んだ処へ横になれば、一文も使わないで事は済む。
その上寝ながら腹の上へ砂を掛ければ、温泉の掻巻ができる訳である。
ただ砂の中を潜って出る湯がいかにも熱い。
じくじく湧いたものを、大きな湯槽に溜めて見ると、色だけは非常に奇麗だが、それに騙されてうっかり飛び込もうものなら苛い目に逢う。
橋本と余は、勢いよく浴衣を抛げて、競争的に毛脛を突込んで、急に顔を見合せながら縮んだ事がある。
大の男がわざわざ裸になって、その裸の始末をつけかねるのはきまりが好いものじゃないから、両人は顔を見合せて苦笑しながら小屋を飛び出して、四半丁ほど先の共同風呂まで行って、平気な風にどぼりと浸った。
風呂から出て砂の中に立ちながら、河の上流を見渡すと、河がぐるりと緩く折れ曲っている。
その向う側に五六本の大きな柳が見える。
奥には村があるらしい。
牛と馬が五六頭水を渉って来た。
距離が遠いので小さく動いているが、色だけは判然分る。
皆茶褐色をして柳の下に近づいて行く。
牛追は牛よりもなお小さかった。
すべてが世間で云う南画と称するものに髣髴として面白かった。
中にも高い柳が細い葉をことごとく枝に収めて、静まり返っているところは、全く支那めいていた。
遠くから望んでも日本の柳とは趣が違うように思われた。
水は柳の茂るところで見えなくなっているが、なおその先を辿って行くと、たちまち眼にぶつかるような大きな山脈がある。
襞が鋭く刻まれているせいか、ある部分は雪が積ったほど白く映る。
そのくらいに周囲はどす黒かった。
漢語には崔嵬とか※※とか云って、こう云う山を形容する言葉がたくさんあるが、日本には一つも見当らない。
あれは何と云う山だろうと傍にいる大重君に尋ねたら、大重君も知らなかった。
大重君は支那語の通訳として橋本に随いて蒙古まで行った男である。
余の質問を受けるや否やどこかへ消えて無くなったが、やがて帰って来て、高麗城子と云うんだそうですと教えてくれた。
土人を捕まえて聞いて来たのだそうである。
固より支那音で教わったのだが、それは忘れてしまった。
濡れ手拭を下げて、砂の中をぼくぼく橋の傍まで帰って来ると、崖の上から若い女が跣足で降りて来た。
橋は一尺に足らぬ幅だからどっちかで待ち合せなければなるまいと思ったが、向うはまだ土堤を下りきらないので、こっちは躊躇せず橋板に足をかけた。
下駄を二三度鳴らして、一間ほど来たとき、女も余と同じ平面に立った。
そこで留まると思いのほか、ひらひらと板の上を舞うように進んで余に近づいた。
余と女とは板と板の継目の所で行き合った。
危ないよと注意すると、女は笑いながら軽い御辞儀をして、余の肩を擦って行き過ぎた。
三十四
明日は梨畑を見に行くんだと橋本から申し渡されたので、宜しいと受合った上、床についたようなものの実を云うと例のトロで揺られるのが内心苦になった。
そのせいでもなかろうが、容易に寝つかれない。
橋本はもう鼾をかいている。
しかも豪宕な鼾である。
緞子の夜具の中から出るべき声じゃない。
まして裾の方には金屏風が立て回してある。
明日になると、空が曇って小雨が落ちている。
窓から首を出して、一面に濡れた河原の色を眺めながら、おれは梨畑をやめて休養しようかしらと云い出した。
橋本は合羽ももっているし、オヴァーシューも用意して来ているのでなかなか景気が好い。
ことに農科の教授だけあって、梨を見たがったり、栗を見たがったり、豚や牛を見たがる事人一倍である。
早速用意をして大重君を伴れて出て行った。
余はただつくねんとして、窓の中に映る山と水と河原と高粱とを眼の底に陳列さしていた。
薄く流れる河の厚さは昨日と同じようにほとんど二三寸しかないが、その真中に鉄の樋竹が、砂に埋れながら首を出しているのに気がついたので、あれは何だいと下女に聞いて見た。
あれはボアリングをやった迹ですと下女が答えた。
満洲の下女だけあって、述語を知っている。
ついこの間雨が降って、上の方から砂を押し流して来るまでは、河の流れがまるで違った見当を通っていたので、あすこへ湯場を新築するつもりであったのだと云う。
河の流れが一雨ごとに変るようでは、滅多なところへ風呂を建てる訳にも行くまい。
現に窓の前の崖なども水にだいぶん喰われている。
そのうち雨が歇んだ。
退屈だから横になった。
約十分も立ったと思う頃、下女がまたやって来て、ただいま駅から電話がかかりまして、これから梨畑へおいでになるなら、駅からトロを仕立てますがと云う問い合せである。
雨が歇んだので、座敷に寝ている口実はもう消滅してしまったが、この上トロを仕立てられては敵わないと思って、わざわざ晴かかった空を見上げて、八の字を寄せた。
今から行って間に合うのかなと尋ねると、器械トロだから汽車と同じぐらい早いんだと云う話である。
胃は固より切ないほど不安であるが、汽車と同じ速度の器械トロなるものにも、心得のためちょっと乗って見たいような気がしたので、つい手軽に仕度を始めた。
すると隣の部屋に泊っていた御客さんが三四人、十一時の汽車で大連へ行くとか云って、同じように仕度を始めた。
それを送る下女も仕度を始めた。
したがって同勢はだいぶんになった。
その中に昨日橋の途中で行き合った女がいた。
それが余と尻合せに同じ車に乗る事になった。
互に尻を向けているので、別段口も利かなかった。
顔もよくは見なかった。
が、その言葉だけはたしかに聞いた。
しかも支那語である。
固より意味は通じない。
しかし盛んにクーリーをきめつけていた。
その達弁なのはまた驚くばかりである。
昨日微笑しながら御辞儀をして、余の傍を摺り抜けた女とはどうしても思えなかった。
この女は我々の立つ前の晩に、始めて御給仕に出て来た。
洋灯の影で御白粉をつけている事は分ったが、依然として口は利かなかった。
苦しい十五分の後車はまた停車場に着いた。
御客はすぐ汽車に乗って大連の方へ去った。
下女はみんな温泉宿へ帰った。
余は独り構内を徘徊した。
いわゆる器械トロなるものは姿さえ見せない。
そこへ駅員が来て、今松山を出たそうですからと断った。
その松山は遥向うにある。
余は軌道の上に立って、一直線の平たい路を視力のつづく限り眺めた。
しかしトロの来る気色はまるでなかった。
三十五
宿屋の者ともつかず、駅の者ともつかない洋服を着た男がついて来た。
この男の案内で村へ這入ると、路は全く砂である。
深さは五六寸もあろうと思われた。
土で造った門の外に女が立っていたが、我々の影を見るや否や逃げ込んだ。
手に持った長い煙管が眼についた。
犬が門の奥でしきりに吠える。
そのうちに村は尽きて松山にかかった。
と云うと大層だが、実は飛鳥山の大きいのに、桜を抜いて松を植替えたようなものだから、心持の好い平庭を歩るくと同じである。
松も三四十年の若い木ばかり芝の上に並んでいる。
春先弁当でも持って遊に来るには至極結構だが、ところが満洲だけになお珍らしい。
余は痛い腹を抑えて、とうとう天辺まで登った。
するとそこに小さな廟があった。
正面に向って、聯などを読んでいると、すぐ傍で梭の音がする。
廟守でもおりそうなので、白壁を切り抜いた入口を潜って中へ這入った。
暗い土間を通り越して、奥を覗いて見たら、窓の傍に機を据えて、白い疎髯を生やした爺さんが、せっせと梭を抛げていた。
織っていたものは粗い白布である。
案内の男が二言三言支那語で何か云うと、老人は手を休めて、暢気な大きい声で返事をする。
七十だそうですと案内が通訳してくれた。
たった一人でここにいて、飯はどうするのだろうと、ついでに通訳を煩わして見た。
下の家から運んでくるものを食っているそうであった。
その下の家と云うのがすなわち梨畠の主人のところだと案内は説明した。
やがて、山を降りて梨畠へ行こうとしたが、正門から這入るのが面倒なので、どうです土堤を乗り越そうじゃありませんかと案内が云い出した。
余はすぐ賛成して蒲鉾形の土塀を向側へ馳せ下りた。
胃は実に痛かった。
樹の下を潜って二十間も来ると、向うの方に橋本始め連中が床几に腰をかけて梨を食っている。
腕に金筋を入れた駅長までいっしょである。
余も同勢に交って一つ二つ食った。
これは胃の中に何か入れると、一時痛みが止むからである。
そうしてまた畠の中をぐるぐる歩き出した。
ここの梨はまるで林檎のように赤い色をしている。
大きさは日本の梨の半分もない。
しかし小さいだけあって、鈴なりに枝を撓わして、累々とぶら下っているところがいかにもみごとに見える。
主人がその中で一番旨い奴を――何と云ったか名は思い出せないが、下男に云いつけて、笊に一杯取り出さして、みんなに御馳走した。
主人は背の高い大きな男で、支那人らしく落ちつきはらって立っている。
案内の話では二千万とか二億万とかの財産家だそうだが、それは嘘だろう。
脂の強い亜米利加煙草を吹かしていた。
梨にも喰い飽きた頃、橋本が通訳の大重君に、いろいろ御世話になってありがたいから、御礼のため梨を三十銭ほど買って帰りたいと云うような事を話してくれと頼んでいる。
それを大重君がすこぶる厳粛な顔で支那語に訳していると、主人は中途で笑い出した。
三十銭ぐらいなら上げるから持って御帰りなさいと云うんだそうである。
橋本はじゃ貰って行こうとも云わず、また三十銭を三十円に改めようともしなかった。
宿へ帰ったら、下女がある御客さんといっしょに梨畠へ行って、梨を七円ほど御土産に買って帰った話をして聞かせた。
その時橋本は、うんそうか、おれはまた三十銭がた買って来ようと思ったら、三十銭ぐらいなら進上すると云ったよと澄ましていた。
三十六
壁と云うと鏝の力で塗り固めたような心持がするが、この壁は普通の泥が天日で干上ったものである。
ただ大地と直角にでき上っている所だけが泥でなくって壁に似ている。
その上部には西洋の御城のように、形儀よく四角な孔をいくつも開けて、一ぱし櫓の体裁を示している。
しかし一番人の注意を惹くのは、この孔から見える赤い旗である。
旗の数は孔の数だけあって、孔の数は一つや二つではないから、ちょっと賑かに思われる。
始めてこの景色が眼に触れた時には、村のお祭りで、若いものが、面白半分に作り物でも拵えたのじゃなかろうかと推測した。
ところがこの櫓は馬賊の来襲に備えるために、梨畑の主人が、わざわざ家の四隅に打ち建てたのだと聞いて、半分は驚いたが、半分はおかしかった。
ただなぜあんな赤い旗を孔の間から一つずつ出しているかが、さっぱり分らなかった。
裏側へ廻って、段々を上って見て、始めてこの赤旗の一つが一挺の鉄砲を代表している事を知った。
鉄砲は博物館にでもありそうな古風な大きいもので、どれもこれも錆を吹いていた。
弾丸を込めても恐らく筒から先へ出る気遣はあるまいと思われるほど、安全に立てかけられていた。
もっとも赤い旗だけは丁寧に括りつけてある。
そうしてちょうど壁孔から外に見えるくらいな所にぶら下げてある。
番兵は汚ない顔を揃えて、後の小屋の中にごろごろしていた。
馬賊の来襲に備えるために雇われたればこそ番兵だが、その実は、日当三四十銭の苦力である。
櫓を下りて門を出る前に、家の内部を観る訳に行くまいかと通訳をもって頼んだら、主人はかぶりを振って聞かなかった。
女のいる所は見せる訳に行かないと云うんだそうである。
その代り客間へ案内してやろうと番頭を一人つけてくれた。
その客間というのは往来を隔てて向う側にある一軒建の家であった。
外には大きな柳が、静な葉を細長く空に曳いていた。
長屋門を這入ると鼠色の騾馬が木の株に繋いである。
余はこの騾馬を見るや否や、三国志を思い出した。
何だか玄徳の乗った馬に似ている。
全体騾馬というのを満洲へ来て始めて見たが、腹が太くって、背が低くって、総体が丸く逞しくって、万事邪気のないような好い動物である。
橋本に騾馬の講義を聞くと、まず騾と※※の区別から始めるので、真率な頭脳をただいたずらに混乱させるばかりだから、黙って鞍のない裸姿を眺めていた。
騾馬は首を伏せてしきりに短い草を食っていた。
門の突き当りがいわゆる客間であるが、観音扉を左右に開けて這入るところなぞは御寺に似ている。
中は汚ないものであった。
客でも招待するときには、臨時に掃除をするのかと聞いたら、そうだと答えていた。
主人に挨拶をしてまた松山を抜けたら、松の間に牛が放してあった。
駅長が行く行く初茸を取った。
どこから目付け出すか不思議なくらい目付け出した。
橋本も余も面白半分少し探して見たが、全く駄目であった。
山を下るとき、おい満洲を汽車で通ると、はなはだ不毛の地のようであるが、こうして高い所に登って見ると、沃野千里という感があるねと、橋本に話しかけたが、橋本にはそんな感がなかったと見えて、別に要領の好い返事をしなかった。
余の沃野千里は全く色から割り出した感じであった。
松山の上から見渡すと、高い日に映る、茶色や黄色が、縞になったり、段になったり、模様になったり、霞で薄くされて、雲に接くまで、一面に平野を蔽うている。
満洲は大きな所であった。
宿へ帰ったら、御神さんが駅長の贈って来た初茸を汁にして、晩に御膳の上へ乗せてくれた。
それを食って、梨畑や、馬賊や、土の櫓や、赤い旗の話しなぞをして寝た。
三十七
立つ用意をしているところへ御神さんが帳面を持って出て来た。
これへ何か書いて行って下さいと云う。
御神さんは余を二つ接ぎ合せたように肥えている。
それで病気だそうだ。
始めはどこのものだか分らなかったが、御神さんと知って、調子の下女と違っているのに驚いた。
御神さんはその体格の示すごとき好い女であった。
どうしてあんなすれっからしの下女を使いこなすかが疑問になったくらいである。
帳面を前へ置いて、どうぞと手を膝の上に重ねた。
その膝の厚さは八寸ぐらいある。
帳面を開けると、第一頁に林学博士のH君が「本邦の山水に似たり」と揮ってしまったあとである。
その次にはどこどこ聯隊長何のなにがしと書いてある。
宿帳だか、書画帖だか判然しないものの、第三頁に記念を遺す事に差し逼って来た。
橋本は帳面を見るや否や、向を向いて澄ましている。
余は仕方がないから、書くには書くが、少し待ってくれと頼んだ。
すると御神さんが、そうおっしゃらずに、どうぞどうぞと二遍も繰返して御辞儀をする。
無論嘘を吐く気は始めからないのだが、こう拝むようにされて書いてやるほどの名筆でもあるまいと思うと、困却と慚愧でほとほと持て余してしまう。
時に橋本が例のごとく口を利いてくれた。
この人は嘘を云う男じゃないから、大丈夫ですよ今に何か書きますよと笑っている。
余はまた世間話をしながら、その間に発句でも考え出さなければならなくなった。
同情してくれる人はだいぶあると思うから白状するが、旅をして悪筆を懇望されるほど厄介な事はない。
それも句作に熱心で壁柱へでも書き散らしかねぬ時代ならとにかく、書く材料の払底になった今頃、何か記念のためにと、短冊でも出された日には、節季に無心を申し込まれるよりも苛い。
大連を立つとき、手荷物を悉皆革鞄の中へ詰め込んでしまって、さあ大丈夫だと立ち上った時、ふと気がついて見ると、化粧台の鏡の下に、細長い紙包があった。
不思議に思って、折目を返して中を改めると、短冊である。
いつ誰が持って来て載せたものか分らないが、その意味はたいてい推察ができる。
俳句を書かせようと思って来たところが、あいにく留守なので、また出直して頼む気になって、わざと短冊だけ置いて行ったに違ない。
余はこの時化粧台から紙包を取りおろして、革鞄の中へ押し込んで、ホテルを出た。
この短冊はいまだに誰のものか分らない。
数は五六枚で雲形の洒落たものであったが、朝鮮へ来て、句を懇望されるたびに、それへ書いてやってしまったから今では一枚も残っていない。
長春の宿屋でも御神さんに捕まった。
この御神さんは浜のものだとか云って、意気な言葉使いをしていたが、新しい折手本を二冊出して、これへどうぞ同なじものを二つ書いて下さいと云った。
同じでなければいけないのかと尋ねると、ええと答える。
その理由は、夫婦別れをしたときに、夫婦が一冊ずつ持っている事ができるためだそうだ。
こう書いて行くと、朝鮮の宴会で絖を持出された事まで云わなくてはならないから、好い加減に切り上げて、話を元へ戻して、肥った御神さんの始末をつけるが、余は切ない思いをして、汽車の時間に間に合うように一句浮かんだ。
浮かぶや否や、帳面の第三頁へ熊岳城にてと前書をして、黍遠し河原の風呂へ渡る人と認めて、ほっと一息吐いた。
そうして御神さんの御礼も何も受ける暇のないほど急いでトロに乗った。
電話の柱に柳の幹を使ったのが、いつの間にか根を張って、針金の傍から青い葉を出しているのに気がついて、あれでも句にすればよかったと思った。
三十八
窓から覗いて見ると、いつの間にか高粱が無くなっている。
先刻までは遠くの方に黄色い屋根が処々眺められたが、それもついに消えてしまった。
この黄色い屋根は奇麗であった。
あれは玉蜀黍が干してあるんだよと、橋本が説明してくれたので、ようやくそうかと想像し得たくらい、玉蜀黍を離れて余の頭に映った。
朝鮮では同じく屋根の上に唐辛子を干していた。
松の間から見える孤つ家が、秋の空の下で、燃え立つように赤かった。
しかしそれが唐辛子であると云う事だけは一目ですぐ分った。
満洲の屋根は距離が遠いせいか、ただ茫漠たる単調を破るための色彩としか思われなかった。
ところがその屋根も高粱もことごとく影を隠してしまって、あるものはただの地面だけになった。
その地面には赤黒い茨のような草が限りなく生えている。
始めは蓼の種類かと思って、橋本に聞いて見たら橋本はすぐ冠を横に振った。
蓼じゃない海草だよと云う。
なるほど平原の尽きる辺りを、眼を細くして、見究めると、暗くなった奥の方に、一筋鈍く光るものがあるように思われる。
海辺かなと橋本に聞いて見た。
その時日はもう暮れかかっていた。
際限もなく蔓っている赤い草のあなたは薄い靄に包まれて、幾らか蒼くなりかけた頃である。
あからさまに目に映るすぐ傍をよくよく見つめると、乾いた土ではない。
踏めば靴の底が濡れそうに水気を含んでいる。
橋本は鹹気があるから穀物の種がおろせないのだと云った。
豚も出ないようだねと余は橋本に聞き返した。
汽車に乗って始めて満洲の豚を見たときは、実際一種の怪物に出逢ったような心持がした。
あの黒い妙な動物は何だと真面目に質問したくらい、異な感じに襲われた。
それ以来満洲の豚と怪物とは離せないようになった。
この薄暗い、苔のように短い草ばかりの、不毛の沢地のどこかに、あの怪物はきっと点綴されるに違ないと云う気がなかなか抜けなかった。
けれども一匹の怪物に出逢う前に、日は全く暮れてしまった。
目に余る赤黒い草の影はしだいに一色の夜に変化した。
ただ北の方の空に、夕日の名残のような明るい所が残ったのである。
そうしてその明るい雲の下が目立って黒く見える。
あたかも高い城壁の影が空を遮って長く続いているようである。
余は高いこの影を眺めて、いつの間にか万里の長城に似た古迹の傍でも通るんだろうぐらいの空想を逞ゅうしていた。
すると誰だかこの城壁の上を駆けて行くものがある。
はてなと思ってしばらくするうちに、また誰か駆けて行く。
不思議だと覚って瞬もせず城壁の上を見つめていると、また誰か駆けて行く。
どう考えても人が通るに違いない。
無論夜の事だから、どんな顔のどんな身装の人かは判然しないが、比較的明かな空を背景にして、黒い影法師が規則正しく壁の上を馳け抜ける事は確である。
余は橋本の意見を問う暇もないほど面白くなって、一生懸命に、眼前を往来するこの黒い人間を眺めていた。
同時に汽車は、刻々と城壁に向って近寄って来た。
それが一定の距離まで来ると、俄然として失笑した。
今までたしかに人間だと思い込んでいたものは、急に電信柱の頭に変化した。
城壁らしく横長に続いていたのは大きな雲であった。
汽車は容赦なく電信柱を追い越した。
高い所で動くものがようやく眼底を払った。
三十九
狭い小路の左右は煉瓦の塀で、ちょっと見ると屋敷町のように人通りが少い。
それを二十間ほど来て左手の門を這入った。
ただ偶然に這入ったのだから、家の名も主人の名も知るはずがない。
今から考えると、小路のうちには同じような家が何軒となく並んでいて、同じような門がまたいくつでも開いているのだから、とくにここだけを覗くべき誘致は少しもなかったのである。
余はただ案内者の後に跟いて何の気なしに這入った。
その案内者もまた好い加減に這入った。
案内者は青林館と云う宿の主人である。
かつて二葉亭といっしょに北の方を旅行して、露西亜人に苛い目に逢ったと話した。
門を這入ると、右も室、突き当りも室である。
左りも隣の壁に隔てられなければ室であるべきはずなのだから、中の一筋だけが頭の上に空を仰ぐ訳になる。
そこに立って右手の部屋を覗くと、狭い路次から浅草の仲店を看るような趣がある。
実際仲店よりも低く小さい部屋であった。
その一番目には幕が垂れていて、中は判然と分らなかったが、次を覗いて見る段になって驚いた。
二畳敷ぐらいの土間の後の方を、上り框のように、腰をかけるだけの高さに仕切って、そこに若い女が三人いた。
三人共腰をかけるでもなく、寝転ぶでもなく、互に靠れ合って身体を支えるごとくに、後の壁をいっぱいにした。
三人の着物が隙間なく重なって、柔かい絹をしなやかに圧しつけるので、少し誇張して形容すると、三人が一枚の上衣を引き廻しているように見える。
その間から小さな繻子の靴が出ていた。
三人の身体が並んでいる通り、三人の顔も並んでいた。
その左右が比較的尋常なのに引きかえて、真中のは不思議に美しかった。
色が白いので、眉がいかにも判然していた。
眼も朗かであった。
頬から顎を包む弧線は春のように軟かった。
余が驚きながら、見惚れているので、女は眼を反らして、空を見た。
余が立っている間、三人は少しも口を利かなかった。
青林館の主人は自分ほどこの女に興味がなかったと見えて、好加減に歩を移して、突き当りの部屋に這入った。
そこも狭い土間で、中央には普通の卓上が据えてあった。
それを囲んで三人の男が食事をしている。
皿小鉢から箸茶碗に至るまで汚ない事はなはだしい。
卓に着いている男に至ってはなおさら汚なかった。
まるで大連の埠頭で見る苦力と同様である。
余はこの体裁を一見するや否や、台所で下男が飯を掻き込んでるんじゃなかろうかと考えた。
ところがつい隣の室でしきりに音楽をやっている。
今見た美人のいる所とはつい三間とは離れていない。
実に矛盾な感じである。
余は二歩ばかり洋卓を遠退いて、次の室の入口を覗いて見た。
そうしてまた驚いた。
向の壁に倚添えて一脚の机を置いて、その右に一人の男が腰をかけている。
その左に女が三人立っている。
その前には十二三の少女が男の方を向いて立ている。
少し離れて室の入口には盲目が床几に腰をかけている。
調子の高い胡弓と歌の声はこの一団から出るのである。
歌の意味も節も分らない余の耳にはこの音楽が一種異様に凄じい響を伝えた。
机の右にいる男が、右の手に筮竹のような物を持って、時々机の上を敲くと同時に左の掌に八橋と云う菓子に似た竹の片を二つ入れて、それをかちかちと打合せながら、歌の調子を取る。
趣向はスペインの女の用いるカスタネットに似ているが、その男の顔を見ると、アルハンブラの昔を思い出すどころではない。
蒼黒く土気づいた色を、一心不乱に少女の頭の上に乗しかけるように翳して、腸を絞るほど恐ろしい声を出す。
少女はまた瞬きもせず、この男の方を見つめて、細い咽喉を合している。
それが怖い魔物に魅入られて身動きのできない様子としか受取れない。
盲目は彼の眼の暗いごとく、暗い顔をして、悲しい陰気な、しかも高い調子の胡弓を擦り続けに擦っている。
左の方に立っている女の一人が余を見た。
それが忌むべき藪睨であった。
日の目の乏しくって暮やすい室のうちで、この怪しい団体はこの怪しい音楽を奏して夢中である。
余は案内の袖を引いてすぐ外へ出た。
四十
橋本は遠い所へ豚を見に行った。
何でも市街から一里余もあるとか云う話である。
こんな痛い腹を抱えて今更豚でもあるまいと思って止めた。
その代りにそこいらをぶらつくべく主人といっしょに馬車で出た。
主人がまあ遼河を御覧なさいと云う。
馬車を乗り棄てて河岸へ出ると眼いっぱいに見えた。
色は出水の後の大川に似ている。
灰のように動くものが、空を呑む勢で遠くから流れて来る。
哈爾賓に行く途中で、木戸さんに聞いた話だが、満洲の黄土はその昔中央亜細亜の方から風の力で吹き寄せたもので、それを年々河の流れが御叮嚀に海へ押出しているのだそうである。
地質学者の計算によると、五万年の後には今の渤海湾が全く埋ってしまう都合になっていますと木戸君が語られた。
河辺に立って岸と岸との間を眺めていると、水の量が泥の量より少いくらい濁ったものが際限なく押し寄せて来る。
五万年は愚か、一二カ月で河口はすっかり塞がってしまいそうである。
それでも三千噸ぐらいな汽船は苦もなくのそのそ上って来ると云うんだから支那の河は無神経である。
人間に至っては固より無神経で、古来からこの泥水を飲んで、悠然と子を生んで今日まで栄えている。
サンパンと云う船がここかしこに浮かんで形に合しては大き過ぎるぐらいな帆を上げている。
帆の裏には細い竹を何本となく横に渡してあるから、帆に角が立つのみか、捲き上げる時にはがらがら鳴る。
日本では見られない絵である。
その間を横切って向岸へ着いた。
向岸には何にもない。
ただ停車場が一つある。
北京への急行が出るとか云うので、客がたくさん列車に乗り込んでいる。
下等室を覗いたら、腰かけも何もない平土間に、みんなごろごろ寝ころんでいた。
帰りにはサンパンに乗って、泥の流を押し渡った。
風が出ると難儀だそうである。
春の初めには山のような氷が流れてくる。
先が見えないので、氷と氷の間に挟まれると命を取られる。
ある時氷に路を塞がれて仕方がないから、船を棄てて氷の上へ上って、乗り捨てた船を引き摺って向う側へ出て、ようやくまた船に乗ったと云う話がある。
これは主人の実歴談である。
サンパンは妙なところへ着いた。
岸は芦を畳んでできている。
石垣ではなくて芦垣である。
こうしなければ水の力で浚われる恐れがあると云う。
芦はいくらでも水を吸い込んで平気でいるから無難だと見える。
細い小路を突き抜けると、支那町の真中へ出た。
妙な臭がする。
先刻から胸が痛むのでポッケットから、粉薬を出して飲もうとするがあいにく水がない。
一滴の飲料も用いずに散薬を呑み下す方法は、その後苦し紛れに発見した分別だが、この時はまだそれほど老練な患者でないので、拝むように主人を煩わした。
主人はええ訳はありませんと云いつつも、ずいぶん烈しく引張り廻した上、ほとんど苦しくって道傍に竦みそうになった頃、ようやく一軒の店へ這入った。
盆栽などの据えてある中庭を通り抜けて角の一部屋へ案内されたが、水はなかなか出る様子がない。
そのうち、こちらへと云ってまた二階へ招ぜられた。
虫のように段々を上って廊下から室へ這入ると、日本人が二三人事務を執っている。
さあどうぞと椅子を与えられたので、挨拶をして始めて解ったが、水を貰いに飛び込んだところは日清豆粕会社で、さあどうぞと迎えてくれたのは、社員の倉田君である。
倉田君は固より日本から漫遊もしくは視察の目的をもってわざわざ営口までやって来たものと余を信じている。
服薬のために通りがかりのついでながら、日清豆粕会社の奥二階へ水を貰いに立ち寄ったと判じようはずがない。
そこで水は容易に出ない。
湯も出ない。
今御茶を上げると云って、ボイがしきりに支度をしている。
余は青林館の主人が恨めしくなった。
けれども倉田君に対しては相応に体裁を具えた応対をしなければならない。
豆が汽車で大連へ出るようになってから、河を下ってくる豆の量が減ったでしょうかてような事を、真面目くさって質問していた。
四十一
橋本が博士になったり、ならなかったりした話がある。
大連の大和ホテルにいる時分、満鉄から封書が届いた。
その表に橋本農学博士殿と叮嚀に書いてあったのを乙に眺めながら、これだから厭になっちまうと云って余の方を向いて苦笑したから、先生は学者ぶって、むやみに博士呼わりをされるのを苦にする意味なんだろうと鑑定して、取り合ってやらなかった。
実際こんな事が苦になるくらいなら、始めから博士にならなければ好いと思ったからである。
その時はそれですんだ。
余は橋本をもって固より農学博士と信じていた。
是公もそう信じていた。
現にある人に向って橋本って農学博士さと説明しているのを聞いた。
余に至っては、いつかの新聞で、本人の博士になった事をたしかに承知した記憶がある。
それで大連を立って北に行く時も、栄誉ある博士の同伴者だと云う自覚がちゃんとあった。
ところが毎日毎晩一つ鍋のものを突ついて進行しているうちに、何かの拍子だったが、いやおれは博士じゃないよと急に橋本が云い出した。
その時はいくら本人が証明したってなるほどと云う気になれないくらい驚いた。
第一、十年近くも大学の教授をしている男を、博士にしない法はないと考えてる上、どうしても新聞でその授与式を拝見したとしか思われないんだから、余もできるだけは抗弁したが、やっぱり博士じゃないと頑固を張って云う事を聞かない。
余もやむをえず、そうかと云って我を折った。
この時から橋本は気の毒ながらとうとう、ただの人間になってしまった。
けれども、世間には迂濶ものが多いと見えて、どこへ行っても橋本博士、橋本博士と云う。
新聞を折々読むときっと橋本博士と出ている。
しまいにはおいまた博士だよと注意するのが面倒になった。
橋本も澄し返っている。
もっとも澄まし返さなくったって、一々博士じゃありませんと訂正して歩く訳に行くものじゃない。
こう云う余にも覚がある。
釜山から馬関へ渡る船中で、拓殖会社の峰八郎君の妻君に逢ったとき、八郎君は真面目な顔をして、これは夏目博士と引き合した。
すると妻君が御名前はかねて伺っておりますと叮嚀に御辞儀をされるから、余もやむをえず、はあと云ったなり博士らしく挨拶をした。
だから橋本が博士に慣れ切って満洲を朝鮮へ渡るに何も不思議はない。
余もいったんは彼の博士を撤回したようなものの、日を重ねるに従ってまた何だか博士らしい気持がし出した。
それで道中つつがなく安奉線を通って、安東県までやって来た。
ところがここで橋本の博士がちょっと気に食わなくなった。
安東県の宿屋の番頭がどう云う不料簡か、橋本博士御手荷物のうちと云う札を余の革鞄にぴたぴた結いつけてしまった。
腹が立ったが面倒だからそのままにしておくと次の宿屋で橋本と分れる事になって、向うの手荷物を停車場へ運び出す際に、余の奇麗な革鞄を橋本のものだと思い込んで、宿屋の小僧がずんずん停車場まで持って行ってしまった。
余は冗談じゃないぜと云った。
橋本は面白がって笑っていた。
それだから、また博士にならない。
四十二
ここだと云うので、降りたには降りたが、夜の事だから方角も見当もまるで分らない。
頼りに思う停車場は縁日の夜店ほどに小さいものであった。
その軒を離れるとなおさら淋しい。
空には星があるが、高い所に己と光るのみで、足元の景気にはならなかった。
汽車路を通って行くと、鉄軌の色が前後五六尺ばかり、提灯の灯に照らされて、露のごとく映ってはまた消えて行く。
そのほかに何も見えなかった。
やがて右へ切れて堤のようなものをだらだらと下りる心持がしたが、それも六七歩を超えると、靴を置く土の感じが不断に戻ったので、また平地へ出たなと気がついた。
すると虫の音が聞えだした。
足元で少しばかり鳴いてるような家庭的なものではない。
虫の音だと云う分別が出た時には、その声がもう左右前後に遠く続いていた。
我々は一つの提灯を先にして、平原にはびこる無尽蔵の虫の音に包まれながら歩いた。
今考えると、なかなか風流である。
筆を執って書いていても、魏叔子の大鉄椎の伝にある曠野の景色が眼の前に浮んでくる。
けれども歩いている途中は実に苦しかった。
飯の菜に奴豆腐を一丁食ったところが、その豆腐が腹へ這入るや否や急に石灰の塊に変化して、胃の中を塞いでいるような心持である。
腮の奥から締めつけられて、やむをえない性質の唾液が流れ出す。
それに誘われるままにしておくと、嘔きたくなる。
せめて口中の折合でもと思って、少し抵抗しにかかると、足が竦んで動けなくなる。
余は幾度か虫の音の中に苦しい尻を落ちつけようかと思った。
ただ橋本に心配させるのが、気の毒である。
支那の荷持に野糞を垂れてると誤解されたって手柄にもならない。
そこで無理に歩いた。
遥向うに灯が一つ見える。
余が歩いている路は平らである。
灯はその真正面に当る。
あすこへ行くんだろうと推測して星の下を無言に辿った。
今日の午は営口で正金銀行の杉原君の御馳走を断った。
晩は天春君の斡旋ですでに準備のできている宴会を断った。
そうして逃げるように汽車に乗った。
乗る時橋本にこの様子じゃ千山行は撤回だと云った。
実際撤回しなければならないほど、容体が危しくなって来た。
ただ向うに見える一点の灯火が、今夜の運命を決する孤つ家であると覚悟して、寂寞たる原を真直に横切った。
原のなかには、この灯火よりほかに当になるものは一つも見つからないのだから心細かった。
宿屋はたった一軒かと聞いたら、案内がええと答えた。
湯崗子は温泉場だと橋本のプログラムの中にちゃんと出ているのだから、温泉がこの茫々たる原の底から湧いて出るのだろうとは、始めから想像する事ができたが、これほど淋しい野の面に、ただ一軒の宿屋がひっそり立っていようとは思いがけなかった。
そのうちようやく灯のある所へ着いた。
平家作の西洋館で、床の高さが地面とすれすれになるほど低い。
板間ではあるが無論靴で出入をする。
宿の女は草履を穿いていた。
遠くから見たと同じように浮き立たない家であった。
造作のつかない広い空家へ洋灯を点して住っているのかと思った。
這入るとすぐの大広間に置いてあったオルガンさえ、先の持主が忘れて置いて行ったものとしか受取れなかった。
暗い廊下を突き当って右へ折れた翼の端の室へ案内された。
中を二つに仕切ってある。
低い床には、椅子と洋卓と色の褪めた長椅子とが置いてあった。
高い方は畳を敷いて、日本らしく取り繕ってあった。
ちょうど土間から座敷へ上るようにして、甲から乙に移る構造である。
余はいきなり畳の上に倒れた。
三四十分の後膳が出た。
橋本がしきりに起きて食えと勧めたが、ついに起きなかった。
第一食卓に何が盛られたかをさえ見なかった。
眼を開ける勇気すら無かったのである。
四十三
朝起きると、馬が来たとか来ないとか云って橋本の連中が騒いでいる。
連中は三人だから、一人が一つの馬に乗るとすれば、三匹要る訳になる。
この茫漠たる原の中で、生きた馬を三匹生捕るとなると、手数のかかるのは一通りではあるまい。
連中は格別早起きもしない癖に、今更苦情を並べたって始まらないと思って、同行を断念した余は、冷然と落ちついていた。
本来を云うと、千山へ行くのが目的で、わざわざここに降りたには相違ないが、一旦自分が千山行を諦めたとなると、ほかの連中が予定通に行動するのが、いまいましくなる。
第一橋本なんて農科の男は、千山を見る必要も何もないのである。
千山は唐の時代に開いた梵刹で、今だに残っているのは、牛でもなければ豚でもない、ただ山と谷と巌と御寺と坊主だけであるから、農科の教授がわざわざ馬に乗って見物に行くべきところではけっしてない。
と云ってせっかく行くと云うものを、意見までして思い止まらせるほどの口実は無論考え出せないから、なすがままにさせて放っておいた。
そのうち不思議な事に、注文通馬が三匹出て来た。
どこから出て来たものか聞いても見なかったが、たしかに出て来た。
三人は癪に障るほど勇んで外へ飛び出した。
余は仕方がないから西洋間と日本間の唯一の主人として、この一日を物静かに休養すべく準備した。
まず何よりも横になるのが薬だろうと思って、狸だか狐だか分らない毛皮の上にごろりと転がった。
すると窓の外から橋本の声で、おいおいちょっと出て見ろと呼んでいる。
彼れまだそこいらを迷ついてるなと思うと、少し面白くなったから、請求通原の中へ草履のまま出た。
すると広い牧場のようなところに、馬が三匹立っていた。
それがいずれも小汚ない駄馬だったのではなはだ愉快であった。
のみならず、その中の一匹がどうしても大重君を乗せようと云わない。
傍へ行くと、飛んだり蹴たりする。
馬が怖がるからだと云って、手拭で眼隠しをして、支那の小僧が両手で轡をしっかり抑えている。
遠くから見ると、馬が鉢巻をしたようでおかしかった。
その傍へ大重君が苦笑いをしながら近寄って行くところは、一層面白かった。
しかも一度や二度ではない。
よほど馬に遠慮する性質と見えて、容易に埒を明けないから、みんながなお喝采する。
橋本は北海道の住人だから苦もなく鞍に跨った。
もう一人――名前を忘れたから、もう一人というよりほかに仕方がないが――これは熊岳城の苗圃の長で、もと橋本に教わった事があると云うだけに、手綱を執る術を心得ている。
余はこの時立ちながら心の中で、要するに千山行を撤回した方が、馬術家としての余の名誉を完うする所以ではなかろうかと考えた。
けれども、そんな気色は顔にも出さず、ただ残り惜しげに三人の後姿を眺めていた。
そうして大重君の腰つきから推測して、千山まであれで乗り通すのは、定めて心配な事だろうと同情した。
橋本は今夜のうちに帰るんだとか号して、しきりに馬を急がせるらしい。
苗圃長も負けずに、続いて行く。
独り大重君だけが後れた。
馬はまだ眼隠をしている。
やがて二人の影が高粱に遮ぎられて、どっちへ向いて行くかちょっと分らなくなった。
先刻からそこいらを徘徊していた背の高い支那人もまた高粱の裡に姿を隠した。
この支那人は肩から背へかけて長い鉄砲を釣っていた。
人数は二人であった。
始めて気がついたときは咄嗟の際に馬賊という聯想が起った。
橋本と前後して高粱の底に没して、しばらくすると、どんと云う砲声が聞えて、またしばらくすると、三人の馬の前にどこからかあの背の高い奴が現われて来たら大事件だと想像して、また室の中へ帰って狸の皮の上に寝た。
四十四
手拭を下げて風呂に行く。
一町ばかり原の中を歩かなければならない。
四方を石で畳上げた中へ段々を三つほど床から下へ降りると湯泉に足が届く。
軍政時代に軍人が建てたものだからかなり立派にできている代りにすこぶる殺風景である。
入浴時間は十五分を超ゆべからずなどと云う布告めいたものがまだ入口に貼付けてある通りの構造である。
犯則を承知の上で、石段に腰をかけたり、腹這に身を浮かしたり、頬杖を突いて倚りかかったり、いろいろの工夫を尽くした上、表へ出て風呂場の後へ廻ると、大きな池があった。
若い男が破舟の中へ這入ってしきりに竿を動かしている。
おいこの池は湯か水かと聞くと、若い男は類稀なる仏頂面をして湯だと答えた。
あまり厭な奴だから、それぎり口を利くのをやめにした。
岸の上から底を覗くと、時々泡のようなものが浮いて来る。
少しは湯気が立ってるかとも思われる。
実は魚がいないかと、念のため聞いて見たかったのだけれども、相手が相手だから歩を回らして宿の方へ帰った。
後で、この池に魚が泳いでいる由を承知してはなはだ奇異の思いをなした。
その上ここには水が一滴も出ないのだと教えられたときには全く驚いた。
驚いた事はまだある。
湯から帰りがけに入口の大広間を通り抜けて、自分の室へ行こうとすると、そこに見慣れない女がいた。
どこから来たものか分らないが、紫の袴を穿いて、深い靴を鳴らして、その辺を往ったり来たりする様子が、どうしても学校の教師か、女生徒である。
東京でこそ外へさえ出れば、向うから眼の中へ飛び込んでくる図だが、渺茫たる草原のいずくを物色したって、斯様な文采は眸に落ちるべきはずでない。
余はむしろ怪しい趣をもって、この女の姿をしばらく見つめていた。
室に帰ってまた寝た。
眼が覚めると窓の外で虫の声がする。
淋しくなったから、西洋間へ出て、長椅子の上に腰をかけて、謡をうたった。
無論出鱈目である。
そこへ下女が来た。
先刻の女の事を聞いたら、何でも宅で知ってる人なんでしょうと云っただけで、ちっとも要領を得ない。
昨夕飯を済まして煙草を呑んでいると急に広間の方で、オルガンを弾く音がしたが、あの女がやったんじゃないかと聞くと、いいえ昨夕のは宅の下女ですと云う。
この原のなかに、それほどハイカラな下女がいようとは思いがけなかった。
先刻の袴はもう帰ったそうである。
余は一人長椅子の上に坐った。
そうして永い日が傾き尽して、原の色が寒く変るまでぽかんとしていた。
すると静かな野の中でどうぞ、ちと御遊びに、私一人ですからと云う嬌かしい声がした。
その音調は全くの東京ものである。
余は突然立って、窓の外を眺めた。
あいにく窓には寒冷紗が張ってあった。
手早く硝子を開けて首を外へ出すと、外はもう一面に夕暮れていて、蒼い煙が女の姿を包んでしまったので誰だか分らなかった。
橋本の連中はその晩帰って来た。
下女のしらせで、暗い背戸に出て見ると、豆のような灯が一つ遠くに見えた。
下女はあれが連中だと云う。
いくら野広いところだって、橋本以外にも灯が見える事もあるだろうと尋ねても、やっぱりあれだと云う。
はたしてそうであった。
灯は夕方宿から迎に出した支那人の持って行った提灯である。
背戸口に馬を乗り捨てた橋本は、そう骨を折って見に行く所でもないよと云った。
大重君は馬から三度落ちたそうである。
四十五
奉天へ行ったら満鉄公所に泊るがいいと、立つ前に是公が教えてくれた。
満鉄公所には俳人肋骨がいるはずだから、世話になっても構わないくらいのずるい腹は無論あったのだが、橋本がいっしょなので、多少遠慮した方が紳士だろうという事に相談がいつか一決してしまった。
停車場には宿屋の馬車が迎えに来ていた。
やはり泥の中から掘出して、炎天で乾かしたように色が変っている。
荷物と人間をぐるに乗せて、構内を離れるや否や、御者が凄じく鞭を鳴らした。
峠を越す田舎の乗合馬車よりも手荒な取扱方である。
広い通りはそれほどでもないが、しだいに城内に近づくに従って、今まで野原同然に茫々としていた往来が、左右の店の立込んで来ると共に狭くなる上に、鉄道馬車がその真中を駆けつつあるにもかかわらず、烈しい鞭の影は一分に一度ぐらいはきっと頭の上で閃めいた。
馬は無理にも急がなければならない。
けれども奉天だけあって、往来の人は馬車の右にも左にも、前にも後にも、のべつに動いている。
そこへ騾馬を六頭も着けた荷車がくるのだから、牛を駆るようにのろく歩いたって危ない。
それだのに無人の境を行くがごとくに飛ばして見せる。
我々のような平和を喜ぶ輩はこの車に乗っているのがすでに苦痛である。
御者はもちろんチャンチャンで、油に埃の食い込んだ辮髪を振り立てながら、時々満洲の声を出す。
余は八の字を寄せて、馬の尻をすかしつつ眺めた。
そうして、みだりに鞭を瘠せ骨に加えて、旅客の御機嫌を取るのは、女房を叱って佳賓をもてなすの類だと思った。
現に北陵から帰りがけに、宿近く乗りつけると、左り側に人が黒山のようにたかっている。
その辺は支那の豆腐やら、肉饅頭やら、豆素麺などを売る汚ない店の隙間なく並んでいる所であったが、黒い頭の塊まった下を覗くと、六十ばかりの爺さんが大地に腰を据えて、両脛を折ったなり前の方へ出していた。
その右の膝と足の甲の間を二寸ほど、強い力で刳り抜いたように、脛の肉が骨の上を滑って、下の方まで行って、いっしょに縮れ上っている。
まるで柘榴を潰して叩きつけた風に見えた。
こう云う光景には慣れているべきはずの案内も、少し寒くなったと見えて、すぐに馬車を留めて、支那語で何か尋ね出した。
余も分らないながら耳を立てて、何だ何だと繰返して聞いた。
不思議な事に、黒くなって集った支那人はいずれも口も利かずに老人の創を眺めている。
動きもしないから至って静かなものである。
なお感じたのは、地面の上に手を後へ突いて、創口をみんなの前に曝している老人の顔に、何らの表情もない事であった。
痛みも刻まれていない。
苦しみも現れていない。
と云って、別に平然ともしていない。
気がついたのは、ただその眼である。
老人は曇よりと地面の上を見ていた。
馬車に引かれたのだそうですと案内が云った。
医者はいないのかな、早く呼んでやったらいいだろうにと間接ながら窘なめたら、ええ今にどうかするでしょうという答である。
この時案内はもう本来の気分を回復していたと見える。
鞭の影は間もなくまた閃めいた。
埃だらけの御者は人にも車にも往来にも遠慮なく、滅法無頼に馬を追った。
帽も着物も黄色な粉を浴びて、宿の玄関へ下りた時は、ようやく残酷な支那人と縁を切ったような心持がして嬉しかった。
四十六
支那の古家をそのまま使ってるから、御寺の本堂を客間に仕切ったと同じようである。
釣り廊下を渡って正面の座敷を覗くと、骨董がいっぱい並べてあったので、何事かと思ったら、北京へ買出しに行った道具屋が、帰り途にここで逗留中の見世を張ったのだと分ったから、冷し半分這入って見ているうちに、時間が来たので、外へ出た。
今度は車だから好かろうと安心して、ちょっとハイカラに膝頭を重ねて反り返って見たが、やはりけっして無難ではない。
人力は日本人の発明したものであるけれども、引子が支那人もしくは朝鮮人である間はけっして油断してはいけない。
彼等はどうせ他の拵えたものだという料簡で、毫も人力に対して尊敬を払わない引き方をする。
海城というところで高麗の古跡を見に行った時なぞは、尻が蒲団の上に落ちつく暇がないほど揺れた。
一尺ばかり跳ね上げられる事は、一丁の間に一度は必ずあった。
しまいに朝鮮人の頭をこきんと張つけてやりたくなったくらい残酷に取扱われた。
奉天の道路は海城ほど凸凹にでき上っていないから、むやみに車の上で踊をおどる苦痛はないが、その引き方のいかにも無技巧で、ただ見境なく走けさえすれば車夫の能事畢ると心得ている点に至っては、全く朝鮮流である。
余は車に揺られながら、乗客の神経に相応の注意を払わない車夫は、いかによく走けたって、ついに成功しない車夫だと考えた。
そのうち大きな門の下へ出た。
奉天へ前後四泊した間に、この門を何度となく潜った覚がある。
その名前も幾度となく耳にした。
ところがそれを忘れてしまった。
その恰好もはなはだ曖昧に頭に映るだけである。
しかし奉天の市街に入って始めて埃だらけの屋根の上に、高くこの門を見上げた時は、はあと思った。
その時の印象はいまだに消えない。
橋本といっしょにこの門の傍にある小さな店に筆と墨を買いに行った折の事も、寂びた経験の一つとしてよく覚えている。
その時橋本は敷居を跨いで、中へ這入った。
余も橋本に続こうとして身体を半分廂から奥へ差し込んだが、支那の家に固有な一種の臭が、たちまち鼻に感じたので、一二歩往来の方へ出て佇んでいた。
今云う門は十間ばかり先の四辻にあるので、余は鳥打帽の廂に高い角度を与えてわざわざ仰むいて見た。
時刻は暮に近い頃だったから、日の色は瓦にも棟にも射さないで、眩しい局部もなく、総体が粛然と喧びすしい十字の街の上に超越していた。
この門は色としては、古い心持を起す以外に、特別な采をいっこう具えていなかった。
木も瓦も土もほぼ一色に映る中に、風鈴だけが器用に緑を吹いていただけである。
瓦の崩れた間から長い草が見えた。
廂の暗い影を掠めて白い鳩が二羽飛んだ。
余は久しぶりに漢詩というものが作りたくなった。
待っている間少し工夫して見たが、一句も纏まらないうちに、橋本が筆と墨を抱えて出て来たので興趣は破れてしまった。
このほかにこの門から得た経験は、暗い穴倉のなかで、車に突き当りはしまいかと云う心配と、煉瓦に封じ込められた塵埃を一度に頭から浴びると云う苦痛だけであった。
余の車屋はこの暗い門の下を潜って、城内の満鉄公所まで、悪辣無双に引いて行った。
余は生きた風呂敷包のごとく車の上で浮沈した。
四十七
茶を飲むと、酸いような塩はゆいような一種の味がする。
少し妙だと思って、茶碗を下へ置いてゆっくり橋本の講釈を聞いた。
その講釈によると、奉天には昔から今日に至るまで下水と云うものがない。
両便の始末は無論不完全である。
そこで古来から何百年となく奉天の民が垂れ流した糞小便が歳月の力で自然天然に地の底に浸み込んで、いまだに飲料水に祟りをなしているんだと云う。
一応はもっともだが、説明が少し科学的でないようである。
第一それほどの所なら穀類野菜ともに、もっとよくできなければならないはずだと思ったが、馬鹿気ているから議論もしなかった。
橋本もこれは伝説だよと断った。
伝説と云えば日本武尊の東夷征伐と同種類に属すべきもので、真偽以外に、重く取扱わねばならぬ筋の来歴を有しているに違いない。
いかにも汚ない国民である。
湯を立てて貰って這入って見ると、濁っている。
別に黄色く濁っている訳ではないが、御茶の味から演繹すればやっぱり酸っぱい湯に浸っているとよりほかに考えようがない。
鹹水にも溶けるとか云って大連でくれた豆石鹸でも、行李の底から出せばよかったと思った。
風呂場も風呂桶も小さいものである。
その上下女が出て来て背中を流してくれる。
窮屈に身体を曲げながら、御前は日本人だろう。
日本はどこの生れだいなどと話をした。
この下女は始めて宿へ着いた時、余を橋本の随行と間違えて、そら何とかさんもいっしょにいらしったと云った。
その何とかさんは橋本が蒙古へ行くとき、彼と同じくここへ泊った事があるのだそうだ。
顔が似ているから間違えたのか、様子が御供らしいから間違えたのかは、つい聞き糺して見なかった。
窓の外に大きな甕が埋けてある。
我々の汗や垢が例の酸っぱい水といっしょになって、朝に晩に流れ込んでいるのだから、時々汲み出さなければ溢れるほど溜ってしまう。
それを支那の下男が石油缶へ移して天秤棒で担いで、どこかへ持って行く。
風呂に浸りながら、どこへ持って行くんだろうなと考えた。
余計な心配のようだが余はこの汚水が結局どう片づけられるかの処置を想像して見て、少しく恐ろしくなった。
これでいて御馳走がむやみに出る。
胃の悪い余のごときものは、御膳の上を眺めただけで、腹がいっぱいになってしまう。
夜は緞子の夜具に寝かしてくれる。
店の方では電話が仕切なしにちりんちりんと鳴っている。
品の好い御神さんが、はあもしもしを乃別に繰返す。
或る時チョコレートの菓子が食いたくなったから、下女に有るかいと聞いて見ると、すぐもしもしで取り寄せてくれた。
のみならず満鉄公所へ御馳走を受けに行けば、三鞭が現れる。
領事館へ挨拶に行けば、英吉利の王様の写真などが恭々しく飾ってあって、まるで倫敦のような気持になる。
そうかと思うと、宿の座敷の廊下の向うが白壁で、高い窓から光線が横に這入って来るのは仕方がないが、その窓に嵌めてある障子は、北斎の画いた絵入の三国志に出てくるような唐めいたものである。
しかもあまり綺麗ではない。
その上室の中が妙な臭を放つ。
支那人が執拗く置き去にして行った臭だから、いくら綺麗好きの日本人が掃除をしたって、依然として臭い。
宿では近々停車場附近へ新築をして引移るつもりだと云っていた。
そうしたら、この臭だけは落ちるだろう。
しかし酸っぱい御茶は奉天のあらん限り人畜に祟るものと覚悟しなければならない。
四十八
黒い柱が二本立っている。
扉も黒く塗ってある。
鋲は飯茶碗を伏せたように大きく見える。
支那町の真中にこんな大名屋敷に似た門があろうとは思いがけなかった。
門を這入るとまた門がある。
これは支那流にできていた。
それを通り越すと幅一間ほどの三和土が真直に正面まで通っている。
もっとも左右共に家続きであるから、四角な箱の中をがらん胴にして、その屋根のない真中を、三和土を辿って突き当る訳になる。
肋骨君の説明を聞いて知ったのだが、この突当りが正房で、左右が廂房である。
肋骨君はこの正房の一棟に純粋の日本間さえ設けている。
ちょっと見たまえと云って案内するから、後に跟いて行くと、思わざる所に玄関があって、次の間が見えて、その奥の座敷には立派な掛物がかかっていた。
かと思うと左の廂房の扉を開いてここが支那流の応接間だと云う。
なるほど紫檀の椅子ばかり並んでいる。
もっとも西洋の客間と違って室の真中は塞いでいない。
周囲に行儀よく据えつけてある。
これじゃ客が来ても向い合って坐る事はできない訳だから、みんな隣同志で話をする男ばかりでなければならない。
中にも正面の二脚は、玉座とも云うべきほどに手数の込んだもので、上に赤い角枕が一つずつ乗せてあった、支那人てえものは呑気なものでね、こうして倚っかかって談判をするんですと肋骨君が教えてくれた。
肋骨君は支那通だけあって、支那の事は何でも心得ている。
あるとき余に向って、辮髪まで弁護したくらいである。
肋骨君の説によると、ああ云うぶくぶくの着物を着て、派出な色の背中へ細い髪を長く垂らしたところは、振え付きたくなるほど好いんだそうだから仕方がない。
実際肋骨君が振え付きたくなると云う言葉を使ったには驚いた。
今でもこの言葉を考え出しては驚いている。
いっぺん汚ない爺さんが泥鰌のような奴をあたじけなく頸筋へ垂らしていたのを見て、ひどく興を覚したせいだろう。
これほどの肋骨君も正房の応接間は西洋流で我慢している。
その隣の食堂では西洋料理を御馳走した。
それから襯衣一枚で玉を突く。
その様子はけっして支那じゃない。
万事橋本から聞いたより倍以上活溌にできているところをもって見ると、振え付きたいは少々言い過ぎたのかも知れない。
肋骨君は戦争で右か左かどっちかの足を失くした。
ところがそれがどっちだか分らないくらい、自由自在に起ったり坐ったりする。
そうして軍人に似合わないような東京弁を使う。
どこで生れたか聞いて見たら、神田だと云った。
神田じゃそのはずである。
要するに肋骨君は支那好であると同時に、もっとも支那に縁の遠い性質の人である。
室は空いてるから来たまえとしきりに云ってくれるので、じゃ帰りに厄介になるかも知れないと云うとすぐ宜しいと快諾したところだけは旨かったが、帰りには夜半の汽車で奉天へ着く時間割だと橋本から聞くや否や、肋骨君はたちまち宿泊を断った。
いや、あの汽車じゃ御免だと云う。
もう一つの汽車が好いじゃないかと勧めるんだが、プログラムの全権があいにくこっちにないので、やむをえず、そんなら、もし夜半の汽車でなかったら泊めて貰おうと云う条件をつけた。
すると肋骨君はまた宜しいと答えた。
ところが帰りにはやっぱり予定通夜半着の汽車へ乗ったのでとうとう満鉄公所へは泊まれない事になった。
満鉄公所で余の知らない所は寝室だけである。
四十九
右へ折れると往来とは云われないくらい広い所へ出たのでようやく安心した。
これならば人を引殺す心配もなかろうと思って、案内をしてくれる、宿の番頭を相手に、行く行く話をした。
満洲の日は例によって秋毫の先を鮮かに照らすほどに思い切ったものである。
眉深に鳥打帽を被っても、三日月形の廂では頬から下をどうする事もできないので、直下に射りつけられる所は痛いくらいほてる。
そこへ馬の蹄に掻き立てられた軽い埃が、車の下から濛々と飛んで来る。
番頭は、結構な御日和です、少し風でも吹いたらこんなものじゃありませんと喜んでいる。
そのうち馬車が家を離れて広い原へ出た。
原だから無論樹も草も見えないのは当然だが、遠く眺めると、季節だけに青いものが際限のない地の上皮に、幾色かの影になって、一面に吹き出している。
なぜこれほどの地面を空しく明けておくかは、家屋の発展に忙殺されつつある東京ものの眼には即時の疑問として起る訳であるが、この際はそれよりも窮屈な人間を通り抜けて晴々したと云う意識の方が一度に余の頭を照らした。
路は固よりついていない。
東西南北共に天に作った路であるから、轍の迹は行く人の心任せに思い思いの見当に延びて行く。
支那人の馬車が来た。
屋根に蒲鉾形の丸味を取った棺のようなもののなかに、髪を油で練固めた女が坐っている。
長柄は短いが、車の輪は厚く丈夫なものであった。
云うまでもなく騾馬に引かしている。
まず日本の昔に流行った牛車の小ぢんまりしたものと思えば差支えないが、見たところは牛車よりもかえって雅である。
その代り乗ってる人間は苦しいそうだ。
余はこの車のごろごろ行くところを見て、※たり※たりと形容したくなった。
※の字も※の字も判然たる意味を知らないのだが、乗ってる人は定めて※※たるものに相違なかろうと思ったからである。
実を云うと※※たるものは支那の車ばかりではない。
こう云う自分もはなはだ危しかった。
一望して原だよと澄ましていればそれまでの事で、仰のごとく平らにも見えるが、いざ時間に制限を切って、突切って見ろと云われると、恐ろしく凸凹ができてくる。
おいここで馬車の引っくり返る事はあるまいなと番頭に念を押すと、番頭はええ、まあたいてい大丈夫でしょうと云うだけで、けっして万一を受け合わない。
どうも並んでいる番頭の座が急に高くなって、番頭そのものが余の方に摺落ちて来そうになったり、またはあべこべに、余が番頭のシャッポの上に顛び落ちそうになるのは心好くないものである。
余は神経質で臆病な性分だから、車が傾くたんびに飛び降りたくなる。
しかるに人の気も知らないで、例の御者が無敵に馬を馳けさせる。
いらぬ事だと冷や冷やしているうちに、一カ所路の悪い所へ出た。
原因は解らないが、轍の迹が際立って三四十本並んでいる。
しかもその幅がいずれも五六寸ある。
そうして見るからに深そうに、日影を遮って、奥の方を黒くかつ暗くしている。
我々の御者は平気にそこへ乗り込んだ。
順当に乗り込んだのならまだよかったけれども、片方の輪だけが泥の中へぐしゃぐしゃと滅り込むと同時に、片方は依然として固い土に支えられている。
余は泥側に席を占めていた。
すると足が土と擦れ擦れになるまで車が濘海に沈んで来た。
番頭は余の頭の上にあるごとく感ぜられた。
余はたまらなくなって、泥の中へ飛び下りた。
五十
原が急に叢に変化するのは不思議であった。
ここにこれだけの樹が生えるなら、原の中ももう少し茂って然るべきであると気がついた時はすでに車の両側が塞がっていた。
竹こそないが、藪と云うのが適当と思われるくらいな緑の高さだから、日本の田舎道を歩くようなおとなしい感じである。
ところどころ細い枝などが列を外れて往来へ差し出ているのを、通りながら潜り抜けたり、撓わしたりして行き過ぎるのが何より愉快だった。
路も先刻よりは平たくなって、真白に草と木の間を貫いている。
ある所には大きな松があった。
葉の長さが日本の倍もあって色は海辺のそれよりも黒い。
ある所は荒れ果てた庭園の体に見えた。
そう云う場所へ来ると、馬車の上から低い雑木を一目に二丁も眺められる。
向うに細長い石碑が立っていた。
模様だけが薄く見えるが、刻字は無論分らなかった。
しばらくすると、路が尽きて高い門の下へ出た。
門は石を畳んだ三つのアーチからでき上っているが、アーチの下まで行くにはだいぶ高い石段を登らなくてはならない。
門の左右には大きな竜が壁に彫り込んであった。
これが正門ですがね、締切りだから壁へ添いて廻るんですと云って、馬を土堤のような高い所へ上げた。
右は煉瓦の壁である。
それがところどころ崩れかかっている。
左はだらだらの谷で野葡萄や雑木が隙間なく立て込んだ。
路は馬車が辛うじて通れるぐらい狭い。
そこを廻って横手の門から車を捨てて這入ると、眼がすっきりと静まった。
一抱もある松ばかりが遥の向まで並んでいる下を、長方形の石で敷きつめた間から、短い草が物寂びて生えている。
靴の底が石に落ちて一歩ごとに鳴った。
一丁ばかり行って正面に曲ると、左右に石の象がいた。
大きくって、鷹揚で、しかも石だからはなはだ静かである。
突き当りにある楼門のような所へ這入ったら、今度は大きな亀の背に頌徳碑が立ててあった。
亀も大きかったが、碑も高い。
蒙古と満洲と支那の三国語で文章が刻ってある。
後へ出ると隆恩門と云うのが空に聳えていた。
積み上げたアーチの上を見ると三層あった。
左右に回らしてある壁も尋常ではない。
あの上を歩いて見たいと番頭に頼むと、ええ今乗って見ましょうと云って中へ這入った。
中は真四角に仕切ってある。
正面にある廟の横から石段を登って壁の上へ出ると、廟の後だけが半月形になっていわゆる北陵を取り巻いている。
支那の小僧が跣足で跟いて来た。
番頭を捕まえてしきりにこそこそ何か云っている。
番頭に聞くと、ええなにと曖昧な答をする。
また聞き返したらこう云った。
――屋根の廂の所に着けてある金の玉を、この間一つ落ちた時に、拾っておいたから、買ってくれと云うんです。
表向にすると厳しいものですから、こうして見物に来た時、そうっと売りつけようてんで、支那人は実に狡猾ですからね。
支那の陵守も無論狡猾だろうが、金の玉を安く買おうと云う番頭もあまり正直な方じゃない。
番頭はそっと銭をやって金の玉をポッケットへ入れたようである。
壁の上を歩くと太い樹が眼の下に見える。
桑があんなに大きくなってますと番頭が指した。
なるほど一抱もある。
この四角な壁の一側は長さどのくらいかねと尋ねると、へえ今勘定して見ましょうと云いながら、一歩二尺の割で、一二三四と歩いて行った。
余は壁の外を見下して、そこらを絡んでいる赤い木の実を眺めていた。
せっかく番頭の勘定した壁の長さは忘れてしまった。
五十一
撫順は石炭の出る所である。
そこの坑長を松田さんと云って、橋本が満洲に来る時、船中で知己になったとかで、その折の勧誘通り明日行くと云う電報を打った。
汽車に乗ると西洋人が二人いた。
朝早いので、客車内で持参の弁当か何か食っていたが、撫順に着いたら我々といっしょに汽車を降りた。
出迎えのものが挨拶しているところを聞いて見ると、そのうちの一人は奉天の英国領事であった。
我々もこの英人等といっしょに炭坑の事務室に行って、二階で松田さんに逢った。
松田さんは縞の縮の襯衣の上に薄い背広を着ていた。
背の低い気軽な人なので、とうてい坑長とは思えなかった。
我々と英国人を二所に置いて、双方へ向けて等分に話をした。
橋本も余も英語はいっさい口にしなかった。
したがって英人とは言葉を交えなかった。
やがて松田さんが案内になって表へ出た。
貯水池の土堤へ上ると、市街が一目に見える。
まだ完全にはでき上っていないけれども、ことごとく煉瓦作りである上に、スチュジオにでも載りそうな建築ばかりなので、全く日本人の経営したものとは思われない。
しかもその洒落た家がほとんど一軒ごとに趣を異にして、十軒十色とも云うべき風に変化しているには驚いた。
その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある、坑員の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来て眺めたいものばかりであった。
松田さんに聞いたら皆日本の技師の拵えたものだと云われた。
市街から眼を放して反対の方角を眺めると、低い丘の起伏している向うに煙突の頭が二カ所ほど微かに見える。
双方共距離はたしかに一里以上あるんだから広い炭坑に違ない。
松田さんの話しによると、どこをどう掘っても一面の石炭だから、それを掘尽くすには百年でも二百年でもかかるんだそうである。
我々の立っているつい傍でも、八百尺と九百尺のシャフトを抜いていた。
事務所へ帰って午餐の御馳走になったとき英国人は箸も持てず米も喰えず気の毒なものであった。
この領事は支那に十八年とかいたと云うのに、二本の箸を如何ともする事のできないのは案外である。
その代り官話は達者だそうだ。
松田さんは用事が忙しいとかで、食卓へは出て来られなかった。
接待役として松田さんに代った人は、英語で英国人に話したり、日本語で余等に話したりはなはだ多事であった。
けれども橋本氏も余もこの時まで英語はいっさい使わなかった。
元来英人と云うものはプラウドな気風を帯びていて、紹介されない以上は、他に向って容易に口を利かない。
だから我々も英人に対しては同様にプラウドである。
食後は坑内を見物する事になった。
田島君という技師が案内をしてくれた。
入口で安全灯を五つ点して、杖を五本用意して、それを各自に分けて、一間四方ぐらいの穴をだらだらと下りた。
十四五間行くか行かないに坑のなかは真暗になった。
カンテラの灯は足元を照らすにさえ不足である。
けれども路は存外平らで、天井もかなり高かった。
右へ曲って、探るように下りて行くと、余のすぐ前にいる田島君がぴたりととまった。
余もとまった。
案内がとまったから、あとから続いて来たものもことごとくとまった。
ここに腰かけがあります。
坑へ這入るものはここで五六分休んで眼を慣らすんですと云った。
五人は休みながらカンテラの灯で互の顔を見合わした。
みんな立って黙っている。
腰をおろすものは一人もない。
静かな中で時の移るのは多少凄かった。
そのうち暗い所が自然と明るくなって来た。
田島君はやがて、もうよかろうと云って、またすぐ右へ曲って、奥へ奥へと下りて行った。
余も続いて下りた。
あとの三人も続いて下りて来た。
ここまで新聞に書いて来ると、大晦日になった。
二年に亘るのも変だからひとまずやめる事にした。