満韓ところどころ

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十

第 10 章
政樹まさき公こうが大連だいれんの税関ぜいかん長ながになっていると聞いきいてちょっと驚いおどろいた。
政樹まさき公こうには十じゅう年ねん前まえ上海しゃんはいで出逢っであったきりである。
その時政じせい樹き公こうは、サーさー・ロバートろばーと・ハートはーとの子分こぶんになって、やはりそこの税関ぜいかんに勤務きんむしていた。
政樹まさき公こうの大学だいがくを卒業そつぎょうしたのは余よより二に年ねん前まえで、二人ふたり共とも同じおなじ英文科えいぶんかの出身しゅっしんだから、職業しょくぎょう違いちがいであるにかかわらず、比較的ひかくてき縁えんが近いちかいのである。
政樹まさき公こうの姓せいは立花たちばなと云っいって柳川やながわ藩はんだから、立派りっぱな御ご侍さむらいに違いない。
それをなぜ立花たちばなさんと云わいわないで、政樹まさき公こうと呼ぶよぶかと云ういうに、同じおなじ頃ころ同じおなじ文科もんかに同藩どうはんから出でた同姓どうせいの男おとこがいた。
しかも双方そうほう共とも寄宿舎きしゅくしゃに這入っはいっていたものだから、立花たちばな君きみや立花たちばなさんでは紛れまぎれやすくていけない。
で一方いっぽうは政樹まさきという名なだから政樹まさき公こうと呼びよび、一方いっぽうは銑三郎せんざぶろうという俗称ぞくしょうだから銑ずくさん銑ずくさんと云っいった。
なぜ片っ方かたっぽが公こうなのに、片っ方かたっぽはさんづけにされてしまったのか、ちょっと分らわからない。
銑ずくさんの方ほうは、余よと前後ぜんごして洋行ようこうしたが、不幸ふこうにして肺病はいびょうに罹っかかって、帰り路かえりみちに香港ほんこんで死んしんでしまった。
そこで残るのこるは政樹まさき公こうばかりになった。
したがって政樹まさき公こうをやめて立花たちばな君きみと云っいったって、少しすこしも混雑こんざつはしないのだが、つい立花たちばなよりは政樹まさき公こうの方ほうが先さきへ出るでる。
やっぱり中村なかむらとも総裁そうさいとも云わいわないで是ぜ公こうと云いいい馴れなれたようなものだろう。
ここだと云ういうので、二人ふたり馬車ばしゃを下りくだりて税関ぜいかんに這入っはいって見るみると、あいにく政樹まさき公こうは先刻せんこく具合ぐあいが悪いわるいとかで家いえへ帰っかえった後あとであった。
こっちの都合つごうもあるし、所労しょろうの人ひとに迷惑めいわくをかけるのも本意ほんいでないから、他日たじつを期しきして税関ぜいかんを出でた。
すると今度こんどは馬車ばしゃが満鉄まんてつの本社ほんしゃへ横づけよこづけになった。
広いひろい階子段はしごだんを二に階かいへ上がっあがって、右みぎへ折れおれて、突き当りつきあたりをまた左ひだりへ行くいくと、取付とりつけが重役じゅうやくの部屋へやである。
重役じゅうやくは東京とうきょうに行っいってるもののほかは皆みな出でていた。
それに一々いちいち紹介しょうかいされた。
その中なかで昔むかし見みた田中たなか君きみの顔かおを覚えおぼえていた。
どうです始めはじめて大連だいれんに御ご着きつきになった時じの感想かんそうはと聞かきかれるから、そうです船ふねから上がっあがってこっちへ来るくる所ところは、まるで焼やけ迹のようじゃありませんかと、正直しょうじきな事ことを答えるこたえると、あすこはね、軍用ぐんよう地ちだものだから建物たてものを拵えるこしらえる訳わけに行かいかないんで、誰だれもそう云ういう感じかんじがするんですと教えおしえられた。
しばらく椅子いすに腰こしを掛けかけて、おとなしく執務しつむの様子ようすを見みていると、じき午うまになった。
さあ飯めしを食おうくおうと、食堂しょくどうへ案内あんないされた。
ここへと云ういう席せきへ坐っすわって、サーヴィエットさーゔぃえっとを取り上げるとりあげると、給仕きゅうじが来きて、それは国沢くにさわさんのですから、ただいま新しいあたらしいのを持っもって参りまいりますと云っいった。
食堂しょくどうは社しゃの表ひょう二に階かいにあたる大広間おおひろまで、晩ばんになれば、それが舞踏ぶとう室むろに変化へんかするほどの大きなおおきなものであった。
これは社員しゃいん全体ぜんたいに向っむかって公開こうかいしてあるのだそうだが、同じおなじ食卓しょくたくに着いついた人ひとの数すうを云ういうと、約やく三さん十人じゅうにんに過ぎすぎなかった。
この人数にんずうから推しおして、あるいは制限せいげんでもありはせぬのかと思っおもったのは余よの想像そうぞうに過ぎすぎなかった。
料理りょうりは大和やまとホテルほてるから持っもって来るくるのだそうで、同席どうせきの三十さんじゅう余人よにんが、みな一様いちようの皿さらを平らげたいらげていた。
胃いが痛いいたいので肉にく刀かたなと肉にく匙さじは人並ひとなみに動かしうごかしたようなものの、その実じつは肉にくも野菜やさいも咽喉のどの奥おくへ詰め込んつめこんだ姿すがたである。
一いちつどうですと向う側むこうがわの田中たなか君きみから瓢箪ひょうたん形かたちの西洋梨にしようなしを勧すすむられた時じは、手てを出すだす勇気ゆうきすらなかった。
十一じゅういち
河村かわむら調査ちょうさ課か長ながの前まえへ行っいって挨拶あいさつをすると、河村かわむらさんは、まあおかけなさいと椅子いすを勧めすすめながら、何なんを御ご調べしらべになりますかと叮嚀ていねいに聞かきかれる。
何なんを調べるしらべるほどの人間にんげんでもないんだから、この問もんに逢っあった時じは実じつは弱っよわった。
先刻せんこく重役室じゅうやくしつへ河村かわむらさんが這入っはいって来きたとき、是ぜ公こうが余よを紹介しょうかいして、河村かわむらさん満鉄まんてつの事業じぎょうの種類しゅるいその他ほかについて、あとでこの男おとこにすっかり説明せつめいしてやって下さいくださいと云っいったのが本ほんで、とうとう余よは調査ちょうさ課かへ来るくるような訳わけになったものの、その実じつ世間せけんの知るしるごとき人間にんげんなんだから、こう真面目まじめに、どう云ういう方面ほうめんの研究けんきゅうをやる気やるきかと尋ねたずねられるとはなはだ迷めいついてしまう。
そうかと云っいって、けっして悪気わるぎがあって冷かしひやかしに来きた次第しだいでない事こともまた、世間せけんの知るしる通りとおりなんだから、河村かわむらさんに対したいして敬意けいいを失するしっするような冗談じょうだんは云えいえた義理ぎりのものでない。
やむをえず、しかつめらしい顔かおをして、満鉄まんてつのやっているいろいろな事業じぎょう一般いっぱんについて知識ちしきを得とくたいと述べのべた。
――何なんでも述べのべたつもりである。
固よりもとより内心ないしんに確乎かっこたる覚悟かくごがあって述べるのべる事ことでないんだから、顔かおだけはしかつめらしいが、述べるのべる事ことの内容ないようは、すこぶる赤あか毛布もうふ式しきに縹緲ひょうびょうとふわついていたに違いない。
ただ今いまから顧みかえりみても、少しすこし得意とくいなのは、その時余じよの態度たいど挙動きょどうは非常ひじょうに落ちついおちついて、魂たましいがさも丹田たんでんに膠着こうちゃくしているかのごとく河村かわむらさんには見えみえたろうという自覚じかくである。
人ひとを欺しだまし終おわりせて知らしらん顔かおをしているのは善くよくない事ことだから、ここで全くまったく懺悔ざんげしてしまうが、実じつを云ういうと、その時じは胃いがしくしく痛んいたんで、言葉ことばに抑揚よくようをつけようにも、声こえに張りばりを見せみせようにも、身体しんたいに活気かっきを漲ぎらみなぎらせようにも、とうてい自己じこが自己じこ以上いじょうに沈着ちんちゃくしてしまって、一いち寸すんもあがきが取れとれなかったのである。
そこへ大きなおおきな印刷いんさつものが五六ごろく冊さつ出でて来きた。
一番いちばん上うえには第だい一回いちかい営業えいぎょう報告ほうこくとある。
二に冊さつ目めは第だい二に回かいで、三さん冊さつ目めは第だい三さん回かいで、四よん冊さつ目めは第だい四よん回かいの営業えいぎょう報告ほうこくに違いない。
この大おお冊子さっしを机つくえの上うえに置いおいて、たいていこれで分りわかりますがねと河村かわむらさんが云いいい出しだした時じは、さあ大変たいへんだと思っおもった。
今いまこの胃いの痛いいたい最中さいちゅうにこの大部たいぶの営業えいぎょう報告ほうこくを研究けんきゅうしなければすまない事ことになっては、とうてい持ちもち切れるきれる訳わけのものではない。
余よはまだ営業えいぎょう報告ほうこくを開けあけないうちに、早速さっそく一いち工夫くふうしてこう云っいった。
――私わたくしは専門家せんもんかでないんですから、そう詳つまびらかい事ことを調査ちょうさしても、とても分りわかりますまいと思いおもいますので、ただ諸君しょくんがいろいろな方面ほうめんでどんな風かぜに働いはたらいていられるか、ざあっとその状況じょうきょうを目撃もくげきさしていただけばたくさんですから、縦覧じゅうらんすべき箇所かしょを御ご面倒めんどうでもちょっと書いかいて下さいくださいませんか。
河村かわむらさんははあそうですかと、気軽きがるにすぐ筆ふでを執っとってくれた。
ところへどこからか突然とつぜん妙みょうな小さなちいさな男おとこがあらわれて、やあと声こえをかけた。
見るみると股野こや義郎よしろうである。
昔むかし「猫ねこ」を書いかいた時じ、その中なかに筑後ちくごの国くには久留米くるめの住人じゅうにんに、多々羅たたら三平さんぺいという畸人きじんがいると吹聴ふいちょうした事ことがある。
当時とうじ股野こやは三池みいけの炭坑たんこうに在勤ざいきんしていたが、どう云ういう間ま違いか、多々羅たたら三平さんぺいはすなわち股野こや義郎よしろうであると云ういう評判ひょうばんがぱっと立ったって、しまいには股野こやを捕まえつかまえて、おい多々羅たたら君きみなどと云ういうものがたくさん出でて来きたそうである。
そこで股野こやは大いにおおいに憤慨ふんがいして、至急しきゅう親展しんてんの書面しょめんを余よに寄せよせて、是非ぜひ取り消しとりけしてくれと請求せいきゅうに及んおよんだ。
余よも気の毒きのどくに思っおもったが、多々羅たたら三平さんぺいの件けんをことごとく削除さくじょしては、全巻ぜんかんを改あらため板いたする事ことになるから、簡潔かんけつ明瞭めいりょうに多々羅たたら三平さんぺいは股野こや義郎よしろうにあらずと新聞しんぶんに広告こうこくしちゃいけないかと照会しょうかいしたら、いけないと云っいって来きた。
それから三さん度ども四よん度ども猛烈もうれつな手紙てがみを寄こしよこしたあとで、とうとうこう云ういう条件じょうけんを出しだした。
自分じぶんが三平さんぺいと誤らあやまられるのは、双方そうほうとも筑後ちくご久留米くるめの住人じゅうにんだからである。
幸いさいわい、肥前ひぜん唐津からつに多々羅たたらの浜はまと云ういう名所めいしょがあるから、せめて三平さんぺいの戸籍こせきだけでもそっちへ移しうつしてくれ。
これだけは是非ぜひ御ご願がんするとあったんで、余よはとうとう三平さんぺいの方ほうを肥前ひぜん唐津からつの住人じゅうにんに改めあらためてしまった。
今いまでも「猫ねこ」を御ご読みよみになれば分るわかる。
肥前ひぜんの国くには唐津からつの住人じゅうにん多々羅たたら三平さんぺいとちゃんと訂正ていせいしてある。
こう云ういう訳わけで余よと因縁いんねんの浅からあさからざる股野こやに、ここでひょっくり出逢うであうとは全くまったく思いがけおもいがけなかった。
しかも、その家いえへ呼ばよばれて御馳走ごちそうになったり、二三にさん日間かかん朝あさから晩ばんまで懇切こんせつに連れつれて歩いあるいて貰っもらったり、昔日せきじつの紛議ふんぎを忘れわすれて、旧きゅう歓かんを暖めるあたためる事ことができたのは望外ぼうがいの仕合しあいである。
実じつを云ういうと、余よは股野こやがまだ撫順ぶじゅんにいる事こととばかり思っおもっていた。
余よは大連だいれんで見物けんぶつすべき満鉄まんてつの事業じぎょうその他ほかを、ここで河村かわむらさんと股野こやに、表ひょうのような形かたちに拵えこしらえて貰っもらった。
十二じゅうに
腹はらがしきりに痛むいたむので、寝室しんしつへ退いしりぞいて、長なが椅子いすの上うえに横よこになっていると、窓まどを撲つぶつ雨あめの音おとがしだいに繁くしげくなった。
これじゃ舞踏会ぶとうかいに行くいく連中れんちゅうも、だいぶ御苦労ごくろう様ような事ことになったものだと思っおもって、ポッケットぽっけっとから招待状しょうたいじょうを出しだして寝ねながら、また眺めながめて見みた。
絵葉書えはがきぐらいの大きさおおきさの厚紙あつがみの一面いちめんには、歌麿うたまろの美人びじんが好いよい色いろに印刷いんさつされている。
一面いちめんには中村なかむら是ぜ公こう同どう夫人ふじん連名れんめいで、夏目なつめ金之助きんのすけを招待しょうたいしている。
よくこんなものを拵えるこしらえる時間じかんがあったなと感心かんしんして、うとうとしかけたところへ、ボーイぼーい頭あたまが来きて、ただいま総裁そうさいからの電話でんわで、今夜こんや舞踏会ぶとうかいへおいでになるか伺えうかがえと云ういう事ことでございますがと云ういうから、行かいかないと返事へんじをしてくれと頼んたのんで、本当ほんとうに寝ねてしまった。
眼めが覚めさめたら雨あめはいつの間まにか歇んやすんで、奇麗きれいな空そらが磨き上げみがきあげたように一色いっしょくに広くひろく見えるみえる中なかに、明かあきらかな月つきが出でていた。
余よは硝子がらす越こしにこの大きなおおきな色いろを覗いのぞいて、思わおもわず是ぜ公こうのために、舞踏会ぶとうかいの成功せいこうを祝ししゅくした。
後あとで本人ほんにんに聞いきいて見るみると、是ぜ公こうはその夜よる舞踏ぶとうの済んすんだ後あとで、多数たすうの亜米利加あめりか士官しかんと共ともに倶楽部くらぶのバーばーに繰り込んくりこんだのだそうだ。
そこで、士官しかん連れんが是ぜ公こうに向っむかって、今夜こんやの会かいは大成功だいせいこうであるとか、非常ひじょうに盛さかんであったとか、口々くちぐちに賛辞さんじを呈していしたものだから、是ぜ公こうはやむをえず、大声おおごえを振り絞っふりしぼってgentlemen!
と叫んさけんだ。
すると今までいままでがやがや云っいっていた連中れんちゅうが、総裁そうさいの演説えんぜつでも始まるはじまる事ことと思っおもって、一度いちどに口くちを閉じとじて、満場まんじょうは水みずを打っうったように静かしずかになった。
是ぜ公こうは固よりもとよりゼントルメンの後あとを何なんとかつけなければならない。
ところがゼントルメン以外いがいの英語えいごがあいにく一言ひとことも出でて来きなかった。
英語えいごと云ういう英語えいごは頭あたまの底そこからことごとく酒さけで洗い去らあらいさられてしまっているので、仕方なししかたなしに、急きゅうに日本語にっぽんごに鞍くら換かえをして、ゼントルメンの次つぎへもってきて、すぐ大いにおおいに飲みのみましょうと怒鳴っどなった。
ゼントルメン大いにおおいに飲みのみましょうは、たいていの亜米利加あめりか人ひとに通じるつうじる訳わけのものではないが、そこがバーばーのバーばーたるところで、ゼントルメン大いにおおいに飲みのみましょうとやるや否いなや、士官しかん連れんがわあっと云っいって主人公しゅじんこうを胴どう上うえにしたそうである。
明治めいじ二十にじゅう年ねんの頃ころだったと思うおもう。
同じおなじ下宿げしゅくにごろごろしていた連中れんちゅうが七なな人ひとほど、江の島えのしままで日ひ着き日帰りひがえりの遠足えんそくをやった事ことがある。
赤毛あかげ布ぬのを背負っせおって弁当べんとうをぶら下げぶらさげて、懐中かいちゅうにはおのおの二十にじゅう銭せんずつ持っもって、そうして夜よるの十じゅう時じ頃ころまでかかって、ようやく江の島えのしまのこっち側こっちがわまで着いついた事ことは着いついたが、思い切っおもいきって海うみを渡るわたるものは誰だれもなかった。
申し合せもうしあわせたように毛布もうふに包まっくるまって砂浜すなはまの上うえに寝ねた。
夜中よなかに眼めが覚めるさめると、ぽつりぽつりと雨あめが顔かおへあたっていた。
その上うえ犬いぬが来きて真水しみず英夫ひでおの脚絆きゃはんを啣えて行っいった。
夜よるが白んしらんで物ものの色いろが仄そくに明るくあかるくなった頃ころ、御ご互たがいの顔かおを見渡すみわたすと、誰だれも彼かれも奇麗きれいに砂すなだらけになっている。
眼めを擦るすると砂すなが出るでる。
耳みみを掘ほりくると砂すなが出るでる。
頭あたまを掻いかいても砂すなが出るでる。
七なな人ひとはそれで江の島えのしまへ渡っわたった。
その時じ夜明けよあけの風かぜが島しまを繞っめぐって、山やまにはびこる樹きがさあと靡いなびいた。
すると余よの傍そばに立ったっていた是ぜ公こうが何なんと思っおもったものか、急きゅうにどうだ、あの樹きを見ろみろ、戦々せんせん兢々きょうきょうとしているじゃないかと云っいった。
草木くさきの風かぜに靡くなびく様ようを戦々せんせん兢々きょうきょうと真面目まじめに形容けいようしたのは是ぜ公こうが嚆矢こうしなので、それから当分とうぶんの間まは是ぜ公こうの事ことを、みんなが戦々せんせん兢々きょうきょうと号しごうしていた。
当人とうにんだけは、いまだに戦々せんせん兢々きょうきょうで差支えさしつかえないと信じしんじているかも知れしれないんだから、ゼントルメン大いにおおいに飲みのみましょうも、この際さい亜米利加あめりか語ごとして士官しかん側がわに通用つうようしたと心得こころえているんだろう。
通じつうじた証拠しょうこには胴どう上うえにしたじゃないかくらい、酔うようと云いいいかねない男おとこである。
十三じゅうさん
昨夕さくゆうは川崎かわさき造船所ぞうせんしょの須田すだ君きみからいっしょに晩食ばんしょくでも食おうくおうと云ういう案内あんないがあったが、例れいのごとく腹はらが痛むいたむので、残念ざんねんながら辞退じたいして、寝室しんしつで肉汁にくじゅうを飲んのんで寝ねてしまった。
朝あさ起きるおきるや否いなや、もう好かろうよかろうと思っおもって、腹はらの近所きんじょへ神経しんけいをやって、探りさぐりを入れいれて見るみると、やッぱりやっぱり変へんだ。
何なんだか自分じぶんの胃いが朝あさから自分じぶんを裏切ろううらぎろうと工んたくんでいるような不安ふあんがある。
さてどこが不安ふあんだろうと、局所きょくしょを押えおさえにかかると、どこも応じおうじない。
ただ曇っくもった空そらのように、鈍痛どんつうが薄くうすく一いち面めんに広がっひろがっている。
苦いにがい顔かおをして食堂しょくどうへ下りくだりて飯めしをすましてまた室むろへ帰っかえってぼんやりしていると、河村かわむらさんが戸口とぐちまで来きて、今夜こんや満鉄まんてつのものが主人しゅじん役やくになってあなたがた二三にさん名なを扇芳せんほう亭てぃんへ招待しょうたいしたいからと云ういう叮嚀ていねいな御ご挨拶あいさつである。
どうもせっかくですが、実じつはこれこれでと断ることわると、そうですか、実じつは総裁そうさいも今夜こんやは所労しょろうで出でられませんと答えこたえて帰らかえられた。
河村かわむら君きみが帰るかえるや否いなや股野こやが案内あんないもなくやって来きた。
今日きょうは襟えりの開いひらいた着物きものを着きて、ちゃんと白いしろい襯衣と白いしろい襟えりをかけているから感心かんしんした。
股野こやと少しすこし話しはなしているところへ、また御客ごきゃくがあらわれた。
ボイぼいの持っもって来きた名刺めいしには東北大学とうほくだいがく教授きょうじゅ橋本はしもと左五郎さごろうとあったので、おやと思っおもった。
橋本はしもと左五郎さごろうとは、明治めいじ十七じゅうなな年ねんの頃ころ、小石川こいしかわの極楽ごくらく水みずの傍そばで御寺おてらの二に階かいを借りかりていっしょに自炊じすいをしていた事ことがある。
その時じは間代まだいを払っはらって、隔日かくじつに牛肉ぎゅうにくを食っしょくって、一いち等とう米べいを焚いたいて、それで月々つきづき二に円えんですんだ。
もっとも牛肉ぎゅうにくは大きなおおきな鍋なべへ汁しるをいっぱい拵えこしらえて、その中なかに浮かしうかして食っしょくった。
十じゅう銭せんの牛うしを七なな人ひとで食うくうのだから、こうしなければ食いくいようがなかったのである。
飯めしは釜かまから杓っひしゃくって食っしょくった。
高いたかい二に階かいへ大きなおおきな釜かまを揚げるあげるのは難義なんぎであった。
余よはここで橋本はしもとといっしょに予備よび門もんへ這入るはいる準備じゅんびをした。
橋本はしもとは余よよりも英語えいごや数字すうじにおいて先輩せんぱいであった。
入学試験にゅうがくしけんのとき代数だいすうがむずかしくって途方とほうに暮れくれたから、そっと隣席りんせきの橋本はしもとから教えおしえて貰っもらって、その御蔭みかげでやっと入学にゅうがくした。
ところが教えおしえた方ほうの橋本はしもとは見事みごとに落第らくだいした。
入学にゅうがくをした余よもすぐ盲腸炎もうちょうえんに罹っかかった。
これは毎晩まいばん寺てらの門前もんぜんへ売りうりに来るくる汁粉しるこを、規則きそくのごとく毎晩まいばん食っしょくったからである。
汁粉しるこ屋やは門前もんぜんまで来きた合図あいずに、きっと団扇うちわをばたばたと鳴らしならした。
そのばたばた云ういう音おとを聞くきくと、どうしても汁粉しるこを食わくわずにはいられなかった。
したがって、余よはこの汁粉しるこ屋やの爺じいのために盲腸炎もうちょうえんにされたと同然どうぜんである。
その後あと左ひだり五ごは――当時とうじ余よ等とうは橋本はしもとを呼んよんで、左ひだり五ご左ひだり五ごと云っいっていた。
実際じっさい彼かれは岡山おかやまの農家のうかの生れうまれであった。
――左ひだり五ごはその後あと追試験ついしけんに及第きゅうだいしたにはしたが、するかと思うおもうとまた落第らくだいした。
そうして、何なんだ下らしたらないと云っいって北海道ほっかいどうへ行っいって農学校のうがっこうへ這入っはいってしまった。
それから独逸どいつへ行っいった。
独逸どいつへ行っいって、いつまで経っきょうっても帰らかえらない。
とうとう五ご年ねんか六ろく年ねんかいた。
つまり留学りゅうがく期限きげんの倍ばいか倍ばい以上いじょうも向うむこうで暮しくらした事ことになる、その費用ひようはどうして拵えこしらえたものかとんと分らわからない。
この橋本はしもとが不思議ふしぎにも余よより二三にさん月つき前まえに満鉄まんてつの依頼いらいに応じおうじて、蒙古もうこの畜産ちくさん事こと状じょうを調査ちょうさに来きて、その調査ちょうさが済んすんで今いま大連だいれんに帰っかえったばかりのところへ出でっ食わしくわしたのである。
顔かおを見るみると、昔むかしから慓悍ひょうかんの相そうがあったのだが、その慓悍ひょうかんが今いま蒙古もうこと新しいあたらしい関係かんけいがついたため、すこぶる活躍かつやくしている。
闥を排しはいして這入っはいって来るくるや否いなや、どうだ相そう変らかわらず頑健がんけんかねと聞かきかざるを得とくなかったくらいである。
十四じゅうよん
ええまあ相そう変らかわらずでと、橋本はしもとは案あんに相違そういした落ちつきおちつき方ほうである。
昔むかし予備よび門もんに這入っはいって及第きゅうだいだとか落第らくだいだとか騒いさわいでいた時分じぶんにはけっしてこう穏かおだやかじゃなかった。
彼かれの鼻はなの先さきが反返っそりかえっているごとく、彼かれは剽軽ひょうきんでかつ苛いらち辣からであった。
余よはこの鼻はなのためによく凹まさへこまされた事ことを記憶きおくしている。
その頃ころは大勢おおぜいで猿楽町さるがくちょうの末富すえとみ屋やという下宿げしゅくに陣取っじんどっていた。
この同勢どうぜいは前後ぜんごを通じるつうじると約やく十人じゅうにん近くちかくあったが、みんな揃いそろいも揃っそろった馬鹿ばかの腕白わんぱくで、勉強べんきょうを軽蔑けいべつするのが自己じこの天職てんしょくであるかのごとくに心得こころえていた。
下した読よみなどはほとんどやらずに、一学期いちがっきから一学期いちがっきへ辛うじてかろうじて綱渡りつなわたりをしていた。
英語えいごは教場きょうじょうであてられた時じに、分らわからない訳わけを好いよい加減かげんにつけるだけであった。
数学すうがくはできるまで塗板とばんの前まえに立ったっているのを常つねとしていた。
余よのごときは毎々まいまい一いち時間じかんぶっ通しぶっとおしに立往生りっおうじょうをしたものだ。
みんなが代数だいすう書しょを抱えかかえて今日きょうも脚気かっけになるかなど云っいっては出かけでかけた。
こう云ういう連中れんちゅうだから、大概たいがいは級きゅうの尻しりの方ほうに塊まっかたまって、いつでも雑然ざつぜんと陳列ちんれつされていた。
余よのごときは、入学にゅうがくの当時とうじこそ芳賀はが矢一やいちの隣となりに坐っすわっていたが、試験しけんのあるたんびに下落げらくして、しまいには土俵どひょう際さいからあまり遠くとおくない所ところでやっと踏みふみ応えこたえていた。
それでも、みんな得意とくいであった。
級きゅうの上うえにいるものを見みて、なんだ点取てんとりがと云っいって威張っいばっていたくらいである。
そうして、稍ややともすると、我々われわれはポテンシャルぽてんしゃる・エナージーえなーじーを養うやしなうんだと云っいって、むやみに牛肉ぎゅうにくを喰っくって端艇たんていを漕いこいだ。
試験しけんが済むすむとその晩ばんから机つくえを重ねかさねて縁側えんがわの隅すみへ積み上げつみあげて、誰だれも勉強べんきょうのできないような工夫くふうをして、比較的ひかくてき広くひろくなった座敷ざしきへ集っつどって腕うで押おうをやった。
岡野おかのという男おとこはどこからか、玩具がんぐの大砲たいほうを買っかって来きて、それをポンポンぽんぽん座敷ざしきの壁かべへ向っむかって発射はっしゃした。
壁かべには穴あながたくさん開いひらいた。
試験しけんの成績せいせきが出るでると、一人ひとりでは恐いこわいからみんなを駆り催しかりもよおして揃っそろって見みに行っいった。
するとことごとく六十ろくじゅう代だいで際どくきわどく引っ掛っひっかかっている。
橋本はしもとは威勢いせいの好いよい男おとこだから、ある時じ詩しを作っつくって連中れんちゅう一同いちどうに示ししめした。
韻いんも平仄ひょうそくもない長いながい詩しであったが、その中なかに、何なんぞ憂えうれえん席せき序じょ下した算さんの便びんと云ういう句くが出でて来きたので、誰だれにも分らわからなくなった。
だんだん聞いきいて見るみると席せき序じょ下した算さんの便びんとは、席順せきじゅんを上うえから勘定かんじょうしないで、下したから計算けいさんする方ほうが早分りはやわかりだと云ういう意味いみであった。
まるで御籤みくじみたような文句もんくである。
我々われわれはみんなこの御籤みくじにあたってひやひやしていた。
そのうち下した算さんにも上うえ算さんにもまるで勘定かんじょうに這入らはいらないものが、ぽつぽつできて来きた。
一人ひとり消えきえ、二人ふたり消えるきえるうちに橋本はしもとがいた。
是ぜ公こうがいた。
こう云ういう自分じぶんもいた。
大連だいれんで是ぜ公こうに逢っあって、この落第らくだいの話はなしが出でた時じ、是ぜ公こうは、やあ、あの時じ貴様きさまも落第らくだいしたのかな。
そいつは頼母しいたのもしいやと大いにおおいに嬉しうれしがるから、落第らくだいだって、落第らくだいの質しつが違わちがわあ。
おれのは名誉めいよの負傷ふしょうだと答えこたえておいた。
是ぜ公こうだの、余よだの、今いまの旅順りょじゅんの警視けいし総長そうちょうだのが落ちおちながら、ぶら下がっぶらさがっている間まに、左ひだり五ごだけは決然けつぜんとして北海道ほっかいどうへ落ち延びおちのびたのである。
その落第らくだいの張本ちょうほんとも云ういうべき彼かれが、いくら年ねんを取っとったって、かほどに慇懃いんぎんになろうとは思いおもいも寄らよらぬ事ことであった。
今日きょうは午後ごごから満鉄まんてつの社しゃへ行っいって、蒙古もうこ旅行りょこうに関するかんする話はなしをするんだと云っいっている。
十五じゅうご
河村かわむらさんの書いかいてくれた表ひょうを見るみると、娯楽ごらく機関きかんという題目だいもくのもとに、倶楽部くらぶとか会かいとか名なのつくものが十じゅうばかり並べならべてある。
中なかにはゴルフごるふ会かいだの、ヨットよっと倶楽部くらぶだのと、名前なまえからして洒落しゃれたのさえ、ちらほら見えるみえる。
ヨットよっと倶楽部くらぶの下したに(ただし一いち艘そう)と括弧かっこで註ちゅうがついているのは、新設しんせつだからまだ一いち艘そうしかないという意味いみなんだろう。
参観さんかんすべき場所ばしょと云ういう標題ひょうだいのもとには、山城町やましろまちの大連だいれん医院いいんだの、児玉こだま町まちの従業員じゅうぎょういん養成所ようせいしょだの近江町おうみちょうの合宿がっしゅく所ところだの、浜町はまちょうの発電所はつでんしょだの、何なんだのかだのみんなで十じゅう五ご六ろくほどある。
なるほどこれでは大連だいれんに一いち週間しゅうかんぐらいいなければ、満鉄まんてつの事業じぎょうも一通りひととおり観るみる訳わけに行かいかないと云わいわれるはずだ。
しかも是ぜ公こうは是非ぜひ共とも万遍まんべんなくよく観かんて行かいかなくっちゃいけないよと命令めいれい的まとに注意ちゅういするんだから、容易よういじゃない。
その上うえよく観かんて、何なんでも気きがついた事ことがあるなら、そう云いいいなさいと、あたかも余よを視察しさつ家いえ扱こきにするんだからなおさら痛み入るいたみいる。
余よは手てに持っもった表ひょうに一通りひととおり眼めを通しとおしながら、傍そばにいる股野こやに、おい少しすこし出でて見るみるかなと云っいった。
股野こやは固よりもとより余よを連れつれて、大おお連中れんちゅうぐるぐる引き廻すひきまわす気きで来きている。
もっとも別段べつだん社しゃからつけてくれたという訳わけじゃないんだが、本人ほんにんの特志とくしで社しゃの用事ようじをすっぽかす了見りょうけんらしい。
そうしていつの間まにか、ホテルほてるへ馬車ばしゃを云いいいつけている。
余よは股野こやと相乗りあいのりで立派りっぱな馬車ばしゃを走らしはしらして北きた公園こうえんに行っいった。
と云ういうと大層たいそうだが、車くるまの輪わが五六ごろく度ど回転かいてんすると、もう公園こうえんで、公園こうえんに這入っはいったかと思うおもうと、もう突き抜けつきぬけてしまった。
それから社員しゃいん倶楽部くらぶと云ういうのに連れつれて行かいかれて、謡うたいの先生せんせいの月給げっきゅうが百五十ひゃくごじゅう円えんだと云ういう事ことを聞いきいて、また馬車ばしゃへ乗っのって、今度こんどは川崎かわさき造船所ぞうせんしょの須田すだ君きみの所ところの工場こうじょうを外そとから覗き込んのぞきこんで、すぐ隣となりの事務所じむしょに這入っはいって、須田すだ君きみに昨日きのうの御礼ごれいを述べのべた。
事務所じむしょの前まえがすぐ海うみで、船渠せんきょの中なかが蒼くあおく澄んすんでいる。
あれで何なん噸とんぐらいの船ふねが這入りはいりますかと聞いきいたら、三千さんぜん噸とんぐらいまでは入れるいれる事ことができますという須田すだ君きみの答こたえであった。
船渠せんきょの入口いりぐちは四十二よんじゅうに尺さしだとか云っいった。
余よは高いたかい日ひがまともに水みずの中なかに差し込んさしこんで、動きうごきたがる波なみを、じっと締めつけしめつけているように静かしずかな船渠せんきょの中なかを、窓まどから見下しみくだしながら、夏なつの盛りもりに、この大きなおおきな石いしで畳んたたんだ風呂ふろへ這入っはいって泳ぎ回っおよぎまわったらさぞ結構けっこうだろうと思っおもった。
今度こんどはどこだと股野こやに聞いきいて見るみると、今度こんどは電気でんきの工場こうじょうへ行きいきましょうという事ことである。
鉄嶺てつれい丸まるが大連だいれんの港みなとへ這入っはいったときまず第だい一いちに余よの眼めに、高くたかく赤くあかく真直まっすぐに映じえいじたものはこの工場こうじょうの煙突えんとつであった。
船ふねのものはあれが東洋とうよう第だい一いちの煙突えんとつだと云っいっていた。
なるほど東洋とうよう第だい一いちの煙突えんとつを持っもっているだけに、中なかへ這入るはいると、凄じいすさまじいものである。
その一部分いちぶぶんでは、天井てんじょうを突き抜いつきぬいて、青空あおぞらが見えるみえるようにして、四方しほうの壁かべを高くたかく積み上げつみあげていた。
屋根やねの高さたかさを増すます必要ひつようがあっての事ことだろうが、青空あおぞらが煉瓦れんがの上うえに遠くとおく見えるみえるばかりか、尋常じんじょうの会話かいわはとうてい聞えきこえないくらいに、恐ろしいおそろしい音おとが響いひびいている中なかに、塵ごみを浴びあびて立ったった時じは、妙みょうな心持こころもちがした。
ある所ところは足あしの下したも掘り下げほりさげて、暗いくらい所ところにさまざまの仕掛しかけが猛烈もうれつに活動かつどうしていた。
工業こうぎょう世界せかいにも、文学者ぶんがくしゃの頭あたま以上いじょうに崇高すうこうなものがあるなと感心かんしんして、すぐその棟むねを飛び出しとびだしたくらいである。
詮ずるせんずるに要領ようりょうはただ凄まじいすさまじい音おとを聞いきいて、同じくおなじく凄まじいすさまじい運動うんどうを見みたのみである。
股野こやはその間まを馳け回っかけまわって、おい誰だれさんはいないかねと、しきりに技師ぎしを探しさがしていた。
技師ぎしは股野こやに捕まるつかまるほど閑かんでなかったと見えみえて、とうとう見当らみあたらなかった。
十六じゅうろく
今日きょうは化物ばけもの屋敷やしきを見みて来きたと云ういうと、田中たなか君きみが笑いわらいながら、夏目なつめさん、なぜ化物ばけもの屋敷やしきというんだか訳わけを知っしっていますかと聞いきいた。
余よは固よりもとより下級かきゅう社員しゃいん合宿がっしゅく所ところの標本ひょうほんとして、化物ばけもの屋敷やしきの中なかを一覧いちらんしたまでで、化物ばけものの因縁いんねんはまだ詮議せんぎしていなかった。
けれども化物ばけもの屋敷やしきはこれだと云わいわれた時じには、うんそうかと云っいって、少しすこしも躊躇ちゅうちょなく足あしを踏込んふみこんだ。
なぜそんな恐ろしいおそろしい名なが、この建物たてものに付纏っつきまとっているのかと、立ちどまったちどまって疑っうたがって見るみる暇ひまも何なんもなかった。
いわゆる化物ばけもの屋敷やしきはそれほど陰気いんきにでき上がっできあがっていた。
でき上っできあがったというと新規しんきに拵えこしらえた意味いみを含んふくんでいるから、この建築けんちくの形容けいようとしては、むしろ不適当ふてきとうであるかも知れしれない。
化物ばけもの屋敷やしきはそのくらい古いふるい色いろをしている。
壁かべは煉瓦れんがだろうが、外部がいぶは一面いちめんの灰色はいいろで、中なかには日ひの透りとおりそうもない、薄暗いうすぐらい空気くうきを湛えるたたえるごとくに思わおもわれた。
余よはこの屋敷やしきの長いながい廊下ろうかを一いち階かい二に階かい三さん階かいと幾いく返かえしか往来おうらいした。
歩けあるけば固いかたい音おとがする。
階段かいだんを上るのぼるときはなおさらこつこつ鳴っなった。
階段かいだんは鉄てつでできていた。
廊下ろうかの左右さゆうはことごとく部屋へやで、部屋へやという部屋へやは皆みな締め切っしめきってあった。
その戸との上うえに、室むろの所有者しょゆうしゃの標札ひょうさつがかかっている。
烈しいはげしい光線こうせんに慣れなれた眼めで、すぐその標札ひょうさつを読もうよもうとすると、判然はんぜん読めよめないくらい廊下ろうかは暗かっくらかった。
余よはちょっと立ちどまったちどまって室むろの中なかを見るみる訳わけには行かいかないのかなと股野こやに聞いきいて見みた。
股野こやはすぐ持っもっていた洋杖すてっきで右手みぎての戸とをとんと叩いたたいた。
しかしはいとも、這入れはいれとも応えるこたえるものはなかった。
股野こやはまた二に番目ばんめの戸とをとんとん叩いたたいた。
これも中なかはしんとしている。
股野こやは毫もごうも辟易へきえきした気色けしきなく無遠慮むえんりょにそこいら中なかこつこつ叩いたたいて歩いあるいたが、しまいまで人気にんきのする室むろには打つからうつからなかった。
あたかも立ち退いたちのいた町まちの中なかを歩いあるいているような感じかんじがした。
三さん階かいに来きた時じ、細いほそい廊下ろうかの曲り角まがりかどで一人ひとりの女おんなが鍋なべで御ご菜なを煮にているのに出逢っであった。
そこには台所だいどころがあった。
化物ばけもの屋敷やしきでは五六ごろく軒のき寄っよって一いちつの台所だいどころを持っもっているのだそうだ。
御ご神かみさん水みずは上うえにありますかと尋ねたずねたら、いえ下したから汲んくんで揚げあげますと答えこたえた。
余よはこの暗いくらい町内ちょうないに、便所べんじょがどこにいくつあるか不審ふしんに思っおもったが、つい聞きききもせず、女おんなの前まえを行きいき過ぎすぎて通ろうとおろうとすると、そっちは行きどまりいきどまりでございますと注意ちゅういされた。
道理どうりで真しん闇やみであった。
田中たなか君きみの話はなしによると、この建物たてものは日露にちろ戦争せんそうの当時とうじの病院びょういんだとか云ういう事ことである。
戦争せんそうが烈しくはげしくなって、負傷者ふしょうしゃの数すうが増しまして来るくるに従っしたがって、収容しゅうようした人間にんげんに充分じゅうぶんの手当てあてができないばかりでなく、気の毒きのどくながら見殺しみごろしにしなければならない兵士へいしがたくさんにできて、それらの創口そうこうから出るでる怨みうらみの声こえが大おお連中れんちゅうに響きひびき渡るわたるほど凄じかっすさまじかったので、その以後いごはこの一廓いっかくを化物ばけもの屋敷やしきと呼ぶよぶようになった。
しかし本当ほんとうだか嘘うそだか実じつは僕ぼくも保証ほしょうしないと、田中たなか君きみ自身じしんが笑っわらっていたから、余よはなおさら保証ほしょうしない。
ただ満鉄まんてつの重役じゅうやくが始めはじめて大連だいれんに渡っわたったとき、この化物ばけもの屋敷やしきに陣じんを構えかまえた事ことだけは事実じじつである。
その時じこの建物たてものは化物ばけものさえ住みすみかねるほどに荒れ果てあれはてて、残ざん焼やけ家屋かおくとして、骸骨がいこつのごとくに突っ立っつったっていたそうである。
陣取っじんどった連中れんちゅうは死物しぶつ狂きょうで、天候てんこうと欠乏けつぼうと不便ふべんに対したいして戦後せんごの戦争せんそうを開始かいしした。
汽車きしゃの中なかで炭すみを焚いたいて死にしに損なっそこなったり、貨車かしゃへ乗っのって、カンテラかんてらを点けつけて用ようを足そうたそうとすると、そのカンテラかんてらが揺ぶれゆさぶれてすぐ消えきえてしまったり、サイホンさいほんを呑むのむと二三にさん滴しずく口くちへ這入るはいるだけであとはすぐ氷こおりの棒ぼうに変化へんかしたり、すべてが探険たんけんと同様どうようであった。
「清野きよのが毛織けおりの襯衣を半はんダースだーす重ねかさねて着きたのは彼かれ時じだよ」「清野きよのは驚いおどろいて、あれっきりやって来きない」 余よは田中たなか君きみと是ぜ公こうがこんな話はなしをするのを聞いきいて、つい化物ばけもの屋敷やしきの事ことを忘れわすれてしまった。
十七じゅうなな
三さん階かいへ上っのぼって見るみると豆まめばかりである。
ただ窓際まどぎわだけが人ひとの通るとおる幅はばぐらいの床ゆかになっている。
余よは静かしずかに豆まめと壁かべの間まをぐるぐる廻っまわって歩いあるいた。
気きをつけないと、足あしの裏うらで豆まめを踏み潰すふみつぶす恐れおそれがある上うえに、人ひとのいない天井てんじょう裏うらを無益むえきに響かすひびかすのが苦くになったからである。
豆まめは砂山すなやまのごとく脚下きゃっかに起伏きふくしている。
こちらの端はしから向うむこうの端はしまで眺めながめて見るみると、随分ずいぶんと長いながい豆まめの山脈さんみゃくができ上っできあがっていた。
その真中まなかを通しとおして三さんカ所かしょほどに井桁いげたに似にた恰好かっこの穴あなが掘っほってある。
豆まめはその中なかから断だんえず下したへ落ちおちて行っいって、平たくひらたく引割ひきわりられるのだそうだ。
時々ときどきどさっと音おとがして、三さん階かいの一隅いちぐうに新しいあたらしい砂山すなやまができる。
これはクーリーくーりーが下したから豆まめの袋ふくろを背負っせおって来きて、加減かげんの好いよい場所ばしょを見計らっみはからって、袋ふくろの口くちから、ばらに打ち撒けぶちまけて行くいくのである。
その時じはぼうと咽るむせるような煙けむりが立ったって、数えかぞえ切れきれぬほどの豆まめと豆まめの間まに潜んひそんでいる塵ごみが一度いちどに踊り上るおどりあがる。
クーリーくーりーはおとなしくて、丈夫じょうぶで、力ちからがあって、よく働いはたらいて、ただ見物けんぶつするのでさえ心持こころもちが好いよい。
彼かれ等とうの背中せなかに担いにないでいる豆まめの袋ふくろは、米俵こめだわらのように軽いかるいものではないそうである。
それを遥はるかの下したから、のそのそ背負っせおって来きては三さん階かいの上うえへ空けあけて行くいく。
空けあけて行っいったかと思うおもうとまた空けあけに来るくる。
何人なんにんがかりで順々じゅんじゅんに運んはこんでくるのか知れしれないが、その歩調ほちょうから態度たいどから時間じかんから、間隔かんかくからことごとく一様いちようである。
通り路とおりみちは長いながい厚板あついたを坂さかに渡しわたして、下したから三さん階かいまでを、普請ふしんの足場あしばのように拵えこしらえてある。
彼かれ等とうはこの坂さかの一いちつを登っのぼって来きて、その一いちつをまた下りくだりて行くいく。
上るのぼるものと下りるおりるものが左右さゆうの坂さかの途中とちゅうで顔かおを見合せみあわせてもほとんど口くちを利いきいた事ことがない。
彼かれ等とうは舌したのない人間にんげんのように黙々もくもくとして、朝あさから晩ばんまで、この重いおもい豆まめの袋ふくろを担ぎかつぎ続けつづけに担いにないで、三さん階かいへ上っのぼっては、また三さん階かいを下るくだるのである。
その沈黙ちんもくと、その規則きそくずくな運動うんどうと、その忍耐にんたいとその精力せいりょくとはほとんど運命うんめいの影かげのごとくに見えるみえる。
実際じっさい立ったって彼かれ等とうを観察かんさつしていると、しばらくするうちに妙みょうに考えかんがえたくなるくらいである。
三さん階かいから落ちおちた豆まめが下したへ回るまわるや否いなや、大きなおおきな麻あさ風呂敷ふろしきが受取っうけとって、たちまち釜かまの中なかに運び込むはこびこむ。
釜かまの中なかで豆まめを蒸すふかすのは実じつに早いはやいものである。
入れるいれるかと思うおもうと、すぐ出しだしている。
出すだすときには、風呂敷ふろしきの四隅よすみを攫んつかんで、濛々もうもうと湯気ゆげの立つたつやつを床ゆかの上うえに放り出すほうりだす。
赤銅しゃくどうのような肉にくの色いろが煙けむりの間まから、汗あせで光々ひかりするのが勇ましくいさましく見えるみえる。
この素裸すっぱだかなクーリーくーりーの体格たいかくを眺めながめたとき、余よはふと漢かん楚軍そぐん談だんを思い出しおもいだした。
昔むかし韓信かんしんに股またを潜らしくぐらした豪傑ごうけつはきっとこんな連中れんちゅうに違いちがいない。
彼かれ等とうは胴どうから上うえの筋肉きんにくを逞しくたくましく露わあらわして、大きなおおきな足あしに牛うしの生皮なまかわを縫合ほうごうせた堅いかたい靴くつを穿いはいている。
蒸しむした豆まめを藺いで囲んかこんで、丸いまりい枠わくを上うえから穿めて、二に尺さしばかりの高さたかさになった時じ、クーリーくーりーはたちまちこの靴くつのまま枠わくの中なかに這入っはいって、ぐんぐん豆まめを踏み固めるふみかためる。
そうして、それを螺旋らせんの締しめ棒ぼうの下したに押込んおしこんで、把わをぐるぐると廻しまわし始めるはじめる。
油あぶらは同時どうじに搾らしぼられて床下ゆかしたの溝みぞにどろどろに流れ込むながれこむ。
豆まめは全くまったくの糟かすだけになってしまう。
すべてが約やく二三にさん分ぶんの仕事しごとである。
この油あぶらが喞筒の力ちからで一いち丈たけ四方しほうもあろうという大きなおおきな鉄てつの桶おけに吸上げすいあげられて、静せいに深しんそうに淀んよどんでいるところを、二に階かいへ上がっあがって三さんつも四よんつも覗き込んのぞきこんだときには、恐ろしくおそろしくなった。
この中なかに落ちおちて死ぬしぬ事ことがありますかと、案内あんないに聞いきいたら、案内あんないは平気へいきな顔かおをして、まあ滅多めったに落ちるおちるような事ことはありませんねと答えこたえたが、余よはどうしても落ちおちそうな気きがしてならなかった。
クーリーくーりーは実じつにみごとに働きはたらきますね、かつ非常ひじょうに静粛せいしゅくだ。
と出がけでがけに感心かんしんすると、案内あんないは、とても日本人にっぽんにんには真似まねもできません。
あれで一いち日ひ五六ごろく銭せんで食っしょくっているんですからね。
どうしてああ強いつよいのだか全くまったく分りわかりませんと、さも呆れあきれたように云っいって聞かきかせた。
十八じゅうはち
股野こやが先生せんせい私わたくしの宅たくへ来きなさらんか、八はち畳たたみの間まが空いむなしいています、夜具やぐも蒲団ふとんもあります。
ホテルほてるにいるより呑気のんきで好いよいでしょうと親切しんせつに云っいってくれる。
何なんでも股野こやの家いえの座敷ざしきからは、大連だいれんが一目いちもくに見渡さみわたされるのみならず、海うみが手てに取るとるように眺めながめられるのみならず、海うみの向うむこうに連なるつらなる突とっ兀こつ極まるきわまる山脈さんみゃくさえ、坐っすわっていると、窓まどの中なかに向うむこうから這入っはいって来きてくれるという重宝ちょうほうな家いえなんだそうである。
始めはじめのうちは股野こやの自慢じまんを好よしみ加減かげんに聞き流しききながして、そうかそうかと答えこたえていたが、せっかくの好意こういではあるし、もともと気きの多いおおい男おとこだから、都合つごうによっては少しすこし厄介やっかいになっても好いよいぐらいに思っおもって、ついでの時じ是ぜ公こうにこの話はなしをすると、そんな所ところへ行っいっちゃいかんとたちまち叱らしかられてしまった。
もしホテルほてるが厭いやなら、おれの宅たくへ来いこい、あの部屋へやへ入れいれてやるからと云ういうんで、書斎しょさいの次つぎの畳たたみの敷いしいてある間まを見せみせてくれるんだが、別べつに西洋せいよう流りゅうの宿屋やどやに愛想あいそをつかした訳わけでもないんだから、じゃ厄介やっかいになろうとも云わいわなかった。
是ぜ公こうは書斎しょさいの大きなおおきな椅子いすの上うえに胡坐こざをかいて、河豚ふぐの干物ひものを噛って酒さけを呑んのんでいる。
どうして、あんな堅いかたいものが胃いに収容しゅうようできるかと思うおもうと、実じつに恐ろしくおそろしくなる。
そうこうする内うちに、おいゼムぜむを持っもっているなら少しすこしくれ、何なんだかおれも胃いが悪くわるくなったようだと手てを出しだした。
そうして、胃いが悪いわるいときは、河豚ふぐの干物ひものでも何なんでも、ぐんぐん喰っくって、胃病いびょうを驚かしおどろかしてやらなければ駄目だめだ。
そうすればきっと癒るなおると云っいった。
酔っよいっていたに違いない。
余よはポッケットぽっけっとから注文ちゅうもんの薬くすりを出しだして相手あいてにあてがった。
これは二三にさん日ひ前まえ是ぜ公こうといっしょに馬車ばしゃに乗っのって、市し中なかを乗り廻しのりまわした時じ、是ぜ公こうの御者ぎょしゃから二十にじゅう銭せん借りかりて大連だいれんの薬屋くすりやで買っかったものである。
その時じは是ぜ公こうの御者ぎょしゃに対するたいする態度たいどのすこぶる叮嚀ていねいなのに気きがついて少しくすこしく驚かさおどろかされた。
君きみちょっとそこいらの薬屋くすりやへ寄っよって、ゼムぜむを買っかってやって下さいくださいと云ういうんだから非凡ひぼんである。
君きみは御者ぎょしゃに対したいして叮嚀ていねい過ぎるすぎるよと忠告ちゅうこくしてやったら、うんあの時じの二十にじゅう銭せんをまだ払わはらわなかったっけと思い出しおもいだしたように河豚ふぐの干物ひものをまた噛っていた。
是ぜ公こうの御者ぎょしゃには廿にじゅう銭せん借かりがあるだけだが、その別当べっとうに至っいたっては全くまったく奇抜きばつである。
第一だいいち日本人にっぽんにんじゃない。
辮髪べんぱつを自慢じまんそうに垂らしたらして、黄色きいろの洋よう袴はかまに羅紗らしゃの長靴ながぐつを穿いはいて、手てに三さん尺さしほどの払子ほっすをぶら下げぶらさげている。
そうして馬うまの先さきへ立ったって駆けるかける。
よくあんな紳士的しんしてきな服装ふくそうをして汗あせも出さださずに走らはしられる事ことだと思うおもうくらいに早くはやく走そうける。
もっとも足あしも長かっながかった。
身の丈みのたけは六ろく尺さし近くちかくある。
別当べっとうと御者ぎょしゃはこのくらいにしてまた股野こやにかえるが、余よは是ぜ公こうに叱らしかられたため、とうとう股野こやの家いえへは移らうつらなかった。
けれども遊びあそびには行っいった。
なるほど小山こやまの上うえに建てたてられた好いよい社宅しゃたくである。
もっとも一いち軒のき立たてではない。
長いながい棟むねがいくつも灰色はいいろに並んならんでいるうちの一番いちばんはずれの棟むねの、一番いちばん最後さいごの番号ばんごうのその二に階かいが彼かれの家族かぞくの領分りょうぶんであった。
岡おかの下したから見るみると、まるで英国えいこくの避暑地ひしょちへ行っいったようだとある西洋せいよう人ひとが評しひょうしたほど、外部がいぶは厚いあつい壁かべで洋式ようしきにできているが、中なかには日本にっぽんの香こうがする奇麗きれいな畳たたみが敷いしいてあった。
なるほど景色けしきが好いよい。
大連だいれんの市街しがいが見えるみえる、大連だいれんの海うみが見えるみえる、大連だいれんの向うむこうの山やまが見えるみえる。
股野こやの家いえにはもったいないくらいである。
余よはそこで村井むらい君きみに逢っあって、股野こやの細君さいくんに逢っあって、手厚いてあつい御馳走ごちそうになって帰っかえった。
十九じゅうきゅう
支那しなの宿屋やどやを一いちつ見みましょうと云いいいながら、股野こやは路みちの左側ひだりがわにある戸とを開けあけて中なかへ這入っはいった。
そこには日本人にっぽんにんが三さん人ひとほど机つくえを並べならべて事務じむを執っとっていた。
股野こやはそのうちの紺こんの洋服ようふくを着きた人ひとを捕まえつかまえて、話はなしを始めはじめた。
君きみここは宿屋やどやだろうと聞いきいている。
宿屋やどやじゃないよと立ちたちながら返事へんじをしている。
何なんだか様子ようすが変へんになって来きた。
やがて余よはこの紺こん服ふくの人ひとに紹介しょうかいされた。
紹介しょうかいされて見るみると、これは商業しょうぎょう学校がっこう出での谷村たにむら君きみで、無論むろん旅たび屋やの亭主ていしゅではなかった。
谷村たにむら君きみはこの地ちで支那しな人ひとと組んくんで豆まめの商売しょうばいを営んいとなんでいる。
したがって取引とりひき上うえの必要ひつようがあって、奥おくの方ほうから大連だいれんへ出でて来るくる豆まめの荷主にぬしと接触せっしょくしなければならないのだが、こっちの習慣しゅうかんとして、こう云ういう荷主にぬしはけっして普通ふつうの旅籠はたごを取らとらない。
出でて来れこればきっと取引先とりひきさきへ宿っやどって、用ようの済むすむまではいつまででもそこに滞在たいざいしている。
しかもその数すうは一人ひとりや二人ふたりではない。
したがって谷村たにむら君きみの奥座敷おくざしきは一種いっしゅの宿屋やどやみたような組織そしきにできている。
じゃその奥座敷おくざしきをちょっと拝見はいけんできますかと云ういうと、谷村たにむら君きみはさあさあと自分じぶんから席せきを離れはなれて、快よくこころよく案内あんないに立たたたれる。
余よは谷村たにむら君きみの後あとへ追いおいて事務室じむしつの裏うらへ出でた。
股野こやも食しょく付いついて出でた。
裏うらは真四角しんしかくな庭にわになっている。
無論むろん樹きも草くさも花はなも見当らみあたらない、ただの平たいひらたい場所ばしょである。
そこを突き抜けつきぬけた正面しょうめんの座敷ざしきが応接間おうせつかんであった。
応接おうせつ間まの入口いりぐちは低いひくい板間いたまで、突当りつきあたりの高いたかい所ところに蒲団ふとんが敷いしいてある。
その上うえに腰こしをかけて談判だんぱんをするのだそうだが、横着おうちゃくな事ことには大きなおおきな括かつ枕まくらさえ備えつけそなえつけてある。
しかし肱ひじを突くつくためか、頭あたまを載せるのせるためかは聞き糺しききただして見みなかった。
彼かれ等とうは談判だんぱんをしながら阿片あへんを飲むのむ。
でなければ煙草たばこを吸うすう。
その煙管きせるは煙管きせると云ういうよりも一種いっしゅの器械きかいと評しひょうした方ほうが好いよいくらいである。
錫すずの胴どうに水みずを盛っもって雁首がんくびから洩れるもれる煙けむりがこの水みずの中なかを通っとおって吸口すいくちまで登っのぼってくる仕掛しかけなのだから、慣れなれないうちは水みずを吸い上げすいあげて口中こうちゅうへ入れるいれる恐れおそれがある。
一服いっぷくやって御覧ごらんなさいと勧めすすめられたから、やって見みたが、ごぼごぼ音おとがしてまるで脂あぶらを呑むのむような心持こころもちがした。
二に階かいが荷主にぬしの室むろだと云ういうんで、二に階かいへ上っのぼって見るみると、なるほど室むろがたくさん並んならんでいる。
その中なかの一いちつでは四よん人ひとで博奕ばくちを打っうっていた。
博奕ばくちの道具どうぐはすこぶる雅みやびなものであった。
厚みあつみも大きさおおきさも将棋しょうぎの飛車ひしゃ角かくぐらいに当るあたる札さつを五六十ごろくじゅう枚ばいほど四よん人ひとで分けわけて、それをいろいろに並べかえならべかえて勝負しょうぶを決しけっしていた。
その札さつは磨いみがいた竹たけと薄いうすい象牙ぞうげとを背中せなか合せあわせに接いはいだもので、その象牙ぞうげの方ほうにはいろいろの模様もようが彫刻ちょうこくしてあった。
この模様もようの揃っそろった札さつを何枚なんまいか並べならべて出すだすと勝かちになるようにも思わおもわれたが、要するようするに、竹たけと象牙ぞうげがぱちぱち触れふれて鳴るなるばかりで、どこが博奕ばくちなんだか、実じつはいっこう解らわからなかった。
ただこの象牙ぞうげと竹たけを接ぎ合わしはぎあわした札さつを二三にさん枚ばい貰っもらって来きたかった。
一いちつの室むろでは五六ごろく人ひと寄っよって、そのうちの一人ひとりが笛ふえを吹くふくのを聞いきいていた。
幕まくを開けあけて首くびを出しだしたら、ぱたりと笛ふえを歇めやすめてしまった。
また吹きふき始めるはじめるかと思っおもって、しばらく室むろの中なかに立ったっていたが、とうとう吹かふかなかった。
室むろの中なかには妙みょうな書しょが麗々れいれいと壁かべに貼りつけはりつけてある。
いずれも下手へたいものだのに、何々なになに先生せんせいのために何々なになに書しょすと云っいったようにもったいぶったのばかりであった。
股野こやが何なんか云ういうと、向うむこうの支那しな人ひとも何なんか云ういう。
しかし両方りょうほうの云ういう事ことは両方りょうほうへ通じつうじないようである。
二十にじゅう
波止場はとばから上っのぼって真直まっすぐに行くいくと、大連だいれんの町まちへ出るでる。
それを真直まっすぐに行かいかずに、すぐ左ひだりへ折れおれて長いながい上屋うわやの影かげを向うむこうへ、三四さんよん町まち通り越しとおりこした所ところに相生あいおいさんの家いえがある。
西洋館せいようかんの二に階かいを客間きゃくまにして古いふるい仏像ぶつぞうやら鏡かがみやら銅器どうき陶器とうきの類るいを奇麗きれいに飾っかざっているから、客間きゃくまを見みただけではただ一通りひととおりの風流ふうりゅう人ひととしか見えみえない。
相生あいおいさんは満鉄まんてつの社員しゃいんとして埠頭ふとう事務所じむしょの取締とりしまりである。
もっと卑近ひきんな言葉ことばで云ういうと、荷物にもつの揚よう卸おろしに使わつかわれる仲仕なかしの親方おやかたをやっている。
かつて門司もじの労働者ろうどうしゃが三井みついに対したいしてストライキすとらいきをやったときに、相生あいおいさんが進んすすんでその衝しょうに当っあたったため、手際てぎわよく解決かいけつが着いついたとか云ういうので、満鉄まんてつから仲仕なかしの親分おやぶんとして招聘しょうへいされたようなものである。
実際じっさい相生あいおいさんは親分おやぶん気質きしつにでき上っできあがっている。
満鉄まんてつから任用にんようの話はなしがあったとき、子供こどもが病気びょうきで危篤きとくであったのに、相生あいおいさんはさっさと大連だいれんへ来きてしまった。
来きて一いち週間しゅうかんすると子供こどもが死んしんだと云ういう便りたよりがあった。
相生あいおいさんは内地ないちを去るさる時じ、すでにこの悲報ひほうを手てにする覚悟かくごをしていたのだそうだ。
相生あいおいさんは大連だいれんに来るくるや否いなや、仲仕なかしその他ほかすべて埠頭ふとうに関するかんする事務じむを取り扱うとりあつかう連中れんちゅうを集めあつめてここに一部いちぶ落おちを築き上げきずきあげた。
相生あいおいさんの家いえを通り越すとおりこすと、左右さゆうに並んならんでいる建物たてものは皆みな自分じぶんの経営けいえいになったものばかりである。
その中なかには図書館としょかんがある。
倶楽部くらぶがある。
運動場うんどうじょうがある。
演武えんぶ場ばがある。
部下ぶかの住宅じゅうたくは無論むろんある。
倶楽部くらぶでは玉たまを突いついていた。
図書館としょかんには沙翁しゃおう全集ぜんしゅうがあった。
ポルグレーヴの経済けいざい字彙じいがあった。
余よの著書ちょしょも二三にさん冊さつあった。
ここは柔道じゅうどうの道場どうじょうに使っつかっていますが、時じによると講談こうだんをやったり演説えんぜつをやったりしますと云ういう相生あいおいさん自身じしんの説明せつめいについて、中なかを覗き込むのぞきこむと、なるほど道場どうじょうにはちょうど好いよい建物たてものがある。
その奥おくに高座こうざができていて、いつでも寄席よせもしくは講演こうえんを開くひらくような設備せつびもある。
講演こうえんてどんな講演こうえんですかと聞き返しききかえしたら、相生あいおいさんは、まあ内地ないちから来きられた人ひとだとか何なんとかいうのを頼んたのんでやりますと答えこたえられた。
ことによると、遠からとおからぬうちに捕まっつかまって、ここへ引っ張りひっぱり出さだされはしまいかと、その時じすぐ気きがついたが、真逆まさか私わたくしはどうぞ廃しはいしにして下さいくださいと、頼またのまれもしないうちに断ることわるのも失礼しつれいだと思っおもって、はあなるほどと首肯いうなずいて通り過ぎとおりすぎた。
最後さいごにもっとも長いながい二に階かい建けんの一いち棟むねの前まえに出でた。
これが共同きょうどう生活せいかつをやらしている所ところでと、相生あいおいさんが先さきへ這入るはいる。
中なかは勧工場かんこうじょうのように真中まなかを往来おうらいにして、同どうく勧工場かんこうじょうの見世みせに当るあたる所ところを長屋ながやの上り口あがりぐちにしてある。
だから長屋ながやと長屋ながやとは壁かべ一いち重じゅうで仕切らしきられながら、約やく一いち丁ていも並んならんでいるばかりか、三さん尺さしの往来おうらいを越すこすとすぐ向うむこうの家いえになる。
上り口あがりぐちを枕まくらにして寝れねれば、吸きゅう付ふ莨たばこのやり取りやりとりぐらいはできるほど近いちかい。
相生あいおいさんが先さきへ立ったって、この狭いせまい往来おうらいを通るとおると、裁縫さいほうをしたり、子供こどもを寝かしねかしたりしている神かみさん達とおるが、みんな叮嚀ていねいに挨拶あいさつをする。
しかし中なかには気きがつかずに何なんか話しはなしているのも見えるみえる。
この部落ぶらくに住んすんでいる人間にんげんが総がかりそうがかりになった上うえに、その何十なんじゅう倍ばいか何百なんびゃく倍ばいのクーリーくーりーを使っつかっても、豆まめの出盛りでさかりには持て余すもてあますほど荷にが後あとから後あとからと出でてくる。
相生あいおいさんの話はなしによると、多いおおい時じは着荷ちゃっかの量りょうが一日いちにちならし五千ごせん噸とんあるそうである。
これがため去年きょねん雨期うきを持ち越しもちこした噸とん数すうは四万よんまん噸とんで、今年ことしはそれが十五万じゅうごまん噸とんに上っのぼったとか聞いきいた。
南北なんぼく千五百せんごひゃく尺さし東西とうざい四千二百よんせんにひゃく尺さしの埠頭ふとうの側がわにこのくらい豆まめを積んつんだらずいぶん盛さかんなものだろう。
二十一にじゅういち
旅順りょじゅんから電話でんわがかかってこっちへはいつ来るくるかという問合わせといあわせである。
おい誰だれがかけてくれるんだろうなと橋本はしもとに聞いきいて見るみると、橋本はしもとはそうだなあと云ういうだけで要領ようりょうを得とくない。
おい名前なまえは分らわからないのかとやむをえずボイぼいに尋ね返したずねかえしたら、ボイぼいは依然いぜんとして、ただ民政みんせい署しょだと云っいってかけて参りまいりましたと同じおなじ事ことを繰返しくりかえしている。
おおかた友熊ともくまだろうぐらいに橋本はしもとと二人ふたりで見当けんとうをつけて返事へんじをさせた。
これが白仁しらに長官ちょうかんの好意こういから出でた聞き合せききあわせであった事ことは旅順りょじゅんに着いついて後あと始めはじめて知っしった。
旅順りょじゅんには佐藤さとう友熊ともくまと云ういう旧友きゅうゆうがあって、警視けいし総長そうちょうと云ういう厳しいきびしい役やくを勤めつとめている。
これは友熊ともくまの名前なまえが広告こうこくする通りとおりの薩州さっしゅう人ひとで、顔かおも気質きしつも看板かんばんのごとく精悍せいかんにでき上がっできあがっている。
始めはじめて彼かれを知っしったのは駿河台するがだいの成立せいりつ学舎がくしゃという汚ないきたない学校がっこうで、その学校がっこうへは佐藤さとうも余よも予備よび門もんに這入るはいる準備じゅんびのために通学つうがくしたのであるからよほど古いふるい事ことになる。
佐藤さとうはその頃ころ筒袖つつそでに、脛すねの出るでる袴はかまを穿いはいてやって来きた。
余よのごとく東京とうきょうに生れうまれたものの眼めには、この姿すがたがすこぶる異様いように感ぜかんぜられた。
ちょうど白虎びゃっこ隊たいの一人ひとりが、腹はらを切りきり損なっそこなって、入学試験にゅうがくしけんを受けうけに東京とうきょうに出でたとしか思わおもわれなかった。
教場きょうじょうへは無論むろん下駄げたを穿いはいたまま上っのぼった。
もっともこれは佐藤さとうばかりじゃない。
我われ等とうもことごとく下駄げたのままあがった。
上うえ草履ぞうりや素足すあしで歩くあるくような学校がっこうじゃないのだから仕方しかたがない。
床ゆかに穴あなが開いひらいていて、気きをつけないと、縁の下えんのしたへ落ちるおちる拍子ひょうしに、向むかい脛すねを摺すり剥くむくだけが、普通ふつうの往来おうらいより悪いわるいぐらいのものである。
古いふるい屋敷やしきをそのまま学校がっこうに用いもちいているので玄関げんかんからがすでに教場きょうじょうであった。
ある雨あめの降るふる日余ひあまりはこの玄関げんかんに上っのぼって時間じかんの来るくるのを待っまっていると、黒いくろい桐油とうゆを着きて饅頭まんじゅう笠かさを被っかぶった郵便ゆうびん脚夫きゃくふが門もんから這入っはいって来きた。
不思議ふしぎな事ことにこの郵便ゆうびん屋やが鉄瓶てつびんを提げさげている。
しかも全くまったくの素足すあしである。
足袋たびは無論むろんの事こと、草鞋わらじさえ穿いはいていない。
そうして、普通ふつうなら玄関げんかんの前まえへ来きて、郵便ゆうびんと大きなおおきな声こえを出すだすべきところを、無言むごんのまますたすた敷しき台だいから教場きょうじょうの中なかへ這入っはいって来きた。
この郵便ゆうびん屋やがすなわち佐藤さとうであったので大いにおおいに感心かんしんした。
なぜ鉄瓶てつびんを提げさげていたものかその理由りゆうは今日きょうまでついに聞くきく機会きかいがない。
その後そのあと佐藤さとうは成立せいりつ学舎がくしゃの寄宿きしゅくへ這入っはいった。
そこで賄まかない征伐せいばつをやった時じ、どうした機き勢いきおいか額がくに創はじめをして、しばらくの間ま白布しろぬので頭あたまを巻いまいていたが、それが、後鉢巻あとはちまきのようにいかにも勇ましくいさましく見えみえた。
賄まかないに擲らなぐられたなと調ちょう戯たわむれって苛いむごい目めに逢っあったので今いまにその颯爽さっそうたる姿すがたを覚えおぼえている。
佐藤さとうはその頃ころ頭あたまに毛けの乏いとぼしい男おとこであった。
無論むろん老朽ろうきゅうした禿はげではないのだが、まあ土質どしつの悪いわるい草原そうげんのように、一面いちめんに青々あおあおとは茂らしげらなかったのである。
漢語かんごでいうと短髪たんぱつ種々しゅじゅとでも形容けいようしたら好いよいのかも知れしれない。
風かぜが吹けふけば毛けの方ほうで一いち本ほん一いち本ほんに靡くなびく傾がかしがあった。
この頭あたまは予備よび門もんへ這入っはいっても黒くくろくならなかった。
それで皆みなして佐藤さとうの事ことを寒雀かんすずめ寒雀かんすずめと囃しはやしていた。
当時とうじ余よは寒雀かんすずめとはどんなものか知らしらなかった。
けれども佐藤さとうの頭あたまのようなものが寒雀かんすずめなんだろうと思っおもって、いっしょになってやっぱり寒雀かんすずめ寒雀かんすずめと調ちょう戯たわむれった。
この渾名あだなを発明はつめいした男おとこはその後あと技師ぎしになって今いまは北海道ほっかいどうにいる。
話はなしが前後ぜんごするようだが、旅順りょじゅんに来きて十じゅう何なん年ねんぶりかに佐藤さとうに逢っあって、例れいの頭あたまを注意ちゅういして見るみると、不思議ふしぎな事ことに、その頭あたまには万遍まんべんなく綿密めんみつに毛けが生えはえていた。
もっとも黒いくろいのばかりではなかった。
近頃ちかごろは正当せいとう防禦ぼうぎょのために、こう短くみじかく刈っかっているんだと云っいって、三さん分ぶん刈かりの濃いこい頭あたまを笑いわらいながら掻いかいて見せみせた。
旅順りょじゅんから二に度目どめの電話でんわがかかった翌日よくじつの朝あさ、橋本はしもとと余よは、この旧友きゅうゆうに逢うあうため、また日露にちろの戦跡せんせきを観るみるため、大連だいれんから汽車きしゃに乗っのった。
乗るのる時じ、是ぜ公こうが友熊ともくまによろしくと云っいった。
是ぜ公こうは何なんか用事ようじがあったと見えみえて、国沢くにさわ君きみと二人ふたりで停車場ていしゃじょうの構内こうないを横切っよこぎって妙みょうな方角ほうがくへ向いむかいて歩いあるいて行っいった。
やがて二人ふたりの影かげは物ものに遮ぎらさえぎられて、汽車きしゃの窓まどから見えみえなくなった。
そうして満洲まんしゅうに有名ゆうめいな高粱こーりゃんの色いろが始めはじめて眼底がんていに映じえいじ出しだした。
汽車きしゃは広いひろい野のの中なかに出でたのである。
二十二にじゅうに
おい旅順りょじゅんに着いついたら久しぶりひさしぶりに日本にっぽん流りゅうの宿屋やどやへ泊ろうとまろうかと橋本はしもとに相談そうだんを掛けるかけるとそうだな浴衣ゆかたを着きてごろごろするのも好いよいねという同意どういである。
橋本はしもとは新しくあたらしく蒙古もうこから帰っかえったので、しきりに支那しな宿やどに降参こうさんした話はなしを始めはじめた。
その支那しな宿やどには、名なは塞さい北きたに馳せはせ、味あじは江南こうなんを圧すおすなどという広告こうこくの文字もじがべたべた壁かべに貼りつけはりつけてあるそうだ。
橋本はしもとはこう云ういう文句もんくをたくさん手帳てちょうに控えひかえている。
ほかに使いつかい路みちのない文句もんくだものだから、汽車きしゃの中なかで、それを残らのこらず余よに読んよんで聞かきかせてしまった。
二人ふたりは笑いわらいながら日本にっぽん流りゅうの奇麗きれいな宿屋やどやを想像そうぞうして旅順りょじゅんのプラットフォームぷらっとふぉーむに降りふりた。
降りるおりるとそこに馬車ばしゃがある。
我々われわれの名前なまえを聞くきくものがある。
この馬車ばしゃが民政みんせい署しょの馬車ばしゃで、我々われわれを尋ねたずねてくれた人ひとが、渡辺わたなべ秘書ひしょであるという事ことを発見はっけんした時じは両人りょうにんともだいぶ恐縮きょうしゅくした。
橋本はしもとを振り返るふりかえると相そう変らかわらず鼻はなの先さきを反らしそらして、台湾たいわんパナマぱなまだか何なんだかペコペコぺこぺこになった帽子ぼうしを被っかぶっている。
おい宿屋やどやはどうするんだいと小さなちいさな声こえで聞くきくと、うんそうさなと云っいったが、そのうち二人ふたりとも馬車ばしゃへ乗らのらなければならない段だんになった。
いったい橋本はしもとといっしょにあるくときは、何なんでも橋本はしもとが進んすすんで始末しまつをつけてくれる事ことに昔むかしからきまっているんだからこの際さいもどうかするだろうと思っおもって放っはなっておいた。
すると予想よそう通つう、日本にっぽん流りゅうの宿屋やどやへ行くいくつもりで来きたんですがと渡辺わたなべさんに相談そうだんし始めはじめた。
ところが渡辺わたなべさんはどうも御ご泊りとまりになられるような日本にっぽんの宿屋やどやは一いち軒のきもありませんから、やっぱり大和やまとホテルほてるになさった方ほうが好いよいでしょうと忠告ちゅうこくしている。
やがて馬車ばしゃは新しん市街しがいの方ほうへ向いむかいて動きうごき出しだした。
二人ふたりは十五じゅうご分ぶんの後あとホテルほてるの二に階かいに導かしるべかれて、行きいき通いかよいのできる室むろを二につ並べならべて取っとった。
そこで革鞄かわかばんの中なかから刷毛はけを出しだして塵ごみだらけの服ふくを払っはらったあとで、しばらく休息きゅうそくのため安楽椅子あんらくいすに腰こしをおろして見るみると、急きゅうに気きがついたように四辺しへんが森閑しんかんとしている。
ホテルほてるの中なかには一人ひとりも客きゃくがいないように見えるみえる。
ホテルほてるの外そとにもいっさい人ひとが住んすんでいるようには思わおもわれない。
開廊かいろうへ出でて往来おうらいを眺めるながめると、往来おうらいはだいぶ広いひろい。
手摺てすりの真下ましたにある人道じんどうの石いしの中なかから草くさが生えはえて、茎くきの長さながさが一いち尺さし余りあまりになったのが二三にさん本ほん見えるみえる。
日中にっちゅうだけれども虫むしの音おとが微かかすかに聞えるきこえる。
隣となりは主ぬしのない家いえと見えみえて、締め切っしめきった門もんやら戸とやらに蔦つたが一面いちめんに絡んからんでいる。
往来おうらいを隔てへだてて向うむこうを見るみると、ホテルほてるよりは広いひろい赤あか煉瓦れんがの家いえが一いち棟むねある。
けれども煉瓦れんがが積んつんであるだけで屋根やねも葺いふいてなければ窓まど硝子がらすもついてない。
足場あしばに使っつかった材木ざいもくさえ処々ところに残っのこっているくらいの半はん建けんである。
淋しいさびしい事ことには、工事こうじを中止ちゅうししてから何なん年ねんになるか知らしらないが、何なん年ねんになってもこのままの姿すがたで、とうてい変るかわる事ことはあるまいと云ういう感じかんじが起るおこる。
そうしてその感じかんじが家いえにも往来おうらいにも、美しいうつくしい空そらにも、一面いちめんに充ちみちている。
余よは開廊かいろうの手摺てすりを掌てのひらで抑えおさえながら、奥おくにいる橋本はしもとに、淋しいさびしいなあと云っいった。
旅順りょじゅんの港みなとは鏡かがみのごとく暗緑あんりょくに光っひかりった。
港みなとを囲むかこむ山やまはことごとく坊主ぼうずであった。
まるで廃墟はいきょだと思いおもいながら、また室むろの中なかに這入るはいると、寝床ねどこには雪ゆきのような敷布しきふがかかっている。
床ゆかには柔かいやわらかい絨毯じゅうたんが敷いしいてある。
豊かゆたかな安楽椅子あんらくいすが据えすえてある。
器物きぶつはことごとく新式しんしきである。
いっさいが整っととのっている。
外そとと内うちとは全くまったく反対はんたいである。
満鉄まんてつの経営けいえいにかかるこのホテルほてるは、固よりもとより算盤そろばんを取っとっての儲け仕事もうけしごとでないと云ういう事ことを思い出すおもいだすまでは、どうしても矛盾むじゅんの念ねんが頭あたまを離れはなれなかった。
食堂しょくどうに下りくだりて、窓まどの外そとに簇がるむらがる草花くさばなの香こうを嗅ぎかぎながら、橋本はしもとと二人ふたり静かしずかに午餐ごさんの卓たくに着いついたときは、機会きかいがあったら、ここへ来きて一夏ひとなつ気楽きらくに暮しくらしたいと思っおもった。
二十三にじゅうさん
旅順りょじゅんに着いついた時じ汽車きしゃの窓まどから首くびを出しだしたら、つい鼻はなの先さきの山やまの上うえに、円柱えんちゅうのような高いたかい塔とうが見えみえた。
それがあまり高こう過ぎるすぎるので、肩かたから先さきを前まえの方ほうへ突き出しつきだして、窮屈きゅうくつに仰向かあおむかなくては頂点ちょうてんまで見上げるみあげる訳わけに行かいかなかった。
馬車ばしゃが新しん市街しがいを通り越しとおりこしてまたこの塔とうの真下ましたに出でた時じに、これが白玉はくぎょく山やまで、あの上うえの高いたかい塔とうが表忠ひょうちゅう塔とうだと説明せつめいしてくれた。
よく見るみると高いたかい灯台とうだいのような恰好かっこである。
二百にひゃく何なん尺さしとかと云ういう話はなしであった。
この山やまの麓ふもとを通り越しとおりこして、旧市街きゅうしがいを抜けるぬけると、また山路やまじにかかる。
その登り口のぼりぐちを少しすこし右みぎへ這入っはいった所ところに、戦利品せんりひん陳列ちんれつ所ところがある。
佐藤さとうは第だい一いち番ばんにそれを見せるみせるつもりで両人りょうにんを引張っひっぱって来きた。
陳列ちんれつ所ところは固よりもとより山やまの上うえの一軒家いちけんやで、その山やまには樹きと名なのつくほどの青いあおいものが一いち本ほんも茂っしげるっていないのだから、はなはだ淋しいさびしい。
当時とうじの戦争せんそうに従事じゅうじしたと云ういう中尉ちゅういのA君きみがただ独りひとり番ばんをしている。
この尉官いかんは陳列ちんれつ所ところに幾十いくじゅう種しゅとなく並べならべてある戦利品せんりひんについて、一々いちいち叮嚀ていねいに説明せつめいの労ろうを取っとってくれるのみならず、両人りょうにんを鶏冠山けいかんさんの上うえまで連れつれて行っいって、草くさも木きもない高いたかい所ところから、遥はるかの麓ふもとを指さしゆびさしながら、自分じぶんの従軍じゅうぐん当時とうじの実歴じつれき譚たんをことごとく語っごって聞かきかせてくれた人ひとである。
始めはじめ佐藤さとうから砲台ほうだい案内あんないを依頼いらいしたときには、今日きょうはちと差支えさしつかえがあるから四よん時じ頃ころまでならと云ういう条件じょうけんであったが、山やまの出鼻でばなへ立ったって洋よう剣けんを鞭むちの代りかわりにして、あちらこちらと方角ほうがくを教えるおしえる段だんになると、肝心かんじんの要事ようじはまるでそっちのけにして、満洲まんしゅうの赤いあかい日ひが、向うむこうの山やまの頂いただきに、大きくおおきくなって近づくちかづくまで帰ろうかえろうとは云わいわなかった。
もし忘れわすれたんじゃ気の毒きのどくだと思っおもって、こっちから注意ちゅういすると、何なんようございます、構いかまいませんと断りことわりながら、ますます講釈こうしゃくをしてくれる。
あんまり不思議ふしぎだから、全体ぜんたい何なんの御ご用事ようじが御ご有りありなのですかと、詮索せんさくがましからぬ程度ていどに聞いきいて見るみると、実じつは妻つまが病気びょうきでと云ういう返事へんじである。
さすが横着おうちゃくな両人りょうにんも、この際さいだけは、それじゃ御ご迷惑めいわくでもせっかくだからついでにもう少しすこし案内あんないを願おうねがおうと云ういう気きにもなれなかった。
言葉ことばは無論むろん出でなかった。
長いながい日ひが山やまの途中とちゅうで暮れくれて、電気でんきの力ちからを借りかりなければ人ひとの顔かおが判然はんぜん分らわからない頃ころになって、我々われわれの馬車ばしゃがようやく旧市街きゅうしがいまで戻っもどった時じ、中尉ちゅういはある煉瓦れんが塀へいの所ところで、それじゃ私わたくしはここで失礼しつれいしますと挨拶あいさつして、馬車ばしゃから下りくだりて、門もんの中なかへ急いいそいで這入っはいって行かいかれた。
この煉瓦れんがの塀へいを回らしまわらした一いち構かまえは病院びょういんであった。
そうして中尉ちゅういの妻君さいくんはこの病院びょういんの一室いっしつに寝ねていたのである。
これほど世話せわになり、面倒めんどうを掛けかけた人ひとの名前なまえを忘れるわすれるのははなはだすまん事ことだが、どうしても思い出せおもいだせない。
佐藤さとうに、よろしくと伝言でんごんを頼んたのんだ時じは、ただ、あの中尉ちゅうい君きみと書いかいた。
ここに某ぼう中尉ちゅういなどとよそよそしく取り扱うとりあつかうのはあまり失礼しつれいだから、やむをえずA君きみとしておいた。
A君きみの親切しんせつに説明せつめいしてくれた戦利品せんりひんの一々いちいちを叙述じょじゅつしたら、この陳列ちんれつ所ところだけの記載きさいでも、二十にじゅう枚ばいや三十さんじゅう枚ばいの紙数しすうでは足るたるまいと思うおもうが、残念ざんねんな事ことにたいてい忘れわすれてしまった。
しかしたった一いちつ覚えおぼえているものがある。
それは女おんなの穿いはいた靴くつの片足かたあしである。
地ちが繻子しゅすで、色いろは薄うす鼠ねずみであった。
その他ほかの手て投弾とうだんや、鉄条網てつじょうもうや、魚形ぎょけい水雷すいらいや、偽造ぎぞうの大砲たいほうは、ただ単なるたんなる言葉ことばになって、今いまは頭あたまの底そこに判然はんぜん残っのこっていないが、この一足いっそくの靴くつだけは色いろと云いいい、形かたちと云いいい、いつなん時じでも意志いしの起りおこり次第しだい鮮せんに思い浮べるおもいうかべる事ことができる。
戦争せんそう後あとある露西亜ろしあの士官しかんがこの陳列ちんれつ所ところ一覧いちらんのためわざわざ旅順りょじゅんまで来きた事ことがある。
その時じ彼かれはこの靴くつを一目いちもく観かんて非常ひじょうに驚いおどろいたそうだ。
そうしてA君きみに、これは自分じぶんの妻つまの穿いはいていたものであると云っいって聞かしきかしたそうだ。
この小さなちいさな白いしろい華奢きゃしゃな靴くつの所有者しょゆうしゃは、戦争せんそうの際さいに死んしんでしまったのか、またはいまだに生存せいぞんしているものか、その点てんはつい聞き洩らしききもらした。
二十四にじゅうよん
今までいままでは白馬はくばを着けつけた佐藤さとうの馬車ばしゃに澄ましすまして乗っのっていたが、山やまへかかるや否いなや、例れいの泥どろだらけの掘出しほりだしものの中なかへ放り込まほうりこまれてしまった。
とうてい普通ふつうの馬車ばしゃでは上がれあがれないと云ういうんだからやむをえない。
それでも露西亜ろしあ人ひとだけあって、眼めにあまる山やまのことごとくに砲台ほうだいを構えかまえて、その砲台ほうだいのことごとくに、馬車ばしゃを駆っかって頂辺てっぺんまで登れるのぼれるような広いひろい路みちをつけたのは感心かんしんですとA君きみが語らかたられる。
実際じっさいその当時とうじは奇麗きれいな馬車ばしゃを傷めいためずに、心持こころもちよく砲台ほうだいのある地点ちてんまで乗りつけのりつけられたものと見えるみえる。
ところが戦争せんそうがすんで往復おうふくの必要ひつようがなくなったので、せっかくできた山路やまじに手てを入れるいれる機会きかいを失っうしなったため、我々われわれごとき物もの数奇すうきは、かように零落れいらくした馬車ばしゃをさえ、時々ときどき復活ふっかつさせる始末しまつになるのである。
元来がんらい旅順りょじゅんほど小山こやまが四方しほうに割拠かっきょして、禿頭とくとうを炎天えんてんに曝しさらし合っあっている所ところはない。
樹きが乏しいとぼしい土質どしつへ、遠慮えんりょのない強きょう雨あめがどっと突き通るつきとおると、傾斜けいしゃの多いおおい山路やまじの側面そくめんが、すぐ往来おうらいへ崩れくずれ出すだす。
その崩れるくずれるものがけっして尋常じんじょうの土つちじゃない。
堅いかたい石いしである。
しかも頑固がんこに角張っかくばっている。
ある所ところなどは、五ご寸すんから一いち尺さしほどもあろうと云ういう火打石ひうちいしのために、累々るいるいと往来おうらいを塞がさいがれている。
零落れいらくした馬車ばしゃは容赦ようしゃなく鳴動めいどうしてその上うえを通るとおるのだから、凸凹でこぼこの多いおおい川床かわどこを渡るわたるよりも危険きけんである。
二百三にひゃくさん高地こうちへ行くいく途中とちゅうなどでは、とうとうこの火打石ひうちいしに降参こうさんして、馬車ばしゃから下りくだりてしまった。
そうして痛いいたい腹はらを抱えかかえながら、膏あぶら汗あせになって歩いあるいたくらいである。
鶏冠山けいかんさんを下りるおりるとき、馬うまの足あし掻が何なんだか変へんになったので、気きをつけて見るみると、左ひだりの前足まえあしの爪つめの中なかに大きなおおきな石いしがいっぱいに詰っなじっていた。
よほど厚いあつい石いしと見えみえて爪つめから余っよった先さきが一いち寸すんほどもある。
したがって馬うまは一寸ちょっとがた跛びっこを引いひいて車体しゃたいを前まえへ運んはこんで行くいく訳わけになる。
席せきから首くびを延ばしのばして、この様子ようすを見みた時じは、安んじやすんじて車くるまに乗っのっているのが気の毒きのどくなくらい、馬うまに対したいして痛いたわしい心持こころもちがした。
御者ぎょしゃに注意ちゅういしてやると、御者ぎょしゃは支那しな語ごで何なんとか云いいいながら、鞭むちを棄てすてて下したへ下りくだりたが、非常ひじょうに固くかたく詰っなじっていたと見えみえて、叩いたたいても引っ張っひっぱっても石いしが取れとれないので、またのそのそ御者ぎょしゃ台だいへ上がっあがった。
そうして、後あとにいる余よの方ほうをふりむいて、にやにや笑いわらいながら、また鞭むちを鳴らしならし出しだした。
馬うまも存外ぞんがい平気へいきなもので、そのままとうとう大和やまとホテルほてるまで帰っかえって来きた。
橋本はしもとと余よはこう云ういう馬車ばしゃの中なかで、こう云ういう路みちの上うえに揺振られべく旧市街きゅうしがいから出立しゅったつした。
あれがステッセルすてっせる将軍しょうぐんの家いえでと云ういうのを遠くとおくから見るみると、なかなか立派りっぱにできている。
戦争せんそうの烈しくはげしくならない時じは、将軍しょうぐんがみごとな馬車ばしゃを駆っかってそこいらを乗り廻しのりまわしているのが遥はるかの先さきから見えみえたそうである。
A君きみの指しさして教えおしえられた中なかで、ただ一いちつ質素しっそな板囲いたがこいの小さいちいさい家いえがあった。
それがまるで日本にっぽんの内地ないちで見るみる普通ふつうの木造もくぞうなのだから珍らしかっめずらしかった。
何なんとか云ういう有名ゆうめいな将軍しょうぐんの住宅じゅうたくだと説明せつめいされたが、不幸ふこうにしてその有名ゆうめいな将軍しょうぐんの名なを忘れわすれてしまった。
何なんでも非常ひじょうに人望じんぼうのある人ひとで、戦争せんそうのときも一番いちばん先さきに打だ死しをしたのだそうである。
ああ云ういう質素しっその家いえに住んすんでおられたのも、一いちつは人望じんぼうのあった原因げんいんになっているのでありましょうとA君きみは丁寧ていねいに敬慕けいぼの意いを表さあらわされる。
この将軍しょうぐんは戦争せんそうだけには熱心ねっしんで、ほかの事ことにはよほど無頓着むとんちゃくであった人ひとらしい。
この辺へんにある露国ろこくの将軍しょうぐんなどの住宅じゅうたくは皆みなそれ相応そうおうに立派りっぱなものばかりである。
新市しんし街まちの白仁しらに長官ちょうかんの家いえを訪ねたずねた時じ、結構けっこうな御ご住居じゅうきょだが、もとは誰だれのいた所ところですかと聞いきいたら、何なんでもある大佐たいさの家いえだそうですと答えこたえられた。
こう云ういう家いえに住んすんで、こういう景色けしきを眼めの下したに見れみれば、内地ないちを離れるはなれる賠償ばいしょうには充分じゅうぶんなりますねと云っいったら、白仁しらに君きみも笑いわらいながら、日本にっぽんじゃとても這入れはいれませんと云わいわれたくらいである。
そのうち馬車ばしゃは無鉄砲むてっぽうに山路やまじを上っのぼって、旅順りょじゅんの市街しがいを遥はるかの下したにうちやるようになった。
A君きみは坂さかの途中とちゅうで車くるまを留めとめて、私わたくしは近きん路みちを歩いあるいて、御ご先さきへ行っいって御ご待ちまち申しもうしますと云いいいながら、左手ひだりての急きゅうな岨そわ路みちをずんずん登っのぼって行っいった。
我々われわれの車くるまはまたのそのそ動きうごき出しだした。
二十五にじゅうご
下したを見下すみくだすと、山やまの側面そくめんはそれほど急きゅうでないが、樹きと名なのつくような青いあおいものはまるで眸ひとみを遮らさえぎらない。
一いち眼めに麓ふもとまで透かさすかされるのみならず、麓ふもとからさき一いち里さと余よの畠はたけが真直まっすぐに眉まゆの下したに集まっあつまって来るくる。
この辺へんの空気くうきは内地ないちよりも遥はるかに澄んすんでいるから、遠くとおくのものが、つい鼻はなの先さきにあるように鮮せんである。
そのうちで高粱こーりゃんの色いろが一番いちばん多くおおく眼めを染めそめた。
あの先さきに、小指こゆびの頭あたまのような小さいちいさい白いしろいものが見えるみえるでしょう、あすこからこっちの方ほうへ向いむかいて対たい溝みぞを掘出しほりだしたのですとA君きみが遠くとおくの方ほうを指さしゆびさしながら云っいった。
この辺へんに穴あなを掘るほるのは石いしを割るわれると一般いっぱんなのだから一いち町まち掘るほるのだって容易よういな事ことではない。
現にげんに外濠そとぼりから窖あなぐら道みちへ通ずるつうずる路みちをつけるときなどは、朝あさから晩ばんまで一日いちにち働いはたらいて四十五よんじゅうごサンチさんち掘っほったのが一番いちばんの手柄てがらであったそうだ。
余よは余よの立ったっている高いたかい山やまの鼻はなと、遠くとおくの先さきにある白いしろいものとを見較べみくらべて、その中間ちゅうかんに横わるよこたわる距離きょりを胸算用むねさんようで割り出しわりだして見みて、軍人ぐんじんの根気こんきの好いよいのにことごとく敬服けいふくした。
全体ぜんたいどこまで掘っほって来きたのですかと聞き返すききかえすと、ついそこですと洋よう剣けんを向けむけて教えおしえてくれた。
何なんでも九きゅう月つき二に日ひから十じゅう月つき二十にじゅう日ひとかまで掘っほっていたと云ういうのだから恐るおそるべき忍耐にんたいである。
その時じ敵てきも砲台ほうだいの方ほうから反対はんたい窖あなぐら道みちと云ういうのを掘っほって来きた。
日本にっぽんの兵卒へいそつが例れいのごとく工事こうじをしているとどこかでかんかん石いしを割るわれる音おとが聞えきこえたので、敵てきも暗いくらい中なかを一いち寸すん二に寸すんと近寄っちかよって来きた事ことが知れしれたのだと云ういう。
爆発ばくはつ薬くすりの御蔭みかげで外濠そとぼりを潰しつぶしたのはこの時じの事ことでありますと、中尉ちゅういはその潰れつぶれた土山つちやまの上うえに立ったって我々われわれを顧みかえりみた。
我々われわれも無論むろんその上うえに立ったっている。
この下したを掘れほればいくらでも死骸しがいが出でて来るくるのだと云ういう。
土山つちやまの一隅いちぐうが少しすこし欠けかけて、下したの方ほうに暗いくらい穴あなが半分はんぶん見えるみえる。
その天井てんじょうが厚あつしさ六ろく尺さしもあろうと云ういうセメントせめんとででき上っできあがっている。
身みを横よこにして、その穴あなに這い込みはいこみながら、だらだらと石いしの廻廊かいろうに降りふりた時じに、仰向いあおむいて見みて始めてはじめてその堅固けんごなのに気きがついた。
外濠そとぼりを崩しくずした上うえに、この厚いあつい壁かべを破壊はかいしなければ、砲台ほうだいをどうする事こともできないのは攻手せめてに取っとって非常ひじょうな困難こんなんである。
しかもこの小さなちいさな裂け目さけめから無理むりに割り込んわりこんで、一寸ちょっと二に寸すんとじりじりにセメントせめんとで築ちく上げあげた窖あなぐら道みちを専せん領するりょうするに至っいたっては、全くまったく人間にんげん以上いじょうの辛抱しんぼう比べくらべに違いない。
その時じ両軍りょうぐんの兵士へいしは、この暗いくらい中なかで、わずかの仕切りしきりを界さかいに、ただ一いち尺さしほどの距離きょりを取っとって戦いくさをした。
仕切しきりは土嚢どのうを積んつんで作っつくったとかA君きみから聞いきいたように覚えおぼえている。
上うえから頭あたまを出せだせばすぐ撃たうたれるから身体しんたいを隠しかくして乱射らんしゃしたそうだ。
それに疲れるつかれると鉄砲てっぽうをやめて、両側りょうがわで話はなしをやった事こともあると云っいった。
酒さけがあるならくれと強請っねだったり、死体したいの収容しゅうようをやるから少しすこし待てまてと頼んたのんだり、あんまり下らしたらんから、もう喧嘩けんかはやめにしようと相談そうだんしたり、いろいろの事ことを云い合っいいあったと云ういう話はなしである。
三さん人ひとは暗いくらい廻廊かいろうを這い出しはいだして、また土山つちやまの上うえに立ったった。
日ひは透き徹るすきとおるように明かるくあかるく坊主ぼうず山やまを照らしてらしている。
野菊のぎくに似にた小さなちいさな花はなが処々ところに見えるみえる。
じっと日ひを浴びあびて佇んたたずんでいると、微かかすかに虫むしの音おとがする。
草くさの裏うらで鳴いないているのか、崩れくずれ掛っかかった窖あなぐら内うちで鳴いないているのか分らわからなかった。
向うむこうの方ほうに支那しな人ひとの影かげが二人ふたり見えみえたが、我々われわれの姿すがたを認めるみとめるや否いなや、草くさの中なかに隠れかくれた。
ああやって、何なんか掘りほりに来るくるんです。
捕まるつかまると怖いこわいものだから、すぐに逃げにげます、なかなか取り抑えるとりおさえるのが困難こんなんですとA君きみが苦笑くしょうした。
後側うしろがわへ回るまわると広いひろい空堀からぼりの中なかに立派りっぱな二に階かい建けんの兵舎へいしゃがある。
もとは橋はしをかけて渡っわたったものと思わおもわれるが、今いまでは下りるおりる事こともできない。
兵舎へいしゃの背せはもとより、山やまに囲わかこわれて、外そとからは見えみえなくなっている。
三さん人ひとは空濠からぼりを横よこに通り越しとおりこしてなお高くたかく上っのぼった。
とうとう四方しほうにあるものは山やまの頭あたまばかりになった。
そうしてそれが一いちつ残らのこらず昔むかしの砲台ほうだいであった。
中尉ちゅういはそれらの名前なまえをことごとく諳んじそらんじていた。
余よは遮るさえぎるもののない高いたかい空そらの真下ましたに立ったって、数すう限りかぎりもない山の背やまのせを見渡しみわたしながら、砲台ほうだい巡りめぐりも容易よういな事ことではないと思っおもった。
二十六にじゅうろく
大連だいれんに着いついてから二三にさん日ひすると、満洲まんしゅう日々ひびの伊藤いとう君きみから滞留たいりゅう中なかに是非ぜひ一度いちど講演こうえんをやって貰いもらいたいという依頼いらいであった。
ええ都合つごうができればと受合っうけあったようなまた断っことわったような軽いかるい挨拶あいさつをして旅順りょじゅんに来きた。
するとその伊藤いとう君きみが我々われわれより一いち日ひ前まえに同じおなじ大和やまとホテルほてるに泊っとまっていたので、ただ、やあ来きているねぐらいでは事ことがすまなくなった。
伊藤いとう君きみの話はなしによると、余よの承諾しょうだくを得とくて講演こうえんを開くひらくと云ういう事ことを、もう自分じぶんの新聞しんぶんに広告こうこくしてしまったと云ういうんだから、たちまち弱っよわった。
どうしてもやらなければならないように伊藤いとう君きみは頼むたのむし、何なんだかやれそうもない気分きぶんではあるし、かたがた安楽椅子あんらくいすに尻しりを埋めうめて、苦くにがく渋りしぶり出しだした。
すると橋本はしもとがにやにや笑いわらいながら、まあやってやるさと傍そばから余計よけいな事ことを云ういう。
実じつを云ういうと、講演こうえんは馬車ばしゃでホテルほてるに着くつくや否いなや、ここの和木わぎ君きみからも頼またのまれている。
もっともこの方ほうは暇ひまがないので、頼またのまれ放しはなしの体からだであるが、大連だいれんに帰れかえればそう多忙たぼうらしく見せるみせる訳わけには行かいかない。
橋本はしもとはそこをよく見破っみやぶっているので、君きみそう云ういうときには快よくこころよく承諾しょうだくするものだよとか君きみのような人ひとはやる義務ぎむがあるさとかいろいろな口くちを出すだす。
余よの大連だいれんでしゃべらせられたのは全くまったくこの男おとこの御蔭みかげである。
しかも短いみじかい時日じじつのうちに二に遍へんもやらせられた。
その内うちの一遍いちぺんでは、云ういう事ことが無くっなくって仕方しかたがなかったから、私わたくしは今晩こんばん、なぜ講演こうえんというものが、そう容易よういにできるものでないか、すなわち講演こうえんができない訳わけを講演こうえん致しいたしますと云っいって、妙みょうな事ことを弁じべんじてしまった。
それを是ぜ公こうが聞きききに来きていて、うん貴様きさまはなかなか旨いうまい、これからどこへ出でて演説えんぜつしようと勝手かってだ、おれが許しゆるしてやると評しひょうしたからありがたい。
けれども勧告かんこくの本人ほんにんたる橋本はしもとは、平気へいきな顔かおをして、どこか遊んあそんで歩いあるいていて聞きききに来きなかった。
そのくせ営口えいこうでまた頼またのまれると早速さっそく、君きみやるさ、せっかく頼むたのむんだものと例れいの通りとおりやり出しだしたので、やむをえず痛いいたい腹はらの上うえにかけていた蒲団ふとんを跳ねはね退けしりぞけて、演説えんぜつをしに行っいった。
その代りかわりおれが先さきへやるよと断っことわって、橋本はしもとのは聞かきかずに、すぐ宿屋やどやへ帰っかえって来きて、また腹はらの上うえに蒲団ふとんを掛けかけていた。
橋本はしもとはこう云ういうところを見るみると、君きみ演説えんぜつをやってる間まは苦しいくるしいかなどと気楽きらくな質問しつもんをする。
もっとも招待しょうたいを断っことわったり何なんかするときには、いや実際じっさいこの男おとこは胃病いびょうでといつでも証人しょうにんに立ったってくれた。
して見るみると、橋本はしもとはただ演説えんぜつに対したいしてだけ冷れい刻こくなのかも知れしれない。
奉天ほうてんでも危うくあやうく高いたかい所ところへ乗せのせられるところを、一いち日ひ日ひ取とりが狂っくるったため、いかな橋本はしもとにも、君きみ頼またのまれたときにはやってやるべきだよを繰返すくりかえす余地よちがなかった。
京城けいじょうでは発着はっちゃくが前後ぜんごした上うえに、宿屋やどやさえ違っちがったものだから、泰然たいぜんと講演こうえんを謝絶しゃぜつする余裕よゆうがあった。
これは偏にひとえに橋本はしもとのいなかった御蔭みかげである。
面白いおもしろい事ことに、この演説えんぜつの勧誘かんゆう家いえはその後あと札幌さっぽろへ帰るかえるや否いなや、自身じしんと烈しいはげしい胃病いびょうに罹っかかって、急きゅうに苦しみくるしみ出しだした。
それで普通ふつうならば毎週まいしゅう十じゅう時間じかん余よも講義こうぎを持たもたせられるところを、わずか一いち時間じかんに減らしへらして貰っもらって、その一いち時間じかんが済むすむとすぐに薬くすりを呑むのむそうだ。
旅行りょこう中なかは君きみの病気びょうきである事ことを知りしりながら、無理むりに講演こうえんを勧めすすめて大いにおおいに悪かっわるかった。
何事なにごとも自分じぶんで経験けいけんしないうちは分らわからぬもので、こうして胃病いびょうに悩まさなやまされて始めてはじめて気きがついたが、痛いいたいときに演説えんぜつなどができる訳わけのものでは、けっしてない。
君きみがあの際さい奮っふるって演壇えんだんに立ったったのは実際じっさい感心かんしんである、と大いにおおいに褒めほめたり詫わびまったりして来きた。
実際じっさい橋本はしもとの云ういう通りとおりである。
しかしはたして橋本はしもとの推察すいさつするほど胃いが痛かっいたかったら、いかな余よも、いくらせっかくだから君きみ出るでるが好いよいよを繰返さくりかえされたって、ついに講演こうえんを断っことわってしまったろう。
二十七にじゅうなな
白仁しらにさんから正餐せいさんの御馳走ごちそうになったときは、民政みんせい部内ぶないの諸君しょくんがだいぶ見えみえた。
みんな揃っそろってカーキーかーきー色いろの制服せいふくを着きていた。
食事しょくじが済んすんで別室べっしつへ戻っもどって話しはなしていると佐藤さとうが、あしたは朝あさのうち二百三にひゃくさん高地こうちの方ほうを見みたら好かろうよかろう、案内あんないを出すだすからと云っいってくれる。
余よも好かろうよかろうと答えこたえた。
すると、大したたいした案内あんないにも及ぶおよぶまいと笑いわらいながら相談そうだんを掛けかけた。
我々われわれは一いち私人しじんで、ただ遊覧ゆうらんに来きたのだから、公こうの職務しょくむを帯びおびている人ひとを使っつかってはすまないが、せっかく案内あんないをつけてくれると云ういうなら、小使こづかいでも何なんでも構わかまわない。
非番ひばんか閑散かんさんの人ひとを一人ひとり世話せわしてくれと頼んたのんだ。
これは正直しょうじき恐れ入っおそれいった本当ほんとうの謙遜けんそんである。
その時じ佐藤さとうは懐中かいちゅうから自分じぶんの名刺めいしを出しだして、端はしの方ほうに鉛筆えんぴつで何なんか書いかいて、じゃ明日あすの朝あさ八はち時じにこの人ひとが来るくるから、来きたらいっしょに行くいくが好いよいと云っいって分れわかれた。
明日あすの朝あさの八はち時じは例れいの通りとおり強いつよい日ひが空そらにも山やまにも港みなとにも一面いちめんに輝いかがやいていた。
馬車ばしゃを棄てすてて山やまにかかったときなどは、その強いつよい日ひの光ひかりが毛孔けあなから総身そうみに浸込むように空気くうきが澄きよし徹してっしていた。
相そう変らかわらず樹きのない山やまで、山やまの上うえには日ひがあるばかりだから、眼めの向くむく所ところは、左右さゆうともに、また前後ぜんごともに、どこまでも朗らかほがらかである。
その明かあきらかな足元あしもとから、ばっと音おとがして、何物なにものだか飛び出しとびだした。
案内あんないの市川いちかわ君きみが鶉うずらですと云っいったので始めはじめてそうかと気きがついたくらい早くはやく、鶉うずらは眼めを掠めかすめて、空そら濶ひろの中なかに消えきえてしまった。
その迹を見上げるみあげると、遥はるかなる大きいおおきい鏡かがみである。
その時じ我々われわれはもう頂いただき近くちかくにいた。
ここいらへも砲丸ほうがんが飛んとんで来きたんでしょうなと聞くきくと、ここでやられたものは、多くおおく味方みかたの砲丸ほうがん自身じしんのためです。
それも砲丸ほうがん自身じしんのためと云ういうより、砲丸ほうがんが山やまへ当っあたって、石いしの砕けくだけたのを跳ね返しはねかえしたためです。
こう云ういう傾斜けいしゃのはなはだしい所ところですから、いざと云ういう時じに、すぐ遠くとおくから駆け寄せかけよせて敵てきを追い退けるおいしりぞける訳わけに行きいきませんので、みんなこう云ういうところへ平たくひらたくなって噛りついているのであります。
そうして味方みかたの砲丸ほうがんが眼めの前まえへ落ちおちて、一度いちどに砂煙すなけむりが揚がるあがるとその虚うつろに乗じじょうじて一いち間まか二に間まずつ這い上がるはいあがるのですから、勢いいきおい砂煙すなけむりに交こうる石いしのために身体しんたい中なか創はじめだらけになるのです。
と市川いちかわ君きみは詳しいくわしい説明せつめいを与えあたえられた。
味方みかたの砲弾ほうだんでやられなければ、勝負しょうぶのつかないような烈しいはげしい戦いくさは苛いらち過ぎるすぎると思いおもいながら、天辺てっぺんまで上っのぼった。
そこには道標どうひょうに似にた御影みかげの角柱かくばしらが立ったっていた。
その右みぎを少しすこしだらだらと降りふりたところが新しんに土つちを掘返しほりかえしたごとく白茶けしらちゃけて見えるみえる。
不思議ふしぎな事ことにはところどころが黒ずんくろずんで色いろが変っかわっている。
これが石油せきゆを襤褸ぼろに浸み込ましみこまして、火ひを着けつけて、下したから放りほうり抛げなげたところですと、市川いちかわ君きみはわざわざ崩れくずれた土饅頭どまんじゅうの上うえまで降りふりて来きた。
その時遥じよう下したの方ほうを見渡しみわたして、山やまやら、谷たにやら、畠はたけやら、一々いちいち実地じっちの地形ちけいについて、当時とうじの日本軍にっぽんぐんがどう云ういう径路けいろをとって、ここへじりじり攻め寄せせめよせたかをついでながら物語らものがたりられた。
不幸ふこうにして、二百三にひゃくさん高地こうちの上うえまでは来きたようなものの、どっちが東ひがしでどっちが西にしか、方角ほうがくがまるで分らわからない。
ただ広々ひろびろとして、山やまの頭あたまがいくつとなく起伏きふくしている一角いっかくに、藍色あいいろの海うみが二にカか処ところほど平たくひらたく見えるみえるだけである。
余よはただ朗かほがらかな空そらの下したに立ったって、市川いちかわ君きみの指さすゆびさす方ほうを眺めながめていた。
自分じぶんでここへ攻め寄せせめよせて来きた経験けいけんをもっている市川いちかわ君きみの話はなしは、はなはだ詳しいくわしいものであった。
市川いちかわ君きみの云ういうところによると、六ろく月つきから十二じゅうに月つきまで屋根やねの下したに寝ねた事ことは一度いちどもなかったそうである。
あるときは水みずの溜ったまった溝みぞの中なかに腰こしから下したを濡らしぬらして何時間なんじかんでも唇くちびるの色いろを変えかえて竦んすくんでいた。
食事しょくじは鉄砲てっぽうを打たうたない時じを見計っみはからって、いつでも構わかまわず口くち中なかに運んはこんだ。
その食事しょくじさえ雨あめが降っふって車くるまの輪わが泥どろの中なかに埋っうまって、馬うまの力ちからではどうしても運搬うんぱんができなかった事こともある。
今いまあんな真似まねをすれば一いち週間しゅうかん経たへたないうちに大病たいびょう人ひとになるにきまっていますが、医者いしゃに聞いきいて見るみると、戦争せんそうのときは身体しんたいの組織そしきがしばらくの間まに変っかわって、全くまったく犬いぬや猫ねこと同様どうようになるんだそうですと笑っわらっていた。
市川いちかわ君きみは今いま旅順りょじゅんの巡査じゅんさ部ぶ長ながを勤めつとめている。
二十八にじゅうはち
旅順りょじゅんの港みなとは袋ふくろの口くちを括っくくったように狭くせまくなって外洋がいように続いつづいている。
袋ふくろの中なかはいつ見みても油あぶらを注しさしたと思わおもわれるほど平らかたいらかである。
始めはじめてこの色いろを遠くとおくから眺めながめたときは嬉しかっうれしかった。
しかし水みずの光ひかりが強くつよく照り返してりかえして、湾わん内うちがただ一いち枚ばいに堅くかたく見えみえたので、あの上うえを舟ふねで漕ぎこぎ廻っまわって見みたいと云ういう気きは少しすこしも起らおこらなかった。
魚さかなを捕るとる料簡りょうけんは無論むろん無かっなかった。
露西亜ろしあの軍艦ぐんかんがどこで沈没ちんぼつしたろうかなどと思い浮かべるおもいうかべる暇ひまも出でなかった。
ただ頭あたまへぴかぴかと、平たいひらたい研ぎ澄しとぎすましたものが映っうつった。
余よは大和やまとホテルほてるの二に階かいからもこの晴やかはれやかな色いろを眺めながめた。
ホテルほてるの玄関げんかんを出でたり這入っはいったりするときにもこの鋭いするどい光ひかりの断片だんぺんに眼めを何度なんどとなく射いられた。
それでも単にたんに烈しいはげしい奇麗きれいな色いろと光ひかりだなと感ずるかんずるだけであった。
佐藤さとうから港内こうないを見せみせてやるからと案内あんないされるまでは、とうてい港内こうないは人間にんげんの這入るはいるところではないくらいに、頭あたまの底そこで、無意識むいしきながら分別ぶんべつしていたらしい。
さあ行くいくんだと催促さいそくされた時じは、なるほど旅順りょじゅんに来るくる以上いじょう、催促さいそくされなければならんはずの場処ばしょへ行くいくんだと思っおもった。
今日きょうの同勢どうぜいは朝あさ大連だいれんから来きた田中たなか君きみを入れいれて五ご人ひとである。
港みなと務つとむ部ぶを這入るはいるときに水兵すいへいがこの五ご人ひとに礼れいをした。
兵隊へいたいに礼れいをされたのは生れうまれてこれが初はつてであった。
佐藤さとうが真先まっさきに中なかへ這入っはいって、やがて出でて来きたから、もう舟ふねに乗れるのれるのかと思っおもったら、おい這入れはいれ這入れはいれという。
我々われわれは石垣いしがきの上うえに立ったっていた。
足元あしもとにはすぐ小しょう蒸気じょうきが繋いつないである。
我々われわれの足あしは、家いえの方ほうより、むしろ水みずの方ほうに向いむかいていた。
十じゅう分ぶんの後あと五ご人ひとはまた河野こうの中佐ちゅうさといっしょに家いえを出でてすぐ小しょう蒸気じょうきに移っうつった。
海軍かいぐんの将校しょうこうが下士かしや水兵すいへいを使うつかうのは実じつに簡潔かんけつ明瞭めいりょうである。
船ふねは河野こうの中佐ちゅうさの云いいいなり次第しだいの速力そくりょくで、思うおもう通りとおりの方角ほうがくへ出でた。
港みなとの入口いりぐちではここかしこの潜水器せんすいきへ船ふねの上うえから空気くうきを送っおくっている。
船ふねの数すうは十じゅう艘そう近くちかくあった。
みんな波なみに揺られゆられて上っのぼったり下っしたったりしている。
我々われわれ五ご人ひとのも固よりもとより平たいらではない。
鏡かがみのように見えみえた湾わんの入口いりぐちがこうまで動いうごいているとは思いがけおもいがけなかった。
波なみで身体しんたいの調子ちょうしが浮いういたり沈んしずんだりする上うえに、強いつよい日ひが頭あたまから射いりつけるので、少しすこし胸むねが悪くわるくなった。
河野こうのさんは軍人ぐんじんだから、そんな事ことに気きのつくはずがない。
ああ云ういう喞筒で空気くうきを送るおくるのは旧式きゅうしきでね、時々ときどき潜水夫せんすいふを殺しころしてしまいますよと講釈こうしゃくをしている。
田中たなか君きみはふうんとさも感心かんしんしたらしく聞いきいている。
河野こうのさんの話はなしによると、日露にちろ戦争せんそうの当時とうじ、この附近ふきんに沈んしずんだ船ふねは何なん艘そうあるか分らわからない。
日本人にっぽんにんが好んこのんで自分じぶんで沈めしずめに来きた船ふねだけでもよほどの数すうになる。
戦争せんそう後あと何なん年ねんかの今日きょういまだに引揚げひきあげ切れきれないところを見みてもおおよその見当けんとうはつく。
器械きかい水雷すいらいなぞになるとこの近海きんかいに三千さんぜんも装置そうちしたのだそうだ。
じゃ今いまでも危険きけんですねと聞くきくと、危険きけんですともと答えこたえられたのでなるほどそんなものかと思っおもった。
沈んしずんだ船ふねを引揚げるひきあげる方法ほうほうも聞いきいて見みたが、これは委しくくわしく覚えおぼえている、百ひゃくキロきろぐらいな爆発ばくはつ薬くすりで船体せんたいを部分ぶぶん部分ぶぶんに切りきり壊しこわして、それを六ろく吋の針金はりがねで結えゆわえて、そうして六百ろっぴゃく噸とんのブイアンシーぶいあんしーのある船ふねを、水みずで重くおもくした上うえ、干潮かんちょうに乗じじょうじて作事さくじをしておいて、それから満潮まんちょうの勢いいきおいと喞筒の力ちからで引き揚げるひきあげるのだそうだ。
しかし我々われわれが眺めながめていた時じは、いつまで立ったっても、何なんも揚っあがって来きそうになかった。
港みなとの入口いりぐちは左右さゆうから続いつづいた山やまを掘りほり割っわりったように岸きしが聳えそびえていて、その上うえに砲台ほうだいがある。
あすこから探海灯たんかいとうで照らさてらされると、一番いちばん困るこまる。
まるで方角ほうがくも何なんも分らわからなくなってしまうと河野こうのさんが高いたかい処ところを指さしゆびさした。
やがて小しょう蒸気じょうきは煙りけむりを逆ぎゃくに吐いはいて港内こうないに引返しひきかえした。
戦闘艦せんとうかんが並んならんで撃沈げきちんされたという前まえを横よこに曲っきょくってまた元もとの石垣いしがきの下したへ着いついた。
向う岸むこうぎしには戦利品せんりひんのブイぶいや錨いかりがたくさん並んならんでいる。
あれで約やく三十万さんじゅうまん円えんの価格かかくですと河野こうのさんが云っいった。
門もんの出口でぐちには防ぼう材ざいの標本ひょうほんが一いち本ほん寝かしねかしてあった。
その先さきから尖っとがった剣けんのようなものが出でていた。
二十九にじゅうきゅう
風呂ふろを注文ちゅうもんしておいたら、用意よういができたと見えみえて、向うむこうの部屋へやで、湯ゆの迸ばしる音おとが盛さかんにする。
靴くつを脱いぬいで、スリッパアすりっぱあをつっかけて、戸とを開けあけに掛るかかると、まだ廊下ろうかに出でないうちに給仕きゅうじがやって来きた。
田中たなかさんがいっしょにスキすき焼やけを食べたべにいらっしゃいませんかと云ういう案内あんないである。
スキすき焼やけの名なはこの際さい両人りょうにんに取っとって珍らしいめずらしい響ひびきがした。
けれども白状はくじょうすると、毫もごうも食うくう気きにはならなかった。
スキすき焼やけって家いえで拵えるこしらえるのかいと尋ねるたずねると、いえ近所きんじょの料理屋りょうりやですと云ういう。
近所きんじょの料理屋りょうりやはスキすき焼やけよりも一層いっそう不思議ふしぎな言葉ことばである。
ホテルほてるの窓まどから往来おうらいを一いち日ひ眺めながめていたって、通行人つうこうにんは滅多めったに眼めに触れふれないところである。
外そとへ出でて広いひろい路みちを岡おかの上うえまで見通すみとおすと、左右さゆうの家いえは数えるかぞえるほどしか並んならんでいない。
そうしてそれがことごとく西洋館せいようかんである。
しかも三さん分ぶんの一いちは半はん建けんのまま雨露うろに曝ささらされている。
他ほかの三さん分ぶんの一いちは空家あきやである。
残るのこる三さん分ぶんの一いちには無論むろん人ひとが住んすんでいる。
けれどもその主人しゅじんはたいてい月給げっきゅうを取っとって衣食いしょくするものとしか受け取れうけとれない構かまえである。
新市しんし街まちという名なはあるにしても、その実じつは閑静かんせいな寂れさびれた屋敷やしき町まちに過ぎすぎない。
その屋敷やしきのどこにスキすき焼やけを食わすくわす家いえがあるかと思うおもうと、一種いっしゅ小説しょうせつに近いちかい心持こころもちが起るおこる。
ただ、昼ひるの疲れつかれを忘れるわすれるため、胃いの不安ふあんを逃れるのがれるため、早くはやく湯ゆに入っはいって、レースれーすの蚊帳かやの中なかで、穏かおだやかに寝ねたかった。
そこで給仕きゅうじに、今いま湯ゆに這入りはいりかけているからね、少しすこし時間じかんが取れるとれるかも知れしれないから、田中たなかさんに、どうか御ご先さきへと云っいってくれと頼んたのんだ。
すると傍そばにいる橋本はしもとが例れいのごとく、そりゃいかんよと云いいい出しだした。
せっかく誘っさそってくれるものを、そんな挨拶あいさつをする法ほうはないぜと、また長いながい説教せっきょうが始まりはじまりそうで恐ろしくおそろしくなったので、仕方しかたがないからうんよしよし、それじゃあね、今いま湯ゆに這入っはいっていますから、すぐ行きいきますってそう云っいってくれ、よく云ういうんだよ、分っわかったかねと念ねんを押しおしてすぐ風呂ふろに飛込んとびこんだ。
そうして、少しすこしも弱っよわった顔かおを見せみせずにみんなと連れ立っつれだって、ホテルほてるを出でた。
空そらはよく晴れはれて、星ほしが遠くとおくに見えるみえる晩ばんであったが、月つきがないので往来おうらいは暗かっくらかった。
危のうあぶのうございますから御ご案内あんないを致しいたしましょうと云っいって、ホテルほてるの小僧こぞうがついて来きた。
草くさの生えはえた四角しかくな空地あきちを横切っよこぎって、瓦斯がすも電気でんきもない所ところを、茫漠ぼうばくと二に丁ていほど来るくると、門もんの奥おくから急きゅうに強いつよい光ひかりが射ししゃした。
玄関げんかんに女おんなが二三にさん人ひと出でている。
我々われわれの来るくるのを待っまっていたような挨拶あいさつをした。
座敷ざしきは畳たたみが敷いしいて胡坐こざがかけるようになっていた。
窓まどを見るみると、壁かべの厚あつしさが一いち尺さしほどあったので、始めはじめて普通ふつうの日本にっぽん家屋かおくでないと云ういう事ことが解っわかった。
窓まどの高さたかさは畳たたみから一いち尺さしに足りたりないから、足あしをかけると厚いあつい壁かべの上うえに乗るのる事ことができる。
女おんなが危のうあぶのうございますと云っいった。
外そとを覗いのぞいたら真しん闇やみに静かしずかであった。
女おんなは三四さんよん人ひとで、いずれも東京とうきょうの言葉ことばを使わつかわなかった。
田中たなか君きみはわざと名古屋なごや訛なまりを真似まねて調ちょう戯たわむれっていた。
女おんなは御上手おかみてだ事こととか、御上手おかみてやなとか、何なんとか云っいって賞めほめていた。
ところが前まえ触ふれのスキすき焼やけはなかなか出でて来きない。
酒さけを飲まのまないで、肴さかなを突っついつっついて手持無沙汰てもちむさたであった。
スキすき焼やけがあらわれても、胃いの加減かげんで旨くうまくも何なんともなかった。
天下てんかに何なんが旨いうまいってスキすき焼やけほど旨いうまいものは無いないと思うおもうがねと田中たなか君きみが云っいった。
田中たなか君きみはスキすき焼やけの主唱者しゅしょうしゃだけあって、大変たいへん食べたべた。
傍そばで見みていて羨ましいうらやましいほど食べたべた。
余よはしようがないから畳たたみの上うえに仰あおぐ向むかいに寝ねていた。
すると女おんなの一人ひとりが枕まくらを御ご貸しかし申しもうしましょうかと云いいいながら、自分じぶんの膝ひざを余よの頭あたまの傍そばへ持っもって来きた。
この枕まくらでは御ご気きに入りいりますまいとか何なんとか弁じべんじている。
結構けっこうだから、もう少しすこしこっちの方ほうへ出しだしてくれと頼んたのんで、その女おんなの膝ひざの上うえに頭あたまを乗せのせて寝ねていた。
不思議ふしぎな事ことに、橋本はしもとも活動かつどうの余地よちがないものと見えみえて、余よと同様どうようの真似まねをして、向うむこうの方ほうに長くながくなっている。
枕元まくらもとでは田中たなか君きみが女おんなを相手あいてに碁石ごいしでキシャゴ弾きひきをやって大騒ぎおおさわぎをしている。
余よがあまり静せいだものだから、膝ひざを貸しかした女おんなは眠っねむったのだと思っおもって、顋あごの下したをくすぐった。
帰るかえるときには、神かみさんらしいものが、しきりに泊っとまって行けいけと勧めすすめた。
門もんを出るでるとまた急きゅうに暗くくらくなった。
森閑しんかんとして人ひとの気合きあいのない往来おうらいをホテルほてるまで、影かげのように歩いあるいて来きて、今までいままでの派出はしゅつなスキすき焼やけを眼前がんぜんに浮かべるうかべると、やはり小説しょうせつじみた心持こころもちがした。
三十さんじゅう
朝食ちょうしょくに鶉うずらを食わすくわすから来いこいという案内あんないである。
朝飯あさめしの御馳走ごちそうには、ケムブリジに行っいったときたしか浜口はまぐち君きみに呼ばよばれた事ことがあると云ういう記憶きおくがぼんやり残っのこっているだけだから、大変たいへん珍らしかっめずらしかった。
もっとも午前ごぜん十一じゅういち時じに立つたつ客きゃくに晩餐ばんさんを振舞うふるまう方法ほうほうは、世界せかいにないんだから仕方しかたがない。
鶉うずらに至っいたっては生れうまれてからあんまり食っしょくった事ことがない。
昔むかし正岡まさおか子規しきに、手紙てがみをもってわざわざ大宮公園おおみやこうえんに呼び寄せよびよせられたとき、鶉うずらだよと云っいって喰わくわせられたのが初めてはじめてぐらいなものである。
その鶉うずらの朝飯あさめしを拵えるこしらえるからと云っいって、特にとくに招待しょうたいするんだから、佐藤さとうは物もの数奇すうきに違いちがいない。
そうして、好いよいかほかに何になんにもない、鶉うずらばかりだよと念ねんを押しおした。
いったい鶉うずらを何なん羽はね喰わくわせるつもりか知らしらんと思っおもって、どこから貰っもらったのかと聞くきくと、いや鶉うずらは旅順りょじゅんの名物めいぶつだ、もう出るでる時分じぶんだからちょうど好かろうよかろうとすでに鶉うずらを捕っとったような事ことを云っいっていた。
白仁しらにさんのところへ暇乞いとまごいに行っいったので少しすこし後れおくれて着くつくと、スキすき焼やけを推挙すいきょした田中たなか君きみがもう来きていた。
田中たなか君きみも鶉うずらの御ご相伴しょうばんと見えるみえる。
佐藤さとうは食卓しょくたくの準備じゅんびを見るみるために、出でたり這入っはいったりする。
立派りっぱな仙台せんだい平たいらの袴はかまを着けつけてはいるが、腰板こしいたの所ところが妙みょうに口くちを開いひらいて、まるで蛤はまぐりを割っわりったようである。
そうして、それを後あと下りくだりに引き摺っひきずっている。
それでもって、さあ食おうくおうと云っいって、次の間つぎのまの食堂しょくどうへ案内あんないした。
西洋せいよう流りゅうの食卓しょくたくの上うえに、会席膳かいせきぜんを四よんつ並べならべて、いよいよ鶉うずらの朝飯あさめしとなった。
まず御ご椀わんの蓋ふたを取るとると、鶉うずらがいる。
いわゆる鶉うずらの御ご椀わんだから不思議ふしぎもなく食べたべてしまった。
皿さらの上うえにもいるが、これはたしか醤油しょうゆで焼かやかれたようだ。
これも旨くうまく食べたべた。
第だい三さんは何なんでも芋いもか何なんかといっしょに煮にられたように記憶きおくしている。
しかし遺憾いかんながら、判然はんぜんとその味あじを覚えおぼえていない。
これらを漸次ぜんじに平げるたいらげると、佐藤さとうはまだあるよと云っいって、次つぎの皿さらを取り寄せとりよせた。
それも無論むろん鶉うずらには相違そういなかった。
けれどもただ西洋せいよう流りゅうの油揚あぶらあげにしてあるばかりで、ややともすると前まえの附ふ焼やけと紛れまぎれやすかった。
しかもこの紛れまぎれやすい油揚あぶらあげはだいぶ仕込んしこんで有っあったと見えみえて、まだ喰いくい切らきらない先さきに御ご代りかわりが出でて来きた。
かくのごとく鶉うずらが豊富ほうふであったため、つい食べ過ぎたべすぎた。
余よの胃いの中なかに這入っはいった骨ほねだけの分量ぶんりょうでもずいぶんある。
大連だいれんへ帰っかえって胃いの痛みいたみが増しましたとき、あまり鶉うずらの骨ほねを喰っくったせいじゃなかろうかと橋本はしもとに相談そうだんしたら、橋本はしもとは全くまったくそうだろうと答えこたえた。
食事しょくじが終っおわってから応接間おうせつかんへ帰っかえって来るくると、佐藤さとうが突然とつぜん、時じに君きみは何なんかやるそうじゃないかと聞いきいた。
是ぜ公こうに東京とうきょうで逢っあったとき、是ぜ公こうはにやにや笑いわらいながら、いったい貴様きさまは新聞しんぶん社員しゃいんだって、何なんか書いかいてるのかと聞いきいた。
こう云ういう質問しつもんになると、是ぜ公こうも友熊ともくまも同どう程度ていどのものである。
何なんかやるなら一いちつ書いかいて行くいくが好いよいと云っいって、妙みょうな短冊たんざくを出しだした。
それを傍そばへ置いおいて話はなしをしていると、一いちつ書こうかこうじゃないかと催促さいそくする。
今いま考えかんがえているところだと弁解べんかいすると、ああそうかと云っいって、また話はなしをする。
しまいに墨すみを磨っすって、とうとう手てを分つわかつ古きふるき都とや鶉うずら鳴くなくと書いかいた。
佐藤さとうの事ことだから何なんを書いかいたって解るわかるまいと思っおもったが、佐藤さとうは短冊たんざくを取上げとりあげて、何なんだ年ねんを分つわかつ古きふるき都とやと読んよんでいた。
鶉うずらの腹はらを抱えかかえたなり、ホテルほてるへ帰っかえって勘定かんじょうを済ましすまして、停車場ていしゃじょうへ駆かけるつけると、プラットフォームぷらっとふぉーむに大きなおおきな網あみ籠かごがあった。
その中なかに鶉うずらの生きいきたのがいっぱい這入っはいって雛鳥ひなどりを詰めつめたようにむくむく動いうごいている。
発車はっしゃの時間じかんに少しすこし間まがあったので、田中たなか君きみは籠かごの傍そばへ行っいって所有主しょゆうしゅと談判だんぱんを始めはじめた。
余よが近寄っちかよったときは、一いち羽はねが三さん銭せんだとか四よん銭せんだとか云っいっていた。
ところへ駅員えきいんが来きて、宜しゅうよろしゅうございます、この汽車きしゃへ積込んつみこんで御ご届けとどけ申しもうしますと受合っうけあった。
三さん人ひとはとうとう鶉うずらと別れわかれて汽車きしゃへ乗っのった。
三十一さんじゅういち
いよいよ腹はらが痛んいたんだ。
ゼムぜむを噛んかんだり、宝丹ほうたんを呑んのんだり、通じつうじ薬くすりをやったり、内地ないちから持っもって来きた散薬さんやくを用いもちいたりする。
毎日まいにち飯めしを食っしょくって呑気のんきに出歩いであるいているようなものの、内心ないしんではこりゃたまらないと思うおもうくらいであった。
大連だいれんの病院びょういんを見みに行っいったとき、苦し紛れくるしまぎれに、案内あんないをしてくれた院長いんちょうの河西かさい君きみに向っむかって、僕ぼくも一いちつ診察しんさつを願おうねがおうかなと云っいったら、河西かさい君きみはとんだお客様おきゃくさまだというような顔かおもせず、明日あすの十じゅう時じ頃ころいらっしゃいと親切しんせつに引き受けひきうけてくれた。
ところが明日あすの十じゅう時じ頃ころになると、診察しんさつの事ことはまるで忘れわすれてしまって、相そう変らかわらず鳥打帽子とりうちぼうしを被っかぶって、強いつよい日ひの下したを焦げこげながら、駆け廻っかけまわった。
橋本はしもとが、全体ぜんたいどこまで行くいくつもりなんだいと聞くきくから、そうさまあ哈爾賓はるびんぐらいまで行かいかなくっちゃ義理ぎりが悪いわるいようだなと答えこたえたが、その橋本はしもとはどうする料簡りょうけんかちっとも分らわからない。
考えかんがえて見るみると、内地ないちではもう九きゅう月つきの学期がっきが始っはじまって、教授きょうじゅ連れんがそろそろ講義こうぎに取りかかるとりかかる頃ころである。
君きみはこれからどうするんだと反問はんもんして見みた。
さあ僕ぼくも哈爾賓はるびんぐらいまで行っいって見みたいのだが、何しろなにしろ六ろく月つきから学校がっこうを空けあけているんだからねと決心けっしんしかねている。
かように義務ぎむ心こころの強いつよい男おとこを唆かしそそのかして見当けんとう違いの方角ほうがくへ連れつれて行っいったのは、全くまったく余よの力ちからである。
その代りかわり哈爾賓はるびんを見みて奉天ほうてんへ帰るかえるや否いなや、橋本はしもとは札幌さっぽろから電報でんぽうをかけられた。
いよいよ催促さいそくを受けうけたと電報でんぽうを見みながら苦笑くしょうしているので、いいや、急ぎ帰りいそぎかえりつつありとかけておくさと、他ほかの事ことだからはなはだ洒落しゃれな助言じょげんをした。
橋本はしもとがいよいよいっしょに北きたへ行くいくと云ういう事ことになってから、余よはすべてのプログラムぷろぐらむを橋本はしもとに委任いにんしてぶらぶらしていた。
橋本はしもとは汽車きしゃの時間表じかんひょうを見みたり、宿泊地しゅくはくちの里程りていを計算けいさんしたり二三にさん日ひの間まはしきりに手帳てちょうへ鉛筆えんぴつで何なんか付け込んつけこんでいた。
ときどき、おいどうも旨くうまく行かいかんよ、ここを火曜かようの急行きゅうこうで出るでるとするとなどと相談そうだんを掛けるかけるから、いいさ火曜かようがいけなければ水曜すいようの急行きゅうこうにしようと、まるで無学むがくな事ことを云っいっているので、橋本はしもとも呆れあきれていた。
よく聞いきいて見みて始めてはじめて了解りょうかいしたが、実じつは哈爾賓はるびんへ接続せつぞくする急行きゅうこうは、一いち週しゅうにたった二に回かいしかないのだそうである。
普通ふつうの客車きゃくしゃでも、京浜けいひん間まのようにむやみには出でない。
一いち日ひにわずか二に度どか三さん度どらしい。
だから君きみのように呑気のんきな事ことを云っいったって駄目だめだよと橋本はしもとから叱らしかられた。
なるほど駄目だめである。
しかも余よの駄目だめは汽車きしゃにとどまらない。
地理ちり道程どうていに至っいたっても悉皆しっかい真しん闇やみであった。
さすが遼陽りょうようだの奉天ほうてんだのと云ういう名前なまえは覚えおぼえているが、それがどの辺へんにあって、どっちが近いちかいのだかいっさい知らしらなかった。
その上うえ、これから先さきどことどこへ泊っとまって、どことどこを通り抜けるとおりぬけるのかに至るいたるまで、全くまったく無頓着むとんちゃくであったのだから橋本はしもとも呆れるあきれるはずである。
しかし、おい鉄嶺てつれいへは降りるおりるのかと聞いきいて、いや降りふりないと答えこたえられれば、はあ、そうかと云っいったなりで済ましすましていた。
別べつに降りふりて見みたい気きにもならなかったからである。
したがって橋本はしもとは実じつに順良じゅんりょうな道伴どうともを得とくた訳わけで、同時どうじに余よは結構けっこうな御供ごくを雇っやとった事ことになる。
いよいよプログラムぷろぐらむがきまったので、是ぜ公こうに出立しゅったつの事ことを持ち出すもちだすと、奉天ほうてんへ行っいって、それから北京ぺきんへ出でて、上海しゃんはいへ来きて、上海しゃんはいから満鉄まんてつの船ふねで大連だいれんまで帰っかえって、それからまた奉天ほうてんへ行っいって、今度こんどは安あん奉線を通っとおって、朝鮮ちょうせんへ抜けぬけたら好いよいだろうとすこぶる大袈裟おおげさな助言じょげんを与えるあたえる。
その上うえ、銭せんが無けれなければやるよと註釈ちゅうしゃくを付けつけた。
銭せんが無くなれなくなれば無論むろん貰うもらう気きでいた。
しかし余っよっても困るこまるから、むやみには手てを出さださなかった。
余よは銭せん問題もんだいを離れはなれて、単にたんに時間じかんの点てんから、この大袈裟おおげさな旅行りょこうの計画けいかくを、実行じっこうしなかった。
そのくせ奉天ほうてんを去っさっていよいよ朝鮮ちょうせんに移るうつるとき、紙入かみいれの内容ないようの充実じゅうじつしていないのに気きがついて、少々しょうしょう是ぜ公こうに無心むしんをした。
もとより返すかえす気きがあっての無心むしんでないから、今いまもって使いつかい放しはなしである。
立つたつ時じには、是ぜ公こうはもとより、新たあらたに近づきちかづきになった満鉄まんてつの社員しゃいん諸氏しょしに至るいたるまで、ことごとく停車場ていしゃじょうまで送らおくられた。
貴様きさまが生れうまれてから、まだ乗っのった事ことのない汽車きしゃに乗せのせてやると云っいって、是ぜ公こうは橋本はしもとと余よを小さいちいさい部屋へやへ案内あんないしてくれた。
汽車きしゃが動きうごき出しだしてから、橋本はしもとが時間表じかんひょうを眺めながめながら、おいこの部屋へやは上等じょうとう切符きっぷを買っかった上うえに、ほかに二十五にじゅうご弗払わはらわなければ這入れはいれない所ところだよと云っいった。
なるほど表ひょうにちゃんとそう書いかいてある。
専有せんゆうの便所べんじょ、洗面所せんめんしょ、化粧室けしょうしつが附属ふぞくした立派りっぱな室むろであった。
余よは痛いいたい腹はらを忘れわすれてその中なかに横よこになった。
三十二さんじゅうに
トロとろと云ういうものに始めはじめて乗っのって見みた。
停車場ていしゃじょうへ降りふりた時じは、柵さくの外そとに五六ごろく軒のき長屋ながやのような低いひくい家いえが見えるみえるばかりなので、何なんだか汽車きしゃから置き去りおきざりにされたような気持きもちであったが、これからトロとろで十五じゅうご分ぶんかかるんだと聞いきいて、やっと納得なっとくした。
トロとろは昔むかし軍人ぐんじんの拵えこしらえたのを、手入ていれもせずに、そのまま利用りようしているらしい。
軌道きどうの間まから草くさが生えはえている。
軌道きどうの外そとにも草くさが生えはえている。
先さきまで見渡すみわたすと、鉄色てついろの筋すじが二に本ほん栄えはえない草くさの中なかを真直まっすぐに貫ぬいつらぬいている。
しかし細いほそい筋すじが草くさに隠れかくれて、行方ゆくえ知れしれずになるまで眺めながめ尽しつくしても、建物たてものらしいものは一いち軒のきも見当らみあたらなかった。
そうして軌道きどうの両側りょうがわはことごとく高粱こーりゃんであった。
その大きなおおきな穂先ほさきは、眼めの届くとどく限りかぎり代赭たいしゃで染めそめたように日ひの光ひかりを吸っすっている。
橋本はしもとと余よと荷物にもつとは、この広漠こうばくな畠はたけの中なかを、トロとろに揺られゆられながら、眩しまぶしそうに動いうごいた。
トロとろは頑丈がんじょうな細長いほそながい涼み台すずみだいに、鉄てつの車くるまを着けつけたものと思えおもえば差支えさしつかえない。
軌道きどうの上うえを転がすころがす所ところを、よそから見みていると、はなはだ滑らかなめらかで軽快けいかいに走るはしるが、実地じっちに乗れのれば、胃いに響けひびけるほど揺れるゆれる。
押すおすものは無論むろん支那しな人ひとである。
勢いいきおいよく二三十にさんじゅう間ま突いついておいて、ひょいと腰こしをかける。
汗臭いあせくさい浅黄色あさぎいろの股引ももひきが背広せびろの裾すそに触るさわるので気味きみが悪いわるい事ことがある。
すると、速力そくりょくの鈍っにぶった頃ころを見計らっみはからって、また素足すあしのまま飛び下りとびおりて、肩かたと手てをいっしょにして、うんうん押すおす。
押さおさなければいいと思うおもうぐらい、車くるまが早くはやく廻るまわるので、乗っのってる人ひとの臓器ぞうきは少すくなからず振盪しんとうする。
余よはこのトロとろに運搬うんぱんされたため、悪いわるい胃いを著るきるしく悪くわるくした。
車くるまの上うえでは始終しじゅうゼムぜむを含んふくんで早くはやく目的地もくてきちへ着けつけば好いよいと思っおもっていた。
勢いいきおいよく駆けかけられれば、駆けかけられるほどなお辛かっつらかった。
それでも台だいからぶら下げぶらさげた足あしを折らおらなかったのが、まだ仕合せしあわせである。
実際じっさい酒さけに酔っよいって腰こしをかけたまま脛すねを折おりっぺしょった人ひとがあるそうだ。
見るみると橋本はしもとの帽子ぼうしの鍔つばが風かぜに吹かふかれてひらひらと靡いなびいている。
余よは鳥打とりうちの前まえ廂ひさしを深くふかく下げさげてなるべく日ひに背せを向けるむけるようにしていた。
苦しいくるしい十五じゅうご分ぶんか廿にじゅう分ぶんの後車こうしゃはようやく留まっとまった。
軌道きどうの左側ひだりがわだけが、畠はたけを切り開いきりひらいて平らたいらにしてある。
眼めを蔽うおおう高粱こーりゃんの色いろを、百坪ひゃくつぼ余りあまり刈り取っかりとって、黒いくろい砂地すなじにした迹へ、左右さゆうに長いながい平屋ひらやを建てたてた。
壁かべの色いろもまだ新しかっあたらしかった。
玄関げんかんを這入っはいって座敷ざしきへ通るとおると、窓まどの前まえは二に間まほどしかない。
その縁えんに朝顔あさがおのような草くさが繁っしげっているが、絡まるからまる竹たけも杖つえもないので、蔓つると云わいわず、葉はと云わいわず、花はなを包んつつんで雑然ざつぜんと簇がるむらがるばかりである。
朝顔あさがおの下したはすぐ崖がけで、崖がけの向うむこうは広いひろい河原かわはらになる。
水みずは崖がけの真下ましたを少しすこし流れるながれるだけであった。
橋本はしもとと余よは、申し合せもうしあわせたように立ったって窓まどから外そとを眺めながめていた。
首くびを出すだすと、崖下がいかにも家いえが一いち軒のきある。
しかし屋根瓦やねがわらしか見えみえない。
支那しな流りゅうの古いふるい建物たてもので、廻廊かいろうのような段々だんだんを藉りかりて、余よのいる部分ぶぶんに続いつづいているらしく思わおもわれる。
あれは何なんだいと聞いきいて見みた。
料理りょうり場ばと子供こどもを置くおく所ところになっていますと答えこたえた。
子供こどもとは酌婦しゃくふ芸妓げいぎの類るいを指すさすものだろうと推察すいさつした。
眼めの下したに橋はしが渡しわたしてある。
厚くあつくはあるが幅はば一いち尺さし足らあしらずの板いたを八はちつ橋はしに継いつづいだものに過ぎすぎない。
水みずはただ砂すなを洗うあらうほどに流れながれている。
足あしの甲こうを濡らしぬらしさえすれば徒歩とほ渉るわたるのは容易よういである。
橋本はしもとの後あとに食しょく付いついて手拭てぬぐいをぶら下げぶらさげて、この橋はしを渡っわたった時じ、板いたの真中まなかで立ち留まったちどまって、下したを覗き込んのぞきこんで見みたら、砂すなが動くうごくばかりで水みずの色いろはまるでなかった。
十じゅう里さとほど上うえに遡ぼると鮎あゆが漁れるとれるそうだ。
余よは汽車きしゃの中なかで鮎あゆのフライふらいを食っしょくって満洲まんしゅうには珍らしいめずらしい肴さかなだと思っおもった。
おそらくこの上流じょうりゅうからクーリーくーりーが売りうりに来きたものだろう。
三十三さんじゅうさん
足駄あしだを踏むふむとざぐりと這入るはいる。
踵かかとを上げるあげるとばらばらと散るちる。
渚なぎさよりも恐ろしいおそろしい砂地すなじである。
冷たくつめたくさえなければ、跣足せんそくになって歩いあるいた方ほうが心持こころもちが好いよい。
俎まないたを引摺っひきずっていては一足いっそくごとに後あとしざるようで歯痒くはがゆくなる。
それを一いち町まちほど行っいって板囲いたがこいの小屋こやの中なかを覗き込むのぞきこむと、温泉おんせんがあった。
大きいおおきい四角しかくな桶おけを縁えんまで地ちの中なかに埋けいけ込んこんだと同じおなじような槽そうである。
温泉おんせんはいっぱい溜ったまっていたが、澄みすみ切っきって底そこまで見えるみえる。
いつの間まに附着ふちゃくしたものやら底そこも縁えんも青いあおい苔こけで色いろ取らとられている。
橋本はしもとと余よは容赦ようしゃなく湯ゆの穴あなへ飛び込んとびこんだ。
そうして遠くとおくから見るみると、砂すなの中なかへ生なま埋にされた人間にんげんのように、頭あたまだけ地平線ちへいせんの上うえに出しだしていた。
支那しな人ひとの中なかには、実際じっさい生なま埋になって湯治とうじをやるものがある。
この河原かわはらの幅はばは、向うむこうに見えるみえる高粱こーりゃんの畠はたけまで行きいきつめた事ことがないからどのくらいか分らわからないが、とにかく眼めが平たいらになるほど広いひろいものである。
その平らたいらなどこを、どう掘っほっても、湯ゆが湧いわいて来るくるのだから、裸体らたいになって、手てで砂すなを掻き分けかきわけて、凹んへこんだ処ところへ横よこになれば、一いち文ぶんも使わつかわないで事ことは済むすむ。
その上うえ寝ねながら腹はらの上うえへ砂すなを掛けれかければ、温泉おんせんの掻巻かいまきができる訳わけである。
ただ砂すなの中なかを潜っもぐって出るでる湯ゆがいかにも熱いあつい。
じくじく湧いわいたものを、大きなおおきな湯槽ゆぶねに溜めためて見るみると、色いろだけは非常ひじょうに奇麗きれいだが、それに騙さだまされてうっかり飛び込もうとびこもうものなら苛いむごい目めに逢うあう。
橋本はしもとと余よは、勢いいきおいよく浴衣ゆかたを抛げなげて、競争きょうそう的まとに毛脛けずねを突込んつっこんで、急きゅうに顔かおを見合せみあわせながら縮んちぢんだ事ことがある。
大おおの男おとこがわざわざ裸はだかになって、その裸はだかの始末しまつをつけかねるのはきまりが好いよいものじゃないから、両人りょうにんは顔かおを見合せみあわせて苦笑くしょうしながら小屋こやを飛び出しとびだして、四半しはん丁ていほど先さきの共同きょうどう風呂ふろまで行っいって、平気へいきな風かぜにどぼりと浸っひたった。
風呂ふろから出でて砂すなの中なかに立ちたちながら、河かわの上流じょうりゅうを見渡すみわたすと、河かわがぐるりと緩くゆるく折れ曲っおれまがっている。
その向う側むこうがわに五六ごろく本ほんの大きなおおきな柳やなぎが見えるみえる。
奥おくには村むらがあるらしい。
牛うしと馬うまが五六ごろく頭あたま水みずを渉っわたって来きた。
距離きょりが遠いとおいので小さくちいさく動いうごいているが、色いろだけは判然はんぜん分るわかる。
皆みな茶褐色ちゃかっしょくをして柳やなぎの下したに近づいちかづいて行くいく。
牛うし追はおは牛うしよりもなお小さかっちいさかった。
すべてが世間せけんで云ういう南画なんがと称するしょうするものに髣髴ほうふつとして面白かっおもしろかった。
中なかにも高いたかい柳やなぎが細いほそい葉はをことごとく枝えだに収めおさめて、静まり返っしずまりかえっているところは、全くまったく支那しなめいていた。
遠くとおくから望んのぞんでも日本にっぽんの柳やなぎとは趣おもむきが違うちがうように思わおもわれた。
水みずは柳やなぎの茂るしげるところで見えみえなくなっているが、なおその先さきを辿ったどって行くいくと、たちまち眼めにぶつかるような大きなおおきな山脈さんみゃくがある。
襞ひだが鋭くするどく刻まきざまれているせいか、ある部分ぶぶんは雪ゆきが積っつもったほど白くしろく映るうつる。
そのくらいに周囲しゅういはどす黒かっどすぐろかった。
漢語かんごには崔嵬さいかいとか※※とか云っいって、こう云ういう山やまを形容けいようする言葉ことばがたくさんあるが、日本にっぽんには一いちつも見当らみあたらない。
あれは何なんと云ういう山やまだろうと傍そばにいる大重おおしげ君きみに尋ねたずねたら、大重おおしげ君きみも知らしらなかった。
大重おおしげ君きみは支那しな語ごの通訳つうやくとして橋本はしもとに随いしたがいて蒙古もうこまで行っいった男おとこである。
余よの質問しつもんを受けるうけるや否いなやどこかへ消えきえて無くなっなくなったが、やがて帰っかえって来きて、高麗こま城しろ子こと云ういうんだそうですと教えおしえてくれた。
土人どじんを捕まえつかまえて聞いきいて来きたのだそうである。
固よりもとより支那しな音おとで教わっおそわったのだが、それは忘れわすれてしまった。
濡れぬれ手拭てぬぐいを下げさげて、砂すなの中なかをぼくぼく橋はしの傍そばまで帰っかえって来るくると、崖がけの上うえから若いわかい女おんなが跣足せんそくで降りふりて来きた。
橋はしは一いち尺さしに足らあしらぬ幅はばだからどっちかで待ち合せまちあわせなければなるまいと思っおもったが、向うむこうはまだ土堤どていを下りくだりきらないので、こっちは躊躇ちゅうちょせず橋板はしいたに足あしをかけた。
下駄げたを二三にさん度ど鳴らしならして、一いち間まほど来きたとき、女おんなも余よと同じおなじ平面へいめんに立ったった。
そこで留まるとまると思いおもいのほか、ひらひらと板いたの上うえを舞うまうように進んすすんで余よに近づいちかづいた。
余よと女おんなとは板いたと板いたの継目つぎめの所ところで行き合っいきあった。
危ないあぶないよと注意ちゅういすると、女おんなは笑いわらいながら軽いかるい御辞儀ごじぎをして、余よの肩かたを擦っすって行きいき過ぎすぎた。
三十四さんじゅうよん
明日あすは梨畑なしばたけを見みに行くいくんだと橋本はしもとから申し渡さもうしわたされたので、宜しいよろしいと受合っうけあった上うえ、床ゆかについたようなものの実じつを云ういうと例れいのトロとろで揺られるゆられるのが内心ないしん苦くになった。
そのせいでもなかろうが、容易よういに寝つかねつかれない。
橋本はしもとはもう鼾いびきをかいている。
しかも豪宕ごうとうな鼾いびきである。
緞子どんすの夜具やぐの中なかから出るでるべき声こえじゃない。
まして裾すその方ほうには金屏風きんびょうふうが立て回したてまわしてある。
明日あすになると、空そらが曇っくもって小雨こさめが落ちおちている。
窓まどから首くびを出しだして、一面いちめんに濡れぬれた河原かわはらの色いろを眺めながめながら、おれは梨畑なしばたけをやめて休養きゅうようしようかしらと云いいい出しだした。
橋本はしもとは合羽かっぱももっているし、オヴァーシューも用意よういして来きているのでなかなか景気けいきが好いよい。
ことに農科のうかの教授きょうじゅだけあって、梨なしを見みたがったり、栗くりを見みたがったり、豚ぶたや牛うしを見みたがる事こと人ひと一いち倍ばいである。
早速さっそく用意よういをして大重おおしげ君きみを伴れつれて出でて行っいった。
余よはただつくねんとして、窓まどの中なかに映るうつる山やまと水みずと河原かわはらと高粱こーりゃんとを眼めの底そこに陳列ちんれつさしていた。
薄くうすく流れるながれる河かわの厚あつしさは昨日きのうと同じおなじようにほとんど二三にさん寸すんしかないが、その真中まなかに鉄てつの樋とい竹たけが、砂すなに埋れうまれながら首くびを出しだしているのに気きがついたので、あれは何なんだいと下女げじょに聞いきいて見みた。
あれはボアリングぼありんぐをやった迹ですと下女げじょが答えこたえた。
満洲まんしゅうの下女げじょだけあって、述語じゅつごを知っしっている。
ついこの間ま雨あめが降っふって、上うえの方ほうから砂すなを押し流しおしながして来るくるまでは、河かわの流れながれがまるで違っちがった見当けんとうを通っとおっていたので、あすこへ湯場ゆばを新築しんちくするつもりであったのだと云ういう。
河かわの流れながれが一雨ひとあめごとに変るかわるようでは、滅多めったなところへ風呂ふろを建てるたてる訳わけにも行くいくまい。
現にげんに窓まどの前まえの崖がけなども水みずにだいぶん喰わくわれている。
そのうち雨あめが歇んやすんだ。
退屈たいくつだから横よこになった。
約やく十じゅう分ぶんも立ったったと思うおもう頃ころ、下女げじょがまたやって来きて、ただいま駅えきから電話でんわがかかりまして、これから梨畑なしばたけへおいでになるなら、駅えきからトロとろを仕立てしたてますがと云ういう問い合せといあわせである。
雨あめが歇んやすんだので、座敷ざしきに寝ねている口実こうじつはもう消滅しょうめつしてしまったが、この上トロじょうとろを仕立てしたてられては敵わかなわないと思っおもって、わざわざ晴はれかかった空そらを見上げみあげて、八はちの字じを寄せよせた。
今いまから行っいって間に合うまにあうのかなと尋ねるたずねると、器械きかいトロとろだから汽車きしゃと同じおなじぐらい早いはやいんだと云ういう話はなしである。
胃いは固よりもとより切ないせつないほど不安ふあんであるが、汽車きしゃと同じおなじ速度そくどの器械きかいトロとろなるものにも、心得こころえのためちょっと乗っのって見みたいような気きがしたので、つい手軽てがるに仕度したくを始めはじめた。
すると隣となりの部屋へやに泊っとまっていた御客ごきゃくさんが三四さんよん人ひと、十一じゅういち時じの汽車きしゃで大連だいれんへ行くいくとか云っいって、同じおなじように仕度したくを始めはじめた。
それを送るおくる下女げじょも仕度したくを始めはじめた。
したがって同勢どうぜいはだいぶんになった。
その中なかに昨日きのう橋はしの途中とちゅうで行き合っいきあった女おんながいた。
それが余よと尻しり合せあわせに同じおなじ車くるまに乗るのる事ことになった。
互たがいに尻しりを向けむけているので、別段べつだん口くちも利かりかなかった。
顔かおもよくは見みなかった。
が、その言葉ことばだけはたしかに聞いきいた。
しかも支那しな語ごである。
固よりもとより意味いみは通じつうじない。
しかし盛んさかんにクーリーくーりーをきめつけていた。
その達弁たつべんなのはまた驚くおどろくばかりである。
昨日きのう微笑びしょうしながら御辞儀ごじぎをして、余よの傍そばを摺り抜けすりぬけた女おんなとはどうしても思えおもえなかった。
この女おんなは我々われわれの立つたつ前まえの晩ばんに、始めはじめて御ご給仕きゅうじに出でて来きた。
洋灯ようとうの影かげで御ご白粉おしろいをつけている事ことは分っわかったが、依然いぜんとして口くちは利かりかなかった。
苦しいくるしい十五じゅうご分ぶんの後車こうしゃはまた停車場ていしゃじょうに着いついた。
御客ごきゃくはすぐ汽車きしゃに乗っのって大連だいれんの方ほうへ去っさった。
下女げじょはみんな温泉おんせん宿やどへ帰っかえった。
余よは独りひとり構内こうないを徘徊はいかいした。
いわゆる器械きかいトロとろなるものは姿すがたさえ見せみせない。
そこへ駅員えきいんが来きて、今いま松山まつやまを出でたそうですからと断っことわった。
その松山まつやまは遥はるか向うむこうにある。
余よは軌道きどうの上うえに立ったって、一直線いちちょくせんの平たいひらたい路みちを視力しりょくのつづく限りかぎり眺めながめた。
しかしトロとろの来るくる気色けしきはまるでなかった。
三十五さんじゅうご
宿屋やどやの者ものともつかず、駅えきの者ものともつかない洋服ようふくを着きた男おとこがついて来きた。
この男おとこの案内あんないで村むらへ這入るはいると、路みちは全くまったく砂すなである。
深さふかさは五六ごろく寸すんもあろうと思わおもわれた。
土つちで造っつくった門もんの外そとに女おんなが立ったっていたが、我々われわれの影かげを見るみるや否いなや逃げ込んにげこんだ。
手てに持っもった長いながい煙管きせるが眼めについた。
犬いぬが門もんの奥おくでしきりに吠えるほえる。
そのうちに村むらは尽きつきて松山まつやまにかかった。
と云ういうと大層たいそうだが、実じつは飛鳥山あすかやまの大きいおおきいのに、桜さくらを抜いぬいて松まつを植替えうえかえたようなものだから、心持こころもちの好いよい平たいら庭にわを歩あゆみるくと同じおなじである。
松まつも三四十さんよんじゅう年ねんの若いわかい木きばかり芝しばの上うえに並んならんでいる。
春先はるさき弁当べんとうでも持っもって遊ゆうに来るくるには至極しごく結構けっこうだが、ところが満洲まんしゅうだけになお珍らしいめずらしい。
余よは痛いいたい腹はらを抑えおさえて、とうとう天辺てっぺんまで登っのぼった。
するとそこに小さなちいさな廟びょうがあった。
正面しょうめんに向っむかって、聯などを読んよんでいると、すぐ傍そばで梭ひの音おとがする。
廟びょう守まもるでもおりそうなので、白壁しらかべを切り抜いきりぬいた入口いりぐちを潜っもぐって中なかへ這入っはいった。
暗いくらい土間どまを通り越しとおりこして、奥おくを覗いのぞいて見みたら、窓まどの傍そばに機きを据えすえて、白いしろい疎まばら髯ひげを生やしはやした爺じいさんが、せっせと梭ひを抛げなげていた。
織っおっていたものは粗いあらい白布しろぬのである。
案内あんないの男おとこが二言にごん三さん言げん支那しな語ごで何なんか云ういうと、老人ろうじんは手てを休めやすめて、暢気のんきな大きいおおきい声こえで返事へんじをする。
七十ななじゅうだそうですと案内あんないが通訳つうやくしてくれた。
たった一人ひとりでここにいて、飯めしはどうするのだろうと、ついでに通訳つうやくを煩わしわずらわして見みた。
下したの家いえから運んはこんでくるものを食っしょくっているそうであった。
その下したの家いえと云ういうのがすなわち梨なし畠はたけの主人しゅじんのところだと案内あんないは説明せつめいした。
やがて、山やまを降りふりて梨なし畠はたけへ行こういこうとしたが、正門せいもんから這入るはいるのが面倒めんどうなので、どうです土堤どていを乗り越そうのりこそうじゃありませんかと案内あんないが云いいい出しだした。
余よはすぐ賛成さんせいして蒲鉾形かまぼこがたの土塀どべいを向側むかいがわへ馳せ下りはせくだりた。
胃いは実じつに痛かっいたかった。
樹きの下したを潜っもぐって二十にじゅう間まも来るくると、向うむこうの方ほうに橋本はしもと始めはじめ連中れんちゅうが床几しょうぎに腰こしをかけて梨なしを食っしょくっている。
腕うでに金筋きんすじを入れいれた駅長えきちょうまでいっしょである。
余よも同勢どうぜいに交っかって一いちつ二につ食っしょくった。
これは胃いの中なかに何なんか入れるいれると、一時いちじ痛みいたみが止むやむからである。
そうしてまた畠はたけの中なかをぐるぐる歩きあるき出しだした。
ここの梨なしはまるで林檎りんごのように赤いあかい色いろをしている。
大きさおおきさは日本にっぽんの梨なしの半分はんぶんもない。
しかし小さいちいさいだけあって、鈴なりすずなりに枝えだを撓わしなわして、累々るいるいとぶら下っぶらさがっているところがいかにもみごとに見えるみえる。
主人しゅじんがその中なかで一番いちばん旨いうまい奴やつを――何なんと云っいったか名なは思い出せおもいだせないが、下男げなんに云いいいつけて、笊ざるに一杯いちばい取りとり出さしださして、みんなに御馳走ごちそうした。
主人しゅじんは背せの高いたかい大きなおおきな男おとこで、支那しな人ひとらしく落ちつきおちつきはらって立ったっている。
案内あんないの話はなしでは二千万にせんまんとか二に億おく万まんとかの財産家ざいさんかだそうだが、それは嘘うそだろう。
脂あぶらの強いつよい亜米利加あめりか煙草たばこを吹かしふかしていた。
梨なしにも喰いくい飽きあきた頃ころ、橋本はしもとが通訳つうやくの大重おおしげ君きみに、いろいろ御世話ごせわになってありがたいから、御礼ごれいのため梨なしを三十さんじゅう銭せんほど買っかって帰りかえりたいと云ういうような事ことを話しはなしてくれと頼んたのんでいる。
それを大重おおしげ君きみがすこぶる厳粛げんしゅくな顔かおで支那しな語ごに訳しやくしていると、主人しゅじんは中途ちゅうとで笑いわらい出しだした。
三十さんじゅう銭せんぐらいなら上げるあげるから持っもって御ご帰りかえりなさいと云ういうんだそうである。
橋本はしもとはじゃ貰っもらって行こういこうとも云わいわず、また三十さんじゅう銭せんを三十さんじゅう円えんに改めようあらためようともしなかった。
宿やどへ帰っかえったら、下女げじょがある御客ごきゃくさんといっしょに梨なし畠はたけへ行っいって、梨なしを七なな円えんほど御ご土産みやげに買っかって帰っかえった話はなしをして聞かきかせた。
その時じ橋本はしもとは、うんそうか、おれはまた三十さんじゅう銭せんがた買っかって来ようこようと思っおもったら、三十さんじゅう銭せんぐらいなら進上しんじょうすると云っいったよと澄ましすましていた。
三十六さんじゅうろく
壁かべと云ういうと鏝こての力ちからで塗り固めぬりかためたような心持こころもちがするが、この壁かべは普通ふつうの泥どろが天日てんぴで干上っひあがったものである。
ただ大地だいちと直角ちょっかくにでき上っできあがっている所ところだけが泥どろでなくって壁かべに似にている。
その上部じょうぶには西洋せいようの御ご城しろのように、形かたち儀ぎよく四角しかくな孔あなをいくつも開けあけて、一いちぱし櫓やぐらの体裁ていさいを示ししめしている。
しかし一番いちばん人ひとの注意ちゅういを惹くひくのは、この孔あなから見えるみえる赤いあかい旗はたである。
旗はたの数すうは孔あなの数すうだけあって、孔あなの数すうは一いちつや二につではないから、ちょっと賑かにぎやかに思わおもわれる。
始めはじめてこの景色けしきが眼めに触れふれた時じには、村むらのお祭りおまつりで、若いわかいものが、面白おもしろ半分はんぶんに作り物つくりものでも拵えこしらえたのじゃなかろうかと推測すいそくした。
ところがこの櫓やぐらは馬賊ばぞくの来襲らいしゅうに備えるそなえるために、梨畑なしばたけの主人しゅじんが、わざわざ家いえの四隅よすみに打ち建てうちたてたのだと聞いきいて、半分はんぶんは驚いおどろいたが、半分はんぶんはおかしかった。
ただなぜあんな赤いあかい旗はたを孔あなの間まから一いちつずつ出しだしているかが、さっぱり分らわからなかった。
裏側うらがわへ廻っまわって、段々だんだんを上っのぼって見みて、始めはじめてこの赤旗あかはたの一いちつが一いち挺ちょうの鉄砲てっぽうを代表だいひょうしている事ことを知っしった。
鉄砲てっぽうは博物館はくぶつかんにでもありそうな古風こふうな大きいおおきいもので、どれもこれも錆さびを吹いふいていた。
弾丸だんがんを込めこめても恐らくおそらく筒つつから先さきへ出るでる気遣きづかいはあるまいと思わおもわれるほど、安全あんぜんに立てかけたてかけられていた。
もっとも赤いあかい旗はただけは丁寧ていねいに括りくくりつけてある。
そうしてちょうど壁孔へきこうから外そとに見えるみえるくらいな所ところにぶら下げぶらさげてある。
番兵ばんぺいは汚ないきたない顔かおを揃えそろえて、後あとの小屋こやの中なかにごろごろしていた。
馬賊ばぞくの来襲らいしゅうに備えるそなえるために雇わやとわれたればこそ番兵ばんぺいだが、その実じつは、日当にっとう三四十さんよんじゅう銭せんの苦力くーりーである。
櫓やぐらを下りくだりて門もんを出るでる前まえに、家いえの内部ないぶを観るみる訳わけに行くいくまいかと通訳つうやくをもって頼んたのんだら、主人しゅじんはかぶりを振っふって聞かきかなかった。
女おんなのいる所ところは見せるみせる訳わけに行かいかないと云ういうんだそうである。
その代りかわり客間きゃくまへ案内あんないしてやろうと番頭ばんとうを一人ひとりつけてくれた。
その客間きゃくまというのは往来おうらいを隔てへだてて向う側むこうがわにある一いち軒のき建けんの家いえであった。
外そとには大きなおおきな柳やなぎが、静せいな葉はを細長くほそながく空そらに曳いひいていた。
長屋門ながやもんを這入るはいると鼠色ねずみいろの騾馬らばが木きの株かぶに繋いつないである。
余よはこの騾馬らばを見るみるや否いなや、三国さんこく志こころざしを思い出しおもいだした。
何なんだか玄徳げんとくの乗っのった馬うまに似にている。
全体ぜんたい騾馬らばというのを満洲まんしゅうへ来きて始めてはじめて見みたが、腹はらが太くふとくって、背せが低くひくくって、総体そうたいが丸くまるく逞しくたくましくって、万事ばんじ邪気じゃきのないような好いよい動物どうぶつである。
橋本はしもとに騾馬らばの講義こうぎを聞くきくと、まず騾と※※の区別くべつから始めるはじめるので、真率しんそつな頭脳ずのうをただいたずらに混乱こんらんさせるばかりだから、黙っだまって鞍くらのない裸姿はだかすがたを眺めながめていた。
騾馬らばは首くびを伏せふせてしきりに短いみじかい草くさを食っしょくっていた。
門もんの突き当りつきあたりがいわゆる客間きゃくまであるが、観音かんのん扉とびらを左右さゆうに開けあけて這入るはいるところなぞは御寺おてらに似にている。
中なかは汚ないきたないものであった。
客きゃくでも招待しょうたいするときには、臨時りんじに掃除そうじをするのかと聞いきいたら、そうだと答えこたえていた。
主人しゅじんに挨拶あいさつをしてまた松山まつやまを抜けぬけたら、松まつの間まに牛うしが放しはなしてあった。
駅長えきちょうが行く行くいくいく初茸はつたけを取っとった。
どこから目め付け出すつけだすか不思議ふしぎなくらい目め付け出しつけだした。
橋本はしもとも余よも面白おもしろ半分はんぶん少しすこし探しさがして見みたが、全くまったく駄目だめであった。
山やまを下るくだるとき、おい満洲まんしゅうを汽車きしゃで通るとおると、はなはだ不毛ふもうの地ちのようであるが、こうして高いたかい所ところに登っのぼって見るみると、沃野よくや千里せんりという感かんがあるねと、橋本はしもとに話しかけはなしかけたが、橋本はしもとにはそんな感かんがなかったと見えみえて、別べつに要領ようりょうの好いよい返事へんじをしなかった。
余よの沃野よくや千里せんりは全くまったく色いろから割り出しわりだした感じかんじであった。
松山まつやまの上うえから見渡すみわたすと、高いたかい日ひに映るうつる、茶色ちゃいろや黄色きいろが、縞しまになったり、段だんになったり、模様もようになったり、霞かすみで薄くうすくされて、雲くもに接せつくまで、一面いちめんに平野ひらのを蔽うおおうている。
満洲まんしゅうは大きなおおきな所ところであった。
宿やどへ帰っかえったら、御ご神かみさんが駅長えきちょうの贈っおくって来きた初茸はつたけを汁しるにして、晩ばんに御ご膳ぜんの上うえへ乗せのせてくれた。
それを食っしょくって、梨畑なしばたけや、馬賊ばぞくや、土つちの櫓やぐらや、赤いあかい旗はたの話しはなしなぞをして寝ねた。
三十七さんじゅうなな
立つたつ用意よういをしているところへ御ご神かみさんが帳面ちょうづらを持っもって出でて来きた。
これへ何なんか書いかいて行っいって下さいくださいと云ういう。
御ご神かみさんは余よを二につ接ぎ合せはぎあわせたように肥えこえている。
それで病気びょうきだそうだ。
始めはじめはどこのものだか分らわからなかったが、御ご神かみさんと知っしって、調子ちょうしの下女げじょと違っちがっているのに驚いおどろいた。
御ご神かみさんはその体格たいかくの示すしめすごとき好いよい女おんなであった。
どうしてあんなすれっからしの下女げじょを使いこなすつかいこなすかが疑問ぎもんになったくらいである。
帳面ちょうづらを前まえへ置いおいて、どうぞと手てを膝ひざの上うえに重ねかさねた。
その膝ひざの厚あつしさは八はち寸すんぐらいある。
帳面ちょうづらを開けるあけると、第だい一いち頁ぺーじに林学りんがく博士はかせのH君きみが「本邦ほんぽうの山水さんすいに似にたり」と揮っふるってしまったあとである。
その次つぎにはどこどこ聯隊れんたい長なが何なんのなにがしと書いかいてある。
宿帳やどちょうだか、書画しょが帖じょうだか判然はんぜんしないものの、第だい三さん頁ぺーじに記念きねんを遺すのこす事ことに差しさし逼っせまって来きた。
橋本はしもとは帳面ちょうづらを見るみるや否いなや、向むかいを向いむかいて澄ましすましている。
余よは仕方しかたがないから、書くかくには書くかくが、少しすこし待っまってくれと頼んたのんだ。
すると御ご神かみさんが、そうおっしゃらずに、どうぞどうぞと二に遍へんも繰返しくりかえして御辞儀ごじぎをする。
無論むろん嘘うそを吐くはく気きは始めはじめからないのだが、こう拝むおがむようにされて書いかいてやるほどの名筆めいひつでもあるまいと思うおもうと、困却こんきゃくと慚愧ざんきでほとほと持て余しもてあましてしまう。
時じに橋本はしもとが例れいのごとく口くちを利いきいてくれた。
この人ひとは嘘うそを云ういう男おとこじゃないから、大丈夫だいじょうぶですよ今いまに何なんか書きかきますよと笑っわらっている。
余よはまた世間せけん話はなしをしながら、その間まに発句ほっくでも考え出さかんがえださなければならなくなった。
同情どうじょうしてくれる人ひとはだいぶあると思うおもうから白状はくじょうするが、旅たびをして悪筆あくひつを懇望こんぼうされるほど厄介やっかいな事ことはない。
それも句作くさくに熱心ねっしんで壁柱かべばしらへでも書き散らしかきちらしかねぬ時代じだいならとにかく、書くかく材料ざいりょうの払底ふっていになった今頃いまごろ、何なんか記念きねんのためにと、短冊たんざくでも出さだされた日ひには、節季せっきに無心むしんを申し込まもうしこまれるよりも苛いむごい。
大連だいれんを立つたつとき、手荷物てにもつを悉皆しっかい革鞄かわかばんの中なかへ詰め込んつめこんでしまって、さあ大丈夫だいじょうぶだと立ち上ったちのぼった時じ、ふと気きがついて見るみると、化粧けしょう台だいの鏡かがみの下したに、細長いほそながい紙包かみづつみがあった。
不思議ふしぎに思っおもって、折目おりめを返しかえして中なかを改めるあらためると、短冊たんざくである。
いつ誰だれが持っもって来きて載せのせたものか分らわからないが、その意味いみはたいてい推察すいさつができる。
俳句はいくを書かかかせようと思っおもって来きたところが、あいにく留守るすなので、また出直しでなおして頼むたのむ気きになって、わざと短冊たんざくだけ置いおいて行っいったに違いない。
余よはこの時じ化粧けしょう台だいから紙包かみづつみを取りおろしとりおろして、革鞄かわかばんの中なかへ押し込んおしこんで、ホテルほてるを出でた。
この短冊たんざくはいまだに誰だれのものか分らわからない。
数すうは五六ごろく枚ばいで雲形うんけいの洒落しゃれたものであったが、朝鮮ちょうせんへ来きて、句くを懇望こんぼうされるたびに、それへ書いかいてやってしまったから今いまでは一いち枚ばいも残っのこっていない。
長春ちょうしゅんの宿屋やどやでも御ご神かみさんに捕まっつかまった。
この御ご神かみさんは浜はまのものだとか云っいって、意気いきな言葉使いことばづかいをしていたが、新しいあたらしい折おり手本てほんを二に冊さつ出しだして、これへどうぞ同どうなじものを二につ書いかいて下さいくださいと云っいった。
同じおなじでなければいけないのかと尋ねるたずねると、ええと答えるこたえる。
その理由りゆうは、夫婦ふうふ別れわかれをしたときに、夫婦ふうふが一いち冊さつずつ持っもっている事ことができるためだそうだ。
こう書いかいて行くいくと、朝鮮ちょうせんの宴会えんかいで絖ぬめを持出さもちだされた事ことまで云わいわなくてはならないから、好いよい加減かげんに切り上げきりあげて、話はなしを元もとへ戻しもどして、肥っふとった御ご神かみさんの始末しまつをつけるが、余よは切ないせつない思いおもいをして、汽車きしゃの時間じかんに間に合うまにあうように一句いっく浮かんうかんだ。
浮かぶうかぶや否いなや、帳面ちょうづらの第だい三さん頁ぺーじへ熊くま岳たけ城しろにてと前書ぜんしょをして、黍きび遠しとおし河原かわはらの風呂ふろへ渡るわたる人ひとと認めみとめて、ほっと一息ひといき吐いはいた。
そうして御ご神かみさんの御礼ごれいも何なんも受けるうける暇ひまのないほど急いいそいでトロとろに乗っのった。
電話でんわの柱はしらに柳やなぎの幹みきを使っつかったのが、いつの間まにか根ねを張っちょうって、針金はりがねの傍そばから青いあおい葉はを出しだしているのに気きがついて、あれでも句くにすればよかったと思っおもった。
三十八さんじゅうはち
窓まどから覗いのぞいて見るみると、いつの間まにか高粱こーりゃんが無くなっなくなっている。
先刻せんこくまでは遠くとおくの方ほうに黄色いきいろい屋根やねが処々ところ眺めながめられたが、それもついに消えきえてしまった。
この黄色いきいろい屋根やねは奇麗きれいであった。
あれは玉蜀黍とうもろこしが干しほしてあるんだよと、橋本はしもとが説明せつめいしてくれたので、ようやくそうかと想像そうぞうし得とくたくらい、玉蜀黍とうもろこしを離れはなれて余よの頭あたまに映っうつった。
朝鮮ちょうせんでは同じくおなじく屋根やねの上うえに唐辛子とうがらしを干しほしていた。
松まつの間まから見えるみえる孤こつ家いえが、秋あきの空そらの下したで、燃え立つもえたつように赤かっあかかった。
しかしそれが唐辛子とうがらしであると云ういう事ことだけは一目いちもくですぐ分っわかった。
満洲まんしゅうの屋根やねは距離きょりが遠いとおいせいか、ただ茫漠ぼうばくたる単調たんちょうを破るやぶるための色彩しきさいとしか思わおもわれなかった。
ところがその屋根やねも高粱こーりゃんもことごとく影かげを隠しかくしてしまって、あるものはただの地面じめんだけになった。
その地面じめんには赤黒いあかぐろい茨うばらのような草くさが限りなくかぎりなく生えはえている。
始めはじめは蓼たでの種類しゅるいかと思っおもって、橋本はしもとに聞いきいて見みたら橋本はしもとはすぐ冠かんを横よこに振っふった。
蓼たでじゃない海草かいそうだよと云ういう。
なるほど平原へいげんの尽きるつきる辺りあたりを、眼めを細くほそくして、見究めるみきわめると、暗くくらくなった奥おくの方ほうに、一筋ひとすじ鈍くにぶく光るひかるものがあるように思わおもわれる。
海辺うみべかなと橋本はしもとに聞いきいて見みた。
その時日じじつはもう暮れくれかかっていた。
際限さいげんもなく蔓つるっている赤いあかい草くさのあなたは薄いうすい靄もやに包まつつまれて、幾らいくらか蒼くあおくなりかけた頃ころである。
あからさまに目めに映るうつるすぐ傍そばをよくよく見つめるみつめると、乾いかわいた土つちではない。
踏めふめば靴くつの底そこが濡れぬれそうに水気みずけを含んふくんでいる。
橋本はしもとは鹹かん気きがあるから穀物こくもつの種しゅがおろせないのだと云っいった。
豚ぶたも出でないようだねと余よは橋本はしもとに聞き返しききかえした。
汽車きしゃに乗っのって始めてはじめて満洲まんしゅうの豚ぶたを見みたときは、実際じっさい一種いっしゅの怪物かいぶつに出逢っであったような心持こころもちがした。
あの黒いくろい妙みょうな動物どうぶつは何なんだと真面目まじめに質問しつもんしたくらい、異ないな感じかんじに襲わおそわれた。
それ以来いらい満洲まんしゅうの豚ぶたと怪物かいぶつとは離せはなせないようになった。
この薄暗いうすぐらい、苔こけのように短いみじかい草くさばかりの、不毛ふもうの沢地さわちのどこかに、あの怪物かいぶつはきっと点綴てんていされるに違いないと云ういう気きがなかなか抜けぬけなかった。
けれども一いち匹ひきの怪物かいぶつに出逢うであう前まえに、日ひは全くまったく暮れくれてしまった。
目めに余るあまる赤黒いあかぐろい草くさの影かげはしだいに一色いっしょくの夜よるに変化へんかした。
ただ北きたの方ほうの空そらに、夕日ゆうひの名残なごりのような明るいあかるい所ところが残っのこったのである。
そうしてその明るいあかるい雲くもの下したが目立っめだって黒くくろく見えるみえる。
あたかも高いたかい城壁じょうへきの影かげが空そらを遮っさえぎって長くながく続いつづいているようである。
余よは高いたかいこの影かげを眺めながめて、いつの間まにか万里ばんりの長城ちょうじょうに似にた古ふる迹の傍そばでも通るとおるんだろうぐらいの空想くうそうを逞ゅうたくましゅうしていた。
すると誰だれだかこの城壁じょうへきの上うえを駆けかけて行くいくものがある。
はてなと思っおもってしばらくするうちに、また誰だれか駆けかけて行くいく。
不思議ふしぎだと覚っさとって瞬まどかもせず城壁じょうへきの上うえを見つめみつめていると、また誰だれか駆けかけて行くいく。
どう考えかんがえても人ひとが通るとおるに違いちがいない。
無論むろん夜よるの事ことだから、どんな顔かおのどんな身装しんそうの人ひとかは判然はんぜんしないが、比較的ひかくてき明かあきらかな空そらを背景はいけいにして、黒いくろい影法師かげほうしが規則きそく正しくただしく壁かべの上うえを馳はせけ抜けるぬける事ことは確かくである。
余よは橋本はしもとの意見いけんを問うとう暇ひまもないほど面白くおもしろくなって、一生懸命いっしょうけんめいに、眼前がんぜんを往来おうらいするこの黒いくろい人間にんげんを眺めながめていた。
同時どうじに汽車きしゃは、刻々こっこくと城壁じょうへきに向っむかって近寄っちかよって来きた。
それが一定いっていの距離きょりまで来るくると、俄然がぜんとして失笑しっしょうした。
今までいままでたしかに人間にんげんだと思い込んおもいこんでいたものは、急きゅうに電信柱でんしんはしらの頭あたまに変化へんかした。
城壁じょうへきらしく横長よこながに続いつづいていたのは大きなおおきな雲くもであった。
汽車きしゃは容赦ようしゃなく電信柱でんしんはしらを追い越しおいこした。
高いたかい所ところで動くうごくものがようやく眼底がんていを払っはらった。
三十九さんじゅうきゅう
狭いせまい小路こうじの左右さゆうは煉瓦れんがの塀へいで、ちょっと見るみると屋敷やしき町まちのように人通りひとどおりが少いすくない。
それを二十にじゅう間まほど来きて左手ひだりての門もんを這入っはいった。
ただ偶然ぐうぜんに這入っはいったのだから、家いえの名なも主人しゅじんの名なも知るしるはずがない。
今いまから考えるかんがえると、小路こうじのうちには同じおなじような家いえが何なん軒のきとなく並んならんでいて、同じおなじような門もんがまたいくつでも開いひらいているのだから、とくにここだけを覗くのぞくべき誘致ゆうちは少しすこしもなかったのである。
余よはただ案内者あんないしゃの後あとに跟いて何なんの気きなしに這入っはいった。
その案内者あんないしゃもまた好いよい加減かげんに這入っはいった。
案内者あんないしゃは青林せいりん館やかたと云ういう宿やどの主人しゅじんである。
かつて二葉亭ふたばていといっしょに北きたの方ほうを旅行りょこうして、露西亜ろしあ人ひとに苛いむごい目めに逢っあったと話しはなした。
門もんを這入るはいると、右みぎも室むろ、突き当りつきあたりも室むろである。
左ひだりりも隣となりの壁かべに隔てへだてられなければ室むろであるべきはずなのだから、中なかの一筋ひとすじだけが頭あたまの上うえに空そらを仰ぐあおぐ訳わけになる。
そこに立ったって右手みぎての部屋へやを覗くのぞくと、狭いせまい路次ろしから浅草あさくさの仲店なかみせを看るみるような趣おもむきがある。
実際じっさい仲店なかみせよりも低くひくく小さいちいさい部屋へやであった。
その一いち番目ばんめには幕まくが垂れたれていて、中なかは判然はんぜんと分らわからなかったが、次つぎを覗いのぞいて見るみる段だんになって驚いおどろいた。
二に畳たたみ敷しきぐらいの土間どまの後あとの方ほうを、上り框あがりかまちのように、腰こしをかけるだけの高さたかさに仕切っしきって、そこに若いわかい女おんなが三さん人ひといた。
三さん人ひと共とも腰こしをかけるでもなく、寝転ぶねころぶでもなく、互たがいに靠れもたれ合っあって身体しんたいを支えるささえるごとくに、後あとの壁かべをいっぱいにした。
三さん人ひとの着物きものが隙間すきまなく重なっかさなって、柔かいやわらかい絹きぬをしなやかに圧しおしつけるので、少しすこし誇張こちょうして形容けいようすると、三さん人ひとが一いち枚ばいの上衣うわぎを引き廻しひきまわしているように見えるみえる。
その間まから小さなちいさな繻子しゅすの靴くつが出でていた。
三さん人ひとの身体しんたいが並んならんでいる通りとおり、三さん人ひとの顔かおも並んならんでいた。
その左右さゆうが比較的ひかくてき尋常じんじょうなのに引きかえひきかえて、真中まなかのは不思議ふしぎに美しかっうつくしかった。
色いろが白いしろいので、眉まゆがいかにも判然はんぜんしていた。
眼めも朗かほがらかであった。
頬ほおから顎あごを包むつつむ弧線こせんは春はるのように軟かっやわかった。
余よが驚きおどろきながら、見惚れみとれているので、女おんなは眼めを反らしそらして、空そらを見みた。
余よが立ったっている間ま、三さん人ひとは少しすこしも口くちを利かりかなかった。
青林せいりん館やかたの主人しゅじんは自分じぶんほどこの女おんなに興味きょうみがなかったと見えみえて、好よしみ加減かげんに歩あゆみを移しうつして、突き当りつきあたりの部屋へやに這入っはいった。
そこも狭いせまい土間どまで、中央ちゅうおうには普通ふつうの卓上たくじょうが据えすえてあった。
それを囲んかこんで三さん人ひとの男おとこが食事しょくじをしている。
皿さら小鉢こばちから箸はし茶碗ちゃわんに至るいたるまで汚ないきたない事ことはなはだしい。
卓たくに着いついている男おとこに至っいたってはなおさら汚なかっきたなかった。
まるで大連だいれんの埠頭ふとうで見るみる苦力くーりーと同様どうようである。
余よはこの体裁ていさいを一見いっけんするや否いなや、台所だいどころで下男げなんが飯めしを掻き込んかきこんでるんじゃなかろうかと考えかんがえた。
ところがつい隣となりの室むろでしきりに音楽おんがくをやっている。
今いま見みた美人びじんのいる所ところとはつい三さん間まとは離れはなれていない。
実じつに矛盾むじゅんな感じかんじである。
余よは二に歩あゆみばかり洋よう卓たくを遠退いとおのいて、次つぎの室むろの入口いりぐちを覗いのぞいて見みた。
そうしてまた驚いおどろいた。
向むかいの壁かべに倚添えそえて一いち脚あしの机つくえを置いおいて、その右みぎに一人ひとりの男おとこが腰こしをかけている。
その左ひだりに女おんなが三さん人ひと立ったっている。
その前まえには十じゅう二に三さんの少女しょうじょが男おとこの方ほうを向いむかいて立たてている。
少しすこし離れはなれて室むろの入口いりぐちには盲目もうもくが床几しょうぎに腰こしをかけている。
調子ちょうしの高いたかい胡弓こきゅうと歌うたの声こえはこの一団いちだんから出るでるのである。
歌うたの意味いみも節ふしも分らわからない余よの耳みみにはこの音楽おんがくが一種いっしゅ異様いように凄じいすさまじい響ひびきを伝えつたえた。
机つくえの右みぎにいる男おとこが、右みぎの手てに筮竹ぜいちくのような物ものを持っもって、時々ときどき机つくえの上うえを敲くたたくと同時どうじに左ひだりの掌てのひらに八橋やつはしと云ういう菓子かしに似にた竹たけの片かたを二につ入れいれて、それをかちかちと打合せうちあわせながら、歌うたの調子ちょうしを取るとる。
趣向しゅこうはスペインすぺいんの女おんなの用いるもちいるカスタネットかすたねっとに似にているが、その男おとこの顔かおを見るみると、アルハンブラあるはんぶらの昔むかしを思い出すおもいだすどころではない。
蒼黒くあおぐろく土気つちけづいた色いろを、一心いっしん不乱ふらんに少女しょうじょの頭あたまの上うえに乗しのしかけるように翳しかざして、腸ちょうを絞るしぼるほど恐ろしいおそろしい声こえを出すだす。
少女しょうじょはまた瞬きまばたきもせず、この男おとこの方ほうを見つめみつめて、細いほそい咽喉のどを合しごうしている。
それが怖いこわい魔物まものに魅入られみいられて身動きみうごきのできない様子ようすとしか受取れうけとれない。
盲目もうもくは彼かれの眼めの暗いくらいごとく、暗いくらい顔かおをして、悲しいかなしい陰気いんきな、しかも高いたかい調子ちょうしの胡弓こきゅうを擦りすり続けつづけに擦っすっている。
左ひだりの方ほうに立ったっている女おんなの一人ひとりが余よを見みた。
それが忌むいむべき藪やぶ睨であった。
日の目ひのめの乏しくとぼしくって暮くれやすい室むろのうちで、この怪しいあやしい団体だんたいはこの怪しいあやしい音楽おんがくを奏しそうして夢中むちゅうである。
余よは案内あんないの袖そでを引いひいてすぐ外そとへ出でた。
四十よんじゅう
橋本はしもとは遠いとおい所ところへ豚ぶたを見みに行っいった。
何なんでも市街しがいから一いち里さと余よもあるとか云ういう話はなしである。
こんな痛いいたい腹はらを抱えかかえて今更いまさら豚ぶたでもあるまいと思っおもって止めとめた。
その代りかわりにそこいらをぶらつくべく主人しゅじんといっしょに馬車ばしゃで出でた。
主人しゅじんがまあ遼河りょうがを御覧ごらんなさいと云ういう。
馬車ばしゃを乗り棄てのりすてて河岸かしへ出るでると眼めいっぱいに見えみえた。
色いろは出水しゅっすいの後あとの大川おおかわに似にている。
灰はいのように動くうごくものが、空そらを呑むのむ勢いきおいで遠くとおくから流れながれて来るくる。
哈爾賓はるびんに行くいく途中とちゅうで、木戸きどさんに聞いきいた話はなしだが、満洲まんしゅうの黄土おうどはその昔むかし中央ちゅうおう亜細亜あじあの方ほうから風かぜの力ちからで吹き寄せふきよせたもので、それを年々ねんねん河かわの流れながれが御ご叮嚀ていねいに海うみへ押出しおしだしているのだそうである。
地質学ちしつがく者ものの計算けいさんによると、五万ごまん年ねんの後あとには今いまの渤海ぼっかい湾わんが全くまったく埋っうまってしまう都合つごうになっていますと木戸きど君きみが語らかたられた。
河辺かわべに立ったって岸きしと岸きしとの間まを眺めながめていると、水みずの量りょうが泥どろの量りょうより少いすくないくらい濁っにごったものが際限さいげんなく押し寄せおしよせて来るくる。
五万ごまん年ねんは愚かおろか、一二いちにカ月かげつで河口かわぐちはすっかり塞がっふさがってしまいそうである。
それでも三千さんぜん噸とんぐらいな汽船きせんは苦くもなくのそのそ上っのぼって来るくると云ういうんだから支那しなの河かわは無神経むしんけいである。
人間にんげんに至っいたっては固よりもとより無神経むしんけいで、古来こらいからこの泥水どろみずを飲んのんで、悠然ゆうぜんと子こを生んうんで今日きょうまで栄えはえている。
サンパンさんぱんと云ういう船ふねがここかしこに浮かんうかんで形かたちに合しごうしては大きおおき過ぎるすぎるぐらいな帆ほを上げあげている。
帆ほの裏うらには細いほそい竹たけを何本なんぽんとなく横よこに渡しわたしてあるから、帆ほに角かくが立つたつのみか、捲き上げるまきあげる時じにはがらがら鳴るなる。
日本にっぽんでは見みられない絵えである。
その間まを横切っよこぎって向岸こうがんへ着いついた。
向岸こうがんには何になんにもない。
ただ停車場ていしゃじょうが一いちつある。
北京ぺきんへの急行きゅうこうが出るでるとか云ういうので、客きゃくがたくさん列車れっしゃに乗り込んのりこんでいる。
下等したとう室むろを覗いのぞいたら、腰かけこしかけも何なんもない平土間たいらどまに、みんなごろごろ寝ころんねころんでいた。
帰りかえりにはサンパンさんぱんに乗っのって、泥どろの流りゅうを押し渡っおしわたった。
風かぜが出るでると難儀なんぎだそうである。
春はるの初めはじめには山やまのような氷こおりが流れながれてくる。
先さきが見えみえないので、氷こおりと氷こおりの間まに挟まはさまれると命いのちを取らとられる。
ある時じ氷こおりに路みちを塞がさいがれて仕方しかたがないから、船ふねを棄てすてて氷こおりの上うえへ上っのぼって、乗り捨てのりすてた船ふねを引き摺っひきずって向う側むこうがわへ出でて、ようやくまた船ふねに乗っのったと云ういう話はなしがある。
これは主人しゅじんの実歴じつれき談だんである。
サンパンさんぱんは妙みょうなところへ着いついた。
岸きしは芦あしを畳んたたんでできている。
石垣いしがきではなくて芦垣あしかきである。
こうしなければ水みずの力ちからで浚わさらわれる恐れおそれがあると云ういう。
芦あしはいくらでも水みずを吸い込んすいこんで平気へいきでいるから無難ぶなんだと見えるみえる。
細いほそい小路こうじを突き抜けるつきぬけると、支那しな町まちの真中まなかへ出でた。
妙みょうな臭においがする。
先刻せんこくから胸むねが痛むいたむのでポッケットぽっけっとから、粉薬こぐすりを出しだして飲もうのもうとするがあいにく水みずがない。
一いち滴しずくの飲料いんりょうも用いもちいずに散薬さんやくを呑み下すのみくだす方法ほうほうは、その後あと苦し紛れくるしまぎれに発見はっけんした分別ぶんべつだが、この時じはまだそれほど老練ろうれんな患者かんじゃでないので、拝むおがむように主人しゅじんを煩わしわずらわした。
主人しゅじんはええ訳わけはありませんと云いいいつつも、ずいぶん烈しくはげしく引張りひっぱり廻しまわした上うえ、ほとんど苦しくくるしくって道傍みちばたに竦みすくみそうになった頃ころ、ようやく一いち軒のきの店みせへ這入っはいった。
盆栽ぼんさいなどの据えすえてある中庭なかにわを通り抜けとおりぬけて角かくの一部いちぶ屋やへ案内あんないされたが、水みずはなかなか出るでる様子ようすがない。
そのうち、こちらへと云っいってまた二に階かいへ招ぜしょうぜられた。
虫むしのように段々だんだんを上っのぼって廊下ろうかから室むろへ這入るはいると、日本人にっぽんにんが二三にさん人ひと事務じむを執っとっている。
さあどうぞと椅子いすを与えあたえられたので、挨拶あいさつをして始めてはじめて解っわかったが、水みずを貰いもらいに飛び込んとびこんだところは日清にっしん豆粕まめかす会社かいしゃで、さあどうぞと迎えむかえてくれたのは、社員しゃいんの倉田くらた君きみである。
倉田くらた君きみは固よりもとより日本にっぽんから漫遊まんゆうもしくは視察しさつの目的もくてきをもってわざわざ営口えいこうまでやって来きたものと余よを信じしんじている。
服薬ふくやくのために通りがかりとおりがかりのついでながら、日清にっしん豆粕まめかす会社かいしゃの奥おく二に階かいへ水みずを貰いもらいに立ち寄ったちよったと判じようはんじようはずがない。
そこで水みずは容易よういに出でない。
湯ゆも出でない。
今いま御ご茶ちゃを上げるあげると云っいって、ボイぼいがしきりに支度したくをしている。
余よは青林せいりん館やかたの主人しゅじんが恨めしくうらめしくなった。
けれども倉田くらた君きみに対したいしては相応そうおうに体裁ていさいを具えそなえた応対おうたいをしなければならない。
豆まめが汽車きしゃで大連だいれんへ出るでるようになってから、河かわを下っしたってくる豆まめの量りょうが減っへったでしょうかてような事ことを、真面目くさっまじめくさって質問しつもんしていた。
四十一よんじゅういち
橋本はしもとが博士はかせになったり、ならなかったりした話はなしがある。
大連だいれんの大和やまとホテルほてるにいる時分じぶん、満鉄まんてつから封書ふうしょが届いとどいた。
その表ひょうに橋本はしもと農学のうがく博士はかせ殿とのと叮嚀ていねいに書いかいてあったのを乙おつに眺めながめながら、これだから厭いやになっちまうと云っいって余よの方ほうを向いむかいて苦笑くしょうしたから、先生せんせいは学者がくしゃぶって、むやみに博士はかせ呼こわりをされるのを苦くにする意味いみなんだろうと鑑定かんていして、取り合っとりあってやらなかった。
実際じっさいこんな事ことが苦くになるくらいなら、始めはじめから博士はかせにならなければ好いよいと思っおもったからである。
その時じはそれですんだ。
余よは橋本はしもとをもって固よりもとより農学のうがく博士はかせと信じしんじていた。
是ぜ公こうもそう信じしんじていた。
現にげんにある人ひとに向っむかって橋本はしもとって農学のうがく博士はかせさと説明せつめいしているのを聞いきいた。
余よに至っいたっては、いつかの新聞しんぶんで、本人ほんにんの博士はかせになった事ことをたしかに承知しょうちした記憶きおくがある。
それで大連だいれんを立ったって北きたに行くいく時じも、栄誉えいよある博士はかせの同伴者どうはんしゃだと云ういう自覚じかくがちゃんとあった。
ところが毎日まいにち毎晩まいばん一いちつ鍋なべのものを突ついつついて進行しんこうしているうちに、何なんかの拍子ひょうしだったが、いやおれは博士はかせじゃないよと急きゅうに橋本はしもとが云いいい出しだした。
その時じはいくら本人ほんにんが証明しょうめいしたってなるほどと云ういう気きになれないくらい驚いおどろいた。
第一だいいち、十じゅう年ねん近くちかくも大学だいがくの教授きょうじゅをしている男おとこを、博士はかせにしない法ほうはないと考えかんがえてる上うえ、どうしても新聞しんぶんでその授与じゅよ式しきを拝見はいけんしたとしか思わおもわれないんだから、余よもできるだけは抗弁こうべんしたが、やっぱり博士はかせじゃないと頑固がんこを張っちょうって云ういう事ことを聞かきかない。
余よもやむをえず、そうかと云っいって我われを折っおった。
この時じから橋本はしもとは気の毒きのどくながらとうとう、ただの人間にんげんになってしまった。
けれども、世間せけんには迂濶うかつものが多いおおいと見えみえて、どこへ行っいっても橋本はしもと博士はかせ、橋本はしもと博士はかせと云ういう。
新聞しんぶんを折々おりおり読むよむときっと橋本はしもと博士はかせと出でている。
しまいにはおいまた博士はかせだよと注意ちゅういするのが面倒めんどうになった。
橋本はしもとも澄しすまし返っかえっている。
もっとも澄ましすまし返さかえさなくったって、一々いちいち博士はかせじゃありませんと訂正ていせいして歩くあるく訳わけに行くいくものじゃない。
こう云ういう余よにも覚さとしがある。
釜山ふざんから馬関ばかんへ渡るわたる船中せんちゅうで、拓殖たくしょく会社かいしゃの峰みね八郎はちろう君きみの妻君さいくんに逢っあったとき、八郎はちろう君きみは真面目まじめな顔かおをして、これは夏目なつめ博士はかせと引き合ひきあいした。
すると妻君さいくんが御ご名前なまえはかねて伺っうかがっておりますと叮嚀ていねいに御辞儀ごじぎをされるから、余よもやむをえず、はあと云っいったなり博士はかせらしく挨拶あいさつをした。
だから橋本はしもとが博士はかせに慣れなれ切っきって満洲まんしゅうを朝鮮ちょうせんへ渡るわたるに何なんも不思議ふしぎはない。
余よもいったんは彼かれの博士はかせを撤回てっかいしたようなものの、日ひを重ねるかさねるに従っしたがってまた何なんだか博士はかせらしい気持きもちがし出しだした。
それで道中どうちゅうつつがなく安あん奉線を通っとおって、安東あんどう県けんまでやって来きた。
ところがここで橋本はしもとの博士はかせがちょっと気きに食わくわなくなった。
安東あんどう県けんの宿屋やどやの番頭ばんとうがどう云ういう不料簡ふりょうけんか、橋本はしもと博士はかせ御ご手荷物てにもつのうちと云ういう札さつを余よの革鞄かわかばんにぴたぴた結いゆいつけてしまった。
腹はらが立ったったが面倒めんどうだからそのままにしておくと次つぎの宿屋やどやで橋本はしもとと分れるわかれる事ことになって、向うむこうの手荷物てにもつを停車場ていしゃじょうへ運び出すはこびだす際さいに、余よの奇麗きれいな革鞄かわかばんを橋本はしもとのものだと思い込んおもいこんで、宿屋やどやの小僧こぞうがずんずん停車場ていしゃじょうまで持っもって行っいってしまった。
余よは冗談じょうだんじゃないぜと云っいった。
橋本はしもとは面白おもしろがって笑っわらっていた。
それだから、また博士はかせにならない。
四十二よんじゅうに
ここだと云ういうので、降りふりたには降りふりたが、夜よるの事ことだから方角ほうがくも見当けんとうもまるで分らわからない。
頼りたよりに思うおもう停車場ていしゃじょうは縁日えんにちの夜店よみせほどに小さいちいさいものであった。
その軒のきを離れるはなれるとなおさら淋しいさびしい。
空そらには星ほしがあるが、高いたかい所ところに己おのれと光るひかるのみで、足元あしもとの景気けいきにはならなかった。
汽車きしゃ路みちを通っとおって行くいくと、鉄軌てっきの色いろが前後ぜんご五六ごろく尺さしばかり、提灯ちょうちんの灯あかりに照らさてらされて、露ろのごとく映っうつってはまた消えきえて行くいく。
そのほかに何なんも見えみえなかった。
やがて右みぎへ切れきれて堤つつみのようなものをだらだらと下りるおりる心持こころもちがしたが、それも六七ろくなな歩あゆみを超えるこえると、靴くつを置くおく土つちの感じかんじが不断ふだんに戻っもどったので、また平地へいちへ出でたなと気きがついた。
すると虫むしの音おとが聞えきこえだした。
足元あしもとで少しすこしばかり鳴いないてるような家庭的かていてきなものではない。
虫むしの音おとだと云ういう分別ぶんべつが出でた時じには、その声こえがもう左右さゆう前後ぜんごに遠くとおく続いつづいていた。
我々われわれは一いちつの提灯ちょうちんを先さきにして、平原へいげんにはびこる無尽蔵むじんぞうの虫むしの音おとに包まつつまれながら歩いあるいた。
今いま考えるかんがえると、なかなか風流ふうりゅうである。
筆ふでを執っとって書いかいていても、魏ぎ叔子よしこの大鉄だいてつ椎しいの伝つてにある曠野こうやの景色けしきが眼めの前まえに浮んうかんでくる。
けれども歩いあるいている途中とちゅうは実じつに苦しかっくるしかった。
飯めしの菜なに奴豆腐やつとうふを一丁いちちょう食っしょくったところが、その豆腐とうふが腹はらへ這入るはいるや否いなや急きゅうに石灰せっかいの塊かたまりに変化へんかして、胃いの中なかを塞いせいでいるような心持こころもちである。
腮の奥おくから締めつけしめつけられて、やむをえない性質せいしつの唾液だえきが流れ出すながれだす。
それに誘わさそわれるままにしておくと、嘔きえずきたくなる。
せめて口くち中なかの折合おりあわせでもと思っおもって、少しすこし抵抗ていこうしにかかると、足あしが竦んすくんで動けうごけなくなる。
余よは幾度いくどか虫むしの音おとの中なかに苦しいくるしい尻しりを落ちつけようおちつけようかと思っおもった。
ただ橋本はしもとに心配しんぱいさせるのが、気の毒きのどくである。
支那しなの荷に持もちに野糞のぐそを垂れたれてると誤解ごかいされたって手柄てがらにもならない。
そこで無理むりに歩いあるいた。
遥はるか向うむこうに灯あかりが一いちつ見えるみえる。
余よが歩いあるいている路みちは平らたいらである。
灯あかりはその真しん正面しょうめんに当るあたる。
あすこへ行くいくんだろうと推測すいそくして星ほしの下したを無言むごんに辿ったどった。
今日きょうの午うまは営口えいこうで正金しょうきん銀行ぎんこうの杉原すぎはら君きみの御馳走ごちそうを断っことわった。
晩ばんは天春てんはる君きみの斡旋あっせんですでに準備じゅんびのできている宴会えんかいを断っことわった。
そうして逃げるにげるように汽車きしゃに乗っのった。
乗るのる時じ橋本はしもとにこの様子ようすじゃ千せん山行さんこうは撤回てっかいだと云っいった。
実際じっさい撤回てっかいしなければならないほど、容体ようだいが危きしくなって来きた。
ただ向うむこうに見えるみえる一いち点てんの灯火とうかが、今夜こんやの運命うんめいを決するけっする孤こつ家いえであると覚悟かくごして、寂寞じゃくまくたる原はらを真直まっすぐに横切っよこぎった。
原はらのなかには、この灯火とうかよりほかに当とうになるものは一いちつも見つからみつからないのだから心細かっこころぼそかった。
宿屋やどやはたった一いち軒のきかと聞いきいたら、案内あんないがええと答えこたえた。
湯ゆ崗子は温泉場おんせんじょうだと橋本はしもとのプログラムぷろぐらむの中なかにちゃんと出でているのだから、温泉おんせんがこの茫々ぼうぼうたる原はらの底そこから湧いわいて出るでるのだろうとは、始めはじめから想像そうぞうする事ことができたが、これほど淋しいさびしい野のの面めんに、ただ一いち軒のきの宿屋やどやがひっそり立ったっていようとは思いがけおもいがけなかった。
そのうちようやく灯あかりのある所ところへ着いついた。
平家へいけ作さくの西洋館せいようかんで、床ゆかの高さたかさが地面じめんとすれすれになるほど低いひくい。
板間いたまではあるが無論むろん靴くつで出入でいりをする。
宿やどの女おんなは草履ぞうりを穿いはいていた。
遠くとおくから見みたと同じおなじように浮き立たうきたたない家いえであった。
造作ぞうさのつかない広いひろい空家あきやへ洋灯ようとうを点しともして住っすまっているのかと思っおもった。
這入るはいるとすぐの大広間おおひろまに置いおいてあったオルガンおるがんさえ、先さきの持主もちぬしが忘れわすれて置いおいて行っいったものとしか受取れうけとれなかった。
暗いくらい廊下ろうかを突き当っつきあたって右みぎへ折れおれた翼つばさの端はしの室むろへ案内あんないされた。
中なかを二につに仕切っしきってある。
低いひくい床ゆかには、椅子いすと洋よう卓たくと色いろの褪めさめた長なが椅子いすとが置いおいてあった。
高いたかい方ほうは畳たたみを敷いしいて、日本にっぽんらしく取り繕っとりつくろってあった。
ちょうど土間どまから座敷ざしきへ上るのぼるようにして、甲こうから乙おつに移るうつる構造こうぞうである。
余よはいきなり畳たたみの上うえに倒れたおれた。
三四十さんよんじゅう分ぶんの後あと膳ぜんが出でた。
橋本はしもとがしきりに起きおきて食えくえと勧めすすめたが、ついに起きおきなかった。
第だい一いち食しょく卓たくに何なんが盛らもられたかをさえ見みなかった。
眼めを開けるあける勇気ゆうきすら無かっなかったのである。
四十三よんじゅうさん
朝あさ起きるおきると、馬うまが来きたとか来きないとか云っいって橋本はしもとの連中れんちゅうが騒いさわいでいる。
連中れんちゅうは三さん人ひとだから、一人ひとりが一いちつの馬うまに乗るのるとすれば、三さん匹ひき要るいる訳わけになる。
この茫漠ぼうばくたる原はらの中なかで、生きいきた馬うまを三さん匹ひき生なま捕るとるとなると、手数てすうのかかるのは一通りひととおりではあるまい。
連中れんちゅうは格別かくべつ早起きはやおきもしない癖くせに、今更いまさら苦情くじょうを並べならべたって始まらはじまらないと思っおもって、同行どうこうを断念だんねんした余よは、冷然れいぜんと落ちついおちついていた。
本来ほんらいを云ういうと、千せん山やまへ行くいくのが目的もくてきで、わざわざここに降りふりたには相違そういないが、一旦いったん自分じぶんが千せん山行さんこうを諦めあきらめたとなると、ほかの連中れんちゅうが予定よてい通つうに行動こうどうするのが、いまいましくなる。
第一だいいち橋本はしもとなんて農科のうかの男おとこは、千せん山やまを見るみる必要ひつようも何なんもないのである。
千山せんさんは唐とうの時代じだいに開いひらいた梵刹ぼんさつで、今いまだに残っのこっているのは、牛うしでもなければ豚ぶたでもない、ただ山やまと谷たにと巌いわと御寺おてらと坊主ぼうずだけであるから、農科のうかの教授きょうじゅがわざわざ馬うまに乗っのって見物けんぶつに行くいくべきところではけっしてない。
と云っいってせっかく行くいくと云ういうものを、意見いけんまでして思い止まらおもいとどまらせるほどの口実こうじつは無論むろん考え出せかんがえだせないから、なすがままにさせて放っはなっておいた。
そのうち不思議ふしぎな事ことに、注文ちゅうもん通つう馬うまが三さん匹ひき出でて来きた。
どこから出でて来きたものか聞いきいても見みなかったが、たしかに出でて来きた。
三さん人ひとは癪しゃくに障るさわるほど勇んいさんで外そとへ飛び出しとびだした。
余よは仕方しかたがないから西洋せいよう間まと日本にっぽん間まの唯一ゆいいつの主人しゅじんとして、この一日いちにちを物静かものしずかに休養きゅうようすべく準備じゅんびした。
まず何なんよりも横よこになるのが薬くすりだろうと思っおもって、狸たぬきだか狐きつねだか分らわからない毛皮けがわの上うえにごろりと転がっころがった。
すると窓まどの外そとから橋本はしもとの声こえで、おいおいちょっと出でて見ろみろと呼んよんでいる。
彼れあれまだそこいらを迷めいついてるなと思うおもうと、少しすこし面白くおもしろくなったから、請求せいきゅう通原とおりはらの中なかへ草履ぞうりのまま出でた。
すると広いひろい牧場ぼくじょうのようなところに、馬うまが三さん匹ひき立ったっていた。
それがいずれも小汚ないこぎたない駄馬だうまだったのではなはだ愉快ゆかいであった。
のみならず、その中なかの一いち匹ひきがどうしても大重おおしげ君きみを乗せようのせようと云わいわない。
傍そばへ行くいくと、飛んとんだり蹴たりする。
馬うまが怖こわがるからだと云っいって、手拭てぬぐいで眼隠しめかくしをして、支那しなの小僧こぞうが両手りょうてで轡くつわをしっかり抑えおさえている。
遠くとおくから見るみると、馬うまが鉢巻はちまきをしたようでおかしかった。
その傍そばへ大重おおしげ君きみが苦笑いにがわらいをしながら近寄っちかよって行くいくところは、一層いっそう面白かっおもしろかった。
しかも一度いちどや二に度どではない。
よほど馬うまに遠慮えんりょする性質せいしつと見えみえて、容易よういに埒らちを明けあけないから、みんながなお喝采かっさいする。
橋本はしもとは北海道ほっかいどうの住人じゅうにんだから苦くもなく鞍くらに跨っまたがった。
もう一人ひとり――名前なまえを忘れわすれたから、もう一人ひとりというよりほかに仕方しかたがないが――これは熊くま岳たけ城しろの苗圃びょうほの長ながで、もと橋本はしもとに教わっおそわった事ことがあると云ういうだけに、手綱たづなを執るとる術じゅつを心得こころえている。
余よはこの時じ立ちたちながら心こころの中なかで、要するようするに千せん山行さんこうを撤回てっかいした方ほうが、馬術ばじゅつ家いえとしての余よの名誉めいよを完うまっとうする所以ゆえんではなかろうかと考えかんがえた。
けれども、そんな気色けしきは顔かおにも出さださず、ただ残り惜しのこりおしげに三さん人ひとの後姿うしろすがたを眺めながめていた。
そうして大重おおしげ君きみの腰つきこしつきから推測すいそくして、千せん山やままであれで乗りのり通すとおすのは、定めてさだめて心配しんぱいな事ことだろうと同情どうじょうした。
橋本はしもとは今夜こんやのうちに帰るかえるんだとか号しごうして、しきりに馬うまを急がいそがせるらしい。
苗圃びょうほ長ながも負けまけずに、続いつづいて行くいく。
独りひとり大重おおしげ君きみだけが後れおくれた。
馬うまはまだ眼め隠いんをしている。
やがて二人ふたりの影かげが高粱こーりゃんに遮ぎらさえぎられて、どっちへ向いむかいて行くいくかちょっと分らわからなくなった。
先刻せんこくからそこいらを徘徊はいかいしていた背せの高いたかい支那しな人ひともまた高粱こーりゃんの裡りに姿すがたを隠しかくした。
この支那しな人ひとは肩かたから背せへかけて長いながい鉄砲てっぽうを釣っつっていた。
人数にんずうは二人ふたりであった。
始めはじめて気きがついたときは咄嗟とっさの際さいに馬賊ばぞくという聯想れんそうが起っおこった。
橋本はしもとと前後ぜんごして高粱こーりゃんの底そこに没しぼっして、しばらくすると、どんと云ういう砲声ほうせいが聞えきこえて、またしばらくすると、三さん人ひとの馬うまの前まえにどこからかあの背せの高いたかい奴やつが現われあらわれて来きたら大事件だいじけんだと想像そうぞうして、また室むろの中なかへ帰っかえって狸たぬきの皮かわの上うえに寝ねた。
四十四よんじゅうよん
手拭てぬぐいを下げさげて風呂ふろに行くいく。
一いち町まちばかり原はらの中なかを歩かふかなければならない。
四方しほうを石いしで畳たたみ上げあげた中なかへ段々だんだんを三さんつほど床ゆかから下したへ降りるおりると湯泉ゆぜんに足あしが届くとどく。
軍政ぐんせい時代じだいに軍人ぐんじんが建てたてたものだからかなり立派りっぱにできている代りかわりにすこぶる殺風景さっぷうけいである。
入浴にゅうよく時間じかんは十五じゅうご分ぶんを超ちょうゆべからずなどと云ういう布告ふこくめいたものがまだ入口いりぐちに貼付けはりつけてある通りとおりの構造こうぞうである。
犯則はんそくを承知しょうちの上うえで、石段いしだんに腰こしをかけたり、腹這はらばいに身みを浮かしうかしたり、頬杖つらづえを突いついて倚りよりかかったり、いろいろの工夫くふうを尽くしつくした上うえ、表ひょうへ出でて風呂場ふろばの後あとへ廻るまわると、大きなおおきな池いけがあった。
若いわかい男おとこが破は舟ふねの中なかへ這入っはいってしきりに竿さおを動かしうごかしている。
おいこの池いけは湯ゆか水みずかと聞くきくと、若いわかい男おとこは類るい稀まれなる仏頂面ぶっちょうめんをして湯ゆだと答えこたえた。
あまり厭いやな奴やつだから、それぎり口くちを利くきくのをやめにした。
岸きしの上うえから底そこを覗くのぞくと、時々ときどき泡あわのようなものが浮いういて来るくる。
少しすこしは湯気ゆげが立ったってるかとも思わおもわれる。
実じつは魚さかながいないかと、念ねんのため聞いきいて見みたかったのだけれども、相手あいてが相手あいてだから歩あゆみを回らしまわらして宿やどの方ほうへ帰っかえった。
後あとで、この池いけに魚さかなが泳いえいいでいる由ゆを承知しょうちしてはなはだ奇異きいの思いおもいをなした。
その上うえここには水みずが一いち滴しずくも出でないのだと教えおしえられたときには全くまったく驚いおどろいた。
驚いおどろいた事ことはまだある。
湯ゆから帰りがけかえりがけに入口いりぐちの大広間おおひろまを通り抜けとおりぬけて、自分じぶんの室むろへ行こういこうとすると、そこに見み慣れなれない女おんながいた。
どこから来きたものか分らわからないが、紫むらさきの袴はかまを穿いはいて、深いぶかい靴くつを鳴らしならして、その辺へんを往っいったり来きたりする様子ようすが、どうしても学校がっこうの教師きょうしか、女生徒じょせいとである。
東京とうきょうでこそ外そとへさえ出れでれば、向うむこうから眼めの中なかへ飛び込んとびこんでくる図ずだが、渺茫びょうぼうたる草原そうげんのいずくを物色ぶっしょくしたって、斯様かような文采ぶんさいは眸ひとみに落ちるおちるべきはずでない。
余よはむしろ怪しいあやしい趣おもむきをもって、この女おんなの姿すがたをしばらく見つめみつめていた。
室むろに帰っかえってまた寝ねた。
眼めが覚めるさめると窓まどの外そとで虫むしの声こえがする。
淋しくさびしくなったから、西洋せいよう間まへ出でて、長なが椅子いすの上うえに腰こしをかけて、謡うたいをうたった。
無論むろん出鱈目でたらめである。
そこへ下女げじょが来きた。
先刻せんこくの女おんなの事ことを聞いきいたら、何なんでも宅たくで知っしってる人ひとなんでしょうと云っいっただけで、ちっとも要領ようりょうを得とくない。
昨さく夕飯ゆうはんを済ましすまして煙草たばこを呑んのんでいると急きゅうに広間ひろまの方ほうで、オルガンおるがんを弾くひく音おとがしたが、あの女おんながやったんじゃないかと聞くきくと、いいえ昨夕さくゆうのは宅たくの下女げじょですと云ういう。
この原はらのなかに、それほどハイカラはいからな下女げじょがいようとは思いがけおもいがけなかった。
先刻せんこくの袴はかまはもう帰っかえったそうである。
余よは一人ひとり長椅子ちょういすの上うえに坐っすわった。
そうして永いながい日ひが傾きかたむき尽しつくして、原はらの色いろが寒くさむく変るかわるまでぽかんとしていた。
すると静かしずかな野のの中なかでどうぞ、ちと御ご遊びあそびに、私わたくし一人ひとりですからと云ういう嬌きょうかしい声こえがした。
その音調おんちょうは全くまったくの東京とうきょうものである。
余よは突然とつぜん立ったって、窓まどの外そとを眺めながめた。
あいにく窓まどには寒冷紗かんれいしゃが張っちょうってあった。
手早くてばやく硝子がらすを開けあけて首くびを外そとへ出すだすと、外そとはもう一面いちめんに夕暮れゆうぐれていて、蒼いあおい煙けむりが女おんなの姿すがたを包んつつんでしまったので誰だれだか分らわからなかった。
橋本はしもとの連中れんちゅうはその晩ばん帰っかえって来きた。
下女げじょのしらせで、暗いくらい背戸せどに出でて見るみると、豆まめのような灯あかりが一いちつ遠くとおくに見えみえた。
下女げじょはあれが連中れんちゅうだと云ういう。
いくら野の広いひろいところだって、橋本はしもと以外いがいにも灯あかりが見えるみえる事こともあるだろうと尋ねたずねても、やっぱりあれだと云ういう。
はたしてそうであった。
灯あかりは夕方ゆうがた宿やどから迎むかえに出しだした支那しな人ひとの持っもって行っいった提灯ちょうちんである。
背戸口せとぐちに馬うまを乗り捨てのりすてた橋本はしもとは、そう骨ほねを折っおって見みに行くいく所ところでもないよと云っいった。
大重おおしげ君きみは馬うまから三さん度ど落ちおちたそうである。
四十五よんじゅうご
奉天ほうてんへ行っいったら満鉄まんてつ公こう所ところに泊るとまるがいいと、立つたつ前まえに是ぜ公こうが教えおしえてくれた。
満鉄まんてつ公こう所ところには俳人はいじん肋骨ろっこつがいるはずだから、世話せわになっても構わかまわないくらいのずるい腹はらは無論むろんあったのだが、橋本はしもとがいっしょなので、多少たしょう遠慮えんりょした方ほうが紳士しんしだろうという事ことに相談そうだんがいつか一決いっけつしてしまった。
停車場ていしゃじょうには宿屋やどやの馬車ばしゃが迎えむかえに来きていた。
やはり泥どろの中なかから掘出しほりだして、炎天えんてんで乾かしかわかしたように色いろが変っかわっている。
荷物にもつと人間にんげんをぐるに乗せのせて、構内こうないを離れるはなれるや否いなや、御者ぎょしゃが凄じくすさまじく鞭むちを鳴らしならした。
峠とうげを越すこす田舎いなかの乗合のりあい馬車ばしゃよりも手荒てあらな取扱とりあつかい方ほうである。
広いひろい通りとおりはそれほどでもないが、しだいに城内きうちに近づくちかづくに従っしたがって、今までいままで野原のはら同然どうぜんに茫々ぼうぼうとしていた往来おうらいが、左右さゆうの店みせの立込んたてこんで来るくると共ともに狭くせまくなる上うえに、鉄道馬車てつどうばしゃがその真中まなかを駆けかけつつあるにもかかわらず、烈しいはげしい鞭むちの影かげは一いち分ぶんに一度いちどぐらいはきっと頭あたまの上うえで閃めいひらめいた。
馬うまは無理むりにも急がいそがなければならない。
けれども奉天ほうてんだけあって、往来おうらいの人ひとは馬車ばしゃの右みぎにも左ひだりにも、前まえにも後あとにも、のべつに動いうごいている。
そこへ騾馬らばを六ろく頭あたまも着けつけた荷車にぐるまがくるのだから、牛うしを駆るかるようにのろく歩いあるいたって危ないあぶない。
それだのに無人むじんの境さかいを行くいくがごとくに飛ばしとばして見せるみせる。
我々われわれのような平和へいわを喜ぶよろこぶ輩やからはこの車くるまに乗っのっているのがすでに苦痛くつうである。
御者ぎょしゃはもちろんチャンちゃんチャンちゃんで、油あぶらに埃ほこりの食い込んくいこんだ辮髪べんぱつを振り立てふりたてながら、時々ときどき満洲まんしゅうの声こえを出すだす。
余よは八はちの字じを寄せよせて、馬うまの尻しりをすかしつつ眺めながめた。
そうして、みだりに鞭むちを瘠せやせ骨ほねに加えくわえて、旅客りょかくの御機嫌ごきげんを取るとるのは、女房にょうぼうを叱っしかって佳か賓ひんをもてなすの類るいだと思っおもった。
現にげんに北陵ほくりょうから帰りがけかえりがけに、宿やど近くちかく乗りつけるのりつけると、左ひだりり側がわに人ひとが黒山くろやまのようにたかっている。
その辺へんは支那しなの豆腐とうふやら、肉にく饅頭まんじゅうやら、豆まめ素麺そうめんなどを売るうる汚ないきたない店みせの隙間すきまなく並んならんでいる所ところであったが、黒いくろい頭あたまの塊まっかたまった下したを覗くのぞくと、六十ろくじゅうばかりの爺じいさんが大地だいちに腰こしを据えすえて、両りょう脛すねを折っおったなり前まえの方ほうへ出しだしていた。
その右みぎの膝ひざと足あしの甲こうの間まを二に寸すんほど、強いつよい力ちからで刳り抜いくりぬいたように、脛すねの肉にくが骨ほねの上うえを滑っすべって、下したの方ほうまで行っいって、いっしょに縮れ上っちぢれあがっている。
まるで柘榴ざくろを潰しつぶして叩きつけたたきつけた風かぜに見えみえた。
こう云ういう光景こうけいには慣れなれているべきはずの案内あんないも、少しすこし寒くさむくなったと見えみえて、すぐに馬車ばしゃを留めとめて、支那しな語ごで何なんか尋ね出したずねだした。
余よも分らわからないながら耳みみを立てたてて、何なんだ何なんだと繰返しくりかえして聞いきいた。
不思議ふしぎな事ことに、黒くくろくなって集っつどった支那しな人ひとはいずれも口くちも利かりかずに老人ろうじんの創はじめを眺めながめている。
動きうごきもしないから至っていたって静かしずかなものである。
なお感じかんじたのは、地面じめんの上うえに手てを後あとへ突いついて、創口そうこうをみんなの前まえに曝しさらしている老人ろうじんの顔かおに、何なんらの表情ひょうじょうもない事ことであった。
痛みいたみも刻まきざまれていない。
苦しみくるしみも現れあらわれていない。
と云っいって、別べつに平然へいぜんともしていない。
気きがついたのは、ただその眼めである。
老人ろうじんは曇くもりよりと地面じめんの上うえを見みていた。
馬車ばしゃに引かひかれたのだそうですと案内あんないが云っいった。
医者いしゃはいないのかな、早くはやく呼んよんでやったらいいだろうにと間接かんせつながら窘なめたら、ええ今いまにどうかするでしょうという答こたえである。
この時じ案内あんないはもう本来ほんらいの気分きぶんを回復かいふくしていたと見えるみえる。
鞭むちの影かげは間まもなくまた閃めいひらめいた。
埃ほこりだらけの御者ぎょしゃは人ひとにも車くるまにも往来おうらいにも遠慮えんりょなく、滅法めっぽう無頼ぶらいに馬うまを追っおった。
帽ぼうも着物きものも黄色きいろな粉こなを浴びあびて、宿やどの玄関げんかんへ下りくだりた時じは、ようやく残酷ざんこくな支那しな人ひとと縁えんを切っきったような心持こころもちがして嬉しかっうれしかった。
四十六よんじゅうろく
支那しなの古家ふるやをそのまま使っつかってるから、御寺おてらの本堂ほんどうを客間きゃくまに仕切っしきったと同じおなじようである。
釣りつり廊下ろうかを渡っわたって正面しょうめんの座敷ざしきを覗くのぞくと、骨董こっとうがいっぱい並べならべてあったので、何事なにごとかと思っおもったら、北京ぺきんへ買出しかいだしに行っいった道具屋どうぐやが、帰り途かえりみちにここで逗留とうりゅう中なかの見世みせを張っちょうったのだと分っわかったから、冷しひやし半分はんぶん這入っはいって見みているうちに、時間じかんが来きたので、外そとへ出でた。
今度こんどは車くるまだから好かろうよかろうと安心あんしんして、ちょっとハイカラはいからに膝頭ひざがしらを重ねかさねて反り返っそりかえって見みたが、やはりけっして無難ぶなんではない。
人力じんりきは日本人にっぽんにんの発明はつめいしたものであるけれども、引子ひきこが支那しな人ひともしくは朝鮮人ちょうせんにんである間まはけっして油断ゆだんしてはいけない。
彼かれ等とうはどうせ他ほかの拵えこしらえたものだという料簡りょうけんで、毫もごうも人力じんりきに対したいして尊敬そんけいを払わはらわない引きひき方ほうをする。
海城かいじょうというところで高麗こまの古跡こせきを見みに行っいった時じなぞは、尻しりが蒲団ふとんの上うえに落ちつくおちつく暇ひまがないほど揺れゆれた。
一いち尺さしばかり跳ね上げはねあげられる事ことは、一丁いちちょうの間まに一度いちどは必ずかならずあった。
しまいに朝鮮人ちょうせんにんの頭あたまをこきんと張ちょうつけてやりたくなったくらい残酷ざんこくに取扱わとりあつかわれた。
奉天ほうてんの道路どうろは海うみ城しろほど凸凹でこぼこにでき上っできあがっていないから、むやみに車くるまの上うえで踊おどりをおどる苦痛くつうはないが、その引きひき方ほうのいかにも無む技巧ぎこうで、ただ見境みさかいなく走そうけさえすれば車夫しゃふの能事のうじ畢るおわると心得こころえている点てんに至っいたっては、全くまったく朝鮮ちょうせん流りゅうである。
余よは車くるまに揺られゆられながら、乗客じょうきゃくの神経しんけいに相応そうおうの注意ちゅういを払わはらわない車夫しゃふは、いかによく走そうけたって、ついに成功せいこうしない車夫しゃふだと考えかんがえた。
そのうち大きなおおきな門もんの下したへ出でた。
奉天ほうてんへ前後ぜんご四よん泊とまりした間まに、この門もんを何度なんどとなく潜っもぐった覚さとしがある。
その名前なまえも幾度いくどとなく耳みみにした。
ところがそれを忘れわすれてしまった。
その恰好かっこもはなはだ曖昧あいまいに頭あたまに映るうつるだけである。
しかし奉天ほうてんの市街しがいに入っはいって始めてはじめて埃ほこりだらけの屋根やねの上うえに、高くたかくこの門もんを見上げみあげた時じは、はあと思っおもった。
その時じの印象いんしょうはいまだに消えきえない。
橋本はしもとといっしょにこの門もんの傍そばにある小さなちいさな店みせに筆ふでと墨すみを買いかいに行っいった折おりの事ことも、寂びさびた経験けいけんの一いちつとしてよく覚えおぼえている。
その時じ橋本はしもとは敷居しきいを跨いまたいで、中なかへ這入っはいった。
余よも橋本はしもとに続こうつづこうとして身体しんたいを半分はんぶん廂ひさしから奥おくへ差し込んさしこんだが、支那しなの家いえに固有こゆうな一種いっしゅの臭においが、たちまち鼻はなに感じかんじたので、一二いちに歩あゆみ往来おうらいの方ほうへ出でて佇んたたずんでいた。
今いま云ういう門もんは十じゅう間まばかり先さきの四辻よつつじにあるので、余よは鳥打帽とりうちぼうの廂ひさしに高いたかい角度かくどを与えあたえてわざわざ仰あおぐむいて見みた。
時刻じこくは暮くれに近いちかい頃ころだったから、日ひの色いろは瓦かわらにも棟むねにも射さささないで、眩しいまぶしい局部きょくぶもなく、総体そうたいが粛然しゅくぜんと喧びすしい十字じゅうじの街まちの上うえに超越ちょうえつしていた。
この門もんは色いろとしては、古いふるい心持こころもちを起すおこす以外いがいに、特別とくべつな采さいをいっこう具えそなえていなかった。
木きも瓦かわらも土つちもほぼ一色いっしょくに映るうつる中なかに、風鈴ふうりんだけが器用きように緑みどりを吹いふいていただけである。
瓦かわらの崩れくずれた間まから長いながい草くさが見えみえた。
廂ひさしの暗いくらい影かげを掠めかすめて白いしろい鳩はとが二に羽はね飛んとんだ。
余よは久しぶりひさしぶりに漢詩かんしというものが作りつくりたくなった。
待っまっている間ま少しすこし工夫くふうして見みたが、一句いっくも纏まらまとまらないうちに、橋本はしもとが筆ふでと墨すみを抱えかかえて出でて来きたので興趣きょうしゅは破れやぶれてしまった。
このほかにこの門もんから得とくた経験けいけんは、暗いくらい穴倉あなぐらのなかで、車くるまに突き当りつきあたりはしまいかと云ういう心配しんぱいと、煉瓦れんがに封じ込めふうじこめられた塵埃じんあいを一度いちどに頭あたまから浴びるあびると云ういう苦痛くつうだけであった。
余よの車屋くるまやはこの暗いくらい門もんの下したを潜っもぐって、城内きうちの満鉄まんてつ公所こうしょまで、悪辣あくらつ無双むそうに引いひいて行っいった。
余よは生きいきた風呂敷ふろしき包つつみのごとく車くるまの上うえで浮沈ふちんした。
四十七よんじゅうなな
茶ちゃを飲むのむと、酸いしいような塩しおはゆいような一種いっしゅの味あじがする。
少しすこし妙みょうだと思っおもって、茶碗ちゃわんを下したへ置いおいてゆっくり橋本はしもとの講釈こうしゃくを聞いきいた。
その講釈こうしゃくによると、奉天ほうてんには昔むかしから今日きょうに至るいたるまで下水げすいと云ういうものがない。
両便りょうべんの始末しまつは無論むろん不完全ふかんぜんである。
そこで古来こらいから何百なんびゃく年ねんとなく奉天ほうてんの民みんが垂れ流したれながした糞ふん小便しょうべんが歳月さいげつの力ちからで自然しぜん天然てんねんに地ちの底そこに浸み込んしみこんで、いまだに飲料水いんりょうすいに祟りたたりをなしているんだと云ういう。
一応いちおうはもっともだが、説明せつめいが少しすこし科学的かがくてきでないようである。
第一だいいちそれほどの所ところなら穀類こくるい野菜やさいともに、もっとよくできなければならないはずだと思っおもったが、馬鹿ばか気きているから議論ぎろんもしなかった。
橋本はしもともこれは伝説でんせつだよと断っことわった。
伝説でんせつと云えいえば日本にっぽん武尊ほたかの東夷とうい征伐せいばつと同どう種類しゅるいに属すぞくすべきもので、真偽しんぎ以外いがいに、重くおもく取扱わとりあつかわねばならぬ筋すじの来歴らいれきを有しゆうしているに違いちがいない。
いかにも汚ないきたない国民こくみんである。
湯ゆを立てたてて貰っもらって這入っはいって見るみると、濁っにごっている。
別べつに黄色くきいろく濁っにごっている訳わけではないが、御ご茶ちゃの味あじから演繹えんえきすればやっぱり酸っぱいすっぱい湯ゆに浸っひたっているとよりほかに考えかんがえようがない。
鹹水かんすいにも溶けるとけるとか云っいって大連だいれんでくれた豆まめ石鹸せっけんでも、行李こうりの底そこから出せだせばよかったと思っおもった。
風呂場ふろばも風呂桶ふろおけも小さいちいさいものである。
その上下じょうげ女おんなが出でて来きて背中せなかを流しながしてくれる。
窮屈きゅうくつに身体しんたいを曲げまげながら、御前ごぜんは日本人にっぽんにんだろう。
日本にっぽんはどこの生れうまれだいなどと話はなしをした。
この下女げじょは始めはじめて宿やどへ着いついた時じ、余よを橋本はしもとの随行ずいこうと間違えまちがえて、そら何なんとかさんもいっしょにいらしったと云っいった。
その何なんとかさんは橋本はしもとが蒙古もうこへ行くいくとき、彼かれと同じくおなじくここへ泊っとまった事ことがあるのだそうだ。
顔かおが似にているから間違えまちがえたのか、様子ようすが御供ごくらしいから間違えまちがえたのかは、つい聞き糺しききただして見みなかった。
窓まどの外そとに大きなおおきな甕かめが埋けいけてある。
我々われわれの汗あせや垢あかが例れいの酸っぱいすっぱい水みずといっしょになって、朝あさに晩ばんに流れ込んながれこんでいるのだから、時々ときどき汲み出さくみださなければ溢れるあふれるほど溜ったまってしまう。
それを支那しなの下男げなんが石油せきゆ缶かんへ移しうつして天秤棒てんびんぼうで担いにないで、どこかへ持っもって行くいく。
風呂ふろに浸りひたりながら、どこへ持っもって行くいくんだろうなと考えかんがえた。
余計よけいな心配しんぱいのようだが余よはこの汚水おすいが結局けっきょくどう片づけかたづけられるかの処置しょちを想像そうぞうして見みて、少しくすこしく恐ろしくおそろしくなった。
これでいて御馳走ごちそうがむやみに出るでる。
胃いの悪いわるい余よのごときものは、御ご膳ぜんの上うえを眺めながめただけで、腹はらがいっぱいになってしまう。
夜よるは緞子どんすの夜具やぐに寝かしねかしてくれる。
店みせの方ほうでは電話でんわが仕切しきりなしにちりんちりんと鳴っなっている。
品しなの好いよい御ご神かみさんが、はあもしもしを乃の別べつに繰返すくりかえす。
或るある時じチョコレートちょこれーとの菓子かしが食いくいたくなったから、下女げじょに有るあるかいと聞いきいて見るみると、すぐもしもしで取り寄せとりよせてくれた。
のみならず満鉄まんてつ公所こうしょへ御馳走ごちそうを受けうけに行けいけば、三さん鞭むちが現れるあらわれる。
領事館りょうじかんへ挨拶あいさつに行けいけば、英吉利いぎりすの王様おうさまの写真しゃしんなどが恭々やすししく飾っかざってあって、まるで倫敦ろんどんのような気持きもちになる。
そうかと思うおもうと、宿やどの座敷ざしきの廊下ろうかの向うむこうが白壁しらかべで、高いたかい窓まどから光線こうせんが横よこに這入っはいって来るくるのは仕方しかたがないが、その窓まどに嵌めはめてある障子しょうじは、北斎ほくさいの画いえがいた絵入えいりの三さん国くに志こころざしに出でてくるような唐とうめいたものである。
しかもあまり綺麗きれいではない。
その上室じょうしつの中なかが妙みょうな臭においを放つはなつ。
支那しな人ひとが執拗しつようく置きおき去さっにして行っいった臭においだから、いくら綺麗きれい好きすきの日本人にっぽんにんが掃除そうじをしたって、依然いぜんとして臭いくさい。
宿やどでは近々ちかぢか停車場ていしゃじょう附近ふきんへ新築しんちくをして引いん移るうつるつもりだと云っいっていた。
そうしたら、この臭においだけは落ちるおちるだろう。
しかし酸っぱいすっぱい御ご茶ちゃは奉天ほうてんのあらん限りかぎり人畜じんちくに祟るたたるものと覚悟かくごしなければならない。
四十八よんじゅうはち
黒いくろい柱はしらが二に本ほん立ったっている。
扉とびらも黒くくろく塗っぬってある。
鋲びょうは飯めし茶碗ちゃわんを伏せふせたように大きくおおきく見えるみえる。
支那しな町まちの真中まなかにこんな大名だいみょう屋敷やしきに似にた門もんがあろうとは思いがけおもいがけなかった。
門もんを這入るはいるとまた門もんがある。
これは支那しな流りゅうにできていた。
それを通り越すとおりこすと幅はば一いち間まほどの三和土たたきが真直まっすぐに正面しょうめんまで通っとおっている。
もっとも左右さゆう共ともに家いえ続きつづきであるから、四角しかくな箱ばこの中なかをがらん胴どうにして、その屋根やねのない真中まなかを、三和土たたきを辿ったどって突き当るつきあたる訳わけになる。
肋骨ろっこつ君きみの説明せつめいを聞いきいて知っしったのだが、この突当りつきあたりが正房せいぼうで、左右さゆうが廂ひさし房ぼうである。
肋骨ろっこつ君きみはこの正房せいぼうの一いち棟むねに純粋じゅんすいの日本にっぽん間まさえ設けもうけている。
ちょっと見みたまえと云っいって案内あんないするから、後あとに跟いて行くいくと、思わおもわざる所ところに玄関げんかんがあって、次の間つぎのまが見えみえて、その奥おくの座敷ざしきには立派りっぱな掛かかり物ものがかかっていた。
かと思うおもうと左ひだりの廂ひさし房ぼうの扉とびらを開いひらいてここが支那しな流りゅうの応接おうせつ間まだと云ういう。
なるほど紫檀したんの椅子いすばかり並んならんでいる。
もっとも西洋せいようの客間きゃくまと違っちがって室むろの真中まなかは塞いせいでいない。
周囲しゅういに行儀ぎょうぎよく据えつけすえつけてある。
これじゃ客きゃくが来きても向い合っむかいあって坐るすわる事ことはできない訳わけだから、みんな隣となり同志どうしで話はなしをする男おとこばかりでなければならない。
中なかにも正面しょうめんの二に脚あしは、玉座ぎょくざとも云ういうべきほどに手数てすうの込んこんだもので、上うえに赤いあかい角かく枕まくらが一いちつずつ乗せのせてあった、支那しな人ひとてえものは呑気のんきなものでね、こうして倚っよっかかって談判だんぱんをするんですと肋骨ろっこつ君きみが教えおしえてくれた。
肋骨ろっこつ君きみは支那しな通つうだけあって、支那しなの事ことは何なんでも心得こころえている。
あるとき余よに向っむかって、辮髪べんぱつまで弁護べんごしたくらいである。
肋骨ろっこつ君きみの説せつによると、ああ云ういうぶくぶくの着物きものを着きて、派出はしゅつな色いろの背中せなかへ細いほそい髪かみを長くながく垂らしたらしたところは、振えふるえ付きつきたくなるほど好いほどよいんだそうだから仕方しかたがない。
実際じっさい肋骨ろっこつ君きみが振えふるえ付きつきたくなると云ういう言葉ことばを使っつかったには驚いおどろいた。
今いまでもこの言葉ことばを考え出しかんがえだしては驚いおどろいている。
いっぺん汚ないきたない爺じいさんが泥鰌どじょうのような奴やつをあたじけなく頸筋くびすじへ垂らしたらしていたのを見みて、ひどく興きょうを覚しさましたせいだろう。
これほどの肋骨ろっこつ君きみも正房せいぼうの応接おうせつ間まは西洋せいよう流りゅうで我慢がまんしている。
その隣となりの食堂しょくどうでは西洋せいよう料理りょうりを御馳走ごちそうした。
それから襯衣一いち枚ばいで玉たまを突くつく。
その様子ようすはけっして支那しなじゃない。
万事ばんじ橋本はしもとから聞いきいたより倍ばい以上いじょう活溌かっぱつにできているところをもって見るみると、振えふるえ付きつきたいは少々しょうしょう言いいい過ぎすぎたのかも知れしれない。
肋骨ろっこつ君きみは戦争せんそうで右みぎか左ひだりかどっちかの足あしを失くしなくした。
ところがそれがどっちだか分らわからないくらい、自由自在じゆうじざいに起っおこったり坐っすわったりする。
そうして軍人ぐんじんに似合わにあわないような東京弁とうきょうべんを使うつかう。
どこで生れうまれたか聞いきいて見みたら、神田かんだだと云っいった。
神田かんだじゃそのはずである。
要するようするに肋骨ろっこつ君きみは支那しな好よしみであると同時どうじに、もっとも支那しなに縁えんの遠いとおい性質せいしつの人ひとである。
室むろは空いむなしいてるから来きたまえとしきりに云っいってくれるので、じゃ帰りかえりに厄介やっかいになるかも知れしれないと云ういうとすぐ宜しいよろしいと快諾かいだくしたところだけは旨かっうまかったが、帰りかえりには夜半やはんの汽車きしゃで奉天ほうてんへ着くつく時間割じかんわりだと橋本はしもとから聞くきくや否いなや、肋骨ろっこつ君きみはたちまち宿泊しゅくはくを断っことわった。
いや、あの汽車きしゃじゃ御免ごめんだと云ういう。
もう一いちつの汽車きしゃが好いよいじゃないかと勧めるすすめるんだが、プログラムぷろぐらむの全権ぜんけんがあいにくこっちにないので、やむをえず、そんなら、もし夜半やはんの汽車きしゃでなかったら泊めとめて貰おうもらおうと云ういう条件じょうけんをつけた。
すると肋骨ろっこつ君きみはまた宜しいよろしいと答えこたえた。
ところが帰りかえりにはやっぱり予定よてい通夜つや半はん着きの汽車きしゃへ乗っのったのでとうとう満鉄まんてつ公所こうしょへは泊まれとまれない事ことになった。
満鉄まんてつ公所こうしょで余よの知らしらない所ところは寝室しんしつだけである。
四十九よんじゅうきゅう
右みぎへ折れるおれると往来おうらいとは云わいわれないくらい広いひろい所ところへ出でたのでようやく安心あんしんした。
これならば人ひとを引いん殺すころす心配しんぱいもなかろうと思っおもって、案内あんないをしてくれる、宿やどの番頭ばんとうを相手あいてに、行くいく行くいく話はなしをした。
満洲まんしゅうの日ひは例れいによって秋毫しゅうごうの先さきを鮮かあざやかに照らすてらすほどに思い切っおもいきったものである。
眉まゆ深しんに鳥打帽とりうちぼうを被っかぶっても、三日月みっかつき形かたちの廂ひさしでは頬ほおから下したをどうする事こともできないので、直下ちょっかに射いりつけられる所ところは痛いいたいくらいほてる。
そこへ馬うまの蹄ひづめに掻き立てかきたてられた軽いかるい埃ほこりが、車くるまの下したから濛々もうもうと飛んとんで来るくる。
番頭ばんとうは、結構けっこうな御ご日和ひよりです、少しすこし風かぜでも吹いふいたらこんなものじゃありませんと喜んよろこんでいる。
そのうち馬車ばしゃが家いえを離れはなれて広いひろい原はらへ出でた。
原はらだから無論むろん樹きも草くさも見えみえないのは当然とうぜんだが、遠くとおく眺めるながめると、季節きせつだけに青いあおいものが際限さいげんのない地ちの上皮じょうひに、幾いく色いろかの影かげになって、一面いちめんに吹き出しふきだしている。
なぜこれほどの地面じめんを空しくむなしく明けあけておくかは、家屋かおくの発展はってんに忙殺ぼうさつされつつある東京とうきょうものの眼めには即時そくじの疑問ぎもんとして起るおこる訳わけであるが、この際さいはそれよりも窮屈きゅうくつな人間にんげんを通り抜けとおりぬけて晴々はればれしたと云ういう意識いしきの方ほうが一度いちどに余よの頭あたまを照らしてらした。
路みちは固よりもとよりついていない。
東西南北とうざいなんぼく共ともに天てんに作っつくった路みちであるから、轍てつの迹は行くいく人ひとの心任せこころまかせに思い思いおもいおもいの見当けんとうに延びのびて行くいく。
支那しな人ひとの馬車ばしゃが来きた。
屋根やねに蒲鉾形かまぼこがたの丸味まるみを取っとった棺ひつぎのようなもののなかに、髪かみを油あぶらで練れん固めかためた女おんなが坐っすわっている。
長柄ながえは短いみじかいが、車くるまの輪わは厚くあつく丈夫じょうぶなものであった。
云ういうまでもなく騾馬らばに引かしひかしている。
まず日本にっぽんの昔むかしに流行っりゅうこうった牛車ぎっしゃの小ぢんまりこぢんまりしたものと思えおもえば差支えさしつかえないが、見みたところは牛車ぎっしゃよりもかえって雅みやびである。
その代りかわり乗っのってる人間にんげんは苦しいくるしいそうだ。
余よはこの車くるまのごろごろ行くいくところを見みて、※たり※たりと形容けいようしたくなった。
※の字じも※の字じも判然はんぜんたる意味いみを知らしらないのだが、乗っのってる人ひとは定めさだめて※※たるものに相違そういなかろうと思っおもったからである。
実じつを云ういうと※※たるものは支那しなの車くるまばかりではない。
こう云ういう自分じぶんもはなはだ危きしかった。
一望いちぼうして原はらだよと澄ましすましていればそれまでの事ことで、仰あおぐのごとく平らたいらにも見えるみえるが、いざ時間じかんに制限せいげんを切っきって、突とっ切っきって見ろみろと云わいわれると、恐ろしくおそろしく凸凹でこぼこができてくる。
おいここで馬車ばしゃの引っくり返るひっくりかえる事ことはあるまいなと番頭ばんとうに念ねんを押すおすと、番頭ばんとうはええ、まあたいてい大丈夫だいじょうぶでしょうと云ういうだけで、けっして万一まんいちを受け合わうけあわない。
どうも並んならんでいる番頭ばんとうの座ざが急きゅうに高くたかくなって、番頭ばんとうそのものが余よの方ほうに摺すり落ちおちて来きそうになったり、またはあべこべに、余よが番頭ばんとうのシャッポしゃっぽの上うえに顛いただきび落ちおちそうになるのは心こころ好くよくないものである。
余よは神経質しんけいしつで臆病おくびょうな性分しょうぶんだから、車くるまが傾くかたむくたんびに飛び降りとびおりたくなる。
しかるに人ひとの気きも知らしらないで、例れいの御者ぎょしゃが無敵むてきに馬うまを馳はせけさせる。
いらぬ事ことだと冷や冷やひやひやしているうちに、一いちカ所かしょ路みちの悪いわるい所ところへ出でた。
原因げんいんは解らわからないが、轍てつの迹が際立っきわだって三四十さんよんじゅう本ほん並んならんでいる。
しかもその幅はばがいずれも五六ごろく寸すんある。
そうして見るみるからに深しんそうに、日影ひかげを遮っさえぎって、奥おくの方ほうを黒くくろくかつ暗くくらくしている。
我々われわれの御者ぎょしゃは平気へいきにそこへ乗り込んのりこんだ。
順当じゅんとうに乗り込んのりこんだのならまだよかったけれども、片方かたほうの輪わだけが泥どろの中なかへぐしゃぐしゃと滅めつり込むごむと同時どうじに、片方かたほうは依然いぜんとして固いかたい土つちに支えささえられている。
余よは泥どろ側がわに席せきを占めしめていた。
すると足あしが土つちと擦れ擦れすれすれになるまで車くるまが濘海に沈んしずんで来きた。
番頭ばんとうは余よの頭あたまの上うえにあるごとく感ぜかんぜられた。
余よはたまらなくなって、泥どろの中なかへ飛び下りとびおりた。
五十ごじゅう
原はらが急きゅうに叢くさむらに変化へんかするのは不思議ふしぎであった。
ここにこれだけの樹きが生えるはえるなら、原はらの中なかももう少しすこし茂っしげるって然るしかるべきであると気きがついた時じはすでに車くるまの両側りょうがわが塞がっふさがっていた。
竹たけこそないが、藪やぶと云ういうのが適当てきとうと思わおもわれるくらいな緑みどりの高さたかさだから、日本にっぽんの田舎道いなかみちを歩くあるくようなおとなしい感じかんじである。
ところどころ細いほそい枝えだなどが列れつを外れはずれて往来おうらいへ差し出さしだしているのを、通りとおりながら潜り抜けくぐりぬけたり、撓わしなわしたりして行きいき過ぎるすぎるのが何なんより愉快ゆかいだった。
路みちも先刻せんこくよりは平たくひらたくなって、真白まっしろに草くさと木の間このまを貫いつらぬいている。
ある所ところには大きなおおきな松まつがあった。
葉はの長さながさが日本にっぽんの倍ばいもあって色いろは海辺うみべのそれよりも黒いくろい。
ある所ところは荒れ果てあれはてた庭園ていえんの体からだに見えみえた。
そう云ういう場所ばしょへ来るくると、馬車ばしゃの上うえから低いひくい雑木ぞうきを一目いちもくに二に丁ていも眺めながめられる。
向うむこうに細長いほそながい石碑せきひが立ったっていた。
模様もようだけが薄くうすく見えるみえるが、刻字こくじは無論むろん分らわからなかった。
しばらくすると、路みちが尽きつきて高いたかい門もんの下したへ出でた。
門もんは石いしを畳んたたんだ三さんつのアーチあーちからでき上っできあがっているが、アーチあーちの下したまで行くいくにはだいぶ高いたかい石段いしだんを登らのぼらなくてはならない。
門もんの左右さゆうには大きなおおきな竜りゅうが壁かべに彫り込んほりこんであった。
これが正門せいもんですがね、締切りしめきりだから壁かべへ添いそいて廻るまわるんですと云っいって、馬うまを土堤どていのような高いたかい所ところへ上げあげた。
右みぎは煉瓦れんがの壁かべである。
それがところどころ崩れくずれかかっている。
左ひだりはだらだらの谷たにで野葡萄のぶどうや雑木ぞうきが隙間すきまなく立て込んたてこんだ。
路みちは馬車ばしゃが辛うじてかろうじて通れるとおれるぐらい狭いせまい。
そこを廻っまわって横手よこての門もんから車くるまを捨てすてて這入るはいると、眼めがすっきりと静まっしずまった。
一抱いちほうもある松まつばかりが遥はるかの向むかいまで並んならんでいる下したを、長方形ちょうほうけいの石いしで敷きつめしきつめた間まから、短いみじかい草くさが物寂びものさびて生えはえている。
靴くつの底そこが石いしに落ちおちて一歩いちほごとに鳴っなった。
一丁いちちょうばかり行っいって正面しょうめんに曲るまがると、左右さゆうに石いしの象ぞうがいた。
大きくおおきくって、鷹揚おうようで、しかも石いしだからはなはだ静かしずかである。
突き当りつきあたりにある楼門ろうもんのような所ところへ這入っはいったら、今度こんどは大きなおおきな亀かめの背せに頌徳しょうとく碑ひが立てたててあった。
亀かめも大きかっおおきかったが、碑ひも高いたかい。
蒙古もうこと満洲まんしゅうと支那しなの三さん国くに語ごで文章ぶんしょうが刻こくってある。
後あとへ出るでると隆たかし恩おん門もんと云ういうのが空そらに聳えそびえていた。
積み上げつみあげたアーチあーちの上うえを見るみると三さん層そうあった。
左右さゆうに回らしまわらしてある壁かべも尋常じんじょうではない。
あの上うえを歩いあるいて見みたいと番頭ばんとうに頼むたのむと、ええ今いま乗っのって見みましょうと云っいって中なかへ這入っはいった。
中なかは真四角しんしかくに仕切っしきってある。
正面しょうめんにある廟びょうの横よこから石段いしだんを登っのぼって壁かべの上うえへ出るでると、廟びょうの後あとだけが半月はんつき形かたちになっていわゆる北陵ほくりょうを取り巻いとりまいている。
支那しなの小僧こぞうが跣足せんそくで跟いて来きた。
番頭ばんとうを捕まえつかまえてしきりにこそこそ何なんか云っいっている。
番頭ばんとうに聞くきくと、ええなにと曖昧あいまいな答こたえをする。
また聞き返しききかえしたらこう云っいった。
――屋根やねの廂ひさしの所ところに着けつけてある金きんの玉たまを、この間ま一いちつ落ちおちた時じに、拾っじゅうっておいたから、買っかってくれと云ういうんです。
表ひょう向むかいにすると厳しいきびしいものですから、こうして見物けんぶつに来きた時じ、そうっと売りつけよううりつけようてんで、支那しな人ひとは実じつに狡猾こうかつですからね。
支那しなの陵りょう守まもるも無論むろん狡猾こうかつだろうが、金きんの玉たまを安くやすく買おうかおうと云ういう番頭ばんとうもあまり正直しょうじきな方ほうじゃない。
番頭ばんとうはそっと銭せんをやって金きんの玉たまをポッケットぽっけっとへ入れいれたようである。
壁かべの上うえを歩くあるくと太いふとい樹きが眼めの下したに見えるみえる。
桑くわがあんなに大きくおおきくなってますと番頭ばんとうが指しさした。
なるほど一抱いちほうもある。
この四角しかくな壁かべの一いち側がわは長さながさどのくらいかねと尋ねるたずねると、へえ今いま勘定かんじょうして見みましょうと云いいいながら、一いち歩あゆみ二に尺さしの割わりで、一二三四いちにさんよんと歩いあるいて行っいった。
余よは壁かべの外そとを見下しみくだして、そこらを絡んからんでいる赤いあかい木の実このみを眺めながめていた。
せっかく番頭ばんとうの勘定かんじょうした壁かべの長さながさは忘れわすれてしまった。
五十一ごじゅういち
撫順ぶじゅんは石炭せきたんの出るでる所ところである。
そこの坑こう長ながを松田まつださんと云っいって、橋本はしもとが満洲まんしゅうに来るくる時じ、船中せんちゅうで知己ちきになったとかで、その折おりの勧誘かんゆう通りとおり明日あす行くいくと云ういう電報でんぽうを打っうった。
汽車きしゃに乗るのると西洋せいよう人ひとが二人ふたりいた。
朝あさ早いはやいので、客車きゃくしゃ内うちで持参じさんの弁当べんとうか何なんか食っしょくっていたが、撫順ぶじゅんに着いついたら我々われわれといっしょに汽車きしゃを降りふりた。
出迎えでむかえのものが挨拶あいさつしているところを聞いきいて見るみると、そのうちの一人ひとりは奉天ほうてんの英国えいこく領事りょうじであった。
我々われわれもこの英えい人ひと等とうといっしょに炭坑たんこうの事務室じむしつに行っいって、二に階かいで松田まつださんに逢っあった。
松田まつださんは縞しまの縮ちぢみの襯衣の上うえに薄いうすい背広せびろを着きていた。
背せの低いひくい気軽きがるな人ひとなので、とうてい坑こう長ながとは思えおもえなかった。
我々われわれと英国人えいこくにんを二に所ところに置いおいて、双方そうほうへ向けむけて等分とうぶんに話はなしをした。
橋本はしもとも余よも英語えいごはいっさい口くちにしなかった。
したがって英えい人ひととは言葉ことばを交えまじえなかった。
やがて松田まつださんが案内あんないになって表ひょうへ出でた。
貯水池ちょすいちの土堤どていへ上るのぼると、市街しがいが一目いちもくに見えるみえる。
まだ完全かんぜんにはでき上っできあがっていないけれども、ことごとく煉瓦れんが作りつくりである上うえに、スチュジオすちゅじおにでも載りのりそうな建築けんちくばかりなので、全くまったく日本人にっぽんにんの経営けいえいしたものとは思わおもわれない。
しかもその洒落しゃれた家いえがほとんど一いち軒のきごとに趣おもむきを異ことにして、十じゅう軒のき十色じゅうしょくとも云ういうべき風かぜに変化へんかしているには驚いおどろいた。
その中なかには教会きょうかいがある、劇場げきじょうがある、病院びょういんがある、学校がっこうがある、坑こう員いんの邸宅ていたくは無論むろんあったが、いずれも東京とうきょうの山の手やまのてへでも持っもって来きて眺めながめたいものばかりであった。
松田まつださんに聞いきいたら皆みな日本にっぽんの技師ぎしの拵えこしらえたものだと云わいわれた。
市街しがいから眼めを放しはなして反対はんたいの方角ほうがくを眺めるながめると、低いひくい丘おかの起伏きふくしている向うむこうに煙突えんとつの頭あたまが二にカ所かしょほど微かかすかに見えるみえる。
双方そうほう共とも距離きょりはたしかに一いち里さと以上いじょうあるんだから広いひろい炭坑たんこうに違いない。
松田まつださんの話しはなしによると、どこをどう掘っほっても一面いちめんの石炭せきたんだから、それを掘ほり尽くすつくすには百ひゃく年ねんでも二百にひゃく年ねんでもかかるんだそうである。
我々われわれの立ったっているつい傍そばでも、八百はっぴゃく尺さしと九百きゅうひゃく尺さしのシャフトしゃふとを抜いぬいていた。
事務所じむしょへ帰っかえって午餐ごさんの御馳走ごちそうになったとき英国人えいこくにんは箸はしも持てもてず米べいも喰えくえず気の毒きのどくなものであった。
この領事りょうじは支那しなに十八じゅうはち年ねんとかいたと云ういうのに、二に本ほんの箸はしを如何いかがともする事ことのできないのは案外あんがいである。
その代りかわり官話かんわは達者たっしゃだそうだ。
松田まつださんは用事ようじが忙しいいそがしいとかで、食卓しょくたくへは出でて来きられなかった。
接待せったい役やくとして松田まつださんに代っかわった人ひとは、英語えいごで英国人えいこくにんに話しはなしたり、日本語にっぽんごで余よ等とうに話しはなしたりはなはだ多事たじであった。
けれども橋本はしもと氏しも余よもこの時じまで英語えいごはいっさい使わつかわなかった。
元来がんらい英えい人ひとと云ういうものはプラウドぷらうどな気風きふうを帯びおびていて、紹介しょうかいされない以上いじょうは、他ほかに向っむかって容易よういに口くちを利かりかない。
だから我々われわれも英えい人ひとに対したいしては同様どうようにプラウドぷらうどである。
食後しょくごは坑内こうないを見物けんぶつする事ことになった。
田島たじま君きみという技師ぎしが案内あんないをしてくれた。
入口いりぐちで安全灯あんぜんとうを五ごつ点しともして、杖つえを五本ごぽん用意よういして、それを各自かくじに分けわけて、一いち間ま四方しほうぐらいの穴あなをだらだらと下りくだりた。
十じゅう四よん五ご間ま行くいくか行かいかないに坑こうのなかは真暗まっくらになった。
カンテラかんてらの灯あかりは足元あしもとを照らすてらすにさえ不足ふそくである。
けれども路みちは存外ぞんがい平らたいらで、天井てんじょうもかなり高かったかかった。
右みぎへ曲っきょくって、探るさぐるように下りくだりて行くいくと、余よのすぐ前まえにいる田島たじま君きみがぴたりととまった。
余よもとまった。
案内あんないがとまったから、あとから続いつづいて来きたものもことごとくとまった。
ここに腰かけこしかけがあります。
坑こうへ這入るはいるものはここで五六ごろく分ぶん休んやすんで眼めを慣らすならすんですと云っいった。
五ご人ひとは休みやすみながらカンテラかんてらの灯あかりで互たがいの顔かおを見合わしみあわした。
みんな立ったって黙っだまっている。
腰こしをおろすものは一人ひとりもない。
静かしずかな中なかで時じの移るうつるのは多少たしょう凄かっすごかった。
そのうち暗いくらい所ところが自然しぜんと明るくあかるくなって来きた。
田島たじま君きみはやがて、もうよかろうと云っいって、またすぐ右みぎへ曲っきょくって、奥おくへ奥おくへと下りくだりて行っいった。
余よも続いつづいて下りくだりた。
あとの三さん人ひとも続いつづいて下りくだりて来きた。
ここまで新聞しんぶんに書いかいて来るくると、大晦日おおみそかになった。
二に年ねんに亘るわたるのも変へんだからひとまずやめる事ことにした。
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