二
第 2 章
小蒸気を出て鉄嶺丸の舷側を上るや否や、商船会社の大河平さんが、どうか総裁とごいっしょのように伺いましたがと云われる。
船が動き出すと、事務長の佐治君が総裁と同じ船でおいでになると聞いていましたがと聞かれる。
船長さんにサルーンの出口で出逢うと総裁と御同行のはずだと誰か云ってたようでしたがと質問を受ける。
こうみんなが総裁総裁と云うと是公と呼ぶのが急に恐ろしくなる。
仕方がないから、ええ総裁といっしょのはずでしたが、ええ総裁と同じ船に乗る約束でしたがと、たちまち二十五年来用い慣れた是公を倹約し始めた。
この倹約は鉄嶺丸に始まって、大連から満洲一面に広がって、とうとう安東県を経て、韓国にまで及んだのだから少からず恐縮した。
総裁という言葉は、世間にはどう通用するか知らないが、余が旧友中村是公を代表する名詞としては、あまりにえら過ぎて、あまりに大袈裟で、あまりに親しみがなくって、あまりに角が出過ぎている。
いっこう味がない。
たとい世間がどう云おうと、余一人はやはり昔の通り是公是公と呼び棄てにしたかったんだが、衆寡敵せず、やむをえず、せっかくの友達を、他人扱いにして五十日間通して来たのは遺憾である。
船の中は比較的楽だった。
二百十日の明る日に神戸を立ったのだから、多少の波風は無論おいでなさるんだろうと思ってちゃんと覚悟をきめていたところが、天気が存外呑気にできたもので、神戸から大連に着くまでたいていは鈍り返っていた。
甲板の上に若い英吉利の男が犬を抱いて穏かに寝ていたと云ったら、海のようすもたいていは想像されるだろうと思う。
ありゃ何ですかと事務長の佐治さんに聞くと、え、あれは英国の副領事だそうですと、佐治さんが答えた。
副領事かも知れないが余には美しい二十一二の青年としか思われなかった、これに反して犬はすこぶる妙な顔をしていた。
もっともブルドッグだから両親からしてすでに普通の顔とは縁の遠い方に違いない。
したがって特にこいつだけを責めるのは残酷だが、一方から云うと、また不思議に妙な顔をしているんだからやむをえない。
この犬はその後大連に渡って大和ホテルに投宿した。
そうとはちっとも知らずに、食堂に入って飯を食っていると、突然この顔に出食わして一驚を喫した。
固より犬の食堂じゃないんだけれども、犬の方で間違えて這入って来たものと見える。
もっとも彼の主人もその時食堂にいた。
主人は多数の人間のいるところで、犬と高声に談判するのを非紳士的と考えたと見えて、いきなりかの妙な顔を胴ぐるみ脇の下に抱えて食堂の外に出て行った。
その退却の模様はすこぶる優美であった。
彼は重い犬をあたかも風呂敷包のごとく安々と小脇に抱えて、多くの人の並んでいる食卓の間を、足音も立てず大股に歩んで戸の外に身体を隠した。
その時犬はわんとも云わなかった。
ぐうとも云わなかった。
あたかも弾力ある暖かい器械の、素直に自然の力に従うように、おとなしく抱かれて行った。
顔はたびたび云う通りはなはだ妙だが、行状に至ってはすこぶる気高いものであった。
余はその後ついにこの犬に逢う機会を得なかった。