三
第 3 章
退屈だから甲板に出て向うを見ると、晴れたとも曇ったとも方のつかない天気の中に、黒い影が煙を吐いて、静かな空を濁しながら動いて行く。
しばらくその痕を眺めていたが、やがてまた籐椅子の上に腰をおろした。
例の英吉利の男が、今日は犬を椅子の足に鎖で縛りつけて、長い脛をその上に延ばして書物を読んでいる。
もう一人の異人はサルーンで何かしきりに認め物をしている。
その妻君はどこへ行ったか見えない。
亜米利加の宣教師夫婦は席を船長室の傍へ移した。
甲板の上はいつもの通り無事であった。
ただ機関の音だけが足の裏へ響けるほど猛烈に鳴り渡った。
その響の中でいつの間にかうとうとした。
眼が覚めてから、サルーンに入って亜米利加の絵入りの雑誌を引っ剥がして見た。
傍には日本の雑誌も五六冊片寄せてあった。
いずれも佐治文庫と云う判が押してある。
これは事務長の佐治さんが、自分で読むために上陸の際に買入れて、読んでしまうと船の図書館に寄附するのだと佐治さん自身から聞いた。
佐治さんは文学好と見えて、余の著書なども読んでいる。
友人の畔柳芥舟と同郷だと云うから、差し向いで芥舟の評判を少しやった。
また室を出て海を眺めた。
すると先刻黒い影を波の上に残して、遠くの向うを動いていた船が、すぐ眼の前に見える。
大きさは鉄嶺丸とほぼ同じぐらいに思われるが、船足がだいぶ遅いと見えて、しばらくの間にもうこれほど追つかれたのである。
欄干に頬杖を突いて、見ていると鉄嶺丸が刻一刻と後から逼って行くのがよく分る。
しまいには黄色い文字で書いた営口丸の三字さえ明かに読めるようになった。
やがて余の船の頭が営口丸の尻より先へ出た。
そうして、尻から胴の方へじりじりと競り上げて行った。
船は約一丁を隔ててほとんど並行の姿勢で進行している。
もう七八分すると、余の船は全く営口丸を乗り切る事ができそうに思われた。
時に約一丁もあろうと云う船と船の間隔が妙に逼って来た。
向うの甲板にいる乗客の影が確に勘定ができるようになった。
見るとことごとく西洋人である。
中には眼鏡を出してこっちを眺めているのもあった。
けれども見るうちに眼鏡は不必要になった。
髪の色も眼鼻立も甲板に立っている人は御互に鮮かな顔を見合せるほど船は近くなった。
その時は全く美しかった。
と思うと、船は今までよりも倍以上の速力を鼓して刹那に近寄り始めた。
海の水を細い谷川のように仕切って、営口丸の船体が、六尺ほどの眼の前に黒く切っ立った時は、ああ打つかるなと思った。
途端に向うの舳は余の眼を掠めて過ぎ去りつつ、逼りつつ、とうとう中等甲板の角の所まで行ってどさりと当った。
同時に甲板の上に釣るしてあった端艇が二艘ほどでんぐり返った。
端艇を繋いであった鉄の棒は無雑作に曲った。
営口丸の船員は手を拍ってわあと囃し立てた。
余と並んで立っていた異人が、妙な声を出してダム何とか云った。
一時間の後佐治さんがやって来て、夏目さん身をかわすのかわすと云う字はどう書いたら好いでしょうと聞くから、そうですねと云って見たが、実は余も知らなかった。
為替の替せると云う字じゃいけませんかとはなはだ文学者らしからぬ事を答えると、佐治さんは承知できない顔をして、だってあれは物を取り替える時に使うんでしょうとやり込めるから、やむをえず、じゃ仮名が好いでしょうと忠告した。
佐治さんは呆れて出て行った。
後で聞くと、衝突の始末を書くので、その中に、本船は身をかわしと云う文句を入れたかったのだそうである。