六
第 6 章
湯を立ててもらって、久しぶりに塩気のない真水の中に長くなって寝ている最中に、湯殿の戸をこつこつ叩くものがある。
風呂場で訪問を受けた試しはいまだかつてないんだから、湯槽の中で身を浮かしながら少々逡巡していると、叩く方ではどうあっても訪問の礼を尽くさねばやまぬという決心と見えて、なおのこと、こつこつやる。
いくらこつこつやったって、まさか赤裸で飛び出して、室の錠を明ける訳にも行かないから、風呂の中から大きな声で、おい何だと用事を聞いて見た。
すると摺硝子の向側で、ちょっと明けなさいと云う声がする。
この声なら明けても差支えないと思って、身体全体から雫を垂らしながら、素裸でボールトを外すと、はたして是公が杖を突いて戸口に立っていた。
来るなら電報でもちょっとかければ好いものをと云う。
どこへ行っていたんだと聞くと、ベースボールを観て、それから舟を漕いでいたと云う挨拶である。
飯を食ったら遊びに来なさいと案内をするから、よろしいと答えてまた戸を締めた。
締めながら、おいこの宿は少し窮屈だね、浴衣でぶらぶらする事は禁制なんだろうと聞いたら、ここが厭なら遼東ホテルへでも行けと云って帰って行った。
例刻に食堂へ下りて飯を食ったら、知らない西洋人といっしょの卓へ坐らせられた。
その男が御免なさい、どうも嚏が出てと、手帛を鼻へ当てたが、嚏の音はちっともしなかったから、余はさあさあと、暗に嚏を奨励しておいた。
この男は自分で英人だと名乗った。
そうして御前は旅順を見たかと余に尋ねた。
旅順を見ないなら教えるが、いつの汽車で行って、どことどこを見て、それからいつの汽車で帰るが好いと、自分のやった通りを委しく語って聞かせた。
余はなるほどなるほどと聞いていた。
次に御前は門司を見たかと聞いた。
次にあすこの石炭はもう沢山は出まいと聞いた。
沢山は出まいと答えた。
実は沢山出るか出ないか知らなかったのである。
しばらくして、君は旅順に行った事があるかとまた同じ事を尋ね出した。
少々変だが面倒だから、いやまだだと、こっちも前同様な返事をしておいた。
すると旅順に行くには朝八時と十一時の汽車があって……とまた先刻と寸分違わないような案内者めいた事を云って聞かせた。
先が先だから余も依然としてなるほどなるほどを繰り返した。
最後に突然御前は日本人かと尋ねた。
余はそうだと正直なところを答えたようなものの、今までは何国人と思われていたんだろうかと考えると、多少心細かった。
余は日本人なりの答を得るや否や、この男が、おれも四十年前横浜に行った事があるが、どうも日本人は叮嚀で親切で慇懃で実に模範的国民だなどとしきりに御世辞を振り廻し始めた。
せっかくだとは思ったが、是公との約束もある事だから、好い加減なところで談話を切り上げて、この老人と別れた。
表へ出るとアカシヤの葉が朗らかな夜の空気の中にしんと落ちついて、人道を行く靴の音が向うから響いて来る。
暗い所から白服を着けた西洋人が馬車で現れた。
ホテルへ帰って行くのだろう。
馬の蹄は玄関の前で留まったらしい。
是公の家の屋根から突出した細長い塔が、瑠璃色の大空の一部分を黒く染抜いて、大連の初秋が、内地では見る事のできない深い色の奥に、数えるほどの星を輝つかせていた。