坊っちゃん

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二

第 2 章
ぶうと云っいって汽船きせんがとまると、艀はしけが岸きしを離れはなれて、漕ぎ寄せこぎよせて来きた。
船頭せんどうは真っ裸まっぱだかに赤ふんどしあかふんどしをしめている。
野蛮やばんな所ところだ。
もっともこの熱ねつさでは着物きものはきられまい。
日ひが強いつよいので水みずがやに光るひかる。
見つめみつめていても眼めがくらむ。
事務員じむいんに聞いきいてみるとおれはここへ降りるおりるのだそうだ。
見るみるところでは大森おおもりぐらいな漁村ぎょそんだ。
人ひとを馬鹿ばかにしていらあ、こんな所ところに我慢がまんが出来るできるものかと思っおもったが仕方しかたがない。
威勢いせいよく一いち番ばんに飛び込んとびこんだ。
続つづくづいて五六ごろく人ひとは乗っのったろう。
外そとに大きなおおきな箱ばこを四よんつばかり積み込んつみこんで赤あかふんは岸きしへ漕ぎこぎ戻しもどして来きた。
陸りくへ着いついた時じも、いの一番いのいちばんに飛び上がっとびあがって、いきなり、磯いそに立ったっていた鼻はなたれ小僧こぞうをつらまえて中学校ちゅうがっこうはどこだと聞いきいた。
小僧こぞうはぼんやりして、知らしらんがの、と云っいった。
気きの利かりかぬ田舎いなかものだ。
猫ねこの額がくほどな町内ちょうないの癖くせに、中学校ちゅうがっこうのありかも知らしらぬ奴やつがあるものか。
ところへ妙みょうな筒つつっぽうを着きた男おとこがきて、こっちへ来いこいと云ういうから、尾おいて行っいったら、港屋みなとやとか云ういう宿屋やどやへ連れつれて来きた。
やな女おんなが声こえを揃えそろえてお上がりあがりなさいと云ういうので、上がるあがるのがいやになった。
門口かどぐちへ立ったったなり中学校ちゅうがっこうを教えろおしえろと云っいったら、中学校ちゅうがっこうはこれから汽車きしゃで二に里さとばかり行かいかなくっちゃいけないと聞いきいて、なお上がるあがるのがいやになった。
おれは、筒つつっぽうを着きた男おとこから、おれの革鞄かわかばんを二につ引きたくっひきたくって、のそのそあるき出しだした。
宿屋やどやのものは変へんな顔かおをしていた。
停車場ていしゃじょうはすぐ知れしれた。
切符きっぷも訳わけなく買っかった。
乗り込んのりこんでみるとマッチまっち箱ばこのような汽車きしゃだ。
ごろごろと五ご分ぶんばかり動いうごいたと思っおもったら、もう降りふりなければならない。
道理どうりで切符きっぷが安いやすいと思っおもった。
たった三さん銭せんである。
それから車くるまを傭っやとって、中学校ちゅうがっこうへ来きたら、もう放課後ほうかごで誰だれも居いない。
宿直しゅくちょくはちょっと用達ようたしに出でたと小使こづかいが教えおしえた。
随分ずいぶん気楽きらくな宿直しゅくちょくがいるものだ。
校長こうちょうでも尋ねようたずねようかと思っおもったが、草臥れくたびれたから、車くるまに乗っのって宿屋やどやへ連れつれて行けいけと車夫しゃふに云いいい付けつけた。
車夫しゃふは威勢いせいよく山城屋やましろやと云ういううちへ横付けよこづけにした。
山城屋やましろやとは質屋しちやの勘太郎かんたろうの屋号やごうと同じおなじだからちょっと面白くおもしろく思っおもった。
何なんだか二に階かいの楷かい子こ段だんの下したの暗いくらい部屋へやへ案内あんないした。
熱くあつくって居いられやしない。
こんな部屋へやはいやだと云っいったらあいにくみんな塞がっふさがっておりますからと云いいいながら革鞄かわかばんを抛り出しほうりだしたまま出でて行っいった。
仕方しかたがないから部屋へやの中なかへはいって汗あせをかいて我慢がまんしていた。
やがて湯ゆに入れいれと云ういうから、ざぶりと飛び込んとびこんで、すぐ上がっあがった。
帰りがけかえりがけに覗いのぞいてみると涼しすずしそうな部屋へやがたくさん空いむなしいている。
失敬しっけいな奴やつだ。
嘘うそをつきゃあがった。
それから下女げじょが膳ぜんを持っもって来きた。
部屋へやは熱ねつつかったが、飯めしは下宿げしゅくのよりも大分おおいた旨かっうまかった。
給仕きゅうじをしながら下女げじょがどちらからおいでになりましたと聞くきくから、東京とうきょうから来きたと答えこたえた。
すると東京とうきょうはよい所ところでございましょうと云っいったから当り前あたりまえだと答えこたえてやった。
膳ぜんを下げさげた下女げじょが台所だいどころへいった時分じぶん、大きなおおきな笑い声わらいごえが聞えきこえた。
くだらないから、すぐ寝ねたが、なかなか寝ねられない。
熱いあついばかりではない。
騒々しいそうぞうしい。
下宿げしゅくの五ご倍ばいぐらいやかましい。
うとうとしたら清きよしの夢ゆめを見みた。
清きよしが越後えちごの笹飴ささあめを笹ささぐるみ、むしゃむしゃ食っしょくっている。
笹ささは毒どくだからよしたらよかろうと云ういうと、いえこの笹ささがお薬くすりでございますと云っいって旨むねそうに食っしょくっている。
おれがあきれ返っあきれかえって大きなおおきな口くちを開いひらいてハハハハははははと笑っわらったら眼めが覚めさめた。
下女げじょが雨戸あまどを明けあけている。
相そう変らかわらず空そらの底そこが突き抜けつきぬけたような天気てんきだ。
道中どうちゅうをしたら茶代ちゃだいをやるものだと聞いきいていた。
茶代ちゃだいをやらないと粗末そまつに取り扱わとりあつかわれると聞いきいていた。
こんな、狭くせまくて暗いくらい部屋へやへ押し込めるおしこめるのも茶代ちゃだいをやらないせいだろう。
見すぼらしいみすぼらしい服装ふくそうをして、ズックずっくの革鞄かわかばんと毛繻子もうしゅすの蝙蝠傘こうもりがさを提げさげてるからだろう。
田舎者いなかものの癖くせに人ひとを見み括っくくったな。
一番いちばん茶代ちゃだいをやって驚かしおどろかしてやろう。
おれはこれでも学資がくしのあまりを三十さんじゅう円えんほど懐ふところに入れいれて東京とうきょうを出でて来きたのだ。
汽車きしゃと汽船きせんの切符きっぷ代だいと雑費ざっぴを差し引いさしひいて、まだ十四じゅうよん円えんほどある。
みんなやったってこれからは月給げっきゅうを貰うもらうんだから構わかまわない。
田舎者いなかものはしみったれだから五ご円えんもやれば驚ろいおどろいて眼めを廻すまわすに極っきょくっている。
どうするか見ろみろと済しなして顔かおを洗っあらって、部屋へやへ帰っかえって待っまってると、夕べゆうべの下女げじょが膳ぜんを持っもって来きた。
盆ぼんを持っもって給仕きゅうじをしながら、やににやにや笑っわらってる。
失敬しっけいな奴やつだ。
顔かおのなかをお祭りおまつりでも通りゃとおりゃしまいし。
これでもこの下女げじょの面めんよりよっぽど上等じょうとうだ。
飯めしを済ましすましてからにしようと思っおもっていたが、癪しゃくに障っさわったから、中途ちゅうとで五ご円えん札さつを一いち枚ばい出しだして、あとでこれを帳場ちょうばへ持っもって行けいけと云っいったら、下女げじょは変へんな顔かおをしていた。
それから飯めしを済ましすましてすぐ学校がっこうへ出懸けでかけた。
靴くつは磨いみがいてなかった。
学校がっこうは昨日きのう車くるまで乗りつけのりつけたから、大概たいがいの見当けんとうは分っわかっている。
四つ角よつかどを二三にさん度ど曲がっまがったらすぐ門もんの前まえへ出でた。
門もんから玄関げんかんまでは御影石みかげいしで敷きつめしきつめてある。
きのうこの敷石しきいしの上うえを車くるまでがらがらと通っとおった時じは、無暗むやみに仰山ぎょうさんな音おとがするので少しすこし弱っよわった。
途中とちゅうから小倉おぐらの制服せいふくを着きた生徒せいとにたくさん逢っあったが、みんなこの門もんをはいって行くいく。
中なかにはおれより背せが高くたかくって強きょうそうなのが居るいる。
あんな奴やつを教えるおしえるのかと思っおもったら何なんだか気味きみが悪るくわるくなった。
名刺めいしを出しだしたら校長こうちょう室むろへ通しとおした。
校長こうちょうは薄うす髯ひげのある、色いろの黒いくろい、目めの大きなおおきな狸たぬきのような男おとこである。
やにもったいぶっていた。
まあ精出しせいだして勉強べんきょうしてくれと云っいって、恭しくうやうやしく大きなおおきな印しるしの捺なつった、辞令じれいを渡しわたした。
この辞令じれいは東京とうきょうへ帰るかえるとき丸めまるめて海うみの中なかへ抛り込んほうりこんでしまった。
校長こうちょうは今いまに職員しょくいんに紹介しょうかいしてやるから、一々いちいちその人ひとにこの辞令じれいを見せるみせるんだと云っいって聞かしきかした。
余計よけいな手数てすうだ。
そんな面倒めんどうな事ことをするよりこの辞令じれいを三さん日間かかん職員室しょくいんしつへ張り付けるはりつける方ほうがましだ。
教員きょういんが控ひかえ所ところへ揃うそろうには一いち時間じかん目めの喇叭らっぱが鳴らならなくてはならぬ。
大分おおいた時間じかんがある。
校長こうちょうは時計とけいを出しだして見みて、追々おいおいゆるりと話すはなすつもりだが、まず大体だいたいの事ことを呑み込んのみこんでおいてもらおうと云っいって、それから教育きょういくの精神せいしんについて長いながいお談義だんぎを聞かしきかした。
おれは無論むろんいい加減いいかげんに聞いきいていたが、途中とちゅうからこれは飛んとんだ所ところへ来きたと思っおもった。
校長こうちょうの云ういうようにはとても出来できない。
おれみたような無鉄砲むてっぽうなものをつらまえて、生徒せいとの模範もはんになれの、一いち校こうの師表しひょうと仰があおがれなくてはいかんの、学問がくもん以外いがいに個人こじんの徳化とっかを及ぼさおよぼさなくては教育者きょういくしゃになれないの、と無暗むやみに法外ほうがいな注文ちゅうもんをする。
そんなえらい人ひとが月給げっきゅう四十よんじゅう円えんで遥々はるばるこんな田舎いなかへくるもんか。
人間にんげんは大概たいがい似にたもんだ。
腹はらが立てたてば喧嘩けんかの一いちつぐらいは誰だれでもするだろうと思っおもってたが、この様子ようすじゃめったに口くちも聞けきけない、散歩さんぽも出来できない。
そんなむずかしい役やくなら雇うやとう前まえにこれこれだと話すはなすがいい。
おれは嘘うそをつくのが嫌いきらいだから、仕方しかたがない、だまされて来きたのだとあきらめて、思い切りおもいきりよく、ここで断わっことわって帰っかえっちまおうと思っおもった。
宿屋やどやへ五ご円えんやったから財布さいふの中なかには九きゅう円えんなにがししかない。
九きゅう円えんじゃ東京とうきょうまでは帰れかえれない。
茶代ちゃだいなんかやらなければよかった。
惜しいおしい事ことをした。
しかし九きゅう円えんだって、どうかならない事ことはない。
旅費りょひは足りたりなくっても嘘うそをつくよりましだと思っおもって、到底とうていあなたのおっしゃる通りとおりにゃ、出来できません、この辞令じれいは返しかえしますと云っいったら、校長こうちょうは狸たぬきのような眼めをぱちつかせておれの顔かおを見みていた。
やがて、今いまのはただ希望きぼうである、あなたが希望きぼう通りとおり出来できないのはよく知っしっているから心配しんぱいしなくってもいいと云いいいながら笑っわらった。
そのくらいよく知っしってるなら、始めはじめから威嚇いかくさなければいいのに。
そう、こうする内うちに喇叭らっぱが鳴っなった。
教場きょうじょうの方ほうが急きゅうにがやがやする。
もう教員きょういんも控ひかえ所ところへ揃いそろいましたろうと云ういうから、校長こうちょうに尾おいて教員きょういん控ひかえ所ところへはいった。
広いひろい細長いほそながい部屋へやの周囲しゅういに机つくえを並べならべてみんな腰こしをかけている。
おれがはいったのを見みて、みんな申し合せもうしあわせたようにおれの顔かおを見みた。
見世物みせものじゃあるまいし。
それから申し付けもうしつけられた通りとおり一人一人ひとりひとりの前まえへ行っいって辞令じれいを出しだして挨拶あいさつをした。
大概たいがいは椅子いすを離れはなれて腰こしをかがめるばかりであったが、念ねんの入っはいったのは差し出しさしだした辞令じれいを受け取っうけとって一応いちおう拝見はいけんをしてそれを恭しくうやうやしく返却へんきゃくした。
まるで宮芝居みやしばいの真似まねだ。
十五じゅうご人ひと目めに体操たいそうの教師きょうしへと廻っまわって来きた時じには、同じおなじ事ことを何なん返かえしもやるので少々しょうしょうじれったくなった。
向うむこうは一度いちどで済むすむ。
こっちは同じおなじ所作しょさを十五じゅうご返かえし繰り返しくりかえしている。
少しすこしはひとの了見りょうけんも察しさっしてみるがいい。
挨拶あいさつをしたうちに教頭きょうとうのなにがしと云ういうのが居いた。
これは文学ぶんがく士しだそうだ。
文学ぶんがく士しと云えいえば大学だいがくの卒業生そつぎょうせいだからえらい人ひとなんだろう。
妙みょうに女おんなのような優しいやさしい声こえを出すだす人ひとだった。
もっとも驚いおどろいたのはこの暑いあついのにフランネルふらんねるの襯衣を着きている。
いくらか薄いうすい地ちには相違そういなくっても暑いあついには極っきょくってる。
文学ぶんがく士しだけにご苦労ごくろう千万せんまんな服装ふくそうをしたもんだ。
しかもそれが赤あかシャツしゃつだから人ひとを馬鹿ばかにしている。
あとから聞いきいたらこの男おとこは年ねんが年中ねんじゅう赤あかシャツしゃつを着るきるんだそうだ。
妙みょうな病気びょうきがあった者ものだ。
当人とうにんの説明せつめいでは赤あかは身体しんたいに薬くすりになるから、衛生えいせいのためにわざわざ誂あつらえらえるんだそうだが、入らはいらざる心配しんぱいだ。
そんならついでに着物きものも袴はかまも赤あかにすればいい。
それから英語えいごの教師きょうしに古賀こがとか云ういう大変たいへん顔色かおいろの悪るいわるい男おとこが居いた。
大概たいがい顔かおの蒼いあおい人ひとは瘠せやせてるもんだがこの男おとこは蒼くあおくふくれている。
昔むかし小学校しょうがっこうへ行くいく時分じぶん、浅井あさいの民みんさんと云ういう子こが同級生どうきゅうせいにあったが、この浅井あさいのおやじがやはり、こんな色つやいろつやだった。
浅井あさいは百姓ひゃくしょうだから、百姓ひゃくしょうになるとあんな顔かおになるかと清きよしに聞いきいてみたら、そうじゃありません、あの人ひとはうらなりの唐茄子とうなすばかり食べるたべるから、蒼くあおくふくれるんですと教えおしえてくれた。
それ以来いらい蒼くあおくふくれた人ひとを見れみれば必ずかならずうらなりの唐茄子とうなすを食っしょくった酬いむくいだと思うおもう。
この英語えいごの教師きょうしもうらなりばかり食っしょくってるに違いちがいない。
もっともうらなりとは何なんの事ことか今いまもって知らしらない。
清きよしに聞いきいてみた事ことはあるが、清きよしは笑っわらって答えこたえなかった。
大方おおかた清きよしも知らしらないんだろう。
それからおれと同じおなじ数学すうがくの教師きょうしに堀田ほったというのが居いた。
これは逞しいたくましい毬栗いがぐり坊主ぼうずで、叡山えいざんの悪僧あくそうと云ういうべき面めん構かまえである。
人ひとが叮寧に辞令じれいを見せみせたら見向きみむきもせず、やあ君きみが新任しんにんの人ひとか、ちと遊びあそびに来き給えたまえアハハハあはははと云っいった。
何なんがアハハハあはははだ。
そんな礼儀れいぎを心得こころえぬ奴やつの所ところへ誰だれが遊びあそびに行くいくものか。
おれはこの時じからこの坊主ぼうずに山嵐やまあらしという渾名あだなをつけてやった。
漢学かんがくの先生せんせいはさすがに堅いかたいものだ。
昨日きのうお着きつきで、さぞお疲れつかれで、それでもう授業じゅぎょうをお始めはじめで、大分おおいたご励精で、――とのべつに弁じべんじたのは愛嬌あいきょうのあるお爺じいさんだ。
画学ががくの教師きょうしは全くまったく芸人げいにん風かぜだ。
べらべらした透綾すきやの羽織はおりを着きて、扇子せんすをぱちつかせて、お国くにはどちらでげす、え?
東京とうきょう?
そりゃ嬉しいうれしい、お仲間なかまが出来できて……私わたくしもこれで江戸っ子えどっこですと云っいった。
こんなのが江戸っ子えどっこなら江戸えどには生れうまれたくないもんだと心中しんじゅうに考えかんがえた。
そのほか一人一人ひとりひとりについてこんな事ことを書けかけばいくらでもある。
しかし際限さいげんがないからやめる。
挨拶あいさつが一通りひととおり済んすんだら、校長こうちょうが今日きょうはもう引き取っひきとってもいい、もっとも授業じゅぎょう上うえの事ことは数学すうがくの主任しゅにんと打ち合せうちあわせをしておいて、明後日みょうごにちから課業かぎょうを始めはじめてくれと云っいった。
数学すうがくの主任しゅにんは誰だれかと聞いきいてみたら例れいの山嵐やまあらしであった。
忌々しいいまいましい、こいつの下したに働くはたらくのかおやおやと失望しつぼうした。
山嵐やまあらしは「おい君きみどこに宿っやどってるか、山城屋やましろやか、うん、今いまに行っいって相談そうだんする」と云い残しいいのこして白墨はくぼくを持っもって教場きょうじょうへ出でて行っいった。
主任しゅにんの癖くせに向うむこうから来きて相談そうだんするなんて不見識ふけんしきな男おとこだ。
しかし呼び付けるよびつけるよりは感心かんしんだ。
それから学校がっこうの門もんを出でて、すぐ宿やどへ帰ろうかえろうと思っおもったが、帰っかえったって仕方しかたがないから、少しすこし町まちを散歩さんぽしてやろうと思っおもって、無暗むやみに足あしの向くむく方ほうをあるき散らしちらした。
県庁けんちょうも見みた。
古いふるい前まえ世紀せいきの建築けんちくである。
兵営へいえいも見みた。
麻布あざぶの聯隊れんたいより立派りっぱでない。
大通りおおどおりも見みた。
神楽坂かぐらざかを半分はんぶんに狭くせまくしたぐらいな道幅みちはばで町並まちなみはあれより落ちるおちる。
二十五万にじゅうごまん石いしの城下じょうかだって高こうの知れしれたものだ。
こんな所ところに住んすんでご城下じょうかだなどと威張っいばってる人間にんげんは可哀想かわいそうなものだと考えかんがえながらくると、いつしか山城屋やましろやの前まえに出でた。
広いひろいようでも狭いせまいものだ。
これで大抵たいていは見み尽しつくしたのだろう。
帰っかえって飯めしでも食おうくおうと門口かどぐちをはいった。
帳場ちょうばに坐っすわっていたかみさんが、おれの顔かおを見るみると急きゅうに飛び出しとびだしてきてお帰りかえり……と板の間いたのまへ頭あたまをつけた。
靴くつを脱いぬいで上がるあがると、お座敷おざしきがあきましたからと下女げじょが二に階かいへ案内あんないをした。
十五じゅうご畳たたみの表ひょう二に階かいで大きなおおきな床の間とこのまがついている。
おれは生れうまれてからまだこんな立派りっぱな座敷ざしきへはいった事ことはない。
この後あといつはいれるか分らわからないから、洋服ようふくを脱いぬいで浴衣ゆかた一いち枚ばいになって座敷ざしきの真中まなかへ大の字だいのじに寝ねてみた。
いい心持ちこころもちである。
昼飯ちゅうはんを食っしょくってから早速さっそく清きよしへ手紙てがみをかいてやった。
おれは文章ぶんしょうがまずい上うえに字じを知らしらないから手紙てがみを書くかくのが大嫌いだいきらいだ。
またやる所ところもない。
しかし清きよしは心配しんぱいしているだろう。
難船なんせんして死にしにやしないかなどと思っおもっちゃ困るこまるから、奮発ふんぱつして長いながいのを書いかいてやった。
その文句もんくはこうである。
「きのう着いついた。つまらん所ところだ。十五じゅうご畳たたみの座敷ざしきに寝ねている。宿屋やどやへ茶代ちゃだいを五ご円えんやった。かみさんが頭あたまを板の間いたのまへすりつけた。夕べゆうべは寝ねられなかった。清きよしが笹飴ささあめを笹ささごと食うくう夢ゆめを見みた。来年らいねんの夏なつは帰るかえる。今日きょう学校がっこうへ行っいってみんなにあだなをつけてやった。校長こうちょうは狸たぬき、教頭きょうとうは赤あかシャツしゃつ、英語えいごの教師きょうしはうらなり、数学すうがくは山嵐やまあらし、画学ががくはのだいこ。今いまにいろいろな事ことを書いかいてやる。さようなら」 手紙てがみをかいてしまったら、いい心持ちこころもちになって眠気ねむけがさしたから、最前さいぜんのように座敷ざしきの真中まなかへのびのびと大の字だいのじに寝ねた。
今度こんどは夢ゆめも何なんも見みないでぐっすり寝ねた。
この部屋へやかいと大きなおおきな声こえがするので目めが覚めさめたら、山嵐やまあらしがはいって来きた。
最前さいぜんは失敬しっけい、君きみの受持ちうけもちは……と人ひとが起き上がるおきあがるや否いなや談判だんぱんを開かひらかれたので大いにおおいに狼狽ろうばいした。
受持ちうけもちを聞いきいてみると別段べつだんむずかしい事こともなさそうだから承知しょうちした。
このくらいの事ことなら、明後日みょうごにちは愚ぐ、明日あすから始めろはじめろと云っいったって驚ろかおどろかない。
授業じゅぎょう上うえの打ち合せうちあわせが済んすんだら、君きみはいつまでこんな宿屋やどやに居るいるつもりでもあるまい、僕ぼくがいい下宿げしゅくを周旋しゅうせんしてやるから移りうつりたまえ。
外そとのものでは承知しょうちしないが僕ぼくが話せはなせばすぐ出来るできる。
早いはやい方ほうがいいから、今日きょう見みて、あす移っうつって、あさってから学校がっこうへ行けいけば極りきまりがいいと一人ひとりで呑み込んのみこんでいる。
なるほど十五じゅうご畳たたみ敷しきにいつまで居るいる訳わけにも行くいくまい。
月給げっきゅうをみんな宿料しゅくりょうに払っはらっても追っつかおっつかないかもしれぬ。
五ご円えんの茶代ちゃだいを奮発ふんぱつしてすぐ移るうつるのはちと残念ざんねんだが、どうせ移るうつる者ものなら、早くはやく引き越しひきこして落ち付くおちつく方ほうが便利べんりだから、そこのところはよろしく山嵐やまあらしに頼むたのむ事ことにした。
すると山嵐やまあらしはともかくもいっしょに来きてみろと云ういうから、行っいった。
町はずれまちはずれの岡おかの中腹ちゅうふくにある家いえで至極しごく閑静かんせいだ。
主人しゅじんは骨董こっとうを売買ばいばいするいか銀ぎんと云ういう男おとこで、女房にょうぼうは亭主ていしゅよりも四よんつばかり年嵩としかさの女おんなだ。
中学校ちゅうがっこうに居いた時じウィッチうぃっちと云ういう言葉ことばを習っならった事ことがあるがこの女房にょうぼうはまさにウィッチうぃっちに似にている。
ウィッチうぃっちだって人ひとの女房にょうぼうだから構わかまわない。
とうとう明日あすから引き移るひきうつる事ことにした。
帰りかえりに山嵐やまあらしは通町とおりちょうで氷水こおりみずを一杯いちばい奢っおごった。
学校がっこうで逢っあった時じはやに横風おうふうな失敬しっけいな奴やつだと思っおもったが、こんなにいろいろ世話せわをしてくれるところを見るみると、わるい男おとこでもなさそうだ。
ただおれと同じおなじようにせっかちで肝きも癪持しゃくもちらしい。
あとで聞いきいたらこの男おとこが一番いちばん生徒せいとに人望じんぼうがあるのだそうだ。
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