坊っちゃん

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四

第 4 章
学校がっこうには宿直しゅくちょくがあって、職員しょくいんが代る代るかわるがわるこれをつとめる。
但しただし狸たぬきと赤あかシャツしゃつは例外れいがいである。
何なんでこの両人りょうにんが当然とうぜんの義務ぎむを免かれるまぬかれるのかと聞いきいてみたら、奏任そうにん待遇たいぐうだからと云ういう。
面白くおもしろくもない。
月給げっきゅうはたくさんとる、時間じかんは少ないすくない、それで宿直しゅくちょくを逃がれるのがれるなんて不公平ふこうへいがあるものか。
勝手かってな規則きそくをこしらえて、それが当り前あたりまえだというような顔かおをしている。
よくまああんなにずうずうしく出来るできるものだ。
これについては大分おおいた不平ふへいであるが、山嵐やまあらしの説せつによると、いくら一人ひとりで不平ふへいを並べならべたって通るとおるものじゃないそうだ。
一人ひとりだって二人ふたりだって正しいただしい事ことなら通りとおりそうなものだ。
山嵐やまあらしはmightisrightという英語えいごを引いひいて説諭せつゆを加えくわえたが、何なんだか要領ようりょうを得とくないから、聞き返しききかえしてみたら強者きょうしゃの権利けんりと云ういう意味いみだそうだ。
強者きょうしゃの権利けんりぐらいなら昔むかしから知っしっている。
今さらいまさら山嵐やまあらしから講釈こうしゃくをきかなくってもいい。
強者きょうしゃの権利けんりと宿直しゅくちょくとは別問題べつもんだいだ。
狸たぬきや赤あかシャツしゃつが強者きょうしゃだなんて、誰だれが承知しょうちするものか。
議論ぎろんは議論ぎろんとしてこの宿直しゅくちょくがいよいよおれの番ばんに廻っまわって来きた。
一体いったい疳かん性せいだから夜具やぐ蒲団ふとんなどは自分じぶんのものへ楽らくに寝ねないと寝ねたような心持ちこころもちがしない。
小供こどもの時じから、友達ともだちのうちへ泊っとまった事ことはほとんどないくらいだ。
友達ともだちのうちでさえ厭いやなら学校がっこうの宿直しゅくちょくはなおさら厭いやだ。
厭いやだけれども、これが四十よんじゅう円えんのうちへ籠っこもっているなら仕方しかたがない。
我慢がまんして勤めつとめてやろう。
教師きょうしも生徒せいとも帰っかえってしまったあとで、一人ひとりぽかんとしているのは随分ずいぶん間まが抜けぬけたものだ。
宿直しゅくちょく部屋へやは教場きょうじょうの裏手うらてにある寄宿舎きしゅくしゃの西にしはずれの一室いっしつだ。
ちょっとはいってみたが、西日にしびをまともに受けうけて、苦しくくるしくって居たたまれいたたまれない。
田舎いなかだけあって秋あきがきても、気長きながに暑いあついもんだ。
生徒せいとの賄まかないを取りよせとりよせて晩飯ばんめしを済ましすましたが、まずいには恐れ入っおそれいった。
よくあんなものを食っしょくって、あれだけに暴れあばれられたもんだ。
それで晩飯ばんめしを急いいそいで四よん時半じはんに片付けかたづけてしまうんだから豪傑ごうけつに違いちがいない。
飯めしは食っしょくったが、まだ日ひが暮れくれないから寝るねる訳わけに行かいかない。
ちょっと温泉おんせんに行きいきたくなった。
宿直しゅくちょくをして、外そとへ出るでるのはいい事ことだか、悪るいわるい事ことだかしらないが、こうつくねんとして重じゅう禁錮きんこ同様どうような憂目うきめに逢うあうのは我慢がまんの出来るできるもんじゃない。
始めはじめて学校がっこうへ来きた時じ当直とうちょくの人ひとはと聞いきいたら、ちょっと用達ようたしに出でたと小使こづかいが答えこたえたのを妙みょうだと思っおもったが、自分じぶんに番ばんが廻っまわってみると思い当るおもいあたる。
出るでる方ほうが正しいただしいのだ。
おれは小使こづかいにちょっと出でてくると云っいったら、何なんかご用ごようですかと聞くきくから、用ようじゃない、温泉おんせんへはいるんだと答えこたえて、さっさと出掛けでかけた。
赤あか手拭てぬぐいは宿やどへ忘れわすれて来きたのが残念ざんねんだが今日きょうは先方せんぽうで借りるかりるとしよう。
それからかなりゆるりと、出でたりはいったりして、ようやく日暮ひぐれ方ほうになったから、汽車きしゃへ乗っのって古町こまちの停車場ていしゃじょうまで来きて下りくだりた。
学校がっこうまではこれから四よん丁ていだ。
訳わけはないとあるき出すだすと、向うむこうから狸たぬきが来きた。
狸たぬきはこれからこの汽車きしゃで温泉おんせんへ行こういこうと云ういう計画けいかくなんだろう。
すたすた急ぎ足いそぎあしにやってきたが、擦れ違っすれちがった時じおれの顔かおを見みたから、ちょっと挨拶あいさつをした。
すると狸たぬきはあなたは今日きょうは宿直しゅくちょくではなかったですかねえと真面目くさっまじめくさって聞いきいた。
なかったですかねえもないもんだ。
二に時間じかん前まえおれに向っむかって今夜こんやは始めはじめての宿直しゅくちょくですね。
ご苦労ごくろうさま。
と礼れいを云っいったじゃないか。
校長こうちょうなんかになるといやに曲りくねっまがりくねった言葉ことばを使うつかうもんだ。
おれは腹はらが立ったったから、ええ宿直しゅくちょくです。
宿直しゅくちょくですから、これから帰っかえって泊るとまる事ことはたしかに泊りとまりますと云い捨ていいすてて済ましすましてあるき出しだした。
竪町たてまちの四つ角よつかどまでくると今度こんどは山嵐やまあらしに出でっ喰わしくわした。
どうも狭いせまい所ところだ。
出でてあるきさえすれば必ずかならず誰だれかに逢うあう。
「おい君きみは宿直しゅくちょくじゃないか」と聞くきくから「うん、宿直しゅくちょくだ」と答えこたえたら、「宿直しゅくちょくが無暗むやみに出でてあるくなんて、不都合ふつごうじゃないか」と云っいった。
「ちっとも不都合ふつごうなもんか、出でてあるかない方ほうが不都合ふつごうだ」と威張っいばってみせた。
「君きみのずぼらにも困るこまるな、校長こうちょうか教頭きょうとうに出逢うであうと面倒めんどうだぜ」と山嵐やまあらしに似合わにあわない事ことを云ういうから「校長こうちょうにはたった今いま逢っあった。暑いあつい時じには散歩さんぽでもしないと宿直しゅくちょくも骨ほねでしょうと校長こうちょうが、おれの散歩さんぽをほめたよ」と云っいって、面倒臭いめんどうくさいから、さっさと学校がっこうへ帰っかえって来きた。
それから日ひはすぐくれる。
くれてから二に時間じかんばかりは小使こづかいを宿直しゅくちょく部屋へやへ呼んよんで話はなしをしたが、それも飽きあきたから、寝ねられないまでも床ゆかへはいろうと思っおもって、寝巻ねまきに着換えきかえて、蚊帳かやを捲くまくって、赤いあかい毛布もうふを跳ねのけはねのけて、とんと尻しり持もちを突いついて、仰向けあおむけになった。
おれが寝るねるときにとんと尻しり持もちをつくのは小供こどもの時じからの癖くせだ。
わるい癖くせだと云っいって小川おがわ町まちの下宿げしゅくに居いた時分じぶん、二に階かい下したに居いた法律ほうりつ学校がっこうの書生しょせいが苦情くじょうを持ち込んもちこんだ事ことがある。
法律ほうりつの書生しょせいなんてものは弱いよわい癖くせに、やに口くちが達者たっしゃなもので、愚ぐな事ことを長たらしくながたらしく述べ立てるのべたてるから、寝るねる時じにどんどん音おとがするのはおれの尻しりがわるいのじゃない。
下宿げしゅくの建築けんちくが粗末そまつなんだ。
掛ケかけ合うあうなら下宿げしゅくへ掛ケかけ合えあえと凹ましへこましてやった。
この宿直しゅくちょく部屋へやは二に階かいじゃないから、いくら、どしんと倒れたおれても構わかまわない。
なるべく勢いきおいよく倒れたおれないと寝ねたような心持ちこころもちがしない。
ああ愉快ゆかいだと足あしをうんと延ばすのばすと、何なんだか両足りょうあしへ飛び付いとびついた。
ざらざらして蚤のみのようでもないからこいつあと驚ろいおどろいて、足あしを二三にさん度ど毛布もうふの中なかで振っふってみた。
するとざらざらと当っあたったものが、急きゅうに殖えふえ出しだして脛すねが五六ごろくカ所かしょ、股またが二三にさんカ所かしょ、尻しりの下したでぐちゃりと踏み潰しふみつぶしたのが一いちつ、臍へその所ところまで飛び上がっとびあがったのが一いちつ――いよいよ驚ろいおどろいた。
早速さっそく起き上っおきあがって、毛布もうふをぱっと後ろうしろへ抛るほうると、蒲団ふとんの中なかから、バッタばったが五六十ごろくじゅう飛び出しとびだした。
正体しょうたいの知れしれない時じは多少たしょう気味きみが悪るかっわるかったが、バッタばったと相場そうばが極まっきわまってみたら急きゅうに腹はらが立ったった。
バッタばったの癖くせに人ひとを驚ろかしおどろかしやがって、どうするか見ろみろと、いきなり括り枕くくりまくらを取っとって、二三にさん度ど擲きたたきつけたが、相手あいてが小さちいささ過ぎるすぎるから勢いきおいよく抛げなげつける割わりに利目ききめがない。
仕方しかたがないから、また布団ふとんの上うえへ坐っすわって、煤掃すすはらいの時じに蓙ござを丸めまるめて畳たたみを叩くたたくように、そこら近辺きんぺんを無暗むやみにたたいた。
バッタばったが驚ろいおどろいた上うえに、枕まくらの勢いきおいで飛び上がるとびあがるものだから、おれの肩かただの、頭あたまだの鼻はなの先さきだのへくっ付いくっついたり、ぶつかったりする。
顔かおへ付いついた奴やつは枕まくらで叩くたたく訳わけに行かいかないから、手てで攫んつかんで、一生懸命いっしょうけんめいに擲きたたきつける。
忌々しいいまいましい事ことに、いくら力ちからを出しだしても、ぶつかる先さきが蚊帳かやだから、ふわりと動くうごくだけで少しすこしも手て答こたえがない。
バッタばったは擲きたたきつけられたまま蚊帳かやへつらまっている。
死しにもどうもしない。
ようやくの事ことに三十さんじゅう分ぶんばかりでバッタばったは退治たいじた。
箒ほうきを持っもって来きてバッタばったの死骸しがいを掃き出しはきだした。
小使こづかいが来きて何なんですかと云ういうから、何なんですかもあるもんか、バッタばったを床ゆかの中なかに飼っかっとく奴やつがどこの国くににある。
間ま抜ぬけめ。
と叱っしかったら、私わたくしは存じぞんじませんと弁解べんかいをした。
存じぞんじませんで済むすむかと箒ほうきを椽えん側がわへ抛り出しほうりだしたら、小使こづかいは恐る恐るおそるおそる箒ほうきを担いにないで帰っかえって行っいった。
おれは早速さっそく寄宿きしゅく生なまを三さん人ひとばかり総代そうだいに呼び出しよびだした。
すると六ろく人ひと出でて来きた。
六ろく人ひとだろうが十人じゅうにんだろうが構うかまうものか。
寝巻ねまきのまま腕まくりうでまくりをして談判だんぱんを始めはじめた。
「なんでバッタばったなんか、おれの床ゆかの中なかへ入れいれた」「バッタばったた何なんぞな」と真先まっさきの一人ひとりがいった。
やに落ち付いおちついていやがる。
この学校がっこうじゃ校長こうちょうばかりじゃない、生徒せいとまで曲りくねっまがりくねった言葉ことばを使うつかうんだろう。
「バッタばったを知らしらないのか、知らしらなけりゃ見せみせてやろう」と云っいったが、生憎あいにく掃き出しはきだしてしまって一いち匹ひきも居いない。
また小使こづかいを呼んよんで、「さっきのバッタばったを持っもってこい」と云っいったら、「もう掃溜はきだめへ棄てすててしまいましたが、拾っじゅうって参りまいりましょうか」と聞いきいた。
「うんすぐ拾っじゅうって来いこい」と云ういうと小使こづかいは急いいそいで馳はせけ出しけだしたが、やがて半紙はんしの上うえへ十じゅう匹ひきばかり載せのせて来きて「どうもお気の毒きのどくですが、生憎あいにく夜よるでこれだけしか見当りみあたりません。あしたになりましたらもっと拾っじゅうって参りまいります」と云ういう。
小使こづかいまで馬鹿ばかだ。
おれはバッタばったの一いちつを生徒せいとに見せみせて「バッタばったたこれだ、大きなおおきなずう体からだをして、バッタばったを知らしらないた、何なんの事ことだ」と云ういうと、一番いちばん左ひだりの方ほうに居いた顔かおの丸いまりい奴やつが「そりゃ、イナゴいなごぞな、もし」と生意気なまいきにおれを遣り込めやりこめた。
「篦棒べらぼうめ、イナゴいなごもバッタばったも同じおなじもんだ。第だい一いち先生せんせいを捕まえつかまえてなもした何なんだ。菜飯なめしは田楽でんがくの時じより外そとに食うくうもんじゃない」とあべこべに遣り込めやりこめてやったら「なもしと菜飯なめしとは違うちがうぞな、もし」と云っいった。
いつまで行っいってもなもしを使うつかう奴やつだ。
「イナゴいなごでもバッタばったでも、何なんでおれの床ゆかの中なかへ入れいれたんだ。おれがいつ、バッタばったを入れいれてくれと頼んたのんだ」「誰だれも入れいれやせんがな」「入れいれないものが、どうして床ゆかの中なかに居るいるんだ」「イナゴいなごは温いぬきい所ところが好きすきじゃけれ、大方おおかた一人ひとりでおはいりたのじゃあろ」「馬鹿ばかあ云えいえ。バッタばったが一人ひとりでおはいりになるなんて――バッタばったにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云えいえ」「云えいえてて、入れんいれんものを説明せつめいしようがないがな」 けちな奴やつ等とうだ。
自分じぶんで自分じぶんのした事ことが云えいえないくらいなら、てんでしないがいい。
証拠しょうこさえ挙がらあがらなければ、しらを切るきるつもりで図太くずぶとく構えかまえていやがる。
おれだって中学ちゅうがくに居いた時分じぶんは少しすこしはいたずらもしたもんだ。
しかしだれがしたと聞かきかれた時じに、尻込みしりごみをするような卑怯ひきょうな事ことはただの一度いちどもなかった。
したものはしたので、しないものはしないに極っきょくってる。
おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白けっぱくなものだ。
嘘うそを吐いはいて罰ばつを逃げるにげるくらいなら、始めはじめからいたずらなんかやるものか。
いたずらと罰ばつはつきもんだ。
罰ばつがあるからいたずらも心持ちこころもちよく出来るできる。
いたずらだけで罰ばつはご免ごめん蒙るこうむるなんて下劣げれつな根性こんじょうがどこの国くにに流行るはやると思っおもってるんだ。
金きんは借りるかりるが、返すかえす事ことはご免ごめんだと云ういう連中れんちゅうはみんな、こんな奴やつ等とうが卒業そつぎょうしてやる仕事しごとに相違そういない。
全体ぜんたい中学校ちゅうがっこうへ何なんしにはいってるんだ。
学校がっこうへはいって、嘘うそを吐いはいて、胡魔化しごまかして、陰かげでこせこせ生意気なまいきな悪わるいたずらをして、そうして大きなおおきな面めんで卒業そつぎょうすれば教育きょういくを受けうけたもんだと癇かん違いちがいをしていやがる。
話せはなせない雑兵ぞうひょうだ。
おれはこんな腐っくさった了見りょうけんの奴やつ等とうと談判だんぱんするのは胸糞むなくそが悪るいわるいから、「そんなに云わいわれなきゃ、聞かきかなくっていい。中学校ちゅうがっこうへはいって、上品じょうぼんも下品げぼんも区別くべつが出来できないのは気の毒きのどくなものだ」と云っいって六ろく人ひとを逐っおっ放しはなしてやった。
おれは言葉ことばや様子ようすこそあまり上品じょうぼんじゃないが、心こころはこいつらよりも遥かはるかに上品じょうぼんなつもりだ。
六ろく人ひとは悠々ゆうゆうと引き揚げひきあげた。
上部じょうぶだけは教師きょうしのおれよりよっぽどえらく見えるみえる。
実じつは落ち付いおちついているだけなお悪るいわるい。
おれには到底とうていこれほどの度胸どきょうはない。
それからまた床ゆかへはいって横よこになったら、さっきの騒動そうどうで蚊帳かやの中なかはぶんぶん唸っうなっている。
手燭てしょくをつけて一いち匹ひきずつ焼くやくなんて面倒めんどうな事ことは出来できないから、釣手つりてをはずして、長くながく畳んたたんでおいて部屋へやの中なかで横よこ竪たて十じゅう文字もじに振っふったら、環かんが飛んとんで手の甲てのこうをいやというほど撲っなぐった。
三さん度目どめに床ゆかへはいった時じは少々しょうしょう落ち付いおちついたがなかなか寝ねられない。
時計とけいを見るみると十じゅう時半じはんだ。
考えかんがえてみると厄介やっかいな所ところへ来きたもんだ。
一体いったい中学ちゅうがくの先生せんせいなんて、どこへ行っいっても、こんなものを相手あいてにするなら気の毒きのどくなものだ。
よく先生せんせいが品切れしなぎれにならない。
よっぽど辛しん防ぼう強いつよい朴念仁ぼくねんじんがなるんだろう。
おれには到底とうていやり切れきれない。
それを思うおもうと清きよしなんてのは見上げみあげたものだ。
教育きょういくもない身分みぶんもない婆ばあさんだが、人間にんげんとしてはすこぶる尊みこととい。
今までいままではあんなに世話せわになって別段べつだん難なん有ゆういとも思わおもわなかったが、こうして、一人ひとりで遠国えんごくへ来きてみると、始めはじめてあの親切しんせつがわかる。
越後えちごの笹飴ささあめが食いくいたければ、わざわざ越後えちごまで買いかいに行っいって食わしくわしてやっても、食わくわせるだけの価値かちは充分じゅうぶんある。
清きよしはおれの事ことを欲よくがなくって、真直まっすぐな気性きしょうだと云っいって、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人ほんにんの方ほうが立派りっぱな人間にんげんだ。
何なんだか清きよしに逢いあいたくなった。
清きよしの事ことを考えかんがえながら、のつそつしていると、突然とつぜんおれの頭あたまの上うえで、数すうで云っいったら三四さんよん十人じゅうにんもあろうか、二に階かいが落っこちるおっこちるほどどん、どん、どんと拍子ひょうしを取っとって床板ゆかいたを踏みならすふみならす音おとがした。
すると足音あしおとに比例ひれいした大きなおおきな鬨の声ときのこえが起っおこった。
おれは何事なにごとが持ち上がっもちあがったのかと驚ろいおどろいて飛び起きとびおきた。
飛び起きるとびおきる途端とたんに、ははあさっきの意趣いしゅ返しかえしに生徒せいとがあばれるのだなと気きがついた。
手前てまえのわるい事ことは悪るかっわるかったと言っいってしまわないうちは罪つみは消えきえないもんだ。
わるい事ことは、手前てまえ達とおるに覚さとしがあるだろう。
本来ほんらいなら寝ねてから後悔こうかいしてあしたの朝あさでもあやまりに来るくるのが本筋ほんすじだ。
たとい、あやまらないまでも恐れ入っおそれいって、静粛せいしゅくに寝ねているべきだ。
それを何なんだこの騒ぎさわぎは。
寄宿舎きしゅくしゃを建てたてて豚ぶたでも飼っかっておきあしまいし。
気狂いきちがいじみた真似まねも大抵たいていにするがいい。
どうするか見ろみろと、寝巻ねまきのまま宿直しゅくちょく部屋へやを飛び出しとびだして、楷かい子こ段だんを三股みまた半はんに二に階かいまで躍り上がっおどりあがった。
すると不思議ふしぎな事ことに、今までいままで頭あたまの上うえで、たしかにどたばた暴れあばれていたのが、急きゅうに静まり返っしずまりかえって、人声ひとごえどころか足音あしおともしなくなった。
これは妙みょうだ。
ランプらんぷはすでに消しけしてあるから、暗くくらくてどこに何なんが居るいるか判然はんぜんと分らわからないが、人気にんきのあるとないとは様子ようすでも知れるしれる。
長くながく東ひがしから西にしへ貫いつらぬいた廊下ろうかには鼠ねずみ一いち匹ひきも隠れかくれていない。
廊下ろうかのはずれから月がさつきがさして、遥かはるか向うむこうが際どくきわどく明るいあかるい。
どうも変へんだ、おれは小供こどもの時じから、よく夢ゆめを見るみる癖くせがあって、夢中むちゅうに跳ね起きはねおきて、わからぬ寝言ねごとを云っいって、人ひとに笑わわらわれた事ことがよくある。
十じゅう六ろく七ななの時じダイヤモンドだいやもんどを拾っじゅうった夢ゆめを見みた晩ばんなぞは、むくりと立ち上がったちあがって、そばに居いた兄あにに、今いまのダイヤモンドだいやもんどはどうしたと、非常ひじょうな勢いきおいで尋ねたずねたくらいだ。
その時じは三さん日ひばかりうち中なかの笑い草わらいぐさになって大いにおおいに弱っよわった。
ことによると今いまのも夢ゆめかも知れしれない。
しかしたしかにあばれたに違いちがいないがと、廊下ろうかの真中まなかで考え込んかんがえこんでいると、月つきのさしている向うむこうのはずれで、一二三いちにさんわあと、三四さんよん十人じゅうにんの声こえがかたまって響いひびいたかと思うおもう間まもなく、前まえのように拍子ひょうしを取っとって、一同いちどうが床板ゆかいたを踏み鳴らしふみならした。
それ見ろみろ夢ゆめじゃないやっぱり事実じじつだ。
静かしずかにしろ、夜なかよなかだぞ、とこっちも負けんまけんくらいな声こえを出しだして、廊下ろうかを向うむこうへ馳はせけだした。
おれの通るとおる路みちは暗いくらい、ただはずれに見えるみえる月あかりつきあかりが目標もくひょうだ。
おれが馳はせけ出しけだして二に間まも来きたかと思うおもうと、廊下ろうかの真中まなかで、堅いかたい大きなおおきなものに向むかい脛すねをぶつけて、あ痛いいたいが頭あたまへひびく間まに、身体しんたいはすとんと前まえへ抛り出さほうりだされた。
こん畜生ちくしょうと起き上がっおきあがってみたが、馳はせけられない。
気きはせくが、足あしだけは云ういう事ことを利かりかない。
じれったいから、一いち本ほん足あしで飛んとんで来きたら、もう足音あしおとも人声ひとごえも静まり返っしずまりかえって、森もりとしている。
いくら人間にんげんが卑怯ひきょうだって、こんなに卑怯ひきょうに出来るできるものじゃない。
まるで豚ぶただ。
こうなれば隠れかくれている奴やつを引きずりひきずり出しだして、あやまらせてやるまではひかないぞと、心こころを極めてきわめて寝室しんしつの一いちつを開けあけて中なかを検査けんさしようと思っおもったが開かひらかない。
錠じょうをかけてあるのか、机つくえか何なんか積んつんで立てたて懸けかけてあるのか、押しおしても、押しおしても決してけっして開かひらかない。
今度こんどは向うむこう合せあわせの北側きたがわの室むろを試みこころみた。
開かひらかない事ことはやっぱり同然どうぜんである。
おれが戸とを開けあけて中なかに居るいる奴やつを引いんっ捕らまえとらまえてやろうと、焦慮しょうりょてると、また東ひがしのはずれで鬨の声ときのこえと足拍子あしひょうしが始まっはじまった。
この野郎やろう申し合せもうしあわせて、東西とうざい相そう応じおうじておれを馬鹿ばかにする気きだな、とは思っおもったがさてどうしていいか分らわからない。
正直しょうじきに白状はくじょうしてしまうが、おれは勇気ゆうきのある割合わりあいに智慧ちえが足りたりない。
こんな時じにはどうしていいかさっぱりわからない。
わからないけれども、決してけっして負けるまけるつもりはない。
このままに済ましすましてはおれの顔かおにかかわる。
江戸っ子えどっこは意気地いきちがないと云わいわれるのは残念ざんねんだ。
宿直しゅくちょくをして鼻垂れはなたれ小僧こぞうにからかわれて、手てのつけようがなくって、仕方しかたがないから泣きなき寝入りねいりにしたと思わおもわれちゃ一生いっしょうの名折れなおれだ。
これでも元もとは旗本はたもとだ。
旗本はたもとの元もとは清和せいわ源みなもと氏しで、多田ただの満仲みつなかの後裔こうえいだ。
こんな土つち百姓ひゃくしょうとは生まれうまれからして違うちがうんだ。
ただ智慧ちえのないところが惜しいおしいだけだ。
どうしていいか分らわからないのが困るこまるだけだ。
困っこまったって負けるまけるものか。
正直しょうじきだから、どうしていいか分らわからないんだ。
世の中よのなかに正直しょうじきが勝たかたないで、外そとに勝つかつものがあるか、考えかんがえてみろ。
今夜こんや中なかに勝てかてなければ、あした勝つかつ。
あした勝てかてなければ、あさって勝つかつ。
あさって勝てかてなければ、下宿げしゅくから弁当べんとうを取り寄せとりよせて勝つかつまでここに居るいる。
おれはこう決心けっしんをしたから、廊下ろうかの真中まなかへあぐらをかいて夜よるのあけるのを待っまっていた。
蚊かがぶんぶん来きたけれども何なんともなかった。
さっき、ぶつけた向むかい脛すねを撫でなでてみると、何なんだかぬらぬらする。
血ちが出るでるんだろう。
血ちなんか出でたければ勝手にかってに出るでるがいい。
そのうち最前さいぜんからの疲れつかれが出でて、ついうとうと寝ねてしまった。
何なんだか騒がしいさわがしいので、眼めが覚めさめた時じはえっ糞ふんしまったと飛び上がっとびあがった。
おれの坐っすわってた右側みぎがわにある戸とが半分はんぶんあいて、生徒せいとが二人ふたり、おれの前まえに立ったっている。
おれは正気せいきに返っかえって、はっと思うおもう途端とたんに、おれの鼻はなの先さきにある生徒せいとの足あしを引いんっ攫んつかんで、力任せちからまかせにぐいと引いひいたら、そいつは、どたりと仰あおぐ向むかいに倒れたおれた。
ざまを見ろみろ。
残るのこる一人ひとりがちょっと狼狽ろうばいしたところを、飛びかかっとびかかって、肩かたを抑えおさえて二三にさん度どこづき廻しまわしたら、あっけに取らとられて、眼めをぱちぱちさせた。
さあおれの部屋へやまで来いこいと引っ立てるひったてると、弱虫よわむしだと見えみえて、一いちも二にもなく尾おいて来きた。
夜よるはとうにあけている。
おれが宿直しゅくちょく部屋へやへ連れつれてきた奴やつを詰問きつもんし始めるはじめると、豚ぶたは、打っうっても擲いたたいても豚ぶただから、ただ知らしらんがなで、どこまでも通すとおす了見りょうけんと見えみえて、けっして白状はくじょうしない。
そのうち一人ひとり来るくる、二人ふたり来るくる、だんだん二に階かいから宿直しゅくちょく部屋へやへ集まっあつまってくる。
見るみるとみんな眠ねむりそうに瞼まぶたをはらしている。
けちな奴やつ等とうだ。
一いち晩ばんぐらい寝ねないで、そんな面めんをして男おとこと云わいわれるか。
面めんでも洗っあらって議論ぎろんに来いこいと云っいってやったが、誰だれも面めんを洗いあらいに行かいかない。
おれは五ご十人じゅうにんあまりを相手あいてに約やく一いち時間じかんばかり押問答おしもんどうをしていると、ひょっくり狸たぬきがやって来きた。
あとから聞いきいたら、小使こづかいが学校がっこうに騒動そうどうがありますって、わざわざ知らしらせに行っいったのだそうだ。
これしきの事ことに、校長こうちょうを呼ぶよぶなんて意気地いきちがなさ過ぎるすぎる。
それだから中学校ちゅうがっこうの小使こづかいなんぞをしてるんだ。
校長こうちょうはひと通りひととおりおれの説明せつめいを聞いきいた。
生徒せいとの言草いいぐさもちょっと聞いきいた。
追っおって処分しょぶんするまでは、今までいままで通りとおり学校がっこうへ出ろでろ。
早くはやく顔かおを洗っあらって、朝飯あさめしを食わくわないと時間じかんに間に合わまにあわないから、早くはやくしろと云っいって寄宿きしゅく生なまをみんな放免ほうめんした。
手て温おんるい事ことだ。
おれなら即席そくせきに寄宿きしゅく生なまをことごとく退校たいこうしてしまう。
こんな悠長ゆうちょうな事ことをするから生徒せいとが宿直しゅくちょく員いんを馬鹿ばかにするんだ。
その上うえおれに向っむかって、あなたもさぞご心配しんぱいでお疲れつかれでしょう、今日きょうはご授業じゅぎょうに及ばおよばんと云ういうから、おれはこう答えこたえた。
「いえ、ちっとも心配しんぱいじゃありません。こんな事ことが毎晩まいばんあっても、命いのちのある間まは心配しんぱいにゃなりません。授業じゅぎょうはやります、一いち晩ばんぐらい寝ねなくって、授業じゅぎょうが出来できないくらいなら、頂戴ちょうだいした月給げっきゅうを学校がっこうの方ほうへ割戻わりもどしします」校長こうちょうは何なんと思っおもったものか、しばらくおれの顔かおを見つめみつめていたが、しかし顔かおが大分おおいたはれていますよと注意ちゅういした。
なるほど何なんだか少々しょうしょう重たいおもたい気きがする。
その上うえべた一面いちめん痒いかゆい。
蚊かがよっぽと刺しさしたに相違そういない。
おれは顔かお中なかぼりぼり掻きかきながら、顔かおはいくら膨れふくれたって、口くちはたしかにきけますから、授業じゅぎょうには差し支えさしつかえませんと答えこたえた。
校長こうちょうは笑いわらいながら、大分おおいた元気げんきですねと賞めほめた。
実じつを云ういうと賞めほめたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。
4/10