坊っちゃん

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八

第 8 章
赤あかシャツしゃつに勧めすすめられて釣つりに行っいった帰りかえりから、山嵐やまあらしを疑ぐりうたぐり出しだした。
無いない事ことを種しゅに下宿げしゅくを出ろでろと云わいわれた時じは、いよいよ不埒ふらちな奴やつだと思っおもった。
ところが会議かいぎの席せきでは案あんに相違そういして滔々とうとうと生徒せいと厳罰げんばつ論ろんを述べのべたから、おや変へんだなと首くびを捩っもじった。
萩野はぎのの婆ばあさんから、山嵐やまあらしが、うらなり君きみのために赤あかシャツしゃつと談判だんぱんをしたと聞いきいた時じは、それは感心かんしんだと手てを拍っうった。
この様子ようすではわる者わるものは山嵐やまあらしじゃあるまい、赤あかシャツしゃつの方ほうが曲っきょくってるんで、好よしみ加減かげんな邪推じゃすいを実しやかまことしやかに、しかも遠廻しとおまわしに、おれの頭あたまの中なかへ浸み込ましみこましたのではあるまいかと迷っまよってる矢先やさきへ、野の芹川せりかわの土手どてで、マドンナまどんなを連れつれて散歩さんぽなんかしている姿すがたを見みたから、それ以来いらい赤あかシャツしゃつは曲者くせものだと極めきわめてしまった。
曲者くせものだか何なんだかよくは分らわからないが、ともかくも善いよい男おとこじゃない。
表ひょうと裏うらとは違っちがった男おとこだ。
人間にんげんは竹たけのように真直まっすぐでなくっちゃ頼もしくたのもしくない。
真直まっすぐなものは喧嘩けんかをしても心持ちこころもちがいい。
赤あかシャツしゃつのようなやさしいのと、親切しんせつなのと、高尚こうしょうなのと、琥珀こはくのパイプぱいぷとを自慢じまんそうに見せびらかすみせびらかすのは油断ゆだんが出来できない、めったに喧嘩けんかも出来できないと思っおもった。
喧嘩けんかをしても、回向えこう院いんの相撲すもうのような心持ちこころもちのいい喧嘩けんかは出来できないと思っおもった。
そうなると一いち銭せん五ご厘りんの出入でいりで控ひかえ所ところ全体ぜんたいを驚ろかしおどろかした議論ぎろんの相手あいての山嵐やまあらしの方ほうがはるかに人間にんげんらしい。
会議かいぎの時じに金壺かなつぼ眼めをぐりつかせて、おれを睨めにらめた時じは憎いにくい奴やつだと思っおもったが、あとで考えるかんがえると、それも赤あかシャツしゃつのねちねちした猫ねこ撫声よりはましだ。
実じつはあの会議かいぎが済んすんだあとで、よっぽど仲直りなかなおりをしようかと思っおもって、一いちこと二にこと話しかけはなしかけてみたが、野郎やろう返事へんじもしないで、まだ眼めを剥っへずってみせたから、こっちも腹はらが立ったってそのままにしておいた。
それ以来いらい山嵐やまあらしはおれと口くちを利かりかない。
机つくえの上うえへ返しかえした一いち銭せん五ご厘りんはいまだに机つくえの上うえに乗っのっている。
ほこりだらけになって乗っのっている。
おれは無論むろん手てが出せだせない、山嵐やまあらしは決してけっして持っもって帰らかえらない。
この一いち銭せん五ご厘りんが二人ふたりの間まの墻壁しょうへきになって、おれは話そうはなそうと思っおもっても話せはなせない、山嵐やまあらしは頑がんとして黙っだまってる。
おれと山嵐やまあらしには一いち銭せん五ご厘りんが祟ったたった。
しまいには学校がっこうへ出でて一いち銭せん五ご厘りんを見るみるのが苦くになった。
山嵐やまあらしとおれが絶交ぜっこうの姿すがたとなったに引きひき易えかえて、赤あかシャツしゃつとおれは依然いぜんとして在来ざいらいの関係かんけいを保ったもって、交際こうさいをつづけている。
野の芹川せりかわで逢っあった翌日よくじつなどは、学校がっこうへ出るでると第だい一いち番ばんにおれの傍そばへ来きて、君きみ今度こんどの下宿げしゅくはいいですかのまたいっしょに露西亜ろしあ文学ぶんがくを釣りつりに行こういこうじゃないかのといろいろな事ことを話しかけはなしかけた。
おれは少々しょうしょう憎らしかっにくらしかったから、昨夜さくやは二に返かえし逢いあいましたねと云っいったら、ええ停車場ていしゃじょうで――君きみはいつでもあの時分じぶん出掛けるでかけるのですか、遅いおそいじゃないかと云ういう。
野の芹川せりかわの土手どてでもお目めに懸りかかりましたねと喰らわしくらわしてやったら、いいえ僕ぼくはあっちへは行かいかない、湯ゆにはいって、すぐ帰っかえったと答えこたえた。
何なんもそんなに隠さかくさないでもよかろう、現にげんに逢っあってるんだ。
よく嘘うそをつく男おとこだ。
これで中学ちゅうがくの教頭きょうとうが勤まるつとまるなら、おれなんか大学だいがく総長そうちょうがつとまる。
おれはこの時じからいよいよ赤あかシャツしゃつを信用しんようしなくなった。
信用しんようしない赤あかシャツしゃつとは口くちをきいて、感心かんしんしている山嵐やまあらしとは話はなしをしない。
世の中よのなかは随分ずいぶん妙みょうなものだ。
ある日ひの事こと赤あかシャツしゃつがちょっと君きみに話はなしがあるから、僕ぼくのうちまで来きてくれと云ういうから、惜しいおしいと思っおもったが温泉おんせん行きいきを欠勤けっきんして四よん時じ頃ころ出掛けでかけて行っいった。
赤あかシャツしゃつは一人ひとりものだが、教頭きょうとうだけに下宿げしゅくはとくの昔むかしに引き払っひきはらって立派りっぱな玄関げんかんを構えかまえている。
家賃やちんは九きゅう円えん五ご拾じゅう銭せんだそうだ。
田舎いなかへ来きて九きゅう円えん五ご拾じゅう銭せん払えはらえばこんな家いえへはいれるなら、おれも一いちつ奮発ふんぱつして、東京とうきょうから清きよしを呼び寄せよびよせて喜ばしよろこばしてやろうと思っおもったくらいな玄関げんかんだ。
頼むたのむと云っいったら、赤あかシャツしゃつの弟おとうとが取次とりつぎに出でて来きた。
この弟おとうとは学校がっこうで、おれに代数だいすうと算術さんじゅつを教わるおそわる至っていたって出来できのわるい子こだ。
その癖くせ渡りわたりものだから、生れうまれ付いついての田舎者いなかものよりも人ひとが悪るいわるい。
赤あかシャツしゃつに逢っあって用事ようじを聞いきいてみると、大将たいしょう例れいの琥珀こはくのパイプぱいぷで、きな臭いきなくさい烟草たばこをふかしながら、こんな事ことを云っいった。
「君きみが来きてくれてから、前任者ぜんにんしゃの時代じだいよりも成績せいせきがよくあがって、校長こうちょうも大いにおおいにいい人ひとを得とくたと喜んよろこんでいるので――どうか学校がっこうでも信頼しんらいしているのだから、そのつもりで勉強べんきょうしていただきたい」「へえ、そうですか、勉強べんきょうって今いまより勉強べんきょうは出来できませんが――」「今いまのくらいで充分じゅうぶんです。ただ先だってせんだってお話しはなしした事ことですね、あれを忘れわすれずにいて下されくださればいいのです」「下宿げしゅくの世話せわなんかするものあ剣呑けんのんだという事ことですか」「そう露骨ろこつに云ういうと、意味いみもない事ことになるが――まあ善いよいさ――精神せいしんは君きみにもよく通じつうじている事ことと思うおもうから。そこで君きみが今いまのように出精しゅっせいして下されくだされば、学校がっこうの方ほうでも、ちゃんと見みているんだから、もう少しすこしして都合つごうさえつけば、待遇たいぐうの事ことも多少たしょうはどうにかなるだろうと思うおもうんですがね」「へえ、俸給ほうきゅうですか。俸給ほうきゅうなんかどうでもいいんですが、上がれあがれば上がっあがった方ほうがいいですね」「それで幸いさいわい今度こんど転任てんにん者ものが一人ひとり出来るできるから――もっとも校長こうちょうに相談そうだんしてみないと無論むろん受け合えうけあえない事ことだが――その俸給ほうきゅうから少しすこしは融通ゆうずうが出来るできるかも知れしれないから、それで都合つごうをつけるように校長こうちょうに話しはなしてみようと思うおもうんですがね」「どうも難なん有ゆうう。だれが転任てんにんするんですか」「もう発表はっぴょうになるから話しはなしても差し支えさしつかえないでしょう。実じつは古賀こが君きみです」「古賀こがさんは、だってここの人ひとじゃありませんか」「ここの地ちの人ひとですが、少しすこし都合つごうがあって――半分はんぶんは当人とうにんの希望きぼうです」「どこへ行くいくんです」「日向ひなたの延岡のべおかで――土地とちが土地とちだから一級いちきゅう俸ほう上うえって行くいく事ことになりました」「誰だれか代りかわりが来るくるんですか」「代りかわりも大抵たいてい極まっきわまってるんです。その代りかわりの具合ぐあいで君きみの待遇たいぐう上うえの都合つごうもつくんです」「はあ、結構けっこうです。しかし無理むりに上がらあがらないでも構いかまいません」「とも角ともかくも僕ぼくは校長こうちょうに話すはなすつもりです。それで校長こうちょうも同どう意見いけんらしいが、追っおっては君きみにもっと働いはたらいて頂だかいただかなくってはならんようになるかも知れしれないから、どうか今いまからそのつもりで覚悟かくごをしてやってもらいたいですね」「今いまより時間じかんでも増すますんですか」「いいえ、時間じかんは今いまより減るへるかも知れしれませんが――」「時間じかんが減っへって、もっと働くはたらくんですか、妙みょうだな」「ちょっと聞くきくと妙みょうだが、――判然はんぜんとは今いま言いいいにくいが――まあつまり、君きみにもっと重大じゅうだいな責任せきにんを持っもってもらうかも知れしれないという意味いみなんです」 おれには一向いっこう分らわからない。
今いまより重大じゅうだいな責任せきにんと云えいえば、数学すうがくの主任しゅにんだろうが、主任しゅにんは山嵐やまあらしだから、やっこさんなかなか辞職じしょくする気遣いきづかいはない。
それに、生徒せいとの人望じんぼうがあるから転任てんにんや免職めんしょくは学校がっこうの得策とくさくであるまい。
赤あかシャツしゃつの談話だんわはいつでも要領ようりょうを得とくない。
要領ようりょうを得とくなくっても用事ようじはこれで済んすんだ。
それから少しすこし雑談ざつだんをしているうちに、うらなり君きみの送別会そうべつかいをやる事ことや、ついてはおれが酒さけを飲むのむかと云ういう問もんや、うらなり先生せんせいは君子くんしで愛すあいすべき人ひとだと云ういう事ことや――赤あかシャツしゃつはいろいろ弁じべんじた。
しまいに話はなしをかえて君きみ俳句はいくをやりますかと来きたから、こいつは大変たいへんだと思っおもって、俳句はいくはやりません、さようならと、そこそこに帰っかえって来きた。
発句ほっくは芭蕉ばしょうか髪結床かみゆいゆかの親方おやかたのやるもんだ。
数学すうがくの先生せんせいが朝顔あさがおやに釣瓶つるべをとられてたまるものか。
帰っかえってうんと考え込んかんがえこんだ。
世間せけんには随分ずいぶん気きの知れしれない男おとこが居るいる。
家屋敷いえやしきはもちろん、勤めるつとめる学校がっこうに不足ふそくのない故郷こきょうがいやになったからと云っいって、知らしらぬ他国たこくへ苦労くろうを求めもとめに出るでる。
それも花はなの都との電車でんしゃが通っとおってる所ところなら、まだしもだが、日向ひなたの延岡のべおかとは何なんの事ことだ。
おれは船ふねつきのいいここへ来きてさえ、一いちヶ月かげつ立たたたないうちにもう帰りかえりたくなった。
延岡のべおかと云えいえば山やまの中なかも山やまの中なかも大変たいへんな山やまの中なかだ。
赤あかシャツしゃつの云ういうところによると船ふねから上がっあがって、一いち日ひ馬車ばしゃへ乗っのって、宮崎みやざきへ行っいって、宮崎みやざきからまた一いち日ひ車くるまへ乗らのらなくっては着けつけないそうだ。
名前なまえを聞いきいてさえ、開けあけた所ところとは思えおもえない。
猿さると人ひととが半々はんはんに住んすんでるような気きがする。
いかに聖人せいじんのうらなり君きみだって、好んこのんで猿さるの相手あいてになりたくもないだろうに、何なんという物もの数奇すうきだ。
ところへあいかわらず婆ばあさんが夕食ゆうしょくを運んはこんで出るでる。
今日きょうもまた芋いもですかいと聞いきいてみたら、いえ今日きょうはお豆腐とうふぞなもしと云っいった。
どっちにしたって似にたものだ。
「お婆ばあさん古賀こがさんは日向ひなたへ行くいくそうですね」「ほん当にまさにお気の毒きのどくじゃな、もし」「お気の毒きのどくだって、好んこのんで行くいくんなら仕方しかたがないですね」「好んこのんで行くいくて、誰だれがぞなもし」「誰だれがぞなもしって、当人とうにんがさ。古賀こが先生せんせいが物もの数奇すうきに行くいくんじゃありませんか」「そりゃあなた、大違いおおちがいの勘五郎かんごろうぞなもし」「勘五郎かんごろうかね。だって今いま赤あかシャツしゃつがそう云いいいましたぜ。それが勘五郎かんごろうなら赤あかシャツしゃつは嘘つきうそつきの法螺ほら右衛門えもんだ」「教頭きょうとうさんが、そうお云いいいるのはもっともじゃが、古賀こがさんのお往きゆきともないのももっともぞなもし」「そんなら両方りょうほうもっともなんですね。お婆ばあさんは公平こうへいでいい。一体いったいどういう訳わけなんですい」「今朝けさ古賀こがのお母さんおははさんが見えみえて、だんだん訳わけをお話しはなしたがなもし」「どんな訳わけをお話しはなしたんです」「あそこもお父さんおちちさんがお亡くなりなくなりてから、あたし達あたしたちが思うおもうほど暮しくらし向むかいが豊かゆたかになうてお困りこまりじゃけれ、お母さんおははさんが校長こうちょうさんにお頼みたのみて、もう四よん年ねんも勤めつとめているものじゃけれ、どうぞ毎月まいつき頂くいただくものを、今いま少しすこしふやしておくれんかてて、あなた」「なるほど」「校長こうちょうさんが、ようまあ考えかんがえてみとこうとお云いいいたげな。それでお母さんおははさんも安心あんしんして、今いまに増給ぞうきゅうのご沙汰ごさたがあろぞ、今月こんげつか来月らいげつかと首くびを長くながくして待っまっておいでたところへ、校長こうちょうさんがちょっと来きてくれと古賀こがさんにお云いいいるけれ、行っいってみると、気の毒きのどくだが学校がっこうは金きんが足りんたりんけれ、月給げっきゅうを上げるあげる訳わけにゆかん。しかし延岡のべおかになら空いむなしいた口くちがあって、そっちなら毎月まいつき五ご円えん余分よぶんにとれるから、お望みのぞみ通りとおりでよかろうと思うおもうて、その手続きてつづきにしたから行くいくがええと云わいわれたげな。――」「じゃ相談そうだんじゃない、命令めいれいじゃありませんか」「さよよ。古賀こがさんはよそへ行っいって月給げっきゅうが増すますより、元もとのままでもええから、ここに居りおりたい。屋敷やしきもあるし、母ははもあるからとお頼みたのみたけれども、もうそう極めきわめたあとで、古賀こがさんの代りかわりは出来できているけれ仕方しかたがないと校長こうちょうがお云いいいたげな」「へん人ひとを馬鹿ばかにしてら、面白くおもしろくもない。じゃ古賀こがさんは行くいく気きはないんですね。どうれで変へんだと思っおもった。五ご円えんぐらい上がっあがったって、あんな山やまの中なかへ猿さるのお相手あいてをしに行くいく唐変木とうへんぼくはまずないからね」「唐変木とうへんぼくて、先生せんせいなんぞなもし」「何なんでもいいでさあ、――全くまったく赤あかシャツしゃつの作略さりゃくだね。よくない仕打しうちだ。まるで欺撃ぎげきですね。それでおれの月給げっきゅうを上げるあげるなんて、不都合ふつごうな事ことがあるものか。上げあげてやるったって、誰だれが上がっあがってやるものか」「先生せんせいは月給げっきゅうがお上りのぼりるのかなもし」「上げあげてやるって云ういうから、断わろうことわろうと思うおもうんです」「何なんで、お断わりことわりるのぞなもし」「何なんでもお断わりことわりだ。お婆ばあさん、あの赤あかシャツしゃつは馬鹿ばかですぜ。卑怯ひきょうでさあ」「卑怯ひきょうでもあんた、月給げっきゅうを上げあげておくれたら、大人しくおとなしく頂いいただいておく方ほうが得とくぞなもし。若いわかいうちはよく腹はらの立つたつものじゃが、年ねんをとってから考えるかんがえると、も少しすこしの我慢がまんじゃあったのに惜しいおしい事ことをした。腹立てはらだてたためにこないな損そんをしたと悔むくやむのが当り前あたりまえじゃけれ、お婆ばあの言うゆう事ことをきいて、赤あかシャツしゃつさんが月給げっきゅうをあげてやろとお言いいいたら、難なん有ゆううと受けうけておおきなさいや」「年寄としよりの癖くせに余計よけいな世話せわを焼かやかなくってもいい。おれの月給げっきゅうは上がろうあがろうと下がろうさがろうとおれの月給げっきゅうだ」 婆ばあさんはだまって引き込んひきこんだ。
爺じいさんは呑気のんきな声こえを出しだして謡うたいをうたってる。
謡うたいというものは読んよんでわかる所ところを、やにむずかしい節ふしをつけて、わざと分らわからなくする術じゅつだろう。
あんな者ものを毎晩まいばん飽きあきずに唸るうなる爺じいさんの気きが知れしれない。
おれは謡うたいどころの騒ぎさわぎじゃない。
月給げっきゅうを上げあげてやろうと云ういうから、別段べつだん欲しくほしくもなかったが、入らはいらない金きんを余しよしておくのももったいないと思っおもって、よろしいと承知しょうちしたのだが、転任てんにんしたくないものを無理むりに転任てんにんさせてその男おとこの月給げっきゅうの上前うわまえを跳ねるはねるなんて不人情ふにんじょうな事ことが出来るできるものか。
当人とうにんがもとの通りとおりでいいと云ういうのに延岡のべおか下りくだりまで落ちおちさせるとは一体いったいどう云ういう了見りょうけんだろう。
太宰だざい権帥ごんのそちでさえ博多はかた近辺きんぺんで落ちついおちついたものだ。
河合かわい又五郎またごろうだって相良さがらでとまってるじゃないか。
とにかく赤あかシャツしゃつの所ところへ行っいって断わっことわって来きなくっちあ気きが済ますまない。
小倉おぐらの袴はかまをつけてまた出掛けでかけた。
大きなおおきな玄関げんかんへ突っ立っつったって頼むたのむと云ういうと、また例れいの弟おとうとが取次とりつぎに出でて来きた。
おれの顔かおを見みてまた来きたかという眼付めつきをした。
用ようがあれば二に度どだって三さん度どだって来るくる。
よる夜なかよなかだって叩き起さたたきおこさないとは限らかぎらない。
教頭きょうとうの所ところへご機嫌ごきげん伺いうかがいにくるようなおれと見み損っそこなってるか。
これでも月給げっきゅうが入らはいらないから返しかえしに来きんだ。
すると弟おとうとが今来こんらい客きゃく中なかだと云ういうから、玄関げんかんでいいからちょっとお目めにかかりたいと云っいったら奥おくへ引き込んひきこんだ。
足元あしもとを見るみると、畳たたみ付きつきの薄っぺらうすっぺらな、のめりの駒下駄こまげたがある。
奥おくでもう万歳ばんざいですよと云ういう声こえが聞えるきこえる。
お客おきゃくとは野のだだなと気きがついた。
野のだでなくては、あんな黄色いきいろい声こえを出しだして、こんな芸人げいにんじみた下駄げたを穿くはくものはない。
しばらくすると、赤あかシャツしゃつがランプらんぷを持っもって玄関げんかんまで出でて来きて、まあ上がりあがりたまえ、外そとの人ひとじゃない吉川よしかわ君きみだ、と云ういうから、いえここでたくさんです。
ちょっと話せはなせばいいんです、と云っいって、赤あかシャツしゃつの顔かおを見るみると金時きんときのようだ。
野のだ公こうと一いち杯さかずき飲んのんでると見えるみえる。
「さっき僕ぼくの月給げっきゅうを上げあげてやるというお話はなしでしたが、少しすこし考えかんがえが変っかわったから断わりことわりに来きたんです」 赤あかシャツしゃつはランプらんぷを前まえへ出しだして、奥おくの方ほうからおれの顔かおを眺めながめたが、とっさの場合ばあい返事へんじをしかねて茫然ぼうぜんとしている。
増給ぞうきゅうを断わることわる奴やつが世の中よのなかにたった一人ひとり飛び出しとびだして来きたのを不審ふしんに思っおもったのか、断わることわるにしても、今いま帰っかえったばかりで、すぐ出直しでなおしてこなくってもよさそうなものだと、呆れ返っあきれかえったのか、または双方そうほう合併がっぺいしたのか、妙みょうな口くちをして突っ立っつったったままである。
「あの時じ承知しょうちしたのは、古賀こが君きみが自分じぶんの希望きぼうで転任てんにんするという話はなしでしたからで……」「古賀こが君きみは全くまったく自分じぶんの希望きぼうで半ばなかば転任てんにんするんです」「そうじゃないんです、ここに居いたいんです。元もとの月給げっきゅうでもいいから、郷里きょうりに居いたいのです」「君きみは古賀こが君きみから、そう聞いきいたのですか」「そりゃ当人とうにんから、聞いきいたんじゃありません」「じゃ誰だれからお聞きききです」「僕ぼくの下宿げしゅくの婆ばあさんが、古賀こがさんのおっ母さんははさんから聞いきいたのを今日きょう僕ぼくに話しはなしたのです」「じゃ、下宿げしゅくの婆ばあさんがそう云っいったのですね」「まあそうです」「それは失礼しつれいながら少しすこし違うちがうでしょう。あなたのおっしゃる通りとおりだと、下宿屋げしゅくやの婆ばあさんの云ういう事ことは信ずるしんずるが、教頭きょうとうの云ういう事ことは信じしんじないと云ういうように聞えるきこえるが、そういう意味いみに解釈かいしゃくして差支えさしつかえないでしょうか」 おれはちょっと困っこまった。
文学ぶんがく士しなんてものはやっぱりえらいものだ。
妙みょうな所ところへこだわって、ねちねち押し寄せおしよせてくる。
おれはよく親父おやじから貴様きさまはそそっかしくて駄目だめだ駄目だめだと云わいわれたが、なるほど少々しょうしょうそそっかしいようだ。
婆ばあさんの話はなしを聞いきいてはっと思っおもって飛び出しとびだして来きたが、実じつはうらなり君きみにもうらなりのおっ母さんははさんにも逢っあって詳しいくわしい事情じじょうは聞いきいてみなかったのだ。
だからこう文学ぶんがく士し流りゅうに斬りきり付けつけられると、ちょっと受け留めうけとめにくい。
正面しょうめんからは受け留めうけとめにくいが、おれはもう赤あかシャツしゃつに対したいして不信任ふしんにんを心こころの中なかで申し渡しもうしわたしてしまった。
下宿げしゅくの婆ばあさんもけちん坊けちんぼの欲張りよくばり屋やに相違そういないが、嘘うそは吐かはかない女おんなだ、赤あかシャツしゃつのように裏表うらおもてはない。
おれは仕方しかたがないから、こう答えこたえた。
「あなたの云ういう事ことは本当ほんとうかも知れしれないですが――とにかく増給ぞうきゅうはご免ごめん蒙りこうむります」「それはますます可笑しいおかしい。今いま君きみがわざわざお出でになったのは増俸ぞうほうを受けるうけるには忍びしのびない、理由りゆうを見出しみだしたからのように聞えきこえたが、その理由りゆうが僕ぼくの説明せつめいで取り去らとりさられたにもかかわらず増俸ぞうほうを否まいなまれるのは少しすこし解しかいしかねるようですね」「解しかいしかねるかも知れしれませんがね。とにかく断わりことわりますよ」「そんなに否いななら強いてしいてとまでは云いいいませんが、そう二三にさん時間じかんのうちに、特別とくべつの理由りゆうもないのに豹変ひょうへんしちゃ、将来しょうらい君きみの信用しんようにかかわる」「かかわっても構わかまわないです」「そんな事ことはないはずです、人間にんげんに信用しんようほど大切たいせつなものはありませんよ。よしんば今いま一歩いちほ譲っゆずって、下宿げしゅくの主人しゅじんが……」「主人しゅじんじゃない、婆ばあさんです」「どちらでもよろしい。下宿げしゅくの婆ばあさんが君きみに話しはなした事ことを事実じじつとしたところで、君きみの増給ぞうきゅうは古賀こが君きみの所得しょとくを削っけずって得とくたものではないでしょう。古賀こが君きみは延岡のべおかへ行かいかれる。その代りかわりがくる。その代りかわりが古賀こが君きみよりも多少たしょう低てい給きゅうで来きてくれる。その剰余じょうよを君きみに廻わすまわすと云ういうのだから、君きみは誰だれにも気の毒きのどくがる必要ひつようはないはずです。古賀こが君きみは延岡のべおかでただ今ただいまよりも栄進えいしんされる。新任しんにん者ものは最初さいしょからの約束やくそくで安くやすくくる。それで君きみが上がらあがられれば、これほど都合つごうのいい事ことはないと思うおもうですがね。いやなら否いなでもいいが、もう一いち返かえしうちでよく考えかんがえてみませんか」 おれの頭あたまはあまりえらくないのだから、いつもなら、相手あいてがこういう巧妙こうみょうな弁舌べんぜつを揮えふるえば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違っまちがってたと恐れ入っおそれいって引きさがるひきさがるのだけれども、今夜こんやはそうは行かいかない。
ここへ来きた最初さいしょから赤あかシャツしゃつは何なんだか虫むしが好かよしみかなかった。
途中とちゅうで親切しんせつな女おんなみたような男おとこだと思い返しおもいかえした事ことはあるが、それが親切しんせつでも何なんでもなさそうなので、反動はんどうの結果けっか今いまじゃよっぽど厭いやになっている。
だから先さきがどれほどうまく論理的ろんりてきに弁論べんろんを逞くたくましくしようとも、堂々どうどうたる教頭きょうとう流りゅうにおれを遣り込めようやりこめようとも、そんな事ことは構わかまわない。
議論ぎろんのいい人ひとが善人ぜんにんとはきまらない。
遣り込めやりこめられる方ほうが悪人あくにんとは限らかぎらない。
表向きおもてむきは赤あかシャツしゃつの方ほうが重々じゅうじゅうもっともだが、表向きおもてむきがいくら立派りっぱだって、腹はらの中なかまで惚れほれさせる訳わけには行かいかない。
金きんや威力いりょくや理屈りくつで人間にんげんの心こころが買えるかえる者ものなら、高利貸こうりかしでも巡査じゅんさでも大学だいがく教授きょうじゅでも一番いちばん人ひとに好かよしみかれなくてはならない。
中学ちゅうがくの教頭きょうとうぐらいな論法ろんぽうでおれの心こころがどう動くうごくものか。
人間にんげんは好き嫌いすききらいで働くはたらくものだ。
論法ろんぽうで働くはたらくものじゃない。
「あなたの云ういう事ことはもっともですが、僕ぼくは増給ぞうきゅうがいやになったんですから、まあ断わりことわります。考えかんがえたって同じおなじ事ことです。さようなら」と云いすていいすてて門もんを出でた。
頭あたまの上うえには天の川あまのがわが一筋ひとすじかかっている。
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