坊っちゃん

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九

第 9 章
うらなり君きみの送別会そうべつかいのあるという日ひの朝あさ、学校がっこうへ出でたら、山嵐やまあらしが突然とつぜん、君きみ先だってせんだってはいか銀ぎんが来きて、君きみが乱暴らんぼうして困るこまるから、どうか出るでるように話しはなしてくれと頼んたのんだから、真面目まじめに受けうけて、君きみに出でてやれと話しはなしたのだが、あとから聞いきいてみると、あいつは悪るいわるい奴やつで、よく偽筆ぎひつへ贋にせ落款らっかんなどを押しおして売りつけるうりつけるそうだから、全くまったく君きみの事ことも出鱈目でたらめに違いちがいない。
君きみに懸物かけものや骨董こっとうを売りつけうりつけて、商売しょうばいにしようと思っおもってたところが、君きみが取り合わとりあわないで儲けもうけがないものだから、あんな作りごとつくりごとをこしらえて胡魔化しごまかしたのだ。
僕ぼくはあの人物じんぶつを知らしらなかったので君きみに大変たいへん失敬しっけいした勘弁かんべんしたまえと長々しいながながしい謝罪しゃざいをした。
おれは何なんとも云わいわずに、山嵐やまあらしの机つくえの上うえにあった、一いち銭せん五ご厘りんをとって、おれの蝦蟇口がまぐちのなかへ入れいれた。
山嵐やまあらしは君きみそれを引き込めるひきこめるのかと不審ふしんそうに聞くきくから、うんおれは君きみに奢らおごられるのが、いやだったから、是非ぜひ返すかえすつもりでいたが、その後そのあとだんだん考えかんがえてみると、やっぱり奢っおごってもらう方ほうがいいようだから、引き込まひきこますんだと説明せつめいした。
山嵐やまあらしは大きなおおきな声こえをしてアハハハあはははと笑いわらいながら、そんなら、なぜ早くはやく取らとらなかったのだと聞いきいた。
実じつは取ろうとろう取ろうとろうと思っおもってたが、何なんだか妙みょうだからそのままにしておいた。
近来きんらいは学校がっこうへ来きて一いち銭せん五ご厘りんを見るみるのが苦くになるくらいいやだったと云っいったら、君きみはよっぽど負け惜しみまけおしみの強いつよい男おとこだと云ういうから、君きみはよっぽど剛つよし情じょう張りばりだと答えこたえてやった。
それから二人ふたりの間まにこんな問答もんどうが起っおこった。
「君きみは一体いったいどこの産さんだ」「おれは江戸っ子えどっこだ」「うん、江戸っ子えどっこか、道理どうりで負け惜しみまけおしみが強いつよいと思っおもった」「きみはどこだ」「僕ぼくは会津あいづだ」「会津あいづっぽか、強情ごうじょな訳わけだ。今日きょうの送別会そうべつかいへ行くいくのかい」「行くいくとも、君きみは?」「おれは無論むろん行くいくんだ。古賀こがさんが立つたつ時じは、浜はままで見送りみおくりに行こういこうと思っおもってるくらいだ」「送別会そうべつかいは面白いおもしろいぜ、出でて見みたまえ。今日きょうは大いにおおいに飲むのむつもりだ」「勝手にかってに飲むのむがいい。おれは肴さかなを食っしょくったら、すぐ帰るかえる。酒さけなんか飲むのむ奴やつは馬鹿ばかだ」「君きみはすぐ喧嘩けんかを吹きふき懸けるかける男おとこだ。なるほど江戸っ子えどっこの軽けい跳とべな風かぜを、よく、あらわしてる」「何なんでもいい、送別会そうべつかいへ行くいく前まえにちょっとおれのうちへお寄りより、話しはなしがあるから」
山嵐やまあらしは約束やくそく通りとおりおれの下宿げしゅくへ寄っよった。
おれはこの間まから、うらなり君きみの顔かおを見るみる度どに気の毒きのどくでたまらなかったが、いよいよ送別そうべつの今日きょうとなったら、何なんだか憐れあわれっぽくって、出来るできる事ことなら、おれが代りかわりに行っいってやりたい様ような気きがしだした。
それで送別会そうべつかいの席上せきじょうで、大いにおおいに演説えんぜつでもしてその行こうを盛さかんにしてやりたいと思うおもうのだが、おれのべらんめえ調子ちょうしじゃ、到底とうてい物ものにならないから、大きなおおきな声こえを出すだす山嵐やまあらしを雇っやとって、一番いちばん赤あかシャツしゃつの荒肝あらぎもを挫いくじいでやろうと考え付いかんがえついたから、わざわざ山嵐やまあらしを呼んよんだのである。
おれはまず冒頭ぼうとうとしてマドンナまどんな事件じけんから説き出しときだしたが、山嵐やまあらしは無論むろんマドンナまどんな事件じけんはおれより詳しくくわしく知っしっている。
おれが野の芹川せりかわの土手どての話はなしをして、あれは馬鹿ばか野郎やろうだと云っいったら、山嵐やまあらしは君きみはだれを捕まえつかまえても馬鹿ばか呼こわりをする。
今日きょう学校がっこうで自分じぶんの事ことを馬鹿ばかと云っいったじゃないか。
自分じぶんが馬鹿ばかなら、赤あかシャツしゃつは馬鹿ばかじゃない。
自分じぶんは赤あかシャツしゃつの同類どうるいじゃないと主張しゅちょうした。
それじゃ赤あかシャツしゃつは腑抜けふぬけの呆助ほうじょだと云っいったら、そうかもしれないと山嵐やまあらしは大いにおおいに賛成さんせいした。
山嵐やまあらしは強いつよい事ことは強いつよいが、こんな言葉ことばになると、おれより遥かはるかに字じを知っしっていない。
会津あいづっぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
それから増給ぞうきゅう事件じけんと将来しょうらい重くおもく登用とうようすると赤あかシャツしゃつが云っいった話はなしをしたら山嵐やまあらしはふふんと鼻はなから声こえを出しだして、それじゃ僕ぼくを免職めんしょくする考えかんがえだなと云っいった。
免職めんしょくするつもりだって、君きみは免職めんしょくになる気きかと聞いきいたら、誰だれがなるものか、自分じぶんが免職めんしょくになるなら、赤あかシャツしゃつもいっしょに免職めんしょくさせてやると大いにおおいに威張っいばった。
どうしていっしょに免職めんしょくさせる気きかと押し返しおしかえして尋ねたずねたら、そこはまだ考えかんがえていないと答えこたえた。
山嵐やまあらしは強きょうそうだが、智慧ちえはあまりなさそうだ。
おれが増給ぞうきゅうを断わっことわったと話しはなしたら、大将たいしょう大きにおおきに喜んよろこんでさすが江戸っ子えどっこだ、えらいと賞めほめてくれた。
うらなりが、そんなに厭いやがっているなら、なぜ留任りゅうにんの運動うんどうをしてやらなかったと聞いきいてみたら、うらなりから話はなしを聞いきいた時じは、既にすでにきまってしまって、校長こうちょうへ二に度ど、赤あかシャツしゃつへ一度いちど行っいって談判だんぱんしてみたが、どうする事ことも出来できなかったと話しはなした。
それについても古賀こががあまり好人物こうじんぶつ過ぎるすぎるから困るこまる。
赤あかシャツしゃつから話はなしがあった時じ、断然だんぜん断わることわるか、一応いちおう考えかんがえてみますと逃げれにげればいいのに、あの弁舌べんぜつに胡魔化さごまかされて、即席そくせきに許諾きょだくしたものだから、あとからお母さんおははさんが泣きついなきついても、自分じぶんが談判だんぱんに行っいっても役やくに立たたたなかったと非常ひじょうに残念ざんねんがった。
今度こんどの事件じけんは全くまったく赤あかシャツしゃつが、うらなりを遠ざけとおざけて、マドンナまどんなを手てに入れるいれる策略さくりゃくなんだろうとおれが云っいったら、無論むろんそうに違いちがいない。
あいつは大人しいおとなしい顔かおをして、悪事あくじを働いはたらいて、人ひとが何なんか云ういうと、ちゃんと逃とう道みちを拵えこしらえて待っまってるんだから、よっぽど奸物かんぶつだ。
あんな奴やつにかかっては鉄拳てっけん制裁せいさいでなくっちゃ利かりかないと、瘤こぶだらけの腕うでをまくってみせた。
おれはついでだから、君きみの腕うでは強きょうそうだな柔術じゅうじゅつでもやるかと聞いきいてみた。
すると大将たいしょう二の腕にのうでへ力瘤ちからこぶを入れいれて、ちょっと攫んつかんでみろと云ういうから、指ゆびの先さきで揉んもんでみたら、何なんの事ことはない湯屋ゆやにある軽石かるいしの様ようなものだ。
おれはあまり感心かんしんしたから、君きみそのくらいの腕うでなら、赤あかシャツしゃつの五ご人ひとや六ろく人ひとは一度いちどに張り飛ばさはりとばされるだろうと聞いきいたら、無論むろんさと云いいいながら、曲げまげた腕うでを伸ばしのばしたり、縮まちぢましたりすると、力瘤ちからこぶがぐるりぐるりと皮かわのなかで廻転かいてんする。
すこぶる愉快ゆかいだ。
山嵐やまあらしの証明しょうめいする所ところによると、かんじん綯りを二に本ほんより合せあわせて、この力瘤ちからこぶの出るでる所ところへ巻きつけまきつけて、うんと腕うでを曲げるまげると、ぷつりと切れるきれるそうだ。
かんじんよりなら、おれにも出来できそうだと云っいったら、出来るできるものか、出来るできるならやってみろと来きた。
切れきれないと外聞がいぶんがわるいから、おれは見合せみあわせた。
君きみどうだ、今夜こんやの送別会そうべつかいに大いにおおいに飲んのんだあと、赤あかシャツしゃつと野のだを撲っなぐってやらないかと面白おもしろ半分はんぶんに勧めすすめてみたら、山嵐やまあらしはそうだなと考えかんがえていたが、今夜こんやはまあよそうと云っいった。
なぜと聞くきくと、今夜こんやは古賀こがに気の毒きのどくだから――それにどうせ撲るなぐるくらいなら、あいつらの悪るいわるい所ところを見届けみとどけて現場げんばで撲らなぐらなくっちゃ、こっちの落度おちどになるからと、分別ぶんべつのありそうな事ことを附加ふかした。
山嵐やまあらしでもおれよりは考えかんがえがあると見えるみえる。
じゃ演説えんぜつをして古賀こが君きみを大いにおおいにほめてやれ、おれがすると江戸っ子えどっこのぺらぺらになって重みおもみがなくていけない。
そうして、きまった所ところへ出るでると、急きゅうに溜飲りゅういんが起っおこって咽喉のどの所ところへ、大きなおおきな丸まるが上がっあがって来きて言葉ことばが出でないから、君きみに譲るゆずるからと云っいったら、妙みょうな病気びょうきだな、じゃ君きみは人中ひとなかじゃ口くちは利けきけないんだね、困るこまるだろう、と聞くきくから、何なんそんなに困りゃこまりゃしないと答えこたえておいた。
そうこうするうち時間じかんが来きたから、山嵐やまあらしと一所いっしょに会場かいじょうへ行くいく。
会場かいじょうは花はな晨あした亭てぃんといって、当地とうちで第だい一いち等とうの料理屋りょうりやだそうだが、おれは一度いちども足あしを入れいれた事ことがない。
もとの家老かろうとかの屋敷やしきを買い入れかいいれて、そのまま開業かいぎょうしたという話はなしだが、なるほど見み懸からかからして厳めしいいかめしい構えかまえだ。
家老かろうの屋敷やしきが料理屋りょうりやになるのは、陣羽織じんはおりを縫い直しぬいなおして、胴着どうぎにする様ようなものだ。
二人ふたりが着いついた頃ころには、人数にんずうももう大概たいがい揃っそろって、五十ごじゅう畳たたみの広間ひろまに二につ三さんつ人間にんげんの塊かたまりが出来できている。
五十ごじゅう畳たたみだけに床ゆかは素敵すてきに大きいおおきい。
おれが山城屋やましろやで占領せんりょうした十五じゅうご畳たたみ敷しきの床ゆかとは比較ひかくにならない。
尺さしを取っとってみたら二に間まあった。
右みぎの方ほうに、赤いあかい模様もようのある瀬戸物せとものの瓶びんを据えすえて、その中なかに松まつの大きなおおきな枝えだが挿しさしてある。
松まつの枝えだを挿しさして何なんにする気きか知らしらないが、何なんヶ月かげつ立ったっても散るちる気遣いきづかいがないから、銭せんが懸らかからなくって、よかろう。
あの瀬戸物せとものはどこで出来るできるんだと博物はくぶつの教師きょうしに聞いきいたら、あれは瀬戸物せとものじゃありません、伊万里いまりですと云っいった。
伊万里いまりだって瀬戸物せとものじゃないかと、云っいったら、博物はくぶつはえへへへへと笑っわらっていた。
あとで聞いきいてみたら、瀬戸せとで出来るできる焼物やきものだから、瀬戸せとと云ういうのだそうだ。
おれは江戸っ子えどっこだから、陶器とうきの事ことを瀬戸物せとものというのかと思っおもっていた。
床ゆかの真中まなかに大きなおおきな懸物かけものがあって、おれの顔かおくらいな大きさおおきさな字じが二十八にじゅうはち字じかいてある。
どうも下手へたなものだ。
あんまり不味いまじいから、漢学かんがくの先生せんせいに、なぜあんなまずいものを麗々れいれいと懸けかけておくんですと尋ねたずねたところ、先生せんせいはあれは海うみ屋やといって有名ゆうめいな書家しょかのかいた者ものだと教えおしえてくれた。
海屋かいおくだか何なんだか、おれは今いまだに下手へただと思っおもっている。
やがて書記しょきの川村かわむらがどうかお着席ちゃくせきをと云ういうから、柱はしらがあって靠りかかるのに都合つごうのいい所ところへ坐っすわった。
海屋かいおくの懸物かけものの前まえに狸たぬきが羽織はおり、袴はかまで着席ちゃくせきすると、左ひだりに赤あかシャツしゃつが同じくおなじく羽織はおり袴はかまで陣取っじんどった。
右みぎの方ほうは主人公しゅじんこうだというのでうらなり先生せんせい、これも日本にっぽん服ふくで控えひかえている。
おれは洋服ようふくだから、かしこまるのが窮屈きゅうくつだったから、すぐ胡坐こざをかいた。
隣りとなりの体操たいそう教師きょうしは黒くろずぼんで、ちゃんとかしこまっている。
体操たいそうの教師きょうしだけにいやに修行しゅぎょうが積んつんでいる。
やがてお膳ぜんが出るでる。
徳利とっくりが並ぶならぶ。
幹事かんじが立ったって、一言ひとこと開会かいかいの辞じを述べるのべる。
それから狸たぬきが立つたつ。
赤あかシャツしゃつが起つたつ。
ことごとく送別そうべつの辞じを述べのべたが、三さん人ひと共とも申し合せもうしあわせたようにうらなり君きみの、良りょう教師きょうしで好人物こうじんぶつな事ことを吹聴ふいちょうして、今回こんかい去らさられるのはまことに残念ざんねんである、学校がっこうとしてのみならず、個人こじんとして大いにおおいに惜しむおしむところであるが、ご一身上いちしんじょうのご都合ごつごうで、切にせつに転任てんにんをご希望きぼうになったのだから致し方いたしかたがないという意味いみを述べのべた。
こんな嘘うそをついて送別会そうべつかいを開いひらいて、それでちっとも恥かしいはずかしいとも思っおもっていない。
ことに赤あかシャツしゃつに至っいたって三さん人ひとのうちで一番いちばんうらなり君きみをほめた。
この良友りょうゆうを失ううしなうのは実じつに自分じぶんにとって大おおなる不幸ふこうであるとまで云っいった。
しかもそのいい方ほうがいかにも、もっともらしくって、例れいのやさしい声こえを一層いっそうやさしくして、述べ立てるのべたてるのだから、始めはじめて聞いきいたものは、誰だれでもきっとだまされるに極っきょくってる。
マドンナまどんなも大方おおかたこの手てで引いん掛けかけたんだろう。
赤あかシャツしゃつが送別そうべつの辞じを述べ立てのべたてている最中さいちゅう、向側むかいがわに坐っすわっていた山嵐やまあらしがおれの顔かおを見みてちょっと稲光いなびかりをさした。
おれは返電へんでんとして、人指し指ひとさしゆびでべっかんこうをして見せみせた。
赤あかシャツしゃつが座ざに復するふくするのを待ちまちかねて、山嵐やまあらしがぬっと立ち上がったちあがったから、おれは嬉しかっうれしかったので、思わおもわず手てをぱちぱちと拍っうった。
すると狸たぬきを始めはじめ一同いちどうがことごとくおれの方ほうを見みたには少々しょうしょう困っこまった。
山嵐やまあらしは何なんを云ういうかと思うおもうとただ今いま校長こうちょう始めはじめことに教頭きょうとうは古賀こが君きみの転任てんにんを非常ひじょうに残念ざんねんがられたが、私わたくしは少々しょうしょう反対はんたいで古賀こが君きみが一日いちにちも早くはやく当地とうちを去らさられるのを希望きぼうしております。
延岡のべおかは僻遠へきえんの地ちで、当地とうちに比べくらべたら物質ぶっしつ上うえの不便ふべんはあるだろう。
が、聞くきくところによれば風俗ふうぞくのすこぶる淳朴じゅんぼくな所ところで、職員しょくいん生徒せいとことごとく上代じょうだい樸直ぼくちょくの気風きふうを帯びおびているそうである。
心こころにもないお世辞おせじを振りふり蒔いまいたり、美しいうつくしい顔かおをして君子くんしを陥れおちいれたりするハイカラはいから野郎やろうは一人ひとりもないと信ずるしんずるからして、君きみのごとき温良おんりょう篤あつし厚あつしの士しは必ずかならずその地方ちほう一般いっぱんの歓迎かんげいを受けうけられるに相違そういない。
吾輩わがはいは大いにおおいに古賀こが君きみのためにこの転任てんにんを祝するしゅくするのである。
終りおわりに臨んのぞんで君きみが延岡のべおかに赴任ふにんされたら、その地ちの淑女しゅくじょにして、君子くんしの好逑こうきゅうとなるべき資格しかくあるものを択んえらんで一いち日ひも早くはやく円満えんまんなる家庭かていをかたち作っつくって、かの不貞ふてい無節むぶしなるお転婆おてんばを事実じじつの上うえにおいて慚死ざんしせしめん事ことを希望きぼうします。
えへんえへんと二につばかり大きなおおきな咳払いせきばらいをして席せきに着いついた。
おれは今度こんども手てを叩こうたたこうと思っおもったが、またみんながおれの面めんを見るみるといやだから、やめにしておいた。
山嵐やまあらしが坐るすわると今度こんどはうらなり先生せんせいが起っおこった。
先生せんせいはご鄭てい寧ねいに、自席じせきから、座敷ざしきの端はしの末座まつざまで行っいって、慇懃いんぎんに一同いちどうに挨拶あいさつをした上うえ、今般こんぱんは一身上いちしんじょうの都合つごうで九州きゅうしゅうへ参るまいる事ことになりましたについて、諸もろ先生せんせい方ほうが小生しょうせいのためにこの盛大せいだいなる送別会そうべつかいをお開きひらき下さっくださったのは、まことに感銘かんめいの至りいたりに堪えこらえぬ次第しだいで――ことにただ今ただいまは校長こうちょう、教頭きょうとうその他ほか諸君しょくんの送別そうべつの辞じを頂戴ちょうだいして、大いにおおいに難なん有ゆうく服膺ふくようする訳わけであります。
私わたくしはこれから遠方えんぽうへ参りまいりますが、なにとぞ従前じゅうぜんの通りとおりお見捨てみすてなくご愛顧あいこのほどを願いねがいます。
とへえつく張っちょうって席せきに戻っもどった。
うらなり君きみはどこまで人ひとが好いよいんだか、ほとんど底そこが知れしれない。
自分じぶんがこんなに馬鹿ばかにされている校長こうちょうや、教頭きょうとうに恭しくうやうやしくお礼おれいを云っいっている。
それも義理ぎり一遍いちぺんの挨拶あいさつならだが、あの様子ようすや、あの言葉つきことばつきや、あの顔つきかおつきから云ういうと、心こころから感謝かんしゃしているらしい。
こんな聖人せいじんに真面目まじめにお礼おれいを云わいわれたら、気の毒きのどくになって、赤面せきめんしそうなものだが狸たぬきも赤あかシャツしゃつも真面目まじめに謹聴きんちょうしているばかりだ。
挨拶あいさつが済んすんだら、あちらでもチューちゅう、こちらでもチューちゅう、という音おとがする。
おれも真似まねをして汁しるを飲んのんでみたがまずいもんだ。
口取くちとりに蒲鉾かまぼこはついてるが、どす黒くどすぐろくて竹輪ちくわの出来でき損ないそこないである。
刺身さしみも並んならんでるが、厚くあつくって鮪まぐろの切り身きりみを生なまで食うくうと同じおなじ事ことだ。
それでも隣りとなり近所きんじょの連中れんちゅうはむしゃむしゃ旨むねそうに食っしょくっている。
大方おおかた江戸えど前まえの料理りょうりを食っしょくった事ことがないんだろう。
そのうち燗かん徳利とっくりが頻繁ひんぱんに往来おうらいし始めはじめたら、四方しほうが急きゅうに賑やかにぎやかになった。
野のだ公こうは恭しくうやうやしく校長こうちょうの前まえへ出でて盃さかずきを頂いいただいてる。
いやな奴やつだ。
うらなり君きみは順々じゅんじゅんに献酬けんしゅうをして、一巡いちじゅん周るまわるつもりとみえる。
はなはだご苦労ごくろうである。
うらなり君きみがおれの前まえへ来きて、一いちつ頂戴ちょうだい致しいたしましょうと袴はかまのひだを正しただして申し込まもうしこまれたから、おれも窮屈きゅうくつにズボンずぼんのままかしこまって、一いち盃さかずき差し上げさしあげた。
せっかく参っまいって、すぐお別れわかれになるのは残念ざんねんですね。
ご出立しゅったつはいつです、是非ぜひ浜はままでお見送りみおくりをしましょうと云っいったら、うらなり君きみはいえご用ごよう多さわのところ決してけっしてそれには及びおよびませんと答えこたえた。
うらなり君きみが何なんと云っいったって、おれは学校がっこうを休んやすんで送るおくる気きでいる。
それから一いち時間じかんほどするうちに席上せきじょうは大分おおいた乱れみだれて来るくる。
まあ一杯いちばい、おや僕ぼくが飲めのめと云ういうのに……などと呂律ろれつの巡りめぐりかねるのも一人ひとり二人ふたり出来できて来きた。
少々しょうしょう退屈たいくつしたから便所べんじょへ行っいって、昔むかし風かぜな庭にわを星明りほしあかりにすかして眺めながめていると山嵐やまあらしが来きた。
どうださっきの演説えんぜつはうまかったろう。
と大分おおいた得意とくいである。
大おお賛成さんせいだが一いちヶ所かしょ気きに入らはいらないと抗議こうぎを申し込んもうしこんだら、どこが不賛成ふさんせいだと聞いきいた。
「美しいうつくしい顔かおをして人ひとを陥れるおとしいれるようなハイカラはいから野郎やろうは延岡のべおかに居らおらないから……と君きみは云っいったろう」「うん」「ハイカラはいから野郎やろうだけでは不足ふそくだよ」
「じゃ何なんと云ういうんだ」「ハイカラはいから野郎やろうの、ペテン師ぺてんしの、イカサマいかさま師しの、猫被りねこかぶりの、香具師やしの、モモンガーももんがの、岡っ引きおかっぴきの、わんわん鳴けなけば犬いぬも同然どうぜんな奴やつとでも云ういうがいい」「おれには、そう舌したは廻らまわらない。君きみは能弁のうべんだ。第だい一いち単語たんごを大変たいへんたくさん知っしってる。それで演舌えんぜつが出来できないのは不思議ふしぎだ」「なにこれは喧嘩けんかのときに使おうつかおうと思っおもって、用心ようじんのために取っとっておく言葉ことばさ。演舌えんぜつとなっちゃ、こうは出でない」「そうかな、しかしぺらぺら出るでるぜ。もう一遍いちぺんやって見みたまえ」「何なん遍へんでもやるさいいか。――ハイカラはいから野郎やろうのペテン師ぺてんしの、イカサマいかさま師しの……」と云いいいかけていると、椽えん側がわをどたばた云わしいわして、二人ふたりばかり、よろよろしながら馳はせけ出しけだして来きた。
「両君りょうくんそりゃひどい、――逃げるにげるなんて、――僕ぼくが居るいるうちは決してけっして逃さのがさない、さあのみたまえ。――いかさま師いかさまし?――面白いおもしろい、いかさま面白いおもしろい。――さあ飲みのみたまえ」とおれと山嵐やまあらしをぐいぐい引っ張っひっぱって行くいく。
実じつはこの両人りょうにん共とも便所べんじょに来きたのだが、酔っよいってるもんだから、便所べんじょへはいるのを忘れわすれて、おれ等とうを引っ張るひっぱるのだろう。
酔っ払いよっぱらいは目めの中るあたる所ところへ用事ようじを拵えこしらえて、前まえの事ことはすぐ忘れわすれてしまうんだろう。
「さあ、諸君しょくん、いかさま師いかさましを引っ張っひっぱって来きた。さあ飲ましのましてくれたまえ。いかさま師いかさましをうんと云ういうほど、酔わしよわしてくれたまえ。君きみ逃げにげちゃいかん」と逃げにげもせぬ、おれを壁際かべぎわへ圧しおし付けつけた。
諸方しょほうを見廻しみまわしてみると、膳ぜんの上うえに満足まんぞくな肴さかなの乗っのっているのは一いちつもない。
自分じぶんの分ぶんを奇麗きれいに食いくい尽しつくして、五六ごろく間ま先さきへ遠征えんせいに出でた奴やつもいる。
校長こうちょうはいつ帰っかえったか姿すがたが見えみえない。
ところへお座敷おざしきはこちら?
と芸者げいしゃが三四さんよん人ひとはいって来きた。
おれも少しすこし驚ろいおどろいたが、壁際かべぎわへ圧しおし付けつけられているんだから、じっとしてただ見みていた。
すると今までいままで床柱とこばしらへもたれて例れいの琥珀こはくのパイプぱいぷを自慢じまんそうに啣えていた、赤あかシャツしゃつが急きゅうに起っおこって、座敷ざしきを出でにかかった。
向うむこうからはいって来きた芸者げいしゃの一人ひとりが、行き違いいきちがいながら、笑っわらって挨拶あいさつをした。
その一人ひとりは一番いちばん若くわかくて一番いちばん奇麗きれいな奴やつだ。
遠くとおくで聞えきこえなかったが、おや今晩はこんばんはぐらい云っいったらしい。
赤あかシャツしゃつは知らしらん顔かおをして出でて行っいったぎり、顔かおを出さださなかった。
大方おおかた校長こうちょうのあとを追つい懸けかけて帰っかえったんだろう。
芸者げいしゃが来きたら座敷ざしき中なか急きゅうに陽気ようきになって、一同いちどうが鬨の声ときのこえを揚げあげて歓迎かんげいしたのかと思うおもうくらい、騒々しいそうぞうしい。
そうしてある奴やつはなんこを攫むつかむ。
その声こえの大きなおおきな事こと、まるで居合いあい抜ぬけの稽古けいこのようだ。
こっちでは拳こぶしを打っうってる。
よっ、はっ、と夢中むちゅうで両手りょうてを振るふるところは、ダークだーく一座いちざの操人形みさおにんぎょうよりよっぽど上手じょうずだ。
向うむこうの隅すみではおいお酌しゃくだ、と徳利とっくりを振っふってみて、酒さけだ酒さけだと言い直しいいなおしている。
どうもやかましくて騒々しくそうぞうしくってたまらない。
そのうちで手持無沙汰てもちむさたに下したを向いむかいて考え込んかんがえこんでるのはうらなり君きみばかりである。
自分じぶんのために送別会そうべつかいを開いひらいてくれたのは、自分じぶんの転任てんにんを惜んおしんでくれるんじゃない。
みんなが酒さけを呑んのんで遊ぶあそぶためだ。
自分じぶん独りひとりが手持無沙汰てもちむさたで苦しむくるしむためだ。
こんな送別会そうべつかいなら、開いひらいてもらわない方ほうがよっぽどましだ。
しばらくしたら、めいめい胴間声どうまこえを出しだして何なんか唄いうたい始めはじめた。
おれの前まえへ来きた一人ひとりの芸者げいしゃが、あんた、なんぞ、唄いうたいなはれ、と三味線しゃみせんを抱えかかえたから、おれは唄わうたわない、貴様きさま唄っうたってみろと云っいったら、金きんや太鼓たいこでねえ、迷子まいごの迷子まいごの三太郎さんたろうと、どんどこ、どんのちゃんちきりん。
叩いたたいて廻っまわって逢わあわれるものならば、わたしなんぞも、金きんや太鼓たいこでどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いたたいて廻っまわって逢いあいたい人ひとがある、と二にた息いきにうたって、おおしんどと云っいった。
おおしんどなら、もっと楽らくなものをやればいいのに。
すると、いつの間まにか傍そばへ来きて坐っすわった、野のだが、鈴すずちゃん逢いあいたい人ひとに逢っあったと思っおもったら、すぐお帰りかえりで、お気の毒きのどくさまみたようでげすと相そう変らかわらず噺はなしし家いえみたような言葉使いことばづかいをする。
知りしりまへんと芸者げいしゃはつんと済ましすました。
野のだは頓着とんちゃくなく、たまたま逢いあいは逢いあいながら……と、いやな声こえを出しだして義太夫ぎだゆうの真似まねをやる。
おきなはれやと芸者げいしゃは平手ひらてで野のだの膝ひざを叩いたたいたら野のだは恐悦きょうえつして笑っわらってる。
この芸者げいしゃは赤あかシャツしゃつに挨拶あいさつをした奴やつだ。
芸者げいしゃに叩かたたかれて笑うわらうなんて、野のだもおめでたい者ものだ。
鈴すずちゃん僕ぼくが紀伊きいの国くにを踴るから、一いちつ弾いひいて頂戴ちょうだいと云いいい出しだした。
野のだはこの上うえまだ踴る気きでいる。
向うむこうの方ほうで漢学かんがくのお爺じいさんが歯はのない口くちを歪めゆがめて、そりゃ聞えきこえません伝兵衛でんべえさん、お前おまえとわたしのその中なかは……とまでは無事ぶじに済しなしたが、それから?
と芸者げいしゃに聞いきいている。
爺じいさんなんて物覚えものおぼえのわるいものだ。
一人ひとりが博物はくぶつを捕まえつかまえて近頃ちかごろこないなのが、でけましたぜ、弾いひいてみまほうか。
よう聞いきいて、いなはれや――花月かげつ巻まき、白いしろいリボンりぼんのハイカラはいから頭あたま、乗るのるは自転車じてんしゃ、弾くひくはヴァイオリンゔぁいおりん、半可はんかの英語えいごでぺらぺらと、Iamgladtoseeyouと唄ううたうと、博物はくぶつはなるほど面白いおもしろい、英語えいご入りいりだねと感心かんしんしている。
山嵐やまあらしは馬鹿ばかに大きなおおきな声こえを出しだして、芸者げいしゃ、芸者げいしゃと呼んよんで、おれが剣舞けんぶをやるから、三味線しゃみせんを弾けはじけと号令ごうれいを下しおろした。
芸者げいしゃはあまり乱暴らんぼうな声こえなので、あっけに取らとられて返事へんじもしない。
山嵐やまあらしは委細いさい構わかまわず、ステッキすてっきを持っもって来きて、踏破とうは千せん山万やままん岳たけ烟けむりと真中まなかへ出でて独りひとりで隠し芸かくしげいを演じえんじている。
ところへ野のだがすでに紀伊きいの国くにを済ましすまして、かっぽれを済ましすまして、棚たなの達磨だるまさんを済しなして丸裸まるはだかの越中えっちゅう褌ふんどし一いちつになって、棕梠しゅろ箒ほうきを小脇こわきに抱いいだい込んこんで、日清にっしん談判だんぱん破裂はれつして……と座敷ざしき中なか練りあるきねりあるき出しだした。
まるで気違いきちがいだ。
おれはさっきから苦しくるしそうに袴はかまも脱がぬがず控えひかえているうらなり君きみが気の毒きのどくでたまらなかったが、なんぼ自分じぶんの送別会そうべつかいだって、越中えっちゅう褌ふんどしの裸はだか踴まで羽織はおり袴はかまで我慢がまんしてみている必要ひつようはあるまいと思っおもったから、そばへ行っいって、古賀こがさんもう帰りかえりましょうと退去たいきょを勧めすすめてみた。
するとうらなり君きみは今日きょうは私わたくしの送別会そうべつかいだから、私わたくしが先さきへ帰っかえっては失礼しつれいです、どうぞご遠慮えんりょなくと動くうごく景色けしきもない。
なに構うかまうもんですか、送別会そうべつかいなら、送別会そうべつかいらしくするがいいです、あの様ようをご覧ごらんなさい。
気狂きちがい会かいです。
さあ行きいきましょうと、進ますすまないのを無理むりに勧めすすめて、座敷ざしきを出かかるでかかるところへ、野のだが箒ほうきを振り振りふりふり進行しんこうして来きて、やご主人しゅじんが先さきへ帰るかえるとはひどい。
日清にっしん談判だんぱんだ。
帰せかえせないと箒ほうきを横よこにして行く手ゆくてを塞いせいだ。
おれはさっきから肝きも癪しゃくが起っおこっているところだから、日清にっしん談判だんぱんなら貴様きさまはちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨げんこつで、野のだの頭あたまをぽかりと喰わしくわしてやった。
野のだは二三にさん秒びょうの間ま毒気どくけを抜かぬかれた体からだで、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。
お撲ちぶちになったのは情ないなさけない。
この吉川よしかわをご打擲ちょうちゃくとは恐れ入っおそれいった。
いよいよもって日清にっしん談判だんぱんだ。
とわからぬ事ことをならべているところへ、うしろから山嵐やまあらしが何なんか騒動そうどうが始まっはじまったと見みてとって、剣舞けんぶをやめて、飛んとんできたが、このていたらくを見みて、いきなり頸筋くびすじをうんと攫んつかんで引き戻しひきもどした。
日清にっしん……いたい。
いたい。
どうもこれは乱暴らんぼうだと振りふりもがくところを横よこに捩っもじったら、すとんと倒れたおれた。
あとはどうなったか知らしらない。
途中とちゅうでうらなり君きみに別れわかれて、うちへ帰っかえったら十一じゅういち時じ過ぎすぎだった。
9/10