坊っちゃん

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六

第 6 章
野のだは大嫌いだいきらいだ。
こんな奴やつは沢庵たくあん石いしをつけて海うみの底そこへ沈めしずめちまう方ほうが日本にっぽんのためだ。
赤あかシャツしゃつは声こえが気きに食わくわない。
あれは持前もちまえの声こえをわざと気取っきどってあんな優しいやさしいように見せみせてるんだろう。
いくら気取っきどったって、あの面めんじゃ駄目だめだ。
惚れるほれるものがあったってマドンナまどんなぐらいなものだ。
しかし教頭きょうとうだけに野のだよりむずかしい事ことを云ういう。
うちへ帰っかえって、あいつの申し条もうしじょうを考えかんがえてみると一応いちおうもっとものようでもある。
はっきりとした事ことは云わいわないから、見当けんとうがつきかねるが、何なんでも山嵐やまあらしがよくない奴やつだから用心ようじんしろと云ういうのらしい。
それならそうとはっきり断言だんげんするがいい、男おとこらしくもない。
そうして、そんな悪るいわるい教師きょうしなら、早くはやく免職めんしょくさしたらよかろう。
教頭きょうとうなんて文学ぶんがく士しの癖くせに意気地いきちのないもんだ。
蔭口かげぐちをきくのでさえ、公然こうぜんと名前なまえが云えいえないくらいな男おとこだから、弱虫よわむしに極まっきわまってる。
弱虫よわむしは親切しんせつなものだから、あの赤あかシャツしゃつも女おんなのような親切しんせつものなんだろう。
親切しんせつは親切しんせつ、声こえは声こえだから、声こえが気きに入らはいらないって、親切しんせつを無むにしちゃ筋すじが違うちがう。
それにしても世の中よのなかは不思議ふしぎなものだ、虫むしの好かよしみかない奴やつが親切しんせつで、気きのあった友達ともだちが悪漢あっかんだなんて、人ひとを馬鹿ばかにしている。
大方おおかた田舎いなかだから万事ばんじ東京とうきょうのさかに行くいくんだろう。
物騒ぶっそうな所ところだ。
今いまに火事かじが氷っこおって、石いしが豆腐とうふになるかも知れしれない。
しかし、あの山嵐やまあらしが生徒せいとを煽動せんどうするなんて、いたずらをしそうもないがな。
一番いちばん人望じんぼうのある教師きょうしだと云ういうから、やろうと思っおもったら大抵たいていの事ことは出来るできるかも知れしれないが、――第だい一いちそんな廻りまわりくどい事ことをしないでも、じかにおれを捕まえつかまえて喧嘩けんかを吹きふき懸けりゃかけりゃ手数てすうが省けるはぶける訳わけだ。
おれが邪魔じゃまになるなら、実じつはこれこれだ、邪魔じゃまだから辞職じしょくしてくれと云やいや、よさそうなもんだ。
物ものは相談そうだんずくでどうでもなる。
向うむこうの云いいい条じょうがもっともなら、明日あすにでも辞職じしょくしてやる。
ここばかり米べいが出来るできる訳わけでもあるまい。
どこの果かへ行っいったって、のたれ死しはしないつもりだ。
山嵐やまあらしもよっぽど話せはなせない奴やつだな。
ここへ来きた時じ第だい一いち番ばんに氷水こおりみずを奢っおごったのは山嵐やまあらしだ。
そんな裏表うらおもてのある奴やつから、氷水こおりみずでも奢っおごってもらっちゃ、おれの顔かおに関わるかかわる。
おれはたった一いち杯さかずきしか飲まのまなかったから一いち銭せん五ご厘りんしか払わしはらわしちゃない。
しかし一いち銭せんだろうが五ご厘りんだろうが、詐欺師さぎしの恩おんになっては、死ぬしぬまで心持ちこころもちがよくない。
あした学校がっこうへ行っいったら、一いち銭せん五ご厘りん返しかえしておこう。
おれは清きよしから三さん円えん借りかりている。
その三さん円えんは五ご年ねん経っきょうった今日きょうまでまだ返さかえさない。
返せかえせないんじゃない。
返さかえさないんだ。
清きよしは今いまに返すかえすだろうなどと、かりそめにもおれの懐中かいちゅうをあてにしてはいない。
おれも今いまに返そうかえそうなどと他人たにんがましい義理立てぎりたてはしないつもりだ。
こっちがこんな心配しんぱいをすればするほど清きよしの心こころを疑ぐるうたぐるようなもので、清きよしの美しいうつくしい心こころにけちを付けるつけると同じおなじ事ことになる。
返さかえさないのは清きよしを踏みつけるふみつけるのじゃない、清きよしをおれの片かた破れやぶれと思うおもうからだ。
清きよしと山嵐やまあらしとはもとより比べ物くらべものにならないが、たとい氷水こおりみずだろうが、甘茶あまちゃだろうが、他人たにんから恵めぐみを受けうけて、だまっているのは向うむこうをひとかどの人間にんげんと見立てみたてて、その人間にんげんに対するたいする厚意こういの所作しょさだ。
割前わりまえを出せだせばそれだけの事ことで済むすむところを、心こころのうちで難なん有ゆういと恩おんに着るきるのは銭金ぜにかねで買えるかえる返礼へんれいじゃない。
無位むい無冠むかんでも一人前いちにんまえの独立どくりつした人間にんげんだ。
独立どくりつした人間にんげんが頭あたまを下げるさげるのは百万ひゃくまん両りょうより尊みことといお礼れいと思わおもわなければならない。
おれはこれでも山嵐やまあらしに一いち銭せん五ご厘りん奮発ふんぱつさせて、百万ひゃくまん両りょうより尊みこととい返礼へんれいをした気きでいる。
山嵐やまあらしは難なん有ゆういと思っおもってしかるべきだ。
それに裏うらへ廻っまわって卑劣ひれつな振舞ふるまいをするとは怪しからあやしからん野郎やろうだ。
あした行っいって一いち銭せん五ご厘りん返しかえしてしまえば借りかりも貸しかしもない。
そうしておいて喧嘩けんかをしてやろう。
おれはここまで考えかんがえたら、眠くねむくなったからぐうぐう寝ねてしまった。
あくる日あくるひは思うおもう仔細しさいがあるから、例刻れいこくより早はやヤや目めに出校しゅっこうして山嵐やまあらしを待ち受けまちうけた。
ところがなかなか出でて来きない。
うらなりが出でて来るくる。
漢学かんがくの先生せんせいが出でて来るくる。
野のだが出でて来るくる。
しまいには赤あかシャツしゃつまで出でて来きたが山嵐やまあらしの机つくえの上うえは白墨はくぼくが一いち本ほん竪たてに寝ねているだけで閑静かんせいなものだ。
おれは、控ひかえ所ところへはいるや否いなや返そうかえそうと思っおもって、うちを出るでる時じから、湯銭ゆせんのように手の平てのひらへ入れいれて一いち銭せん五ご厘りん、学校がっこうまで握っにぎって来きた。
おれは膏あぶらっ手てだから、開けあけてみると一いち銭せん五ご厘りんが汗あせをかいている。
汗あせをかいてる銭せんを返しかえしちゃ、山嵐やまあらしが何なんとか云ういうだろうと思っおもったから、机つくえの上うえへ置いおいてふうふう吹いふいてまた握っにぎった。
ところへ赤あかシャツしゃつが来きて昨日きのうは失敬しっけい、迷惑めいわくでしたろうと云っいったから、迷惑めいわくじゃありません、お蔭おかげで腹はらが減りへりましたと答えこたえた。
すると赤あかシャツしゃつは山嵐やまあらしの机つくえの上うえへ肱ひじを突いついて、あの盤台はんだい面めんをおれの鼻はなの側面そくめんへ持っもって来きたから、何なんをするかと思っおもったら、君きみ昨日きのう返りかえりがけに船ふねの中なかで話しはなした事ことは、秘密ひみつにしてくれたまえ。
まだ誰だれにも話しはなしやしますまいねと云っいった。
女おんなのような声こえを出すだすだけに心配性しんぱいせいな男おとこと見えるみえる。
話さはなさない事ことはたしかである。
しかしこれから話そうはなそうと云ういう心持ちこころもちで、すでに一いち銭せん五ご厘りん手の平てのひらに用意よういしているくらいだから、ここで赤あかシャツしゃつから口留めくちどめをされちゃ、ちと困るこまる。
赤あかシャツしゃつも赤あかシャツしゃつだ。
山嵐やまあらしと名なを指さささないにしろ、あれほど推察すいさつの出来るできる謎なぞをかけておきながら、今さらいまさらその謎なぞを解いといちゃ迷惑めいわくだとは教頭きょうとうとも思えおもえぬ無責任むせきにんだ。
元来がんらいならおれが山嵐やまあらしと戦争せんそうをはじめて鎬しのぎを削っけずってる真中まなかへ出でて堂々どうどうとおれの肩かたを持つもつべきだ。
それでこそ一いち校こうの教頭きょうとうで、赤あかシャツしゃつを着きている主意しゅいも立つたつというもんだ。
おれは教頭きょうとうに向っむかって、まだ誰だれにも話さはなさないが、これから山嵐やまあらしと談判だんぱんするつもりだと云っいったら、赤あかシャツしゃつは大いにおおいに狼狽ろうばいして、君きみそんな無法むほうな事ことをしちゃ困るこまる。
僕ぼくは堀田ほった君きみの事ことについて、別段べつだん君きみに何なんも明言めいげんした覚えおぼえはないんだから――君きみがもしここで乱暴らんぼうを働いはたらいてくれると、僕ぼくは非常ひじょうに迷惑めいわくする。
君きみは学校がっこうに騒動そうどうを起すおこすつもりで来きたんじゃなかろうと妙みょうに常識じょうしきをはずれた質問しつもんをするから、当り前あたりまえです、月給げっきゅうをもらったり、騒動そうどうを起しおこしたりしちゃ、学校がっこうの方ほうでも困るこまるでしょうと云っいった。
すると赤あかシャツしゃつはそれじゃ昨日きのうの事ことは君きみの参考さんこうだけにとめて、口外こうがいしてくれるなと汗あせをかいて依頼いらいに及ぶおよぶから、よろしい、僕ぼくも困るこまるんだが、そんなにあなたが迷惑めいわくならよしましょうと受け合っうけあった。
君きみ大丈夫だいじょうぶかいと赤あかシャツしゃつは念ねんを押しおした。
どこまで女おんならしいんだか奥行おくゆきがわからない。
文学ぶんがく士しなんて、みんなあんな連中れんちゅうならつまらんものだ。
辻褄つじつまの合わあわない、論理ろんりに欠けかけた注文ちゅうもんをして恬然てんぜんとしている。
しかもこのおれを疑ぐっうたぐってる。
憚りはばかりながら男おとこだ。
受け合っうけあった事ことを裏うらへ廻っまわって反古ほごにするようなさもしい了見りょうけんはもってるもんか。
ところへ両隣りりょうどなりの机つくえの所有主しょゆうしゅも出校しゅっこうしたんで、赤あかシャツしゃつは早々はやばや自分じぶんの席せきへ帰っかえって行っいった。
赤あかシャツしゃつは歩あゆみるき方ほうから気取っきどってる。
部屋へやの中なかを往来おうらいするのでも、音おとを立てたてないように靴くつの底そこをそっと落すおとす。
音おとを立てたてないであるくのが自慢じまんになるもんだとは、この時じから始めはじめて知っしった。
泥棒どろぼうの稽古けいこじゃあるまいし、当り前あたりまえにするがいい。
やがて始業しぎょうの喇叭らっぱがなった。
山嵐やまあらしはとうとう出でて来きない。
仕方しかたがないから、一いち銭せん五ご厘りんを机つくえの上うえへ置いおいて教場きょうじょうへ出掛けでかけた。
授業じゅぎょうの都合つごうで一いち時間じかん目めは少しすこし後れおくれて、控ひかえ所ところへ帰っかえったら、ほかの教師きょうしはみんな机つくえを控えひかえて話はなしをしている。
山嵐やまあらしもいつの間まにか来きている。
欠勤けっきんだと思っおもったら遅刻ちこくしたんだ。
おれの顔かおを見るみるや否いなや今日きょうは君きみのお蔭おかげで遅刻ちこくしたんだ。
罰金ばっきんを出しだしたまえと云っいった。
おれは机つくえの上うえにあった一いち銭せん五ご厘りんを出しだして、これをやるから取っとっておけ。
先達てせんだって通町とおりちょうで飲んのんだ氷水こおりみずの代だいだと山嵐やまあらしの前まえへ置くおくと、何なんを云っいってるんだと笑いかけわらいかけたが、おれが存外ぞんがい真面目まじめでいるので、つまらない冗談じょうだんをするなと銭せんをおれの机つくえの上うえに掃き返しはきかえした。
おや山嵐やまあらしの癖くせにどこまでも奢るおごる気きだな。
「冗談じょうだんじゃない本当ほんとうだ。おれは君きみに氷水こおりみずを奢らおごられる因縁いんねんがないから、出すだすんだ。取らとらない法ほうがあるか」「そんなに一いち銭せん五ご厘りんが気きになるなら取っとってもいいが、なぜ思い出しおもいだしたように、今時分いまじぶん返すかえすんだ」「今時分いまじぶんでも、いつ時分じぶんでも、返すかえすんだ。奢らおごられるのが、いやだから返すかえすんだ」 山嵐やまあらしは冷然れいぜんとおれの顔かおを見みてふんと云っいった。
赤あかシャツしゃつの依頼いらいがなければ、ここで山嵐やまあらしの卑劣ひれつをあばいて大喧嘩だいけんかをしてやるんだが、口外こうがいしないと受け合っうけあったんだから動きうごきがとれない。
人ひとがこんなに真赤まっかになってるのにふんという理窟りくつがあるものか。
「氷水こおりみずの代だいは受け取るうけとるから、下宿げしゅくは出でてくれ」「一いち銭せん五ご厘りん受け取れうけとればそれでいい。下宿げしゅくを出ようでようが出でまいがおれの勝手かってだ」「ところが勝手かってでない、昨日きのう、あすこの亭主ていしゅが来きて君きみに出でてもらいたいと云ういうから、その訳わけを聞いきいたら亭主ていしゅの云ういうのはもっともだ。それでももう一応いちおうたしかめるつもりで今朝けさあすこへ寄っよって詳しいくわしい話はなしを聞いきいてきたんだ」 おれには山嵐やまあらしの云ういう事ことが何なんの意味いみだか分らわからない。
「亭主ていしゅが君きみに何なんを話しはなしたんだか、おれが知っしってるもんか。そう自分じぶんだけで極めきわめたって仕様しようがあるか。訳わけがあるなら、訳わけを話すはなすが順じゅんだ。てんから亭主ていしゅの云ういう方ほうがもっともだなんて失敬しっけい千万せんまんな事ことを云ういうな」「うん、そんなら云っいってやろう。君きみは乱暴らんぼうであの下宿げしゅくで持てもて余よまされているんだ。いくら下宿げしゅくの女房にょうぼうだって、下女げじょたあ違うちがうぜ。足あしを出しだして拭かふかせるなんて、威張りいばり過ぎるすぎるさ」「おれが、いつ下宿げしゅくの女房にょうぼうに足あしを拭かふかせた」「拭かふかせたかどうだか知らしらないが、とにかく向うむこうじゃ、君きみに困っこまってるんだ。下宿げしゅく料りょうの十じゅう円えんや十五じゅうご円えんは懸物かけものを一いち幅はば売りゃうりゃ、すぐ浮いういてくるって云っいってたぜ」「利いきいた風かぜな事ことをぬかす野郎やろうだ。そんなら、なぜ置いおいた」「なぜ置いおいたか、僕ぼくは知らしらん、置くおくことは置いおいたんだが、いやになったんだから、出ろでろと云ういうんだろう。君きみ出でてやれ」「当り前あたりまえだ。居いてくれと手てを合せあわせたって、居るいるものか。一体いったいそんな云いいい懸りかかりを云ういうような所ところへ周旋しゅうせんする君きみからしてが不埒ふらちだ」「おれが不埒ふらちか、君きみが大人しくおとなしくないんだか、どっちかだろう」 山嵐やまあらしもおれに劣らおとらぬ肝きも癪持ちしゃくもちだから、負け嫌いまけぎらいな大きなおおきな声こえを出すだす。
控ひかえ所ところに居いた連中れんちゅうは何事なにごとが始まっはじまったかと思っおもって、みんな、おれと山嵐やまあらしの方ほうを見みて、顋あごを長くながくしてぼんやりしている。
おれは、別べつに恥ずかしいはずかしい事ことをした覚えおぼえはないんだから、立ち上がりたちあがりながら、部屋へや中一ちゅういち通りとおり見み巡じゅんわしてやった。
みんなが驚ろいおどろいてるなかに野のだだけは面白おもしろそうに笑っわらっていた。
おれの大きなおおきな眼めが、貴様きさまも喧嘩けんかをするつもりかと云ういう権幕けんまくで、野のだの干瓢かんぴょうづらを射貫いいぬいた時じに、野のだは突然とつぜん真面目まじめな顔かおをして、大いにおおいにつつしんだ。
少しすこし怖こわわかったと見えるみえる。
そのうち喇叭らっぱが鳴るなる。
山嵐やまあらしもおれも喧嘩けんかを中止ちゅうしして教場きょうじょうへ出でた。
午後ごごは、先夜せんやおれに対したいして無礼ぶれいを働いはたらいた寄宿きしゅく生なまの処分しょぶん法ほうについての会議かいぎだ。
会議かいぎというものは生れうまれて始めてはじめてだからとんと容子ようこが分らわからないが、職員しょくいんが寄っよって、たかって自分勝手じぶんかってな説せつをたてて、それを校長こうちょうが好いよい加減かげんに纏めるまとめるのだろう。
纏めるまとめるというのは黒白くろしろの決しけっしかねる事柄ことがらについて云ういうべき言葉ことばだ。
この場合ばあいのような、誰だれが見みたって、不都合ふつごうとしか思わおもわれない事件じけんに会議かいぎをするのは暇潰しひまつぶしだ。
誰だれが何なんと解釈かいしゃくしたって異説いせつの出ようでようはずがない。
こんな明白めいはくなのは即座そくざに校長こうちょうが処分しょぶんしてしまえばいいに。
随分ずいぶん決断けつだんのない事ことだ。
校長こうちょうってものが、これならば、何なんの事ことはない、煮えにえ切らきらない愚図ぐずの異名いみょうだ。
会議室かいぎしつは校長こうちょう室むろの隣りとなりにある細長いほそながい部屋へやで、平常へいじょうは食堂しょくどうの代理だいりを勤めるつとめる。
黒いくろい皮かわで張っちょうった椅子いすが二十にじゅう脚あしばかり、長いながいテーブルてーぶるの周囲しゅういに並んならんでちょっと神田かんだの西洋せいよう料理屋りょうりやぐらいな格かくだ。
そのテーブルてーぶるの端はしに校長こうちょうが坐っすわって、校長こうちょうの隣りとなりに赤あかシャツしゃつが構えるかまえる。
あとは勝手次第かってしだいに席せきに着くつくんだそうだが、体操たいそうの教師きょうしだけはいつも席末せきまつに謙遜けんそんするという話はなしだ。
おれは様子ようすが分らわからないから、博物はくぶつの教師きょうしと漢学かんがくの教師きょうしの間まへはいり込んはいりこんだ。
向うむこうを見るみると山嵐やまあらしと野のだが並んならんでる。
野のだの顔かおはどう考えかんがえても劣等れっとうだ。
喧嘩けんかはしても山嵐やまあらしの方ほうが遥かはるかに趣おもむきがある。
おやじの葬式そうしきの時じに小日向こひなたの養源ようげん寺てらの座敷ざしきにかかってた懸物かけものはこの顔かおによく似にている。
坊主ぼうずに聞いきいてみたら韋駄天いだてんと云ういう怪物かいぶつだそうだ。
今日きょうは怒っどってるから、眼めをぐるぐる廻しまわしちゃ、時々ときどきおれの方ほうを見るみる。
そんな事ことで威嚇いかくかされてたまるもんかと、おれも負けまけない気きで、やっぱり眼めをぐりつかせて、山嵐やまあらしをにらめてやった。
おれの眼めは恰好かっこはよくないが、大きいおおきい事ことにおいては大抵たいていな人ひとには負けまけない。
あなたは眼めが大きいおおきいから役者やくしゃになるときっと似合いにあいますと清きよしがよく云っいったくらいだ。
もう大抵たいていお揃いそろいでしょうかと校長こうちょうが云ういうと、書記しょきの川村かわむらと云ういうのが一いちつ二につと頭数とうすうを勘定かんじょうしてみる。
一人ひとり足りたりない。
一人ひとり不足ふそくですがと考えかんがえていたが、これは足りたりないはずだ。
唐茄子とうなすのうらなり君きみが来きていない。
おれとうらなり君きみとはどう云ういう宿世しゅくせの因縁いんねんかしらないが、この人ひとの顔かおを見みて以来いらいどうしても忘れわすれられない。
控ひかえ所ところへくれば、すぐ、うらなり君きみが眼めに付くつく、途中とちゅうをあるいていても、うらなり先生せんせいの様子ようすが心こころに浮ぶうかぶ。
温泉おんせんへ行くいくと、うらなり君きみが時々ときどき蒼いあおい顔かおをして湯壺ゆつぼのなかに膨れふくれている。
挨拶あいさつをするとへえと恐縮きょうしゅくして頭あたまを下げるさげるから気の毒きのどくになる。
学校がっこうへ出でてうらなり君きみほど大人しいおとなしい人ひとは居いない。
めったに笑っわらった事こともないが、余計よけいな口くちをきいた事こともない。
おれは君子くんしという言葉ことばを書物しょもつの上うえで知っしってるが、これは字引じびきにあるばかりで、生きいきてるものではないと思っおもってたが、うらなり君きみに逢っあってから始めはじめて、やっぱり正体しょうたいのある文字もじだと感心かんしんしたくらいだ。
このくらい関係かんけいの深いぶかい人ひとの事ことだから、会議室かいぎしつへはいるや否いなや、うらなり君きみの居いないのは、すぐ気きがついた。
実じつを云ういうと、この男おとこの次つぎへでも坐ざわろうかと、ひそかに目標もくひょうにして来きたくらいだ。
校長こうちょうはもうやがて見えるみえるでしょうと、自分じぶんの前まえにある紫むらさきの袱紗ふくさ包つつみをほどいて、蒟蒻こんにゃく版ばんのような者ものを読んよんでいる。
赤あかシャツしゃつは琥珀こはくのパイプぱいぷを絹きぬハンケチはんけちで磨きみがき始めはじめた。
この男おとこはこれが道楽どうらくである。
赤あかシャツしゃつ相当そうとうのところだろう。
ほかの連中れんちゅうは隣りとなり同志どうしで何なんだか私語しごき合っあっている。
手持無沙汰てもちむさたなのは鉛筆えんぴつの尻しりに着いついている、護謨ごむの頭あたまでテーブルてーぶるの上うえへしきりに何なんか書いかいている。
野のだは時々ときどき山嵐やまあらしに話しかけるはなしかけるが、山嵐やまあらしは一向いっこう応じおうじない。
ただうんとかああと云ういうばかりで、時々ときどき怖いこわい眼めをして、おれの方ほうを見るみる。
おれも負けまけずに睨め返すにらめかえす。
ところへ待ちまちかねた、うらなり君きみが気の毒きのどくそうにはいって来きて少々しょうしょう用事ようじがありまして、遅刻ちこく致しいたしましたと慇懃いんぎんに狸たぬきに挨拶あいさつをした。
では会議かいぎを開きひらきますと狸たぬきはまず書記しょきの川村かわむら君きみに蒟蒻こんにゃく版ばんを配布はいふさせる。
見るみると最初さいしょが処分しょぶんの件けん、次つぎが生徒せいと取締とりしまりの件けん、その他ほか二三にさんヶ条かじょうである。
狸たぬきは例れいの通りとおりもったいぶって、教育きょういくの生霊いきりょうという見えみえでこんな意味いみの事ことを述べのべた。
「学校がっこうの職員しょくいんや生徒せいとに過失かしつのあるのは、みんな自分じぶんの寡徳かとくの致すいたすところで、何なんか事件じけんがある度どに、自分じぶんはよくこれで校長こうちょうが勤まるつとまるとひそかに慚愧ざんきの念ねんに堪えこらえんが、不幸ふこうにして今回こんかいもまたかかる騒動そうどうを引き起しひきおこしたのは、深くふかく諸君しょくんに向っむかって謝罪しゃざいしなければならん。しかしひとたび起っおこった以上いじょうは仕方しかたがない、どうにか処分しょぶんをせんければならん、事実じじつはすでに諸君しょくんのご承知ごしょうちの通りとおりであるからして、善後策ぜんごさくについて腹蔵ふくぞうのない事ことを参考さんこうのためにお述べのべ下さいください」 おれは校長こうちょうの言葉ことばを聞いきいて、なるほど校長こうちょうだの狸たぬきだのと云ういうものは、えらい事ことを云ういうもんだと感心かんしんした。
こう校長こうちょうが何なんもかも責任せきにんを受けうけて、自分じぶんの咎とがだとか、不徳ふとくだとか云ういうくらいなら、生徒せいとを処分しょぶんするのは、やめにして、自分じぶんから先さきへ免職めんしょくになったら、よさそうなもんだ。
そうすればこんな面倒めんどうな会議かいぎなんぞを開くひらく必要ひつようもなくなる訳わけだ。
第だい一いち常識じょうしきから云っいっても分っわかってる。
おれが大人しくおとなしく宿直しゅくちょくをする。
生徒せいとが乱暴らんぼうをする。
わるいのは校長こうちょうでもなけりゃ、おれでもない、生徒せいとだけに極っきょくってる。
もし山嵐やまあらしが煽動せんどうしたとすれば、生徒せいとと山嵐やまあらしを退治れたいじればそれでたくさんだ。
人ひとの尻しりを自分じぶんで背負い込んしょいこんで、おれの尻しりだ、おれの尻しりだと吹きふき散らかすちらかす奴やつが、どこの国くににあるもんか、狸たぬきでなくっちゃ出来るできる芸当げいとうじゃない。
彼かれはこんな条理じょうりに適わかなわない議論ぎろんを吐いはいて、得意気とくいきに一同いちどうを見廻しみまわした。
ところが誰だれも口くちを開くひらくものがない。
博物はくぶつの教師きょうしは第だい一いち教場きょうじょうの屋根やねに烏からすがとまってるのを眺めながめている。
漢学かんがくの先生せんせいは蒟蒻こんにゃく版ばんを畳んたたんだり、延ばしのばしたりしてる。
山嵐やまあらしはまだおれの顔かおをにらめている。
会議かいぎと云ういうものが、こんな馬鹿ばか気きたものなら、欠席けっせきして昼寝ひるねでもしている方ほうがましだ。
おれは、じれったくなったから、一番いちばん大いにおおいに弁じべんじてやろうと思っおもって、半分はんぶん尻しりをあげかけたら、赤あかシャツしゃつが何なんか云いいい出しだしたから、やめにした。
見るみるとパイプぱいぷをしまって、縞しまのある絹きぬハンケチはんけちで顔かおをふきながら、何なんか云っいっている。
あの手巾しゅきんはきっとマドンナまどんなから巻き上げまきあげたに相違そういない。
男おとこは白いしろい麻あさを使うつかうもんだ。
「私わたくしも寄宿きしゅく生なまの乱暴らんぼうを聞いきいてはなはだ教頭きょうとうとして不行届ふゆきとどきであり、かつ平常へいじょうの徳化とっかが少年しょうねんに及ばおよばなかったのを深くふかく慚ざんずるのであります。でこう云ういう事ことは、何なんか陥欠かんけつがあると起るおこるもので、事件じけんその物ものを見るみると何なんだか生徒せいとだけがわるいようであるが、その真相しんそうを極めるきわめると責任せきにんはかえって学校がっこうにあるかも知れしれない。だから表面ひょうめん上うえにあらわれたところだけで厳重げんじゅうな制裁せいさいを加えるくわえるのは、かえって未来みらいのためによくないかとも思わおもわれます。かつ少年しょうねん血気けっきのものであるから活気かっきがあふれて、善悪ぜんあくの考えかんがえはなく、半ばなかば無意識むいしきにこんな悪戯いたずらをやる事ことはないとも限らかぎらん。でもとより処分しょぶん法ほうは校長こうちょうのお考えかんがえにある事ことだから、私わたくしの容喙ようかいする限りかぎりではないが、どうかその辺へんをご斟酌しんしゃくになって、なるべく寛大かんだいなお取計とりはからいを願いねがいたいと思いおもいます」 なるほど狸たぬきが狸たぬきなら、赤あかシャツしゃつも赤あかシャツしゃつだ。
生徒せいとがあばれるのは、生徒せいとがわるいんじゃない教師きょうしが悪るいわるいんだと公言こうげんしている。
気狂きちがいが人ひとの頭あたまを撲り付けるなぐりつけるのは、なぐられた人ひとがわるいから、気狂きちがいがなぐるんだそうだ。
難なん有ゆうい仕合せしあわせだ。
活気かっきにみちて困るこまるなら運動場うんどうじょうへ出でて相撲すもうでも取るとるがいい、半ばなかば無意識むいしきに床ゆかの中なかへバッタばったを入れいれられてたまるものか。
この様子ようすじゃ寝頸ねくびをかかれても、半ばなかば無意識むいしきだって放免ほうめんするつもりだろう。
おれはこう考えかんがえて何なんか云おういおうかなと考えかんがえてみたが、云ういうなら人ひとを驚おどろきろすかように滔々とうとうと述べたてのべたてなくっちゃつまらない、おれの癖くせとして、腹はらが立ったったときに口くちをきくと、二言にごんか三さん言げんで必ずかならず行きいき塞っふさがってしまう。
狸たぬきでも赤あかシャツしゃつでも人物じんぶつから云ういうと、おれよりも下等したとうだが、弁舌べんぜつはなかなか達者たっしゃだから、まずい事ことを喋舌っしゃべって揚足あげあしを取らとられちゃ面白くおもしろくない。
ちょっと腹案ふくあんを作っつくってみようと、胸むねのなかで文章ぶんしょうを作っつくってる。
すると前まえに居いた野のだが突然とつぜん起立きりつしたには驚ろいおどろいた。
野のだの癖くせに意見いけんを述べるのべるなんて生意気なまいきだ。
野のだは例れいのへらへら調ちょうで「実じつに今回こんかいのバッタばった事件じけん及びおよび咄喊とっかん事件じけんは吾々われわれ心こころある職員しょくいんをして、ひそかに吾われ校こう将来しょうらいの前途ぜんとに危惧きぐの念ねんを抱かかかえかしむるに足るたる珍事ちんじでありまして、吾々われわれ職員しょくいんたるものはこの際さい奮っふるって自らみずから省りみかえりみて、全校ぜんこうの風紀ふうきを振粛しんしゅくしなければなりません。それでただ今ただいま校長こうちょう及びおよび教頭きょうとうのお述べのべになったお説せつは、実じつに肯綮こうけいに中っちゅうった剴切がいせつなお考えかんがえで私わたくしは徹頭徹尾てっとうてつび賛成さんせい致しいたします。どうかなるべく寛大かんだいのご処分しょぶんを仰ぎあおぎたいと思いおもいます」と云っいった。
野のだの云ういう事ことは言語げんごはあるが意味いみがない、漢語かんごをのべつに陳列ちんれつするぎりで訳わけが分らわからない。
分っわかったのは徹頭徹尾てっとうてつび賛成さんせい致しいたしますと云ういう言葉ことばだけだ。
おれは野のだの云ういう意味いみは分らわからないけれども、何なんだか非常ひじょうに腹はらが立ったったから、腹案ふくあんも出来できないうちに起ち上がったちあがってしまった。
「私わたくしは徹頭徹尾てっとうてつび反対はんたいです……」と云っいったがあとが急きゅうに出でて来きない。
「……そんな頓珍漢とんちんかんな、処分しょぶんは大嫌いだいきらいです」とつけたら、職員しょくいんが一同いちどう笑いわらい出しだした。
「一体いったい生徒せいとが全然ぜんぜん悪るいわるいです。どうしても詫わびまらせなくっちゃ、癖くせになります。退校たいこうさしても構いかまいません。……何なんだ失敬しっけいな、新しくあたらしく来きた教師きょうしだと思っおもって……」と云っいって着席ちゃくせきした。
すると右隣りみぎどなりに居るいる博物はくぶつが「生徒せいとがわるい事ことも、わるいが、あまり厳重げんじゅうな罰ばつなどをするとかえって反動はんどうを起しおこしていけないでしょう。やっぱり教頭きょうとうのおっしゃる通りとおり、寛ひろしな方ほうに賛成さんせいします」と弱いよわい事ことを云っいった。
左隣ひだりどなりの漢学かんがくは穏便おんびん説せつに賛成さんせいと云っいった。
歴史れきしも教頭きょうとうと同説どうせつだと云っいった。
忌々しいいまいましい、大抵たいていのものは赤あかシャツしゃつ党とうだ。
こんな連中れんちゅうが寄り合っよりあって学校がっこうを立てたてていりゃ世話せわはない。
おれは生徒せいとをあやまらせるか、辞職じしょくするか二につのうち一いちつに極めきわめてるんだから、もし赤あかシャツしゃつが勝ちかちを制しせいしたら、早速さっそくうちへ帰っかえって荷作りにづくりをする覚悟かくごでいた。
どうせ、こんな手合てあいを弁口べんこうで屈伏くっぷくさせる手際てぎわはなし、させたところでいつまでご交際こうさいを願うねがうのは、こっちでご免ごめんだ。
学校がっこうに居いないとすればどうなったって構うかまうもんか。
また何なんか云ういうと笑うわらうに違いちがいない。
だれが云ういうもんかと澄しすましていた。
すると今までいままでだまって聞いきいていた山嵐やまあらしが奮然ふんぜんとして、起ち上がったちあがった。
野郎やろうまた赤あかシャツしゃつ賛成さんせいの意いを表するひょうするな、どうせ、貴様きさまとは喧嘩けんかだ、勝手にかってにしろと見みていると山嵐やまあらしは硝子窓がらすまどを振わふるわせるような声こえで「私わたくしは教頭きょうとう及びおよびその他ほか諸君しょくんのお説せつには全然ぜんぜん不同意ふどういであります。というものはこの事件じけんはどの点てんから見みても、五十ごじゅう名なの寄宿きしゅく生なまが新来しんらいの教師きょうし某氏ぼうしを軽侮けいぶしてこれを翻弄ほんろうしようとした所為せいとより外そとには認めみとめられんのであります。教頭きょうとうはその源みなもと因いんを教師きょうしの人物じんぶついかんにお求めもとめになるようでありますが失礼しつれいながらそれは失言しつげんかと思いおもいます。某氏ぼうしが宿直しゅくちょくにあたられたのは着き後あと早々はやばやの事ことで、まだ生徒せいとに接せせっせられてから二十にじゅう日ひに満たみたぬ頃ころであります。この短かいみじかい二十にじゅう日間かかんにおいて生徒せいとは君きみの学問がくもん人物じんぶつを評価ひょうかし得るうる余地よちがないのであります。軽侮けいぶされべき至当しとうな理由りゆうがあって、軽侮けいぶを受けうけたのなら生徒せいとの行為こういに斟酌しんしゃくを加えるくわえる理由りゆうもありましょうが、何なんらの源みなもと因いんもないのに新来しんらいの先生せんせいを愚弄ぐろうするような軽薄けいはくな生徒せいとを寛仮かんかしては学校がっこうの威信いしんに関わるかかわる事ことと思いおもいます。教育きょういくの精神せいしんは単にたんに学問がくもんを授けるさずけるばかりではない、高尚こうしょうな、正直しょうじきな、武士ぶし的まとな元気げんきを鼓吹こすいすると同時どうじに、野卑やひな、軽躁けいそうな、暴慢ぼうまんな悪風あくふうを掃蕩そうとうするにあると思いおもいます。もし反動はんどうが恐しいおそろしいの、騒動そうどうが大きくおおきくなるのと姑息こそくな事ことを云っいった日ひにはこの弊風へいふうはいつ矯正きょうせい出来るできるか知れしれません。かかる弊風へいふうを杜絶とぜつするためにこそ吾々われわれはこの学校がっこうに職しょくを奉じほうじているので、これを見逃がすみのがすくらいなら始めはじめから教師きょうしにならん方ほうがいいと思いおもいます。私わたくしは以上いじょうの理由りゆうで寄宿きしゅく生なま一同いちどうを厳罰げんばつに処するしょする上うえに、当該とうがい教師きょうしの面前めんぜんにおいて公けおおやけに謝罪しゃざいの意いを表せあらわせしむるのを至当しとうの所ところ置おけと心得こころえます」と云いいいながら、どんと腰こしを卸しおろした。
一同いちどうはだまって何になんにも言わいわない。
赤あかシャツしゃつはまたパイプぱいぷを拭きふき始めはじめた。
おれは何なんだか非常ひじょうに嬉しかっうれしかった。
おれの云おういおうと思うおもうところをおれの代りかわりに山嵐やまあらしがすっかり言っいってくれたようなものだ。
おれはこう云ういう単純たんじゅんな人間にんげんだから、今までいままでの喧嘩けんかはまるで忘れわすれて、大いにおおいに難なん有ゆういと云ういう顔かおをもって、腰こしを卸しおろした山嵐やまあらしの方ほうを見みたら、山嵐やまあらしは一向いっこう知らしらん面めんをしている。
しばらくして山嵐やまあらしはまた起立きりつした。
「ただ今いまちょっと失念しつねんして言い落しいいおとしましたから、申しもうします。当夜とうやの宿直しゅくちょく員いんは宿直しゅくちょく中なか外出がいしゅつして温泉おんせんに行かいかれたようであるが、あれはもっての外もってのほかの事ことと考えかんがえます。いやしくも自分じぶんが一いち校こうの留守番るすばんを引き受けひきうけながら、咎めるとがめる者もののないのを幸みゆきに、場所ばしょもあろうに温泉おんせんなどへ入湯にゅうとうにいくなどと云ういうのは大きなおおきな失体しったいである。生徒せいとは生徒せいととして、この点てんについては校長こうちょうからとくに責任者せきにんしゃにご注意ちゅういあらん事ことを希望きぼうします」 妙みょうな奴やつだ、ほめたと思っおもったら、あとからすぐ人ひとの失策しっさくをあばいている。
おれは何なんの気きもなく、前まえの宿直しゅくちょくが出あるいであるいた事ことを知っしって、そんな習慣しゅうかんだと思っおもって、つい温泉おんせんまで行っいってしまったんだが、なるほどそう云わいわれてみると、これはおれが悪るかっわるかった。
攻撃こうげきされても仕方しかたがない。
そこでおれはまた起っおこって「私わたくしは正にまさに宿直しゅくちょく中なかに温泉おんせんに行きいきました。これは全くまったくわるい。あやまります」と云っいって着席ちゃくせきしたら、一同いちどうがまた笑いわらい出しだした。
おれが何なんか云いいいさえすれば笑うわらう。
つまらん奴やつ等とうだ。
貴様きさま等とうこれほど自分じぶんのわるい事ことを公けおおやけにわるかったと断言だんげん出来るできるか、出来できないから笑うわらうんだろう。
それから校長こうちょうは、もう大抵たいていご意見いけんもないようでありますから、よく考えかんがえた上うえで処分しょぶんしましょうと云っいった。
ついでだからその結果けっかを云ういうと、寄宿きしゅく生なまは一いち週間しゅうかんの禁足きんそくになった上うえに、おれの前まえへ出でて謝罪しゃざいをした。
謝罪しゃざいをしなければその時じ辞職じしょくして帰るかえるところだったがなまじい、おれのいう通りとおりになったのでとうとう大変たいへんな事ことになってしまった。
それはあとから話すはなすが、校長こうちょうはこの時じ会議かいぎの引き続きひきつづきだと号しごうしてこんな事ことを云っいった。
生徒せいとの風儀ふうぎは、教師きょうしの感化かんかで正しただしていかなくてはならん、その一いち着手ちゃくしゅとして、教師きょうしはなるべく飲食店いんしょくてんなどに出入でいりしない事ことにしたい。
もっとも送別会そうべつかいなどの節ふしは特別とくべつであるが、単独たんどくにあまり上等じょうとうでない場所ばしょへ行くいくのはよしたい――たとえば蕎麦屋そばやだの、団子だんご屋やだの――と云いいいかけたらまた一同いちどうが笑っわらった。
野のだが山嵐やまあらしを見みて天麩羅てんぷらと云っいって目くばせめくばせをしたが山嵐やまあらしは取り合わとりあわなかった。
いい気味きみだ。
おれは脳のうがわるいから、狸たぬきの云ういうことなんか、よく分らわからないが、蕎麦屋そばやや団子だんご屋やへ行っいって、中学ちゅうがくの教師きょうしが勤まらつとまらなくっちゃ、おれみたような食いくい心棒しんぼうにゃ到底とうてい出来できっ子っこないと思っおもった。
それなら、それでいいから、初手しょてから蕎麦そばと団子だんごの嫌いきらいなものと注文ちゅうもんして雇うやとうがいい。
だんまりで辞令じれいを下げさげておいて、蕎麦そばを食うくうな、団子だんごを食うくうなと罪つみなお布令ふれいを出すだすのは、おれのような外そとに道楽どうらくのないものにとっては大変たいへんな打撃だげきだ。
すると赤あかシャツしゃつがまた口くちを出しだした。
「元来がんらい中学ちゅうがくの教師きょうしなぞは社会しゃかいの上流じょうりゅうにくらいするものだからして、単にたんに物質的ぶっしつてきの快楽かいらくばかり求めるもとめるべきものでない。その方ほうに耽るふけるとつい品性ひんせいにわるい影響えいきょうを及ぼすおよぼすようになる。しかし人間にんげんだから、何なんか娯楽ごらくがないと、田舎いなかへ来きて狭いせまい土地とちでは到底とうてい暮せるくらせるものではない。それで釣つりに行くいくとか、文学書ぶんがくしょを読むよむとか、または新体詩しんたいしや俳句はいくを作るつくるとか、何なんでも高尚こうしょうな精神的せいしんてき娯楽ごらくを求めもとめなくってはいけない……」 だまって聞いきいてると勝手かってな熱ねつを吹くふく。
沖おきへ行っいって肥料ひりょうを釣っつったり、ゴルキが露西亜ろしあの文学者ぶんがくしゃだったり、馴染なじめの芸者げいしゃが松まつの木きの下したに立ったったり、古池ふるいけへ蛙かわずが飛び込んとびこんだりするのが精神的せいしんてき娯楽ごらくなら、天麩羅てんぷらを食っしょくって団子だんごを呑み込むのみこむのも精神的せいしんてき娯楽ごらくだ。
そんな下さらくださらない娯楽ごらくを授けるさずけるより赤あかシャツしゃつの洗濯せんたくでもするがいい。
あんまり腹はらが立ったったから「マドンナまどんなに逢うあうのも精神的せいしんてき娯楽ごらくですか」と聞いきいてやった。
すると今度こんどは誰だれも笑わわらわない。
妙みょうな顔かおをして互たがいに眼めと眼めを見合せみあわせている。
赤あかシャツしゃつ自身じしんは苦しくるしそうに下したを向いむかいた。
それ見ろみろ。
利いきいたろう。
ただ気の毒きのどくだったのはうらなり君きみで、おれが、こう云っいったら蒼いあおい顔かおをますます蒼くあおくした。
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