道草

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その二重廻しは、殆んど健三の記憶から消えかかっている位古かった。細君がどうしてまたそれを彼女の父に与えたものか、健三には理解出来なかった。

第 10 章
「あんな汚ならしいきたならしいもの」 彼かれは不思議ふしぎというよりもむしろ恥かしいはずかしい気きがした。
「いいえ。喜こんよろこんで着きて行きいきました」「御ご父さんちちさんは外套がいとうを有っあっていないのかい」「外套がいとうどころじゃない、もう何になんにも有っあっちゃいないんです」 健三けんぞうは驚ろいおどろいた。
細いほそい灯あかりに照らさてらされた細君さいくんの顔かおが急きゅうに憐れあわれに見えみえた。
「そんなに窮きゅうっているのかなあ」「ええ。もうどうする事ことも出来できないんですって」 口数くちかずの寡やもめない細君さいくんは、自分じぶんの生家せいかに関するかんする詳しいくわしい話はなしを今までいままで夫おっとの耳みみに入れいれずに通しとおして来きたのである。
職しょくに離れはなれて以来いらいの不如意ふにょいを薄々うすうす知っしっていながら、まさかこれほどとも思わおもわずにいた健三けんぞうは、急きゅうに眼めを転じてんじてその人ひとの昔むかしを見みなければならなかった。
彼かれは絹きぬ帽ぼうにフロックコートふろっくこーとで勇ましくいさましく官邸かんていの石門せきもんを出でて行くいく細君さいくんの父ちちの姿すがたを鮮やかあざやかに思い浮べおもいうかべた。
堅木けんぼくを久きゅうの字じ形かたちに切り組んきりくんで作っつくったその玄関げんかんの床ゆかは、つるつる光っひかりって、時じによると馴れなれない健三けんぞうの足あしを滑らすべらせた。
前まえに広いひろい芝生しばふを控えひかえた応接間おうせつかんを左ひだりへ折れ曲るおれまがると、それと接続せつぞくいて長方形ちょうほうけいの食堂しょくどうがあった。
結婚けっこんする前まえ健三けんぞうは其その所ところで細君さいくんの家族かぞくのものと一緒いっしょに晩餐ばんさんの卓たくに着いついた事ことをいまだに覚えおぼえていた。
二に階かいには畳たたみが敷いしいてあった。
正月しょうがつの寒いさむい晩ばん、歌留多かるたに招かまねかれた彼かれは、そのうちの一いち間まで暖だんたかい宵よいを笑い声わらいごえの裡りに更しふかした記憶きおくもあった。
西洋館せいようかんに続いつづいて日本にっぽん建けんも一いち棟むね付いついていたこの屋敷やしきには、家族かぞくの外そとに五ご人ひとの下女げじょと二人ふたりの書生しょせいが住んすんでいた。
職務しょくむ柄がら客きゃくの出入でいりの多いおおいこの家いえの用事ようじには、それだけの召めし仕しが必要ひつようかも知れしれなかったが、もし経済けいざいが許さゆるさないとすれば、その必要ひつようも充たさみたされるはずはなかった。
健三けんぞうが外国がいこくから帰っかえって来きた時じですら、細君さいくんの父ちちはさほど困っこまっているようには見えみえなかった。
彼かれが駒込こまごめの奥おくに住居じゅうきょを構えかまえた当座とうざ、彼かれの新宅しんたくを訪ねたずねた父ちちは、彼かれに向っむかってこういった。
――「まあ自分じぶんの宅たくを有つあつという事ことが人間にんげんにはどうしても必要ひつようですね。しかしそう急きゅうにも行くいくまいから、それは後廻しあとまわしにして、精々せいぜい貯蓄ちょちくを心掛けこころがけたら好いよいでしょう。二に、三千さんぜん円えんの金きんを有っあっていないと、いざという場合ばあいに、大変たいへん困るこまるもんだから。なに千せん円えん位くらい出来ればできればそれで結構けっこうです。それを私わたくしに預けあずけて御ご置きおきなさると、一いち年ねん位くらい経つたつうちには、じき倍ばいにして上げあげますから」 貨殖かしょくの道みちに心得こころえの足りたりない健三けんぞうはその時じ不思議ふしぎの感かんに打たうたれた。
「どうして一いち年ねんのうちに千せん円えんが二千にせん円えんになり得るうるだろう」 彼かれの頭あたまではこの疑問ぎもんの解決かいけつがとても付かつかなかった。
利り慾よくを離れるはなれる事ことの出来できない彼かれは、驚愕きょうがくの念ねんを以いて、細君さいくんの父ちちにのみあって、自分じぶんには全くまったく欠乏けつぼうしている、一種いっしゅの怪力かいりきを眺めながめた。
しかし千せん円えん拵えこしらえて預けるあずける見込みこみの到底とうてい付かつかない彼かれは、細君さいくんの父ちちに向っむかってその方法ほうほうを訊くきく気きにもならずについ今日きょうまで過ぎすぎたのである。
「そんなに貧乏びんぼうするはずがないだろうじゃないか。何ぼなんぼ何なんだって」「でも仕方しかたがありませんわ、廻り合せめぐりあわせだから」 産さんという肉体にくたいの苦痛くつうを眼前がんぜんに控えひかえている細君さいくんの気息きそく遣けんはただでさえ重々しかっおもおもしかった。
健三けんぞうは黙っだまって気の毒きのどくそうなその腹はらと光沢こうたくの悪いわるいその頬ほおとを眺めながめた。
昔むかしし田舎いなかで結婚けっこんした時じ、彼女かのじょの父ちちがどこからか浮世絵うきよえ風かぜの美人びじんを描いえがいた下等したとうな団扇うちわを四よん、五本ごぽん買っかって持っもって来きたので、健三けんぞうは
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