道草

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その二軒ともとあまり親しく往来をしていなかった。自分の姉や兄と疎遠になるという変な事実は、彼に取っても余り気持の好いものではなかった。しかし親類づきあいよりも自分の仕事の方が彼には大事に見えた。それから東京へ帰って以後既に三、四回彼らと顔を合せたという記憶も、彼には多少の言訳になった。もし帽子を被らない男が突然彼の行手を遮らなかったなら、彼は何時もの通り千駄木の町を毎日二返規則正しく往来するだけで、当分外の方角へは足を向けずにしまったろう。もしその間に身体の楽に出来る日曜が来たなら、ぐたりと疲れ切った四肢を畳の上に横たえて半日の安息を貪るに過ぎなかったろう。

第 2 章
しかし次つぎの日曜にちようが来きたとき、彼かれはふと途中とちゅうで二に度ど会っかいった男おとこの事ことを思い出しおもいだした。
そうして急きゅうに思い立っおもいたったように姉あねの宅たくへ出掛けでかけた。
姉あねの宅たくは四ッ谷よつやの津つの守坂まもるさかの横よこで、大通りおおどおりから一いち町まちばかり奥おくへ引込んひきこんだ所ところにあった。
彼女かのじょの夫おっとというのは健三けんぞうの従兄じゅうけいにあたる男おとこだから、つまり姉あねにも従兄じゅうけいであった。
しかし年齢ねんれいは同年どうねんか一いちつ違いで、健三けんぞうから見るみると双方そうほうとも、一いち廻りまわりも上うえであった。
この夫おっとがもと四ッ谷よつやの区役所くやくしょへ勤めつとめた縁故えんこで、彼かれが其その所ところをやめた今日きょうでも、まだ馴染なじめの多いおおい土地とちを離れるはなれるのが厭いやだといって、姉あねは今いまの勤きん先さきに不便ふべんなのも構わかまわず、やっぱり元もとの古ぼけふるぼけた家いえに住んすんでいるのである。
四よん
この姉あねは喘息ぜんそく持もちであった。
年ねんが年中ねんじゅうぜえぜえいっていた。
それでも生れうまれ付ふが非常ひじょうな癇性かんしょうなので、よほど苦しくくるしくないと決してけっして凝とじっとしていなかった。
何なんか用ようを拵えこしらえて狭いせまい家いえの中なかを始終しじゅうぐるぐる廻っまわって歩かふかないと承知しょうちしなかった。
その落付おちつけのないがさつな態度たいどが健三けんぞうの眼めには如何にいかにも気の毒きのどくに見えみえた。
姉あねはまた非常ひじょうに饒舌にょうぜつる事ことの好よしみな女おんなであった。
そうしてその喋舌りしゃべり方ほうに少しすこしも品位ひんいというものがなかった。
彼女かのじょと対坐たいざする健三けんぞうはきっと苦いにがい顔かおをして黙らだまらなければならなかった。
「これが己おのれの姉あねなんだからなあ」 彼女かのじょと話はなしをした後あとの健三けんぞうの胸むねには何時なんじでもこういう述懐じゅっかいが起っおこった。
その日ひ健三けんぞうは例れいの如くごとく襷たすきを掛けかけて戸棚とだなの中なかを掻きまわしかきまわしているこの姉あねを見出しみだした。
「まあ珍らしくめずらしく能くよく来きてくれたこと。さあ御ご敷きしきなさい」 姉あねは健三けんぞうに座蒲団ざふとんを勧めすすめて縁側えんがわへ手てを洗いあらいに行っいった。
健三けんぞうはその留守るすに座敷ざしきのなかを見み廻わしまわした。
欄間らんまには彼かれが子供こどもの時じから見覚えみおぼえのある古ぼけふるぼけた額がくが懸っかかっていた。
その落款らっかんに書いかいてある筒井つつい憲けんという名なは、たしか旗本はたもとの書家しょかか何なんかで、大変たいへん字じが上手じょうずなんだと、十五じゅうご、六ろくの昔むかし此これ所ところの主人しゅじんから教えおしえられた事ことを思い出しおもいだした。
彼かれはその主人しゅじんをその頃ころは兄さんあにさん兄さんあにさんと呼んよんで始終しじゅう遊びあそびに行っいったものである。
そうして年ねんからいえば叔父おじ甥おいほどの相違そういがあるのに、二人ふたりして能くよく座敷ざしきの中なかで相撲すもうをとっては姉あねから怒らおこられたり、屋根やねへ登っのぼって無花果いちじくを※いで食っしょくって、その皮かわを隣となりの庭にわへ投げなげたため、尻しりを持ち込まもちこまれたりした。
主人しゅじんが箱入りはこいりのコンパスこんぱすを買っかって遣るやるといって彼かれを騙しだましたなり何なん時じまで経っきょうっても買っかってくれなかったのを非常ひじょうに恨めしくうらめしく思っおもった事こともあった。
姉あねと喧嘩けんかをして、もう向うむこうから謝罪しゃざいって来きても勘忍かんにんしてやらないと覚悟かくごを極めきわめたが、いくら待っまっていても、姉あねが詫わびまらないので、仕方なししかたなしにこちらからのこのこ出掛けでかけて行っいったくせに、手持無沙汰てもちむさたなので、向うむこうで御ご這入りはいりというまで、黙っだまって門口かどぐちに立ったっていた滑稽こっけいもあった。
…… 古いふるい額がくを眺めながめた健三けんぞうは、子供こどもの時じの自分じぶんに明らかあきらかな記憶きおくの探照たんしょう燈あかりを向けむけた。
そうしてそれほど世話せわになった姉あね夫婦ふうふに、今いまは大したたいした好意こういを有つあつ事ことが出来できにくくなった自分じぶんを不快ふかいに感じかんじた。
「近頃ちかごろは身体しんたいの具合ぐあいはどうです。あんまり非道くひどく起るおこる事こともありませんか」 彼かれは自分じぶんの前まえに坐っすわった姉あねの顔かおを見みながらこう訊ねたずねた。
「ええ有難うありがとう。御蔭みかげさまで陽気ようきが好いよいもんだから、まあどうかこうか家いえの事ことだけは遣っつかってるんだけれども、――でもやっぱり年がねんが年ねんだからね。とても昔むかししのようにがせいに働くはたらく事ことは出来できないのさ。昔むかし健けんちゃんの遊びあそびに来きてくれた時分じぶんにゃ、随分ずいぶん尻しりッっ端折りはしょりで、それこそ御釜おかまの御ご尻しりまで洗っあらったもんだが、今いまじゃとてもそんな元気げんきはありゃしない。だけど御蔭様みかげさまでこう遣っつかって毎日まいにち牛乳ぎゅうにゅうも飲んのんでるし……」 健三けんぞうは些少さしょうながら月々つきづきいくらかの小遣こづかいを姉あねに遣るやる事ことを忘れわすれなかったのである。
「少しすこし痩せやせたようですね」「なにこりゃ私わたくしの持前もちまえだから仕方しかたがない。昔むかしから肥っふとった事ことのない女おんななんだから。やッぱりやっぱり癇かんが強いつよいもんだからね。癇かんで肥るふとる事ことが出来できないんだよ」 姉あねは肉にくのない細いほそい腕うでを捲っまくって健三けんぞうの前まえに出しだして見せみせた。
大きなおおきな落ち込んおちこんだ彼女かのじょの眼めの下したを薄黒いうすぐろい半はん円形えんけいの暈かさが、怠たるそうな皮かわで物憂ものうげに染めそめていた。
健三けんぞうは黙っだまってそのぱさぱさした手の平てのひらを見詰めみつめた。
「でも健けんちゃんは立派りっぱになって本当ほんとうに結構けっこうだ。御前ごぜんさんが外国がいこくへ行くいく時じなんか、もう二に度どと生きいきて会うあう事ことは六ろくずかしかろうと思っおもってたのに、それでもよくまあ達者たっしゃで帰っかえって来きられたのね。御ご父さんちちさんや御ご母さんははさんが生きいきて御ご出でだったらさぞ御ご喜びよろこびだろう」 姉あねの眼めにはいつか涙なみだが溜ったまっていた。
姉あねは健三けんぞうの子供こどもの時分じぶん、「今いまに姉さんあねさんに御ご金きんが出来できたら、健けんちゃんに何なんでも好よしみなものを買っかって上げるあげるよ」と口癖くちぐせのようにいっていた。
そうかと思うおもうと、「こんな偏窟へんくつじゃこの子こはとても物ものにゃならない」ともいった。
健三けんぞうは姉あねの昔むかしの言葉ことばやら語気ごきやらを思い浮べおもいうかべて、心こころの中なかで苦笑くしょうした。
五ご
そんな古いふるい記憶きおくを喚び起こすよびおこすにつけても、久しくひさしく会わあわなかった姉あねの老けふけた様子ようすが一層いっそう健三けんぞうの眼めについた。
「時じに姉さんあねさんはいくつでしたかね」「もう御ご婆ばあさんさ。取っとって一いちだもの御前ごぜんさん」 姉あねは黄色いきいろい疎らまばらな歯はを出しだして笑っわらって見せみせた。
実際じっさい五十一ごじゅういちとは健三けんぞうにも意外いがいであった。
「すると私わたくしとは一いち廻めぐる以上いじょう違うちがうんだね。私ゃわたしゃまた精々せいぜい違っちがって十じゅうか十一じゅういちだと思っおもっていた」「どうして一いち廻めぐるどころか。健けんちゃんとは十六じゅうろく違うちがうんだよ、姉さんあねさんは。良人おっとが羊ひつじの三碧さんぺきで姉さんあねさんが四緑しろくなんだから。健けんちゃんは慥かたしか七赤しちせきだったね」「何なんだか知らしらないが、とにかく三十六さんじゅうろくですよ」「繰っくって見みて御覧ごらん、きっと七赤しちせきだから」 健三けんぞうはどうして自分じぶんの星ほしを繰るくるのか、それさえ知らしらなかった。
年齢ねんれいの話はなしはそれぎりやめてしまった。
「今日きょうは御ご留守るすなんですか」と比田ひでんの事ことを訊いきいて見みた。
「昨夕さくゆうも宿直しゅくちょくでね。なに自分じぶんの分ぶんだけなら月つきに三さん度どか四よん度どで済むすむんだけれども、他ほかに頼またのまれるもんだからね。それに一いち晩ばんでも余計よけい泊りとまりさえすればやっぱりいくらかになるだろう、それでつい他ほかの分ぶんまで引受けるひきうける気きにもなるのさ。この頃このごろじゃあっちへ寐るぬるのとこっちへ帰るかえるのと、まあ半々はんはん位くらいなものだろう。ことによると、向むかいへ泊るとまる方ほうがかえって多いおおいかも知れしれないよ」 健三けんぞうは黙っだまって障子しょうじの傍そばに据えすえてある比田ひでんの机つくえを眺めながめた。
硯箱すずりばこや状袋じょうぶくろや巻紙まきがみがきちりと行儀ぎょうぎよく並んならんでいる傍そばに、簿記ぼき用ようの帳面ちょうづらが赤いあかい脊せい皮かわをこちらへ向けむけて、二に、三さん冊さつ立てたて懸けかけてあった。
それから綺麗きれいに光っひかりった小さいちいさい算盤そろばんもその下したに置いおいてあった。
噂うわさによると比田ひでんはこの頃このごろ変へんな女おんなに関係かんけいをつけて、それを自分じぶんの勤め先つとめさきのつい近くちかくに囲っかこっているという評ひょう番ばんであった。
宿直しゅくちょくだ宿直しゅくちょくだといって宅たくへ帰らかえらないのは、あるいはそのせいじゃなかろうかと健三けんぞうには思えおもえた。
「比田ひでんさんは近頃ちかごろどうです。大分おおいた年ねんを取っとったから元もととは違っちがって真面目まじめになったでしょう」「なにやッぱりやっぱり相そう変らかわらずさ。ありゃ一人ひとりで遊ぶあそぶために生れうまれて来きた男おとこなんだから仕方しかたがないよ。やれ寄席よせだ、やれ芝居しばいだ、やれ相撲すもうだって、御ご金きんさえありゃ年ねんが年中ねんじゅう飛んとんで歩いあるいてるんだからね。でも奇体きたいなもんで、年ねんのせいだか何なんだか知らしらないが、昔むかしに比べるくらべると、少しすこしは優しくやさしくなったようだよ。もとは健けんちゃんも知っしってる通りとおりの始末しまつで、随分ずいぶん烈しかっはげしかったもんだがね。蹴っけったり、敲いたたいたり、髪の毛かみのけを持っもって座敷ざしき中なか引いん摺すり廻しまわしたり……」「その代りかわり姉さんあねさんも負けまけてる方ほうじゃなかったんだからな」「なに妾めかけゃ手出してだしなんかした事ことあ、ついの一度いちどだってありゃしない」 健三けんぞうは勝気かちきな姉あねの昔むかしを考え出しかんがえだしてつい可笑しくおかしくなった。
二人ふたりの立ち廻りたちまわりは今いま姉あねの自白じはくするように受身うけみのものばかりでは決してけっしてなかった。
ことに口くちは姉あねの方ほうが比田ひでんに比べるくらべると十じゅう倍ばいも達者たっしゃだった。
それにしてもこの利かりかぬ気きの姉あねが、夫おっとに騙さだまされて、彼かれが宅たくへ帰らかえらない以上いじょう、きっと会社かいしゃへ泊っとまっているに違いちがいないと信じしんじ切っきっているのが妙みょうに不憫ふびんに思わおもわれて来きた。
「久しぶりひさしぶりに何なんか奢りおごりましょうか」と姉あねの顔かおを眺めながめながらいった。
「ありがと、今いま御ご鮨すしをそういったから、珍らしくめずらしくもあるまいけれども、食べたべてって御ごくれ」 姉あねは客きゃくの顔かおさえ見れみれば、時間じかんに関係かんけいなく、何なんか食わくわせなければ承知しょうちしない女おんなであった。
健三けんぞうは仕方しかたがないから尻しりを落おち付けつけてゆっくり腹はらの中なかに持っもって来きた話はなしを姉あねに切り出すきりだす気きになった。
六ろく
近頃ちかごろの健三けんぞうは頭あたまを余計よけい遣いつかい過ぎるすぎるせいか、どうも胃いの具合ぐあいが好くよくなかった。
時々ときどき思い出しおもいだしたように運動うんどうして見るみると、胸むねも腹はらもかえって重くおもくなるだけであった。
彼かれは要心ようじんして三さん度どの食事しょくじ以外いがいにはなるべく物ものを口くちへ入れいれないように心こころ掛かかりていた。
それでも姉あねの悪わる強きょうには敵わかなわなかった。
「海苔巻のりまきなら身体しんたいに障りゃさわりゃしないよ。折角せっかく姉さんあねさんが健けんちゃんに御馳走ごちそうしようと思っおもって取っとったんだから、是非ぜひ食べたべて御ごくれな。厭いやかい」 健三けんぞうは仕方なししかたなしに旨くうまくもない海苔巻のりまきを頬張っほおばって、好いよい加減かげん烟草たばこで荒らさあばらされた口くちのうちをもぐもぐさせた。
姉あねが余りあまり饒舌にょうぜつるので、彼かれは何時なんじまでも自分じぶんのいいたい事ことがいえなかった。
訊きききたい問題もんだいを持っもっていながら、こう受身うけみな会話かいわばかりしているのが、彼かれには段々だんだんむず痒くむずがゆくなって来きた。
しかし姉あねにはそれが一向いっこう通じつうじないらしかった。
他ほかに物ものを食わくわせる事ことの好きすきなのと同時どうじに、物ものを遣るやる事ことの好きすきな彼女かのじょは、健三けんぞうがこの前まえ賞めほめた古ぼけふるぼけた達磨だるまの掛かかり物ものを彼かれに遣ろうやろうかといい出しだした。
「あんなものあ、宅たくにあったって仕方しかたがないんだから、持っもって御出でおいでよ。なに比田ひでんだって要りゃいりゃしないやね、汚ないきたない達磨だるまなんか」 健三けんぞうは貰うもらうとも貰わもらわないともいわずにただ苦笑くしょうしていた。
すると姉あねは何なんか秘密ひみつ話はなしでもするように急きゅうに調子ちょうしを低くひくくした。
「実じつは健けんちゃん、御前ごぜんさんが帰っかえって来きたら、話そうはなそう話そうはなそうと思っおもって、つい今日きょうまで黙っだまってたんだがね。健けんちゃんも帰りかえりたてでさぞ忙がしかろういそがしかろうし、それに姉さんあねさんが出掛けでかけて行くいくにしたところで、御ご住じゅうさんがいちゃ、少しすこし話しはなし悪いわるい事ことだしね。そうかって、手紙てがみを書こうかこうにも御存じごぞんじの無筆むひつだろう……」 姉あねの前置ぜんちは長たらしくながたらしくもあり、また滑稽こっけいでもあった。
小さいちいさい時分じぶんいくら手習てならいをさせても記憶きおくが悪くわるくって、どんなに平たいら易しいやさしい字じも、とうとう頭あたまへ這入らはいらずじまいに、五十ごじゅうの今日きょうまで生きいきて来きた女おんなだと思うおもうと、健三けんぞうにはわが姉あねながら気の毒きのどくでもありまたうら恥ずかしくうらはずかしくもあった。
「それで姉さんあねさんの話はなしってえな、一体いったいどんな話はなしなんです。実じつは私わたくしも今日きょうは少しすこし姉さんあねさんに話はなしがあって来きたんだが」「そうかいそれじゃ御前ごぜんさんの方ほうのから先さきへ聴くきくのが順じゅんだったね。何故なぜ早くはやく話さはなさなかったの」「だって話せはなせないんだもの」「そんなに遠慮えんりょしないでもいいやね。姉弟していの間まじゃないか、御前ごぜんさん」 姉あねは自分じぶんの多弁たべんが相手あいての口くちを塞いせいでいるのだという明白めいはくな事実じじつには毫もごうも気きが付いついていなかった。
「まあ姉さんあねさんの方ほうから先さきへ片付けかたづけましょう。何なんですか、あなたの話はなしっていうのは」「実じつは健けんちゃんにはまことに気の毒きのどくで、いい悪いわるいんだけれども、あたしも段々だんだん年ねんを取っとって身体しんたいは弱くよわくなるし、それに良人おっとがあの通りとおりの男おとこで、自分じぶん一人ひとりさえ好けりゃよけりゃ女房にょうぼうなんかどうなったって、己おのれの知っしった事ことじゃないって顔かおをしているんだから。――尤ももっとも月々つきづきの取高とりだかが少ないすくない上うえに、交際こうさいもあるんだから、仕方しかたがないといえばそれまでだけれどもね……」 姉あねのいう事ことは女おんなだけに随分ずいぶん曲りくねっまがりくねっていた。
なかなか容易よういな事ことで目的地もくてきちへ達したっしそうになかったけれども、その主意しゅいは健三けんぞうによく解っわかった。
つまり月々つきづき遣るやる小遣こづかいをもう少しすこし増しましてくれというのだろうと思っおもった。
今いまでさえそれをよく夫おっとから借りかりられてしまうという話はなしを耳みみにしている彼かれには、この請求せいきゅうが憐れあわれでもあり、また腹立たしくはらだたしくもあった。
「どうか姉さんあねさんを助けるたすけると思っおもってね。姉さんあねさんだってこの身体しんたいじゃどうせ長いながい事こともあるまいから」 これが姉あねの口くちから出でた最後さいごの言葉ことばであった。
健三けんぞうはそれでも厭いやだとはいいかねた。
七なな
彼かれはこれから宅たくへ帰っかえって今夜こんや中なかに片付けかたづけなければならない明日あすの仕事しごとを有っあっていた。
時間じかんの価値かちというものを少しすこしも認めみとめないこの姉あねと対坐たいざして、何時なんじまでも、べんべんと喋舌っしゃべっているのは、彼かれにとって多少たしょうの苦痛くつうに違いなかった。
彼かれは好よしみ加減かげんに帰ろうかえろうとした。
そうして帰るかえる間際まぎわになってやっと帽子ぼうしを被らかぶらない男おとこの事ことをいい出しだした。
「実じつはこの間ま島田しまだに会っかいったんですがね」「へえどこで」 姉あねは吃驚びっくりしたような声こえを出しだした。
姉あねは無む教育きょういくな東京とうきょうものによく見るみるわざとらしい仰山ぎょうさんな表情ひょうじょうをしたがる女おんなであった。
「太田おおたの原はらの傍そばです」「じゃ御前ごぜんさんのじき近所きんじょじゃないか。どうしたい、何なんか言葉ことばでも掛けかけたかい」「掛けるかけるって、別べつに言葉ことばの掛けようかけようもないんだから」「そうさね。健けんちゃんの方ほうから何なんとかいわなきゃ、向むかいで口くちなんぞ利けきけた義理ぎりでもないんだから」 姉あねの言葉ことばは出来るだけできるだけ健三けんぞうの意いを迎えるむかえるような調子ちょうしであった。
彼女かのじょは健三けんぞうに「どんな服装ふくそうをしていたい」と訊ききき足したした後あとで、「じゃやッぱりやっぱり楽らくでもないんだね」といった。
其その所ところには多少たしょうの同情どうじょうも籠っこもっているように見えみえた。
しかし男おとこの昔むかしを話しはなし出しだした時じにはさもさも悪わるらしそうな語気ごきを用いもちい始めはじめた。
「なんぼ因業いんごうだって、あんな因業いんごうな人ひとったらありゃしないよ。今日きょうが期限きげんだから、是ぜが非ひでも取っとって行くいくって、いくら言訳いいわけをいっても、坐り込んすわりこんで動かうごかないんだもの。しまいにこっちも腹はらが立ったったから、御ご気の毒きのどくさま、御ご金きんはありませんが、品物しなもので好けれよければ、御ご鍋なべでも御釜おかまでも持っもってって下さいくださいっていったらね、じゃ釜かまを持っもってくっていうんだよ。あきれるじゃないか」「釜かまを持っもって行くいくったって、重くおもくってとても持てもてやしないでしょう」「ところがあの業ごう突とっ張ちょうの事ことだから、どんな事ことをして持っもってかないとも限らかぎらないのさ。そらその日ひの御飯ごはんをあたしに炊かたかせまいと思っおもって、そういう意地いじの悪いわるい事ことをする人ひとなんだからね。どうせ先さきへ寄っよって好いよい事ことあないはずだあね」 健三けんぞうの耳みみにはこの話はなしがただの滑稽こっけいとしては聞こえきこえなかった。
その人ひとと姉あねとの間まに起っおこったこんな交渉こうしょうのなかに引いん絡まっからまっている古いふるい自分じぶんの影法師かげほうしは、彼かれに取っとって可笑しいおかしいというよりもむしろ悲しいかなしいものであった。
「私ゃわたしゃ島田しまだに二に度ど会っかいったんですよ、姉さんあねさん。これから先さきまた何時なんじ会うあうか分らわからないんだ」「いいから知らしらん顔かおをして御出でおいでよ。何度なんど会っかいったって構わかまわないじゃないか」「しかしわざわざ彼所かしこいらを通っとおって、私わたくしの宅たくでも探しさがしているんだか、また用ようがあって通りがかりとおりがかりに偶然ぐうぜん出でッっくわしたんだか、それが分らわからないんでね」 この疑問ぎもんは姉あねにも解けとけなかった。
彼女かのじょはただ健三けんぞうに都合つごうの好さよさそうな言葉ことばを無意味むいみに使っつかった。
それが健三けんぞうには空そら御世辞ごせじのごとく響いひびいた。
「こちらへはその後そのあとまるで来きないんですか」「ああこの二に、三さん年ねんはまるっきり来きないよ」「その前まえは?」「その前まえはね、ちょくちょくってほどでもないが、それでも時々ときどきは来きたのさ。それがまた可笑しいおかしいんだよ。来るくると何なん時じでも十一じゅういち時じ頃ころでね。鰻飯うなぎめしかなにか食べたべさせないと決してけっして帰らかえらないんだからね。三さん度どの御ごまんまを一いちかたけでも好いよいから他ほかの家いえで食べようたべようっていうのがつまりあの人ひとの腹はらなんだよ。そのくせ服装ふくそうなんかかなりなものを着きているんだがね。……」 姉あねのいう事ことは脱線だっせんしがちであったけれども、それを聴いきいている健三けんぞうには、やはり金銭きんせん上うえの問題もんだいで、自分じぶんが東京とうきょうを去っさったあとも、なお多少たしょうの交際こうさいが二人ふたりの間まに持続じぞくされていたのだという見当けんとうはついた。
しかしそれ以上いじょう何なんも知るしる事ことは出来できなかった。
目下めしたの島田しまだについては全くまったく分らわからなかった。
八はち
「島田しまだは今いまでも元もとの所ところに住んすんでいるんだろうか」 こんな簡単かんたんな質問しつもんさえ姉あねには判然はんぜん答えこたえられなかった。
健三けんぞうは少しすこし的まとが外れはずれた。
けれども自分じぶんの方ほうから進んすすんで島田しまだの現在げんざいの居所きょしょを突き留めようつきとめようとまでは思っおもっていなかったので、大したたいした失望しつぼうも感じかんじなかった。
彼かれはこの場合ばあいまだそれほどの手数てすうを尽すつくす必要ひつようがないと信じしんじていた。
たとい尽すつくすにしたところで、一種いっしゅの好奇心こうきしんを満足まんぞくするに過ぎすぎないとも考えかんがえていた。
その上うえ今いまの彼かれはこういう好奇心こうきしんを軽蔑けいべつしなければならなかった。
彼かれの時間じかんはそんな事ことに使用しようするには余りあまりに高価こうかすぎた。
彼かれはただ想像そうぞうの眼めで、子供こどもの時分じぶん見みたその人ひとの家いえと、その家いえの周囲しゅういとを、心こころのうちに思い浮べおもいうかべた。
其その所ところには往来おうらいの片側かたがわに幅はばの広いひろい大きなおおきな堀ほりが一丁いちちょうも続いつづいていた。
水みずの変らかわらないその堀ほりの中なかは腐っくさった泥どろで不快ふかいに濁っにごっていた。
所々ところどころに蒼いあおい色いろが湧いわいて厭いやな臭においさえ彼かれの鼻はなを襲っおそった。
彼かれはその汚ならしいきたならしい一廓いっかくを――様ようの御ご屋敷やしきという名なで覚えおぼえていた。
堀ほりの向う側むこうがわには長屋ながやがずっと並んならんでいた。
その長屋ながやには一いち軒のきに一いちつ位くらいの割わりで四角しかくな暗いくらい窓まどが開けあけてあった。
石垣いしがきとすれすれに建てたてられたこの長屋ながやがどこまでも続いつづいているので、御ご屋敷やしきのなかはまるで見えみえなかった。
この御ご屋敷やしきと反対はんたいの側がわには小さなちいさな平家へいけが疎らまばらに並んならんでいた。
古いふるいのも新らしいあたらしいのもごちゃごちゃに交っかっていたその町並まちなみは無論むろん不揃ぶそろであった。
老人ろうじんの歯はのように所々ところどころが空いむなしいていた。
その空いむなしいている所ところを少しすこしばかり買っかって島田しまだは彼かれの住居じゅうきょを拵えこしらえたのである。
健三けんぞうはそれが何なん時じ出来上っできあがったか知らしらなかった。
しかし彼かれが始めはじめてそこへ行っいったのは新築しんちく後あとまだ間まもないうちであった。
四よん間ましかない狭いせまい家いえだったけれども、木口きぐちなどはかなり吟味ぎんみしてあるらしく子供こどもの眼めにも見えみえた。
間取まどりにも工夫くふうがあった。
六ろく畳たたみの座敷ざしきは東向ひがしむきで、松葉まつばを敷き詰めしきつめた狭いせまい庭にわに、大きおおき過ぎるすぎるほど立派りっぱな御ご影かげの石いし燈籠とうろうが据えすえてあった。
綺麗きれい好きすきな島田しまだは、自分じぶんで尻しり端折りはしょりをして、絶えたえず濡雑巾はばを縁側えんがわや柱はしらへ掛けかけた。
それから跣足せんそくになって、南向みなみむかいの居間いまの前栽せんざいへ出でて、草くさ毟りむしりをした。
あるときは鍬くわを使っつかって、門口かどぐちの泥溝どろどぶも浚っさらった。
その泥溝どろどぶには長さながさ四よん尺さしばかりの木きの橋はしが懸っかかっていた。
島田しまだはまたこの住居じゅうきょ以外いがいに粗末そまつな貸家かしやを一いち軒のき建てたてた。
そうして双方そうほうの家いえの間まを通り抜けとおりぬけて裏うらへ出でられるように三さん尺さしほどの路みちを付けつけた。
裏うらは野のとも畠はたけとも片かたのつかない湿地しっちであった。
草くさを踏むふむとじくじく水みずが出でた。
一番いちばん凹んへこんだ所ところなどはしょっちゅう浅いあさい池いけのようになっていた。
島田しまだは追々おいおい其その所ところへも小さなちいさな貸家かしやを建てるたてるつもりでいるらしかった。
しかしその企てくわだては何時なんじまでも実現じつげんされなかった。
冬ふゆになると鴨かもが下りるおりるから、今度こんどは一いちつ捕っとってやろうなどといっていた。
…… 健三けんぞうはこういう昔むかしの記憶きおくをそれからそれへと繰り返しくりかえした。
今いま其その所ところへ行っいって見みたら定めしさだめし驚ろくおどろくほど変っかわっているだろうと思いおもいながら、彼かれはなお二十にじゅう年ねん前まえの光景こうけいを今日きょうの事ことのように考えかんがえた。
「ことによると、良人おっとでは年始状ねんしじょう位くらいまだ出しだしてるかも知れしれないよ」 健三けんぞうの帰るかえる時じ、姉あねはこんな事ことをいって、暗にあんに比田ひでんの戻るもどるまで話しはなして行けいけと勧めすすめたが、彼かれにはそれほどの必要ひつようもなかった。
彼かれはその日ひ無沙汰むさた見舞みまいかたがた市ヶ谷いちがやの薬王寺やくおうじ前まえにいる兄あにの宅たくへも寄っよって、島田しまだの事ことを訊いきいて見ようみようかと考えかんがえていたが、時間じかんの遅くおそくなったのと、どうせ訊いきいたって仕方しかたがないという気きが次第しだいに強くつよくなったのとで、それなり駒込こまごめへ帰っかえった。
その晩ばんはまた翌日よくじつの仕事しごとに忙殺ぼうさつされなければならなかった。
そうして島田しまだの事ことはまるで忘れわすれてしまった。
九きゅう
彼かれはまた平生へいぜいの我われに帰っかえった。
活力かつりょくの大部分だいぶぶんを挙げあげて自分じぶんの職業しょくぎょうに使うつかう事ことが出来できた。
彼かれの時間じかんは静かしずかに流れながれた。
しかしその静かしずかなうちには始終しじゅういらいらするものがあって、絶えたえず彼かれを苦しめくるしめた。
遠くとおくから彼かれを眺めながめていなければならなかった細君さいくんは、別べつに手ての出しだしようもないので、澄ましすましていた。
それが健三けんぞうには妻つまにあるまじき冷淡れいたんとしか思えおもえなかった。
細君さいくんはまた心こころの中なかで彼かれと同じおなじ非難ひなんを夫おっとの上うえに投げ掛けなげかけた。
夫おっとの書斎しょさいで暮らすくらす時間じかんが多くおおくなればなるほど、夫婦間ふうふかんの交渉こうしょうは、用事ようじ以外いがいに少なくすくなくならなければならないはずだというのが細君さいくんの方ほうの理窟りくつであった。
彼女かのじょは自然しぜんの勢いいきおい健三けんぞうを一人ひとり書斎しょさいに遺しのこして置いおいて、子供こどもだけを相手あいてにした。
その子供たちこどもたちはまた滅多めったに書斎しょさいへ這入らはいらなかった。
たまに這入るはいると、きっと何なんか悪戯いたずらをして健三けんぞうに叱らしかられた。
彼かれは子供こどもを叱るしかるくせに、自分じぶんの傍そばへ寄り付かよりつかない彼かれらに対したいして、やはり一種いっしゅの物もの足りたりない心持こころもちを抱いいだいていた。
一いち週間しゅうかん後あとの日曜にちようが来きた時じ、彼かれはまるで外出がいしゅつしなかった。
気分きぶんを変えるかえるため四よん時じ頃ころ風呂ふろへ行っいって帰っかえったら、急きゅうにうっとりした好いよい気持きもちに襲わおそわれたので、彼かれは手足てあしを畳たたみの上うえへ伸ばしのばしたまま、つい仮かり寐ぬをした。
そうして晩食ばんしょくの時刻じこくになって、細君さいくんから起さおこされるまでは、首くびを切らきられた人ひとのように何事なにごとも知らしらなかった。
しかし起きおきて膳ぜんに向っむかった時じ、彼かれには微かかすかな寒気かんきが脊筋せすじを上うえから下したへ伝わっつたわって行くいくような感じかんじがあった。
その後そのあとで烈しいはげしい嚏くしゃみが二につほど出でた。
傍そばにいる細君さいくんは黙っだまっていた。
健三けんぞうも何なんもいわなかったが、腹はらの中なかではこうした同情どうじょうに乏しいとぼしい細君さいくんに対するたいする厭いやな心持こころもちを意識いしきしつつ箸はしを取っとった。
細君さいくんの方ほうではまた夫おっとが何故なぜ自分じぶんに何なんもかも隔意かくいなく話しはなして、能のう働はたらけ的まとに細君さいくんらしく振舞わふるまわせないのかと、その方ほうをかえって不愉快ふゆかいに思っおもった。
その晩ばん彼かれは明らかあきらかに多少たしょう風邪かぜ気味きみであるという事ことに気きが付いついた。
用心ようじんして早くはやく寐ぬようと思っおもったが、ついしかけた仕事しごとに妨げさまたげられて、十二じゅうに時じ過すぎまで起きおきていた。
彼かれの床ゆかに入るはいる時じには家内かないのものはもう皆みなな寐ぬていた。
熱いあつい葛湯くずゆでも飲んのんで、発汗はっかんしたい希望きぼうをもっていた健三けんぞうは、やむをえずそのまま冷たいつめたい夜具やぐの裏うらに潜り込んもぐりこんだ。
彼かれは例れいにない寒ささむさを感じかんじて、寐ぬ付ふが大変たいへん悪かっわるかった。
しかし頭脳ずのうの疲労ひろうはほどなく彼かれを深いぶかい眠ねむりの境さかいに誘っさそった。
翌日よくじつ眼めを覚しさました時じは存外ぞんがい安静あんせいであった。
彼かれは床ゆかの中なかで、風邪かぜはもう癒っなおったものと考えかんがえた。
しかしいよいよ起きおきて顔かおを洗うあらう段だんになると、何時もいつもの冷水れいすい摩擦まさつが退たい儀ぎな位くらい身体しんたいが倦怠けんたいくなってきた。
勇気ゆうきを鼓しこして食卓しょくたくに着いついて見みたが、朝食ちょうしょくは少しすこしも旨くうまくなかった。
いつもは規定きていとして三さん膳ぜん食べるたべるところを、その日ひは一いち膳ぜんで済ましすました後あと、梅干うめぼしを熱いあつい茶ちゃの中なかに入れいれてふうふう吹いふいて呑んのんだ。
しかしその意味いみは彼かれ自身じしんにも解らわからなかった。
この時じも細君さいくんは健三けんぞうの傍そばに坐っすわって給仕きゅうじをしていたが、別べつに何になんにもいわなかった。
彼かれにはその態度たいどがわざと冷淡れいたんに構えかまえている技巧ぎこうの如くごとく見えみえて多少たしょう腹はらが立ったった。
彼かれはことさらな咳せきを二に度ども三さん度どもして見せみせた。
それでも細君さいくんは依然いぜんとして取り合わとりあわなかった。
健三けんぞうはさっさと頭あたまから白しろ襯衣を被っかぶって洋服ようふくに着換えきかえたなり例刻れいこくに宅たくを出でた。
細君さいくんは何時もいつもの通りとおり帽子ぼうしを持っもって夫おっとを玄関げんかんまで送っおくって来きたが、この時じの彼かれには、それがただ形式けいしきだけを重んずるおもんずる女おんなとしか受取れうけとれなかったので、彼かれはなお厭いやな心持こころもちがした。
外そとではしきりに悪感あっかんがした。
舌したが重々しくおもおもしくぱさついて、熱ねつのある人ひとのように身体しんたい全体ぜんたいが倦怠けんたいかった。
彼かれは自分じぶんの脈みゃくを取っとって見みて、その早いはやいのに驚ろいおどろいた。
指頭しとうに触れるふれるピンピンぴんぴんいう音おとが、秒びょうを刻むきざむ袂たもと時計とけいの音おとと錯綜さくそうして、彼かれの耳みみに異様いような節奏せっそうを伝えつたえた。
それでも彼かれは我慢がまんして、するだけの仕事しごとを外そとでした。
十じゅう
彼かれは例刻れいこくに宅たくへ帰っかえった。
洋服ようふくを着換えるきかえる時じ、細君さいくんは何時もいつもの通りとおり、彼かれの不断ふだん着きを持っもったまま、彼かれの傍そばに立ったっていた。
彼かれは不快ふかいな顔かおをしてそちらを向いむかいた。
「床ゆかを取っとってくれ。寐るぬるんだ」「はい」 細君さいくんは彼かれのいうがままに床ゆかを延べのべた。
彼かれはすぐその中なかに入っはいって寐ぬた。
彼かれは自分じぶんの風邪気かぜけの事ことを一口ひとくちも細君さいくんにいわなかった。
細君さいくんの方ほうでも一向いっこう其その所ところに注意ちゅういしていない様子ようすを見せみせた。
それで双方そうほうとも腹はらの中なかには不平ふへいがあった。
健三けんぞうが眼めを塞いせいでうつらうつらしていると、細君さいくんが枕元まくらもとへ来きて彼かれの名なを呼んよんだ。
「あなた御飯ごはんを召上がりめしあがりますか」「飯めしなんか食いくいたくない」 細君さいくんはしばらく黙っだまっていた。
けれどもすぐ立ったって部屋へやの外そとへ出でて行こういこうとはしなかった。
「あなた、どうかなすったんですか」 健三けんぞうは何になんにも答えこたえずに、顔かおを半分はんぶんほど夜具やぐの襟えりに埋めうめていた。
細君さいくんは無言むごんのまま、そっとその手てを彼かれの額がくの上うえに加えくわえた。
晩ばんになって医者いしゃが来きた。
ただの風邪かぜだろうという診察しんさつを下しおろして、水薬すいやくと頓服とんぷくを呉れくれた。
彼かれはそれを細君さいくんの手てから飲ましのましてもらった。
翌日よくじつは熱ねつがなお高くたかくなった。
医者いしゃの注意ちゅういによって護謨ごむの氷嚢ひょうのうを彼かれの頭あたまの上うえに載せのせた細君さいくんは、蒲団ふとんの下したに差し込むさしこむニッケルにっける製せいの器械きかいを下女げじょが買っかってくるまで、自分じぶんの手てで落ちおちないようにそれを抑えおさえていた。
魔まに襲わおそわれたような気分きぶんが二に、三さん日ひつづいた。
健三けんぞうの頭あたまにはその間まの記憶きおくというものが殆んどほとんどない位くらいであった。
正気せいきに帰っかえった時じ、彼かれは平気へいきな顔かおをして天井てんじょうを見みた。
それから枕元まくらもとに坐っすわっている細君さいくんを見みた。
そうして急きゅうにその細君さいくんの世話せわになったのだという事ことを思い出しおもいだした。
しかし彼かれは何になんにもいわずにまた顔かおを背けそむけてしまった。
それで細君さいくんの胸むねには夫おっとの心持こころもちが少しすこしも映らうつらなかった。
「あなたどうなすったんです」「風邪かぜを引いひいたんだって、医者いしゃがいうじゃないか」「そりゃ解っわかってます」 会話かいわはそれで途切れとぎれてしまった。
細君さいくんは厭いやな顔かおをしてそれぎり部屋へやを出でて行っいった。
健三けんぞうは手てを鳴らしならしてまた細君さいくんを呼び戻しよびもどした。
「己おのれがどうしたというんだい」「どうしたって、――あなたが御ご病気びょうきだから、私わたくしだってこうして氷嚢ひょうのうを更さらえたり、薬くすりを注いそそいだりして上げるあげるんじゃありませんか。それをあっちへ行けいけの、邪魔じゃまだのって、あんまり……」 細君さいくんは後あとをいわずに下したを向いむかいた。
「そんな事ことをいった覚さとしはない」「そりゃ熱ねつの高いたかい時じ仰しゃっおっしゃった事ことですから、多分たぶん覚えおぼえちゃいらっしゃらないでしょう。けれども平生へいぜいからそう考えかんがえてさえいらっしゃらなければ、いくら病気びょうきだって、そんな事ことを仰しゃるおっしゃる訳わけがないと思いおもいますわ」 こんな場合ばあいに健三けんぞうは細君さいくんの言葉ことばの奥おくに果しはてしてどの位くらいな真実しんじつが潜んひそんでいるだろうかと反省はんせいして見るみるよりも、すぐ頭あたまの力ちからで彼女かのじょを抑えつけおさえつけたがる男おとこであった。
事実じじつの問題もんだいを離れはなれて、単にたんに論理ろんりの上うえから行くいくと、細君さいくんの方ほうがこの場合ばあいも負けまけであった。
熱ねつに浮かさうかされた時じ、魔ま睡ねむ薬くすりに酔っよいった時じ、もしくは夢ゆめを見るみる時じ、人間にんげんは必ずかならずしも自分じぶんの思っおもっている事ことばかり物語るものがたるとは限らかぎらないのだから。
しかしそうした論理ろんりは決してけっして細君さいくんの心こころを服するふくするに足りたりなかった。
「よござんす。どうせあなたは私わたくしを下女げじょ同様どうように取り扱うとりあつかうつもりでいらっしゃるんだから。自分じぶん一人ひとりさえ好けれよければ構わかまわないと思っおもって、……」 健三けんぞうは座ざを立ったった細君さいくんの後姿うしろすがたを腹立たしはらだたしそうに見送っみおくった。
彼かれは論理ろんりの権威けんいで自己じこを佯っている事ことにはまるで気きが付かつかなかった。
学問がくもんの力ちからで鍛え上げきたえあげた彼かれの頭あたまから見るみると、この明白めいはくな論理ろんりに心底しんそこから大人しくおとなしく従いしたがい得とくない細君さいくんは、全くまったくの解らわからずやに違いなかった。
十一じゅういち
その晩ばん細君さいくんは土鍋どなべへ入れいれた粥かゆをもって、また健三けんぞうの枕元まくらもとに坐っすわった。
それを茶碗ちゃわんに盛りもりながら、「御ご起きになりませんか」と訊いきいた。
彼かれの舌したにはまだ苔こけが一杯いちばい生えはえていた。
重苦しいおもくるしいような厚ぼったいあつぼったいような口くちの中なかへ物ものを入れるいれる気きには殆んどほとんどなれなかった。
それでも彼かれは何故なぜだか床ゆかの上うえに起き返っおきかえって、細君さいくんの手てから茶碗ちゃわんを受取ろううけとろうとした。
しかし舌した障りさわりの悪いわるい飯粒めしつぶが、ざらざらと咽喉のどの方ほうへ滑り込んすべりこんで行くいくだけなので、彼かれはたった一いち膳ぜんで口くちを拭っぬぐったなり、すぐ故この通りとおり横よこになった。
「まだ食気しょっきが出でませんね」「少しすこしも旨くうまくない」 細君さいくんは帯おびの間まから一いち枚ばいの名刺めいしを出しだした。
「こういう人ひとが貴方あなたの寐ぬていらしゃるうちに来きたんですが、御ご病気びょうきだから断っことわって帰しかえしました」 健三けんぞうは寐ぬながら手てを出しだして、鳥の子とりのこ紙かみに刷っすったその名刺めいしを受取っうけとって、姓名せいめいを読んよんで見みたが、まだ会っかいった事ことも聞いきいた事こともない人ひとであった。
「何時なんじ来きたのかい」「たしか一昨いっさく日ひでしたろう。ちょっと御ご話しはなししようと思っおもったんですが、まだ熱ねつが下らしたらないから、わざと黙っだまっていました」「まるで知らしらない人ひとだがな」「でも島田しまだの事ことでちょっと御ご主人しゅじんに御ご目めにかかりたいって来きたんだそうですよ」 細君さいくんはとくに島田しまだという二に字じに力ちからを入れいれてこういいながら健三けんぞうの顔かおを見みた。
すると彼かれの頭あたまにこの間ま途中とちゅうで会っかいった帽子ぼうしを被らかぶらない男おとこの影かげがすぐひらめいた。
熱ねつから覚めさめた彼かれには、それまでこの男おとこの事ことを思い出すおもいだす機会きかいがまるでなかったのである。
「御前ごぜん島田しまだの事ことを知っしってるのかい」「あの長いながい手紙てがみが御ご常つねさんって女おんなから届いとどいた時じ、貴方あなたが御ご話しはなしなすったじゃありませんか」 健三けんぞうは何なんとも答えこたえずに一旦いったん下したへ置いおいた名刺めいしをまた取り上げとりあげて眺めながめた。
島田しまだの事ことをその時じどれほど詳しくくわしく彼女かのじょに話しはなしたか、それが彼かれには不確ふかくであった。
「ありゃ何時なんじだったかね。よッっぽど古いふるい事ことだろう」 健三けんぞうはその長々しいながながしい手紙てがみを細君さいくんに見せみせた時じの心持こころもちを思い出しおもいだして苦笑くしょうした。
「そうね。もう七なな年ねん位くらいになるでしょう。私たちわたくしたちがまだ千本せんぼん通りとおりにいた時分じぶんですから」 千本せんぼん通りとおりというのは、彼かれらがその頃ころ住んすんでいた或ある都会とかいの外れはずれにある町まちの名なであった。
細君さいくんはしばらくして、「島田しまだの事ことなら、あなたに伺わうかがわないでも、御ご兄さんあにさんからも聞いきいて知っしってますわ」といった。
「兄あにがどんな事ことをいったかい」「どんな事ことって、――なんでも余りあまり善くよくない人ひとだっていう話はなしじゃありませんか」 細君さいくんはまだその男おとこの事ことについて、健三けんぞうの心こころを知りしりたい様子ようすであった。
しかし彼かれにはまた反対はんたいにそれを避けさけたい意向いこうがあった。
彼かれは黙っだまって眼めを閉じとじた。
盆ぼんに載せのせた土鍋どなべと茶碗ちゃわんを持っもって席せきを立つたつ前まえ、細君さいくんはもう一度いちどこういった。
「その名刺めいしの名前なまえの人ひとはまた来るくるそうですよ。いずれ御ご病気びょうきが御ご癒りなおりになったらまた伺いうかがいますからって、帰っかえって行っいったそうですから」 健三けんぞうは仕方なししかたなしにまた眼めを開いひらいた。
「来るくるだろう。どうせ島田しまだの代理だいりだと名乗るなのる以上いじょうはまた来るくるに極っきょくってるさ」「しかしあなた御ご会いあいになって? もし来きたら」 実じつをいうと彼かれは会いあいたくなかった。
細君さいくんはなおの事こと夫おっとをこの変へんな男おとこに会わあわせたくなかった。
「御ご会いあいにならない方ほうが好いよいでしょう」「会っかいっても好いよい。何なんも怖いこわい事ことはないんだから」 細君さいくんには夫おっとの言葉ことばが、また例れいの我われだと取れとれた。
健三けんぞうはそれを厭いやだけれども正しいただしい方法ほうほうだから仕方しかたがないのだと考えかんがえた。
十二じゅうに
健三けんぞうの病気びょうきは日ひならず全快ぜんかいした。
活字かつじに眼めを曝しさらしたり、万年筆まんねんひつを走らはしらせたり、または腕組うでぐみをしてただ考えかんがえたりする時じが再びふたたび続くつづくようになった頃ころ、一度いちど無駄足むだあしを踏まふませられた男おとこが突然とつぜんまた彼かれの玄関先げんかんさきに現われあらわれた。
健三けんぞうは鳥の子とりのこ紙かみに刷っすった吉田よしだ虎吉とらきちという見覚みかくのある名刺めいしを受取っうけとって、しばらくそれを眺めながめていた。
細君さいくんは小さなちいさな声こえで「御ご会いあいになりますか」と訊ねたずねた。
「会うあうから座敷ざしきへ通しとおしてくれ」 細君さいくんは断りことわりたさそうな顔かおをして少しすこし躊躇ちゅうちょしていた。
しかし夫おっとの様子ようすを見みてとった彼女かのじょは、何なんもいわずにまた書斎しょさいを出でて行っいった。
吉田よしだというのは、でっぷり肥っふとった、かっぷくの好いよい、四十よんじゅう恰好かっこの男おとこであった。
縞しまの羽織はおりを着きて、その頃ころまで流行っりゅうこうった白しろ縮緬ちりめんの兵児帯へこおびにぴかぴかする時計とけいの鎖くさりを巻き付けまきつけていた。
言葉使いことばづかいから見みても、彼かれは全くまったくの町人ちょうにんであった。
そうかといって、決してけっして堅気かたぎの商人しょうにんとは受取れうけとれなかった。
「なるほど」というべきところを、わざと「なある」と引張っひっぱったり、「御ご尤ももっとも」の代りかわりに、さも感服かんぷくしたらしい調子ちょうしで、「いかさま」と答えこたえたりした。
健三けんぞうには会見かいけんの順序じゅんじょとして、まず吉田よしだの身元みもとから訊いきいてかかる必要ひつようがあった。
しかし彼かれよりは能弁のうべんな吉田よしだは、自分じぶんの方ほうで聞かきかれない先さきに、素性そせいの概略がいりゃくを説明せつめいした。
彼かれはもと高崎たかさきにいた。
そうして其その所ところにある兵営へいえいに出入でいりして、糧秣りょうまつを納めるおさめるのが彼かれの商しょう買かいであった。
「そんな関係かんけいから、段々だんだん将校しょうこう方ほうの御世話ごせわになるようになりまして。その内うちでも柴野しばのの旦那だんなには特別とくべつ御ご贔負になったものですから」 健三けんぞうは柴野しばのという名なを聞いきいて急きゅうに思い出しおもいだした。
それは島田しまだの後妻ごさいの娘むすめが嫁よめに行っいった先さきの軍人ぐんじんの姓せいであった。
「その縁故えんこで島田しまだを御承知ごしょうちなんですね」 二人ふたりはしばらくその柴野しばのという士官しかんについて話し合っはなしあった。
彼かれが今いま高崎たかさきにいない事ことや、もっと遠くとおくの西にしの方ほうへ転任てんにんしてから幾いく年ねん目めになるという事ことや、相そう変らかわらずの大酒おおざけで家計かけいがあまり裕ひろしでないという事ことや、すべてこれらは、健三けんぞうに取っとって耳みみ新らしいあたらしい報知ほうちに違いなかったが、同時どうじに大したたいした興味きょうみを惹くひく話題わだいにもならなかった。
この夫婦ふうふに対したいして何なんらの悪感あっかんも抱いいだいていない健三けんぞうは、ただそうかと思っおもって平気へいきに聞いきいているだけであった。
しかし話はなしが本筋ほんすじに入っはいって、いよいよ島田しまだの事ことを持ち出さもちだされた時じ彼かれは、自然しぜん厭いやな心持こころもちがした。
吉田よしだはしきりにこの老人ろうじんの窮迫きゅうはくの状じょうを訴えうったえ始めはじめた。
「人間にんげんがあまり好よしみ過ぎるすぎるもんですから、つい人ひとに騙さだまされてみんな損っそこなっちまうんです。とても取れるとれる見込みこみのないのにむやみに金きんを出しだしてやったり何なんかするもんですからな」「人間にんげんが好よしみ過ぎるすぎるんでしょうか。あんまり慾張るよくばるからじゃありませんか」 たとい吉田よしだのいう通りとおり老人ろうじんが困窮こんきゅうしているとしたところで、健三けんぞうにはこうより外そとに解釈かいしゃくの道みちはなかった。
しかも困窮こんきゅうというからしてが既にすでに怪しかっあやしかった。
肝心かんじんの代表者だいひょうしゃたる吉田よしだも強いてしいてその点てんは弁護べんごしなかった。
「あるいはそうかも知れしれません」といったなり、後あとは笑わらいに紛らしまぎらしてしまった。
そのくせ月々つきづき若干じゃっかんか貢いみついで遣っつかってくれる訳わけには行くいくまいかという相談そうだんをすぐその後そのあとから持ち出しもちだした。
正直しょうじきな健三けんぞうはつい自分じぶんの経済けいざい事こと状じょうを打ち明けうちあけて、この一面識いちめんしきしかない男おとこに話さはなさなければならなくなった。
彼かれは自己じこの手てに入るはいる百二ひゃくに、三十さんじゅう円えんの月収げっしゅうが、どう消費しょうひされつつあるかを詳しくくわしく説明せつめいして、月々つきづきあとに残るのこるものは零れいだという事ことを相手あいてに納得なっとくさせようとした。
吉田よしだは例れいの「なある」と「いかさま」を時々ときどき使っつかって、神妙しんみょうに健三けんぞうの弁解べんかいを聴いきいた。
しかし彼かれがどこまで彼かれを信用しんようして、どこから彼かれを疑いうたがい始めはじめているか、その点てんは健三けんぞうにも分らわからなかった。
ただ先方せんぽうはどこまでも下手へたに出るでる手段しゅだんを主眼しゅがんとしているらしく見えみえた。
不穏ふおんの言葉ことばは無論むろん、強請きょうせいがましい様子ようすは噫ああにも出さださなかった。
十三じゅうさん
これで吉田よしだの持っもって来きた用件ようけんの片かたが付いついたものと解釈かいしゃくした健三けんぞうは、心こころのうちで暗にあんに彼かれの帰るかえるのを予期よきした。
しかし彼かれの態度たいどは明らかあきらかにこの予期よきの裏うらを行っいった。
金きんの問題もんだいにはそれぎり触れふれなかったが、毒どくにも薬くすりにもならない世間せけん話はなしを何時なんじまでも続けつづけて動かうごかなかった。
そうして自然しぜん天然てんねん話頭わとうをまた島田しまだの身の上みのうえに戻しもどして来きた。
「どんなものでしょう。老人ろうじんも取るとる年ねんで近頃ちかごろは大変たいへん心細こころぼそそうな事ことばかりいっていますが、――どうかして元もと通りとおりの御ご交際こうさいは願えねがえないものでしょうか」 健三けんぞうはちょっと返答へんとうに窮しきゅうした。
仕方なししかたなしに黙っだまって二人ふたりの間まに置かおかれた烟草たばこ盆ぼんを眺めながめていた。
彼かれの頭あたまのなかには、重たおもたそうに毛繻子もうしゅすの洋傘ようがさをさして、異様いようの瞳ひとみを彼かれの上うえに据えすえたその老人ろうじんの面影おもかげがありありと浮かんうかんだ。
彼かれはその人ひとの世話せわになった昔むかしを忘れるわすれる訳わけに行かいかなかった。
同時どうじに人格じんかくの反射はんしゃから来るくるその人ひとに対したいしての嫌悪けんおの情じょうも禁ずるきんずる事ことが出来できなかった。
両方りょうほうの間まに板挟みいたばさみとなった彼かれは、しばらく口くちを開きひらき得とくなかった。
「手前てまえも折角せっかくこうして上がっあがったものですから、これだけはどうぞ曲げまげて御承知ごしょうちを願いねがいたいもので」 吉田よしだの様子ようすはいよいよ丁寧ていねいになった。
どう考えかんがえても交際こうさいのは厭いやでならなかった健三けんぞうは、またどうしてもそれを断わることわるのを不義理ふぎりと認めみとめなければ済ますまなかった。
彼かれは厭いやでも正しいただしい方ほうに従おうしたがおうと思い極めおもいきわめた。
「そういう訳わけなら宜しゅうよろしゅう御座いございます。承知しょうちの旨むねを向むかいへ伝えつたえて下さいください。しかし交際こうさいは致しいたしても、昔むかしのような関係かんけいではとても出来できませんから、それも誤解ごかいのないように申し伝えもうしつたえて下さいください。それから私わたくしの今いまの状況じょうきょうでは、私わたくしの方ほうから時々ときどき出掛けでかけて行っいって老人ろうじんに慰藉いしゃを与えるあたえるなんて事ことは六ろくずかしいのですが……」「するとまあただ御ご出入でいりをさせて頂くいただくという訳わけになりますな」 健三けんぞうには御ご出入でいりという言葉ことばを聞くきくのが辛かっつらかった。
そうだともそうでないともいいかねて、また口くちを閉じとじた。
「いえなにそれで結構けっこうで、――昔むかしと今いまとは事情じじょうもまるで違いますから」 吉田よしだは自分じぶんの役目やくめが漸くようやく済んすんだという顔付かおつきをしてこういった後あと、今までいままで持ち扱っもちあつかっていた烟草たばこ入いりを腰こしへさしたなり、さっさと帰っかえって行っいった。
健三けんぞうは彼かれを玄関げんかんまで送り出すおくりだすと、すぐ書斎しょさいへ入っはいった。
その日ひの仕事しごとを早くはやく片付けようかたづけようという気きがあるので、いきなり机つくえへ向っむかったが、心こころのどこかに引いん懸りかかりが出来できて、なかなか思うおもう通りとおりに捗取らはかどらなかった。
其その所ところへ細君さいくんがちょっと顔かおを出しだした。
「あなた」と二に返かえしばかり声こえを掛けかけたが、健三けんぞうは机つくえの前まえに坐っすわったなり振り向かふりむかなかった。
細君さいくんがそのまま黙っだまって引込んひきこんだ後あと、健三けんぞうは進ますすまぬながら仕事しごとを夕方ゆうがたまで続けつづけた。
平生へいぜいよりは遅くおそくなって漸くようやく夕食ゆうしょくの食卓しょくたくに着いついた時じ、彼かれは始めはじめて細君さいくんと言葉ことばを換かえわした。
「先刻せんこく来きた吉田よしだって男おとこは一体いったい何なんなんですか」と細君さいくんが訊いきいた。
「元もと高崎たかさきで陸軍りくぐんの用達ようたしか何なんかしていたんだそうだ」と健三けんぞうが答えこたえた。
問答もんどうは固よりもとよりそれだけで尽きるつきるはずがなかった。
彼女かのじょは吉田よしだと柴野しばのとの関係かんけいやら、彼かれと島田しまだとの間柄あいだがらやらについて、自分じぶんに納得なっとくの行くいくまで夫おっとから説明せつめいを求めようもとめようとした。
「どうせ御ご金きんか何なんか呉れくれっていうんでしょう」「まあそうだ」「それで貴方あなたどうなすって、――どうせ御ご断りことわりになったでしょうね」「うん、断っことわった。断ることわるより外そとに仕方しかたがないからな」 二人ふたりは腹はらの中なかで、自分じぶんらの家いえの経済けいざい状態じょうたいを別々べつべつに考えかんがえた。
月々つきづき支出ししゅつしている、また支出ししゅつしなければならない金額きんがくは、彼かれに取っとって随分ずいぶん苦しいくるしい労力ろうりょくの報酬ほうしゅうであると同時どうじに、それで凡てすべてを賄っまかなって行くいく細君さいくんに取っとっても、少しすこしも裕ひろしなものとはいわれなかった。
十四じゅうよん
健三けんぞうはそれぎり座ざを立とうたとうとした。
しかし細君さいくんにはまだ訊きききたい事ことが残っのこっていた。
「それで素直すなおに帰っかえって行っいったんですか、あの男おとこは。少しすこし変へんね」「だって断らことわられれば仕方しかたがないじゃないか。喧嘩けんかをする訳わけにも行かいかないんだから」「だけど、また来るくるんでしょう。ああして大人しくおとなしく帰っかえって置いおいて」「来きても構わかまわないさ」「でも厭いやですわ、蒼蠅さばえくって」 健三けんぞうは細君さいくんが次の間つぎのまで先刻せんこくの会話かいわを残らのこらず聴いきいていたものと察しさっした。
「御前ごぜん聴いきいてたんだろう、悉皆しっかい」 細君さいくんは夫おっとの言葉ことばを肯定こうていしない代りかわりに否定ひていもしなかった。
「じゃそれで好いよいじゃないか」 健三けんぞうはこういったなりまた立ったって書斎しょさいへ行こういこうとした。
彼かれは独断どくだん家いえであった。
これ以上いじょう細君さいくんに説明せつめいする必要ひつようは始めはじめからないものと信じしんじていた。
細君さいくんもそうした点てんにおいて夫おっとの権利けんりを認めるみとめる女おんなであった。
けれども表ひょう向むかい夫おっとの権利けんりを認めるみとめるだけに、腹はらの中なかには何時もいつも不平ふへいがあった。
事々じじについて出でて来るくる権柄けんぺいずくな夫おっとの態度たいどは、彼女かのじょに取っとって決してけっして心持こころもちの好いよいものではなかった。
何故なぜもう少しすこし打ち解けうちとけてくれないのかという気きが、絶えたえず彼女かのじょの胸むねの奥おくに働はたらけらいた。
そのくせ夫おっとを打ち解けうちとけさせる天分てんぶんも技倆ぎりょうも自分じぶんに充分じゅうぶん具えそなえていないという事実じじつには全くまったく無頓着むとんちゃくであった。
「あなた島田しまだと交際こうさいっても好いよいと受合っうけあっていらしったようですね」「ああ」 健三けんぞうはそれがどうしたといった風かぜの顔付かおつきをした。
細君さいくんは何時なんじでも此これ所ところまで来きて黙っだまってしまうのを例れいにしていた。
彼女かのじょの性質せいしつとして、夫おっとがこういう態度たいどに出るでると、急きゅうに厭気いやけがさして、それから先さき一いち歩あゆみも前まえへ出るでる気きになれないのである。
その不ふ愛想あいそな様子ようすがまた夫おっとの気質きしつに反射はんしゃして、益えき彼かれを権柄けんぺいずくにしがちであった。
「御前ごぜんや御前ごぜんの家族かぞくに関係かんけいした事ことでないんだから、構わかまわないじゃないか、己おのれ一人ひとりで極めきわめたって」「そりゃ私わたくしに対したいして何なんも構っかまって頂かいただきかなくっても宜よござんす。構っかまってくれったって、どうせ構っかまって下さるくださる方ほうじゃないんだから、……」 学問がくもんをした健三けんぞうの耳みみには、細君さいくんのいう事ことがまるで脱線だっせんであった。
そうしてその脱線だっせんはどうしても頭あたまの悪いわるい証拠しょうことしか思わおもわれなかった。
「また始まっはじまった」という気きが腹はらの中なかでした。
しかし細君さいくんはすぐ当とうの問題もんだいに立ち戻ったちもどって、彼かれの注意ちゅういを惹かひかなければならないような事ことをいい出しだした。
「しかし御ご父さまちちさまに悪いわるいでしょう。今いまになってあの人ひとと御ご交際こうさいいになっちゃあ」「御ご父さまちちさまって己おのれのおやじかい」「無論むろん貴方あなたの御ご父さまちちさまですわ」「己おのれのおやじはとうに死んしんだじゃないか」「しかし御ご亡くなりなくなりになる前まえ、島田しまだとは絶交ぜっこうだから、向後こうご一切いっさい付合ふごうをしちゃならないって仰しゃっおっしゃったそうじゃありませんか」 健三けんぞうは自分じぶんの父ちちと島田しまだとが喧嘩けんかをして義絶ぎぜつした当時とうじの光景こうけいをよく覚えおぼえていた。
しかし彼かれは自分じぶんの父ちちに対したいしてさほど情愛じょうあいの籠っこもった優しいやさしい記憶きおくを有っあっていなかった。
その上うえ絶交ぜっこう云々うんぬんについても、そう厳重げんじゅうにいい渡さいいわたされた覚さとしはなかった。
「御前ごぜん誰だれからそんな事ことを聞いきいたのかい。己おのれは話しはなしたつもりはないがな」「貴方あなたじゃありません。御ご兄さんあにさんに伺っうかがったんです」 細君さいくんの返事へんじは健三けんぞうに取っとって不思議ふしぎでも何なんでもなかった。
同時どうじに父ちちの意志いしも兄あにの言葉ことばも、彼かれには大したたいした影響えいきょうを与えあたえなかった。
「おやじは阿爺あや、兄あには兄あに、己おのれは己おのれなんだから仕方しかたがない。己おのれから見るみると、交際こうさいを拒絶きょぜつするだけの根拠こんきょがないんだから」 こういい切っいいきった健三けんぞうは、腹はらの中なかでその交際こうさいが厭いやで厭いやで堪らたまらないのだという事実じじつを意識いしきした。
けれどもその腹はらの中なかはまるで細君さいくんの胸むねに映らうつらなかった。
彼女かのじょはただ自分じぶんの夫おっとがまた例れいの頑固がんこを張りばり通しとおして、徒らいたずらに皆みななの意見いけんに反対はんたいするのだとばかり考えかんがえた。
十五じゅうご
健三けんぞうは昔むかしその人ひとに手てを引かひかれて歩いあるいた。
その人ひとは健三けんぞうのために小さいちいさい洋服ようふくを拵らえこしらえてくれた。
大人おとなさえあまり外国がいこくの服装ふくそうに親しみしたしみのない古いふるい時分じぶんの事ことなので、裁縫さいほう師しは子供こどもの着るきるスタイルすたいるなどにはまるで頓着とんちゃくしなかった。
彼かれの上着うわぎには腰こしのあたりに釦ぼたんが二につ並んならんでいて、胸むねは開いひらいたままであった。
霜降そうこうの羅紗らしゃも硬くかたくごわごわして、極めてきわめて手て触ふれが粗かっあらかった。
ことに洋よう袴はかまは薄うす茶色ちゃいろに竪たて溝みぞの通っとおった調ちょう馬うま師しでなければ穿かはかないものであった。
しかし当時とうじの彼かれはそれを着きて得意とくいに手てを引かひかれて歩いあるいた。
彼かれの帽子ぼうしもその頃ころの彼かれには珍らしかっめずらしかった。
浅いあさい鍋底なべぞこのような形かたちをしたフェルトふぇるとをすぽりと坊主頭ぼうずあたまへ頭巾ずきんのように被るかぶるのが、彼かれに大したたいした満足まんぞくを与えあたえた。
例れいの如くごとくその人ひとに手てを引かひかれて、寄席よせへ手品てじなを見みに行っいった時じ、手品てじな師しが彼かれの帽子ぼうしを借りかりて、大事だいじな黒くろ羅紗らしゃの山やまの裏うらから表ひょうへ指ゆびを突き通しつきとおして見せみせたので、彼かれは驚ろきおどろきながら心配しんぱいそうに、再びふたたびわが手てに帰っかえった帽子ぼうしを、何なん遍へんか撫でまわしなでまわして見みた事こともあった。
その人ひとはまた彼かれのために尾おの長いながい金魚きんぎょをいくつも買っかってくれた。
武者絵むしゃえ、錦絵にしきえ、二に枚ばいつづき三さん枚ばいつづきの絵えも彼かれのいうがままに買っかってくれた。
彼かれは自分じぶんの身体しんたいにあう緋縅ひおどししの鎧よろいと竜頭りゅうずの兜かぶとさえ持っもっていた。
彼かれは日ひに一いち度ど位くらいずつその具足ぐそくを身みに着けつけて、金紙きんがみで拵えこしらえた采配さいはいを振りふり舞わしまわした。
彼かれはまた子供こどもの差すさす位くらいな短かいみじかい脇差わきざしの所有者しょゆうしゃであった。
その脇差わきざしの目貫めぬきは、鼠ねずみが赤いあかい唐辛子とうがらしを引いひいて行くいく彫刻ちょうこくで出来上っできあがっていた。
彼かれは銀ぎんで作っつくったこの鼠ねずみと珊瑚さんごで拵えこしらえたこの唐辛子とうがらしとを、自分じぶんの宝物ほうもつのように大事だいじがった。
彼かれは時々ときどきこの脇差わきざしが抜いぬいて見みたくなった。
また何度なんども抜こうぬこうとした。
けれども脇差わきざしは何時もいつも抜けぬけなかった。
――この封建ほうけん時代じだいの装飾品そうしょくひんもやはりその人ひとの好意こういで小さなちいさな健三けんぞうの手てに渡さわたされたのである。
彼かれはまたその人ひとに連れつれられて、よく船ふねに乗っのった。
船ふねにはきっと腰蓑こしみのを着けつけた船頭せんどうがいて網あみを打っうった。
いなだの鰡だのが水際みずぎわまで来きて跳ね躍るはねおどる様ようが小さなちいさな彼かれの眼めに白金はっきんのような光ひかりを与えあたえた。
船頭せんどうは時々ときどき一いち里さとも二に里さとも沖おきへ漕いこいで行っいって、海うみ※というものまで捕っとった。
そういう場合ばあいには高いたかい波なみが来きて舟ふねを揺り動かすゆりうごかすので、彼かれの頭あたまはすぐ重くおもくなった。
そうして舟ふねの中なかへ寐ぬてしまう事ことが多かっおおかった。
彼かれの最ももっとも面白おもしろがったのは河豚ふぐの網あみにかかった時じであった。
彼かれは杉箸すぎばしで河豚ふぐの腹はらをかんから太鼓たいこのように叩いたたいて、その膨れふくれたり怒っどったりする様子ようすを見みて楽しんたのしんだ。
…… 吉田よしだと会見かいけんした後あとの健三けんぞうの胸むねには、ふとこうした幼時ようじの記憶きおくが続々ぞくぞく湧いわいて来るくる事ことがあった。
凡てすべてそれらの記憶きおくは、断片的だんぺんてきな割わりに鮮明せんめいに彼かれの心こころに映るうつるものばかりであった。
そうして断片的だんぺんてきではあるが、どれもこれも決してけっしてその人ひとと引き離すひきはなす事ことは出来できなかった。
零砕れいさいの事実じじつを手繰り寄せれたぐりよせれば寄せるよせるほど、種しゅが無尽蔵むじんぞうにあるように見えみえた時じ、またその無尽蔵むじんぞうにある種しゅの各自かくじのうちには必ずかならず帽子ぼうしを披らない男おとこの姿すがたが織り込まおりこまれているという事ことを発見はっけんした時じ、彼かれは苦しんくるしんだ。
「こんな光景こうけいをよく覚えおぼえているくせに、何故なぜ自分じぶんの有っあっていたその頃ころの心こころが思い出せおもいだせないのだろう」 これが健三けんぞうにとって大きなおおきな疑問ぎもんになった。
実際じっさい彼かれは幼少ようしょうの時分じぶんこれほど世話せわになった人ひとに対するたいする当時とうじのわが心持こころもちというものをまるで忘れわすれてしまった。
「しかしそんな事ことを忘れるわすれるはずがないんだから、ことによると始めはじめからその人ひとに対したいしてだけは、恩義おんぎ相応そうおうの情合じょうあいが欠けかけていたのかも知れしれない」 健三けんぞうはこうも考えかんがえた。
のみならず多分たぶんこの方ほうだろうと自分じぶんを解釈かいしゃくした。
彼かれはこの事件じけんについて思い出しおもいだした幼少ようしょうの時じの記憶きおくを細君さいくんに話さはなさなかった。
感情かんじょうに脆いもろい女おんなの事ことだから、もしそうでもしたら、あるいは彼女かのじょの反感はんかんを和らげるやわらげるに都合つごうが好かろうよかろうとさえ思わおもわなかった。
十六じゅうろく
待ち設けまちもうけた日ひがやがて来きた。
吉田よしだと島田しまだとはある日ひの午後ごご連れ立っつれだって健三けんぞうの玄関げんかんに現れあらわれた。
健三けんぞうはこの昔むかしの人ひとに対したいしてどんな言葉ことばを使っつかって、どんな応対おうたいをして好いよいか解らわからなかった。
思慮しりょなしにそれらを極めきわめてくれる自然しぜんの衝動しょうどうが今いまの彼かれにはまるで欠けかけていた。
彼かれは二十にじゅう年ねん余よも会わあわない人ひとと膝ひざを突き合せつきあわせながら、大したたいした懐かしみなつかしみも感じかんじ得とくずに、むしろ冷淡れいたんに近いちかい受じゅ答えこたえばかりしていた。
島田しまだはかねて横風おうふうだという評判ひょうばんのある男おとこであった。
健三けんぞうの兄あにや姉あねは単にたんにそれだけでも彼かれを忌み嫌っいみきらっている位くらいであった。
実じつは健三けんぞう自身じしんも心こころのうちでそれを恐れおそれていた。
今いまの健三けんぞうは、単にたんに言葉遣いことばづかいの末すえでさえ、こんな男おとこから自尊心じそんしんを傷けきずつけられるには、あまりに高こう過ぎるすぎると、自分じぶんを評価ひょうかしていた。
しかし島田しまだは思っおもったよりも鄭てい寧ねいであった。
普通ふつう初見しょけんの人ひとが挨拶あいさつに用いるもちいる「ですか」とか、「ません」とかいうてにはで、言葉ことばの語尾ごびを切るきる注意ちゅういをわざと怠らおこたらないように見えみえた。
健三けんぞうはむかしその人ひとから健けん坊ぼう々々と呼ばよばれた幼いおさない時分じぶんを思い出しおもいだした。
関係かんけいが絶えたえてからも、会いあいさえすれば、やはり同じおなじ健けん坊ぼう々々で通すとおすので、彼かれはそれを厭いやに感じかんじた過去かこも、自然しぜん胸むねのうちに浮かんうかんだ。
「しかしこの調子ちょうしなら好いよいだろう」 健三けんぞうはそれで、出来るだけできるだけ不快ふかいの顔かおを二人ふたりに見せみせまいと力めりきめた。
向うむこうもなるべく穏かおだやかに帰るかえるつもりと見えみえて、少しすこしも健三けんぞうの気きを悪くわるくするような事ことはいわなかった。
それがために、当然とうぜん双方そうほうの間まに話題わだいとなるべき懐旧かいきゅう談だんなども殆どほとんど出でなかった。
従っしたがって談話だんわはややともすると途切れとぎれがちになった。
健三けんぞうはふと雨あめの降っふった朝あさの出来事できごとを考えかんがえた。
「この間ま二に度どほど途中とちゅうで御ご目めにかかりましたが、時々ときどきあの辺へんを御ご通りとおりになるんですか」「実じつはあの高橋たかはしの総領そうりょうの娘むすめが片付いかたづいている所ところがついこの先このさきにあるもんですから」 高橋たかはしというのは誰だれの事ことだか健三けんぞうには一向いっこう解らわからなかった。
「はあ」「そら知っしってるでしょう。あの芝しばの」 島田しまだの後妻ごさいの親類しんるいが芝しばにあって、其その所ところの家いえは何なんでも神主かんぬしか坊主ぼうずだという事ことを健三けんぞうは子供心こどもこころに聞いきいて覚えおぼえているような気きもした。
しかしその親類しんるいの人ひとには、要ようさんという彼かれとおない年おないどし位くらいな男おとこに二に、三さん遍へん会っかいったぎりで、他ほかのものに顔かおを合せあわせた記憶きおくはまるでなかった。
「芝しばというと、たしか御藤おふじさんの妹いもうとさんに当るあたる方ほうの御ご嫁よめにいらしった所ところでしたね」「いえ姉あねですよ。妹いもうとではないんです」「はあ」「要三ようぞうだけは死にしにましたが、あとの姉妹しまいはみんな好いよい所ところへ片付いかたづいてね、仕合せしあわせですよ。そら総領そうりょうのは、多分たぶん知っしっておいでだろう、――へ行っいったんです」 ――という名前なまえはなるほど健三けんぞうに耳新しいみみあたらしいものではなかった。
しかしそれはもうよほど前まえに死んしんだ人ひとであった。
「あとが女おんなと子供こどもばかりで困るこまるもんだから、何なんかにつけて、叔父おじさん叔父おじさんて重宝ちょうほうがられましてね。それに近頃ちかごろは宅たくに手入ていれをするんで監督かんとくの必要ひつようが出来できたものだから、殆どほとんど毎日まいにちのように此これ所ところの前まえを通りとおります」 健三けんぞうは昔むかしこの男おとこにつれられて、池の端いけのはたの本屋ほんやで法帖ほうじょうを買っかってもらった事ことをわれ知らしらず思い出しおもいだした。
たとい一いち銭せんでも二に銭せんでも負けまけさせなければ物ものを買っかった例れいのないこの人ひとは、その時じも僅かわずか五ご厘りんの釣銭つりせんを取るとるべく店先みせさきへ腰こしを卸しおろして頑がんとして動かうごかなかった。
董とう其昌きしょうの折おり手本てほんを抱えかかえて傍そばに佇立ちょりつんでいる彼かれに取っとってはその態度たいどが如何にいかにも見苦しくみぐるしくまた不愉快ふゆかいであった。
「こんな人ひとに監督かんとくされる大工だいくや左官さかんはさぞ腹はらの立つたつ事ことだろう」 健三けんぞうはこう考えかんがえながら、島田しまだの顔かおを見みて苦笑くしょうを洩らしもらした。
しかし島田しまだは一向いっこうそれに気きが付かつかないらしかった。
十七じゅうなな
「でも御蔭みかげさまで、本ほんを遺しのこして行っいってくれたもんですから、あの男おとこが亡くなっなくなっても、あとはまあ困らこまらないで、どうにかこうにか遣っつかって行けるいけるんです」 島田しまだは――の作っつくった書物しょもつを世の中よのなかの誰だれでもが知っしっていなければならないはずだといった風かぜの口調くちょうでこういった。
しかし健三けんぞうは不幸ふこうにしてその著書ちょしょの名前なまえを知らしらなかった。
字引じびきか教科書きょうかしょだろうとは推察すいさつしたが、別べつに訊いきいて見るみる気きにもならなかった。
「本ほんというものは実じつに有難いありがたいもので、一いちつ作っつくって置くおくとそれが何なん時じまでも売れるうれるんですからね」 健三けんぞうは黙っだまっていた。
仕方なししかたなしに吉田よしだが相手あいてになって、何なんでも儲けるもうけるには本ほんに限るかぎるような事ことをいった。
「御祝儀ごしゅうぎは済んすんだが、――が死んしんだ時じ後あとが女おんなだけだもんだから、実じつは私わたくしが本屋ほんやに懸けかけ合いあいましてね。それで年々ねんねんいくらと極めてきわめて、向うむこうから収めおさめさせるようにしたんです」「へえ、大したたいしたもんですな。なるほどどうも学問がくもんをなさる時じは、それだけ資金しきんが要るいるようで、ちょっと損そんな気きもしますが、さて仕上げしあげて見るみると、つまりその方ほうが利廻りりまわりの好いよい訳わけになるんだから、無学むがくのものはとても敵いかないませんな」「結局けっきょく得とくですよ」 彼かれらの応対おうたいは健三けんぞうに何なんの興味きょうみも与えあたえなかった。
その上うえいくら相槌あいづちを打とううとうにも打たうたれないような変へんな見当けんとうへ向いむかいて進んすすんで行くいくばかりであった。
手持無沙汰てもちむさたな彼かれは、やむをえず二人ふたりの顔かおを見比べみくらべながら、時々ときどき庭にわの方ほうを眺めながめた。
その庭にわはまた見苦しくみぐるしく手入ていれの届かとどけかないものであった。
何なん時じ緑みどりをとったか分らわからないような一いち本ほんの松まつが、息苦しいきぐるしそうに蒼黒いあおぐろい葉はを垣根かきねの傍そばに茂らしげらしている外そとに、木きらしい木きは殆どほとんどなかった。
箒ほうきに馴染まなじまない地面じめんは小石こいし交りまじわりに凸凹でこぼこしていた。
「こちらの先生せんせいも一いちつ御ご儲けもうけになったら如何いかがです」 吉田よしだは突然とつぜん健三けんぞうの方ほうを向いむかいた。
健三けんぞうは苦笑くしょうしない訳わけに行かいかなかった。
仕方なししかたなしに「ええ儲けもうけたいものですね」といって跋ばつを合せあわせた。
「なに訳わけはないんです。洋行ようこうまですりゃ」 これは年寄としよりの言葉ことばであった。
それがあたかも自分じぶんで学資がくしでも出しだして、健三けんぞうを洋行ようこうさせたように聞こえきこえたので、彼かれは厭いやな顔かおをした。
しかし老人ろうじんは一向いっこうそんな事ことに頓着とんちゃくする様子ようすも見えみえなかった。
迷惑めいわくそうな健三けんぞうの体からだを見みても澄ましすましていた。
しまいに吉田よしだが例れいの烟草たばこ入いりを腰こしへ差しさして、「では今日きょうはこれで御ご暇ひまを致すいたす事ことにしましょうか」と催促さいそくしたので、彼かれは漸くようやく帰るかえる気きになったらしかった。
二人ふたりを送り出しおくりだしてまたちょっと座敷ざしきへ戻っもどった健三けんぞうは、再びふたたび座蒲団ざふとんの上うえに坐っすわったまま、腕組うでぐみをして考えかんがえた。
「一体いったい何なんのために来きたのだろう。これじゃ他ほかを厭いやがらせに来るくるのと同じおなじ事ことだ。あれで向むかいは面白いおもしろいのだろうか」 彼かれの前まえには先刻せんこく島田しまだの持っもって来きた手土産てみやげがそのまま置いおいてあった。
彼かれはぼんやりその粗末そまつな菓子折かしおりを眺めながめた。
何になんにもいわずに茶碗ちゃわんだの烟草たばこ盆ぼんを片付けかたづけ始めはじめた細君さいくんは、しまいに黙っだまって坐っすわっている彼かれの前まえに立ったった。
「あなたまだ其処そこに坐っすわっていらっしゃるんですか」「いやもう立ったっても好いよい」 健三けんぞうはすぐ立上ろうたちあがろうとした。
「あの人ひとたちはまた来るくるんでしょうか」「来るくるかも知れしれない」 彼かれはこう言い放っいいはなったまま、また書斎しょさいへ入っはいった。
一しきりひとしきり箒ほうきで座敷ざしきを掃くはく音おとが聞えきこえた。
それが済むすむと、菓子折かしおりを奪りとり合うあう子供こどもの声こえがした。
凡てすべてがやがて静せいになったと思うおもう頃ころ、黄昏たそがれの空そらからまた雨あめが落ちおちて来きた。
健三けんぞうは買おうかおう買おうかおうと思いおもいながら、ついまだ買わかわずにいるオヴァーシューの事ことを思い出しおもいだした。
十八じゅうはち
雨あめの降るふる日ひが幾いく日ひも続いつづいた。
それがからりと晴れはれた時じ、染そめ付けつけられたような空そらから深いぶかい輝きかがやきが大地だいちの上うえに落ちおちた。
毎日まいにち欝陶しいうっとうしい思いおもいをして、縫針ぬいはりにばかり気きをとられていた細君さいくんは、縁えん鼻はなへ出でてこの蒼いあおい空そらを見上げみあげた。
それから急きゅうに箪笥たんすの抽斗ひきだしを開けあけた。
彼女かのじょが服装ふくそうを改あらためためて夫おっとの顔かおを覗きのぞきに来きた時じ、健三けんぞうは頬杖つらづえを突いついたまま盆ぼん槍やり汚ないきたない庭にわを眺めながめていた。
「あなた何なんを考えかんがえていらっしゃるの」 健三けんぞうはちょっと振り返っふりかえって細君さいくんの余よ所行しょぎょう姿すがたを見みた。
その刹那せつなに爛熟らんじゅくした彼かれの眼めはふとした新らしあたらし味あじを自分じぶんの妻つまの上うえに見出しみだした。
「どこかへ行くいくのかい」「ええ」 細君さいくんの答こたえは彼かれに取っとって余りあまりに簡潔かんけつ過ぎすぎた。
彼かれはまたもとの佗びしいわびしい我われに帰っかえった。
「子供こどもは」「子供こどもも連れつれて行きいきます。置いおいて行くいくと八釜しくやかましくって御ご蒼蠅さばえいでしょうから」 その日曜にちようの午後ごごを健三けんぞうは独りひとり静かしずかに暮らしくらした。
細君さいくんの帰っかえって来きたのは、彼かれが夕飯ゆうはんを済ましすましてまた書斎しょさいへ引き取っひきとった後あとなので、もう灯あかりが点いついてから一いち、二に時間じかん経っきょうっていた。
「ただ今いま」 遅くおそくなりましたとも何なんともいわない彼女かのじょの無愛嬌むあいきょうが、彼かれには気きに入らはいらなかった。
彼かれはちょっと振り向いふりむいただけで口くちを利かりかなかった。
するとそれがまた細君さいくんの心こころに暗いくらい影かげを投げるなげる媒介ばいかいとなった。
細君さいくんもそのまま立ったって茶の間ちゃのまの方ほうへ行っいってしまった。
話はなしをする機会きかいはそれぎり二人ふたりの間まに絶えたえた。
彼かれらは顔かおさえ見れみれば自然しぜん何なんかいいたくなるような仲なかの好いよい夫婦ふうふでもなかった。
またそれだけの親しみしたしみを現わすあらわすには、御ご互たがいが御ご互たがいに取っとってあまりに陳腐ちんぷ過ぎすぎた。
二に、三さん日ひ経っきょうってから細君さいくんは始めはじめてその日ひ外出がいしゅつした折おりの事ことを食事しょくじの時じ話題わだいに上せのぼせた。
「此間このま宅たくへ行っいったら、門司もじの叔父おじに会いあいましてね。随分ずいぶん驚ろいおどろいちまいました。まだ台湾たいわんにいるのかと思っおもったら、何時なんじの間まにか帰っかえって来きているんですもの」 門司もじの叔父おじというのは油断ゆだんのならない男おとことして彼かれらの間まに知らしられていた。
健三けんぞうがまだ地方ちほうにいる頃ころ、彼かれは突然とつぜん汽車きしゃで遣っつかって来きて、急きゅうに入用にゅうようが出来できたから、是非ぜひとも少しすこし都合つごうしてくれまいかと頼むたのむので、健三けんぞうは地方ちほうの銀行ぎんこうに預けあずけて置いおいた貯金ちょきんを些少さしょうながら用立てようだてたら、立派りっぱに印紙いんしを貼っはった証文しょうもんを後あとから郵便ゆうびんで送っおくって来きた。
その中なかに「但しただし利子りしの儀ぎは」という文句もんくまで書き添えかきそえてあったので、健三けんぞうはむしろ堅けん過ぎるすぎる人ひとだと思っおもったが、貸しかした金きんはそれぎり戻っもどって来きなかった。
「今いま何なんをしているのかね」「何なんをしているんだか分りゃわかりゃしません。何なんとかの会社かいしゃを起すおこすんで、是非ぜひ健三けんぞうさんにも賛成さんせいしてもらいたいから、その内うち上るのぼるつもりだっていってました」 健三けんぞうにはその後そのあとを訊くきく必要ひつようもなかった。
彼かれが昔むかしし金きんを借りかりられた時分じぶんにも、この叔父おじは何なんかの会社かいしゃを建てたてているとかいうので彼かれはそれを本当ほんとうにしていた。
細君さいくんの父ちちもそれを疑わうたがわなかった。
叔父おじはその父ちちを旨くうまく説きつけときつけて、門司もじまで引張っひっぱって行っいった。
そうしてこれが今いま建築けんちく中なかの会社かいしゃだといって、縁えんもゆかりもない他人たにんの建てたてている家いえを見せみせた。
彼かれは実じつにこの手段しゅだんで細君さいくんの父ちちから何千なんぜんかの資本しほんを捲き上げまきあげたのである。
健三けんぞうはこの人ひとについてこれ以上いじょう何なんも知りしりたがらなかった。
細君さいくんもいうのが厭いやらしかった。
しかし何時もいつもの通りとおり会話かいわは其その所ところで切れきれてしまわなかった。
「あの日ひはあまり好いよい御ご天気てんきだったから、久しぶりひさしぶりで御ご兄さんあにさんの所ところへも廻っまわって来きました」「そうか」 細君さいくんの里さとは小石川こいしかわ台だい町まちで、健三けんぞうの兄あにの家いえは市ヶ谷いちがや薬王寺やくおうじ前まえだから、細君さいくんの訪問ほうもんは大したたいした迂回うかいでもなかった。
十九じゅうきゅう
「御ご兄さんあにさんに島田しまだの来きた事ことを話しはなしたら驚ろいおどろいていらっしゃいましたよ。今更いまさら来きられた義理ぎりじゃないんだって。健三けんぞうもあんなものを相手あいてにしなければ好いよいのにって」 細君さいくんの顔かおには多少たしょう諷諫ふうかんの意いが現われあらわれていた。
「それを聞きききに、御前ごぜんわざわざ薬王寺やくおうじ前まえへ廻っまわったのかい」「またそんな皮肉ひにくを仰しゃるおっしゃる。あなたはどうしてそう他ほかのする事ことを悪くわるくばかり御ご取りとりになるんでしょう。妾めかけあんまり御無沙汰ごむさたをして済ますまないと思っおもったから、ただ帰りかえりにちょっと伺っうかがっただけですわ」 彼かれが滅多めったに行っいった事ことのない兄あにの家いえへ、細君さいくんがたまに訪ねたずねて行くいくのは、つまり夫おっとの代りかわりに交際こうさいの義理ぎりを立てたてているようなものなので、いかな健三けんぞうもこれには苦情くじょうをいう余地よちがなかった。
「御ご兄さんあにさんは貴夫たかおのために心配しんぱいしていらっしゃるんですよ。ああいう人ひとと交際こうさいいだして、またどんな面倒めんどうが起らおこらないとも限らかぎらないからって」「面倒めんどうってどんな面倒めんどうを指すさすのかな」「そりゃ起っおこって見みなければ、御ご兄さんあにさんにだって分りわかりっ子っこないでしょうけれども、何しろなにしろ碌なろくな事ことはないと思っおもっていらっしゃるんでしょう」 碌なろくな事ことがあろうとは健三けんぞうにも思えおもえなかった。
「しかし義理ぎりが悪いわるいからね」「だって御ご金きんを遣っつかって縁えんを切っきった以上いじょう、義理ぎりの悪いわるい訳わけはないじゃありませんか」 手切てぎれの金きんは昔むかしし養育よういく料りょうの名前なまえの下したに、健三けんぞうの父ちちの手てから島田しまだに渡さわたされたのである。
それはたしか健三けんぞうが廿にじゅう二にの春はるであった。
「その上うえその御ご金きんをやる十四じゅうよん、五ご年ねんも前まえから貴夫たかおは、もう貴夫たかおの宅たくへ引き取らひきとられていらしったんでしょう」 いくつの年ねんからいくつの年ねんまで、彼かれが全然ぜんぜん島田しまだの手てで養育よういくされたのか、健三けんぞうにも判然はんぜん分らわからなかった。
「三さんつから七ななつまでですって。御ご兄さんあにさんがそう御ご仰いおっしゃいましたよ」「そうかしら」 健三けんぞうは夢ゆめのように消えきえた自分じぶんの昔むかしを回顧かいこした。
彼かれの頭あたまの中なかには眼鏡めがねで見るみるような細かいこまかい絵えが沢山たくさん出でた。
けれどもその絵えにはどれを見みても日付ひづけがついていなかった。
「証文しょうもんにちゃんとそう書いかいてあるそうですから大丈夫だいじょうぶ間ま違いはないでしょう」 彼かれは自分じぶんの離籍りせきに関しかんした書類しょるいというものを見みた事ことがなかった。
「見みない訳わけはないわ。きっと忘れわすれていらっしゃるんですよ」「しかし八はちッっで宅たくへ帰っかえったにしたところで復籍ふくせきするまでは多少たしょう往来おうらいもしていたんだから仕方しかたがないさ。全くまったく縁えんが切れきれたという訳わけでもないんだからね」 細君さいくんは口くちを噤んつぐんだ。
それが何故なぜだか健三けんぞうには淋しかっさびしかった。
「己おのれも実じつは面白くおもしろくないんだよ」「じゃ御ご止しよしになれば好いよいのに。つまらないわ、貴夫たかお、今いまになってあんな人ひとと交際こうさいうのは。一体いったいどういう気きなんでしょう、先方せんぽうは」「それが己おのれには些ともちっとも解らわからない。向むかいでもさぞ詰らなじらないだろうと思うおもうんだがね」「御ご兄さんあにさんは何なんでもまた金きんにしようと思っおもって遣っつかって来きたに違いちがいないから、用心ようじんしなくっちゃいけないっていっていらっしゃいましたよ」「しかし金きんは始めはじめから断っことわっちまったんだから、構わかまわないさ」「だってこれから先さき何なんをいい出さださないとも限らかぎらないわ」 細君さいくんの胸むねには最初さいしょからこうした予感よかんが働はたらけらいていた。
其その所ところを既にすでに防ぎ止めふせぎとめたとばかり信じしんじていた理りに強いつよい健三けんぞうの頭あたまに、微かかすかな不安ふあんがまた新らしくあたらしく萌しきざした。
二十にじゅう
その不安ふあんは多少たしょう彼かれの仕事しごとの上うえに即いついて廻っまわった。
けれども彼かれの仕事しごとはまたその不安ふあんの影かげをどこかへ埋めうめてしまうほど忙がしかっいそがしかった。
そうして島田しまだが再びふたたび健三けんぞうの玄関げんかんへ現れるあらわれる前まえに、月つきは早くはやくも末すえになった。
細君さいくんは鉛筆えんぴつで汚ならしくきたならしく書き込んかきこんだ会計かいけい簿ぼを持っもって彼かれの前まえに出でた。
自分じぶんの外そとで働いはたらいて取るとる金額きんがくの全部ぜんぶを挙げあげて細君さいくんの手てに委ねるゆだねるのを例れいにしていた健三けんぞうには、それが意外いがいであった。
彼かれはいまだかつて月末げつまつに細君さいくんの手てから支出ししゅつの明細書めいさいしょを突き付けつきつけられた例れいがなかった。
「まあどうにかしているんだろう」 彼かれは常つねにこう考えかんがえた。
それで自分じぶんに金きんの要るいる時じは遠慮えんりょなく細君さいくんに請求せいきゅうした。
月々つきづき買うかう書物しょもつの代価だいかだけでも随分ずいぶんの多額たがくに上るのぼる事ことがあった。
それでも細君さいくんは澄ましすましていた。
経済けいざいに暗いくらい彼かれは時じとして細君さいくんの放漫ほうまんをさえ疑っうたがった。
「月々つきづきの勘定かんじょうはちゃんとして己おのれに見せみせなければいけないぜ」 細君さいくんは厭いやな顔かおをした。
彼女かのじょ自身じしんからいえば自分じぶんほど忠実ちゅうじつな経済家けいざいかはどこにもいない気きなのである。
「ええ」 彼女かのじょの返事へんじはこれぎりであった。
そうして月末げつまつが来きても会計かいけい簿ぼはついに健三けんぞうの手てに渡らわたらなかった。
健三けんぞうも機嫌きげんの好いよい時じはそれを黙認もくにんした。
けれども悪いわるい時じは意地いじになってわざと見せろみせろと逼るせまる事ことがあった。
そのくせ見せみせられるとごちゃごちゃしてなかなか解らわからなかった。
たとい帳面ちょうづらづらは細君さいくんの説明せつめいを聴いきいて解るわかるにしても、実際じっさい月つきに肴さかなをどれだけ食しょくたものか、または米べいがどれほど要っいったものか、またそれが高こう過ぎるすぎるのか、安あん過ぎるすぎるのか、更にさらに見当けんとうが付かつかなかった。
この場合ばあいにも彼かれは細君さいくんの手てから帳簿ちょうぼを受取っうけとって、ざっと眼めを通しとおしただけであった。
「何なんか変っかわった事ことでもあるのかい」「どうかして頂かいただきかないと……」 細君さいくんは目下めしたの暮しくらし向むかいについて詳しいくわしい説明せつめいを夫おっとにして聞かきかせた。
「不思議ふしぎだね。それで能くよく今日きょうまで遣っつかって来きられたものだね」「実じつは毎月まいつき余らよらないんです」 余ろうあまろうとは健三けんぞうにも思えおもえなかった。
先月末せんげつまつに旧いふりい友達ともだちが四よん、五ご人ひとでどこかへ遠足えんそくに行くいくとかいうので、彼かれにも勧誘かんゆうの端書はしがきをよこした時じ、彼かれは二に円えんの会費かいひがないだけの理由りゆうで、同行どうこうを断っことわった覚さとしもあった。
「しかしかつかつ位くらいには行きいきそうなものだがな」「行っいっても行かいかなくっても、これだけの収入しゅうにゅうで遣っつかって行くいくより仕方しかたがないんですけれども」 細君さいくんはいい悪わるそうに、箪笥たんすの抽匣にしまって置いおいた自分じぶんの着物きものと帯おびを質しつに入れいれた顛末てんまつを話しはなした。
彼かれは昔むかし自分じぶんの姉やねえや兄あにが彼かれらの晴着はれぎを風呂敷ふろしきへ包んつつんで、こっそり外そとへ持っもって出でたりまた持っもって入っはいったりしたのをよく目撃もくげきした。
他ほかに知れしれないように気きを配りくばりがちな彼かれらの態度たいどは、あたかも罪つみを犯しおかした日影ひかげ者もののように見えみえて、彼かれの子供心こどもこころに淋しいさびしい印象いんしょうを刻み付けきざみつけた。
こうした聯想れんそうが今いまの彼かれを特とく更にさらに佗びしくわびしく思わおもわせた。
「質しつを置いおいたって、御前ごぜんが自分じぶんで置きおきに行っいったのかい」 彼かれ自身じしんいまだ質屋しちやの暖簾のれんを潜っもぐった事ことのない彼かれは、自分じぶんより貧苦ひんくの経験けいけんに乏しいとぼしい彼女かのじょが、平気へいきでそんな所ところへ出入でいりするはずがないと考えかんがえた。
「いいえ頼んたのんだんです」「誰だれに」「山野やまののうちの御ご婆ばあさんにです。あすこには通いかよいつけの質屋しちやの帳面ちょうづらがあって便利べんりですから」 健三けんぞうはその先さきを訊かきかなかった。
夫おっとが碌なろくな着物きもの一いち枚ばいさえ拵えこしらえてやらないのに、細君さいくんが自分じぶんの宅たくから持っもってきたものを質しつに入れいれて、家計かけいの足あしにしなければならないというのは、夫おっとの恥はじに相違そういなかった。
二十一にじゅういち
健三けんぞうはもう少しすこし働はたらけらこうと決心けっしんした。
その決心けっしんから来るくる努力どりょくが、月々つきづき幾いく枚ばいかの紙幣しへいに変形へんけいして、細君さいくんの手てに渡るわたるようになったのは、それから間まもない事ことであった。
彼かれは自分じぶんの新たあらたに受取っうけとったものを洋服ようふくの内うち隠いん袋ふくろから出しだして封筒ふうとうのまま畳たたみの上うえへ放り出しほうりだした。
黙っだまってそれを取り上げとりあげた細君さいくんは裏うらを見みて、すぐその紙幣しへいの出所しゅっしょを知っしった。
家計かけいの不足ふそくはかくの如くごとくにして無言むごんのうちに補なわおぎなわれたのである。
その時じ細君さいくんは別べつに嬉しいうれしい顔かおもしなかった。
しかしもし夫おっとが優しいやさしい言葉ことばに添えそえて、それを渡しわたしてくれたなら、きっと嬉しいうれしい顔かおをする事ことが出来できたろうにと思っおもった。
健三けんぞうはまたもし細君さいくんが嬉しうれしそうにそれを受取っうけとってくれたら優しいやさしい言葉ことばも掛けかけられたろうにと考えかんがえた。
それで物質的ぶっしつてきの要求ようきゅうに応おうずべく工面くめんされたこの金きんは、二人ふたりの間まに存在そんざいする精神上せいしんじょうの要求ようきゅうを充たすみたす方便ほうべんとしてはむしろ失敗しっぱいに帰しかえしてしまった。
細君さいくんはその折おりの物もの足らあしらなさを回復かいふくするために、二に、三さん日ひ経っきょうってから、健三けんぞうに一いち反はんの反物たんものを見せみせた。
「あなたの着物きものを拵えようこしらえようと思うおもうんですが、これはどうでしょう」 細君さいくんの顔かおは晴々しくはればれしく輝やいかがやいていた。
しかし健三けんぞうの眼めにはそれが下手へたな技巧ぎこうを交えまじえているように映っうつった。
彼かれはその不純ふじゅんを疑がっうたがった。
そうしてわざと彼女かのじょの愛嬌あいきょうに誘わさそわれまいとした。
細君さいくんは寒かんそうに座ざを立ったった。
細君さいくんの座ざを立ったった後あとで、彼かれは何故なぜ自分じぶんの細君さいくんを寒かんがらせなければならない心理状態しんりじょうたいに自分じぶんが制せせいせられたのかと考えかんがえて益えき不愉快ふゆかいになった。
細君さいくんと口くちを利くきく次つぎの機会きかいが来きた時じ、彼かれはこういった。
「己おのれは決してけっして御前ごぜんの考えかんがえているような冷れい刻こくな人間にんげんじゃない。ただ自分じぶんの有っあっている温かいあたたかい情愛じょうあいを堰き止めせきとめて、外そとへ出でられないように仕向けるしむけるから、仕方なししかたなしにそうするのだ」「誰だれもそんな意地いじの悪いわるい事ことをする人ひとはいないじゃありませんか」「御前ごぜんはしょっちゅうしているじゃないか」 細君さいくんは恨めしうらめしそうに健三けんぞうを見みた。
健三けんぞうの論理ろんりはまるで細君さいくんに通じつうじなかった。
「貴夫たかおの神経しんけいは近頃ちかごろよっぽど変へんね。どうしてもっと穏当おんとうに私わたくしを観察かんさつして下さらくださらないのでしょう」 健三けんぞうの心こころには細君さいくんの言葉ことばに耳みみを傾けるかたむける余裕よゆうがなかった。
彼かれは自分じぶんに不自然ふしぜんな冷かさひやかさに対したいして腹立たしいはらだたしいほどの苦痛くつうを感じかんじていた。
「あなたは誰だれも何になんにもしないのに、自分じぶん一人ひとりで苦しんくるしんでいらっしゃるんだから仕方しかたがない」 二人ふたりは互たがいに徹底てっていするまで話し合うはなしあう事ことのついに出来できない男女だんじょのような気きがした。
従っしたがって二人ふたりとも現在げんざいの自分じぶんを改めるあらためる必要ひつようを感じかんじ得とくなかった。
健三けんぞうの新たあらたに求めもとめた余分よぶんの仕事しごとは、彼かれの学問がくもんなり教育きょういくなりに取っとって、さして困難こんなんのものではなかった。
ただ彼かれはそれに費やすついやす時間じかんと努力どりょくとを厭っいとった。
無意味むいみに暇ひまを潰すつぶすという事ことが目下めしたの彼かれには何なんよりも恐ろしくおそろしく見えみえた。
彼かれは生きいきているうちに、何なんかし終おわりせる、またし終おわりせなければならないと考えるかんがえる男おとこであった。
彼かれがその余分よぶんの仕事しごとを片付けかたづけて家いえに帰るかえるときは何時なんじでも夕暮ゆうぐれになった。
或ある日ひ彼かれは疲れつかれた足あしを急がいそがせて、自分じぶんの家いえの玄関げんかんの格子こうしを手荒くてあらく開けあけた。
すると奥おくから出でて来きた細君さいくんが彼かれの顔かおを見るみるなり、「あなたあの人ひとがまた来きましたよ」といった。
細君さいくんは島田しまだの事ことを始終しじゅうあの人ひとあの人ひとと呼んよんでいたので、健三けんぞうも彼女かのじょの様子ようすと言葉ことばから、留守るすのうちに誰だれが来きたのかほぼ見当けんとうが付いついた。
彼かれは無言むごんのまま茶の間ちゃのまへ上っのぼって、細君さいくんに扶けたすけられながら洋服ようふくを和服わふくに改めあらためた。
二十二にじゅうに
彼かれが火鉢ひばちの傍そばに坐っすわって、烟草たばこを一いち本ほん吹かしふかしていると、間まもなく夕飯ゆうはんの膳ぜんが彼かれの前まえに運ばはこばれた。
彼かれはすぐ細君さいくんに質問しつもんを掛けかけた。
「上っのぼったのかい」 細君さいくんには何なんが上っのぼったのか解らわからない位くらいこの質問しつもんは突然とつぜんであった。
ちょっと驚ろいおどろいて健三けんぞうの顔かおを見みた彼女かのじょは、返事へんじを待ち受けまちうけている夫おっとの様子ようすから始めはじめてその意味いみを悟っさとった。
「あの人ひとですか。――でも御ご留守るすでしたから」 細君さいくんは座敷ざしきへ島田しまだを上げあげなかったのが、あたかも夫おっとの気きに障るさわる事ことでもしたような調子ちょうしで、言訳いいわけがましい答こたえをした。
「上げあげなかったのかい」「ええ。ただ玄関げんかんでちょっと」「何なんとかいっていたかい」「とうに伺ううかがうはずだったけれども、少しすこし旅行りょこうしていたものだから御ご不ふ沙汰さたをして済みすみませんって」 済みすみませんという言葉ことばが一種いっしゅの嘲弄ちょうろうのように健三けんぞうの耳みみに響いひびいた。
「旅行りょこうなんぞするのかな、田舎いなかに用ようのある身体しんたいとも思えおもえないが。御前ごぜんにその行っいった先さきを話しはなしたかい」「そりゃ何なんともいいませんでした。ただ娘むすめの所ところで来きてくれって頼またのまれたから行っいって来きたっていいました。大方おおかたあの御ご縫ぬいさんて人ひとの宅たくなんでしょう」 御ご縫ぬいさんの嫁よめいた柴野しばのという男おとこには健三けんぞうもその昔むかし会っかいった覚さとしがあった。
柴野しばのの今いまの任地にんち先さきもこの間ま吉田よしだから聞いきいて知っしっていた。
それは師団しだんか旅団りょだんのある中国ちゅうごく辺へんの或ある都会とかいであった。
「軍人ぐんじんなんですか、その御ご縫ぬいさんて人ひとの御ご嫁よめに行っいった所ところは」 健三けんぞうが急きゅうに話はなしを途と切らしきらしたので、細君さいくんはしばらく間まを置いおいたあとでこんな問もんを掛けかけた。
「能くよく知っしってるね」「何時なんじか御ご兄さんあにさんから伺いうかがいましたよ」 健三けんぞうは心こころのうちで昔むかし見みた柴野しばのと御ご縫ぬいさんの姿すがたを並べならべて考えかんがえた。
柴野しばのは肩かたの張っちょうった色いろの黒いくろい人ひとであったが、眼鼻めはな立たてからいうとむしろ立派りっぱな部類ぶるいに属すぞくすべき男おとこに違いなかった。
御ご縫ぬいさんはまたすらりとした恰好かっこの好いよい女おんなで、顔かおは面長おもながの色白いろじろという出来できであった。
ことに美びくしいのは睫毛まつげの多いおおい切長きれながのその眼めのように思わおもわれた。
彼かれらの結婚けっこんしたのは柴野しばのがまだ少尉しょういか中尉ちゅういの頃ころであった。
健三けんぞうは一度いちどその新宅しんたくの門もんを潜っもぐった記憶きおくを有っあっていた。
その時じ柴野しばのは隊たいから帰っかえって来きた身体しんたいを大きくおおきくして、長火鉢ながひばちの猫板ねこいたの上うえにある洋盃こっぷから冷酒れいしゅをぐいぐい飲んのんだ。
御ご縫ぬいさんは白いしろい肌はだをあらわに、鏡台きょうだいの前まえで鬢びんを撫でつけなでつけていた。
彼かれはまた自分じぶんの分ぶんとして取りとり配はいけられた握り鮨にぎりずしをしきりに皿さらの中なかから撮んつまんで食べたべた。
……「御ご縫ぬいさんて人ひとはよっぽど容色ようしょくが好いよいんですか」「何故なぜ」「だって貴夫たかおの御ご嫁よめにするって話はなしがあったんだそうじゃありませんか」 なるほどそんな話はなしもない事ことはなかった。
健三けんぞうがまだ十五じゅうご、六ろくの時分じぶん、ある友達ともだちを往来おうらいへ待たまたせて置いおいて、自分じぶん一人ひとりちょっと島田しまだの家いえへ寄ろうよろうとした時じ、偶然ぐうぜん門前もんぜんの泥溝どろどぶに掛けかけた小橋こばしの上うえに立ったって往来おうらいを眺めながめていた御ご縫ぬいさんは、ちょっと微笑びしょうしながら出合頭であいあたまの健三けんぞうに会釈えしゃくした。
それを目撃もくげきした彼かれの友達ともだちは独どく乙おつ語ごを習いならい始めはじめの子供こどもであったので、「フラウふらう門もんに倚っよって待つまつ」といって彼かれをひやかした。
しかし御ご縫ぬいさんは年歯ねんしからいうと彼かれより一いちつ上うえであった。
その上うえその頃ころの健三けんぞうは、女おんなに対するたいする美醜びしゅうの鑑別かんべつもなければ好悪こうおも有ゆうたなかった。
それから羞恥しゅうちに似にたような一種いっしゅ妙みょうな情緒じょうちょがあって、女おんなに近寄りちかよりたがる彼かれを、自然しぜんの力ちからで、護謨ごむ球たまのように、かえって女おんなから弾き飛ばしはじきとばした。
彼かれと御ご縫ぬいさんとの結婚けっこんは、他ほかに面倒めんどうのあるなしを差措いさしおいて、到底とうてい物ものにならないものとして放棄ほうきされてしまった。
二十三にじゅうさん
「貴夫たかおどうしてその御ご縫ぬいさんて人ひとを御ご貰いもらいにならなかったの」 健三けんぞうは膳ぜんの上うえから急きゅうに眼めを上げあげた。
追憶ついおくの夢ゆめを愕ろかされた人ひとのように。
「まるで問題もんだいにゃならない。そんな料簡りょうけんは島田しまだにあっただけなんだから。それに己おのれはまだ子供こどもだったしね」「あの人ひとの本当ほんとうの子こじゃないんでしょう」「無論むろんさ。御ご縫ぬいさんは御藤おふじさんの連れっ子つれっこだもの」 御藤おふじさんというのは島田しまだの後妻ごさいの名なであった。
「だけど、もしその御ご縫ぬいさんて人ひとと一所いっしょになっていらしったら、どうでしょう。今頃いまごろは」「どうなってるか判らわからないじゃないか、なって見みなければ」「でも殊にことによると、幸福こうふくかも知れしれませんわね。その方ほうが」「そうかも知れしれない」 健三けんぞうは少しすこし忌々しくいまいましくなった。
細君さいくんはそれぎり口くちを噤んつぐんだ。
「何故なぜそんな事ことを訊くきくのだい。詰らなじらない」 細君さいくんは窘なめられるような気きがした。
彼女かのじょにはそれを乗り越すのりこすだけの勇気ゆうきがなかった。
「どうせ私わたくしは始めはじめっから御ご気きに入らはいらないんだから……」 健三けんぞうは箸はしを放り出しほうりだして、手てを頭あたまの中なかに突込んつっこんだ。
そうして其その所ところに溜ったまっている雲脂ふけをごしごし落しおとし始めはじめた。
二人ふたりはそれなり別々べつべつの室むろで別々べつべつの仕事しごとをした。
健三けんぞうは御機嫌ごきげんようと挨拶あいさつに来きた子供こどもの去っさった後あとで、例れいの如くごとく書物しょもつを読んよんだ。
細君さいくんはその子供こどもを寐ぬかした後あとで、昼ひるの残りのこりの縫物ぬいものを始めはじめた。
御ご縫ぬいさんの話はなしがまた二人ふたりの間まの問題もんだいになったのは、中なか一いち日ひ置いおいた後あとの事ことで、それも偶然ぐうぜんの切せつッっ懸けかけからであった。
その時じ細君さいくんは一いち枚ばいの端書はしがきを持っもって、健三けんぞうの部屋へやへ這入っはいって来きた。
それを夫おっとの手てに渡しわたした彼女かのじょは、何時もいつものようにそのまま立ち去ろうたちさろうともせずに、彼かれの傍そばに腰こしを卸しおろした。
健三けんぞうが受取っうけとった端書はしがきを手てに持っもったなり何なん時じまでも読みよみそうにしないので、我慢がまんしきれなくなった細君さいくんはついに夫おっとを促しうながした。
「あなたその端書はしがきは比田ひでんさんから来きたんですよ」 健三けんぞうは漸すすむやく書物しょもつから眼めを放しはなした。
「あの人ひとの事ことで何なんか用事ようじが出来できたんですって」 なるほど端書はしがきには島田しまだの事ことで会いあいたいからちょっと来きてくれと書いかいた上うえに、日ひと時刻じこくが明記めいきしてあった。
わざわざ彼かれを呼び寄せるよびよせる失礼しつれいも鄭てい寧ねいに詫びわびてあった。
「どうしたんでしょう」「まるで判明はんめいらないね。相談そうだんでもなかろうし。こっちから相談そうだんを持ちもち懸けかけた事ことなんかまるでないんだから」「みんなで交際こうさいっちゃいけないって忠告ちゅうこくでもなさるんじゃなくって。御ご兄さんあにさんもいらっしゃると書いかいてあるでしょう、其その所ところに」 端書はしがきには細君さいくんのいった通りとおりの事ことがちゃんと書いかいてあった。
兄あにの名前なまえを見みた時じ、健三けんぞうの頭あたまにふとまた御ご縫ぬいさんの影かげが差しさした。
島田しまだが彼かれとこの女おんなを一所いっしょにして、後あとまで両家りょうけの関係かんけいをつなごうとした如くごとく、この女おんなの生母せいぼはまた彼かれの兄あにと自分じぶんの娘むすめとを夫婦ふうふにしたいような希望きぼうを有っあっていたらしかったのである。
「健けんちゃんの宅たくとこんな間柄あいだがらにならないとね。あたしも始終しじゅう健けんちゃんの家いえへ行かいかれるんだけれども」 御藤おふじさんが健三けんぞうにこんな事ことをいったのも、顧りみれかえりみれば古いふるい昔むかしであった。
「だって御ご縫ぬいさんが今いま嫁いよめいてる先さきは元もとからの許嫁いいなずけなんでしょう」「許嫁いいなずけでも場合ばあいによったら断ることわる気きだったんだろうよ」「一体いったい御ご縫ぬいさんはどっちへ行きいきたかったんでしょう」「そんな事ことが判明はんめいるもんか」「じゃ御ご兄さんあにさんの方ほうはどうなの」「それも判明はんめいらんさ」 健三けんぞうの子供こどもの時分じぶんの記憶きおくの中なかには、細君さいくんの問もんに応ぜおうぜられるような人情にんじょうがかった材料ざいりょうが一いちつもなかった。
二十四にじゅうよん
健三けんぞうはやがて返事へんじの端書はしがきを書いかいて承知しょうちの旨むねを答えこたえた。
そうして指定していの日ひが来きた時じ、約束やくそく通りとおりまた津つの守坂まもるさかへ出掛けでかけた。
彼かれは時間じかんに対したいして頗ぶるすこぶる正確せいかくな男おとこであった。
一面いちめんにおいて愚直ぐちょくに近いちかい彼かれの性格せいかくは、一面いちめんにおいてかえって彼かれを神経的しんけいてきにした。
彼かれは途中とちゅうで二に度どほど時計とけいを出しだして見みた。
実際じっさい今いまの彼かれは起きるおきると寐るぬるまで、始終しじゅう時間じかんに追い懸けおいかけられているようなものであった。
彼かれは途々と自分じぶんの仕事しごとについて考えかんがえた。
その仕事しごとは決してけっして自分じぶんの思いおもい通りとおりに進行しんこうしていなかった。
一いち歩あゆみ目的もくてきへ近付くちかづくと、目的もくてきはまた一歩いちほ彼かれから遠ざかっとおざかって行っいった。
彼かれはまた彼かれの細君さいくんの事ことを考えかんがえた。
その当時とうじ強烈きょうれつであった彼女かのじょの歇私的まと里さとは、自然しぜんと軽くかるくなった今いまでも、彼かれの胸むねになお暗いくらい不安ふあんの影かげを投げなげてやまなかった。
彼かれはまたその細君さいくんの里さとの事ことを考えかんがえた。
経済上けいざいじょうの圧迫あっぱくが家庭かていを襲おうおそおうとしているらしい気配けはいが、船ふねに乗っのった時じの鈍いにぶい動揺どうようを彼かれの精神せいしんに与えるあたえる種しゅとなった。
彼かれはまた自分じぶんの姉あねと兄あにと、それから島田しまだの事ことも一所いっしょに纏めまとめて考えかんがえなければならなかった。
凡てすべてが頽廃たいはいの影かげであり凋落ちょうらくの色いろであるうちに、血ちと肉にくと歴史れきしとで結び付けむすびつけられた自分じぶんをも併せあわせて考えかんがえなければならなかった。
姉あねの家いえへ来きた時じ、彼かれの心こころは沈んしずんでいた。
それと反対はんたいに彼かれの気きは興奮こうふんしていた。
「いやどうもわざわざ御ご呼び立てよびたて申しもうして」と比田ひでんが挨拶あいさつした。
これは昔むかしの健三けんぞうに対するたいする彼かれの態度たいどではなかった。
しかし変っかわって行くいく世相せそうのうちに、彼かれがひとり姉あねの夫おっとたるこの人ひとにだけ優ゆう者ものになり得とくたという誇りほこりは、健三けんぞうにとって満足まんぞくであるよりも、むしろ苦痛くつうであった。
「ちょっと上がろうあがろうにも、どうにもこうにも忙がしくいそがしくって遣りやり切れきれないもんですから。現にげんに昨夜さくやなども宿直しゅくちょくでしてね。今夜こんやも実じつは頼またのまれたんですけれども、貴方あなたと御ご約束やくそくがあるから、断わっことわってやっとの事ことで今いま帰っかえって来きたところで」 比田ひでんのいうところを黙っだまって聴いきいていると、彼かれが変へんな女おんなをその勤きん先さきの近所きんじょに囲っかこっているという噂うわさはまるで嘘うそのようであった。
古風こふうな言葉ことばで形容けいようすれば、ただ算さん筆ふでに達者たっしゃだという事ことの外そとに、大したたいした学問がくもんも才幹さいかんもない彼かれが、今時いまどきの会社かいしゃで、そう重宝ちょうほうがられるはずがないのに。
――健三けんぞうの心こころにはこんな疑問ぎもんさえ湧いわいた。
「姉さんあねさんは」「それに御ご夏なつがまた例れいの喘息ぜんそくでね」 姉あねは比田ひでんのいう通りとおり針箱はりばこの上うえに載せのせた括り枕くくりまくらに倚りよりかかって、ぜいぜいいっていた。
茶の間ちゃのまを覗きのぞきに立ったった健三けんぞうの眼めに、その乱れみだれた髪の毛かみのけがむごたらしく映っうつった。
「どうです」 彼女かのじょは頭あたまを真直まっすぐに上るのぼる事ことさえ叶わかなわないで、小さなちいさな顔かおを横よこにしたまま健三けんぞうを見みた。
挨拶あいさつをしようと思うおもう努力どりょくが、すぐ咽喉のどに障っさわったと見えみえて、今までいままで多少たしょう落ち付いおちついていた咳嗽がいそうの発作ほっさが一度いちどに来きた。
その咳嗽がいそうは一いちつがまだ済ますまないうちに、後あとから後あとから仕切りしきりなしに出でて来るくるので、傍そばで見みていても気きが退けしりぞけた。
「苦しくるしそうだな」 彼かれは独り言ひとりごとのようにこう囁やいささやいて、眉まゆを顰めしかめた。
見み馴れなれない四十よんじゅう恰好かっこの女おんなが、姉あねの後あとから脊中せなかを撫っさすっている傍そばに、一いち本ほんの杉箸すぎばしを添えそえた水飴みずあめの入物いれものが盆ぼんの上うえに載せのせてあった。
女おんなは健三けんぞうに会釈えしゃくした。
「どうも一昨いっさく日ひからね、あなた」 姉あねはこうして三さん日ひも四よん日ひも不眠ふみん絶食ぜっしょくの姿すがたで衰ろえて行っいったあと、また活かつ作用さようの弾力だんりょくで、じりじり元もとへ戻るもどるのを、年来ねんらいの習慣しゅうかんとしていた。
それを知らしらない健三けんぞうではなかったが、目前もくぜんこの猛烈もうれつな咳嗽がいそうと消え入るきえいるような呼息こそく遣けんとを見みていると、病気びょうきに罹っかかった当人とうにんよりも自分じぶんの方ほうがかえって不安ふあんで堪らたまらなくなった。
「口くちを利こうきこうとすると咳嗽がいそうを誘い出すさそいだすのでしょう。静かしずかにしていらっしゃい。私わたくしはあっちへ行くいくから」 発作ほっさの一いち仕切しきり収まっおさまった時じ、健三けんぞうはこういって、またもとの座敷ざしきへ帰っかえった。
二十五にじゅうご
比田ひでんは平気へいきな顔かおをして本ほんを読んよんでいた。
「いえなにまた例れいの持病じびょうですから」といって、健三けんぞうの慰問いもんにはまるで取り合わとりあわなかった。
同じおなじ事ことを年ねんに何度なんどとなく繰り返しくりかえして行くいくうちに、自然しぜんと末枯れうらがれて来るくる気の毒きのどくな女房にょうぼうの姿すがたは、この男おとこにとって毫もごうも感傷かんしょうの種しゅにならないように見えみえた。
実際じっさい彼かれは三十さんじゅう年ねん近くちかくも同棲どうせいして来きた彼かれの妻つまに、ただの一いちつ優しいやさしい言葉ことばを掛けかけた例れいのない男おとこであった。
健三けんぞうの這入っはいって来るくるのを見みた彼かれは、すぐ読みよみ懸けかけの本ほんを伏せふせて、鉄縁てつぶちの眼鏡めがねを外しはずした。
「今いまちょっと貴方あなたが茶の間ちゃのまへ行っいっていらしった間まに、下らしたらないものを読みよみ出しだしたんです」 比田ひでんと読書どくしょ――これはまた極めてきわめて似つかわしくにつかわしくない取合わせとりあわせであった。
「何なんですか、それは」「なに健けんちゃんなんぞの読むよむもんじゃありません、古いふるいもんで」 比田ひでんは笑いわらいながら、机つくえの上うえに伏せふせた本ほんを取っとって健三けんぞうに渡しわたした。
それが意外いがいにも『常山つねやま紀き談だん』だったので健三けんぞうは少しすこし驚ろいおどろいた。
それにしても自分じぶんの細君さいくんが今いまにも絶息ぜっそくしそうな勢いきおいで咳き込んせきこんでいるのを、まるで余所事よそごとのように聴いきいて、こんなものを平気へいきで読んよんでいられるところが、如何にいかにも能くよくこの男おとこの性質せいしつをあらわしていた。
「私ゃわたしゃ旧弊きゅうへいだからこういう古いふるい講談こうだん物ものが好きすきでしてね」 彼かれは『常山つねやま紀き談だん』を普通ふつうの講談こうだん物ものと思っおもっているらしかった。
しかしそれを書いかいた湯浅ゆあさ常山つねやまを講釈師こうしゃくしと間違えるまちがえるほどでもなかった。
「やッぱりやっぱり学者がくしゃなんでしょうね、その男おとこは。曲亭きょくてい馬琴ばきんとどっちでしょう。私ゃわたしゃ馬琴ばきんの『八はち犬いぬ伝つて』も持っもっているんだが」 なるほど彼かれは桐きりの本箱ほんばこの中なかに、日本紙にっぽんしへ活版かっぱんで刷っすった予約よやくの『八はち犬いぬ伝つて』を綺麗きれいに重ねかさね込んこんでいた。
「健けんちゃんは『江戸えど名所めいしょ図絵ずえ』を御ご持ちもちですか」「いいえ」「ありゃ面白いおもしろい本ほんですね。私ゃわたしゃ大好きだいすきだ。なんなら貸しかして上げあげましょうか。なにしろ江戸えどといった昔むかしの日本橋にほんばしや桜田さくらだがすっかり分るわかるんだからね」 彼かれは床の間とこのまの上うえにある別べつの本箱ほんばこの中なかから、美濃みの紙版かみはんの浅黄あさぎの表紙ひょうしをした古いふるい本ほんを一いち、二に冊さつ取り出しとりだした。
そうしてあたかも健三けんぞうを『江戸えど名所めいしょ図絵ずえ』の名なさえ聞いきいた事ことのない男おとこのように取扱っとりあつかった。
その健三けんぞうには子供こどもの時分じぶんその本ほんを蔵くらから引き摺りひきずり出しだして来きて、頁ぺーじから頁ぺーじへと丹念たんねんに挿絵さしえを拾っじゅうって見みて行くいくのが、何なんよりの楽みたのしみであった時代じだいの、懐かしいなつかしい記憶きおくがあった。
中なかにも駿河町するがまちという所ところに描いえがいてある越後屋えちごやの暖簾のれんと富士山ふじやまとが、彼かれの記憶きおくを今いま代表だいひょうする焼点しょうてんとなった。
「この分ぶんではとてもその頃ころの悠長ゆうちょうな心持こころもちで、自分じぶんの研究けんきゅうと直接ちょくせつ関係かんけいのない本ほんなどを読んよんでいる暇ひまは、薬くすりにしたくっても出でて来きまい」 健三けんぞうは心こころのうちでこう考えかんがえた。
ただ焦燥しょうそうに焦燥しょうそうってばかりいる今いまの自分じぶんが、恨めしくうらめしくもありまた気の毒きのどくでもあった。
兄あにが約束やくそくの時間じかんまでに顔かおを出さださないので、比田ひでんはその間まを繋ぐつなぐためか、しきりに書物しょもつの話はなしをつづけようとした。
書物しょもつの事ことなら何時なんじまで話しはなしていても、健三けんぞうにとって迷惑めいわくにならないという自信じしんでも持っもっているように見えみえた。
不幸ふこうにして彼かれの知識ちしきは、『常山つねやま紀き談だん』を普通ふつうの講談こうだんものとして考えるかんがえる程度ていどであった。
それでも彼かれは昔むかしし出でた『風俗ふうぞく画報がほう』を一いち冊さつ残らのこらず綴じとじて持っもっていた。
本ほんの話はなしが尽きつきた時じ、彼かれは仕方なししかたなしに問題もんだいを変えかえた。
「もう来きそうなもんですね、長ながさんも。あれほどいってあるんだから忘れるわすれるはずはないんだが。それに今日きょうは明けあけの日ひだから、遅くおそくとも十一じゅういち時じ頃ころまでには帰らかえらなきゃならないんだから。何なんならちょっと迎むかえに遣りやりましょうか」 この時じまた変化へんかが来きたと見えみえて、火ひの着くつくように咳き入るせきいる姉あねの声こえが茶の間ちゃのまの方ほうで聞こえきこえた。
二十六にじゅうろく
やがて門口かどぐちの格子こうしを開けあけて、沓脱くつぬぎへ下駄げたを脱ぐぬぐ音おとがした。
「やっと来きたようですぜ」と比田ひでんがいった。
しかし玄関げんかんを通り抜けとおりぬけたその足音あしおとはすぐ茶の間ちゃのまへ這入っはいった。
「また悪いわるいの。驚ろいおどろいた。ちっとも知らしらなかった。何時なんじから」 短かいみじかい言葉ことばが感かん投なげ詞しのようにまた質問しつもんのように、座敷ざしきに坐っすわっている二人ふたりの耳みみに響いひびいた。
その声こえは比田ひでんの推察すいさつ通りとおりやっぱり健三けんぞうの兄あにであった。
「長ながさん、先刻せんこくから待っまってるんだ」 性急せいきゅうな比田ひでんはすぐ座敷ざしきから声こえを掛けかけた。
女房にょうぼうの喘息ぜんそくなどはどうなっても構わかまわないといった風かぜのその調子ちょうしが、如何にいかにもこの男おとこの特性とくせいをよく現わしあらわしていた。
「本当ほんとうに手前勝手てまえかってな人ひとだ」とみんなからいわれるだけあって、彼かれはこの場合ばあいにも、自分じぶんの都合つごうより外そとに何になんにも考えかんがえていないように見えみえた。
「今いま行きいきますよ」 長太郎ちょうたろうも少しすこし癪しゃくだと見えみえて、なかなか茶の間ちゃのまから出でて来きなかった。
「重湯おもゆでも少しすこし飲んのんだら好いよいでしょう。厭いや? でもそう何になんにも食べたべなくっちゃ身体しんたいが疲れるつかれるだけだから」 姉あねが息苦しくいきぐるしくって、受じゅ答えこたえが出来できかねるので、脊中せなかを撫っさすっていた女おんなが一口ひとくちごとに適宜てきぎな挨拶あいさつをした。
平生へいぜい健三けんぞうよりは親しくしたしくその宅たくへ出入でいりする兄あには、見み馴れなれないこの女おんなとも近きん付ふと見えみえた。
そのせいか彼かれらの応対おうたいは容易よういに尽きつきなかった。
比田ひでんはぷりっと膨れふくれていた。
朝あさ起きおきて顔かおを洗うあらう時じのように、両手りょうてで黒いくろい顔かおをごしごし擦っすった。
しまいに健三けんぞうの方ほうを向いむかいて、小さなちいさな声こえでこんな事ことをいった。
「健けんちゃんあれだから困るこまるんですよ。口くちばかり多くおおくってね。こっちも手てがないから仕方なししかたなしに頼むたのむんだが」 比田ひでんの非難ひなんは明らかあきらかに健三けんぞうの見知らみしらない女おんなの上うえに投げ掛けなげかけられた。
「何なんですあの人ひとは」「そら梳手の御勢ごせいですよ。昔むかしし健けんちゃんの遊びあそびに来るくる時分じぶん、よくいたじゃありませんか、宅たくに」「へええ」 健三けんぞうには比田ひでんの家いえでそんな女おんなに会っかいった覚さとしが全くまったくなかった。
「知りしりませんね」「なに知らしらない事ことがあるもんですか、御勢ごせいだもの。あいつはね、御承知ごしょうちの通りとおりまことに親切しんせつで実意じついのある好いよい女おんななんだが、あれだから困るこまるんです。喋舌るしゃべるのが病やまいなんだから」 よく事情じじょうを知らしらない健三けんぞうには、比田ひでんのいう事ことが、ただ自分じぶんだけに都合つごうのいい誇張こちょうのように聞こえるきこえるばかりで、大したたいした感銘かんめいも与えあたえなかった。
姉あねはまた咳きせき出しだした。
その発作ほっさが一段落いちだんらく片付くかたづくまでは、さすがの比田ひでんも黙っだまっていた。
長太郎ちょうたろうも茶の間ちゃのまを出でて来きなかった。
「何なんだか先刻せんこくより劇しいはげしいようですね」 少しすこし不安ふあんになった健三けんぞうは、そういいながら席せきを立とうたとうとした。
比田ひでんは一いちも二にもなく留めとめた。
「なあに大丈夫だいじょうぶ、大丈夫だいじょうぶ。あれが持病じびょうなんですから大丈夫だいじょうぶ。知らしらない人ひとが見るみるとちょっと吃驚びっくりしますがね。私わたくしなんざあもう年来ねんらい馴れなれっ子っこになってるから平気へいきなもんですよ。実際じっさいまたあれを一々いちいち苦くにしているようじゃ、とても今日きょうまで一所いっしょに住んすんでる事ことは出来できませんからね」 健三けんぞうは何なんとも答えるこたえる訳わけに行かいかなかった。
ただ腹はらの中なかで、自分じぶんの細君さいくんが歇私的まと里さとの発作ほっさに冒さおかされた時じの苦しいくるしい心持こころもちを、自然しぜんの対照たいしょうとして描き出しえがきだした。
姉あねの咳嗽がいそうが一いち収りおさまり収っおさむった時じ、長太郎ちょうたろうは始めはじめて座敷ざしきへ顔かおを出しだした。
「どうも済みすみません。もっと早くはやく来るくるはずだったが、生憎あいにく珍らしくめずらしく客きゃくがあったもんだから」「来きたか長ながさん待っまってたほい。冗談じょうだんじゃないよ。使しでも出そうでそうかと思っおもってたところです」 比田ひでんは健三けんぞうの兄あにに向っむかってこの位くらいな気安いきやしい口調くちょうで話はなしの出来るできる地位ちいにあった。
二十七にじゅうなな
三さん人ひとはすぐ用談ようだんに取り掛っとりかかった。
比田ひでんが最初さいしょに口くちを開いひらいた。
彼かれはちょっとした相談そうだん事ことにも仔細しさいぶる男おとこであった。
そうして仔細しさいぶればぶるほど、自分じぶんの存在そんざいが周囲しゅういから強くつよく認めみとめられると考えかんがえているらしかった。
「比田ひでんさん比田ひでんさんって、立てたてて置きおきさえすりゃ好いよいんだ」と皆みななが蔭かげで笑っわらっていた。
「時じに長ながさんどうしたもんだろう」「そう」「どうもこりゃ天てんから筋すじが違うちがうんだから、健けんちゃんに話はなしをするまでもなかろうと思うおもうんだがね、私ゃわたしゃ」「そうさ。今更いまさらそんな事ことを持ち出しもちだして来きたって、こっちで取り合うとりあう必要ひつようもないだろうじゃないか」「だから私わたくしも突とっっ跳ねはねたのさ。今時分いまじぶんそんな事ことを持ち出すもちだすのは、まるで自分じぶんの殺しころした子供こどもを、もう一いち返かえし生かしいかしてくれって、御寺おてら様ようへ頼みたのみに行くいくようなものだから御ご止しよしなさいって。だけど大将たいしょういくら何なんといっても、坐り込んすわりこんで動かうごかないんだからね、仕方しかたがない。しかしあの男おとこがああやって今頃いまごろ私わたくしの宅たくへのんこのしゃあで遣っつかって来るくるのも、実じつはというと、やっぱり昔むかしし○の関係かんけいがあったからの事ことさ。だってそりゃ昔むかししも昔むかしし、ずっと昔むかししの話はなしでさあ。その上うえただで借りかりやしまいしね、……」「またただで貸すかす風かぜでもなしね」「そうさ。口くちじゃ親類しんるい付合ふごうだとか何なんとかいってるくせに、金きんにかけちゃあかの他人たにんより阿漕あこぎなんだから」「来きた時じにそういって遣れやれば好いよいのに」 比田ひでんと兄あにとの談話だんわはなかなか元もとへ戻っもどって来きなかった。
ことに比田ひでんは其その所ところに健三けんぞうのいるのさえ忘れわすれてしまったように見えみえた。
健三けんぞうは好よしみ加減かげんに何なんとか口くちを出さださなければならなくなった。
「一体いったいどうしたんです。島田しまだがこちらへでも突然とつぜん伺っうかがったんですか」「いやわざわざ御ご呼び立てよびたて申しもうして置いおいて、つい自分じぶんの勝手かってばかり喋舌っしゃべって済みすみません。――じゃ長さながさん私わたくしから健けんちゃんに一応いちおうその顛末てんまつを御ご話しはなしする事ことにしようか」「ええどうぞ」 話しはなしは意外いがいにも単純たんじゅんであった。
――ある日ひ島田しまだが突然とつぜん比田ひでんの所ところへ来きた。
自分じぶんも年ねんを取っとって頼りたよりにするものがいないので心細いこころぼそいという理由りゆうの下したに、昔むかしし通りとおり島田しまだ姓せいに復帰ふっきしてもらいたいからどうぞ健三けんぞうにそう取り次いとりついでくれと頼んたのんだ。
比田ひでんもその要求ようきゅうの突飛とっぴなのに驚ろいおどろいて最初さいしょは拒絶きょぜつした。
しかし何なんといっても動かうごかないので、ともかくも彼かれの希望きぼうだけは健三けんぞうに通じようつうじようと受合っうけあった。
――ただこれだけなのである。
「少しすこし変へんですねえ」 健三けんぞうにはどう考えかんがえても変へんとしか思わおもわれなかった。
「変へんだよ」 兄あにも同じおなじ意見いけんを言葉ことばにあらわした。
「どうせ変へんにゃ違いない、何しろなにしろ六十ろくじゅう以上いじょうになって、少しすこしやきが廻っまわってるからね」「慾よくでやきが廻りゃまわりゃしないか」 比田ひでんも兄あにも可笑しおかしそうに笑っわらったが、健三けんぞうは独りひとりその仲間なかまへ入るはいる事ことが出来できなかった。
彼かれは何時なんじまでも変へんだと思うおもう気分きぶんに制せせいせられていた。
彼かれの頭あたまから判断はんだんすると、そんな事ことは到底とうていありようはずがなかった。
彼かれは最初さいしょに吉田よしだが来きた時じの談話だんわを思い出しおもいだした。
次つぎに吉田よしだと島田しまだが一所いっしょに来きた時じの光景こうけいを思い出しおもいだした。
最後さいごに彼かれの留守るすに旅先たびさきから帰っかえったといって、島田しまだが一人ひとりで訪ねたずねて来きた時じの言葉ことばを思い出しおもいだした。
しかしどこをどう思い出しおもいだしても、其その所ところからこんな結果けっかが生れうまれて来ようこようとは考えかんがえられなかった。
「どうしても変へんですね」 彼かれは自分じぶんのために同じおなじ言葉ことばをもう一度いちど繰り返しくりかえして見みた。
それから漸とやっと気きを換えかえてこういった。
「しかしそりゃ問題もんだいにゃならないでしょう。ただ断りことわりさえすりゃ好いよいんだから」
二十八にじゅうはち
健三けんぞうの眼めから見るみると、島田しまだの要求ようきゅうは不思議ふしぎな位くらい理りに合わあわなかった。
従っしたがってそれを片付けるかたづけるのも容易よういであった。
ただ簡単かんたんに断りことわりさえすれば済んすんだ。
「しかし一旦いったんは貴方あなたの御ご耳みみまで入れいれて置かおかないと、私わたくしの落度おちどになりますからね」と比田ひでんは自分じぶんを弁護べんごするようにいった。
彼かれはどこまでもこの会合かいごうを真面目まじめなものにしなければ気きが済ますまないらしかった。
それで言うゆう事ことも時じによって変化へんかした。
「それに相手あいてが相手あいてですからね。まかり間違えまちがえば何なんをするか分らわからないんだから、用心ようじんしなくっちゃいけませんよ」「焼やけが廻っまわってるなら構わかまわないじゃないか」と兄あにが冗談じょうだん半分はんぶんに彼かれの矛盾むじゅんを指摘してきすると、比田ひでんはなお真面目まじめになった。
「焼やけが廻っまわってるから怖いこわいんです。なに先さきが当り前あたりまえの人間にんげんなら、私わたくしだってその場ばですぐ断っことわっちまいまさあ」 こんな曲折きょくせつは会談かいだん中なかに時々ときどき起っおこったが、要するようするに話はなしは最初さいしょに戻っもどって、つまり比田ひでんが代表者だいひょうしゃとして島田しまだの要求ようきゅうを断ることわるという事ことになった。
それは三さん人ひとが三さん人ひとながら始めはじめから予期よきしていた結局けっきょくなので、其その所ところへ行き着くいきつくまでの筋道すじみちは、健三けんぞうから見るみると、むしろ時間じかんの空費くうひに過ぎすぎなかった。
しかし彼かれはそれに対したいして比田ひでんに礼れいを述べるのべる義理ぎりがあった。
「いえ何なん御礼ごれいなんぞ御ご仰らおっしゃられると恐縮きょうしゅくします」といった比田ひでんの方ほうはかえって得意とくいであった。
誰だれが見みても宅たくへも帰らかえらずに忙がしいそがしがっている人ひとの様子ようすとは受取れうけとれないほど、調子ちょうしづいて来きた。
彼かれは其その所ところにある塩しお煎餅せんべいを取っとってやたらにぼりぼり噛んかんだ。
そうしてその相そう間ま々々には大きなおおきな湯呑ゆのみへ茶ちゃを何なん杯さかずきも注ぎそそぎ易えかえて飲んのんだ。
「相そう変らかわらず能くよく食べたべますね。今いまでも鰻飯うなぎめしを二につ位くらい遣るやるんでしょう」「いや人間にんげんも五十ごじゅうになるともう駄目だめですね。もとは健けんちゃんの見みている前まえで天ぷらてんぷら蕎麦そばを五ご杯さかずき位くらいぺろりと片付けかたづけたもんでしたがね」 比田ひでんはその頃ころから食気しょっきの強いつよい男おとこであった。
そうして余計よけい食うくうのを自慢じまんにしていた。
それから腹はらの太いふといのを賞めほめられたがって、時機じきさえあれば始終しじゅう叩いたたいて見せみせた。
健三けんぞうは昔むかししこの人ひとに連れつれられて寄席よせなどに行っいった帰りかえりに、能くよく二人ふたりして屋台店やたいてんの暖簾のれんを潜っもぐって、鮨すしや天麩羅てんぷらの立食りっしょくをした当時とうじを思い出しおもいだした。
彼かれは健三けんぞうにその寄席よせで聴いきいたしかおどりとかいう三味線しゃみせんの手てを教えおしえたり、またはさばを読むよむという隠語いんごなどを習い覚えならいおぼえさせたりした。
「どうもやっぱり立食りっしょくに限るかぎるようですね。私わたくしもこの年ねんになるまで、段々だんだん方々かたがた食っしょくって歩いあるいて見みたが。健けんちゃん、一遍いちぺん軽井沢かるいざわで蕎麦そばを食っしょくって御覧ごらんなさい、騙さだまされたと思っおもって。汽車きしゃの停っとまってるうちに、降りふりて食うくうんです、プラットフォームぷらっとふぉーむの上うえへ立ったってね。さすが本場ほんばだけあって旨ううもうがすぜ」 彼かれは信心しんじんを名なとして能くよく方々かたがた遊びあそび廻るまわる男おとこであった。
「それよか、善光寺ぜんこうじの境内けいだいに元祖がんそ藤八拳とうはちけん指南しなん所ところという看板かんばんが懸っかかっていたには驚ろいおどろいたね、長ながさん」「這入っはいって一いちつ遣っつかって来きやしないか」「だって束たば修おさむが要るいるんだからね、君きみ」 こんな談話だんわを聞いきいていると、健三けんぞうも何時なんじか昔むかしの我われに帰っかえったような心持こころもちになった。
同時どうじに今いまの自分じぶんが、どんな意味いみで彼かれらから離れはなれてどこに立ったっているかも明らかあきらかに意識いしきしなければならなくなった。
しかし比田ひでんは一向いっこうそこに気きが付かつかなかった。
「健けんちゃんはたしか京都きょうとへ行っいった事ことがありますね。彼所かしこに、ちんちらでんき皿さら持てもてこ汁しる飲まのましょって鳴くなく鳥とりがいるのを御存じごぞんじですか」などと訊いきいた。
先刻せんこくから落おち付いついていた姉あねが、また劇しくはげしく咳きせき出しだした時じ、彼かれは漸くようやく口くちを閉じとじた。
そうしてさもくさくさしたといわぬばかりに、左右さゆうの手の平てのひらを揃えそろえて、黒いくろい顔かおをごしごし擦っすった。
兄あにと健三けんぞうはちょっと茶の間ちゃのまの様子ようすを覗きのぞきに立ったった。
二人ふたりとも発作ほっさの静まるしずまるまで姉あねの枕元まくらもとに坐っすわっていた後あとで、別々べつべつに比田ひでんの家いえを出でた。
二十九にじゅうきゅう
健三けんぞうは自分じぶんの背後はいごにこんな世界せかいの控えひかえている事ことを遂についに忘れるわすれることが出来できなくなった。
この世界せかいは平生へいぜいの彼かれにとって遠いとおい過去かこのものであった。
しかしいざという場合ばあいには、突然とつぜん現在げんざいに変化へんかしなければならない性質せいしつを帯びおびていた。
彼かれの頭あたまには願がん仁ひとし坊主ぼうずに似にた比田ひでんの毬栗頭いがぐりあたまが浮いういたり沈んしずんだりした。
猫ねこのように顋あごの詰っなじった姉あねの息苦しくいきぐるしく喘いあえいでいる姿すがたが薄暗くうすぐらく見えみえた。
血の気ちのけの竭けつきかけた兄あにに特有とくゆうなひすばった長いながい顔かおも出でたり引込んひきこんだりした。
昔むかししこの世界せかいに人ひととなった彼かれは、その後あと自然しぜんの力ちからでこの世界せかいから独りひとり脱け出しぬけだしてしまった。
そうして脱け出しぬけだしたまま永くながく東京とうきょうの地ちを踏まふまなかった。
彼かれは今いま再びふたたびその中なかへ後戻りあともどりをして、久しぶりひさしぶりに過去かこの臭においを嗅いかいだ。
それは彼かれに取っとって、三さん分ぶんの一いちの懐かしなつかしさと、三さん分ぶんの二にの厭いやらしさとを齎すもたらす混合物こんごうぶつであった。
彼かれはまたその世界せかいとはまるで関係かんけいのない方角ほうがくを眺めながめた。
すると其その所ところには時々ときどき彼かれの前まえを横切るよこぎる若いわかい血ちと輝いかがやいた眼めを有っあった青年せいねんがいた。
彼かれはその人々ひとびとの笑いわらいに耳みみを傾むけかたむけた。
未来みらいの希望きぼうを打ち出すうちだす鐘かねのように朗かほがらかなその響ひびきが、健三けんぞうの暗いくらい心こころを躍らしおどらした。
或ある日ひ彼かれはその青年せいねんの一人ひとりに誘わさそわれて、池の端いけのはたを散歩さんぽした帰りかえりに、広小路ひろこうじから切通しきりどおしへ抜けるぬける道みちを曲っきょくった。
彼かれらが新らしくあたらしく建てたてられた見番けんばんの前まえへ来きた時じ、健三けんぞうはふと思い出しおもいだしたように青年せいねんの顔かおを見みた。
彼かれの頭あたまの中なかには自分じぶんとまるで縁故えんこのない或ある女おんなの事ことが閃いひらめいた。
その女おんなは昔むかしし芸者げいしゃをしていた頃ころ人ひとを殺しころした罪つみで、二十にじゅう年ねん余よも牢屋ろうやの中なかで暗いくらい月日つきひを送っおくった後あと、漸とやっと世の中よのなかへ顔かおを出すだす事ことが出来るできるようになったのである。
「さぞ辛いつらいだろう」 容色ようしょくを生命せいめいとする女おんなの身みになったら、殆んどほとんど堪えこらえられない淋しみさびしみが其その所ところにあるに違いないと健三けんぞうは考えかんがえた。
しかしいくらでも春はるが永くながく自分じぶんの前まえに続いつづいているとしか思わおもわない伴ともの青年せいねんには、彼かれの言葉ことばが何なんほどの効果こうかにもならなかった。
この青年せいねんはまだ二十三にじゅうさん、四よんであった。
彼かれは始めはじめて自分じぶんと青年せいねんとの距離きょりを悟っさとって驚ろいおどろいた。
「そういう自分じぶんもやっぱりこの芸者げいしゃと同じおなじ事ことなのだ」 彼かれは腹はらの中なかで自分じぶんと自分じぶんにこういい渡しいいわたした。
若いわかい時じから白髪はくはつの生えはえたがる性質せいしつの彼かれの頭あたまには、気きのせいか近頃ちかごろめっきり白いしろい筋すじが増しまして来きた。
自分じぶんはまだまだと思っおもっているうちに、十じゅう年ねんは何時なんじの間まにか過ぎすぎた。
「しかし他事たじじゃないね君きみ。その実じつ僕ぼくも青春せいしゅん時代じだいを全くまったく牢獄ろうごくの裡りで暮しくらしたのだから」 青年せいねんは驚ろいおどろいた顔かおをした。
「牢獄ろうごくとは何なんです」「学校がっこうさ、それから図書館としょかんさ。考えるかんがえると両方りょうほうともまあ牢獄ろうごくのようなものだね」 青年せいねんは答えこたえなかった。
「しかし僕ぼくがもし長いながい間まの牢獄ろうごく生活せいかつをつづけなければ、今日きょうの僕ぼくは決してけっして世の中よのなかに存在そんざいしていないんだから仕方しかたがない」 健三けんぞうの調子ちょうしは半ばなかば弁解べんかい的まとであった。
半ばなかば自嘲じちょう的まとであった。
過去かこの牢獄ろうごく生活せいかつの上うえに現在げんざいの自分じぶんを築き上げきずきあげた彼かれは、その現在げんざいの自分じぶんの上うえに、是非ぜひとも未来みらいの自分じぶんを築き上げきずきあげなければならなかった。
それが彼かれの方針ほうしんであった。
そうして彼かれから見るみると正しいただしい方針ほうしんに違いなかった。
けれどもその方針ほうしんによって前まえへ進んすすんで行くいくのが、この時じの彼かれには徒らいたずらに老ゆるおゆるという結果けっかより外そとに何物なにものをも持ちもち来さきさないように見えみえた。
「学問がくもんばかりして死んしんでしまっても人間にんげんは詰らなじらないね」「そんな事ことはありません」 彼かれの意味いみはついに青年せいねんに通じつうじなかった。
彼かれは今いまの自分じぶんが、結婚けっこん当時とうじの自分じぶんと、どんなに変っかわって、細君さいくんの眼めに映るうつるだろうかを考えかんがえながら歩いあるいた。
その細君さいくんはまた子供こどもを生むうむたびに老けふけて行っいった。
髪の毛かみのけなども気きの引けるひけるほど抜けるぬける事ことがあった。
そうして今いまは既にすでに三さん番目ばんめの子こを胎内たいないに宿しやどしていた。
三十さんじゅう
家いえへ帰るかえると細君さいくんは奥おくの六ろく畳たたみに手枕てまくらをしたなり寐ぬていた。
健三けんぞうはその傍そばに散らばっちらばっている赤いあかい片端かたはしだの物指ものさしだの針箱はりばこだのを見みて、またかという顔かおをした。
細君さいくんはよく寐るぬる女おんなであった。
朝あさもことによると健三けんぞうより遅くおそく起きおきた。
健三けんぞうを送り出しおくりだしてからまた横よこになる日ひも少なくすくなくはなかった。
こうしてあくまで眠りねむりを貪どんぼらないと、頭あたまが痺れしびれたようになって、その日ひ一日いちにち何事なにごとをしても判然はんぜんしないというのが、常つねに彼女かのじょの弁解べんかいであった。
健三けんぞうはあるいはそうかも知れしれないと思っおもったり、またはそんな事ことがあるものかと考えかんがえたりした。
ことに小言こごとをいったあとで、寐ぬられるときは、後あとの方ほうの感じかんじが強くつよく起っおこった。
「不貞ふてい寐ぬをするんだ」 彼かれは自分じぶんの小言こごとが、歇私的まと里さと性せいの細君さいくんに対したいして、どう反応はんのうするかを、よく観察かんさつしてやる代りかわりに、単なるたんなる面めん当とうのために、こうした不自然ふしぜんの態度たいどを彼女かのじょが彼かれに示すしめすものと解釈かいしゃくして、苦々しいにがにがしい囁きささやきを口くちの内うちで洩らすもらす事ことがよくあった。
「何故なぜ夜よる早くはやく寐ぬないんだ」 彼女かのじょは宵よいっ張ちょうであった。
健三けんぞうにこういわれる度どに、夜よるは眼めが冴えさえて寐ぬられないから起きおきているのだという答弁とうべんをきっとした。
そうして自分じぶんの起きおきていたい時じまでは必ずかならず起きおきて縫物ぬいものの手てをやめなかった。
健三けんぞうはこうした細君さいくんの態度たいどを悪んにくんだ。
同時どうじに彼女かのじょの歇私的まと里さとを恐れおそれた。
それからもしや自分じぶんの解釈かいしゃくが間違っまちがっていはしまいかという不安ふあんにも制せせいせられた。
彼かれは其その所ところに立ったったまま、しばらく細君さいくんの寐ぬ顔かおを見詰めみつめていた。
肱ひじの上うえに載せのせられたその横顔よこがおはむしろ蒼白かっあおじろかった。
彼かれは黙っだまって立ったっていた。
御ご住じゅうという名前なまえさえ呼ばよばなかった。
彼かれはふと眼めを転じてんじて、あらわな白いしろい腕うでの傍そばに放り出さほうりだされた一いち束たばの書物しょもつに気きを付けつけた。
それは普通ふつうの手紙てがみの重なり合っかさなりあったものでもなければ、また新らしいあたらしい印刷物いんさつぶつを一いち纏まといに括っくくったものとも見えみえなかった。
惣そう体からだが茶色ちゃいろがかって既にすでに多少たしょうの時代じだいを帯びおびている上うえに、古風こふうなかんじん撚で丁寧ていねいな結び目むすびめがしてあった。
その書しょものの一端いっぱしは、殆んどほとんど細君さいくんの頭あたまの下したに敷かしきかれていると思わおもわれる位くらい、彼女かのじょの黒いくろい髪かみで、健三けんぞうの目めを遮ぎっさえぎっていた。
彼かれはわざわざそれを引き出しひきだして見るみる気きにもならずに、また眼めを蒼白いあおじろい細君さいくんの額がくの上うえに注いそそいだ。
彼女かのじょの頬ほおは滑り落ちるすべりおちるようにこけていた。
「まあ御ご痩せやせなすった事こと」 久しぶりひさしぶりに彼女かのじょを訪問ほうもんした親族しんぞくのある女おんなは、近頃ちかごろの彼女かのじょの顔かおを見みて驚ろいおどろいたように、こんな評ひょうを加えくわえた事ことがあった。
その時じ健三けんぞうは何故なぜだかこの細君さいくんを痩せやせさせた凡てすべての源みなもと因いんが自分じぶん一人ひとりにあるような心持こころもちがした。
彼かれは書斎しょさいに入っはいった。
三十さんじゅう分ぶんも経っきょうったと思うおもう頃ころ、門口かどぐちを開けるあける音おとがして、二人ふたりの子供こどもが外そとから帰っかえって来きた。
坐っすわっている健三けんぞうの耳みみには、彼かれらと子守こもりとの問答もんどうが手てに取るとるように聞こえきこえた。
子供こどもはやがて馳け込むかけこむように奥おくへ入っはいった。
其その所ところではまた細君さいくんが蒼蠅さばえいといって、彼かれらを叱るしかる声こえがした。
それからしばらくして細君さいくんは先刻せんこく自分じぶんの枕元まくらもとにあった一いち束たばの書しょものを手てに持っもったまま、健三けんぞうの前まえにあらわれた。
「先さきほど御ご留守るすに御ご兄さんあにさんがいらっしゃいましてね」 健三けんぞうは万年筆まんねんひつの手てを止めとめて、細君さいくんの顔かおを見みた。
「もう帰っかえったのかい」「ええ。今いまちょっと散歩さんぽに出で掛かかりましたから、もうじき帰りかえりましょうって御ご止めとめしたんですけれども、時間じかんがないからって御ご上りのぼりになりませんでした」「そうか」「何なんでも谷中やなかに御ご友達ともだちとかの御ご葬式そうしきがあるんですって。それで急いいそいで行かいかないと間に合わまにあわないから、上っのぼっていられないんだと仰あおぐゃいました。しかし帰りかえりに暇ひまがあったら、もしかすると寄るよるかも知れしれないから、帰っかえったら待っまってるようにいってくれって、いい置いおいていらっしゃいました」「何なんの用ようなのかね」「やっぱりあの人ひとの事ことなんだそうです」 兄あには島田しまだの事ことで来きたのであった。
三十一さんじゅういち
細君さいくんは手てに持っもった書付かきつけの束たばを健三けんぞうの前まえに出しだした。
「これを貴夫たかおに上げあげてくれと仰しゃいおっしゃいました」 健三けんぞうは怪訝けげんな顔かおをしてそれを受取っうけとった。
「何なんだい」「みんなあの人ひとに関係かんけいした書類しょるいなんだそうです。健三けんぞうに見せみせたら参考さんこうになるだろうと思っおもって、用よう箪笥たんすの抽匣の中なかにしまって置いおいたのを、今日きょう出しだして持っもって来きたって仰あおぐゃいました」「そんな書類しょるいがあったのかしら」 彼かれは細君さいくんから受取っうけとった一括りひとくくりの書付かきつけを手てに載せのせたまま、ぼんやり時代じだいの付いついた紙かみの色いろを眺めながめた。
それから何なんも意味いみなしに、裏表うらおもてを引繰返しひっくりかえして見みた。
書類しょるいは厚あつしさにしてほぼ二に寸すんもあったが、風かぜの通らとおらない湿気しっけた所ところに長いながい間ま放り込んほうりこんであったせいか、虫むしに食わくわれた一筋ひとすじの痕あとが偶然ぐうぜん健三けんぞうの眼めを懐古かいこ的まとにした。
彼かれはその不規則ふきそくな筋すじを指ゆびの先さきでざらざら撫でなでて見みた。
けれども今更いまさら鄭てい寧ねいに絡げからげたかんじん撚の結び目むすびめを解いといて、一々いちいち中なかを検けんためる気きも起らおこらなかった。
「開けあけて見みたって何なんが出でて来るくるものか」 彼かれの心こころはこの一句いっくでよく代表だいひょうされていた。
「御ご父さまちちさまが後々のちのちのためにちゃんと一纏めひとまとめにして取っとって御ご置おけになったんですって」「そうか」 健三けんぞうは自分じぶんの父ちちの分別ぶんべつと理解力りかいりょくに対したいして大したたいした尊敬そんけいを払っはらっていなかった。
「おやじの事ことだからきっと何なんでもかんでも取っとって置いおいたんだろう」「しかしそれもみんな貴夫たかおに対するたいする御ご親切しんせつからなんでしょう。あんな奴やつだから己おのれのいなくなった後あとに、どんな事ことをいって来きないとも限らかぎらない、その時じにはこれが役やくに立つたつって、わざわざ一纏めひとまとめにして、御ご兄さんあにさんに御ご渡わたしになったんだそうですよ」「そうかね、己おのれは知らしらない」 健三けんぞうの父ちちは中気ちゅうきで死んしんだ。
その父ちちのまだ達者たっしゃでいるずっと前まえから、彼かれはもう東京とうきょうにいなかった。
彼かれは親おやの死目しにめにさえ会わあわなかった。
こんな書付かきつけが自分じぶんの眼めに触れふれないで、長いながい間ま兄あにの手元てもとに保管ほかんされていたのも、別段べつだんの不思議ふしぎではなかった。
彼かれは漸すすむやく書類しょるいの結けつ目めを解いといて一所いっしょに重なっかさなっているものを、一々いちいちほごし始めはじめた。
手続きてつづき書しょと書いかいたものや、取りとり替かえせ一札いっさつの事ことと書いかいたものや、明治めいじ二十一にじゅういち年ねん子こ一いち月つき約定やくじょう金きん請取うけとりの証あかしと書いかいた半紙はんし二につ折つおりの帳面ちょうづらやらが順々じゅんじゅんにあらわれて来きた。
その帳面ちょうづらのしまいには、右みぎ本日ほんじつ受取うけとり右みぎ月賦げっぷ金きんは皆済かいさい相そう成せい候こう事ことと島田しまだの手蹟しゅせきで書いかいて黒いくろい判はんがべたりと捺しおしてあった。
「おやじは月々つきづき三さん円えんか四よん円えんずつ取らとられたんだな」「あの人ひとにですか」 細君さいくんはその帳面ちょうづらを逆さまさかさまに覗き込んのぞきこんでいた。
「〆ていくらになるかしら。しかしこの外そとにまだ一時いちじに遣っつかったものがあるはずだ。おやじの事ことだから、きっとその受取うけとりを取っとって置いおいたに違いない。どこかにあるだろう」 書付かきつけはそれからそれへと続々ぞくぞく出でて来きた。
けれども、健三けんぞうの眼めにはどれもこれもごちゃごちゃして容易よういに解らわからなかった。
彼かれはやがて四よんつ折つおりにして一纏めひとまとめに重ねかさねた厚みあつみのあるものを取り上げとりあげて中なかを開いひらいた。
「小学校しょうがっこうの卒業証書そつぎょうしょうしょまで入れいれてある」 その小学校しょうがっこうの名なは時じによって変っかわっていた。
一番いちばん古いふるいものには第だい一いち大おお学区がっく第だい五ご中学ちゅうがく区く第だい八はち番ばん小学しょうがくなどという朱印しゅいんが押しおしてあった。
「何なんですかそれは」「何なんだか己おのれも忘れわすれてしまった」「よっぽど古いふるいものね」 証書しょうしょのうちには賞状しょうじょうも二に、三さん枚ばい交っかっていた。
昇り竜のぼりりゅうと降りふり竜りゅうで丸いまりい輪廓りんかくを取っとった真中まなかに、甲こう科かと書いかいたり乙おつ科かと書いかいたりしてある下したに、いつも筆墨ひつぼく紙かみと横よこに断っことわってあった。
「書物しょもつも貰っもらった事ことがあるんだがな」 彼かれは『勧善かんぜん訓蒙くんもう』だの『輿地よち誌し略りゃく』だのを抱いいだいて喜びよろこびの余りあまり飛んとんで宅たくへ帰っかえった昔むかしを思い出しおもいだした。
御ご褒美ほうびをもらう前まえの晩ばん夢ゆめに見みた蒼いあおい竜りゅうと白いしろい虎とらの事ことも思い出しおもいだした。
これらの遠いとおいものが、平生へいぜいと違っちがって今いまの健三けんぞうには甚だはなはだ近くちかく見えみえた。
三十二さんじゅうに
細君さいくんにはこの古ふる臭いくさい免状めんじょうがなおの事こと珍らしかっめずらしかった。
夫おっとの一旦いったん下したへ置いおいたのをまた取り上げとりあげて、一いち枚ばい々々鄭てい寧ねいに剥繰って見みた。
「変へんですわね。下等したとう小学しょうがく第だい五ご級きゅうだの六ろく級きゅうだのって。そんなものがあったんでしょうか」「あったんだね」 健三けんぞうはそのまま外そとの書付かきつけに手てを着けつけた。
読みよみにくい彼かれの父ちちの手蹟しゅせきが大いにおおいに彼かれを苦しめくるしめた。
「これを御覧ごらん、とても読むよむ勇気ゆうきがないね。ただでさえ判明はんめいらないところへ持っもって来きて、むやみに朱しゅを入れいれたり棒ぼうを引いひいたりしてあるんだから」 健三けんぞうの父ちちと島田しまだとの懸合けんごうについて必要ひつような下書したがきらしいものが細君さいくんの手てに渡さわたされた。
細君さいくんは女おんなだけあって、綿密めんみつにそれを読み下しよみくだした。
「貴夫たかおの御ご父さまちちさまはあの島田しまだって人ひとの世話せわをなすった事ことがあるのね」「そんな話はなしは己おのれも聞いきいてはいるが」「此これ所ところに書いかいてありますよ。――同人どうにん幼少ようしょうにて勤きん向むかい相そう成りなりがたく当方とうほうへ引き取りひきとり五ごカ年かねん間ま養育よういく致まつむろ候こう縁えん合あわせを以てもってと」 細君さいくんの読み上げるよみあげる文章ぶんしょうは、まるで旧幕きゅうばく時代じだいの町人ちょうにんが町奉行まちぶぎょうか何なんかへ出すだす訴状そじょうのように聞こえきこえた。
その口調くちょうに動かさうごかされた健三けんぞうは、自然しぜん古風こふうな自分じぶんの父ちちを眼めの前まえに髣髴ほうふつした。
その父ちちから、将軍しょうぐんの鷹狩たかがりに行くいく時じの模様もようなどを、それ相当そうとうの敬語けいごで聞かさきかされた昔むかしも思い合さおもいあわされた。
しかし事実じじつの興味きょうみが主ぬしとして働らきはたらきかけている細君さいくんの方ほうではまるで文体ぶんたいなどに頓着とんちゃくしなかった。
「その縁故えんこで貴夫たかおはあの人ひとの所ところへ養子ようしに遣らやられたのね。此これ所ところにそう書いかいてありますよ」 健三けんぞうは因果いんがな自分じぶんを自分じぶんで憐れんあわれんだ。
平気へいきな細君さいくんはその続きつづきを読みよみ出しだした。
「右みぎ健けん三三さんさん歳としのみぎり養子ようしに差遣さけんし置おけ候こう処平しょへい吉儀よしただし妻つま常つねと不和ふわを生じしょうじ、遂についに離別りべつと相そう成せい候こうにつき当時とうじ八はち歳としの健三けんぞうを当方とうほうへ引き取りひきとり今日きょうまで十四じゅうよんカか年間ねんかん養育よういく致しいたし、――あとは真赤まっかでごちゃごちゃして読めよめないわね」 細君さいくんは自分じぶんの眼めの位置いちと書付かきつけの位置いちとを色々いろいろに配合はいごうして後あとを読もうよもうと企てくわだてた。
健三けんぞうは腕組うでぐみをして黙っだまって待っまっていた。
細君さいくんはやがてくすくす笑いわらい出しだした。
「何なんが可笑しいおかしいんだ」「だって」 細君さいくんは何になんにもいわずに、書付かきつけを夫おっとの方ほうに向け直しむけなおした。
そうして人さし指ひとさしゆびの頭あたまで、細かくこまかく割わり註ちゅうのように朱しゅで書いかいた所ところを抑えおさえた。
「ちょっと其その所ところを読んよんで御覧ごらんなさい」 健三けんぞうは八はちの字じを寄せよせながら、
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