その二軒ともとあまり親しく往来をしていなかった。自分の姉や兄と疎遠になるという変な事実は、彼に取っても余り気持の好いものではなかった。しかし親類づきあいよりも自分の仕事の方が彼には大事に見えた。それから東京へ帰って以後既に三、四回彼らと顔を合せたという記憶も、彼には多少の言訳になった。もし帽子を被らない男が突然彼の行手を遮らなかったなら、彼は何時もの通り千駄木の町を毎日二返規則正しく往来するだけで、当分外の方角へは足を向けずにしまったろう。もしその間に身体の楽に出来る日曜が来たなら、ぐたりと疲れ切った四肢を畳の上に横たえて半日の安息を貪るに過ぎなかったろう。
第 2 章
しかし次の日曜が来たとき、彼はふと途中で二度会った男の事を思い出した。
そうして急に思い立ったように姉の宅へ出掛けた。
姉の宅は四ッ谷の津の守坂の横で、大通りから一町ばかり奥へ引込んだ所にあった。
彼女の夫というのは健三の従兄にあたる男だから、つまり姉にも従兄であった。
しかし年齢は同年か一つ違で、健三から見ると双方とも、一廻りも上であった。
この夫がもと四ッ谷の区役所へ勤めた縁故で、彼が其所をやめた今日でも、まだ馴染の多い土地を離れるのが厭だといって、姉は今の勤先に不便なのも構わず、やっぱり元の古ぼけた家に住んでいるのである。
四
この姉は喘息持であった。
年が年中ぜえぜえいっていた。
それでも生れ付が非常な癇性なので、よほど苦しくないと決して凝としていなかった。
何か用を拵えて狭い家の中を始終ぐるぐる廻って歩かないと承知しなかった。
その落付のないがさつな態度が健三の眼には如何にも気の毒に見えた。
姉はまた非常に饒舌る事の好な女であった。
そうしてその喋舌り方に少しも品位というものがなかった。
彼女と対坐する健三はきっと苦い顔をして黙らなければならなかった。
「これが己の姉なんだからなあ」 彼女と話をした後の健三の胸には何時でもこういう述懐が起った。
その日健三は例の如く襷を掛けて戸棚の中を掻きまわしているこの姉を見出した。
「まあ珍らしく能く来てくれたこと。さあ御敷きなさい」 姉は健三に座蒲団を勧めて縁側へ手を洗いに行った。
健三はその留守に座敷のなかを見廻わした。
欄間には彼が子供の時から見覚えのある古ぼけた額が懸っていた。
その落款に書いてある筒井憲という名は、たしか旗本の書家か何かで、大変字が上手なんだと、十五、六の昔此所の主人から教えられた事を思い出した。
彼はその主人をその頃は兄さん兄さんと呼んで始終遊びに行ったものである。
そうして年からいえば叔父甥ほどの相違があるのに、二人して能く座敷の中で相撲をとっては姉から怒られたり、屋根へ登って無花果を※いで食って、その皮を隣の庭へ投げたため、尻を持ち込まれたりした。
主人が箱入りのコンパスを買って遣るといって彼を騙したなり何時まで経っても買ってくれなかったのを非常に恨めしく思った事もあった。
姉と喧嘩をして、もう向うから謝罪って来ても勘忍してやらないと覚悟を極めたが、いくら待っていても、姉が詫まらないので、仕方なしにこちらからのこのこ出掛けて行ったくせに、手持無沙汰なので、向うで御這入りというまで、黙って門口に立っていた滑稽もあった。
…… 古い額を眺めた健三は、子供の時の自分に明らかな記憶の探照燈を向けた。
そうしてそれほど世話になった姉夫婦に、今は大した好意を有つ事が出来にくくなった自分を不快に感じた。
「近頃は身体の具合はどうです。あんまり非道く起る事もありませんか」 彼は自分の前に坐った姉の顔を見ながらこう訊ねた。
「ええ有難う。御蔭さまで陽気が好いもんだから、まあどうかこうか家の事だけは遣ってるんだけれども、――でもやっぱり年が年だからね。とても昔しのようにがせいに働く事は出来ないのさ。昔健ちゃんの遊びに来てくれた時分にゃ、随分尻ッ端折りで、それこそ御釜の御尻まで洗ったもんだが、今じゃとてもそんな元気はありゃしない。だけど御蔭様でこう遣って毎日牛乳も飲んでるし……」 健三は些少ながら月々いくらかの小遣を姉に遣る事を忘れなかったのである。
「少し痩せたようですね」「なにこりゃ私の持前だから仕方がない。昔から肥った事のない女なんだから。やッぱり癇が強いもんだからね。癇で肥る事が出来ないんだよ」 姉は肉のない細い腕を捲って健三の前に出して見せた。
大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄黒い半円形の暈が、怠そうな皮で物憂げに染めていた。
健三は黙ってそのぱさぱさした手の平を見詰めた。
「でも健ちゃんは立派になって本当に結構だ。御前さんが外国へ行く時なんか、もう二度と生きて会う事は六ずかしかろうと思ってたのに、それでもよくまあ達者で帰って来られたのね。御父さんや御母さんが生きて御出だったらさぞ御喜びだろう」 姉の眼にはいつか涙が溜っていた。
姉は健三の子供の時分、「今に姉さんに御金が出来たら、健ちゃんに何でも好なものを買って上げるよ」と口癖のようにいっていた。
そうかと思うと、「こんな偏窟じゃこの子はとても物にゃならない」ともいった。
健三は姉の昔の言葉やら語気やらを思い浮べて、心の中で苦笑した。
五
そんな古い記憶を喚び起こすにつけても、久しく会わなかった姉の老けた様子が一層健三の眼についた。
「時に姉さんはいくつでしたかね」「もう御婆さんさ。取って一だもの御前さん」 姉は黄色い疎らな歯を出して笑って見せた。
実際五十一とは健三にも意外であった。
「すると私とは一廻以上違うんだね。私ゃまた精々違って十か十一だと思っていた」「どうして一廻どころか。健ちゃんとは十六違うんだよ、姉さんは。良人が羊の三碧で姉さんが四緑なんだから。健ちゃんは慥か七赤だったね」「何だか知らないが、とにかく三十六ですよ」「繰って見て御覧、きっと七赤だから」 健三はどうして自分の星を繰るのか、それさえ知らなかった。
年齢の話はそれぎりやめてしまった。
「今日は御留守なんですか」と比田の事を訊いて見た。
「昨夕も宿直でね。なに自分の分だけなら月に三度か四度で済むんだけれども、他に頼まれるもんだからね。それに一晩でも余計泊りさえすればやっぱりいくらかになるだろう、それでつい他の分まで引受ける気にもなるのさ。この頃じゃあっちへ寐るのとこっちへ帰るのと、まあ半々位なものだろう。ことによると、向へ泊る方がかえって多いかも知れないよ」 健三は黙って障子の傍に据えてある比田の机を眺めた。
硯箱や状袋や巻紙がきちりと行儀よく並んでいる傍に、簿記用の帳面が赤い脊皮をこちらへ向けて、二、三冊立て懸けてあった。
それから綺麗に光った小さい算盤もその下に置いてあった。
噂によると比田はこの頃変な女に関係をつけて、それを自分の勤め先のつい近くに囲っているという評番であった。
宿直だ宿直だといって宅へ帰らないのは、あるいはそのせいじゃなかろうかと健三には思えた。
「比田さんは近頃どうです。大分年を取ったから元とは違って真面目になったでしょう」「なにやッぱり相変らずさ。ありゃ一人で遊ぶために生れて来た男なんだから仕方がないよ。やれ寄席だ、やれ芝居だ、やれ相撲だって、御金さえありゃ年が年中飛んで歩いてるんだからね。でも奇体なもんで、年のせいだか何だか知らないが、昔に比べると、少しは優しくなったようだよ。もとは健ちゃんも知ってる通りの始末で、随分烈しかったもんだがね。蹴ったり、敲いたり、髪の毛を持って座敷中引摺廻したり……」「その代り姉さんも負けてる方じゃなかったんだからな」「なに妾ゃ手出しなんかした事あ、ついの一度だってありゃしない」 健三は勝気な姉の昔を考え出してつい可笑しくなった。
二人の立ち廻りは今姉の自白するように受身のものばかりでは決してなかった。
ことに口は姉の方が比田に比べると十倍も達者だった。
それにしてもこの利かぬ気の姉が、夫に騙されて、彼が宅へ帰らない以上、きっと会社へ泊っているに違いないと信じ切っているのが妙に不憫に思われて来た。
「久しぶりに何か奢りましょうか」と姉の顔を眺めながらいった。
「ありがと、今御鮨をそういったから、珍らしくもあるまいけれども、食べてって御くれ」 姉は客の顔さえ見れば、時間に関係なく、何か食わせなければ承知しない女であった。
健三は仕方がないから尻を落付けてゆっくり腹の中に持って来た話を姉に切り出す気になった。
六
近頃の健三は頭を余計遣い過ぎるせいか、どうも胃の具合が好くなかった。
時々思い出したように運動して見ると、胸も腹もかえって重くなるだけであった。
彼は要心して三度の食事以外にはなるべく物を口へ入れないように心掛ていた。
それでも姉の悪強には敵わなかった。
「海苔巻なら身体に障りゃしないよ。折角姉さんが健ちゃんに御馳走しようと思って取ったんだから、是非食べて御くれな。厭かい」 健三は仕方なしに旨くもない海苔巻を頬張って、好い加減烟草で荒らされた口のうちをもぐもぐさせた。
姉が余り饒舌るので、彼は何時までも自分のいいたい事がいえなかった。
訊きたい問題を持っていながら、こう受身な会話ばかりしているのが、彼には段々むず痒くなって来た。
しかし姉にはそれが一向通じないらしかった。
他に物を食わせる事の好きなのと同時に、物を遣る事の好きな彼女は、健三がこの前賞めた古ぼけた達磨の掛物を彼に遣ろうかといい出した。
「あんなものあ、宅にあったって仕方がないんだから、持って御出でよ。なに比田だって要りゃしないやね、汚ない達磨なんか」 健三は貰うとも貰わないともいわずにただ苦笑していた。
すると姉は何か秘密話でもするように急に調子を低くした。
「実は健ちゃん、御前さんが帰って来たら、話そう話そうと思って、つい今日まで黙ってたんだがね。健ちゃんも帰りたてでさぞ忙がしかろうし、それに姉さんが出掛けて行くにしたところで、御住さんがいちゃ、少し話し悪い事だしね。そうかって、手紙を書こうにも御存じの無筆だろう……」 姉の前置は長たらしくもあり、また滑稽でもあった。
小さい時分いくら手習をさせても記憶が悪くって、どんなに平易しい字も、とうとう頭へ這入らずじまいに、五十の今日まで生きて来た女だと思うと、健三にはわが姉ながら気の毒でもありまたうら恥ずかしくもあった。
「それで姉さんの話ってえな、一体どんな話なんです。実は私も今日は少し姉さんに話があって来たんだが」「そうかいそれじゃ御前さんの方のから先へ聴くのが順だったね。何故早く話さなかったの」「だって話せないんだもの」「そんなに遠慮しないでもいいやね。姉弟の間じゃないか、御前さん」 姉は自分の多弁が相手の口を塞いでいるのだという明白な事実には毫も気が付いていなかった。
「まあ姉さんの方から先へ片付けましょう。何ですか、あなたの話っていうのは」「実は健ちゃんにはまことに気の毒で、いい悪いんだけれども、あたしも段々年を取って身体は弱くなるし、それに良人があの通りの男で、自分一人さえ好けりゃ女房なんかどうなったって、己の知った事じゃないって顔をしているんだから。――尤も月々の取高が少ない上に、交際もあるんだから、仕方がないといえばそれまでだけれどもね……」 姉のいう事は女だけに随分曲りくねっていた。
なかなか容易な事で目的地へ達しそうになかったけれども、その主意は健三によく解った。
つまり月々遣る小遣をもう少し増してくれというのだろうと思った。
今でさえそれをよく夫から借りられてしまうという話を耳にしている彼には、この請求が憐れでもあり、また腹立たしくもあった。
「どうか姉さんを助けると思ってね。姉さんだってこの身体じゃどうせ長い事もあるまいから」 これが姉の口から出た最後の言葉であった。
健三はそれでも厭だとはいいかねた。
七
彼はこれから宅へ帰って今夜中に片付けなければならない明日の仕事を有っていた。
時間の価値というものを少しも認めないこの姉と対坐して、何時までも、べんべんと喋舌っているのは、彼にとって多少の苦痛に違なかった。
彼は好加減に帰ろうとした。
そうして帰る間際になってやっと帽子を被らない男の事をいい出した。
「実はこの間島田に会ったんですがね」「へえどこで」 姉は吃驚したような声を出した。
姉は無教育な東京ものによく見るわざとらしい仰山な表情をしたがる女であった。
「太田の原の傍です」「じゃ御前さんのじき近所じゃないか。どうしたい、何か言葉でも掛けたかい」「掛けるって、別に言葉の掛けようもないんだから」「そうさね。健ちゃんの方から何とかいわなきゃ、向で口なんぞ利けた義理でもないんだから」 姉の言葉は出来るだけ健三の意を迎えるような調子であった。
彼女は健三に「どんな服装をしていたい」と訊き足した後で、「じゃやッぱり楽でもないんだね」といった。
其所には多少の同情も籠っているように見えた。
しかし男の昔を話し出した時にはさもさも悪らしそうな語気を用い始めた。
「なんぼ因業だって、あんな因業な人ったらありゃしないよ。今日が期限だから、是が非でも取って行くって、いくら言訳をいっても、坐り込んで動かないんだもの。しまいにこっちも腹が立ったから、御気の毒さま、御金はありませんが、品物で好ければ、御鍋でも御釜でも持ってって下さいっていったらね、じゃ釜を持ってくっていうんだよ。あきれるじゃないか」「釜を持って行くったって、重くってとても持てやしないでしょう」「ところがあの業突張の事だから、どんな事をして持ってかないとも限らないのさ。そらその日の御飯をあたしに炊かせまいと思って、そういう意地の悪い事をする人なんだからね。どうせ先へ寄って好い事あないはずだあね」 健三の耳にはこの話がただの滑稽としては聞こえなかった。
その人と姉との間に起ったこんな交渉のなかに引絡まっている古い自分の影法師は、彼に取って可笑しいというよりもむしろ悲しいものであった。
「私ゃ島田に二度会ったんですよ、姉さん。これから先また何時会うか分らないんだ」「いいから知らん顔をして御出でよ。何度会ったって構わないじゃないか」「しかしわざわざ彼所いらを通って、私の宅でも探しているんだか、また用があって通りがかりに偶然出ッくわしたんだか、それが分らないんでね」 この疑問は姉にも解けなかった。
彼女はただ健三に都合の好さそうな言葉を無意味に使った。
それが健三には空御世辞のごとく響いた。
「こちらへはその後まるで来ないんですか」「ああこの二、三年はまるっきり来ないよ」「その前は?」「その前はね、ちょくちょくってほどでもないが、それでも時々は来たのさ。それがまた可笑しいんだよ。来ると何時でも十一時頃でね。鰻飯かなにか食べさせないと決して帰らないんだからね。三度の御まんまを一かたけでも好いから他の家で食べようっていうのがつまりあの人の腹なんだよ。そのくせ服装なんかかなりなものを着ているんだがね。……」 姉のいう事は脱線しがちであったけれども、それを聴いている健三には、やはり金銭上の問題で、自分が東京を去ったあとも、なお多少の交際が二人の間に持続されていたのだという見当はついた。
しかしそれ以上何も知る事は出来なかった。
目下の島田については全く分らなかった。
八
「島田は今でも元の所に住んでいるんだろうか」 こんな簡単な質問さえ姉には判然答えられなかった。
健三は少し的が外れた。
けれども自分の方から進んで島田の現在の居所を突き留めようとまでは思っていなかったので、大した失望も感じなかった。
彼はこの場合まだそれほどの手数を尽す必要がないと信じていた。
たとい尽すにしたところで、一種の好奇心を満足するに過ぎないとも考えていた。
その上今の彼はこういう好奇心を軽蔑しなければならなかった。
彼の時間はそんな事に使用するには余りに高価すぎた。
彼はただ想像の眼で、子供の時分見たその人の家と、その家の周囲とを、心のうちに思い浮べた。
其所には往来の片側に幅の広い大きな堀が一丁も続いていた。
水の変らないその堀の中は腐った泥で不快に濁っていた。
所々に蒼い色が湧いて厭な臭さえ彼の鼻を襲った。
彼はその汚ならしい一廓を――様の御屋敷という名で覚えていた。
堀の向う側には長屋がずっと並んでいた。
その長屋には一軒に一つ位の割で四角な暗い窓が開けてあった。
石垣とすれすれに建てられたこの長屋がどこまでも続いているので、御屋敷のなかはまるで見えなかった。
この御屋敷と反対の側には小さな平家が疎らに並んでいた。
古いのも新らしいのもごちゃごちゃに交っていたその町並は無論不揃であった。
老人の歯のように所々が空いていた。
その空いている所を少しばかり買って島田は彼の住居を拵えたのである。
健三はそれが何時出来上ったか知らなかった。
しかし彼が始めてそこへ行ったのは新築後まだ間もないうちであった。
四間しかない狭い家だったけれども、木口などはかなり吟味してあるらしく子供の眼にも見えた。
間取にも工夫があった。
六畳の座敷は東向で、松葉を敷き詰めた狭い庭に、大き過ぎるほど立派な御影の石燈籠が据えてあった。
綺麗好きな島田は、自分で尻端折りをして、絶えず濡雑巾を縁側や柱へ掛けた。
それから跣足になって、南向の居間の前栽へ出て、草毟りをした。
あるときは鍬を使って、門口の泥溝も浚った。
その泥溝には長さ四尺ばかりの木の橋が懸っていた。
島田はまたこの住居以外に粗末な貸家を一軒建てた。
そうして双方の家の間を通り抜けて裏へ出られるように三尺ほどの路を付けた。
裏は野とも畠とも片のつかない湿地であった。
草を踏むとじくじく水が出た。
一番凹んだ所などはしょっちゅう浅い池のようになっていた。
島田は追々其所へも小さな貸家を建てるつもりでいるらしかった。
しかしその企ては何時までも実現されなかった。
冬になると鴨が下りるから、今度は一つ捕ってやろうなどといっていた。
…… 健三はこういう昔の記憶をそれからそれへと繰り返した。
今其所へ行って見たら定めし驚ろくほど変っているだろうと思いながら、彼はなお二十年前の光景を今日の事のように考えた。
「ことによると、良人では年始状位まだ出してるかも知れないよ」 健三の帰る時、姉はこんな事をいって、暗に比田の戻るまで話して行けと勧めたが、彼にはそれほどの必要もなかった。
彼はその日無沙汰見舞かたがた市ヶ谷の薬王寺前にいる兄の宅へも寄って、島田の事を訊いて見ようかと考えていたが、時間の遅くなったのと、どうせ訊いたって仕方がないという気が次第に強くなったのとで、それなり駒込へ帰った。
その晩はまた翌日の仕事に忙殺されなければならなかった。
そうして島田の事はまるで忘れてしまった。
九
彼はまた平生の我に帰った。
活力の大部分を挙げて自分の職業に使う事が出来た。
彼の時間は静かに流れた。
しかしその静かなうちには始終いらいらするものがあって、絶えず彼を苦しめた。
遠くから彼を眺めていなければならなかった細君は、別に手の出しようもないので、澄ましていた。
それが健三には妻にあるまじき冷淡としか思えなかった。
細君はまた心の中で彼と同じ非難を夫の上に投げ掛けた。
夫の書斎で暮らす時間が多くなればなるほど、夫婦間の交渉は、用事以外に少なくならなければならないはずだというのが細君の方の理窟であった。
彼女は自然の勢い健三を一人書斎に遺して置いて、子供だけを相手にした。
その子供たちはまた滅多に書斎へ這入らなかった。
たまに這入ると、きっと何か悪戯をして健三に叱られた。
彼は子供を叱るくせに、自分の傍へ寄り付かない彼らに対して、やはり一種の物足りない心持を抱いていた。
一週間後の日曜が来た時、彼はまるで外出しなかった。
気分を変えるため四時頃風呂へ行って帰ったら、急にうっとりした好い気持に襲われたので、彼は手足を畳の上へ伸ばしたまま、つい仮寐をした。
そうして晩食の時刻になって、細君から起されるまでは、首を切られた人のように何事も知らなかった。
しかし起きて膳に向った時、彼には微かな寒気が脊筋を上から下へ伝わって行くような感じがあった。
その後で烈しい嚏が二つほど出た。
傍にいる細君は黙っていた。
健三も何もいわなかったが、腹の中ではこうした同情に乏しい細君に対する厭な心持を意識しつつ箸を取った。
細君の方ではまた夫が何故自分に何もかも隔意なく話して、能働的に細君らしく振舞わせないのかと、その方をかえって不愉快に思った。
その晩彼は明らかに多少風邪気味であるという事に気が付いた。
用心して早く寐ようと思ったが、ついしかけた仕事に妨げられて、十二時過まで起きていた。
彼の床に入る時には家内のものはもう皆な寐ていた。
熱い葛湯でも飲んで、発汗したい希望をもっていた健三は、やむをえずそのまま冷たい夜具の裏に潜り込んだ。
彼は例にない寒さを感じて、寐付が大変悪かった。
しかし頭脳の疲労はほどなく彼を深い眠の境に誘った。
翌日眼を覚した時は存外安静であった。
彼は床の中で、風邪はもう癒ったものと考えた。
しかしいよいよ起きて顔を洗う段になると、何時もの冷水摩擦が退儀な位身体が倦怠くなってきた。
勇気を鼓して食卓に着いて見たが、朝食は少しも旨くなかった。
いつもは規定として三膳食べるところを、その日は一膳で済ました後、梅干を熱い茶の中に入れてふうふう吹いて呑んだ。
しかしその意味は彼自身にも解らなかった。
この時も細君は健三の傍に坐って給仕をしていたが、別に何にもいわなかった。
彼にはその態度がわざと冷淡に構えている技巧の如く見えて多少腹が立った。
彼はことさらな咳を二度も三度もして見せた。
それでも細君は依然として取り合わなかった。
健三はさっさと頭から白襯衣を被って洋服に着換えたなり例刻に宅を出た。
細君は何時もの通り帽子を持って夫を玄関まで送って来たが、この時の彼には、それがただ形式だけを重んずる女としか受取れなかったので、彼はなお厭な心持がした。
外ではしきりに悪感がした。
舌が重々しくぱさついて、熱のある人のように身体全体が倦怠かった。
彼は自分の脈を取って見て、その早いのに驚ろいた。
指頭に触れるピンピンいう音が、秒を刻む袂時計の音と錯綜して、彼の耳に異様な節奏を伝えた。
それでも彼は我慢して、するだけの仕事を外でした。
十
彼は例刻に宅へ帰った。
洋服を着換える時、細君は何時もの通り、彼の不断着を持ったまま、彼の傍に立っていた。
彼は不快な顔をしてそちらを向いた。
「床を取ってくれ。寐るんだ」「はい」 細君は彼のいうがままに床を延べた。
彼はすぐその中に入って寐た。
彼は自分の風邪気の事を一口も細君にいわなかった。
細君の方でも一向其所に注意していない様子を見せた。
それで双方とも腹の中には不平があった。
健三が眼を塞いでうつらうつらしていると、細君が枕元へ来て彼の名を呼んだ。
「あなた御飯を召上がりますか」「飯なんか食いたくない」 細君はしばらく黙っていた。
けれどもすぐ立って部屋の外へ出て行こうとはしなかった。
「あなた、どうかなすったんですか」 健三は何にも答えずに、顔を半分ほど夜具の襟に埋めていた。
細君は無言のまま、そっとその手を彼の額の上に加えた。
晩になって医者が来た。
ただの風邪だろうという診察を下して、水薬と頓服を呉れた。
彼はそれを細君の手から飲ましてもらった。
翌日は熱がなお高くなった。
医者の注意によって護謨の氷嚢を彼の頭の上に載せた細君は、蒲団の下に差し込むニッケル製の器械を下女が買ってくるまで、自分の手で落ちないようにそれを抑えていた。
魔に襲われたような気分が二、三日つづいた。
健三の頭にはその間の記憶というものが殆んどない位であった。
正気に帰った時、彼は平気な顔をして天井を見た。
それから枕元に坐っている細君を見た。
そうして急にその細君の世話になったのだという事を思い出した。
しかし彼は何にもいわずにまた顔を背けてしまった。
それで細君の胸には夫の心持が少しも映らなかった。
「あなたどうなすったんです」「風邪を引いたんだって、医者がいうじゃないか」「そりゃ解ってます」 会話はそれで途切れてしまった。
細君は厭な顔をしてそれぎり部屋を出て行った。
健三は手を鳴らしてまた細君を呼び戻した。
「己がどうしたというんだい」「どうしたって、――あなたが御病気だから、私だってこうして氷嚢を更えたり、薬を注いだりして上げるんじゃありませんか。それをあっちへ行けの、邪魔だのって、あんまり……」 細君は後をいわずに下を向いた。
「そんな事をいった覚はない」「そりゃ熱の高い時仰しゃった事ですから、多分覚えちゃいらっしゃらないでしょう。けれども平生からそう考えてさえいらっしゃらなければ、いくら病気だって、そんな事を仰しゃる訳がないと思いますわ」 こんな場合に健三は細君の言葉の奥に果してどの位な真実が潜んでいるだろうかと反省して見るよりも、すぐ頭の力で彼女を抑えつけたがる男であった。
事実の問題を離れて、単に論理の上から行くと、細君の方がこの場合も負けであった。
熱に浮かされた時、魔睡薬に酔った時、もしくは夢を見る時、人間は必ずしも自分の思っている事ばかり物語るとは限らないのだから。
しかしそうした論理は決して細君の心を服するに足りなかった。
「よござんす。どうせあなたは私を下女同様に取り扱うつもりでいらっしゃるんだから。自分一人さえ好ければ構わないと思って、……」 健三は座を立った細君の後姿を腹立たしそうに見送った。
彼は論理の権威で自己を佯っている事にはまるで気が付かなかった。
学問の力で鍛え上げた彼の頭から見ると、この明白な論理に心底から大人しく従い得ない細君は、全くの解らずやに違なかった。
十一
その晩細君は土鍋へ入れた粥をもって、また健三の枕元に坐った。
それを茶碗に盛りながら、「御起になりませんか」と訊いた。
彼の舌にはまだ苔が一杯生えていた。
重苦しいような厚ぼったいような口の中へ物を入れる気には殆んどなれなかった。
それでも彼は何故だか床の上に起き返って、細君の手から茶碗を受取ろうとした。
しかし舌障りの悪い飯粒が、ざらざらと咽喉の方へ滑り込んで行くだけなので、彼はたった一膳で口を拭ったなり、すぐ故の通り横になった。
「まだ食気が出ませんね」「少しも旨くない」 細君は帯の間から一枚の名刺を出した。
「こういう人が貴方の寐ていらしゃるうちに来たんですが、御病気だから断って帰しました」 健三は寐ながら手を出して、鳥の子紙に刷ったその名刺を受取って、姓名を読んで見たが、まだ会った事も聞いた事もない人であった。
「何時来たのかい」「たしか一昨日でしたろう。ちょっと御話ししようと思ったんですが、まだ熱が下らないから、わざと黙っていました」「まるで知らない人だがな」「でも島田の事でちょっと御主人に御目にかかりたいって来たんだそうですよ」 細君はとくに島田という二字に力を入れてこういいながら健三の顔を見た。
すると彼の頭にこの間途中で会った帽子を被らない男の影がすぐひらめいた。
熱から覚めた彼には、それまでこの男の事を思い出す機会がまるでなかったのである。
「御前島田の事を知ってるのかい」「あの長い手紙が御常さんって女から届いた時、貴方が御話しなすったじゃありませんか」 健三は何とも答えずに一旦下へ置いた名刺をまた取り上げて眺めた。
島田の事をその時どれほど詳しく彼女に話したか、それが彼には不確であった。
「ありゃ何時だったかね。よッぽど古い事だろう」 健三はその長々しい手紙を細君に見せた時の心持を思い出して苦笑した。
「そうね。もう七年位になるでしょう。私たちがまだ千本通りにいた時分ですから」 千本通りというのは、彼らがその頃住んでいた或都会の外れにある町の名であった。
細君はしばらくして、「島田の事なら、あなたに伺わないでも、御兄さんからも聞いて知ってますわ」といった。
「兄がどんな事をいったかい」「どんな事って、――なんでも余り善くない人だっていう話じゃありませんか」 細君はまだその男の事について、健三の心を知りたい様子であった。
しかし彼にはまた反対にそれを避けたい意向があった。
彼は黙って眼を閉じた。
盆に載せた土鍋と茶碗を持って席を立つ前、細君はもう一度こういった。
「その名刺の名前の人はまた来るそうですよ。いずれ御病気が御癒りになったらまた伺いますからって、帰って行ったそうですから」 健三は仕方なしにまた眼を開いた。
「来るだろう。どうせ島田の代理だと名乗る以上はまた来るに極ってるさ」「しかしあなた御会いになって? もし来たら」 実をいうと彼は会いたくなかった。
細君はなおの事夫をこの変な男に会わせたくなかった。
「御会いにならない方が好いでしょう」「会っても好い。何も怖い事はないんだから」 細君には夫の言葉が、また例の我だと取れた。
健三はそれを厭だけれども正しい方法だから仕方がないのだと考えた。
十二
健三の病気は日ならず全快した。
活字に眼を曝したり、万年筆を走らせたり、または腕組をしてただ考えたりする時が再び続くようになった頃、一度無駄足を踏ませられた男が突然また彼の玄関先に現われた。
健三は鳥の子紙に刷った吉田虎吉という見覚のある名刺を受取って、しばらくそれを眺めていた。
細君は小さな声で「御会いになりますか」と訊ねた。
「会うから座敷へ通してくれ」 細君は断りたさそうな顔をして少し躊躇していた。
しかし夫の様子を見てとった彼女は、何もいわずにまた書斎を出て行った。
吉田というのは、でっぷり肥った、かっぷくの好い、四十恰好の男であった。
縞の羽織を着て、その頃まで流行った白縮緬の兵児帯にぴかぴかする時計の鎖を巻き付けていた。
言葉使いから見ても、彼は全くの町人であった。
そうかといって、決して堅気の商人とは受取れなかった。
「なるほど」というべきところを、わざと「なある」と引張ったり、「御尤も」の代りに、さも感服したらしい調子で、「いかさま」と答えたりした。
健三には会見の順序として、まず吉田の身元から訊いてかかる必要があった。
しかし彼よりは能弁な吉田は、自分の方で聞かれない先に、素性の概略を説明した。
彼はもと高崎にいた。
そうして其所にある兵営に出入して、糧秣を納めるのが彼の商買であった。
「そんな関係から、段々将校方の御世話になるようになりまして。その内でも柴野の旦那には特別御贔負になったものですから」 健三は柴野という名を聞いて急に思い出した。
それは島田の後妻の娘が嫁に行った先の軍人の姓であった。
「その縁故で島田を御承知なんですね」 二人はしばらくその柴野という士官について話し合った。
彼が今高崎にいない事や、もっと遠くの西の方へ転任してから幾年目になるという事や、相変らずの大酒で家計があまり裕でないという事や、すべてこれらは、健三に取って耳新らしい報知に違なかったが、同時に大した興味を惹く話題にもならなかった。
この夫婦に対して何らの悪感も抱いていない健三は、ただそうかと思って平気に聞いているだけであった。
しかし話が本筋に入って、いよいよ島田の事を持ち出された時彼は、自然厭な心持がした。
吉田はしきりにこの老人の窮迫の状を訴え始めた。
「人間があまり好過ぎるもんですから、つい人に騙されてみんな損っちまうんです。とても取れる見込のないのにむやみに金を出してやったり何かするもんですからな」「人間が好過ぎるんでしょうか。あんまり慾張るからじゃありませんか」 たとい吉田のいう通り老人が困窮しているとしたところで、健三にはこうより外に解釈の道はなかった。
しかも困窮というからしてが既に怪しかった。
肝心の代表者たる吉田も強いてその点は弁護しなかった。
「あるいはそうかも知れません」といったなり、後は笑に紛らしてしまった。
そのくせ月々若干か貢いで遣ってくれる訳には行くまいかという相談をすぐその後から持ち出した。
正直な健三はつい自分の経済事状を打ち明けて、この一面識しかない男に話さなければならなくなった。
彼は自己の手に入る百二、三十円の月収が、どう消費されつつあるかを詳しく説明して、月々あとに残るものは零だという事を相手に納得させようとした。
吉田は例の「なある」と「いかさま」を時々使って、神妙に健三の弁解を聴いた。
しかし彼がどこまで彼を信用して、どこから彼を疑い始めているか、その点は健三にも分らなかった。
ただ先方はどこまでも下手に出る手段を主眼としているらしく見えた。
不穏の言葉は無論、強請がましい様子は噫にも出さなかった。
十三
これで吉田の持って来た用件の片が付いたものと解釈した健三は、心のうちで暗に彼の帰るのを予期した。
しかし彼の態度は明らかにこの予期の裏を行った。
金の問題にはそれぎり触れなかったが、毒にも薬にもならない世間話を何時までも続けて動かなかった。
そうして自然天然話頭をまた島田の身の上に戻して来た。
「どんなものでしょう。老人も取る年で近頃は大変心細そうな事ばかりいっていますが、――どうかして元通りの御交際は願えないものでしょうか」 健三はちょっと返答に窮した。
仕方なしに黙って二人の間に置かれた烟草盆を眺めていた。
彼の頭のなかには、重たそうに毛繻子の洋傘をさして、異様の瞳を彼の上に据えたその老人の面影がありありと浮かんだ。
彼はその人の世話になった昔を忘れる訳に行かなかった。
同時に人格の反射から来るその人に対しての嫌悪の情も禁ずる事が出来なかった。
両方の間に板挟みとなった彼は、しばらく口を開き得なかった。
「手前も折角こうして上がったものですから、これだけはどうぞ曲げて御承知を願いたいもので」 吉田の様子はいよいよ丁寧になった。
どう考えても交際のは厭でならなかった健三は、またどうしてもそれを断わるのを不義理と認めなければ済まなかった。
彼は厭でも正しい方に従おうと思い極めた。
「そういう訳なら宜しゅう御座います。承知の旨を向へ伝えて下さい。しかし交際は致しても、昔のような関係ではとても出来ませんから、それも誤解のないように申し伝えて下さい。それから私の今の状況では、私の方から時々出掛けて行って老人に慰藉を与えるなんて事は六ずかしいのですが……」「するとまあただ御出入をさせて頂くという訳になりますな」 健三には御出入という言葉を聞くのが辛かった。
そうだともそうでないともいいかねて、また口を閉じた。
「いえなにそれで結構で、――昔と今とは事情もまるで違ますから」 吉田は自分の役目が漸く済んだという顔付をしてこういった後、今まで持ち扱っていた烟草入を腰へさしたなり、さっさと帰って行った。
健三は彼を玄関まで送り出すと、すぐ書斎へ入った。
その日の仕事を早く片付けようという気があるので、いきなり机へ向ったが、心のどこかに引懸りが出来て、なかなか思う通りに捗取らなかった。
其所へ細君がちょっと顔を出した。
「あなた」と二返ばかり声を掛けたが、健三は机の前に坐ったなり振り向かなかった。
細君がそのまま黙って引込んだ後、健三は進まぬながら仕事を夕方まで続けた。
平生よりは遅くなって漸く夕食の食卓に着いた時、彼は始めて細君と言葉を換わした。
「先刻来た吉田って男は一体何なんですか」と細君が訊いた。
「元高崎で陸軍の用達か何かしていたんだそうだ」と健三が答えた。
問答は固よりそれだけで尽きるはずがなかった。
彼女は吉田と柴野との関係やら、彼と島田との間柄やらについて、自分に納得の行くまで夫から説明を求めようとした。
「どうせ御金か何か呉れっていうんでしょう」「まあそうだ」「それで貴方どうなすって、――どうせ御断りになったでしょうね」「うん、断った。断るより外に仕方がないからな」 二人は腹の中で、自分らの家の経済状態を別々に考えた。
月々支出している、また支出しなければならない金額は、彼に取って随分苦しい労力の報酬であると同時に、それで凡てを賄って行く細君に取っても、少しも裕なものとはいわれなかった。
十四
健三はそれぎり座を立とうとした。
しかし細君にはまだ訊きたい事が残っていた。
「それで素直に帰って行ったんですか、あの男は。少し変ね」「だって断られれば仕方がないじゃないか。喧嘩をする訳にも行かないんだから」「だけど、また来るんでしょう。ああして大人しく帰って置いて」「来ても構わないさ」「でも厭ですわ、蒼蠅くって」 健三は細君が次の間で先刻の会話を残らず聴いていたものと察した。
「御前聴いてたんだろう、悉皆」 細君は夫の言葉を肯定しない代りに否定もしなかった。
「じゃそれで好いじゃないか」 健三はこういったなりまた立って書斎へ行こうとした。
彼は独断家であった。
これ以上細君に説明する必要は始めからないものと信じていた。
細君もそうした点において夫の権利を認める女であった。
けれども表向夫の権利を認めるだけに、腹の中には何時も不平があった。
事々について出て来る権柄ずくな夫の態度は、彼女に取って決して心持の好いものではなかった。
何故もう少し打ち解けてくれないのかという気が、絶えず彼女の胸の奥に働らいた。
そのくせ夫を打ち解けさせる天分も技倆も自分に充分具えていないという事実には全く無頓着であった。
「あなた島田と交際っても好いと受合っていらしったようですね」「ああ」 健三はそれがどうしたといった風の顔付をした。
細君は何時でも此所まで来て黙ってしまうのを例にしていた。
彼女の性質として、夫がこういう態度に出ると、急に厭気がさして、それから先一歩も前へ出る気になれないのである。
その不愛想な様子がまた夫の気質に反射して、益彼を権柄ずくにしがちであった。
「御前や御前の家族に関係した事でないんだから、構わないじゃないか、己一人で極めたって」「そりゃ私に対して何も構って頂かなくっても宜ござんす。構ってくれったって、どうせ構って下さる方じゃないんだから、……」 学問をした健三の耳には、細君のいう事がまるで脱線であった。
そうしてその脱線はどうしても頭の悪い証拠としか思われなかった。
「また始まった」という気が腹の中でした。
しかし細君はすぐ当の問題に立ち戻って、彼の注意を惹かなければならないような事をいい出した。
「しかし御父さまに悪いでしょう。今になってあの人と御交際いになっちゃあ」「御父さまって己のおやじかい」「無論貴方の御父さまですわ」「己のおやじはとうに死んだじゃないか」「しかし御亡くなりになる前、島田とは絶交だから、向後一切付合をしちゃならないって仰しゃったそうじゃありませんか」 健三は自分の父と島田とが喧嘩をして義絶した当時の光景をよく覚えていた。
しかし彼は自分の父に対してさほど情愛の籠った優しい記憶を有っていなかった。
その上絶交云々についても、そう厳重にいい渡された覚はなかった。
「御前誰からそんな事を聞いたのかい。己は話したつもりはないがな」「貴方じゃありません。御兄さんに伺ったんです」 細君の返事は健三に取って不思議でも何でもなかった。
同時に父の意志も兄の言葉も、彼には大した影響を与えなかった。
「おやじは阿爺、兄は兄、己は己なんだから仕方がない。己から見ると、交際を拒絶するだけの根拠がないんだから」 こういい切った健三は、腹の中でその交際が厭で厭で堪らないのだという事実を意識した。
けれどもその腹の中はまるで細君の胸に映らなかった。
彼女はただ自分の夫がまた例の頑固を張り通して、徒らに皆なの意見に反対するのだとばかり考えた。
十五
健三は昔その人に手を引かれて歩いた。
その人は健三のために小さい洋服を拵らえてくれた。
大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着しなかった。
彼の上着には腰のあたりに釦が二つ並んでいて、胸は開いたままであった。
霜降の羅紗も硬くごわごわして、極めて手触が粗かった。
ことに洋袴は薄茶色に竪溝の通った調馬師でなければ穿かないものであった。
しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。
彼の帽子もその頃の彼には珍らしかった。
浅い鍋底のような形をしたフェルトをすぽりと坊主頭へ頭巾のように被るのが、彼に大した満足を与えた。
例の如くその人に手を引かれて、寄席へ手品を見に行った時、手品師が彼の帽子を借りて、大事な黒羅紗の山の裏から表へ指を突き通して見せたので、彼は驚ろきながら心配そうに、再びわが手に帰った帽子を、何遍か撫でまわして見た事もあった。
その人はまた彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。
武者絵、錦絵、二枚つづき三枚つづきの絵も彼のいうがままに買ってくれた。
彼は自分の身体にあう緋縅しの鎧と竜頭の兜さえ持っていた。
彼は日に一度位ずつその具足を身に着けて、金紙で拵えた采配を振り舞わした。
彼はまた子供の差す位な短かい脇差の所有者であった。
その脇差の目貫は、鼠が赤い唐辛子を引いて行く彫刻で出来上っていた。
彼は銀で作ったこの鼠と珊瑚で拵えたこの唐辛子とを、自分の宝物のように大事がった。
彼は時々この脇差が抜いて見たくなった。
また何度も抜こうとした。
けれども脇差は何時も抜けなかった。
――この封建時代の装飾品もやはりその人の好意で小さな健三の手に渡されたのである。
彼はまたその人に連れられて、よく船に乗った。
船にはきっと腰蓑を着けた船頭がいて網を打った。
いなだの鰡だのが水際まで来て跳ね躍る様が小さな彼の眼に白金のような光を与えた。
船頭は時々一里も二里も沖へ漕いで行って、海※というものまで捕った。
そういう場合には高い波が来て舟を揺り動かすので、彼の頭はすぐ重くなった。
そうして舟の中へ寐てしまう事が多かった。
彼の最も面白がったのは河豚の網にかかった時であった。
彼は杉箸で河豚の腹をかんから太鼓のように叩いて、その膨れたり怒ったりする様子を見て楽しんだ。
…… 吉田と会見した後の健三の胸には、ふとこうした幼時の記憶が続々湧いて来る事があった。
凡てそれらの記憶は、断片的な割に鮮明に彼の心に映るものばかりであった。
そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。
零砕の事実を手繰り寄せれば寄せるほど、種が無尽蔵にあるように見えた時、またその無尽蔵にある種の各自のうちには必ず帽子を披らない男の姿が織り込まれているという事を発見した時、彼は苦しんだ。
「こんな光景をよく覚えているくせに、何故自分の有っていたその頃の心が思い出せないのだろう」 これが健三にとって大きな疑問になった。
実際彼は幼少の時分これほど世話になった人に対する当時のわが心持というものをまるで忘れてしまった。
「しかしそんな事を忘れるはずがないんだから、ことによると始めからその人に対してだけは、恩義相応の情合が欠けていたのかも知れない」 健三はこうも考えた。
のみならず多分この方だろうと自分を解釈した。
彼はこの事件について思い出した幼少の時の記憶を細君に話さなかった。
感情に脆い女の事だから、もしそうでもしたら、あるいは彼女の反感を和らげるに都合が好かろうとさえ思わなかった。
十六
待ち設けた日がやがて来た。
吉田と島田とはある日の午後連れ立って健三の玄関に現れた。
健三はこの昔の人に対してどんな言葉を使って、どんな応対をして好いか解らなかった。
思慮なしにそれらを極めてくれる自然の衝動が今の彼にはまるで欠けていた。
彼は二十年余も会わない人と膝を突き合せながら、大した懐かしみも感じ得ずに、むしろ冷淡に近い受答えばかりしていた。
島田はかねて横風だという評判のある男であった。
健三の兄や姉は単にそれだけでも彼を忌み嫌っている位であった。
実は健三自身も心のうちでそれを恐れていた。
今の健三は、単に言葉遣いの末でさえ、こんな男から自尊心を傷けられるには、あまりに高過ぎると、自分を評価していた。
しかし島田は思ったよりも鄭寧であった。
普通初見の人が挨拶に用いる「ですか」とか、「ません」とかいうてにはで、言葉の語尾を切る注意をわざと怠らないように見えた。
健三はむかしその人から健坊々々と呼ばれた幼い時分を思い出した。
関係が絶えてからも、会いさえすれば、やはり同じ健坊々々で通すので、彼はそれを厭に感じた過去も、自然胸のうちに浮かんだ。
「しかしこの調子なら好いだろう」 健三はそれで、出来るだけ不快の顔を二人に見せまいと力めた。
向うもなるべく穏かに帰るつもりと見えて、少しも健三の気を悪くするような事はいわなかった。
それがために、当然双方の間に話題となるべき懐旧談なども殆ど出なかった。
従って談話はややともすると途切れがちになった。
健三はふと雨の降った朝の出来事を考えた。
「この間二度ほど途中で御目にかかりましたが、時々あの辺を御通りになるんですか」「実はあの高橋の総領の娘が片付いている所がついこの先にあるもんですから」 高橋というのは誰の事だか健三には一向解らなかった。
「はあ」「そら知ってるでしょう。あの芝の」 島田の後妻の親類が芝にあって、其所の家は何でも神主か坊主だという事を健三は子供心に聞いて覚えているような気もした。
しかしその親類の人には、要さんという彼とおない年位な男に二、三遍会ったぎりで、他のものに顔を合せた記憶はまるでなかった。
「芝というと、たしか御藤さんの妹さんに当る方の御嫁にいらしった所でしたね」「いえ姉ですよ。妹ではないんです」「はあ」「要三だけは死にましたが、あとの姉妹はみんな好い所へ片付いてね、仕合せですよ。そら総領のは、多分知っておいでだろう、――へ行ったんです」 ――という名前はなるほど健三に耳新しいものではなかった。
しかしそれはもうよほど前に死んだ人であった。
「あとが女と子供ばかりで困るもんだから、何かにつけて、叔父さん叔父さんて重宝がられましてね。それに近頃は宅に手入をするんで監督の必要が出来たものだから、殆ど毎日のように此所の前を通ります」 健三は昔この男につれられて、池の端の本屋で法帖を買ってもらった事をわれ知らず思い出した。
たとい一銭でも二銭でも負けさせなければ物を買った例のないこの人は、その時も僅か五厘の釣銭を取るべく店先へ腰を卸して頑として動かなかった。
董其昌の折手本を抱えて傍に佇立んでいる彼に取ってはその態度が如何にも見苦しくまた不愉快であった。
「こんな人に監督される大工や左官はさぞ腹の立つ事だろう」 健三はこう考えながら、島田の顔を見て苦笑を洩らした。
しかし島田は一向それに気が付かないらしかった。
十七
「でも御蔭さまで、本を遺して行ってくれたもんですから、あの男が亡くなっても、あとはまあ困らないで、どうにかこうにか遣って行けるんです」 島田は――の作った書物を世の中の誰でもが知っていなければならないはずだといった風の口調でこういった。
しかし健三は不幸にしてその著書の名前を知らなかった。
字引か教科書だろうとは推察したが、別に訊いて見る気にもならなかった。
「本というものは実に有難いもので、一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね」 健三は黙っていた。
仕方なしに吉田が相手になって、何でも儲けるには本に限るような事をいった。
「御祝儀は済んだが、――が死んだ時後が女だけだもんだから、実は私が本屋に懸け合いましてね。それで年々いくらと極めて、向うから収めさせるようにしたんです」「へえ、大したもんですな。なるほどどうも学問をなさる時は、それだけ資金が要るようで、ちょっと損な気もしますが、さて仕上げて見ると、つまりその方が利廻りの好い訳になるんだから、無学のものはとても敵いませんな」「結局得ですよ」 彼らの応対は健三に何の興味も与えなかった。
その上いくら相槌を打とうにも打たれないような変な見当へ向いて進んで行くばかりであった。
手持無沙汰な彼は、やむをえず二人の顔を見比べながら、時々庭の方を眺めた。
その庭はまた見苦しく手入の届かないものであった。
何時緑をとったか分らないような一本の松が、息苦しそうに蒼黒い葉を垣根の傍に茂らしている外に、木らしい木は殆どなかった。
箒に馴染まない地面は小石交りに凸凹していた。
「こちらの先生も一つ御儲けになったら如何です」 吉田は突然健三の方を向いた。
健三は苦笑しない訳に行かなかった。
仕方なしに「ええ儲けたいものですね」といって跋を合せた。
「なに訳はないんです。洋行まですりゃ」 これは年寄の言葉であった。
それがあたかも自分で学資でも出して、健三を洋行させたように聞こえたので、彼は厭な顔をした。
しかし老人は一向そんな事に頓着する様子も見えなかった。
迷惑そうな健三の体を見ても澄ましていた。
しまいに吉田が例の烟草入を腰へ差して、「では今日はこれで御暇を致す事にしましょうか」と催促したので、彼は漸く帰る気になったらしかった。
二人を送り出してまたちょっと座敷へ戻った健三は、再び座蒲団の上に坐ったまま、腕組をして考えた。
「一体何のために来たのだろう。これじゃ他を厭がらせに来るのと同じ事だ。あれで向は面白いのだろうか」 彼の前には先刻島田の持って来た手土産がそのまま置いてあった。
彼はぼんやりその粗末な菓子折を眺めた。
何にもいわずに茶碗だの烟草盆を片付け始めた細君は、しまいに黙って坐っている彼の前に立った。
「あなたまだ其処に坐っていらっしゃるんですか」「いやもう立っても好い」 健三はすぐ立上ろうとした。
「あの人たちはまた来るんでしょうか」「来るかも知れない」 彼はこう言い放ったまま、また書斎へ入った。
一しきり箒で座敷を掃く音が聞えた。
それが済むと、菓子折を奪り合う子供の声がした。
凡てがやがて静になったと思う頃、黄昏の空からまた雨が落ちて来た。
健三は買おう買おうと思いながら、ついまだ買わずにいるオヴァーシューの事を思い出した。
十八
雨の降る日が幾日も続いた。
それがからりと晴れた時、染付けられたような空から深い輝きが大地の上に落ちた。
毎日欝陶しい思いをして、縫針にばかり気をとられていた細君は、縁鼻へ出てこの蒼い空を見上げた。
それから急に箪笥の抽斗を開けた。
彼女が服装を改ためて夫の顔を覗きに来た時、健三は頬杖を突いたまま盆槍汚ない庭を眺めていた。
「あなた何を考えていらっしゃるの」 健三はちょっと振り返って細君の余所行姿を見た。
その刹那に爛熟した彼の眼はふとした新らし味を自分の妻の上に見出した。
「どこかへ行くのかい」「ええ」 細君の答は彼に取って余りに簡潔過ぎた。
彼はまたもとの佗びしい我に帰った。
「子供は」「子供も連れて行きます。置いて行くと八釜しくって御蒼蠅いでしょうから」 その日曜の午後を健三は独り静かに暮らした。
細君の帰って来たのは、彼が夕飯を済ましてまた書斎へ引き取った後なので、もう灯が点いてから一、二時間経っていた。
「ただ今」 遅くなりましたとも何ともいわない彼女の無愛嬌が、彼には気に入らなかった。
彼はちょっと振り向いただけで口を利かなかった。
するとそれがまた細君の心に暗い影を投げる媒介となった。
細君もそのまま立って茶の間の方へ行ってしまった。
話をする機会はそれぎり二人の間に絶えた。
彼らは顔さえ見れば自然何かいいたくなるような仲の好い夫婦でもなかった。
またそれだけの親しみを現わすには、御互が御互に取ってあまりに陳腐過ぎた。
二、三日経ってから細君は始めてその日外出した折の事を食事の時話題に上せた。
「此間宅へ行ったら、門司の叔父に会いましてね。随分驚ろいちまいました。まだ台湾にいるのかと思ったら、何時の間にか帰って来ているんですもの」 門司の叔父というのは油断のならない男として彼らの間に知られていた。
健三がまだ地方にいる頃、彼は突然汽車で遣って来て、急に入用が出来たから、是非とも少し都合してくれまいかと頼むので、健三は地方の銀行に預けて置いた貯金を些少ながら用立てたら、立派に印紙を貼った証文を後から郵便で送って来た。
その中に「但し利子の儀は」という文句まで書き添えてあったので、健三はむしろ堅過ぎる人だと思ったが、貸した金はそれぎり戻って来なかった。
「今何をしているのかね」「何をしているんだか分りゃしません。何とかの会社を起すんで、是非健三さんにも賛成してもらいたいから、その内上るつもりだっていってました」 健三にはその後を訊く必要もなかった。
彼が昔し金を借りられた時分にも、この叔父は何かの会社を建てているとかいうので彼はそれを本当にしていた。
細君の父もそれを疑わなかった。
叔父はその父を旨く説きつけて、門司まで引張って行った。
そうしてこれが今建築中の会社だといって、縁もゆかりもない他人の建てている家を見せた。
彼は実にこの手段で細君の父から何千かの資本を捲き上げたのである。
健三はこの人についてこれ以上何も知りたがらなかった。
細君もいうのが厭らしかった。
しかし何時もの通り会話は其所で切れてしまわなかった。
「あの日はあまり好い御天気だったから、久しぶりで御兄さんの所へも廻って来ました」「そうか」 細君の里は小石川台町で、健三の兄の家は市ヶ谷薬王寺前だから、細君の訪問は大した迂回でもなかった。
十九
「御兄さんに島田の来た事を話したら驚ろいていらっしゃいましたよ。今更来られた義理じゃないんだって。健三もあんなものを相手にしなければ好いのにって」 細君の顔には多少諷諫の意が現われていた。
「それを聞きに、御前わざわざ薬王寺前へ廻ったのかい」「またそんな皮肉を仰しゃる。あなたはどうしてそう他のする事を悪くばかり御取りになるんでしょう。妾あんまり御無沙汰をして済まないと思ったから、ただ帰りにちょっと伺っただけですわ」 彼が滅多に行った事のない兄の家へ、細君がたまに訪ねて行くのは、つまり夫の代りに交際の義理を立てているようなものなので、いかな健三もこれには苦情をいう余地がなかった。
「御兄さんは貴夫のために心配していらっしゃるんですよ。ああいう人と交際いだして、またどんな面倒が起らないとも限らないからって」「面倒ってどんな面倒を指すのかな」「そりゃ起って見なければ、御兄さんにだって分りっ子ないでしょうけれども、何しろ碌な事はないと思っていらっしゃるんでしょう」 碌な事があろうとは健三にも思えなかった。
「しかし義理が悪いからね」「だって御金を遣って縁を切った以上、義理の悪い訳はないじゃありませんか」 手切の金は昔し養育料の名前の下に、健三の父の手から島田に渡されたのである。
それはたしか健三が廿二の春であった。
「その上その御金をやる十四、五年も前から貴夫は、もう貴夫の宅へ引き取られていらしったんでしょう」 いくつの年からいくつの年まで、彼が全然島田の手で養育されたのか、健三にも判然分らなかった。
「三つから七つまでですって。御兄さんがそう御仰いましたよ」「そうかしら」 健三は夢のように消えた自分の昔を回顧した。
彼の頭の中には眼鏡で見るような細かい絵が沢山出た。
けれどもその絵にはどれを見ても日付がついていなかった。
「証文にちゃんとそう書いてあるそうですから大丈夫間違はないでしょう」 彼は自分の離籍に関した書類というものを見た事がなかった。
「見ない訳はないわ。きっと忘れていらっしゃるんですよ」「しかし八ッで宅へ帰ったにしたところで復籍するまでは多少往来もしていたんだから仕方がないさ。全く縁が切れたという訳でもないんだからね」 細君は口を噤んだ。
それが何故だか健三には淋しかった。
「己も実は面白くないんだよ」「じゃ御止しになれば好いのに。つまらないわ、貴夫、今になってあんな人と交際うのは。一体どういう気なんでしょう、先方は」「それが己には些とも解らない。向でもさぞ詰らないだろうと思うんだがね」「御兄さんは何でもまた金にしようと思って遣って来たに違いないから、用心しなくっちゃいけないっていっていらっしゃいましたよ」「しかし金は始めから断っちまったんだから、構わないさ」「だってこれから先何をいい出さないとも限らないわ」 細君の胸には最初からこうした予感が働らいていた。
其所を既に防ぎ止めたとばかり信じていた理に強い健三の頭に、微かな不安がまた新らしく萌した。
二十
その不安は多少彼の仕事の上に即いて廻った。
けれども彼の仕事はまたその不安の影をどこかへ埋めてしまうほど忙がしかった。
そうして島田が再び健三の玄関へ現れる前に、月は早くも末になった。
細君は鉛筆で汚ならしく書き込んだ会計簿を持って彼の前に出た。
自分の外で働いて取る金額の全部を挙げて細君の手に委ねるのを例にしていた健三には、それが意外であった。
彼はいまだかつて月末に細君の手から支出の明細書を突き付けられた例がなかった。
「まあどうにかしているんだろう」 彼は常にこう考えた。
それで自分に金の要る時は遠慮なく細君に請求した。
月々買う書物の代価だけでも随分の多額に上る事があった。
それでも細君は澄ましていた。
経済に暗い彼は時として細君の放漫をさえ疑った。
「月々の勘定はちゃんとして己に見せなければいけないぜ」 細君は厭な顔をした。
彼女自身からいえば自分ほど忠実な経済家はどこにもいない気なのである。
「ええ」 彼女の返事はこれぎりであった。
そうして月末が来ても会計簿はついに健三の手に渡らなかった。
健三も機嫌の好い時はそれを黙認した。
けれども悪い時は意地になってわざと見せろと逼る事があった。
そのくせ見せられるとごちゃごちゃしてなかなか解らなかった。
たとい帳面づらは細君の説明を聴いて解るにしても、実際月に肴をどれだけ食たものか、または米がどれほど要ったものか、またそれが高過ぎるのか、安過ぎるのか、更に見当が付かなかった。
この場合にも彼は細君の手から帳簿を受取って、ざっと眼を通しただけであった。
「何か変った事でもあるのかい」「どうかして頂かないと……」 細君は目下の暮し向について詳しい説明を夫にして聞かせた。
「不思議だね。それで能く今日まで遣って来られたものだね」「実は毎月余らないんです」 余ろうとは健三にも思えなかった。
先月末に旧い友達が四、五人でどこかへ遠足に行くとかいうので、彼にも勧誘の端書をよこした時、彼は二円の会費がないだけの理由で、同行を断った覚もあった。
「しかしかつかつ位には行きそうなものだがな」「行っても行かなくっても、これだけの収入で遣って行くより仕方がないんですけれども」 細君はいい悪そうに、箪笥の抽匣にしまって置いた自分の着物と帯を質に入れた顛末を話した。
彼は昔自分の姉や兄が彼らの晴着を風呂敷へ包んで、こっそり外へ持って出たりまた持って入ったりしたのをよく目撃した。
他に知れないように気を配りがちな彼らの態度は、あたかも罪を犯した日影者のように見えて、彼の子供心に淋しい印象を刻み付けた。
こうした聯想が今の彼を特更に佗びしく思わせた。
「質を置いたって、御前が自分で置きに行ったのかい」 彼自身いまだ質屋の暖簾を潜った事のない彼は、自分より貧苦の経験に乏しい彼女が、平気でそんな所へ出入するはずがないと考えた。
「いいえ頼んだんです」「誰に」「山野のうちの御婆さんにです。あすこには通いつけの質屋の帳面があって便利ですから」 健三はその先を訊かなかった。
夫が碌な着物一枚さえ拵えてやらないのに、細君が自分の宅から持ってきたものを質に入れて、家計の足にしなければならないというのは、夫の恥に相違なかった。
二十一
健三はもう少し働らこうと決心した。
その決心から来る努力が、月々幾枚かの紙幣に変形して、細君の手に渡るようになったのは、それから間もない事であった。
彼は自分の新たに受取ったものを洋服の内隠袋から出して封筒のまま畳の上へ放り出した。
黙ってそれを取り上げた細君は裏を見て、すぐその紙幣の出所を知った。
家計の不足はかくの如くにして無言のうちに補なわれたのである。
その時細君は別に嬉しい顔もしなかった。
しかしもし夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっと嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った。
健三はまたもし細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた。
それで物質的の要求に応ずべく工面されたこの金は、二人の間に存在する精神上の要求を充たす方便としてはむしろ失敗に帰してしまった。
細君はその折の物足らなさを回復するために、二、三日経ってから、健三に一反の反物を見せた。
「あなたの着物を拵えようと思うんですが、これはどうでしょう」 細君の顔は晴々しく輝やいていた。
しかし健三の眼にはそれが下手な技巧を交えているように映った。
彼はその不純を疑がった。
そうしてわざと彼女の愛嬌に誘われまいとした。
細君は寒そうに座を立った。
細君の座を立った後で、彼は何故自分の細君を寒がらせなければならない心理状態に自分が制せられたのかと考えて益不愉快になった。
細君と口を利く次の機会が来た時、彼はこういった。
「己は決して御前の考えているような冷刻な人間じゃない。ただ自分の有っている温かい情愛を堰き止めて、外へ出られないように仕向けるから、仕方なしにそうするのだ」「誰もそんな意地の悪い事をする人はいないじゃありませんか」「御前はしょっちゅうしているじゃないか」 細君は恨めしそうに健三を見た。
健三の論理はまるで細君に通じなかった。
「貴夫の神経は近頃よっぽど変ね。どうしてもっと穏当に私を観察して下さらないのでしょう」 健三の心には細君の言葉に耳を傾ける余裕がなかった。
彼は自分に不自然な冷かさに対して腹立たしいほどの苦痛を感じていた。
「あなたは誰も何にもしないのに、自分一人で苦しんでいらっしゃるんだから仕方がない」 二人は互に徹底するまで話し合う事のついに出来ない男女のような気がした。
従って二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかった。
健三の新たに求めた余分の仕事は、彼の学問なり教育なりに取って、さして困難のものではなかった。
ただ彼はそれに費やす時間と努力とを厭った。
無意味に暇を潰すという事が目下の彼には何よりも恐ろしく見えた。
彼は生きているうちに、何かし終せる、またし終せなければならないと考える男であった。
彼がその余分の仕事を片付けて家に帰るときは何時でも夕暮になった。
或日彼は疲れた足を急がせて、自分の家の玄関の格子を手荒く開けた。
すると奥から出て来た細君が彼の顔を見るなり、「あなたあの人がまた来ましたよ」といった。
細君は島田の事を始終あの人あの人と呼んでいたので、健三も彼女の様子と言葉から、留守のうちに誰が来たのかほぼ見当が付いた。
彼は無言のまま茶の間へ上って、細君に扶けられながら洋服を和服に改めた。
二十二
彼が火鉢の傍に坐って、烟草を一本吹かしていると、間もなく夕飯の膳が彼の前に運ばれた。
彼はすぐ細君に質問を掛けた。
「上ったのかい」 細君には何が上ったのか解らない位この質問は突然であった。
ちょっと驚ろいて健三の顔を見た彼女は、返事を待ち受けている夫の様子から始めてその意味を悟った。
「あの人ですか。――でも御留守でしたから」 細君は座敷へ島田を上げなかったのが、あたかも夫の気に障る事でもしたような調子で、言訳がましい答をした。
「上げなかったのかい」「ええ。ただ玄関でちょっと」「何とかいっていたかい」「とうに伺うはずだったけれども、少し旅行していたものだから御不沙汰をして済みませんって」 済みませんという言葉が一種の嘲弄のように健三の耳に響いた。
「旅行なんぞするのかな、田舎に用のある身体とも思えないが。御前にその行った先を話したかい」「そりゃ何ともいいませんでした。ただ娘の所で来てくれって頼まれたから行って来たっていいました。大方あの御縫さんて人の宅なんでしょう」 御縫さんの嫁いた柴野という男には健三もその昔会った覚があった。
柴野の今の任地先もこの間吉田から聞いて知っていた。
それは師団か旅団のある中国辺の或都会であった。
「軍人なんですか、その御縫さんて人の御嫁に行った所は」 健三が急に話を途切らしたので、細君はしばらく間を置いたあとでこんな問を掛けた。
「能く知ってるね」「何時か御兄さんから伺いましたよ」 健三は心のうちで昔見た柴野と御縫さんの姿を並べて考えた。
柴野は肩の張った色の黒い人であったが、眼鼻立からいうとむしろ立派な部類に属すべき男に違なかった。
御縫さんはまたすらりとした恰好の好い女で、顔は面長の色白という出来であった。
ことに美くしいのは睫毛の多い切長のその眼のように思われた。
彼らの結婚したのは柴野がまだ少尉か中尉の頃であった。
健三は一度その新宅の門を潜った記憶を有っていた。
その時柴野は隊から帰って来た身体を大きくして、長火鉢の猫板の上にある洋盃から冷酒をぐいぐい飲んだ。
御縫さんは白い肌をあらわに、鏡台の前で鬢を撫でつけていた。
彼はまた自分の分として取り配けられた握り鮨をしきりに皿の中から撮んで食べた。
……「御縫さんて人はよっぽど容色が好いんですか」「何故」「だって貴夫の御嫁にするって話があったんだそうじゃありませんか」 なるほどそんな話もない事はなかった。
健三がまだ十五、六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人ちょっと島田の家へ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝に掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、ちょっと微笑しながら出合頭の健三に会釈した。
それを目撃した彼の友達は独乙語を習い始めの子供であったので、「フラウ門に倚って待つ」といって彼をひやかした。
しかし御縫さんは年歯からいうと彼より一つ上であった。
その上その頃の健三は、女に対する美醜の鑑別もなければ好悪も有たなかった。
それから羞恥に似たような一種妙な情緒があって、女に近寄りたがる彼を、自然の力で、護謨球のように、かえって女から弾き飛ばした。
彼と御縫さんとの結婚は、他に面倒のあるなしを差措いて、到底物にならないものとして放棄されてしまった。
二十三
「貴夫どうしてその御縫さんて人を御貰いにならなかったの」 健三は膳の上から急に眼を上げた。
追憶の夢を愕ろかされた人のように。
「まるで問題にゃならない。そんな料簡は島田にあっただけなんだから。それに己はまだ子供だったしね」「あの人の本当の子じゃないんでしょう」「無論さ。御縫さんは御藤さんの連れっ子だもの」 御藤さんというのは島田の後妻の名であった。
「だけど、もしその御縫さんて人と一所になっていらしったら、どうでしょう。今頃は」「どうなってるか判らないじゃないか、なって見なければ」「でも殊によると、幸福かも知れませんわね。その方が」「そうかも知れない」 健三は少し忌々しくなった。
細君はそれぎり口を噤んだ。
「何故そんな事を訊くのだい。詰らない」 細君は窘なめられるような気がした。
彼女にはそれを乗り越すだけの勇気がなかった。
「どうせ私は始めっから御気に入らないんだから……」 健三は箸を放り出して、手を頭の中に突込んだ。
そうして其所に溜っている雲脂をごしごし落し始めた。
二人はそれなり別々の室で別々の仕事をした。
健三は御機嫌ようと挨拶に来た子供の去った後で、例の如く書物を読んだ。
細君はその子供を寐かした後で、昼の残りの縫物を始めた。
御縫さんの話がまた二人の間の問題になったのは、中一日置いた後の事で、それも偶然の切ッ懸けからであった。
その時細君は一枚の端書を持って、健三の部屋へ這入って来た。
それを夫の手に渡した彼女は、何時ものようにそのまま立ち去ろうともせずに、彼の傍に腰を卸した。
健三が受取った端書を手に持ったなり何時までも読みそうにしないので、我慢しきれなくなった細君はついに夫を促した。
「あなたその端書は比田さんから来たんですよ」 健三は漸やく書物から眼を放した。
「あの人の事で何か用事が出来たんですって」 なるほど端書には島田の事で会いたいからちょっと来てくれと書いた上に、日と時刻が明記してあった。
わざわざ彼を呼び寄せる失礼も鄭寧に詫びてあった。
「どうしたんでしょう」「まるで判明らないね。相談でもなかろうし。こっちから相談を持ち懸けた事なんかまるでないんだから」「みんなで交際っちゃいけないって忠告でもなさるんじゃなくって。御兄さんもいらっしゃると書いてあるでしょう、其所に」 端書には細君のいった通りの事がちゃんと書いてあった。
兄の名前を見た時、健三の頭にふとまた御縫さんの影が差した。
島田が彼とこの女を一所にして、後まで両家の関係をつなごうとした如く、この女の生母はまた彼の兄と自分の娘とを夫婦にしたいような希望を有っていたらしかったのである。
「健ちゃんの宅とこんな間柄にならないとね。あたしも始終健ちゃんの家へ行かれるんだけれども」 御藤さんが健三にこんな事をいったのも、顧りみれば古い昔であった。
「だって御縫さんが今嫁いてる先は元からの許嫁なんでしょう」「許嫁でも場合によったら断る気だったんだろうよ」「一体御縫さんはどっちへ行きたかったんでしょう」「そんな事が判明るもんか」「じゃ御兄さんの方はどうなの」「それも判明らんさ」 健三の子供の時分の記憶の中には、細君の問に応ぜられるような人情がかった材料が一つもなかった。
二十四
健三はやがて返事の端書を書いて承知の旨を答えた。
そうして指定の日が来た時、約束通りまた津の守坂へ出掛けた。
彼は時間に対して頗ぶる正確な男であった。
一面において愚直に近い彼の性格は、一面においてかえって彼を神経的にした。
彼は途中で二度ほど時計を出して見た。
実際今の彼は起きると寐るまで、始終時間に追い懸けられているようなものであった。
彼は途々自分の仕事について考えた。
その仕事は決して自分の思い通りに進行していなかった。
一歩目的へ近付くと、目的はまた一歩彼から遠ざかって行った。
彼はまた彼の細君の事を考えた。
その当時強烈であった彼女の歇私的里は、自然と軽くなった今でも、彼の胸になお暗い不安の影を投げてやまなかった。
彼はまたその細君の里の事を考えた。
経済上の圧迫が家庭を襲おうとしているらしい気配が、船に乗った時の鈍い動揺を彼の精神に与える種となった。
彼はまた自分の姉と兄と、それから島田の事も一所に纏めて考えなければならなかった。
凡てが頽廃の影であり凋落の色であるうちに、血と肉と歴史とで結び付けられた自分をも併せて考えなければならなかった。
姉の家へ来た時、彼の心は沈んでいた。
それと反対に彼の気は興奮していた。
「いやどうもわざわざ御呼び立て申して」と比田が挨拶した。
これは昔の健三に対する彼の態度ではなかった。
しかし変って行く世相のうちに、彼がひとり姉の夫たるこの人にだけ優者になり得たという誇りは、健三にとって満足であるよりも、むしろ苦痛であった。
「ちょっと上がろうにも、どうにもこうにも忙がしくって遣り切れないもんですから。現に昨夜なども宿直でしてね。今夜も実は頼まれたんですけれども、貴方と御約束があるから、断わってやっとの事で今帰って来たところで」 比田のいうところを黙って聴いていると、彼が変な女をその勤先の近所に囲っているという噂はまるで嘘のようであった。
古風な言葉で形容すれば、ただ算筆に達者だという事の外に、大した学問も才幹もない彼が、今時の会社で、そう重宝がられるはずがないのに。
――健三の心にはこんな疑問さえ湧いた。
「姉さんは」「それに御夏がまた例の喘息でね」 姉は比田のいう通り針箱の上に載せた括り枕に倚りかかって、ぜいぜいいっていた。
茶の間を覗きに立った健三の眼に、その乱れた髪の毛がむごたらしく映った。
「どうです」 彼女は頭を真直に上る事さえ叶わないで、小さな顔を横にしたまま健三を見た。
挨拶をしようと思う努力が、すぐ咽喉に障ったと見えて、今まで多少落ち付いていた咳嗽の発作が一度に来た。
その咳嗽は一つがまだ済まないうちに、後から後から仕切りなしに出て来るので、傍で見ていても気が退けた。
「苦しそうだな」 彼は独り言のようにこう囁やいて、眉を顰めた。
見馴れない四十恰好の女が、姉の後から脊中を撫っている傍に、一本の杉箸を添えた水飴の入物が盆の上に載せてあった。
女は健三に会釈した。
「どうも一昨日からね、あなた」 姉はこうして三日も四日も不眠絶食の姿で衰ろえて行ったあと、また活作用の弾力で、じりじり元へ戻るのを、年来の習慣としていた。
それを知らない健三ではなかったが、目前この猛烈な咳嗽と消え入るような呼息遣とを見ていると、病気に罹った当人よりも自分の方がかえって不安で堪らなくなった。
「口を利こうとすると咳嗽を誘い出すのでしょう。静かにしていらっしゃい。私はあっちへ行くから」 発作の一仕切収まった時、健三はこういって、またもとの座敷へ帰った。
二十五
比田は平気な顔をして本を読んでいた。
「いえなにまた例の持病ですから」といって、健三の慰問にはまるで取り合わなかった。
同じ事を年に何度となく繰り返して行くうちに、自然と末枯れて来る気の毒な女房の姿は、この男にとって毫も感傷の種にならないように見えた。
実際彼は三十年近くも同棲して来た彼の妻に、ただの一つ優しい言葉を掛けた例のない男であった。
健三の這入って来るのを見た彼は、すぐ読み懸けの本を伏せて、鉄縁の眼鏡を外した。
「今ちょっと貴方が茶の間へ行っていらしった間に、下らないものを読み出したんです」 比田と読書――これはまた極めて似つかわしくない取合わせであった。
「何ですか、それは」「なに健ちゃんなんぞの読むもんじゃありません、古いもんで」 比田は笑いながら、机の上に伏せた本を取って健三に渡した。
それが意外にも『常山紀談』だったので健三は少し驚ろいた。
それにしても自分の細君が今にも絶息しそうな勢で咳き込んでいるのを、まるで余所事のように聴いて、こんなものを平気で読んでいられるところが、如何にも能くこの男の性質をあらわしていた。
「私ゃ旧弊だからこういう古い講談物が好きでしてね」 彼は『常山紀談』を普通の講談物と思っているらしかった。
しかしそれを書いた湯浅常山を講釈師と間違えるほどでもなかった。
「やッぱり学者なんでしょうね、その男は。曲亭馬琴とどっちでしょう。私ゃ馬琴の『八犬伝』も持っているんだが」 なるほど彼は桐の本箱の中に、日本紙へ活版で刷った予約の『八犬伝』を綺麗に重ね込んでいた。
「健ちゃんは『江戸名所図絵』を御持ちですか」「いいえ」「ありゃ面白い本ですね。私ゃ大好きだ。なんなら貸して上げましょうか。なにしろ江戸といった昔の日本橋や桜田がすっかり分るんだからね」 彼は床の間の上にある別の本箱の中から、美濃紙版の浅黄の表紙をした古い本を一、二冊取り出した。
そうしてあたかも健三を『江戸名所図絵』の名さえ聞いた事のない男のように取扱った。
その健三には子供の時分その本を蔵から引き摺り出して来て、頁から頁へと丹念に挿絵を拾って見て行くのが、何よりの楽みであった時代の、懐かしい記憶があった。
中にも駿河町という所に描いてある越後屋の暖簾と富士山とが、彼の記憶を今代表する焼点となった。
「この分ではとてもその頃の悠長な心持で、自分の研究と直接関係のない本などを読んでいる暇は、薬にしたくっても出て来まい」 健三は心のうちでこう考えた。
ただ焦燥に焦燥ってばかりいる今の自分が、恨めしくもありまた気の毒でもあった。
兄が約束の時間までに顔を出さないので、比田はその間を繋ぐためか、しきりに書物の話をつづけようとした。
書物の事なら何時まで話していても、健三にとって迷惑にならないという自信でも持っているように見えた。
不幸にして彼の知識は、『常山紀談』を普通の講談ものとして考える程度であった。
それでも彼は昔し出た『風俗画報』を一冊残らず綴じて持っていた。
本の話が尽きた時、彼は仕方なしに問題を変えた。
「もう来そうなもんですね、長さんも。あれほどいってあるんだから忘れるはずはないんだが。それに今日は明けの日だから、遅くとも十一時頃までには帰らなきゃならないんだから。何ならちょっと迎に遣りましょうか」 この時また変化が来たと見えて、火の着くように咳き入る姉の声が茶の間の方で聞こえた。
二十六
やがて門口の格子を開けて、沓脱へ下駄を脱ぐ音がした。
「やっと来たようですぜ」と比田がいった。
しかし玄関を通り抜けたその足音はすぐ茶の間へ這入った。
「また悪いの。驚ろいた。ちっとも知らなかった。何時から」 短かい言葉が感投詞のようにまた質問のように、座敷に坐っている二人の耳に響いた。
その声は比田の推察通りやっぱり健三の兄であった。
「長さん、先刻から待ってるんだ」 性急な比田はすぐ座敷から声を掛けた。
女房の喘息などはどうなっても構わないといった風のその調子が、如何にもこの男の特性をよく現わしていた。
「本当に手前勝手な人だ」とみんなからいわれるだけあって、彼はこの場合にも、自分の都合より外に何にも考えていないように見えた。
「今行きますよ」 長太郎も少し癪だと見えて、なかなか茶の間から出て来なかった。
「重湯でも少し飲んだら好いでしょう。厭? でもそう何にも食べなくっちゃ身体が疲れるだけだから」 姉が息苦しくって、受答えが出来かねるので、脊中を撫っていた女が一口ごとに適宜な挨拶をした。
平生健三よりは親しくその宅へ出入する兄は、見馴れないこの女とも近付と見えた。
そのせいか彼らの応対は容易に尽きなかった。
比田はぷりっと膨れていた。
朝起きて顔を洗う時のように、両手で黒い顔をごしごし擦った。
しまいに健三の方を向いて、小さな声でこんな事をいった。
「健ちゃんあれだから困るんですよ。口ばかり多くってね。こっちも手がないから仕方なしに頼むんだが」 比田の非難は明らかに健三の見知らない女の上に投げ掛けられた。
「何ですあの人は」「そら梳手の御勢ですよ。昔し健ちゃんの遊びに来る時分、よくいたじゃありませんか、宅に」「へええ」 健三には比田の家でそんな女に会った覚が全くなかった。
「知りませんね」「なに知らない事があるもんですか、御勢だもの。あいつはね、御承知の通りまことに親切で実意のある好い女なんだが、あれだから困るんです。喋舌るのが病なんだから」 よく事情を知らない健三には、比田のいう事が、ただ自分だけに都合のいい誇張のように聞こえるばかりで、大した感銘も与えなかった。
姉はまた咳き出した。
その発作が一段落片付くまでは、さすがの比田も黙っていた。
長太郎も茶の間を出て来なかった。
「何だか先刻より劇しいようですね」 少し不安になった健三は、そういいながら席を立とうとした。
比田は一も二もなく留めた。
「なあに大丈夫、大丈夫。あれが持病なんですから大丈夫。知らない人が見るとちょっと吃驚しますがね。私なんざあもう年来馴れっ子になってるから平気なもんですよ。実際またあれを一々苦にしているようじゃ、とても今日まで一所に住んでる事は出来ませんからね」 健三は何とも答える訳に行かなかった。
ただ腹の中で、自分の細君が歇私的里の発作に冒された時の苦しい心持を、自然の対照として描き出した。
姉の咳嗽が一収り収った時、長太郎は始めて座敷へ顔を出した。
「どうも済みません。もっと早く来るはずだったが、生憎珍らしく客があったもんだから」「来たか長さん待ってたほい。冗談じゃないよ。使でも出そうかと思ってたところです」 比田は健三の兄に向ってこの位な気安い口調で話の出来る地位にあった。
二十七
三人はすぐ用談に取り掛った。
比田が最初に口を開いた。
彼はちょっとした相談事にも仔細ぶる男であった。
そうして仔細ぶればぶるほど、自分の存在が周囲から強く認められると考えているらしかった。
「比田さん比田さんって、立てて置きさえすりゃ好いんだ」と皆なが蔭で笑っていた。
「時に長さんどうしたもんだろう」「そう」「どうもこりゃ天から筋が違うんだから、健ちゃんに話をするまでもなかろうと思うんだがね、私ゃ」「そうさ。今更そんな事を持ち出して来たって、こっちで取り合う必要もないだろうじゃないか」「だから私も突っ跳ねたのさ。今時分そんな事を持ち出すのは、まるで自分の殺した子供を、もう一返生かしてくれって、御寺様へ頼みに行くようなものだから御止しなさいって。だけど大将いくら何といっても、坐り込んで動かないんだからね、仕方がない。しかしあの男がああやって今頃私の宅へのんこのしゃあで遣って来るのも、実はというと、やっぱり昔し○の関係があったからの事さ。だってそりゃ昔しも昔し、ずっと昔しの話でさあ。その上ただで借りやしまいしね、……」「またただで貸す風でもなしね」「そうさ。口じゃ親類付合だとか何とかいってるくせに、金にかけちゃあかの他人より阿漕なんだから」「来た時にそういって遣れば好いのに」 比田と兄との談話はなかなか元へ戻って来なかった。
ことに比田は其所に健三のいるのさえ忘れてしまったように見えた。
健三は好加減に何とか口を出さなければならなくなった。
「一体どうしたんです。島田がこちらへでも突然伺ったんですか」「いやわざわざ御呼び立て申して置いて、つい自分の勝手ばかり喋舌って済みません。――じゃ長さん私から健ちゃんに一応その顛末を御話しする事にしようか」「ええどうぞ」 話しは意外にも単純であった。
――ある日島田が突然比田の所へ来た。
自分も年を取って頼りにするものがいないので心細いという理由の下に、昔し通り島田姓に復帰してもらいたいからどうぞ健三にそう取り次いでくれと頼んだ。
比田もその要求の突飛なのに驚ろいて最初は拒絶した。
しかし何といっても動かないので、ともかくも彼の希望だけは健三に通じようと受合った。
――ただこれだけなのである。
「少し変ですねえ」 健三にはどう考えても変としか思われなかった。
「変だよ」 兄も同じ意見を言葉にあらわした。
「どうせ変にゃ違ない、何しろ六十以上になって、少しやきが廻ってるからね」「慾でやきが廻りゃしないか」 比田も兄も可笑しそうに笑ったが、健三は独りその仲間へ入る事が出来なかった。
彼は何時までも変だと思う気分に制せられていた。
彼の頭から判断すると、そんな事は到底ありようはずがなかった。
彼は最初に吉田が来た時の談話を思い出した。
次に吉田と島田が一所に来た時の光景を思い出した。
最後に彼の留守に旅先から帰ったといって、島田が一人で訪ねて来た時の言葉を思い出した。
しかしどこをどう思い出しても、其所からこんな結果が生れて来ようとは考えられなかった。
「どうしても変ですね」 彼は自分のために同じ言葉をもう一度繰り返して見た。
それから漸と気を換えてこういった。
「しかしそりゃ問題にゃならないでしょう。ただ断りさえすりゃ好いんだから」
二十八
健三の眼から見ると、島田の要求は不思議な位理に合わなかった。
従ってそれを片付けるのも容易であった。
ただ簡単に断りさえすれば済んだ。
「しかし一旦は貴方の御耳まで入れて置かないと、私の落度になりますからね」と比田は自分を弁護するようにいった。
彼はどこまでもこの会合を真面目なものにしなければ気が済まないらしかった。
それで言う事も時によって変化した。
「それに相手が相手ですからね。まかり間違えば何をするか分らないんだから、用心しなくっちゃいけませんよ」「焼が廻ってるなら構わないじゃないか」と兄が冗談半分に彼の矛盾を指摘すると、比田はなお真面目になった。
「焼が廻ってるから怖いんです。なに先が当り前の人間なら、私だってその場ですぐ断っちまいまさあ」 こんな曲折は会談中に時々起ったが、要するに話は最初に戻って、つまり比田が代表者として島田の要求を断るという事になった。
それは三人が三人ながら始めから予期していた結局なので、其所へ行き着くまでの筋道は、健三から見ると、むしろ時間の空費に過ぎなかった。
しかし彼はそれに対して比田に礼を述べる義理があった。
「いえ何御礼なんぞ御仰られると恐縮します」といった比田の方はかえって得意であった。
誰が見ても宅へも帰らずに忙がしがっている人の様子とは受取れないほど、調子づいて来た。
彼は其所にある塩煎餅を取ってやたらにぼりぼり噛んだ。
そうしてその相間々々には大きな湯呑へ茶を何杯も注ぎ易えて飲んだ。
「相変らず能く食べますね。今でも鰻飯を二つ位遣るんでしょう」「いや人間も五十になるともう駄目ですね。もとは健ちゃんの見ている前で天ぷら蕎麦を五杯位ぺろりと片付けたもんでしたがね」 比田はその頃から食気の強い男であった。
そうして余計食うのを自慢にしていた。
それから腹の太いのを賞められたがって、時機さえあれば始終叩いて見せた。
健三は昔しこの人に連れられて寄席などに行った帰りに、能く二人して屋台店の暖簾を潜って、鮨や天麩羅の立食をした当時を思い出した。
彼は健三にその寄席で聴いたしかおどりとかいう三味線の手を教えたり、またはさばを読むという隠語などを習い覚えさせたりした。
「どうもやっぱり立食に限るようですね。私もこの年になるまで、段々方々食って歩いて見たが。健ちゃん、一遍軽井沢で蕎麦を食って御覧なさい、騙されたと思って。汽車の停ってるうちに、降りて食うんです、プラットフォームの上へ立ってね。さすが本場だけあって旨うがすぜ」 彼は信心を名として能く方々遊び廻る男であった。
「それよか、善光寺の境内に元祖藤八拳指南所という看板が懸っていたには驚ろいたね、長さん」「這入って一つ遣って来やしないか」「だって束修が要るんだからね、君」 こんな談話を聞いていると、健三も何時か昔の我に帰ったような心持になった。
同時に今の自分が、どんな意味で彼らから離れてどこに立っているかも明らかに意識しなければならなくなった。
しかし比田は一向そこに気が付かなかった。
「健ちゃんはたしか京都へ行った事がありますね。彼所に、ちんちらでんき皿持てこ汁飲ましょって鳴く鳥がいるのを御存じですか」などと訊いた。
先刻から落付いていた姉が、また劇しく咳き出した時、彼は漸く口を閉じた。
そうしてさもくさくさしたといわぬばかりに、左右の手の平を揃えて、黒い顔をごしごし擦った。
兄と健三はちょっと茶の間の様子を覗きに立った。
二人とも発作の静まるまで姉の枕元に坐っていた後で、別々に比田の家を出た。
二十九
健三は自分の背後にこんな世界の控えている事を遂に忘れることが出来なくなった。
この世界は平生の彼にとって遠い過去のものであった。
しかしいざという場合には、突然現在に変化しなければならない性質を帯びていた。
彼の頭には願仁坊主に似た比田の毬栗頭が浮いたり沈んだりした。
猫のように顋の詰った姉の息苦しく喘いでいる姿が薄暗く見えた。
血の気の竭きかけた兄に特有なひすばった長い顔も出たり引込んだりした。
昔しこの世界に人となった彼は、その後自然の力でこの世界から独り脱け出してしまった。
そうして脱け出したまま永く東京の地を踏まなかった。
彼は今再びその中へ後戻りをして、久しぶりに過去の臭を嗅いだ。
それは彼に取って、三分の一の懐かしさと、三分の二の厭らしさとを齎す混合物であった。
彼はまたその世界とはまるで関係のない方角を眺めた。
すると其所には時々彼の前を横切る若い血と輝いた眼を有った青年がいた。
彼はその人々の笑いに耳を傾むけた。
未来の希望を打ち出す鐘のように朗かなその響が、健三の暗い心を躍らした。
或日彼はその青年の一人に誘われて、池の端を散歩した帰りに、広小路から切通しへ抜ける道を曲った。
彼らが新らしく建てられた見番の前へ来た時、健三はふと思い出したように青年の顔を見た。
彼の頭の中には自分とまるで縁故のない或女の事が閃いた。
その女は昔し芸者をしていた頃人を殺した罪で、二十年余も牢屋の中で暗い月日を送った後、漸と世の中へ顔を出す事が出来るようになったのである。
「さぞ辛いだろう」 容色を生命とする女の身になったら、殆んど堪えられない淋しみが其所にあるに違ないと健三は考えた。
しかしいくらでも春が永く自分の前に続いているとしか思わない伴の青年には、彼の言葉が何ほどの効果にもならなかった。
この青年はまだ二十三、四であった。
彼は始めて自分と青年との距離を悟って驚ろいた。
「そういう自分もやっぱりこの芸者と同じ事なのだ」 彼は腹の中で自分と自分にこういい渡した。
若い時から白髪の生えたがる性質の彼の頭には、気のせいか近頃めっきり白い筋が増して来た。
自分はまだまだと思っているうちに、十年は何時の間にか過ぎた。
「しかし他事じゃないね君。その実僕も青春時代を全く牢獄の裡で暮したのだから」 青年は驚ろいた顔をした。
「牢獄とは何です」「学校さ、それから図書館さ。考えると両方ともまあ牢獄のようなものだね」 青年は答えなかった。
「しかし僕がもし長い間の牢獄生活をつづけなければ、今日の僕は決して世の中に存在していないんだから仕方がない」 健三の調子は半ば弁解的であった。
半ば自嘲的であった。
過去の牢獄生活の上に現在の自分を築き上げた彼は、その現在の自分の上に、是非とも未来の自分を築き上げなければならなかった。
それが彼の方針であった。
そうして彼から見ると正しい方針に違なかった。
けれどもその方針によって前へ進んで行くのが、この時の彼には徒らに老ゆるという結果より外に何物をも持ち来さないように見えた。
「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね」「そんな事はありません」 彼の意味はついに青年に通じなかった。
彼は今の自分が、結婚当時の自分と、どんなに変って、細君の眼に映るだろうかを考えながら歩いた。
その細君はまた子供を生むたびに老けて行った。
髪の毛なども気の引けるほど抜ける事があった。
そうして今は既に三番目の子を胎内に宿していた。
三十
家へ帰ると細君は奥の六畳に手枕をしたなり寐ていた。
健三はその傍に散らばっている赤い片端だの物指だの針箱だのを見て、またかという顔をした。
細君はよく寐る女であった。
朝もことによると健三より遅く起きた。
健三を送り出してからまた横になる日も少なくはなかった。
こうしてあくまで眠りを貪ぼらないと、頭が痺れたようになって、その日一日何事をしても判然しないというのが、常に彼女の弁解であった。
健三はあるいはそうかも知れないと思ったり、またはそんな事があるものかと考えたりした。
ことに小言をいったあとで、寐られるときは、後の方の感じが強く起った。
「不貞寐をするんだ」 彼は自分の小言が、歇私的里性の細君に対して、どう反応するかを、よく観察してやる代りに、単なる面当のために、こうした不自然の態度を彼女が彼に示すものと解釈して、苦々しい囁きを口の内で洩らす事がよくあった。
「何故夜早く寐ないんだ」 彼女は宵っ張であった。
健三にこういわれる度に、夜は眼が冴えて寐られないから起きているのだという答弁をきっとした。
そうして自分の起きていたい時までは必ず起きて縫物の手をやめなかった。
健三はこうした細君の態度を悪んだ。
同時に彼女の歇私的里を恐れた。
それからもしや自分の解釈が間違っていはしまいかという不安にも制せられた。
彼は其所に立ったまま、しばらく細君の寐顔を見詰めていた。
肱の上に載せられたその横顔はむしろ蒼白かった。
彼は黙って立っていた。
御住という名前さえ呼ばなかった。
彼はふと眼を転じて、あらわな白い腕の傍に放り出された一束の書物に気を付けた。
それは普通の手紙の重なり合ったものでもなければ、また新らしい印刷物を一纏に括ったものとも見えなかった。
惣体が茶色がかって既に多少の時代を帯びている上に、古風なかんじん撚で丁寧な結び目がしてあった。
その書ものの一端は、殆んど細君の頭の下に敷かれていると思われる位、彼女の黒い髪で、健三の目を遮ぎっていた。
彼はわざわざそれを引き出して見る気にもならずに、また眼を蒼白い細君の額の上に注いだ。
彼女の頬は滑り落ちるようにこけていた。
「まあ御痩せなすった事」 久しぶりに彼女を訪問した親族のある女は、近頃の彼女の顔を見て驚ろいたように、こんな評を加えた事があった。
その時健三は何故だかこの細君を痩せさせた凡ての源因が自分一人にあるような心持がした。
彼は書斎に入った。
三十分も経ったと思う頃、門口を開ける音がして、二人の子供が外から帰って来た。
坐っている健三の耳には、彼らと子守との問答が手に取るように聞こえた。
子供はやがて馳け込むように奥へ入った。
其所ではまた細君が蒼蠅いといって、彼らを叱る声がした。
それからしばらくして細君は先刻自分の枕元にあった一束の書ものを手に持ったまま、健三の前にあらわれた。
「先ほど御留守に御兄さんがいらっしゃいましてね」 健三は万年筆の手を止めて、細君の顔を見た。
「もう帰ったのかい」「ええ。今ちょっと散歩に出掛ましたから、もうじき帰りましょうって御止めしたんですけれども、時間がないからって御上りになりませんでした」「そうか」「何でも谷中に御友達とかの御葬式があるんですって。それで急いで行かないと間に合わないから、上っていられないんだと仰ゃいました。しかし帰りに暇があったら、もしかすると寄るかも知れないから、帰ったら待ってるようにいってくれって、いい置いていらっしゃいました」「何の用なのかね」「やっぱりあの人の事なんだそうです」 兄は島田の事で来たのであった。
三十一
細君は手に持った書付の束を健三の前に出した。
「これを貴夫に上げてくれと仰しゃいました」 健三は怪訝な顔をしてそれを受取った。
「何だい」「みんなあの人に関係した書類なんだそうです。健三に見せたら参考になるだろうと思って、用箪笥の抽匣の中にしまって置いたのを、今日出して持って来たって仰ゃいました」「そんな書類があったのかしら」 彼は細君から受取った一括りの書付を手に載せたまま、ぼんやり時代の付いた紙の色を眺めた。
それから何も意味なしに、裏表を引繰返して見た。
書類は厚さにしてほぼ二寸もあったが、風の通らない湿気た所に長い間放り込んであったせいか、虫に食われた一筋の痕が偶然健三の眼を懐古的にした。
彼はその不規則な筋を指の先でざらざら撫でて見た。
けれども今更鄭寧に絡げたかんじん撚の結び目を解いて、一々中を検ためる気も起らなかった。
「開けて見たって何が出て来るものか」 彼の心はこの一句でよく代表されていた。
「御父さまが後々のためにちゃんと一纏めにして取って御置になったんですって」「そうか」 健三は自分の父の分別と理解力に対して大した尊敬を払っていなかった。
「おやじの事だからきっと何でもかんでも取って置いたんだろう」「しかしそれもみんな貴夫に対する御親切からなんでしょう。あんな奴だから己のいなくなった後に、どんな事をいって来ないとも限らない、その時にはこれが役に立つって、わざわざ一纏めにして、御兄さんに御渡になったんだそうですよ」「そうかね、己は知らない」 健三の父は中気で死んだ。
その父のまだ達者でいるずっと前から、彼はもう東京にいなかった。
彼は親の死目にさえ会わなかった。
こんな書付が自分の眼に触れないで、長い間兄の手元に保管されていたのも、別段の不思議ではなかった。
彼は漸やく書類の結目を解いて一所に重なっているものを、一々ほごし始めた。
手続き書と書いたものや、取り替せ一札の事と書いたものや、明治二十一年子一月約定金請取の証と書いた半紙二つ折の帳面やらが順々にあらわれて来た。
その帳面のしまいには、右本日受取右月賦金は皆済相成候事と島田の手蹟で書いて黒い判がべたりと捺してあった。
「おやじは月々三円か四円ずつ取られたんだな」「あの人にですか」 細君はその帳面を逆さまに覗き込んでいた。
「〆ていくらになるかしら。しかしこの外にまだ一時に遣ったものがあるはずだ。おやじの事だから、きっとその受取を取って置いたに違ない。どこかにあるだろう」 書付はそれからそれへと続々出て来た。
けれども、健三の眼にはどれもこれもごちゃごちゃして容易に解らなかった。
彼はやがて四つ折にして一纏めに重ねた厚みのあるものを取り上げて中を開いた。
「小学校の卒業証書まで入れてある」 その小学校の名は時によって変っていた。
一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。
「何ですかそれは」「何だか己も忘れてしまった」「よっぽど古いものね」 証書のうちには賞状も二、三枚交っていた。
昇り竜と降り竜で丸い輪廓を取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。
「書物も貰った事があるんだがな」 彼は『勧善訓蒙』だの『輿地誌略』だのを抱いて喜びの余り飛んで宅へ帰った昔を思い出した。
御褒美をもらう前の晩夢に見た蒼い竜と白い虎の事も思い出した。
これらの遠いものが、平生と違って今の健三には甚だ近く見えた。
三十二
細君にはこの古臭い免状がなおの事珍らしかった。
夫の一旦下へ置いたのをまた取り上げて、一枚々々鄭寧に剥繰って見た。
「変ですわね。下等小学第五級だの六級だのって。そんなものがあったんでしょうか」「あったんだね」 健三はそのまま外の書付に手を着けた。
読みにくい彼の父の手蹟が大いに彼を苦しめた。
「これを御覧、とても読む勇気がないね。ただでさえ判明らないところへ持って来て、むやみに朱を入れたり棒を引いたりしてあるんだから」 健三の父と島田との懸合について必要な下書らしいものが細君の手に渡された。
細君は女だけあって、綿密にそれを読み下した。
「貴夫の御父さまはあの島田って人の世話をなすった事があるのね」「そんな話は己も聞いてはいるが」「此所に書いてありますよ。――同人幼少にて勤向相成りがたく当方へ引き取り五カ年間養育致候縁合を以てと」 細君の読み上げる文章は、まるで旧幕時代の町人が町奉行か何かへ出す訴状のように聞こえた。
その口調に動かされた健三は、自然古風な自分の父を眼の前に髣髴した。
その父から、将軍の鷹狩に行く時の模様などを、それ相当の敬語で聞かされた昔も思い合された。
しかし事実の興味が主として働らきかけている細君の方ではまるで文体などに頓着しなかった。
「その縁故で貴夫はあの人の所へ養子に遣られたのね。此所にそう書いてありますよ」 健三は因果な自分を自分で憐れんだ。
平気な細君はその続きを読み出した。
「右健三三歳のみぎり養子に差遣し置候処平吉儀妻常と不和を生じ、遂に離別と相成候につき当時八歳の健三を当方へ引き取り今日まで十四カ年間養育致し、――あとは真赤でごちゃごちゃして読めないわね」 細君は自分の眼の位置と書付の位置とを色々に配合して後を読もうと企てた。
健三は腕組をして黙って待っていた。
細君はやがてくすくす笑い出した。
「何が可笑しいんだ」「だって」 細君は何にもいわずに、書付を夫の方に向け直した。
そうして人さし指の頭で、細かく割註のように朱で書いた所を抑えた。
「ちょっと其所を読んで御覧なさい」 健三は八の字を寄せながら、