道草

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その一枚の反故を大事らしく健三の方へ向け直して見せた。

第 5 章
「御覧ごらん、虫むしが食っしょくってるよ。尤ももっともそのはずだね。出産しゅっさん届とどけばかりじゃない、もう死亡届しぼうとどけまで出でているんだから」 結核けっかくで死んしんだその子この生なま年月としつきを、兄あには口くちのうちで静かしずかに読んよんでいた。
三十七さんじゅうなな
兄あには過去かこの人ひとであった。
華美かびな前途ぜんとはもう彼かれの前まえに横わっよこたわっていなかった。
何なんかに付けつけて後あとを振り返りふりかえりがちな彼かれと対坐たいざしている健三けんぞうは、自分じぶんの進んすすんで行くいくべき生活せいかつの方向ほうこうから逆ぎゃくに引き戻さひきもどされるような気きがした。
「淋しいさびしいな」 健三けんぞうは兄あにの道伴どうともになるには余りあまりに未来みらいの希望きぼうを多くおおく持ちもち過ぎすぎた。
そのくせ現在げんざいの彼かれもかなりに淋しいさびしいものに違いなかった。
その現在げんざいから順じゅんに推しおした未来みらいの、当然とうぜん淋しさびしかるべき事ことも彼かれにはよく解っわかっていた。
兄あにはこの間まの相談そうだん通りとおり島田しまだの要求ようきゅうを断っことわった旨むねを健三けんぞうに話しはなした。
しかしどんな手続きてつづきでそれを断っことわったのか、また先方せんぽうがそれに対したいしてどんな挨拶あいさつをしたのか、そういう細かいこまかい点てんになると、全くまったく要領ようりょうを得とくた返事へんじをしなかった。
「何しろなにしろ比田ひでんからそういって来きたんだから慥たしかだろう」 その比田ひでんが島田しまだに会いあいに行っいって話はなしを付けつけたとも、または手紙てがみで会見かいけんの始末しまつを知らしらせて遣っつかったとも、健三けんぞうには判明はんめいらなかった。
「多分たぶん行っいったんだろうと思うおもうがね。それともあの人ひとの事ことだから、手紙てがみだけで済ましすましてしまったのか。其その所ところはつい聴いきいて来るくるのを忘れわすれたよ。尤ももっともあの後あと一いち返かえし姉さんあねさんの見舞みまいかたがた行っいった時じにゃ、比田ひでんが相そう変らかわらず留守るすだったので、つい会うあう事ことが出来できなかったのさ。しかしその時じ姉さんあねさんの話はなしじゃ、何なんでも忙がしいいそがしいんで、まだそのままにしてあるようだっていってたがね。あの男おとこも随分ずいぶん無責任むせきにんだから、ことによると行かいかないのかも知れしれないよ」 健三けんぞうの知っしっている比田ひでんも無責任むせきにんの男おとこに相違そういなかった。
その代りかわり頼むたのむと何なんでも引き受けるひきうける性質せいしつであった。
ただ他ほかから頭あたまを下げさげて頼またのまれるのが嬉しくうれしくって物ものを受合いうけあいたがる彼かれは、頼みたのみ方ほうが気きに入らはいらないと容易よういに動かうごかなかった。
「しかしこんだの事ことなんざあ、島田しまだがじかに比田ひでんの所ところへ持ち込んもちこんだんだからねえ」 兄あには暗にあんに比田ひでん自身じしんが先方せんぽうへ出向いでむいて話し合はなしあいを付けつけなければ義理ぎりの悪いわるいような事ことをいった。
そのくせ彼かれはこんな場合ばあいに決してけっして自分じぶんで懸合けんごう事ことなどに出掛けるでかける人ひとではなかった。
少しすこし気きを遣わつかわなければならない面倒めんどうが起るおこると必ずかならず顔かおを背けそむけた。
そうして事情じじょうの許すゆるす限りかぎり凝とじっと辛しん防ぼうして独りひとり苦しんくるしんだ。
健三けんぞうにはこの矛盾むじゅんが腹立たしくはらだたしくも可笑しくおかしくもない代りかわりに何なんとなく気の毒きのどくに見えみえた。
「自分じぶんも兄弟きょうだいだから他ほかから見みたらどこか似にているのかも知れしれない」 こう思うおもうと、兄あにを気の毒きのどくがるのは、つまり自分じぶんを気の毒きのどくがるのと同じおなじ事ことにもなった。
「姉さんあねさんはもう好いよいんですか」 問題もんだいを変えかえた彼かれは、姉あねの病気びょうきについて経過けいかを訊ねたずねた。
「ああ。どうも喘息ぜんそくってものは不思議ふしぎだねえ。あんなに苦しんくるしんでいても直じか癒るなおるんだから」「もう話はなしが出来できますか」「出来るできるどころか、なかなか能くよく喋舌っしゃべってね。例れいの調子ちょうしで。――姉さんあねさんの考かんがえじゃ、島田しまだは御ご縫ぬいさんの所ところへ行っいって、智慧ちえを付けつけられて来きたんだろうっていうんだがね」「まさか。それよりあの男おとこだからあんな非常識ひじょうしきな事ことをいって来るくるのだと解釈かいしゃくする方ほうが適当てきとうでしょう」「そう」 兄あには考えかんがえていた。
健三けんぞうは馬鹿ばからしいという顔付かおつきをした。
「でなければね。きっと年ねんを取っとって皆みななから邪魔じゃまにされるんだろうって」 健三けんぞうはまだ黙っだまっていた。
「何しろなにしろ淋しいさびしいには違いないんだね。それもあいつの事ことだから、人情にんじょうで淋しいさびしいんじゃない、慾よくで淋しいさびしいんだ」 兄あにはお縫おぬいさんの所ところから毎月まいつき彼女かのじょの母ははの方ほうへ手て宛ずつが届くとどく事ことをどうしてか知っしっていた。
「何なんでも金鵄きんし勲章くんしょうの年金ねんきんか何なんかを御藤おふじさんが貰っもらってるんだとさ。だから島田しまだもどこからか貰わもらわなくっちゃ淋しくさびしくって堪らたまらなくなったんだろうよ。何しろなにしろあの位くらい慾張っよくばってるんだから」 健三けんぞうは慾よくで淋しさびしがってる人ひとに対したいして大したたいした同情どうじょうも起しおこし得とくなかった。
三十八さんじゅうはち
事件じけんのない日ひがまた少しすこし続いつづいた。
事件じけんのない日ひは、彼かれに取っとって沈黙ちんもくの日ひに過ぎすぎなかった。
彼かれはその間まに時々ときどき己れおのれの追憶ついおくを辿るたどるべく余儀よぎなくされた。
自分じぶんの兄あにを気の毒きのどくがりつつも、彼かれは何時なんじの間まにか、その兄あにと同じくおなじく過去かこの人ひととなった。
彼かれは自分じぶんの生命せいめいを両断りょうだんしようと試みこころみた。
すると綺麗きれいに切り棄てきりすてられべきはずの過去かこが、かえって自分じぶんを追掛けおいかけて来きた。
彼かれの眼めは行手ぎょうてを望んのぞんだ。
しかし彼かれの足あしは後あとへ歩きあるきがちであった。
そうしてその行き詰りいきづまりには、大きなおおきな四角しかくな家いえが建ったっていた。
家いえには幅はばの広いひろい階子段はしごだんのついた二に階かいがあった。
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