道草

13/14

その十日を利用しようとした。彼はまた洋筆を執って原稿紙に向った。

第 13 章
健康けんこうの次第しだいに衰えおとろえつつある不快ふかいな事実じじつを認めみとめながら、それに注意ちゅういを払わはらわなかった彼かれは、猛烈もうれつに働はたらけらいた。
あたかも自分じぶんで自分じぶんの身体しんたいに反抗はんこうでもするように、あたかもわが衛生えいせいを虐待ぎゃくたいするように、また己れおのれの病気びょうきに敵討かたきうちでもしたいように。
彼かれは血ちに餓えうえた。
しかも他ほかを屠るほふる事ことが出来できないのでやむをえず自分じぶんの血ちを啜っすすって満足まんぞくした。
予定よていの枚数まいすうを書きかきおえた時じ、彼かれは筆ふでを投げなげて畳たたみの上うえに倒れたおれた。
「ああ、ああ」 彼かれは獣けものと同じおなじような声こえを揚げあげた。
書いかいたものを金きんに換えるかえる段だんになって、彼かれは大したたいした困難こんなんにも遭遇そうぐうせずに済んすんだ。
ただどんな手続きてつづきでそれを島田しまだに渡しわたして好いよいかちょっと迷っまよった。
直接ちょくせつの会見かいけんは彼かれも好まこのまなかった。
向うむこうももう参さん上りのぼりませんといい放っいいはなった最後さいごの言葉ことばに対したいして、彼かれの前まえへ出でて来るくる気きのない事ことは知れしれていた。
どうしても中なかへ入っはいって取り次ぐとりつぐ人ひとの必要ひつようがあった。
「やっぱり御ご兄さんあにさんか比田ひでんさんに御ご頼みたのみなさるより外そとに仕方しかたがないでしょう。今までいままでの行掛りいきがかりもあるんだから」「まあそうでもするのが、一番いちばん適当てきとうなところだろう。あんまり有難くありがたくはないが。公けおおやけな他人たにんを頼むたのむほどの事ことでもないから」 健三けんぞうは津守つもり坂さかへ出で掛かかりて行っいった。
「百ひゃく円えん遣るやるの」 驚ろいおどろいた姉あねは勿体もったいなさそうな眼めを丸くまるくして健三けんぞうを見みた。
「でも健けんちゃんなんぞは顔かおが顔かおだからね。そうしみったれた真似まねも出来できまいし、それにあの島田しまだって爺じいさんが、ただの爺じいさんと違っちがって、あの通りとおりの悪党あくとうだから、百ひゃく円えん位くらい仕方しかたがないだろうよ」 姉あねは健三けんぞうの腹はらにない事ことまで一人ひとり合点がてんでべらべら喋舌っしゃべった。
「だけど御ご正月しょうがつ早々はやばや御前ごぜんさんも随分ずいぶん好いよい面の皮つらのかわさね」「好いよい面の皮つらのかわ鯉こいの滝登りたきのぼりか」 先刻せんこくから傍そばに胡坐こざをかいて新聞しんぶんを見みていた比田ひでんは、この時じ始めはじめて口くちを利いきいた。
しかしその言葉ことばは姉あねに通じつうじなかった。
健三けんぞうにも解らわからなかった。
それをさも心得顔こころえかおにあははと笑うわらう姉あねの方ほうが、健三けんぞうにはかえって可笑しかっおかしかった。
「でも健けんちゃんは好いよいね。御ご金きんを取ろうとろうとすればいくらでも取れるとれるんだから」「こちとらとは少しすこし頭あたまの寸法すんぽうが違うちがうんだ。右大将みぎたいしょう頼朝よりとも公こうの髑髏どくろと来きているんだから」 比田ひでんは変梃へんてこな事ことばかりいった。
しかし頼んたのんだ事ことは一いちも二にもなく引き受けひきうけてくれた。
百二ひゃくに
比田ひでんと兄あにが揃っそろって健三けんぞうの宅たくを訪問ほうもんれたのは月つきの半ばなかば頃ころであつた。
松飾まつかざりの取り払わとりはらわれた往来おうらいにはまだどことなく新年しんねんの香こうがした。
暮くれも春はるもない健三けんぞうの座敷ざしきの中なかに坐っすわった二人ふたりは、落おち付かつかないように其その所ところいらを見廻しみまわした。
比田ひでんは懐ふところから書付かきつけを二に枚ばい出しだして健三けんぞうの前まえに置いおいた。
「まあこれで漸くようやく片かたが付きつきました」
13/14