その十日を利用しようとした。彼はまた洋筆を執って原稿紙に向った。
第 13 章
健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働らいた。
あたかも自分で自分の身体に反抗でもするように、あたかもわが衛生を虐待するように、また己れの病気に敵討でもしたいように。
彼は血に餓えた。
しかも他を屠る事が出来ないのでやむをえず自分の血を啜って満足した。
予定の枚数を書きおえた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。
「ああ、ああ」 彼は獣と同じような声を揚げた。
書いたものを金に換える段になって、彼は大した困難にも遭遇せずに済んだ。
ただどんな手続きでそれを島田に渡して好いかちょっと迷った。
直接の会見は彼も好まなかった。
向うももう参上りませんといい放った最後の言葉に対して、彼の前へ出て来る気のない事は知れていた。
どうしても中へ入って取り次ぐ人の必要があった。
「やっぱり御兄さんか比田さんに御頼みなさるより外に仕方がないでしょう。今までの行掛りもあるんだから」「まあそうでもするのが、一番適当なところだろう。あんまり有難くはないが。公けな他人を頼むほどの事でもないから」 健三は津守坂へ出掛て行った。
「百円遣るの」 驚ろいた姉は勿体なさそうな眼を丸くして健三を見た。
「でも健ちゃんなんぞは顔が顔だからね。そうしみったれた真似も出来まいし、それにあの島田って爺さんが、ただの爺さんと違って、あの通りの悪党だから、百円位仕方がないだろうよ」 姉は健三の腹にない事まで一人合点でべらべら喋舌った。
「だけど御正月早々御前さんも随分好い面の皮さね」「好い面の皮鯉の滝登りか」 先刻から傍に胡坐をかいて新聞を見ていた比田は、この時始めて口を利いた。
しかしその言葉は姉に通じなかった。
健三にも解らなかった。
それをさも心得顔にあははと笑う姉の方が、健三にはかえって可笑しかった。
「でも健ちゃんは好いね。御金を取ろうとすればいくらでも取れるんだから」「こちとらとは少し頭の寸法が違うんだ。右大将頼朝公の髑髏と来ているんだから」 比田は変梃な事ばかりいった。
しかし頼んだ事は一も二もなく引き受けてくれた。
百二
比田と兄が揃って健三の宅を訪問れたのは月の半ば頃であつた。
松飾の取り払われた往来にはまだどことなく新年の香がした。
暮も春もない健三の座敷の中に坐った二人は、落付かないように其所いらを見廻した。
比田は懐から書付を二枚出して健三の前に置いた。
「まあこれで漸く片が付きました」