その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角であった。
第 6 章
不思議な事に、その広い宅には人が誰も住んでいなかった。
それを淋しいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。
彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで真直に見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。
そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中馳け廻った。
彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。
鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。
路を隔てた真ん向うには大きな唐金の仏様があった。
その仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。
太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。
彼はこうしてよく仏様へ攀じ上った。
着物の襞へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉まったりして、後から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。
彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。
赤い門の家は狭い往来から細い小路を二十間も折れ曲って這入った突き当りにあった。
その奥は一面の高藪で蔽われていた。
この狭い往来を突き当って左へ曲ると長い下り坂があった。
健三の記憶の中に出てくるその坂は、不規則な石段で下から上まで畳み上げられていた。
古くなって石の位置が動いたためか、段の方々には凸凹があった。
石と石の罅隙からは青草が風に靡いた。
それでも其所は人の通行する路に違なかった。
彼は草履穿のままで、何度かその高い石段を上ったり下ったりした。
坂を下り尽すとまた坂があって、小高い行手に杉の木立が蒼黒く見えた。
丁度その坂と坂の間の、谷になった窪地の左側に、また一軒の萱葺があった。
家は表から引込んでいる上に、少し右側の方へ片寄っていたが、往来に面した一部分には掛茶屋のような雑な構が拵えられて、常には二、三脚の床几さえ体よく据えてあった。
葭簀の隙から覗くと、奥には石で囲んだ池が見えた。
その池の上には藤棚が釣ってあった。
水の上に差し出された両端を支える二本の棚柱は池の中に埋まっていた。
周囲には躑躅が多かった。
中には緋鯉の影があちこちと動いた。
濁った水の底を幻影のように赤くするその魚を健三は是非捕りたいと思った。
或日彼は誰も宅にいない時を見計って、不細工な布袋竹の先へ一枚糸を着けて、餌と共に池の中に投げ込んだら、すぐ糸を引く気味の悪いものに脅かされた。
彼を水の底に引っ張り込まなければやまないその強い力が二の腕まで伝った時、彼は恐ろしくなって、すぐ竿を放り出した。
そうして翌日静かに水面に浮いている一尺余りの緋鯉を見出した。
彼は独り怖がった。
……「自分はその時分誰と共に住んでいたのだろう」 彼には何らの記憶もなかった。
彼の頭はまるで白紙のようなものであった。
けれども理解力の索引に訴えて考えれば、どうしても島田夫婦と共に暮したといわなければならなかった。
三十九
それから舞台が急に変った。
淋しい田舎が突然彼の記憶から消えた。
すると表に櫺子窓の付いた小さな宅が朧気に彼の前にあらわれた。
門のないその宅は裏通りらしい町の中にあった。
町は細長かった。
そうして右にも左にも折れ曲っていた。
彼の記憶がぼんやりしているように、彼の家も始終薄暗かった。
彼は日光とその家とを連想する事が出来なかった。
彼は其所で疱瘡をした。
大きくなって聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘い出したのだとかいう話であった。
彼は暗い櫺子のうちで転げ廻った。
惣身の肉を所嫌わず掻き※って泣き叫んだ。
彼はまた偶然広い建物の中に幼い自分を見出した。
区切られているようで続いている仕切のうちには人がちらほらいた。
空いた場所の畳だか薄縁だかが、黄色く光って、あたりを伽藍堂の如く淋しく見せた。
彼は高い所にいた。
其所で弁当を食った。
そうして油揚の胴を干瓢で結えた稲荷鮨の恰好に似たものを、上から下へ落した。
彼は勾欄につらまって何度も下を覗いて見た。
しかし誰もそれを取ってくれるものはなかった。
伴の大人はみんな正面に気を取られていた。
正面ではぐらぐらと柱が揺れて大きな宅が潰れた。
するとその潰れた屋根の間から、髭を生やした軍人が威張って出て来た。
――その頃の健三はまだ芝居というものの観念を有っていなかったのである。
彼の頭にはこの芝居と外れ鷹とが何の意味なしに結び付けられていた。
突然鷹が向うに見える青い竹藪の方へ筋違に飛んで行った時、誰だか彼の傍にいるものが、「外れた外れた」と叫けんだ。
すると誰だかまた手を叩いてその鷹を呼び返そうとした。
――健三の記憶は此所でぷつりと切れていた。
芝居と鷹とどっちを先に見たのか、それさえ彼には不分明であった。
従って彼が田圃や藪ばかり見える田舎に住んでいたのと、狭苦しい町内の往来に向いた薄暗い宅に住んでいたのと、どっちが先になるのか、それも彼にはよく判明らなかった。
そうしてその時代の彼の記憶には、殆んど人というものの影が働らいていなかった。
しかし島田夫婦が彼の父母として明瞭に彼の意識に上ったのは、それから間もない後の事であった。
その時夫婦は変な宅にいた。
門口から右へ折れると、他の塀際伝いに石段を三つほど上らなければならなかった。
そこからは幅三尺ばかりの露地で、抜けると広くて賑やかな通りへ出た。
左は廊下を曲って、今度は反対に二、三段下りる順になっていた。
すると其所に長方形の広間があった。
広間に沿うた土間も長方形であった。
土間から表へ出ると、大きな河が見えた。
その上を白帆を懸けた船が何艘となく往ったり来たりした。
河岸には柵を結った中へ薪が一杯積んであった。
柵と柵の間にある空地は、だらだら下りに水際まで続いた。
石垣の隙間からは弁慶蟹がよく鋏を出した。
島田の家はこの細長い屋敷を三つに区切ったものの真中にあった。
もとは大きな町人の所有で、河岸に面した長方形の広間がその店になっていたらしく思われるけれども、その持主の何者であったか、またどうして彼が其所を立ち退いたものか、それらは凡て健三の知識の外に横わる秘密であった。
一頃その広い部屋をある西洋人が借りて英語を教えた事があった。
まだ西洋人を異人という昔の時代だったので、島田の妻の御常は、化物と同居でもしているように気味を悪がった。
尤もこの西洋人は上靴を穿いて、島田の借りている部屋の縁側までのそのそ歩いてくる癖を有っていた。
御常が癪の気味だとかいって蒼い顔をして寐ていると、其所の縁側へ立って座敷を覗き込みながら、見舞を述べたりした。
その見舞の言葉は日本語か、英語か、またはただ手真似だけか、健三にはまるで解っていなかった。
四十
西洋人は何時の間にか去ってしまった。
小さい健三がふと心付いて見ると、その広い室は既に扱所というものに変っていた。
扱所というのは今の区役所のようなものらしかった。
みんなが低い机を一列に並べて事務を執っていた。
テーブルや椅子が今日のように広く用いられない時分の事だったので、畳の上に長く坐るのが、それほどの不便でもなかったのだろう、呼び出されるものも、また自分から遣って来るものも、悉く自分の下駄を土間へ脱ぎ捨てて掛り掛りの机の前へ畏まった。
島田はこの扱所の頭であった。
従って彼の席は入口からずっと遠い一番奥の突当りに設けられた。
其所から直角に折れ曲って、河の見える櫺子窓の際までに、人の数が何人いたか、机の数が幾脚あったか、健三の記憶は慥かにそれを彼に語り得なかった。
島田の住居と扱所とは、もとより細長い一つ家を仕切ったまでの事なので、彼は出勤といわず退出といわず、少なからぬ便宜を有っていた。
彼には天気の好い時でも土を踏む面倒がなかった。
雨の降る日には傘を差す臆劫を省く事が出来た。
彼は自宅から縁側伝いで勤めに出た。
そうして同じ縁側を歩いて宅へ帰った。
こういう関係が、小さい健三を少なからず大胆にした。
彼は時々公けの場所へ顔を出して、みんなから相手にされた。
彼は好い気になって、書記の硯箱の中にある朱墨を弄ったり、小刀の鞘を払って見たり、他に蒼蠅がられるような悪戯を続けざまにした。
島田はまた出来る限りの専横をもって、この小暴君の態度を是認した。
島田は吝嗇な男であった。
妻の御常は島田よりもなお吝嗇であった。
「爪に火を点すってえのは、あの事だね」 彼が実家に帰ってから後、こんな評が時々彼の耳に入った。
しかし当時の彼は、御常が長火鉢の傍へ坐って、下女に味噌汁をよそって遣るのを何の気もなく眺めていた。
「それじゃ何ぼ何でも下女が可哀そうだ」 彼の実家のものは苦笑した。
御常はまた飯櫃や御菜の這入っている戸棚に、いつでも錠を卸ろした。
たまに実家の父が訪ねて来ると、きっと蕎麦を取り寄せて食わせた。
その時は彼女も健三も同じものを食った。
その代り飯時が来ても決して何時ものように膳を出さなかった。
それを当然のように思っていた健三は、実家へ引き取られてから、間食の上に三度の食事が重なるのを見て、大いに驚ろいた。
しかし健三に対する夫婦は金の点に掛けてむしろ不思議な位寛大であった。
外へ出る時は黄八丈の羽織を着せたり、縮緬の着物を買うために、わざわざ越後屋まで引っ張って行ったりした。
その越後屋の店へ腰を掛けて、柄を択り分けている間に、夕暮の時間が逼ったので、大勢の小僧が広い間口の雨戸を、両側から一度に締め出した時、彼は急に恐ろしくなって、大きな声を揚げて泣き出した事もあった。
彼の望む玩具は無論彼の自由になった。
その中には写し絵の道具も交っていた。
彼はよく紙を継ぎ合わせた幕の上に、三番叟の影を映して、烏帽子姿に鈴を振らせたり足を動かさせたりして喜こんだ。
彼は新らしい独楽を買ってもらって、時代を着けるために、それを河岸際の泥溝の中に浸けた。
ところがその泥溝は薪積場の柵と柵との間から流れ出して河へ落ち込むので、彼は独楽の失くなるのが心配さに、日に何遍となく扱所の土間を抜けて行って、何遍となくそれを取り出して見た。
そのたびに彼は石垣の間へ逃げ込む蟹の穴を棒で突ッついた。
それから逃げ損なったものの甲を抑えて、いくつも生捕りにして袂へ入れた。
…… 要するに彼はこの吝嗇な島田夫婦に、よそから貰い受けた一人っ子として、異数の取扱いを受けていたのである。
四十一
しかし夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。
彼らが長火鉢の前で差向いに坐り合う夜寒の宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。
「御前の御父ッさんは誰だい」 健三は島田の方を向いて彼を指した。
「じゃ御前の御母さんは」 健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。
これで自分たちの要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で訊いた。
「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」 健三は厭々ながら同じ答を繰り返すより外に仕方がなかった。
しかしそれが何故だか彼らを喜こばした。
彼らは顔を見合せて笑った。
或時はこんな光景が殆んど毎日のように三人の間に起った。
或時は単にこれだけの問答では済まなかった。
ことに御常は執濃かった。
「御前はどこで生れたの」 こう聞かれるたびに健三は、彼の記憶のうちに見える赤い門――高藪で蔽われた小さな赤い門の家を挙げて答えなければならなかった。
御常は何時この質問を掛けても、健三が差支なく同じ返事の出来るように、彼を仕込んだのである。
彼の返事は無論器械的であった。
けれども彼女はそんな事には一向頓着しなかった。
「健坊、御前本当は誰の子なの、隠さずにそう御いい」 彼は苦しめられるような心持がした。
時には苦しいより腹が立った。
向うの聞きたがる返事を与えずに、わざと黙っていたくなった。
「御前誰が一番好きだい。御父ッさん? 御母さん?」 健三は彼女の意を迎えるために、向うの望むような返事をするのが厭で堪らなかった。
彼は無言のまま棒のように立ッていた。
それをただ年歯の行かないためとのみ解釈した御常の観察は、むしろ簡単に過ぎた。
彼は心のうちで彼女のこうした態度を忌み悪んだのである。
夫婦は全力を尽して健三を彼らの専有物にしようと力めた。
また事実上健三は彼らの専有物に相違なかった。
従って彼らから大事にされるのは、つまり彼らのために彼の自由を奪われるのと同じ結果に陥った。
彼には既に身体の束縛があった。
しかしそれよりもなお恐ろしい心の束縛が、何も解らない彼の胸に、ぼんやりした不満足の影を投げた。
夫婦は何かに付けて彼らの恩恵を健三に意識させようとした。
それで或時は「御父ッさんが」という声を大きくした。
或時はまた「御母さんが」という言葉に力を入れた。
御父ッさんと御母さんを離れたただの菓子を食ったり、ただの着物を着たりする事は、自然健三には禁じられていた。
自分たちの親切を、無理にも子供の胸に外部から叩き込もうとする彼らの努力は、かえって反対の結果をその子供の上に引き起した。
健三は蒼蠅がった。
「なんでそんなに世話を焼くのだろう」「御父ッさんが」とか「御母さんが」とかが出るたびに、健三は己れ独りの自由を欲しがった。
自分の買ってもらう玩具を喜んだり、錦絵を飽かず眺めたりする彼は、かえってそれらを買ってくれる人を嬉しがらなくなった。
少なくとも両つのものを綺麗に切り離して、純粋な楽みに耽りたかった。
夫婦は健三を可愛がっていた。
けれどもその愛情のうちには変な報酬が予期されていた。
金の力で美くしい女を囲っている人が、その女の好きなものを、いうがままに買ってくれるのと同じように、彼らは自分たちの愛情そのものの発現を目的として行動する事が出来ずに、ただ健三の歓心を得るために親切を見せなければならなかった。
そうして彼らは自然のために彼らの不純を罰せられた。
しかも自から知らなかった。
四十二
同時に健三の気質も損われた。
順良な彼の天性は次第に表面から落ち込んで行った。
そうしてその陥欠を補うものは強情の二字に外ならなかった。
彼の我儘には日増に募った。
自分の好きなものが手に入らないと、往来でも道端でも構わずに、すぐ其所へ坐り込んで動かなかった。
ある時は小僧の脊中から彼の髪の毛を力に任せて※り取った。
ある時は神社に放し飼の鳩をどうしても宅へ持って帰るのだと主張してやまなかった。
養父母の寵を欲しいままに専有し得る狭い世界の中に起きたり寐たりする事より外に何にも知らない彼には、凡ての他人が、ただ自分の命令を聞くために生きているように見えた。
彼はいえば通るとばかり考えるようになった。
やがて彼の横着はもう一歩深入りをした。
ある朝彼は親に起こされて、眠い眼を擦りながら縁側へ出た。
彼は毎朝寐起に其所から小便をする癖を有っていた。
ところがその日は何時もより眠かったので、彼は用を足しながらつい途中で寐てしまった。
そうしてその後を知らなかった。
眼が覚めて見ると、彼は小便の上に転げ落ちていた。
不幸にして彼の落ちた縁側は高かった。
大通りから河岸の方へ滑り込んでいる地面の中途に当るので、普通の倍ほどあった。
彼はその出来事のためにとうとう腰を抜かした。
驚ろいた養父母はすぐ彼を千住の名倉へ伴れて行って出来るだけの治療を加えた。
しかし強く痛められた腰は容易に立たなかった。
彼は醋の臭のする黄色いどろどろしたものを毎日局部に塗って座敷に寐ていた。
それが幾日続いたか彼は知らなかった。
「まだ立てないかい。立って御覧」 御常は毎日のように催促した。
しかし健三は動けなかった。
動けるようになってもわざと動かなかった。
彼は寐ながら御常のやきもきする顔を見てひそかに喜こんだ。
彼はしまいに立った。
そうして平生と何の異なる所なく其所いら中歩き廻った。
すると御常の驚ろいて嬉しがりようが、如何にも芝居じみた表情に充ちていたので、彼はいっそ立たずにもう少し寐ていればよかったという気になった。
彼の弱点が御常の弱点とまともに相摶つ事も少なくはなかった。
御常は非常に嘘を吐く事の巧い女であった。
それからどんな場合でも、自分に利益があるとさえ見れば、すぐ涙を流す事の出来る重宝な女であった。
健三をほんの小供だと思って気を許していた彼女は、その裏面をすっかり彼に曝露して自から知らなかった。
或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題に上った甲という女を、傍で聴いていても聴きづらいほど罵った、ところがその客が帰ったあとで、甲がまた偶然彼女を訪ねて来た。
すると御常は甲に向って、そらぞらしい御世辞を使い始めた。
遂に、今誰さんとあなたの事を大変賞めていた所だというような不必要な嘘まで吐いた。
健三は腹を立てた。
「あんな嘘を吐いてらあ」 彼は一徹な小供の正直をそのまま甲の前に披瀝した。
甲の帰ったあとで御常は大変に怒った。
「御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない」 健三は御常の顔から早く火が出れば好い位に感じた。
彼の胸の底には彼女を忌み嫌う心が我知らず常にどこかに働らいていた。
いくら御常から可愛がられても、それに酬いるだけの情合がこっちに出て来得ないような醜いものを、彼女は彼女の人格の中に蔵していたのである。
そうしてその醜くいものを一番能く知っていたのは、彼女の懐に温められて育った駄々ッ子に外ならなかったのである。
四十三
その中変な現象が島田と御常との間に起った。
ある晩健三がふと眼を覚まして見ると、夫婦は彼の傍ではげしく罵り合っていた。
出来事は彼に取って突然であった。
彼は泣き出した。
その翌晩も彼は同じ争いの声で熟睡を破られた。
彼はまた泣いた。
こうした騒がしい夜が幾つとなく重なって行くに連れて、二人の罵る声は次第に高まって来た。
しまいには双方とも手を出し始めた。
打つ音、踏む音、叫ぶ音が、小さな彼の心を恐ろしがらせた。
最初彼が泣き出すとやんだ二人の喧嘩が、今では寐ようが覚めようが、彼に用捨なく進行するようになった。
幼稚な健三の頭では何のために、ついぞ見馴れないこの光景が、毎夜深更に起るのか、まるで解釈出来なかった。
彼はただそれを嫌った。
道徳も理非も持たない彼に、自然はただそれを嫌うように教えたのである。
やがて御常は健三に事実を話して聞かせた。
その話によると、彼女は世の中で一番の善人であった。
これに反して島田は大変な悪ものであった。
しかし最も悪いのは御藤さんであった。
「あいつが」とか「あの女が」とかいう言葉を使うとき、御常は口惜しくって堪まらないという顔付をした。
眼から涙を流した。
しかしそうした劇烈な表情はかえって健三の心持を悪くするだけで、外に何の効果もなかった。
「あいつは讐だよ。御母さんにも御前にも讐だよ。骨を粉にしても仇討をしなくっちゃ」 御常は歯をぎりぎり噛んだ。
健三は早く彼女の傍を離れたくなった。
彼は始終自分の傍にいて、朝から晩まで彼を味方にしたがる御常よりも、むしろ島田の方を好いた。
その島田は以前と違って、大抵は宅にいない事が多かった。
彼の帰る時刻は何時も夜更らしかった。
従って日中は滅多に顔を合せる機会がなかった。
しかし健三は毎晩暗い灯火の影で彼を見た。
その険悪な眼と怒に顫える唇とを見た。
咽喉から渦捲く烟のように洩れて出るその憤りの声を聞いた。
それでも彼は時々健三を伴れて以前の通り外へ出る事があった。
彼は一口も酒を飲まない代りに大変甘いものを嗜んだ。
ある晩彼は健三と御藤さんの娘の御縫さんとを伴れて、賑かな通りを散歩した帰りに汁粉屋へ寄った。
健三の御縫さんに会ったのはこの時が始めてであった。
それで彼らは碌に顔さえ見合せなかった。
口はまるで利かなかった。
宅へ帰った時、健三は御常から、まず島田にどこへ伴れて行かれたかを訊かれた。
それから御藤さんの宅へ寄りはしないかと念を押された。
最後に汁粉屋へは誰と一所に行ったという詰問を受けた。
健三は島田の注意にかかわらず、事実をありのままに告げた。
しかし御常の疑いはそれでもなかなか解けなかった。
彼女はいろいろな鎌を掛けて、それ以上の事実を釣り出そうとした。
「あいつも一所なんだろう。本当を御いい。いえば御母さんが好いものを上げるから御いい。あの女も行ったんだろう。そうだろう」 彼女はどうしても行ったといわせようとした。
同時に健三はどうしてもいうまいと決心した。
彼女は健三を疑った。
健三は彼女を卑しんだ。
「じゃあの子に御父ッさんが何といったい。あの子の方に余計口を利くかい、御前の方にかい」 何の答もしなかった健三の心には、ただ不愉快の念のみ募った。
しかし御常は其所で留まる女ではなかった。
「汁粉屋で御前をどっちへ坐らせたい。右の方かい、左の方かい」 嫉妬から出る質問は何時まで経っても尽きなかった。
その質問のうちに自分の人格を会釈なく露わして顧り見ない彼女は、十にも足りないわが養い子から、愛想を尽かされて毫も気が付かずにいた。
四十四
間もなく島田は健三の眼から突然消えて失くなった。
河岸を向いた裏通りと賑かな表通りとの間に挟まっていた今までの住居も急にどこへか行ってしまった。
御常とたった二人ぎりになった健三は、見馴れない変な宅の中に自分を見出だした。
その家の表には門口に縄暖簾を下げた米屋だか味噌屋だかがあった。
彼の記憶はこの大きな店と、茹でた大豆とを彼に連想せしめた。
彼は毎日それを食った事をいまだに忘れずにいた。
しかし自分の新らしく移った住居については何の影像も浮かべ得なかった。
「時」は綺麗にこの佗びしい記念を彼のために払い去ってくれた。
御常は会う人ごとに島田の話をした。
口惜しい口惜しいといって泣いた。
「死んで祟ってやる」 彼女の権幕は健三の心をますます彼女から遠ざける媒介となるに過ぎなかった。
夫と離れた彼女は健三を自分一人の専有物にしようとした。
また専有物だと信じていた。
「これからは御前一人が依怙だよ。好いかい。確かりしてくれなくっちゃいけないよ」 こう頼まれるたびに健三はいい渋った。
彼はどうしても素直な子供のように心持の好い返事を彼女に与える事が出来なかった。
健三を物にしようという御常の腹の中には愛に駆られる衝動よりも、むしろ慾に押し出される邪気が常に働いていた。
それが頑是ない健三の胸に、何の理窟なしに、不愉快な影を投げた。
しかしその他の点について彼は全くの無我夢中であった。
二人の生活は僅かの間しか続かなかった。
物質的の欠乏が源因になったのか、または御常の再縁が現状の変化を余儀なくしたのか、年歯の行かない彼にはまるで解らなかった。
何しろ彼女はまた突然健三の眼から消えて失くなった。
そうして彼は何時の間にか彼の実家へ引き取られていた。
「考えるとまるで他の身の上のようだ。自分の事とは思えない」 健三の記憶に上せた事相は余りに今の彼と懸隔していた。
それでも彼は他人の生活に似た自分の昔を思い浮べなければならなかった。
しかも或る不快な意味において思い浮べなければならなかった。
「御常さんて人はその時にあの波多野とかいう宅へまた御嫁に行ったんでしょうか」 細君は何年前か夫の所へ御常から来た長い手紙の上書をまだ覚えていた。
「そうだろうよ。己も能く知らないが」「その波多野という人は大方まだ生きてるんでしょうね」 健三は波多野の顔さえ見た事がなかった。
生死などは無論考えの中になかった。
「警部だっていうじゃありませんか」「何んだか知らないね」「あら、貴夫が自分でそう御仰ったくせに」「何時」「あの手紙を私に御見せになった時よ」「そうかしら」 健三は長い手紙の内容を少し思い出した。
その中には彼女が幼い健三の世話をした時の辛苦ばかりが並べ立ててあった。
乳がないので最初からおじやだけで育てた事だの、下性が悪くって寐小便の始末に困った事だの、凡てそうした顛末を、飽きるほど委しく述べた中に、甲府とかにいる親類の裁判官が、月々彼女に金を送ってくれるので、今では大変仕合だと書いてあった。
しかし肝心の彼女の夫が警部であったかどうか、其所になると健三には全く覚がなかった。
「ことによると、もう死んだかも知れないね」「生きているかも分りませんわ」 二人の間には波多野の事ともつかず、また御常の事ともつかず、こんな問答が取り換わされた。
「あの人が不意に遣って来たように、その女の人も、何時突然訪ねて来ないとも限らないわね」 細君は健三の顔を見た。
健三は腕組をしたなり黙っていた。
四十五
健三も細君も御常の書いた手紙の傾向をよく覚えていた。
彼女とはさして縁故のない人ですら、親切に毎月いくらかずつの送金をしてくれるのに、小さい時分あれほど世話になって置きながら、今更知らん顔をしていられた義理でもあるまいといった風の筆意が、一頁ごとに見透かされた。
その時彼はこの手紙を東京にいる兄の許に送った。
勤先へこんなものを度々寄こされては迷惑するから、少し気を付けるように先方へ注意してくれと頼んだ。
兄からはすぐ返事が来た。
もともと養家先を離縁になって、他家へ嫁に行った以上は他人である、その上健三はその養家さえ既に出てしまった後なのだから、今になって直接本人へ文通などされては困るという理由を持ち出して、先方を承知させたから安心しろと、その返事には書いてあった。
御常の手紙はその後ふっつり来なくなった。
健三は安心した。
しかしどこかに心持の悪い所があった。
彼は御常の世話を受けた昔を忘れる訳に行かなかった。
同時に彼女を忌み嫌う念は昔の通り変らなかった。
要するに彼の御常に対する態度は、彼の島田に対する態度と同じ事であった。
そうして島田に対するよりも一層嫌悪の念が劇しかった。
「島田一人でもう沢山なところへ、また新らしくそんな女が遣って来られちゃ困るな」 健三は腹の中でこう思った。
夫の過去について、それほど知識のない細君の腹の中はなおの事であった。
細君の同情は今その生家の方にばかり注がれていた。
もとかなりの地位にあった彼女の父は、久しく浪人生活を続けた結果、漸々経済上の苦境に陥いって来たのである。
健三は時々宅へ話しに来る青年と対坐して、晴々しい彼らの様子と自分の内面生活とを対照し始めるようになった。
すると彼の眼に映ずる青年は、みんな前ばかり見詰めて、愉快に先へ先へと歩いて行くように見えた。
或日彼はその青年の一人に向ってこういった。
「君らは幸福だ。卒業したら何になろうとか、何をしようとか、そんな事ばかり考えているんだから」 青年は苦笑した。
そうして答えた。
「それは貴方がた時代の事でしょう。今の青年はそれほど呑気でもありません。何になろうとか、何をしようとか思わない事は無論ないでしょうけれども、世の中が、そう自分の思い通りにならない事もまた能く承知していますから」 なるほど彼の卒業した時代に比べると、世間は十倍も世知辛くなっていた。
しかしそれは衣食住に関する物質的の問題に過ぎなかった。
従って青年の答には彼の思わくと多少喰い違った点があった。
「いや君らは僕のように過去に煩らわされないから仕合せだというのさ」 青年は解しがたいという顔をした。
「あなただって些とも過去に煩らわされているようには見えませんよ。やっぱり己の世界はこれからだという所があるようですね」 今度は健三の方が苦笑する番になった。
彼はその青年に仏蘭西のある学者が唱え出した記憶に関する新説を話した。
人が溺れかかったり、または絶壁から落ようとする間際に、よく自分の過去全体を一瞬間の記憶として、その頭に描き出す事があるという事実に、この哲学者は一種の解釈を下したのである。
「人間は平生彼らの未来ばかり望んで生きているのに、その未来が咄嗟に起ったある危険のために突然塞がれて、もう己は駄目だと事が極ると、急に眼を転じて過去を振り向くから、そこで凡ての過去の経験が一度に意識に上るのだというんだね。その説によると」 青年は健三の紹介を面白そうに聴いた。
けれども事状を一向知らない彼は、それを健三の身の上に引き直して見る事が出来なかった。
健三も一刹那にわが全部の過去を思い出すような危険な境遇に置かれたものとして今の自分を考えるほどの馬鹿でもなかった。
四十六
健三の心を不愉快な過去に捲き込む端緒になった島田は、それから五、六日ほどして、ついにまた彼の座敷にあらわれた。
その時健三の眼に映じたこの老人は正しく過去の幽霊であった。
また現在の人間でもあった。
それから薄暗い未来の影にも相違なかった。
「どこまでこの影が己の身体に付いて回るだろう」 健三の胸は好奇心の刺戟に促されるよりもむしろ不安の漣※に揺れた。
「この間比田の所をちょっと訪ねて見ました」 島田の言葉遣はこの前と同じように鄭重であった。
しかし彼が何で比田の家へ足を運んだのか、その点になると、彼は全く知らん顔をして澄ましていた。
彼の口ぶりはまるで無沙汰見舞かたがたそっちへ用のあったついでに立ち寄った人の如くであった。
「あの辺も昔と違って大分変りましたね」 健三は自分の前に坐っている人の真面目さの程度を疑った。
果してこの男が彼の復籍を比田まで頼み込んだのだろうか、また比田が自分たちと相談の結果通り、断然それを拒絶したのだろうか、健三はその明白な事実さえ疑わずにはいられなかった。
「もとはそら彼処に瀑があって、みんな夏になると能く出掛けたものですがね」 島田は相手に頓着なくただ世間話を進めて行った。
健三の方では無論自分から進んで不愉快な問題に触れる必要を認めないので、ただ老人の迹に跟いて引っ張られて行くだけであった。
すると何時の間にか島田の言葉遣が崩れて来た。
しまいに彼は健三の姉を呼び捨てにし始めた。
「御夏も年を取ったね。尤ももう大分久しく会わないには違ないが。昔はあれでなかなか勝気な女で、能く私に喰って掛ったり何かしたものさ。その代り元々兄弟同様の間柄だから、いくら喧嘩をしたって、仲の直るのもまた早いには早いが。何しろ困ると助けてくれって能く泣き付いて来るんで、私ゃ可哀想だからその度びにいくらかずつ都合して遣ったよ」 島田のいう事は、姉が蔭で聴いていたらさぞ怒るだろうと思うように横柄であった。
それから手前勝手な立場からばかり見た歪んだ事実を他に押し付けようとする邪気に充ちていた。
健三は次第に言葉少なになった。
しまいには黙ったなり凝と島田の顔を見詰た。
島田は妙に鼻の下の長い男であった。
その上往来などで物を見るときは必ず口を開けていた。
だからちょっと馬鹿のようであった。
けれども善良な馬鹿としては決して誰の眼にも映ずる男ではなかった。
落ち込んだ彼の眼はその底で常に反対の何物かを語っていた。
眉はむしろ険しかった。
狭くて高い彼の額の上にある髪は、若い時分から左右に分けられた例がなかった。
法印か何ぞのように常に後へ撫で付けられていた。
彼はふと健三の眼を見た。
そうして相手の腹を読んだ。
一旦横風の昔に返った彼の言葉遣がまた何時の間にか現在の鄭寧さに立ち戻って来た。
健三に対して過去の己れに返ろう返ろうとする試みを遂に断念してしまった。
彼は室の内をきょろきょろ見廻し始めた。
殺風景を極めたその室の中には生憎額も掛物も掛っていなかった。
「李鴻章の書は好きですか」 彼は突然こんな問を発した。
健三は好きとも嫌ともいい兼た。
「好きなら上げても好ござんす。あれでも価値にしたら今じゃよっぽどするでしょう」 昔し島田は藤田東湖の偽筆に時代を着けるのだといって、白髪蒼顔万死余云々と書いた半切の唐紙を、台所の竈の上に釣るしていた事があった。
彼の健三にくれるという李鴻章も、どこの誰が書いたものか頗る怪しかった。
島田から物を貰う気の絶対になかった健三は取り合わずにいた。
島田は漸く帰った。
四十七
「何しに来たんでしょう、あの人は」 目的なしにただ来るはずがないという感じが細君には強くあった。
健三も丁度同じ感じに多少支配されていた。
「解らないね、どうも。一体魚と獣ほど違うんだから」「何が」「ああいう人と己などとはさ」 細君は突然自分の家族と夫との関係を思い出した。
両者の間には自然の造った溝があって、御互を離隔していた。
片意地な夫は決してそれを飛び超えてくれなかった。
溝を拵えたものの方で、それを埋めるのが当然じゃないかといった風の気分で何時までも押し通していた。
里ではまた反対に、夫が自分の勝手でこの溝を掘り始めたのだから、彼の方で其所を平にしたら好かろうという考えを有っていた。
細君の同情は無論自分の家族の方にあった。
彼女はわが夫を世の中と調和する事の出来ない偏窟な学者だと解釈していた。
同時に夫が里と調和しなくなった源因の中に、自分が主な要素として這入っている事も認めていた。
細君は黙って話を切り上げようとした。
しかし島田の方にばかり気を取られていた健三にはその意味が通じなかった。
「御前はそう思わないかね」「そりゃあの人と貴夫となら魚と獣位違うでしょう」「無論外の人と己と比較していやしない」 話はまた島田の方へ戻って来た。
細君は笑いながら訊いた。
「李鴻章の掛物をどうとかいってたのね」「己に遣ろうかっていうんだ」「御止しなさいよ。そんな物を貰ってまた後からどんな無心を持ち懸けられるかも知れないわ。遣るっていうのは、大方口の先だけなんでしょう。本当は買ってくれっていう気なんですよ、きっと」 夫婦には李鴻章の掛物よりもまだ外に買いたいものが沢山あった。
段々大きくなって来る女の子に、相当の着物を着せて表へ出す事の出来ないのも、細君からいえば、夫の気の付かない心配に違なかった。
二円五十銭の月賦で、この間拵えた雨合羽の代を、月々洋服屋に払っている夫も、あまり長閑な心持になれようはずがなかった。
「復籍の事は何にもいい出さなかったようですね」「うん何にもいわない。まるで狐に抓まれたようなものだ」 始めからこっちの気を引くためにわざとそんな突飛な要求を持ち出したものか、または真面目な懸合として、それを比田へ持ち込んだ後、比田からきっぱり断られたので、始めて駄目だと覚ったものか、健三にはまるで見当が付かなかった。
「どっちでしょう」「到底解らないよ、ああいう人の考えは」 島田は実際どっちでも遣りかねない男であった。
彼は三日ほどしてまた健三の玄関を開けた。
その時健三は書斎に灯火を点けて机の前に坐っていた。
丁度彼の頭に思想上のある問題が一筋の端緒を見せかけた所であった。
彼は一図にそれを手近まで手繰り寄せようとして骨を折った。
彼の思索は突然截ち切られた。
彼は苦い顔をして室の入口に手を突いた下女の方を顧みた。
「何もそう度々来て、他の邪魔をしなくっても好さそうなものだ」 彼は腹の中でこう呟やいた。
断然面会を謝絶する勇気を有たない彼は、下女を見たなり少時黙っていた。
「御通し申しますか」「うん」 彼は仕方なしに答えた。
それから「御奥さんは」と訊ねた。
「少し御気分が悪いと仰しゃって先刻から伏せっていらっしゃいます」 細君の寐るときは歇私的里の起った時に限るように健三には思えてならなかった。
彼は漸く立ち上った。
四十八
電気燈のまだ戸ごとに点されない頃だったので、客間には例もの通り暗い洋燈が点いていた。
その洋燈は細長い竹の台の上に油壺を篏め込むように拵えたもので、鼓の胴の恰形に似た平たい底が畳へ据わるように出来ていた。
健三が客間へ出た時、島田はそれを自分の手元に引き寄せて心を出したり引っ込ましたりしながら灯火の具合を眺めていた。
彼は改まった挨拶もせずに、「少し油煙がたまるようですね」といった。
なるほど火屋が薄黒く燻ぶっていた。
丸心の切方が平に行かないところを、むやみに灯を高くすると、こんな変調を来すのがこの洋燈の特徴であった。
「換えさせましょう」 家には同じ型のものが三つばかりあった。
健三は下女を呼んで茶の間にあるのと取り換えさせようとした。
しかし島田は生返事をするぎりで、容易に煤で曇った火屋から眼を離さなかった。
「どういう加減だろう」 彼は独り言をいって、草花の模様だけを不透明に擦った丸い蓋の隙間を覗き込んだ。
健三の記憶にある彼は、こんな事を能く気にするという点において、頗る几帳面な男に相違なかった。
彼はむしろ潔癖であった。
持って生れた倫理上の不潔癖と金銭上の不潔癖の償いにでもなるように、座敷や縁側の塵を気にした。
彼は尻をからげて、拭掃除をした。
跣足で庭へ出て要らざる所まで掃いたり水を打ったりした。
物が壊れると彼はきっと自分で修復した。
あるいは修復そうとした。
それがためにどの位な時間が要っても、またどんな労力が必要になって来ても、彼は決して厭わなかった。
そういう事が彼の性にあるばかりでなく、彼には手に握った一銭銅貨の方が、時間や労力よりも遥かに大切に見えたのである。
「なにそんなものは宅で出来る。金を出して頼むがものはない。損だ」 損をするという事が彼には何よりも恐ろしかった。
そうして目に見えない損はいくらしても解らなかった。
「宅の人はあんまり正直過ぎるんで」 御藤さんは昔健三に向って、自分の夫を評するときに、こんな言葉を使った。
世の中をまだ知らない健三にもその真実でない事はよく解っていた。
ただ自分の手前、嘘と承知しながら、夫の品性を取り繕うのだろうと善意に解釈した彼は、その時御藤さんに向って何にもいわなかった。
しかし今考えて見ると、彼女の批評にはもう少し慥な根底があるらしく思えた。
「必竟大きな損に気のつかない所が正直なんだろう」 健三はただ金銭上の慾を満たそうとして、その慾に伴なわない程度の幼稚な頭脳を精一杯に働らかせている老人をむしろ憐れに思った。
そうして凹んだ眼を今擦り硝子の蓋の傍へ寄せて、研究でもする時のように、暗い灯を見詰めている彼を気の毒な人として眺めた。
「彼はこうして老いた」 島田の一生を煎じ詰めたような一句を眼の前に味わった健三は、自分は果してどうして老ゆるのだろうかと考えた。
彼は神という言葉が嫌であった。
しかしその時の彼の心にはたしかに神という言葉が出た。
そうして、もしその神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、この強慾な老人の一生と大した変りはないかも知れないという気が強くした。
その時島田は洋燈の螺旋を急に廻したと見えて、細長い火屋の中が、赤い火で一杯になった。
それに驚ろいた彼は、また螺旋を逆に廻し過ぎたらしく、今度はただでさえ暗い灯火をなおの事暗くした。
「どうもどこか調子が狂ってますね」 健三は手を敲いて下女に新しい洋燈を持って来さした。
四十九
その晩の島田はこの前来た時と態度の上において何の異なる所もなかった。
応対にはどこまでも健三を独立した人と認めるような言葉ばかり使った。
しかし彼はもう先達ての掛物についてはまるで忘れているかの如くに見えた。
李鴻章の李の字も口にしなかった。
復籍の事はなお更であった。
噫にさえ出す様子を見せなかった。
彼はなるべくただの話をしようとした。
しかし二人に共通した興味のある問題は、どこをどう探しても落ちているはずがなかった。
彼のいう事の大部分は、健三に取って全くの無意味から余り遠く隔っているとも思えなかった。
健三は退屈した。
しかしその退屈のうちには一種の注意が徹っていた。
彼はこの老人が或日或物を持って、今より判明りした姿で、きっと自分の前に現れてくるに違ないという予覚に支配された。
その或物がまた必ず自分に不愉快なもしくは不利益な形を具えているに違ないという推測にも支配された。
彼は退屈のうちに細いながらかなり鋭どい緊張を感じた。
そのせいか、島田の自分を見る眼が、さっき擦硝子の蓋を通して油煙に燻ぶった洋燈の灯を眺めていた時とは全く変っていた。
「隙があったら飛び込もう」 落ち込んだ彼の眼は鈍いくせに明らかにこの意味を物語っていた。
自然健三はそれに抵抗して身構えなければならなくなった。
しかし時によると、その身構えをさらりと投げ出して、飢えたような相手の眼に、落付を与えて遣りたくなる場合もあった。
その時突然奥の間で細君の唸るような声がした。
健三の神経はこの声に対して普通の人以上の敏感を有っていた。
彼はすぐ耳を峙だてた。
「誰か病気ですか」と島田が訊いた。
「ええ妻が少し」「そうですか、それはいけませんね。どこが悪いんです」 島田はまだ細君の顔を見た事がなかった。
何時どこから嫁に来た女かさえ知らないらしかった。
従って彼の言葉にはただ挨拶があるだけであった。
健三もこの人から自分の妻に対する同情を求めようとは思っていなかった。
「近頃は時候が悪いから、能く気を付けないといけませんね」 子供は疾うに寐付いた後なので奥は寂としていた。
下女は一番懸け離れた台所の傍の三畳にいるらしかった。
こんな時に細君をたった一人で置くのが健三には何より苦しかった。
彼は手を叩いて下女を呼んだ。
「ちょっと奥へ行って奥さんの傍に坐っててくれ」「へええ」 下女は何のためだか解らないといった様子をして間の襖を締めた。
健三はまた島田の方を向き直った。
けれども彼の注意はむしろ老人を離れていた。
腹の中で早く帰ってくれれば好いと思うので、その腹が言葉にも態度にもありありと現れた。
それでも島田は容易に立たなかった。
話の接穂がなくなって、手持無沙汰で仕方なくなった時、始めて座蒲団から滑り落ちた。
「どうも御邪魔をしました。御忙がしいところを。いずれまたその内」 細君の病気については何事もいわなかった彼は、沓脱へ下りてからまた健三の方を振り向いた。
「夜分なら大抵御暇ですか」 健三は生返事をしたなり立っていた。
「実は少し御話ししたい事があるんですが」 健三は何の御用ですかとも聞き返さなかった。
老人は健三の手に持った暗い灯影から、鈍い眼を光らしてまた彼を見上げた。
その眼にはやっぱりどこかに隙があったら彼の懐に潜り込もうという人の悪い厭な色か動いていた。
「じゃ御免」 最後に格子を開けて外へ出た島田はこういってとうとう暗がりに消えた。
健三の門には軒燈さえ点いていなかった。
五十
健三はすぐ奥へ来て細君の枕元に立った。
「どうかしたのか」 細君は眼を開けて天井を見た。
健三は蒲団の横からまたその眼を見下した。
襖の影に置かれた洋燈の灯は客間のよりも暗かった。
細君の眸がどこに向って注がれているのか能く分らない位暗かった。
「どうかしたのか」 健三は同じ問をまた繰り返さなければならなかった。
それでも細君は答えなかった。
彼は結婚以来こういう現象に何度となく遭遇した。
しかし彼の神経はそれに慣らされるには余りに鋭敏過ぎた。
遭遇するたびに、同程度の不安を感ずるのが常であった。
彼はすぐ枕元に腰を卸した。
「もうあっちへ行っても好い。此所には己がいるから」 ぼんやり蒲団の裾に坐って、退屈そうに健三の様子を眺めていた下女は無言のまま立ち上った。
そうして「御休みなさい」と敷居の所へ手を突いて御辞儀をしたなり襖を立て切った。
後には赤い筋を引いた光るものが畳の上に残った。
彼は眉を顰めながら下女の振り落して行った針を取り上げた。
何時もなら婢を呼び返して小言をいって渡すところを、今の彼は黙って手に持ったまま、しばらく考えていた。
彼はしまいにその針をぷつりと襖に立てた。
そうしてまた細君の方へ向き直った。
細君の眼はもう天井を離れていた。
しかし判然どこを見ているとも思えなかった。
黒い大きな瞳子には生きた光があった。
けれども生きた働きが欠けていた。
彼女は魂と直接に繋がっていないような眼を一杯に開けて、漫然と瞳孔の向いた見当を眺めていた。
「おい」 健三は細君の肩を揺った。
細君は返事をせずにただ首だけをそろりと動かして心持健三の方に顔を向けた。
けれども其所に夫の存在を認める何らの輝きもなかった。
「おい、己だよ。分るかい」 こういう場合に彼の何時でも用いる陳腐で簡略でしかもぞんざいなこの言葉のうちには、他に知れないで自分にばかり解っている憐憫と苦痛と悲哀があった。
それから跪まずいて天に祷る時の誠と願もあった。
「どうぞ口を利いてくれ。後生だから己の顔を見てくれ」 彼は心のうちでこういって細君に頼むのである。
しかしその痛切な頼みを決して口へ出していおうとはしなかった。
感傷的な気分に支配されやすいくせに、彼は決して外表的になれない男であった。
細君の眼は突然平生の我に帰った。
そうして夢から覚めた人のように健三を見た。
「貴夫?」 彼女の声は細くかつ長かった。
彼女は微笑しかけた。
しかしまだ緊張している健三の顔を認めた時、彼女はその笑を止めた。
「あの人はもう帰ったの」「うん」 二人はしばらく黙っていた。
細君はまた頸を曲げて、傍に寐ている子供の方を見た。
「能く寐ているのね」 子供は一つ床の中に小さな枕を並べてすやすや寐ていた。
健三は細君の額の上に自分の右の手を載せた。
「水で頭でも冷して遣ろうか」「いいえ、もう好ござんす」「大丈夫かい」「ええ」「本当に大丈夫かい」「ええ。貴夫ももう御休みなさい」「己はまだ寐る訳に行かないよ」 健三はもう一遍書斎へ入って静かな夜を一人更かさなければならなかった。
五十一
彼の眼が冴えている割に彼の頭は澄み渡らなかった。
彼は思索の綱を中断された人のように、考察の進路を遮ぎる霧の中で苦しんだ。
彼は明日の朝多くの人より一段高い所に立たなければならない憐れな自分の姿を想い見た。
その憐れな自分の顔を熱心に見詰めたり、または不得意な自分のいう事を真面目に筆記したりする青年に対して済まない気がした。
自分の虚栄心や自尊心を傷けるのも、それらを超越する事の出来ない彼には大きな苦痛であった。
「明日の講義もまた纏まらないのかしら」 こう思うと彼は自分の努力が急に厭になった。
愉快に考えの筋道が運んだ時、折々何者にか煽動されて起る、「己の頭は悪くない」という自信も己惚も忽ち消えてしまった。
同時にこの頭の働らきを攪き乱す自分の周囲についての不平も常時よりは高まって来た。
彼はしまいに投げるように洋筆を放り出した。
「もうやめだ。どうでも構わない」 時計はもう一時過ぎていた。
洋燈を消して暗闇を縁側伝いに廊下へ出ると、突当りの奥の間の障子二枚だけが灯に映って明るかった。
健三は