その一枚を開けて内に入った。
第 7 章
子供は犬ころのように塊まって寐ていた。
細君も静かに眼を閉じて仰向に眠っていた。
音のしないように気を付けてその傍に坐った彼は、心持頸を延ばして、細君の顔を上から覗き込んだ。
それからそっと手を彼女の寐顔の上に翳した。
彼女は口を閉じていた。
彼の掌には細君の鼻の穴から出る生暖かい呼息が微かに感ぜられた。
その呼息は規則正しかった。
また穏やかだった。
彼は漸く出した手を引いた。
するともう一度細君の名を呼んで見なければまだ安心が出来ないという気が彼の胸を衝いて起った。
けれども彼は直その衝動に打勝った。
次に彼はまた細君の肩へ手を懸けて、再び彼女を揺り起そうとしたが、それもやめた。
「大丈夫だろう」 彼は漸く普通の人の断案に帰着する事が出来た。
しかし細君の病気に対して神経の鋭敏になっている彼には、それが何人もこういう場合に取らなければならない尋常の手続きのように思われたのである。
細君の病気には熟睡が一番の薬であった。
長時間彼女の傍に坐って、心配そうにその顔を見詰めている健三に何よりも有難いその眠りが、静かに彼女の瞼の上に落ちた時、彼は天から降る甘露をまのあたり見るような気が常にした。
しかしその眠りがまた余り長く続き過ぎると、今度は自分の視線から隠された彼女の眼がかえって不安の種になった。
ついに睫毛の鎖している奥を見るために、彼は正体なく寐入った細君を、わざわざ揺り起して見る事が折々あった。
細君がもっと寐かして置いてくれれば好いのにという訴えを疲れた顔色に現わして重い瞼を開くと、彼はその時始めて後悔した。
しかし彼の神経はこんな気の毒な真似をしてまでも、彼女の実在を確かめなければ承知しなかったのである。
やがて彼は寐衣を着換えて、自分の床に入った。
そうして濁りながら動いているような彼の頭を、静かな夜の支配に任せた。
夜はその濁りを清めてくれるには余りに暗過ぎた、しかし騒がしいその動きを止めるには充分静かであった。
翌朝彼は自分の名を呼ぶ細君の声で眼を覚ました。
「貴夫もう時間ですよ」 まだ床を離れない細君は、手を延ばして彼の枕元から取った袂時計を眺めていた。
下女が俎板の上で何か刻む音が台所の方で聞こえた。
「婢はもう起きてるのか」「ええ。先刻起しに行ったんです」 細君は下女を起して置いてまた床の中に這入ったのである。
健三はすぐ起き上がった。
細君も同時に立った。
昨夜の事は二人ともまるで忘れたように何にもいわなかった。
五十二
二人は自分たちのこの態度に対して何の注意も省察も払わなかった。
二人は二人に特有な因果関係を有っている事を冥々の裡に自覚していた。
そうしてその因果関係が一切の他人には全く通じないのだという事も能く呑み込んでいた。
だから事状を知らない第三者の眼に、自分たちがあるいは変に映りはしまいかという疑念さえ起さなかった。
健三は黙って外へ出て、例の通り仕事をした。
しかしその仕事の真際中に彼は突然細君の病気を想像する事があった。
彼の眼の前に夢を見ているような細君の黒い眼が不意に浮んだ。
すると彼はすぐ自分の立っている高い壇から降りて宅へ帰らなければならないような気がした。
あるいは今にも宅から迎が来るような心持になった。
彼は広い室の片隅にいて真ん向うの突当りにある遠い戸口を眺めた。
彼は仰向いて兜の鉢金を伏せたような高い丸天井を眺めた。
仮漆で塗り上げた角材を幾段にも組み上げて、高いものを一層高く見えるように工夫したその天井は、小さい彼の心を包むに足りなかった。
最後に彼の眼は自分の下に黒い頭を並べて、神妙に彼のいう事を聴いている多くの青年の上に落ちた。
そうしてまた卒然として現実に帰るべく彼らから余儀なくされた。
これほど細君の病気に悩まされていた健三は、比較的島田のために祟られる恐れを抱かなかった。
彼はこの老人を因業で強慾な男と思っていた。
しかし一方ではまたそれらの性癖を充分発揮する能力がないものとしてむしろ見縊ってもいた。
ただ要らぬ会談に惜い時間を潰されるのが、健三には或種類の人の受ける程度より以上の煩いになった。
「何をいって来る気かしら、この次は」 襲われる事を予期して、暗にそれを苦にするような健三の口振が、細君の言葉を促がした。
「どうせ分っているじゃありませんか。そんな事を気になさるより早く絶交した方がよっぽど得ですわ」 健三は心の裡で細君のいう事を肯がった。
しかし口ではかえって反対な返事をした。
「それほど気にしちゃいないさ、あんな者。もともと恐ろしい事なんかないんだから」「恐ろしいって誰もいやしませんわ。けれども面倒臭いにゃ違いないでしょう、いくら貴夫だって」「世の中にはただ面倒臭い位な単純な理由でやめる事の出来ないものがいくらでもあるさ」 多少片意地の分子を含んでいるこんな会話を細君と取り換わせた健三は、その次島田の来た時、例よりは忙がしい頭を抱えているにもかかわらず、ついに面会を拒絶する訳に行かなかった。
島田のちと話したい事があるといったのは、細君の推察通りやっぱり金の問題であった。
隙があったら飛び込もうとして、この間から覘を付けていた彼は、何時まで待っても際限がないとでも思ったものか、機会のあるなしに頓着なく、ついに健三に肉薄し始めた。
「どうも少し困るので。外にどこといって頼みに行く所もない私なんだから、是非一つ」 老人の言葉のどこかには、義務として承知してもらわなくっちゃ困るといった風の横着さが潜んでいた。
しかしそれは健三の神経を自尊心の一角において傷め付けるほど強くも現われていなかった。
健三は立って書斎の机の上から自分の紙入を持って来た。
一家の会計を司どっていない彼の財嚢は無論軽かった。
空のまま硯箱の傍に幾日も横たわっている事さえ珍らしくはなかった。
彼はその中から手に触れるだけの紙幣を攫み出して島田の前に置いた。
島田は変な顔をした。
「どうせ貴方の請求通り上げる訳には行かないんです。それでもありったけ悉皆上げたんですよ」 健三は紙入の中を開けて島田に見せた。
そうして彼の帰ったあとで、空の財布を客間へ放り出したまままた書斎へ入った。
細君には金を遣った事を一口もいわなかった。
五十三
翌日例刻に帰った健三は、机の前に坐って、大事らしく何時もの所に置かれた昨日の紙入に眼を付けた。
革で拵らえた大型のこの二つ折は彼の持物としてむしろ立派過ぎる位上等な品であった。
彼はそれを倫敦の最も賑やかな町で買ったのである。
外国から持って帰った記念が、何の興味も惹かなくなりつつある今の彼には、この紙入も無用の長物と見える外はなかった。
細君が何故丁寧にそれを元の場所へ置いてくれたのだろうかとさえ疑った彼は、皮肉な一瞥を空っぽうの入物に与えたぎり、手も触れずに幾日かを過ごした。
その内何かで金の要る日が来た。
健三は机の上の紙入を取り上げて細君の鼻の先へ出した。
「おい少し金を入れてくれ」 細君は右の手で物指を持ったまま夫の顔を下から見上げた。
「這入ってるはずですよ」 彼女はこの間島田の帰ったあとで何事も夫から聴こうとしなかった。
それで老人に金を奪られたことも全く夫婦間の話題に上っていなかった。
健三は細君が事状を知らないでこういうのかと思った。
「あれはもう遣っちゃったんだ。紙入は疾うから空っぽうになっているんだよ」 細君は依然として自分の誤解に気が付かないらしかった。
物指を畳の上へ投げ出して手を夫の方へ差し延べた。
「ちょっと拝見」 健三は馬鹿々々しいという風をして、それを細君に渡した。
細君は中を検ためた。
中からは四、五枚の紙幣が出た。
「そらやっぱり入ってるじゃありませんか」 彼女は手垢の付いた皺だらけの紙幣を、指の間に挟んで、ちょっと胸のあたりまで上げて見せた。
彼女の挙動は自分の勝利に誇るものの如く微かな笑に伴なった。
「何時入れたのか」「あの人の帰った後でです」 健三は細君の心遣を嬉しく思うよりもむしろ珍らしく眺めた。
彼の理解している細君はこんな気の利いた事を滅多にする女ではなかったのである。
「己が内所で島田に金を奪られたのを気の毒とでも思ったものかしら」 彼はこう考えた。
しかし口へ出してその理由を彼女に訊き糺して見る事はしなかった。
夫と同じ態度をついに失わずにいた彼女も、自ら進んで己れを説明する面倒を敢てしなかった。
彼女の填補した金はかくして黙って受取られ、また黙って消費されてしまった。
その内細君の御腹が段々大きくなって来た。
起居に重苦しそうな呼息をし始めた。
気分も能く変化した。
「妾今度はことによると助からないかも知れませんよ」 彼女は時々何に感じてかこういって涙を流した。
大抵は取り合わずにいる健三も、時として相手にさせられなければ済まなかった。
「何故だい」「何故だかそう思われて仕方がないんですもの」 質問も説明もこれ以上には上る事の出来なかった言葉のうちに、ぼんやりした或ものが常に潜んでいた。
その或ものは単純な言葉を伝わって、言葉の届かない遠い所へ消えて行った。
鈴の音が鼓膜の及ばない幽かな世界に潜り込むように。
彼女は悪阻で死んだ健三の兄の細君の事を思い出した。
そうして自分が長女を生む時に同じ病で苦しんだ昔と照し合せて見たりした。
もう二、三日食物が通らなければ滋養灌腸をするはずだった際どいところを、よく通り抜けたものだなどと考えると、生きている方がかえって偶然のような気がした。
「女は詰らないものね」「それが女の義務なんだから仕方がない」 健三の返事は世間並であった。
けれども彼自身の頭で批判すると、全くの出鱈目に過ぎなかった。
彼は腹の中で苦笑した。
五十四
健三の気分にも上り下りがあった。
出任せにもせよ細君の心を休めるような事ばかりはいっていなかった。
時によると、不快そうに寐ている彼女の体たらくが癪に障って堪らなくなった。
枕元に突っ立ったまま、わざと樫貪に要らざる用を命じて見たりした。
細君も動かなかった。
大きな腹を畳へ着けたなり打つとも蹴るとも勝手にしろという態度をとった。
平生からあまり口数を利かない彼女は益沈黙を守って、それが夫の気を焦立たせるのを目の前に見ながら澄ましていた。
「つまりしぶといのだ」 健三の胸にはこんな言葉が細君の凡ての特色ででもあるかのように深く刻み付けられた。
彼は外の事をまるで忘れてしまわなければならなかった。
しぶといという観念だけがあらゆる注意の焦点になって来た。
彼はよそを真闇にして置いて、出来るだけ強烈な憎悪の光をこの四字の上に投げ懸けた。
細君はまた魚か蛇のように黙ってその憎悪を受取った。
従って人目には、細君が何時でも品格のある女として映る代りに、夫はどうしても気違染みた癇癪持として評価されなければならなかった。
「貴夫がそう邪慳になさると、また歇私的里を起しますよ」 細君の眼からは時々こんな光が出た。
どういうものか健三は非道くその光を怖れた。
同時に劇しくそれを悪んだ。
我慢な彼は内心に無事を祈りながら、外部では強いて勝手にしろという風を装った。
その強硬な態度のどこかに何時でも仮装に近い弱点があるのを細君は能く承知していた。
「どうせ御産で死んでしまうんだから構やしない」 彼女は健三に聞えよがしに呟やいた。
健三は死んじまえといいたくなった。
或晩彼はふと眼を覚まして、大きな眼を開いて天井を見詰ている細君を見た。
彼女の手には彼が西洋から持って帰った髪剃があった。
彼女が黒檀の鞘に折り込まれたその刃を真直に立てずに、ただ黒い柄だけを握っていたので、寒い光は彼の視覚を襲わずに済んだ。
それでも彼はぎょっとした。
半身を床の上に起して、いきなり細君の手から髪剃を※ぎ取った。
「馬鹿な真似をするな」 こういうと同時に、彼は髪剃を投げた。
髪剃は障子に篏め込んだ硝子に中って