道草

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その一本をぐるぐる廻しながら、随分俗なものだと評したら、父はすぐ「所相応だろう」と答えた事があったが、健三は今自分がその地方で作った外套を細君の父に遣って、「阿爺相応だろう」という気にはとてもなれなかった。いくら困ったってあんなものをと思うとむしろ情なくなった。

第 11 章
「でもよく着きられるね」「見っともなくみっともなくっても寒いさむいよりは好いよいでしょう」 細君さいくんは淋しさびしそうに笑っわらった。
七十三ななじゅうさん
中なか一いち日ひ置いおいて彼かれが来きた時じ、健三けんぞうは久しぶりひさしぶりで細君さいくんの父ちちに会っかいった。
年輩ねんぱいからいっても、経歴けいれきから見みても、健三けんぞうより遥かはるかに世間せけん馴れなれた父ちちは、何時もいつも自分じぶんの娘婿むすめむこに対したいして鄭てい寧ねいであった。
或ある時じは不自然ふしぜんに陥るおちいる位くらい鄭てい寧ねい過ぎすぎた。
しかしそれが彼かれを現わすあらわす凡てすべてではなかった。
裏側うらがわには反対はんたいのものが所々ところどころに起伏きふくしていた。
官僚かんりょう式しきに出来上っできあがった彼かれの眼めには、健三けんぞうの態度たいどが最初さいしょから頗るすこぶる横着おうちゃくに見えみえた。
超えこえてはならない階段かいだんを無躾ぶしつけに飛び越すとびこすようにも思わおもわれた。
その上うえ彼かれはむやみに自らみずから任じにんじているらしい健三けんぞうの高慢ちきこうまんちきな所ところを喜こばよろこばなかった。
頭あたまにある事ことを何なんでも口外こうがいして憚らはばからない健三けんぞうの無作法むさほうも気きに入らはいらなかった。
乱暴らんぼうとより外そとに取りとりようのない一徹いってつ一いち図ずな点てんも非難ひなんの標的ひょうてきになった。
健三けんぞうの稚気ちきを軽蔑けいべつした彼かれは、形式けいしきの心得こころえもなく無茶苦茶むちゃくちゃに近付いちかづいて来ようこようとする健三けんぞうを表面ひょうめん上うえ鄭てい寧ねいな態度たいどで遮っさえぎった。
すると二人ふたりは其その所ところで留まっとまったなり動けうごけなくなった。
二人ふたりは或るある間隔かんかくを置いおいて、相手あいての短所たんしょを眺めながめなければならなかった。
だから相手あいての長所ちょうしょも判明はんめいと理解りかいする事ことが出来でき悪くわるくなった。
そうして二人ふたりとも自分じぶんの有っあっている欠点けってんの大部分だいぶぶんには決してけっして気きが付かつかなかった。
しかし今いまの彼かれは健三けんぞうに対したいして疑ぎもなく一時的いちじてきの弱者じゃくしゃであった。
他ほかに頭あたまを下げるさげる事ことの嫌いやな健三けんぞうは窮迫きゅうはくの結果けっか、余儀よぎなく自分じぶんの前まえに出でて来きた彼かれを見みた時じ、すぐ同じおなじ眼めで同じおなじ境遇きょうぐうに置かおかれた自分じぶんを想像そうぞうしない訳わけに行かいかなかった。
「如何にいかにも苦しいくるしいだろう」 健三けんぞうはこの一念いちねんに制せせいせられた。
そうして彼かれの持ちもち来しきした金策きんさく談だんに耳みみを傾むけかたむけた。
けれども好いよい顔かおはし得とくなかった。
心こころのうちでは好いよい顔かおをし得とくないその自分じぶんを呪っのろっていた。
「金きんの話はなしだから好いよい顔かおが出来できないんじゃない。金きんとは独立どくりつした不愉快ふゆかいのために好いよい顔かおが出来できないのです。誤解ごかいしてはいけません。私わたくしはこんな場合ばあいに敵討かたきうちをするような卑怯ひきょうな人間にんげんとは違います」 細君さいくんの父ちちの前まえにこれだけの弁解べんかいがしたくって堪らたまらなかった健三けんぞうは、黙っだまって誤解ごかいの危険きけんを冒すおかすより外そとに仕方しかたがなかった。
このぶっきら棒ぶっきらぼうな健三けんぞうに比べるくらべると、細君さいくんの父ちちはよほど鄭てい寧ねいであった。
また落おち付いついていた。
傍そばから見れみれば遥はるかに紳士しんしらしかった。
彼かれは或人あるひとの名なを挙げあげた。
「向うむこうでは貴方あなたを知っしってるといいますが、貴方あなたも知っしってるんでしょうね」「知っしっています」 健三けんぞうは昔むかしし学校がっこうにいた時分じぶんにその男おとこを知っしっていた。
けれども深いぶかい交際こうさいはなかった。
卒業そつぎょうして独どく乙おつへ行っいって帰っかえって来きたら、急きゅうに職業しょくぎょうがえをして或ある大きなおおきな銀行ぎんこうへ入っはいったとか人ひとの噂うわさに聞いきいた位くらいより外そとに、彼かれの消息しょうそくは健三けんぞうに伝わっつたわっていなかった。
「まだ銀行ぎんこうにいるんですか」 細君さいくんの父ちちは点頭いうなずいた。
しかし二人ふたりがどこでどう知りしり合あわせになったのか、健三けんぞうには想像そうぞうさえ付かつかなかった。
またそれを詳しくくわしく訊いきいて見みたところが仕方しかたがなかった。
要点ようてんはただその人ひとが金きんを貸しかしてくれるか、くれないかの問題もんだいにあった。
「で当人とうにんのいうには、貸しかしても好いよい、好いよいが慥たしかな人ひとを証人しょうにんに立てたててもらいたいとこういうんです」「なるほど」「じゃ誰だれを立てたてたら好いよいのかと聞くきくと、貴方あなたならば貸しかしても好いよいと、向うむこうでわざわざ指名しめいした訳わけなんです」 健三けんぞうは自分自身じぶんじしんを慥たしかなものと認めるみとめるには躊躇ちゅうちょしなかった。
しかし自分自身じぶんじしんの財力ざいりょくに乏しいとぼしい事ことも職業しょくぎょうの性質せいしつ上うえ他ほかに知れしれていなければならないはずだと考えかんがえた。
その上うえ細君さいくんの父ちちは交際こうさい範囲はんいの極めてきわめて広いひろい人ひとであった。
平生へいぜい彼かれの口くちにする知合しりあいのうちには、健三けんぞうよりどの位くらい世間せけんから信用しんようされて好いよいか分らわからないほど有名ゆうめいな人ひとがいくらでもいた。
「何故なぜ私わたくしの判はんが必要ひつようなんでしょう」「貴方あなたなら貸そうかそうというのです」 健三けんぞうは考えかんがえた。
七十四ななじゅうよん
彼かれは今日きょうまで証書しょうしょを入れいれて他ほかから金きんを借りかりた経験けいけんのない男おとこであった。
つい義理ぎりで判はんを捺なついて遣っつかったのが本ほんで、立派りっぱな腕うでを有ゆうちながら、生涯しょうがい社会しゃかいの底そこに沈んしずんだまま、藻掻きもがき通しとおしに藻掻いもがいている人ひとの話はなしは、いくら迂闊うかつな彼かれの耳みみにもしばしば伝えつたえられていた。
彼かれは出来るできるなら自分じぶんの未来みらいに関わるかかわるような所作しょさを避けさけたいと思っおもった。
しかし頑固がんこな彼かれの半面はんめんにはいたって気きの弱いよわい煮えにえ切らきらない或ある物ものが能くよく働らきはたらきたがった。
この場合ばあい断然だんぜん連印れんいんを拒絶きょぜつするのは、彼かれに取っとって如何にいかにも無情むじょうで、冷れい刻こくで、心苦しかっこころぐるしかった。
「私わたくしでなくっちゃいけないのでしょうか」「貴方あなたなら好いよいというんです」 彼かれは同じおなじ事ことを二に度ど訊いきいて同じおなじ答えこたえを二に度ど受けうけた。
「どうも変へんですね」 世事せじに疎いうとい彼かれは、細君さいくんの父ちちがどこへ頼んたのんでも、もう判はんを押しおしてくれるものがないので、しまいに仕方なししかたなしに彼かれの所ところへ持っもって来きたのだという明白めいはくな事情じじょうさえ推察すいさつし得とくなかった。
彼かれは親しくしたしく交際こうさいった事こともないその銀行家ぎんこうかからそれほど信用しんようされるのがかえって怖くこわくなった。
「どんな目めに逢わさあわされるか分りゃわかりゃしない」 彼かれの心こころには未来みらいにおける自己じこの安全あんぜんという懸念けねんが充分じゅうぶんに働はたらけらいた。
同時どうじにただそれだけの利害りがい心こころでこの問題もんだいを片付けかたづけてしまうほど彼かれの性格せいかくは単純たんじゅんに出来できていなかった。
彼かれの頭あたまが彼かれに適当てきとうな解決かいけつを与えるあたえるまで彼かれは逡巡しゅんじゅんしなければならなかった。
その解決かいけつが最後さいごに来きた時じですら、彼かれはそれを細君さいくんの父ちちの前まえに持ち出すもちだすのに多大ただいの努力どりょくを払っはらった。
「印しるしを捺すおす事ことはどうも危険きけんですからやめたいと思いおもいます。しかしその代りかわり私わたくしの手てで出来るだけできるだけの金きんを調えととのえて上げあげましょう。無論むろん貯蓄ちょちくのない私わたくしの事ことだから、調えるととのえるにしたところで、どうせどこからか借りるかりるより外そとに仕方しかたがないのですが、出来るできるなら証文しょうもんを書いかいたり判はんを押しおしたりするような形式上けいしきじょうの手続きてつづきを踏むふむ金きんは借りかりたくないのです。私わたくしの有っあっている狭いせまい交際こうさいの方面ほうめんで安全あんぜんな金きんを工面くめんした方ほうが私わたくしには心持こころもちが好いよいのですから、まずそっちの方ほうを一いちつ中っちゅうって見みましょう。無論むろん御ご入用にゅうようだけの額がくは駄目だめです。私わたくしの手てで調ちょうのえる以上いじょう、私わたくしの手てで返さかえさなければならないのは無論むろんの事ことですから、身分みぶん不ふ相当そうとうの借金しゃっきんは出来できません」 いくらでも融通ゆうずうが付けつけば付いついただけ助かるたすかるといった風かぜの苦しいくるしい境遇きょうぐうに置かおかれた細君さいくんの父ちちは、それより以上いじょう健三けんぞうを強いつよいなかった。
「どうぞそれじゃ何なん分ぶん」 彼かれは健三けんぞうの着古しきふるした外套がいとうに身みを包んつつんで、寒いさむい日ひの下したを歩いあるいて帰っかえって行っいった。
書斎しょさいで話はなしを済せなせた健三けんぞうは、玄関げんかんからまた同じおなじ書斎しょさいに戻っもどったなり細君さいくんの顔かおを見みなかった。
細君さいくんも父ちちを玄関げんかんに送り出しおくりだした時じ、夫おっとと並んならんで沓脱くつぬぎの上うえに立ったっただけで、遂についに書斎しょさいへは入っはいって来きなかった。
金策きんさくの事ことは黙々もくもくのうちに二人ふたりに了解りょうかいされていながら、遂についに二人ふたりの間まの話題わだいに上らのぼらずにしまった。
けれども健三けんぞうの心こころには既にすでに責任せきにんの荷にがあった。
彼かれはそれを果すはたすために動かうごかなければならなかった。
彼かれは世帯せたいを持つもつときに、火鉢ひばちや烟草たばこ盆ぼんを一所いっしょに買っかって歩いあるいてもらった友達ともだちの宅たくへまた出掛けでかけた。
「金きんを貸しかしてくれないかね」 彼かれは藪やぶから棒ぼうに質問しつもんを掛けかけた。
金きんなどを有っあっていない友達ともだちは驚ろいおどろいた顔かおをして彼かれを見みた。
彼かれは火鉢ひばちに手てを翳しかざしながら友達ともだちの前まえに逐一ちくいち事情じじょうを話しはなした。
「どうだろう」 三さん年間ねんかん支那しなのある学堂がくどうで教鞭きょうべんを取っとっていた頃ころに蓄えたくわえた友達ともだちの金きんは、みんな電鉄でんてつか何なんかの株かぶに変形へんけいしていた。
「じゃ清水しみずに頼んたのんで見みてくれないか」 友達ともだちの妹婿いもうとむこに当るあたる清水しみずは、下町したまちのかなり繁華はんかな場所ばしょで、病院びょういんを開いひらいていた。
「さあどうかなあ。あいつもその位くらいな金きんはあるだろうが、動かせるうごかせるようになっているかしら。まあ訊いきいて見みてやろう」 友達ともだちの好意こういは幸いさいわい徒労とろうにならずに済んすんだ。
健三けんぞうの借り受けかりうけた四百よんひゃく円えんの金きんが、細君さいくんの父ちちの手てに入っはいったのは、それから四よん、五ご日ひ経っきょうって後あとの事ことであった。
七十五ななじゅうご
「己おのれは精一杯せいいっぱいの事ことをしたのだ」 健三けんぞうの腹はらにはこういう安心あんしんがあった。
従っしたがって彼かれは自分じぶんの調達ちょうたつした金きんの価値かちについて余りあまり考えかんがえなかった。
さぞ嬉しうれしがるだろうとも思わおもわない代りかわりに、これ位くらいの補助ほじょが何なんの役やくに立つたつものかという気きも起さおこさなかった。
それがどの方面ほうめんにどう消費しょうひされたかの問題もんだいになると、全くまったくの無む知識ちしきで澄ましすましていた。
細君さいくんの父ちちも其その所ところまで内状ないじょうを打ち明けるうちあけるほど彼かれに接近せっきんして来きなかった。
従来じゅうらいの牆壁しょうへきを取り払うとりはらうにはこの機会きかいがあまりに脆弱ぜいじゃく過ぎすぎた。
もしくは二人ふたりの性格せいかくがあまりに固着こちゃくし過ぎすぎていた。
父ちちは健三けんぞうよりも世間せけん的まとに虚栄心きょえいしんの強いつよい男おとこであった。
なるべく自分じぶんを他ほかに能くよく了解りょうかいさせようと力めるりきめるよりも、出来るだけできるだけ自分じぶんの価値かちを明るいあかるい光線こうせんに触ふれてさせたがる性質せいしつであった。
従っしたがって彼かれを囲繞いじょうする妻子さいし近親きんしんに対するたいする彼かれの様子ようすは幾分いくぶんか誇大こだいに傾けいむきがちであった。
境遇きょうぐうが急きゅうに失意しついの方面ほうめんに一転いってんした時じ、彼かれは自分じぶんの平生へいぜいを顧みかえりみない訳わけに行かいかなかった。
彼かれはそれを糊塗ことするため、健三けんぞうに向っむかって能うあたう限りかぎりさあらぬ態度たいどを装っよそおった。
それで遂についに押し通せおしとおせなくなった揚句あげく、彼かれはとうとう健三けんぞうに連印れんいんを求めもとめたのである。
けれども彼かれがどの位くらいの負債ふさいにどう苦しめくるしめられているかという巨細きょさいの事実じじつは、遂についに健三けんぞうの耳みみに入らはいらなかった。
健三けんぞうも訊かきかなかった。
二人ふたりは今までいままでの距離きょりを保ったもったままで互たがいに手てを出し合っだしあった。
一人ひとりが渡すわたす金きんを一人ひとりが受け取っうけとった時じ、二人ふたりは出しだした手てをまた引き込めひきこめた。
傍そばでそれを見みていた細君さいくんは黙っだまって何なんともいわなかった。
健三けんぞうが外国がいこくから帰っかえった当座とうざの二人ふたりは、まだこれほどに離れはなれていなかった。
彼かれが新宅しんたくを構えかまえて間まもない頃ころ、彼かれは細君さいくんの父ちちがある鉱山こうざん事業じぎょうに手てを出しだしたという話はなしを聞いきいて驚ろいおどろいた事ことがあった。
「山やまを掘るほるんだって?」「ええ、何なんでも新らしくあたらしく会社かいしゃを拵えるこしらえるんだそうです」 彼かれは眉まゆを顰めしかめた。
同時どうじに彼かれは父ちちの怪力かいりきに幾分いくぶんかの信用しんようを置いおいていた。
「旨くうまく行くいくのかね」「どうですか」 健三けんぞうと細君さいくんとの間まにこんな簡単かんたんな会話かいわが取りとり換かえわされた後あと、彼かれはその用事ようじを帯びおびて北国きたぐにのある都会とかいへ向けむけて出発しゅっぱつしたという父ちちの報知ほうちを細君さいくんから受け取っうけとった。
すると一いち週間しゅうかんばかりして彼女かのじょの母ははが突然とつぜん健三けんぞうの所ところへ遣っつかって来きた。
父ちちが旅先たびさきで急きゅうに病気びょうきに罹っかかったので、これから自分じぶんも行かいかなければならないと思うおもうが、それについて旅費りょひの都合つごうは出来できまいかというのが母ははの用よう向むかいであった。
「ええええ旅費りょひ位くらいどうでもして上うえますから、すぐ行っいって御上おかみなさい」 宿屋やどやに寐ぬている苦しいくるしい人ひとと、汽車きしゃで立ったって行くいく寒いさむい人ひととを心こころから気の毒きのどくに思っおもった健三けんぞうは、自分じぶんのまだ見みた事こともない遠くとおくの空そらの佗びしわびしさまで想像そうぞうの眼めに浮べうかべた。
「何しろなにしろ電報でんぽうが来きただけで、詳しいくわしい事ことはまるで分りわかりませんのですから」「じゃなお御ご心配しんぱいでしょう。なるべく早くはやく御ご立ちたちになる方ほうが好いよいでしょう」 幸いさいわいにして父ちちの病気びょうきは軽かっかるかった。
しかし彼かれの手てを着けつけかけたという鉱山こうざん事業じぎょうはそれぎり立たて消しょうになってしまった。
「まだ何になんにも見付からみつけからないのかね、口くちは」「あるにはあるようですけれども旨くうまく纏らまとまらないんですって」 細君さいくんは父ちちがある大きなおおきな都会とかいの市長しちょうの候補者こうほしゃになった話はなしをして聞かきかせた。
その運動うんどう費ひは財力ざいりょくのある彼かれの旧友きゅうゆうの一人ひとりが負担ふたんしてくれているようであった。
しかし市しの有志ゆうし家いえが何なん名なか打ち揃っうちそろって上京じょうきょうした時じに、有名ゆうめいな政治家せいじかのある伯爵はくしゃくに会っかいって、父ちちの適てき不適ふてきを問いとい訊しただしたら、その伯爵はくしゃくがどうも不ふ向むかいだろうと答えこたえたので、話はなしはそれぎりでやめになったのだそうである。
「どうも困るこまるね」「今いまに何なんとかなるでしょう」 細君さいくんは健三けんぞうよりも自分じぶんの父ちちの方ほうを遥かはるかに余計よけい信用しんようしていた。
健三けんぞうも例れいの怪力かいりきを知らしらないではなかった。
「ただ気の毒きのどくだからそういうだけさ」 彼かれの言葉ことばに嘘うそはなかった。
七十六ななじゅうろく
けれどもその次つぎに細君さいくんの父ちちが健三けんぞうを訪問ほうもんした時じには、二人ふたりの関係かんけいがもう変っかわっていた。
自らみずから進んすすんで母ははに旅費りょひを用立っようだった女婿じょせいは、一歩いちほ退ぞかしりぞかなければならなかった。
彼かれは比較的ひかくてき遠いとおい距離きょりに立ったって細君さいくんの父ちちを眺めながめた。
しかし彼かれの眼めに漂ようただよう色いろは冷淡れいたんでも無頓着むとんちゃくでもなかった。
むしろ黒いくろい瞳ひとみから閃めこうひらめこうとする反感はんかんの稲妻いなずまであった。
力めりきめてその稲妻いなずまを隠そうかくそうとした彼かれは、やむをえずこの鋭どくするどく光るひかるものに冷淡れいたんと無頓着むとんちゃくの仮装かそうを着せきせた。
父ちちは悲境ひきょうにいた。
まのあたり見るみる父ちちは鄭てい寧ねいであった。
この二につのものが健三けんぞうの自然しぜんに圧迫あっぱくを加えくわえた。
積極的せっきょくてきに突とっ掛るかかる事ことの出来できない彼かれは控えひかえなければならなかった。
単なるたんなる無愛想むあいその程度ていどで我慢がまんすべく余儀よぎなくされた彼かれには、相手あいての苦しいくるしい現状げんじょうと慇懃いんぎんな態度たいどとが、かえってわが天真てんしんの流露りゅうろを妨げるさまたげる邪魔物じゃまものになった。
彼かれからいえば、父ちちはこういう意味いみにおいて彼かれを苦しめくるしめに来きたと同じおなじ事ことであった。
父ちちからいえば、普通ふつうの人ひととしてさえ不都合ふつごうに近いちかい愚劣ぐれつな応対おうたいぶりを、自分じぶんの女婿じょせいに見み出すだすのは、堪えこらえがたい馬鹿ばからしさに違いなかった。
前後ぜんごと関係かんけいのないこの場ばだけの光景こうけいを眺めるながめる傍観者ぼうかんしゃの眼めにも健三けんぞうはやはり馬鹿ばかであった。
それを承知しょうちしている細君さいくんにすら、夫おっとは決してけっして賢こいかしこい男おとこではなかった。
「私わたくしも今度こんどという今度こんどは困りこまりました」 最初さいしょにこういった父ちちは健三けんぞうからはかばかしい返事へんじすら得とくなかった。
父ちちはやがて財界ざいかいで有名ゆうめいな或人あるひとの名なを挙げあげた。
その人ひとは銀行家ぎんこうかでもあり、また実業家じつぎょうかでもあった。
「実じつはこの間まある人ひとの周旋しゅうせんで会っかいって見みましたが、どうか旨くうまく出来できそうですよ。三井みついと三菱みつびしを除けよけば日本にっぽんではまあ彼所かしこ位くらいなもんですから、使用人しようにんになったからといって、別べつに私わたくしの体面たいめんに関わるかかわる事こともありませんし、それに仕事しごとをする区域くいきも広いひろいようですから、面白くおもしろく働けるはたらけるだろうと思うおもうんです」 この財力ざいりょく家いえによって細君さいくんの父ちちに予約よやくされた位地いちというのは、関西かんさいにある或ある私立しりつの鉄道会社てつどうかいしゃの社長しゃちょうであった。
会社かいしゃの株かぶの大部分だいぶぶんを一人ひとりで所有しょゆうしているその人ひとは、自分じぶんの意志いしのままに、其その所ところの社長しゃちょうを選ぶえらぶ特権とっけんを有しゆうしていたのである。
しかし何十なんじゅう株かぶか何百なんびゃく株かぶかの持主もちぬしとして、予よじめ資格しかくを作っつくって置かおかなければならない父ちちは、どうして金きんの工面くめんをするだろう。
事こと状じょうに通じつうじない健三けんぞうにはこの疑問ぎもんさえ解けとけなかった。
「一いち時じ必要ひつような株数かぶすうだけを私わたくしの名な儀ぎに書換かきかえてもらうんです」 健三けんぞうは父ちちの言葉ことばに疑ぎを挟むはさむほど、彼かれの才能さいのうを見縊っみくびっていなかった。
彼かれと彼かれの家族かぞくとを目下めしたの苦境くきょうから解脱げだつさせるという意味いみにおいても、その成功せいこうを希望きぼうしない訳わけに行かいかなかった。
しかし依然いぜんとして元もとの立場たちばに立ったっている事ことも改めるあらためる訳わけに行かいかなかった。
彼かれの挨拶あいさつは形式的けいしきてきであった。
そうして幾分いくぶんか彼かれの心こころの柔らかいやわらかい部分ぶぶんをわざと堅苦しくかたくるしくした。
老巧ろうこうな父ちちはまるで其その所ところに注意ちゅういを払わはらわないように見えみえた。
「しかし困るこまる事ことに、これは今いまが今いまという訳わけに行かいかないのです。時機じきがあるものですからな」 彼かれは懐ふところからまた一いち枚ばいの辞令じれい見みたようなものを出しだして健三けんぞうに見せみせた。
それには或ある保険会社ほけんかいしゃが彼かれに顧問こもんを嘱託しょくたくするという文句もんくと、その報酬ほうしゅうとして月々つきづき彼かれに百ひゃく円えんを贈与ぞうよするという条件じょうけんが書いかいてあった。
「今いま御ご話しはなした一方いっぽうの方ほうが出来できたらこれはやめるか、または出来できても続けつづけてやるか、その辺へんはまだ分らわからないんですが、とにかく百ひゃく円えんでも当座とうざの凌ぎしのぎにはなりますから」 昔むかしし彼かれが政府せいふの内意ないいで或ある官職かんしょくを抛っほうった時じ、当路とうろの人ひとは山陰さんいん道筋みちすじのある地方ちほうの知事ちじなら転任てんにんさせても好いよいという条件じょうけんを付けつけた事ことがあった。
しかし彼かれは断然だんぜんそれを斥ぞけた。
彼かれが今いま大してたいして隆盛りゅうせいでもない保険会社ほけんかいしゃから百ひゃく円えんの金きんを貰っもらって、別べつに厭いやな顔かおをしないのも、やはり境遇きょうぐうの変化へんかが彼かれの性格せいかくに及ぼすおよぼす影響えいきょうに相違そういなかった。
こうした懸け隔てかけへだてのない父ちちの態度たいどは、ややともすると健三けんぞうを自分じぶんの立場たちばから前まえへ押し出そうおしだそうとした。
その傾向けいこうを意識いしきするや否いなや彼かれはまた後戻りあともどりをしなければならなかった。
彼かれの自然しぜんは不自然ふしぜんらしく見えるみえる彼かれの態度たいどを倫理的りんりてきに認可にんかしたのである。
七十七ななじゅうなな
細君さいくんの父ちちは事務家じむかであった。
ややともすると仕事しごと本位ほんいの立場たちばからばかり人ひとを評価ひょうかしたがった。
乃木のぎ将軍しょうぐんが一時いちじ台湾たいわん総督そうとくになって間まもなくそれをやめた時じ、彼かれは健三けんぞうに向っむかってこんな事ことをいった。
――「個人こじんとしての乃木のぎさんは義ぎに堅くかたく情じょうに篤くあつく実じつに立派りっぱなものです。しかし総督そうとくとしての乃木のぎさんが果してはたして適任てきにんであるかどうかという問題もんだいになると、議論ぎろんの余地よちがまだ大分おおいたあるように思いおもいます。個人こじんの徳とくは自分じぶんに親しくしたしく接触せっしょくする左右さゆうのものには能くよく及ぶおよぶかも知れしれませんが、遠くとおく離れはなれた被治者ひちしゃに利益りえきを与えようあたえようとするには不充分ふじゅうぶんです。其その所ところへ行くいくとやっぱり手腕しゅわんですね。手腕しゅわんがなくっちゃ、どんな善人ぜんにんでもただ坐っすわっているより外そとに仕方しかたがありませんからね」 彼かれは在職ざいしょく中なかの関係かんけいから或ある会かいの事務じむ一切いっさいを管理かんりしていた。
侯爵こうしゃくを会頭かいとうに頂くいただくその会かいは、彼かれの力ちからで設立せつりつの主意しゅいを綺麗きれいに事業じぎょうの上うえで完成かんせいした後あと、彼かれの手元てもとに二万にまん円えんほどの剰余金じょうよきんを委ねゆだねた。
官途かんとに縁えんがなくなってから、不如意ふにょいに不如意ふにょいの続いつづいた彼かれは、ついその委託いたく金きんに手てを付けつけた。
そうして何時なんじの間まにか全部ぜんぶを消費しょうひしてしまった。
しかし彼かれは自家じかの信用しんようを維持いじするために誰だれにもそれを打ち明けうちあけなかった。
従っしたがって彼かれはこの預金よきんから当然とうぜん生まれうまれて来るくる百ひゃく円えん近くちかくの利子りしを毎月まいつき調達ちょうたつして、体面たいめんを繕つくろいろわなければならなかった。
自家じかの経済けいざいよりもかえってこの方ほうを苦くに病んやんでいた彼かれが、公こう生涯しょうがいの持続じぞくに絶対ぜったいに必要ひつようなその百ひゃく円えんを、月々つきづき保険会社ほけんかいしゃから貰うもらうようになったのは、当時とうじの彼かれの心中しんじゅうに立入ったちいって考えかんがえて見るみると、全くまったく嬉しいうれしいに違いなかった。
よほど後あとになって始めてはじめてこの話はなしを細君さいくんから聴いきいた健三けんぞうは、彼女かのじょの父ちちに対したいして新たあらたな同情どうじょうを感じかんじただけで、不徳義ふとくぎ漢かんとして彼かれを悪むにくむ気きは更にさらに起らおこらなかった。
そういう男おとこの娘むすめと夫婦ふうふになっているのが恥ずかしいはずかしいなどとは更にさらに思わおもわなかった。
しかし細君さいくんに対したいしての健三けんぞうは、この点てんに関しかんして殆んどほとんど無言むごんであった。
細君さいくんは時々ときどき彼かれに向っむかっていった。
――「妾めかけ、どんな夫おっとでも構いかまいませんわ、ただ自分じぶんに好くよくしてくれさえすれば」「泥棒どろぼうでも構わかまわないのかい」「ええええ、泥棒どろぼうだろうが、詐欺師さぎしだろうが何なんでも好いよいわ。ただ女房にょうぼうを大事だいじにしてくれれば、それで沢山たくさんなのよ。いくら偉いえらい男おとこだって、立派りっぱな人間にんげんだって、宅たくで不親切ふしんせつじゃ妾めかけにゃ何になんにもならないんですもの」 実際じっさい細君さいくんはこの言葉ことば通りとおりの女おんなであった。
健三けんぞうもその意見いけんには賛成さんせいであった。
けれども彼かれの推察すいさつは月つきの暈かさのように細君さいくんの言外げんがいまで滲み出しにじみだした。
学問がくもんばかりに屈託くったくしている自分じぶんを、彼女かのじょがこういう言葉ことばでよそながら非難ひなんするのだという臭においがどこやらでした。
しかしそれよりも遥かはるかに強くつよく、夫おっとの心こころを知らしらない彼女かのじょがこんな態度たいどで暗にあんに自分じぶんの父ちちを弁護べんごするのではないかという感じかんじが健三けんぞうの胸むねを打っうった。
「己おのれはそんな事ことで人ひとと離れるはなれる人間にんげんじゃない」 自分じぶんを細君さいくんに説明せつめいしようと力めりきめなかった彼かれも、独りひとりで弁解べんかいの言葉ことばを繰り返すくりかえす事ことは忘れわすれなかった。
しかし細君さいくんの父ちちと彼かれとの交情こうじょうに、自然しぜんの溝渠こうきょが出来できたのは、やはり父ちちの重きおもきを置きおき過ぎすぎている手腕しゅわんの結果けっかとしか彼かれには思えおもえなかった。
健三けんぞうは正月しょうがつに父ちちの所ところへ礼れいに行かいかなかった。
恭賀新年きょうがしんねんという端書はしがきだけを出しだした。
父ちちはそれを寛仮かんかさなかった。
表ひょう向むかいそれを咎めるとがめる事こともしなかった。
彼かれは十二じゅうに、三さんになる末すえの子こに、同じくおなじく恭賀新年きょうがしんねんという曲りくねっまがりくねった字じを書かしかかして、その子この名前なまえで健三けんぞうに賀状がじょうの返しかえしをした。
こういう手腕しゅわんで彼かれに返報へんぽうする事ことを巨細きょさいに心得こころえていた彼かれは、何故なぜ健三けんぞうが細君さいくんの父ちちたる彼かれに、賀正がしょうを口ずからくちずから述べのべなかったかの源みなもと因いんについては全くまったく無む反省はんせいであった。
一事いちじは万事ばんじに通じつうじた。
利りが利りを生みうみ、子こに子こが出来できた。
二人ふたりは次第しだいに遠ざかっとおざかった。
やむをえないで犯すおかす罪つみと、遣らやらんでも済むすむのにわざと遂行すいこうする過失かしつとの間まに、大変たいへんな区別くべつを立てたてている健三けんぞうは、性質せいしつの宜しくよろしくないこの余裕よゆうを非常ひじょうに悪みにくみ出しだした。
七十八ななじゅうはち
「与しくみしやすい男おとこだ」 実際じっさいにおいて与しくみしやすい或ある物ものを多量たりょうに有っあっていると自覚じかくしながらも、健三けんぞうは他ほかからこう思わおもわれるのが癪しゃくに障っさわった。
彼かれの神経しんけいはこの肝きも癪しゃくを乗り超えのりこえた人ひとに向っむかって鋭どいするどい懐しみなつかしみを感じかんじた。
彼かれは群衆ぐんしゅうのうちにあって直そうなおそういう人ひとを物色ぶっしょくする事ことの出来るできる眼めを有っあっていた。
けれども彼かれ自身じしんはどうしてもその域いきに達せたっせられなかった。
だからなおそういう人ひとが眼めに着いついた。
またそういう人ひとを余計よけい尊敬そんけいしたくなった。
同時どうじに彼かれは自分じぶんを罵っののしった。
しかし自分じぶんを罵らののしらせるようにする相手あいてをば更にさらに烈しくはげしく罵っののしった。
かくして細君さいくんの父ちちと彼かれとの間まには自然しぜんの造っつくった溝渠こうきょが次第しだいに出来上っできあがった。
彼かれに対するたいする細君さいくんの態度たいども暗にあんにそれを手伝ってつだったには相違そういなかった。
二人ふたりの間柄あいだがらがすれすれになると、細君さいくんの心こころは段々だんだん生家せいかの方ほうへ傾いかたむいて行っいった。
生家せいかでも同情どうじょうの結果けっか、冥々めいめいの裡りに細君さいくんの肩かたを持たもたなければならなくなった。
しかし細君さいくんの肩かたを持つもつという事ことは、或ある場合ばあいにおいて、健三けんぞうを敵てきとするという意味いみに外そとならなかった。
二人ふたりは益えき離れるはなれるだけであった。
幸みゆきにして自然しぜんは緩和かんわ剤ざいとしての歇私的まと里さとを細君さいくんに与えあたえた。
発作ほっさは都合つごう好くよく二人ふたりの関係かんけいが緊張きんちょうした間際まぎわに起っおこった。
健三けんぞうは時々ときどき便所べんじょへ通うかよう廊下ろうかに俯伏になって倒れたおれている細君さいくんを抱き起しだきおこして床ゆかの上うえまで連れつれて来きた。
真夜中まよなかに雨戸あまどを一いち枚ばい明けあけた縁側えんがわの端はしに蹲踞そんきょっている彼女かのじょを、後あとから両手りょうてで支えささえて、寝室しんしつへ戻っもどって来きた経験けいけんもあった。
そんな時じに限っかぎって、彼女かのじょの意識いしきは何時なんじでも朦朧もうろうとして夢ゆめよりも分別ぶんべつがなかった。
瞳孔どうこうが大きくおおきく開いひらいていた。
外界がいかいはただ幻影げんえいのように映るうつるらしかった。
枕辺まくらべに坐っすわって彼女かのじょの顔かおを見詰めみつめている健三けんぞうの眼めには何時なんじでも不安ふあんが閃めいひらめいた。
時じとしては不憫ふびんの念ねんが凡てすべてに打ち勝っうちかった。
彼かれは能くよく気の毒きのどくな細君さいくんの乱れみだれかかった髪かみに櫛くしを入れいれて遣っつかった。
汗あせばんだ額がくを濡れぬれ手拭てぬぐいで拭いぬぐいて遣っつかった。
たまには気きを確かくにするために、顔かおへ霧きりを吹き掛けふきかけたり、口移しくちうつしに水みずを飲まのませたりした。
発作ほっさの今いまよりも劇しかっはげしかった昔むかしの様ようも健三けんぞうの記憶きおくを刺戟しげきした。
或ある時じの彼かれは毎夜まいよ細いほそい紐ひもで自分じぶんの帯おびと細君さいくんの帯おびとを繋いつないで寐ぬた。
紐ひもの長さながさを四よん尺さしほどにして、寐ぬ返りかえりが充分じゅうぶん出来るできるように工夫くふうされたこの用意よういは、細君さいくんの抗議こうぎなしに幾いく晩ばんも繰り返さくりかえされた。
或ある時じの彼かれは細君さいくんの鳩尾みずおちへ茶碗ちゃわんの糸底いとぞこを宛ずつがって、力任せちからまかせに押し付けおしつけた。
それでも踏んふん反り返ろうそりかえろうとする彼女かのじょの魔力まりょくをこの一いち点てんで喰いくい留めとめなければならない彼かれは冷たいつめたい油汗あぶらあせを流しながした。
或ある時じの彼かれは不思議ふしぎな言葉ことばを彼女かのじょの口くちから聞かさきかされた。
「御ご天道てんとさまが来きました。五色ごしきの雲くもへ乗っのって来きました。大変たいへんよ、貴夫たかお」「妾めかけの赤ん坊あかんぼうは死んしんじまった。妾めかけの死んしんだ赤ん坊あかんぼうが来きたから行かいかなくっちゃならない。そら其その所ところにいるじゃありませんか。桔槹きっこうの中なかに。妾めかけちょっと行っいって見みて来るくるから放しはなして下さいください」 流産りゅうざんしてから間まもない彼女かのじょは、抱き竦めだきすくめにかかる健三けんぞうの手てを振り払っふりはらって、こういいながら起き上がろうおきあがろうとしたのである。
…… 細君さいくんの発作ほっさは健三けんぞうに取っとっての大いなるおおいなる不安ふあんであった。
しかし大抵たいていの場合ばあいにはその不安ふあんの上うえに、より大いなるおおいなる慈愛じあいの雲くもが靉靆あいたいいていた。
彼かれは心配しんぱいよりも可哀想かわいそうになった。
弱いよわい憐れあわれなものの前まえに頭あたまを下げさげて、出来でき得るうる限りかぎり機嫌きげんを取っとった。
細君さいくんも嬉しうれしそうな顔かおをした。
だから発作ほっさに故意こいだろうという疑ぎの掛からかかりからない以上いじょう、また余りあまりに肝きも癪しゃくが強きょう過ぎすぎて、どうでも勝手にかってにしろという気きにならない以上いじょう、最後さいごにその度数どすうが自然しぜんの同情どうじょうを妨げさまたげて、何なんでそう己おのれを苦しめるくるしめるのかという不平ふへいが高まらたかまらない以上いじょう、細君さいくんの病気びょうきは二人ふたりの仲なかを和らげるやわらげる方法ほうほうとして、健三けんぞうに必要ひつようであった。
不幸ふこうにして細君さいくんの父ちちと健三けんぞうとの間まにはこういう重宝ちょうほうな緩和かんわ剤ざいが存在そんざいしていなかった。
従っしたがって細君さいくんが本ほんで出来できた両者りょうしゃの疎隔そかくは、たとい夫婦関係ふうふかんけいが常つねに復しふくした後あとでも、ちょっと埋めるうめる訳わけに行かいかなかった。
それは不思議ふしぎな現象げんしょうであった。
けれども事実じじつに相違そういなかった。
七十九ななじゅうきゅう
不合理ふごうりな事ことの嫌いやな健三けんぞうは心こころの中なかでそれを苦くに病んやんだ。
けれども別べつにどうする了簡りょうけんも出さださなかった。
彼かれの性質せいしつはむきでもあり一いち図ずでもあったと共ともに頗るすこぶる消極的しょうきょくてきな傾向けいこうを帯びおびていた。
「己おのれにそんな義務ぎむはない」 自分じぶんに訊いきいて、自分じぶんに答こたえを得とくた彼かれは、その答こたえを根本的こんぽんてきなものと信じしんじた。
彼かれは何時なんじまでも不愉快ふゆかいの中なかで起臥きがする決心けっしんをした。
成行なりゆきが自然しぜんに解決かいけつを付けつけてくれるだろうとさえ予期よきしなかった。
不幸ふこうにして細君さいくんもまたこの点てんにおいてどこまでも消極的しょうきょくてきな態度たいどを離れはなれなかった。
彼女かのじょは何なんか事件じけんがあれば動くうごく女おんなであった。
他ほかから頼またのまれて男おとこより邁進まいしんする場合ばあいもあった。
しかしそれは眼前がんぜんに手てで触れふれられるだけの明瞭めいりょうな或ある物ものを捉まえつかまえた時じに限っかぎっていた。
ところが彼女かのじょの見みた夫婦関係ふうふかんけいには、そんな物ものがどこにも存在そんざいしていなかった。
自分じぶんの父ちちと健三けんぞうの間まにもこれというほどの破綻はたんは認めみとめられなかった。
大きなおおきな具象ぐしょう的まとな変化へんかでなければ事件じけんと認めみとめない彼女かのじょはその他ほかを閑却かんきゃくした。
自分じぶんと、自分じぶんの父ちちと、夫おっととの間まに起るおこる精神せいしん状態じょうたいの動揺どうようは手ての着けようつけようのないものだと観じかんじていた。
「だって何になんにもないじゃありませんか」 裏面りめんにその動揺どうようを意識いしきしつつ彼女かのじょはこう答えこたえなければならなかった。
彼女かのじょに最ももっとも正当せいとうと思わおもわれたこの答こたえが、時じとして虚偽きょぎの響ひびきをもって健三けんぞうの耳みみを打つうつ事ことがあっても、彼女かのじょは決してけっして動かうごかなかった。
しまいにどうなっても構わかまわないという投げ遣りなげやりの気分きぶんが、単にたんに消極的しょうきょくてきな彼女かのじょをなおの事こと消極的しょうきょくてきに練りねり堅めかためて行っいった。
かくして夫婦ふうふの態度たいどは悪いわるい所ところで一致いっちした。
相互そうごの不調和ふちょうわを永続えいぞくするためにと評さひょうされても仕方しかたのないこの一致いっちは、根強いねづよい彼かれらの性格せいかくから割り出さわりだされていた。
偶然ぐうぜんというよりもむしろ必然ひつぜんの結果けっかであった。
互たがいに顔かおを見合せみあわせた彼かれらは、相手あいての人相にんそうで自分じぶんの運命うんめいを判断はんだんした。
細君さいくんの父ちちが健三けんぞうの手てで調達ちょうたつされた金きんを受取っうけとって帰っかえってから、それを特別とくべつの問題もんだいともしなかった夫婦ふうふは、かえって余事よじを話し合っはなしあった。
「産婆さんばは何時頃いつごろ生れるうまれるというのかい」「何時なんじって判然はんぜんいいもしませんが、もう直じかですわ」「用意よういは出来できてるのかい」「ええ奥おくの戸棚とだなの中なかに入っはいっています」 健三けんぞうには何なんが這入っはいっているのか分らわからなかった。
細君さいくんは苦しくるしそうに大きなおおきな溜息ためいきを吐いはいた。
「何しろなにしろこう重苦しくおもくるしくっちゃ堪らたまらない。早くはやく生れうまれてくれなくっちゃ」「今度こんどは死ぬしぬかも知れしれないっていってたじゃないか」「ええ、死んしんでも何なんでも構わかまわないから、早くはやく生んうんじまいたいわ」「どうも御ご気の毒きのどくさまだな」「好いよいわ、死ねしねば貴夫たかおのせいだから」 健三けんぞうは遠いとおい田舎いなかで細君さいくんが長女ちょうじょを生んうんだ時じの光景こうけいを憶い出しおもいだした。
不安ふあんそうに苦いにがい顔かおをしていた彼かれが、産婆さんばから少しすこし手てを貸しかしてくれといわれて産室さんしつへ入っはいった時じ、彼女かのじょは骨ほねに応えるこたえるような恐ろしいおそろしい力ちからでいきなり健三けんぞうの腕うでに獅噛しかみみ付いついた。
そうして拷問ごうもんでもされる人ひとのように唸っうなった。
彼かれは自分じぶんの細君さいくんが身体しんたいの上うえに受けうけつつある苦痛くつうを精神的せいしんてきに感じかんじた。
自分じぶんが罪人ざいにんではないかという気きさえした。
「産さんをするのも苦しいくるしいだろうが、それを見みているのも辛いつらいものだぜ」「じゃどこかへ遊びあそびにでもいらっしゃいな」「一人ひとりで生めるうめるかい」 細君さいくんは何なんとも答えこたえなかった。
夫おっとが外国がいこくへ行っいっている留守るすに、次つぎの娘むすめを生んうんだ時じの事ことなどはまるで口くちにしなかった。
健三けんぞうも訊いきいて見ようみようとは思わおもわなかった。
生れうまれ付ふ心配性しんぱいせいな彼かれは、細君さいくんの唸り声うなりごえを余所よそにして、ぶらぶら外そとを歩いあるいていられるような男おとこではなかった。
産婆さんばが次つぎに顔かおを出しだした時じ、彼かれは念ねんを押しおした。
「一いち週間しゅうかん以内いないかね」「いえもう少しすこし後あとでしょう」 健三けんぞうも細君さいくんもその気きでいた。
八十はちじゅう
日ひ取とりが狂っくるって予期よきより早くはやく産気さんけづいた細君さいくんは、苦しくるしそうな声こえを出しだして、傍そばに寐ぬている夫おっとの夢ゆめを驚ろかしおどろかした。
「先刻せんこくから急きゅうに御腹おなかが痛みいたみ出しだして……」「もう出でそうなのかい」 健三けんぞうにはどの位くらいな程度ていどで細君さいくんの腹はらが痛んいたんでいるのか分らわからなかった。
彼かれは寒いさむい夜よるの中なかに夜具やぐから顔かおだけ出しだして、細君さいくんの様子ようすをそっと眺めながめた。
「少しすこし撫っさすって遣ろうやろうか」 起き上るおきあがる事ことの臆劫おっくうな彼かれは出来るだけできるだけ口先くちさきで間まに合せようあわせようとした。
彼かれは産さんについての経験けいけんをただ一度いちどしか有っあっていなかった。
その経験けいけんも大方おおかたは忘れわすれていた。
けれども長女ちょうじょの生れるうまれる時じには、こういう痛みいたみが、潮しおの満干まんかんのように、何度なんども来きたり去っさったりしたように思えおもえた。
「そう急きゅうに生れるうまれるもんじゃないだろうな、子供こどもってものは。一いち仕切しきり痛んいたんではまた一いち仕切しきり治まるおさまるんだろう」「何なんだか知らしらないけれども段々だんだん痛くいたくなるだけですわ」 細君さいくんの態度たいどは明らかあきらかに彼女かのじょの言葉ことばを証拠しょうこ立てたてた。
凝とじっと蒲団ふとんの上うえに落おち付いついていられない彼女かのじょは、枕まくらを外しはずして右みぎを向いむかいたり左ひだりへ動いうごいたりした。
男おとこの健三けんぞうには手ての着けつけようがなかった。
「産婆さんばを呼ぼうよぼうか」「ええ、早くはやく」 職業柄しょくぎょうがら産婆さんばの宅たくには電話でんわが掛っかかっていたけれども、彼かれの家いえにそんな気きの利いきいた設備せつびのあろうはずはなかった。
至急しきゅうを要するようする場合ばあいが起るおこるたびに、彼かれは何時なんじでも掛りかかりつけの近所きんじょの医者いしゃの所ところへ馳はせけ付けるつけるのを例れいにしていた。
初冬しょとうの暗いくらい夜よるはまだ明け離れるあけはなれるのに大分おおいた間まがあった。
彼かれはその人ひととその人ひとの門もんを敲くたたく下女げじょの迷惑めいわくを察しさっした。
しかし夜明よあけまで安閑あんかんと待つまつ勇気ゆうきがなかった。
寝室しんしつの襖ふすまを開けあけて、次の間つぎのまから茶の間ちゃのまを通っとおって、下女げじょ部屋へやの入口いりぐちまで来きた彼かれは、すぐ召使めしつかいの一人ひとりを急き立てせきたてて暗いくらい夜よるの中なかへ追い遣っおいやった。
彼かれが細君さいくんの枕元まくらもとへ帰っかえって来きた時じ、彼女かのじょの痛みいたみは益えき劇しくはげしくなった。
彼かれの神経しんけいは一いち分ぶんごとに門前もんぜんで停るとまる車くるまの響ひびきを待ち受けまちうけなければならないほどに緊張きんちょうして来きた。
産婆さんばは容易よういに来きなかった。
細君さいくんの唸るうなる声こえが絶間たえまなく静かしずかな夜よるの室むろを不安ふあんに攪き乱しみだした。
五ご分ぶん経つたつか経たへたないうちに、彼女かのじょは「もう生れうまれます」と夫おっとに宣告せんこくした。
そうして今までいままで我慢がまんに我慢がまんを重ねかさねて怺えこらえて来きたような叫び声さけびごえを一度いちどに揚げるあげると共ともに胎児たいじを分娩ぶんべんした。
「確かたしかりしろ」 すぐ立ったって蒲団ふとんの裾すその方ほうに廻っまわった健三けんぞうは、どうして好いよいか分らわからなかった。
その時じ例れいの洋燈らんぷは細長いほそながい火蓋ひぶたの中なかで、死しのように静かしずかな光ひかりを薄暗くうすぐらく室内しつないに投げなげた。
健三けんぞうの眼めを落しおとしている辺へんは、夜具やぐの縞柄しまがらさえ判明はんめいしないぼんやりした陰かげで一面いちめんに裹まれていた。
彼かれは狼狽ろうばいした。
けれども洋燈らんぷを移しうつして其その所ところを輝あきらすのは、男子だんしの見るみるべからざるものを強いつよいて見るみるような心持こころもちがして気きが引けひけた。
彼かれはやむをえず暗中あんちゅうに摸索もさくした。
彼かれの右手みぎては忽ちたちまち一種いっしゅ異様いようの触覚しょっかくをもって、今までいままで経験けいけんした事ことのない或ある物ものに触れふれた。
その或ある物ものは寒天かんてんのようにぷりぷりしていた。
そうして輪廓りんかくからいっても恰好かっこの判然はんぜんしない何なんかの塊かたまりに過ぎすぎなかった。
彼かれは気味きみの悪いわるい感じかんじを彼かれの全身ぜんしんに伝えるつたえるこの塊かたまりを軽くかるく指頭しとうで撫でなでて見みた。
塊りかたまりは動きうごきもしなければ泣きなきもしなかった。
ただ撫でるなでるたんびにぷりぷりした寒天かんてんのようなものが剥げ落ちるはげおちるように思えおもえた。
もし強くつよく抑えおさえたり持っもったりすれば、全体ぜんたいがきっと崩れくずれてしまうに違いないと彼かれは考えかんがえた。
彼かれは恐ろしくおそろしくなって急きゅうに手てを引込めひっこめた。
「しかしこのままにして放っはなって置いおいたら、風邪かぜを引くひくだろう、寒ささむさで凍えこごえてしまうだろう」 死んしんでいるか生きいきているかさえ弁別べんべつのつかない彼かれにもこういう懸念けねんが湧いわいた。
彼かれは忽ちたちまち出産しゅっさんの用意よういが戸棚とだなの中なかに入れいれてあるといった細君さいくんの言葉ことばを思い出しおもいだした。
そうしてすぐ自分じぶんの後部こうぶにある唐紙とうしを開けあけた。
彼かれは其その所ところから多量たりょうの綿めんを引き摺りひきずり出しだした。
脱脂綿だっしめんという名なさえ知らしらなかった彼かれは、それをむやみに千切っちぎって、柔かいやわらかい塊かたまりの上うえに載せのせた。
八十一はちじゅういち
その内うち待まちに待っまった産婆さんばが来きたので、健三けんぞうは漸くようやく安心あんしんして自分じぶんの室むろへ引き取っひきとった。
夜よるは間まもなく明けあけた。
赤子あかごの泣くなく声こえが家いえの中なかの寒いさむい空気くうきを顫わふるわせた。
「御ご安産あんざんで御ご目出とうめでとう御座いございます」「男おとこかね女おんなかね」「女おんなの御子みこさんで」 産婆さんばは少しすこし気の毒きのどくそうに中途ちゅうとで句くを切っきった。
「また女おんなか」 健三けんぞうにも多少たしょう失望しつぼうの色いろが見えみえた。
一番いちばん目めが女おんな、二に番目ばんめが女おんな、今度こんど生れうまれたのもまた女おんな、都合つごう三さん人ひとの娘むすめの父ちちになった彼かれは、そう同じおなじものばかり生んうんでどうする気きだろうと、心こころの中なかで暗にあんに細君さいくんを非難ひなんした。
しかしそれを生まうませた自分じぶんの責任せきにんには思い到らおもいいたらなかった。
田舎いなかで生まれうまれた長女ちょうじょは肌理きめの濃やかこまやかな美びくしい子こであった。
健三けんぞうはよくその子こを乳母車うばぐるまに乗せのせて町まちの中なかを後あとから押しおして歩いあるいた。
時じによると、天使てんしのように安らかやすらかな眠ねむりに落ちおちた顔かおを眺めながめながら宅たくへ帰っかえって来きた。
しかし当とうにならないのは想像そうぞうの未来みらいであった。
健三けんぞうが外国がいこくから帰っかえった時じ、人ひとに伴れつれられて彼かれを新橋しんばしに迎えむかえたこの娘むすめは、久しぶりひさしぶりに父ちちの顔かおを見みて、もっと好いよい御ご父さまちちさまかと思っおもったと傍そばのものに語っごった如くごとく、彼女かのじょ自身じしんの容貌ようぼうもしばらく見みないうちに悪いわるい方ほうに変化へんかしていた。
彼女かのじょの顔かおは段々だんだん丈たけが詰っなじって来きた。
輪廓りんかくに角かくが立ったった。
健三けんぞうはこの娘むすめの容貌ようぼうの中なかにいつか成長せいちょうしつつある自分じぶんの相好そうごうの悪いわるい所ところを明らかあきらかに認めみとめなければならなかった。
次女じじょは年ねんが年中ねんじゅう腫物しゅもつだらけの頭あたまをしていた。
風通しかぜとおしが悪いわるいからだろうというのが本ほんで、とうとう髪の毛かみのけをじょぎじょぎに剪ってしまった。
顋あごの短かいみじかい眼めの大きなおおきなその子こは、海坊主うみぼうずの化物ばけもののような風かぜをして、其その所ところいらをうろうろしていた。
三さん番目ばんめの子こだけが器量きりょう好くよく育とうそだとうとは親おやの慾よく目めにも思えおもえなかった。
「ああいうものが続々ぞくぞく生れうまれて来きて、必竟ひっきょうどうするんだろう」 彼かれは親おやらしくもない感想かんそうを起しおこした。
その中なかには、子供こどもばかりではない、こういう自分じぶんや自分じぶんの細君さいくんなども、必竟ひっきょうどうするんだろうという意味いみも朧気おぼろきに交っかっていた。
彼かれは外そとへ出るでる前まえにちょっと寝室しんしつへ顔かおを出しだした。
細君さいくんは洗い立てあらいたてのシーツしーつの上うえに穏かおだやかに寐ぬていた。
子供こどもも小さいちいさい附属ふぞく物もののように、厚いあつい綿めんの入っはいった新調しんちょうの夜具やぐ蒲団ふとんに包まつつまれたまま、傍そばに置いおいてあった。
その子供こどもは赤いあかい顔かおをしていた。
昨夜さくや暗闇くらやみで彼かれの手てに触れふれた寒天かんてんのような肉塊にくかいとは全くまったく感じかんじの違うちがうものであった。
一切いっさいも綺麗きれいに始末しまつされていた。
其その所ところいらには汚れ物よごれものの影かげさえ見えみえなかった。
夜来やらいの記憶きおくは跡方あとかたもない夢ゆめらしく見えみえた。
彼かれは産婆さんばの方ほうを向いむかいた。
「蒲団ふとんは換えかえて遣っつかったのかい」「ええ、蒲団ふとんも敷布しきふも換えかえて上げあげました」「よくこう早くはやく片付けかたづけられるもんだね」 産婆さんばは笑うわらうだけであった。
若いわかい時じから独身どくしんで通しとおして来きたこの女おんなの声こえや態度たいどはどことなく男おとこらしかった。
「貴夫たかおがむやみに脱脂綿だっしめんを使っつかって御ごしまいになったものだから、足りたりなくって大変たいへん困りこまりましたよ」「そうだろう。随分ずいぶん驚ろいおどろいたからね」 こう答えこたえながら健三けんぞうは大してたいして気の毒きのどくな思いおもいもしなかった。
それよりも多量たりょうに血ちを失なっうしなって蒼いあおい顔かおをしている細君さいくんの方ほうが懸念けねんの種しゅになった。
「どうだ」 細君さいくんは微かかすかに眼めを開けあけて、枕まくらの上うえで軽くかるく肯ずいた。
健三けんぞうはそのまま外そとへ出でた。
例刻れいこくに帰っかえった時じ、彼かれは洋服ようふくのままでまた細君さいくんの枕元まくらもとに坐っすわった。
「どうだ」 しかし細君さいくんはもう肯ずかなかった。
「何なんだか変へんなようです」 彼女かのじょの顔かおは今朝けさ見みた折おりと違っちがって熱ねつで火照っほでりのっていた。
「心持こころもちが悪いわるいのかい」「ええ」「産婆さんばを呼びよびに遣ろうやろうか」「もう来るくるでしょう」 産婆さんばは来るくるはずになっていた。
八十二はちじゅうに
やがて細君さいくんの腋の下わきのしたに験げん温おん器うつわが宛ずつがわれた。
「熱ねつが少しすこし出でましたね」 産婆さんばはこういって度盛どもりの柱はしらの中なかに上っのぼった水銀すいぎんを振り落しふりおとした。
彼女かのじょは比較的ひかくてき言葉ことば寡やもめなであった。
用心ようじんのため産科さんかの医者いしゃを呼んよんで診しんてもらったらどうだという相談そうだんさえせずに帰っかえってしまった。
「大丈夫だいじょうぶなのかな」「どうですか」 健三けんぞうは全くまったくの無む知識ちしきであった。
熱ねつさえ出れでればすぐ産褥さんじょく熱ねつじゃなかろうかという危惧きぐの念ねんを起しおこした。
母ははから掛りかかり付けつけて来きた産婆さんばに信頼しんらいしている細君さいくんの方ほうがかえって平気へいきであった。
「どうですかって、御前ごぜんの身体しんたいじゃないか」 細君さいくんは何なんとも答えこたえなかった。
健三けんぞうから見るみると、死んしんだって構わかまわないという表情ひょうじょうがその顔かおに出でているように思えおもえた。
「人ひとがこんなに心配しんぱいして遣るやるのに」 この感じかんじを翌る日あくるひまで持ちもち続けつづけた彼かれは、何時もいつもの通りとおり朝あさ早くはやく出でて行っいった。
そうして午後ごごに帰っかえって来きて、細君さいくんの熱ねつがもう退めやめている事ことに気きが付いついた。
「やっぱり何なんでもなかったのかな」「ええ。だけど何時なんじまた出でて来るくるか分りわかりませんわ」「産さんをすると、そんなに熱ねつが出でたり引っ込んひっこんだりするものかね」 健三けんぞうは真面目まじめであった。
細君さいくんは淋しいさびしい頬ほおに微笑びしょうを洩らしもらした。
熱ねつは幸みゆきにしてそれぎり出でなかった。
産後さんごの経過けいかは先ずまず順当じゅんとうに行っいった。
健三けんぞうは既定きていの三さん週間しゅうかんを床ゆかの上うえに過すすごすべく命ぜめいぜられた細君さいくんの枕元まくらもとへ来きて、時々ときどき話はなしをしながら坐っすわった。
「今度こんどは死ぬしぬ死ぬしぬっていいながら、平気へいきで生きいきているじゃないか」「死んしんだ方ほうが好けれよければ何時なんじでも死にしにます」「それは御ご随意ずいいだ」 夫おっとの言葉ことばを笑談しょうだん半分はんぶんに聴いきいていられるようになった細君さいくんは、自分じぶんの生命せいめいに対したいして鈍いにぶいながらも一種いっしゅの危険きけんを感じかんじたその当時とうじを顧みかえりみなければならなかった。
「実際じっさい今度こんどは死ぬしぬと思っおもったんですもの」「どういう訳わけで」「訳わけはないわ、ただ思うおもうのに」 死ぬしぬと思っおもったのにかえって普通ふつうの人ひとより軽いかるい産さんをして、予想よそうと事実じじつが丁度ちょうど裏表うらおもてになった事ことさえ、細君さいくんは気きに留めとめていなかった。
「御前ごぜんは呑気のんきだね」「貴夫たかおこそ呑気のんきよ」 細君さいくんは嬉しうれしそうに自分じぶんの傍そばに寐ぬている赤ん坊あかんぼうの顔かおを見みた。
そうして指ゆびの先さきで小さいちいさい頬ほお片かたを突ついつついて、あやし始めはじめた。
その赤ん坊あかんぼうはまだ人間にんげんの体裁ていさいを具えそなえた眼鼻めはなを有っあっているとはいえないほど変へんな顔かおをしていた。
「産さんが軽いかるいだけあって、少しすこし小さちいささ過ぎるすぎるようだね」「今いまに大きくおおきくなりますよ」 健三けんぞうはこの小さいちいさい肉にくの塊りかたまりが今いまの細君さいくんのように大きくおおきくなる未来みらいを想像そうぞうした。
それは遠いとおい先さきにあった。
けれども中途ちゅうとで命いのちの綱つなが切れきれない限りかぎり何時なんじか来るくるに相違そういなかった。
「人間にんげんの運命うんめいはなかなか片付かかたづかないもんだな」 細君さいくんには夫おっとの言葉ことばがあまりに突然とつぜん過ぎすぎた。
そうしてその意味いみが解らわからなかった。
「何なんですって」 健三けんぞうは彼女かのじょの前まえに同じおなじ文句もんくを繰り返すくりかえすべく余儀よぎなくされた。
「それがどうしたの」「どうしもしないけれども、そうだからそうだというのさ」「詰らなじらないわ。他ほかに解らわからない事ことさえいいや、好いよいかと思っおもって」 細君さいくんは夫おっとを捨てすててまた自分じぶんの傍そばに赤ん坊あかんぼうを引き寄せひきよせた。
健三けんぞうは厭いやな顔かおもせずに書斎しょさいへ入っはいった。
彼かれの心こころのうちには死なしなない細君さいくんと、丈夫じょうぶな赤ん坊あかんぼうの外そとに、免職めんしょくになろうとしてならずにいる兄あにの事ことがあった。
喘息ぜんそくで斃れようたおれようとしてまだ斃れたおれずにいる姉あねの事ことがあった。
新らしいあたらしい位地いちが手てに入るはいるようでまだ手てに入らはいらない細君さいくんの父ちちの事ことがあった。
その他ほか島田しまだの事ことも御ご常つねの事こともあった。
そうして自分じぶんとこれらの人々ひとびととの関係かんけいが皆みななまだ片付かかたづかずにいるという事こともあった。
八十三はちじゅうさん
子供こどもは一番いちばん気楽きらくであった。
生きいきた人形にんぎょうでも買っかってもらったように喜んよろこんで、閑かんさえあると、新らしいあたらしい妹いもうとの傍そばに寄りよりたがった。
その妹いもうとの瞬きまばたき一いちつさえ驚嘆きょうたんの種しゅになる彼かれらには、嚏くしゃみでも欠けつでも何なんでもかでも不可思議ふかしぎな現象げんしょうと見えみえた。
「今いまにどんなになるだろう」 当面とうめんに忙殺ぼうさつされる彼かれらの胸むねにはかつてこうした問題もんだいが浮かばうかばなかった。
自分じぶんたち自身じしんの今いまにどんなになるかをすら領解りょうかいし得とくない子供こどもらは、無論むろん今いまにどうするだろうなどと考えるかんがえるはずがなかった。
この意味いみで見みた彼かれらは細君さいくんよりもなお遠くとおく健三けんぞうを離れはなれていた。
外そとから帰っかえった彼かれは、時々ときどき洋服ようふくも脱がぬがずに、敷居しきいの上うえに立ちたちながら、ぼんやりこれらの一団いちだんを眺めながめた。
「また塊かたまりっているな」 彼かれはすぐ踵かかとを回らしまわらして部屋へやの外そとへ出るでる事ことがあった。
時じによると彼かれは服ふくも改めあらためずにすぐ其その所ところへ胡坐こざをかいた。
「こう始終しじゅう湯婆たんぽばかり入れいれていちゃ子供こどもの健康けんこうに悪いわるい。出しだしてしまえ。第だい一いちいくつ入れるいれるんだ」 彼かれは何になんにも解らわからないくせに好いよい加減かげんな小言こごとをいってかえって細君さいくんから笑わわらわれたりした。
日ひが重なっかさなっても彼かれは赤ん坊あかんぼうを抱いいだいて見るみる気きにならなかった。
それでいて一いちつ室むろに塊かたまりっている子供こどもと細君さいくんとを見るみると、時々ときどき別べつな心持こころもちを起しおこした。
「女おんなは子供こどもを専せん領りょうしてしまうものだね」 細君さいくんは驚ろいおどろいた顔かおをして夫おっとを見返しみかえした。
其その所ところには自分じぶんが今までいままで無自覚むじかくで実行じっこうして来きた事ことを、夫おっとの言葉ことばで突然とつぜん悟らささとらされたような趣おもむきもあった。
「何なんで藪やぶから棒ぼうにそんな事ことを仰あおぐゃるの」「だってそうじゃないか。女おんなはそれで気きに入らはいらない亭主ていしゅに敵討かたきうちをするつもりなんだろう」「馬鹿ばかを仰あおぐゃい。子供こどもが私わたくしの傍そばへばかり寄り付くよりつくのは、貴夫たかおが構い付けかまいつけて御ご遣りやりなさらないからです」「己おのれを構い付けかまいつけなくさせたものは、取とりも直さなおさず御前ごぜんだろう」「どうでも勝手にかってになさい。何なんぞというと僻みひがみばかりいって。どうせ口くちの達者たっしゃな貴夫たかおには敵いかないませんから」 健三けんぞうはむしろ真面目まじめであった。
僻みひがみとも口巧者くちこうしゃとも思わおもわなかった。
「女おんなは策略さくりゃくが好きすきだからいけない」 細君さいくんは床ゆかの上うえで寐ぬ返りかえりをしてあちらを向いむかいた。
そうして涙なみだをぽたぽたと枕まくらの上うえに落しおとした。
「そんなに何なんも私わたくしを虐めいじめなくっても……」 細君さいくんの様子ようすを見みていた子供こどもはすぐ泣きなき出しだしそうにした。
健三けんぞうの胸むねは重苦しくおもくるしくなった。
彼かれは征服せいふくされると知りしりながらも、まだ産褥さんじょくを離れはなれ得とくない彼女かのじょの前まえに慰藉いしゃの言葉ことばを並べならべなければならなかった。
しかし彼かれの理解力りかいりょくは依然いぜんとしてこの同情どうじょうとは別物べつものであった。
細君さいくんの涙なみだを拭いぬぐいてやった彼かれは、その涙なみだで自分じぶんの考えかんがえを訂正ていせいする事ことが出来できなかった。
次つぎに顔かおを合せあわせた時じ、細君さいくんは突然とつぜん夫おっとの弱点じゃくてんを刺しさした。
「貴夫たかお何故なぜその子こを抱いいだいて御ご遣りやりにならないの」「何なんだか抱くいだくと険呑けんのんだからさ。頸くびでも折るおると大変たいへんだからね」「嘘うそを仰しゃいおっしゃい。貴夫たかおには女房にょうぼうや子供こどもに対するたいする情合じょうあいが欠けかけているんですよ」「だって御覧ごらんな、ぐたぐたして抱きいだき慣かんけない男おとこに手てなんか出せだせやしないじゃないか」 実際じっさい赤ん坊あかんぼうはぐたぐたしていた。
骨ほねなどはどこにあるかまるで分らわからなかった。
それでも細君さいくんは承知しょうちしなかった。
彼女かのじょは昔むかしし一いち番目ばんめの娘むすめに水疱瘡すいほうそうの出来できた時じ、健三けんぞうの態度たいどが俄かにわかに一変いっぺんした実例じつれいを証拠しょうこに挙げあげた。
「それまで毎日まいにち抱いいだいて遣っつかっていたのに、それから急きゅうに抱かかかえかなくなったじゃありませんか」 健三けんぞうは事実じじつを打ち消すうちけす気きもなかった。
同時どうじに自分じぶんの考えかんがえを改めようあらためようともしなかった。
「何なんといったって女おんなには技巧ぎこうがあるんだから仕方しかたがない」 彼かれは深くふかくこう信じしんじていた。
あたかも自分自身じぶんじしんは凡てすべての技巧ぎこうから解放かいほうされた自由じゆうの人ひとであるかのように。
八十四はちじゅうよん
退屈たいくつな細君さいくんは貸本屋かしほんやから借りかりた小説しょうせつを能くよく床ゆかの上うえで読んよんだ。
時々ときどき枕元まくらもとに置いおいてある厚紙あつがみの汚ならしいきたならしいその表紙ひょうしが健三けんぞうの注意ちゅういを惹くひく時じ、彼かれは細君さいくんに向っむかって訊いきいた。
「こんなものが面白いおもしろいのかい」 細君さいくんは自分じぶんの文学ぶんがく趣味しゅみの低いひくい事ことを嘲けらあざけられるような気きがした。
「いいじゃありませんか、貴夫たかおに面白くおもしろくなくったって、私わたくしにさえ面白けりゃおもしろけりゃ」 色々いろいろな方面ほうめんにおいて自分じぶんと夫おっとの隔離かくりを意識いしきしていた彼女かのじょは、すぐこんな口くちが利きききたくなった。
健三けんぞうの所ところへ嫁ぐとつぐ前まえの彼女かのじょは、自分じぶんの父ちちと自分じぶんの弟おとうとと、それから官邸かんていに出入でいりする二に、三さんの男おとこを知っしっているぎりであった。
そうしてその人々ひとびとはみんな健三けんぞうとは異っちがった意味いみで生きいきて行くいくものばかりであった。
男性だんせいに対するたいする観念かんねんをその数すう人ひとから抽象ちゅうしょうして健三けんぞうの所ところへ持っもって来きた彼女かのじょは、全くまったく予期よきと反対はんたいした一いち個この男おとこを、彼女かのじょの夫おっとにおいて見出しみだした。
彼女かのじょはそのどっちかが正しくただしくなければならないと思っおもった。
無論むろん彼女かのじょの眼めには自分じぶんの父ちちの方ほうが正しいただしい男おとこの代表者だいひょうしゃの如くごとくに見えみえた。
彼女かのじょの考えかんがえは単純たんじゅんであった。
今いまにこの夫おっとが世間せけんから教育きょういくされて、自分じぶんの父ちちのように、型かたが変っかわって行くいくに違いないという確信かくしんを有っあっていた。
案あんに相違そういして健三けんぞうは頑強がんきょうであった。
同時どうじに細君さいくんの膠着こうちゃく力ちからも固かっかたかった。
二人ふたりは二人ふたり同志どうしで軽蔑けいべつし合っあった。
自分じぶんの父ちちを何なんかにつけて標準ひょうじゅんに置きおきたがる細君さいくんは、ややともすると心こころの中なかで夫おっとに反抗はんこうした。
健三けんぞうはまた自分じぶんを認めみとめない細君さいくんを忌々しくいまいましく感じかんじた。
一刻いっこくな彼かれは遠慮えんりょなく彼女かのじょを眼下がんかに見下すみくだす態度たいどを公けおおやけにして憚らはばからなかった。
「じゃ貴夫たかおが教えおしえて下されくだされば好いよいのに。そんなに他ほかを馬鹿ばかにばかりなさらないで」「御前ごぜんの方ほうに教えおしえてもらおうという気きがないからさ。自分じぶんはもうこれで一人前いちにんまえだという腹はらがあっちゃ、己おのれにゃどうする事ことも出来できないよ」 誰だれが盲従もうじゅうするものかという気きが細君さいくんの胸むねにあると同時どうじに、到底とうてい啓発けいはつしようがないではないかという弁解べんかいが夫おっとの心こころに潜んひそんでいた。
二人ふたりの間まに繰り返さくりかえされるこうした言葉ことば争いあらそいは古いふるいものであった。
しかし古いふるいだけで埓らちは一向いっこう開かひらかなかった。
健三けんぞうはもう飽きあきたという風かぜをして、手摺てすりのした貸本かしほんを投げ出しなげだした。
「読むよむなというんじゃない。それは御前ごぜんの随意ずいいだ。しかし余よまり眼めを使わつかわないようにしたら好いよいだろう」 細君さいくんは裁縫さいほうが一番いちばん好きすきであった。
夜よる眼めが冴えさえて寐ぬられない時じなどは、一時いちじでも二に時じでも構わかまわずに、細いほそい針はりの目めを洋燈らんぷの下したに運ばはこばせていた。
長女ちょうじょか次女じじょが生れうまれた時じ、若いわかい元気げんきに任せまかせて、相当そうとうの時期じきが経過けいかしないうちに、縫物ぬいものを取上げとりあげたのが本ほんで、大変たいへん視力しりょくを悪くわるくした経験けいけんもあった。
「ええ、針はりを持つもつのは毒どくですけれども、本位ほんい構わかまわないでしょう。それも始終しじゅう読んよんでいるんじゃありませんから」「しかし疲れるつかれるまで読みよみ続けつづけない方ほうが好かろうよかろう。でないと後あとで困るこまる」「なに大丈夫だいじょうぶです」 まだ三十さんじゅうに足りたりない細君さいくんには過労かろうの意味いみが能くよく解らわからなかった。
彼女かのじょは笑っわらって取り合わとりあわなかった。
「御前ごぜんが困らこまらなくっても己おのれが困るこまる」 健三けんぞうはわざと手前勝手てまえかってらしい事ことをいった。
自分じぶんの注意ちゅういを無むにする細君さいくんを見るみると、健三けんぞうはよくこんな言葉遣いことばづかいをしたがった。
それがまた夫おっとの悪いわるい癖くせの一いちつとして細君さいくんには数えかぞえられていた。
同時どうじに彼かれのノートのーとは益えき細かくこまかくなって行っいった。
最初さいしょ蠅はえの頭位とういであった字じが次第しだいに蟻ありの頭あたまほどに縮まっちぢまって来きた。
何故なぜそんな小さなちいさな文字もじを書かかかなければならないのかとさえ考えかんがえて見みなかった彼かれは、殆んどほとんど無意味むいみに洋よう筆ふでを走らはしらせてやまなかった。
日ひの光りひかりの弱っよわった夕暮ゆうぐれの窓まどの下した、暗いくらい洋燈らんぷから出るでる薄いうすい灯火とうかの影かげ、彼かれは暇ひまさえあれば彼かれの視力しりょくを濫費らんぴして顧みかえりみなかった。
細君さいくんに向っむかってした注意ちゅういをかつて自分じぶんに払わはらわなかった彼かれは、それを矛盾むじゅんとも何なんとも思わおもわなかった。
細君さいくんもそれで平気へいきらしく見えみえた。
八十五はちじゅうご
細君さいくんの床ゆかが上げあげられた時じ、冬ふゆはもう荒れ果てあれはてた彼かれらの庭にわに霜柱しもばしらの錐すいを立てようたてようとしていた。
「大変たいへん荒れあれた事こと、今年ことしは例れいより寒いさむいようね」「血ちが少なくすくなくなったせいで、そう思うおもうんだろう」「そうでしょうかしら」 細君さいくんは始めはじめて気きが付いついたように、両手りょうてを火鉢ひばちの上うえに翳しかざして、自分じぶんの爪つめの色いろを見みた。
「鏡かがみを見みたら顔かおの色いろでも分りわかりそうなものだのにね」「ええ、そりゃ分っわかってますわ」 彼女かのじょは再びふたたび火ひの上うえに差し延べさしのべた手てを返しかえして蒼白いあおじろい頬ほおを二に、三さん度ど撫でなでた。
「しかし寒いさむい事ことも寒いさむいんでしょう、今年ことしは」 健三けんぞうには自分じぶんの説明せつめいを聴かきかない細君さいくんが可笑しくおかしく見えみえた。
「そりゃ冬ふゆだから寒いさむいに極まっきわまっているさ」 細君さいくんを笑うわらう健三けんぞうはまた人ひとよりも一倍いちばい寒かんがる男おとこであった。
ことに近頃ちかごろの冬ふゆは彼かれの身体しんたいに厳しくきびしく中っちゅうった。
彼かれはやむをえず書斎しょさいに炬燵こたつを入れいれて、両膝りょうひざから腰こしのあたりに浸み込むしみこむ冷れいを防いふせいだ。
神経しんけい衰弱すいじゃくの結果けっかこう感ずるかんずるのかも知れしれないとさえ思わおもわなかった彼かれは、自分じぶんに対するたいする注意ちゅういの足りたりない点てんにおいて、細君さいくんと異ることなる所ところがなかった。
毎朝まいあさ夫おっとを送り出しおくりだしてから髪かみに櫛くしを入れるいれる細君さいくんの手てには、長いながい髪の毛かみのけが何本なんぽんとなく残っのこった。
彼女かのじょは梳くすくたびに櫛くしの歯はに絡まるからまるその抜毛ばつもうを残り惜のこりおし気きに眺めながめた。
それが彼女かのじょには失なわうしなわれた血潮ちしおよりもかえって大切たいせつらしく見えみえた。
「新らしくあたらしく生きいきたものを拵えこしらえ上げあげた自分じぶんは、その償いつぐないとして衰えおとろえて行かいかなければならない」 彼女かのじょの胸むねには微かかすかにこういう感じかんじが湧いわいた。
しかし彼女かのじょはその微かかすかな感じかんじを言葉ことばに纏めるまとめるほどの頭あたまを有っあっていなかった。
同時どうじにその感じかんじには手柄てがらをしたという誇りほこりと、罰ばつを受けうけたという恨みうらみと、が交っかっていた。
いずれにしても、新らしくあたらしく生れうまれた子こが可愛くかわいくなるばかりであった。
彼女かのじょはぐたぐたして手応えてごたえのない赤ん坊あかんぼうを手際てぎわよく抱き上げだきあげて、その丸いまりい頬ほおへ自分じぶんの唇くちびるを持っもって行っいった。
すると自分じぶんから出でたものはどうしても自分じぶんの物ものだという気きが理窟りくつなしに起っおこった。
彼女かのじょは自分じぶんの傍そばにその子こを置いおいて、また裁さいもの板いたの前まえに坐っすわった。
そうして時々ときどき針はりの手てをやめては、暖かあたたかそうに寐ぬているその顔かおを、心配しんぱいそうに上うえから覗き込んのぞきこんだ。
「そりゃ誰だれの着物きものだい」「やっぱりこの子このです」「そんなにいくつも要るいるのかい」「ええ」 細君さいくんは黙っだまって手てを運ばはこばしていた。
健三けんぞうは漸とやっと気きが付いついたように、細君さいくんの膝ひざの上うえに置かおかれた大きなおおきな模様もようのある切地きれじを眺めながめた。
「それは姉あねから祝っしゅくってくれたんだろう」「そうです」「下らしたらない話はなしだな。金きんもないのに止せよせば好いよいのに」 健三けんぞうから貰っもらった小遣こづかいの中なかを割いさいて、こういう贈り物おくりものをしなければ気きの済ますまない姉あねの心持こころもちが、彼かれには理解りかい出来できなかった。
「つまり己おのれの金きんで己おのれが買っかったと同じおなじ事ことになるんだからな」「でも貴夫たかおに対するたいする義理ぎりだと思っおもっていらっしゃるんだから仕方しかたがありませんわ」 姉あねは世間せけんでいう義理ぎりを克明こくめいに守りまもり過ぎるすぎる女おんなであった。
他ほかから物ものを貰えもらえばきっとそれ以上いじょうのものを贈りおくり返そうかえそうとして苦しくるしがった。
「どうも困るこまるね、そう義ぎ理り々々って、何なんが義理ぎりだかさっぱり解りゃわかりゃしない。そんな形式的けいしきてきな事ことをするより、自分じぶんの小遣こづかいを比田ひでんに借りかりられないような用心ようじんでもする方ほうがよっぽど増しましだ」 こんな事ことに掛けるかけると存外ぞんがい無神経むしんけいな細君さいくんは、強いてしいて姉あねを弁護べんごしようともしなかった。
「今いまにまた何なんか御礼ごれいをしますからそれで好いよいでしょう」 他ほかを訪問ほうもんする時じに殆んどほとんど土産ものみやげものを持参じさんした例れいのない健三けんぞうは、それでもまだ不審ふしんそうに細君さいくんの膝ひざの上うえにあるめりんすを見詰めみつめていた。
八十六はちじゅうろく
「だから元もとは御ご姉さんあねさんの所ところへ皆みななが色んないろんな物ものを持っもって来きたんですって」 細君さいくんは健三けんぞうの顔かおを見みて突然とつぜんこんな事ことをいい出しだした。
――「十じゅうのものには十五じゅうごの返しかえしをなさる御ご姉さんあねさんの気性きしょうを知っしってるもんだから、皆みななその御礼ごれいを目的もくてきに何なんか呉れるくれるんだそうですよ」「十じゅうのものに十五じゅうごの返しかえしをするったって、高こうが五十ごじゅう銭せんが七十五ななじゅうご銭せんになるだけじゃないか」「それで沢山たくさんなんでしょう。そういう人ひとたちは」 他ほかから見るみると酔興すいきょうとしか思わおもわれないほど細かこまかなノートのーとばかり拵えこしらえている健三けんぞうには、世の中よのなかにそんな人間にんげんが生きいきていようとさえ思えおもえなかった。
「随分ずいぶん厄介やっかいな交際こうさいだね。だいち馬うま鹿しか々々しいじゃないか」「傍そばから見れみれば馬うま鹿しか々々しいようですけれども、その中なかに入るはいると、やっぱり仕方しかたがないんでしょう」 健三けんぞうはこの間まよそから臨時りんじに受取っうけとった三十さんじゅう円えんを、自分じぶんがどう消費しょうひしてしまったかの問題もんだいについて考えかんがえさせられた。
今いまから一いちカ月かげつ余りあまり前まえ、彼かれはある知人ちじんに頼またのまれてその男おとこの経営けいえいする雑誌ざっしに長いながい原稿げんこうを書いかいた。
それまで細かいこまかいノートのーとより外そとに何なんも作るつくる必要ひつようのなかった彼かれに取っとってのこの文章ぶんしょうは、違っちがった方面ほうめんに働いはたらいた彼かれの頭脳ずのうの最初さいしょの試みこころみに過ぎすぎなかった。
彼かれはただ筆ふでの先さきに滴るしたたる面白いおもしろい気分きぶんに駆らかられた。
彼かれの心こころは全くまったく報酬ほうしゅうを予期よきしていなかった。
依頼者いらいしゃが原稿料げんこうりょうを彼かれの前まえに置いおいた時じ、彼かれは意外いがいなものを拾っじゅうったように喜んよろこんだ。
兼てかねてからわが座敷ざしきの如何いかがにも殺風景さっぷうけいなのを苦くに病んやんでいた彼かれは、すぐ団子だんご坂さかにある唐木とうぼくの指物師さしものしの所ところへ行っいって、紫檀したんの懸額けんがくを一いち枚ばい作らつくらせた。
彼かれはその中なかに、支那しなから帰っかえった友達ともだちに貰っもらった北魏ほくぎの二十にじゅう品しなという石摺いしずりのうちにある一いちつを択りより出しだして入れいれた。
それからその額がくを環かんの着いついた細長いほそながい胡麻ごま竹たけの下したへ振らふら下げさげて、床の間とこのまの釘くぎへ懸けかけた。
竹たけに丸味まるみがあるので壁かべに落おち付かつかないせいか、額がくは静かしずかな時じでも斜しゃに傾いかたむいた。
彼かれはまた団子だんご坂さかを下りくだりて谷中やなかの方ほうへ上っのぼって行っいった。
そうして其その所ところにある陶器とうき店みせから一いち個この花瓶かびんを買っかって来きた。
花瓶かびんは朱色しゅいろであった。
中なかに薄いうすい黄きで大きなおおきな草花くさばなが描かえがかれていた。
高さたかさは一いち尺さし余りあまりであった。
彼かれはすぐそれを床の間とこのまの上うえへ載せのせた。
大きなおおきな花瓶かびんとふらふらする比較的ひかくてき小さいちいさい懸額けんがくとはどうしても釣合つりあいが取れとれなかった。
彼かれは少しすこし失望しつぼうしたような眼めをしてこの不調和ふちょうわな配合はいごうを眺めながめた。
けれどもまるで何になんにもないよりは増しましだと考えかんがえた。
趣味しゅみに贅沢ぜいたくをいう余裕よゆうのない彼かれは、不満足ふまんぞくのうちに満足まんぞくしなければならなかった。
彼かれはまた本郷ほんごう通りとおりにある一いち軒のきの呉服屋ごふくやへ行っいって反物たんものを買っかった。
織物おりものについて何なんの知識ちしきもない彼かれはただ番頭ばんとうが見せみせてくれるもののうちから、好いよい加減かげんな選択せんたくをした。
それはむやみに光るひかる絣かすりであった。
幼稚ようちな彼かれの眼めには光らひからないものより光るひかるものの方ほうが上等じょうとうに見えみえた。
番頭ばんとうに揃いそろいの羽織はおりと着物きものを拵えるこしらえるべく勧めすすめられた彼かれは、遂についに一いち匹ひきの伊勢崎いせさき銘仙めいせんを抱えかかえて店みせを出でた。
その伊勢崎いせさき銘仙めいせんという名前なまえさえ彼かれはそれまでついぞ聞いきいた事ことがなかった。
これらの物ものを買いかい調えととのえた彼かれは毫もごうも他人たにんについて考えかんがえなかった。
新らしくあたらしく生れるうまれる子供こどもさえ眼中がんちゅうになかった。
自分じぶんより困っこまっている人ひとの生活せいかつなどはてんから忘れわすれていた。
俗ぞく社会しゃかいの義理ぎりを過重かじゅうする姉あねに比べくらべて見るみると、彼かれは憐れあわれなものに対するたいする好意こういすら失なっうしなっていた。
「そう損そんをしてまでも義理ぎりが尽さつくされるのは偉いえらいね。しかし姉あねは生れうまれ付いついての見栄坊みえぼうなんだから、仕方しかたがない。偉くえらくない方ほうがまだ増しましだろう」「親切気しんせつきはまるでないんでしょうか」「そうさな」 健三けんぞうはちょっと考えかんがえなければならなかった。
姉あねは親切気しんせつきのある女おんなに違いちがいなかった。
「ことによると己おのれの方ほうが不人情ふにんじょうに出来できているのかも知れしれない」
八十はちじゅう七なな
この会話かいわがまだ健三けんぞうの記憶きおくを新しくあたらしく彩っあやっていた頃ころ、彼かれは御ご常つねから第だい二に回かいの訪問ほうもんを受けうけた。
先達てせんだって見みた時じとほぼ同じおなじように粗末そまつな服装ふくそうをしている彼女かのじょの恰好かっこは、寒ささむさと共ともに襦袢じゅばん胴着どうぎの類るいでも重ねかさねたのだろう、前まえよりは益えき丸まっちくまるまっちくなっていた。
健三けんぞうは客きゃくのために出しだした火鉢ひばちをすぐその人ひとの方ほうへ押し遣っおしやった。
「いえもう御構いおかまい下さいくださいますな。今日きょうは大分おおいた御ご暖かあたたかで御座いございますから」 外部がいぶには穏やかおだやかな日ひが、障子しょうじに篏めはめた硝子がらす越こしに薄くうすく光っひかりっていた。
「あなたは年ねんを取っとって段々だんだん御ご肥りふとりになるようですね」「ええ御蔭みかげさまで身体しんたいの方ほうはまことに丈夫じょうぶで御座いございます」「そりゃ結構けっこうです」「その代りかわり身上しんじょうの方ほうはただ痩せるやせる一方いっぽうで」 健三けんぞうには老後ろうごになってからこうむくむく肥るふとる人ひとの健康けんこうが疑がわうたがわれた。
少なくすくなくとも不自然ふしぜんに思わおもわれた。
どこか不気味ふきみに見えるみえるところもあった。
「酒さけでも飲むのむんじゃなかろうか」 こんな推察すいさつさえ彼かれの胸むねを横切っよこぎった。
御ご常つねの肌身はだみに着けつけているものは悉しつとく古びふるびていた。
幾度いくど水みずを潜っもぐったか分らわからないその着物きものなり羽織はおりなりは、どこかに絹きぬの光ひかりが残っのこっているようで、また変へんにごつごつしていた。
ただどんなに時代じだいを食っしょくっても、綺麗きれいに洗張あらいはりが出来できている所ところに彼女かのじょの気性きしょうが見えるみえるだけであった。
健三けんぞうは丸いまりいながら如何にいかにも窮屈きゅうくつそうなその人ひとの姿すがたを眺めながめて、彼女かのじょの生活せいかつ状態じょうたいと彼女かのじょの口くちに距離きょりのない事ことを知っしった。
「どこを見みても困るこまる人ひとだらけで弱りよわりますね」「こちらなどが困っこまっていらしっちゃあ、世の中よのなかに困らこまらないものは一人ひとりも御座いございません」 健三けんぞうは弁解べんかいする気きにさえならなかった。
彼かれはすぐ考えかんがえた。
「この人ひとは己おのれを自分じぶんより金持かねもちと思っおもっているように、己おのれを自分じぶんより丈夫じょうぶだとも思っおもっているのだろう」 近頃ちかごろの健三けんぞうは実際じっさい健康けんこうを損なっそこなっていた。
それを自覚じかくしつつ彼かれは医者いしゃにも診しんてもらわなかった。
友達ともだちにも話さはなさなかった。
ただ一人ひとりで不愉快ふゆかいを忍んしのんでいた。
しかし身体しんたいの未来みらいを想像そうぞうするたんびに彼かれはむしゃくしゃした。
或ある時じは他ほかが自分じぶんをこんなに弱くよわくしてしまったのだというような気きを起しおこして、相手あいてのないのに腹はらを立てたてた。
「年ねんが若くわかくって起居ききょに不自由ふじゆうさえなければ丈夫じょうぶだと思うおもうんだろう。門構もんがまえの宅たくに住んすんで下女げじょさえ使っつかっていれば金きんでもあると考えるかんがえるように」 健三けんぞうは黙っだまって御ご常つねの顔かおを眺めながめていた。
同時どうじに彼かれは新らしくあたらしく床の間とこのまに飾らかざられた花瓶かびんとその後そのあとに懸っかかっている懸額けんがくとを眺めながめた。
近いちかいうちに袖そでを通すとおすべきぴかぴかする反物たんものも彼かれの心こころのうちにあった。
彼かれは何故なぜこの年寄としよりに対したいして同情どうじょうを起しおこし得とくないのだろうかと怪しんあやしんだ。
「ことによると己おのれの方ほうが不人情ふにんじょうなのかも知れしれない」 彼かれは姉あねの上うえに加えくわえた評ひょうをもう一遍いちぺん腹はらの中なかで繰り返しくりかえした。
そうして「何なん不人情ふにんじょうでも構うかまうものか」という答こたえを得とくた。
御ご常つねは自分じぶんの厄介やっかいになっている娘婿むすめむこの事ことについて色々いろいろな話はなしをし始めはじめた。
世間せけん一般いっぱんによく見るみる通りとおり、その人ひとの手腕しゅわんがすぐ彼女かのじょの問題もんだいになった。
彼女かのじょの手腕しゅわんというのは、つまり月々つきづき入るはいる金きんの意味いみで、その金きんより外そとに人間にんげんの価値かちを定めるさだめるものは、彼女かのじょに取っとって、広いひろい世界せかいに一いちつも見当らみあたらないらしかった。
「何しろなにしろ取高とりだかが少ないすくないもんですから仕方しかたが御座いございません。もう少しすこし稼いかせいでくれると好いよいのですけれども」 彼女かのじょは自分じぶんの娘婿むすめむこを捉まえつかまえて愚図ぐずだとも無能むのうだともいわない代りかわりに、毎月まいつき彼かれの労力ろうりょくが産み出すうみだす収入しゅうにゅうの高こうを健三けんぞうの前まえに並べならべて見せみせた。
あたかも物指ものさしで反物たんものの寸法すんぽうさえ計れはかれば、縞柄しまがらだの地質ちしつだのは、まるで問題もんだいにならないといった風かぜに。
生憎あいにく健三けんぞうはそうした尺度しゃくどで自分じぶんを計っけいってもらいたくない商売しょうばいをしている男おとこであった。
彼かれは冷淡れいたんに彼女かのじょの不平ふへいを聞き流さききながさなければならなかった。
八十八はちじゅうはち
好いよい加減かげんな時分じぶんに彼かれは立ったって書斎しょさいに入っはいった。
机つくえの上うえに載せのせてある紙入かみいれを取っとって、そっと中なかを改めるあらためると、一いち枚ばいの五ご円えん札さつがあった。
彼かれはそれを手てに握っにぎったまま元もとの座敷ざしきへ帰っかえって、御ご常つねの前まえへ置いおいた。
「失礼しつれいですがこれで俥くるまへでも乗っのって行っいって下さいください」「そんな御ご心配しんぱいを掛けかけては済みすみません。そういうつもりで上っのぼったのでは御座いございませんから」 彼女かのじょは辞退じたいの言葉ことばと共ともに紙幣しへいを受け納めうけおさめて懐ふところへ入れいれた。
小遣こづかいを遣るやる時じの健三けんぞうがこの前まえと同じおなじ挨拶あいさつを用いもちいたように、それを貰うもらう御ご常つねの辞令じれいも最初さいしょと全くまったく違わちがわなかった。
その上うえ偶然ぐうぜんにも五ご円えんという金高きんだかさえ一致いっちしていた。
「この次つぎ来きた時じに、もし五ご円えん札さつがなかったらどうしよう」 健三けんぞうの紙入かみいれがそれだけの実質じっしつで始終しじゅう充たさみたされていない事ことはその所有主しょゆうしゅの彼かれに知れしれているばかりで、御ご常つねに分るわかるはずがなかった。
三さん度目どめに来るくる御ご常つねを予想よそうした彼かれが、三さん度目どめに遣るやる五ご円えんを予想よそうする訳わけに行かいかなかった時じ、彼かれはふと馬うま鹿しか々々しくなった。
「これからあの人ひとが来るくると、何時なんじでも五ご円えん遣らやらなければならないような気きがする。つまり姉あねが要らいらざる義理ぎり立たてをするのと同じおなじ事ことなのかしら」 自分じぶんの関係かんけいした事ことじゃないといった風かぜに熨斗のしを動かしうごかしていた細君さいくんは、手てを休めやすめずにこういった。
――「ないときは遣らやらないでも好いよいじゃありませんか。何なんもそう見栄みえを張るはる必要ひつようはないんだから」「ない時じに遣ろうやろうったって、遣れやれないのは分っわかってるさ」 二人ふたりの問答もんどうはすぐ途切れとぎれてしまった。
消えきえかかった炭すみを熨斗のしから火鉢ひばちへ移すうつす音おとがその間まに聞こえきこえた。
「どうしてまた今日きょうは五ご円えん入っはいっていたんです。貴夫たかおの紙入かみいれに」 健三けんぞうは床の間とこのまに釣り合わつりあわない大きなおおきな朱色しゅいろの花瓶かびんを買うかうのに四よん円えんいくらか払っはらった。
懸額けんがくを誂あつらえらえるとき五ご円えんなにがしか取らとられた。
指物師さしものしが百ひゃく円えんに負けまけて置くおくから買わかわないかといった立派りっぱな紫檀したんの書棚しょだなをじろじろ見みながら、彼かれは
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