その一本をぐるぐる廻しながら、随分俗なものだと評したら、父はすぐ「所相応だろう」と答えた事があったが、健三は今自分がその地方で作った外套を細君の父に遣って、「阿爺相応だろう」という気にはとてもなれなかった。いくら困ったってあんなものをと思うとむしろ情なくなった。
第 11 章
「でもよく着られるね」「見っともなくっても寒いよりは好いでしょう」 細君は淋しそうに笑った。
七十三
中一日置いて彼が来た時、健三は久しぶりで細君の父に会った。
年輩からいっても、経歴から見ても、健三より遥かに世間馴れた父は、何時も自分の娘婿に対して鄭寧であった。
或時は不自然に陥る位鄭寧過ぎた。
しかしそれが彼を現わす凡てではなかった。
裏側には反対のものが所々に起伏していた。
官僚式に出来上った彼の眼には、健三の態度が最初から頗る横着に見えた。
超えてはならない階段を無躾に飛び越すようにも思われた。
その上彼はむやみに自ら任じているらしい健三の高慢ちきな所を喜こばなかった。
頭にある事を何でも口外して憚らない健三の無作法も気に入らなかった。
乱暴とより外に取りようのない一徹一図な点も非難の標的になった。
健三の稚気を軽蔑した彼は、形式の心得もなく無茶苦茶に近付いて来ようとする健三を表面上鄭寧な態度で遮った。
すると二人は其所で留まったなり動けなくなった。
二人は或る間隔を置いて、相手の短所を眺めなければならなかった。
だから相手の長所も判明と理解する事が出来悪くなった。
そうして二人とも自分の有っている欠点の大部分には決して気が付かなかった。
しかし今の彼は健三に対して疑もなく一時的の弱者であった。
他に頭を下げる事の嫌な健三は窮迫の結果、余儀なく自分の前に出て来た彼を見た時、すぐ同じ眼で同じ境遇に置かれた自分を想像しない訳に行かなかった。
「如何にも苦しいだろう」 健三はこの一念に制せられた。
そうして彼の持ち来した金策談に耳を傾むけた。
けれども好い顔はし得なかった。
心のうちでは好い顔をし得ないその自分を呪っていた。
「金の話だから好い顔が出来ないんじゃない。金とは独立した不愉快のために好い顔が出来ないのです。誤解してはいけません。私はこんな場合に敵討をするような卑怯な人間とは違ます」 細君の父の前にこれだけの弁解がしたくって堪らなかった健三は、黙って誤解の危険を冒すより外に仕方がなかった。
このぶっきら棒な健三に比べると、細君の父はよほど鄭寧であった。
また落付いていた。
傍から見れば遥に紳士らしかった。
彼は或人の名を挙げた。
「向うでは貴方を知ってるといいますが、貴方も知ってるんでしょうね」「知っています」 健三は昔し学校にいた時分にその男を知っていた。
けれども深い交際はなかった。
卒業して独乙へ行って帰って来たら、急に職業がえをして或大きな銀行へ入ったとか人の噂に聞いた位より外に、彼の消息は健三に伝わっていなかった。
「まだ銀行にいるんですか」 細君の父は点頭いた。
しかし二人がどこでどう知り合になったのか、健三には想像さえ付かなかった。
またそれを詳しく訊いて見たところが仕方がなかった。
要点はただその人が金を貸してくれるか、くれないかの問題にあった。
「で当人のいうには、貸しても好い、好いが慥な人を証人に立ててもらいたいとこういうんです」「なるほど」「じゃ誰を立てたら好いのかと聞くと、貴方ならば貸しても好いと、向うでわざわざ指名した訳なんです」 健三は自分自身を慥なものと認めるには躊躇しなかった。
しかし自分自身の財力に乏しい事も職業の性質上他に知れていなければならないはずだと考えた。
その上細君の父は交際範囲の極めて広い人であった。
平生彼の口にする知合のうちには、健三よりどの位世間から信用されて好いか分らないほど有名な人がいくらでもいた。
「何故私の判が必要なんでしょう」「貴方なら貸そうというのです」 健三は考えた。
七十四
彼は今日まで証書を入れて他から金を借りた経験のない男であった。
つい義理で判を捺いて遣ったのが本で、立派な腕を有ちながら、生涯社会の底に沈んだまま、藻掻き通しに藻掻いている人の話は、いくら迂闊な彼の耳にもしばしば伝えられていた。
彼は出来るなら自分の未来に関わるような所作を避けたいと思った。
しかし頑固な彼の半面にはいたって気の弱い煮え切らない或物が能く働らきたがった。
この場合断然連印を拒絶するのは、彼に取って如何にも無情で、冷刻で、心苦しかった。
「私でなくっちゃいけないのでしょうか」「貴方なら好いというんです」 彼は同じ事を二度訊いて同じ答えを二度受けた。
「どうも変ですね」 世事に疎い彼は、細君の父がどこへ頼んでも、もう判を押してくれるものがないので、しまいに仕方なしに彼の所へ持って来たのだという明白な事情さえ推察し得なかった。
彼は親しく交際った事もないその銀行家からそれほど信用されるのがかえって怖くなった。
「どんな目に逢わされるか分りゃしない」 彼の心には未来における自己の安全という懸念が充分に働らいた。
同時にただそれだけの利害心でこの問題を片付けてしまうほど彼の性格は単純に出来ていなかった。
彼の頭が彼に適当な解決を与えるまで彼は逡巡しなければならなかった。
その解決が最後に来た時ですら、彼はそれを細君の父の前に持ち出すのに多大の努力を払った。
「印を捺す事はどうも危険ですからやめたいと思います。しかしその代り私の手で出来るだけの金を調えて上げましょう。無論貯蓄のない私の事だから、調えるにしたところで、どうせどこからか借りるより外に仕方がないのですが、出来るなら証文を書いたり判を押したりするような形式上の手続きを踏む金は借りたくないのです。私の有っている狭い交際の方面で安全な金を工面した方が私には心持が好いのですから、まずそっちの方を一つ中って見ましょう。無論御入用だけの額は駄目です。私の手で調のえる以上、私の手で返さなければならないのは無論の事ですから、身分不相当の借金は出来ません」 いくらでも融通が付けば付いただけ助かるといった風の苦しい境遇に置かれた細君の父は、それより以上健三を強いなかった。
「どうぞそれじゃ何分」 彼は健三の着古した外套に身を包んで、寒い日の下を歩いて帰って行った。
書斎で話を済せた健三は、玄関からまた同じ書斎に戻ったなり細君の顔を見なかった。
細君も父を玄関に送り出した時、夫と並んで沓脱の上に立っただけで、遂に書斎へは入って来なかった。
金策の事は黙々のうちに二人に了解されていながら、遂に二人の間の話題に上らずにしまった。
けれども健三の心には既に責任の荷があった。
彼はそれを果すために動かなければならなかった。
彼は世帯を持つときに、火鉢や烟草盆を一所に買って歩いてもらった友達の宅へまた出掛けた。
「金を貸してくれないかね」 彼は藪から棒に質問を掛けた。
金などを有っていない友達は驚ろいた顔をして彼を見た。
彼は火鉢に手を翳しながら友達の前に逐一事情を話した。
「どうだろう」 三年間支那のある学堂で教鞭を取っていた頃に蓄えた友達の金は、みんな電鉄か何かの株に変形していた。
「じゃ清水に頼んで見てくれないか」 友達の妹婿に当る清水は、下町のかなり繁華な場所で、病院を開いていた。
「さあどうかなあ。あいつもその位な金はあるだろうが、動かせるようになっているかしら。まあ訊いて見てやろう」 友達の好意は幸い徒労にならずに済んだ。
健三の借り受けた四百円の金が、細君の父の手に入ったのは、それから四、五日経って後の事であった。
七十五
「己は精一杯の事をしたのだ」 健三の腹にはこういう安心があった。
従って彼は自分の調達した金の価値について余り考えなかった。
さぞ嬉しがるだろうとも思わない代りに、これ位の補助が何の役に立つものかという気も起さなかった。
それがどの方面にどう消費されたかの問題になると、全くの無知識で澄ましていた。
細君の父も其所まで内状を打ち明けるほど彼に接近して来なかった。
従来の牆壁を取り払うにはこの機会があまりに脆弱過ぎた。
もしくは二人の性格があまりに固着し過ぎていた。
父は健三よりも世間的に虚栄心の強い男であった。
なるべく自分を他に能く了解させようと力めるよりも、出来るだけ自分の価値を明るい光線に触てさせたがる性質であった。
従って彼を囲繞する妻子近親に対する彼の様子は幾分か誇大に傾むきがちであった。
境遇が急に失意の方面に一転した時、彼は自分の平生を顧みない訳に行かなかった。
彼はそれを糊塗するため、健三に向って能う限りさあらぬ態度を装った。
それで遂に押し通せなくなった揚句、彼はとうとう健三に連印を求めたのである。
けれども彼がどの位の負債にどう苦しめられているかという巨細の事実は、遂に健三の耳に入らなかった。
健三も訊かなかった。
二人は今までの距離を保ったままで互に手を出し合った。
一人が渡す金を一人が受け取った時、二人は出した手をまた引き込めた。
傍でそれを見ていた細君は黙って何ともいわなかった。
健三が外国から帰った当座の二人は、まだこれほどに離れていなかった。
彼が新宅を構えて間もない頃、彼は細君の父がある鉱山事業に手を出したという話を聞いて驚ろいた事があった。
「山を掘るんだって?」「ええ、何でも新らしく会社を拵えるんだそうです」 彼は眉を顰めた。
同時に彼は父の怪力に幾分かの信用を置いていた。
「旨く行くのかね」「どうですか」 健三と細君との間にこんな簡単な会話が取り換わされた後、彼はその用事を帯びて北国のある都会へ向けて出発したという父の報知を細君から受け取った。
すると一週間ばかりして彼女の母が突然健三の所へ遣って来た。
父が旅先で急に病気に罹ったので、これから自分も行かなければならないと思うが、それについて旅費の都合は出来まいかというのが母の用向であった。
「ええええ旅費位どうでもして上ますから、すぐ行って御上なさい」 宿屋に寐ている苦しい人と、汽車で立って行く寒い人とを心から気の毒に思った健三は、自分のまだ見た事もない遠くの空の佗びしさまで想像の眼に浮べた。
「何しろ電報が来ただけで、詳しい事はまるで分りませんのですから」「じゃなお御心配でしょう。なるべく早く御立ちになる方が好いでしょう」 幸いにして父の病気は軽かった。
しかし彼の手を着けかけたという鉱山事業はそれぎり立消になってしまった。
「まだ何にも見付からないのかね、口は」「あるにはあるようですけれども旨く纏らないんですって」 細君は父がある大きな都会の市長の候補者になった話をして聞かせた。
その運動費は財力のある彼の旧友の一人が負担してくれているようであった。
しかし市の有志家が何名か打ち揃って上京した時に、有名な政治家のある伯爵に会って、父の適不適を問い訊したら、その伯爵がどうも不向だろうと答えたので、話はそれぎりでやめになったのだそうである。
「どうも困るね」「今に何とかなるでしょう」 細君は健三よりも自分の父の方を遥かに余計信用していた。
健三も例の怪力を知らないではなかった。
「ただ気の毒だからそういうだけさ」 彼の言葉に嘘はなかった。
七十六
けれどもその次に細君の父が健三を訪問した時には、二人の関係がもう変っていた。
自ら進んで母に旅費を用立った女婿は、一歩退ぞかなければならなかった。
彼は比較的遠い距離に立って細君の父を眺めた。
しかし彼の眼に漂よう色は冷淡でも無頓着でもなかった。
むしろ黒い瞳から閃めこうとする反感の稲妻であった。
力めてその稲妻を隠そうとした彼は、やむをえずこの鋭どく光るものに冷淡と無頓着の仮装を着せた。
父は悲境にいた。
まのあたり見る父は鄭寧であった。
この二つのものが健三の自然に圧迫を加えた。
積極的に突掛る事の出来ない彼は控えなければならなかった。
単なる無愛想の程度で我慢すべく余儀なくされた彼には、相手の苦しい現状と慇懃な態度とが、かえってわが天真の流露を妨げる邪魔物になった。
彼からいえば、父はこういう意味において彼を苦しめに来たと同じ事であった。
父からいえば、普通の人としてさえ不都合に近い愚劣な応対ぶりを、自分の女婿に見出すのは、堪えがたい馬鹿らしさに違なかった。
前後と関係のないこの場だけの光景を眺める傍観者の眼にも健三はやはり馬鹿であった。
それを承知している細君にすら、夫は決して賢こい男ではなかった。
「私も今度という今度は困りました」 最初にこういった父は健三からはかばかしい返事すら得なかった。
父はやがて財界で有名な或人の名を挙げた。
その人は銀行家でもあり、また実業家でもあった。
「実はこの間ある人の周旋で会って見ましたが、どうか旨く出来そうですよ。三井と三菱を除けば日本ではまあ彼所位なもんですから、使用人になったからといって、別に私の体面に関わる事もありませんし、それに仕事をする区域も広いようですから、面白く働けるだろうと思うんです」 この財力家によって細君の父に予約された位地というのは、関西にある或私立の鉄道会社の社長であった。
会社の株の大部分を一人で所有しているその人は、自分の意志のままに、其所の社長を選ぶ特権を有していたのである。
しかし何十株か何百株かの持主として、予じめ資格を作って置かなければならない父は、どうして金の工面をするだろう。
事状に通じない健三にはこの疑問さえ解けなかった。
「一時必要な株数だけを私の名儀に書換てもらうんです」 健三は父の言葉に疑を挟むほど、彼の才能を見縊っていなかった。
彼と彼の家族とを目下の苦境から解脱させるという意味においても、その成功を希望しない訳に行かなかった。
しかし依然として元の立場に立っている事も改める訳に行かなかった。
彼の挨拶は形式的であった。
そうして幾分か彼の心の柔らかい部分をわざと堅苦しくした。
老巧な父はまるで其所に注意を払わないように見えた。
「しかし困る事に、これは今が今という訳に行かないのです。時機があるものですからな」 彼は懐からまた一枚の辞令見たようなものを出して健三に見せた。
それには或保険会社が彼に顧問を嘱託するという文句と、その報酬として月々彼に百円を贈与するという条件が書いてあった。
「今御話した一方の方が出来たらこれはやめるか、または出来ても続けてやるか、その辺はまだ分らないんですが、とにかく百円でも当座の凌ぎにはなりますから」 昔し彼が政府の内意で或官職を抛った時、当路の人は山陰道筋のある地方の知事なら転任させても好いという条件を付けた事があった。
しかし彼は断然それを斥ぞけた。
彼が今大して隆盛でもない保険会社から百円の金を貰って、別に厭な顔をしないのも、やはり境遇の変化が彼の性格に及ぼす影響に相違なかった。
こうした懸け隔てのない父の態度は、ややともすると健三を自分の立場から前へ押し出そうとした。
その傾向を意識するや否や彼はまた後戻りをしなければならなかった。
彼の自然は不自然らしく見える彼の態度を倫理的に認可したのである。
七十七
細君の父は事務家であった。
ややともすると仕事本位の立場からばかり人を評価したがった。
乃木将軍が一時台湾総督になって間もなくそれをやめた時、彼は健三に向ってこんな事をいった。
――「個人としての乃木さんは義に堅く情に篤く実に立派なものです。しかし総督としての乃木さんが果して適任であるかどうかという問題になると、議論の余地がまだ大分あるように思います。個人の徳は自分に親しく接触する左右のものには能く及ぶかも知れませんが、遠く離れた被治者に利益を与えようとするには不充分です。其所へ行くとやっぱり手腕ですね。手腕がなくっちゃ、どんな善人でもただ坐っているより外に仕方がありませんからね」 彼は在職中の関係から或会の事務一切を管理していた。
侯爵を会頭に頂くその会は、彼の力で設立の主意を綺麗に事業の上で完成した後、彼の手元に二万円ほどの剰余金を委ねた。
官途に縁がなくなってから、不如意に不如意の続いた彼は、ついその委託金に手を付けた。
そうして何時の間にか全部を消費してしまった。
しかし彼は自家の信用を維持するために誰にもそれを打ち明けなかった。
従って彼はこの預金から当然生まれて来る百円近くの利子を毎月調達して、体面を繕ろわなければならなかった。
自家の経済よりもかえってこの方を苦に病んでいた彼が、公生涯の持続に絶対に必要なその百円を、月々保険会社から貰うようになったのは、当時の彼の心中に立入って考えて見ると、全く嬉しいに違なかった。
よほど後になって始めてこの話を細君から聴いた健三は、彼女の父に対して新たな同情を感じただけで、不徳義漢として彼を悪む気は更に起らなかった。
そういう男の娘と夫婦になっているのが恥ずかしいなどとは更に思わなかった。
しかし細君に対しての健三は、この点に関して殆んど無言であった。
細君は時々彼に向っていった。
――「妾、どんな夫でも構いませんわ、ただ自分に好くしてくれさえすれば」「泥棒でも構わないのかい」「ええええ、泥棒だろうが、詐欺師だろうが何でも好いわ。ただ女房を大事にしてくれれば、それで沢山なのよ。いくら偉い男だって、立派な人間だって、宅で不親切じゃ妾にゃ何にもならないんですもの」 実際細君はこの言葉通りの女であった。
健三もその意見には賛成であった。
けれども彼の推察は月の暈のように細君の言外まで滲み出した。
学問ばかりに屈託している自分を、彼女がこういう言葉でよそながら非難するのだという臭がどこやらでした。
しかしそれよりも遥かに強く、夫の心を知らない彼女がこんな態度で暗に自分の父を弁護するのではないかという感じが健三の胸を打った。
「己はそんな事で人と離れる人間じゃない」 自分を細君に説明しようと力めなかった彼も、独りで弁解の言葉を繰り返す事は忘れなかった。
しかし細君の父と彼との交情に、自然の溝渠が出来たのは、やはり父の重きを置き過ぎている手腕の結果としか彼には思えなかった。
健三は正月に父の所へ礼に行かなかった。
恭賀新年という端書だけを出した。
父はそれを寛仮さなかった。
表向それを咎める事もしなかった。
彼は十二、三になる末の子に、同じく恭賀新年という曲りくねった字を書かして、その子の名前で健三に賀状の返しをした。
こういう手腕で彼に返報する事を巨細に心得ていた彼は、何故健三が細君の父たる彼に、賀正を口ずから述べなかったかの源因については全く無反省であった。
一事は万事に通じた。
利が利を生み、子に子が出来た。
二人は次第に遠ざかった。
やむをえないで犯す罪と、遣らんでも済むのにわざと遂行する過失との間に、大変な区別を立てている健三は、性質の宜しくないこの余裕を非常に悪み出した。
七十八
「与しやすい男だ」 実際において与しやすい或物を多量に有っていると自覚しながらも、健三は他からこう思われるのが癪に障った。
彼の神経はこの肝癪を乗り超えた人に向って鋭どい懐しみを感じた。
彼は群衆のうちにあって直そういう人を物色する事の出来る眼を有っていた。
けれども彼自身はどうしてもその域に達せられなかった。
だからなおそういう人が眼に着いた。
またそういう人を余計尊敬したくなった。
同時に彼は自分を罵った。
しかし自分を罵らせるようにする相手をば更に烈しく罵った。
かくして細君の父と彼との間には自然の造った溝渠が次第に出来上った。
彼に対する細君の態度も暗にそれを手伝ったには相違なかった。
二人の間柄がすれすれになると、細君の心は段々生家の方へ傾いて行った。
生家でも同情の結果、冥々の裡に細君の肩を持たなければならなくなった。
しかし細君の肩を持つという事は、或場合において、健三を敵とするという意味に外ならなかった。
二人は益離れるだけであった。
幸にして自然は緩和剤としての歇私的里を細君に与えた。
発作は都合好く二人の関係が緊張した間際に起った。
健三は時々便所へ通う廊下に俯伏になって倒れている細君を抱き起して床の上まで連れて来た。
真夜中に雨戸を一枚明けた縁側の端に蹲踞っている彼女を、後から両手で支えて、寝室へ戻って来た経験もあった。
そんな時に限って、彼女の意識は何時でも朦朧として夢よりも分別がなかった。
瞳孔が大きく開いていた。
外界はただ幻影のように映るらしかった。
枕辺に坐って彼女の顔を見詰めている健三の眼には何時でも不安が閃めいた。
時としては不憫の念が凡てに打ち勝った。
彼は能く気の毒な細君の乱れかかった髪に櫛を入れて遣った。
汗ばんだ額を濡れ手拭で拭いて遣った。
たまには気を確にするために、顔へ霧を吹き掛けたり、口移しに水を飲ませたりした。
発作の今よりも劇しかった昔の様も健三の記憶を刺戟した。
或時の彼は毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寐た。
紐の長さを四尺ほどにして、寐返りが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。
或時の彼は細君の鳩尾へ茶碗の糸底を宛がって、力任せに押し付けた。
それでも踏ん反り返ろうとする彼女の魔力をこの一点で喰い留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。
或時の彼は不思議な言葉を彼女の口から聞かされた。
「御天道さまが来ました。五色の雲へ乗って来ました。大変よ、貴夫」「妾の赤ん坊は死んじまった。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくっちゃならない。そら其所にいるじゃありませんか。桔槹の中に。妾ちょっと行って見て来るから放して下さい」 流産してから間もない彼女は、抱き竦めにかかる健三の手を振り払って、こういいながら起き上がろうとしたのである。
…… 細君の発作は健三に取っての大いなる不安であった。
しかし大抵の場合にはその不安の上に、より大いなる慈愛の雲が靉靆いていた。
彼は心配よりも可哀想になった。
弱い憐れなものの前に頭を下げて、出来得る限り機嫌を取った。
細君も嬉しそうな顔をした。
だから発作に故意だろうという疑の掛からない以上、また余りに肝癪が強過ぎて、どうでも勝手にしろという気にならない以上、最後にその度数が自然の同情を妨げて、何でそう己を苦しめるのかという不平が高まらない以上、細君の病気は二人の仲を和らげる方法として、健三に必要であった。
不幸にして細君の父と健三との間にはこういう重宝な緩和剤が存在していなかった。
従って細君が本で出来た両者の疎隔は、たとい夫婦関係が常に復した後でも、ちょっと埋める訳に行かなかった。
それは不思議な現象であった。
けれども事実に相違なかった。
七十九
不合理な事の嫌な健三は心の中でそれを苦に病んだ。
けれども別にどうする了簡も出さなかった。
彼の性質はむきでもあり一図でもあったと共に頗る消極的な傾向を帯びていた。
「己にそんな義務はない」 自分に訊いて、自分に答を得た彼は、その答を根本的なものと信じた。
彼は何時までも不愉快の中で起臥する決心をした。
成行が自然に解決を付けてくれるだろうとさえ予期しなかった。
不幸にして細君もまたこの点においてどこまでも消極的な態度を離れなかった。
彼女は何か事件があれば動く女であった。
他から頼まれて男より邁進する場合もあった。
しかしそれは眼前に手で触れられるだけの明瞭な或物を捉まえた時に限っていた。
ところが彼女の見た夫婦関係には、そんな物がどこにも存在していなかった。
自分の父と健三の間にもこれというほどの破綻は認められなかった。
大きな具象的な変化でなければ事件と認めない彼女はその他を閑却した。
自分と、自分の父と、夫との間に起る精神状態の動揺は手の着けようのないものだと観じていた。
「だって何にもないじゃありませんか」 裏面にその動揺を意識しつつ彼女はこう答えなければならなかった。
彼女に最も正当と思われたこの答が、時として虚偽の響をもって健三の耳を打つ事があっても、彼女は決して動かなかった。
しまいにどうなっても構わないという投げ遣りの気分が、単に消極的な彼女をなおの事消極的に練り堅めて行った。
かくして夫婦の態度は悪い所で一致した。
相互の不調和を永続するためにと評されても仕方のないこの一致は、根強い彼らの性格から割り出されていた。
偶然というよりもむしろ必然の結果であった。
互に顔を見合せた彼らは、相手の人相で自分の運命を判断した。
細君の父が健三の手で調達された金を受取って帰ってから、それを特別の問題ともしなかった夫婦は、かえって余事を話し合った。
「産婆は何時頃生れるというのかい」「何時って判然いいもしませんが、もう直ですわ」「用意は出来てるのかい」「ええ奥の戸棚の中に入っています」 健三には何が這入っているのか分らなかった。
細君は苦しそうに大きな溜息を吐いた。
「何しろこう重苦しくっちゃ堪らない。早く生れてくれなくっちゃ」「今度は死ぬかも知れないっていってたじゃないか」「ええ、死んでも何でも構わないから、早く生んじまいたいわ」「どうも御気の毒さまだな」「好いわ、死ねば貴夫のせいだから」 健三は遠い田舎で細君が長女を生んだ時の光景を憶い出した。
不安そうに苦い顔をしていた彼が、産婆から少し手を貸してくれといわれて産室へ入った時、彼女は骨に応えるような恐ろしい力でいきなり健三の腕に獅噛み付いた。
そうして拷問でもされる人のように唸った。
彼は自分の細君が身体の上に受けつつある苦痛を精神的に感じた。
自分が罪人ではないかという気さえした。
「産をするのも苦しいだろうが、それを見ているのも辛いものだぜ」「じゃどこかへ遊びにでもいらっしゃいな」「一人で生めるかい」 細君は何とも答えなかった。
夫が外国へ行っている留守に、次の娘を生んだ時の事などはまるで口にしなかった。
健三も訊いて見ようとは思わなかった。
生れ付心配性な彼は、細君の唸り声を余所にして、ぶらぶら外を歩いていられるような男ではなかった。
産婆が次に顔を出した時、彼は念を押した。
「一週間以内かね」「いえもう少し後でしょう」 健三も細君もその気でいた。
八十
日取が狂って予期より早く産気づいた細君は、苦しそうな声を出して、傍に寐ている夫の夢を驚ろかした。
「先刻から急に御腹が痛み出して……」「もう出そうなのかい」 健三にはどの位な程度で細君の腹が痛んでいるのか分らなかった。
彼は寒い夜の中に夜具から顔だけ出して、細君の様子をそっと眺めた。
「少し撫って遣ろうか」 起き上る事の臆劫な彼は出来るだけ口先で間に合せようとした。
彼は産についての経験をただ一度しか有っていなかった。
その経験も大方は忘れていた。
けれども長女の生れる時には、こういう痛みが、潮の満干のように、何度も来たり去ったりしたように思えた。
「そう急に生れるもんじゃないだろうな、子供ってものは。一仕切痛んではまた一仕切治まるんだろう」「何だか知らないけれども段々痛くなるだけですわ」 細君の態度は明らかに彼女の言葉を証拠立てた。
凝と蒲団の上に落付いていられない彼女は、枕を外して右を向いたり左へ動いたりした。
男の健三には手の着けようがなかった。
「産婆を呼ぼうか」「ええ、早く」 職業柄産婆の宅には電話が掛っていたけれども、彼の家にそんな気の利いた設備のあろうはずはなかった。
至急を要する場合が起るたびに、彼は何時でも掛りつけの近所の医者の所へ馳け付けるのを例にしていた。
初冬の暗い夜はまだ明け離れるのに大分間があった。
彼はその人とその人の門を敲く下女の迷惑を察した。
しかし夜明まで安閑と待つ勇気がなかった。
寝室の襖を開けて、次の間から茶の間を通って、下女部屋の入口まで来た彼は、すぐ召使の一人を急き立てて暗い夜の中へ追い遣った。
彼が細君の枕元へ帰って来た時、彼女の痛みは益劇しくなった。
彼の神経は一分ごとに門前で停る車の響を待ち受けなければならないほどに緊張して来た。
産婆は容易に来なかった。
細君の唸る声が絶間なく静かな夜の室を不安に攪き乱した。
五分経つか経たないうちに、彼女は「もう生れます」と夫に宣告した。
そうして今まで我慢に我慢を重ねて怺えて来たような叫び声を一度に揚げると共に胎児を分娩した。
「確かりしろ」 すぐ立って蒲団の裾の方に廻った健三は、どうして好いか分らなかった。
その時例の洋燈は細長い火蓋の中で、死のように静かな光を薄暗く室内に投げた。
健三の眼を落している辺は、夜具の縞柄さえ判明しないぼんやりした陰で一面に裹まれていた。
彼は狼狽した。
けれども洋燈を移して其所を輝すのは、男子の見るべからざるものを強いて見るような心持がして気が引けた。
彼はやむをえず暗中に摸索した。
彼の右手は忽ち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。
その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。
そうして輪廓からいっても恰好の判然しない何かの塊に過ぎなかった。
彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭で撫でて見た。
塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。
ただ撫でるたんびにぷりぷりした寒天のようなものが剥げ落ちるように思えた。
もし強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうに違ないと彼は考えた。
彼は恐ろしくなって急に手を引込めた。
「しかしこのままにして放って置いたら、風邪を引くだろう、寒さで凍えてしまうだろう」 死んでいるか生きているかさえ弁別のつかない彼にもこういう懸念が湧いた。
彼は忽ち出産の用意が戸棚の中に入れてあるといった細君の言葉を思い出した。
そうしてすぐ自分の後部にある唐紙を開けた。
彼は其所から多量の綿を引き摺り出した。
脱脂綿という名さえ知らなかった彼は、それをむやみに千切って、柔かい塊の上に載せた。
八十一
その内待に待った産婆が来たので、健三は漸く安心して自分の室へ引き取った。
夜は間もなく明けた。
赤子の泣く声が家の中の寒い空気を顫わせた。
「御安産で御目出とう御座います」「男かね女かね」「女の御子さんで」 産婆は少し気の毒そうに中途で句を切った。
「また女か」 健三にも多少失望の色が見えた。
一番目が女、二番目が女、今度生れたのもまた女、都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり生んでどうする気だろうと、心の中で暗に細君を非難した。
しかしそれを生ませた自分の責任には思い到らなかった。
田舎で生まれた長女は肌理の濃やかな美くしい子であった。
健三はよくその子を乳母車に乗せて町の中を後から押して歩いた。
時によると、天使のように安らかな眠に落ちた顔を眺めながら宅へ帰って来た。
しかし当にならないのは想像の未来であった。
健三が外国から帰った時、人に伴れられて彼を新橋に迎えたこの娘は、久しぶりに父の顔を見て、もっと好い御父さまかと思ったと傍のものに語った如く、彼女自身の容貌もしばらく見ないうちに悪い方に変化していた。
彼女の顔は段々丈が詰って来た。
輪廓に角が立った。
健三はこの娘の容貌の中にいつか成長しつつある自分の相好の悪い所を明らかに認めなければならなかった。
次女は年が年中腫物だらけの頭をしていた。
風通しが悪いからだろうというのが本で、とうとう髪の毛をじょぎじょぎに剪ってしまった。
顋の短かい眼の大きなその子は、海坊主の化物のような風をして、其所いらをうろうろしていた。
三番目の子だけが器量好く育とうとは親の慾目にも思えなかった。
「ああいうものが続々生れて来て、必竟どうするんだろう」 彼は親らしくもない感想を起した。
その中には、子供ばかりではない、こういう自分や自分の細君なども、必竟どうするんだろうという意味も朧気に交っていた。
彼は外へ出る前にちょっと寝室へ顔を出した。
細君は洗い立てのシーツの上に穏かに寐ていた。
子供も小さい附属物のように、厚い綿の入った新調の夜具蒲団に包まれたまま、傍に置いてあった。
その子供は赤い顔をしていた。
昨夜暗闇で彼の手に触れた寒天のような肉塊とは全く感じの違うものであった。
一切も綺麗に始末されていた。
其所いらには汚れ物の影さえ見えなかった。
夜来の記憶は跡方もない夢らしく見えた。
彼は産婆の方を向いた。
「蒲団は換えて遣ったのかい」「ええ、蒲団も敷布も換えて上げました」「よくこう早く片付けられるもんだね」 産婆は笑うだけであった。
若い時から独身で通して来たこの女の声や態度はどことなく男らしかった。
「貴夫がむやみに脱脂綿を使って御しまいになったものだから、足りなくって大変困りましたよ」「そうだろう。随分驚ろいたからね」 こう答えながら健三は大して気の毒な思いもしなかった。
それよりも多量に血を失なって蒼い顔をしている細君の方が懸念の種になった。
「どうだ」 細君は微かに眼を開けて、枕の上で軽く肯ずいた。
健三はそのまま外へ出た。
例刻に帰った時、彼は洋服のままでまた細君の枕元に坐った。
「どうだ」 しかし細君はもう肯ずかなかった。
「何だか変なようです」 彼女の顔は今朝見た折と違って熱で火照っていた。
「心持が悪いのかい」「ええ」「産婆を呼びに遣ろうか」「もう来るでしょう」 産婆は来るはずになっていた。
八十二
やがて細君の腋の下に験温器が宛がわれた。
「熱が少し出ましたね」 産婆はこういって度盛の柱の中に上った水銀を振り落した。
彼女は比較的言葉寡なであった。
用心のため産科の医者を呼んで診てもらったらどうだという相談さえせずに帰ってしまった。
「大丈夫なのかな」「どうですか」 健三は全くの無知識であった。
熱さえ出ればすぐ産褥熱じゃなかろうかという危惧の念を起した。
母から掛り付けて来た産婆に信頼している細君の方がかえって平気であった。
「どうですかって、御前の身体じゃないか」 細君は何とも答えなかった。
健三から見ると、死んだって構わないという表情がその顔に出ているように思えた。
「人がこんなに心配して遣るのに」 この感じを翌る日まで持ち続けた彼は、何時もの通り朝早く出て行った。
そうして午後に帰って来て、細君の熱がもう退めている事に気が付いた。
「やっぱり何でもなかったのかな」「ええ。だけど何時また出て来るか分りませんわ」「産をすると、そんなに熱が出たり引っ込んだりするものかね」 健三は真面目であった。
細君は淋しい頬に微笑を洩らした。
熱は幸にしてそれぎり出なかった。
産後の経過は先ず順当に行った。
健三は既定の三週間を床の上に過すべく命ぜられた細君の枕元へ来て、時々話をしながら坐った。
「今度は死ぬ死ぬっていいながら、平気で生きているじゃないか」「死んだ方が好ければ何時でも死にます」「それは御随意だ」 夫の言葉を笑談半分に聴いていられるようになった細君は、自分の生命に対して鈍いながらも一種の危険を感じたその当時を顧みなければならなかった。
「実際今度は死ぬと思ったんですもの」「どういう訳で」「訳はないわ、ただ思うのに」 死ぬと思ったのにかえって普通の人より軽い産をして、予想と事実が丁度裏表になった事さえ、細君は気に留めていなかった。
「御前は呑気だね」「貴夫こそ呑気よ」 細君は嬉しそうに自分の傍に寐ている赤ん坊の顔を見た。
そうして指の先で小さい頬片を突ついて、あやし始めた。
その赤ん坊はまだ人間の体裁を具えた眼鼻を有っているとはいえないほど変な顔をしていた。
「産が軽いだけあって、少し小さ過ぎるようだね」「今に大きくなりますよ」 健三はこの小さい肉の塊りが今の細君のように大きくなる未来を想像した。
それは遠い先にあった。
けれども中途で命の綱が切れない限り何時か来るに相違なかった。
「人間の運命はなかなか片付かないもんだな」 細君には夫の言葉があまりに突然過ぎた。
そうしてその意味が解らなかった。
「何ですって」 健三は彼女の前に同じ文句を繰り返すべく余儀なくされた。
「それがどうしたの」「どうしもしないけれども、そうだからそうだというのさ」「詰らないわ。他に解らない事さえいいや、好いかと思って」 細君は夫を捨ててまた自分の傍に赤ん坊を引き寄せた。
健三は厭な顔もせずに書斎へ入った。
彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職になろうとしてならずにいる兄の事があった。
喘息で斃れようとしてまだ斃れずにいる姉の事があった。
新らしい位地が手に入るようでまだ手に入らない細君の父の事があった。
その他島田の事も御常の事もあった。
そうして自分とこれらの人々との関係が皆なまだ片付かずにいるという事もあった。
八十三
子供は一番気楽であった。
生きた人形でも買ってもらったように喜んで、閑さえあると、新らしい妹の傍に寄りたがった。
その妹の瞬き一つさえ驚嘆の種になる彼らには、嚏でも欠でも何でもかでも不可思議な現象と見えた。
「今にどんなになるだろう」 当面に忙殺される彼らの胸にはかつてこうした問題が浮かばなかった。
自分たち自身の今にどんなになるかをすら領解し得ない子供らは、無論今にどうするだろうなどと考えるはずがなかった。
この意味で見た彼らは細君よりもなお遠く健三を離れていた。
外から帰った彼は、時々洋服も脱がずに、敷居の上に立ちながら、ぼんやりこれらの一団を眺めた。
「また塊っているな」 彼はすぐ踵を回らして部屋の外へ出る事があった。
時によると彼は服も改めずにすぐ其所へ胡坐をかいた。
「こう始終湯婆ばかり入れていちゃ子供の健康に悪い。出してしまえ。第一いくつ入れるんだ」 彼は何にも解らないくせに好い加減な小言をいってかえって細君から笑われたりした。
日が重なっても彼は赤ん坊を抱いて見る気にならなかった。
それでいて一つ室に塊っている子供と細君とを見ると、時々別な心持を起した。
「女は子供を専領してしまうものだね」 細君は驚ろいた顔をして夫を見返した。
其所には自分が今まで無自覚で実行して来た事を、夫の言葉で突然悟らされたような趣もあった。
「何で藪から棒にそんな事を仰ゃるの」「だってそうじゃないか。女はそれで気に入らない亭主に敵討をするつもりなんだろう」「馬鹿を仰ゃい。子供が私の傍へばかり寄り付くのは、貴夫が構い付けて御遣りなさらないからです」「己を構い付けなくさせたものは、取も直さず御前だろう」「どうでも勝手になさい。何ぞというと僻みばかりいって。どうせ口の達者な貴夫には敵いませんから」 健三はむしろ真面目であった。
僻みとも口巧者とも思わなかった。
「女は策略が好きだからいけない」 細君は床の上で寐返りをしてあちらを向いた。
そうして涙をぽたぽたと枕の上に落した。
「そんなに何も私を虐めなくっても……」 細君の様子を見ていた子供はすぐ泣き出しそうにした。
健三の胸は重苦しくなった。
彼は征服されると知りながらも、まだ産褥を離れ得ない彼女の前に慰藉の言葉を並べなければならなかった。
しかし彼の理解力は依然としてこの同情とは別物であった。
細君の涙を拭いてやった彼は、その涙で自分の考えを訂正する事が出来なかった。
次に顔を合せた時、細君は突然夫の弱点を刺した。
「貴夫何故その子を抱いて御遣りにならないの」「何だか抱くと険呑だからさ。頸でも折ると大変だからね」「嘘を仰しゃい。貴夫には女房や子供に対する情合が欠けているんですよ」「だって御覧な、ぐたぐたして抱き慣けない男に手なんか出せやしないじゃないか」 実際赤ん坊はぐたぐたしていた。
骨などはどこにあるかまるで分らなかった。
それでも細君は承知しなかった。
彼女は昔し一番目の娘に水疱瘡の出来た時、健三の態度が俄かに一変した実例を証拠に挙げた。
「それまで毎日抱いて遣っていたのに、それから急に抱かなくなったじゃありませんか」 健三は事実を打ち消す気もなかった。
同時に自分の考えを改めようともしなかった。
「何といったって女には技巧があるんだから仕方がない」 彼は深くこう信じていた。
あたかも自分自身は凡ての技巧から解放された自由の人であるかのように。
八十四
退屈な細君は貸本屋から借りた小説を能く床の上で読んだ。
時々枕元に置いてある厚紙の汚ならしいその表紙が健三の注意を惹く時、彼は細君に向って訊いた。
「こんなものが面白いのかい」 細君は自分の文学趣味の低い事を嘲けられるような気がした。
「いいじゃありませんか、貴夫に面白くなくったって、私にさえ面白けりゃ」 色々な方面において自分と夫の隔離を意識していた彼女は、すぐこんな口が利きたくなった。
健三の所へ嫁ぐ前の彼女は、自分の父と自分の弟と、それから官邸に出入する二、三の男を知っているぎりであった。
そうしてその人々はみんな健三とは異った意味で生きて行くものばかりであった。
男性に対する観念をその数人から抽象して健三の所へ持って来た彼女は、全く予期と反対した一個の男を、彼女の夫において見出した。
彼女はそのどっちかが正しくなければならないと思った。
無論彼女の眼には自分の父の方が正しい男の代表者の如くに見えた。
彼女の考えは単純であった。
今にこの夫が世間から教育されて、自分の父のように、型が変って行くに違ないという確信を有っていた。
案に相違して健三は頑強であった。
同時に細君の膠着力も固かった。
二人は二人同志で軽蔑し合った。
自分の父を何かにつけて標準に置きたがる細君は、ややともすると心の中で夫に反抗した。
健三はまた自分を認めない細君を忌々しく感じた。
一刻な彼は遠慮なく彼女を眼下に見下す態度を公けにして憚らなかった。
「じゃ貴夫が教えて下されば好いのに。そんなに他を馬鹿にばかりなさらないで」「御前の方に教えてもらおうという気がないからさ。自分はもうこれで一人前だという腹があっちゃ、己にゃどうする事も出来ないよ」 誰が盲従するものかという気が細君の胸にあると同時に、到底啓発しようがないではないかという弁解が夫の心に潜んでいた。
二人の間に繰り返されるこうした言葉争いは古いものであった。
しかし古いだけで埓は一向開かなかった。
健三はもう飽きたという風をして、手摺のした貸本を投げ出した。
「読むなというんじゃない。それは御前の随意だ。しかし余まり眼を使わないようにしたら好いだろう」 細君は裁縫が一番好きであった。
夜眼が冴えて寐られない時などは、一時でも二時でも構わずに、細い針の目を洋燈の下に運ばせていた。
長女か次女が生れた時、若い元気に任せて、相当の時期が経過しないうちに、縫物を取上げたのが本で、大変視力を悪くした経験もあった。
「ええ、針を持つのは毒ですけれども、本位構わないでしょう。それも始終読んでいるんじゃありませんから」「しかし疲れるまで読み続けない方が好かろう。でないと後で困る」「なに大丈夫です」 まだ三十に足りない細君には過労の意味が能く解らなかった。
彼女は笑って取り合わなかった。
「御前が困らなくっても己が困る」 健三はわざと手前勝手らしい事をいった。
自分の注意を無にする細君を見ると、健三はよくこんな言葉遣いをしたがった。
それがまた夫の悪い癖の一つとして細君には数えられていた。
同時に彼のノートは益細かくなって行った。
最初蠅の頭位であった字が次第に蟻の頭ほどに縮まって来た。
何故そんな小さな文字を書かなければならないのかとさえ考えて見なかった彼は、殆んど無意味に洋筆を走らせてやまなかった。
日の光りの弱った夕暮の窓の下、暗い洋燈から出る薄い灯火の影、彼は暇さえあれば彼の視力を濫費して顧みなかった。
細君に向ってした注意をかつて自分に払わなかった彼は、それを矛盾とも何とも思わなかった。
細君もそれで平気らしく見えた。
八十五
細君の床が上げられた時、冬はもう荒れ果てた彼らの庭に霜柱の錐を立てようとしていた。
「大変荒れた事、今年は例より寒いようね」「血が少なくなったせいで、そう思うんだろう」「そうでしょうかしら」 細君は始めて気が付いたように、両手を火鉢の上に翳して、自分の爪の色を見た。
「鏡を見たら顔の色でも分りそうなものだのにね」「ええ、そりゃ分ってますわ」 彼女は再び火の上に差し延べた手を返して蒼白い頬を二、三度撫でた。
「しかし寒い事も寒いんでしょう、今年は」 健三には自分の説明を聴かない細君が可笑しく見えた。
「そりゃ冬だから寒いに極まっているさ」 細君を笑う健三はまた人よりも一倍寒がる男であった。
ことに近頃の冬は彼の身体に厳しく中った。
彼はやむをえず書斎に炬燵を入れて、両膝から腰のあたりに浸み込む冷を防いだ。
神経衰弱の結果こう感ずるのかも知れないとさえ思わなかった彼は、自分に対する注意の足りない点において、細君と異る所がなかった。
毎朝夫を送り出してから髪に櫛を入れる細君の手には、長い髪の毛が何本となく残った。
彼女は梳くたびに櫛の歯に絡まるその抜毛を残り惜気に眺めた。
それが彼女には失なわれた血潮よりもかえって大切らしく見えた。
「新らしく生きたものを拵え上げた自分は、その償いとして衰えて行かなければならない」 彼女の胸には微かにこういう感じが湧いた。
しかし彼女はその微かな感じを言葉に纏めるほどの頭を有っていなかった。
同時にその感じには手柄をしたという誇りと、罰を受けたという恨みと、が交っていた。
いずれにしても、新らしく生れた子が可愛くなるばかりであった。
彼女はぐたぐたして手応えのない赤ん坊を手際よく抱き上げて、その丸い頬へ自分の唇を持って行った。
すると自分から出たものはどうしても自分の物だという気が理窟なしに起った。
彼女は自分の傍にその子を置いて、また裁もの板の前に坐った。
そうして時々針の手をやめては、暖かそうに寐ているその顔を、心配そうに上から覗き込んだ。
「そりゃ誰の着物だい」「やっぱりこの子のです」「そんなにいくつも要るのかい」「ええ」 細君は黙って手を運ばしていた。
健三は漸と気が付いたように、細君の膝の上に置かれた大きな模様のある切地を眺めた。
「それは姉から祝ってくれたんだろう」「そうです」「下らない話だな。金もないのに止せば好いのに」 健三から貰った小遣の中を割いて、こういう贈り物をしなければ気の済まない姉の心持が、彼には理解出来なかった。
「つまり己の金で己が買ったと同じ事になるんだからな」「でも貴夫に対する義理だと思っていらっしゃるんだから仕方がありませんわ」 姉は世間でいう義理を克明に守り過ぎる女であった。
他から物を貰えばきっとそれ以上のものを贈り返そうとして苦しがった。
「どうも困るね、そう義理々々って、何が義理だかさっぱり解りゃしない。そんな形式的な事をするより、自分の小遣を比田に借りられないような用心でもする方がよっぽど増しだ」 こんな事に掛けると存外無神経な細君は、強いて姉を弁護しようともしなかった。
「今にまた何か御礼をしますからそれで好いでしょう」 他を訪問する時に殆んど土産ものを持参した例のない健三は、それでもまだ不審そうに細君の膝の上にあるめりんすを見詰めていた。
八十六
「だから元は御姉さんの所へ皆なが色んな物を持って来たんですって」 細君は健三の顔を見て突然こんな事をいい出した。
――「十のものには十五の返しをなさる御姉さんの気性を知ってるもんだから、皆なその御礼を目的に何か呉れるんだそうですよ」「十のものに十五の返しをするったって、高が五十銭が七十五銭になるだけじゃないか」「それで沢山なんでしょう。そういう人たちは」 他から見ると酔興としか思われないほど細かなノートばかり拵えている健三には、世の中にそんな人間が生きていようとさえ思えなかった。
「随分厄介な交際だね。だいち馬鹿々々しいじゃないか」「傍から見れば馬鹿々々しいようですけれども、その中に入ると、やっぱり仕方がないんでしょう」 健三はこの間よそから臨時に受取った三十円を、自分がどう消費してしまったかの問題について考えさせられた。
今から一カ月余り前、彼はある知人に頼まれてその男の経営する雑誌に長い原稿を書いた。
それまで細かいノートより外に何も作る必要のなかった彼に取ってのこの文章は、違った方面に働いた彼の頭脳の最初の試みに過ぎなかった。
彼はただ筆の先に滴る面白い気分に駆られた。
彼の心は全く報酬を予期していなかった。
依頼者が原稿料を彼の前に置いた時、彼は意外なものを拾ったように喜んだ。
兼てからわが座敷の如何にも殺風景なのを苦に病んでいた彼は、すぐ団子坂にある唐木の指物師の所へ行って、紫檀の懸額を一枚作らせた。
彼はその中に、支那から帰った友達に貰った北魏の二十品という石摺のうちにある一つを択り出して入れた。
それからその額を環の着いた細長い胡麻竹の下へ振ら下げて、床の間の釘へ懸けた。
竹に丸味があるので壁に落付かないせいか、額は静かな時でも斜に傾いた。
彼はまた団子坂を下りて谷中の方へ上って行った。
そうして其所にある陶器店から一個の花瓶を買って来た。
花瓶は朱色であった。
中に薄い黄で大きな草花が描かれていた。
高さは一尺余りであった。
彼はすぐそれを床の間の上へ載せた。
大きな花瓶とふらふらする比較的小さい懸額とはどうしても釣合が取れなかった。
彼は少し失望したような眼をしてこの不調和な配合を眺めた。
けれどもまるで何にもないよりは増しだと考えた。
趣味に贅沢をいう余裕のない彼は、不満足のうちに満足しなければならなかった。
彼はまた本郷通りにある一軒の呉服屋へ行って反物を買った。
織物について何の知識もない彼はただ番頭が見せてくれるもののうちから、好い加減な選択をした。
それはむやみに光る絣であった。
幼稚な彼の眼には光らないものより光るものの方が上等に見えた。
番頭に揃いの羽織と着物を拵えるべく勧められた彼は、遂に一匹の伊勢崎銘仙を抱えて店を出た。
その伊勢崎銘仙という名前さえ彼はそれまでついぞ聞いた事がなかった。
これらの物を買い調えた彼は毫も他人について考えなかった。
新らしく生れる子供さえ眼中になかった。
自分より困っている人の生活などはてんから忘れていた。
俗社会の義理を過重する姉に比べて見ると、彼は憐れなものに対する好意すら失なっていた。
「そう損をしてまでも義理が尽されるのは偉いね。しかし姉は生れ付いての見栄坊なんだから、仕方がない。偉くない方がまだ増しだろう」「親切気はまるでないんでしょうか」「そうさな」 健三はちょっと考えなければならなかった。
姉は親切気のある女に違いなかった。
「ことによると己の方が不人情に出来ているのかも知れない」
八十七
この会話がまだ健三の記憶を新しく彩っていた頃、彼は御常から第二回の訪問を受けた。
先達て見た時とほぼ同じように粗末な服装をしている彼女の恰好は、寒さと共に襦袢胴着の類でも重ねたのだろう、前よりは益丸まっちくなっていた。
健三は客のために出した火鉢をすぐその人の方へ押し遣った。
「いえもう御構い下さいますな。今日は大分御暖かで御座いますから」 外部には穏やかな日が、障子に篏めた硝子越に薄く光っていた。
「あなたは年を取って段々御肥りになるようですね」「ええ御蔭さまで身体の方はまことに丈夫で御座います」「そりゃ結構です」「その代り身上の方はただ痩せる一方で」 健三には老後になってからこうむくむく肥る人の健康が疑がわれた。
少なくとも不自然に思われた。
どこか不気味に見えるところもあった。
「酒でも飲むんじゃなかろうか」 こんな推察さえ彼の胸を横切った。
御常の肌身に着けているものは悉とく古びていた。
幾度水を潜ったか分らないその着物なり羽織なりは、どこかに絹の光が残っているようで、また変にごつごつしていた。
ただどんなに時代を食っても、綺麗に洗張が出来ている所に彼女の気性が見えるだけであった。
健三は丸いながら如何にも窮屈そうなその人の姿を眺めて、彼女の生活状態と彼女の口に距離のない事を知った。
「どこを見ても困る人だらけで弱りますね」「こちらなどが困っていらしっちゃあ、世の中に困らないものは一人も御座いません」 健三は弁解する気にさえならなかった。
彼はすぐ考えた。
「この人は己を自分より金持と思っているように、己を自分より丈夫だとも思っているのだろう」 近頃の健三は実際健康を損なっていた。
それを自覚しつつ彼は医者にも診てもらわなかった。
友達にも話さなかった。
ただ一人で不愉快を忍んでいた。
しかし身体の未来を想像するたんびに彼はむしゃくしゃした。
或時は他が自分をこんなに弱くしてしまったのだというような気を起して、相手のないのに腹を立てた。
「年が若くって起居に不自由さえなければ丈夫だと思うんだろう。門構の宅に住んで下女さえ使っていれば金でもあると考えるように」 健三は黙って御常の顔を眺めていた。
同時に彼は新らしく床の間に飾られた花瓶とその後に懸っている懸額とを眺めた。
近いうちに袖を通すべきぴかぴかする反物も彼の心のうちにあった。
彼は何故この年寄に対して同情を起し得ないのだろうかと怪しんだ。
「ことによると己の方が不人情なのかも知れない」 彼は姉の上に加えた評をもう一遍腹の中で繰り返した。
そうして「何不人情でも構うものか」という答を得た。
御常は自分の厄介になっている娘婿の事について色々な話をし始めた。
世間一般によく見る通り、その人の手腕がすぐ彼女の問題になった。
彼女の手腕というのは、つまり月々入る金の意味で、その金より外に人間の価値を定めるものは、彼女に取って、広い世界に一つも見当らないらしかった。
「何しろ取高が少ないもんですから仕方が御座いません。もう少し稼いでくれると好いのですけれども」 彼女は自分の娘婿を捉まえて愚図だとも無能だともいわない代りに、毎月彼の労力が産み出す収入の高を健三の前に並べて見せた。
あたかも物指で反物の寸法さえ計れば、縞柄だの地質だのは、まるで問題にならないといった風に。
生憎健三はそうした尺度で自分を計ってもらいたくない商売をしている男であった。
彼は冷淡に彼女の不平を聞き流さなければならなかった。
八十八
好い加減な時分に彼は立って書斎に入った。
机の上に載せてある紙入を取って、そっと中を改めると、一枚の五円札があった。
彼はそれを手に握ったまま元の座敷へ帰って、御常の前へ置いた。
「失礼ですがこれで俥へでも乗って行って下さい」「そんな御心配を掛けては済みません。そういうつもりで上ったのでは御座いませんから」 彼女は辞退の言葉と共に紙幣を受け納めて懐へ入れた。
小遣を遣る時の健三がこの前と同じ挨拶を用いたように、それを貰う御常の辞令も最初と全く違わなかった。
その上偶然にも五円という金高さえ一致していた。
「この次来た時に、もし五円札がなかったらどうしよう」 健三の紙入がそれだけの実質で始終充たされていない事はその所有主の彼に知れているばかりで、御常に分るはずがなかった。
三度目に来る御常を予想した彼が、三度目に遣る五円を予想する訳に行かなかった時、彼はふと馬鹿々々しくなった。
「これからあの人が来ると、何時でも五円遣らなければならないような気がする。つまり姉が要らざる義理立をするのと同じ事なのかしら」 自分の関係した事じゃないといった風に熨斗を動かしていた細君は、手を休めずにこういった。
――「ないときは遣らないでも好いじゃありませんか。何もそう見栄を張る必要はないんだから」「ない時に遣ろうったって、遣れないのは分ってるさ」 二人の問答はすぐ途切れてしまった。
消えかかった炭を熨斗から火鉢へ移す音がその間に聞こえた。
「どうしてまた今日は五円入っていたんです。貴夫の紙入に」 健三は床の間に釣り合わない大きな朱色の花瓶を買うのに四円いくらか払った。
懸額を誂らえるとき五円なにがしか取られた。
指物師が百円に負けて置くから買わないかといった立派な紫檀の書棚をじろじろ見ながら、彼は