その一行を六ずかしそうに読み下した。
第 3 章
「取扱い所勤務中遠山藤と申す後家へ通じ合い候が事の起り。――何だ下らない」「しかし本当なんでしょう」「本当は本当さ」「それが貴夫の八ツの時なのね。それから貴夫は御自分の宅へ御帰りになった訳ね」「しかし籍を返さないんだ」「あの人が?」 細君はまたその書付を取り上げた。
読めない所はそのままにして置いて、読める所だけ眼を通しても、自分のまだ知らない事実が出て来るだろうという興味が、少なからず彼女の好奇心を唆った。
書付のしまいの方には、島田が健三の戸籍を元通りにして置いて実家へ返さないのみならず、いつの間にか戸主に改めた彼の印形を濫用して金を借り散らした例などが挙げてあった。
いよいよ手を切る時に養育料として島田に渡した金の証文も出て来た。
それには、しかる上は健三離縁本籍と引替に当金――円御渡し被下、残金――円は毎月三十日限り月賦にて御差入のつもり御対談云々と長たらしく書いてあった。
「凡て変梃な文句ばかりだね」「親類取扱人比田寅八って下に印が押してあるから、大方比田さんでも書いたんでしょう」 健三はついこの間会った比田の万事に心得顔な様子と、この証文の文句とを引き比べて見た。
三十三
葬式の帰りに寄るかも知れないといった兄は遂に顔を見せなかった。
「あんまり遅くなったから、すぐ御帰りになったんでしょう」 健三にはその方が便宜であった。
彼の仕事は前の日か前の晩を潰して調べたり考えたりしなければ義務を果す事の出来ない性質のものであった。
従って必要な時間を他に食い削られるのは、彼に取って甚しい苦痛になった。
彼は兄の置いて行った書類をまた一纏めにして、元のかんじん撚で括ろうとした。
彼が指先に力を入れた時、そのかんじん撚はぷつりと切れた。
「あんまり古くなって、弱ったのね」「まさか」「だって書付の方は虫が食ってる位ですもの、貴夫」「そういえばそうかも知れない。何しろ抽斗に投げ込んだなり、今日まで放って置いたんだから。しかし兄貴も能くまあこんなものを取って置いたものだね。困っちゃ何でも売るくせに」 細君は健三の顔を見て笑い出した。
「誰も買い手がないでしょう。そんな虫の食った紙なんか」「だがさ。能く紙屑籠の中へ入れてしまわなかったという事さ」 細君は赤と白で撚った細い糸を火鉢の抽斗から出して来て、其所に置かれた書類を新らしく絡げた上、それを夫に渡した。
「己の方にゃしまって置く所がないよ」 彼の周囲は書物で一杯になっていた。
手文庫には文殻とノートがぎっしり詰っていた。
空地のあるのは夜具蒲団のしまってある一間の戸棚だけであった。
細君は苦笑して立ち上った。
「御兄さんは二、三日うちきっとまたいらっしゃいますよ」「あの事でかい」「それもそうですけれども、今日御葬式にいらっしゃる時に、袴が要るから借してくれって、此所で穿いていらしったんですもの。きっとまた返しにいらっしゃるに極っていますわ」 健三は自分の袴を借りなければ葬式の供に立てない兄の境遇を、ちょっと考えさせられた。
始めて学校を卒業した時彼はその兄から貰ったべろべろの薄羽織を着て友達と一所に池の端で写真を撮った事をまだ覚えていた。
その友達の一人が健三に向って、この中で一番先に馬車へ乗るものは誰だろうといった時に、彼は返事をしないで、ただ自分の着ている羽織を淋しそうに眺めた。
その羽織は古い絽の紋付に違なかったが、悪くいえば申し訳のために破けずにいる位な見すぼらしい程度のものであった。
懇意な友人の新婚披露に招かれて星が岡の茶寮に行った時も、着るものがないので、袴羽織とも凡て兄のを借りて間に合せた事もあった。
彼は細君の知らないこんな記憶を頭の中に呼び起した。
しかしそれは今の彼を得意にするよりもかえって悲しくした。
今昔の感――そういう在来の言葉で一番よく現せる情緒が自然と彼の胸に湧いた。
「袴位ありそうなものだがね」「みんな長い間に失くして御しまいなすったんでしょう」「困るなあ」「どうせ宅にあるんだから、要る時に貸して上げさいすりゃそれで好いでしょう。毎日使うものじゃなし」「宅にある間はそれで好いがね」 細君は夫に内所で自分の着物を質に入れたついこの間の事件を思い出した。
夫には何時自分が兄と同じ境遇に陥らないものでもないという悲観的な哲学があった。
昔の彼は貧しいながら一人で世の中に立っていた。
今の彼は切り詰めた余裕のない生活をしている上に、周囲のものからは、活力の心棒のように思われていた。
それが彼には辛かった。
自分のようなものが親類中で一番好くなっていると考えられるのはなおさら情なかった。
三十四
健三の兄は小役人であった。
彼は東京の真中にある或大きな局へ勤めていた。
その宏壮な建物のなかに永い間憐れな自分の姿を見出す事が、彼には一種の不調和に見えた。
「僕なんぞはもう老朽なんだからね。何しろ若くって役に立つ人が後から後からと出て来るんだから」 その建物のなかには何百という人間が日となく夜となく烈しく働らいていた。
気力の尽きかけた彼の存在はまるで形のない影のようなものに違なかった。
「ああ厭だ」 活動を好まない彼の頭には常にこんな観念が潜んでいた。
彼は病身であった。
年歯より早く老けた。
年歯より早く干乾びた。
そうして色沢の悪い顔をしながら、死ににでも行く人のように働いた。
「何しろ夜寐ないんだから、身体に障ってね」 彼はよく風邪を引いて咳嗽をした。
ある時は熱も出た。
するとその熱が必ず肺病の前兆でなければならないように彼を脅かした。
実際彼の職業は強壮な青年にとっても苦しい性質のものに違なかった。
彼は隔晩に局へ泊らせられた。
そうして夜通し起きて働らかなければならなかった。
翌日の朝彼はぼんやりして自分の宅へ帰って来た。
その日一日は何をする勇気もなく、ただぐたりと寐て暮らす事さえあった。
それでも彼は自分のためまた家族のために働らくべく余儀なくされた。
「今度は少し危険いようだから、誰かに頼んでくれないか」 改革とか整理とかいう噂のあるたびに、健三はよくこんな言葉を彼の口から聞かされた。
東京を離れている時などは、わざわざ手紙で依頼して来た事も一返や二返ではなかった。
彼はその都度誰それにといって、わざわざ要路の人を指名した。
しかし健三にはただ名前が知れているだけで、自分の兄の位置を保証してもらうほどの親しみのあるものは一人もなかった。
健三は頬杖を突いて考えさせられるばかりであった。
彼はこうした不安を何度となく繰り返しながら、昔しから今日まで同じ職務に従事して、動きもしなければ発展もしなかった。
健三よりも七つばかり年上な彼の半生は、あたかも変化を許さない器械のようなもので、次第に消耗して行くより外には何の事実も認められなかった。
「二十四、五年もあんな事をしている間には何か出来そうなものだがね」 健三は時々自分の兄をこんな言葉で評したくなった。
その兄の派出好で勉強嫌であった昔も眼の前に見えるようであった。
三味線を弾いたり、一絃琴を習ったり、白玉を丸めて鍋の中へ放り込んだり、寒天を煮て切溜で冷したり、凡ての時間はその頃の彼に取って食う事と遊ぶ事ばかりに費やされていた。
「みんな自業自得だといえば、まあそんなものさね」 これが今の彼の折々他に洩す述懐になる位彼は怠け者であった。
兄弟が死に絶えた後、自然健三の生家の跡を襲ぐようになった彼は、父が亡くなるのを待って、家屋敷をすぐ売り払ってしまった。
それで元からある借金を済して、自分は小さな宅へ這入った。
それから其所に納まり切らない道具類を売払った。
間もなく彼は三人の子の父になった。
そのうちで彼の最も可愛がっていた惣領の娘が、年頃になる少し前から悪性の肺結核に罹ったので、彼はその娘を救うために、あらゆる手段を講じた。
しかし彼のなし得る凡ては残酷な運命に対して全くの徒労に帰した。
二年越煩った後で彼女が遂に斃れた時、彼の家の箪笥はまるで空になっていた。
儀式に要る袴は無論、ちょっとした紋付の羽織さえなかった。
彼は健三の外国で着古した洋服を貰って、それを大事に着て毎日局へ出勤した。
三十五
二、三日経って健三の兄は果して細君の予想通り袴を返しに来た。
「どうも遅くなって御気の毒さま。有難う」 彼は腰板の上に双方の端を折返して小さく畳んだ袴を、風呂敷の中から出して細君の前に置いた。
大の見栄坊で、ちょっとした包物を持つのも厭がった昔に比べると、今の兄は全く色気が抜けていた。
その代り膏気もなかった。
彼はぱさぱさした手で、汚れた風呂敷の隅を抓んで、それを鄭寧に折った。
「こりゃ好い袴だね。近頃拵えたの」「いいえ。なかなかそんな勇気はありません。昔からあるんです」 細君は結婚のときこの袴を着けて勿体らしく坐った夫の姿を思いだした。
遠い所で極簡略に行われたその結婚の式に兄は列席していなかった。
「へええ。そうかね。なるほどそういわれるとどこかで見たような気もするが、しかし昔のものはやっぱり丈夫なんだね。ちっとも敗んでいないじゃないか」「滅多に穿かないんですもの。それでも一人でいるうちに能くそんな物を買う気になれたのね、あの人が。私今でも不思議だと思いますわ」「あるいは婚礼の時に穿くつもりでわざわざ拵えたのかも知れないね」 二人はその時の異様な結婚式について笑いながら話し合った。
東京からわざわざ彼女を伴れて来た細君の父は、娘に振袖を着せながら、自分は一通りの礼装さえ調えていなかった。
セルの単衣を着流しのままでしまいには胡坐さえ掻いた。
婆さん一人より外に誰も相談する相手のない健三の方ではなおの事困った。
彼は結婚の儀式について全くの無方針であった。
もともと東京へ帰ってから貰うという約束があったので、媒酌人もその地にはいなかった。
健三は参考のためこの媒酌人が書いて送ってくれた注意書のようなものを読んで見た。
それは立派な紙に楷書で認められた厳めしいものには違なかったが、中には『東鑑』などが例に引いてあるだけで、何の実用にも立たなかった。
「雌蝶も雄蝶もあったもんじゃないのよ貴方。だいち御盃の縁が欠けているんですもの」「それで三々九度を遣ったのかね」「ええ。だから夫婦中がこんなにがたぴしするんでしょう」 兄は苦笑した。
「健三もなかなかの気六ずかしやだから、御住さんも骨が折れるだろう」 細君はただ笑っていた。
別段兄の言葉に取り合う気色も見えなかった。
「もう帰りそうなものですがね」「今日は待ってて例の事件を話して行かなくっちゃあ、……」 兄はまだその後をいおうとした。
細君はふいと立って茶の間へ時計を見に這入った。
其所から出て来た時、彼女はこの間の書類を手にしていた。
「これが要るんでしょう」「いえそれはただ参考までに持って来たんだから、多分要るまい。もう健三に見せてくれたんでしょう」「ええ見せました」「何といってたかね」 細君は何とも答えようがなかった。
「随分沢山色々な書付が這入っていますわね。この中には」「御父さんが、今に何か事があるといけないって、丹念に取って置いたんだから」 細君は夫から頼まれてその中の最も大切らしい一部分を彼のために代読した事はいわなかった。
兄もそれぎり書類について語らなくなった。
二人は健三の帰るまでの時間をただの雑談に費やした。
その健三は約三十分ほどして帰って来た。
三十六
彼が何時もの通り服装を改めて座敷へ出た時、赤と白と撚り合せた細い糸で括られた例の書類は兄の膝の上にあった。
「先達ては」 兄は油気の抜けた指先で、一度解きかけた糸の結び目を元の通りに締めた。
「今ちょっと見たらこの中には君に不必要なものが紛れ込んでいるね」「そうですか」 この大事そうにしまい込まれてあった書付に、兄が長い間眼を通さなかった事を健三は知った。
兄はまた自分の弟がそれほど熱心にそれを調べていない事に気が付いた。
「御由の送籍願が這入ってるんだよ」 御由というのは兄の妻の名であった。
彼がその人と結婚する当時に必要であった区長宛の願書が其所から出て来ようとは、二人とも思いがけなかった。
兄は最初の妻を離別した。
次の妻に死なれた。