道草

3/14

その一行を六ずかしそうに読み下した。

第 3 章
「取扱いとりあつかい所ところ勤務きんむ中なか遠山えんざん藤ふじと申すもうす後家ごけへ通じ合いつうじあい候こうが事ことの起りおこり。――何なんだ下らしたらない」「しかし本当ほんとうなんでしょう」「本当ほんとうは本当ほんとうさ」「それが貴夫たかおの八はちツの時じなのね。それから貴夫たかおは御自分ごじぶんの宅たくへ御ご帰りかえりになった訳わけね」「しかし籍せきを返さかえさないんだ」「あの人ひとが?」 細君さいくんはまたその書付かきつけを取り上げとりあげた。
読めよめない所ところはそのままにして置いおいて、読めるよめる所ところだけ眼めを通しとおしても、自分じぶんのまだ知らしらない事実じじつが出でて来るくるだろうという興味きょうみが、少なからすくなからず彼女かのじょの好奇心こうきしんを唆っそそった。
書付かきつけのしまいの方ほうには、島田しまだが健三けんぞうの戸籍こせきを元もと通りとおりにして置いおいて実家じっかへ返さかえさないのみならず、いつの間まにか戸主こしゅに改めあらためた彼かれの印形いんぎょうを濫用らんようして金きんを借りかり散らしちらした例れいなどが挙げあげてあった。
いよいよ手てを切るきる時じに養育よういく料りょうとして島田しまだに渡しわたした金きんの証文しょうもんも出でて来きた。
それには、しかる上うえは健三けんぞう離縁りえん本籍ほんせきと引替ひきかえに当金あてがね――円えん御ご渡しわたし被ひ下した、残金ざんきん――円えんは毎月まいつき三十さんじゅう日ひ限りかぎり月賦げっぷにて御ご差入さしいれのつもり御ご対談たいだん云々うんぬんと長たらしくながたらしく書いかいてあった。
「凡てすべて変梃へんてこな文句もんくばかりだね」「親類しんるい取扱とりあつかい人ひと比田ひでん寅とら八はちって下したに印しるしが押しおしてあるから、大方おおかた比田ひでんさんでも書いかいたんでしょう」 健三けんぞうはついこの間ま会っかいった比田ひでんの万事ばんじに心得こころえ顔かおな様子ようすと、この証文しょうもんの文句もんくとを引き比べひきくらべて見みた。
三十三さんじゅうさん
葬式そうしきの帰りかえりに寄るよるかも知れしれないといった兄あには遂についに顔かおを見せみせなかった。
「あんまり遅くおそくなったから、すぐ御ご帰りかえりになったんでしょう」 健三けんぞうにはその方ほうが便宜べんぎであった。
彼かれの仕事しごとは前の日まえのひか前まえの晩ばんを潰しつぶして調べしらべたり考えかんがえたりしなければ義務ぎむを果すはたす事ことの出来できない性質せいしつのものであった。
従っしたがって必要ひつような時間じかんを他ほかに食いくい削らけずられるのは、彼かれに取っとって甚しいはなはだしい苦痛くつうになった。
彼かれは兄あにの置いおいて行っいった書類しょるいをまた一纏めひとまとめにして、元もとのかんじん撚で括ろうくくろうとした。
彼かれが指先ゆびさきに力ちからを入れいれた時じ、そのかんじん撚はぷつりと切れきれた。
「あんまり古くふるくなって、弱っよわったのね」「まさか」「だって書付かきつけの方ほうは虫むしが食っしょくってる位くらいですもの、貴夫たかお」「そういえばそうかも知れしれない。何しろなにしろ抽斗ひきだしに投げ込んなげこんだなり、今日きょうまで放っはなって置いおいたんだから。しかし兄貴あにきも能くよくまあこんなものを取っとって置いおいたものだね。困っこまっちゃ何なんでも売るうるくせに」 細君さいくんは健三けんぞうの顔かおを見みて笑いわらい出しだした。
「誰だれも買い手かいてがないでしょう。そんな虫むしの食っしょくった紙かみなんか」「だがさ。能くよく紙かみ屑籠くずかごの中なかへ入れいれてしまわなかったという事ことさ」 細君さいくんは赤あかと白しろで撚っよった細いほそい糸いとを火鉢ひばちの抽斗ひきだしから出しだして来きて、其その所ところに置かおかれた書類しょるいを新らしくあたらしく絡げからげた上うえ、それを夫おっとに渡しわたした。
「己おのれの方ほうにゃしまって置くおく所ところがないよ」 彼かれの周囲しゅういは書物しょもつで一杯いちばいになっていた。
手文庫てぶんこには文殻ふみがらとノートのーとがぎっしり詰っなじっていた。
空地あきちのあるのは夜具やぐ蒲団ふとんのしまってある一間いちけんの戸棚とだなだけであった。
細君さいくんは苦笑くしょうして立ち上ったちのぼった。
「御ご兄さんあにさんは二に、三さん日ひうちきっとまたいらっしゃいますよ」「あの事ことでかい」「それもそうですけれども、今日きょう御ご葬式そうしきにいらっしゃる時じに、袴はかまが要るいるから借かりしてくれって、此これ所ところで穿いはいていらしったんですもの。きっとまた返しかえしにいらっしゃるに極っきょくっていますわ」 健三けんぞうは自分じぶんの袴はかまを借りかりなければ葬式そうしきの供ともに立てたてない兄あにの境遇きょうぐうを、ちょっと考えかんがえさせられた。
始めはじめて学校がっこうを卒業そつぎょうした時じ彼かれはその兄あにから貰っもらったべろべろの薄うす羽織はおりを着きて友達ともだちと一所いっしょに池の端いけのはたで写真しゃしんを撮っとった事ことをまだ覚えおぼえていた。
その友達ともだちの一人ひとりが健三けんぞうに向っむかって、この中なかで一番いちばん先さきに馬車ばしゃへ乗るのるものは誰だれだろうといった時じに、彼かれは返事へんじをしないで、ただ自分じぶんの着きている羽織はおりを淋しさびしそうに眺めながめた。
その羽織はおりは古いふるい絽ろの紋付もんつけに違いなかったが、悪くわるくいえば申し訳もうしわけのために破けやぶけずにいる位くらいな見すぼらしいみすぼらしい程度ていどのものであった。
懇意こんいな友人ゆうじんの新婚しんこん披露ひろうに招かまねかれて星が岡ほしがおかの茶寮さりょうに行っいった時じも、着るきるものがないので、袴はかま羽織はおりとも凡てすべて兄あにのを借りかりて間まに合せあわせた事こともあった。
彼かれは細君さいくんの知らしらないこんな記憶きおくを頭あたまの中なかに呼び起しよびおこした。
しかしそれは今いまの彼かれを得意とくいにするよりもかえって悲しくかなしくした。
今昔こんじゃくの感かん――そういう在来ざいらいの言葉ことばで一番いちばんよく現せるあらわせる情緒じょうちょが自然しぜんと彼かれの胸むねに湧いわいた。
「袴はかま位くらいありそうなものだがね」「みんな長いながい間まに失くしなくして御ごしまいなすったんでしょう」「困るこまるなあ」「どうせ宅たくにあるんだから、要るいる時じに貸しかして上げあげさいすりゃそれで好いよいでしょう。毎日まいにち使うつかうものじゃなし」「宅たくにある間まはそれで好いよいがね」 細君さいくんは夫おっとに内所ないしょで自分じぶんの着物きものを質しつに入れいれたついこの間まの事件じけんを思い出しおもいだした。
夫おっとには何なん時じ自分じぶんが兄あにと同じおなじ境遇きょうぐうに陥らおちいらないものでもないという悲観的ひかんてきな哲学てつがくがあった。
昔むかしの彼かれは貧しいまずしいながら一人ひとりで世の中よのなかに立ったっていた。
今いまの彼かれは切り詰めきりつめた余裕よゆうのない生活せいかつをしている上うえに、周囲しゅういのものからは、活力かつりょくの心棒しんぼうのように思わおもわれていた。
それが彼かれには辛かっつらかった。
自分じぶんのようなものが親類しんるい中なかで一番いちばん好くよくなっていると考えかんがえられるのはなおさら情なかっなさけなかった。
三十四さんじゅうよん
健三けんぞうの兄あには小役人しょうやくにんであった。
彼かれは東京とうきょうの真中まなかにある或ある大きなおおきな局きょくへ勤めつとめていた。
その宏壮こうそうな建物たてもののなかに永いながい間ま憐れあわれな自分じぶんの姿すがたを見み出すだす事ことが、彼かれには一種いっしゅの不調和ふちょうわに見えみえた。
「僕ぼくなんぞはもう老朽ろうきゅうなんだからね。何しろなにしろ若くわかくって役やくに立つたつ人ひとが後あとから後あとからと出でて来るくるんだから」 その建物たてもののなかには何百なんびゃくという人間にんげんが日ひとなく夜よるとなく烈しくはげしく働はたらけらいていた。
気力きりょくの尽きつきかけた彼かれの存在そんざいはまるで形かたちのない影かげのようなものに違いなかった。
「ああ厭いやだ」 活動かつどうを好まこのまない彼かれの頭あたまには常つねにこんな観念かんねんが潜んひそんでいた。
彼かれは病身びょうしんであった。
年歯ねんしより早くはやく老けふけた。
年歯ねんしより早くはやく干かん乾びからびた。
そうして色沢しきたくの悪いわるい顔かおをしながら、死にしににでも行くいく人ひとのように働いはたらいた。
「何しろなにしろ夜よる寐ぬないんだから、身体しんたいに障っさわってね」 彼かれはよく風邪かぜを引いひいて咳嗽がいそうをした。
ある時じは熱ねつも出でた。
するとその熱ねつが必ずかならず肺病はいびょうの前兆ぜんちょうでなければならないように彼かれを脅かしおどかした。
実際じっさい彼かれの職業しょくぎょうは強壮きょうそうな青年せいねんにとっても苦しいくるしい性質せいしつのものに違いなかった。
彼かれは隔晩に局きょくへ泊らとまらせられた。
そうして夜通しよどおし起きおきて働はたらけらかなければならなかった。
翌日よくじつの朝あさ彼かれはぼんやりして自分じぶんの宅たくへ帰っかえって来きた。
その日ひ一日いちにちは何なんをする勇気ゆうきもなく、ただぐたりと寐ぬて暮らすくらす事ことさえあった。
それでも彼かれは自分じぶんのためまた家族かぞくのために働はたらけらくべく余儀よぎなくされた。
「今度こんどは少しすこし危険きけんいようだから、誰だれかに頼んたのんでくれないか」 改革かいかくとか整理せいりとかいう噂うわさのあるたびに、健三けんぞうはよくこんな言葉ことばを彼かれの口くちから聞かさきかされた。
東京とうきょうを離れはなれている時じなどは、わざわざ手紙てがみで依頼いらいして来きた事ことも一いち返かえしや二に返かえしではなかった。
彼かれはその都度つど誰それだれそれにといって、わざわざ要路ようろの人ひとを指名しめいした。
しかし健三けんぞうにはただ名前なまえが知れしれているだけで、自分じぶんの兄あにの位置いちを保証ほしょうしてもらうほどの親しみしたしみのあるものは一人ひとりもなかった。
健三けんぞうは頬杖つらづえを突いついて考えかんがえさせられるばかりであった。
彼かれはこうした不安ふあんを何度なんどとなく繰り返しくりかえしながら、昔むかししから今日きょうまで同じおなじ職務しょくむに従事じゅうじして、動きうごきもしなければ発展はってんもしなかった。
健三けんぞうよりも七ななつばかり年上としうえな彼かれの半生はんせいは、あたかも変化へんかを許さゆるさない器械きかいのようなもので、次第しだいに消耗しょうもうして行くいくより外そとには何なんの事実じじつも認めみとめられなかった。
「二十四にじゅうよん、五ご年ねんもあんな事ことをしている間まには何なんか出来できそうなものだがね」 健三けんぞうは時々ときどき自分じぶんの兄あにをこんな言葉ことばで評しひょうしたくなった。
その兄あにの派出はしゅつ好よしみで勉強べんきょう嫌いやであった昔むかしも眼めの前まえに見えるみえるようであった。
三味線しゃみせんを弾いひいたり、一いち絃げん琴ことを習っならったり、白玉はくぎょくを丸めまるめて鍋なべの中なかへ放り込んほうりこんだり、寒天かんてんを煮にて切せつ溜ためで冷しひやしたり、凡てすべての時間じかんはその頃ころの彼かれに取っとって食うくう事ことと遊ぶあそぶ事ことばかりに費やさついやされていた。
「みんな自業自得じごうじとくだといえば、まあそんなものさね」 これが今いまの彼かれの折々おりおり他ほかに洩すもらす述懐じゅっかいになる位くらい彼かれは怠け者なまけものであった。
兄弟きょうだいが死に絶えしにたえた後あと、自然しぜん健三けんぞうの生家せいかの跡あとを襲かさねぐようになった彼かれは、父ちちが亡くなるなくなるのを待っまって、家屋敷いえやしきをすぐ売り払っうりはらってしまった。
それで元もとからある借金しゃっきんを済しなして、自分じぶんは小さなちいさな宅たくへ這入っはいった。
それから其その所ところに納まりおさまり切らきらない道具どうぐ類るいを売払っうりはらった。
間まもなく彼かれは三さん人ひとの子この父ちちになった。
そのうちで彼かれの最ももっとも可愛かわいがっていた惣領そうりょうの娘むすめが、年頃としごろになる少しすこし前まえから悪性あくせいの肺結核はいけっかくに罹っかかったので、彼かれはその娘むすめを救うすくうために、あらゆる手段しゅだんを講じこうじた。
しかし彼かれのなし得るうる凡てすべては残酷ざんこくな運命うんめいに対したいして全くまったくの徒労とろうに帰しかえした。
二に年ねん越こし煩っわずらった後あとで彼女かのじょが遂についに斃れたおれた時じ、彼かれの家いえの箪笥たんすはまるで空そらになっていた。
儀式ぎしきに要るいる袴はかまは無論むろん、ちょっとした紋付もんつけの羽織はおりさえなかった。
彼かれは健三けんぞうの外国がいこくで着古しきふるした洋服ようふくを貰っもらって、それを大事だいじに着きて毎日まいにち局きょくへ出勤しゅっきんした。
三十五さんじゅうご
二に、三さん日ひ経っきょうって健三けんぞうの兄あには果してはたして細君さいくんの予想よそう通りとおり袴はかまを返しかえしに来きた。
「どうも遅くおそくなって御ご気の毒きのどくさま。有難うありがとう」 彼かれは腰板こしいたの上うえに双方そうほうの端はしを折返しおりかえして小さくちいさく畳んたたんだ袴はかまを、風呂敷ふろしきの中なかから出しだして細君さいくんの前まえに置いおいた。
大おおの見栄坊みえぼうで、ちょっとした包つつみ物ものを持つもつのも厭いやがった昔むかしに比べるくらべると、今いまの兄あには全くまったく色気いろけが抜けぬけていた。
その代りかわり膏あぶら気きもなかった。
彼かれはぱさぱさした手てで、汚れよごれた風呂敷ふろしきの隅すみを抓んつまんで、それを鄭てい寧ねいに折っおった。
「こりゃ好いよい袴はかまだね。近頃ちかごろ拵えこしらえたの」「いいえ。なかなかそんな勇気ゆうきはありません。昔むかしからあるんです」 細君さいくんは結婚けっこんのときこの袴はかまを着けつけて勿体もったいらしく坐っすわった夫おっとの姿すがたを思いだしおもいだした。
遠いとおい所ところで極きょく簡略かんりゃくに行わおこなわれたその結婚けっこんの式しきに兄あには列席れっせきしていなかった。
「へええ。そうかね。なるほどそういわれるとどこかで見みたような気きもするが、しかし昔むかしのものはやっぱり丈夫じょうぶなんだね。ちっとも敗んやぶんでいないじゃないか」「滅多めったに穿かはかないんですもの。それでも一人ひとりでいるうちに能くよくそんな物ものを買うかう気きになれたのね、あの人ひとが。私わたくし今いまでも不思議ふしぎだと思いおもいますわ」「あるいは婚礼こんれいの時じに穿くはくつもりでわざわざ拵えこしらえたのかも知れしれないね」 二人ふたりはその時じの異様いような結婚式けっこんしきについて笑いわらいながら話し合っはなしあった。
東京とうきょうからわざわざ彼女かのじょを伴れつれて来きた細君さいくんの父ちちは、娘むすめに振袖ふりそでを着せきせながら、自分じぶんは一通りひととおりの礼装れいそうさえ調えととのえていなかった。
セルせるの単衣ひとえを着流しきながしのままでしまいには胡坐こざさえ掻いかいた。
婆ばあさん一人ひとりより外そとに誰だれも相談そうだんする相手あいてのない健三けんぞうの方ほうではなおの事こと困っこまった。
彼かれは結婚けっこんの儀式ぎしきについて全くまったくの無む方針ほうしんであった。
もともと東京とうきょうへ帰っかえってから貰うもらうという約束やくそくがあったので、媒酌人ばいしゃくにんもその地ちにはいなかった。
健三けんぞうは参考さんこうのためこの媒酌人ばいしゃくにんが書いかいて送っおくってくれた注意ちゅうい書しょのようなものを読んよんで見みた。
それは立派りっぱな紙かみに楷書かいしょで認めみとめられた厳めしいいかめしいものには違いなかったが、中なかには『東鑑あずまかがみ』などが例れいに引いひいてあるだけで、何なんの実用じつようにも立たたたなかった。
「雌蝶めちょうも雄蝶おちょうもあったもんじゃないのよ貴方あなた。だいち御ご盃さかずきの縁えんが欠けかけているんですもの」「それで三々九度さんさんくどを遣っつかったのかね」「ええ。だから夫婦ふうふ中なかがこんなにがたぴしするんでしょう」 兄あには苦笑くしょうした。
「健三けんぞうもなかなかの気き六ろくずかしやだから、御ご住じゅうさんも骨ほねが折れるおれるだろう」 細君さいくんはただ笑っわらっていた。
別段べつだん兄あにの言葉ことばに取り合うとりあう気色けしきも見えみえなかった。
「もう帰りかえりそうなものですがね」「今日きょうは待っまってて例れいの事件じけんを話しはなして行かいかなくっちゃあ、……」 兄あにはまだその後そのあとをいおうとした。
細君さいくんはふいと立ったって茶の間ちゃのまへ時計とけいを見みに這入っはいった。
其その所ところから出でて来きた時じ、彼女かのじょはこの間まの書類しょるいを手てにしていた。
「これが要るいるんでしょう」「いえそれはただ参考さんこうまでに持っもって来きたんだから、多分たぶん要るいるまい。もう健三けんぞうに見せみせてくれたんでしょう」「ええ見せみせました」「何なんといってたかね」 細君さいくんは何なんとも答えこたえようがなかった。
「随分ずいぶん沢山たくさん色々いろいろな書付かきつけが這入っはいっていますわね。この中なかには」「御ご父さんちちさんが、今いまに何なんか事ことがあるといけないって、丹念たんねんに取っとって置いおいたんだから」 細君さいくんは夫おっとから頼またのまれてその中なかの最ももっとも大切たいせつらしい一部分いちぶぶんを彼かれのために代読だいどくした事ことはいわなかった。
兄あにもそれぎり書類しょるいについて語らかたらなくなった。
二人ふたりは健三けんぞうの帰るかえるまでの時間じかんをただの雑談ざつだんに費やしついやした。
その健三けんぞうは約やく三十さんじゅう分ぶんほどして帰っかえって来きた。
三十六さんじゅうろく
彼かれが何時もいつもの通りとおり服装ふくそうを改めてあらためて座敷ざしきへ出でた時じ、赤あかと白しろと撚り合せよりあわせた細いほそい糸いとで括らくくられた例れいの書類しょるいは兄あにの膝ひざの上うえにあった。
「先達てせんだっては」 兄あには油気あぶらけの抜けぬけた指先ゆびさきで、一度いちど解きほどきかけた糸いとの結び目むすびめを元もとの通りとおりに締めしめた。
「今いまちょっと見みたらこの中なかには君きみに不必要ふひつようなものが紛れ込んまぎれこんでいるね」「そうですか」 この大事だいじそうにしまい込ましまいこまれてあった書付かきつけに、兄あにが長いながい間ま眼めを通さとおさなかった事ことを健三けんぞうは知っしった。
兄あにはまた自分じぶんの弟おとうとがそれほど熱心ねっしんにそれを調べしらべていない事ことに気きが付いついた。
「御ご由ゆの送籍そうせき願がんが這入っはいってるんだよ」 御ご由ゆというのは兄あにの妻つまの名なであった。
彼かれがその人ひとと結婚けっこんする当時とうじに必要ひつようであった区長くちょう宛ずつの願書がんしょが其その所ところから出でて来ようこようとは、二人ふたりとも思いがけおもいがけなかった。
兄あには最初さいしょの妻つまを離別りべつした。
次つぎの妻つまに死なしなれた。
3/14