その一部分を摧いて向う側の縁に落ちた。細君は茫然として夢でも見ている人のように一口も物をいわなかった。
第 8 章
彼女は本当に情に逼って刃物三昧をする気なのだろうか、または病気の発作に自己の意志を捧げべく余儀なくされた結果、無我夢中で切れものを弄そぶのだろうか、あるいは単に夫に打ち勝とうとする女の策略からこうして人を驚かすのだろうか、驚ろかすにしてもその真意は果してどこにあるのだろうか。
自分に対する夫を平和で親切な人に立ち返らせるつもりなのだろうか、またはただ浅墓な征服慾に駆られているのだろうか、――健三は床の中で一つの出来事を五条にも六条にも解釈した。
そうして時々眠れない眼をそっと細君の方に向けてその動静をうかがった。
寐ているとも起きているとも付かない細君は、まるで動かなかった。
あたかも死を衒う人のようであった。
健三はまた枕の上でまた自分の問題の解決に立ち帰った。
その解決は彼の実生活を支配する上において、学校の講義よりも遥かに大切であった。
彼の細君に対する基調は、全その解決一つでちゃんと定められなければならなかった。
今よりずっと単純であった昔、彼は一図に細君の不可思議な挙動を、病のためとのみ信じ切っていた。
その時代には発作の起るたびに、神の前に己れを懺悔する人の誠を以て、彼は細君の膝下に跪ずいた。
彼はそれを夫として最も親切でまた最も高尚な処置と信じていた。
「今だってその源因が判然分りさえすれば」 彼にはこういう慈愛の心が充ち満ちていた。
けれども不幸にしてその源因は昔のように単純には見えなかった。
彼はいくらでも考えなければならなかった。
到底解決の付かない問題に疲れて、とろとろと眠るとまたすぐ起きて講義をしに出掛けなければならなかった。
彼は昨夕の事について、ついに一言も細君に口を利く機会を得なかった。
細君も日の出と共にそれを忘れてしまったような顔をしていた。
五十五
こういう不愉快な場面の後には大抵仲裁者としての自然が二人の間に這入って来た。
二人は何時となく普通夫婦の利くような口を利き出した。
けれども或時の自然は全くの傍観者に過ぎなかった。
夫婦はどこまで行っても背中合せのままで暮した。
二人の関係が極端な緊張の度合に達すると、健三はいつも細君に向って生家へ帰れといった。
細君の方ではまた帰ろうが帰るまいがこっちの勝手だという顔をした。
その態度が憎らしいので、健三は同じ言葉を何遍でも繰り返して憚らなかった。
「じゃ当分子供を伴れて宅へ行っていましょう」 細君はこういって一旦里へ帰った事もあった。
健三は彼らの食料を毎月送って遣るという条件の下に、また昔のような書生生活に立ち帰れた自分を喜んだ。
彼は比較的広い屋敷に下女とたった二人ぎりになったこの突然の変化を見て、少しも淋しいとは思わなかった。
「ああ晴々して好い心持だ」 彼は八畳の座敷の真中に小さな餉台を据えてその上で朝から夕方までノートを書いた。
丁度極暑の頃だったので、身体の強くない彼は、よく仰向になってばたりと畳の上に倒れた。
何時替えたとも知れない時代の着いたその畳には、彼の脊中を蒸すような黄色い古びが心まで透っていた。
彼のノートもまた暑苦しいほど細かな字で書き下された。
蠅の頭というより外に形容のしようのないその草稿を、なるべくだけ余計拵えるのが、その時の彼に取っては、何よりの愉快であった。
そして苦痛であった。
また義務であった。
巣鴨の植木屋の娘とかいう下女は、彼のために二、三の盆栽を宅から持って来てくれた。
それを茶の間の縁に置いて、彼が飯を食う時給仕をしながら色々な話をした。
彼は彼女の親切を喜こんだ。
けれども彼女の盆栽を軽蔑した。
それはどこの縁日へ行っても、二、三十銭出せば、鉢ごと買える安価な代物だったのである。
彼は細君の事をかつて考えずにノートばかり作っていた。
彼女の里へ顔を出そうなどという気はまるで起らなかった。
彼女の病気に対する懸念も悉く消えてしまった。
「病気になっても父母が付いているじゃないか。もし悪ければ何とかいって来るだろう」 彼の心は二人一所にいる時よりも遥に平静であった。
細君の関係者に会わないのみならず、彼はまた自分の兄や姉にも会いに行かなかった。
その代り向うでも来なかった。
彼はたった一人で、日中の勉強につづく涼しい夜を散歩に費やした。
そうして継布のあたった青い蚊帳の中に入って寐た。
一カ月あまりすると細君が突然遣って来た。
その時健三は日のかぎった夕暮の空の下に、広くもない庭先を逍遥していた。
彼の歩みが書斎の縁側の前へ来た時、細君は半分朽ち懸けた枝折戸の影から急に姿を現わした。
「貴夫故のようになって下さらなくって」 健三は細君の穿いている下駄の表が変にささくれて、その後の方が如何にも見苦しく擦り減らされているのに気が付いた。
彼は憐れになった。
紙入の中から三枚の一円紙幣を出して細君の手に握らせた。
「見っともないからこれで下駄でも買ったら好いだろう」 細君が帰ってから幾日目か経った後、彼女の母は始めて健三を訪ずれた。
用事は細君が健三に頼んだのと大同小異で、もう一遍彼らを引取ってくれという主意を畳の上で布衍したに過ぎなかった。
既に本人に帰りたい意志があるのを拒絶するのは、健三から見ると無情な挙動であった。
彼は一も二もなく承知した。
細君はまた子供を連れて駒込へ帰って来た。
しかし彼女の態度は里へ行く前と毫も違っていなかった。
健三は心のうちで彼女の母に騙されたような気がした。
こうした夏中の出来事を自分だけで繰り返して見るたびに、彼は不愉快になった。
これが何時まで続くのだろうかと考えたりした。
五十六
同時に島田はちょいちょい健三の所へ顔を出す事を忘れなかった。
利益の方面で一度手掛りを得た以上、放したらそれっきりだという懸念がなおさら彼を蒼蠅くした。
健三は時々書斎に入って、例の紙入を老人の前に持ち出さなければならなかった。
「好い紙入ですね。へええ。外国のものはやっぱりどこか違いますね」 島田は大きな二つ折を手に取って、さも感服したらしく、裏表を打返して眺めたりした。
「失礼ながらこれでどの位します。あちらでは」「たしか十志だったと思います。日本の金にすると、まあ五円位なものでしょう」「五円?――五円は随分好い価ですね。浅草の黒船町に古くから私の知ってる袋物屋があるが、彼所ならもっとずっと安く拵えてくれますよ。こんだ要る時にゃ、私が頼んで上げましょう」 健三の紙入は何時も充実していなかった。
全く空虚の時もあった。
そういう場合には、仕方がないので何時まで経っても立ち上がらなかった。
島田も何かに事寄せて尻を長くした。
「小遣を遣らないうちは帰らない。厭な奴だ」 健三は腹の内で憤った。
しかしいくら迷惑を感じても細君の方から特別に金を取って老人に渡す事はしなかった。
細君もその位な事ならといった風をして別に苦情を鳴らさなかった。
そうこうしているうちに、島田の態度が段々積極的になって来た。
二十、三十と纏った金を、平気に向うから請求し始めた。
「どうか一つ。私もこの年になって倚かる子はなし、依怙にするのは貴方一人なんだから」 彼は自分の言葉遣いの横着さ加減にさえ気が付いていなかった。
それでも健三がむっとして黙っていると、凹んだ鈍い眼を狡猾らしく動かして、じろじろ彼の様子を眺める事を忘れなかった。
「これだけの生活をしていて、十や二十の金の出来ないはずはない」 彼はこんな事まで口へ出していった。
彼が帰ると、健三は厭な顔をして細君に向った。
「ありゃ成し崩しに己を侵蝕する気なんだね。始め一度に攻め落そうとして断られたもんだから、今度は遠巻にしてじりじり寄って来ようってんだ。実に厭な奴だ」 健三は腹が立ちさえすれば、よく実にとか一番とか大とかいう最大級を使って欝憤の一端を洩らしたがる男であった。
こんな点になると細君の方はしぶとい代りに大分落付いていた。
「貴夫が引っ掛るから悪いのよ。だから始めから用心して寄せ付けないようになされば好いのに」 健三はその位の事なら最初から心得ているといわぬばかりの様子を、むっとした頬と唇とに見せた。
「絶交しようと思えば何時だって出来るさ」「しかし今まで付合っただけが損になるじゃありませんか」「そりゃ何の関係もない御前から見ればそうさ。しかし己は御前とは違うんだ」 細君には健三の意味が能く通じなかった。
「どうせ貴夫の眼から見たら、妾なんぞは馬鹿でしょうよ」 健三は彼女の誤解を正してやるのさえ面倒になった。
二人の間に感情の行違でもある時は、これだけの会話すら交換されなかった。
彼は島田の後影を見送ったまま黙ってすぐ書斎へ入った。
そこで書物も読まず筆も執らずただ凝と坐っていた。
細君の方でも、家庭と切り離されたようなこの孤独な人に何時までも構う気色を見せなかった。
夫が自分の勝手で座敷牢へ入っているのだから仕方がない位に考えて、まるで取り合ずにいた。
五十七
健三の心は紙屑を丸めたようにくしゃくしゃした。
時によると肝癪の電流を何かの機会に応じて外へ洩らさなければ苦しくって居堪まれなくなった。
彼は子供が母に強請って買ってもらった草花の鉢などを、無意味に縁側から下へ蹴飛ばして見たりした。
赤ちゃけた素焼の鉢が彼の思い通りにがらがらと破るのさえ彼には多少の満足になった。
けれども残酷たらしく摧かれたその花と茎の憐れな姿を見るや否や、彼はすぐまた一種の果敢ない気分に打ち勝たれた。
何にも知らない我子の、嬉しがっている美しい慰みを、無慈悲に破壊したのは、彼らの父であるという自覚は、なおさら彼を悲しくした。
彼は半ば自分の行為を悔いた。
しかしその子供の前にわが非を自白する事は敢てし得なかった。
「己の責任じゃない。必竟こんな気違じみた真似を己にさせるものは誰だ。そいつが悪いんだ」 彼の腹の底には何時でもこういう弁解が潜んでいた。
平静な会話は波だった彼の気分を沈めるに必要であった。
しかし人を避ける彼に、その会話の届きようはずはなかった。
彼は一人いて一人自分の熱で燻ぶるような心持がした。
常でさえ有難くない保険会社の勧誘員などの名刺を見ると、大きな声をして罪もない取次の下女を叱った。
その声は玄関に立っている勧誘員の耳にまで明らかに響いた。
彼はあとで自分の態度を恥た。
少なくとも好意を以て一般の人類に接する事の出来ない己れを怒った。
同時に子供の植木鉢を蹴飛ばした場合と同じような言訳を、堂々と心の裡で読み上げた。
「己が悪いのじゃない。己の悪くない事は、仮令あの男に解っていなくっても、己には能く解っている」 無信心な彼はどうしても、「神には能く解っている」という事が出来なかった。
もしそういい得たならばどんなに仕合せだろうという気さえ起らなかった。
彼の道徳は何時でも自己に始まった。
そうして自己に終るぎりであった。
彼は時々金の事を考えた。
何故物質的の富を目標として今日まで働いて来なかったのだろうと疑う日もあった。
「己だって、専門にその方ばかり遣りゃ」 彼の心にはこんな己惚もあった。
彼はけち臭い自分の生活状態を馬鹿らしく感じた。
自分より貧乏な親類の、自分より切り詰めた暮し向に悩んでいるのを気の毒に思った。
極めて低級な慾望で、朝から晩まで齷齪しているような島田をさえ憐れに眺めた。
「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ」 こう考えて見ると、自分が今まで何をして来たのか解らなくなった。
彼は元来儲ける事の下手な男であった。
儲けられてもその方に使う時間を惜がる男であった。
卒業したてに、悉く他の口を断って、ただ一つの学校から四十円貰って、それで満足していた。
彼は