その四十円の半分を阿爺に取られた。残る二十円で、古い寺の座敷を借りて、芋や油揚ばかり食っていた。しかし彼はその間に遂に何事も仕出かさなかった。
第 9 章
その時分の彼と今の彼とは色々な点において大分変っていた。
けれども経済に余裕のないのと、遂に何事も仕出かさないのとは、どこまで行っても変りがなさそうに見えた。
彼は金持になるか、偉くなるか、二つのうちどっちかに中途半端な自分を片付けたくなった。
しかし今から金持になるのは迂闊な彼に取ってもう遅かった。
偉くなろうとすればまた色々な塵労が邪魔をした。
その塵労の種をよくよく調べて見ると、やっぱり金のないのが大源因になっていた。
どうして好いか解らない彼はしきりに焦れた。
金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼に這入って来るにはまだ大分間があった。
五十八
健三は外国から帰って来た時、既に金の必要を感じた。
久しぶりにわが生れ故郷の東京に新らしい世帯を持つ事になった彼の懐中には一片の銀貨さえなかった。
彼は日本を立つ時、その妻子を細君の父に託した。
父は自分の邸内にある小さな家を空けて彼らの住居に充てた。
細君の祖父母が亡くなるまでいたその家は狭いながらさほど見苦しくもなかった。
張交の襖には南湖の画だの鵬斎の書だの、すべて亡くなった人の趣味を偲ばせる記念と見るべきものさえ故の通り貼り付けてあった。
父は官吏であった。
大して派出な暮しの出来る身分ではなかったけれども、留守中手元に預かった自分の娘や娘の子に、苦しい思いをさせるほど窮してもいなかった。
その上健三の細君へは月々いくらかの手当が公けから下りた。
健三は安心してわが家族を後に遺した。
彼が外国にいるうち内閣が変った。
その時細君の父は比較的安全な閑職からまた引張出されて劇しく活動しなければならない或位置に就いた。
不幸にしてその新らしい内閣はすぐ倒れた。
父は崩壊の渦の中に捲き込まれなければならなかった。
遠い所でこの変化を聴いた健三は、同情に充ちた眼を故郷の空に向けた。
けれども細君の父の経済状態に関しては別に顧慮する必要のないものとして、殆んど心を悩ませなかった。
迂闊な彼は帰ってからも其所に注意を払わなかった。
また気も付かなかった。
彼は細君が月々貰う二十円だけでも子供二人に下女を使って充分遣って行ける位に考えていた。
「何しろ家賃が出ないんだから」 こんな呑気な想像が、実際を見た彼の眼を驚愕で丸くさせた。
細君は夫の留守中に自分の不断着をことごとく着切ってしまった。
仕方がないので、しまいには健三の置いて行った地味な男物を縫い直して身に纏った。
同時に蒲団からは綿が出た。
夜具は裂けた。
それでも傍に見ている父はどうして遣る訳にも行かなかった。
彼は自分の位地を失った後、相場に手を出して、多くもない貯蓄を悉く亡くしてしまったのである。
首の回らないほど高い襟を掛けて外国から帰って来た健三は、この惨澹な境遇に置かれたわが妻子を黙って眺めなければならなかった。
ハイカラな彼はアイロニーのために手非道く打ち据えられた。
彼の唇は苦笑する勇気さえ有たなかった。
その内彼の荷物が着いた。
細君に指輪一つ買って来なかった彼の荷物は、書籍だけであった。
狭苦しい隠居所のなかで、彼はその箱の蓋さえ開ける事の出来ないのを馬鹿らしく思った。
彼は新らしい家を探し始めた。
同時に金の工面もしなければならなかった。
彼は唯一の手段として、今まで継続して来た自分の職を辞した。
彼はその行為に伴なって起る必然な結果として、一時賜金を受取る事が出来た。
一年勤めれば役をやめた時に月給の半額をくれるという規定に従って彼の手に入ったその金額は、無論大したものではなかった。
けれども彼はそれで漸と日常生活に必要な家具家財を調えた。
彼は僅ばかりの金を懐にして、或る古い友達と一所に方々の道具屋などを見て歩いた。
その友達がまた品物の如何にかかわらずむやみに価切り倒す癖を有っているので、彼はただ歩くために少なからぬ時間を費やさされた。
茶盆、烟草盆、火鉢、丼鉢、眼に入るものはいくらでもあったが、買えるのは滅多に出て来なかった。
これだけに負けて置けと命令するようにいって、もし主人がその通りにしないと、友達は健三を店先に残したまま、さっさと先へ歩いて行った。
健三も仕方なしに後を追懸なければならなかった。
たまに愚図々々していると、彼は大きな声を出して遠くから健三を呼んだ。
彼は親切な男であった。
同時に自分の物を買うのか他の物を買うのか、その区別を弁えていないように猛烈な男であった。
五十九
健三はまた日常使用する家具の外に、本棚だの机だのを新調しなければならなかった。
彼は洋風の指物を渡世にする男の店先に立って、しきりに算盤を弾く主人と談判をした。
彼の誂えた本棚には硝子戸も後部も着いていなかった。
塵埃の積る位は懐中に余裕のない彼の意とする所ではなかった。
木がよく枯れていないので、重い洋書を載せると、棚板が気の引けるほど撓った。
こんな粗末な道具ばかりを揃えるのにさえ彼は少からぬ時間を費やした。
わざわざ辞職して貰った金は何時の間にかもうなくなっていた。
迂闊な彼は不思議そうな眼を開いて、索然たる彼の新居を見廻した。
そうして外国にいる時、衣服を作る必要に逼られて、同宿の男から借りた金はどうして返して好いか分らなくなってしまったように思い出した。
そこへその男からもし都合が付くなら算段してもらいたいという催促状が届いた。
健三は新らしく拵えた高い机の前に坐って、少時彼の手紙を眺めていた。
僅の間とはいいながら、遠い国で一所に暮したその人の記憶は、健三に取って淡い新しさを帯びていた。
その人は彼と同じ学校の出身であった。
卒業の年もそう違わなかった。
けれども立派な御役人として、ある重要な事項取調のためという名義の下に、官命で遣って来たその人の財力と健三の給費との間には、殆んど比較にならないほどの懸隔があった。
彼は寝室の外に応接間も借りていた。
夜になると繻子で作った刺繍のある綺麗な寝衣を着て、暖かそうに暖炉の前で書物などを読んでいた。
北向の狭苦しい部屋で押し込められたように凝と竦んでいる健三は、ひそかに彼の境遇を羨んだ。
その健三には昼食を節約した憐れな経験さえあった。
ある時の彼は表へ出た帰掛に途中で買ったサンドウィッチを食いながら、広い公園の中を目的もなく歩いた。
斜めに吹きかける雨を片々の手に持った傘で防けつつ、片々の手で薄く切った肉と麺麭を何度にも頬張るのが非常に苦しかった。
彼は幾たびか其所にあるベンチへ腰を卸そうとしては躊躇した。
ベンチは雨のために悉く濡れていたのである。
ある時の彼は町で買って来たビスケットの缶を午になると開いた。
そうして湯も水も呑まずに、硬くて脆いものをぼりぼり噛み摧いては、生唾の力で無理に嚥み下した。
ある時の彼はまた馭者や労働者と一所に如何わしい一膳飯屋で形ばかりの食事を済ました。
其所の腰掛の後部は高い屏風のように切立っているので、普通の食堂の如く、広い室を一目に見渡す事は出来なかったが、自分と一列に並んでいるものの顔だけは自由に眺められた。
それは皆な何時湯に入ったか分らない顔であった。
こんな生活をしている健三が、この同宿の男の眼にはさも気の毒に映ったと見えて、彼は能く健三を午餐に誘い出した。
銭湯へも案内した。
茶の時刻には向うから呼びに来た。
健三が彼から金を借りたのはこうして彼と大分懇意になった時の事であった。
その時彼は反故でも棄てるように無雑作な態度を見せて、五磅のバンクノートを二枚健三の手に渡した。
何時返してくれとは無論いわなかった。
健三の方でも日本へ帰ったらどうにかなるだろう位に考えた。
日本へ帰った健三は能くこのバンクノートの事を覚えていた。
けれども催促状を受取るまでは、それほど急に返す必要が出て来ようとは思わなかった。
行き詰った彼は仕方なしに、一人の旧い友達の所へ出掛けて行った。
彼はその友達の大した金持でない事を承知していた。
しかし自分よりも少しは融通の利く地位にある事も呑み込んでいた。
友達は果して彼の請求を容れて、要るだけの金を彼の前に揃えてくれた。
彼は早速それを外国で恩を受けた人の許へ返しに行った。
新らしく借りた友達へは月に十円ずつの割で成し崩しに取ってもらう事に極めた。
六十
こんな具合にして漸と東京に落付いた健三は、物質的に見た自分の、如何にも貧弱なのに気が付いた。
それでも金力を離れた他の方面において自分が優者であるという自覚が絶えず彼の心に往来する間は幸福であった。
その自覚が遂に金の問題で色々に攪き乱されてくる時、彼は始めて反省した。
平生何心なく身に着けて外へ出る黒木綿の紋付さえ、無能力の証拠のように思われ出した。
「この己をまた強請りに来る奴がいるんだから非道い」 彼は最も質の悪いその種の代表者として島田の事を考えた。
今の自分がどの方角から眺めても島田より好い社会的地位を占めているのは明白な事実であった。
それが彼の虚栄心に少しの反響も与えないのもまた明白な事実であった。
昔し自分を呼び捨てにした人から今となって鄭寧な挨拶を受けるのは、彼に取って何の満足にもならなかった。
小遣の財源のように見込まれるのは、自分を貧乏人と見傚している彼の立場から見て、腹が立つだけであった。
彼は念のために姉の意見を訊ねて見た。
「一体どの位困ってるんでしょうね、あの男は」「そうさね。そう度々無心をいって来るようじゃ、随分苦しいのかも知れないね。だけど健ちゃんだってそうそう他にばかり貢いでいた日にゃ際限がないからね。いくら御金が取れたって」「御金がそんなに取れるように見えますか」「だって宅なんぞに比べれば、御前さん、御金がいくらでも取れる方じゃないか」 姉は自分の宅の活計を標準にしていた。
相変らず口数の多い彼女は、比田が月々貰うものを満足に持って帰った例のない事や、俸給の少ない割に交際費の要る事や、宿直が多いので弁当代だけでも随分の額に上る事や、毎月の不足はやっと盆暮の賞与で間に合わせている事などを詳しく健三に話して聞かせた。
「その賞与だって、そっくり私の手に渡してくれるんじゃないんだからね。だけど近頃じゃ私たち二人はまあ隠居見たようなもので、月々食料を彦さんの方へ遣って賄なってもらってるんだから、少しは楽にならなけりゃならない訳さ」 養子と経済を別々にしながら一所の家に住んでいた姉夫婦は、自分たちの搗いた餅だの、自分たちの買った砂糖だのという特別な食物を有っていた。
自分たちの所へ来た客に出す御馳走などもきっと自分たちの懐中から払う事にしているらしかった。
健三は殆んど考えの及ばないような眼付をして、極端に近い一種の個人主義の下に存在しているこの一家の経済状態を眺めた。
しかし主義も理窟も有たない姉にはまたこれほど自然な現象はなかったのである。
「健ちゃんなんざ、こんな真似をしなくっても済むんだから好いやあね。それに腕があるんだから、稼ぎさいすりゃいくらでも欲しいだけの御金は取れるしさ」 彼女のいう事を黙って聞いていると、島田などはどこへ行ったか分らなくなってしまいがちであった。
それでも彼女は最後に付け加えた。
「まあ好いやね。面倒臭くなったら、その内都合の好い時に上げましょうとか何とかいって帰してしまえば。それでも蒼蠅いなら留守を御遣いよ。構う事はないから」 この注意は如何にも姉らしく健三の耳に響いた。
姉から要領を得られなかった彼はまた比田を捉まえて同じ質問を掛けて見た。
比田はただ、大丈夫というだけであった。
「何しろ故の通りあの地面と家作を有ってるんだから、そう困っていない事は慥でさあ。それに御藤さんの方へは御縫さんの方からちゃんちゃんと送金はあるしさ。何でも好い加減な事をいって来るに違ないから放って御置きなさい」 比田のいう事もやっぱり好い加減の範囲を脱し得ない上っ調子のものには相違なかった。
六十一
しまいに健三は細君に向った。
「一体どういうんだろう、今の島田の実際の境遇っていうのは。姉に訊いても比田に訊いても、本当の所が能く分らないが」 細君は気のなさそうに夫の顔を見上げた。
彼女は産に間もない大きな腹を苦しそうに抱えて、朱塗の船底枕の上に乱れた頭を載せていた。
「そんなに気になさるなら、御自分で直に調べて御覧になるが好いじゃありませんか。そうすればすぐ分るでしょう。御姉えさんだって、今あの人と交際っていらっしゃらないんだから、そんな確な事の知れているはずがないと思いますわ」「己にはそんな暇なんかないよ」「それじゃ放って御置きになればそれまででしょう」 細君の返事には、男らしくもないという意味で、健三を非難する調子があった。
腹で思っている事でもそうむやみに口へ出していわない性質に出来上った彼女は、自分の生家と夫との面白くない間柄についてさえ、余り言葉に現わしてつべこべ弁じ立てなかった。
自分と関係のない島田の事などはまるで知らないふりをして澄ましている日も少なくなかった。
彼女の持った心の鏡に映る神経質な夫の影は、いつも度胸のない偏窟な男であった。
「放って置け?」 健三は反問した。
細君は答えなかった。
「今までだって放って置いてるじゃないか」 細君はなお答えなかった。
健三はぷいと立って書斎へ入った。
島田の事に限らず二人の間にはこういう光景が能く繰り返された。
その代り前後の関係で反対の場合も時には起った。
――「御縫さんが脊髄病なんだそうだ」「脊髄病じゃ六ずかしいでしょう」「とても助かる見込はないんだとさ。それで島田が心配しているんだ。あの人が死ぬと柴野と御藤さんとの縁が切れてしまうから、今まで毎月送ってくれた例の金が来なくなるかも知れないってね」「可哀想ね今から脊髄病なんぞに罹っちゃ。まだ若いんでしょう」「己より一つ上だって話したじゃないか」「子供はあるの」「何でも沢山あるような様子だ。幾人だか能く訊いて見ないが」 細君は成人しない多くの子供を後へ遺して死にに行く、まだ四十に充たない夫人の心持を想像に描いた。
間近に逼ったわが産の結果も新たに気遣われ始めた。
重そうな腹を眼の前に見ながら、それほど心配もしてくれない男の気分が、情なくもありまた羨ましくもあった。
夫はまるで気が付かなかった。
「島田がそんな心配をするのも必竟は平生が悪いからなんだろうよ。何でも嫌われているらしいんだ。島田にいわせると、その柴野という男が酒食いで喧嘩早くって、それで何時まで経っても出世が出来なくって、仕方がないんだそうだけれども、どうもそればかりじゃないらしい。やっぱり島田の方が愛想を尽かされているに違ないんだ」「愛想を尽かされなくったって、そんなに子供が沢山あっちゃどうする事も出来ないでしょう」「そうさ。軍人だから大方己と同じように貧乏しているんだろうよ」「一体あの人はどうしてその御藤さんて人と――」 細君は少し躊躇した。
健三には意味が解らなかった。
細君はいい直した。
「どうしてその御藤さんて人と懇意になったんでしょう」 御藤さんがまだ若い未亡人であった頃、何かの用で扱所へ出なければならない事の起った時、島田はそういう場所へ出つけない女一人を、気の毒に思って、色々親切に世話をして遣ったのが、二人の間に関係の付く始まりだと、健三は小さい時分に誰かから聴いて知っていた。
しかし恋愛という意味をどう島田に応用して好いか、今の彼には解らなかった。
「慾も手伝ったに違ないね」 細君は何ともいわなかった。
六十二
不治の病気に悩まされているという御縫さんについての報知が健三の心を和げた。
何年ぶりにも顔を合せた事のない彼とその人とは、度々会わなければならなかった昔でさえ、殆んど親しく口を利いた例がなかった。
席に着くときも座を立つときも、大抵は黙礼を取り換わせるだけで済ましていた。
もし交際という文字をこんな間柄にも使い得るならば、二人の交際は極めて淡くそうして軽いものであった。
強烈な好い印象のない代りに、少しも不快の記憶に濁されていないその人の面影は、島田や御常のそれよりも、今の彼に取って遥かに尊かった。
人類に対する慈愛の心を、硬くなりかけた彼から唆り得る点において。
また漠然として散漫な人類を、比較的判明した一人の代表者に縮めてくれる点において。
――彼は死のうとしているその人の姿を、同情の眼を開いて遠くに眺めた。
それと共に彼の胸には一種の利害心が働いた。
何時起るかも知れない御縫さんの死は、狡猾な島田にまた彼を強請る口実を与えるに違なかった。
明らかにそれを予想した彼は、出来る限りそれを避けたいと思った。
しかし彼はこの場合どうして避けるかの策略を講ずる男ではなかった。
「衝突して破裂するまで行くより外に仕方がない」 彼はこう観念した。
彼は手を拱いで島田の来るのを待ち受けた。
その島田の来る前に突然彼の敵の御常が訪ねて来ようとは、彼も思い掛けなかった。
細君は何時もの通り書斎に坐っている彼の前に出て、「あの波多野って御婆さんがとうとう遣って来ましたよ」といった。
彼は驚ろくよりもむしろ迷惑そうな顔をした。
細君にはその態度が愚図々々している臆病もののように見えた。
「御会いになりますか」 それは、会うなら会う、断るなら断る、早くどっちかに極めたら好かろうという言葉の遣い方であった。
「会うから上げろ」 彼は島田の来た時と同じ挨拶をした。
細君は重苦しそうに身を起して奥へ立った。
座敷へ出た時、彼は粗末な衣服を身に纏って、丸まっちく坐っている一人の婆さんを見た。
彼の心で想像していた御常とは全く変っているその質朴な風采が、島田よりも遥かに強く彼を驚ろかした。
彼女の態度も島田に比べるとむしろ反対であった。
彼女はまるで身分の懸隔でもある人の前へ出たような様子で、鄭寧に頭を下げた。
言葉遣も慇懃を極めたものであった。
健三は小供の時分能く聞かされた彼女の生家の話を思い出した。
田舎にあったその住居も庭園も、彼女の叙述によると、善を尽し美を尽した立派なものであった。
床の下を水が縦横に流れているという特色が、彼女の何時でも繰り返す重要な点であった。
南天の柱――そういう言葉もまだ健三の耳に残っていた。
しかし小さい健三はその宏大な屋敷がどこの田舎にあるのかまるで知らなかった。
それから一度も其所へ連れて行かれた覚がなかった。
彼女自身も、健三の知っている限り、一度も自分の生れたその大きな家へ帰った事がなかった。
彼女の性格を朧気ながら見抜くように、彼の批評眼がだんだん肥えて来た時、彼はそれもまた彼女の空想から出る例の法螺ではないかと考え出した。
健三は自分を出来るだけ富有に、上品に、そして善良に、見せたがったその女と、今彼の前に畏まって坐っている白髪頭の御婆さんとを比較して、時間の齎した対照に不思議そうな眼を注いだ。
御常は昔から肥り肉の女であった。
今見る御常も依然として肥っていた。
どっちかというと、昔よりも今の方がかえって肥っていはしまいかと疑れる位であった。
それにもかかわらず、彼女は全く変化していた。
どこから見ても田舎育ちの御婆さんであった。
多少誇張していえば、籠に入れた麦焦しを背中へ脊負って近在から出て来る御婆さんであった。
六十三
「ああ変った」 顔を見合せた刹那に双方は同じ事を一度に感じ合った。
けれどもわざわざ訪ねて来た御常の方には、この変化に対する予期と準備が充分にあった。
ところが健三にはそれが殆んど欠けていた。
従って不意に打たれたものは客よりもむしろ主人であった。
それでも健三は大して驚ろいた様子を見せなかった。
彼の性質が彼にそうしろと命令する外に、彼は御常の技巧から溢れ出る戯曲的動作を恐れた。
今更この女の遣る芝居を事新らしく観せられるのは、彼に取って堪えがたい苦痛であった。
なるべくなら彼は先方の弱点を未然に防ぎたかった。
それは彼女のためでもあり、また自分のためでもあった。
彼は彼女から今までの経歴をあらまし聞き取った。
その間には人世と切り離す事の出来ない多少の不幸が相応に纏綿しているらしく見えた。
島田と別れてから二度目に嫁づいた波多野と彼女との間にも子が生れなかったので、二人は或所から養女を貰って、それを育てる事にした。
波多野が死んで何年目にか、あるいはまだ生きている時分にか、それは御常もいわなかったが、その貰い娘に養子が来たのである。
養子の商売は酒屋であった。
店は東京のうちでも随分繁華な所にあった。
どの位な程度の活計をしていたものか能く分らないが、困ったとか、窮したとかいう弱い言葉は御常の口を洩れなかった。
その内養子が戦争に出て死んだので、女だけでは店が持ち切れなくなった。
親子はやむをえずそれを畳んで、郊外近くに住んでいる或身縁を頼りに、ずっと辺鄙な所へ引越した。
其所で娘に二度目の夫が出来るまでは、死んだ養子の遺族へ毎年下がる扶助料だけで活計を立てて行った。
…… 御常の物語りは健三の予期に反してむしろ平静であった。
誇張した身ぶりだの、仰山な言葉遣だの、当込の台詞だのは、それほど多く出て来なかった。
それにもかかわらず彼は自分とこの御婆さんの間に、少しの気脈も通じていない事に気が付いた。
「ああそうですか、それはどうも」 健三の挨拶は簡単であった。
普通の受答えとしても短過ぎるこの一句を彼女に与えたぎりで、彼は別段物足りなさを感じ得なかった。
「昔の因果が今でもやっぱり祟っているんだ」 こう思った彼はさすがに好い心持がしなかった。
どっちかというと泣きたがらない質に生れながら、時々は何故本当に泣ける人や、泣ける場合が、自分の前に出て来てくれないのかと考えるのが彼の持前であった。
「己の眼は何時でも涙が湧いて出るように出来ているのに」 彼は丸まっちくなって座蒲団の上に坐っている御婆さんの姿を熟視した。
そうして自分の眼に涙を宿す事を許さない彼女の性格を悲しく観じた。
彼は紙入の中にあった五円紙幣を出して彼女の前に置いた。
「失礼ですが、車へでも乗って御帰り下さい」 彼女はそういう意味で訪問したのではないといって一応辞退した上、健三からの贈りものを受け納めた。
気の毒な事に、その贈り物の中には、疎い同情が入っているだけで、露わな真心は籠っていなかった。
彼女はそれを能く承知しているように見えた。
そうして何時の間にか離れ離れになった人間の心と心は、今更取り返しの付かないものだから、諦らめるより外に仕方がないという風にふるまった。
彼は玄関に立って、御常の帰って行く後姿を見送った。
「もしあの憐な御婆さんが善人であったなら、私は泣く事が出来たろう。泣けないまでも、相手の心をもっと満足させる事が出来たろう。零落した昔しの養い親を引き取って死水を取って遣る事も出来たろう」 黙ってこう考えた健三の腹の中は誰も知る者がなかった。
六十四
「とうとう遣って来たのね、御婆さんも。今までは御爺さんだけだったのが、御爺さんと御婆さんと二人になったのね。これからは二人に祟られるんですよ、貴夫は」 細君の言葉は珍らしく乾燥いでいた。
笑談とも付かず、冷評とも付かないその態度が、感想に沈んだ健三の気分を不快に刺戟した。
彼は何とも答えなかった。
「またあの事をいったでしょう」 細君は同じ調子で健三に訊いた。
「あの事た何だい」「貴夫が小さいうち寐小便をして、あの御婆さんを困らしたって事よ」 健三は苦笑さえしなかった。
けれども彼の腹の中には、御常が何故それをいわなかったかの疑問が既に横わっていた。
彼女の名前を聞いた刹那の健三は、すぐその弁口に思い到った位、御常は能く喋舌る女であった。
ことに自分を護る事に巧みな技倆を有っていた。
他の口車に乗せられやすい、また見え透いた御世辞を嬉しがりがちな健三の実父は、何時でも彼女を賞める事を忘れなかった。
「感心な女だよ。だいち身上持が好いからな」 島田の家庭に風波の起った時、彼女はあるだけの言葉を父の前に並べ立てた。
そうしてその言葉の上にまた悲しい涙と口惜しい涙とを多量に振り掛けた。
父は全く感動した。
すぐ彼女の味方になってしまった。
御世辞が上手だという点において健三の父は彼の姉をも大変可愛がっていた。
無心に来られるたんびに、「そうそうは己だって困るよ」とか何とかいいながら、いつか入用だけの金子は手文庫から取出されていた。
「比田はあんな奴だが、御夏が可愛想だから」 姉の帰った後で、父は何時でも弁解らしい言葉を傍のものに聞こえるようにいった。
しかしこれほど父を自由にした姉の口先は、御常に比べると遥かに下手であった。
真しやかという点において遠く及ばなかった。
実際十六、七になった時の健三は、彼女と接触した自分以外のもので、果してその性格を見抜いたものが何人あるだろうかと、一時疑って見た位、彼女の口は旨かった。
彼女に会うときの健三が、心中迷惑を感じたのは大部分この口にあった。
「御前を育てたものはこの私だよ」 この一句を二時間でも三時間でも布衍して、幼少の時分恩になった記憶をまた新らしく復習させられるのかと思うと、彼は辟易した。
「島田は御前の敵だよ」 彼女は自分の頭の中に残っているこの古い主観を、活動写真のように誇張して、また彼の前に露け出すに極っていた。
彼はそれにも辟易しない訳に行かなかった。
どっちを聴くにしても涙が交るに違なかった。
彼は装飾的に使用されるその涙を見るに堪えないような心持がした。
彼女は話す時に姉のような大きな声を出す女ではなかった。
けれども自分の必要と思う場合には、その言葉に厭らしい強い力を入れた。
円朝の人情噺に出て来る女が、長い火箸を灰の中に突き刺し突き刺し、他に騙された恨を述べて、相手を困らせるのとほぼ同じ態度でまた同じ口調であった。
彼の予期が外れた時、彼はそれを仕合せと考えるよりもむしろ不思議に思う位、御常の性格が牢として崩すべからざる判明した一種の型になって、彼の頭のどこかに入っていたのである。
細君は彼のために説明した。
「三十年近くにもなる古い事じゃありませんか。向うだって今となりゃ少しは遠慮があるでしょう。それに大抵の人はもう忘れてしまいまさあね。それから人間の性質だって長い間には少しずつ変って行きますからね」 遠慮、忘却、性質の変化、それらのものを前に並べて考えて見ても、健三には少しも合点が行かなかった。
「そんな淡泊した女じゃない」 彼は腹の中でこういわなければどうしても承知が出来なかった。
六十五
御常を知らない細君はかえって夫の執拗を笑った。
「それが貴方の癖だから仕方がない」 平生彼女の眼に映る健三の一部分はたしかにこうなのであった。
ことに彼と自分の生家との関係について、夫のこの悪い癖が著るしく出ているように彼女は思っていた。
「己が執拗なのじゃない、あの女が執拗なのだ。あの女と交際った事のない御前には、己の批評の正しさ加減が解らないからそんなあべこべをいうのだ」「だって現に貴夫の考えていた女とはまるで違った人になって貴夫の前へ出て来た以上は、貴夫の方で昔の考えを取り消すのが当然じゃありませんか」「本当に違った人になったのなら何時でも取り消すが、そうじゃないんだ。違ったのは上部だけで腹の中は故の通りなんだ」「それがどうして分るの。新らしい材料も何にもないのに」「御前に分らないでも己にはちゃんと分ってるよ」「随分独断的ね、貴夫も」「批評が中ってさえいれば独断的で一向差支ないものだ」「しかしもし中っていなければ迷惑する人が大分出て来るでしょう。あの御婆さんは私と関係のない人だから、どうでも構いませんけれども」 健三には細君の言葉が何を意味しているのか能く解った。
しかし細君はそれ以上何もいわなかった。
腹の中で自分の父母兄弟を弁護している彼女は、表向夫と遣り合って行ける所まで行く気はなかった。
彼女は理智に富んだ性質ではなかった。
「面倒臭い」 少し込み入った議論の筋道を辿らなければならなくなると、彼女はきっとこういって当面の問題を投げた。
そうして解決を付けるまで進まないために起る面倒臭さは何時までも辛抱した。
しかしその辛抱は自分自身に取って決して快よいものではなかった。
健三から見るとなおさら心持が悪かった。
「執拗だ」「執拗だ」 二人は両方で同じ非難の言葉を御互の上に投げかけ合った。
そうして御互に腹の中にある蟠まりを御互の素振から能く読んだ。
しかもその非難に理由のある事もまた御互に認め合わなければならなかった。
我慢な健三は遂に細君の生家へ行かなくなった。
何故行かないとも訊かず、また時々行ってくれとも頼まずにただ黙っていた細君は、依然として「面倒臭い」を心の中に繰り返すぎりで、少しもその態度を改めようとしなかった。
「これで沢山だ」「己もこれで沢山だ」 また同じ言葉が双方の胸のうちでしばしば繰り返された。
それでも護謨紐のように弾力性のある二人の間柄には、時により日によって多少の伸縮があった。
非常に緊張して何時切れるか分らないほどに行き詰ったかと思うと、それがまた自然の勢で徐々元へ戻って来た。
そうした日和の好い精神状態が少し継続すると、細君の唇から暖かい言葉が洩れた。
「これは誰の子?」 健三の手を握って、自分の腹の上に載せた細君は、彼にこんな問を掛けたりした。
その頃細君の腹はまだ今のように大きくはなかった。
しかし彼女はこの時既に自分の胎内に蠢めき掛けていた生の脈搏を感じ始めたので、その微動を同情のある夫の指頭に伝えようとしたのである。
「喧嘩をするのはつまり両方が悪いからですね」 彼女はこんな事もいった。
それほど自分が悪いと思っていない頑固な健三も、微笑するより外に仕方がなかった。
「離れればいくら親しくってもそれぎりになる代りに、一所にいさえすれば、たとい敵同志でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう」 健三は立派な哲理でも考え出したように首を捻った。
六十六
御常や島田の事以外に、兄と姉の消息も折々健三の耳に入った。
毎年時候が寒くなるときっと身体に故障の起る兄は、秋口からまた風邪を引いて一週間ほど局を休んだ揚句、気分の悪いのを押して出勤した結果、幾日経っても熱が除れないで苦しんでいた。
「つい無理をするもんだから」 無理をして月給の寿命を長くするか、養生をして免職の時期を早めるか、彼には二つの内どっちかを択ぶより外に仕方がないように見えたのである。
「どうも肋膜らしいっていうんだがね」 彼は心細い顔をした。
彼は死を恐れた。
肉の消滅について何人よりも強い畏怖の念を抱いていた。
そうして何人よりも強い速度で、その肉塊を減らして行かなければならなかった。
健三は細君に向っていった。
――「もう少し平気で休んでいられないものかな。責めて熱の失くなるまででも好いから」「そうしたいのは山々なんでしょうけれども、やッぱりそうは出来ないんでしょう」 健三は時々兄が死んだあとの家族を、ただ活計の方面からのみ眺める事があった。
彼はそれを残酷ながら自然の眺め方として許していた。
同時にそういう観察から逃れる事の出来ない自分に対して一種の不快を感じた。
彼は苦い塩を嘗めた。
「死にやしまいな」「まさか」 細君は取り合わなかった。
彼女はただ自分の大きな腹を持て余してばかりいた。
生家と縁故のある産婆が、遠い所から俥に乗って時々遣て来た。
彼はその産婆が何をしに来て、また何をして帰って行くのか全く知らなかった。
「腹でも揉むのかい」「まあそうです」 細君ははかばかしい返事さえしなかった。
その内兄の熱がころりと除れた。
「御祈祷をなすったんですって」 迷信家の細君は加持、祈祷、占い、神信心、大抵の事を好いていた。
「御前が勧めたんだろう」「いいえそれが私なんぞの知らない妙な御祈祷なのよ。何でも髪剃を頭の上へ載せて遣るんですって」 健三には髪剃の御蔭で、しこじらした体熱が除れようとも思えなかった。
「気のせいで熱が出るんだから、気のせいでそれがまた直除れるんだろうよ。髪剃でなくったって、杓子でも鍋蓋でも同じ事さ」「しかしいくら御医者の薬を飲んでも癒らないもんだから、試しに遣って見たらどうだろうって勧められて、とうとう遣る気になったんですって、どうせ高い御祈祷代を払ったんじゃないんでしょう」 健三は腹の中で兄を馬鹿だと思った。
また熱の除れるまで薬を飲む事の出来ない彼の内状を気の毒に思った。
髪剃の御蔭でも何でも熱が除れさえすればまず仕合せだとも思った。
兄が癒ると共に姉がまた喘息で悩み出した。
「またかい」 健三は我知らずこういって、ふと女房の持病を苦にしない比田の様子を想い浮べた。
「しかし今度は何時もより重いんですって。ことによると六ずかしいかも知れないから、健三に見舞に行くようにそういってくれって仰ゃいました」 兄の注意を健三に伝えた細君は、重苦しそうに自分の尻を畳の上に着けた。
「少し立っていると御腹の具合が変になって来て仕方がないんです。手なんぞ延ばして棚に載っているものなんかとても取れやしません」 産が逼るほど妊婦は運動すべきものだ位に考えていた健三は意外な顔をした。
下腹部だの腰の周囲の感じがどんなに退儀であるかは全く彼の想像の外にあった。
彼は活動を強いる勇気も自信も失なった。
「私とても御見舞には参れませんよ」「無論御前は行かなくっても好い。己が行くから」
六十七
その頃の健三は宅へ帰ると甚しい倦怠を感じた。
ただ仕事をした結果とばかりは考えられないこの疲労が、一層彼を出不精にした。
彼はよく昼寐をした。
机に倚って書物を眼の前に開けている時ですら、睡魔に襲われる事がしばしばあった。
愕然として仮寐の夢から覚めた時、失われた時間を取り返さなければならないという感じが一層強く彼を刺撃した。
彼は遂に机の前を離れる事が出来なくなった。
括り付けられた人のように書斎に凝としていた。
彼の良心はいくら勉強が出来なくっても、いくら愚図々々していても、そういう風に凝と坐っていろと彼に命令するのである。
かくして四、五日は徒らに過ぎた。
健三が漸く津の守坂へ出掛けた時は六ずかしいかも知れないといった姉が、もう回復期に向っていた。
「まあ結構です」 彼は尋常の挨拶をした。
けれども腹の中では狐にでも抓まれたような気がした。
「ああ、でも御蔭さまでね。――姉さんなんざあ、生きていたってどうせ他の厄介になるばかりで何の役にも立たないんだから、好い加減な時分に死ぬと丁度好いんだけれども、やっぱり持って生れた寿命だと見えてこればかりは仕方がない」 姉は自分のいう裏を健三から聴きたい様子であった。
しかし彼は黙って烟草を吹かしていた。
こんな些細の点にも姉弟の気風の相違は現われた。
「でも比田のいるうちは、いくら病身でも無能でも私が生きていて遣らないと困るからね」 親類は亭主孝行という名で姉を評し合っていた。
それは女房の心尽しなどに対して余りに無頓着過ぎる比田を一方に置いてこの姉の態度を見ると、むしろ気の毒な位親切だったからである。
「私ゃ本当に損な生れ付でね。良人とはまるであべこべなんだから」 姉の夫思いは全く天性に違なかった。
けれども比田が時として理の徹らない我儘をいい募るように、彼女は訳の解らない実意立をしてかえって夫を厭がらせる事があった。
それに彼女は縫針の道を心得ていなかった。
手習をさせても遊芸を仕込んでも何一つ覚える事の出来なかった彼女は、嫁に来てから今日まで、ついぞ夫の着物一枚縫った例がなかった。
それでいて彼女は人一倍勝気な女であった。
子供の時分強情を張った罰として土蔵の中に押し込められた時、小用に行きたいから是非出してくれ、もし出さなければ倉の中で用を足すが好いかといって、網戸の内外で母と論判をした話はいまだに健三の耳に残っていた。
そう思うと自分とは大変懸け隔ったようでいて、その実どこか似通った所のあるこの腹違の姉の前に、彼は反省を強いられた。
「姉はただ露骨なだけなんだ。教育の皮を剥けば己だって大した変りはないんだ」 平生の彼は教育の力を信じ過ぎていた。
今の彼はその教育の力でどうする事も出来ない野生的な自分の存在を明らかに認めた。
かく事実の上において突然人間を平等に視た彼は、不断から軽蔑していた姉に対して多少極りの悪い思をしなければならなかった。
しかし姉は何にも気が付かなかった。
「御住さんはどうです。もう直生れるんだろう」「ええ落こちそうな腹をして苦しがっています」「御産は苦しいもんだからね。私も覚があるが」 久しく不妊性と思われていた姉は、片付いて何年目かになって始めて一人の男の子を生んだ。
年歯を取ってからの初産だったので、当人も傍のものも大分心配した割に、それほどの危険もなく胎児を分娩したが、その子はすぐ死んでしまった。
「軽はずみをしないように用心おしよ。――宅でも彼子がいると少しは依怙になるんだがね」
六十八
姉の言葉には昔し亡くしたわが子に対する思い出の外に、今の養子に飽き足らない意味も含まれていた。
「彦ちゃんがもう少し確乎していてくれると好いんだけれども」 彼女は時々傍のものにこんな述懐を洩らした。
彦ちゃんは彼女の予期するような大した働き手でないにせよ、至極穏やかな好人物であった。
朝っぱらから酒を飲まなくっちゃいられない人だという噂を耳にした事はあるが、その他の点について深い交渉を有たない健三には、どこが不足なのか能く解らなかった。
「もう少し御金を取ってくれると好いんだけどもね」 無論彦ちゃんは養父母を楽に養えるだけの収入を得ていなかった。
しかし比田も姉も彼を育てた時の事を思えば、今更そんな贅沢のいえた義理でもなかった。
彼らは彦ちゃんをどこの学校へも入れて遣らなかった。
僅ばかりでも彼が月給を取るようになったのは、養父母に取ってむしろ僥倖といわなければならなかった。
健三は姉の不平に対して眼に見えるほどの注意を払いかねた。
昔し死んだ赤ん坊については、なおの事同情が起らなかった。
彼はその生顔を見た事がなかった。
その死顔も知らなかった。
名前さえ忘れてしまった。
「何とかいいましたね、あの子は」「作太郎さ。あすこに位牌があるよ」 姉は健三のために茶の間の壁を切り抜いて拵えた小さい仏壇を指し示した。
薄暗いばかりでなく小汚ないその中には先祖からの位牌が五つ六つ並んでいた。
「あの小さい奴がそうですか」「ああ、赤ん坊のだからね、わざと小さく拵えたんだよ」 立って行って戒名を読む気にもならなかった健三は、やはり故の所に坐ったまま、黒塗の上に金字で書いた小形の札のようなものを遠くから眺めていた。
彼の顔には何の表情もなかった。
自分の二番目の娘が赤痢に罹って、もう少しで命を奪られるところだった時の心配と苦痛さえ聯想し得なかった。
「姉さんもこんなじゃ何時ああなるか分らないよ、健ちゃん」 彼女は仏壇から眼を放して健三を見た。
健三はわざとその視線を避けた。
心細い事を口にしながら腹の中では決して死ぬと思っていない彼女のいい草には、世間並の年寄と少し趣を異にしている所があった。
慢性の病気が何時までも継続するように、慢性の寿命がまた何時までも継続するだろうと彼女には見えたのである。
其所へ彼女の癇性が手伝った。
彼女はどんなに気息苦しくっても、いくら他から忠告されても、どうしても居ながら用を足そうといわなかった。
這うようにしてでも厠まで行った。
それから子供の時からの習慣で、朝はきっと肌抜になって手水を遣った。
寒い風が吹こうが冷たい雨が降ろうが決してやめなかった。
「そんな心細い事をいわずに、出来るだけ養生をしたら好いでしょう」「養生はしているよ。健ちゃんから貰う御小遣の中で牛乳だけはきっと飲む事に極めているんだから」 田舎ものが米の飯を食うように、彼女は牛乳を飲むのが凡ての養生ででもあるかのような事をいった。
日に日に損なわれて行くわが健康を意識しつつ、この姉に養生を勧める健三の心の中にも、「他事じゃない」という馬鹿らしさが遠くに働らいていた。
「私も近頃は具合が悪くってね。ことによると貴方より早く位牌になるかも知れませんよ」 彼の言葉は無論根のない笑談として姉の耳に響いた。
彼もそれを承知の上でわざと笑った。
しかし自ら健康を損いつつあると確に心得ながら、それをどうする事も出来ない境遇に置かれた彼は、姉よりもかえって自分の方を憐んだ。
「己のは黙って成し崩しに自殺するのだ。気の毒だといってくれるものは一人もありゃしない」 彼はそう思って姉の凹み込んだ眼と、痩けた頬と、肉のない細い手とを、微笑しながら見ていた。
六十九
姉は細かい所に気の付く女であった。
従って細かい事にまでよく好奇心を働らかせたがった。
一面において馬鹿正直な彼女は、一面においてまた変な廻り気を出す癖を有っていた。
健三が外国から帰って来た時、彼女は自家の生計について、他の同情に訴え得るような憐れっぽい事実を彼の前に並べた。
しまいに兄の口を借りて、いくらでも好いから月々自分の小遣として送ってくれまいかという依頼を持ち出した。
健三は身分相応な額を定めた上、また兄の手を経て先方へその旨を通知してもらう事にした。
すると姉から手紙が来た。
長さんの話では御前さんが月々いくらいくら私に遣るという事だが、実際御前さんの、呉れるといった金高はどの位なのか、長さんに内所でちょっと知らせてくれないかと書いてあった。
姉はこれから毎月中取次をする役に当るかも知れない兄の心事を疑ぐったのである。
健三は馬鹿々々しく思った。
腹立しくも感じた。
しかし何より先に浅間しかった。
「黙っていろ」と怒鳴り付けて遣りたくなった。
彼の姉に宛てた返事は、一枚の端書に過ぎなかったけれども、こうした彼の気分を能く現わしていた。
姉はそれぎり何ともいって来なかった。
無筆な彼女は最初の手紙さえ他に頼んで書いてもらったのである。
この出来事が健三に対する姉を前よりは一層遠慮がちにした。
何でも蚊でも訊きたがる彼女も、健三の家庭については、当り障りのない事の外、多く口を開かなかった。
健三も自分ら夫婦の間柄を彼女の前で問題にしようなどとはかつて想い到らなかった。
「近頃御住さんはどうだい」「まあ相変らずです」 会話はこの位で切り上げられる場合が多かった。
間接に細君の病気を知っている姉の質問には、好奇心以外に、親切から来る懸念も大分交っていた。
しかしその懸念は健三に取って何の役にも立たなかった。
従って彼女の眼に見える健三は、何時も親しみがたい無愛想な変人に過ぎなかった。
淋しい心持で、姉の家を出た健三は、足に任せて北へ北へと歩いて行った。
そうしてついぞ見た事もない新開地のような汚ない、町の中へ入った。
東京で生れた彼は方角の上において、自分の今踏んでいる場所を能く弁えていた。
けれども其所には彼の追憶を誘う何物も残っていなかった。
過去の記念が悉く彼の眼から奪われてしまった大地の上を、彼は不思議そうに歩いた。
彼は昔あった青田と、その青田の間を走る真直な径とを思い出した。
田の尽る所には三、四軒の藁葺屋根が見えた。
菅笠を脱いで床几に腰を掛けながら、心太を食っている男の姿などが眼に浮んだ。
前には野原のように広い紙漉場があった。
其所を折れ曲って町つづきへ出ると、狭い川に橋が懸っていた。
川の左右は高い石垣で積み上げられているので、上から見下す水の流れには存外の距離があった。
橋の袂にある古風な銭湯の暖簾や、その隣の八百屋の店先に並んでいる唐茄子などが、若い時の健三によく広重の風景画を聯想させた。
しかし今では凡てのものが夢のように悉く消え失せていた。
残っているのはただ大地ばかりであった。
「何時こんなに変ったんだろう」 人間の変って行く事にのみ気を取られていた健三は、それよりも一層劇しい自然の変り方に驚ろかされた。
彼は子供の時分比田と将棋を差した事を偶然思いだした。
比田は盤に向うと、これでも所沢の藤吉さんの御弟子だからなというのが癖であった。
今の比田も将棋盤を前に置けば、きっと同じ事をいいそうな男であった。
「己自身は必竟どうなるのだろう」 衰ろえるだけで案外変らない人間のさまと、変るけれども日に栄えて行く郊外の様子とが、健三に思いがけない対照の材料を与えた時、彼は考えない訳に行かなかった。
七十
元気のない顔をして宅へ帰って来た彼の様子がすぐ細君の注意を惹いた。
「御病人はどうなの」 あるゆる人間が何時か一度は到着しなければならない最後の運命を、彼女は健三の口から判然聞こうとするように見えた。
健三は答を与える先に、まず一種の矛盾を意識した。
「何もう好いんだ。寐てはいるが危篤でも何でもないんだ。まあ兄貴に騙されたようなものだね」 馬鹿らしいという気が幾分か彼の口振に出た。
「騙されてもその方がいくら好いか知れやしませんわ、貴夫。もしもの事でもあって御覧なさい、それこそ……」「兄貴が悪いんじゃない。兄貴は姉に騙されたんだから。その姉はまた病気に騙されたんだ。つまり皆な騙されているようなものさ、世の中は。一番利口なのは比田かも知れないよ。いくら女房が煩らったって、決して騙されないんだからね」「やっぱり宅にいないの」「いるもんか。尤も非道く悪かった時はどうだか知らないが」 健三は比田の振下げている金時計と金鎖の事を思い出した。
兄はそれを天麩羅だろうといって陰で評していたが、当人はどこまでも本物らしく見せびらかしたがった。
金着せにせよ、本物にせよ、彼がどこでいくらで買ったのか知るものは誰もなかった。
こういう点に掛けては無頓着でいられない性分の姉も、ただ好い加減にその出処を推察するに過ぎなかった。
「月賦で買ったに違ないよ」「ことによると質の流れかも知れない」 姉は聴かれもしないのに、兄に向って色々な説明をした。
健三には殆ど問題にならない事が、彼らの間に想像の種を幾個でも卸した。
そうされればされるほどまた比田は得意らしく見えた。
健三が毎月送る小遣さえ時々借りられてしまうくせに、姉はついに夫の手元に入る、または現在手元にある、金高を決して知る事が出来なかった。
「近頃は何でも債券を二、三枚持っているようだよ」 姉の言葉はまるで隣の宅の財産でもいい中てるように夫から遠ざかっていた。
姉をこういう地位に立たせて平気でいる比田は、健三から見ると領解しがたい人間に違なかった。
それがやむをえない夫婦関係のように心得て辛抱している姉自身も健三には分らなかった。
しかし金銭上あくまで秘密主義を守りながら、時々姉の予期に釣り合わないようなものを買い込んだり着込んだりして、妄りに彼女を驚ろかせたがる料簡に至っては想像さえ及ばなかった。
妻に対する虚栄心の発現、焦らされながらも夫を腕利と思う妻の満足。
――この二つのものだけでは到底充分な説明にならなかった。
「金の要る時も他人、病気の時も他人、それじゃただ一所にいるだけじゃないか」 健三の謎は容易に解けなかった。
考える事の嫌な細君はまた何という評も加えなかった。
「しかし己たち夫婦も世間から見れば随分変ってるんだから、そう他の事ばかりとやかくいっちゃいられないかも知れない」「やっぱり同なじ事ですわ。みんな自分だけは好いと思ってるんだから」 健三はすぐ癪に障った。
「御前でも自分じゃ好いつもりでいるのかい」「いますとも。貴夫が好いと思っていらっしゃる通りに」 彼らの争いは能くこういう所から起った。
そうして折角穏やかに静まっている双方の心を攪き乱した。
健三はそれを慎みの足りない細君の責に帰した。
細君はまた偏窟で強情な夫のせいだとばかり解釈した。
「字が書けなくっても、裁縫が出来なくっても、やっぱり姉のような亭主孝行な女の方が己は好きだ」「今時そんな女がどこの国にいるもんですか」 細君の言葉の奥には、男ほど手前勝手なものはないという大きな反感が横わっていた。
七十一
筋道の通った頭を有っていない彼女には存外新らしい点があった。
彼女は形式的な昔風の倫理観に囚われるほど厳重な家庭に人とならなかった。
政治家を以て任じていた彼女の父は、教育に関して殆んど無定見であった。
母はまた普通の女のように八釜しく子供を育て上る性質でなかった。
彼女は宅にいて比較的自由な空気を呼吸した。
そうして学校は小学校を卒業しただけであった。
彼女は考えなかった。
けれども考えた結果を野性的に能く感じていた。
「単に夫という名前が付いているからというだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないと強いられても自分には出来ない。もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質を有った人間になって自分の前に出て来るが好い。夫という肩書などはなくっても構わないから」 不思議にも学問をした健三の方はこの点においてかえって旧式であった。
自分は自分のために生きて行かなければならないという主義を実現したがりながら、夫のためにのみ存在する妻を最初から仮定して憚からなかった。
「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」 二人が衝突する大根は此所にあった。
夫と独立した自己の存在を主張しようとする細君を見ると健三はすぐ不快を感じた。
ややともすると、「女のくせに」という気になった。
それが一段劇しくなると忽ち「何を生意気な」という言葉に変化した。
細君の腹には「いくら女だって」という挨拶が何時でも貯えてあった。
「いくら女だって、そう踏み付にされて堪るものか」 健三は時として細君の顔に出るこれだけの表情を明かに読んだ。
「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ、尊敬されたければ尊敬されるだけの人格を拵えるがいい」 健三の論理は何時の間にか、細君が彼に向って投げる論理と同じものになってしまった。
彼らはかくして円い輪の上をぐるぐる廻って歩いた。
そうしていくら疲れても気が付かなかった。
健三はその輪の上にはたりと立ち留る事があった。
彼の留る時は彼の激昂が静まる時に外ならなかった。
細君はその輪の上でふと動かなくなる事があった。
しかし細君の動かなくなる時は彼女の沈滞が融け出す時に限っていた。
その時健三は漸く怒号をやめた。
細君は始めて口を利き出した。
二人は手を携えて談笑しながら、やはり円い輪の上を離れる訳に行かなかった。
細君が産をする十日ばかり前に、彼女の父が突然健三を訪問した。
生憎留守だった彼は、夕暮に帰ってから細君にその話を聞いて首を傾むけた。
「何か用でもあったのかい」「ええ少し御話ししたい事があるんですって」「何だい」 細君は答えなかった。
「知らないのかい」「ええ。また二、三日うちに上って能く御話をするからって帰りましたから、今度参ったら直に聞いて下さい」 健三はそれより以上何もいう事が出来なかった。
久しく細君の父を訪ねないでいた彼は、用事のあるなしにかかわらず、向うがわざわざこっちへ出掛けて来ようなどとは夢にも予期しなかった。
その不審が例より彼の口数を多くする源因になった。
それとは反対に細君の言葉はかえって常よりも少なかった。
しかしそれは彼がよく彼女において発見する不平や無愛嬌から来る寡言とも違っていた。
夜は何時の間にやら全くの冬に変化していた。
細い燈火の影を凝と見詰めていると、灯は動かないで風の音だけが烈しく雨戸に当った。
ひゅうひゅうと樹木の鳴るなかに、夫婦は静かな洋燈を間に置いて、しばらく森と坐っていた。
七十二
「今日父が来ました時、外套がなくって寒そうでしたから、貴方の古いのを出して遣りました」 田舎の洋服屋で拵えた