その二十分の一にも足らない代価を大事そうに懐中から出して匠人の手に渡した。彼はまたぴかぴかする一匹の伊勢崎銘仙を買うのに十円余りを費やした。友達から受取った原稿料がこう形を変えたあとに、手垢の付いた五円札がたった一枚残ったのである。
第 12 章
「実はまだ買いたいものがあるんだがな」「何を御買いになるつもりだったの」 健三は細君の前に特別な品物の名前を挙げる事が出来なかった。
「沢山あるんだ」 慾に際限のない彼の言葉は簡単であった。
夫と懸け離れた好尚を有っている細君は、それ以上追窮する面倒を省いた代りに、外の質問を彼に掛けた。
「あの御婆さんは御姉さんなんぞよりよっぽど落ち付いているのね。あれじゃ島田って人と宅で落ち合っても、そう喧嘩もしないでしょう」「落ち合わないからまだ仕合せなんだ。二人が一所の座敷で顔を見合せでもして見るがいい、それこそ堪らないや。一人ずつ相手にしているんでさえ沢山な所へ持って来て」「今でもやっぱり喧嘩が始まるでしょうか」「喧嘩はとにかく、己の方が厭じゃないか」「二人ともまだ知らないようね。片っ方が宅へ来る事を」「どうだか」 島田はかつて御常の事を口にしなかった。
御常も健三の予期に反して、島田については何にも語らなかった。
「あの御婆さんの方がまだあの人より好いでしょう」「どうして」「五円貰うと黙って帰って行くから」 島田の請求慾の訪問ごとに増長するのに比べると、御常の態度は尋常に違なかった。
八十九
日ならず鼻の下の長い島田の顔がまた健三の座敷に現われた時、彼はすぐ御常の事を聯想した。
彼らだって生れ付いての敵同志でない以上、仲の好い昔もあったに違ない。
他から爪に灯を点すようだといわれるのも構わずに、金ばかり溜めた当時は、どんなに楽しかったろう。
どんな未来の希望に支配されていただろう。
彼らに取って睦ましさの唯一の記念とも見るべきその金がどこかへ飛んで行ってしまった後、彼らは夢のような自分たちの過去を、果してどう眺めているだろう。
健三はもう少しで御常の話を島田にするところであった。
しかし過去に無感覚な表情しか有たない島田の顔は、何事も覚えていないように鈍かった。
昔の憎悪、古い愛執、そんなものは当時の金と共に彼の心から消え失せてしまったとしか思われなかった。
彼は腰から烟草入を出して、刻み烟草を雁首へ詰めた。
吸殻を落すときには、左の掌で烟管を受けて、火鉢の縁を敲かなかった。
脂が溜っていると見えて、吸う時にじゅじゅ音がした。
彼は無言で懐中を探った。
それから健三の方を向いた。
「少し紙はありませんか、生憎烟管が詰って」 彼は健三から受取った半紙を割いて小撚を拵えた。
それで二返も三返も羅宇の中を掃除した。
彼はこういう事をするのに最も馴れた人であった。
健三は黙ってその手際を見ていた。
「段々暮になるんでさぞ御忙がしいでしょう」 彼は疎通の好くなった烟管をぷっぷっと心持好さそうに吹きながらこういった。
「我々の家業は暮も正月もありません。年が年中同じ事です」「そりゃ結構だ。大抵の人はそうは行きませんよ」 島田がまだ何かいおうとしているうちに、奥で子供が泣き出した。
「おや赤ん坊のようですね」「ええ、つい此間生れたばかりです」「そりゃどうも。些とも知りませんでした。男ですか女ですか」「女です」「へええ、失礼だがこれで幾人目ですか」 島田は色々な事を訊いた。
それに相当な受応をしている健三の胸にどんな考えが浮かんでいるかまるで気が付かなかった。
出産率が殖えると死亡率も増すという統計上の議論を、つい四、五日前ある外国の雑誌で読んだ健三は、その時赤ん坊がどこかで一人生れれば、年寄が一人どこかで死ぬものだというような理窟とも空想とも付かない変な事を考えていた。
「つまり身代りに誰かが死ななければならないのだ」 彼の観念は夢のようにぼんやりしていた。
詩として彼の頭をぼうっと侵すだけであった。
それをもっと明瞭になるまで理解の力で押し詰めて行けば、その身代りは取も直さず赤ん坊の母親に違なかった。
次には赤ん坊の父親でもあった。
けれども今の健三は其所まで行く気はなかった。
ただ自分の前にいる老人にだけ意味のある眼を注いだ。
何のために生きているか殆んど意義の認めようのないこの年寄は、身代りとして最も適当な人間に違なかった。
「どういう訳でこう丈夫なのだろう」 健三は殆んど自分の想像の残酷さ加減さえ忘れてしまった。
そうして人並でないわが健康状態については、毫も責任がないものの如き忌々しさを感じた。
その時島田は彼に向って突然こういった。
――「御縫もとうとう亡くなってね。御祝儀は済んだが」 とても助からないという事だけは、脊髄病という名前から推して、とうに承知していたようなものの、改まってそういわれて見ると、健三も急に気の毒になった。
「そうですか。可愛想に」「なに病気が病気だからとても癒りっこないんです」 島田は平然としていた。
死ぬのが当り前だといったように烟草の輪を吹いた。
九十
しかしこの不幸な女の死に伴なって起る経済上の影響は、島田に取って死そのものよりも遥に重大であった。
健三の予想はすぐ事実となって彼の前に現れなければならなかった。
「それについて是非一つ聞いてもらわないと困る事があるんですが」 此所まで来て健三の顔を見た島田の様子は緊張していた。
健三は聴かない先からその後を推察する事が出来た。
「また金でしょう」「まあそうで。御縫が死んだんで、柴野と御藤との縁が切れちまったもんだから、もう今までのように月々送らせる訳に行かなくなったんでね」 島田の言葉は変にぞんざいになったり、また鄭寧になったりした。
「今までは金鵄勲章の年金だけはちゃんちゃんとこっちへ来たんですがね。それが急になくなると、まるで目的が外れるような始末で、私も困るんです」 彼はまた調子を改めた。
「とにかくこうなっちゃ、御前を措いてもう外に世話をしてもらう人は誰もありゃしない。だからどうかしてくれなくっちゃ困る」「そう他にのし懸って来たって仕方がありません。今の私にはそれだけの事をしなければならない因縁も何もないんだから」 島田は凝と健三の顔を見た。
半ば探りを入れるような、半ば弱いものを脅かすようなその眼付は、単に相手の心を激昂させるだけであった。
健三の態度から深入の危険を知った島田は、すぐ問題を区切って小さくした。
「永い間の事はまた緩々御話しをするとして、じゃこの急場だけでも一つ」 健三にはどういう急場が彼らの間に持ち上っているのか解らなかった。
「この暮を越さなくっちゃならないんだ。どこの宅だって暮になりゃ百と二百と纏った金の要るのは当り前だろう」 健三は勝手にしろという気になった。
「私にそんな金はありませんよ」「笑談いっちゃいけない。これだけの構をしていて、その位の融通が利かないなんて、そんなはずがあるもんか」「あってもなくっても、ないからないというだけの話です」「じゃいうが、御前の収入は月に八百円あるそうじゃないか」 健三はこの無茶苦茶な言掛りに怒らされるよりはむしろ驚ろかされた。
「八百円だろうが千円だろうが、私の収入は私の収入です。貴方の関係した事じゃありません」 島田は其所まで来て黙った。
健三の答が自分の予期に外れたというような風も見えた。
ずうずうしい割に頭の発達していない彼は、それ以上相手をどうする事も出来なかった。
「じゃいくら困っても助けてくれないというんですね」「ええ、もう一文も上ません」 島田は立ち上った。
沓脱へ下りて、開けた格子を締める時に、彼はまた振り返った。
「もう参上りませんから」 最後であるらしい言葉を一句遺した彼の眼は暗い中に輝やいた。
健三は敷居の上に立って明らかにその眼を見下した。
しかし彼はその輝きのうちに何らの凄さも怖ろしさもまた不気味さも認めなかった。
彼自身の眸から出る怒りと不快とは優にそれらの襲撃を跳ね返すに充分であった。
細君は遠くから暗に健三の気色を窺った。
「一体どうしたんです」「勝手にするが好いや」「また御金でも呉れろって来たんですか」「誰が遣るもんか」 細君は微笑しながら、そっと夫を眺めるような態度を見せた。
「あの御婆さんの方が細く長く続くからまだ安全ね」「島田の方だって、これで片付くもんかね」 健三は吐き出すようにこういって、来るべき次の幕さえ頭の中に予想した。
九十一
同時に今まで眠っていた記憶も呼び覚まされずには済まなかった。
彼は始めて新らしい世界に臨む人の鋭どい眼をもって、実家へ引き取られた遠い昔を鮮明かに眺めた。
実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物であった。
何しにこんな出来損いが舞い込んで来たかという顔付をした父は、殆んど子としての待遇を彼に与えなかった。
今までと打って変った父のこの態度が、生の父に対する健三の愛情を、根こぎにして枯らしつくした。
彼は養父母の手前始終自分に対してにこにこしていた父と、厄介物を背負い込んでからすぐ慳貪に調子を改めた父とを比較して一度は驚ろいた。
次には愛想をつかした。
しかし彼はまだ悲観する事を知らなかった。
発育に伴なう彼の生気は、いくら抑え付けられても、下からむくむくと頭を擡げた。
彼は遂に憂欝にならずに済んだ。
子供を沢山有っていた彼の父は、毫も健三に依怙る気がなかった。
今に世話になろうという下心のないのに、金を掛けるのは一銭でも惜しかった。
繋がる親子の縁で仕方なしに引き取ったようなものの、飯を食わせる以外に、面倒を見て遣るのは、ただ損になるだけであった。
その上肝心の本人は帰って来ても籍は復らなかった。
いくら実家で丹精して育て上たにしたところで、いざという時に、また伴れて行かれればそれまでであった。
「食わすだけは仕方がないから食わして遣る。しかしその外の事はこっちじゃ構えない。先方でするのが当然だ」 父の理窟はこうであった。
島田はまた島田で自分に都合の好い方からばかり事件の成行を観望していた。
「なに実家へ預けて置きさえすればどうにかするだろう。その内健三が一人前になって少しでも働らけるようになったら、その時表沙汰にしてでもこっちへ奪還くってしまえばそれまでだ」 健三は海にも住めなかった。
山にもいられなかった。
両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。
同時に海のものも食い、時には山のものにも手を出した。
実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。
むしろ物品であった。
ただ実父が我楽多として彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役に立てて遣ろうという目算があるだけであった。
「もうこっちへ引き取って、給仕でも何でもさせるからそう思うがいい」 健三が或日養家を訪問した時に、島田は何かのついでにこんな事をいった。
健三は驚ろいて逃げ帰った。
酷薄という感じが子供心に淡い恐ろしさを与えた。
その時の彼は幾歳だったか能く覚えていないけれども、何でも長い間の修業をして立派な人間になって世間に出なければならないという慾が、もう充分萌している頃であった。
「給仕になんぞされては大変だ」 彼は心のうちで何遍も同じ言葉を繰り返した。
幸にしてその言葉は徒労に繰り返されなかった。
彼はどうかこうか給仕にならずに済んだ。
「しかし今の自分はどうして出来上ったのだろう」 彼はこう考えると不思議でならなかった。
その不思議のうちには、自分の周囲と能く闘い終せたものだという誇りも大分交っていた。
そうしてまだ出来上らないものを、既に出来上ったように見る得意も無論含まれていた。
彼は過去と現在との対照を見た。
過去がどうしてこの現在に発展して来たかを疑がった。
しかもその現在のために苦しんでいる自分にはまるで気が付かなかった。
彼と島田との関係が破裂したのは、この現在の御蔭であった。
彼が御常を忌むのも、姉や兄と同化し得ないのもこの現在の御蔭であった。
細君の父と段々離れて行くのもまたこの現在の御蔭に違なかった。
一方から見ると、他と反が合わなくなるように、現在の自分を作り上げた彼は気の毒なものであった。
九十二
細君は健三に向っていった。
――「貴夫に気に入る人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」 健三の心はこうした諷刺を笑って受けるほど落付いていなかった。
周囲の事情は雅量に乏しい彼を益窮屈にした。
「御前は役に立ちさえすれば、人間はそれで好いと思っているんだろう」「だって役に立たなくっちゃ何にもならないじゃありませんか」 生憎細君の父は役に立つ男であった。
彼女の弟もそういう方面にだけ発達する性質であった。
これに反して健三は甚だ実用に遠い生れ付であった。
彼には転宅の手伝いすら出来なかった。
大掃除の時にも彼は懐手をしたなり澄ましていた。
行李一つ絡げるにさえ、彼は細紐をどう渡すべきものやら分らなかった。
「男のくせに」 動かない彼は、傍のものの眼に、如何にも気の利かない鈍物のように映った。
彼はなおさら動かなかった。
そうして自分の本領を益反対の方面に移して行った。
彼はこの見地から、昔し細君の弟を、自分の住んでいる遠い田舎へ伴れて行って教育しようとした。
その弟は健三から見ると如何にも生意気であった。
家庭のうちを横行して誰にも遠慮会釈がなかった。
ある理学士に毎日自宅で課業の復習をしてもらう時、彼はその人の前で構わず胡坐をかいた。
またその人の名を何君何君と君づけに呼んだ。
「あれじゃ仕方がない。私に御預けなさい。私が田舎へ連れて行って育てるから」 健三の申出は細君の父によって黙って受け取られた。
そうして黙って捨てられた。
彼は眼前に横暴を恣まにする我子を見て、何という未来の心配も抱いていないように見えた。
彼ばかりか、細君の母も平気であった。
細君も一向気に掛ける様子がなかった。
「もし田舎へ遣って貴夫と衝突したり何かすると、折合が悪くなって、後が困るから、それでやめたんだそうです」 細君の弁解を聞いた時、健三は満更の嘘とも思わなかった。
けれどもその他にまだ意味が残っているようにも考えた。
「馬鹿じゃありません。そんな御世話にならなくっても大丈夫です」 周囲の様子から健三は謝絶の本意がかえって此所にあるのではなかろうかと推察した。
なるほど細君の弟は馬鹿ではなかった。
むしろ怜悧過ぎた。
健三にもその点はよく解っていた。
彼が自分と細君の未来のために、彼女の弟を教育しようとしたのは、全く見当の違った方面にあった。
そうして遺憾ながらその方面は、今日に至るまでいまだに細君の父母にも細君にも了解されていなかった。
「役に立つばかりが能じゃない。その位の事が解らなくってどうするんだ」 健三の言葉は勢い権柄ずくであった。
傷けられた細君の顔には不満の色がありありと見えた。
機嫌の直った時細君はまた健三に向った。
――「そう頭からがみがみいわないで、もっと解るようにいって聞かして下すったら好いでしょう」「解るようにいおうとすれば、理窟ばかり捏ね返すっていうじゃないか」「だからもっと解りやすいように。私に解らないような小六ずかしい理窟はやめにして」「それじゃどうしたって説明しようがない。数字を使わずに算術を遣れと注文するのと同じ事だ」「だって貴夫の理窟は、他を捻じ伏せるために用いられるとより外に考えようのない事があるんですもの」「御前の頭が悪いからそう思うんだ」「私の頭も悪いかも知れませんけれども、中味のない空っぽの理窟で捻じ伏せられるのは嫌ですよ」 二人はまた同じ輪の上をぐるぐる廻り始めた。
九十三
面と向って夫としっくり融け合う事の出来ない時、細君はやむをえず彼に背中を向けた。
そうして其所に寐ている子供を見た。
彼女は思い出したように、すぐその子供を抱き上げた。
章魚のようにぐにゃぐにゃしている肉の塊りと彼女との間には、理窟の壁も分別の牆もなかった。
自分の触れるものが取も直さず自分のような気がした。
彼女は温かい心を赤ん坊の上に吐き掛けるために、唇を着けて所嫌わず接吻した。
「貴夫が私のものでなくっても、この子は私の物よ」 彼女の態度からこうした精神が明らかに読まれた。
その赤ん坊はまだ眼鼻立さえ判明していなかった。
頭には何時まで待っても殆んど毛らしい毛が生えて来なかった。
公平な眼から見ると、どうしても一個の怪物であった。
「変な子が出来たものだなあ」 健三は正直な所をいった。
「どこの子だって生れたては皆なこの通りです」「まさかそうでもなかろう。もう少しは整ったのも生れるはずだ」「今に御覧なさい」 細君はさも自信のあるような事をいった。
健三には何という見当も付かなかった。
けれども彼は細君がこの赤ん坊のために夜中何度となく眼を覚ますのを知っていた。
大事な睡眠を犠牲にして、少しも不愉快な顔を見せないのも承知していた。
彼は子供に対する母親の愛情が父親のそれに比べてどの位強いかの疑問にさえ逢着した。
四、五日前少し強い地震のあった時、臆病な彼はすぐ縁から庭へ飛び下りた。
彼が再び座敷へ上って来た時、細君は思いも掛けない非難を彼の顔に投げ付けた。
「貴夫は不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」 何故子供の安危を自分より先に考えなかったかというのが細君の不平であった。
咄嗟の衝動から起った自分の行為に対して、こんな批評を加えられようとは夢にも思っていなかった健三は驚ろいた。
「女にはああいう時でも子供の事が考えられるものかね」「当り前ですわ」 健三は自分が如何にも不人情のような気がした。
しかし今の彼は我物顔に子供を抱いている細君を、かえって冷かに眺めた。
「訳の分らないものが、いくら束になったって仕様がない」 しばらくすると彼の思索がもっと広い区域にわたって、現在から遠い未来に延びた。
「今にその子供が大きくなって、御前から離れて行く時期が来るに極っている。御前は己と離れても、子供とさえ融け合って一つになっていれば、それで沢山だという気でいるらしいが、それは間違だ。今に見ろ」 書斎に落付いた時、彼の感想がまた急に科学的色彩を帯び出した。
「芭蕉に実が結ると翌年からその幹は枯れてしまう。竹も同じ事である。動物のうちには子を生むために生きているのか、死ぬために子を生むのか解らないものがいくらでもある。人間も緩漫ながらそれに準じた法則にやッぱり支配されている。母は一旦自分の所有するあらゆるものを犠牲にして子供に生を与えた以上、また余りのあらゆるものを犠牲にして、その生を守護しなければなるまい。彼女が天からそういう命令を受けてこの世に出たとするならば、その報酬として子供を独占するのは当り前だ。故意というよりも自然の現象だ」 彼は母の立場をこう考え尽した後、父としての自分の立場をも考えた。
そうしてそれが母の場合とどう違っているかに思い到った時、彼は心のうちでまた細君に向っていった。
「子供を有った御前は仕合せである。しかしその仕合を享ける前に御前は既に多大な犠牲を払っている。これから先も御前の気の付かない犠牲をどの位払うか分らない。御前は仕合せかも知れないが、実は気の毒なものだ」
九十四
年は段々暮れて行った。
寒い風の吹く中に細かい雪片がちらちらと見え出した。
子供は日に何度となく「もういくつ寐ると御正月」という唄をうたった。
彼らの心は彼らの口にする唱歌の通りであった。
来るべき新年の希望に充ちていた。
書斎にいる健三は時々手に洋筆を持ったまま、彼らの声に耳を傾けた。
自分にもああいう時代があったのかしらなどと考えた。
子供はまた「旦那の嫌な大晦日」という毬歌をうたった。
健三は苦笑した。
しかしそれも今の自分の身の上には痛切に的中らなかった。
彼はただ厚い四つ折の半紙の束を、十も二十も机の上に重ねて、それを一枚ごとに読んで行く努力に悩まされていた。
彼は読みながらその紙へ赤い印気で棒を引いたり丸を書いたり三角を附けたりした。
それから細かい数字を並べて面倒な勘定もした。
半紙に認ためられたものは悉く鉛筆の走り書なので、光線の暗い所では字画さえ判然しないのが多かった。
乱暴で読めないのも時々出て来た。
疲れた眼を上げて、積み重ねた束を見る健三は落胆した。
「ペネロピーの仕事」という英語の俚諺が何遍となく彼の口に上った。
「何時まで経ったって片付きゃしない」 彼は折々筆を擱いて溜息をついた。
しかし片付かないものは、彼の周囲前後にまだいくらでもあった。
彼は不審な顔をしてまた細君の持って来た一枚の名刺に眼を注がなければならなかった。
「何だい」「島田の事についてちょっと御目に掛りたいっていうんです」「今差支るからって返してくれ」 一度立った細君はすぐまた戻って来た。
「何時伺ったら好いか御都合を聞かして頂きたいんですって」 健三はそれどころじゃないという顔をしながら、自分の傍に高く積み重ねた半紙の束を眺めた。
細君は仕方なしに催促した。
「何といいましょう」「明後日の午後に来て下さいといってくれ」 健三も仕方なしに時日を指定した。
仕事を中絶された彼はぼんやり烟草を吹かし始めた。
ところへ細君がまた入って来た。
「帰ったかい」「ええ」 細君は夫の前に広げてある赤い印の附いた汚ならしい書きものを眺めた。
夜中に何度となく赤ん坊のために起こされる彼女の面倒が健三に解らないように、この半紙の山を綿密に読み通す夫の困難も細君には想像出来なかった。
―― 調べ物を度外に置いた彼女は、坐るとすぐ夫に訊ねた。
――「また何かそういって来る気でしょうね。執ッ濃い」「暮のうちにどうかしようというんだろう。馬鹿らしいや」 細君はもう島田を相手にする必要がないと思った。
健三の心はかえって昔の関係上多少の金を彼に遣る方に傾いていた。
しかし話は其所まで発展する機会を得ずによそへ外れてしまった。
「御前の宅の方はどうだい」「相変らず困るんでしょう」「あの鉄道会社の社長の口はまだ出来ないのかい」「あれは出来るんですって。けれどもそうこっちの都合の好いように、ちょっくらちょいとという訳には行かないんでしょう」「この暮のうちには六ずかしいのかね」「とても」「困るだろうね」「困っても仕方がありませんわ。何もかもみんな運命なんだから」 細君は割合に落付いていた。
何事も諦らめているらしく見えた。
九十五
見知らない名刺の持参者が、健三の指定した通り、中一日置いて再び彼の玄関に現れた時、彼はまだささくれた洋筆先で、粗末な半紙の上に、丸だの三角だのと色々な符徴を附けるのに忙がしかった。
彼の指頭は赤い印気で所々汚れていた。
彼は手も洗わずにそのまま座敷へ出た。
島田のために来たその男は、前の吉田に比べると少し型を異にしていたが、健三からいえば、双方とも殆んど差別のない位懸け離れた人間であった。
彼は縞の羽織に角帯を締めて白足袋を穿いていた。
商人とも紳士とも片の付かない彼の様子なり言葉遣なりは、健三に差配という一種の人柄を思い起させた。
彼は自分の身分や職業を打ら明ける前に、卒然として健三に訊いた。
――「貴方は私の顔を覚えて御出ですか」 健三は驚ろいてその人を見た。
彼の顔には何らの特徴もなかった。
強いていえば、今日までただ世帯染みて生きて来たという位のものであった。
「どうも分りませんね」 彼は勝ち誇った人のように笑った。
「そうでしょう。もう忘れても好い時分ですから」 彼は区切を置いてまた附け加えた。
「しかし私ゃこれでも貴方の坊ちゃん坊ちゃんていわれた昔をまだ覚えていますよ」「そうですか」 健三は素ッ気ない挨拶をしたなり、その人の顔を凝と見守った。
「どうしても思い出せませんかね。じゃ御話ししましょう。私ゃ昔し島田さんが扱所を遣っていなすった頃、あすこに勤めていたものです。ほら貴方が悪戯をして、小刀で指を切って、大騒ぎをした事があるでしょう。あの小刀は私の硯箱の中にあったんでさあ。あの時金盥に水を取って、貴方の指を冷したのも私ですぜ」 健三の頭にはそうした事実が明らかにまだ保存されていた。
しかし今自分の前に坐っている人のその時の姿などは夢にも憶い出せなかった。
「その縁故で今度また私が頼まれて、島田さんのために上ったような訳合なんです」 彼は直本題に入った。
そうして健三の予期していた通り金の請求をし始めた。
「もう再び御宅へは伺わないといってますから」「この間帰る時既にそういって行ったんです」「で、どうでしょう、此所いらで綺麗に片を付ける事にしたら。それでないと何時まで経っても貴方が迷惑するぎりですよ」 健三は迷惑を省いてやるから金を出せといった風な相手の口気を快よく思わなかった。
「いくら引っ懸っていたって、迷惑じゃありません。どうせ世の中の事は引っ懸りだらけなんですから。よし迷惑だとしても、出すまじき金を出す位なら、出さないで迷惑を我慢していた方が、私にはよッぽど心持が好いんです」 その人はしばらく考えていた。
少し困ったという様子も見えた。
しかしやがて口を開いた時は思いも寄らない事をいい出した。
「それに貴方も御承知でしょうが、離縁の際貴方から島田へ入れた書付がまだ向うの手にありますから、この際いくらでも纏めたものを渡して、あの書付と引き易えになすった方が好くはありませんか」 健三はその書付を慥に覚えていた。
彼が実家へ復籍する事になった時、島田は当人の彼から一札入れてもらいたいと主張したので、健三の父もやむをえず、何でも好いから書いて遣れと彼に注意した。
何も書く材料のない彼は仕方なしに筆を執った。
そうして今度離縁になったについては、向後御互に不義理不人情な事はしたくないものだという意味を僅二行余に綴って先方へ渡した。
「あんなものは反故同然ですよ。向で持っていても役に立たず、私が貰っても仕方がないんだ。もし利用出来る気ならいくらでも利用したら好いでしょう」 健三にはそんな書付を売り付けに掛るその人の態度がなお気に入らなかった。
九十六
話が行き詰るとその人は休んだ。
それから好い加減な時分にまた同じ問題を取り上げた。
いう事は散漫であった。
理で押せなければ情に訴えるという風でもなかった。
ただ物にさえすれば好いという料簡が露骨に見透かされた。
収束するところなく共に動いていた健三はしまいに飽きた。
「書付を買えの、今に迷惑するのが厭なら金を出せのといわれるとこっちでも断るより外に仕方がありませんが、困るからどうかしてもらいたい、その代り向後一切無心がましい事はいって来ないと保証するなら、昔の情義上少しの工面はして上げても構いません」「ええそれがつまり私の来た主意なんですから、出来るならどうかそう願いたいもんで」 健三はそんなら何故早くそういわないのかと思った。
同時に相手も、何故もっと早くそういってくれないのかという顔付をした。
「じゃどの位出して下さいます」 健三は黙って考えた。
しかしどの位が相当のところだか判明した目安の出て来ようはずはなかった。
その上なるべく少ない方が彼の便宜であった。
「まあ百円位なものですね」「百円」 その人はこう繰り返した。
「どうでしょう、責めて三百円位にして遣る訳には行きますまいか」「出すべき理由さえあれば何百円でも出します」「御尤もだが、島田さんもああして困ってるもんだから」「そんな事をいやあ、私だって困っています」「そうですか」 彼の語気はむしろ皮肉であった。
「元来一文も出さないといったって、貴方の方じゃどうする事も出来ないんでしょう。百円で悪けりゃ御止しなさい」 相手は漸く懸引をやめた。
「じゃともかくも本人によくそう話して見ます。その上でまた上る事にしますから、どうぞ何分」 その人が帰った後で健三は細君に向った。
「とうとう来た」「どうしたっていうんです」「また金を取られるんだ。人さえ来れば金を取られるに極ってるから厭だ」「馬鹿らしい」 細君は別に同情のある言葉を口へ出さなかった。
「だって仕方がないよ」 健三の返事も簡単であった。
彼は其所へ落付くまでの筋道を委しく細君に話してやるのさえ面倒だった。
「そりゃ貴夫の御金を貴夫が御遣りになるんだから、私何もいう訳はありませんわ」「金なんかあるもんか」 健三は擲き付けるようにこういって、また書斎へ入った。
其所には鉛筆で一面に汚された紙が所々赤く染ったまま机の上で彼を待っていた。
彼はすぐ洋筆を取り上げた。
そうして既に汚れたものをなおさら赤く汚さなければならなかった。
客に会う前と会った後との気分の相違が、彼を不公平にしはしまいかとの恐れが彼の心に起った時、彼は一旦読みおわったものを念のためまた読んだ。
それですら三時間前の彼の標準が今の標準であるかどうか、彼には全く分らなかった。
「神でない以上公平は保てない」 彼はあやふやな自分を弁護しながら、ずんずん眼を通し始めた。
しかし積重ねた半紙の束は、いくら速力を増しても尽きる期がなかった。
漸く一組を元のように折るとまた新らしく一組を開かなければならなかった。
「神でない以上辛抱だってし切れない」 彼はまた洋筆を放り出した。
赤い印気が血のように半紙の上に滲んだ。
彼は帽子を被って寒い往来へ飛び出した。
九十七
人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。
「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」 彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。
彼はそれに答えたくなかった。
なるべく返事を避けようとした。
するとその声がなお彼を追窮し始めた。
何遍でも同じ事を繰り返してやめなかった。
彼は最後に叫んだ。
「分らない」 その声は忽ちせせら笑った。
「分らないのじゃあるまい。分っていても、其所へ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」「己のせいじゃない。己のせいじゃない」 健三は逃げるようにずんずん歩いた。
賑やかな通りへ来た時、迎年の支度に忙しい外界は驚異に近い新らしさを以て急に彼の眼を刺撃した。
彼の気分は漸く変った。
彼は客の注意を惹くために、あらゆる手段を尽して飾り立てられた店頭を、それからそれと覗き込んで歩いた。
或時は自分と全く交渉のない、珊瑚樹の根懸だの、蒔絵の櫛笄だのを、硝子越に何の意味もなく長い間眺めていた。
「暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら」 少なくとも彼自身は何にも買わなかった。
細君も殆んど何にも買わないといってよかった。
彼の兄、彼の姉、細君の父、どれを見ても、買えるような余裕のあるものは一人もなかった。
みんな年を越すのに苦しんでいる連中ばかりであった。
中にも細君の父は一番非道そうに思われた。
「貴族院議員になってさえいれば、どこでも待ってくれるんだそうですけれども」 借金取に責められている父の事情を夫に打ち明けたついでに、細君はかつてこんな事をいった。
それは内閣の瓦解した当時であった。
細君の父を閑職から引っ張り出して、彼の辞職を余儀なくさせた人は、自分たちの退ぞく間際に、彼を貴族院議員に推挙して、幾分か彼に対する義理を立てようとした。
しかし多数の候補者の中から、限られた人員を選ばなければならなかった総理大臣は、細君の父の名前の上に遠慮なく棒を引いてしまった。
彼はついに選に洩れた。
何かの意味で保険の付いていない人にのみ酷薄であった債権者は直ちに彼の門に逼った。
官邸を引き払った時に召仕の数を減らした彼は、少時くして自用俥を廃した。
しまいにわが住宅を挙げて人手に渡した頃は、もうどうする事も出来なかった。
日を重ね月を追って益悲境に沈んで行った。
「相場に手を出したのが悪いんですよ」 細君はこんな事もいった。
「御役人をしている間は相場師の方で儲けさせてくれるんですって。だから好いけれども、一旦役を退くと、もう相場師が構ってくれないから、みんな駄目になるんだそうです」「何の事だか要領を得ないね。だいち意味さえ解らない」「貴方に解らなくったって、そうなら仕方がないじゃありませんか」「何をいってるんだ。それじゃ相場師は決して損をしっこないものに極っちまうじゃないか。馬鹿な女だな」 健三はその時細君と取り換わせた談話まで憶い出した。
彼はふと気が付いた。
彼と擦れ違う人はみんな急ぎ足に行き過ぎた。
みんな忙がしそうであった。
みんな一定の目的を有っているらしかった。
それを一刻も早く片付けるために、せっせと活動するとしか思われなかった。
或者はまるで彼の存在を認めなかった。
或者は通り過ぎる時、ちょっと一瞥を与えた。
「御前は馬鹿だよ」 稀にはこんな顔付をするものさえあった。
彼はまた宅へ帰って赤い印気を汚ない半紙へなすくり始めた。
九十八
二、三日すると島田に頼まれた男がまた刺を通じて面会を求めに来た。
行掛り上断る訳に行かなかった健三は、座敷へ出て差配じみたその人の前に、再び坐るべく余儀なくされた。
「どうも御忙がしいところを度々出まして」 彼は世事慣れた男であった。
口で気の毒そうな事をいう割に、それほど殊勝な様子を彼の態度のどこにも現わさなかった。
「実はこの間の事を島田によく話しましたところ、そういう訳なら致し方がないから、金額はそれで宜しい、その代りどうか年内に頂戴致したい、とこういうんですがね」 健三にはそんな見込がなかった。
「年内たってもう僅かの日数しかないじゃありませんか」「だから向うでも急ぐような訳でしてね」「あれば今すぐ上げても好いんです。しかしないんだから仕方がないじゃありませんか」「そうですか」 二人は少時無言のままでいた。
「どうでしょう、其所のところを一つ御奮発は願われますまいか。私も折角こうして忙がしい中を、島田さんのために、わざわざ遣って来たもんですから」 それは彼の勝手であった。
健三の心を動かすに足るほどの手数でも面倒でもなかった。
「御気の毒ですが出来ませんね」 二人はまた沈黙を間に置いて相対した。
「じゃ何時頃頂けるんでしょう」 健三には何時という目的もなかった。
「いずれ来年にでもなったらどうにかしましょう」「私もこうして頼まれて上った以上、何とか向へ返事をしなくっちゃなりませんから、せめて日限でも一つ御取極を願いたいと思いますが」「御尤もです。じゃ正月一杯とでもして置きましょう」 健三はそれより外にいいようがなかった。
相手は仕方なしに帰って行った。
その晩寒さと倦怠を凌ぐために蕎麦湯を拵えてもらった健三は、どろどろした鼠色のものを啜りながら、盆を膝の上に置いて傍に坐っている細君と話し合った。
「また百円どうかしなくっちゃならない」「貴夫が遣らないでも好いものを遣るって約束なんぞなさるから後で困るんですよ」「遣らないでもいいのだけれども、己は遣るんだ」 言葉の矛盾がすぐ細君を不快にした。
「そう依故地を仰しゃればそれまでです」「御前は人を理窟ぽいとか何とかいって攻撃するくせに、自分にゃ大変形式ばった所のある女だね」「貴夫こそ形式が御好きなんです。何事にも理窟が先に立つんだから」「理窟と形式とは違うさ」「貴夫のは同なじですよ」「じゃいって聞かせるがね、己は口にだけ論理を有っている男じゃない。口にある論理は己の手にも足にも、身体全体にもあるんだ」「そんなら貴夫の理窟がそう空っぽうに見えるはずがないじゃありませんか」「空っぽうじゃないんだもの。丁度ころ柿の粉のようなもので、理窟が中から白く吹き出すだけなんだ。外部から喰付けた砂糖とは違うさ」 こんな説明が既に細君には空っぽうな理窟であった。
何でも眼に見えるものを、しっかと手に掴まなくっては承知出来ない彼女は、この上夫と議論する事を好まなかった。
またしようと思っても出来なかった。
「御前が形式張るというのはね。人間の内側はどうでも、外部へ出た所だけを捉まえさえすれば、それでその人間が、すぐ片付けられるものと思っているからさ。丁度御前の御父さんが法律家だもんだから、証拠さえなければ文句を付けられる因縁がないと考えているようなもので……」「父はそんな事をいった事なんぞありゃしません。私だってそう外部ばかり飾って生きてる人間じゃありません。貴夫が不断からそんな僻んだ眼で他を見ていらっしゃるから……」 細君の瞼から涙がぽたぽた落ちた。
いう事がその間に断絶した。
島田に遣る百円の話しが、飛んだ方角へ外れた。
そうして段々こんがらかって来た。
九十九
また二、三日して細君は久しぶりに外出した。
「無沙汰見舞かたがた少し歳暮に廻って来ました」 乳呑児を抱いたまま健三の前へ出た彼女は、寒い頬を赤くして、暖かい空気の裡に尻を落付た。
「御前の宅はどうだい」「別に変った事もありません。ああなると心配を通り越して、かえって平気になるのかも知れませんね」 健三は挨拶の仕様もなかった。
「あの紫檀の机を買わないかっていうんですけれども、縁起が悪いから止しました」 舞葡萄とかいう木の一枚板で中を張り詰めたその大きな唐机は、百円以上もする見事なものであった。
かつて親類の破産者からそれを借金の抵当に取った細君の父は、同じ運命の下に、早晩それをまた誰かに持って行かれなければならなかったのである。
「縁起はどうでも好いが、そんな高価いものを買う勇気は当分こっちにもなさそうだ」 健三は苦笑しながら烟草を吹かした。
「そういえば貴夫、あの人に遣る御金を比田さんから借りなくって」 細君は藪から棒にこんな事をいった。
「比田にそれだけの余裕があるのかい」「あるのよ。比田さんは今年限り株式の方をやめられたんですって」 健三はこの新らしい報知を当然とも思った。
また異様にも感じた。
「もう老朽だろうからね。しかしやめられれば、なお困るだろうじゃないか」「追ってはどうなるか知れないでしょうけれども、差当り困るような事はないんですって」 彼の辞職は自分を引き立ててくれた重役の一人が、社と関係を絶った事に起因しているらしかった。
けれども永年勤続して来た結果、権利として彼の手に入るべき金は、一時彼の経済状態を潤おすには充分であった。
「居食をしていても詰らないから、確かな人があったら貸したいからどうか世話をしてくれって、今日頼まれて来たんです」「へえ、とうとう金貸を遣るようになったのかい」 健三は平生から島田の因業を嗤っていた比田だの姉だのを憶い浮べた。
自分たちの境遇が変ると、昨日まで軽蔑していた人の真似をして恬として気の付かない姉夫婦は、反省の足りない点においてむしろ子供染みていた。
「どうせ高利なんだろう」 細君は高利だか低利だかまるで知らなかった。
「何でも旨く運転すると月に三、四十円の利子になるから、それを二人の小遣にして、これから先細く長く遣って行くつもりだって、御姉えさんがそう仰ゃいましたよ」 健三は姉のいう利子の高から胸算用で元金を勘定して見た。
「悪くすると、またみんな損っちまうだけだ。それよりそう慾張ないで、銀行へでも預けて置いて相当の利子を取る方が安全だがな」「だから確な人に貸したいっていうんでしょう」「確な人はそんな金は借りないさ。怖いからね」「だけど普通の利子じゃ遣って行けないんでしょう」「それじゃ己だって借りるのは厭ださ」「御兄いさんも困っていらしってよ」 比田は今後の方針を兄に打ち明けると同時に、先ずその手始として、兄に金を借りてくれと頼んだのだそうである。
「馬鹿だな。金を借りてくれ、借りてくれって、こっちから頼む奴もないじゃないか。兄貴だって金は欲しいだろうが、そんな剣呑な思いまでして借りる必要もあるまいからね」 健三は苦々しいうちにも滑稽を感じた。
比田の手前勝手な気性がこの一事でも能く窺われた。
それを傍で見て澄ましている姉の料簡も彼には不可思議であった。
血が続いていても姉弟という心持は全くしなかった。
「御前己が借りるとでもいったのかい」「そんな余計な事いやしません」
百
利子の安い高いは別問題として、比田から融通してもらうという事が、健三にはとても真面目に考えられなかった。
彼は毎月いくらかずつの小遣を姉に送る身分であった。
その姉の亭主から今度はこっちで金を借りるとなると、矛盾は誰の眼にも映る位明白であった。
「辻褄の合わない事は世の中にいくらでもあるにはあるが」 こういい掛けた彼は突然笑いたくなった。
「何だか変だな。考えると可笑しくなるだけだ。まあ好いや己が借りて遣らなくってもどうにかなるんだろうから」「ええ、そりゃ借手はいくらでもあるんでしょう。現にもう一口ばかり貸したんですって。彼所いらの待合か何かへ」 待合という言葉が健三の耳になおさら滑稽に響いた。
彼は我を忘れたように笑った。
細君にも夫の姉の亭主が待合へ小金を貸したという事実が不調和に見えた。
けれども彼女はそれを夫の名前に関わると思うような性質ではなかった。
ただ夫と一所になって面白そうに笑っていた。
滑稽の感じが去った後で反動が来た。
健三は比田について不愉快な昔まで思い出させられた。
それは彼の二番目の兄が病死する前後の事であった。
病人は平生から自分の持っている両蓋の銀側時計を弟の健三に見せて、「これを今に御前に遣ろう」と殆んど口癖のようにいっていた。
時計を所有した経験のない若い健三は、欲しくて堪らないその装飾品が、何時になったら自分の帯に巻き付けられるのだろうかと想像して、暗に未来の得意を予算に組み込みながら、一、二カ月を暮した。
病人が死んだ時、彼の細君は夫の言葉を尊重して、その時計を健三に遣るとみんなの前で明言した。
一つは亡くなった人の記念とも見るべきこの品物は、不幸にして質に入れてあった。
無論健三にはそれを受出す力がなかった。
彼は義姉から所有権だけを譲り渡されたと同様で、肝心の時計には手も触れる事が出来ずに幾日かを過ごした。
或日皆なが一つ所に落合った。
するとその席上で比田が問題の時計を懐中から出した。
時計は見違えるように磨かれて光っていた。
新らしい紐に珊瑚樹の珠が装飾として付け加えられた。
彼はそれを勿体らしく兄の前に置いた。
「それではこれは貴方に上げる事にしますから」 傍にいた姉も殆んど比田と同じような口上を述べた。
「どうも色々御手数を掛けまして、有難う。じゃ頂戴します」 兄は礼をいってそれを受取った。
健三は黙って三人の様子を見ていた。
三人は殆んど彼の其所にいる事さえ眼中に置いていなかった。
しまいまで一言も発しなかった彼は、腹の中で甚しい侮辱を受けたような心持がした。
しかし彼らは平気であった。
彼らの仕打を仇敵の如く憎んだ健三も、何故彼らがそんな面中がましい事をしたのか、どうしても考え出せなかった。
彼は自分の権利も主張しなかった。
また説明も求めなかった。
ただ無言のうちに愛想を尽かした。
そうして親身の兄や姉に対して愛想を尽かす事が、彼らに取って一番非道い刑罰に違なかろうと判断した。
「そんな事をまだ覚えていらっしゃるんですか。貴夫も随分執念深いわね。御兄いさんが御聴きになったらさぞ御驚ろきなさるでしょう」 細君は健三の顔を見て暗にその気色を伺った。
健三はちっとも動かなかった。
「執念深かろうが、男らしくなかろうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたって、感情を打ち殺す訳には行かないからね。その時の感情はまだ生きているんだ。生きて今でもどこかで働いているんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」「御金なんか借りさえしなきゃあ、それで好いじゃありませんか」 こういった細君の胸には、比田たちばかりでなく、自分の事も、自分の生家の事も勘定に入れてあった。
百一
歳が改たまった時、健三は一夜のうちに変った世間の外観を、気のなさそうな顔をして眺めた。
「すべて余計な事だ。人間の小刀細工だ。」 実際彼の周囲には大晦日も元日もなかった。
悉く前の年の引続きばかりであった。
彼は人の顔を見て御目出とうというのさえ厭になった。
そんな殊更な言葉を口にするよりも誰にも会わずに黙っている方がまだ心持が好かった。
彼は普通の服装をしてぶらりと表へ出た。
なるべく新年の空気の通わない方へ足を向けた。
冬木立と荒た畠、藁葺屋根と細い流、そんなものが盆槍した彼の眼に入った。
しかし彼はこの可憐な自然に対してももう感興を失っていた。
幸い天気は穏かであった。
空風の吹き捲らない野面には春に似た靄が遠く懸っていた。
その間から落ちる薄い日影もおっとりと彼の身体を包んだ。
彼は人もなく路もない所へわざわざ迷い込んだ。
そうして融けかかった霜で泥だらけになった靴の重いのに気が付いて、しばらく足を動かさずにいた。
彼は一つ所に佇立んでいる間に、気分を紛らそうとして絵を描いた。
しかしその絵があまり不味いので、写生はかえって彼を自暴にするだけであった。
彼は重たい足を引き摺ってまた宅へ帰って来た。
途中で島田に遣るべき金の事を考えて、ふと何か書いて見ようという気を起した。
赤い印気で汚ない半紙をなすくる業は漸く済んだ。
新らしい仕事の始まるまでにはまだ十日の間があった。
彼は