道草

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その二十分の一にも足らない代価を大事そうに懐中から出して匠人の手に渡した。彼はまたぴかぴかする一匹の伊勢崎銘仙を買うのに十円余りを費やした。友達から受取った原稿料がこう形を変えたあとに、手垢の付いた五円札がたった一枚残ったのである。

第 12 章
「実じつはまだ買いかいたいものがあるんだがな」「何なんを御ご買いかいになるつもりだったの」 健三けんぞうは細君さいくんの前まえに特別とくべつな品物しなものの名前なまえを挙げるあげる事ことが出来できなかった。
「沢山たくさんあるんだ」 慾よくに際限さいげんのない彼かれの言葉ことばは簡単かんたんであった。
夫おっとと懸け離れかけはなれた好尚こうしょうを有っあっている細君さいくんは、それ以上いじょう追窮ついきゅうする面倒めんどうを省いはぶいた代りかわりに、外そとの質問しつもんを彼かれに掛けかけた。
「あの御ご婆ばあさんは御ご姉さんあねさんなんぞよりよっぽど落ち付いおちついているのね。あれじゃ島田しまだって人ひとと宅たくで落ち合っおちあっても、そう喧嘩けんかもしないでしょう」「落ち合わおちあわないからまだ仕合せしあわせなんだ。二人ふたりが一所いっしょの座敷ざしきで顔かおを見合せみあわせでもして見るみるがいい、それこそ堪らたまらないや。一人ひとりずつ相手あいてにしているんでさえ沢山たくさんな所ところへ持っもって来きて」「今いまでもやっぱり喧嘩けんかが始まるはじまるでしょうか」「喧嘩けんかはとにかく、己おのれの方ほうが厭いやじゃないか」「二人ふたりともまだ知らしらないようね。片っ方かたっぽが宅たくへ来るくる事ことを」「どうだか」 島田しまだはかつて御ご常つねの事ことを口くちにしなかった。
御ご常つねも健三けんぞうの予期よきに反しはんして、島田しまだについては何になんにも語らかたらなかった。
「あの御ご婆ばあさんの方ほうがまだあの人ひとより好いよいでしょう」「どうして」「五ご円えん貰うもらうと黙っだまって帰っかえって行くいくから」 島田しまだの請求せいきゅう慾よくの訪問ほうもんごとに増長ぞうちょうするのに比べるくらべると、御ご常つねの態度たいどは尋常じんじょうに違いなかった。
八十九はちじゅうきゅう
日ひならず鼻はなの下したの長いながい島田しまだの顔かおがまた健三けんぞうの座敷ざしきに現われあらわれた時じ、彼かれはすぐ御ご常つねの事ことを聯想れんそうした。
彼かれらだって生れうまれ付いついての敵てき同志どうしでない以上いじょう、仲なかの好いよい昔むかしもあったに違いない。
他ほかから爪つめに灯あかりを点すともすようだといわれるのも構わかまわずに、金きんばかり溜めためた当時とうじは、どんなに楽しかったのしかったろう。
どんな未来みらいの希望きぼうに支配しはいされていただろう。
彼かれらに取っとって睦ぼくましさの唯一ゆいいつの記念きねんとも見るみるべきその金きんがどこかへ飛んとんで行っいってしまった後あと、彼かれらは夢ゆめのような自分じぶんたちの過去かこを、果してはたしてどう眺めながめているだろう。
健三けんぞうはもう少しすこしで御ご常つねの話はなしを島田しまだにするところであった。
しかし過去かこに無感覚むかんかくな表情ひょうじょうしか有ゆうたない島田しまだの顔かおは、何事なにごとも覚えおぼえていないように鈍かっにぶかった。
昔むかしの憎悪ぞうお、古いふるい愛執あいしゅう、そんなものは当時とうじの金きんと共ともに彼かれの心こころから消え失せきえうせてしまったとしか思わおもわれなかった。
彼かれは腰こしから烟草たばこ入いりを出しだして、刻みきざみ烟草たばこを雁首がんくびへ詰めつめた。
吸殻すいがらを落すおとすときには、左ひだりの掌てのひらで烟けむり管かんを受けうけて、火鉢ひばちの縁えんを敲かたたきかなかった。
脂あぶらが溜ったまっていると見えみえて、吸うすう時じにじゅじゅ音おとがした。
彼かれは無言むごんで懐中かいちゅうを探っさぐった。
それから健三けんぞうの方ほうを向いむかいた。
「少しすこし紙かみはありませんか、生憎あいにく烟けむり管かんが詰っなじって」 彼かれは健三けんぞうから受取っうけとった半紙はんしを割いさいて小しょう撚を拵えこしらえた。
それで二に返かえしも三さん返かえしも羅宇らうの中なかを掃除そうじした。
彼かれはこういう事ことをするのに最ももっとも馴れなれた人ひとであった。
健三けんぞうは黙っだまってその手際てぎわを見みていた。
「段々だんだん暮くれになるんでさぞ御ご忙がしいいそがしいでしょう」 彼かれは疎通そつうの好くよくなった烟けむり管かんをぷっぷっと心持こころもち好さよさそうに吹きふきながらこういった。
「我々われわれの家業かぎょうは暮くれも正月しょうがつもありません。年ねんが年中ねんじゅう同じおなじ事ことです」「そりゃ結構けっこうだ。大抵たいていの人ひとはそうは行きいきませんよ」 島田しまだがまだ何なんかいおうとしているうちに、奥おくで子供こどもが泣きなき出しだした。
「おや赤ん坊あかんぼうのようですね」「ええ、つい此これ間ま生れうまれたばかりです」「そりゃどうも。些ともちっとも知りしりませんでした。男おとこですか女おんなですか」「女おんなです」「へええ、失礼しつれいだがこれで幾いく人ひと目めですか」 島田しまだは色々いろいろな事ことを訊いきいた。
それに相当そうとうな受じゅ応おうをしている健三けんぞうの胸むねにどんな考えかんがえが浮かんうかんでいるかまるで気きが付かつかなかった。
出産率しゅっさんりつが殖えるふえると死亡率しぼうりつも増すますという統計とうけい上うえの議論ぎろんを、つい四よん、五ご日ひ前まえある外国がいこくの雑誌ざっしで読んよんだ健三けんぞうは、その時じ赤ん坊あかんぼうがどこかで一人ひとり生れれうまれれば、年寄としよりが一人ひとりどこかで死ぬしぬものだというような理窟りくつとも空想くうそうとも付かつかない変へんな事ことを考えかんがえていた。
「つまり身代りみがわりに誰だれかが死なしななければならないのだ」 彼かれの観念かんねんは夢ゆめのようにぼんやりしていた。
詩しとして彼かれの頭あたまをぼうっと侵すおかすだけであった。
それをもっと明瞭めいりょうになるまで理解りかいの力ちからで押し詰めおしつめて行けいけば、その身代りみがわりは取とりも直さなおさず赤ん坊あかんぼうの母親ははおやに違いなかった。
次つぎには赤ん坊あかんぼうの父親ちちおやでもあった。
けれども今いまの健三けんぞうは其その所ところまで行くいく気きはなかった。
ただ自分じぶんの前まえにいる老人ろうじんにだけ意味いみのある眼めを注いそそいだ。
何なんのために生きいきているか殆んどほとんど意義いぎの認めようみとめようのないこの年寄としよりは、身代りみがわりとして最ももっとも適当てきとうな人間にんげんに違いなかった。
「どういう訳わけでこう丈夫じょうぶなのだろう」 健三けんぞうは殆んどほとんど自分じぶんの想像そうぞうの残酷ざんこくさ加減かげんさえ忘れわすれてしまった。
そうして人並ひとなみでないわが健康状態けんこうじょうたいについては、毫もごうも責任せきにんがないものの如きごとき忌々しいまいましさを感じかんじた。
その時じ島田しまだは彼かれに向っむかって突然とつぜんこういった。
――「御ご縫ぬいもとうとう亡くなっなくなってね。御祝儀ごしゅうぎは済んすんだが」 とても助からすけからないという事ことだけは、脊髄せきずい病やまいという名前なまえから推しおして、とうに承知しょうちしていたようなものの、改まっあらたまってそういわれて見るみると、健三けんぞうも急きゅうに気の毒きのどくになった。
「そうですか。可か愛想あいそに」「なに病気びょうきが病気びょうきだからとても癒りなおりっこないんです」 島田しまだは平然へいぜんとしていた。
死ぬしぬのが当り前あたりまえだといったように烟草たばこの輪わを吹いふいた。
九十きゅうじゅう
しかしこの不幸ふこうな女おんなの死しに伴なっともなって起るおこる経済上けいざいじょうの影響えいきょうは、島田しまだに取っとって死しそのものよりも遥はるかに重大じゅうだいであった。
健三けんぞうの予想よそうはすぐ事実じじつとなって彼かれの前まえに現れあらわれなければならなかった。
「それについて是非ぜひ一いちつ聞いきいてもらわないと困るこまる事ことがあるんですが」 此これ所ところまで来きて健三けんぞうの顔かおを見みた島田しまだの様子ようすは緊張きんちょうしていた。
健三けんぞうは聴かきかない先さきからその後そのあとを推察すいさつする事ことが出来できた。
「また金きんでしょう」「まあそうで。御ご縫ぬいが死んしんだんで、柴野しばのと御藤おふじとの縁えんが切れきれちまったもんだから、もう今までいままでのように月々つきづき送らおくらせる訳わけに行かいかなくなったんでね」 島田しまだの言葉ことばは変へんにぞんざいになったり、また鄭てい寧ねいになったりした。
「今までいままでは金鵄きんし勲章くんしょうの年金ねんきんだけはちゃんちゃんとこっちへ来きたんですがね。それが急きゅうになくなると、まるで目的もくてきが外れるはずれるような始末しまつで、私わたくしも困るこまるんです」 彼かれはまた調子ちょうしを改めあらためた。
「とにかくこうなっちゃ、御前ごぜんを措いおいてもう外そとに世話せわをしてもらう人ひとは誰だれもありゃしない。だからどうかしてくれなくっちゃ困るこまる」「そう他ほかにのし懸っかかって来きたって仕方しかたがありません。今いまの私わたくしにはそれだけの事ことをしなければならない因縁いんねんも何なんもないんだから」 島田しまだは凝とじっと健三けんぞうの顔かおを見みた。
半ばなかば探りさぐりを入れるいれるような、半ばなかば弱いよわいものを脅かすおびやかすようなその眼付めつきは、単にたんに相手あいての心こころを激昂げっこうさせるだけであった。
健三けんぞうの態度たいどから深しん入いりの危険きけんを知っしった島田しまだは、すぐ問題もんだいを区切っくぎって小さくちいさくした。
「永いながい間まの事ことはまた緩々ゆるゆる御ご話しはなしをするとして、じゃこの急場きゅうばだけでも一いちつ」 健三けんぞうにはどういう急場きゅうばが彼かれらの間まに持ち上っもちあがっているのか解らわからなかった。
「この暮くれを越さこさなくっちゃならないんだ。どこの宅たくだって暮くれになりゃ百ひゃくと二百にひゃくと纏っまとった金きんの要るいるのは当り前あたりまえだろう」 健三けんぞうは勝手にかってにしろという気きになった。
「私わたくしにそんな金きんはありませんよ」「笑談しょうだんいっちゃいけない。これだけの構かまえをしていて、その位くらいの融通ゆうずうが利かりかないなんて、そんなはずがあるもんか」「あってもなくっても、ないからないというだけの話はなしです」「じゃいうが、御前ごぜんの収入しゅうにゅうは月つきに八百はっぴゃく円えんあるそうじゃないか」 健三けんぞうはこの無茶苦茶むちゃくちゃな言掛りいいがかりに怒らさいからされるよりはむしろ驚ろかさおどろかされた。
「八百はっぴゃく円えんだろうが千せん円えんだろうが、私わたくしの収入しゅうにゅうは私わたくしの収入しゅうにゅうです。貴方あなたの関係かんけいした事ことじゃありません」 島田しまだは其その所ところまで来きて黙っだまった。
健三けんぞうの答こたえが自分じぶんの予期よきに外れはずれたというような風かぜも見えみえた。
ずうずうしい割わりに頭あたまの発達はったつしていない彼かれは、それ以上いじょう相手あいてをどうする事ことも出来できなかった。
「じゃいくら困っこまっても助けたすけてくれないというんですね」「ええ、もう一いち文ぶんも上うえません」 島田しまだは立ち上ったちのぼった。
沓脱くつぬぎへ下りくだりて、開けあけた格子こうしを締めるしめる時じに、彼かれはまた振り返っふりかえった。
「もう参さん上りのぼりませんから」 最後さいごであるらしい言葉ことばを一句いっく遺しのこした彼かれの眼めは暗いくらい中なかに輝やいかがやいた。
健三けんぞうは敷居しきいの上うえに立ったって明らかあきらかにその眼めを見下しみくだした。
しかし彼かれはその輝きかがやきのうちに何なんらの凄すごさも怖ろしおそろしさもまた不気味ふきみさも認めみとめなかった。
彼かれ自身じしんの眸ひとみから出るでる怒りいかりと不快ふかいとは優にゆうにそれらの襲撃しゅうげきを跳ね返すはねかえすに充分じゅうぶんであった。
細君さいくんは遠くとおくから暗にあんに健三けんぞうの気色けしきを窺っうかがった。
「一体いったいどうしたんです」「勝手にかってにするが好いよいや」「また御ご金きんでも呉ごれろって来きたんですか」「誰だれが遣るやるもんか」 細君さいくんは微笑びしょうしながら、そっと夫おっとを眺めるながめるような態度たいどを見せみせた。
「あの御ご婆ばあさんの方ほうが細くほそく長くながく続くつづくからまだ安全あんぜんね」「島田しまだの方ほうだって、これで片付くかたづくもんかね」 健三けんぞうは吐き出すはきだすようにこういって、来るくるべき次つぎの幕まくさえ頭あたまの中なかに予想よそうした。
九十一きゅうじゅういち
同時どうじに今までいままで眠っねむっていた記憶きおくも呼び覚まさよびさまされずには済ますまなかった。
彼かれは始めはじめて新らしいあたらしい世界せかいに臨むのぞむ人ひとの鋭どいするどい眼めをもって、実家じっかへ引き取らひきとられた遠いとおい昔むかしを鮮明せんめいかに眺めながめた。
実家じっかの父ちちに取っとっての健三けんぞうは、小さなちいさな一いち個この邪魔物じゃまものであった。
何なんしにこんな出来でき損いそこないが舞い込んまいこんで来きたかという顔付かおつきをした父ちちは、殆んどほとんど子ことしての待遇たいぐうを彼かれに与えあたえなかった。
今までいままでと打っうって変っかわった父ちちのこの態度たいどが、生なまの父ちちに対するたいする健三けんぞうの愛情あいじょうを、根こぎねこぎにして枯らしからしつくした。
彼かれは養父母ようふぼの手前てまえ始終しじゅう自分じぶんに対したいしてにこにこしていた父ちちと、厄介やっかい物ものを背負い込んしょいこんでからすぐ慳貪けんどんに調子ちょうしを改めあらためた父ちちとを比較ひかくして一度いちどは驚ろいおどろいた。
次つぎには愛想あいそをつかした。
しかし彼かれはまだ悲観ひかんする事ことを知らしらなかった。
発育はついくに伴なうともなう彼かれの生気せいきは、いくら抑え付けおさえつけられても、下したからむくむくと頭あたまを擡げもたげた。
彼かれは遂についに憂欝ゆううつにならずに済んすんだ。
子供こどもを沢山たくさん有っあっていた彼かれの父ちちは、毫もごうも健三けんぞうに依怙えこる気きがなかった。
今いまに世話せわになろうという下心したごころのないのに、金きんを掛けるかけるのは一いち銭せんでも惜しかっおしかった。
繋がるつながる親子おやこの縁えんで仕方なししかたなしに引き取っひきとったようなものの、飯めしを食わくわせる以外いがいに、面倒めんどうを見みて遣るやるのは、ただ損そんになるだけであった。
その上うえ肝心かんじんの本人ほんにんは帰っかえって来きても籍せきは復らもどらなかった。
いくら実家じっかで丹精たんせいして育てそだて上うえたにしたところで、いざという時いざというときに、また伴れつれて行かいかれればそれまでであった。
「食わすくわすだけは仕方しかたがないから食わしくわして遣るやる。しかしその外そとの事ことはこっちじゃ構えかまえない。先方せんぽうでするのが当然とうぜんだ」 父ちちの理窟りくつはこうであった。
島田しまだはまた島田しまだで自分じぶんに都合つごうの好いよい方ほうからばかり事件じけんの成行なりゆきを観望かんぼうしていた。
「なに実家じっかへ預けあずけて置きおきさえすればどうにかするだろう。その内うち健三けんぞうが一人前いちにんまえになって少しすこしでも働はたらけらけるようになったら、その時じ表沙汰ひょうさたにしてでもこっちへ奪還だっかんくってしまえばそれまでだ」 健三けんぞうは海うみにも住めすめなかった。
山やまにもいられなかった。
両方りょうほうから突き返さつきかえされて、両方りょうほうの間まをまごまごしていた。
同時どうじに海うみのものも食いくい、時じには山やまのものにも手てを出しだした。
実父じっぷから見みても養父ようふから見みても、彼かれは人間にんげんではなかった。
むしろ物品ぶっぴんであった。
ただ実父じっぷが我楽多がらくたとして彼かれを取り扱っとりあつかったのに対したいして、養父ようふには今いまに何なんかの役やくに立てたてて遣ろうやろうという目算もくさんがあるだけであった。
「もうこっちへ引き取っひきとって、給仕きゅうじでも何なんでもさせるからそう思うおもうがいい」 健三けんぞうが或ある日ひ養家ようかを訪問ほうもんした時じに、島田しまだは何なんかのついでにこんな事ことをいった。
健三けんぞうは驚ろいおどろいて逃げ帰っにげかえった。
酷薄こくはくという感じかんじが子供心こどもこころに淡いあわい恐ろしおそろしさを与えあたえた。
その時じの彼かれは幾いく歳としだったか能くよく覚えおぼえていないけれども、何なんでも長いながい間まの修業しゅぎょうをして立派りっぱな人間にんげんになって世間せけんに出でなければならないという慾よくが、もう充分じゅうぶん萌しきざしている頃ころであった。
「給仕きゅうじになんぞされては大変たいへんだ」 彼かれは心こころのうちで何なん遍へんも同じおなじ言葉ことばを繰り返しくりかえした。
幸みゆきにしてその言葉ことばは徒労とろうに繰り返さくりかえされなかった。
彼かれはどうかこうか給仕きゅうじにならずに済んすんだ。
「しかし今いまの自分じぶんはどうして出来上っできあがったのだろう」 彼かれはこう考えるかんがえると不思議ふしぎでならなかった。
その不思議ふしぎのうちには、自分じぶんの周囲しゅういと能くよく闘いたたかい終おわりせたものだという誇りほこりも大分おおいた交っかっていた。
そうしてまだ出来上らできあがらないものを、既にすでに出来上っできあがったように見るみる得意とくいも無論むろん含まふくまれていた。
彼かれは過去かこと現在げんざいとの対照たいしょうを見みた。
過去かこがどうしてこの現在げんざいに発展はってんして来きたかを疑がっうたがった。
しかもその現在げんざいのために苦しんくるしんでいる自分じぶんにはまるで気きが付かつかなかった。
彼かれと島田しまだとの関係かんけいが破裂はれつしたのは、この現在げんざいの御蔭みかげであった。
彼かれが御ご常つねを忌むいむのも、姉やねえや兄あにと同化どうかし得とくないのもこの現在げんざいの御蔭みかげであった。
細君さいくんの父ちちと段々だんだん離れはなれて行くいくのもまたこの現在げんざいの御蔭みかげに違いなかった。
一方いっぽうから見るみると、他ほかと反はんが合わあわなくなるように、現在げんざいの自分じぶんを作り上げつくりあげた彼かれは気の毒きのどくなものであった。
九十二きゅうじゅうに
細君さいくんは健三けんぞうに向っむかっていった。
――「貴夫たかおに気きに入るはいる人ひとはどうせどこにもいないでしょうよ。世の中よのなかはみんな馬鹿ばかばかりですから」 健三けんぞうの心こころはこうした諷刺ふうしを笑っわらって受けるうけるほど落おち付いついていなかった。
周囲しゅういの事情じじょうは雅量がりょうに乏しいとぼしい彼かれを益えき窮屈きゅうくつにした。
「御前ごぜんは役やくに立ちたちさえすれば、人間にんげんはそれで好いよいと思っおもっているんだろう」「だって役やくに立たたたなくっちゃ何になんにもならないじゃありませんか」 生憎あいにく細君さいくんの父ちちは役やくに立つたつ男おとこであった。
彼女かのじょの弟おとうともそういう方面ほうめんにだけ発達はったつする性質せいしつであった。
これに反しはんして健三けんぞうは甚だはなはだ実用じつように遠いとおい生れうまれ付ふであった。
彼かれには転宅てんたくの手伝いてつだいすら出来できなかった。
大おお掃除そうじの時じにも彼かれは懐手ふところでをしたなり澄ましなりすましていた。
行李こうり一いちつ絡げるからげるにさえ、彼かれは細紐ほそひもをどう渡すわたすべきものやら分らわからなかった。
「男おとこのくせに」 動かうごかない彼かれは、傍そばのものの眼めに、如何にいかにも気きの利かりかない鈍物どんぶつのように映っうつった。
彼かれはなおさら動かうごかなかった。
そうして自分じぶんの本領ほんりょうを益えき反対はんたいの方面ほうめんに移しうつして行っいった。
彼かれはこの見地けんちから、昔むかしし細君さいくんの弟おとうとを、自分じぶんの住んすんでいる遠いとおい田舎いなかへ伴れつれて行っいって教育きょういくしようとした。
その弟おとうとは健三けんぞうから見るみると如何にいかにも生意気なまいきであった。
家庭かていのうちを横行おうこうして誰だれにも遠慮えんりょ会釈えしゃくがなかった。
ある理学りがく士しに毎日まいにち自宅じたくで課業かぎょうの復習ふくしゅうをしてもらう時じ、彼かれはその人ひとの前まえで構わかまわず胡坐こざをかいた。
またその人ひとの名なを何なん君きみ何なん君きみと君きみづけに呼んよんだ。
「あれじゃ仕方しかたがない。私わたくしに御ご預けあずけなさい。私わたくしが田舎いなかへ連れつれて行っいって育てるそだてるから」 健三けんぞうの申出もうしでは細君さいくんの父ちちによって黙っだまって受け取らうけとられた。
そうして黙っだまって捨てすてられた。
彼かれは眼前がんぜんに横暴おうぼうを恣ほしいまままにする我われ子こを見みて、何なんという未来みらいの心配しんぱいも抱いいだいていないように見えみえた。
彼かればかりか、細君さいくんの母ははも平気へいきであった。
細君さいくんも一向いっこう気きに掛けるかける様子ようすがなかった。
「もし田舎いなかへ遣っつかって貴夫たかおと衝突しょうとつしたり何なんかすると、折合おりあわせが悪くわるくなって、後あとが困るこまるから、それでやめたんだそうです」 細君さいくんの弁解べんかいを聞いきいた時じ、健三けんぞうは満更まんざらの嘘うそとも思わおもわなかった。
けれどもその他ほかにまだ意味いみが残っのこっているようにも考えかんがえた。
「馬鹿ばかじゃありません。そんな御世話ごせわにならなくっても大丈夫だいじょうぶです」 周囲しゅういの様子ようすから健三けんぞうは謝絶しゃぜつの本意ほんいがかえって此これ所ところにあるのではなかろうかと推察すいさつした。
なるほど細君さいくんの弟おとうとは馬鹿ばかではなかった。
むしろ怜悧れいり過ぎすぎた。
健三けんぞうにもその点てんはよく解っわかっていた。
彼かれが自分じぶんと細君さいくんの未来みらいのために、彼女かのじょの弟おとうとを教育きょういくしようとしたのは、全くまったく見当けんとうの違っちがった方面ほうめんにあった。
そうして遺憾いかんながらその方面ほうめんは、今日きょうに至るいたるまでいまだに細君さいくんの父母ふぼにも細君さいくんにも了解りょうかいされていなかった。
「役やくに立つたつばかりが能のうじゃない。その位くらいの事ことが解らわからなくってどうするんだ」 健三けんぞうの言葉ことばは勢いいきおい権柄けんぺいずくであった。
傷けきずつけられた細君さいくんの顔かおには不満ふまんの色いろがありありと見えみえた。
機嫌きげんの直っなおった時じ細君さいくんはまた健三けんぞうに向っむかった。
――「そう頭あたまからがみがみいわないで、もっと解るわかるようにいって聞かしきかして下すっくだすったら好いよいでしょう」「解るわかるようにいおうとすれば、理窟りくつばかり捏ね返すこねかえすっていうじゃないか」「だからもっと解りわかりやすいように。私わたくしに解らわからないような小六しょうろくずかしい理窟りくつはやめにして」「それじゃどうしたって説明せつめいしようがない。数字すうじを使わつかわずに算術さんじゅつを遣れやれと注文ちゅうもんするのと同じおなじ事ことだ」「だって貴夫たかおの理窟りくつは、他ほかを捻じ伏せるねじふせるために用いもちいられるとより外そとに考えようかんがえようのない事ことがあるんですもの」「御前ごぜんの頭あたまが悪いわるいからそう思うおもうんだ」「私わたくしの頭あたまも悪いわるいかも知れしれませんけれども、中味なかみのない空っぽからっぽの理窟りくつで捻じ伏せねじふせられるのは嫌いやですよ」 二人ふたりはまた同じおなじ輪わの上うえをぐるぐる廻りまわり始めはじめた。
九十三きゅうじゅうさん
面めんと向っむかって夫おっととしっくり融け合うとけあう事ことの出来できない時じ、細君さいくんはやむをえず彼かれに背中せなかを向けむけた。
そうして其その所ところに寐ぬている子供こどもを見みた。
彼女かのじょは思い出しおもいだしたように、すぐその子供こどもを抱き上げだきあげた。
章魚たこのようにぐにゃぐにゃしている肉にくの塊りかたまりと彼女かのじょとの間まには、理窟りくつの壁かべも分別ぶんべつの牆もなかった。
自分じぶんの触れるふれるものが取とりも直さなおさず自分じぶんのような気きがした。
彼女かのじょは温かいあたたかい心こころを赤ん坊あかんぼうの上うえに吐き掛けるはきかけるために、唇くちびるを着けつけて所ところ嫌わいやわず接吻せっぷんした。
「貴夫たかおが私わたくしのものでなくっても、この子こは私わたくしの物ものよ」 彼女かのじょの態度たいどからこうした精神せいしんが明らかあきらかに読まよまれた。
その赤ん坊あかんぼうはまだ眼鼻めはな立たてさえ判明はんめいしていなかった。
頭あたまには何時なんじまで待っまっても殆んどほとんど毛けらしい毛けが生えはえて来きなかった。
公平こうへいな眼めから見るみると、どうしても一いち個この怪物かいぶつであった。
「変へんな子こが出来できたものだなあ」 健三けんぞうは正直しょうじきな所ところをいった。
「どこの子こだって生れうまれたては皆みななこの通りとおりです」「まさかそうでもなかろう。もう少しすこしは整っととのったのも生れるうまれるはずだ」「今いまに御覧ごらんなさい」 細君さいくんはさも自信じしんのあるような事ことをいった。
健三けんぞうには何なんという見当けんとうも付かつかなかった。
けれども彼かれは細君さいくんがこの赤ん坊あかんぼうのために夜中よなか何度なんどとなく眼めを覚ますさますのを知っしっていた。
大事だいじな睡眠すいみんを犠牲ぎせいにして、少しすこしも不愉快ふゆかいな顔かおを見せみせないのも承知しょうちしていた。
彼かれは子供こどもに対するたいする母親ははおやの愛情あいじょうが父親ちちおやのそれに比べくらべてどの位くらい強いつよいかの疑問ぎもんにさえ逢着ほうちゃくした。
四よん、五ご日ひ前まえ少しすこし強いつよい地震じしんのあった時じ、臆病おくびょうな彼かれはすぐ縁えんから庭にわへ飛び下りとびおりた。
彼かれが再びふたたび座敷ざしきへ上っのぼって来きた時じ、細君さいくんは思いおもいも掛けかけない非難ひなんを彼かれの顔かおに投げ付けなげつけた。
「貴夫たかおは不人情ふにんじょうね。自分じぶん一人ひとり好けれよければ構わかまわない気きなんだから」 何故なぜ子供こどもの安危あんきを自分じぶんより先さきに考えかんがえなかったかというのが細君さいくんの不平ふへいであった。
咄嗟とっさの衝動しょうどうから起っおこった自分じぶんの行為こういに対したいして、こんな批評ひひょうを加えくわえられようとは夢ゆめにも思っおもっていなかった健三けんぞうは驚ろいおどろいた。
「女おんなにはああいう時じでも子供こどもの事ことが考えかんがえられるものかね」「当り前あたりまえですわ」 健三けんぞうは自分じぶんが如何にいかにも不人情ふにんじょうのような気きがした。
しかし今いまの彼かれは我われ物もの顔かおに子供こどもを抱いいだいている細君さいくんを、かえって冷れいかに眺めながめた。
「訳わけの分らわからないものが、いくら束たばになったって仕様しようがない」 しばらくすると彼かれの思索しさくがもっと広いひろい区域くいきにわたって、現在げんざいから遠いとおい未来みらいに延びのびた。
「今いまにその子供こどもが大きくおおきくなって、御前ごぜんから離れはなれて行くいく時期じきが来るくるに極っきょくっている。御前ごぜんは己おのれと離れはなれても、子供こどもとさえ融け合っとけあって一いちつになっていれば、それで沢山たくさんだという気きでいるらしいが、それは間ま違いだ。今いまに見ろみろ」 書斎しょさいに落おち付いついた時じ、彼かれの感想かんそうがまた急きゅうに科学的かがくてき色彩しきさいを帯びおび出しだした。
「芭蕉ばしょうに実じつが結けつると翌年よくねんからその幹みきは枯れかれてしまう。竹たけも同じおなじ事ことである。動物どうぶつのうちには子こを生むうむために生きいきているのか、死ぬしぬために子こを生むうむのか解らわからないものがいくらでもある。人間にんげんも緩漫かんまんながらそれに準じじゅんじた法則ほうそくにやッぱりやっぱり支配しはいされている。母ははは一旦いったん自分じぶんの所有しょゆうするあらゆるものを犠牲ぎせいにして子供こどもに生なまを与えあたえた以上いじょう、また余りあまりのあらゆるものを犠牲ぎせいにして、その生なまを守護しゅごしなければなるまい。彼女かのじょが天てんからそういう命令めいれいを受けうけてこの世このよに出でたとするならば、その報酬ほうしゅうとして子供こどもを独占どくせんするのは当り前あたりまえだ。故意こいというよりも自然しぜんの現象げんしょうだ」 彼かれは母ははの立場たちばをこう考えかんがえ尽しつくした後あと、父ちちとしての自分じぶんの立場たちばをも考えかんがえた。
そうしてそれが母ははの場合ばあいとどう違っちがっているかに思い到っおもいいたった時じ、彼かれは心こころのうちでまた細君さいくんに向っむかっていった。
「子供こどもを有っあった御前ごぜんは仕合せしあわせである。しかしその仕合しあいを享けるうける前まえに御前ごぜんは既にすでに多大ただいな犠牲ぎせいを払っはらっている。これから先さきも御前ごぜんの気きの付かつかない犠牲ぎせいをどの位くらい払うはらうか分らわからない。御前ごぜんは仕合せしあわせかも知れしれないが、実じつは気の毒きのどくなものだ」
九十四きゅうじゅうよん
年ねんは段々だんだん暮れくれて行っいった。
寒いさむい風かぜの吹くふく中なかに細かいこまかい雪片せっぺんがちらちらと見えみえ出しだした。
子供こどもは日ひに何度なんどとなく「もういくつ寐るぬると御ご正月しょうがつ」という唄うたをうたった。
彼かれらの心こころは彼かれらの口くちにする唱歌しょうかの通りとおりであった。
来るくるべき新年しんねんの希望きぼうに充ちみちていた。
書斎しょさいにいる健三けんぞうは時々ときどき手てに洋よう筆ふでを持っもったまま、彼かれらの声こえに耳みみを傾けかたむけた。
自分じぶんにもああいう時代じだいがあったのかしらなどと考えかんがえた。
子供こどもはまた「旦那だんなの嫌いやな大晦日おおみそか」という毬かさ歌うたをうたった。
健三けんぞうは苦笑くしょうした。
しかしそれも今いまの自分じぶんの身の上みのうえには痛切つうせつに的中てきちゅうらなかった。
彼かれはただ厚いあつい四よんつ折つおりの半紙はんしの束たばを、十じゅうも二十にじゅうも机つくえの上うえに重ねかさねて、それを一いち枚ばいごとに読んよんで行くいく努力どりょくに悩まさなやまされていた。
彼かれは読みよみながらその紙かみへ赤いあかい印しるし気きで棒ぼうを引いひいたり丸まるを書いかいたり三角さんかくを附けつけたりした。
それから細かいこまかい数字すうじを並べならべて面倒めんどうな勘定かんじょうもした。
半紙はんしに認にんためられたものは悉くことごとく鉛筆えんぴつの走りはしり書しょなので、光線こうせんの暗いくらい所ところでは字画じかくさえ判然はんぜんしないのが多かっおおかった。
乱暴らんぼうで読めよめないのも時々ときどき出でて来きた。
疲れつかれた眼めを上げあげて、積み重ねつみかさねた束たばを見るみる健三けんぞうは落胆らくたんした。
「ペネロピーの仕事しごと」という英語えいごの俚諺りげんが何なん遍へんとなく彼かれの口くちに上っのぼった。
「何時なんじまで経っきょうったって片付きゃかたづきゃしない」 彼かれは折々おりおり筆ふでを擱いおいて溜息ためいきをついた。
しかし片付かかたづかないものは、彼かれの周囲しゅうい前後ぜんごにまだいくらでもあった。
彼かれは不審ふしんな顔かおをしてまた細君さいくんの持っもって来きた一いち枚ばいの名刺めいしに眼めを注がちゅうがなければならなかった。
「何なんだい」「島田しまだの事ことについてちょっと御ご目めに掛りかかりたいっていうんです」「今いま差支さしつかえるからって返しかえしてくれ」 一度いちど立ったった細君さいくんはすぐまた戻っもどって来きた。
「何時なんじ伺っうかがったら好いよいか御都合ごつごうを聞かしきかして頂きいただきたいんですって」 健三けんぞうはそれどころじゃないという顔かおをしながら、自分じぶんの傍そばに高くたかく積み重ねつみかさねた半紙はんしの束たばを眺めながめた。
細君さいくんは仕方なししかたなしに催促さいそくした。
「何なんといいましょう」「明後日みょうごにちの午後ごごに来きて下さいくださいといってくれ」 健三けんぞうも仕方なししかたなしに時日じじつを指定していした。
仕事しごとを中絶ちゅうぜつされた彼かれはぼんやり烟草たばこを吹かしふかし始めはじめた。
ところへ細君さいくんがまた入っはいって来きた。
「帰っかえったかい」「ええ」 細君さいくんは夫おっとの前まえに広げひろげてある赤いあかい印しるしの附いついた汚ならしいきたならしい書きものかきものを眺めながめた。
夜中よなかに何度なんどとなく赤ん坊あかんぼうのために起こさおこされる彼女かのじょの面倒めんどうが健三けんぞうに解らわからないように、この半紙はんしの山やまを綿密めんみつに読みよみ通すとおす夫おっとの困難こんなんも細君さいくんには想像そうぞう出来できなかった。
―― 調べ物しらべものを度外どがいに置いおいた彼女かのじょは、坐るすわるとすぐ夫おっとに訊ねたずねた。
――「また何なんかそういって来るくる気きでしょうね。執ッっ濃いこい」「暮くれのうちにどうかしようというんだろう。馬鹿ばからしいや」 細君さいくんはもう島田しまだを相手あいてにする必要ひつようがないと思っおもった。
健三けんぞうの心こころはかえって昔むかしの関係かんけい上うえ多少たしょうの金きんを彼かれに遣るやる方ほうに傾いかたむいていた。
しかし話はなしは其その所ところまで発展はってんする機会きかいを得とくずによそへ外れはずれてしまった。
「御前ごぜんの宅たくの方ほうはどうだい」「相そう変らかわらず困るこまるんでしょう」「あの鉄道会社てつどうかいしゃの社長しゃちょうの口くちはまだ出来できないのかい」「あれは出来るできるんですって。けれどもそうこっちの都合つごうの好いよいように、ちょっくらちょいとという訳わけには行かいかないんでしょう」「この暮くれのうちには六ろくずかしいのかね」「とても」「困るこまるだろうね」「困っこまっても仕方しかたがありませんわ。何なんもかもみんな運命うんめいなんだから」 細君さいくんは割合わりあいに落おち付いついていた。
何事なにごとも諦たいらめているらしく見えみえた。
九十五きゅうじゅうご
見知らみしらない名刺めいしの持参じさん者ものが、健三けんぞうの指定していした通りとおり、中なか一いち日ひ置いおいて再びふたたび彼かれの玄関げんかんに現れあらわれた時じ、彼かれはまだささくれた洋よう筆先ふでさきで、粗末そまつな半紙はんしの上うえに、丸まるだの三角さんかくだのと色々いろいろな符ふ徴しるしを附けるつけるのに忙がしかっいそがしかった。
彼かれの指頭しとうは赤いあかい印しるし気きで所々ところどころ汚れよごれていた。
彼かれは手ても洗わあらわずにそのまま座敷ざしきへ出でた。
島田しまだのために来きたその男おとこは、前まえの吉田よしだに比べるくらべると少しすこし型かたを異ことにしていたが、健三けんぞうからいえば、双方そうほうとも殆んどほとんど差別さべつのない位くらい懸け離れかけはなれた人間にんげんであった。
彼かれは縞しまの羽織はおりに角帯かくおびを締めしめて白足袋しろたびを穿いはいていた。
商人しょうにんとも紳士しんしとも片かたの付かつかない彼かれの様子ようすなり言葉ことば遣けんなりは、健三けんぞうに差配さはいという一種いっしゅの人柄ひとがらを思い起さおもいおこさせた。
彼かれは自分じぶんの身分みぶんや職業しょくぎょうを打だら明けるあける前まえに、卒然そつぜんとして健三けんぞうに訊いきいた。
――「貴方あなたは私わたくしの顔かおを覚えおぼえて御ご出でですか」 健三けんぞうは驚ろいおどろいてその人ひとを見みた。
彼かれの顔かおには何なんらの特徴とくちょうもなかった。
強いてしいていえば、今日きょうまでただ世帯せたい染みしみて生きいきて来きたという位くらいのものであった。
「どうも分りわかりませんね」 彼かれは勝ち誇っかちほこった人ひとのように笑っわらった。
「そうでしょう。もう忘れわすれても好いよい時分じぶんですから」 彼かれは区切くぎりを置いおいてまた附け加えつけくわえた。
「しかし私ゃわたしゃこれでも貴方あなたの坊ぼうちゃん坊ぼうちゃんていわれた昔むかしをまだ覚えおぼえていますよ」「そうですか」 健三けんぞうは素もとッっ気きない挨拶あいさつをしたなり、その人ひとの顔かおを凝とじっと見守っみまもった。
「どうしても思い出せおもいだせませんかね。じゃ御ご話しはなししましょう。私ゃわたしゃ昔むかしし島田しまださんが扱こき所ところを遣っつかっていなすった頃ころ、あすこに勤めつとめていたものです。ほら貴方あなたが悪戯いたずらをして、小刀しょうとうで指ゆびを切っきって、大騒ぎおおさわぎをした事ことがあるでしょう。あの小刀しょうとうは私わたくしの硯箱すずりばこの中なかにあったんでさあ。あの時じ金盥かなだらいに水みずを取っとって、貴方あなたの指ゆびを冷しひやしたのも私わたくしですぜ」 健三けんぞうの頭あたまにはそうした事実じじつが明らかあきらかにまだ保存ほぞんされていた。
しかし今いま自分じぶんの前まえに坐っすわっている人ひとのその時じの姿すがたなどは夢ゆめにも憶い出せおもいだせなかった。
「その縁故えんこで今度こんどまた私わたくしが頼またのまれて、島田しまださんのために上っのぼったような訳合わけあいなんです」 彼かれは直じか本題ほんだいに入っはいった。
そうして健三けんぞうの予期よきしていた通りとおり金きんの請求せいきゅうをし始めはじめた。
「もう再びふたたび御ご宅たくへは伺わうかがわないといってますから」「この間ま帰るかえる時じ既にすでにそういって行っいったんです」「で、どうでしょう、此これ所ところいらで綺麗きれいに片かたを付けるつける事ことにしたら。それでないと何時なんじまで経っきょうっても貴方あなたが迷惑めいわくするぎりですよ」 健三けんぞうは迷惑めいわくを省いはぶいてやるから金きんを出せだせといった風かぜな相手あいての口気こうきを快よくこころよく思わおもわなかった。
「いくら引いんっ懸っかかっていたって、迷惑めいわくじゃありません。どうせ世の中よのなかの事ことは引いんっ懸りかかりだらけなんですから。よし迷惑めいわくだとしても、出すだすまじき金きんを出すだす位くらいなら、出さださないで迷惑めいわくを我慢がまんしていた方ほうが、私わたくしにはよッっぽど心持こころもちが好いよいんです」 その人ひとはしばらく考えかんがえていた。
少しすこし困っこまったという様子ようすも見えみえた。
しかしやがて口くちを開いひらいた時じは思いおもいも寄らよらない事ことをいい出しだした。
「それに貴方あなたも御承知ごしょうちでしょうが、離縁りえんの際さい貴方あなたから島田しまだへ入れいれた書付かきつけがまだ向うむこうの手てにありますから、この際さいいくらでも纏めまとめたものを渡しわたして、あの書付かきつけと引きひき易えかえになすった方ほうが好くよくはありませんか」 健三けんぞうはその書付かきつけを慥たしかに覚えおぼえていた。
彼かれが実家じっかへ復籍ふくせきする事ことになった時じ、島田しまだは当人とうにんの彼かれから一札いっさつ入れいれてもらいたいと主張しゅちょうしたので、健三けんぞうの父ちちもやむをえず、何なんでも好いよいから書いかいて遣れやれと彼かれに注意ちゅういした。
何なんも書くかく材料ざいりょうのない彼かれは仕方なししかたなしに筆ふでを執っとった。
そうして今度こんど離縁りえんになったについては、向後こうご御ご互たがいに不義理ふぎり不人情ふにんじょうな事ことはしたくないものだという意味いみを僅わずか二に行こう余よに綴っつづって先方せんぽうへ渡しわたした。
「あんなものは反故ほご同然どうぜんですよ。向むかいで持っもっていても役やくに立たたたず、私わたくしが貰っもらっても仕方しかたがないんだ。もし利用りよう出来るできる気きならいくらでも利用りようしたら好いよいでしょう」 健三けんぞうにはそんな書付かきつけを売り付けうりつけに掛るかかるその人ひとの態度たいどがなお気きに入らはいらなかった。
九十六きゅうじゅうろく
話はなしが行き詰るいきづまるとその人ひとは休んやすんだ。
それから好いよい加減かげんな時分じぶんにまた同じおなじ問題もんだいを取り上げとりあげた。
いう事ことは散漫さんまんであった。
理りで押せおせなければ情じょうに訴えるうったえるという風かぜでもなかった。
ただ物ものにさえすれば好いよいという料簡りょうけんが露骨ろこつに見透かさみすかされた。
収束しゅうそくするところなく共ともに動いうごいていた健三けんぞうはしまいに飽きあきた。
「書付かきつけを買えかえの、今いまに迷惑めいわくするのが厭いやなら金きんを出せだせのといわれるとこっちでも断ることわるより外そとに仕方しかたがありませんが、困るこまるからどうかしてもらいたい、その代りかわり向後こうご一切いっさい無心むしんがましい事ことはいって来きないと保証ほしょうするなら、昔むかしの情義じょうぎ上うえ少しすこしの工面くめんはして上げあげても構いかまいません」「ええそれがつまり私わたくしの来きた主意しゅいなんですから、出来るできるならどうかそう願いねがいたいもんで」 健三けんぞうはそんなら何故なぜ早くはやくそういわないのかと思っおもった。
同時どうじに相手あいても、何故なぜもっと早くはやくそういってくれないのかという顔付かおつきをした。
「じゃどの位くらい出しだして下さいくださいます」 健三けんぞうは黙っだまって考えかんがえた。
しかしどの位くらいが相当そうとうのところだか判明はんめいした目安めやすの出でて来ようこようはずはなかった。
その上うえなるべく少ないすくない方ほうが彼かれの便宜べんぎであった。
「まあ百ひゃく円えん位くらいなものですね」「百ひゃく円えん」 その人ひとはこう繰り返しくりかえした。
「どうでしょう、責めせめて三百さんびゃく円えん位くらいにして遣るやる訳わけには行きいきますまいか」「出すだすべき理由りゆうさえあれば何百なんびゃく円えんでも出しだします」「御ご尤ももっともだが、島田しまださんもああして困っこまってるもんだから」「そんな事ことをいやあ、私わたくしだって困っこまっています」「そうですか」 彼かれの語気ごきはむしろ皮肉ひにくであった。
「元来がんらい一いち文ぶんも出さださないといったって、貴方あなたの方ほうじゃどうする事ことも出来できないんでしょう。百ひゃく円えんで悪けりゃわるけりゃ御ご止しよしなさい」 相手あいては漸くようやく懸引けんいんをやめた。
「じゃともかくも本人ほんにんによくそう話しはなして見みます。その上うえでまた上るのぼる事ことにしますから、どうぞ何なん分ぶん」 その人ひとが帰っかえった後あとで健三けんぞうは細君さいくんに向っむかった。
「とうとう来きた」「どうしたっていうんです」「また金きんを取らとられるんだ。人ひとさえ来れこれば金きんを取らとられるに極っきょくってるから厭いやだ」「馬鹿ばからしい」 細君さいくんは別べつに同情どうじょうのある言葉ことばを口くちへ出さださなかった。
「だって仕方しかたがないよ」 健三けんぞうの返事へんじも簡単かんたんであった。
彼かれは其その所ところへ落おち付くつくまでの筋道すじみちを委しくくわしく細ほそ君きみに話しはなしてやるのさえ面倒めんどうだった。
「そりゃ貴夫たかおの御ご金きんを貴夫たかおが御ご遣りやりになるんだから、私わたくし何なんもいう訳わけはありませんわ」「金きんなんかあるもんか」 健三けんぞうは擲きたたき付けるつけるようにこういって、また書斎しょさいへ入っはいった。
其その所ところには鉛筆えんぴつで一面いちめんに汚さきたなされた紙かみが所々ところどころ赤くあかく染っそめったまま机つくえの上うえで彼かれを待っまっていた。
彼かれはすぐ洋よう筆ふでを取り上げとりあげた。
そうして既にすでに汚れよごれたものをなおさら赤くあかく汚さきたなさなければならなかった。
客きゃくに会うあう前まえと会っかいった後あととの気分きぶんの相違そういが、彼かれを不公平ふこうへいにしはしまいかとの恐れおそれが彼かれの心こころに起っおこった時じ、彼かれは一旦いったん読みよみおわったものを念ねんのためまた読んよんだ。
それですら三さん時間じかん前まえの彼かれの標準ひょうじゅんが今いまの標準ひょうじゅんであるかどうか、彼かれには全くまったく分らわからなかった。
「神かみでない以上いじょう公平こうへいは保てたもてない」 彼かれはあやふやな自分じぶんを弁護べんごしながら、ずんずん眼めを通しとおし始めはじめた。
しかし積重ねつみかさねた半紙はんしの束たばは、いくら速力そくりょくを増しましても尽きるつきる期きがなかった。
漸くようやく一いち組くみを元もとのように折るおるとまた新らしくあたらしく一いち組くみを開かひらかなければならなかった。
「神かみでない以上いじょう辛抱しんぼうだってし切れきれない」 彼かれはまた洋よう筆ふでを放り出しほうりだした。
赤いあかい印しるし気きが血ちのように半紙はんしの上うえに滲んにじんだ。
彼かれは帽子ぼうしを被っかぶって寒いさむい往来おうらいへ飛び出しとびだした。
九十七きゅうじゅうなな
人通りひとどおりの少ないすくない町まちを歩いあるいている間ま、彼かれは自分じぶんの事ことばかり考えかんがえた。
「御前ごぜんは必竟ひっきょう何なんをしに世の中よのなかに生れうまれて来きたのだ」 彼かれの頭あたまのどこかでこういう質問しつもんを彼かれに掛けるかけるものがあった。
彼かれはそれに答えこたえたくなかった。
なるべく返事へんじを避けようさけようとした。
するとその声こえがなお彼かれを追窮ついきゅうし始めはじめた。
何なん遍へんでも同じおなじ事ことを繰り返しくりかえしてやめなかった。
彼かれは最後さいごに叫んさけんだ。
「分らわからない」 その声こえは忽ちたちまちせせら笑っせせらわらった。
「分らわからないのじゃあるまい。分っわかっていても、其その所ところへ行けいけないのだろう。途中とちゅうで引いん懸っかかっているのだろう」「己おのれのせいじゃない。己おのれのせいじゃない」 健三けんぞうは逃げるにげるようにずんずん歩いあるいた。
賑やかにぎやかな通りとおりへ来きた時じ、迎年げいねんの支度したくに忙しいいそがしい外界がいかいは驚異きょういに近いちかい新らしあたらしさを以いて急きゅうに彼かれの眼めを刺さし撃げきした。
彼かれの気分きぶんは漸くようやく変っかわった。
彼かれは客きゃくの注意ちゅういを惹くひくために、あらゆる手段しゅだんを尽しつくして飾り立てかざりたてられた店頭てんとうを、それからそれと覗き込んのぞきこんで歩いあるいた。
或ある時じは自分じぶんと全くまったく交渉こうしょうのない、珊瑚樹さんごじゅの根ね懸けんだの、蒔絵まきえの櫛笄くしこうがいだのを、硝子がらす越こしに何なんの意味いみもなく長いながい間ま眺めながめていた。
「暮くれになると世の中よのなかの人ひとはきっと何なんか買うかうものかしら」 少なくすくなくとも彼かれ自身じしんは何になんにも買わかわなかった。
細君さいくんも殆んどほとんど何になんにも買わかわないといってよかった。
彼かれの兄あに、彼かれの姉あね、細君さいくんの父ちち、どれを見みても、買えるかえるような余裕よゆうのあるものは一人ひとりもなかった。
みんな年ねんを越すこすのに苦しんくるしんでいる連中れんちゅうばかりであった。
中なかにも細君さいくんの父ちちは一番いちばん非道ひどうそうに思わおもわれた。
「貴族きぞく院いん議員ぎいんになってさえいれば、どこでも待っまってくれるんだそうですけれども」 借金しゃっきん取とりに責めせめられている父ちちの事情じじょうを夫おっとに打ち明けうちあけたついでに、細君さいくんはかつてこんな事ことをいった。
それは内閣ないかくの瓦解がかいした当時とうじであった。
細君さいくんの父ちちを閑職かんしょくから引っ張りひっぱり出しだして、彼かれの辞職じしょくを余儀よぎなくさせた人ひとは、自分じぶんたちの退ぞくしりぞく間際まぎわに、彼かれを貴族きぞく院いん議員ぎいんに推挙すいきょして、幾分いくぶんか彼かれに対するたいする義理ぎりを立てようたてようとした。
しかし多数たすうの候補者こうほしゃの中なかから、限らかぎられた人員じんいんを選ばえらばなければならなかった総理大臣そうりだいじんは、細君さいくんの父ちちの名前なまえの上うえに遠慮えんりょなく棒ぼうを引いひいてしまった。
彼かれはついに選せんに洩れもれた。
何なんかの意味いみで保険ほけんの付いついていない人ひとにのみ酷薄こくはくであった債権者さいけんしゃは直ちにただちに彼かれの門もんに逼っせまった。
官邸かんていを引き払っひきはらった時じに召めし仕しの数すうを減らしへらした彼かれは、少時しょうじくして自用じよう俥くるまを廃しはいした。
しまいにわが住宅じゅうたくを挙げあげて人手ひとでに渡しわたした頃ころは、もうどうする事ことも出来できなかった。
日ひを重ねかさね月つきを追っおって益えき悲境ひきょうに沈んしずんで行っいった。
「相場そうばに手てを出しだしたのが悪いわるいんですよ」 細君さいくんはこんな事こともいった。
「御ご役人やくにんをしている間まは相場師そうばしの方ほうで儲けもうけさせてくれるんですって。だから好いよいけれども、一旦いったん役やくを退くしりぞくと、もう相場師そうばしが構っかまってくれないから、みんな駄目だめになるんだそうです」「何なんの事ことだか要領ようりょうを得とくないね。だいち意味いみさえ解らわからない」「貴方あなたに解らわからなくったって、そうなら仕方しかたがないじゃありませんか」「何なんをいってるんだ。それじゃ相場師そうばしは決してけっして損そんをしっこないものに極っきょくっちまうじゃないか。馬鹿ばかな女おんなだな」 健三けんぞうはその時じ細君さいくんと取りとり換かえわせた談話だんわまで憶い出しおもいだした。
彼かれはふと気きが付いついた。
彼かれと擦れ違うすれちがう人ひとはみんな急ぎ足いそぎあしに行きいき過ぎすぎた。
みんな忙がしいそがしそうであった。
みんな一定いっていの目的もくてきを有っあっているらしかった。
それを一刻いっこくも早くはやく片付けるかたづけるために、せっせと活動かつどうするとしか思わおもわれなかった。
或ある者ものはまるで彼かれの存在そんざいを認めみとめなかった。
或ある者ものは通り過ぎるとおりすぎる時じ、ちょっと一瞥いちべつを与えあたえた。
「御前ごぜんは馬鹿ばかだよ」 稀まれにはこんな顔付かおつきをするものさえあった。
彼かれはまた宅たくへ帰っかえって赤いあかい印しるし気きを汚ないきたない半紙はんしへなすくり始めはじめた。
九十八きゅうじゅうはち
二に、三さん日ひすると島田しまだに頼またのまれた男おとこがまた刺さしを通じつうじて面会めんかいを求めもとめに来きた。
行掛りいきがかり上うえ断ることわる訳わけに行かいかなかった健三けんぞうは、座敷ざしきへ出でて差配さはいじみたその人ひとの前まえに、再びふたたび坐るすわるべく余儀よぎなくされた。
「どうも御ご忙がしいいそがしいところを度々たびたび出でまして」 彼かれは世事せじ慣れなれた男おとこであった。
口くちで気の毒きのどくそうな事ことをいう割わりに、それほど殊勝しゅしょうな様子ようすを彼かれの態度たいどのどこにも現わさあらわさなかった。
「実じつはこの間まの事ことを島田しまだによく話しはなしましたところ、そういう訳わけなら致し方いたしかたがないから、金額きんがくはそれで宜しいよろしい、その代りかわりどうか年内ねんないに頂戴ちょうだい致しいたしたい、とこういうんですがね」 健三けんぞうにはそんな見込みこみがなかった。
「年内ねんないたってもう僅かわずかの日数にっすうしかないじゃありませんか」「だから向うむこうでも急ぐいそぐような訳わけでしてね」「あれば今いますぐ上げあげても好いよいんです。しかしないんだから仕方しかたがないじゃありませんか」「そうですか」 二人ふたりは少時しょうじ無言むごんのままでいた。
「どうでしょう、其その所ところのところを一いちつ御ご奮発ふんぱつは願わねがわれますまいか。私わたくしも折角せっかくこうして忙がしいいそがしい中なかを、島田しまださんのために、わざわざ遣っつかって来きたもんですから」 それは彼かれの勝手かってであった。
健三けんぞうの心こころを動かすうごかすに足るたるほどの手数てすうでも面倒めんどうでもなかった。
「御ご気の毒きのどくですが出来できませんね」 二人ふたりはまた沈黙ちんもくを間まに置いおいて相対そうたいした。
「じゃ何時頃いつごろ頂けるいただけるんでしょう」 健三けんぞうには何時なんじという目的もくてきもなかった。
「いずれ来年らいねんにでもなったらどうにかしましょう」「私わたくしもこうして頼またのまれて上っのぼった以上いじょう、何なんとか向むかいへ返事へんじをしなくっちゃなりませんから、せめて日限にちげんでも一いちつ御ご取極とりきめを願いねがいたいと思いおもいますが」「御ご尤ももっともです。じゃ正月しょうがつ一杯いちばいとでもして置きおきましょう」 健三けんぞうはそれより外そとにいいようがなかった。
相手あいては仕方なししかたなしに帰っかえって行っいった。
その晩ばん寒ささむさと倦怠けんたいを凌ぐしのぐために蕎麦湯そばゆを拵えこしらえてもらった健三けんぞうは、どろどろした鼠色ねずみいろのものを啜りすすりながら、盆ぼんを膝ひざの上うえに置いおいて傍そばに坐っすわっている細君さいくんと話し合っはなしあった。
「また百ひゃく円えんどうかしなくっちゃならない」「貴夫たかおが遣らやらないでも好いよいものを遣るやるって約束やくそくなんぞなさるから後あとで困るこまるんですよ」「遣らやらないでもいいのだけれども、己おのれは遣るやるんだ」 言葉ことばの矛盾むじゅんがすぐ細君さいくんを不快ふかいにした。
「そう依故いこ地ちを仰しゃれおっしゃればそれまでです」「御前ごぜんは人ひとを理窟りくつぽいとか何なんとかいって攻撃こうげきするくせに、自分じぶんにゃ大変たいへん形式けいしきばった所ところのある女おんなだね」「貴夫たかおこそ形式けいしきが御ご好きすきなんです。何事なにごとにも理窟りくつが先さきに立つたつんだから」「理窟りくつと形式けいしきとは違うちがうさ」「貴夫たかおのは同どうなじですよ」「じゃいって聞かきかせるがね、己おのれは口くちにだけ論理ろんりを有っあっている男おとこじゃない。口くちにある論理ろんりは己おのれの手てにも足あしにも、身体しんたい全体ぜんたいにもあるんだ」「そんなら貴夫たかおの理窟りくつがそう空っぽからっぽうに見えるみえるはずがないじゃありませんか」「空そらっぽうじゃないんだもの。丁度ちょうどころ柿かきの粉こなのようなもので、理窟りくつが中なかから白くしろく吹き出すふきだすだけなんだ。外部がいぶから喰くえ付けつけた砂糖さとうとは違うちがうさ」 こんな説明せつめいが既にすでに細君さいくんには空そらっぽうな理窟りくつであった。
何なんでも眼めに見えるみえるものを、しっかと手てに掴まつかまなくっては承知しょうち出来できない彼女かのじょは、この上うえ夫おっとと議論ぎろんする事ことを好まこのまなかった。
またしようと思っおもっても出来できなかった。
「御前ごぜんが形式けいしき張るはるというのはね。人間にんげんの内側うちがわはどうでも、外部がいぶへ出でた所ところだけを捉まえつかまえさえすれば、それでその人間にんげんが、すぐ片付けかたづけられるものと思っおもっているからさ。丁度ちょうど御前ごぜんの御ご父さんちちさんが法律家ほうりつかだもんだから、証拠しょうこさえなければ文句もんくを付けつけられる因縁いんねんがないと考えかんがえているようなもので……」「父ちちはそんな事ことをいった事ことなんぞありゃしません。私わたくしだってそう外部がいぶばかり飾っかざって生きいきてる人間にんげんじゃありません。貴夫たかおが不断ふだんからそんな僻んひがんだ眼めで他ほかを見みていらっしゃるから……」 細君さいくんの瞼まぶたから涙なみだがぽたぽた落ちおちた。
いう事ことがその間まに断絶だんぜつした。
島田しまだに遣るやる百ひゃく円えんの話しはなしが、飛んとんだ方角ほうがくへ外れはずれた。
そうして段々だんだんこんがらかって来きた。
九十九きゅうじゅうきゅう
また二に、三さん日ひして細君さいくんは久しぶりひさしぶりに外出がいしゅつした。
「無沙汰むさた見舞みまいかたがた少しすこし歳暮せいぼに廻っまわって来きました」 乳呑ちのみ児こを抱いいだいたまま健三けんぞうの前まえへ出でた彼女かのじょは、寒いさむい頬ほおを赤くあかくして、暖かいあたたかい空気くうきの裡りに尻しりを落付おちつけた。
「御前ごぜんの宅たくはどうだい」「別べつに変っかわった事こともありません。ああなると心配しんぱいを通り越しとおりこして、かえって平気へいきになるのかも知れしれませんね」 健三けんぞうは挨拶あいさつの仕様しようもなかった。
「あの紫檀したんの机つくえを買わかわないかっていうんですけれども、縁起えんぎが悪いわるいから止しよしました」 舞まい葡萄ぶどうとかいう木きの一いち枚ばい板いたで中なかを張り詰めはりつめたその大きなおおきな唐とう机つくえは、百ひゃく円えん以上いじょうもする見事みごとなものであった。
かつて親類しんるいの破産者はさんしゃからそれを借金しゃっきんの抵当ていとうに取っとった細君さいくんの父ちちは、同じおなじ運命うんめいの下したに、早晩そうばんそれをまた誰だれかに持っもって行かいかれなければならなかったのである。
「縁起えんぎはどうでも好いよいが、そんな高価いたかいものを買うかう勇気ゆうきは当分とうぶんこっちにもなさそうだ」 健三けんぞうは苦笑くしょうしながら烟草たばこを吹かしふかした。
「そういえば貴夫たかお、あの人ひとに遣るやる御ご金きんを比田ひでんさんから借りかりなくって」 細君さいくんは藪やぶから棒ぼうにこんな事ことをいった。
「比田ひでんにそれだけの余裕よゆうがあるのかい」「あるのよ。比田ひでんさんは今年ことし限りかぎり株式かぶしきの方ほうをやめられたんですって」 健三けんぞうはこの新らしいあたらしい報知ほうちを当然とうぜんとも思っおもった。
また異様いようにも感じかんじた。
「もう老朽ろうきゅうだろうからね。しかしやめられれば、なお困るこまるだろうじゃないか」「追っおってはどうなるか知れしれないでしょうけれども、差当りさしあたり困るこまるような事ことはないんですって」 彼かれの辞職じしょくは自分じぶんを引き立てひきたててくれた重役じゅうやくの一人ひとりが、社しゃと関係かんけいを絶ったった事ことに起因きいんしているらしかった。
けれども永年勤続えいねんきんぞくして来きた結果けっか、権利けんりとして彼かれの手てに入るはいるべき金きんは、一時いちじ彼かれの経済けいざい状態じょうたいを潤おすうるおすには充分じゅうぶんであった。
「居い食しょくをしていても詰らなじらないから、確かたしかな人ひとがあったら貸しかしたいからどうか世話せわをしてくれって、今日きょう頼またのまれて来きたんです」「へえ、とうとう金貸かねかしを遣るやるようになったのかい」 健三けんぞうは平生へいぜいから島田しまだの因業いんごうを嗤っわらっていた比田ひでんだの姉あねだのを憶い浮べおもいうかべた。
自分じぶんたちの境遇きょうぐうが変るかわると、昨日きのうまで軽蔑けいべつしていた人ひとの真似まねをして恬として気きの付かつかない姉あね夫婦ふうふは、反省はんせいの足りたりない点てんにおいてむしろ子供こども染みしみていた。
「どうせ高利こうりなんだろう」 細君さいくんは高利こうりだか低利ていりだかまるで知らしらなかった。
「何なんでも旨くうまく運転うんてんすると月つきに三さん、四十よんじゅう円えんの利子りしになるから、それを二人ふたりの小遣こづかいにして、これから先さき細くほそく長くながく遣っつかって行くいくつもりだって、御ご姉あねえさんがそう仰あおぐゃいましたよ」 健三けんぞうは姉あねのいう利子りしの高こうから胸算用むねさんようで元金がんきんを勘定かんじょうして見みた。
「悪くわるくすると、またみんな損っそこなっちまうだけだ。それよりそう慾よく張ちょうないで、銀行ぎんこうへでも預けあずけて置いおいて相当そうとうの利子りしを取るとる方ほうが安全あんぜんだがな」「だから確かくな人ひとに貸しかしたいっていうんでしょう」「確かくな人ひとはそんな金きんは借りかりないさ。怖いこわいからね」「だけど普通ふつうの利子りしじゃ遣っつかって行けいけないんでしょう」「それじゃ己おのれだって借りるかりるのは厭いやださ」「御ご兄いにいさんも困っこまっていらしってよ」 比田ひでんは今後こんごの方針ほうしんを兄あにに打ち明けるうちあけると同時どうじに、先ずまずその手て始はじめとして、兄あにに金きんを借りかりてくれと頼んたのんだのだそうである。
「馬鹿ばかだな。金きんを借りかりてくれ、借りかりてくれって、こっちから頼むたのむ奴やつもないじゃないか。兄貴あにきだって金きんは欲しいほしいだろうが、そんな剣呑けんのんな思いおもいまでして借りるかりる必要ひつようもあるまいからね」 健三けんぞうは苦々しいにがにがしいうちにも滑稽こっけいを感じかんじた。
比田ひでんの手前勝手てまえかってな気性きしょうがこの一事いちじでも能くよく窺わうかがわれた。
それを傍そばで見みて澄ましすましている姉あねの料簡りょうけんも彼かれには不可思議ふかしぎであった。
血ちが続いつづいていても姉弟していという心持こころもちは全くまったくしなかった。
「御前ごぜん己おのれが借りるかりるとでもいったのかい」「そんな余計よけいな事こといやしません」
百ひゃく
利子りしの安いやすい高いたかいは別問題べつもんだいとして、比田ひでんから融通ゆうずうしてもらうという事ことが、健三けんぞうにはとても真面目まじめに考えかんがえられなかった。
彼かれは毎月まいつきいくらかずつの小遣こづかいを姉あねに送るおくる身分みぶんであった。
その姉あねの亭主ていしゅから今度こんどはこっちで金きんを借りるかりるとなると、矛盾むじゅんは誰だれの眼めにも映るうつる位くらい明白めいはくであった。
「辻褄つじつまの合わあわない事ことは世の中よのなかにいくらでもあるにはあるが」 こういい掛けかけた彼かれは突然とつぜん笑いわらいたくなった。
「何なんだか変へんだな。考えるかんがえると可笑しくおかしくなるだけだ。まあ好いよいや己がおのれが借りかりて遣らやらなくってもどうにかなるんだろうから」「ええ、そりゃ借手かりてはいくらでもあるんでしょう。現にげんにもう一口ひとくちばかり貸しかしたんですって。彼所かしこいらの待合まちあいか何なんかへ」 待合まちあいという言葉ことばが健三けんぞうの耳みみになおさら滑稽こっけいに響いひびいた。
彼かれは我われを忘れわすれたように笑っわらった。
細君さいくんにも夫おっとの姉あねの亭主ていしゅが待合まちあいへ小金こがねを貸しかしたという事実じじつが不調和ふちょうわに見えみえた。
けれども彼女かのじょはそれを夫おっとの名前なまえに関わるかかわると思うおもうような性質せいしつではなかった。
ただ夫おっとと一所いっしょになって面白おもしろそうに笑っわらっていた。
滑稽こっけいの感じかんじが去っさった後あとで反動はんどうが来きた。
健三けんぞうは比田ひでんについて不愉快ふゆかいな昔むかしまで思い出さおもいださせられた。
それは彼かれの二に番目ばんめの兄あにが病死びょうしする前後ぜんごの事ことであった。
病人びょうにんは平生へいぜいから自分じぶんの持っもっている両蓋りょうぶたの銀側ぎんがわ時計とけいを弟おとうとの健三けんぞうに見せみせて、「これを今いまに御前ごぜんに遣ろうやろう」と殆んどほとんど口癖くちぐせのようにいっていた。
時計とけいを所有しょゆうした経験けいけんのない若いわかい健三けんぞうは、欲しくほしくて堪らたまらないその装飾品そうしょくひんが、何時なんじになったら自分じぶんの帯おびに巻き付けまきつけられるのだろうかと想像そうぞうして、暗にあんに未来みらいの得意とくいを予算よさんに組み込みくみこみながら、一いち、二にカ月かげつを暮しくらした。
病人びょうにんが死んしんだ時じ、彼かれの細君さいくんは夫おっとの言葉ことばを尊重そんちょうして、その時計とけいを健三けんぞうに遣るやるとみんなの前まえで明言めいげんした。
一いちつは亡くなっなくなった人ひとの記念きねんとも見るみるべきこの品物しなものは、不幸ふこうにして質しつに入れいれてあった。
無論むろん健三けんぞうにはそれを受じゅ出すだす力ちからがなかった。
彼かれは義姉ぎしから所有権しょゆうけんだけを譲り渡さゆずりわたされたと同様どうようで、肝心かんじんの時計とけいには手ても触れるふれる事ことが出来できずに幾いく日ひかを過ごしすごした。
或ある日ひ皆みななが一いちつ所ところに落合っおちあった。
するとその席上せきじょうで比田ひでんが問題もんだいの時計とけいを懐中かいちゅうから出しだした。
時計とけいは見違えるみちがえるように磨かみがかれて光っひかりっていた。
新らしいあたらしい紐ひもに珊瑚樹さんごじゅの珠たまが装飾そうしょくとして付け加えつけくわえられた。
彼かれはそれを勿体もったいらしく兄あにの前まえに置いおいた。
「それではこれは貴方あなたに上げるあげる事ことにしますから」 傍そばにいた姉あねも殆んどほとんど比田ひでんと同じおなじような口上こうじょうを述べのべた。
「どうも色々いろいろ御ご手数てすうを掛けかけまして、有難うありがとう。じゃ頂戴ちょうだいします」 兄あには礼れいをいってそれを受取っうけとった。
健三けんぞうは黙っだまって三さん人ひとの様子ようすを見みていた。
三さん人ひとは殆んどほとんど彼かれの其その所ところにいる事ことさえ眼中がんちゅうに置いおいていなかった。
しまいまで一言ひとことも発しはっしなかった彼かれは、腹はらの中なかで甚しいはなはだしい侮辱ぶじょくを受けうけたような心持こころもちがした。
しかし彼かれらは平気へいきであった。
彼かれらの仕打しうちを仇敵きゅうてきの如くごとく憎んにくんだ健三けんぞうも、何故なぜ彼かれらがそんな面めん中なかがましい事ことをしたのか、どうしても考え出せかんがえだせなかった。
彼かれは自分じぶんの権利けんりも主張しゅちょうしなかった。
また説明せつめいも求めもとめなかった。
ただ無言むごんのうちに愛想あいそを尽かしつかした。
そうして親身しんみの兄あにや姉あねに対したいして愛想あいそを尽かすつかす事ことが、彼かれらに取っとって一番いちばん非道いひどい刑罰けいばつに違いなかろうと判断はんだんした。
「そんな事ことをまだ覚えおぼえていらっしゃるんですか。貴夫たかおも随分ずいぶん執念しゅうねん深いぶかいわね。御ご兄いにいさんが御ご聴きききになったらさぞ御ご驚ろきおどろきなさるでしょう」 細君さいくんは健三けんぞうの顔かおを見みて暗にあんにその気色けしきを伺っうかがった。
健三けんぞうはちっとも動かうごかなかった。
「執念しゅうねん深かろうふかかろうが、男おとこらしくなかろうが、事実じじつは事実じじつだよ。よし事実じじつに棒ぼうを引いひいたって、感情かんじょうを打ち殺すうちころす訳わけには行かいかないからね。その時じの感情かんじょうはまだ生きいきているんだ。生きいきて今いまでもどこかで働いはたらいているんだ。己おのれが殺しころしても天てんが復活ふっかつさせるから何になんにもならない」「御ご金きんなんか借りかりさえしなきゃあ、それで好いよいじゃありませんか」 こういった細君さいくんの胸むねには、比田ひでんたちばかりでなく、自分じぶんの事ことも、自分じぶんの生家せいかの事ことも勘定かんじょうに入れいれてあった。
百一ひゃくいち
歳としが改あらためたまった時じ、健三けんぞうは一夜いちやのうちに変っかわった世間せけんの外観がいかんを、気きのなさそうな顔かおをして眺めながめた。
「すべて余計よけいな事ことだ。人間にんげんの小刀しょうとう細工さいくだ。」 実際じっさい彼かれの周囲しゅういには大晦日おおみそかも元日がんじつもなかった。
悉くことごとく前の年まえのとしの引続きひきつづきばかりであった。
彼かれは人ひとの顔かおを見みて御ご目出とうめでとうというのさえ厭いやになった。
そんな殊更ことさらな言葉ことばを口くちにするよりも誰だれにも会わあわずに黙っだまっている方ほうがまだ心持こころもちが好かっよかった。
彼かれは普通ふつうの服装ふくそうをしてぶらりと表ひょうへ出でた。
なるべく新年しんねんの空気くうきの通わかよわない方ほうへ足あしを向けむけた。
冬ふゆ木立こだちと荒こうた畠はたけ、藁葺わらぶき屋根やねと細いほそい流りゅう、そんなものが盆ぼん槍やりした彼かれの眼めに入っはいった。
しかし彼かれはこの可憐かれんな自然しぜんに対したいしてももう感興かんきょうを失っうしなっていた。
幸いさいわい天気てんきは穏かおだやかであった。
空風そらかぜの吹きふき捲らまくらない野面のづらには春はるに似にた靄もやが遠くとおく懸っかかっていた。
その間まから落ちるおちる薄いうすい日影ひかげもおっとりと彼かれの身体しんたいを包んつつんだ。
彼かれは人ひともなく路みちもない所ところへわざわざ迷い込んまよいこんだ。
そうして融けとけかかった霜しもで泥どろだらけになった靴くつの重いおもいのに気きが付いついて、しばらく足あしを動かさうごかさずにいた。
彼かれは一いちつ所ところに佇立ちょりつんでいる間まに、気分きぶんを紛らそうまぎらそうとして絵えを描いえがいた。
しかしその絵えがあまり不味いまじいので、写生しゃせいはかえって彼かれを自暴じぼうにするだけであった。
彼かれは重たいおもたい足あしを引き摺っひきずってまた宅たくへ帰っかえって来きた。
途中とちゅうで島田しまだに遣るやるべき金きんの事ことを考えかんがえて、ふと何なんか書いかいて見ようみようという気きを起しおこした。
赤いあかい印しるし気きで汚ないきたない半紙はんしをなすくる業ごうは漸くようやく済んすんだ。
新らしいあたらしい仕事しごとの始まるはじまるまでにはまだ十じゅう日ひの間まがあった。
彼かれは
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