道草

14/14

その一枚には百円受取った事と、向後一切の関係を断つという事が古風な文句で書いてあった。手蹟は誰のとも判断が付かなかったが、島田の印は確かに捺してあった。

第 14 章
健三けんぞうは「しかる上うえは後日ごじつに至りいたり」とか、「后こう日ひのため誓約せいやく件けんの如しごとし」とかいう言葉ことばを馬鹿ばかにしながら黙読もくどくした。
「どうも御ご手数てすうでした、ありがとう」「こういう証文しょうもんさえ入れいれさせて置けおけばもう大丈夫だいじょうぶだからね。それでないと何時なんじまで蒼蠅さばえく付けつけ纏わらまつわられるか分っわかったもんじゃないよ。ねえ長ながさん」「そうさ。これで漸くようやく一安心いちあんしん出来できたようなものだ」 比田ひでんと兄あにの会話かいわは少しすこしの感銘かんめいも健三けんぞうに与えあたえなかった。
彼かれには遣らやらないでもいい百ひゃく円えんを好意的こういてきに遣っつかったのだという気きばかり強くつよく起っおこった。
面倒めんどうを避けるさけるために金きんの力ちからを藉りかりたとはどうしても思えおもえなかった。
彼かれは無言むごんのままもう一いち枚ばいの書付かきつけを開いひらいて、其その所ところに自分じぶんが復籍ふくせきする時じ島田しまだに送っおくった文言もんごんを見出しみだした。
「私儀しぎ今般こんぱん貴家きか御ご離縁りえんに相そう成せい、実父じっぷより養育よういく料りょう差出さしだし候こうについては、今後こんごとも互たがいに不実ふじつ不人情ふにんじょうに相そう成せいざるよう心掛こころがけたくと存あり候こう」 健三けんぞうには意味いみも論理ろんりも能くよく解らわからなかった。
「それを売り付けよううりつけようというのが向うむこうの腹はらさね」「つまり百ひゃく円えんで買っかって遣っつかったようなものだね」 比田ひでんと兄あにはまた話し合っはなしあった。
健三けんぞうはその間まに言葉ことばを挟むはさむのさえ厭いやだった。
二人ふたりが帰っかえったあとで、細君さいくんは夫おっとの前まえに置いおいてある二に通つうの書付かきつけを開いひらいて見みた。
「こっちの方ほうは虫むしが食っしょくってますね」「反故ほごだよ。何になんにもならないもんだ。破いやぶいて紙かみ屑籠くずかごへ入れいれてしまえ」「わざわざ破かはかなくっても好いよいでしょう」 健三けんぞうはそのまま席せきを立ったった。
再びふたたび顔かおを合わせあわせた時じ、彼かれは細君さいくんに向っむかって訊いきいた。
――「先刻せんこくの書付かきつけはどうしたい」「箪笥たんすの抽斗ひきだしにしまって置きおきました。」 彼女かのじょは大事だいじなものでも保存ほぞんするような口くち振ぶりでこう答えこたえた。
健三けんぞうは彼女かのじょの所ところ置おけを咎めとがめもしない代りかわりに、賞めるほめる気きにもならなかった。
「まあ好かっよかった。あの人ひとだけはこれで片かたが付いついて」 細君さいくんは安心あんしんしたといわぬばかりの表情ひょうじょうを見せみせた。
「何なんが片付いかたづいたって」「でも、ああして証文しょうもんを取っとって置けおけば、それで大丈夫だいじょうぶでしょう。もう来るくる事ことも出来できないし、来きたって構い付けかまいつけなければそれまでじゃありませんか」「そりゃ今までいままでだって同じおなじ事ことだよ。そうしようと思えおもえば何時なんじでも出来できたんだから」「だけど、ああして書いかいたものをこっちの手てに入れいれて置くおくと大変たいへん違いちがいますわ」「安心あんしんするかね」「ええ安心あんしんよ。すっかり片付いかたづいちゃったんですもの」「まだなかなか片付きゃかたづきゃしないよ」「どうして」「片付いかたづいたのは上部じょうぶだけじゃないか。だから御前ごぜんは形式けいしき張っちょうった女おんなだというんだ」 細君さいくんの顔かおには不審ふしんと反抗はんこうの色いろが見えみえた。
「じゃどうすれば本当ほんとうに片付くかたづくんです」「世の中よのなかに片付くかたづくなんてものは殆んどほとんどありゃしない。一遍いちぺん起っおこった事ことは何時なんじまでも続くつづくのさ。ただ色々いろいろな形かたちに変るかわるから他ほかにも自分じぶんにも解らわからなくなるだけの事ことさ」 健三けんぞうの口調くちょうは吐き出すはきだすように苦々しかっにがにがしかった。
細君さいくんは黙っだまって赤ん坊あかんぼうを抱き上げだきあげた。
「おお好いよい子こだ好いよい子こだ。御ご父さまちちさまの仰あおぐゃる事ことは何なんだかちっとも分りゃわかりゃしないわね」 細君さいくんはこういいいい、幾度いくどか赤いあかい頬ほおに接吻せっぷんした。
14/14