虞美人草

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一

第 1 章
「随分ずいぶん遠いとおいね。元来がんらいどこから登るのぼるのだ」と一人ひとりが手巾しゅきんで額がくを拭きふきながら立ち留ったちどまった。
「どこか己おのれにも判然はんぜんせんがね。どこから登っのぼったって、同じおなじ事ことだ。山やまはあすこに見えみえているんだから」と顔かおも体躯たいくも四角しかくに出来上っできあがった男おとこが無む雑作ぞうさに答えこたえた。
反はんを打っうった中折れなかおれの茶ちゃの廂ひさしの下したから、深きふかき眉まゆを動かしうごかしながら、見上げるみあげる頭あたまの上うえには、微かすか茫ぼうなる春はるの空そらの、底そこまでも藍あいを漂わしただよわして、吹けふけば揺くわななくかと怪しまあやしまるるほど柔らかやわらかき中なかに屹然きつぜんとして、どうする気きかと云わいわぬばかりに叡山えいざんが聳えそびえている。
「恐ろしいおそろしい頑固がんこな山やまだなあ」と四角しかくな胸むねを突き出しつきだして、ちょっと桜さくらの杖つえに身みを倚たせていたが、「あんなに見えるみえるんだから、訳わけはない」と今度こんどは叡山えいざんを軽蔑けいべつしたような事ことを云ういう。
「あんなに見えるみえるって、見えるみえるのは今朝けさ宿やどを立つたつ時じから見えみえている。京都きょうとへ来きて叡山えいざんが見えみえなくなっちゃ大変たいへんだ」「だから見えみえてるから、好いよいじゃないか。余計よけいな事ことを云わいわずに歩行いあるいていれば自然しぜんと山やまの上うえへ出るでるさ」 細長いほそながい男おとこは返事へんじもせずに、帽子ぼうしを脱いぬいで、胸むねのあたりを煽いあおいでいる。
日頃ひごろからなる廂ひさしに遮ぎらさえぎられて、菜の花なのはなを染め出すそめだす春はるの強きつよき日ひを受けうけぬ広きひろき額がくだけは目立っめだって蒼白いあおじろい。
「おい、今いまから休息きゅうそくしちゃ大変たいへんだ、さあ早くはやく行こういこう」 相手あいては汗あせばんだ額がくを、思うおもうまま春風しゅんぷうに曝しさらして、粘り着いねばりついた黒髪くろかみの、逆ぎゃくに飛ばとばぬを恨むうらむごとくに、手巾しゅきんを片手かたてに握っにぎって、額がくとも云わいわず、顔かおとも云わいわず、頸くび窩かの尽じんくるあたりまで、くちゃくちゃに掻きかき廻しまわした。
促がさうながされた事ことには頓着とんちゃくする気色けしきもなく、「君きみはあの山やまを頑固がんこだと云っいったね」と聞くきく。
「うむ、動かうごかばこそと云っいったような按排あんばいじゃないか。こう云ういう風かぜに」と四角しかくな肩かたをいとど四角しかくにして、空いむなしいた方ほうの手てに栄螺さざえの親類しんるいをつくりながら、いささか我われも動かうごかばこその姿勢しせいを見せるみせる。
「動かうごかばこそと云ういうのは、動けるうごけるのに動かうごかない時じの事ことを云ういうのだろう」と細長いほそながい眼めの角かくから斜めななめに相手あいてを見下しみくだした。
「そうさ」「あの山やまは動けるうごけるかい」「アハハハあはははまた始まっはじまった。君きみは余計よけいな事ことを云いいいに生れうまれて来きた男おとこだ。さあ行くいくぜ」と太いふとい桜さくらの洋杖すてっきを、ひゅうと鳴らさならさぬばかりに、肩かたの上うえまで上げるあげるや否いなや、歩行きあるき出しだした。
瘠せやせた男おとこも手巾しゅきんを袂たもとに収めおさめて歩行きあるき出すだす。
「今日きょうは山端やまはたの平八へいはち茶屋ちゃやで一日いちにち遊んあそんだ方ほうがよかった。今いまから登っのぼったって中途半端ちゅうとはんぱになるばかりだ。元来がんらい頂上ちょうじょうまで何なん里さとあるのかい」「頂上ちょうじょうまで一いち里さと半はんだ」「どこから」「どこからか分るわかるものか、たかの知れしれた京都きょうとの山やまだ」 瘠せやせた男おとこは何になんにも云わいわずににやにやと笑っわらった。
四角しかくな男おとこは威勢いせいよく喋舌りしゃべり続けるつづける。
「君きみのように計画けいかくばかりしていっこう実行じっこうしない男おとこと旅行りょこうすると、どこもかしこも見み損っそこなってしまう。連れんこそいい迷惑めいわくだ」「君きみのようにむちゃに飛び出さとびだされても相手あいては迷惑めいわくだ。第だい一いち、人ひとを連れ出しつれだして置きおきながら、どこから登っのぼって、どこを見みて、どこへ下りるおりるのか見当けんとうがつかんじゃないか」「なんの、これしきの事ことに計画けいかくも何なんもいったものか、たかがあの山やまじゃないか」「あの山やまでもいいが、あの山やまは高さたかさ何千なんぜん尺さしだか知っしっているかい」「知るしるものかね。そんな下らしたらん事ことを。――君きみ知っしってるのか」「僕ぼくも知らしらんがね」「それ見るみるがいい」「何なんもそんなに威張らいばらなくてもいい。君きみだって知らしらんのだから。山やまの高さたかさは御ご互たがいに知らしらんとしても、山やまの上うえで何なんを見物けんぶつして何時間なんじかんかかるぐらいは多少たしょう確めたしかめて来きなくっちゃ、予定よてい通りとおりに日程にっていは進行しんこうするものじゃない」「進行しんこうしなければやり直すやりなおすだけだ。君きみのように余計よけいな事ことを考えかんがえてるうちには何なん遍へんでもやり直しやりなおしが出来るできるよ」となおさっさと行くいく。
瘠せやせた男おとこは無言むごんのままあとに後れおくれてしまう。
春はるはものの句くになりやすき京きょうの町まちを、七なな条じょうから一条いちじょうまで横よこに貫ぬいつらぬいて、煙るけむる柳やなぎの間まから、温おんき水みず打つうつ白きしろき布ぬのを、高野川たかのかわの磧かわらに数えかぞえ尽くしつくして、長々ながながと北きたにうねる路みちを、おおかたは二に里さと余りあまりも来きたら、山やまは自からみずから左右さゆうに逼っせまって、脚下きゃっかに奔るはしる潺湲せんかんの響ひびきも、折れるおれるほどに曲るまがるほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴るなる。
山やまに入りいりて春はるは更けふけたるを、山やまを極めきわめたらば春はるはまだ残るのこる雪ゆきに寒かろうさむかろうと、見上げるみあげる峰みねの裾すそを縫うぬうて、暗きくらき陰かげに走るはしる一条いちじょうの路みちに、爪つめ上りのぼりなる向うむこうから大原女おはらめが来るくる。
牛うしが来るくる。
京きょうの春はるは牛うしの尿にょうの尽きつきざるほどに、長くながくかつ静かしずかである。
「おおい」と後れおくれた男おとこは立ち留りたちどまりながら、先きさきなる友ともを呼んよんだ。
おおいと云ういう声こえが白くしろく光るひかる路みちを、春風しゅんぷうに送らおくられながら、のそり閑かんと行きいき尽しつくして、萱かやばかりなる突き当りつきあたりの山やまにぶつかった時じ、一いち丁てい先きさきに動いうごいていた四角しかくな影かげははたと留っとめった。
瘠せやせた男おとこは、長いながい手てを肩かたより高くたかく伸しのして、返れかえれ返れかえれと二に度どほど揺っゆって見せるみせる。
桜さくらの杖つえが暖かあたたかき日ひを受けうけて、またぴかりと肩かたの先さきに光っひかりったと思うおもう間まもなく、彼かれは帰っかえって来きた。
「何なんだい」「何なんだいじゃない。ここから登るのぼるんだ」「こんな所ところから登るのぼるのか。少しすこし妙みょうだぜ。こんな丸木橋まるきはしを渡るわたるのは妙みょうだぜ」「君きみ見みたようにむやみに歩行いあるいていると若狭わかさの国くにへ出でてしまうよ」「若狭わかさへ出でても構わかまわんが、いったい君きみは地理ちりを心得こころえているのか」「今いま大原女おはらめに聴いきいて見みた。この橋はしを渡っわたって、あの細いほそい道みちを向むかいへ一いち里さと上がるあがると出るでるそうだ」「出るでるとはどこへ出るでるのだい」「叡山えいざんの上うえへさ」「叡山えいざんの上うえのどこへ出るでるだろう」「そりゃ知らしらない。登っのぼって見みなければ分らわからないさ」「ハハハハはははは君きみのような計画けいかく好きすきでもそこまでは聞かきかなかったと見えるみえるね。千慮せんりょの一いち失しつか。それじゃ、仰せおおせに従っしたがって渡るわたるとするかな。君きみいよいよ登りのぼりだぜ。どうだ、歩行けるあるけるか」「歩行けあるけないたって、仕方しかたがない」「なるほど哲学者てつがくしゃだけあらあ。それで、もう少しすこし判然はんぜんすると一人前いちにんまえだがな」「何なんでも好いよいから、先さきへ行くいくが好いよい」「あとから尾おいて来るくるかい」「いいから行くいくが好いよい」「尾おいて来るくる気きなら行くいくさ」 渓けい川かわに危うくあやうく渡せるわたせる一本橋いちぽんはしを前後ぜんごして横切っよこぎった二人ふたりの影かげは、草山くさやまの草くさ繁きしげき中なかを、辛うじてかろうじて一縷いちるの細ほそき力ちからに頂きいただきへ抜けるぬける小径しょうけいのなかに隠れかくれた。
草くさは固よりもとより去年きょねんの霜しもを持ち越しもちこしたまま立枯たちがれの姿すがたであるが、薄くうすく溶けとけた雲くもを透しとおして真上まうえから射し込むさしこむ日影ひかげに蒸し返さむしかえされて、両頬りょうほおのほてるばかりに暖かいあたたかい。
「おい、君きみ、甲野こうのさん」と振り返るふりかえる。
甲野こうのさんは細いほそい山道さんどうに適当てきとうした細いほそい体躯たいくを真直まっすぐに立てたてたまま、下したを向いむかいて「うん」と答えこたえた。
「そろそろ降参こうさんしかけたな。弱いよわい男おとこだ。あの下したを見みたまえ」と例れいの桜さくらの杖つえを左ひだりから右みぎへかけて一いち振りふりに振り廻すふりまわす。
振り廻しふりまわした杖つえの先さきの尽じんくる、遥かはるか向うむこうには、白銀はくぎんの一筋ひとすじに眼めを射るいる高野川たかのかわを閃めかしひらめかして、左右さゆうは燃えもえ崩ほうるるまでに濃くこく咲いさいた菜の花なのはなをべっとりと擦りすり着けつけた背景はいけいには薄紫うすむらさきの遠山えんざんを縹緲ひょうびょうのあなたに描き出しえがきだしてある。
「なるほど好いよい景色けしきだ」と甲野こうのさんは例れいの長身ちょうしんを捩じ向けねじむけて、際どくきわどく六十ろくじゅう度どの勾配こうばいに擦り落ちすりおちもせず立ち留ったちどまっている。
「いつの間まに、こんなに高くたかく登っのぼったんだろう。早いはやいものだな」と宗近むねちか君きみが云ういう。
宗近むねちか君きみは四角しかくな男おとこの名なである。
「知らしらぬ間まに堕落だらくしたり、知らしらぬ間まに悟っさとったりするのと同じおなじようなものだろう」「昼ひるが夜よるになったり、春はるが夏なつになったり、若いわかいものが年寄りとしよりになったり、するのと同じおなじ事ことかな。それなら、おれも疾くとくに心得こころえている」「ハハハハははははそれで君きみは幾いく歳としだったかな」「おれの幾いく歳としより、君きみは幾いく歳としだ」「僕ぼくは分かっわかってるさ」「僕ぼくだって分かっわかってるさ」「ハハハハははははやっぱり隠すかくす了見りょうけんだと見えるみえる」「隠すかくすものか、ちゃんと分っわかってるよ」「だから、幾いく歳としなんだよ」「君きみから先さきへ云えいえ」と宗近むねちか君きみはなかなか動じどうじない。
「僕ぼくは二十七にじゅうななさ」と甲野こうの君きみは雑作ぞうさもなく言っいって退けるしりぞける。
「そうか、それじゃ、僕ぼくも二十八にじゅうはちだ」「だいぶ年ねんを取っとったものだね」「冗談じょうだんを言うゆうな。たった一いちつしか違わちがわんじゃないか」「だから御ご互たがいにさ。御ご互たがいに年ねんを取っとったと云ういうんだ」「うん御ご互たがいにか、御ご互たがいなら勘弁かんべんするが、おれだけじゃ……」「聞き捨てききずてにならんか。そう気きにするだけまだ若いわかいところもあるようだ」「何なんだ坂さかの途中とちゅうで人ひとを馬鹿ばかにするな」「そら、坂さかの途中とちゅうで邪魔じゃまになる。ちょっと退いしりぞいてやれ」 百ひゃく折れおれ千せん折れおれ、五間ごけんとは直じかに続かつづかぬ坂道さかみちを、呑気のんきな顔かおの女おんなが、ごめんやすと下りくだりて来るくる。
身の丈みのたけに余るあまる粗朶そだの大束だいそくを、緑みどりり洩るもる濃こき髪かみの上うえに圧えおさえ付けつけて、手ても懸けかけずに戴きいただきながら、宗近むねちか君きみの横よこを擦り抜けるすりぬける。
生い茂るおいしげる立ち枯れたちがれの萱かやをごそつかせた後ろ姿うしろすがたの眼めにつくは、目め暗あん縞しまの黒くろきが中なかを斜しゃに抜けぬけた赤襷あかだすきである。
一いち里さとを隔てへだてても、そこと指すさす指ゆびの先さきに、引いんっ着いついて見えるみえるほどの藁葺わらぶきは、この女おんなの家いえでもあろう。
天武てんむ天皇てんのうの落ちおちたまえる昔むかしのままに、棚引くたなびく霞かすみは長しながしえに八瀬やせの山里やまざとを封じふうじて長閑のどかである。
「この辺へんの女おんなはみんな奇麗きれいだな。感心かんしんだ。何なんだか画がのようだ」と宗近むねちか君きみが云ういう。
「あれが大原女おはらめなんだろう」「なに八瀬やせ女おんなだ」「八瀬やせ女おんなと云ういうのは聞いきいた事ことがないぜ」「なくっても八瀬やせの女おんなに違いない。嘘うそだと思うおもうなら今度こんど逢っあったら聞いきいてみよう」「誰だれも嘘うそだと云やいやしない。しかしあんな女おんなを総称そうしょうして大原女おはらめと云ういうんだろうじゃないか」「きっとそうか、受合ううけあうか」「そうする方ほうが詩的してきでいい。何なんとなく雅みやびでいい」「じゃ当分とうぶん雅号がごうとして用いもちいてやるかな」「雅号がごうは好いよいよ。世の中よのなかにはいろいろな雅号がごうがあるからな。立憲りっけん政体せいたいだの、万まん有神ゆうしん教きょうだの、忠ただし、信しん、孝こう、悌てい、だのってさまざまな奴やつがあるから」「なるほど、蕎麦屋そばやに藪やぶがたくさん出来できて、牛肉ぎゅうにく屋やがみんないろはになるのもその格かくだね」「そうさ、御ご互たがいに学士がくしを名乗っなのってるのも同じおなじ事ことだ」「つまらない。そんな事ことに帰着きちゃくするなら雅号がごうは廃せはいせばよかった」「これから君きみは外交官がいこうかんの雅号がごうを取るとるんだろう」「ハハハハははははあの雅号がごうはなかなか取れとれない。試験官しけんかんに雅味がみのある奴やつがいないせいだな」「もう何なん遍へん落第らくだいしたかね。三さん遍へんか」「馬鹿ばかを申せもうせ」「じゃ二に遍へんか」「なんだ、ちゃんと知っしってる癖くせに。はばかりながら落第らくだいはこれでたった一いち遍へんだ」「一度いちど受けうけて一いち遍へんなんだから、これからさき……」「何なん遍へんやるか分らわからないとなると、おれも少々しょうしょう心細いこころぼそい。ハハハハはははは。時じに僕ぼくの雅号がごうはそれでいいが、君きみは全体ぜんたい何なんをするんだい」「僕ぼくか。僕ぼくは叡山えいざんへ登るのぼるのさ。――おい君きみ、そう後足あとあしで石いしを転がしころがしてはいかん。後あとから尾おいて行くいくものが剣呑けんのんだ。――ああ随分ずいぶんくたびれた。僕ぼくはここで休むやすむよ」と甲野こうのさんは、がさりと音おとを立てたてて枯かれ薄うすの中なかへ仰向けあおむけに倒れたおれた。
「おやもう落第らくだいか。口くちでこそいろいろな雅号がごうを唱えるとなえるが、山登りやまのぼりはから駄目だめだね」と宗近むねちか君きみは例れいの桜さくらの杖つえで、甲野こうのさんの寝ねている頭あたまの先さきをこつこつ敲くたたく。
敲くたたくたびに杖つえの先さきが薄うすを薙ぎ倒しなぎたおしてがさがさ音おとを立てるたてる。
「さあ起きおきた。もう少しすこしで頂上ちょうじょうだ。どうせ休むやすむなら及第きゅうだいしてから、ゆっくり休もうやすもう。さあ起きろおきろ」「うん」「うんか、おやおや」「反吐へどが出でそうだ」「反吐へどを吐いはいて落第らくだいするのか、おやおや。じゃ仕方しかたがない。おれも一いちと休息きゅうそく仕ろうつかまつろう」 甲野こうのさんは黒いくろい頭あたまを、黄きばんだ草くさの間まに押し込んおしこんで、帽子ぼうしも傘かさも坂道さかみちに転がしころがしたまま、仰向けあおむけに空そらを眺めながめている。
蒼白くあおじろく面高めんだかに削りけずり成せるなせる彼かれの顔かおと、無辺際むへんざいに浮き出すうきだす薄うすき雲くもの※然さと消えきえて入るはいる大いなるおおいなる天上界てんじょうかいの間まには、一いち塵ごみの眼めを遮ぎるさえぎるものもない。
反吐へどは地面じめんの上うえへ吐くはくものである。
大空おおぞらに向うむこう彼かれの眼中がんちゅうには、地ちを離れはなれ、俗ぞくを離れはなれ、古今ここんの世よを離れはなれて万里ばんりの天てんがあるのみである。
宗近むねちか君きみは米沢よねざわ絣かすりの羽織はおりを脱いぬいで、袖畳みそでだたみにしてちょっと肩かたの上うえへ乗せのせたが、また思い返しおもいかえして、今度こんどは胸むねの中なかから両手りょうてをむずと出しだして、うんと云ういう間まに諸肌もろはだを脱いぬいだ。
下したから袖そで無むが露われるあらわれる。
袖そで無むの裏うらから、もじゃもじゃした狐きつねの皮かわが食み出しはみだしている。
これは支那しなへ行っいった友人ゆうじんの贈り物おくりものとして君きみが大事だいじの袖そで無むである。
千せん羊ひつじの皮かわは一いち狐きつねの腋わきにしかずと云っいって、君きみはいつでもこの袖そで無むを一いち着きしている。
その癖くせ裏うらに着けつけた狐きつねの皮かわは斑ぶちにほうけて、むやみに脱落だつらくするところをもって見るみると、何なんでもよほど性せいの悪いわるい野良のら狐きつねに違いない。
「御ご山やまへ御ご登りのぼりやすのどすか、案内あんないしまほうか、ホホホほほほ妙みょうな所ところに寝ねていやはる」とまた目め暗あん縞しまが下りくだりて来るくる。
「おい、甲野こうのさん。妙みょうな所ところに寝ねていやはるとさ。女おんなにまで馬鹿ばかにされるぜ。好いよい加減かげんに起きおきてあるこうじゃないか」「女おんなは人ひとを馬鹿ばかにするもんだ」と甲野こうのさんは依然いぜんとして天てんを眺めながめている。
「そう泰然たいぜんと尻しりを据えすえちゃ困るこまるな。まだ反吐へどを吐きはきそうかい」「動けうごけば吐くはく」「厄介やっかいだなあ」「すべての反吐へどは動くうごくから吐くはくのだよ。俗界ぞっかい万斛ばんこくの反吐へど皆みな動どうの一いち字じより来るくる」「何なんだ本当ほんとうに吐くはくつもりじゃないのか。つまらない。僕ぼくはまたいよいよとなったら、君きみを担いにないで麓ふもとまで下りくだりなけりゃならんかと思っおもって、内心ないしん少々しょうしょう辟易へきえきしていたんだ」「余計よけいな御世話ごせわだ。誰だれも頼みたのみもしないのに」「君きみは愛嬌あいきょうのない男おとこだね」「君きみは愛嬌あいきょうの定義ていぎを知っしってるかい」「何なんのかのと云っいって、一いち分ぶんでも余計よけい動かうごかずにいようと云ういう算段さんだんだな。怪しからあやしからん男おとこだ」「愛嬌あいきょうと云ういうのはね、――自分じぶんより強いつよいものを斃すたおす柔かいやわらかい武器ぶきだよ」「それじゃ無愛想むあいそは自分じぶんより弱いよわいものを、扱き使うこきつかう鋭利えいりなる武器ぶきだろう」「そんな論理ろんりがあるものか。動こううごこうとすればこそ愛嬌あいきょうも必要ひつようになる。動けうごけば反吐へどを吐くはくと知っしった人間にんげんに愛嬌あいきょうが入るはいるものか」「いやに詭弁きべんを弄するろうするね。そんなら僕ぼくは御ご先さきへ御免ごめん蒙るこうむるぜ。いいか」「勝手にかってにするがいい」と甲野こうのさんはやっぱり空そらを眺めながめている。
宗近むねちか君きみは脱いぬいだ両袖りょうそでをぐるぐると腰こしへ巻き付けるまきつけると共ともに、毛脛けずねに纏わるまつわる竪縞たてじまの裾すそをぐいと端折っはしょって、同じくおなじく白しろ縮緬ちりめんの周囲しゅういに畳み込むたたみこむ。
最さい前袖まえそで畳たたみにした羽織はおりを桜さくらの杖つえの先さきへ引きひき懸けるかけるが早いはやいか「一いち剣けん天下てんかを行くいく」と遠慮えんりょのない声こえを出しだしながら、十じゅう歩あゆみに尽じんくる岨そわ路みちを飄然ひょうぜんとして左ひだりへ折れおれたぎり見えみえなくなった。
あとは静せいである。
静かしずかなる事こと定っさだまって、静かしずかなるうちに、わが一脈いちみゃくの命いのちを託するたくすると知っしった時じ、この大おお乾坤けんこんのいずくにか通うかよう、わが血潮ちしおは、粛々しゅくしゅくと動くうごくにもかかわらず、音おとなくして寂さび定ただし裏うらに形骸けいがいを土木どぼく視みして、しかも依稀いまれたる活気かっきを帯おびぶ。
生きいきてあらんほどの自覚じかくに、生きいきて受じゅくべき有耶無耶うやむやの累るいを捨てすてたるは、雲くもの岫を出ででで、空そらの朝な夕なあさなゆうなを変わるかわると同じくおなじく、すべての拘泥こうでいを超絶ちょうぜつしたる活気かっきである。
古今ここん来きを空しゅうくうしゅうして、東西とうざい位くらいを尽くしつくしたる世界せかいのほかなる世界せかいに片足かたあしを踏み込んふみこんでこそ――それでなければ化石かせきになりたい。
赤あかも吸いすい、青あおも吸いすい、黄きも紫むらさきも吸いすい尽くしつくして、元もとの五彩ごさいに還すかえす事ことを知らしらぬ真黒まっくろな化石かせきになりたい。
それでなければ死んしんで見みたい。
死しは万事ばんじの終おわりである。
また万事ばんじの始めはじめである。
時じを積んつんで日ひとなすとも、日ひを積んつんで月つきとなすとも、月つきを積んつんで年ねんとなすとも、詮ずるせんずるにすべてを積んつんで墓はかとなすに過ぎすぎぬ。
墓はかの此方側こちらがわなるすべてのいさくさは、肉にく一いち重じゅうの垣かきに隔てへだてられた因果いんがに、枯れかれ果てはてたる骸骨がいこつにいらぬ情けなさけの油あぶらを注しさして、要ようなき屍かばねに長夜じょうやの踊おどりをおどらしむる滑稽こっけいである。
遐なる心こころを持てるもてるものは、遐なる国くにをこそ慕えしたえ。
考えるかんがえるともなく考えかんがえた甲野こうの君きみはようやくに身みを起しおこした。
また歩行かほこうかねばならぬ。
見みたくもない叡山えいざんを見みて、いらざる豆まめの数々かずかずに、役やくにも立たたたぬ登山とざんの痕迹こんせきを、二三にさん日ひがほどは、苦くしき記念きねんと残さざんさねばならぬ。
苦くしき記念きねんが必要ひつようならば数えかぞえて白頭はくとうに至っいたって尽きつきぬほどある。
裂いさいて髄ずいにいって消えきえぬほどある。
いたずらに足あしの底そこに膨れ上るふくれあがる豆まめの十じゅうや二十にじゅう――と切り石きりいしの鋭するどどき上うえに半ばなかば掛けかけたる編み上げあみあげの踵かかとを見下ろすみおろす途端とたん、石いしはきりりと面めんを更さらえて、乗せのせかけた足あしをすわと云ういう間まに二に尺さしほど滑べらすべらした。
甲野こうのさんは「万里ばんりの道みちを見みず」と小声こごえに吟じぎんじながら、傘かさを力ちからに、岨そわ路みちを登り詰めるのぼりつめると、急きゅうに折れおれた胸突むなつき坂さかが、下したから来るくる人ひとを天てんに誘うさそう風情ふぜいで帽ぼうに逼っせまって立ったっている。
甲野こうのさんは真しん廂ひさしを煽っあおって坂さかの下したから真しん一いち文字もじに坂さかの尽きるつきる頂きいただきを見上げみあげた。
坂さかの尽きつきた頂きいただきから、淡あわきうちに限りなきかぎりなき春はるの色いろを漲ぎらみなぎらしたる果かもなき空そらを見上げみあげた。
甲野こうのさんはこの時じ「ただ万里ばんりの天てんを見るみる」と第だい二にの句くを、同じくおなじく小声こごえに歌っうたった。
草山くさやまを登り詰めのぼりつめて、雑木ぞうきの間まを四五しご段だん上るのぼると、急きゅうに肩かたから暗くくらくなって、踏むふむ靴くつの底そこが、湿っぽくしめっぽく思わおもわれる。
路みちは山の背やまのせを、西にしから東ひがしへ渡しわたして、たちまちのうちに草くさを失するしっするとすぐ森もりに移っうつったのである。
近江おうみの空そらを深くふかく色いろどるこの森もりの、動かうごかねば、その上うえの幹みきと、その上うえの枝えだが、幾いく重じゅう幾里いくさとに連なりつらなりて、昔むかししながらの翠みどりりを年ねんごとに黒くくろく畳むたたむと見えるみえる。
二百にひゃくの谷々たにを埋めうめ、三百さんびゃくの神輿みこしを埋めうめ、三千さんぜんの悪僧あくそうを埋めうめて、なお余りあまりある葉裏はうらに、三藐さんびょう三さん菩提ぼだいの仏ふつ達とおるを埋めうめ尽くしつくして、森々しんしんと半はん空そらに聳ゆるは、伝教でんぎょう大師だいし以来いらいの杉すぎである。
甲野こうのさんはただ一人ひとりこの杉すぎの下したを通るとおる。
右みぎよりし左ひだりよりして、行くいく人ひとを両手りょうてに遮ぎるさえぎる杉すぎの根ねは、土つちを穿ちうがち石いしを裂いさいて深くふかく地ち磐いわに食い入るくいいるのみか、余るあまる力ちからに、跳ね返しはねかえして暗きくらき道みちを、二に寸すんの高さたかさに段々だんだんと横切っよこぎっている。
登らのぼらんとする岩いわの梯子はしごに、自然しぜんの枕木まくらぎを敷いしいて、踏みふみ心地ここちよき幾いく級きゅうの階かいを、山霊さんれいの賜たまものと甲野こうのさんは息いきを切らしきらして上っのぼって行くいく。
行くいく路みちの杉すぎに逼っせまって、暗きくらきより洩るもるるがごとく這いはい出ずるいずる日影ひかげ蔓つるの、足あしに纏わるまつわるほどに繁きしげきを越せこせば、引かひかれたる蔓つるの長きながきを伝わっつたわって、手ても届かとどけかぬに、朽ちくちかかる歯朶しだの、風かぜなき昼ひるをふらふらと揺くわななく。
「ここだ、ここだ」と宗近むねちか君きみが急きゅうに頭あたまの上うえで天狗てんぐのような声こえを出すだす。
朽きゅう草くさの土つちとなるまで積みつみ古ふるるしたる上うえを、踏めふめば深しん靴くつを隠すかくすほどに踏みふみ答えこたえもなきに、甲野こうのさんはようやくの思おもうで、蝙蝠傘こうもりがさを力ちからに、天狗てんぐの座ざまで、登っのぼって行くいく。
「善哉ぜんざい善哉ぜんざい、われ汝なんじを待つまつ事ことここに久しひさしだ。全体ぜんたい何なんをぐずぐずしていたのだ」 甲野こうのさんはただああと云っいったばかりで、いきなり蝙蝠傘こうもりがさを放り出すほうりだすと、その上うえへどさりと尻しり持もちを突いついた。
「また反吐へどか、反吐へどを吐くはく前まえに、ちょっとあの景色けしきを見みなさい。あれを見るみるとせっかくの反吐へども残念ざんねんながら収まっおさまっちまう」と例れいの桜さくらの杖つえで、杉すぎの間まを指すさす。
天てんを封ずるふうずる老おい幹みきの亭々ていていと行儀ぎょうぎよく並ぶならぶ隙間すきまに、的まと※と近江おうみの湖みずうみが光っひかりった。
「なるほど」と甲野こうのさんは眸ひとみを凝らすこらす。
鏡かがみを延べのべたとばかりでは飽き足らあきたらぬ。
琵琶びわの銘めいある鏡かがみの明かあきらかなるを忌んいんで、叡山えいざんの天狗てんぐ共ともが、宵よいに偸んぬすんだ神酒しんしゅの酔よいに乗じじょうじて、曇れくもれる気息きそくを一いち面めんに吹き掛けふきかけたように――光るひかるものの底そこに沈んしずんだ上うえには、野のと山やまにはびこる陽炎かげろうを巨人きょじんの絵の具えのぐ皿さらにあつめて、ただ一いち刷すりに抹り付けつけた、瀲※たる春色しゅんしょくが、十じゅう里さとのほかに糢糊もこと棚引いたなびいている。
「なるほど」と甲野こうのさんはまた繰り返しくりかえした。
「なるほどだけか。君きみは何なんを見せみせてやっても嬉しうれしがらない男おとこだね」「見せみせてやるなんて、自分じぶんが作っつくったものじゃあるまいし」「そう云ういう恩おん知らしらずは、得とくて哲学者てつがくしゃにあるもんだ。親不孝おやふこうな学問がくもんをして、日々ひび人間にんげんと御無沙汰ごむさたになって……」「誠まことに済みすみません。――親不孝おやふこうな学問がくもんか、ハハハハハははははは。君きみ白いしろい帆ほが見えるみえる。そら、あの島しまの青いあおい山やまを背せにして――まるで動かうごかんぜ。いつまで見みていても動かうごかんぜ」「退屈たいくつな帆ほだな。判然はんぜんしないところが君きみに似にていらあ。しかし奇麗きれいだ。おや、こっちにもいるぜ」「あの、ずっと向うむこうの紫色むらさきいろの岸きしの方ほうにもある」「うん、ある、ある。退屈たいくつだらけだ。べた一面いちめんだ」「まるで夢ゆめのようだ」「何なんが」「何なんがって、眼前がんぜんの景色けしきがさ」「うんそうか。僕ぼくはまた君きみが何なんか思い出しおもいだしたのかと思っおもった。ものは君きみ、さっさと片付けるかたづけるに限るかぎるね。夢ゆめのごとしだって懐手ふところでをしていちゃ、駄目だめだよ」「何なんを云っいってるんだい」「おれの云ういう事こともやっぱり夢ゆめのごとしか。アハハハハあはははは時じに将門まさかどが気き※を吐いはいたのはどこいらだろう」「何なんでも向う側むこうがわだ。京都きょうとを瞰下したんだから。こっちじゃない。あいつも馬鹿ばかだなあ」「将門まさかどか。うん、気き※を吐くはくより、反吐へどでも吐くはく方ほうが哲学者てつがくしゃらしいね」「哲学者てつがくしゃがそんなものを吐くはくものか」「本当ほんとうの哲学者てつがくしゃになると、頭あたまばかりになって、ただ考えるかんがえるだけか、まるで達磨だるまだね」「あの煙るけむるような島しまは何なんだろう」「あの島しまか、いやに縹緲ひょうびょうとしているね。おおかた竹生ちくぶ島しまだろう」「本当ほんとうかい」「なあに、好いよい加減かげんさ。雅号がごうなんざ、どうだって、質しつさえたしかなら構わかまわない主義しゅぎだ」「そんなたしかなものが世の中よのなかにあるものか、だから雅号がごうが必要ひつようなんだ」「人間にんげん万事ばんじ夢ゆめのごとしか。やれやれ」「ただ死しと云ういう事ことだけが真しんだよ」「いやだぜ」「死しに突き当らつきあたらなくっちゃ、人間にんげんの浮気うわきはなかなかやまないものだ」「やまなくって好いよいから、突き当るつきあたるのは真っ平まっぴら御免ごめんだ」「御免ごめんだって今いまに来るくる。来きた時じにああそうかと思い当るおもいあたるんだね」「誰だれが」「小刀しょうとう細工さいくの好よしみな人間にんげんがさ」 山やまを下りくだりて近江おうみの野のに入れいれば宗近むねちか君きみの世界せかいである。
高いたかい、暗いくらい、日ひのあたらぬ所ところから、うららかな春はるの世よを、寄り付けよりつけぬ遠くとおくに眺めながめているのが甲野こうのさんの世界せかいである。
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