虞美人草

17/19

十七

第 17 章
小野おのと浅井あさいは橋はしまで来きた。
来きた路みちは青麦あおむぎの中なかから出るでる。
行くいく路みちは青麦あおむぎのなかに入るはいる。
一筋ひとすじを前後ぜんごに余しよして、深いぶかい谷たにの底そこを鉄軌てっきが通るとおる。
高いたかい土手どては春はるに籠るこもる緑みどりを今いまやと吹き返しふきかえしつつ、見事みごとなる切り岸きりぎしを立て廻したてまわして、丸いまりい屏風びょうぶのごとく弧形こけいに折れおれて遥かはるかに去るさる。
断橋だんきょうは鉄軌てっきを高きたかきに隔つるへだつる事こと丈たけを重ねかさねて十じゅうに至っいたって南みなみより北きたに横ぎるよこぎる。
欄らんに倚っよって俯すうつぶすとき広きひろき両岸りょうがんの青あおを極めきわめつくして、始めはじめて石垣いしがきに至るいたる。
石垣いしがきを底そこに見下しみくだして始めてはじめて茶色ちゃいろの路みちが細くほそく横わるよこたわる。
鉄軌てっきは細いほそい路みちのなかに細くほそく光るひかる。
――二人ふたりは断橋だんきょうの上うえまで来きて留っとめった。
「いい景色けしきだね」「うん、ええ景色けしきじゃ」 二人ふたりは欄らんに倚っよって立ったった。
立ったって見るみる間まに、限りなきかぎりなき麦むぎは一いち分ぶんずつ延びのびて行くいく。
暖だんたかいと云わいわんよりむしろ暑いあつい日ひである。
青あお蓆むしろをのべつに敷いしいた一いち枚ばいの果かは、がたりと調子ちょうしの変っかわった地味じみな森もりになる。
黒ずんくろずんだ常磐木ときわぎの中なかに、けばけばしくも黄きを含むふくむ緑みどりの、粉こなとなって空そらに吹きふき散るちるかと思わおもわれるのは、樟くすのきの若葉わかばらしい。
「久しぶりひさしぶりで郊外こうがいへ来きて好いよい心持こころもちだ」「たまには、こう云ういう所ところも好えええな。僕ぼくはしかし田舎いなかから帰っかえったばかりだからいっこう珍しゅうめずらしゅうない」「君きみはそうだろう。君きみをこんな所ところへ連れつれて来きたのは少しすこし気の毒きのどくだったね」「なに構わかまわん。どうせ遊んあそんどるんだから。しかし人間にんげんも遊んあそんどる暇ひまがあるようでは駄目だめじゃな、君きみ。ちっとなんぞ金きん儲の口くちはないかい」「金きん儲は僕ぼくの方ほうにゃないが、君きみの方ほうにゃたくさんあるだろう」「いや近頃ちかごろは法科ほうかもつまらん。文科もんかと同じおなじこっちゃ、銀時計ぎんとけいでなくちゃ通用つうようせん」 小野おのさんは橋はしの手て擦に背せを靠たせたまま、内うち隠いん袋ふくろから例れいの通りとおり銀製ぎんせいの煙けむり草入くさいりを出しだしてぱちりと開けあけた。
箔はくを置いおいた埃及えじぷと煙草たばこの吸口すいくちが奇麗きれいに並んならんでいる。
「一いち本ほんどうだね」「や、ありがとう。大変たいへん立派りっぱなものを持っもっとるの」「貰い物もらいものだ」と小野おのさんは、自分じぶんも一いち本ほん抜き取っぬきとった後あとで、また見えみえない所ところへ投げ込んなげこんだ。
二人ふたりの煙けむりはつつがなく立ちたち騰っあがって、事ことなき空そらに入るはいる。
「君きみは始終しじゅうこんな上等じょうとうな煙草たばこを呑んのんどるのか。よほど余裕よゆうがあると見えるみえるの。少しすこし貸さかさんか」「ハハハハははははこっちが借りかりたいくらいだ」「なにそんな事ことがあるものか。少しすこし貸せかせ。僕ぼくは今度こんど国くにへ行っいったんで大変たいへん銭せんがいって困っこまっとるところじゃ」 本気ほんきに云っいっているらしい。
小野おのさんの煙草たばこの煙けむりがふうと横よこに走っはしった。
「どのくらい要るいるのかね」「三十さんじゅう円えんでも二十にじゅう円えんでも好えええ」「そんなにあるものか」「じゃ十じゅう円えんでも好えええ。五ご円えんでも好えええ」 浅井あさい君きみはいくらでも下げるさげる。
小野おのさんは両肘りょうひじを鉄てつの手て擦に後あとから持たしもたして、山羊やぎ仔この靴くつを心持こころもち前まえへ出しだした。
煙草たばこを啣えたまま、眼鏡めがね越こしに爪先つまさきの飾かざりを眺めながめている。
遅日ちじつ影かげ長くながくして光ひかりを惜まおしまず。
拭き込んふきこんだ皮かわの濃こかに照るてる上うえに、眼めに入らはいらぬほどの埃ほこりが一面いちめんに積んつんでいる。
小野おのさんは携えたずさえた細ほそ手ての洋杖すてっきで靴くつの横腹よこばらをぽんぽんと鞭むちうった。
埃ほこりは靴くつを離れはなれて一いち寸すんほど舞い上がるまいあがる。
鞭むちうたれた局部きょくぶだけは斑ぶちに黒くくろくなった。
並んならんで見えるみえる浅井あさいの靴くつは、兵隊へいたい靴くつのごとく重くおもくかつ無む細工さいくである。
「十じゅう円えんくらいなら都合つごうが出来できない事こともないが――いつ頃いつごろまで」「今月末こんげつまつにはきっと返すかえす。それで好かろうよかろう」と浅井あさい君きみは顔かおを寄せよせて来るくる。
小野おのさんは口くちから煙草たばこを離しはなした。
指ゆびの股またに挟んはさんだまま、一振いちぶりはたくと三さん分ぶんの灰はいは靴くつの甲こうに落ちおちた。
体からだをそのままに白いしろい襟えりの上うえから首くびだけを横よこに捩るもじると、欄干らんかんに頬杖つらづえをついた人ひとの顔かおが五ご寸すん下したに見えるみえる。
「今月末こんげつまつでも、いつでも好いよい。――その代りかわり少しすこし御ご願がんがある。聞いきいてくれるかい」「うん、話しはなして見いみい」 浅井あさい君きみは容易よういに受合っうけあった。
同時どうじに頬杖つらづえをやめて背せを立てるたてる。
二人ふたりの顔かおはすれすれに来きた。
「実じつは井上いのうえ先生せんせいの事ことだがね」「おお、先生せんせいはどうしとるか。帰っかえってから、まだ尋ねるたずねる閑かんがないから、行かいかんが。君きみ先生せんせいに逢うあうたら宜しくよろしく云ういうてくれ。ついでに御嬢ごじょうさんにも」 浅井あさい君きみはハハハハははははと高くたかく笑っわらった。
ついでに欄干らんかんから胸むねをつき出しつきだして、涎よだれのごとき唾つばを遥かはるかの下したに吐いはいた。
「その御嬢ごじょうさんの事ことなんだが……」「いよいよ結婚けっこんするか」「君きみは気きが早くはやくっていけない。そう先さきへ云っいっちまっちゃあ……」と言葉ことばを切っきって、しばらく麦畑むぎばたけを眺めながめていたが、たちまち手てに持っもった吸殻すいがらを向むかいへ投げなげた。
白いしろいカフスかふすが七宝しっぽうの夫婦ふうふ釦ぼたんと共ともにかしゃと鳴るなる。
一いち寸すんに余るあまる金きんが空そらを掠めかすめて橋はしの袂たもとに落ちおちた。
落ちおちた煙けむりは逆様さかさまに地ちから這いはい揚がるあがる。
「もったいない事ことをするのう」と浅井あさい君きみが云っいった。
「君きみ本当ほんとうに僕ぼくの云ういう事ことを聞いきいてくれるのかい」「本当ほんとうに聞いきいとる。それから」「それからって、まだ何になんにも話しゃはなしゃしないじゃないか。――金きんの工面くめんはどうでもするが、君きみに折おり入っはいって御ご願がんがあるんだよ」「だから話せはなせ。京都きょうとからの知己ちきじゃ。何なんでもしてやるぞ」 調子ちょうしはだいぶ熱心ねっしんである。
小野おのさんは片肘かたひじを放しはなして、ぐるりと浅井あさい君きみの方ほうへ向き直るむきなおる。
「君きみならやってくれるだろうと思っおもって、実じつは君きみの帰るかえるのを待っまっていたところだ」「そりゃ、好えええ時じに帰っかえって来きた。何なんか談判だんぱんでもするのか。結婚けっこんの条件じょうけんか。近頃ちかごろは無む財産ざいさんの細君さいくんを貰うもらうのは不便ふべんだからのう」「そんな事ことじゃない」「しかし、そう云ういう条件じょうけんを付けつけて置くおく方ほうが君きみの将来しょうらいのために好えええぞ。そうせい。僕ぼくが懸けん合うあうてやる」「そりゃ貰うもらうとなれば、そう云ういう談判だんぱんにしても好いよいが……」「貰うもらう事ことは貰うもらうつもりじゃろう。みんな、そう思うおもうとるぞ」「誰だれが」「誰だれがてて、我々われわれが」「そりゃ困るこまる。僕ぼくが井上いのうえの御嬢ごじょうさんを貰うもらうなんて、――そんな堅いかたい約束やくそくはないんだからね」「そうか。――いや怪しいあやしいぞ」と浅井あさい君きみが云っいった。
小野おのさんは腹はらの中なかで下等したとうな男おとこだと思うおもう。
こんな男おとこだから破談はだんを平気へいきに持ち込むもちこむ事ことが出来るできるんだと思うおもう。
「そう頭あたまから冷やかしひやかしちゃ話はなしが出来できない」と故このようなおとなしい調子ちょうしで云ういう。
「ハハハハはははは。そう真面目まじめにならんでも好いよい。そうおとなしくちゃ損そんだぞ。もう少しすこし面の皮つらのかわを厚くあつくせんと」「まあ少しすこし待っまってくれたまえ。修業しゅぎょう中なかなんだから」「ちと稽古けいこのためにどっかへ連れつれて行っいってやろうか」「何なん分ぶん宜しくよろしく……」「などと云っいって、裏うらでは盛さかんに修業しゅぎょうしとるかも知れしれんの」「まさか」「いやそうでないぞ。近頃ちかごろだいぶ修飾しゅうしょくるところをもって見るみると。ことにさっきの巻煙草まきたばこ入いりの出所しゅっしょなどははなはだ疑わしいうたがわしい。そう云えいえばこの煙草たばこも何なんとなく妙みょうな臭においがするわい」 浅井あさい君きみはここに至っいたって指ゆびの股またに焦げついこげついて来きそうな煙草たばこを、鼻はなの先さきへ持っもって来きてふんふんと二三にさん度ど嗅いかいだ。
小野おのさんはいよいよノンセンスのんせんすなわる洒落しゃれだと思っおもった。
「まあ歩きあるきながら話そうはなそう」 悪洒落わるしゃれの続きつづきを切るきるために、小野おのさんは一歩いちほ橋はしの真中まなかへ踏み出しふみだした。
浅井あさい君きみの肘ひじは欄干らんかんを離れるはなれる。
右左みぎひだり地ちを抜くぬく麦むぎに、日ひは空そらから寄っよって来るくる。
暖かあたたかき緑みどりは穂ほを掠めかすめて畦あぜを騰るあがる。
野のを蔽うおおう一面いちめんの陽炎かげろうは逆ぎゃく上るのぼるほどに二人ふたりを込めこめた。
「暑いあついのう」と浅井あさい君きみは後あとから跟いて来るくる。
「暑いあつい」と待ち合わしまちあわした小野おのさんは、肩かたの並んならんだ時じ、歩きあるき出すだす。
歩きあるき出しだしながら真面目まじめな問題もんだいに入るはいる。
「さっきの話はなしだが――実じつは二三にさん日ひ前まえ井上いのうえ先生せんせいの所ところへ行っいったところが、先生せんせいから突然とつぜん例れいの縁談えんだん一条いちじょうを持ち出さもちだされて、ね。……」「待っまってましたじゃ」と受けうけた浅井あさい君きみはまた何なんか云いいいそうだから、小野おのさんは談話だんわの速力そくりょくを増しまして、急きゅうに進行しんこうしてしまう。
――「先生せんせいが随分ずいぶんはげしく来きたので、僕ぼくもそう世話せわになった先生せんせいの感情かんじょうを害するがいする訳わけにも行かいかないから、熟考じゅっこうするために二三にさん日ひの余裕よゆうを与えあたえて貰っもらって帰っかえったんだがね」「そりゃ慎重しんちょうの……」「まあしまいまで聞いきいてくれたまえ。批評ひひょうはあとで緩かんくり聞くきくから。――それで僕ぼくも、君きみの知っしっている通つう、先生せんせいの世話せわには大変たいへんなったんだから、先生せんせいの云ういう事ことは何なんでも聞かきかなければ義理ぎりがわるい……」「そりゃ悪いわるい」「悪いわるいが、ほかの事ことと違っちがって結婚けっこん問題もんだいは生涯しょうがいの幸福こうふくに関係かんけいする大事件だいじけんだから、いくら恩おんのある先生せんせいの命令めいれいだって、そう、おいそれと服従ふくじゅうする訳わけにはいかない」「そりゃいかない」 小野おのさんは、相手あいての顔かおをじろりと見みた。
相手あいては存外ぞんがい真面目まじめである。
話はなしは進行しんこうする。
――「それも僕ぼくに判然はんぜんたる約束やくそくをしたとか、あるいは御嬢ごじょうさんに対したいして済ますまん関係かんけいでも拵らえこしらえたと云ういう大おお責任せきにんがあれば、先生せんせいから催促さいそくされるまでもない。こっちから進んすすんで、どうでも方ほうをつけるつもりだが、実際じっさい僕ぼくはその点てんに関しかんしては潔白けっぱくなんだからね」「うん潔白けっぱくだ。君きみほど高尚こうしょうで潔白けっぱくな人間にんげんはない。僕ぼくが保証ほしょうする」 小野おのさんはまたじろりと浅井あさい君きみの顔かおを見みた。
浅井あさい君きみはいっこう気きが着かきかない。
話はなしはまた進行しんこうする。
――「ところが先生せんせいの方ほうでは、頭あたまから僕ぼくにそれだけの責任せきにんがあるかのごとく見傚しみなしてしまって、そうして万事ばんじをそれから演繹えんえきしてくるんだろう」「うん」「まさか根本こんぽんに立ち返ったちかえって、あなたの御ご考かんがえは出立しゅったつ点てんが間違っまちがっていますと誤謬ごびゅうを指摘してきする訳わけにも行かいかず……」「そりゃ、あまり君きみが人ひとが好よしみ過ぎるすぎるからじゃ。もう少しすこし世の中よのなかに擦れすれんと損そんだぞ」「損そんは僕ぼくも知っしってるんだが、どうも僕ぼくの性質せいしつとして、そう露骨ろこつに人ひとに反対はんたいする事ことが出来できないんだね。ことに相手あいては世話せわになった先生せんせいだろう」「そう、相手あいてが世話せわになった先生せんせいじゃからな」「それに僕ぼくの方ほうから云ういうと、今いまちょうど博士論文はかせろんぶんを書きかきかけている最中さいちゅうだから、そんな話はなしを持ち込まもちこまれると余計よけい困るこまるんだ」「博士論文はかせろんぶんをまだ書いかいとるか、えらいもんじゃな」「えらい事こともない」「なにえらい。銀時計ぎんとけいの頭あたまでなくちゃ、とても出来できん」「そりゃどうでも好いよいが、――それでね、今いま云ういう通りとおりの事情じじょうだから、せっかくの厚意こういはありがたいけれども、まあここのところはいったん断わりことわりたいと思うおもうんだね。しかし僕ぼくの性質せいしつじゃ、とても先生せんせいに逢うあうと気の毒きのどくで、そんな強いつよい事ことが云えいえそうもないから、それで君きみに頼みたのみたいと云ういう訳わけだが。どうだね、引き受けひきうけてくれるかい」「そうか、訳わけない。僕ぼくが先生せんせいに逢うあうてよく話しはなしてやろう」 浅井あさい君きみは茶漬ちゃづけを掻き込むかきこむように容易くたやすく引き受けひきうけた。
注文ちゅうもん通りとおりに行っいった小野おのさんは中休みなかやすみに一二いちに歩あゆみ前まえへ移すうつす。
そうして云ういう。
――「その代りかわり先生せんせいの世話せわは生涯しょうがいする考かんがえだ。僕ぼくもいつまでもこんなにぐずぐずしているつもりでもないから――実じつのところを云ういうと先生せんせいも故このように経済けいざいが楽らくじゃないようだ。だからなお気の毒きのどくなのさ。今度こんどの相談そうだんもただ結婚けっこんと云ういう単純たんじゅんな問題もんだいじゃなくって、それを方便ほうべんにして、僕ぼくの補助ほじょを受けうけたいような素もと振ぶりも見えみえたくらいだ。だから、そりゃやるよ。飽くまであくまでも先生せんせいのために尽すつくすつもりだ。だが結婚けっこんしたから尽すつくす、結婚けっこんせんから尽さつくさないなんて、そんな軽薄けいはくな料簡りょうけんは少しすこしもこっちにゃないんだから――世話せわになった以上いじょうはどうしたって世話せわになったのさ。それを返しかえしてしまうまではどうしたって恩おんは消えきえやしないからな」「君きみは感心かんしんな男おとこだ。先生せんせいが聞いきいたらさぞ喜ぶよろこぶだろう」「よく僕ぼくの意志いしが徹するてっするように云っいってくれたまえ。誤解ごかいが出来るできるとまた後あとが困るこまるから」「よし。感情かんじょうを害せがいせんようにの。よう云ういうてやる。その代りかわり十じゅう円えん貸すかすんぜ」「貸すかすよ」と小野おのさんは笑わらいながら答えこたえた。
錐すいは穴あなを穿つうがつ道具どうぐである。
縄なわは物ものを括るくくる手段しゅだんである。
浅井あさい君きみは破談はだんを申し込むもうしこむ器械きかいである。
錐すいでなくては松まつ板いたを潜り抜けようくぐりぬけようと企てるくわだてるものはない。
縄なわでなくては栄螺さざえを取り巻くとりまく覚悟かくごはつかぬ。
浅井あさい君きみにして始めてはじめてこの談判だんぱんを、風呂ふろに行くいく気きで、引き受けるひきうける事ことが出来るできる。
小野おのさんは才人さいじんである。
よく道具どうぐを用いるもちいるの法ほうを心得こころえている。
ただ破談はだんを申し込むもうしこむのと、破談はだんを申し込みもうしこみながら、申し込んもうしこんだ後あとを奇麗きれいに片づけるかたづけるのとは別才べっさいである。
落葉らくようを振うふるうものは必ずかならずしも庭にわを掃くはく人ひととは限らかぎらない。
浅井あさい君きみはたとい内裏だいり拝観はいかんの際さいでも落葉らくようを振いふるいおとす事ことをあえてする無遠慮むえんりょな男おとこである。
と共ともに、たとい内裏だいり拝観はいかんの際さいでも一いち塵ごみを掃う事ことを解せげせざるほどに無責任むせきにんの男おとこである。
浅井あさい君きみは浮ぶうかぶ術じゅつを心得こころえずして、水みずに潜るもぐる度胸どきょう者ものである。
否いな潜るもぐるときに、浮ぶうかぶ術じゅつが必要ひつようであると考えつけかんがえつけぬ豪傑ごうけつである。
ただ引受けるひきうける。
やって見ようみようと云ういう気きで、何なんでも引き受けるひきうける。
それだけである。
善悪ぜんあく、理非りひ、軽重けいじゅう、結果けっかを度外どがいに置いおいて事物じぶつを考えかんがえ得るうるならば、浅井あさい君きみは他意たいなき善人ぜんにんである。
それほどの事ことを知らしらぬ小野おのさんではない。
知っしって依頼いらいするのはただ破談はだんを申し込めもうしこめばそれで構わかまわんと見み限かぎりをつけたからである。
先方せんぽうで苦く状じょうを云えいえば逃げるにげる気きである。
逃げにげられなくても、そのうち向うむこうから泣なき寝ね入いりにせねばならぬような準備じゅんびをととのえてある。
小野おのさんは明日あす藤尾ふじおと大森おおもりへ遊びあそびに行くいく約束やくそくがある。
――大森おおもりから帰っかえったあとならば大抵たいていな事ことが露見ろけんしても、藤尾ふじおと関係かんけいを絶つたつ訳わけには行かいかぬだろう。
そこで井上いのうえへは約束やくそく通りとおり物質的ぶっしつてきの補助ほじょをする。
こう思い定めおもいさだめている小野おのさんは、浅井あさい君きみが快よくこころよく依頼いらいに応じおうじた時じ、まず片かた荷にだけ卸しおろしたなと思っおもった。
「こう日ひが照るてると、麦むぎの香こうが鼻はなの先さきへ浮いういてくるようだね」と小野おのさんの話頭わとうはようやく自然しぜんに触れふれた。
「香こうがするかの。僕ぼくにはいっこうにおわんが」と浅井あさい君きみは丸いまりい鼻はなをふんふんと云わしいわしたが、「時じに君きみはやはりあのハムレットはむれっとの家いえへ行くいくのか」と聞くきく。
「甲野こうのの家いえかい。まだ行っいっている。今日きょうもこれから行くいくんだ」と何気なんげなく云ういう。
「この間ま京都きょうとへ行っいったそうじゃな。もう帰っかえったか。ちと麦むぎの香こうでも嗅いかいで来きたか知らしらんて。――つまらんのう、あんな人間にんげんは。何なんだか陰気いんきくさい顔かおばかりしているじゃないか」「そうさね」「ああ云ういう人間にんげんは早くはやく死んしんでくれる方ほうが好えええ。だいぶ財産ざいさんがあるか」「あるようだね」「あの親類しんるいの人ひとはどうした。学校がっこうで時々ときどき顔かおを見みたが」「宗近むねちかかい」「そうそう。あの男おとこの所ところへ二三にさん日ひ中なかに行こういこうと思っおもっとる」 小野おのさんは突然とつぜん留っとめった。
「何なんしに」「口くちを頼みたのみにさ。できるだけ運動うんどうして置かおかんと駄目だめだからな」「だって、宗近むねちかだって外交官がいこうかんの試験しけんに及第きゅうだいしないで困っこまってるところだよ。頼んたのんだってしようがない」「なに構わかまわん。話はなしに行っいって見るみる」 小野おのさんは眼めを地面じめんの上うえへ卸しおろして、二三にさん間まは無言むごんで来きた。
「君きみ、先生せんせいのところへはいつ行っいってくれる」「今夜こんやか明日あすの朝あさ行っいってやる」「そうか」 麦畑むぎばたけを折れるおれると、杉すぎの木陰こかげのだらだら坂さかになる。
二人ふたりは前後ぜんごして坂さかを下りくだりた。
言葉ことばを交すかわすほどの遑いとまもない。
下りくだり切っきって疎まばらな杉垣すぎがきを、肩かたを並べならべて通り越すとおりこすとき、小野おのさんは云っいった。
――「君きみもし宗近むねちかへ行っいったらね。井上いのうえ先生せんせいの事ことは話さはなさずに置いおいてくれたまえ」「話しゃはなしゃせん」「いえ、本当ほんとうに」「ハハハハはははは大変たいへん恥はじかんどるの。構わかまわんじゃないか」「少しすこし困るこまる事ことがあるんだから、是非ぜひ……」「好しよし、話しゃはなしゃせん」 小野おのさんははなはだ心こころ元もとなく思っおもった。
半分はんぶんほどは今いま頼んたのんだ事ことを取り返しとりかえしたく思っおもった。
四つ角よつかどで浅井あさい君きみに別れわかれた小野おのさんは、安からあんからぬ胸むねを運んはこんで甲野こうのの邸やしきまで来るくる。
藤尾ふじおの部屋へやへ這入っはいって十五じゅうご分ぶんほど過ぎすぎた頃ころ、宗近むねちか君きみの姿すがたは甲野こうのさんの書斎しょさいの戸口とぐちに立ったった。
「おい」 甲野こうのさんは故この椅子いすに、故この通りとおりに腰こしを掛けかけて、故このごとくに幾何きか模様もようを図案ずあんしている。
丸まるに三さんつ鱗うろこはとくに出来上っできあがった。
おいと呼ばよばれた時じ、首くびを上げるあげる。
驚いおどろいたと云わいわんよりは、激しげきしたと云わいわんよりは、臆しおくしたと云わいわんよりは、様子ようすぶったと云わいわんよりはむしろ遥かはるかに簡単かんたんな上げあげ方ほうである。
したがって哲学的てつがくてきである。
「君きみか」と云ういう。
宗近むねちか君きみはつかつかと洋よう卓たくの角かくまで進んすすんで来きたが、いきなり太いふとい眉まゆに八はちの字じを寄せよせて、「こりゃ空気くうきが悪いわるい。毒どくだ。少しすこし開けようあけよう」と上下じょうげの栓せん釘くぎを抜き放っぬきはなって、真中まなかの円えん鈕ちゅうを握るにぎるや否いなや、正面しょうめんの仏蘭西ふらんす窓まどを、床ゆかを掃うごとく、一いち文字もじに開いひらいた。
室むろの中なかには、庭前ていぜんに芽ぐむめぐむ芝生しばふの緑みどりと共ともに、広いひろい春はるが吹き込んふきこんで来るくる。
「こうすると大変たいへん陽気ようきになる。ああ好いよい心持こころもちだ。庭にわの芝しばがだいぶ色づいいろづいて来きた」 宗近むねちか君きみは再びふたたび洋よう卓たくまで戻っもどって、始めはじめて腰こしを卸しおろした。
今いまさきがた謎なぞの女おんなが坐っすわっていた椅子いすの上うえである。
「何なんをしているね」「うん?」と云っいって鉛筆えんぴつの進行しんこうを留めとめた甲野こうのさんは「どうだ。なかなか旨いうまいだろう」と模様もよういっぱいになった紙片しへんを、宗近むねちか君きみの方ほうへ、洋よう卓たくの上うえを滑らすべらせる。
「何なんだこりゃ。恐ろしいおそろしいたくさん書いかいたね」「もう一いち時間じかん以上いじょう書いかいている」「僕ぼくが来きなければ晩ばんまで書いかいているんだろう。くだらない」 甲野こうのさんは何なんとも云わいわなかった。
「これが哲学てつがくと何なんか関係かんけいでもあるのかい」「有っあっても好いよい」「万有ばんゆう世界せかいの哲学的てつがくてき象徴しょうちょうとでも云ういうんだろう。よく一人ひとりの頭あたまでこんなに並べならべられたもんだね。紺屋こうやの上うえ絵師えしと哲学者てつがくしゃと云ういう論文ろんぶんでも書くかく気きじゃないか」 甲野こうのさんは今度こんども何なんとも云わいわなかった。
「何なんだか、どうも相そう変らかわらずぐずぐずしているね。いつ見みても煮えにえ切らきらない」「今日きょうは特別とくべつ煮えにえ切らきらない」「天気てんきのせいじゃないか、ハハハハはははは」「天気てんきのせいより、生きいきてるせいだよ」「そうさね、煮えにえ切っきってぴんぴんしているものは沢山たくさんないようだ。御ご互たがいも、こうやって三十さんじゅう年ねん近くちかくも、しくしくして……」「いつまでも浮世うきよの鍋なべの中なかで、煮えにえ切れきれずにいるのさ」 甲野こうのさんはここに至っていたって始めはじめて笑っわらった。
「時じに甲野こうのさん、今日きょうは報告ほうこくかたがた少々しょうしょう談判だんぱんに来きたんだがね」「むつかしい来きようだ」「近いちかいうち洋行ようこうをするよ」「洋行ようこうを」「うん欧おう羅ら巴ともえへ行くいくのさ」「行くいくのはいいが、親父おやじ見みたように、煮えにえ切っきっちゃいけない」「なんとも云えいえないが、印度いんど洋ようさえ越せこせば大抵たいてい大丈夫だいじょうぶだろう」 甲野こうのさんはハハハハははははと笑っわらった。
「実じつは最近さいきんの好機こうきにおいて外交官がいこうかんの試験しけんに及第きゅうだいしたんだから、この通りとおり早速さっそく頭あたまを刈っかってね、やっぱり、最近さいきんの好機こうきにおいて出掛けでかけなくっちゃならない。塵ごみ事こと多忙たぼうだ。なかなか丸まるや三角さんかくを並べならべちゃいられない」「そりゃおめでたい」と云っいった甲野こうのさんは洋よう卓越たくえつに相手あいての頭あたまをつらつら観察かんさつした。
しかし別段べつだん批評ひひょうも加えくわえなかった。
質問しつもんも起さおこさなかった。
宗近むねちか君きみの方ほうでも進んすすんで説明せつめいの労ろうを取らとらなかった。
したがって頭あたまはそれぎりになる。
「まずここまでが報告ほうこくだ、甲野こうのさん」と云ういう。
「うちの母ははに逢っあったかい」と甲野こうのさんが聞くきく。
「まだ逢わあわない。今日きょうはこっちの玄関げんかんから、上っのぼったから、日本にっぽん間まの方ほうはまるで通らとおらない」 なるほど宗近むねちか君きみは靴くつのままである。
甲野こうのさんは椅子いすの背せに倚りよりかかって、この楽天家らくてんかの頭あたまと、更紗さらさ模様もようの襟えり飾かざりと――襟えり飾かざりは例れいに因っよって襟えりの途中とちゅうまで浮き出しうきだしている。
――それから親おや譲ゆずるの背広せびろとをじっと眺めながめている。
「何なんを見みているんだ」「いや」と云っいったままやっぱり眺めながめている。
「御ご叔母おばさんに話しはなして来ようこようか」 今度こんどはいやとも何なんとも云わいわずに眺めながめている。
宗近むねちか君きみは椅子いすから腰こしを浮かしうかしかかる。
「廃すはいすが好いよい」 洋よう卓たくの向側むかいがわから一句いっくを明暸めいりょうに云い切っいいきった。
徐におもむろに椅子いすを離れはなれた長髪ちょうはつの人ひとは右みぎの手てで額がくを掻き上げかきあげながら、左ひだりの手てに椅子いすの肩かたを抑えおさえたまま、亡きなき父ちちの肖像画しょうぞうがの方ほうに顔かおを向けむけた。
「母ははに話すはなすくらいなら、あの肖像しょうぞうに話しはなしてくれ」 親譲りおやゆずりの背広せびろを着きた男おとこは、丸いまりい眼めを据えすえて、室むろの中なかに聳えるそびえる、漆うるしのような髪かみの主ぬしを見守っみまもった。
次つぎに丸いまりい眼めを据えすえて、壁かべの上うえにある故人こじんの肖像しょうぞうを見守っみまもった。
最後さいごに漆うるしの髪かみの主ぬしと、故人こじんの肖像しょうぞうとを見較べみくらべた。
見較べみくらべてしまった時じ、聳えそびえたる人ひとは瘠せやせた肩かたを動かしうごかして、宗近むねちか君きみの頭あたまの上うえから云ういう。
――「父ちちは死んしんでいる。しかし活きつきた母ははよりもたしかだよ。たしかだよ」 椅子いすに倚るよる人ひとの顔かおは、この言葉ことばと共ともに、自からみずからまた画像がぞうの方ほうに向っむかった。
向っむかったなりしばらくは動かうごかない。
活きつきた眼めは上うえから見下しみくだしている。
しばらくして、椅子いすに倚るよる人ひとが云ういう。
――「御ご叔父おじさんも気の毒きのどくな事ことをしたなあ」 立つたつ人ひとは答えこたえた。
――「あの眼めは活きつきている。まだ活きつきている」 言いいい終っおわって、部屋へやの中なかを歩きあるき出しだした。
「庭にわへ出ようでよう、部屋へやの中なかは陰気いんきでいけない」 席せきを立ったった宗近むねちか君きみは、横よこから来きて甲野こうのさんの手てを取るとるや否いなや、明け放っあけはなった仏蘭西ふらんす窓まどを抜けぬけて二に段だんの石階せっかいを芝生しばふへ下るくだる。
足あしが柔かいやわらかい地ちに着いついた時じ、「いったいどうしたんだ」と宗近むねちか君きみが聞いきいた。
芝生しばふは南みなみに走るはしる事こと十じゅう間ま余よにして、高こう樫かしの生垣いけがきに尽じんくる。
幅はばは半ばなかばに足らあしらぬ。
繁きしげき植込うえこみに遮ぎらさえぎられた奥おくは、五ご坪つぼほどの池いけを隔てへだてて、張出はりだしの新座にいざ敷しきには藤尾ふじおの机つくえが据えすえてある。
二人ふたりは緩かんき歩調ほちょうに、芝生しばふを突き当っつきあたった。
帰りかえりには二三にさん間ま迂回うかいて、植込うえこみの陰かげを書斎しょさいの方ほうへ戻っもどって来きた。
双方そうほう共とも無言むごんである。
足並あしなみは偶然ぐうぜんにも揃っそろっている。
植込うえこみが真中まなかで開いひらいて、二三にさんの敷石しきいしに、池いけの方ほうへ人ひとを誘うさそう曲り角まがりかどまで来きた時じ、突然とつぜん新座にいざ敷しきで、雉子きぎすの鳴くなくように、けたたましく笑うわらう声こえがした。
二人ふたりの足あしは申し合せもうしあわせたごとくぴたりと留まるとまる。
眼めは一時いちじに同じおなじ方角ほうがくへ走るはしる。
四よん尺さしの空地あきちを池いけの縁えんまで細長くほそながく余しよして、真直まっすぐに水みずに落つるおつる池いけの向側むかいがわに、横よこから伸すのばす浅葱あさぎ桜さくらの長いながい枝えだを軒のきのあたりに翳しかざして小野おのさんと藤尾ふじおがこちらを向いむかいて笑いわらいながら椽えん鼻はなに立ったっている。
不規則ふきそくなる春はるの雑ざつ樹きを左右さゆうに、桜さくらの枝えだを上うえに、温むぬるむ水みずに根ねを抽でて這い上がるはいあがる蓮れんの浮葉ふようを下したに、――二人ふたりの活人画かつじんがは包まつつまれて立つたつ。
仕切るしきる枠わくが自然しぜんの景物けいぶつの粋いきをあつめて成るなるがために、――枠わくの形かたちが趣きおもむきを損なわそこなわぬほどに正しくただしくて、また眼めを乱さみださぬほどに不規則ふきそくなるがために――飛石とびいしに、水みずに、椽えんに、間隔かんかくの適度てきどなるがために――高きたかきに失わうしなわず、低きひくきに過ぎすぎざる恰好かっこの地位ちいにあるために――最後さいごに、一息ひといきの短たんかきに、吐くはく幻影げんえいと、忽然こつぜんに現われあらわれたるために――二人ふたりの視線しせんは水みずの向むかいの二人ふたりにあつまった。
と共ともに、水みずの向むかいの二人ふたりの視線しせんも、水みずのこなたの二人ふたりに落ちおちた。
見合すみあわす四よん人ひとは、互たがいに互たがいを釘くぎ付ふにして立つたつ。
際どいきわどい瞬間しゅんかんである。
はっと思うおもう刹那せつなを一番いちばん早くはやく飛び超えとびこえたものが勝かちになる。
女おんなはちらりと白足袋しろたびの片方かたほうを後あとへ引いひいた。
代赭たいしゃに染めそめた古代こだい模様もようの鮮かあざやかに春はるを寂びさびたる帯おびの間まから、するすると蜿蜒えんえんるものを、引き千切れひきちぎれとばかり鋭どくするどく抜き出しぬきだした。
繊せんき蛇へびの膨れふくれたる頭あたまを掌てのひらに握っにぎって、黄金おうごんの色いろを細長くほそながく空そらに振れふれば、深紅しんくの光ひかりは発はつ矢やと尾おより迸しる。
――次つぎの瞬間しゅんかんには、小野おのさんの胸むねを左右さゆうに、燦爛さんらんたる金鎖かなくさりが動かうごかぬ稲妻いなずまのごとく懸っかかっていた。
「ホホホホほほほほ一番いちばんあなたによく似合うにあう事こと」 藤尾ふじおの癇かん声こえは鈍いにぶい水みずを敲いたたいて、鋭どくするどく二人ふたりの耳みみに跳ね返っはねかえって来きた。
「藤ふじ……」と動きうごき出そうでそうとする宗近むねちか君きみの横腹よこばらを突かつかぬばかりに、甲野こうのさんは前まえへ押しおした。
宗近むねちか君きみの眼めから活人画かつじんがが消えるきえる。
追いおいかぶさるように、後あとから乗しのし懸っかかって来きた甲野こうのさんの顔かおが、親おやしき友ともの耳みみのあたりまで着いついたとき、「黙っだまって……」と小声こごえに云いいいながら、煙けむりに巻かまきかれた人ひとを植込うえこみの影かげへ引いひいて行くいく。
肩かたに手てを掛けかけて押すおすように石段いしだんを上っのぼって、書斎しょさいに引き返しひきかえした甲野こうのさんは、無言むごんのまま、扉とびらに似にたる仏蘭西ふらんす窓まどを左右さゆうからどたりと立てたて切っきった。
上下じょうげの栓せん釘くぎを式しきのごとく鎖すさす。
次つぎに入口いりぐちの戸とに向うむこう。
かねて差し込んさしこんである鍵かぎをかちゃりと回すまわすと、錠じょうは苦くもなく卸おろしりた。
「何なんをするんだ」「部屋へやを立てたて切っきった。人ひとが這入っはいって来きないように」「なぜ」「なぜでも好いよい」「全体ぜんたいどうしたんだ。大変たいへん顔色かおいろが悪いわるい」「なに大丈夫だいじょうぶ。まあ掛けかけたまえ」と最前さいぜんの椅子いすを机つくえに近くちかく引きずっひきずって来るくる。
宗近むねちか君きみは小供こどものごとく命令めいれいに服しふくした。
甲野こうのさんは相手あいてを落ちつけおちつけた後あと、静かしずかに、用いもちい慣れなれた安楽椅子あんらくいすに腰こしを卸すおろす。
体からだは机つくえに向っむかったままである。
「宗近むねちかさん」と壁かべを向いむかいて呼んよんだが、やがて首くびだけぐるりと回しまわして、正面しょうめんから、「藤尾ふじおは駄目だめだよ」と云ういう。
落ちついおちついた調子ちょうしのうちに、何なんとなく温いぬきい暖だん味あじがあった。
すべての枝えだを緑みどりに返すかえす用意よういのために、寂びさびたる中なかを人ひと知れしれず通うかよう春はるの脈みゃくは、甲野こうのさんの同情どうじょうである。
「そうか」 腕うでを組んくんだ宗近むねちか君きみはこれだけ答えこたえた。
あとから、「糸いと公こうもそう云っいった」と沈んしずんでつけた。
「君きみより、君きみの妹いもうとの方ほうが眼めがある。藤尾ふじおは駄目だめだ。飛び上りとびあがりものだ」 かちゃりと入口いりぐちの円えん鈕ちゅうを捩っもじったものがある。
戸とは開かひらかない。
今度こんどはとんとんと外そとから敲くたたく。
宗近むねちか君きみは振り向いふりむいた。
甲野こうのさんは眼めさえ動かさうごかさない。
「うちやって置けおけ」と冷やかひややかに云ういう。
入口いりぐちの扉とびらに口くちを着けつけたようにホホホホほほほほと高くたかく笑っわらったものがある。
足音あしおとは日本にっぽん間まの方ほうへ馳はせけながら遠退いとおのいて行くいく。
二人ふたりは顔かおを見合わしみあわした。
「藤尾ふじおだ」と甲野こうのさんが云ういう。
「そうか」と宗近むねちか君きみがまた答えこたえた。
あとは静かしずかになる。
机つくえの上うえの置時計おけとけいがきちきちと鳴るなる。
「金きん時計とけいも廃せはいせ」「うん。廃そうはいそう」 甲野こうのさんは首くびを壁かべに向けむけたまま、宗近むねちか君きみは腕うでを拱いこまぬいたまま、――時計とけいはきちきちと鳴るなる。
日本にっぽん間まの方ほうで大勢おおぜいが一度いちどに笑っわらった。
「宗近むねちかさん」と欽吾きんごはまた首くびを向け直しむけなおした。
「藤尾ふじおに嫌わいやわれたよ。黙っだまってる方ほうがいい」「うん黙っだまっている」「藤尾ふじおには君きみのような人格じんかくは解らわからない。浅あさ墓はかな跳ね返りはねかえりものだ。小野おのにやってしまえ」「この通りとおり頭あたまができた」 宗近むねちか君きみは節太ふしふとしの手てを胸むねから抜いぬいて、刈りがり立たての頭あたまの天辺てっぺんをとんと敲いたたいた。
甲野こうのさんは眼尻めじりに笑わらいの波なみを、あるか、なきかに寄せよせて重々しくおもおもしく首肯いうなずいた。
あとから云ういう。
「頭あたまができれば、藤尾ふじおなんぞは要らいらないだろう」 宗近むねちか君きみは軽くかるくうふんと云っいったのみである。
「それでようやく安心あんしんした」と甲野こうのさんは、くつろいだ片足かたあしを上げあげて、残るのこる膝頭ひざがしらの上うえへ載せるのせる。
宗近むねちか君きみは巻煙草まきたばこを燻らしくゆらし始めはじめた。
吹くふく煙けむりのなかから、「これからだ」と独語どくごのように云ういう。
「これからだ。僕ぼくもこれからだ」と甲野こうのさんも独語どくごのように答えこたえた。
「君きみもこれからか。どうこれからなんだ」と宗近むねちか君きみは煙草たばこの煙けむりを押し開いおしひらいて、元気げんきづいた顔かおを近きん寄た。
「本来ほんらいの無一物むいちぶつから出直すでなおすんだからこれからさ」 指ゆびの股またに敷島しきしまを挟んはさんだまま、持っもって行くいく口くちのある事ことさえ忘れわすれて、呆気あっけに取らとられた宗近むねちか君きみは、「本来ほんらいの無一物むいちぶつから出直すでなおすとは」と自らみずから自らみずからの頭脳ずのうを疑ううたがうごとく問い返しといかえした。
甲野こうのさんは尋常じんじょうの調子ちょうしで、落ちつきおちつき払っはらった答こたえをする。
――「僕ぼくはこの家いえも、財産ざいさんも、みんな藤尾ふじおにやってしまった」「やってしまった? いつ」「もう少しすこしさっき。その紋もん尽しつくしを書いかいている時じだ」「そりゃ……」「ちょうどその丸まるに三さんつ鱗うろこを描いえがいてる時じだ。――その模様もようが一番いちばんよく出来できている」「やってしまうってそう容易くたやすく……」「何なん要るいるものか。あればあるほど累るいだ」「御ご叔母おばさんは承知しょうちしたのかい」「承知しょうちしない」「承知しょうちしないものを……それじゃ御ご叔母おばさんが困るこまるだろう」「やらない方ほうが困るこまるんだ」「だって御ご叔母おばさんは始終しじゅう君きみがむやみな事ことをしやしまいかと思っおもって心配しんぱいしているんじゃないか」「僕ぼくの母ははは偽物にせものだよ。君きみらがみんな欺かあざむかれているんだ。母ははじゃない謎なぞだ。澆季ぎょうきの文明ぶんめいの特産とくさん物ものだ」「そりゃ、あんまり……」「君きみは本当ほんとうの母ははでないから僕ぼくが僻んひがんでいると思っおもっているんだろう。それならそれで好いよいさ」「しかし……」「君きみは僕ぼくを信用しんようしないか」「無論むろん信用しんようするさ」「僕ぼくの方ほうが母ははより高いたかいよ。賢いかしこいよ。理由りゆうが分っわかっているよ。そうして僕ぼくの方ほうが母ははより善人ぜんにんだよ」 宗近むねちか君きみは黙っだまっている。
甲野こうのさんは続けつづけた。
――「母ははの家いえを出でてくれるなと云ういうのは、出でてくれと云ういう意味いみなんだ。財産ざいさんを取れとれと云ういうのは寄こせよこせと云ういう意味いみなんだ。世話せわをして貰いもらいたいと云ういうのは、世話せわになるのが厭いやだと云ういう意味いみなんだ。――だから僕ぼくは表ひょう向むかい母ははの意志いしに忤って、内実ないじつは母ははの希望きぼう通つうにしてやるのさ。――見みたまえ、僕ぼくが家いえを出でたあとは、母ははが僕ぼくがわるくって出でたように云ういうから、世間せけんもそう信じるしんじるから――僕ぼくはそれだけの犠牲ぎせいをあえてして、母ははや妹いもうとのために計っけいってやるんだ」 宗近むねちか君きみは突然とつぜん椅子いすを立ったって、机つくえの角かくまで来るくると片肘かたひじを上うえに突いついて、甲野こうのさんの顔かおを掩いおおいかぶすように覗き込みのぞきこみながら、「貴様きさま、気きが狂っくるったか」と云っいった。
「気違きちがいは頭あたまから承知しょうちの上うえだ。――今までいままででも蔭かげじゃ、馬鹿ばかの気違きちがいのと呼びよびつづけに呼ばよばれていたんだ」 この時宗じしゅう近きん君きみの大きなおおきな丸いまりい眼めから涙なみだがぽたぽたと机つくえの上うえのレオパルジに落ちおちた。
「なぜ黙っだまっていたんだ。向むかいを出しだしてしまえば好いよいのに……」「向むかいを出しだしたって、向むかいの性格せいかくは堕落だらくするばかりだ」「向むかいを出さださないまでも、こっちが出るでるには当るあたるまい」「こっちが出でなければ、こっちの性格せいかくが堕落だらくするばかりだ」「なぜ財産ざいさんをみんなやったのか」「要らいらないもの」「ちょっと僕ぼくに相談そうだんしてくれれば好かっよかったのに」「要らいらないものをやるのに相談そうだんの必要ひつようもなにもないからさ」 宗近むねちか君きみはふうんと云っいった。
「僕ぼくに要らいらない金きんのために、義理ぎりのある母ははや妹いもうとを堕落だらくさせたところが手柄てがらにもならない」「じゃいよいよ家いえを出るでる気きだね」「出るでる。おれば両方りょうほうが堕落だらくする」「出でてどこへ行くいく」「どこだか分らわからない」 宗近むねちか君きみは机つくえの上うえにあるレオパルジを無意味むいみに取っとって、背皮せがわを竪たてに、勾配こうばいのついた欅けやきの角かくでとんとんと軽くかるく敲きたたきながら、少しすこし沈吟ちんぎんの体からだであったが、やがて、「僕ぼくのうちへ来きないか」と云ういう。
「君きみのうちへ行っいったって仕方しかたがない」「厭いやかい」「厭いやじゃないが、仕方しかたがない」 宗近むねちか君きみはじっと甲野こうのさんを見みた。
「甲野こうのさん。頼むたのむから来きてくれ。僕ぼくや阿父あちちのためはとにかく、糸いと公こうのために来きてやってくれ」「糸いと公こうのために?」「糸いと公こうは君きみの知己ちきだよ。御ご叔母おばさんや藤尾ふじおさんが君きみを誤解ごかいしても、僕ぼくが君きみを見み損なっそこなっても、日本にっぽん中なかがことごとく君きみに迫害はくがいを加えくわえても、糸いと公こうだけはたしかだよ。糸いと公こうは学問がくもんも才気さいきもないが、よく君きみの価値かちを解しかいしている。君きみの胸むねの中なかを知りしり抜いぬいている。糸いと公こうは僕ぼくの妹いもうとだが、えらい女おんなだ。尊いとうとい女おんなだ。糸いと公こうは金きんが一いち文ぶんもなくっても堕落だらくする気遣きづかいのない女おんなだ。――甲野こうのさん、糸いと公こうを貰っもらってやってくれ。家いえを出でても好いよい。山やまの中なかへ這入っはいっても好いよい。どこへ行っいってどう流浪るろうしても構わかまわない。何なんでも好いよいから糸いと公こうを連れつれて行っいってやってくれ。――僕ぼくは責任せきにんをもって糸いと公こうに受合っうけあって来きたんだ。君きみが云ういう事ことを聞いきいてくれないと妹いもうとに合すあわす顔かおがない。たった一人ひとりの妹いもうとを殺さころさなくっちゃならない。糸いと公こうは尊いとうとい女おんなだ、誠まことのある女おんなだ。正直しょうじきだよ、君きみのためなら何なんでもするよ。殺すころすのはもったいない」 宗近むねちか君きみは骨張っほねばった甲野こうのさんの肩かたを椅子いすの上うえで振り動かしふりうごかした。
17/19