虞美人草

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九

第 9 章
真葛さねかずらが原はらに女郎花おみなえしが咲いさいた。
すらすらと薄うすを抜けぬけて、悔かいある高きたかき身みに、秋風あきかぜを品しなよく避けさけて通すとおす心細こころぼそさを、秋あきは時雨しぐれて冬ふゆになる。
茶ちゃに、黒くろに、ちりちりに降るふる霜しもに、冬ふゆは果てしはてしなく続くつづくなかに、細いほそい命いのちを朝夕あさゆうに頼み少なくたのみすくなく繋つなぎなぐ。
冬ふゆは五ご年ねんの長きながきを厭わいとわず。
淋しさびしき花はなは寒いさむい夜よるを抜け出でぬけいでて、紅緑こうりょくに貧ひんを知らしらぬ春はるの天下てんかに紛れ込んまぎれこんだ。
地ちに空そらに春風しゅんぷうのわたるほどは物ものみな燃え立っもえたって富貴ふうきに色づくいろづくを、ひそかなる黄きを、一いち本ほんの細ほそき末すえにいただいて、住むすむまじき世よに肩身かたみ狭くせまく憚かりはばかりの呼吸こきゅうを吹くふくようである。
今までいままでは珠たまよりも鮮やかあざやかなる夢ゆめを抱いいだいていた。
真しん黒闇こくあんに据えすえた金剛石こんごうせきにわが眼めを授けさずけ、わが身みを与えあたえ、わが心こころを託したくして、その他ほかなる右みぎも左ひだりりも気きに懸けるかける暇ひまもなかった。
懐ふところに抱くいだく珠たまの光りひかりを夜よるに抜いぬいて、二百にひゃく里さとの道みちを遥々はるばると闇やみの袋ふくろより取り出しとりだした時じ、珠たまは現実げんじつの明海めいかいに幾分いくぶんか往昔おうせきの輝きかがやきを失っうしなった。
小夜子さよこは過去かこの女おんなである。
小夜子さよこの抱けるいだけるは過去かこの夢ゆめである。
過去かこの女おんなに抱かかかえかれたる過去かこの夢ゆめは、現実げんじつと二に重じゅうの関せきを隔てへだてて逢うあう瀬せはない。
たまたまに忍んしのんで来れこれば犬いぬが吠えるほえる。
自からみずからも、わが来るくる所ところではないか知らしらんと思うおもう。
懐ふところに抱くいだく夢ゆめは、抱くいだくまじき罪つみを、人目ひとめを包むつつむ風呂敷ふろしきに蔵しぞうしてなおさらに疑ぎを路上ろじょうに受じゅくるような気きがする。
過去かこへ帰ろうかえろうか。
水みずのなかに紛れ込んまぎれこんだ一雫ひとしずくの油あぶらは容易よういに油壺あぶらつぼの中なかへ帰るかえる事ことは出来できない。
いやでも応おうでも水みずと共ともに流れながれねばならぬ。
夢ゆめを捨てようすてようか。
捨てすてられるものならば明海めいかいへ出でぬうちに捨てすててしまう。
捨てれすてれば夢ゆめの方ほうで飛びついとびついて来るくる。
自分じぶんの世界せかいが二につに割れわれて、割れわれた世界せかいが各自かくじに働きはたらき出すだすと苦しいくるしい矛盾むじゅんが起るおこる。
多くおおくの小説しょうせつはこの矛盾むじゅんを得意とくいに描くえがく。
小夜子さよこの世界せかいは新橋しんばしの停車場ていしゃじょうへぶつかった時じ、劈痕が入っはいった。
あとは割れるわれるばかりである。
小説しょうせつはこれから始まるはじまる。
これから小説しょうせつを始めるはじめる人ひとの生活せいかつほど気の毒きのどくなものはない。
小野おのさんも同じおなじ事ことである。
打ち遣っうちやった過去かこは、夢ゆめの塵ごみをむくむくと掻き分けかきわけて、古ぼけふるぼけた頭あたまを歴史れきしの芥溜はきだめから出すだす。
おやと思うおもう間まに、ぬっくと立ったって歩いあるいて来るくる。
打ち遣っうちやった時じに、生息せいそくの根ねを留めとめて置かおかなかったのが無念むねんであるが、生息せいそくは断わりことわりもなく向むかいで吹き返しふきかえしたのだから是非ぜひもない。
立ち枯れたちがれの秋草あきくさが気き紛ふんの時節じせつを誤っあやまって、暖だんたかき陽炎かげろうのちらつくなかに甦えるよみがえるのは情けないなさけない。
甦っよみがえったものを打ち殺すうちころすのは詩人しじんの風流ふうりゅうに反するはんする。
追いつかおいつかれれば労らいたわらねば済ますまぬ。
生れうまれてから済ますまぬ事ことはただの一度いちどもした事ことはない。
今後こんごとてもする気きはない。
済ますまぬ事ことをせぬように、また自分じぶんにも済むすむように、小野おのさんはちょっと未来みらいの袖そでに隠れかくれて見みた。
紫むらさきの匂においは強くつよく、近づいちかづいて来るくる過去かこの幽霊ゆうれいもこれならばと度胸どきょうを据えすえかける途端とたんに小夜子さよこは新橋しんばしに着いついた。
小野おのさんの世界せかいにも劈痕が入るはいる。
作者さくしゃは小夜子さよこを気の毒きのどくに思うおもうごとくに、小野おのさんをも気の毒きのどくに思うおもう。
「阿父あちちは」と小野おのさんが聞くきく。
「ちょっと出でました」と小夜子さよこは何なんとなく臆しおくしている。
引き越しひきこして新たあらたに家いえをなす翌日よくじつより、親おや一人ひとりに、子こ一人ひとりに春はる忙がしいそがしき世帯せたいは、蒸れむれやすき髪かみに櫛くしの歯はを入れるいれる暇ひまもない。
不断ふだん着きの綿入わたいれさえ見すぼらしくみすぼらしく詩人しじんの眼めに映るうつる。
――粧しょうは鏡かがみに向っむかって凝らすこらす、玻璃はり瓶びん裏うらに薔薇ばらの香こうを浮かしうかして、軽くかるく雲鬟うんかんを浸しひたし去るさる時じ、琥珀こはくの櫛くしは条々じょうじょうの翠みどりを解くとく。
――小野おのさんはすぐ藤尾ふじおの事ことを思い出しおもいだした。
これだから過去かこは駄目だめだと心こころのうちに語るかたるものがある。
「御ご忙しいいそがしいでしょう」「まだ荷物にもつなどもそのままにしております……」「御ご手伝てつだいに出るでるつもりでしたが、昨日きのうも一昨いっさく日ひも会かいがありまして……」 日ごとひごとの会かいに招かまねかるる小野おのさんはその方面ほうめんに名なを得とくたる証拠しょうこである。
しかしどんな方面ほうめんか、小夜子さよこには想像そうぞうがつかぬ。
ただ己れおのれよりは高こう過ぎすぎて、とても寄りつけよりつけぬ方面ほうめんだと思うおもう。
小夜子さよこは俯向いうつむいて、膝ひざに載せのせた右手みぎての中指なかゆびに光るひかる金きんの指輪ゆびわを見みた。
――藤尾ふじおの指輪ゆびわとは無論むろん比較ひかくにはならぬ。
小野おのさんは眼めを上げあげて部屋へやの中なかを見み廻わしまわした。
低いひくい天井てんじょうの白茶けしらちゃけた板いたの、二にた所ところまで節穴ふしあなの歴然れきぜんと見えるみえる上うえ、雨あめ漏ろうの染みしみを侵しおかして、ここかしこと蜘蛛くもの囲かこいを欺くあざむく煤すすがかたまって黒くくろく釣りつりを懸けかけている。
左ひだりから四よん本ほん目めの桟さんの中なかほどを、杉箸すぎばしが一いち本ほん横よこに貫ぬいつらぬいて、長いながい方ほうの端はしが、思うおもうほど下したに曲がっまがっているのは、立ち退いたちのいた以前いぜんの借主かりぬしが通すとおす縄なわに胸むねを冷やすひやす氷嚢ひょうのうでもぶら下げぶらさげたものだろう。
次の間つぎのまを立てたて切るきる二に枚ばいの唐紙とうしは、洋紙ようしに箔はくを置いおいて英吉利いぎりすめいた葵あおいの幾何きか模様もようを規則きそく正しくただしく数十すうじゅう個こ並べならべている。
屋敷やしきらしい縁えんの黒塗くろぬりがなおさら卑しいいやしい。
庭にわは二にた間まを貫ぬくつらぬく椽えんに沿うそうて勝手にかってに折れ曲るおれまがると云ういう名なのみで、幅はばは茶ちゃ献上けんじょうほどもない。
丈たけに足らあしらぬ檜ひのきが春はるに用ようなき、去年きょねんの葉はを硬くかたく尖らしとがらして、瘠せこけやせこけて立つたつ後ろうしろは、腰高こしだか塀へいに隣家りんかの話はなしが手てに取るとるように聞えるきこえる。
家いえは小野おのさんが孤こ堂どう先生せんせいのために周旋しゅうせんしたに相違そういない。
しかし極めてきわめて下卑げびている。
小野おのさんは心こころのうちに厭いやな住居じゅうきょだと思っおもった。
どうせ家いえを持つもつならばと思っおもった。
袖垣そでがきに辛夷こぶしを添わそわせて、松まつ苔こけを葉蘭はらんの影かげに畳むたたむ上うえに、切り立てきりたての手拭てぬぐいが春風しゅんぷうに揺らゆらつくような所ところに住んすんで見みたい。
――藤尾ふじおはあの家いえを貰うもらうとか聞いきいた。
「御蔭みかげさまで、好いよい家いえが手てに入りいりまして……」と誇るほこる事ことを知らしらぬ小夜子さよこは云ういう。
本当ほんとうに好いよい家いえと心得こころえているなら情けないなさけない。
ある人ひとに奴やつ鰻うなぎを奢っおごったら、御蔭様みかげさまで始めはじめて旨いうまい鰻うなぎを食べたべましてと礼れいを云っいった。
奢っおごった男おとこはそれより以来いらいこの人ひとを軽蔑けいべつしたそうである。
いじらしいのと見縊るみくびるのはある場合ばあいにおいて一致いっちする。
小野おのさんはたしかに真面目まじめに礼れいを云っいった小夜子さよこを見縊っみくびった。
しかしそのうちに露ろいじらしいところがあるとは気きがつかなかった。
紫むらさきが祟ったたったからである。
祟たたりがあると眼玉めだまが三角さんかくになる。
「もっと好いよい家いえでないと御ご気きに入るはいるまいと思っおもって、方々かたがた尋ねたずねて見みたんですが、あいにく恰好かっこなのがなくって……」と云いいい懸けるかけると、小夜子さよこは、すぐ、「いえこれで結構けっこうですわ。父ちちも喜んよろこんでおります」と小野おのさんの言葉ことばを打ち消しうちけした。
小野おのさんは吝嗇りんしょくな事ことを云ういうと思っおもった。
小夜子さよこは知らしらぬ。
細いほそい面めんをちょっと奥おくへ引いひいて、上眼うわめに相手あいての様子ようすを見るみる。
どうしても五ご年ねん前まえとは変っかわっている。
――眼鏡めがねは金きんに変っかわっている。
久留米くるめ絣かすりは背広せびろに変っかわっている。
五ご分ぶん刈かりは光沢こうたくのある毛けに変っかわっている。
――髭ひげは一躍いちやくして紳士しんしの域いきに上るのぼる。
小野おのさんは、いつの間まにやら黒いくろいものを蓄えたくわえている。
もとの書生しょせいではない。
襟えりは卸しおろし立てたてである。
飾りかざりには留針とめばりさえ肩かたを動かすうごかすたびに光るひかる。
鼠ねずみの勝っかった品しなの好いよい胴衣どういの隠いん袋ふくろには――恩賜おんしの時計とけいが這入っはいっている。
この上うえに金きん時計とけいをとは、小しょうさき胸むねの小夜子さよこが夢ゆめにだも知るしるはずがない。
小野おのさんは変っかわっている。
五ご年ねんの間ま一日いちにち一夜いちやも懐ふところに忘わすれられぬ命いのちより明らかあきらかな夢ゆめの中なかなる小野おのさんはこんな人ひとではなかった。
五ご年ねんは昔むかしである。
西東にしひがし長短ちょうたんの袂たもとを分かっわかって、離愁りしゅうを鎖すさす暮くれ雲くもに相思そうしの関せきを塞かさいかれては、逢うあう事ことの疎くうとくなりまさるこの年月としつきを、変らかわらぬとのみは思いおもいも寄らよらぬ。
風かぜ吹けふけば変るかわる事ことと思いおもい、雨あめ降れふれば変るかわる事ことと思いおもい、月つきに花はなに変るかわる事ことと思いおもい暮らしくらしていた。
しかし、こうは変るかわるまいと念じねんじてプラットぷらっと・フォームふぉーむへ下りくだりた。
小野おのさんの変りかわりかたは過去かこを順当じゅんとうに延ばしのばして、健気けなげに生い立っおいたった阿蒙あもうの変りかわりかたではない。
色いろの褪めさめた過去かこを逆ぎゃくに捩じ伏せねじふせて、目醒しめざましき現在げんざいを、相手あいてが新橋しんばしへ着くつく前まえの晩ばんに、性急せいきゅうに拵らえこしらえ上げあげたような変りかわりかたである。
小夜子さよこには寄りつけよりつけぬ。
手てを延ばしのばしても届きとどきそうにない。
変りかわりたくても変らかわられぬ自分じぶんが恨めしいうらめしい気きになる。
小野おのさんは自分じぶんと遠ざかるとおざかるために変っかわったと同然どうぜんである。
新橋しんばしへは迎むかえに来きてくれた。
車くるまを傭っやとって宿やどへ案内あんないしてくれた。
のみならず、忙がしいいそがしいうちを無理むりに算段さんだんして、蝸牛かぎゅう親子おやこして寝るねる庵いおを借りかりてくれた。
小野おのさんは昔むかしの通りとおり親切しんせつである。
父ちちも左様さように云ういう。
自分じぶんもそう思うおもう。
しかし寄りつけよりつけない。
プラットぷらっと・フォームふぉーむを下りるおりるや否いなや御ご荷物にもつをと云っいった。
小さいちいさい手提てさげの荷ににはならず、持っもって貰うもらうほどでもないのを無理むりに受取っうけとって、膝掛ひざかけといっしょに先さきへ行っいった、刻み足きざみあしの後ろ姿うしろすがたを見みたときに――これはと思っおもった。
先さきへ行くいくのは、遥々はるばると来きた二人ふたりを案内あんないするためではなく、時候じこう後れおくれの親子おやこを追い越しおいこして馳はせけ抜けるぬけるためのように見えるみえる。
割符わっぷとは瓜二つうりふたつを取っとってつけて較べるくらべるための証拠しょうこである。
天てんに懸るかかる日ひよりも貴しとうとしと護るまもるわが夢ゆめを、五ご年ねんの長きながき香こう洩るもる「時じ」の袋ふくろから現在げんざいに引き出しひきだして、よも間ま違いはあるまいと見較べみくらべて見るみると、現在げんざいははやくも遠くとおくに立ち退いたちのいている。
握るにぎる割符わっぷは通用つうようしない。
始めはじめは穴あなを出でででて眩きくるめき故こと思うおもう。
少しすこし慣れなれたらばと、逝くいく日ひを杖つえに、一度いちど逢いあい、二に度ど逢いあい、三さん度ど四よん度どと重なるかさなるたびに、小野おのさんはいよいよ丁寧ていねいになる。
丁寧ていねいになるにつけて、小夜子さよこはいよいよ近寄りちかよりがたくなる。
やさしく咽喉のどに滑べりすべり込むごむ長いながい顎あごを奥おくへ引いひいて、上眼うわめに小野おのさんの姿すがたを眺めながめた小夜子さよこは、変るかわる眼鏡めがねを見みた。
変るかわる髭ひげを見みた。
変るかわる髪かみの風かぜと変るかわる装そうとを見みた。
すべての変るかわるものを見みた時じ、心こころの底そこでそっと嘆息たんそくを吐いはいた。
ああ。
「京都きょうとの花はなはどうです。もう遅いおそいでしょう」 小野おのさんは急きゅうに話はなしを京都きょうとへ移しうつした。
病人びょうにんを慰めるなぐさめるには病気びょうきの話はなしをする。
好かよしみかぬ昔むかしに飛び込んとびこんで、ありがたくほどけ掛けかけた記憶きおくの綯を逆ぎゃくに戻すもどすは、詩人しじんの同情どうじょうである。
小夜子さよこは急きゅうに小野おのさんと近づいちかづいた。
「もう遅いおそいでしょう。立つたつ前まえにちょっと嵐山あらしやまへ参りまいりましたがその時じがちょうど八はち分ぶん通りとおりでした」「そのくらいでしょう、嵐山あらしやまは早いはやいですから。それは結構けっこうでした。どなたとごいっしょに」 花はなを看るみる人ひとは星月夜ほしつきよのごとく夥しいおびただしい。
しかしいっしょに行くいく人ひとは天てんを限りかぎり地ちを限っかぎって父ちちよりほかにない。
父ちちでなければ――あとは胸むねのなかでも名なは言わいわなかった。
「やっぱり阿父あちちとですか」「ええ」「面白かっおもしろかったでしょう」と口くちの先さきで云ういう。
小夜子さよこはなぜか情けないなさけない心持こころもちがする。
小野おのさんは出直しでなおした。
「嵐山あらしやまも元もととはだいぶ違っちがったでしょうね」「ええ。大悲だいひ閣かくの温泉おんせんなどは立派りっぱに普請ふしんが出来できて……」「そうですか」「小督こごうの局きょくの墓はかがござんしたろう」「ええ、知っしっています」「彼所かしこいらは皆掛かいがけ茶屋ちゃやばかりで大変たいへん賑やかにぎやかになりました」「毎年まいとし俗ぞくになるばかりですね。昔むかしの方ほうがよほど好いよい」 近寄れちかよれぬと思っおもった小野おのさんは、夢ゆめの中なかの小野おのさんとぱたりと合っあった。
小夜子さよこははっと思うおもう。
「本当ほんとうに昔むかしの方ほうが……」と云いいい掛けかけて、わざと庭にわを見るみる。
庭にわには何になんにもない。
「私わたくしがごいっしょに遊びあそびに行っいった時分じぶんは、そんなに雑沓ざっとうしませんでしたね」 小野おのさんはやはり夢ゆめの中なかの小野おのさんであった。
庭にわを向いむかいた眼めは、ちらりと真向まっこうに返るかえる。
金縁きんぶちの眼鏡めがねと薄黒いうすぐろい口髭くちひげがすぐ眸ひとみに映るうつる。
相手あいては依然いぜんとして過去かこの人ひとではない。
小夜子さよこはゆかしい昔話むかしばなしの緒いとぐちの、するすると抜け出しぬけだしそうな咽喉のどを抑えおさえて、黙っだまって口くちをつぐんだ。
調子ちょうしづいて角かくを曲ろうまがろうとする、どっこいと突き当るつきあたる事ことがある。
品しなのいい紳士しんし淑女しゅくじょの対話たいわも胸むねのうちでは始終しじゅう突き当っつきあたっている。
小野おのさんはまた口くちを開くひらく番ばんとなる。
「あなたはあの時分じぶんと少しすこしも違っちがっていらっしゃいませんね」「そうでしょうか」と小夜子さよこは相手あいてを諾するだくするような、自分じぶんを疑ううたがうような、気きの乗らのらない返事へんじをする。
変っかわっておりさえすればこんなに心配しんぱいはしない。
変るかわるのは歳としばかりで、いたずらに育っそだった縞柄しまがらと、用いもちい古ふるるした琴ことが恨めしいうらめしい。
琴ことは蔽へいのまま床の間とこのまに立て掛けたてかけてある。
「私わたくしはだいぶ変りかわりましたろう」「見違えるみちがえるように立派りっぱに御成りおなりです事こと」「ハハハハははははそれは恐れ入りおそれいりますね。まだこれからどしどし変るかわるつもりです。ちょうど嵐山あらしやまのように……」 小夜子さよこは何なんと答えこたえていいか分らわからない。
膝ひざに手てを置いおいたまま、下したを向いむかいている。
小さいちいさい耳朶みみたぶが、行儀ぎょうぎよく、鬢びんの末すえを潜り抜けくぐりぬけて、頬ほおと頸くびの続つづく目めが、暈しぼかしたように曲線きょくせんを陰かげに曳いひいて去るさる。
見事みごとな画がである。
惜しいおしい事ことに真向まっこうに座っすわった小野おのさんには分からぶんからない。
詩人しじんは感覚かんかく美びを好むこのむ。
これほどの肉にくの上げあげ具合ぐあい、これほどの肉にくの退きしりぞき具合ぐあい、これほどの光線こうせんに、これほどの色いろの付きつき具合ぐあいは滅多めったに見みられない。
小野おのさんがこの瞬間しゅんかんにこの美しいうつくしい画がを捕えとらえたなら、編み上げあみあげの踵かかとを、地ちに滅めつり込むごむほどに回らしまわらして、五ご年ねんの流りゅうを逆ぎゃくに過去かこに向っむかって飛びついとびついたかも知れしれぬ。
惜しいおしい事ことに小野おのさんは真向まっこうに坐っすわっている。
小野おのさんはただ面白味おもしろみのない詩趣ししゅに乏しいとぼしい女おんなだと思っおもった。
同時どうじに波なみを打っうって鼻はなの先さきに翻えるひるがえる袖そでの香こうが、濃こき紫むらさきの眉間みけんを掠めかすめてぷんとする。
小野おのさんは急きゅうに帰りかえりたくなった。
「また来きましょう」と背広せびろの胸むねを合せるあわせる。
「もう帰るかえる時分じぶんですから」と小さなちいさな声こえで引き留めようひきとめようとする。
「また来きます。御ご帰りかえりになったら、どうぞ宜しくよろしく」「あの……」と口籠っくちごもっている。
相手あいては腰こしを浮かしうかしながら、あののあとを待ちまち兼ねるかねる。
早くはやくと急き立てせきたてられる気きがする。
近寄れちかよれぬものはますます離れはなれて行くいく。
情ないなさけない。
「あの……父ちちが……」 小野おのさんは、何なんとも知れしれず重いおもい気分きぶんになる。
女おんなはますます切り出しきりだし悪くわるくなる。
「また上がりあがります」と立ち上がるたちあがる。
云おういおうと思うおもう事ことを聞いきいてもくれない。
離れるはなれるものは没義道もぎどうに離れはなれて行くいく。
未練みれんも会釈えしゃくもなく離れはなれて行くいく。
玄関げんかんから座敷ざしきに引き返しひきかえした小夜子さよこは惘然ぼうぜんとして、椽えんに近くちかく坐っすわった。
降らふらんとして降りふり損ねそこねた空そらの奥おくから幽かかすかな春はるの光りひかりが、淡あわき雲くもに遮ぎらさえぎられながら一いち面めんに照りてり渡るわたる。
長閑かのどかさを抑えつけおさえつけたる頭あたまの上うえは、晴はれるるようで何なんとなく欝陶しいうっとうしい。
どこやらで琴ことの音おとがする。
わが弾くひくべきは塵ごみも払わはらわず、更紗さらさの小包こづつみを二につ並べならべた間まに、袋ふくろのままで淋しくさびしく壁かべに持たもたれている。
いつ欝金うこんの掩を除けるのける事ことやら。
あの曲きょくはだいぶ熟れこなれた手てに違いない。
片々へんぺんに抑えおさえて片々へんぺんに弾くひく爪つめの、安らかやすらかに幾いく関せきの柱はしらを往きゆきつ戻りもどりつして、春はるを限りかぎりと乱らんるる色いろは甲斐甲斐しくかいがいしくも豊かゆたかである。
聞いきいていると、あの雨あめをつい昨日きのうのように思うおもう。
ちらちらに昼ひるの蛍ほたると竹垣たけがきに滴るしたたる連れん※に、朝あさから降っふって退屈たいくつだと阿父あちち様ようがおっしゃる。
繻子しゅすの袖口そでぐちは手頸てくびに滑りすべりやすい。
絹糸けんしを細長くほそながく目めに貫いつらぬいたまま、針はり差さの紅くれないをぷつりと刺しさして立ち上がるたちあがる。
盛り上がるもりあがる古桐こきりの長いながい胴どうに、鮮かあざやかに眼めを醒ませさませと、への字じに渡すわたす糸いとの数々かずかずを、幾度いくどか抑えおさえて、幾度いくどか撥ねはねた。
曲きょくはたしか小督こごうであった。
狂うくるう指ゆびの、憂うれいき昼ひるを、くちゃくちゃに揉みもみこなしたと思うおもう頃ころ、阿父あちち様ようは御苦労ごくろうと手ずからてずから御ご茶ちゃを入れいれて下さっくださった。
京きょうは春はるの、雨あめの、琴ことの京きょうである。
なかでも琴ことは京きょうによう似合うにあう。
琴ことの好よしみな自分じぶんは、やはり静かしずかな京きょうに住むすむが分ぶんである。
古いふるい京きょうから抜けぬけて来きた身みは、闇やみを破るやぶる烏からすの、飛び出しとびだして見みて、そぞろ黒くろきに驚ろきおどろき、舞い戻らまいもどらんとする夜よるはからりと明け離れあけはなれたようなものである。
こんな事ことなら琴ことの代りかわりに洋琴ようきんでも習っならって置けおけば善かっよかった。
英語えいごも昔むかしのままで、今いまはおおかた忘れわすれている。
阿父あちちは女おんなにそんなものは必要ひつようがないとおっしゃる。
先さきの世よに住みすみ古ふるるしたる人ひとを便りたよりに、小野おのさんには、追いつくおいつく事ことも出来できぬように後れおくれてしまった。
住みすみ古ふるるした人ひとの世よはいずれ長いながい事ことはあるまい。
古ふるるい人ひとに先だたさきだたれ、新らしいあたらしい人ひとに後れれおくれれば、今日きょうを明日あすと、その日ひに数すうる命いのちは、文ぶんも理りも危いあぶない。
…… 格子こうしががらりと開くひらく。
古ふるの人ひとは帰っかえった。
「今いま帰っかえったよ。どうも苛いむごい埃ほこりでね」「風かぜもないのに?」「風かぜはないが、地面じめんが乾いかわいてるんで――どうも東京とうきょうと云ういう所ところは厭いやな所ところだ。京都きょうとの方ほうがよっぽどいいね」「だって早くはやく東京とうきょうへ引き越すひきこす、引き越すひきこすって、毎日まいにちのように云っいっていらしったじゃありませんか」「云っいってた事ことは、云っいってたが、来きて見るみるとそうでもないね」と椽えん側がわで足袋たびをはたいて座ざに直っなおった老人ろうじんは、「茶碗ちゃわんが出でているね。誰だれか来きたのかい」「ええ。小野おのさんがいらしって……」「小野おのが? そりゃあ」と云っいったが、提げさげて来きた大きなおおきな包つつみをからげた細ほそ縄なわの十じゅう文字もじを、丁寧ていねいに一いち文字もじずつほどき始めるはじめる。
「今日きょうはね。座布団ざふとんを買おうかおうと思っおもって、電車でんしゃへ乗っのったところが、つい乗りのり替かえを忘れわすれて、ひどい目めに逢っあった」「おやおや」と気の毒きのどくそうに微笑んほほえんだ娘むすめは「でも布団ふとんは御ご買いかいになって?」と聞くきく。
「ああ、布団ふとんだけはここへ買っかって来きたが、御蔭みかげで大変たいへん遅れおくれてしまったよ」と包みつつみのなかから八丈はちじょうまがいの黄きな縞しまを取り出すとりだす。
「何枚なんまい買っかっていらしって」「三さん枚ばいさ。まあ三さん枚ばいあれば当分とうぶん間に合うまにあうだろう。さあちょっと敷いしいて御覧ごらん」と一いち枚ばいを小夜子さよこの前まえへ出すだす。
「ホホホホほほほほあなた御ご敷しきなさいよ」「阿父あちちも敷くしくから、御前ごぜんも敷いしいて御覧ごらん。そらなかなか好いよいだろう」「少しすこし綿めんが硬いかたいようね」「綿めんはどうせ――価あたいが価あたいだから仕方しかたがない。でもこれを買うかうために電車でんしゃに乗りのり損なっそこなってしまって……」「乗替のりかえをなさらなかったんじゃないの」「そうさ、乗替のりかえを――車掌しゃしょうに頼んたのんで置いおいたのに。忌々しいいまいましいから帰りかえりには歩いあるいて来きた」「御ご草臥くたびれなすったでしょう」「なあに。これでも足あしはまだ達者たっしゃだからね。――しかし御蔭みかげで髯ひげも何なんも埃ほこりだらけになっちまった。こら」と右手みぎての指ゆびを四よん本ほん并べならべて櫛くしの代りかわりに顎あごの下したを梳くすくと、果してはたして薄黒いうすぐろいものが股またについて来きた。
「御ご湯ゆに御ご這入んはいんなさらないからですよ」「なに埃ほこりだよ」「だって風かぜもないのに」「風かぜもないのに埃ほこりが立つたつから妙みょうだよ」「だって」「だってじゃないよ。まあ試しためしに外そとへ出でて御覧ごらん。どうも東京とうきょうの埃ほこりには大抵たいていのものは驚ろくおどろくよ。御前ごぜんがいた時分じぶんもこうかい」「ええ随分ずいぶん苛くむごくってよ」「年々ねんねん烈しくはげしくなるんじゃないかしら。今日きょうなんぞは全くまったく風かぜはないね」と廂ひさしの外そとを下したから覗いのぞいて見るみる。
空そらは曇るくもる心持ちこころもちを透かしすかして春はるの日ひがあやふやに流れながれている。
琴ことの音おとがまだ聴えるきこえる。
「おや琴ことを弾いひいているね。――なかなか旨いうまい。ありゃ何なんだい」「当てあてて御覧ごらんなさい」「当てあてて見ろみろ。ハハハハはははは阿父あちちには分らわからないよ。琴ことを聴くきくと京都きょうとの事ことを思い出すおもいだすね。京都きょうとは静せいでいい。阿父あちちのような時代じだい後れおくれの人間にんげんは東京とうきょうのような烈しいはげしい所ところには向かむかない。東京とうきょうはまあ小野おのだの、御前ごぜんだののような若いわかい人ひとが住まうすまう所ところだね」 時代じだい後れおくれの阿父あちちは小野おのさんと自分じぶんのためにわざわざ埃ほこりだらけの東京とうきょうへ引き越しひきこしたようなものである。
「じゃ京都きょうとへ帰りかえりましょうか」と心細いこころぼそい顔かおに笑わらいを浮べうかべて見せるみせる。
老人ろうじんは世よに疎いうといわれを憐れむあわれむ孝心こうしんと受取っうけとった。
「アハハハハあはははは本当ほんとうに帰ろうかえろうかね」「本当ほんとうに帰っかえってもようござんすわ」「なぜ」「なぜでも」「だって来きたばかりじゃないか」「来きたばかりでも構いかまいませんわ」「構わかまわない? ハハハハはははは冗談じょうだんを……」 娘むすめは下したを向いむかいた。
「小野おのが来きたそうだね」「ええ」娘むすめはやっぱり下したを向いむかいている。
「小野おのは――小野おのは何なんかね――」「え?」と首くびを上げるあげる。
老人ろうじんは娘むすめの顔かおを見みた。
「小野おのは――来きたんだね」「ええ、いらしってよ」「それで何なんかい。その、何なんも云っいって行かいかなかったのかい」「いいえ別べつに……」「何になんにも云わいわない?――待っまってれば好いよいのに」「急ぐいそぐからまた来るくるって御ご帰りかえりになりました」「そうかい。それじゃ別べつに用ようがあって来きた訳わけじゃないんだね。そうか」「阿父あちち様よう」「何なんだね」「小野おのさんは御ご変りかわりなさいましたね」「変っかわった?――ああ大変たいへん立派りっぱになったね。新橋しんばしで逢っあった時じはまるで見違えるみちがえるようだった。まあ御ご互たがいに結構けっこうな事ことだ」 娘むすめはまた下またしたを向いむかいた。
――単純たんじゅんな父ちちには自分じぶんの云ういう意味いみが徹せとおせぬと見えるみえる。
「私わたくしは昔むかしの通りとおりで、ちっとも変っかわっていないそうです。……変っかわっていないたって……」 後あとの句くは鳴るなる糸いとの尾おを素足すあしに踏むふむごとく、孤こ堂どう先生せんせいの頭あたまに響いひびいた。
「変っかわっていないたって?」と次つぎを催促さいそくする。
「仕方しかたがないわ」と小さなちいさな声こえで附けるつける。
老人ろうじんは首くびを傾けかたむけた。
「小野おのが何なんか云っいったかい」「いいえ別べつに……」 同じおなじ質問しつもんと同じおなじ返事へんじはまた繰返さくりかえされる。
水車すいしゃを踏めふめば廻るまわるばかりである。
いつまで踏んふんでも踏み切れるふみきれるものではない。
「ハハハハははははくだらぬ事ことを気きにしちゃいけない。春はるは気きが欝うつぐものでね。今日きょうなぞは阿父あちちなどにもよくない天気てんきだ」 気きが欝うつぐのは秋あきである。
餅もちと知っしって、酒さけの咎とがだと云ういう。
慰さめなぐさめられる人ひとは、馬鹿ばかにされる人ひとである。
小夜子さよこは黙っだまっていた。
「ちっと琴ことでも弾いひいちゃどうだい。気き晴はれに」 娘むすめは浮かうきかぬ顔かおを、愛嬌あいきょうに傾けかたむけて、床の間とこのまを見るみる。
軸じくは空しくむなしく落ちおちて、いたずらに余るあまる黒壁くろへきの端はしを、竪たてに截っきって、欝金うこんの蔽へいが春はるを隠さかくさず明らかあきらかである。
「まあ廃しはいしましょう」「廃すはいす? 廃すはいすなら御ご廃しはいし。――あの、小野おのはね。近頃ちかごろ忙がしいいそがしいんだよ。近々ちかぢか博士論文はかせろんぶんを出すだすんだそうで……」 小夜子さよこは銀時計ぎんとけいすらいらぬと思うおもう。
百ひゃくの博士はかせも今いまの己れおのれには無益むえきである。
「だから落ちついおちついていないんだよ。学問がくもんに凝るこると誰だれでもあんなものさ。あんまり心配しんぱいしないがいい。なに緩くゆるくりしたくっても、していられないんだから仕方しかたがない。え? 何なんだって」「あんなにね」「うん」「急いいそいでね」「ああ」「御ご帰りかえりに……」「御ご帰りかえりに――なった? ならないでも? 好さよさそうなものだって仕方しかたがないよ。学問がくもんで夢中むちゅうになってるんだから。――だから一いち日ひ都合つごうをして貰っもらって、いっしょに博覧会はくらんかいでも見ようみようって云っいってるんじゃないか。御前ごぜん話しはなしたかい」「いいえ」「話さはなさない? 話せはなせばいいのに。いったい小野おのが来きたと云ういうのに何なんをしていたんだ。いくら女おんなだって、少しすこしは口くちを利かりかなくっちゃいけない」 口くちを利けきけぬように育てそだてて置いおいてなぜ口くちを利かりかぬと云ういう。
小夜子さよこはすべての非ひを負わおわねばならぬ。
眼めの中なかが熱くあつくなる。
「なに好いよいよ。阿父あちちが手紙てがみで聞き合せるききあわせるから――悲しかなしがる事ことはない。叱っしかったんじゃない。――時じに晩ばんの御飯ごはんはあるかい」「御飯ごはんだけはあります」「御飯ごはんだけあればいい、なに御ご菜なはいらないよ。――頼んたのんで置いおいた婆ばあさんは明日あすくるそうだ。――もう少しすこし慣れるなれると、東京とうきょうだって京都きょうとだって同じおなじ事ことだ」 小夜子さよこは勝手かってへ立ったった。
孤こ堂どう先生せんせいは床の間とこのまの風呂敷ふろしき包つつみを解きほどき始めるはじめる。
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