虞美人草

15/19

十五

第 15 章
部屋へやは南みなみを向くむく。
仏蘭西ふらんす式しきの窓まどは床ゆかを去るさる事こと五ご寸すんにして、すぐ硝子がらすとなる。
明け放てあけはなてば日ひが這入るはいる。
温かいあたたかい風かぜが這入るはいる。
日ひは椅子いすの足あしで留まるとまる。
風かぜは留まるとまる事ことを知らしらぬ故こ、容赦ようしゃなく天井てんじょうまで吹くふく。
窓掛まどかけの裏うらまで渡るわたる。
からりとして朗らかほがらかな書斎しょさいになる。
仏蘭西ふらんす窓まどを右みぎに避けさけて一いち脚あしの机つくえを据えるすえる。
蒲鉾形かまぼこがたに引戸ひきどを卸せおろせば、上うえから錠じょうがかかる。
明けれあければ、緑みどりの羅紗らしゃを張り詰めはりつめた真中まなかを、斜めななめに低くひくく手元てもとへ削っけずって、背せを平らかたいらかに、書しょを開くひらくべき便宜べんぎとする。
下したは左右さゆうを銀ぎん金具かなぐの抽出ちゅうしゅつに畳みたたみ卸しおろしてその四よんつ目めが床ゆかに着くつく。
床ゆかは樟くすのきの木きの寄木よせぎに仮かり漆うるしを掛けかけて、礼れいに叶わかなわぬ靴くつの裏うらを、ともすれば危きからしめんと、てらてらする。
そのほかに洋よう卓たくがある。
チッペンデールとヌーヴォーぬーゔぉーを取り合せとりあわせたような組みくみ方ほうに、思い切っおもいきった今様いまようを華奢きゃしゃな昔むかしに忍ばししのばして、室むろの真中まなかを占領せんりょうしている。
周囲しゅういに並ぶならぶ四脚よつあしの椅子いすは無論むろん同どう式しきの構造こうぞうである。
繻子しゅすの模様もようも対たいとは思うおもうが、日除ひよけの白しろ蔽へいに、卸すおろす腰こしも、凭れるもたれる背せも、ただ心安こころやすしと気きを楽らくに落ちつけるおちつけるばかりで、目めの保養ほようにはならぬ。
書棚しょだなは壁かべに片寄せかたよせて、間まの高さたかさを九きゅう尺さし列ねつらねて戸口とぐちまで続くつづく。
組めくめば重ねかさね、離せはなせば一段いちだんの棚たなを喜んよろこんで、亡きなき父ちちが西洋せいようから取り寄せとりよせたものである。
いっぱいに並べならべた書物しょもつが紺こんに、黄きに、いろいろに、ゆかしき光ひかりを闘わすたたかわすなかに花文字はなもじの、角かく文字もじの金きんは、縦たてにも横よこにも奇麗きれいである。
小野おのさんは欽吾きんごの書斎しょさいを見るみるたびに羨しいうらやましいと思わおもわぬ事ことはない。
欽吾きんごも無論むろん嫌っいやってはおらぬ。
もとは父ちちの居間いまであった。
仕切りしきりの戸とを一いちつ明けるあけると直じか応接間おうせつかんへ抜けるぬける。
残るのこる一いちつを出るでると内うち廊下ろうかから日本にっぽん座敷ざしきへ続くつづく。
洋風ようふうの二に間まは、父ちちが手狭てぜまな住居じゅうきょを、二十にじゅう世紀せいきに取りとり拡げひろげた便利べんりの結果けっかである。
趣味しゅみに叶うかなうと云わいわんよりは、むしろ実用じつように逼らせまられて、時好じこうの程度ていどに己れおのれを委い却した建築けんちくである。
さほどに嬉しいうれしい部屋へやではない。
けれども小野おのさんは非常ひじょうに羨ましうらやましがっている。
こう云ういう書斎しょさいに這入っはいって、好きすきな書物しょもつを、好きすきな時じに読んよんで、厭きあきた時分じぶんに、好きすきな人ひとと好きすきな話はなしをしたら極楽ごくらくだろうと思うおもう。
博士論文はかせろんぶんはすぐ書いかいて見せるみせる。
博士論文はかせろんぶんを書いかいたあとは後代こうだいを驚ろかすおどろかすような大おお著述ちょじゅつをして見せるみせる。
定めてさだめて愉快ゆかいだろう。
しかし今いまのような下宿げしゅく住居じゅうきょで、隣りとなり近所きんじょの乱らん調子ちょうしに頭あたまを攪き廻さかきまわされるようではとうてい駄目だめである。
今いまのように過去かこに追窮ついきゅうされて、義理ぎりや人情にんじょうのごたごたに、日夜にちや共とも心こころを使っつかっていてはとうてい駄目だめである。
自慢じまんではないが自分じぶんは立派りっぱな頭脳ずのうを持っもっている。
立派りっぱな頭脳ずのうを持っもっているものは、この頭脳ずのうを使っつかって世間せけんに貢献こうけんするのが天職てんしょくである。
天職てんしょくを尽すつくすためには、尽しつくし得るうるだけの条件じょうけんがいる。
こう云ういう書斎しょさいはその条件じょうけんの一いちつである。
――小野おのさんはこう云ういう書斎しょさいに這入りはいりたくてたまらない。
高等学校こうとうがっこうこそ違えちがえ、大学だいがくでは甲野こうのさんも小野おのさんも同年どうねんであった。
哲学てつがくと純文学じゅんぶんがくは科かが異なることなるから、小野おのさんは甲野こうのさんの学力がくりょくを知りしりようがない。
ただ「哲あきら世界せかいと実じつ世界せかい」と云ういう論文ろんぶんを出しだして卒業そつぎょうしたと聞くきくばかりである。
「哲あきら世界せかいと実じつ世界せかい」の価値かちは、読まよまぬ身みに分るわかるはずがないが、とにかく甲野こうのさんは時計とけいをちょうだいしておらん。
自分じぶんはちょうだいしておる。
恩賜おんしの時計とけいは時じを計るはかるのみならず、脳のうの善悪ぜんあくをも計るはかる。
未来みらいの進歩しんぽと、学界がっかいの成功せいこうをも計るはかる。
特典とくてんに洩れもれた甲野こうのさんは大したたいした人間にんげんではないにきまっている。
その上うえ卒業そつぎょうしてからこれと云ういう研究けんきゅうもしないようだ。
深いぶかい考かんがえを内うちに蓄えたくわえているかも知れしれぬが、蓄えたくわえているならもう出すだすはずである。
出さださぬは蓄ちくがない証拠しょうこと見みて差支さしつかえない。
どうしても自分じぶんは甲野こうのさんより有益ゆうえきな材ざいである。
その有益ゆうえきな材ざいを抱いいだいて奔走ほんそうに、六十ろくじゅう円えんに、月々つきづきを衣ころも食するしょくするに、甲野こうのさんは、手てを拱いこまぬいて、徒然つれづれの日ひを退屈たいくつそうに暮らしくらしている。
この書斎しょさいを甲野こうのさんが占領せんりょうするのはもったいない。
自分じぶんが甲野こうのの身分みぶんでこの部屋へやの主人しゅじんとなる事ことが出来るできるなら、この二に年ねんの間まに相応そうおうの仕事しごとはしているものを、親譲りおやゆずりの貧乏びんぼうに、驥きも櫪に伏すふす天てんの不公平ふこうへいを、やむを得とくず、今日きょうまで忍んしのんで来きた。
一陽いちようは幸みゆきなき人ひとの上うえにも来りきたり復るもどると聞くきく。
願がんくは願がんくはと小野おのさんは日頃ひごろに念じねんじていた。
――知らしらぬ甲野こうのさんはぽつ然さとして机つくえに向っむかっている。
正面しょうめんの窓まどを明けあけたらば、石いし一級いちきゅうの歩あゆみに過ぎすぎずして、広いひろい芝生しばふを一目いちもくに見渡すみわたすのみか、朗あきらな気きが地つづきじつづきを、すぐ部屋へやのなかに這入るはいるものを、甲野こうのさんは締め切っしめきったまま、ひそりと立て籠ったてこもっている。
右手みぎての小窓こまどは、硝子がらすを下しおろした上うえに、左右さゆうから垂れたれかかる窓掛まどかけに半ばなかば蔽わおおわれている。
通うかよう光線こうせんは幽かかすかに床ゆかの上うえに落つるおつる。
窓掛まどかけは海老茶えびちゃの毛織けおりに浮出しうきだしの花はな模様もようを埃ほこりのままに、二十にじゅう日ひほどは動いうごいた事ことがないようである。
色いろもだいぶ褪めさめた。
部屋へやと調和ちょうわのない装飾そうしょくも、過渡かと時代じだいの日本にっぽんには当然とうぜんとして立派りっぱに通用つうようする。
窓掛まどかけの隙間すきまから硝子がらすへ顔かおを圧しおしつけて、外そとを覗くのぞくと扇おうぎ骨ほね木きの植込うえこみを通しとおして池いけが見えるみえる。
棒縞ぼうじまの間まから横よこへ抜けぬけた波なみ模様もようのように、途切れ途切れとぎれとぎれに見えるみえる。
池いけの筋すじ向むかいが藤尾ふじおの座敷ざしきになる。
甲野こうのさんは植込うえこみも見みず、池いけも見みず、芝生しばふも見みず、机つくえに凭っもたれかかってじっとしている。
焚きたき残さざんされた去年きょねんの石炭せきたんが、煖炉だんろのなかにただ一いち個こ冷やかひややかに春はるを観ずるかんずる体からだである。
やがて、かたりと書物しょもつを置きおき易えるかえる音おとがする。
甲野こうのさんは手垢てあかの着いついた、例れいの日ひ記帳きちょうを取り出しとりだして、誌しけ始めるはじめる。
「多くおおくの人ひとは吾われに対したいして悪わるを施さほどこさんと欲すほっす。同時どうじに吾われの、彼かれらを目しもくして凶徒きょうととなすを許さゆるさず。またその凶暴きょうぼうに抗するこうするを許さゆるさず。曰くいわく。命いのちに服せふくせざれば汝なんじを嫉まそねまんと」 細字こまじに書きかき終っおわった甲野こうのさんは、その後そのあとに片仮名かたかなでレオパルジと入れいれた。
日記にっきを右みぎに片寄せるかたよせる。
置きおき易えかえた書物しょもつを再びふたたび故この座ざに直しなおして、静かしずかに読みよみ始めるはじめる。
細いほそい青貝あおがいの軸じくを着けつけた洋よう筆ふでがころころと机つくえを滑っすべって床ゆかに落ちおちた。
ぽたりと黒いくろいものが足あしの下したに出来るできる。
甲野こうのさんは両手りょうてを机つくえの角かくに突張っつっぱって、心持こころもち腰こしを後あとへ浮かしうかしたが、眼めを落しおとしてまず黒いくろいしたたりを眺めながめた。
丸いまりい輪わに墨すみが余っよってぱっと四方しほうに飛んとんでいる。
青貝あおがいは寝返りねがえりを打っうって、薄暗いうすぐらいなかに冷たつめたそうな長いながい光ひかりを放つはなつ。
甲野こうのさんは椅子いすをずらす。
手て捜さがせに取り上げとりあげた洋よう筆ふで軸じくは父ちちが西洋せいようから買っかって来きてくれた昔むかし土産みやげである。
甲野こうのさんは、指先ゆびさきに軸じくを撮んつまんだ手てを裏返しうらがえして、拾っじゅうった物ものを、指ゆびの谷たにから滑らしすべらして掌てのひらのなかに落しおとし込むごむ。
掌てのひらの向むかいを上下じょうげに易えるかえると、長いながい軸じくは、ころころと前まえへ行きいき後ろうしろへ戻るもどる。
動くうごくたびにきらきら光るひかる。
小さいちいさい記念きねんである。
洋よう筆ふで軸じくを転がしころがしながら、書物しょもつの続きつづきを読むよむ。
頁ぺーじをはぐるとこんな事ことが、かいてある。
「剣客けんかくの剣けんを舞わすまわすに、力ちから相そう若くわかくときは剣術けんじゅつは無む術じゅつと同じおなじ。彼かれ、これを一籌いっちゅうの末すえに制するせいする事こと能わあたわざれば、学ばまなばざるものの相対そうたいして敵てきとなるに等しけれひとしければなり。人ひとを欺くあざむくもまたこれに類るいす。欺かあざむかるるもの、欺くあざむくものと一様いちようの譎詐きっさに富むとむとき、二人ふたりの位地いちは、誠実せいじつをもって相対そうたいすると毫もごうも異なることなるところなきに至るいたる。この故こに偽にせと悪わるとは優勢ゆうせいを引いひいて援護えんごとなすにあらざるよりは、不足ふそく偽にせ、不足ふそく悪わるに出会であいするにあらざるよりは、最後さいごに、至善しぜんを敵てきとするにあらざるよりは、――効果こうかを収おさむむる事こと難しむずかしとす。第だい三さんの場合ばあいは固よりもとより稀まれなり。第だい二にもまた多からおおからず。凶漢きょうかんは敗まけ徳とくにおいて匹敵ひってきするをもって常態じょうたいとすればなり。人相にんそう賊しぞくしてついに達するたっする能わあたわず、あるいは千辛せんしん万苦ばんくして始めてはじめて達したっし得とくべきものも、ただ互たがいに善ぜんを行いおこない徳とくを施こしこして容易よういに到りいたり得とくべきを思えおもえば、悲しむかなしむべし」 甲野こうのさんはまた日記にっきを取り上げとりあげた。
青貝あおがいの洋よう筆ふで軸じくを、ぽとりと墨壺すみつぼの底そこに落すおとす。
落しおとしたまま容易よういに上げあげないと思うおもうと、ついには手てを放しはなした。
レオパルジは開いひらいたまま、黄きな表紙ひょうしの日記にっきを頁ぺーじの上うえに載せるのせる。
両足りょうあしを踏張っふんばって、組み合せくみあわせた手てを、頸くび根ねにうんと椅子いすの背せに凭れかかるもたれかかる。
仰向くあおむく途端とたんに父ちちの半身はんしん画がと顔かおを見合わしみあわした。
余りあまり大きくおおきくはない。
半身はんしんとは云えいえ胴衣どういの釦ぼたんが二につ見えるみえるだけである。
服ふくはフロックふろっくと思わおもわれるが、背景はいけいの暗いくらいうちに吸い取らすいとられて、明らかあきらかなのは、わずかに洩るもるる白しろ襯衣の色いろと、額がくの広いひろい顔かおだけである。
名なのある人ひとの筆ふでになると云ういう。
三さん年ねん前まえ帰朝きちょうの節ふし、父ちちはこの一面いちめんを携えたずさえて、遥かはるかなる海うみを横浜よこはまの埠頭ふとうに上っのぼった。
それより以後いごは、欽吾きんごが仰ぐあおぐたびに壁間へきかんに懸っかかっている。
仰があおがぬ時じも壁間へきかんから欽吾きんごを見下しみくだしている。
筆ふでを執るとるときも、頬杖つらづえを突くつくときも、仮寝かりねの頭あたまを机つくえに支うかうるときも――絶えたえず見下しみくだしている。
欽吾きんごがいない時じですら、画布がふの人ひとは、常つねに書斎しょさいを見下しみくだしている。
見下すみくだすだけあって活きつきている。
眼玉めだまに締りしまりがある。
それも丹念たんねんに塗りたくっぬりたくって、根ね気任せきまかせに錬りねり上げあげた眼玉めだまではない。
一いち刷毛はけに輪廓りんかくを描いえがいて、眉まゆと睫まつげの間まに自然しぜんの影かげが出来るできる。
下瞼したまぶたの垂しで味あじが見えるみえる。
取るとる年ねんが集っつどって目尻めじりを引張るひっぱる波なみ足あしが浮くうく。
その中なかに瞳ひとみが活きつきている。
動かうごかないでしかも活きつきている刹那せつなの表情ひょうじょうを、そのまま画布がふに落しおとした手腕しゅわんは、会心かいしんの機きを早速さっそくに捕えとらえた非凡ひぼんの技わざと云わいわねばならぬ。
甲野こうのさんはこの眼めを見るみるたびに活きつきてるなと思うおもう。
想そう界さかいに一いち瀾を点ずれてんずれば、千せん瀾追うおうて至るいたる。
瀾々相そう擁しようして思索しさくの郷さとに、吾われを忘るるわするるとき、懊悩おうのうの頭あたまを上げあげて、この眼めにはたりと逢えあえば、あっ、在っあったなと思うおもう。
ある時じはおやいたかと驚ろくおどろく事ことさえある。
――甲野こうのさんがレオパルジから眼めを放しはなして、万事ばんじを椅子いすの背せに託したくした時じは、常つねよりも烈しくはげしくおやいたなと驚ろいおどろいた。
思おもう出での種しゅに、亡きなき人ひとを忍ぶしのぶ片身かたみとは、思い出すおもいだす便びんを与えあたえながら、亡きなき人ひとを故こに返さかえさぬ無惨むざんなものである。
肌はだに離さはなさぬ数すう糸いとの髪かみを、懐いなついては、泣いないては、月日つきひはただ先さきへと廻るまわるのみの浮世うきよである。
片身かたみは焼くやくに限るかぎる。
父ちちが死んしんでからの甲野こうのさんは、何なんとなくこの画がを見るみるのが厭いやになった。
離れはなれても別状べつじょうがないと落おちつきの根城ねじろを据えすえて、咫尺しせきに慈顔じがんを髣髴ほうふつするは、離れはなれたる親おやを、記憶きおくの紙かみに炙り出すあぶりだすのみか、逢えるあえる日ひを春はるに待てまてとの占うらないにもなる。
が、逢おうあおうと思っおもった本人ほんにんはもう死んしんでしまった。
活きつきているものはただ眼玉めだまだけである。
それすら活きつきているのみで毫もごうも動かうごかない。
――甲野こうのさんは茫然ぼうぜんとして、眼玉めだまを眺めながめながら考えかんがえている。
親父おやじも気の毒きのどくな事ことをした。
もう少しすこし生きれいきれば生きいきられる年ねんだのに。
髭ひげもまるで白くしろくはない。
血色けっしょくもみずみずしている。
死ぬしぬ気きは無論むろんなかったろう。
気の毒きのどくな事ことをした。
どうせ死ぬしぬなら、日本にっぽんへ帰っかえってから死んしんでくれれば好いよいのに。
言い置いいいおいて行きいきたい事ことも定めさだめてあったろう。
聞きききたい事こと、話しはなしたい事こともたくさんあった。
惜しいおしい事ことをした。
好いよい年ねんをして三さん遍へんも四よん遍へんも外国がいこくへやられて、しかも任地にんちで急病きゅうびょうに罹っかかって頓死とんししてしまった。
…… 活きつきている眼めは、壁かべの上うえから甲野こうのさんを見詰めみつめている。
甲野こうのさんは椅子いすに倚りより掛っかかったまま、壁かべの上うえを見詰めみつめている。
二人ふたりの眼めは見るみるたびにぴたりと合うあう。
じっとして動かうごかずに、合わしあわしたままの秒びょうを重ねかさねて分ぶんに至るいたると、向うむこうの眸ひとみが何なんとなく働はたらけらいて来きた。
睛ひとみを閑かん所ところに転ずるてんずる気き紛ふんの働はたらけではない。
打ち守るうちまもる光ひかりが次第しだいに強くつよくなって、眼めを抜けぬけた魂たましいがじりじりと一直線いちちょくせんに甲野こうのさんに逼っせまって来るくる。
甲野こうのさんはおやと、首くびを動どうした。
髪の毛かみのけが、椅子いすの背せを離れはなれて二に寸すんばかり前まえへ出でた時じ、もう魂たましいはいなくなった。
いつの間まにやら、眼めのなかへ引き返しひきかえしたと見えるみえる。
一いち枚ばいの額がくは依然いぜんとして一いち枚ばいの額がくに過ぎすぎない。
甲野こうのさんは再びふたたび黒いくろい頭あたまを椅子いすの肩かたに投げかけなげかけた。
馬鹿馬鹿しいばかばかしい。
が近頃ちかごろ時々ときどきこんな事ことがある。
身体しんたいが衰弱すいじゃくしたせいか、頭脳ずのうの具合ぐあいが悪いわるいからだろう。
それにしてもこの画がは厭いやだ。
なまじい親父おやじに似にているだけがなお気掛りきがかりである。
死んしんだものに心こころを残しのこしたって始まらはじまらないのは知れしれている。
ところへ死んしんだものを鼻はなの先さきへぶら下げぶらさげて思えおもえ思えおもえと催促さいそくされるのは、木刀ぼくとうを突き付けつきつけて、さあ腹はらを切れきれと逼らせまられるようなものだ。
うるさいのみか不快ふかいになる。
それもただの場合ばあいならともかくである。
親父おやじの事ことを思い出すおもいだすたびに、親父おやじに気の毒きのどくになる。
今いまの身みと、今いまの心こころは自分じぶんにさえ気の毒きのどくである。
実じつ世界せかいに住むすむとは、名なばかりの衣ころもと住じゅうと食しょくとを貪るむさぼるだけで、頭あたまはほかの国くにに、母ははも妹いもうとも忘れれわすれればこそ、こう生きいきてもいる。
実じつ世界せかいの地面じめんから、踵かかとを上げるあげる事ことを解しかいし得とくぬ利害りがいの人ひとの眼めに見みたら、定めしさだめし馬鹿ばかの骨頂こっちょうだろう。
自分じぶんは自分じぶんにすべてを棄てるすてる覚悟かくごがあるにもせよ、この体たらくていたらくを親父おやじには見せみせたくない。
親父おやじはただの人ひとである。
草葉くさばの蔭かげで親父おやじが見みていたら、定めてさだめて不肖ふしょうの子こと思うおもうだろう。
不肖ふしょうの子こは親父おやじの事ことを思い出しおもいだしたくない。
思い出せおもいだせば気の毒きのどくになる。
――どうもこの画がはいかん。
折おりがあったら蔵くらのなかへでも片づけかたづけてしまおう。
…… 十人じゅうにんは十人じゅうにんの因果いんがを持つもつ。
羹こうに懲りこりて膾なますを吹くふくは、株かぶを守っまもって兎うさぎを待つまつと、等しくひとしく一様いちようの大おお律りつに支配しはいせらる。
白日はくじつ天てんに中なかして万まん戸とに午砲ごほうの飯めしを炊ぐかしぐとき、蹠あしうら下したの民みんは褥しとね裏うらに夜半やはん太平たいへいの計けい熟すじゅくす。
甲野こうのさんがただ一人ひとり書斎しょさいで考えかんがえている間まに、母ははと藤尾ふじおは日本にっぽん間まの方ほうで小声こごえに話しはなしている。
「じゃあ、まだ話さはなさないんですね」と藤尾ふじおが云ういう。
茶ちゃの勝っかった節糸ふしいとの袷あわせは存外ぞんがい地味じみな代りかわりに、長くながく明けあけた袖そでの後あとから紅絹もみの裏うらが婀娜あだな色いろを一筋ひとすじなまめかす。
帯おびに代赭たいしゃの古代こだい模様もようが見えるみえる。
織物おりものの名なは分らわからぬ。
「欽吾きんごにかい」と母ははが聞き直すききなおす。
これもくすんだ縞物しまものを、年ねん相応そうおうに着きこなして、腹合せはらあわせの黒くろだけが目めに着くつくほどに締めしめている。
「ええ」と応じおうじた藤尾ふじおは「兄さんあにさんは、まだ知らしらないんでしょう」と念ねんを押すおす。
「まだ話さはなさないよ」と云っいったぎり、母ははは落ちついおちついている。
座布団ざふとんの縁えんを捲っまくって、「おや、煙管きせるはどうしたろう」と云ういう。
煙管きせるは火鉢ひばちの向う側むこうがわにある。
長いながい羅宇らうを、逆ぎゃくに、親指おやゆびの股またに挟んはさんで「はい」と手取てっとり形かたちの鉄瓶てつびんの上うえから渡すわたす。
「話しはなしたら何なんとか云ういうでしょうか」と差し出しさしだした手てをこちら側こちらがわへ引くひく。
「云えいえば御ご廃しはいしかい」と母ははは皮肉ひにくに云い切っいいきったまま、下したを向いむかいて、雁首がんくびへ雲井くもいを詰めるつめる。
娘むすめは答えこたえなかった。
答えこたえをすれば弱くよわくなる。
もっとも強いつよい返事へんじをしようと思うおもうときは黙っだまっているに限るかぎる。
無言むごんは黄金おうごんである。
五徳ごとくの下したで、存分ぞんぶんに吸いつけすいつけた母ははは、鼻はなから出るでる煙けむりと共ともに口くちを開いひらいた。
「話はなしはいつでも出来るできるよ。話すはなすのが好けれよければ私わたくしが話しはなして上げるあげる。なに相談そうだんするがものはない。こう云ういう風かぜにするつもりだからと云えいえば、それぎりの事ことだよ」「そりゃ私わたくしだって、自分じぶんの考かんがえがきまった以上いじょうは、兄さんあにさんがいくら何なんと云っいったって承知しょうちしやしませんけれども……」「何になんにも云えるいえる人ひとじゃないよ。相談そうだん相手あいてに出来るできるくらいなら、初手しょてからこうしないでもほかにいくらも遣けん口くちはあらあね」「でも兄さんあにさんの心持こころもち一いちつで、こっちが困るこまるようになるんだから」「そうさ。それさえなければ、話はなしも何なんも要りゃいりゃしないんだが。どうも表ひょう向家むかいかの相続人そうぞくにんだから、あの人ひとがうんと云っいってくれないと、こっちが路頭ろとうに迷うまようようになるばかりだからね」「その癖くせ、何なんか話すはなすたんびに、財産ざいさんはみんな御前ごぜんにやるから、そのつもりでいるがいいって云ういうんですがね」「云ういうだけじゃ仕方しかたがないじゃないか」「まさか催促さいそくする訳わけにも行かいかないでしょう」「なにくれるものなら、催促さいそくして貰っもらったって、構わかまわないんだが――ただ世間体せけんたいがわるいからね。いくらあの人ひとが学者がくしゃでもこっちからそうは切り出しきりだし悪いわるいよ」「だから、話しはなしたら好いよいじゃありませんか」「何なんを」「何なんをって、あの事ことを」「小野おのさんの事ことかい」「ええ」と藤尾ふじおは明暸めいりょうに答えこたえた。
「話しはなしても好いよいよ。どうせいつか話さはなさなければならないんだから」「そうしたら、どうにかするでしょう。まるっきり財産ざいさんをくれるつもりなら、くれるでしょうし。幾らいくらか分けわけてくれる気きなら、分けるわけるでしょうし、家いえが厭いやならどこへでも行くいくでしょうし」「だが、御ご母さんははさんの口くちから、御前ごぜんの世話せわにはなりたくないから藤尾ふじおをどうかしてくれとも云いいい悪いわるいからね」「だって向むかいで世話せわをするのが厭いやだって云ういうんじゃありませんか。世話せわは出来できない、財産ざいさんはやらない。それじゃ御ご母さんははさんをどうするつもりなんです」「どうするつもりも何なんも有りゃありゃしない。ただああやってぐずぐずして人ひとを困らこまらせる男おとこなんだよ」「少しすこしはこっちの様子ようすでも分りわかりそうなもんですがね」 母ははは黙っだまっている。
「この間ま金きん時計とけいを宗近むねちかにやれって云っいった時じでも……」「小野おのさんに上げるあげると御ご云いいいのかい」「小野おのさんにとは云わいわないけれども。一いちさんに上げるあげるとは云わいわなかったわ」「妙みょうだよあの人ひとは。藤尾ふじおに養子ようしをして、面倒めんどうを見みて御ご貰いもらいなさいと云ういうかと思うおもうと、やっぱり御前ごぜんを一いちにやりたいんだよ。だって一いちは一人息子ひとりむすこじゃないか。養子ようしなんぞに来きられるものかね」「ふん」と受けうけた藤尾ふじおは、細いほそい首くびを横よこに庭にわの方ほうを見るみる。
夕暮ゆうぐれを促がすうながすとのみ眺めながめられた浅葱あさぎ桜さくらは、ことごとく梢こずえを辞しじして、光るひかる茶色ちゃいろの嫩葉どんようさえ吹き出しふきだしている。
左ひだりに茂るしげる三四さんよん本ほんの扇おうぎ骨ほね木きの丸くまるく刈り込まかりこまれた間まから、書斎しょさいの窓まどが少しすこし見えるみえる。
思うさまおもうさま片寄っかたよって枝えだを伸しのした桜さくらの幹みきを、右みぎへ離れるはなれると池いけになる。
池いけが尽きれつきれば張り出しはりだした自分じぶんの座敷ざしきである。
静かしずかな庭にわを一目いちもく見み廻わしまわした藤尾ふじおは再びふたたび横顔よこがおを返しかえして、母ははを真向まっこうに見るみる。
母はははさっきから藤尾ふじおの方ほうを向いむかいたなり眼めを放さはなさない。
二人ふたりが顔かおを合せあわせた時じ、何なんを思っおもったか、藤尾ふじおは美びくしい片頬かたほおをむずつかせた。
笑わらいとまで片づかかたづかぬものは、明かあきらかに浮ばうかばぬ先さきに自然しぜんと消えるきえる。
「宗近むねちかの方ほうは大丈夫だいじょうぶなんでしょうね」「大丈夫だいじょうぶでなくったって、仕方しかたがないじゃないか」「でも断っことわって下すっくだすったんでしょう」「断っことわったんだとも。この間ま行っいった時じに、宗近むねちかの阿爺あやに逢っあって、よく理由りゆうは話しはなして来きたのさ。――帰っかえってから御前ごぜんにも話しはなした通りとおり」「それは覚えおぼえていますけれども、何なんだか判然はんぜんしないようだったから」「判然はんぜんしないのは向むかいの事ことさ。阿爺あやがあの通りとおり気きの長いながい人ひとだもんだから」「こっちでも判然はんぜんとは断わらことわらなかったんでしょう」「そりゃ今までいままでの義理ぎりがあるから、そう子供こどもの使しのように、藤尾ふじおが厭いやだと申しもうしますから、平たいらに御ご断わりことわり申しもうしますとは云えいえないからね」「なに厭いやなものは、どうしたって好くよくなりっこ無いないんだから、いっそ平ったくひらったく云っいった方ほうが好いよいんですよ」「だって、世間せけんはそうしたもんじゃあるまい。御前ごぜんはまだ年ねんが若いわかいから露骨ろこつでも構わかまわないと御ご思おもうかも知れしれないが、世の中よのなかはそうは行かいかないよ。同じおなじ断わることわるにしても、そこにはね。やっぱり蓋ふたも味あじもあるように云わいわないと――ただ怒らしいからしてしまったって仕方しかたがないから」「何なんとか云っいって断っことわったのね」「欽吾きんごがどうあっても嫁よめを貰うもらうと云っいってくれません。私わたくしも取るとる年ねんで心細うこころぼそうございますから」と一いちと息いきに下しおろして来るくる。
ちょっと御ご茶ちゃを呑むのむ。
「年ねんを取っとって心細いこころぼそいから」「心細いこころぼそいから、欽吾きんごがあのまま押し通すおしとおす料簡りょうけんなら、藤尾ふじおに養子ようしでもして掛かるかかるよりほかに致し方いたしかたがございません。すると一いちさんは大事だいじな宗近むねちか家いえの御ご相続人そうぞくにんだから私わたくし共ともへいらしっていただく訳わけにも行かいかず、また藤尾ふじおを差し上げるさしあげる訳わけにも参らまいらなくなりますから……」「それじゃ兄さんあにさんがもしや御ご嫁よめを貰うもらうと云いいい出しだしたら困るこまるでしょう」「なに大丈夫だいじょうぶだよ」と母ははは浅黒いあさぐろい額がくへ癇癪かんしゃくの八はちの字じを寄せよせた。
八はちの字じはすぐとれる。
やがて云ういう。
「貰うもらうなら、貰うもらうで、糸子いとこでも何なんでも勝手かってな人ひとを貰うもらうがいいやね。こっちはこっちで早くはやく小野おのさんを入れいれてしまうから」「でも宗近むねちかの方ほうは」「いいよ。そう心配しんぱいしないでも」と地ち烈れつ太ふとしそうに云い切っいいきった後あとで「外交官がいこうかんの試験しけんに及第きゅうだいしないうちは嫁よめどころじゃないやね」と付けつけた。
「もし及第きゅうだいしたら、すぐ何なんか云ういうでしょう」「だって、彼かれ男おとこに及第きゅうだいが出来できますものかね。考えかんがえて御覧ごらんな。――もし及第きゅうだいなすったら藤尾ふじおを差さ上うえましょうと約束やくそくしたって大丈夫だいじょうぶだよ」「そう云っいったの」「そうは云わいわないさ。そうは云わいわないが、云っいっても大丈夫だいじょうぶ、及第きゅうだい出来できっ子っこない男おとこだあね」 藤尾ふじおは笑わらいながら、首くびを傾けかたむけた。
やがてすっきと姿勢しせいを正しただして、話はなしを切り上げきりあげながら云ういう。
「じゃ宗近むねちかの御ご叔父おじはたしかに断わらことわられたと思っおもってるんですね」「思っおもってるはずだがね。――どうだい、あれから一いちの様子ようすは、少しすこしは変っかわったかい」「やっぱり同じおなじですからさ。この間ま博覧会はくらんかいへ行っいったときも相そう変らかわらずですもの」「博覧会はくらんかいへ行っいったのは、いつだったかね」「今日きょうで」と考えるかんがえる。
「一昨いっさく日ひ、一いち昨々さく日ひの晩ばんです」と云ういう。
「そんなら、もう一いちに通じつうじている時分じぶんだが。――もっとも宗近むねちかの御ご叔父おじがああ云ういう人ひとだから、ことに依るよると謎なぞが通じつうじなかったかも知れしれないね」とさも歯痒はがゆそうである。
「それとも一いちさんの事ことだから、御ご叔父おじから聞いきいても平気へいきでいるのかも知れしれないわね」「そうさ。どっちがどっちとも云えいえないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾きんごに話しはなしてしまおう。――こっちで黙っだまっていちゃ、いつまで立ったっても際限さいげんがない」「今いま、書斎しょさいにいるでしょう」 母ははは立ち上がったちあがった。
椽えん側がわへ出でた足あしを一いち歩あゆみ後あとへ返しかえして、小声こごえに「御前ごぜん、一いちに逢うあうだろう」と屈くつながら云ういう。
「逢うあうかも知れしれません」「逢っあったら少しすこし匂わしにおわして置くおく方ほうが好いよいよ。小野おのさんと大森おおもりへ行くいくとか云っいっていたじゃないか。明日あすだったかね」「ええ、明日あすの約束やくそくです」「何なんなら二人ふたりで遊んあそんで歩くあるくところでも見せみせてやると好いよい」「ホホホホほほほほ」 母ははは書斎しょさいに向うむこう。
からりとした椽えんを通り越しとおりこして、奇麗きれいな木理もくめを一いち面めんに研ぎ出しとぎだしてある西洋せいよう間まの戸とを半分はんぶん明けるあけると、立てたて切っきった中なかは暗いくらい。
円えん鈕ちゅうを前まえに押しおしながら、開くひらく戸とに身みを任せまかせて、音おとなき両足りょうあしを寄木よせぎの床ゆかに落しおとした時じ、釘くぎ舌したのかちゃりと跳ね返るはねかえる音おとがする。
窓掛まどかけに春はるを遮ぎるさえぎる書斎しょさいは、薄暗くうすぐらく二人ふたりを、人ひとの世よから仕切っしきった。
「暗いくらい事こと」と云いいいながら、母ははは真中まなかの洋よう卓たくまで来きて立ち留まるたちどまる。
椅子いすの背せの上うえに首くびだけ見えみえた欽吾きんごの後姿うしろすがたが、声こえのした方ほうへ、じいっと廻りまわり込むごむと、なぞえに引いひいた眉まゆの切れきれが三さんが一いちほどあらわれた。
黒いくろい片かた髭ひげが上唇うわくちびるを沿うそうて、自然しぜんと下りくだりて来きて、尽じんんとする角かくから、急きゅうに捲き返すまきかえす。
口くちは結んむすんでいる。
同時どうじに黒いくろい眸ひとみは眼尻めじりまで擦っすって来きた。
母ははと子こはこの姿勢しせいのうちに互たがいを認識にんしきした。
「陰気いんきだねえ」と母ははは立ちたちながら繰り返すくりかえす。
無言むごんの人ひとは立ち上るたちのぼる。
上靴うわぐつを二三にさん度ど床ゆかに鳴らしならして、洋よう卓たくの角かくまで足あしを運ばはこばした時じ、始めはじめて「窓まどを明けあけましょうか」と緩かん聞いきいた。
「どうでも――母さんははさんはどうでも構わかまわないが、ただ御前ごぜんが欝陶しいうっとうしいだろうと思っおもってさ」 無言むごんの人ひとは再びふたたび右みぎの手の平てのひらを、洋よう卓越たくえつに前まえへ出しだした。
促がさうながされたる母はははまず椅子いすに着くつく。
欽吾きんごも腰こしを卸しおろした。
「どうだね、具合ぐあいは」「ありがとう」「ちっとは好いよい方ほうかね」「ええ――まあ――」と生返事なまへんじをした時じ、甲野こうのさんは背せを引いひいて腕うでを組んくんだ。
同時どうじに洋よう卓たくの下したで、右足みぎあしの甲こうの上うえへ左ひだりの外踝がいかを乗せるのせる。
母ははの眼めからは、ただ裄ゆきの縮んちぢんだ卵色たまごいろの襯衣の袖そでが正面しょうめんに見えるみえる。
「身体しんたいを丈夫じょうぶにしてくれないとね、母さんははさんも心配しんぱいだから……」 句くの切れきれぬうちに、甲野こうのさんは自分じぶんの顎あごを咽喉のどへ押しつけおしつけて、洋よう卓たくの下したを覗き込んのぞきこんだ。
黒いくろい足袋たびが二につ重なっかさなっている。
母ははの足あしは見えみえない。
母ははは出直しでなおした。
「身体しんたいが悪いわるいと、つい気分きぶんまで欝陶しくうっとうしくなって、自分じぶんも面白くおもしろくないし……」 甲野こうのさんはふと眼めを上げあげた。
母ははは急きゅうに言葉ことばを移すうつす。
「でも京都きょうとへ行っいってから、少しすこしは好いよいようだね」「そうですか」「ホホホホほほほほ、そうですかって、他人たにんの事ことのように。――何なんだか顔色かおいろが丈夫じょうぶ丈夫じょうぶして来きたじゃないか。日ひに焼けやけたせいかね」「そうかも知れしれない」と甲野こうのさんは、首くびを向け直しむけなおして、窓まどの方ほうを見るみる。
窓掛まどかけの深いぶかい襞ひだが左右さゆうに切れるきれる間まから、扇おうぎ骨ほね木きの若葉わかばが燃えるもえるように硝子がらすに映るうつる。
「ちっと、日本にっぽん間まの方ほうへ話はなしにでも来きて御覧ごらん。あっちは、廓くるわっとして、書斎しょさいより心持こころもちが好いよいから。たまには、一いちのようにつまらない女おんなを相手あいてにして世間せけん話はなしをするのも気きが変っかわって面白いおもしろいものだよ」「ありがとう」「どうせ相手あいてになるほどの話はなしは出来できないけれども――それでも馬鹿ばかは馬鹿ばかなりにね。……」 甲野こうのさんは眩しまぶしそうな眼めを扇おうぎ骨ほね木きから放しはなした。
「扇おうぎ骨ほね木きが大変たいへん奇麗きれいに芽めを吹きふきましたね」「見事みごとだね。かえって生じしょうじいな花はなよりも、好よしみござんすよ。ここからは、たった一いち本ほんしっきゃ見えみえないね。向むかいへ廻るまわると刈り込んかりこんだのが丸くまるく揃っそろって、そりゃ奇麗きれい」「あなたの部屋へやからが一番いちばん好くよく見えるみえるようですね」「ああ、御覧ごらんかい」 甲野こうのさんは見みたとも見みないとも云わいわなかった。
母ははは云ういう。
――「それにね。近頃ちかごろは陽気ようきのせいか池いけの緋鯉ひごいが、まことによく跳るとべるんで……ここから聞えきこえますかい」「鯉こいの跳るとべる音おとがですか」「ああ」「いいえ」「聞えきこえない。聞えきこえないだろうねこう立てたて切っきって有っあっちゃあ。母さんははさんの部屋へやからでも聞えきこえないくらいだから。この間ま藤尾ふじおに母さんははさんは耳みみが悪くわるくなったって、さんざん笑わわらわれたのさ。――もっとも、もう耳みみも悪くわるくなって好いよい年ねんだから仕方しかたがないけれども」「藤尾ふじおはいますか」「いるよ。もう小野おのさんが来きて稽古けいこをする時分じぶんだろう。――何なんか用ようでもあるかい」「いえ、用ようは別べつにありません」「あれも、あんな、気きの勝っかった子こで、さぞ御前ごぜんさんの気きに障るさわる事こともあろうが、まあ我慢がまんして、本当ほんとうの妹いもうとだと思っおもって、面倒めんどうを見みてやって下さいください」 甲野こうのさんは腕組うでぐみのまま、じっと、深いぶかい瞳ひとみを母ははの上うえに据えすえた。
母ははの眼めはなぜか洋よう卓たくの上うえに落ちおちている。
「世話せわはする気きです」と徐かしずかに云ういう。
「御前ごぜんがそう云っいってくれると私わたくしもまことに安心あんしんです」「する気きどころじゃない。したいと思っおもっているくらいです」「それほどに思っおもってくれると聞いきいたら当人とうにんもさぞ喜ぶよろこぶ事ことだろう」「ですが……」で言葉ことばは切れきれた。
母ははは後あとを待つまつ。
欽吾きんごは腕組うでぐみを解いといて、椅子いすに倚るよる背せを前まえに、胸むねを洋よう卓たくの角かくへ着けるつけるほど母ははに近づいちかづいた。
「ですが、母さんははさん。藤尾ふじおの方ほうでは世話せわになる気きがありません」「そんな事ことが」と今度こんどは母ははの方ほうが身体しんたいを椅子いすの背せに引いひいた。
甲野こうのさんは一筋ひとすじの眉まゆさえ動かさうごかさない。
同じおなじような低いひくい声こえを、静かしずかに繋げつなげて行くいく。
「世話せわをすると云ういうのは、世話せわになる方ほうでこっちを信仰しんこう――信仰しんこうと云ういうのは神かみさまのようでおかしい」 甲野こうのさんはここでぽつりと言葉ことばを切っきった。
母はははまだ番ばんが回っまわって来きないと心得こころえたか、尋常じんじょうに控えひかえている。
「とにかく世話せわになっても好いよいと思うおもうくらいに信用しんようする人物じんぶつでなくっちゃ駄目だめです」「そりゃ御前ごぜんにそう見限らみかぎられてしまえばそれまでだが」とここまでは何なんの苦くもなく出しだしたが、急きゅうに調子ちょうしを逼らせまらして、「藤尾ふじおも実じつは可哀想かわいそうだからね。そう云わいわずに、どうかしてやって下さいください」と云ういう。
甲野こうのさんは肘ひじを立てたてて、手の平てのひらで額がくを抑えおさえた。
「だって見縊らみくびられているんだから、世話せわを焼けやけば喧嘩けんかになるばかりです」「藤尾ふじおが御前ごぜんさんを見縊るみくびるなんて……」と打ちうち消しょうはしとやかな母ははにしては比較的ひかくてきに大きなおおきな声こえであった。
「そんな事ことがあっては第一だいいち私わたくしが済ますまない」と次つぎに添えそえた時じはもう常つねに復しふくしていた。
甲野こうのさんは黙っだまって肘ひじを立てたてている。
「何なんか藤尾ふじおが不都合ふつごうな事ことでもしたかい」 甲野こうのさんは依然いぜんとして額がくに加えくわえた手ての下したから母ははを眺めながめている。
「もし不都合ふつごうがあったら、私わたくしから篤ととくと云っいって聞かきかせるから、遠慮えんりょしないで、何なんでも話しはなしておくれ。御ご互たがいのなかで気き不味いまじい事ことがあっちゃあ面白くおもしろくないから」 額がくに加えくわえた五本ごぽんの指ゆびは、節ふし長ながに細りほそりして、爪つめの形かたちさえ女おんなのように華奢きゃしゃに出来できている。
「藤尾ふじおはたしか二十四にじゅうよんになったんですね」「明けあけて四よんになったのさ」「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」「嫁よめの口くちかい」と母ははは簡単かんたんに念ねんを押しおした。
甲野こうのさんは嫁よめとも聟むことも判然はんぜんした答こたえをしない。
母ははは云ういう。
「藤尾ふじおの事ことも、実じつは相談そうだんしたいと思っおもっているんだが、その前まえにね」「何なんですか」 右みぎの眉まゆはやはり手ての下したに隠れかくれている。
眼めの光ひかりは深いぶかい。
けれども鋭いするどい点てんはどこにも見えみえぬ。
「どうだろう。もう一遍いちぺん考え直しかんがえなおしてくれると好いよいがね」「何なんをですか」「御前ごぜんの事ことをさ。藤尾ふじおも藤尾ふじおでどうかしなければならないが、御前ごぜんの方ほうを先さきへきめないと、母さんははさんが困るこまるからね」 甲野こうのさんは手の甲てのこうの影かげで片頬かたほおに笑っわらった。
淋しいさびしい笑わらいである。
「身体しんたいが悪いわるいと御ご云いいいだけれども、御前ごぜんくらいの身体しんたいで御ご嫁よめを取っとった人ひとはいくらでもあります」「そりゃ、有るあるでしょう」「だからさ。御前ごぜんも、もう一遍いちぺん考え直しかんがえなおして御覧ごらんな。中なかには御ご嫁よめを貰っもらって大変たいへん丈夫じょうぶになった人ひともあるくらいだよ」 甲野こうのさんの手てはこの時じ始めはじめて額がくを離れはなれた。
洋よう卓たくの上うえには一いち枚ばいの罫紙けいしに鉛筆えんぴつが添えそえて載せのせてある。
何なん気きなく罫紙けいしを取り上げとりあげて裏うらを返しかえして見るみると三四さんよん行こうの英語えいごが書いかいてある。
読み掛けよみかけて気きがついた。
昨日きのう読んよんだ書物しょもつの中なかから備忘びぼうのため抄録しょうろくして、そのままに捨てすてて置いおいた紙片しへんである。
甲野こうのさんは罫紙けいしを洋よう卓たくの上うえに伏せふせた。
母ははは額がくの裏側うらがわだけに八はちの字じを寄せよせて、甲野こうのさんの返事へんじをおとなしく待っまっている。
甲野こうのさんは鉛筆えんぴつを執っとって紙かみの上うえへ烏からすと云ういう字じを書いかいた。
「どうだろうね」 烏からすと云ういう字じが鳥とりになった。
「そうしてくれると好いよいがね」 鳥とりと云ういう字じが鴃の字じになった。
その下したに舌したの字じが付いついた。
そうして顔かおを上げあげた。
云ういう。
「まあ藤尾ふじおの方ほうからきめたら好いよいでしょう」「御前ごぜんが、どうしても承知しょうちしてくれなければ、そうするよりほかに道みちはあるまい」 云いいい終っおわった母ははは悄然しょうぜんとして下したを向いむかいた。
同時どうじに忰せがれの紙かみの上うえに三角さんかくが出来できた。
三角さんかくが三さんつ重なっかさなって鱗うろこの紋もんになる。
「母ははかさん。家いえは藤尾ふじおにやりますよ」「それじゃ御前ごぜん……」と打ちうち消しょうにかかる。
「財産ざいさんも藤尾ふじおにやります。私わたくしは何になんにもいらない」「それじゃ私達わたくしたちが困るこまるばかりだあね」「困りこまりますか」と落ちついおちついて云っいった。
母子ぼしはちょっと眼めを見合せるみあわせる。
「困りこまりますかって。――私わたくしが、死んしんだ阿父あちちさんに済ますまないじゃないか」「そうですか。じゃどうすれば好いよいんです」と飴色あめいろに塗っぬった鉛筆えんぴつを洋よう卓たくの上うえにはたりと放り出しほうりだした。
「どうすれば好いよいか、どうせ母さんははさんのような無学むがくなものには分らわからないが、無学むがくは無学むがくなりにそれじゃ済ますまないと思いおもいますよ」「厭いやなんですか」「厭いやだなんて、そんなもったいない事ことを今までいままで云っいった事ことがあったかね」「有りありません」「私わたくしも無いないつもりだ。御前ごぜんがそう云っいってくれるたんびに、御礼ごれいは始終しじゅう云っいってるじゃないか」「御礼ごれいは始終しじゅう聞いきいています」 母ははは転がっころがった鉛筆えんぴつを取り上げとりあげて、尖っとがった先さきを見みた。
丸いまりい護謨ごむの尻しりを見みた。
心こころのうちで手てのつけようのない人ひとだと思っおもった。
ややあって護謨ごむの尻しりをきゅうっと洋よう卓たくの上うえへ引っ張りひっぱりながら云ういう。
「じゃ、どうあっても家いえを襲かさねぐ気きはないんだね」「家いえは襲いおそいでいます。法律上ほうりつじょう私わたくしは相続人そうぞくにんです」「甲野こうのの家いえは襲いおそいでも、母ははかさんの世話せわはしてくれないんだね」 甲野こうのさんは返事へんじをする前まえに、眸ひとみを長いながい眼めの真中まなかに据えすえてつくづくと母ははの顔かおを眺めながめた。
やがて、「だから、家いえも財産ざいさんもみんな藤尾ふじおにやると云ういうんです」と慇懃いんぎんに云ういう。
「それほどに御ご云いいいなら、仕方しかたがない」 母ははは溜息ためいきと共ともに、この一句いっくを洋よう卓たくの上うえにうちやった。
甲野こうのさんは超然ちょうぜんとしている。
「じゃ仕方しかたがないから、御前ごぜんの事ことは御前ごぜんの思いおもい通りとおりにするとして、――藤尾ふじおの方ほうだがね」「ええ」「実じつはあの小野おのさんが好かろうよかろうと思うおもうんだが、どうだろう」「小野おのをですか」と云っいったぎり、黙っだまった。
「いけまいか」「いけない事こともないでしょう」と緩かんくり云ういう。
「よければ、そうきめようと思うおもうが……」「好いよいでしょう」「好いよいかい」「ええ」「それでようやく安心あんしんした」 甲野こうのさんはじっと眼めを凝らしこらして正面しょうめんに何物なにものをか見詰めみつめている。
あたかも前まえにある母ははの存在そんざいを認めみとめざるごとくである。
「それでようやく――御前ごぜんどうかおしかい」「母ははかさん、藤尾ふじおは承知しょうちなんでしょうね」「無論むろん知っしっているよ。なぜ」 甲野こうのさんは、やはり遠方えんぽうを見みている。
やがて瞬まどかを一いちつすると共ともに、眼めは急きゅうに近くちかくなった。
「宗近むねちかはいけないんですか」と聞くきく。
「一いちかい。本来ほんらいなら一いちが一番いちばん好いよいんだけれども。――父さんちちさんと宗近むねちかとは、ああ云ういう間柄あいだがらではあるしね」「約束やくそくでもありゃしなかったですか」「約束やくそくと云ういうほどの事ことはなかったよ」「何なんだか父さんちちさんが時計とけいをやるとか云っいった事ことがあるように覚えおぼえていますが」「時計とけい?」と母ははは首くびを傾げかしげた。
「父さんちちさんの金きん時計とけいです。柘榴ざくろ石いしの着いついている」「ああ、そうそう。そんな事ことが有っあったようだね」と母ははは思い出しおもいだしたごとくに云ういう。
「一いちはまだ当にまさにしているようです」「そうかい」と云っいったぎり母ははは澄ましすましている。
「約束やくそくがあるならやらなくっちゃ悪いわるい。義理ぎりが欠けるかける」「時計とけいは今いま藤尾ふじおが預っあずかっているから、私わたくしから、よく、そう云っいって置こうおこう」「時計とけいもだが、藤尾ふじおの事ことを重じゅうに云っいってるんです」「だって藤尾ふじおをやろうと云ういう約束やくそくはまるで無いないんだよ」「そうですか。――それじゃ、好いよいでしょう」「そう云ういうと私わたくしが何なんだか御前ごぜんの気きに逆うさからうようで悪いわるいけれども、――そんな約束やくそくはまるで覚さとしがないんだもの」「はああ。じゃ無いないんでしょう」「そりゃね。約束やくそくがあっても無くっなくっても、一いちならやっても好いよいんだが、あれも外交官がいこうかんの試験しけんがまだ済ますまないんだから勉強べんきょう中なかに嫁よめでもあるまいし」「そりゃ、構わかまわないです」「それに一いちは長男ちょうなんだから、どうしても宗近むねちかの家いえを襲かさねがなくっちゃならずね」「藤尾ふじおへは養子ようしをするつもりなんですか」「したくはないが、御前ごぜんが母ははかさんの云ういう事ことを聞いきいておくれでないから……」「藤尾ふじおがわきへ行くいくにしても、財産ざいさんは藤尾ふじおにやります」「財産ざいさんは――御前ごぜん私わたくしの料簡りょうけんを間違えまちがえて取っとっておくれだと困るこまるが――母さんははさんの腹はらの中なかには財産ざいさんの事ことなんかまるでありゃしないよ。そりゃ割っわりって見せみせたいくらいに奇麗きれいなつもりだがね。そうは見えみえないか知らかしら」「見えみえます」と甲野こうのさんが云っいった。
極めてきわめて真面目まじめな調子ちょうしである。
母ははにさえ嘲弄ちょうろうの意味いみには受取れうけとれなかった。
「ただ年ねんを取っとって心細いこころぼそいから……たった一人ひとりの藤尾ふじおをやってしまうと、後あとが困るこまるんでね」「なるほど」「でなければ一いちが好いよいんだがね。御前ごぜんとも仲なかが善ぜんし……」「母ははかさん、小野おのをよく知っしっていますか」「知っしってるつもりです。叮嚀ていねいで、親切しんせつで、学問がくもんがよく出来できて立派りっぱな人ひとじゃないか。――なぜ」「そんなら好いよいです」「そう素気なくそっけなく云わいわずと、何なんか考かんがえがあるなら聞かしきかしておくれな。せっかく相談そうだんに来きたんだから」 しばらく罫紙けいしの上うえの楽書らくがきを見詰めみつめていた甲野こうのさんは眼めを上げるあげると共ともに穏かおだやかに云い切っいいきった。
「宗近むねちかの方ほうが小野おのより母さんははさんを大事だいじにします」「そりゃ」とたちまち出るでる。
後あとから静かしずかに云ういう。
「そうかも知れしれない――御前ごぜんの見みた眼めに間ま違いはあるまいが、ほかの事ことと違っちがって、こればかりは親おやや兄あにの自由じゆうには行かいかないもんだからね」「藤尾ふじおが是非ぜひにと云ういうんですか」「え、まあ――是非ぜひとも云ういうまいが」「そりゃ私わたくしも知っしっている。知っしってるんだが。――藤尾ふじおはいますか」「呼びよびましょう」 母ははは立ったった。
薄紅うすべに色いろに深くふかく唐草からくさを散らしちらした壁紙かべがみに、立ちたちながら、手頃てごろに届くとどく電鈴でんれいを、白きしろきただ中ただなかに押すおすと、座ざに返るかえるほどなきに応おうがある。
入口いりぐちの戸とが五ご寸すんばかりそっと明くあく、ところを振り返っふりかえった母ははが「藤尾ふじおに用ようがあるからちょいと」と云ういう。
そっと明いあいた戸とはそっと締るしまる。
母ははと子こは洋よう卓たくを隔てへだてて差しさし向うむこう。
互たがいに無言むごんである。
欽吾きんごはまた鉛筆えんぴつを取り上げとりあげた。
三さんつ鱗うろこの周囲しゅういに擦れ擦れすれすれの大きさおおきさに円えんを描くえがく。
円えんと鱗うろこの間まを塗るぬる。
黒いくろい線せんを一いち本ほん一いち本ほん叮嚀ていねいに並行へいこうさせて行くいく。
母ははは所在しょざいなさに、忰せがれの図案ずあんを慇懃いんぎんに眺めながめている。
二人ふたりの心こころは無論むろんわからぬ。
ただ上部じょうぶだけはいかにも静せいである。
もし手足てあしの挙止きょしが、内面ないめんの消息しょうそくを形而下けいじしたに運び来るはこびくる記号きごうとなり得るうるならば、この二人ふたりほどに長閑のどかな母子ぼしは容易よういに見出しみだし得とくまい。
退屈たいくつの刻こくを、数十すうじゅうの線せんに劃しかくして、行儀ぎょうぎよく三さんつ鱗うろこの外部がいぶを塗り潰すぬりつぶす子こと、尋常じんじょうに手てを膝ひざの上うえに重ねかさねて、一劃いっかくごとに黒くくろくなる円えんの中なかを、端然たんぜんと打ち守るうちまもる母ははとは、咸みな雍ようの母子ぼしである。
和わ怡の母子ぼしである。
挟きょうさむ洋よう卓たくに、遮らさえぎらるる胸むねと胸むねを対いむかい合せあわせて、春はる鎖すさす窓掛まどかけのうちに、世よを、人ひとを、争そうを、忘れわすれたる姿すがたである。
亡きなき人ひとの肖像しょうぞうは例れいに因っよって、壁かべの上うえから、閑静かんせいなるこの母子ぼしを照らしてらしている。
丹念たんねんに引くひく線せんはようやく繁くしげくなる。
黒いくろい部分ぶぶんはしだいに増すます。
残るのこるはただ右手みぎてに当るあたる弓形ゆみがたの一いちヵ所かしょとなった時じ、がちゃりと釘くぎ舌したを捩るもじる音おとがして、待ち設けまちもうけた藤尾ふじおの姿すがたが入口いりぐちに現われあらわれた。
白いしろい姿すがたを春はるに託すたくす。
深いぶかい背景はいけいのうちに肩かたから上うえが浮いういて見えるみえる。
甲野こうのさんの鉛筆えんぴつは引きひきかけた線せんの半ばなかばでぴたりと留っとめった。
同時どうじに藤尾ふじおの顔かおは背景はいけいを抜け出しぬけだして来るくる。
「炙り出しあぶりだしはどうして」と言いいいながら、母ははの隣となりまで来きて、横合よこあいから腰こしを卸すおろす。
卸しおろし終っおわった時じ、また、「出でて?」と母ははに聞くきく。
母はははただ藤尾ふじおの方ほうを意味いみありげに見みたのみである。
甲野こうのさんの黒いくろい線せんはこの間まに四よん本ほん増しました。
「兄さんあにさんが御前ごぜんに何なんか御用ごようがあると御ご云いいいだから」「そう」と云っいったなり、藤尾ふじおは兄あにの方ほうへ向き直っむきなおった。
黒いくろい線せんがしきりに出来できつつある。
「兄さんあにさん、何なんか御用ごよう」「うん」と云っいった甲野こうのさんは、ようやく顔かおを上げあげた。
顔かおを上げあげたなり何なんとも云わいわない。
藤尾ふじおは再びふたたび母ははの方ほうを見みた。
見るみると共ともに薄うす笑わらいの影かげが奇麗きれいな頬ほおにさす。
兄あにはやっと口くちを切るきる。
「藤尾ふじお、この家いえと、私わたくしが父さんちちさんから受けうけ襲いおそいだ財産ざいさんはみんな御前ごぜんにやるよ」「いつ」「今日きょうからやる。――その代りかわり、母さんははさんの世話せわは御前ごぜんがしなければいけない」「ありがとう」と云いいいながら、また母ははの方ほうを見るみる。
やはり笑っわらっている。
「御前ごぜん宗近むねちかへ行くいく気きはないか」「ええ」「ない? どうしても厭いやか」「厭いやです」「そうか。――そんなに小野おのが好いよいのか」 藤尾ふじおは屹ときっとなる。
「それを聞いきいて何なんになさる」と椅子いすの上うえに背せを伸しのして云ういう。
「何になんにもしない。私わたくしのためには何になんにもならない事ことだ。ただ御前ごぜんのために云っいってやるのだ」「私わたくしのために?」と言葉ことばの尻しりを上げあげて置いおいて、「そう」とさも軽蔑けいべつしたように落すおとす。
母ははは始めはじめて口くちを出すだす。
「兄さんあにさんの考かんがえでは、小野おのさんより一いちの方ほうがよかろうと云ういう話はなしなんだがね」「兄さんあにさんは兄さんあにさん。私わたくしは私わたくしです」「兄さんあにさんは小野おのさんよりも一いちの方ほうが、母さんははさんを大事だいじにしてくれると御ご言いいいのだよ」「兄さんあにさん」と藤尾ふじおは鋭くするどく欽吾きんごに向っむかった。
「あなた小野おのさんの性格せいかくを知っしっていらっしゃるか」「知っしっている」と閑静かんせいに云ういう。
「知っしってるもんですか」と立ち上がるたちあがる。
「小野おのさんは詩人しじんです。高尚こうしょうな詩人しじんです」「そうか」「趣味しゅみを解しかいした人ひとです。愛あいを解しかいした人ひとです。温厚おんこうの君子くんしです。――哲学者てつがくしゃには分らわからない人格じんかくです。あなたには一いちさんは分るわかるでしょう。しかし小野おのさんの価値かちは分りわかりません。けっして分りわかりません。一いちさんを賞めるほめる人ひとに小野おのさんの価値かちが分るわかる訳わけがありません。……」「じゃ小野おのにするさ」「無論むろんします」 云い棄ていいすてて紫むらさきの絹きぬは戸口とぐちの方ほうへ揺いわなないた。
繊せんい手てに円えん鈕ちゅうをぐるりと回すまわすや否いなや藤尾ふじおの姿すがたは深いぶかい背景はいけいのうちに隠れかくれた。
15/19