十五
第 15 章
部屋は南を向く。
仏蘭西式の窓は床を去る事五寸にして、すぐ硝子となる。
明け放てば日が這入る。
温かい風が這入る。
日は椅子の足で留まる。
風は留まる事を知らぬ故、容赦なく天井まで吹く。
窓掛の裏まで渡る。
からりとして朗らかな書斎になる。
仏蘭西窓を右に避けて一脚の机を据える。
蒲鉾形に引戸を卸せば、上から錠がかかる。
明ければ、緑の羅紗を張り詰めた真中を、斜めに低く手元へ削って、背を平らかに、書を開くべき便宜とする。
下は左右を銀金具の抽出に畳み卸してその四つ目が床に着く。
床は樟の木の寄木に仮漆を掛けて、礼に叶わぬ靴の裏を、ともすれば危からしめんと、てらてらする。
そのほかに洋卓がある。
チッペンデールとヌーヴォーを取り合せたような組み方に、思い切った今様を華奢な昔に忍ばして、室の真中を占領している。
周囲に並ぶ四脚の椅子は無論同式の構造である。
繻子の模様も対とは思うが、日除の白蔽に、卸す腰も、凭れる背も、ただ心安しと気を楽に落ちつけるばかりで、目の保養にはならぬ。
書棚は壁に片寄せて、間の高さを九尺列ねて戸口まで続く。
組めば重ね、離せば一段の棚を喜んで、亡き父が西洋から取り寄せたものである。
いっぱいに並べた書物が紺に、黄に、いろいろに、ゆかしき光を闘わすなかに花文字の、角文字の金は、縦にも横にも奇麗である。
小野さんは欽吾の書斎を見るたびに羨しいと思わぬ事はない。
欽吾も無論嫌ってはおらぬ。
もとは父の居間であった。
仕切りの戸を一つ明けると直応接間へ抜ける。
残る一つを出ると内廊下から日本座敷へ続く。
洋風の二間は、父が手狭な住居を、二十世紀に取り拡げた便利の結果である。
趣味に叶うと云わんよりは、むしろ実用に逼られて、時好の程度に己れを委却した建築である。
さほどに嬉しい部屋ではない。
けれども小野さんは非常に羨ましがっている。
こう云う書斎に這入って、好きな書物を、好きな時に読んで、厭きた時分に、好きな人と好きな話をしたら極楽だろうと思う。
博士論文はすぐ書いて見せる。
博士論文を書いたあとは後代を驚ろかすような大著述をして見せる。
定めて愉快だろう。
しかし今のような下宿住居で、隣り近所の乱調子に頭を攪き廻されるようではとうてい駄目である。
今のように過去に追窮されて、義理や人情のごたごたに、日夜共心を使っていてはとうてい駄目である。
自慢ではないが自分は立派な頭脳を持っている。
立派な頭脳を持っているものは、この頭脳を使って世間に貢献するのが天職である。
天職を尽すためには、尽し得るだけの条件がいる。
こう云う書斎はその条件の一つである。
――小野さんはこう云う書斎に這入りたくてたまらない。
高等学校こそ違え、大学では甲野さんも小野さんも同年であった。
哲学と純文学は科が異なるから、小野さんは甲野さんの学力を知りようがない。
ただ「哲世界と実世界」と云う論文を出して卒業したと聞くばかりである。
「哲世界と実世界」の価値は、読まぬ身に分るはずがないが、とにかく甲野さんは時計をちょうだいしておらん。
自分はちょうだいしておる。
恩賜の時計は時を計るのみならず、脳の善悪をも計る。
未来の進歩と、学界の成功をも計る。
特典に洩れた甲野さんは大した人間ではないにきまっている。
その上卒業してからこれと云う研究もしないようだ。
深い考を内に蓄えているかも知れぬが、蓄えているならもう出すはずである。
出さぬは蓄がない証拠と見て差支ない。
どうしても自分は甲野さんより有益な材である。
その有益な材を抱いて奔走に、六十円に、月々を衣食するに、甲野さんは、手を拱いて、徒然の日を退屈そうに暮らしている。
この書斎を甲野さんが占領するのはもったいない。
自分が甲野の身分でこの部屋の主人となる事が出来るなら、この二年の間に相応の仕事はしているものを、親譲りの貧乏に、驥も櫪に伏す天の不公平を、やむを得ず、今日まで忍んで来た。
一陽は幸なき人の上にも来り復ると聞く。
願くは願くはと小野さんは日頃に念じていた。
――知らぬ甲野さんはぽつ然として机に向っている。
正面の窓を明けたらば、石一級の歩に過ぎずして、広い芝生を一目に見渡すのみか、朗な気が地つづきを、すぐ部屋のなかに這入るものを、甲野さんは締め切ったまま、ひそりと立て籠っている。
右手の小窓は、硝子を下した上に、左右から垂れかかる窓掛に半ば蔽われている。
通う光線は幽かに床の上に落つる。
窓掛は海老茶の毛織に浮出しの花模様を埃のままに、二十日ほどは動いた事がないようである。
色もだいぶ褪めた。
部屋と調和のない装飾も、過渡時代の日本には当然として立派に通用する。
窓掛の隙間から硝子へ顔を圧しつけて、外を覗くと扇骨木の植込を通して池が見える。
棒縞の間から横へ抜けた波模様のように、途切れ途切れに見える。
池の筋向が藤尾の座敷になる。
甲野さんは植込も見ず、池も見ず、芝生も見ず、机に凭ってじっとしている。
焚き残された去年の石炭が、煖炉のなかにただ一個冷やかに春を観ずる体である。
やがて、かたりと書物を置き易える音がする。
甲野さんは手垢の着いた、例の日記帳を取り出して、誌け始める。
「多くの人は吾に対して悪を施さんと欲す。同時に吾の、彼らを目して凶徒となすを許さず。またその凶暴に抗するを許さず。曰く。命に服せざれば汝を嫉まんと」 細字に書き終った甲野さんは、その後に片仮名でレオパルジと入れた。
日記を右に片寄せる。
置き易えた書物を再び故の座に直して、静かに読み始める。
細い青貝の軸を着けた洋筆がころころと机を滑って床に落ちた。
ぽたりと黒いものが足の下に出来る。
甲野さんは両手を机の角に突張って、心持腰を後へ浮かしたが、眼を落してまず黒いしたたりを眺めた。
丸い輪に墨が余ってぱっと四方に飛んでいる。
青貝は寝返りを打って、薄暗いなかに冷たそうな長い光を放つ。
甲野さんは椅子をずらす。
手捜に取り上げた洋筆軸は父が西洋から買って来てくれた昔土産である。
甲野さんは、指先に軸を撮んだ手を裏返して、拾った物を、指の谷から滑らして掌のなかに落し込む。
掌の向を上下に易えると、長い軸は、ころころと前へ行き後ろへ戻る。
動くたびにきらきら光る。
小さい記念である。
洋筆軸を転がしながら、書物の続きを読む。
頁をはぐるとこんな事が、かいてある。
「剣客の剣を舞わすに、力相若くときは剣術は無術と同じ。彼、これを一籌の末に制する事能わざれば、学ばざるものの相対して敵となるに等しければなり。人を欺くもまたこれに類す。欺かるるもの、欺くものと一様の譎詐に富むとき、二人の位地は、誠実をもって相対すると毫も異なるところなきに至る。この故に偽と悪とは優勢を引いて援護となすにあらざるよりは、不足偽、不足悪に出会するにあらざるよりは、最後に、至善を敵とするにあらざるよりは、――効果を収むる事難しとす。第三の場合は固より稀なり。第二もまた多からず。凶漢は敗徳において匹敵するをもって常態とすればなり。人相賊してついに達する能わず、あるいは千辛万苦して始めて達し得べきものも、ただ互に善を行い徳を施こして容易に到り得べきを思えば、悲しむべし」 甲野さんはまた日記を取り上げた。
青貝の洋筆軸を、ぽとりと墨壺の底に落す。
落したまま容易に上げないと思うと、ついには手を放した。
レオパルジは開いたまま、黄な表紙の日記を頁の上に載せる。
両足を踏張って、組み合せた手を、頸根にうんと椅子の背に凭れかかる。
仰向く途端に父の半身画と顔を見合わした。
余り大きくはない。
半身とは云え胴衣の釦が二つ見えるだけである。
服はフロックと思われるが、背景の暗いうちに吸い取られて、明らかなのは、わずかに洩るる白襯衣の色と、額の広い顔だけである。
名のある人の筆になると云う。
三年前帰朝の節、父はこの一面を携えて、遥かなる海を横浜の埠頭に上った。
それより以後は、欽吾が仰ぐたびに壁間に懸っている。
仰がぬ時も壁間から欽吾を見下している。
筆を執るときも、頬杖を突くときも、仮寝の頭を机に支うるときも――絶えず見下している。
欽吾がいない時ですら、画布の人は、常に書斎を見下している。
見下すだけあって活きている。
眼玉に締りがある。
それも丹念に塗りたくって、根気任せに錬り上げた眼玉ではない。
一刷毛に輪廓を描いて、眉と睫の間に自然の影が出来る。
下瞼の垂味が見える。
取る年が集って目尻を引張る波足が浮く。
その中に瞳が活きている。
動かないでしかも活きている刹那の表情を、そのまま画布に落した手腕は、会心の機を早速に捕えた非凡の技と云わねばならぬ。
甲野さんはこの眼を見るたびに活きてるなと思う。
想界に一瀾を点ずれば、千瀾追うて至る。
瀾々相擁して思索の郷に、吾を忘るるとき、懊悩の頭を上げて、この眼にはたりと逢えば、あっ、在ったなと思う。
ある時はおやいたかと驚ろく事さえある。
――甲野さんがレオパルジから眼を放して、万事を椅子の背に託した時は、常よりも烈しくおやいたなと驚ろいた。
思出の種に、亡き人を忍ぶ片身とは、思い出す便を与えながら、亡き人を故に返さぬ無惨なものである。
肌に離さぬ数糸の髪を、懐いては、泣いては、月日はただ先へと廻るのみの浮世である。
片身は焼くに限る。
父が死んでからの甲野さんは、何となくこの画を見るのが厭になった。
離れても別状がないと落つきの根城を据えて、咫尺に慈顔を髣髴するは、離れたる親を、記憶の紙に炙り出すのみか、逢える日を春に待てとの占にもなる。
が、逢おうと思った本人はもう死んでしまった。
活きているものはただ眼玉だけである。
それすら活きているのみで毫も動かない。
――甲野さんは茫然として、眼玉を眺めながら考えている。
親父も気の毒な事をした。
もう少し生きれば生きられる年だのに。
髭もまるで白くはない。
血色もみずみずしている。
死ぬ気は無論なかったろう。
気の毒な事をした。
どうせ死ぬなら、日本へ帰ってから死んでくれれば好いのに。
言い置いて行きたい事も定めてあったろう。
聞きたい事、話したい事もたくさんあった。
惜しい事をした。
好い年をして三遍も四遍も外国へやられて、しかも任地で急病に罹って頓死してしまった。
…… 活きている眼は、壁の上から甲野さんを見詰めている。
甲野さんは椅子に倚り掛ったまま、壁の上を見詰めている。
二人の眼は見るたびにぴたりと合う。
じっとして動かずに、合わしたままの秒を重ねて分に至ると、向うの眸が何となく働らいて来た。
睛を閑所に転ずる気紛の働ではない。
打ち守る光が次第に強くなって、眼を抜けた魂がじりじりと一直線に甲野さんに逼って来る。
甲野さんはおやと、首を動した。
髪の毛が、椅子の背を離れて二寸ばかり前へ出た時、もう魂はいなくなった。
いつの間にやら、眼のなかへ引き返したと見える。
一枚の額は依然として一枚の額に過ぎない。
甲野さんは再び黒い頭を椅子の肩に投げかけた。
馬鹿馬鹿しい。
が近頃時々こんな事がある。
身体が衰弱したせいか、頭脳の具合が悪いからだろう。
それにしてもこの画は厭だ。
なまじい親父に似ているだけがなお気掛りである。
死んだものに心を残したって始まらないのは知れている。
ところへ死んだものを鼻の先へぶら下げて思え思えと催促されるのは、木刀を突き付けて、さあ腹を切れと逼られるようなものだ。
うるさいのみか不快になる。
それもただの場合ならともかくである。
親父の事を思い出すたびに、親父に気の毒になる。
今の身と、今の心は自分にさえ気の毒である。
実世界に住むとは、名ばかりの衣と住と食とを貪るだけで、頭はほかの国に、母も妹も忘れればこそ、こう生きてもいる。
実世界の地面から、踵を上げる事を解し得ぬ利害の人の眼に見たら、定めし馬鹿の骨頂だろう。
自分は自分にすべてを棄てる覚悟があるにもせよ、この体たらくを親父には見せたくない。
親父はただの人である。
草葉の蔭で親父が見ていたら、定めて不肖の子と思うだろう。
不肖の子は親父の事を思い出したくない。
思い出せば気の毒になる。
――どうもこの画はいかん。
折があったら蔵のなかへでも片づけてしまおう。
…… 十人は十人の因果を持つ。
羹に懲りて膾を吹くは、株を守って兎を待つと、等しく一様の大律に支配せらる。
白日天に中して万戸に午砲の飯を炊ぐとき、蹠下の民は褥裏に夜半太平の計熟す。
甲野さんがただ一人書斎で考えている間に、母と藤尾は日本間の方で小声に話している。
「じゃあ、まだ話さないんですね」と藤尾が云う。
茶の勝った節糸の袷は存外地味な代りに、長く明けた袖の後から紅絹の裏が婀娜な色を一筋なまめかす。
帯に代赭の古代模様が見える。
織物の名は分らぬ。
「欽吾にかい」と母が聞き直す。
これもくすんだ縞物を、年相応に着こなして、腹合せの黒だけが目に着くほどに締めている。
「ええ」と応じた藤尾は「兄さんは、まだ知らないんでしょう」と念を押す。
「まだ話さないよ」と云ったぎり、母は落ちついている。
座布団の縁を捲って、「おや、煙管はどうしたろう」と云う。
煙管は火鉢の向う側にある。
長い羅宇を、逆に、親指の股に挟んで「はい」と手取形の鉄瓶の上から渡す。
「話したら何とか云うでしょうか」と差し出した手をこちら側へ引く。
「云えば御廃しかい」と母は皮肉に云い切ったまま、下を向いて、雁首へ雲井を詰める。
娘は答えなかった。
答えをすれば弱くなる。
もっとも強い返事をしようと思うときは黙っているに限る。
無言は黄金である。
五徳の下で、存分に吸いつけた母は、鼻から出る煙と共に口を開いた。
「話はいつでも出来るよ。話すのが好ければ私が話して上げる。なに相談するがものはない。こう云う風にするつもりだからと云えば、それぎりの事だよ」「そりゃ私だって、自分の考がきまった以上は、兄さんがいくら何と云ったって承知しやしませんけれども……」「何にも云える人じゃないよ。相談相手に出来るくらいなら、初手からこうしないでもほかにいくらも遣口はあらあね」「でも兄さんの心持一つで、こっちが困るようになるんだから」「そうさ。それさえなければ、話も何も要りゃしないんだが。どうも表向家の相続人だから、あの人がうんと云ってくれないと、こっちが路頭に迷うようになるばかりだからね」「その癖、何か話すたんびに、財産はみんな御前にやるから、そのつもりでいるがいいって云うんですがね」「云うだけじゃ仕方がないじゃないか」「まさか催促する訳にも行かないでしょう」「なにくれるものなら、催促して貰ったって、構わないんだが――ただ世間体がわるいからね。いくらあの人が学者でもこっちからそうは切り出し悪いよ」「だから、話したら好いじゃありませんか」「何を」「何をって、あの事を」「小野さんの事かい」「ええ」と藤尾は明暸に答えた。
「話しても好いよ。どうせいつか話さなければならないんだから」「そうしたら、どうにかするでしょう。まるっきり財産をくれるつもりなら、くれるでしょうし。幾らか分けてくれる気なら、分けるでしょうし、家が厭ならどこへでも行くでしょうし」「だが、御母さんの口から、御前の世話にはなりたくないから藤尾をどうかしてくれとも云い悪いからね」「だって向で世話をするのが厭だって云うんじゃありませんか。世話は出来ない、財産はやらない。それじゃ御母さんをどうするつもりなんです」「どうするつもりも何も有りゃしない。ただああやってぐずぐずして人を困らせる男なんだよ」「少しはこっちの様子でも分りそうなもんですがね」 母は黙っている。
「この間金時計を宗近にやれって云った時でも……」「小野さんに上げると御云いのかい」「小野さんにとは云わないけれども。一さんに上げるとは云わなかったわ」「妙だよあの人は。藤尾に養子をして、面倒を見て御貰いなさいと云うかと思うと、やっぱり御前を一にやりたいんだよ。だって一は一人息子じゃないか。養子なんぞに来られるものかね」「ふん」と受けた藤尾は、細い首を横に庭の方を見る。
夕暮を促がすとのみ眺められた浅葱桜は、ことごとく梢を辞して、光る茶色の嫩葉さえ吹き出している。
左に茂る三四本の扇骨木の丸く刈り込まれた間から、書斎の窓が少し見える。
思うさま片寄って枝を伸した桜の幹を、右へ離れると池になる。
池が尽きれば張り出した自分の座敷である。
静かな庭を一目見廻わした藤尾は再び横顔を返して、母を真向に見る。
母はさっきから藤尾の方を向いたなり眼を放さない。
二人が顔を合せた時、何を思ったか、藤尾は美くしい片頬をむずつかせた。
笑とまで片づかぬものは、明かに浮ばぬ先に自然と消える。
「宗近の方は大丈夫なんでしょうね」「大丈夫でなくったって、仕方がないじゃないか」「でも断って下すったんでしょう」「断ったんだとも。この間行った時に、宗近の阿爺に逢って、よく理由は話して来たのさ。――帰ってから御前にも話した通り」「それは覚えていますけれども、何だか判然しないようだったから」「判然しないのは向の事さ。阿爺があの通り気の長い人だもんだから」「こっちでも判然とは断わらなかったんでしょう」「そりゃ今までの義理があるから、そう子供の使のように、藤尾が厭だと申しますから、平に御断わり申しますとは云えないからね」「なに厭なものは、どうしたって好くなりっこ無いんだから、いっそ平ったく云った方が好いんですよ」「だって、世間はそうしたもんじゃあるまい。御前はまだ年が若いから露骨でも構わないと御思かも知れないが、世の中はそうは行かないよ。同じ断わるにしても、そこにはね。やっぱり蓋も味もあるように云わないと――ただ怒らしてしまったって仕方がないから」「何とか云って断ったのね」「欽吾がどうあっても嫁を貰うと云ってくれません。私も取る年で心細うございますから」と一と息に下して来る。
ちょっと御茶を呑む。
「年を取って心細いから」「心細いから、欽吾があのまま押し通す料簡なら、藤尾に養子でもして掛かるよりほかに致し方がございません。すると一さんは大事な宗近家の御相続人だから私共へいらしっていただく訳にも行かず、また藤尾を差し上げる訳にも参らなくなりますから……」「それじゃ兄さんがもしや御嫁を貰うと云い出したら困るでしょう」「なに大丈夫だよ」と母は浅黒い額へ癇癪の八の字を寄せた。
八の字はすぐとれる。
やがて云う。
「貰うなら、貰うで、糸子でも何でも勝手な人を貰うがいいやね。こっちはこっちで早く小野さんを入れてしまうから」「でも宗近の方は」「いいよ。そう心配しないでも」と地烈太そうに云い切った後で「外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね」と付けた。
「もし及第したら、すぐ何か云うでしょう」「だって、彼男に及第が出来ますものかね。考えて御覧な。――もし及第なすったら藤尾を差上ましょうと約束したって大丈夫だよ」「そう云ったの」「そうは云わないさ。そうは云わないが、云っても大丈夫、及第出来っ子ない男だあね」 藤尾は笑ながら、首を傾けた。
やがてすっきと姿勢を正して、話を切り上げながら云う。
「じゃ宗近の御叔父はたしかに断わられたと思ってるんですね」「思ってるはずだがね。――どうだい、あれから一の様子は、少しは変ったかい」「やっぱり同じですからさ。この間博覧会へ行ったときも相変らずですもの」「博覧会へ行ったのは、いつだったかね」「今日で」と考える。
「一昨日、一昨々日の晩です」と云う。
「そんなら、もう一に通じている時分だが。――もっとも宗近の御叔父がああ云う人だから、ことに依ると謎が通じなかったかも知れないね」とさも歯痒そうである。
「それとも一さんの事だから、御叔父から聞いても平気でいるのかも知れないわね」「そうさ。どっちがどっちとも云えないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾に話してしまおう。――こっちで黙っていちゃ、いつまで立っても際限がない」「今、書斎にいるでしょう」 母は立ち上がった。
椽側へ出た足を一歩後へ返して、小声に「御前、一に逢うだろう」と屈ながら云う。
「逢うかも知れません」「逢ったら少し匂わして置く方が好いよ。小野さんと大森へ行くとか云っていたじゃないか。明日だったかね」「ええ、明日の約束です」「何なら二人で遊んで歩くところでも見せてやると好い」「ホホホホ」 母は書斎に向う。
からりとした椽を通り越して、奇麗な木理を一面に研ぎ出してある西洋間の戸を半分明けると、立て切った中は暗い。
円鈕を前に押しながら、開く戸に身を任せて、音なき両足を寄木の床に落した時、釘舌のかちゃりと跳ね返る音がする。
窓掛に春を遮ぎる書斎は、薄暗く二人を、人の世から仕切った。
「暗い事」と云いながら、母は真中の洋卓まで来て立ち留まる。
椅子の背の上に首だけ見えた欽吾の後姿が、声のした方へ、じいっと廻り込むと、なぞえに引いた眉の切れが三が一ほどあらわれた。
黒い片髭が上唇を沿うて、自然と下りて来て、尽んとする角から、急に捲き返す。
口は結んでいる。
同時に黒い眸は眼尻まで擦って来た。
母と子はこの姿勢のうちに互を認識した。
「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。
無言の人は立ち上る。
上靴を二三度床に鳴らして、洋卓の角まで足を運ばした時、始めて「窓を明けましょうか」と緩聞いた。
「どうでも――母さんはどうでも構わないが、ただ御前が欝陶しいだろうと思ってさ」 無言の人は再び右の手の平を、洋卓越に前へ出した。
促がされたる母はまず椅子に着く。
欽吾も腰を卸した。
「どうだね、具合は」「ありがとう」「ちっとは好い方かね」「ええ――まあ――」と生返事をした時、甲野さんは背を引いて腕を組んだ。
同時に洋卓の下で、右足の甲の上へ左の外踝を乗せる。
母の眼からは、ただ裄の縮んだ卵色の襯衣の袖が正面に見える。
「身体を丈夫にしてくれないとね、母さんも心配だから……」 句の切れぬうちに、甲野さんは自分の顎を咽喉へ押しつけて、洋卓の下を覗き込んだ。
黒い足袋が二つ重なっている。
母の足は見えない。
母は出直した。
「身体が悪いと、つい気分まで欝陶しくなって、自分も面白くないし……」 甲野さんはふと眼を上げた。
母は急に言葉を移す。
「でも京都へ行ってから、少しは好いようだね」「そうですか」「ホホホホ、そうですかって、他人の事のように。――何だか顔色が丈夫丈夫して来たじゃないか。日に焼けたせいかね」「そうかも知れない」と甲野さんは、首を向け直して、窓の方を見る。
窓掛の深い襞が左右に切れる間から、扇骨木の若葉が燃えるように硝子に映る。
「ちっと、日本間の方へ話にでも来て御覧。あっちは、廓っとして、書斎より心持が好いから。たまには、一のようにつまらない女を相手にして世間話をするのも気が変って面白いものだよ」「ありがとう」「どうせ相手になるほどの話は出来ないけれども――それでも馬鹿は馬鹿なりにね。……」 甲野さんは眩しそうな眼を扇骨木から放した。
「扇骨木が大変奇麗に芽を吹きましたね」「見事だね。かえって生じいな花よりも、好ござんすよ。ここからは、たった一本しっきゃ見えないね。向へ廻ると刈り込んだのが丸く揃って、そりゃ奇麗」「あなたの部屋からが一番好く見えるようですね」「ああ、御覧かい」 甲野さんは見たとも見ないとも云わなかった。
母は云う。
――「それにね。近頃は陽気のせいか池の緋鯉が、まことによく跳るんで……ここから聞えますかい」「鯉の跳る音がですか」「ああ」「いいえ」「聞えない。聞えないだろうねこう立て切って有っちゃあ。母さんの部屋からでも聞えないくらいだから。この間藤尾に母さんは耳が悪くなったって、さんざん笑われたのさ。――もっとも、もう耳も悪くなって好い年だから仕方がないけれども」「藤尾はいますか」「いるよ。もう小野さんが来て稽古をする時分だろう。――何か用でもあるかい」「いえ、用は別にありません」「あれも、あんな、気の勝った子で、さぞ御前さんの気に障る事もあろうが、まあ我慢して、本当の妹だと思って、面倒を見てやって下さい」 甲野さんは腕組のまま、じっと、深い瞳を母の上に据えた。
母の眼はなぜか洋卓の上に落ちている。
「世話はする気です」と徐かに云う。
「御前がそう云ってくれると私もまことに安心です」「する気どころじゃない。したいと思っているくらいです」「それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶ事だろう」「ですが……」で言葉は切れた。
母は後を待つ。
欽吾は腕組を解いて、椅子に倚る背を前に、胸を洋卓の角へ着けるほど母に近づいた。
「ですが、母さん。藤尾の方では世話になる気がありません」「そんな事が」と今度は母の方が身体を椅子の背に引いた。
甲野さんは一筋の眉さえ動かさない。
同じような低い声を、静かに繋げて行く。
「世話をすると云うのは、世話になる方でこっちを信仰――信仰と云うのは神さまのようでおかしい」 甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。
母はまだ番が回って来ないと心得たか、尋常に控えている。
「とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です」「そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまでは何の苦もなく出したが、急に調子を逼らして、「藤尾も実は可哀想だからね。そう云わずに、どうかしてやって下さい」と云う。
甲野さんは肘を立てて、手の平で額を抑えた。
「だって見縊られているんだから、世話を焼けば喧嘩になるばかりです」「藤尾が御前さんを見縊るなんて……」と打ち消はしとやかな母にしては比較的に大きな声であった。
「そんな事があっては第一私が済まない」と次に添えた時はもう常に復していた。
甲野さんは黙って肘を立てている。
「何か藤尾が不都合な事でもしたかい」 甲野さんは依然として額に加えた手の下から母を眺めている。
「もし不都合があったら、私から篤と云って聞かせるから、遠慮しないで、何でも話しておくれ。御互のなかで気不味い事があっちゃあ面白くないから」 額に加えた五本の指は、節長に細りして、爪の形さえ女のように華奢に出来ている。
「藤尾はたしか二十四になったんですね」「明けて四になったのさ」「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。
甲野さんは嫁とも聟とも判然した答をしない。
母は云う。
「藤尾の事も、実は相談したいと思っているんだが、その前にね」「何ですか」 右の眉はやはり手の下に隠れている。
眼の光は深い。
けれども鋭い点はどこにも見えぬ。
「どうだろう。もう一遍考え直してくれると好いがね」「何をですか」「御前の事をさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、御前の方を先へきめないと、母さんが困るからね」 甲野さんは手の甲の影で片頬に笑った。
淋しい笑である。
「身体が悪いと御云いだけれども、御前くらいの身体で御嫁を取った人はいくらでもあります」「そりゃ、有るでしょう」「だからさ。御前も、もう一遍考え直して御覧な。中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ」 甲野さんの手はこの時始めて額を離れた。
洋卓の上には一枚の罫紙に鉛筆が添えて載せてある。
何気なく罫紙を取り上げて裏を返して見ると三四行の英語が書いてある。
読み掛けて気がついた。
昨日読んだ書物の中から備忘のため抄録して、そのままに捨てて置いた紙片である。
甲野さんは罫紙を洋卓の上に伏せた。
母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。
甲野さんは鉛筆を執って紙の上へ烏と云う字を書いた。
「どうだろうね」 烏と云う字が鳥になった。
「そうしてくれると好いがね」 鳥と云う字が鴃の字になった。
その下に舌の字が付いた。
そうして顔を上げた。
云う。
「まあ藤尾の方からきめたら好いでしょう」「御前が、どうしても承知してくれなければ、そうするよりほかに道はあるまい」 云い終った母は悄然として下を向いた。
同時に忰の紙の上に三角が出来た。
三角が三つ重なって鱗の紋になる。
「母かさん。家は藤尾にやりますよ」「それじゃ御前……」と打ち消にかかる。
「財産も藤尾にやります。私は何にもいらない」「それじゃ私達が困るばかりだあね」「困りますか」と落ちついて云った。
母子はちょっと眼を見合せる。
「困りますかって。――私が、死んだ阿父さんに済まないじゃないか」「そうですか。じゃどうすれば好いんです」と飴色に塗った鉛筆を洋卓の上にはたりと放り出した。
「どうすれば好いか、どうせ母さんのような無学なものには分らないが、無学は無学なりにそれじゃ済まないと思いますよ」「厭なんですか」「厭だなんて、そんなもったいない事を今まで云った事があったかね」「有りません」「私も無いつもりだ。御前がそう云ってくれるたんびに、御礼は始終云ってるじゃないか」「御礼は始終聞いています」 母は転がった鉛筆を取り上げて、尖った先を見た。
丸い護謨の尻を見た。
心のうちで手のつけようのない人だと思った。
ややあって護謨の尻をきゅうっと洋卓の上へ引っ張りながら云う。
「じゃ、どうあっても家を襲ぐ気はないんだね」「家は襲いでいます。法律上私は相続人です」「甲野の家は襲いでも、母かさんの世話はしてくれないんだね」 甲野さんは返事をする前に、眸を長い眼の真中に据えてつくづくと母の顔を眺めた。
やがて、「だから、家も財産もみんな藤尾にやると云うんです」と慇懃に云う。
「それほどに御云いなら、仕方がない」 母は溜息と共に、この一句を洋卓の上にうちやった。
甲野さんは超然としている。
「じゃ仕方がないから、御前の事は御前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」「ええ」「実はあの小野さんが好かろうと思うんだが、どうだろう」「小野をですか」と云ったぎり、黙った。
「いけまいか」「いけない事もないでしょう」と緩くり云う。
「よければ、そうきめようと思うが……」「好いでしょう」「好いかい」「ええ」「それでようやく安心した」 甲野さんはじっと眼を凝らして正面に何物をか見詰めている。
あたかも前にある母の存在を認めざるごとくである。
「それでようやく――御前どうかおしかい」「母かさん、藤尾は承知なんでしょうね」「無論知っているよ。なぜ」 甲野さんは、やはり遠方を見ている。
やがて瞬を一つすると共に、眼は急に近くなった。
「宗近はいけないんですか」と聞く。
「一かい。本来なら一が一番好いんだけれども。――父さんと宗近とは、ああ云う間柄ではあるしね」「約束でもありゃしなかったですか」「約束と云うほどの事はなかったよ」「何だか父さんが時計をやるとか云った事があるように覚えていますが」「時計?」と母は首を傾げた。
「父さんの金時計です。柘榴石の着いている」「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。
「一はまだ当にしているようです」「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。
「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」「時計は今藤尾が預っているから、私から、よく、そう云って置こう」「時計もだが、藤尾の事を重に云ってるんです」「だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ」「そうですか。――それじゃ、好いでしょう」「そう云うと私が何だか御前の気に逆うようで悪いけれども、――そんな約束はまるで覚がないんだもの」「はああ。じゃ無いんでしょう」「そりゃね。約束があっても無くっても、一ならやっても好いんだが、あれも外交官の試験がまだ済まないんだから勉強中に嫁でもあるまいし」「そりゃ、構わないです」「それに一は長男だから、どうしても宗近の家を襲がなくっちゃならずね」「藤尾へは養子をするつもりなんですか」「したくはないが、御前が母かさんの云う事を聞いておくれでないから……」「藤尾がわきへ行くにしても、財産は藤尾にやります」「財産は――御前私の料簡を間違えて取っておくれだと困るが――母さんの腹の中には財産の事なんかまるでありゃしないよ。そりゃ割って見せたいくらいに奇麗なつもりだがね。そうは見えないか知ら」「見えます」と甲野さんが云った。
極めて真面目な調子である。
母にさえ嘲弄の意味には受取れなかった。
「ただ年を取って心細いから……たった一人の藤尾をやってしまうと、後が困るんでね」「なるほど」「でなければ一が好いんだがね。御前とも仲が善し……」「母かさん、小野をよく知っていますか」「知ってるつもりです。叮嚀で、親切で、学問がよく出来て立派な人じゃないか。――なぜ」「そんなら好いです」「そう素気なく云わずと、何か考があるなら聞かしておくれな。せっかく相談に来たんだから」 しばらく罫紙の上の楽書を見詰めていた甲野さんは眼を上げると共に穏かに云い切った。
「宗近の方が小野より母さんを大事にします」「そりゃ」とたちまち出る。
後から静かに云う。
「そうかも知れない――御前の見た眼に間違はあるまいが、ほかの事と違って、こればかりは親や兄の自由には行かないもんだからね」「藤尾が是非にと云うんですか」「え、まあ――是非とも云うまいが」「そりゃ私も知っている。知ってるんだが。――藤尾はいますか」「呼びましょう」 母は立った。
薄紅色に深く唐草を散らした壁紙に、立ちながら、手頃に届く電鈴を、白きただ中に押すと、座に返るほどなきに応がある。
入口の戸が五寸ばかりそっと明く、ところを振り返った母が「藤尾に用があるからちょいと」と云う。
そっと明いた戸はそっと締る。
母と子は洋卓を隔てて差し向う。
互に無言である。
欽吾はまた鉛筆を取り上げた。
三つ鱗の周囲に擦れ擦れの大きさに円を描く。
円と鱗の間を塗る。
黒い線を一本一本叮嚀に並行させて行く。
母は所在なさに、忰の図案を慇懃に眺めている。
二人の心は無論わからぬ。
ただ上部だけはいかにも静である。
もし手足の挙止が、内面の消息を形而下に運び来る記号となり得るならば、この二人ほどに長閑な母子は容易に見出し得まい。
退屈の刻を、数十の線に劃して、行儀よく三つ鱗の外部を塗り潰す子と、尋常に手を膝の上に重ねて、一劃ごとに黒くなる円の中を、端然と打ち守る母とは、咸雍の母子である。
和怡の母子である。
挟さむ洋卓に、遮らるる胸と胸を対い合せて、春鎖す窓掛のうちに、世を、人を、争を、忘れたる姿である。
亡き人の肖像は例に因って、壁の上から、閑静なるこの母子を照らしている。
丹念に引く線はようやく繁くなる。
黒い部分はしだいに増す。
残るはただ右手に当る弓形の一ヵ所となった時、がちゃりと釘舌を捩る音がして、待ち設けた藤尾の姿が入口に現われた。
白い姿を春に託す。
深い背景のうちに肩から上が浮いて見える。
甲野さんの鉛筆は引きかけた線の半ばでぴたりと留った。
同時に藤尾の顔は背景を抜け出して来る。
「炙り出しはどうして」と言いながら、母の隣まで来て、横合から腰を卸す。
卸し終った時、また、「出て?」と母に聞く。
母はただ藤尾の方を意味ありげに見たのみである。
甲野さんの黒い線はこの間に四本増した。
「兄さんが御前に何か御用があると御云いだから」「そう」と云ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。
黒い線がしきりに出来つつある。
「兄さん、何か御用」「うん」と云った甲野さんは、ようやく顔を上げた。
顔を上げたなり何とも云わない。
藤尾は再び母の方を見た。
見ると共に薄笑の影が奇麗な頬にさす。
兄はやっと口を切る。
「藤尾、この家と、私が父さんから受け襲いだ財産はみんな御前にやるよ」「いつ」「今日からやる。――その代り、母さんの世話は御前がしなければいけない」「ありがとう」と云いながら、また母の方を見る。
やはり笑っている。
「御前宗近へ行く気はないか」「ええ」「ない? どうしても厭か」「厭です」「そうか。――そんなに小野が好いのか」 藤尾は屹となる。
「それを聞いて何になさる」と椅子の上に背を伸して云う。
「何にもしない。私のためには何にもならない事だ。ただ御前のために云ってやるのだ」「私のために?」と言葉の尻を上げて置いて、「そう」とさも軽蔑したように落す。
母は始めて口を出す。
「兄さんの考では、小野さんより一の方がよかろうと云う話なんだがね」「兄さんは兄さん。私は私です」「兄さんは小野さんよりも一の方が、母さんを大事にしてくれると御言いのだよ」「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向った。
「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」「知っている」と閑静に云う。
「知ってるもんですか」と立ち上がる。
「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」「そうか」「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの価値は分りません。けっして分りません。一さんを賞める人に小野さんの価値が分る訳がありません。……」「じゃ小野にするさ」「無論します」 云い棄てて紫の絹は戸口の方へ揺いた。
繊い手に円鈕をぐるりと回すや否や藤尾の姿は深い背景のうちに隠れた。