虞美人草

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七

第 7 章
燐寸まっちを擦るする事こと一いち寸すんにして火ひは闇やみに入るはいる。
幾いく段だんの彩錦あやきんを捲りめくり終れおわれば無地むじの境さかいをなす。
春興はるきょうは二人ふたりの青年せいねんに尽きつきた。
狐きつねの袖そで無むを着きて天下てんかを行くいくものは、日記にっきを懐ふところにして百ひゃく年ねんの憂うれいを抱くいだくものと共ともに帰程に上るのぼる。
古きふるき寺てら、古きふるき社しゃ、神かみの森もり、仏ふつの丘おかを掩うおおうて、いそぐ事ことを解せげせぬ京きょうの日ひはようやく暮れくれた。
倦怠けんたいるい夕べゆうべである。
消えきえて行くいくすべてのものの上うえに、星ほしばかり取り残さとりのこされて、それすらも判然はんぜんとは映らうつらぬ。
瞬くしばたたくも嬾き空そらの中なかにどろんと溶けとけて行こういこうとする。
過去かこはこの眠れねむれる奥おくから動きうごき出すだす。
一人ひとりの一生いっしょうには百ひゃくの世界せかいがある。
ある時じは土つちの世界せかいに入りいり、ある時じは風かぜの世界せかいに動くうごく。
またある時じは血ちの世界せかいに腥なまぐさき雨あめを浴びるあびる。
一人ひとりの世界せかいを方寸ほうすんに纏めまとめたる団子だんごと、他ほかの清濁せいだくを混じこんじたる団子だんごと、層々そうそう相そう連れんって千せん人ひとに千せん個この実じつ世界せかいを活かつ現げんする。
個々ここの世界せかいは個々ここの中心ちゅうしんを因果いんがの交叉こうさ点てんに据えすえて分相応ぶんそうおうの円周えんしゅうを右みぎに劃しかくし左ひだりに劃すかくす。
怒どの中心ちゅうしんより画きえがき去るさる円えんは飛ぶとぶがごとくに速かすみやかに、恋こいの中心ちゅうしんより振りふり来るくる円周えんしゅうは※の痕あとを空裏くうりに焼くやく。
あるものは道義どうぎの糸いとを引いひいて動きうごき、あるものは奸譎かんきつの圜をほのめかして回るまわる。
縦横じゅうおうに、前後ぜんごに、上下じょうげ四方しほうに、乱れ飛ぶみだれとぶ世界せかいと世界せかいが喰い違うくいちがうとき秦はた越こしの客きゃくここに舟ふねを同じゅうおなじゅうす。
甲野こうのさんと宗近むねちか君きみは、三春みはる行楽こうらくの興きょう尽きつきて東ひがしに帰るかえる。
孤こ堂どう先生せんせいと小夜子さよこは、眠れるねむれる過去かこを振り起しふりおこして東ひがしに行くいく。
二に個この別世界べつせかいは八はち時じ発はつの夜よる汽車きしゃで端はしなくも喰い違っくいちがった。
わが世界せかいとわが世界せかいと喰い違うくいちがうとき腹はらを切るきる事ことがある。
自滅じめつする事ことがある。
わが世界せかいと他ほかの世界せかいと喰い違うくいちがうとき二つながらふたつながら崩れるくずれる事ことがある。
破けやぶけて飛ぶとぶ事ことがある。
あるいは発はつ矢やと熱ねつを曳いひいて無む極きょくのうちに物別れものわかれとなる事ことがある。
凄まじすさまじき喰い違いくいちがい方ほうが生涯しょうがいに一度いちど起るおこるならば、われは幕まく引くひく舞台ぶたいに立つたつ事ことなくして自じからなる悲劇ひげきの主人公しゅじんこうである。
天てんより賜わるたまわる性格せいかくはこの時じ始めはじめて第だい一いち義ぎにおいて躍動やくどうする。
八はち時じ発はつの夜よる汽車きしゃで喰い違っくいちがった世界せかいはさほどに猛烈もうれつなものではない。
しかしただ逢うあうてただ別れるわかれる袖そでだけの縁えんならば、星ほし深きふかき春はるの夜よるを、名なさえ寂びさびたる七なな条じょうに、さして喰い違うくいちがうほどの必要ひつようもあるまい。
小説しょうせつは自然しぜんを彫琢ちょうたくする。
自然しぜんその物ものは小説しょうせつにはならぬ。
二に個この世界せかいは絶えたえざるがごとく、続かつづかざるがごとく、夢ゆめのごとく幻まぼろしのごとく、二百にひゃく里さとの長きながき車くるまのうちに喰い違っくいちがった。
二百にひゃく里さとの長きながき車くるまは、牛うしを乗せようのせようか、馬うまを乗せようのせようか、いかなる人ひとの運命うんめいをいかに東ひがしの方ほうに搬びはこび去ろうさろうか、さらに無頓着むとんちゃくである。
世よを畏れおそれぬ鉄輪てつりんをごとりと転てんす。
あとは驀地まっしぐらに闇やみを衝くつく。
離れはなれて合うあうを待ちまち佗び顔かおなるを、行いおこないて帰るかえるを快かいからぬを、旅たびに馴れなれて徂徠そらいを意いとせざるを、一様いちように束ねたばねて、ことごとく土偶どぐうのごとくに遇待うとする。
夜よるこそ見えみえね、熾んさかんに黒煙こくえんを吐きはきつつある。
眠るねむる夜よるを、生けいけるものは、提灯ちょうちんの火ひに、皆みな七なな条じょうに向っむかって動いうごいて来るくる。
梶棒かじぼうが下りるおりるとき黒いくろい影かげが急きゅうに明かるくあかるくなって、待合まちあいに入るはいる。
黒いくろい影かげは暗いくらいなかから続々ぞくぞくと現われあらわれて出るでる。
場内じょうないは生きいきた黒いくろい影かげで埋まっうまってしまう。
残るのこる京都きょうとは定めてさだめて静かしずかだろうと思わおもわれる。
京きょうの活動かつどうを七なな条じょうの一いち点てんにあつめて、あつめたる活動かつどうの千せんと二千にせんの世界せかいを、十じゅう把わ一いち束たばに夜明よあけまでに、あかるい東京とうきょうへ推しおし出そうでそうために、汽車きしゃはしきりに煙けむりを吐きはきつつある。
黒いくろい影かげはなだれ始めはじめた。
――一団いちだんの塊まりかたまりはばらばらに解れわかれて点てんとなる。
点てんは右みぎへと左ひだりへと動くうごく。
しばらくすると、無敵むてきな音おとを立てたてて車輛しゃりょうの戸とをはたはたと締めしめて行くいく。
忽然こつぜんとしてプラットフォームぷらっとふぉーむは、在るある人ひとを掃いはいて捨てすてたようにがらんと広くひろくなる。
大きなおおきな時計とけいばかりが窓まどの中なかから眼めにつく。
すると口笛くちぶえが遥かはるかの後ろうしろで鳴っなった。
車くるまはごとりと動くうごく。
互たがいの世界せかいがいかなる関係かんけいに織り成さおりなさるるかを知らしらぬ気きに、闇やみの中なかを鼻はなで行くいく、甲野こうのさんは、宗近むねちか君きみは、孤こ堂どう先生せんせいは、可憐かれんなる小夜子さよこは、同じくおなじくこの車くるまに乗っのっている。
知らしらぬ車くるまはごとりごとりと廻転かいてんする。
知らしらぬ四よん人ひとは、四よん様ようの世界せかいを喰い違わくいちがわせながら暗いくらい夜よるの中なかに入るはいる。
「だいぶ込み合うこみあうな」と甲野こうのさんは室内しつないを見み廻わしまわしながら云ういう。
「うん、京都きょうとの人間にんげんはこの汽車きしゃでみんな博覧会はくらんかい見物けんぶつに行くいくんだろう。よっぽど乗っのったね」「そうさ、待合所まちあいしょが黒山くろやまのようだった」「京都きょうとは淋しいさびしいだろう。今頃いまごろは」「ハハハハはははは本当ほんとうに。実じつに閑静かんせいな所ところだ」「あんな所ところにいるものでも動くうごくから不思議ふしぎだ。あれでもやっぱりいろいろな用事ようじがあるんだろうな」「いくら閑静かんせいでも生れるうまれるものと死ぬしぬものはあるだろう」と甲野こうのさんは左ひだりの膝ひざを右みぎの上うえへ乗せのせた。
「ハハハハはははは生れうまれて死ぬしぬのが用事ようじか。蔦屋つたやの隣家りんかに住んすんでる親子おやこなんか、まあそんな連中れんちゅうだね。随分ずいぶんひっそり暮しくらしてるぜ。かたりともしない。あれで東京とうきょうへ行くいくと云ういうから不思議ふしぎだ」「博覧会はくらんかいでも見みに行くいくんだろう」「いえ、家いえを畳んたたんで引っ越すひっこすんだそうだ」「へええ。いつ」「いつか知らしらない。そこまでは下女げじょに聞いきいて見みなかった」「あの娘むすめもいずれ嫁よめに行くいく事ことだろうな」と甲野こうのさんは独り言ひとりごとのように云ういう。
「ハハハハはははは行くいくだろう」と宗近むねちか君きみは頭陀袋ずだふくろを棚たなへ上げあげた腰こしを卸しおろしながら笑うわらう。
相手あいては半分はんぶん顔かおを背けそむけて硝子がらす越こしに窓まどの外そとを透しとおして見るみる。
外そとはただ暗いくらいばかりである。
汽車きしゃは遠慮えんりょもなく暗いくらいなかを突とっ切っきって行くいく。
轟とどろきと云ういう音おとのみする。
人間にんげんは無能力むのうりょくである。
「随分ずいぶん早いはやいね。何なん哩くらいの速力そくりょくか知らしらん」と宗近むねちか君きみが席せきの上うえへ胡坐こざをかきながら云ういう。
「どのくらい早いはやいか外そとが真暗まっくらでちっとも分らわからん」「外そとが暗くくらくったって、早いはやいじゃないか」「比較ひかくするものが見えみえないから分らわからないよ」「見えみえなくったって、早いはやいさ」「君きみには分るわかるのか」「うん、ちゃんと分るわかる」と宗近むねちか君きみは威張っいばって胡坐こざをかき直すなおす。
話しはなしはまた途切れるとぎれる。
汽車きしゃは速度そくどを増しまして行くいく。
向むかいの棚たなに載せのせた誰だれやらの帽子ぼうしが、傾いかたむいたまま、山高やまたかの頂いただきを顫わふるわせている。
給仕きゅうじが時々ときどき室内しつないを抜けるぬける。
大抵たいていの乗客じょうきゃくは向い合せむかいあわせに顔かおと顔かおを見守っみまもっている。
「どうしても早いはやいよ。おい」と宗近むねちか君きみはまた話しかけるはなしかける。
甲野こうのさんは半分はんぶん眼めを眠っねむっていた。
「ええ?」「どうしてもね、――早いはやいよ」「そうか」「うん。そうら――早いはやいだろう」 汽車きしゃは轟とどろきと走るはしる。
甲野こうのさんはにやりと笑っわらったのみである。
「急行列車きゅうこうれっしゃは心持ちこころもちがいい。これでなくっちゃ乗っのったような気きがしない」「また夢窓むそう国師こくしより上等じょうとうじゃないか」「ハハハハはははは第だい一いち義ぎに活動かつどうしているね」「京都きょうとの電車でんしゃとは大おお違いだろう」「京都きょうとの電車でんしゃか? あいつは降参こうさんだ。全然ぜんぜん第だい十じゅう義ぎ以下いかだ。あれで運転うんてんしているから不思議ふしぎだ」「乗るのる人ひとがあるからさ」「乗るのる人ひとがあるからって――余りあまりだ。あれで布設ふせつしたのは世界一せかいいちだそうだぜ」「そうでもないだろう。世界一せかいいちにしちゃあ幼稚ようち過ぎるすぎる」「ところが布設ふせつしたのが世界一せかいいちなら、進歩しんぽしない事ことも世界一せかいいちだそうだ」「ハハハハはははは京都きょうとには調和ちょうわしている」「そうだ。あれは電車でんしゃの名所めいしょ古蹟こせきだね。電車でんしゃの金閣きんかく寺てらだ。元来がんらい十じゅう年ねん一日いちにちのごとしと云ういうのは賞めるほめる時じの言葉ことばなんだがな」「千里せんりの江陵こうりょう一日いちにちに還るかえるなんと云ういう句くもあるじゃないか」「一百いちひゃく里程りてい塁壁るいへきの間まさ」「そりゃ西郷隆盛さいごうたかもりだ」「そうか、どうもおかしいと思っおもったよ」 甲野こうのさんは返事へんじを見合せみあわせて口くちを緘かんじた。
会話かいわはまた途切れるとぎれる。
汽車きしゃは例れいによって轟とどろきと走るはしる。
二人ふたりの世界せかいはしばらく闇やみの中なかに揺られゆられながら消えきえて行くいく。
同時どうじに、残るのこる二人ふたりの世界せかいが、細長いほそながい夜よるを糸いとのごとく照らしてらして動くうごく電灯でんとうの下したにあらわれて来るくる。
色いろ白くしろく、傾くかたむく月つきの影かげに生れうまれて小夜さよと云ういう。
母ははなきを、つづまやかに暮らすくらす親おや一人ひとり子こ一人ひとりの京きょうの住居じゅうきょに、盂蘭盆うらぼんの灯籠とうろうを掛けかけてより五ご遍へんになる。
今年ことしの秋あきは久しひさし振ぶりで、亡きなき母ははの精霊せいれいを、東京とうきょうの苧殻おがらで迎えるむかえる事ことと、長袖ながそでの右左みぎひだりに開くひらくなかから、白いしろい手てを尋常じんじょうに重ねかさねている。
物ものの憐れあわれは小しょうさき人ひとの肩かたにあつまる。
乗しのし掛るかかる怒どは、撫で下すなでおろす絹きぬしなやかに情じょうの裾すそに滑り込むすべりこむ。
紫むらさきに驕るおごるものは招くまねく、黄きに深くふかく情じょう濃こきものは追うおう。
東西とうざいの春はるは二百にひゃく里さとの鉄路てつろに連なるつらなるを、願がんの糸いとの一筋ひとすじに、恋こいこそ誠まことなれと、髪かみに掛けかけたる丈長たけながを顫わふるわせながら、長きながき夜よるを縫うぬうて走るはしる。
古きふるき五ご年ねんは夢ゆめである。
ただ滴しずくたる絵筆えふでの勢いきおいに、うやむやを貫いつらぬいて赫とかっと染めそめつけられた昔むかしの夢ゆめは、深くふかく記憶きおくの底そこに透っとおって、当時とうじを裏返すうらがえす折々おりおりにさえ鮮かあざやかに煮に染んしんで見えるみえる。
小夜子さよこの夢ゆめは命いのちよりも明かあきらかである。
小夜子さよこはこの明かあきらかなる夢ゆめを、春寒しゅんかんの懐ふところに暖めあたためつつ、黒くくろく動くうごく一条いちじょうの車くるまに載せのせて東ひがしに行くいく。
車くるまは夢ゆめを載せのせたままひたすらに、ただ東ひがしへと走るはしる。
夢ゆめを携えたずさえたる人ひとは、落すおとすまじと、ひしと燃ゆるもゆるものを抱きしめだきしめて行くいく。
車くるまは無二むに無三むさんに走るはしる。
野のには緑みどりりを衝きつき、山やまには雲くもを衝きつき、星ほしあるほどの夜よるには星ほしを衝いついて走るはしる。
夢ゆめを抱くいだく人ひとは、抱きいだきながら、走りはしりながら、明かあきらかなる夢ゆめを暗闇くらやみの遠きとおきより切り放しきりはなして、現実げんじつの前まえに抛げなげ出さださんとしつつある。
車くるまの走るはしるごとに夢ゆめと現実げんじつの間まは近づいちかづいてくる。
小夜子さよこの旅たびは明かあきらかなる夢ゆめと明かあきらかなる現実げんじつがはたと行き逢うゆきあうて区別くべつなき境さかいに至っいたってやむ。
夜よるはまだ深いぶかい。
隣りとなりに腰こしを掛けかけた孤こ堂どう先生せんせいはさほどに大事だいじな夢ゆめを持っもっておらぬ。
日ごとひごとに※の下したに白くしろくなる疎まばら髯ひげを握っにぎっては昔むかししを思い出そうおもいだそうとする。
昔むかししは二十にじゅう年ねんの奥おくに引き籠っひきこもって容易よういには出でて来きない。
漠々ばくばくたる紅くれない塵ごみのなかに何なんやら動いうごいている。
人ひとか犬いぬか木きか草くさかそれすらも判然はんぜんせぬ。
人ひとの過去かこは人ひとと犬いぬと木きと草くさとの区別くべつがつかぬようになって始めてはじめて真しんの過去かことなる。
恋々れんれんたるわれを、つれなく見み捨て去るすてさる当時とうじに未練みれんがあればあるほど、人ひとも犬いぬも草くさも木きもめちゃくちゃである。
孤こ堂どう先生せんせいは胡麻塩ごましお交りまじわりの髯ひげをぐいと引いひいた」「御前ごぜんが京都きょうとへ来きたのは幾いく歳としの時じだったかな」「学校がっこうを廃めやめてから、すぐですから、ちょうど十六じゅうろくの春はるでしょう」「すると、今年ことしで何なんだね、……」「五ご年ねん目めです」「そう五ご年ねんになるね。早いはやいものだ、ついこの間まのように思っおもっていたが」とまた髯ひげを引っ張っひっぱった。
「来きた時じに嵐山あらしやまへ連れつれていっていただいたでしょう。御ご母さんははさんといっしょに」「そうそう、あの時じは花はながまだ早はや過ぎすぎたね。あの時分じぶんから思うおもうと嵐山あらしやまもだいぶ変っかわったよ。名物めいぶつの団子だんごもまだできなかったようだ」「いえ御ご団子だんごはありましたわ。そら三軒さんけん茶ちゃ屋やの傍そばで喫べたじゃありませんか」「そうかね。よく覚えおぼえていないよ」「ほら、小野おのさんが青いあおいのばかり食べるたべるって、御ご笑いわらいなすったじゃありませんか」「なるほどあの時分じぶんは小野おのがいたね。御ご母さんははさんも丈夫じょうぶだったがな。ああ早くはやく亡くなろうなくなろうとは思わおもわなかったよ。人間にんげんほど分らわからんものはない。小野おのもそれからだいぶ変っかわったろう。何しろなにしろ五ご年ねんも逢わあわないんだから……」「でも御ご丈夫じょうぶだから結構けっこうですわ」「そうさ。京都きょうとへ来きてから大変たいへん丈夫じょうぶになった。来きたては随分ずいぶん蒼いあおい顔かおをしてね、そうして何なんだか始終しじゅうおどおどしていたようだが、馴れるなれるとだんだん平気へいきになって……」「性質せいしつが柔やわ和いないんですよ」「柔やわ和いないんだよ。柔和にゅうわ過ぎるすぎるよ。――でも卒業そつぎょうの成績せいせきが優等ゆうとうで銀時計ぎんとけいをちょうだいして、まあ結構けっこうだ。――人ひとの世話せわはするもんだね。ああ云ういう性質せいしつの好いよい男おとこでも、あのまま放っはなって置けおけばそれぎり、どこへどう這入っはいってしまうか分らわからない」「本当ほんとうにね」 明かあきらかなる夢ゆめは輪わを描いえがいて胸むねのうちに回りまわり出すだす。
死ししたる夢ゆめではない。
五ご年ねんの底そこから浮きうき刻こくりの深きふかき記憶きおくを離れはなれて、咫尺しせきに飛び上がっとびあがって来るくる。
女おんなはただ眸ひとみを凝らしこらして眼前がんぜんに逼るせまる夢ゆめの、明らかあきらかに過すぎぐるほどの光景こうけいを右みぎから、左ひだりから、前後ぜんご上下じょうげから見るみる。
夢ゆめを見るみるに心こころを奪わうばわれたる人ひとは、老いおいたる親おやの髯ひげを忘れるわすれる。
小夜子さよこは口くちをきかなくなった。
「小野おのは新橋しんばしまで迎むかえにくるだろうね」「いらっしゃるでしょうとも」 夢ゆめは再びふたたび躍るおどる。
躍るおどるなと抑えおさえたるまま、夜よるを込めこめて揺られゆられながらに、暗きくらきうちを駛ける。
老人ろうじんは髯ひげから手てを放すはなす。
やがて眼めを眠るねむる。
人ひとも犬いぬも草くさも木きも判然はんぜんと映らうつらぬ古きふるき世界せかいには、いつとなく黒いくろい幕まくが下りるおりる。
小しょうさき胸むねに躍りおどりつつ、転てんりつつ、抑えおさえられつつ走るはしる世界せかいは、闇やみを照らしてらして火ひのごとく明かあきらかである。
小夜子さよこはこの明かあきらかなる世界せかいを抱いいだいて眠ねむりについた。
長いながい車くるまは包むつつむ夜よるを押し分けおしわけて、やらじと逆うさからう風かぜを打つうつ。
追いおい懸けんくる冥府めいふの神かみを、力ちからある尾おに敲いたたいて、ようやくに抜け出でぬけいでたる暁あかつきの国くにの青くあおく煙るけむる向うむこうが一面いちめんに競り上がっせりあがって来るくる。
茫々ぼうぼうたる原野はらのの自からみずから尽きつきず、しだいに天てんに逼っせまって上うえへ上うえへと限りなきかぎりなきを怪しみあやしみながら、消え残るきえのこる夢ゆめを排しはいして、眼めを半天はんてんに走らすはしらす時じ、日輪にちりんの世よは明けあけた。
神かみの代だいを空そらに鳴くなく金鶏きんけいの、翼つばさ五百里ごひゃくりなるを一いち時じに搏して、漲ぎるみなぎる雲くもを下界かかいに披くひらく大おお虚うつろの真中まなかに、朗あきらに浮き出すうきだす万古ばんこの雪ゆきは、末広すえひろになだれて、八州はっしゅうの野のを圧するあっする勢いきおいを、左右さゆうに展開てんかいしつつ、蒼茫そうぼうの裡りに、腰こしから下したを埋めうめている。
白きしろきは空そらを見よみよがしに貫ぬくつらぬく。
白きしろきものの一段いちだんを尽くせつくせば、紫むらさきの襞ひだと藍あいの襞ひだとを斜めななめに畳んたたんで、白きしろき地ちを不規則ふきそくなる幾いく条じょうに裂いさいて行くいく。
見上ぐるみあぐる人ひとは這うはう雲くもの影かげを沿うそうて、蒼あお暗きくらき裾野すそのから、藍あい、紫むらさきの深きふかきを稲妻いなずまに縫いぬいつつ、最上さいじょうの純白じゅんぱくに至っいたって、豁然かつぜんとして眼めが醒めるさめる。
白きしろきものは明あきらるき世界せかいにすべての乗客じょうきゃくを誘うさそう。
「おい富士ふじが見えるみえる」と宗近むねちか君きみが座ざを滑り下りすべりおりながら、窓まどをはたりと卸すおろす。
広いひろい裾野すそのから朝風あさかぜがすうと吹き込んふきこんでくる。
「うん。さっきから見えみえている」と甲野こうのさんは駱駝らくだの毛布もうふを頭あたまから被っかぶったまま、存外ぞんがい冷淡れいたんである。
「そうか、寝ねなかったのか」「少しすこしは寝ねた」「何なんだ、そんなものを頭あたまから被っかぶって……」「寒いさむい」と甲野こうのさんは膝掛ひざかけの中なかで答えこたえた。
「僕ぼくは腹はらが減っへった。まだ飯めしは食わさくわさないだろうか」「飯めしを食うくう前まえに顔かおを洗わあらわなくっちゃ……」「ごもっともだ。ごもっともな事ことばかり云ういう男おとこだ。ちっと富士ふじでも見るみるがいい」「叡山えいざんよりいいよ」「叡山えいざん? 何なんだ叡山えいざんなんか、たかが京都きょうとの山やまだ」「大変たいへん軽蔑けいべつするね」「ふふん。――どうだい、あの雄大ゆうだいな事ことは。人間にんげんもああ来きなくっちゃあ駄目だめだ」「君きみにはああ落ちついおちついちゃいられないよ」「保津ほづ川かわが関の山せきのやまか。保津ほづ川かわでも君きみより上等じょうとうだ。君きみなんぞは京都きょうとの電車でんしゃぐらいなところだ」「京都きょうとの電車でんしゃはあれでも動くうごくからいい」「君きみは全くまったく動かうごかないか。ハハハハはははは。さあ駱駝らくだを払い退けはらいのけて動いうごいた」と宗近むねちか君きみは頭陀袋ずだふくろを棚たなから取り卸すとりおろす。
室むろのなかはざわついてくる。
明かるいあかるい世界せかいへ馳はせけ抜けぬけた汽車きしゃは沼津ぬまづで息いきを入れるいれる。
――顔かおを洗うあらう。
窓まどから肉にくの落ちおちた顔かおが半分はんぶん出るでる。
疎まばら髯ひげを一いち本ほんごとにあるいは黒くくろくあるいは白くしろく朝風あさかぜに吹かしふかして「おい弁当べんとうを二につくれ」と云ういう。
孤こ堂どう先生せんせいは右みぎの手てに若干じゃっかんの銀貨ぎんかを握っにぎって、へぎ折おりを取るとる左ひだりと引き換ひきかえに出すだす。
御ご茶ちゃは部屋へやのなかで娘むすめが注いそそいでいる。
「どうだね」と折おりの蓋ふたを取るとると白いしろい飯粒めしつぶが裏うらへ着いついてくる。
なかには長芋ながいもの白茶しらちゃに寝転んねころんでいる傍らかたわらに、一いち片かたの玉子焼たまごやきが黄色くきいろく圧し潰さおしつぶされようとして、苦し紛れくるしまぎれに首くびだけ飯めしの境さかいに突き込んつきこんでいる。
「まだ、食べたべたくないの」と小夜子さよこは箸はしを執らとらずに折おりごと下したへ置くおく。
「やあ」と先生せんせいは茶碗ちゃわんを娘むすめから受取っうけとって、膝ひざの上うえの折おりに突き立てつきたててた箸はしを眺めながめながら、ぐっと飲むのむ。
「もう直じかですね」「ああ、もう訳わけはない」と長芋ながいもが髯ひげの方ほうへ動きうごき出しだした。
「今日きょうはいい御ご天気てんきですよ」「ああ天気てんきで仕合せしあわせだ。富士ふじが奇麗きれいに見えみえたね」と長芋ながいもが髯ひげから折おりのなかへ這入るはいる。
「小野おのさんは宿やどを捜さがせがして置いおいて下すっくだすったでしょうか」「うん。捜さがせが――捜さがせがしたに違いない」と先生せんせいの口くちが、喫飯と返事へんじを兼勤けんきんする。
食事しょくじはしばらく継続けいぞくする。
「さあ食堂しょくどうへ行こういこう」と宗近むねちか君きみが隣りとなりの車室しゃしつで米沢よねざわ絣かすりの襟えりを掻き合せるかきあわせる。
背広せびろの甲野こうのさんは、ひょろ長くひょろながく立ち上がったちあがった。
通り道とおりみちに転がっころがっている手提てさげ革鞄かわかばんを跨いまたいだ時じ、甲野こうのさんは振り返っふりかえって「おい、蹴爪けづめずくと危ないあぶない」と注意ちゅういした。
硝子戸がらすとを押し開けおしあけて、隣りとなりの車室しゃしつへ足あしを踏み込んふみこんだ甲野こうのさんは、真直まっすぐに抜けるぬける気きで、中途ちゅうとまで来きた時じ、宗近むねちか君きみが後ろうしろから、ぐいと背広せびろの尻しりを引っ張っひっぱった。
「御飯ごはんが少しすこし冷えひえてますね」「冷えひえてるのはいいが、硬かた過ぎすぎてね。――阿爺あやのように年ねんを取るとると、どうも硬いかたいのは胸むねに痞えつかえていけないよ」「御ご茶ちゃでも上がっあがったら……注ぎそそぎましょうか」 青年せいねんは無言むごんのまま食堂しょくどうへ抜けぬけた。
日ひごと夜よるごとを入り乱れいりみだれて、尽じん十方じっぽうに飛びとび交わすかわす小しょう世界せかいの、普ひろしねく天涯てんがいを行きいき尽しつくして、しかも尽じんくる期きなしと思わおもわるるなかに、絹糸けんしの細ほそきを厭わいとわず植えつけうえつけし蚕かいこの卵たまごの並べるならべるごとくに、四よん人ひとの小宇宙しょううちゅうは、心こころなき汽車きしゃのうちに行くいく夜半やはんを背中せなか合せあわせの知らしらぬ顔かおに並べならべられた。
星ほしの世よは掃き落さはきおとされて、大空おおぞらの皮かわを奇麗きれいに剥ぎ取っはぎとった白日はくじつの、隠すかくすなかれと立ち上るたちのぼる窓まどの中なかに、四よん人ひとの小宇宙しょううちゅうは偶たまを作っつくって、ここぞと互たがいに擦れ違っすれちがった。
擦れ違っすれちがって通り越しとおりこした二に個この小宇宙しょううちゅうは今いま白いしろい卓たく布ぬのを挟んはさんでハムエクスはむえくすを平げたいらげつつある。
「おいいたぜ」と宗近むねちか君きみが云ういう。
「うんいた」と甲野こうのさんは献立表こんだてひょうを眺めながめながら答えるこたえる。
「いよいよ東京とうきょうへ行くいくと見えるみえる。昨夕さくゆう京都きょうとの停車場ていしゃじょうでは逢わあわなかったようだね」「いいや、ちっとも気きがつかなかった」「隣りとなりに乗っのってるとは僕ぼくも知らしらなかった。――どうも善くよく逢うあうね」「少しすこし逢いあい過ぎるすぎるよ。――このハムはむはまるで膏あぶらばかりだ。君きみのも同様どうようかい」「まあ似にたもんだ。君きみと僕ぼくの違いぐらいなところかな」と宗近むねちか君きみは肉にく刺さしを逆ぎゃくにして大きなおおきな切身きりみを口くちへ突き込むつきこむ。
「御ご互たがいに豚ぶたをもって自任じにんしているのかなあ」と甲野こうのさんは、少々しょうしょう情けななさけなさそうに白いしろい膏あぶら味あじを頬張るほおばる。
「豚ぶたでもいいが、どうも不思議ふしぎだよ」「猶太なおふとし人ひとは豚ぶたを食わくわんそうだね」と甲野こうのさんは突然とつぜん超然ちょうぜんたる事ことを云ういう。
「猶太なおふとし人ひとはともかくも、あの女おんながさ。少しすこし不思議ふしぎだよ」「あんまり逢うあうからかい」「うん。――給仕きゅうじ紅茶こうちゃを持っもって来いこい」「僕ぼくはコフィーこふぃーを飲むのむ。この豚ぶたは駄目だめだ」と甲野こうのさんはまた女おんなを外しはずしてしまう。
「これで何なん遍へん逢うあうかな。一遍いちぺん、二に遍へん、三さん遍へんと何なんでも三さん遍へんばかり逢うあうぜ」「小説しょうせつなら、これが縁えんになって事件じけんが発展はってんするところだね。これだけでまあ無事ぶじらしいから……」と云っいったなり甲野こうのさんはコフィーこふぃーをぐいと飲むのむ。
「これだけで無事ぶじらしいから御ご互たがいに豚ぶたなんだろう。ハハハハはははは。――しかし何なんとも云わいわれない。君きみがあの女おんなに懸想けそうして……」「そうさ」と甲野こうのさん、相手あいての文句もんくを途中とちゅうで消しけしてしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うあうくらいだからこの先このさき、どう関係かんけいがつかないとも限らかぎらない」「君きみとかい」「なにさ、そんな関係かんけいじゃないほかの関係かんけいさ。情交じょうこう以外いがいの関係かんけいだよ」「そう」と甲野こうのさんは、左ひだりの手てで顎あごを支えささえながら、右みぎに持っもったコフィーこふぃー茶碗ちゃわんを鼻はなの先さきに据えすえたままぼんやり向うむこうを見みている。
「蜜柑みかんが食いくいたい」と宗近むねちか君きみが云ういう。
甲野こうのさんは黙っだまっている。
やがて「あの女おんなは嫁よめにでも行くいくんだろうか」と毫もごうも心配しんぱいにならない気色けしきで云ういう。
「ハハハハはははは。聞いきいてやろうか」と挨拶あいさつも聞くきく料簡りょうけんはなさそうである。
「嫁よめか? そんなに嫁よめに行きいきたいものかな」「だからさ、そりゃ聞いきいて見みなけりゃあ分からぶんからないよ」「君きみの妹いもうとなんぞは、どうだ。やっぱり行きいきたいようかね」と甲野こうのさんは妙みょうな事ことを真面目まじめに聞き出しききだした。
「糸いと公こうか。あいつは、から赤児あかごだね。しかし兄思いあにおもいだよ。狐きつねの袖そで無むを縫っぬってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫さいほうが上手じょうずなんだぜ。どうだ肱ひじ突とっでも造つくりえてもらってやろうか」「そうさな」「いらないか」「うん、いらん事こともないが……」 肱ひじ突とっは不得要領ふとくようりょうに終っおわって、二人ふたりは食卓しょくたくを立ったった。
孤こ堂どう先生せんせいの車室しゃしつを通り抜けとおりぬけた時じ、先生せんせいは顔かおの前まえに朝日新聞あさひしんぶんを一いち面めんに拡げひろげて、小夜子さよこは小さいちいさい口くちに、玉子焼たまごやきをすくい込んすくいこんでいた。
四よん個この小しょう世界せかいはそれぞれに活動かつどうして、二にたたび列車れっしゃのなかに擦れ違っすれちがったまま、互たがいの運命うんめいを自家じかの未来みらいに危ぶむあやぶむがごとく、また怪しまあやしまざるがごとく、測るはかるべからざる明日あすの世界せかいを擁しようして新橋しんばしの停車場ていしゃじょうに着くつく。
「さっき馳はせけて行っいったのは小野おのじゃなかったか」と停車場ていしゃじょうを出るでる時じ、宗近むねちか君きみが聞いきいて見るみる。
「そうか。僕ぼくは気きがつかなかったが」と甲野こうのさんは答えこたえた。
四よん個この小しょう世界せかいは、停車場ていしゃじょうに突き当っつきあたって、しばらく、ばらばらとなる。
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