虞美人草

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十六

第 16 章
叙述じょじゅつの筆ふでは甲野こうのの書斎しょさいを去っさって、宗近むねちかの家庭かていに入るはいる。
同日どうじつである。
また同刻どうこくである。
相そう変らかわらずの唐とう机つくえを控えひかえて、宗近むねちかの父さんちちさんが鬼おに更紗さらさの座蒲団ざふとんの上うえに坐っすわっている。
襯衣を嫌っいやった、黒くろ八丈はちじょうの襦袢じゅばんの襟えりが崩れくずれて、素肌すはだに、もじゃ、もじゃと胸毛むなげが見えるみえる。
忌部いんべ焼やけの布袋ほていの置物おきものにこんなのがよくある。
布袋ほていの前まえに異様いようの煙草盆たばこぼんを置くおく。
呉ご祥瑞しょうずいの銘めいのある染付そめつけには山やまがある、柳やなぎがある、人物じんぶつがいる。
人物じんぶつと山やまと同じおなじくらいな大きさおおきさに描かえがかれている間まを、一筋ひとすじの金泥きんでいが蜿蜒えんえんと縁えんまで這上るはいあがる。
形かたちは甕かめのごとく、鉢ばちが開いひらいて、開いひらいた頂いただきが、がっくりと縮まるちぢまると、丸いまりい縁えんになる。
向い合せむかいあわせの耳みみを潜るもぐる蔓つるには、ぎりぎりと渋しぶを帯びおびた籐とうを巻きつけまきつけて手提てさげの便びんを計るはかる。
宗近むねちかの父さんちちさんは昨日きのうどこの古道具こどうぐ屋やからか、継つぎのあるこの煙草盆たばこぼんを堀ほりり出しだして来きて、今朝けさから祥瑞しょうずいだ、祥瑞しょうずいだと騒いさわいだ結果けっか、灰はいを入れいれ、火ひを入れいれ、しきりに煙草たばこを吸っすっている。
ところへ入口いりぐちの唐紙とうしをさらりと開けあけて、宗近むねちか君きみが例れいのごとく活溌かっぱつに這入っはいって来るくる。
父ちちは煙草盆たばこぼんから眼めを離しはなした。
見るみると忰せがれは親譲りおやゆずりの背広せびろをだぶだぶに着きて、カシミヤかしみやの靴足袋くつたびだけに、大おおなる通つうをきめている。
「どこぞへ行くいくかね」「行くいくんじゃない、今いま帰っかえったところです。――ああ暑いあつい。今日きょうはよっぽど暑いあついですね」「家いえにいると、そうでもない。御前ごぜんはむやみに急ぐいそぐから暑いあついんだ。もう少しすこし落ちついおちついて歩いあるいたらどうだ」「充分じゅうぶん落ちついおちついているつもりなんだが、そう見えみえないかな。弱るよわるな。――やあ、とうとう煙草盆たばこぼんへ火ひを入れいれましたね。なるほど」「どうだ祥瑞しょうずいは」「何なんだか酒甕さかがめのようですね」「なに煙草盆たばこぼんさ。御前ごぜん達とおるが何なんだかだって笑うわらうが、こうやって灰はいを入れいれて見るみるとやっぱり煙草盆たばこぼんらしいだろう」 老人ろうじんは蔓つるを持っもって、ぐっと祥瑞しょうずいを宙ちゅうに釣るつるし上げあげた。
「どうだ」「ええ。好いよいですね」「好いよいだろう。祥瑞しょうずいは贋にせの多いおおいもんで容易よういには買えかえない」「全体ぜんたいいくらなんですか」「いくらだか当てあてて御覧ごらん」「見当けんとうが着きつきませんね。滅多めったな事ことを云ういうとまたこの間まの松まつ見みたように頭ごなしあたまごなしに叱らしかられるからな」「壱いち円えん八十はちじゅう銭せんだ。安いやすいもんだろう」「安いやすいですかね」「全くまったく堀出ほりいずるだ」「へええ――おや椽えん側がわにもまた新らしいあたらしい植木うえきが出来できましたね」「さっき万両まんりょうと植え替えうえかえた。それは薩摩さつまの鉢ばちで古いふるいものだ」「十六じゅうろく世紀せいき頃ころの葡萄ぶどう耳みみ人ひとが被っかぶった帽子ぼうしのような恰好かっこですね。――この薔薇ばらはまた大変たいへん赤いあかいもんだな、こりゃあ」「それは仏ふつ見み笑わらいと云っいってね。やっぱり薔薇ばらの一種いっしゅだ」「仏ふつ見み笑わらい? 妙みょうな名なだな」「華厳けごん経きょうに外面がいめん如じょ菩薩ぼさつ、内うち心如こころじょ夜叉やしゃと云ういう句くがある。知っしってるだろう」「文句もんくだけは知っしってます」「それで仏ふつ見み笑わらいと云ういうんだそうだ。花はなは奇麗きれいだが、大変たいへん刺さしがある。触っさわって御覧ごらん」「なに触らさわらなくっても結構けっこうです」「ハハハハはははは外面がいめん如じょ菩薩ぼさつ、内うち心如こころじょ夜叉やしゃ。女おんなは危ないあぶないものだ」と云いいいながら、老人ろうじんは雁首がんくびの先さきで祥瑞しょうずいの中なかを穿り廻すほじりまわす。
「むずかしい薔薇ばらがあるもんだな」と宗近むねちか君きみは感心かんしんして仏ふつ見み笑わらいを眺めながめている。
「うん」と老人ろうじんは思い出しおもいだしたように膝ひざを打つうつ。
「一いちあの花はなを見みた事ことがあるかい。あの床ゆかに挿しさしてある」 老人ろうじんはいながら、顔かおの向むかいを後あとへ変えるかえる。
捩れよじれた頸くびに、行き所いきどころを失っうしなった肉にくが、三さん筋すじほど括らくくられて肩かたの方ほうへ競りせり出しだして来るくる。
茶ちゃがかった平床ひらどこには、釣竿つりざおを担いにないだ蜆しじみ子こ和尚おしょうを一筆いっぴつに描いえがいた軸じくを閑静かんせいに掛けかけて、前まえに青銅せいどうの古ふる瓶びんを据えるすえる。
鶴つるほどに長いながい頸くびの中なかから、すいと出るでる二に茎くきに、十字じゅうじと四方しほうに囲うかこう葉はを境さかいに、数珠じゅずに貫くつらぬく露ろの珠たまが二に穂ほずつ偶たまを作っつくって咲いさいている。
「大変たいへん細いほそい花はなですね。――見みた事ことがない。何なんと云ういうんですか」「これが例れいの二人静ふたりしずかだ」「例れいの二人静ふたりしずか? 例れいにも何になんにも今までいままで聞いきいた事ことがないですね」「覚えおぼえて置くおくがいい。面白いおもしろい花はなだ。白いしろい穂ほがきっと二に本ほんずつ出るでる。だから二人静ふたりしずか。謡曲ようきょくに静せいの霊れいが二人ふたりして舞うまうと云ういう事ことがある。知っしっているかね」「知りしりませんね」「二人静ふたりしずか。ハハハハはははは面白いおもしろい花はなだ」「何なんだか因果いんがのある花はなばかりですね」「調べしらべさえすれば因果いんがはいくらでもある。御前ごぜん、梅うめに幾いく通つうあるか知っしってるか」と煙草盆たばこぼんを釣るつるして、また煙管きせるの雁首がんくびで灰はいの中なかを掻きかき廻すまわす。
宗近むねちか君きみはこの機きに乗じじょうじて話頭わとうを転換てんかんした。
「阿爺あやさん。今日きょうね、久しぶりひさしぶりに髪結床かみゆいゆかへ行っいって、頭あたまを刈っかって来きました」と右みぎの手てで黒いくろいところを撫でなで廻すまわす。
「頭あたまを」と云いいいながら羅宇らうの中なかほどを祥瑞しょうずいの縁えんでとんと叩いたたいて灰はいを落すおとす。
「あんまり奇麗きれいにもならんじゃないか」と真向まっこうに帰っかえってから云ういう。
「奇麗きれいにもならんじゃないかって、阿爺あやさん、こりゃ五ご分ぶん刈かりじゃないですぜ」「じゃ何なん刈かりだい」「分けるわけるんです」「分かっわかっていないじゃないか」「今いまに分かるわかるようになるんです。真中まなかが少しすこし長いながいでしょう」「そう云えいえば心持こころもち長いながいかな。廃せはいせばいいのに、見っともないみっともない」「見っともないみっともないですか」「それにこれから夏向なつむきは熱苦しくあつくるしくって……」「ところがいくら熱苦しくあつくるしくっても、こうして置かおかないと不都合ふつごうなんです」「なぜ」「なぜでも不都合ふつごうなんです」「妙みょうな奴やつだな」「ハハハハはははは実じつはね、阿爺あやさん」「うん」「外交官がいこうかんの試験しけんに及第きゅうだいしてね」「及第きゅうだいしたか。そりゃそりゃ。そうか。そんなら早くはやくそう云えいえば好いよいのに」「まあ頭あたまでも拵えこしらえてからにしようと思っおもって」「頭あたまなんぞはどうでも好いよいさ」「ところが五ご分ぶん刈かりで外国がいこくへ行くいくと懲役ちょうえき人ひとと間違えまちがえられるって云いいいますからね」「外国がいこくへ――外国がいこくへ行くいくのかい。いつ」「まあこの髪かみが延びのびて小野おの清三せいぞう式しきになる時分じぶんでしょう」「じゃ、まだ一いちヵ月かげつくらいはあるな」「ええ、そのくらいはあります」「一いちヵ月かげつあるならまあ安心あんしんだ。立つたつ前まえにゆっくり相談そうだんも出来るできるから」「ええ時間じかんはいくらでもあります。時間じかんの方ほうはいくらでもありますが、この洋服ようふくは今日きょう限かぎり御ご返納へんのうに及びおよびたいです」「ハハハハははははいかんかい。よく似合うにあうぜ」「あなたが似合うにあう似合うにあうとおっしゃるから今日きょうまで着きたようなものの――至るいたるところだぶだぶしていますぜ」「そうかそれじゃ廃すはいすがいい。また阿爺あやさんが着ようきよう」「ハハハハはははは驚いおどろいたなあ。それこそ御ご廃しはいしなさい」「廃しはいしても好いよい。黒田くろだにでもやるかな」「黒田くろだこそいい迷惑めいわくだ」「そんなにおかしいかな」「おかしかないが、身体しんたいに合わあわないでさあ」「そうか、それじゃやっぱりおかしいだろう」「ええ、つまるところおかしいです」「ハハハハはははは時じに糸いとにも話しはなしたかい」「試験しけんの事ことですか」「ああ」「まだ話さはなさないです」「まだ話さはなさない。なぜ。――全体ぜんたいいつ分っわかったんだ」「通知つうちのあったのは二三にさん日ひ前まえですがね。つい、忙しいいそがしいもんだから、まだ誰だれにも話さはなさない」「御前ごぜんは呑気のんき過ぎすぎていかんよ」「なに忘れわすれやしません。大丈夫だいじょうぶ」「ハハハハはははは忘れわすれちゃ大変たいへんだ。まあもう、ちっと気きをつけるがいい」「ええこれから糸いと公こうに話しはなしてやろうと思っおもってね。――心配しんぱいしているから。――及第きゅうだいの件けんとそれからこの頭あたまの説明せつめいを」「頭あたまは好いよいが――全体ぜんたいどこへ行くいく事ことになったのかい。英吉利いぎりすか、仏蘭西ふらんすか」「その辺へんはまだ分らわからないです。何なんでも西洋せいようは西洋せいようでしょう」「ハハハハはははは気楽きらくなもんだ。まあどこへでも行くいくが好いよい」「西洋せいようなんか行きいきたくもないんだけれども――まあ順序じゅんじょだから仕方しかたがない」「うん、まあ勝手かってな所ところへ行くいくがいい」「支那しなや朝鮮ちょうせんなら、故この通つうの五ご分ぶん刈かりで、このだぶだぶの洋服ようふくを着きて出掛けるでかけるですがね」「西洋せいようはやかましい。御前ごぜんのような不作法ふさほうものには好いよい修業しゅぎょうになって結構けっこうだ」「ハハハハはははは西洋せいようへ行くいくと堕落だらくするだろうと思っおもってね」「なぜ」「西洋せいようへ行くいくと人間にんげんを二にた通りとおり拵えこしらえて持っもっていないと不都合ふつごうですからね」「二にた通つうとは」「不作法ふさほうな裏うらと、奇麗きれいな表ひょうと。厄介やっかいでさあ」「日本にっぽんでもそうじゃないか。文明ぶんめいの圧迫あっぱくが烈しいはげしいから上部じょうぶを奇麗きれいにしないと社会しゃかいに住めすめなくなる」「その代りかわり生存せいぞん競争きょうそうも烈しくはげしくなるから、内部ないぶはますます不作法ふさほうになりまさあ」「ちょうどなんだな。裏うらと表ひょうと反対はんたいの方角ほうがくに発達はったつする訳わけになるな。これからの人間にんげんは生きいきながら八はちつ裂れつの刑けいを受けるうけるようなものだ。苦しいくるしいだろう」「今いまに人間にんげんが進化しんかすると、神かみ様ようの顔かおへ豚ぶたの睾丸こうがんをつけたような奴やつばかり出来できて、それで落おちつきが取れるとれるかも知れしれない。いやだな、そんな修業しゅぎょうに出掛けるでかけるのは」「いっそ廃はいにするか。うちにいて親父おやじの古ふる洋服ようふくでも着きて太平楽たいへいらくを並べならべている方ほうが好いよいかも知れしれない。ハハハハはははは」「ことに英吉利いぎりす人ひとは気きに喰わくわない。一いちから十じゅうまで英国えいこくが模範もはんであると云わいわんばかりの顔かおをして、何なんでもかでも我流がりゅうで押し通そうおしとおそうとするんですからね」「だが英国えいこく紳士しんしと云っいって近頃ちかごろだいぶ評判ひょうばんがいいじゃないか」「日英にちえい同盟どうめいだって、何なんもあんなに賞めるほめるにも当らあたらない訳わけだ。弥次馬やじうま共ともが英国えいこくへ行っいった事こともない癖くせに、旗はたばかり押し立ておしたてて、まるで日本にっぽんが無くなっなくなったようじゃありませんか」「うん。どこの国くにでも表ひょうが表ひょうだけに発達はったつすると、裏うらも裏うら相応そうおうに発達はったつするだろうからな。――なに国くにばかりじゃない個人こじんでもそうだ」「日本にっぽんがえらくなって、英国えいこくの方ほうで日本にっぽんの真似まねでもするようでなくっちゃ駄目だめだ」「御前ごぜんが日本にっぽんをえらくするさ。ハハハハはははは」 宗近むねちか君きみは日本にっぽんをえらくするとも、しないとも云わいわなかった。
ふと手てを伸すのばすと更紗さらさの結けつ襟えりが白襟しろえりの真中まなかまで浮き出しうきだして結けつ目めは横よこに捩れよじれている。
「どうも、この襟えり飾かざりは滑っすべっていけない」と手て探もとむに位地いちを正しただしながら、「じゃ糸いとにちょっと話しはなしましょう」と立ちたちかける。
「まあ御ご待ちまち、少しすこし相談そうだんがある」「何なんですか」と立ち掛けたちかけた尻しりを卸すおろす機会きかいに、準ひとし胡坐こざの姿勢しせいを取るとる。
「実じつは今までいままでは、御前ごぜんの位地いちもまだきまっていなかったから、さほどにも云わいわなかったが……」「嫁よめですかね」「そうさ。どうせ外国がいこくへ行くいくなら、行くいく前まえにきめるとか、結婚けっこんするとか、または連れつれて行くいくとか……」「とても連れつれちゃ行かいかれませんよ。金きんが足りたりないから」「連れつれて行かいかんでも好いよい。ちゃんと片かたをつけて、そうして置いおいて行くいくなら。留守るす中なかは私わたくしが大事だいじに預かっあずかってやる」「私わたくしもそうしようと思っおもってるんです」「どうだなそこで。気きに入っはいった婦人ふじんでもあるかな」「甲野こうのの妹いもうとを貰うもらうつもりなんですがね。どうでしょう」「藤尾ふじおかい。うん」「駄目だめですかね」「なに駄目だめじゃない」「外交官がいこうかんの女房にょうぼうにゃ、ああ云ういうんでないといけないです」「そこでだて。実じつは甲野こうのの親父おやじが生きいきているうち、私わたくしと親父おやじの間まに、少しすこしはその話はなしもあったんだがな。御前ごぜんは知らしらんかも知らしらんが」「叔父おじさんは時計とけいをやると云いいいました」「あの金きん時計とけいかい。藤尾ふじおが玩弄がんろうにするんで有名ゆうめいな」「ええ、あの太古たいこの時計とけいです」「ハハハハははははあれで針はりが回るまわるかな。時計とけいはそれとして、実じつは肝心かんじんの本人ほんにんの事ことだが――この間ま甲野こうのの母さんははさんが来きた時じ、ついでだから話しはなして見みたんだがね」「はあ、何なんとか云いいいましたか」「まことに好いよい御縁ごえんだが、まだ御ご身分みぶんがきまって御出でおいでないから残念ざんねんだけれども……」「身分みぶんがきまらないと云ういうのは外交官がいこうかんの試験しけんに及第きゅうだいしないと云ういう意味いみですかね」「まあ、そうだろう」「だろうはちっと驚ろいおどろいたな」「いや、あの女おんなの云ういう事ことは、非常ひじょうに能弁のうべんな代りかわりによく意味いみが通じつうじないで困るこまる。滔々とうとうと述べるのべる事ことは述べるのべるが、ついに要点ようてんが分らわからない。要するようするに不経済ふけいざいな女おんなだ」 多少たしょう苦々しいにがにがしい気色けしきに、煙管きせるでとんと膝頭ひざがしらを敲いたたいた父さんちちさんは、視線しせんさえ椽えん側がわの方ほうへ移しうつした。
最前さいぜん植えうえ易えかえた仏ふつ見み笑わらいが鮮なすくな紅くれないを春はると夏なつの境さかいに今いまぞと誇っほこっている。
「だけれども断っことわったんだか、断らことわらないんだか分らわからないのは厄介やっかいですね」「厄介やっかいだよ。あの女おんなにかかると今までいままでも随分ずいぶん厄介やっかいな事ことがだいぶあった。猫ねこ撫声で長ながったらしくって――私ゃわたしゃ嫌いやだ」「ハハハハははははそりゃ好いよいが――ついに談判だんぱんは発展はってんしずにしまったんですか」「つまり先方せんぽうの云ういうところでは、御前ごぜんが外交官がいこうかんの試験しけんに及第きゅうだいしたらやってもいいと云ういうんだ」「じゃ訳わけない。この通りとおり及第きゅうだいしたんだから」「ところがまだあるんだ。面倒めんどうな事ことが。まことにどうも」と云いいいながら父さんちちさんは、手の平てのひらを二につ内側うちがわへ揃えそろえて眼めの球たまをぐりぐり擦るする。
眼めの球たまは赤くあかくなる。
「及第きゅうだいしても駄目だめなんですか」「駄目だめじゃあるまいが――欽吾きんごがうちを出るでると云ういうそうだ」「馬鹿ばかな」「もし出でられてしまうと、年寄としよりの世話せわの仕手してがなくなる。だから藤尾ふじおに養子ようしをしなければならない。すると宗近むねちかへでも、どこへでも嫁よめにやる訳わけには行かいかなくなると、まあこう云ういうんだな」「下らしたらない事ことを云ういうもんですね。第一だいいち甲野こうのが家いえを出るでるなんて、そんな訳わけがないがな」「家いえを出るでるって、まさか坊主ぼうずになる料簡りょうけんでもなかろうが、つまり嫁よめを貰っもらって、あの御袋おふくろの世話せわをするのが厭いやだと云ういうんだろうじゃないか」「甲野こうのが神経しんけい衰弱すいじゃくだから、そんな馬鹿ばか気きた事ことを云ういうんですよ。間違っまちがってる。よし出るでるたって――叔母おばさんが甲野こうのを出しだして、養子ようしをする気きなんですか」「そうなっては大変たいへんだと云っいって心配しんぱいしているのさ」「そんなら藤尾ふじおさんを嫁よめにやっても好さよさそうなものじゃありませんか」「好いよい。好いよいが、万一まんいちの事ことを考えるかんがえると私わたくしも心細くこころぼそくってたまらないと云ういうのさ」「何なんが何なんだか分りゃわかりゃしない。まるで八幡はちまんの藪やぶ不知ふちへ這入っはいったようなものだ」「本当ほんとうに――要領ようりょうを得とくないにも困りこまり切るきる」 父さんちちさんは額がくに皺しわを寄せよせて上眼うわめを使いつかいながら、頭あたまを撫でなで廻すまわす。
「元来がんらいそりゃいつの事ことです」「この間まだ。今日きょうで一いち週間しゅうかんにもなるかな」「ハハハハはははは私わたくしの及第きゅうだい報告ほうこくは二三にさん日ひ後れおくれただけだが、父さんちちさんのは一いち週間しゅうかんだ。親おやだけあって、私わたくしより倍ばい以上いじょう気楽きらくですぜ」「ハハハはははだが要領ようりょうを得とくないからね」「要領ようりょうはたしかに得とくませんね。早速さっそく要領ようりょうを得るうるようにして来きます」「どうして」「まず甲野こうのに妻帯さいたいの件けんを説諭せつゆして、坊主ぼうずにならないようにしてしまって、それから藤尾ふじおさんをくれるかくれないか判然はんぜん談判だんぱんして来るくるつもりです」「御前ごぜん一人ひとりでやる気やるきかね」「ええ、一人ひとりでたくさんです。卒業そつぎょうしてから何になんにもしないから、せめてこんな事ことでもしなくっちゃ退屈たいくつでいけない」「うん、自分じぶんの事ことを自分じぶんで片づけるかたづけるのは結構けっこうな事ことだ。一いちつやって見るみるが好いよい」「それでね。もし甲野こうのが妻つまを貰うもらうと云っいったら糸いとをやるつもりですが好いよいでしょうね」「それは好いよい。構わかまわない」「一いち先さき本人ほんにんの意志いしを聞いきいて見みて……」「聞かきかんでも好かろうよかろう」「だって、そりゃ聞かきかなくっちゃいけませんよ。ほかの事こととは違うちがうから」「そんなら聞いきいて見るみるが好いよい。ここへ呼ぼうよぼうか」「ハハハハはははは親おやと兄あにの前まえで詰問きつもんしちゃなおいけない。これから私わたくしが聞いきいて見みます。で当人とうにんが好いよいと云っいったら、そのつもりで甲野こうのに話しはなしますからね」「うん、よかろう」 宗近むねちか君きみはずんど切せつの洋よう袴はかまを二に本ほんぬっと立てたてた。
仏ふつ見み笑わらいと二人静ふたりしずかと蜆しじみ子こ和尚おしょうと活きつきた布袋ほていの置物おきものを残しのこして廊下ろうかつづきを中二階ちゅうにかいへ上るのぼる。
とんとんと二に段だん踏むふむと妹いもうとの御ご太鼓たいこが奇麗きれいに見えるみえる。
三さん段だん目めに水色みずいろの絹きぬが、横よこに傾いかたむいて、ふっくらした片頬かたほおが入口いりぐちの方ほうに向いむかいた。
「今日きょうは勉強べんきょうだね。珍らしいめずらしい。何なんだい」といきなり机つくえの横よこへ坐り込むすわりこむ。
糸子いとこははたりと本ほんを伏せふせた。
伏せふせた上うえへ肉にくのついた丸いまりい手てを置くおく。
「何なんでもありませんよ」「何なんでもない本ほんを読むよむなんて、天下てんかの逸民いつみんだね」「どうせ、そうよ」「手てを放しはなしたって好いよいじゃないか。まるで散らしちらしでも取っとったようだ」「散らしちらしでも何なんでも好くよくってよ。御生みあれだからあっちへ行っいってちょうだい」「大変たいへん邪魔じゃまにするね。糸いと公こう、父っとっさんが、そう云っいってたぜ」「何なんて」「糸いとはちっと女おんな大学だいがくでも読めよめば好いよいのに、近頃ちかごろは恋愛れんあい小説しょうせつばかり読んよんでて、まことに困るこまるって」「あら嘘うそばっかり。私わたくしがいつそんなものを読んよんで」「兄さんあにさんは知らしらないよ。阿父あちちさんがそう云ういうんだから」「嘘うそよ、阿父あちち様ようがそんな事ことをおっしゃるもんですか」「そうかい。だって、人ひとが来るくると読み掛けよみかけた本ほんを伏せふせて、枡落しますおとし見みたように一生懸命いっしょうけんめいにおさえているところをもって見るみると、阿父あちちさんの云ういうところもまんざら嘘うそとは思えおもえないじゃないか」「嘘うそですよ。嘘うそだって云ういうのに、あなたもよっぽど卑劣ひれつな方ほうね」「卑劣ひれつは一大いちだい痛棒つうぼうだね。注意ちゅうい人物じんぶつの売国ばいこく奴やつじゃないかハハハハはははは」「だって人ひとの云ういう事ことを信用しんようなさらないんですもの。そんなら証拠しょうこを見せみせて上げあげましょうか。ね。待っまっていらっしゃいよ」 糸子いとこは抑えおさえた本ほんを袖そでで隠さかくさんばかりに、机つくえから手本てほんへ引き取っひきとって、兄あにの見えみえぬように帯おびの影かげに忍ばししのばした。
「掏り替えすりかえちゃいけないぜ」「まあ黙っだまって、待っまっていらっしゃい」 糸子いとこは兄あにの眼めを掠めかすめて、長いながい袖の下そでのしたに隠しかくした本ほんを、しきりに細工さいくしていたが、やがて「ほら」と上うえへ出すだす。
両手りょうてで叮嚀ていねいに抑えおさえた頁ぺーじの、残るのこる一いち寸すん角かくの真中まなかに朱印しゅいんが見えるみえる。
「見留みとめじゃないか。なんだ――甲野こうの」「分っわかったでしょう」「借りかりたのかい」「ええ。恋愛れんあい小説しょうせつじゃないでしょう」「種しゅを見せみせない以上いじょうは何なんとも云えいえないが、まあ勘弁かんべんしてやろう。時じに糸いと公こう御前ごぜん今年ことし幾いく歳としになるね」「当てあてて御覧ごらんなさい」「当てあてて見みないだって区く役所やくしょへ行きゃいきゃ、すぐ分るわかる事ことだが、ちょいと参考さんこうのために聞いきいて見るみるんだよ。隠さかくさずに云ういう方ほうが御前ごぜんの利益りえきだ」「隠さかくさずに云ういう方ほうがだって――何なんだか悪いわるい事ことでもしたようね。私わたくし厭いやだわ、そんなに強迫きょうはくされて云ういうのは」
「ハハハハははははさすが哲学者てつがくしゃの御ご弟子でしだけあって、容易よういに権威けんいに服従ふくじゅうしないところが感心かんしんだ。じゃ改めてあらためて伺ううかがうが、取っとって御ご幾いく歳としですか」「そんな茶化しちゃかしたって、誰だれが云ういうもんですか」「困っこまったな。叮嚀ていねいに云えいえば云ういうで怒るおこるし。――一いちだったかね。二にかい」「おおかたそんなところでしょう」「判然はんぜんしないのか。自分じぶんの年ねんが判然はんぜんしないようじゃ、兄さんあにさんも少々しょうしょう心細いこころぼそいな。とにかく十じゅう代だいじゃないね」「余計よけいな御世話ごせわじゃありませんか。人ひとの年齢ねんれいなんぞ聞いきいて。――それを聞いきいて何なんになさるの」「なに別べつの用ようでもないが、実じつは糸いと公こうを御ご嫁よめにやろうと思っおもってさ」 冗談じょうだん半分はんぶんに相手あいてになって、調ちょう戯れたわむれていた妹いもうとの様子ようすは突然とつぜんと変っかわった。
熱いあつい石いしを氷こおりの上うえに置くおくと見る見るみるみる冷めさめて来るくる。
糸子いとこは一度いちどに元気げんきを放散ほうさんした。
同時どうじに陽気ようきな眼めを陰かげに俯せうつぶせて、畳みたたみの目めを勘定かんじょうし出しだした。
「どうだい、御ご嫁よめは。厭いやでもないだろう」「知らしらないわ」と低いひくい声こえで云ういう。
やっぱり下したを向いむかいたままである。
「知らしらなくっちゃ困るこまるね。兄さんあにさんが行くいくんじゃない、御前ごぜんが行くいくんだ」「行くいくって云いいいもしないのに」「じゃ行かいかないのか」 糸子いとこは頭あたまを竪たてに振っふった。
「行かいかない? 本当ほんとうに」 答こたえはなかった。
今度こんどは首くびさえ動かさうごかさない。
「行かいかないとなると、兄さんあにさんが切腹せっぷくしなけりゃならない。大変たいへんだ」 俯向いうつむいた眼めの色いろは見えみえぬ。
ただ豊ゆたかなる頬ほおを掠めかすめて笑わらいの影かげが飛び去っとびさった。
「笑い事わらいごとじゃない。本当ほんとうに腹はらを切るきるよ。好いよいかね」「勝手にかってに御ご切んきんなさい」と突然とつぜん顔かおを上げあげた。
にこにこと笑うわらう。
「切るきるのは好いよいが、あんまり深刻しんこくだからね。なろう事ことならこのまんまで生きいきている方ほうが、御ご互たがいに便利べんりじゃないか。御前ごぜんだってたった一人ひとりの兄さんあにさんに腹はらを切らしきらしたって、つまらないだろう」「誰だれもつまると云やいやしないわ」「だから兄さんあにさんを助けるたすけると思っおもってうんと御ご云いいい」「だって訳わけも話さはなさないで、藪やぶから棒ぼうにそんな無理むりを云っいったって」「訳わけは聞ききさえすれば、いくらでも話すはなすさ」「好くよくってよ、訳わけなんか聞かきかなくっても、私わたくし御ご嫁よめなんかに行かいかないんだから」「糸いと公こう御前ごぜんの返事へんじは鼠ねずみ花火はなびのようにくるくる廻っまわっているよ。錯乱さくらん体からだだ」「何なんですって」「なに、何なんでもいい、法律上ほうりつじょうの術語じゅつごだから――それでね、糸いと公こう、いつまで行っいっても埓らちが明かあきらかないから、一いちと思おもうに打ち明けうちあけて話しはなしてしまうが、実じつはこうなんだ」「訳わけは聞いきいても御ご嫁よめにゃ行かいかなくってよ」「条件じょうけんつきに聞くきくつもりか。なかなか狡猾こうかつだね。――実じつは兄さんあにさんが藤尾ふじおさんを御ご嫁よめに貰おうもらおうと思うおもうんだがね」「まだ」「まだって今度こんどが始はじめてだね」「だけれど、藤尾ふじおさんは御ご廃しはいしなさいよ。藤尾ふじおさんの方ほうで来きたがっていないんだから」「御前ごぜんこの間まもそんな事ことを云っいったね」「ええ、だって、厭いやがってるものを貰わもらわなくっても好いよいじゃありませんか。ほかに女おんながいくらでも有るあるのに」「そりゃ大いにおおいにごもっともだ。厭いやなものを強請るねだるなんて卑怯ひきょうな兄さんあにさんじゃない。糸いと公こうの威信いしんにも関係かんけいする。厭いやなら厭いやと事ことがきまればほかに捜すさがすよ」「いっそそうなすった方ほうがいいでしょう」「だがその辺へんが判然はんぜんしないからね」「だから判然はんぜんさせるの。まあ」と内気うちきな妹いもうとは少しすこし驚いおどろいたように眼めを机つくえの上うえに転じてんじた。
「この間ま甲野こうのの御ご叔母おばさんが来きて、下したで内談ないだんをしていたろう。あの時じその話はなしがあったんだとさ。叔母おばさんが云ういうには、今いまはまだいけないが、一いちさんが外交官がいこうかんの試験しけんに及第きゅうだいして、身分みぶんがきまったら、どうでも御ご相談そうだんを致しいたしましょうって阿爺あやに話しはなしたそうだ」「それで」「だから好いよいじゃないか、兄さんあにさんがちゃんと外交官がいこうかんの試験しけんに及第きゅうだいしたんだから」「おや、いつ」「いつって、ちゃんと及第きゅうだいしちまったんだよ」「あら、本当ほんとうなの、驚ろいおどろいた」「兄あにが及第きゅうだいして驚ろくおどろく奴やつがあるもんか。失礼しつれい千万せんまんな」「だって、そんなら早くはやくそうおっしゃれば好いよいのに。これでもだいぶ心配しんぱいして上げあげたんだわ」「全くまったく御前ごぜんの御蔭みかげだよ。大いにおおいに感泣かんきゅうしているさ。感泣かんきゅうはしているようなものの忘れわすれちまったんだから仕方しかたがない」 兄妹きょうだいは隔なき眼めと眼めを見合せみあわせた。
そうして同時どうじに笑っわらった。
笑いわらい切っきった時じ、兄あにが云ういう。
「そこで兄さんあにさんもこの通りとおり頭あたまを刈っかって、近々ちかぢか洋行ようこうするはずになったんだが、阿父あちちさんの云ういうには、立つたつ前まえに嫁よめを貰っもらって人格じんかくを作っつくってけって責めるせめるから、兄さんあにさんが、どうせ貰うもらうなら藤尾ふじおさんを貰いもらいましょう。外交官がいこうかんの妻君さいくんにはああ云ういうハイカラはいからでないと将来しょうらい困るこまるからと云っいったのさ」「それほど御ご気きに入っはいったら藤尾ふじおさんになさい。――女おんなを見るみるのはやっぱり女おんなの方ほうが上手じょうずね」「そりゃ才媛さいえん糸いと公こうの意見いけんに間ま違いはなかろうから、充分じゅうぶん兄さんあにさんも参考さんこうにはするつもりだが、とにかく判然はんぜん談判だんぱんをきめて来きなくっちゃいけない。向うむこうだって厭いやなら厭いやと云ういうだろう。外交官がいこうかんの試験しけんに及第きゅうだいしたからって、急きゅうに気きが変っかわって参りまいりましょうなんて軽薄けいはくな事ことは云ういうまい」 糸子いとこは微かかすかな笑わらいを、二三にさん段だんに切っきって鼻はなから洩しもらした。
「云ういうかね」「どうですか。聞いきいて御覧ごらんなさらなくっちゃ――しかし聞くきくなら欽吾きんごさんに御ご聞きききなさいよ。恥はじを掻くかくといけないから」「ハハハハはははは厭いやなら断ることわるのが天下てんかの定法じょうほうだ。断わらことわられたって恥はじじゃない……」「だって」「……ないが甲野こうのに聞くきくよ。聞くきく事ことは甲野こうのに聞くきくが――そこに問題もんだいがある」「どんな」「先決せんけつ問題もんだいがある。――先決せんけつ問題もんだいだよ、糸いと公こう」「だから、どんなって、聞いきいてるじゃありませんか」「ほかでもないが、甲野こうのが坊主ぼうずになるって騒ぎさわぎなんだよ」「馬鹿ばかをおっしゃい。縁えん喜きでもない」「なに、今いまの世よに坊主ぼうずになるくらいな決心けっしんがあるなら、縁えん喜きはともかく、大おおに慶すけいすべき現象げんしょうだ」「苛いむごい事ことを……だって坊ぼうさんになるのは、酔興すいきょうになるんじゃないでしょう」「何なんとも云えいえない。近頃ちかごろのように煩悶はんもんが流行りゅうこうした日ひにゃ」「じゃ、兄さんあにさんからなって御覧ごらんなさいよ」「酔興すいきょうにかい」「酔興すいきょうでも何なんでもいいから」「だって五ご分ぶん刈かりでさえ懲役ちょうえき人ひとと間違えまちがえられるところを青あお坊主ぼうずになって、外国がいこくの公使館こうしかんに詰めつめていりゃ気違きちがいとしきゃ思わおもわれないもの。ほかの事ことなら一人ひとりの妹いもうとの事ことだから何なんでも聞くきくつもりだが、坊主ぼうずだけは勘弁かんべんして貰いもらいたい。坊主ぼうずと油揚あぶらあげは小供こどもの時じから嫌いやなんだから」「じゃ欽吾きんごさんもならないだって好いよいじゃありませんか」「そうさ、何なんだか論理ろんりが少しすこし変へんだが、しかしまあ、ならずに済むすむだろうよ」「兄さんあにさんのおっしゃる事ことはどこまでが真面目まじめでどこまでが冗談じょうだんだか分らわからないのね。それで外交官がいこうかんが勤まるつとまるでしょうか」「こう云ういうんでないと外交官がいこうかんには向かむかないとさ」「人ひとを……それで欽吾きんごさんがどうなすったんですよ。本当ほんとうのところ」「本当ほんとうのところ、甲野こうのがね。家いえと財産ざいさんを藤尾ふじおにやって、自分じぶんは出でてしまうと云ういうんだとさ」「なぜでしょう」「つまり、病身びょうしんで御ご叔母おばさんの世話せわが出来できないからだそうだ」「そう、御ご気の毒きのどくね。ああ云ういう方ほうは御ご金きんも家いえもいらないでしょう。そうなさる方ほうが好いよいかも知れしれないわ」「そう御前ごぜんまで賛成さんせいしちゃ、先決せんけつ問題もんだいが解決かいけつしにくくなる」
「だって御ご金きんが山やまのようにあったって、欽吾きんごさんには何になんにもならないでしょう。それよりか藤尾ふじおさんに上げるあげる方ほうが好よしみござんすよ」「御前ごぜんは女おんなに似合わにあわず気前きまえが好いよいね。もっとも人ひとのものだけれども」「私わたくしだって御ご金きんなんかいりませんわ。邪魔じゃまになるばかりですもの」「邪魔じゃまにするほどないからたしかだ。ハハハハはははは。しかしその心掛こころがけは感心かんしんだ。尼にになれるよ」「おお厭いやだ。尼にだの坊ぼうさんだのって大嫌いだいきらい」「そこだけは兄さんあにさんも賛成さんせいだ。しかし自分じぶんの財産ざいさんを棄てすてて吾われ家いえを出るでるなんて馬鹿ばか気きている。財産ざいさんはまあいいとして、――欽吾きんごに出でられればあとが困るこまるから藤尾ふじおに養子ようしをする。すると一いちさんへは上げあげられませんと、こう御ご叔母おばさんが云ういうんだよ。もっともだ。つまり甲野こうののわがままで兄さんあにさんの方ほうが破談はだんになると云ういう始末しまつさ」「じゃ兄さんあにさんが藤尾ふじおさんを貰うもらうために、欽吾きんごさんを留めようとめようと云ういうんですね」「まあ一面いちめんから云えいえばそうなるさ」「それじゃ欽吾きんごさんより兄さんあにさんの方ほうがわがままじゃありませんか」「今度こんどは非常ひじょうに論理的ろんりてきに来きたね。だってつまらんじゃないか、当然とうぜん相続そうぞくしている財産ざいさんを捨てすてて」「だって厭いやなら仕方しかたがないわ」「厭いやだなんて云ういうのは神経しんけい衰弱すいじゃくのせいだあね」「神経しんけい衰弱すいじゃくじゃありませんよ」「病的びょうてきに違いないじゃないか」「病気びょうきじゃありません」「糸いと公こう、今日きょうは例れいに似にず大いにおおいに断々乎だんだんことしているね」「だって欽吾きんごさんは、ああ云ういう方ほうなんですもの。それを皆みなが病気びょうきにするのは、皆みなの方ほうが間違っまちがっているんです」「しかし健全けんぜんじゃないよ。そんな動議どうぎを呈出ていしゅつするのは」「自分じぶんのものを自分じぶんが棄てるすてるんでしょう」
「そりゃごもっともだがね……」「要らいらないから棄てるすてるんでしょう」「要らいらないって……」「本当ほんとうに要らいらないんですよ、甲野こうのさんのは。負ふ惜みおしみや面めん当とうじゃありません」「糸いと公こう、御前ごぜんは甲野こうのの知己ちきだよ。兄さんあにさん以上いじょうの知己ちきだ。それほど信仰しんこうしているとは思わおもわなかった」「知己ちきでも知己ちきでなくっても、本当ほんとうのところを云ういうんです。正しいただしい事ことを云ういうんです。叔母おばさんや藤尾ふじおさんがそうでないと云ういうんなら、叔母おばさんや藤尾ふじおさんの方ほうが間違っまちがってるんです。私わたくしは嘘うそを吐くはくのは大おお嫌いやです」
「感心かんしんだ。学問がくもんがなくっても誠まことから出でた自信じしんがあるから感心かんしんだ。兄さんあにさん大おお賛成さんせいだ。それでね、糸いと公こう、改めてあらためて相談そうだんするが甲野こうのが家いえを出でても出でなくっても、財産ざいさんをやってもやらなくっても、御前ごぜん甲野こうののところへ嫁よめに行くいく気きはあるかい」「それは話はなしがまるで違いちがいますわ。今いま云っいったのはただ正直しょうじきなところを云っいっただけですもの。欽吾きんごさんに御ご気の毒きのどくだから云っいったんです」「よろしい。なかなか訳わけが分っわかっている。妹いもうとながら見上げみあげたもんだ。だから別問題べつもんだいとして聞くきくんだよ。どうだね厭いやかい」「厭いやだって……」とと言いいい懸けかけて糸子いとこは急きゅうに俯向いうつむいた。
しばらくは半襟はんえりの模様もようを見詰めみつめているように見えみえた。
やがて瞬くしばたたく睫まつげを絡んからんで一雫ひとしずくの涙なみだがぽたりと膝ひざの上うえに落ちおちた。
「糸いと公こう、どうしたんだ。今日きょうは天候てんこう劇変げきへんで兄さんあにさんに面めん喰わしくわしてばかりいるね」 答こたえのない口元くちもとが結んむすんだまましゃくんで、見るみるうちにまた二に雫しずく落ちおちた。
宗近むねちか君きみは親おや譲ゆずるの背広せびろの隠いん袋ふくろから、くちゃくちゃの手巾しゅきんをするりと出しだした。
「さあ、御ご拭きふき」と云いいいながら糸子いとこの胸むねの先さきへ押し付けるおしつける。
妹いもうとは作りつけつくりつけの人形にんぎょうのようにじっとして動かうごかない。
宗近むねちか君きみは右みぎの手てに手巾しゅきんを差し出しさしだしたまま、少しすこし及び腰およびごしになって、下したから妹いもうとの顔かおを覗き込むのぞきこむ。
「糸いと公こう厭いやなのかい」 糸子いとこは無言むごんのまま首くびを掉とうった。
「じゃ、行くいく気きだね」 今度こんどは首くびが動かうごかない。
宗近むねちか君きみは手巾しゅきんを妹いもうとの膝ひざの上うえに落しおとしたまま、身体しんたいだけを故こへ戻すもどす。
「泣いないちゃいけないよ」と云っいって糸子いとこの顔かおを見守っみまもっている。
しばらくは双方そうほう共とも言葉ことばが途切れとぎれた。
糸子いとこはようやく手巾しゅきんを取上げるとりあげる。
粗いあらい銘仙めいせんの膝ひざが少しすこし染そめになった。
その上うえへ、手巾しゅきんの皺しわを叮嚀ていねいに延しのして四よんつ折つおりに敷いしいた。
角かくをしっかり抑えおさえている。
それから眼めを上げあげた。
眼めは海うみのようである。
「私わたくしは御ご嫁よめには行きいきません」と云ういう。
「御ご嫁よめには行かいかない」とほとんど無意味むいみに繰り返しくりかえした宗近むねちか君きみは、たちまち勢いきおいをつけて「冗談じょうだん云っいっちゃいけない。今いま厭いやじゃないと云っいったばかりじゃないか」「でも、欽吾きんごさんは御ご嫁よめを御ご貰いもらいなさりゃしませんもの」「そりゃ聞いきいて見みなけりゃ――だから兄さんあにさんが聞きききに行くいくんだよ」「聞くきくのは廃しはいしてちょうだい」「なぜ」「なぜでも廃しはいしてちょうだい」「じゃしようがない」「しようがなくっても好いよいから廃しはいしてちょうだい。私わたくしは今いまのままでちっとも不足ふそくはありません。これで好いよいんです。御ご嫁よめに行くいくとかえっていけません」「困っこまったな、いつの間まに、そう硬くかたくなったんだろう。――糸いと公こう、兄さんあにさんはね、藤尾ふじおさんを貰うもらうために、御前ごぜんを甲野こうのにやろうなんて利己りこ主義しゅぎで云っいってるんじゃないよ。今いまのところじゃ、ただ御前ごぜんの事ことばかり考えかんがえて相談そうだんしているんだよ」「そりゃ分っわかっていますわ」「そこが分りわかりさえすれば、後あとが話はなしがし好いよい。それでと、御前ごぜんは甲野こうのを嫌っいやってるんじゃなかろう。――よし、それは兄さんあにさんがそう認めるみとめるから構わかまわない。好いよいかね。次つぎに、甲野こうのに貰うもらうか貰わもらわないか聞くきくのは厭いやだと云ういうんだね。兄さんあにさんにはその理窟りくつがさらに解せげせないんだが、それも、それでよしとするさ。――聞くきくのは厭いやだとして、もし甲野こうのが貰うもらうと云いいいさえすれば行っいっても好いよいんだろう。――なに金きんや家いえはどうでも構わかまわないさ。一いち文ぶん無むの甲野こうののところへ行こういこうと云やいやあ、かえって御前ごぜんの名誉めいよだ。それでこそ糸いと公こうだ。兄さんあにさんも阿父あちちさんも故障こしょうを云やいやしない。……」「御ご嫁よめに行っいったら人間にんげんが悪くわるくなるもんでしょうか」「ハハハハはははは突然とつぜん大おお問題もんだいを呈出ていしゅつするね。なぜ」「なぜでも――もし悪くわるくなると愛想あいそをつかされるばかりですもの。だからいつまでもこうやって阿父あちち様ようと兄さんあにさんの傍そばにいた方ほうが好いよいと思いおもいますわ」「阿父あちち様ようと兄さんあにさんと――そりゃ阿父あちち様ようも兄さんあにさんもいつまでも御前ごぜんといっしょにいたい事ことはいたいがね。なあ糸いと公こう、そこが問題もんだいだ。御ご嫁よめに行っいってますます人間にんげんが上等じょうとうになって、そうして御ご亭主ていしゅに可愛かわいがられれば好いよいじゃないか。――それよりか実際じっさい問題もんだいが肝要かんようだ。そこでね、さっきの話はなしだが兄さんあにさんが受合っうけあったら好いよいだろう」「何なんを」「甲野こうのに聞くきくのは厭いやだと、と云っいって甲野こうのの方ほうから御前ごぜんを貰いもらいに来るくるのはいつの事ことだか分らわからずと……」「いつまで待っまったって、そんな事ことがあるものですか。私わたくしには欽吾きんごさんの胸むねの中なかがちゃんと分っわかっています」「だからさ、兄さんあにさんが受合ううけあうんだよ。是非ぜひ甲野こうのにうんと云わいわせるんだよ」「だって……」「何なん云わいわせて見せるみせる。兄さんあにさんが責任せきにんをもって受合ううけあうよ。なあに大丈夫だいじょうぶだよ。兄さんあにさんもこの頭あたまが延びのびしだい外国がいこくへ行かいかなくっちゃならない。すると当分とうぶん糸いと公こうにも逢えあえないから、平生へいぜい親切しんせつにしてくれた御礼ごれいに、やってやるよ。――狐きつねの袖そで無むの御礼ごれいに。ねえ好いよいだろう」 糸子いとこは何なんとも答えこたえなかった。
下したで阿父あちちさんが謡うたいをうたい出すうたいだす。
「そら始まっはじまった――じゃ行っいって来るくるよ」と宗近むねちか君きみは中二階ちゅうにかいを下りるおりる。
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