虞美人草

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十八

第 18 章
小夜子さよこは婆ばあさんから菓子かしの袋ふくろを受取っうけとった。
底そこを立てたてて出雲いずも焼やけの皿さらに移すうつすと、真中まなかにある青いあおい鳳凰ほうおうの模様もようが和製わせいのビスケットびすけっとで隠れかくれた。
黄色きいろな縁えんはだいぶ残っのこっている。
揃えそろえて渡すわたす二に本ほんの竹箸たけばしを、落さおとさぬように茶の間ちゃのまから座敷ざしきへ持っもって出でた。
座敷ざしきには浅井あさい君きみが先生せんせいを相手あいてに、京都きょうと以来いらいの旧きゅう歓かんを暖めあたためている。
時じは朝あさである。
日影ひかげはじりじりと椽えんに逼っせまってくる。
「御嬢ごじょうさんは、東京とうきょうを御存じごぞんじでしたな」と問いかけといかけた。
菓子皿かしさらを主客しゅきゃくの間まに置いおいて、やさしい肩かたを後あとへ引くひくついでに、「ええ」と小声こごえに答えこたえて、立ちたち兼ねけんねた。
「これは東京とうきょうで育っそだったのだよ」と先生せんせいが足らあしらぬところを補っおぎなってくれる。
「そうでしたな。――大変たいへん大きくおおきくなりましたな」と突然とつぜん別問題べつもんだいに飛び移っとびうつった。
小夜子さよこは淋しいさびしい笑顔えがおを俯向けうつむけて、今度こんどは答こたえさえも控えひかえた。
浅井あさい君きみは遠慮えんりょのない顔かおをして小夜子さよこを眺めながめている。
これからこの女おんなの結婚けっこん問題もんだいを壊すこわすんだなと思いおもいながら平気へいきに眺めながめている。
浅井あさい君きみの結婚けっこん問題もんだいに関するかんする意見いけんは大道だいどう易者えきしゃのごとく容易よういである。
女おんなの未来みらいや生涯しょうがいの幸福こうふくについてはあまり同情どうじょうを表しあらわしておらん。
ただ頼またのまれたから頼またのまれたなりに事ことを運べはこべば好いよいものと心得こころえている。
そうしてそれがもっとも法学ほうがく士し的まとで、法学ほうがく士し的まとはもっとも実際的じっさいてきで、実際的じっさいてきは最上さいじょうの方法ほうほうだと心得こころえている。
浅井あさい君きみはもっとも想像力そうぞうりょくの少ないすくない男おとこで、しかも想像力そうぞうりょくの少ないすくないのをかつて不足ふそくだと思っおもった事ことのない男おとこである。
想像力そうぞうりょくは理知りちの活動かつどうとは全然ぜんぜん別べつ作用さようで、理知りちの活動かつどうはかえって想像力そうぞうりょくのために常つねに阻害そがいせらるるものと信じしんじている。
想像力そうぞうりょくを待っまって、始めはじめて、全ぜんたき人性じんせいに戻らもどらざる好よしみ処置しょちが、知慧ちえ分別ぶんべつの純じゅん作用さよう以外いがいに活きつきてくる場合ばあいがあろうなどとは法科ほうかの教室きょうしつで、どの先生せんせいからも聞いきいた事ことがない。
したがって浅井あさい君きみはいっこう知らしらない。
ただ断われことわれば済むすむと思っおもっている。
淋しいさびしい小夜子さよこの運命うんめいが、夫子ふうしの一言ひとことでどう変化へんかするだろうかとは浅井あさい君きみの夢ゆめにだも考えかんがえ得とくざる問題もんだいである。
浅井あさい君きみが無意味むいみに小夜子さよこを眺めながめているうちに、孤こ堂どう先生せんせいは変へんな咳せきを二につ三さんつ塞いせいた。
小夜子さよこは心こころ元もとなく父ちちの方ほうを向くむく。
「御ご薬くすりはもう上がっあがったんですか」「朝あさの分ぶんはもう飲んのんだよ」「御ご寒いさむい事ことはござんせんか」「寒くさむくはないが、少しすこし……」 先生せんせいは右みぎの手頸てくびへ左ひだりの指ゆびを三さん本ほん懸けかけた。
小夜子さよこは浅井あさいのいる事ことも忘れわすれて、脈みゃくをはかる先生せんせいの顔かおばかり見詰めみつめている。
先生せんせいの顔かおは髯ひげと共ともに日ごとひごとに細長くほそながく瘠せこけやせこけて来るくる。
「どうですか」と気遣わしきづかわし気きに聞くきく。
「少しすこし、早いはやいようだ。やっぱり熱ねつが除れとれない」と額がくに少しすこし皺しわが寄っよった。
先生せんせいが熱度ねつどを計っけいって、じれったそうに不愉快ふゆかいな顔かおをするたびに小夜子さよこは悲しくかなしくなる。
夕立ゆうだちを野中のなかに避けさけて、頼らいと思うおもう一本杉いちぽんすぎをありがたしと梢こずえを見れみれば稲妻いなずまがさす。
怖いこわいと云ういうよりも、年ねんを取っとった人ひとに気の毒きのどくである。
行き届かゆきとどきかぬ世話せわから出るでる疳かん癪しゃくなら、機嫌きげんの取りとりようもある。
気きで勝てかてぬ病気びょうきのためなら孝行こうこうの尽しつくしようがない。
かりそめの風邪かぜと、当人とうにんも思いおもい、自分じぶんも苦くにしなかった昨日今日きのうきょうの咳せきを、蔭かげへ廻っまわって聞いきいて見るみると、医者いしゃは性質せいしつが善くよくないと云ういう。
二三にさん日ひで熱ねつが退かしりぞかないと云っいって焦慮しょうりょるような軽いかるい病症びょうしょうではあるまい。
知らしらせれば心配しんぱいする。
云わいわねば気きで通すとおす。
その上うえ疳かんを起すおこす。
この調子ちょうしで進んすすんで行くいくと、一いち年ねんの後あとには神経しんけいが赤裸あかはだかになって、空気くうきに触れふれても飛び上がるとびあがるかも知れしれない。
――昨夜さくや小夜子さよこは眼めを合せあわせなかった。
「羽織はおりでも召しめしていらしったら好いよいでしょう」 孤こ堂どう先生せんせいは返事へんじをせずに、「験げん温おん器うつわがあるかい。一いちつ計っけいってみよう」と云ういう。
小夜子さよこは茶の間ちゃのまへ立つたつ。
「どうかなすったんですか」と浅井あさい君きみが無む雑作ぞうさに尋ねたずねた。
「いえ、ちっと風邪かぜを引いひいてね」「はあ、そうですか。――もう若葉わかばがだいぶ出でましたな」と云っいった。
先生せんせいの病気びょうきに対したいしてはまるで同情どうじょうも頓着とんちゃくもなかった。
病気びょうきの源みなもと因いんと、経過けいかと、容体ようだいを精しくくわしく聞いきいて貰おうもらおうと思っおもっていた先生せんせいは当とうが外れはずれた。
「おい、無いないかね。どうした」と次の間つぎのまを向いむかいて、常つねよりは大きなおおきな声こえを出すだす。
ついでに咳せきが二につ出でた。
「はい、ただ今いま」と小さいちいさい声こえが答えこたえた。
が験げん温おん器うつわを持っもって出るでる様子ようすがない。
先生せんせいは浅井あさい君きみの方ほうを向いむかいて「はあ、そうかい」と気きのない返事へんじをした。
浅井あさい君きみはつまらなくなる。
早くはやく用ようを片づけかたづけて帰ろうかえろうと思うおもう。
「先生せんせい小野おのはいっこう駄目だめですな、ハイカラはいからにばかりなって。御嬢ごじょうさんと結婚けっこんする気きはないですよ」とぱたぱたと順序じゅんじょなく並べならべた。
孤こ堂どう先生せんせいの窪んくぼんだ眼めは一度いちどに鋭どくするどくなった。
やがて鋭どいするどいものが一面いちめんに広がっひろがって顔かお中なか苦々しくにがにがしくなる。
「廃しはいした方ほうが好えええですな」 置きおき失くしなくした験げん温おん器うつわを捜さがせがしていた、次の間つぎのまの小夜子さよこは、長火鉢ながひばちの二に番目ばんめの抽出ちゅうしゅつを二に寸すんほど抜いぬいたまま、はたりと引く手ひくてを留めとめた。
先生せんせいの苦々しいにがにがしい顔かおは一層いっそうこまやかになる。
想像力そうぞうりょくのない浅井あさい君きみはとんと結果けっかを予想よそうし得とくない。
「小野おのは近頃ちかごろ非常ひじょうなハイカラはいからになりました。あんな所ところへ行くいくのは御嬢ごじょうさんの損そんです」 苦々しいにがにがしい顔かおはとうとう持ちもち切れきれなくなった。
「君きみは小野おのの悪口わるぐちを云いいいに来きたのかね」「ハハハハはははは先生せんせい本当ほんとうですよ」 浅井あさい君きみは妙みょうなところで高こう笑わらいをいた。
「余計よけいな御世話ごせわだ。軽薄けいはくな」と鋭どくするどく跳ねはねつけた。
先生せんせいの声こえはようやく尋常じんじょうを離れるはなれる。
浅井あさい君きみは始めはじめて驚ろいおどろいた。
しばらく黙っだまっている。
「おい験げん温おん器うつわはまだか。何なんをぐずぐずしている」 次の間つぎのまの返事へんじは聞えきこえなかった。
ことりとも云わいわぬうちに、片寄せかたよせた障子しょうじに影かげがさす。
腰板こしいたの外そとから細いほそい白木しろきの筒つつがそっと出るでる。
畳たたみの上うえで受取っうけとった先生せんせいはぽんと云わしいわして筒つつを抜いぬいた。
取り出しとりだした験げん温おん器うつわを日ひに翳しかざして二三にさん度どやけに振りふりながら、「何なんだって、そんな余計よけいな事ことを云ういうんだ」と度盛どもりを透しとおして見るみる。
先生せんせいの精神せいしんは半ばなかば験げん温おん器うつわにある。
浅井あさい君きみはこの間まに元気げんきを回復かいふくした。
「実じつは頼またのまれたんです」「頼またのまれた? 誰だれに」「小野おのに頼またのまれたんです」「小野おのに頼またのまれた?」 先生せんせいは腋の下わきのしたへ験げん温おん器うつわを持っもって行くいく事ことを忘れわすれた。
茫然ぼうぜんとしている。
「ああ云ういう男おとこだものだから、自分じぶんで先生せんせいの所ところへ来きて断わりことわり切れきれないんです。それで僕ぼくに頼んたのんだです」「ふうん。もっと精しくくわしく話すはなすがいい」「二三にさん日ひ中なかに是非ぜひこちらへ御ご返事へんじをしなければならないからと云いいいますから、僕ぼくが代理だいりにやって来きたんです」「だから、どう云ういう理由りゆうで断わることわるんだか、それを精しくくわしく話しはなしたら好いよいじゃないか」 襖ふすまの蔭かげで小夜子さよこが洟はなをかんだ。
つつましき音おとではあるが、一いち重じゅう隔てへだててすぐ向むかいにいる人ひとのそれと受け取れるうけとれる。
鴨居かもいに近くちかく聞えきこえたのは、襖ふすま越こしに立ったっているらしい。
浅井あさい君きみの耳みみにはどんな感じかんじを与えあたえたか知らしらぬ。
「理由りゆうはですな。博士はかせにならなければならないから、どうも結婚けっこんなんぞしておられないと云ういうんです」「じゃ博士はかせの称号しょうごうの方ほうが、小夜さよより大事だいじだと云ういうんだね」「そう云ういう訳わけでもないでしょうが、博士はかせになって置かおかんと将来しょうらい非常ひじょうな不利益ふりえきですからな」「よし分っわかった。理由りゆうはそれぎりかい」「それに確然かくぜんたる契約けいやくのない事ことだからと云ういうんです」「契約けいやくとは法律上ほうりつじょう有効ゆうこうの契約けいやくという意味いみだな。証文しょうもんのやりとりの事ことだね」「証文しょうもんでもないですが――その代りかわり長いながい間ま御世話ごせわになったから、その御礼ごれいとしては物質的ぶっしつてきの補助ほじょをしたいと云ういうんです」「月々つきづき金きんでもくれると云ういうのかい」「そうです」「おい小夜さよや、ちょっと御ご出で。小夜さよや――小夜さよや」と声こえはしだいに高くたかくなる。
返事へんじはついにない。
小夜子さよこは襖ふすまの蔭かげに蹲つくばい踞っうずくまったまま、動かうごかずにいる。
先生せんせいは仕方なししかたなしに浅井あさい君きみの方ほうへ向き直っむきなおった。
「君きみは妻君さいくんがあるかい」「ないです。貰いもらいたいが、自分じぶんの口くちが大事だいじですからな」「妻君さいくんがなければ参考さんこうのために聞いきいて置くおくがいい。――人ひとの娘むすめは玩具がんぐじゃないぜ。博士はかせの称号しょうごうと小夜さよと引き替ひきかえにされてたまるものか。考えかんがえて見るみるがいい。いかな貧乏人びんぼうにんの娘むすめでも活物かつぶつだよ。私わたくしから云えいえば大事だいじな娘むすめだ。人ひと一人ひとり殺しころしても博士はかせになる気きかと小野おのに聞いきいてくれ。それから、そう云っいってくれ。井上いのうえ孤こ堂どうは法律上ほうりつじょうの契約けいやくよりも徳義とくぎ上うえの契約けいやくを重んずるおもんずる人間にんげんだって。――月々つきづき金きんを貢いみついでやる? 貢いみついでくれと誰だれが頼んたのんだ。小野おのの世話せわをしたのは、泣きついなきついて来きて可か愛想あいそだから、好意こういずくでした事ことだ。何なんだ物質的ぶっしつてきの補助ほじょをするなんて、失礼しつれい千万せんまんな。――小夜さよや、用ようがあるからちょっと出でて御ご出で、おいいないのか」 小夜子さよこは襖ふすまの蔭かげで啜りすすり泣なきをしている。
先生せんせいはしきりに咳くせく。
浅井あさい君きみは面めん喰っくった。
こう怒らおこられようとは思わおもわなかった。
またこう怒らおこられる訳わけがない。
自分じぶんの云ういう事ことは事理じり明白めいはくである。
世間せけんに立ったって成功せいこうするには誰だれの目めにも博士号はかせごうは大切たいせつである。
瞹眛な約束やくそくをやめてくれと云ういうのもさほど不義理ふぎりとは受取れうけとれない。
世話せわをして貰いもらいっ放しっぱなしでは不都合ふつごうかも知れしれないが、して貰っもらっただけの事ことを物質的ぶっしつてきに返すかえすと云いいい出せだせば、喜んよろこんでこっちの義務ぎむ心こころを満足まんぞくさせべきはずである。
それを突然とつぜん怒りいかり出すだす。
――そこで浅井あさい君きみは面めん喰っくった。
「先生せんせいそう怒っどっちゃ困りこまります。悪けれわるければまた小野おのに逢っあって話しはなして見みますから」と云っいった。
これは本気ほんきの沙汰さたである。
しばらく黙っだまっていた先生せんせいは、やや落ちついおちついた調子ちょうしで、「君きみは結婚けっこんを極めてきわめて容易ようい事ことのように考えかんがえているが、そんなものじゃない」と口くち惜おしそうに云ういう。
先生せんせいの云ういう主意しゅいは分らわからんが、先生せんせいの様子ようすにはさすがの浅井あさい君きみも少しすこし心こころを動かしうごかした。
しかし結婚けっこんは便宜べんぎによって約束やくそくを取り結びとりむすび、便宜べんぎによって約束やくそくを破棄はきするだけで差支さしつかえないと信じしんじている浅井あさい君きみは、別べつに返事へんじもしなかった。
「君きみは女おんなの心こころを知らしらないから、そんな使しに来きたんだろう」 浅井あさい君きみはやっぱり黙っだまっている。
「人情にんじょうを知らしらないから平気へいきでそんな事ことを云ういうんだろう。小野おのの方ほうが破談はだんになれば小夜さよは明日あすからどこへでも行けるいけるだろうと思っおもって、云ういうんだろう。五ご年ねん以来いらい夫おっとだと思い込んおもいこんでいた人ひとから、特別とくべつの理由りゆうもないのに、急きゅうに断わらことわられて、平気へいきですぐ他家たけへ嫁よめに行くいくような女おんながあるものか。あるかも知れしれないが小夜さよはそんな軽薄けいはくな女おんなじゃない。そんな軽薄けいはくに育て上げそだてあげたつもりじゃない。――君きみはそう軽卒けいそつに破談はだんの取次とりつぎをして、小夜さよの生涯しょうがいを誤まらあやまらして、それで好いよい心持こころもちなのか」 先生せんせいの窪んくぼんだ眼めが煮に染んしんで来きた。
しきりに咳せきが出るでる。
浅井あさい君きみはなるほどそれが事実じじつならと感心かんしんした。
ようやく気の毒きのどくになってくる。
「じゃ、まあ御ご待ちまちなさい、先生せんせい。もう一遍いちぺん小野おのに話しはなして見みますから。僕ぼくはただ頼またのまれたから来きたんで、そんな精しいくわしい事情じじょうは知らしらんのですから」「いや、話しはなしてくれないでも好いよい。厭いやだと云ういうものに無理むりに貰っもらってもらいたくはない。しかし本人ほんにんが来きて自家じかに訳わけを話すはなすが好いよい」「しかし御嬢ごじょうさんが、そう云ういう御ご考かんがえだと……」「小夜さよの考かんがえぐらい小野おのには分っわかっているはずださ」と先生せんせいは平手ひらてで頬ほおを打つうつように、ぴしゃりと云っいった。
「ですがな、それだと小野おのも困るこまるでしょうから、もう一遍いちぺん……」「小野おのにそう云っいってくれ。井上いのうえ孤こ堂どうはいくら娘むすめが可愛くかわいくっても、厭いやだと云ういう人ひとに頭あたまを下げさげて貰っもらってもらうような卑劣ひれつな男おとこではないって。――小夜さよや、おい、いないか」 襖ふすまの向側むかいがわで、袖そでらしいものが唐紙とうしの裾すそにあたる音おとがした。
「そう返事へんじをして差支さしつかえないだろうね」 答こたえはさらになかった。
ややあって、わっと云ういう顔かおを袖そでの中なかに埋めうめた声こえがした。
「先生せんせいもう一遍いちぺん小野おのに話しはなしましょう」「話さはなさないでも好いよい。自家じかに来きて断われことわれと云っいってくれ」「とにかく……そう小野おのに云いいいましょう」 浅井あさい君きみはついに立ったった。
玄関げんかんまで送っおくって来きた先生せんせいに頭あたまを下げさげた時じ、先生せんせいは「娘むすめなんぞ持つもつもんじゃないな」と云っいった。
表ひょうへ出でた浅井あさい君きみはほっと息いきをつく。
今までいままでこんな感じかんじを経験けいけんした事ことはない。
横町よこちょうを出でて蕎麦屋そばやの行灯あんどんを右みぎに通つうへ出でて、電車でんしゃのある所ところまで来るくると突然とつぜん飛び乗っとびのった。
突然とつぜん電車でんしゃに乗っのった浅井あさい君きみは約やく一いち時間じかん余よの後あと、ぶらりと宗近むねちか家いえの門もんからあらわれた。
つづいて車くるまが二に挺ちょう出るでる。
一いち挺ちょうは小野おのの下宿げしゅくへ向うむこう。
一いち挺ちょうは孤こ堂どう先生せんせいの家いえに去るさる。
五十ごじゅう分ぶんほど後れおくれて、玄関げんかんの松まつの根際ねさいに梶棒かじぼうを上げあげた一いち挺ちょうは、黒いくろい幌ほろを卸しおろしたまま、甲野こうのの屋敷やしきを指しさして馳はせける。
小説しょうせつはこの三さん挺ちょうの使命しめいを順次じゅんじに述べのべなければならぬ。
宗近むねちか君きみの車くるまが、小野おのさんの下宿げしゅくの前まえで、車輪しゃりんの音おとを留めとめた時じ、小野おのさんはちょうど午飯ごはんを済ましすましたばかりである。
膳ぜんが出でている。
飯櫃いいびつも引かひかれずにある。
主人公しゅじんこうは机つくえの前まえへ座ざを移しうつして、口くちから吹くふく濃こき煙けむりを眺めながめながら考えかんがえている。
今日きょうは藤尾ふじおと大森おおもりへ行くいく約束やくそくがある。
約束やくそくだから行かいかなければならぬ。
しかし是非ぜひ行かいかねばならぬとなると、何なんとなく気きが咎めるとがめる。
不安ふあんである。
約束やくそくさえしなければ、もう少しすこしは太平たいへいであったろう。
飯めしももう一いち杯さかずきぐらいは食えくえたかも知れしれぬ。
賽さいは固よりもとより自分じぶんで投げなげた。
一六いちろくの目めは明かあきらかに出でた。
ルビコンるびこんは渡らわたらねばならぬ。
しかし事こともなげに河かわを横切っよこぎった該がい撒は英雄えいゆうである。
通例つうれいの人ひとはいざと云ういう間際まぎわになってからまた思い返すおもいかえす。
小野おのさんは思い返すおもいかえすたびに、必ずかならず廃せはいせばよかったと後悔こうかいする。
乗り掛けのりかけた船ふねに片足かたあしを入れいれた時じ、船頭せんどうが出でますよと棹さおを取り直すとりなおすと、待っまってくれと云いいいたくなる。
誰だれか陸りくから来きて引っ張っひっぱってくれれば好いよいと思うおもう。
乗り掛けのりかけたばかりならまだ陸りくへ戻るもどる機会きかいがあるからである。
約束やくそくも履行りこうせんうちは岸きしを離れはなれぬ舟ふねと同じくおなじく、まだ絶体絶命ぜったいぜつめいと云ういう場合ばあいではない。
メレジスめれじすの小説しょうせつにこんな話はなしがある。
――ある男おとことある女おんなが諜しちょうし合せあわせて、停車場ていしゃじょうで落ち合うおちあう手筈てはずをする。
手筈てはずが順じゅんに行っいって、汽笛きてきがひゅうと鳴れなれば二人ふたりの名誉めいよはそれぎりになる。
二人ふたりの運命うんめいがいざと云ういう間際まぎわまで逼っせまった時女ときおんなはついに停車場ていしゃじょうへ来きなかった。
男おとこは待ちまち耄の顔かおを箱馬車ばこばしゃの中なかに入れいれて、空しくむなしく家いえへ帰っかえって来きた。
あとで聞くきくと朋友ほうゆうの誰彼だれかれが、女おんなを抑留よくりゅうして、わざと約束やくそくの期きを誤まらあやまらしたのだと云ういう。
――藤尾ふじおと約束やくそくをした小野おのさんは、こんな風かぜに約束やくそくを破るやぶる事ことが出来できたら、かえって仕合しあいかも知れしれぬと思いおもいつつ煙草たばこの煙けむりを眺めながめている。
それに浅井あさいの返事へんじがまだ来きない。
諾うべと云えいえばどっちへ転んころんでも幸みゆきである。
否いなと聞くきくならば、退っ引きのっぴきならぬ瀬戸際せとぎわまであらかじめ押しおして置いおいて、振り返っふりかえってから、臨機応変りんきおうへんに難関なんかんを切り抜けきりぬけて行くいくつもりの計画けいかくだから、一刻いっこくも早くはやく大森おおもりへ行っいってしまえば済むすむ。
否いなと云ういう返事へんじを待つまつ必要ひつようは無論むろんない。
ないが、決行けっこうする間際まぎわになると気掛りきがかりになる。
頭あたまで拵えこしらえ上げあげた計画けいかくを人情にんじょうが崩しくずしにかかる。
想像力そうぞうりょくが実行じっこうさせぬように引き戻すひきもどす。
小野おのさんは詩人しじんだけにもっとも想像力そうぞうりょくに富んとんでいる。
想像力そうぞうりょくに富んとんでおればこそ、自分じぶんで断わりことわりに行くいく気きになれなかった。
先生せんせいの顔かおと小夜子さよこの顔かおと、部屋へやの模様もようと、暮しくらしの有様ありさまとを眼めのあたりに見みて、眼めのあたりに見みたものを未来みらいに延長えんちょうして想像そうぞうの鏡かがみに思い浮べおもいうかべて眺めるながめると二にた通つうになる。
自分じぶんがこの鏡かがみのなかに織り込まおりこまれているときは、春はるである、豊ゆたかである、ことごとく幸福こうふくである。
鏡かがみの面めんから自分じぶんの影かげを拭き消すふきけすと闇やみになる、暮くれになる。
すべてが悲惨ひさんになる。
この一団いちだんの精神せいしんから、自分じぶんの魂たましいだけを切り離すきりはなす談判だんぱんをするのは、小しょうさき竈へっついに立つたつべき煙けむりを予想よそうしながら薪たきぎを奪ううばうと一般いっぱんである。
忍びしのびない。
人ひとは眼めを閉っしまって苦いにがい物ものを呑むのむ。
こんな絡んからんだ縁えんをふつりと切るきるのに想像そうぞうの眼めを開いひらいていては出来できぬ。
そこで小野おのさんは眼めの閉れしまれた浅井あさい君きみを頼んたのんだ。
頼んたのんだ後あとは、想像そうぞうを殺しころしてしまえば済むすむ。
と覚束ないおぼつかないが決心けっしんだけはした。
しかし犬いぬ一いち匹ひきでも殺すころすのは容易よういな事ことではない。
持っもって生れうまれた心こころの作用さようを、不都合ふつごうなところだけ黒くくろく塗っぬって、消しけし切りきりに消すけすのは、古来こらいから幾いく千万せんまん人ひとの試みこころみた窮策きゅうさくで、幾いく千万せんまん人ひとが等しくひとしく失敗しっぱいした陋策である。
人間にんげんの心こころは原稿げんこう紙かみとは違うちがう。
小野おのさんがこの決心けっしんをしたその晩ばんから想像力そうぞうりょくは復活ふっかつした。
―― 瘠せやせた頬ほおを描くえがく。
落ち込んおちこんだ眼めを描くえがく。
縺れもつれた髪かみを描くえがく。
虫むしのような気息きそくを描くえがく。
――そうして想像そうぞうは一転いってんする。
血ちを描くえがく。
物凄ものすごき夜よると風かぜと雨あめとを描くえがく。
寒きさむき灯火とうかを描くえがく。
白張しらはりの提灯ちょうちんを描くえがく。
――ぞっとして想像そうぞうはとまる。
想像そうぞうのとまった時じ、急きゅうに約束やくそくを思い出すおもいだす。
約束やくそくの履行りこうから出るでる快かいからぬ結果けっかを思い出すおもいだす。
結果けっかはまたも想像そうぞうの力ちからで曲々きょくの波瀾はらんを起すおこす。
――良心りょうしんを質しつに取らとられる。
生涯しょうがい受け出すうけだす事ことが出来できぬ。
利りに利りがつもる。
背中せなかが重くおもくなる、痛くいたくなる、そうして腰こしが曲るまがる。
寝覚ねざめがわるい。
社会しゃかいが後指うしろゆびを指すさす。
惘然ぼうぜんとして煙草たばこの煙けむりを眺めながめている。
恩賜おんしの時計とけいは一いち秒びょうごとに約束やくそくの履行りこうを促がすうながす。
橇そりの上うえに力ちからなき身みを託したくしたようなものである。
手てを拱ぬいていれば自然しぜんと約束やくそくの淵ふちへ滑り込むすべりこむ。
「時じ」の橇そりほど正確せいかくに滑るすべるものはない。
「やっぱり行くいく事ことにするか。後暗いうしろぐらい行こうさえなければ行っいっても差支さしつかえないはずだ。それさえ慎めつつしめば取り返しとりかえしはつく。小夜子さよこの方ほうは浅井あさいの返事へんじしだいで、どうにかしよう」 煙草たばこの煙けむりが、未来みらいの影かげを朦朧もうろうと罩めこめ尽すつくすまで濃くこく揺曳ようえいた時じ、宗近むねちか君きみの頑丈がんじょうな姿すがたが、すべての想像そうぞうを払っはらって、現実界げんじつかいにあらわれた。
いつの間まにどう下女げじょが案内あんないをしたか知らしらなかった。
宗近むねちか君きみはぬっと這入っはいった。
「だいぶ狼籍ろうぜきだね」と云いいいながら紅くれない溜ための膳ぜんを廊下ろうかへ出すだす。
黒塗くろぬりの飯櫃いいびつを出すだす。
土瓶どびんまで運び出しはこびだして置いおいて、「どうだい」と部屋へやの真中まなかに腰こしを卸しおろした。
「どうも失敬しっけいです」と主人しゅじんは恐縮きょうしゅくの体からだで向き直るむきなおる。
折おりよく下女げじょが来きて湯沸ゆわかしと共ともに膳ぜん椀わんを引いひいて行くいく。
心こころを二六にろく時じに委ねゆだねて、隻手せきしゅを動かすうごかす事ことをあえてせざるものは、自からみずから約束やくそくを践まふまねばならぬ運命うんめいを有つあつ。
安からあんからぬ胸むねを秒びょうごとに重ねかさねて、じりじりと怖いこわい所ところへ行くいく。
突然とつぜんと横合よこあいから飛び出しとびだした宗近むねちか君きみは、滑るすべるべく余儀よぎなくせられたる人ひとを、半途はんとに遮っさえぎった。
遮ぎらさえぎられた人ひとは邪魔じゃまに逢うあうと同時どうじに、一刻いっこくの安きやすきを故この位地いちに貪るむさぼる事ことが出来るできる。
約束やくそくは履行りこうすべきものときまっている。
しかし履行りこうすべき条件じょうけんを奪っうばったものは自分じぶんではない。
自分じぶんから進んすすんで違約いやくしたのと、邪魔じゃまが降っふって来きて、守るまもる事ことが出来できなかったのとは心持こころもちが違うちがう。
約束やくそくが剣呑けんのんになって来きた時じ、自分じぶんに責任せきにんがないように、人ひとが履行りこうを妨げさまたげてくれるのは嬉しいうれしい。
なぜ行かいかないと良心りょうしんに責めせめられたなら、行くいくつもりの義務ぎむ心こころはあったが、宗近むねちか君きみに邪魔じゃまをされたから仕方しかたがないと答えるこたえる。
小野おのさんはむしろ好意こういをもって宗近むねちか君きみを迎えむかえた。
しかしこの一いち点てんの好意こういは、不幸ふこうにして面白おもしろからぬ感情かんじょうのために四方しほうから深くふかく鎖ささされている。
宗近むねちか君きみと藤尾ふじおとは遠いとおい縁えん続つづくである。
自分じぶんが藤尾ふじおを陥いれるおとしいれるにしても、藤尾ふじおが自分じぶんを陥いれるおとしいれるにしても、二人ふたりの間まに取り返しとりかえしのつかぬ関係かんけいが出来できそうな際どいきわどい約束やくそくを、素知らぬそしらぬ顔かおで結んむすんだのみか、今いま実行じっこうにとりかかろうと云ういう矢先やさきに、突然とつぜん飛び込まとびこまれたのは、迷惑めいわくはさて置いさておいて、大いにおおいに気きが咎めるとがめる。
無関係むかんけいのものならそれでも好いよい。
突然とつぜん飛び込んとびこんだものは、人ひともあろうに、相手あいての親類しんるいである。
ただの親類しんるいならまだしもである。
兼てかねてから藤尾ふじおに心こころのある宗近むねちか君きみである。
外国がいこくで死んしんだ人ひとが、これこそ娘むすめの婿むこととうから許しゆるしていた宗近むねちか君きみである。
昨日きのうまで二人ふたりの関係かんけいを知らしらずに、昔むかしの望もちをそのままに繋いつないでいた宗近むねちか君きみである。
偸まぬすまれた金きんの行先いきさきも知らしらずに、空そら金庫きんこを護っまもっていた宗近むねちか君きみである。
秘密ひみつの雲くもは、春はるを射るいる金鎖かなくさりの稲妻いなずまで、半はん劈れた。
眠っねむっていた眼めを醒しさましかけた金鎖かなくさりのあとへ、浅井あさい君きみが行っいって井上いのうえの事ことでも喋舌っしゃべったら――困るこまる。
気の毒きのどくとはただ先方せんぽうへ対したいして云ういう言葉ことばである。
気きが咎めるとがめるとは、その上うえにこちらから済ますまぬ事ことをした場合ばあいに用いるもちいる。
困るこまるとなると、もう一層いっそう上手じょうずに出でて、利害りがいが直接ちょくせつに吾われ身の上みのうえに跳ね返っはねかえって来るくる時じに使うつかう。
小野おのさんは宗近むねちか君きみの顔かおを見みて大いにおおいに困っこまった。
宗近むねちか君きみの来訪らいほうに対したいして歓迎かんげいの意いを表するひょうする一いち点てん好意こういの核かくは、気の毒きのどくの輪わで尻しりこそばゆく取り巻かとりまかれている。
その上うえには気きが咎めるとがめる輪わが気味きみわるそうに重なっかさなっている。
一番いちばん外そとには困るこまる輪わが黒墨こくぼくを流しながしたように際限さいげんなく未来みらいに連なっつらなっている。
そうして宗近むねちか君きみはこの未来みらいを司どるつかさどる主人公しゅじんこうのように見えみえた。
「昨日きのうは失敬しっけいした」と宗近むねちか君きみが云ういう。
小野おのさんは赤くあかくなって下したを向いむかいた。
あとから金きん時計とけいが出るでるだろうと、心こころ元もとなく煙草たばこへ火ひを移すうつす。
宗近むねちか君きみはそんな気色けしきも見えみえぬ。
「小野おのさん、さっき浅井あさいが来きてね。その事ことでわざわざやって来きた」とすぱりと云ういう。
小野おのさんの神経しんけいは一度いちどにびりりと動いうごいた。
すこし、してから煙草たばこの煙けむりが陰気いんきにむうっと鼻はなから出るでる。
「小野おのさん、敵てきが来きたと思っおもっちゃいけない」「いえけっして……」と云っいった時じに小野おのさんはまたぎくりとした。
「僕ぼくは当っあたっ擦りすりなどを云っいって、人ひとの弱点じゃくてんに乗ずるじょうずるような人間にんげんじゃない。この通りとおり頭あたまができた。そんな暇ひまは薬くすりにしたくってもない。あっても僕ぼくのうちの家風かふうに背くそむく……」 宗近むねちか君きみの意味いみは通じつうじた。
ただ頭あたまのできた由来ゆらいが分らわからなかった。
しかし問い返すといかえすほどの勇気ゆうきがないから黙っだまっている。
「そんな卑しいいやしい人間にんげんと思わおもわれちゃ、急がしいいそがしいところをわざわざ来きた甲斐かいがない。君きみだって教育きょういくのある事理じりの分っわかった男おとこだ。僕ぼくをそう云ういう男おとこと見みて取っとったが最後さいご、僕ぼくの云ういう事ことは君きみに対したいして全然ぜんぜん無効むこうになる訳わけだ」 小野おのさんはまだ黙っだまっている。
「僕ぼくはいくら閑人ひまじんだって、君きみに軽蔑けいべつされようと思っおもって車くるまを飛ばしとばして来きやしない。――とにかく浅井あさいの云ういう通つうなんだろうね」「浅井あさいがどう云いいいましたか」「小野おのさん、真面目まじめだよ。いいかね。人間にんげんは年ねんに一度いちどぐらい真面目まじめにならなくっちゃならない場合ばあいがある。上皮じょうひばかりで生きいきていちゃ、相手あいてにする張合はりあいがない。また相手あいてにされてもつまるまい。僕ぼくは君きみを相手あいてにするつもりで来きたんだよ。好いよいかね、分っわかったかい」「ええ、分りわかりました」と小野おのさんはおとなしく答えこたえた。
「分っわかったら君きみを対等たいとうの人間にんげんと見みて云ういうがね。君きみはなんだか始終しじゅう不安ふあんじゃないか。少しすこしも泰然たいぜんとしていないようだが」「そうかも――知れしれないです」と小野おのさんは術じゅつなげながら、正直しょうじきに白状はくじょうした。
「そう君きみが平たくひらたく云ういうと、はなはだ御ご気の毒きのどくだが、全くまったく事実じじつだろう」「ええ」「他人たにんが不安ふあんであろうと、泰然たいぜんとしていなかろうと、上皮じょうひばかりで生きいきている軽薄けいはくな社会しゃかいでは構っかまった事ことじゃない。他人たにんどころか自分自身じぶんじしんが不安ふあんでいながら得意とくいがっている連中れんちゅうもたくさんある。僕ぼくもその一人ひとりかも知れしれない。知れしれないどころじゃない、たしかにその一人ひとりだろう」 小野おのさんはこの時じ始めはじめて積極的せっきょくてきに相手あいてを遮ぎっさえぎった。
「あなたは羨しいうらやましいです。実じつはあなたのようになれたら結構けっこうだと思っおもって、始終しじゅう考えかんがえてるくらいです。そんなところへ行くいくと僕ぼくはつまらない人間にんげんに違いないです」 愛嬌あいきょうに調子ちょうしを合せるあわせるとは思えおもえない。
上皮じょうひの文明ぶんめいは破れやぶれた。
中なかから本音ほんねが出るでる。
悄然しょうぜんとして誠まことを帯びおびた声こえである。
「小野おのさん、そこに気きがついているのかね」 宗近むねちか君きみの言葉ことばには何なんだか暖だん味あじがあった。
「いるです」と答えこたえた。
しばらくしてまた、「いるです」と答えこたえた。
下したを向くむく。
宗近むねちか君きみは顔かおを前まえへ出しだした。
相手あいては下したを向いむかいたまま、「僕ぼくの性質せいしつは弱いよわいです」と云っいった。
「どうして」「生れつきうまれつきだから仕方しかたがないです」 これも下したを向いむかいたまま云ういう。
宗近むねちか君きみはなおと顔かおを寄せるよせる。
片膝かたひざを立てるたてる。
膝ひざの上うえに肱ひじを乗せるのせる。
肱ひじで前まえへ出しだした顔かおを支えるささえる。
そうして云ういう。
「君きみは学問がくもんも僕ぼくより出来るできる。頭あたまも僕ぼくより好いよい。僕ぼくは君きみを尊敬そんけいしている。尊敬そんけいしているから救いすくいに来きた」「救いすくいに……」と顔かおを上げあげた時じ、宗近むねちか君きみは鼻はなの先さきにいた。
顔かおを押しつけるおしつけるようにして云ういう。
――「こう云ういう危ういあやうい時じに、生れつきうまれつきを敲きたたき直しなおして置かおかないと、生涯しょうがい不安ふあんでしまうよ。いくら勉強べんきょうしても、いくら学者がくしゃになっても取り返しとりかえしはつかない。ここだよ、小野おのさん、真面目まじめになるのは。世の中よのなかに真面目まじめは、どんなものか一生いっしょう知らしらずに済んすんでしまう人間にんげんがいくらもある。皮かわだけで生きいきている人間にんげんは、土つちだけで出来できている人形にんぎょうとそう違わちがわない。真面目まじめがなければだが、あるのに人形にんぎょうになるのはもったいない。真面目まじめになった後あとは心持こころもちがいいものだよ。君きみにそう云ういう経験けいけんがあるかい」 小野おのさんは首くびを垂れたれた。
「なければ、一いちつなって見みたまえ、今いまだ。こんな事ことは生涯しょうがいに二に度どとは来きない。この機きをはずすと、もう駄目だめだ。生涯しょうがい真面目まじめの味あじを知らしらずに死んしんでしまう。死ぬしぬまでむく犬むくいぬのようにうろうろして不安ふあんばかりだ。人間にんげんは真面目まじめになる機会きかいが重なれかさなれば重なるかさなるほど出来上っできあがってくる。人間にんげんらしい気持きもちがしてくる。――法螺ほらじゃない。自分じぶんで経験けいけんして見みないうちは分らわからない。僕ぼくはこの通りとおり学問がくもんもない、勉強べんきょうもしない、落第らくだいもする、ごろごろしている。それでも君きみより平気へいきだ。うちの妹いもうとなんぞは神経しんけいが鈍いにぶいからだと思っおもっている。なるほど神経しんけいも鈍いにぶいだろう。――しかしそう無神経むしんけいなら今日きょうでも、こうやって車くるまで馳けつけかけつけやしない。そうじゃないか、小野おのさん」 宗近むねちか君きみはにこりと笑っわらった。
小野おのさんは笑わわらわなかった。
「僕ぼくが君きみより平気へいきなのは、学問がくもんのためでも、勉強べんきょうのためでも、何なんでもない。時々ときどき真面目まじめになるからさ。なるからと云ういうより、なれるからと云っいった方ほうが適当てきとうだろう。真面目まじめになれるほど、自信じしん力ちからの出るでる事ことはない。真面目まじめになれるほど、腰こしが据るすえる事ことはない。真面目まじめになれるほど、精神せいしんの存在そんざいを自覚じかくする事ことはない。天地てんちの前まえに自分じぶんが儼存げんそんしていると云ういう観念かんねんは、真面目まじめになって始めてはじめて得とくられる自覚じかくだ。真面目まじめとはね、君きみ、真剣しんけん勝負しょうぶの意味いみだよ。やっつける意味いみだよ。やっつけなくっちゃいられない意味いみだよ。人間にんげん全体ぜんたいが活動かつどうする意味いみだよ。口くちが巧者こうしゃに働いはたらいたり、手てが小器用しょうきように働いはたらいたりするのは、いくら働いはたらいたって真面目まじめじゃない。頭あたまの中なかを遺憾いかんなく世の中よのなかへ敲きたたきつけて始めてはじめて真面目まじめになった気持きもちになる。安心あんしんする。実じつを云ういうと僕ぼくの妹いもうとも昨日きのう真面目まじめになった。甲野こうのも昨日きのう真面目まじめになった。僕ぼくは昨日きのうも、今日きょうも真面目まじめだ。君きみもこの際さい一度いちど真面目まじめになれ。人ひと一人ひとり真面目まじめになると当人とうにんが助かるたすかるばかりじゃない。世の中よのなかが助かるたすかる。――どうだね、小野おのさん、僕ぼくの云ういう事ことは分らわからないかね」「いえ、分っわかったです」「真面目まじめだよ」「真面目まじめに分っわかったです」「そんなら好いよい」「ありがたいです」「そこでと、――あの浅井あさいと云ういう男おとこは、まるで人間にんげんとして通用つうようしない男おとこだから、あれの云ういう事ことを一々いちいち真しんに受けうけちゃ大変たいへんだが――本来ほんらいを云ういうと浅井あさいが来きてこれこれだと、あれが僕ぼくに話しはなした通つうを君きみの前まえで箇条かじょうがきにしてでも述べるのべるところだね。そうして、君きみの云ういうところと照てらしし合せあわせた上うえで事実じじつを判断はんだんするのが順当じゅんとうかも知れしれない。いくら頭あたまの悪いわるい僕ぼくでもそのくらいな事ことは知っしってる。しかし真面目まじめになると、ならないとは大おお問題もんだいだ。契約けいやくがあったの、滑っすべったの転んころんだの。嫁よめがあっちゃあ博士はかせになれないの、博士はかせにならなくっちゃ外聞がいぶんが悪いわるいのって、まるで小供こども見みたような事ことは、どっちがどっちだって構わかまわないだろう、なあ君きみ」「ええ構わかまわないです」「要するようするに真面目まじめな処置しょちは、どうつければ好いよいのかね。そこが君きみのやるところだ。邪魔じゃまでなければ相談そうだんになろう。奔走ほんそうしても好いよい」 悄然しょうぜんとして項垂れうなだれていた小野おのさんは、この時じ居ずまいいずまいを正しただした。
顔かおを上げあげて宗近むねちか君きみを真向まっこうに見るみる。
眸ひとみは例れいになく確乎かっこと坐っすわっていた。
「真面目まじめな処置しょちは、出来るだけできるだけ早くはやく、小夜子さよこと結婚けっこんするのです。小夜子さよこを捨てすてては済ますまんです。孤こ堂どう先生せんせいにも済ますまんです。僕ぼくが悪かっわるかったです。断わっことわったのは全くまったく僕ぼくが悪かっわるかったです。君きみに対したいしても済ますまんです」「僕ぼくに済ますまん? まあそりゃ好いよい、後あとで分るわかる事ことだから」「全くまったく済ますまんです。――断わらことわらなければ好かっよかったです。断わらことわらなければ――浅井あさいはもう断わっことわってしまったんでしょうね」「そりゃ君きみが頼んたのんだ通りとおり断わっことわったそうだ。しかし井上いのうえさんは君きみ自身じしんに来きて断われことわれと云ういうそうだ」「じゃ、行きいきます。これから、すぐ行っいって謝罪しゃざいって来きます」「だがね、今いま僕ぼくの阿父あちちを井上いのうえさんの所ところへやっておいたから」「阿父あちちさんを?」「うん、浅井あさいの話はなしによると、何なんでも大変たいへん怒っどってるそうだ。それから御嬢ごじょうさんはひどく泣いないてると云ういうからね。僕ぼくが君きみのうちへ来きて相談そうだんをしているうちに、何なんか事ことでも起るおこると困るこまるから慰問いもんかたがたつなぎにやっておいた」「どうもいろいろ御ご親切しんせつに」と小野おのさんは畳たたみに近くちかく頭あたまを下げさげた。
「なに老人ろうじんはどうせ遊んあそんでいるんだから、御ご役やくにさえ立てたてば喜んよろこんで何なんでもしてくれる。それで、こうしておいたんだがね、――もし談判だんぱんが調えととのえば、車くるまで御嬢ごじょうさんを呼びよびにやるからこっちへ寄こしよこしてくれって。――来きたら、僕ぼくのいる前まえで、御嬢ごじょうさんに未来みらいの細君さいくんだと君きみの口くちから明言めいげんしてやれ」「やります。こっちから行っいっても好いよいです」「いや、ここへ呼ぶよぶのはまだほかにも用ようがあるからだ。それが済んすんだら三さん人ひとで甲野こうのへ行くいくんだよ。そうして藤尾ふじおさんの前まえで、もう一遍いちぺん君きみが明言めいげんするんだ」 小野おのさんは少しくすこしく※んで見えみえた。
宗近むねちか君きみはすぐつける。
「何なん、僕ぼくが君きみの妻君さいくんを藤尾ふじおさんに紹介しょうかいしてもいい」「そう云ういう必要ひつようがあるでしょうか」「君きみは真面目まじめになるんだろう。――僕ぼくの前まえで奇麗きれいに藤尾ふじおさんとの関係かんけいを絶ったって見せるみせるがいい。その証拠しょうこに小夜子さよこさんを連れつれて行くいくのさ」「連れつれて行っいっても好いよいですが、あんまり面めん当とうになるから――なるべくなら穏便おんびんにした方ほうが……」「面めん当とうは僕ぼくも嫌いやだが、藤尾ふじおさんを助けるたすけるためだから仕方しかたがない。あんな性格せいかくは尋常じんじょうの手段しゅだんじゃ直せなおせっこない」「しかし……」「君きみが面目めんぼくないと云ういうのかね。こう云ういう羽目はめになって、面目めんぼくないの、きまりが悪いわるいのと云っいってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮じょうひの活動かつどうだ。君きみは今いま真面目まじめになると云っいったばかりじゃないか。真面目まじめと云ういうのはね、僕ぼくに云わいわせると、つまり実行じっこうの二に字じに帰着きちゃくするのだ。口くちだけで真面目まじめになるのは、口くちだけが真面目まじめになるので、人間にんげんが真面目まじめになったんじゃない。君きみと云ういう一いち個この人間にんげんが真面目まじめになったと主張しゅちょうするなら、主張しゅちょうするだけの証拠しょうこを実地じっちに見せみせなけりゃ何になんにもならない。……」「じゃやりましょう。どんな大勢おおぜいの中なかでも構わかまわない、やりましょう」「宜よろしい」「ところで、みんな打ち明けうちあけてしまいますが。――実じつは今日きょう大森おおもりへ行くいく約束やくそくがあるんです」「大森おおもりへ。誰だれと」「その――今いまの人ひととです」「藤尾ふじおさんとかね。何時なんじに」「三さん時じに停車場ていしゃじょうで出合うであうはずになっているんですが」「三さん時じと――今いま何時なんじか知らしらん」 ぱちりと宗近むねちか君きみの胴衣どういの中ほどなかほどで音おとがした。
「もう二に時じだ。君きみはどうせ行くいくまい」「廃すはいすです」「藤尾ふじおさん一人ひとりで大森おおもりへ行くいく事ことは大丈夫だいじょうぶないね。うちやっておいたら帰っかえってくるだろう。三さん時じ過すぎになれば」「一いち分ぶんでも後れおくれたら、待ちまち合すあわす気遣きづかいありません。すぐ帰るかえるでしょう」「ちょうど好いよい。――何なんだか、降っふって来きたな。雨あめが降っふっても行くいく約束やくそくかい」「ええ」「この雨あめは――なかなか歇みやすみそうもない。――とにかく手紙てがみで小夜子さよこさんを呼ぼうよぼう。阿父あちちが待ちまち兼けんて心配しんぱいしているに違いない」 春はるに似合わにあわぬ強いつよい雨あめが斜めななめに降るふる。
空そらの底そこは計らはかられぬほど深いぶかい。
深いぶかいなかから、とめどもなく千筋せんすじを引いひいて落ちおちてくる。
火鉢ひばちが欲しいほしいくらいの寒かんである。
手紙てがみは点滴てんてきの響ひびきの裡りに認めみとめられた。
使しが幌ほろの色いろを、打つうつ雨あめに揺かわななかして、一散いっさんに去っさった時じ、叙述じょじゅつは移るうつる。
最前さいぜん宗近むねちか家いえの門もんを出でた第だい二にの車くるまはすでに孤こ堂どう先生せんせいの僑居きょうきょに在っあって、応分おうぶんの使命しめいをつくしつつある。
孤こ堂どう先生せんせいは熱ねつが出でて寝ねた。
秘蔵ひぞうの義董ぎとうの幅はばに背いそむいて横よこえた額際ひたいぎわを、小夜子さよこが氷嚢ひょうのうで冷しひやしている。
蹲つくばい踞るうずくまる枕元まくらもとに、泣きなき腫しゅした眼めを赤くあかくして、氷嚢ひょうのうの括かつ目めに寄るよる皺しわを勘定かんじょうしているかと思わおもわれる。
容易よういに顔かおを上げあげない。
宗近むねちかの阿父あちちさんは、鉄線てっせん模様もようの臥ふせ被ひを二に尺さしばかり離れはなれて、どっしりと尻しりを据えすえている。
厚いあつい膝頭ひざがしらが坐ざ布団ふとんから喰みはみ出しだして軽くかるく畳たたみを抑えおさえたところは、血ちが退いしりぞいて肉にくが落ちおちた孤こ堂どう先生せんせいの顔かおに比べるくらべると威風いふう堂々どうどうたるものである。
宗近むねちか老人ろうじんの声こえは相そう変らかわらず大きいおおきい。
孤こ堂どう先生せんせいの声こえは常つねよりは高いたかい。
対話たいわはこの両人りょうにんの間まに進行しんこうしつつある。
「実じつはそう云ういうしだいで突然とつぜん参上さんじょう致しいたしたので、御ご不快ふかいのところをはなはだ恐縮きょうしゅくであるが、取り急ぐとりいそぐ事ことと、どうか悪しからあしからず」「いや、はなはだ失礼しつれいの体たらくていたらくで、私わたくしこそ恐縮きょうしゅくで。起きおきて御ご挨拶あいさつを申し上げもうしあげなければならんのだが……」「どう致しいたして、そのままの方ほうが御ご話はなしがしやすくて結句けっく私わたくしの都合つごうになります。ハハハハはははは」「まことに御ご親切しんせつにわざわざ御ご尋ねたずね下すっくだすってありがたい」「なに、昔むかしなら武士ぶしは相見あいみ互たがいと云ういうところで。ハハハハはははは私わたくしなどもいつ何なん時じ御世話ごせわにならんとも限らかぎらん。しかし久しぶりひさしぶりで東京とうきょうへ御ご移ではさぞ御ご不自由ふじゆうで御ご困りこまりだろう」「二十にじゅう年ねん目めになります」「二十にじゅう年ねん目め、そりゃあそりゃあ。二にた昔むかしですな。御ご親類しんるいは」「無いないと同然どうぜんで。久しいひさしい間ま、音信おんしん不通ふつうにしておったものですからな」「なるほど。それじゃ、全くまったく小野おの氏しだけが御ご力ちからですな。そりゃ、どうも、怪しからあやしからん事ことになったもので」「馬鹿ばかを見みました」「いやしかし、どうにか、なりましょう。そう御ご心配しんぱいなさらずとも」「心配しんぱいは致しいたしません。ただ馬鹿ばかを見みただけで、先刻せんこくよく娘むすめにも因果いんがを含めふくめて申し聞かしもうしきかしておきました」「しかしせっかくこれまで御ご丹精たんせいになったものを、そう思い切りおもいきりよく御ご断念だんねんになるのも惜いおしいから、どうかここはひとまず私わたくし共ともに御ご任せまかせ下さいください。忰せがれも出来るだけできるだけ骨ほねを折っおって見みたいと申しもうしておりましたから」「御ご好意こういは実じつに辱かたじけなない。しかし先方せんぽうで断わることわる以上いじょうは、娘むすめも参りまいりたくもなかろうし、参るまいると申しもうしても私わたくしがやれんような始末しまつで……」 小夜子さよこは氷嚢ひょうのうをそっと上げあげて、額がくの露ろを丁寧ていねいに手拭てぬぐいでふいた。
「冷やすひやすのは少しすこし休めやすめて見ようみよう。――なあ小夜子さよこ行かいかんでも好いよいな」 小夜子さよこは氷嚢ひょうのうを盆ぼんへ載せのせた。
両手りょうてを畳たたみの上うえへ突いついて、盆ぼんの上うえへ蔽いおおいかぶせるように首くびを出すだす。
氷嚢ひょうのうへぽたりぽたりと涙なみだが垂れるたれる。
孤こ堂どう先生せんせいは枕まくらに着けつけた胡麻ごま塩頭しおあたまを「好いよいな」と云いいいながら半分はんぶんほど後あとへ捩じ向けねじむけた。
ぽたりと氷嚢ひょうのうへ垂れるたれるところが見えみえた。
「ごもっともで。ごもっともで……」と宗近むねちか老人ろうじんはとりあえず二に遍へんつづけざまに述べるのべる。
孤こ堂どう先生せんせいの首くびは故この位地いちに復しふくした。
潤んうるんだ眼めをひからしてじっと老人ろうじんを見守っみまもっている。
やがて「しかしそれがために小野おのが藤尾ふじおさんとか云ういう婦人ふじんと結婚けっこんでもしたら、御ご子息しそくには御ご気の毒きのどくですな」と云っいった。
「いや――そりゃ――御ご心配しんぱいには及ばおよばんです。忰せがれは貰わもらわん事ことにしました。多分たぶん――いや貰わもらわんです。貰うもらうと云っいっても私わたくしが不承知ふしょうちです。忰せがれを嫌うきらうような婦人ふじんは、忰せがれが貰いもらいたいと申しもうしても私わたくしが許しゆるしません」「小夜さよや、宗近むねちかさんの阿父あちちさんも、ああおっしゃる。同じおなじ事ことだろう」「私わたくしは――参らまいらんでも――宜しゅうよろしゅうございます」と小夜子さよこが枕まくらの後あとで切れ切れきれぎれに云っいった。
雨あめの音おとの強いつよいなかでようやく聞き取れるききとれる。
「いや、そうなっちゃ困るこまる。私わたくしがわざわざ飛んとんで来きた甲斐かいがない。小野おの氏しにもだんだん事情じじょうのある事ことだろうから、まあ忰せがれの通知つうちしだいで、どうか、先刻せんこく御ご話はなしを申しもうしたように御ご聞きき済すみを願いねがいたい。――自分じぶんで忰せがれの事ことをかれこれ申すもうすのは異ないなものだが、忰せがれは事理じりの分っわかった奴やつで、けっして後あとで御ご迷惑めいわくになるような取計とりはからいは致しいたしますまい。御ご破談はだんになった方ほうが御ご為ためだと思えおもえばその方ほうを御勧めおすすめして来るくるでしょう。――始めはじめて御ご目めに懸っかかったのだがどうか私わたくしを御ご信用しんよう下さいください。――もう何なんとか云っいって来るくる時分じぶんだが、あいにくの雨あめで……」 雨あめを衝くつく一いち輛りょうの車くるまは輪わを鳴らしならして、格子こうしの前まえで留っとめった。
がらりと明くあく途端とたんに、ぐちゃりと濡れぬれた草鞋わらじを沓脱くつぬぎへ踏み込んふみこんだものがある。
――叙述じょじゅつは第だい三さんの車くるまの使命しめいに移るうつる。
第だい三さんの車くるまが糸子いとこを載せのせたまま、甲野こうのの門もんに※々の響ひびきを送りおくりつつ馳はせけて来るくる間まに、甲野こうのさんは書斎しょさいを片づけかたづけ始めはじめた。
机つくえの抽出ちゅうしゅつを一いちつずつ抜いぬいて、いつとなく溜ったまった往復おうふくの書類しょるいを裂いさいては捨てすて、裂いさいては捨る。
床ゆかの上うえは千切れちぎれた半切はんせつで膝ひざの所ところだけが堆くうずたかくなった。
甲野こうのさんは乱らんるる反故ほご屑くずを踏みつけふみつけて立ったった。
今度こんどは抽出ちゅうしゅつから一いち枚ばい、二に枚ばいと細字こまじに認めみとめた控ひかえを取り出すとりだす。
中なかには五六ごろく頁ぺーじ纏めまとめて綴じ込んとじこんだのもある。
大抵たいていは西洋せいよう紙かみである。
また西洋せいよう字じである。
甲野こうのさんは一と目ひとめ見みて、すぐ机つくえの上うえへ重ねるかさねる。
中なかには半はん行こうも読まよまずに置きおき易えるかえるのもある。
しばらくすると、重なるかさなるものは小しょう一いち尺さしの高こうまで来きた。
抽出ちゅうしゅつは大抵たいてい空そらになる。
甲野こうのさんは上下じょうげへ手てを掛けかけて、総体そうたいを煖炉だんろの傍そばまで持っもって来きたが、やがて、無言むごんのまま抛げなげ込んこんだ。
重なるかさなるものは主人公しゅじんこうの手てを離りるると共ともに一面いちめんに崩れくずれた。
葡萄ぶどうの葉はを青銅せいどうに鋳いた灰皿はいざらが洋よう卓たくの上うえにある。
灰皿はいざらの上うえに燐寸まっちがある。
甲野こうのさんは手てを延ばしのばして燐寸まっちの箱ばこを取っとった。
取りとりながら横よこに振るふると、あたじけない五六ごろく本ほんの音おとがする。
今度こんどは机つくえへ帰るかえる。
レオパルジの隣となりにあった黄表紙こうひょうしの日記にっきを持っもって煖炉だんろの前まえまで戻っもどって来きた。
親指おやゆびを抑えおさえにして小口こぐちを雨あめのように飛ばしとばして見るみると、黒いくろい印しるし気きと鼠ねずみの鉛筆えんぴつが、ちら、ちら、ちらと黄色いきいろい表紙ひょうしまで来きて留っとめった。
何なんを書いかいたものやらいっこう要領ようりょうを得とくない。
昨夕さくゆう寝るねる前まえに書き込んかきこんだ、
入道にゅうどう無言むごん客きゃく。
出家しゅっけ有髪うはつ僧そう。
の一いち聯が、最後さいごの頁ぺーじの最後さいごの句くである事ことだけを記憶きおくしている。
甲野こうのさんは思い切っおもいきって日記にっきを散らばっちらばった紙かみの上うえへ乗せのせた。
屈んかがんだ。
煖炉だんろ敷しきの前まえでしゅっと云ういう音おとがする。
乱れみだれた紙かみは、静せいなるうちに、惓けん怠いたりい伸しんをしながら、下したから暖めあたためられて来るくる。
きな臭いきなくさい煙けむりが、紙かみと紙かみの隙間すきまを這い上っはいのぼって出でた。
すると紙かみは下層かそうの方ほうから動きうごき出しだした。
「うん、まだ書くかく事ことがあった」と甲野こうのさんは膝ひざを立てたてながら、日記にっきを煙けむりのなかから救い出すすくいだす。
紙かみは茶ちゃに変るかわる。
ぼうと音おとがすると煖炉だんろのうちは一面いちめんの火ひになった。
「おや、どうしたの」 戸口とぐちに立ったった母ははは不審ふしんそうに煖炉だんろの中なかを見詰めみつめている。
甲野こうのさんは声こえに応じおうじて体からだを斜めななめに開くひらく。
袂たもとの先さきに火ひを受けうけて母ははと向き合っむきあった。
「寒いさむいから部屋へやを煖めあたためます」と云っいったなり、上うえから煖炉だんろの中なかを見下しみくだした。
火ひは薄いうすい水飴みずあめの色いろに燃えるもえる。
藍あいと紫むらさきが折々おりおりは思い出しおもいだしたように交っかって煙突えんとつの裏うらへ上っのぼって行くいく。
「まあ御ごあたんなさい」 折からおりから風かぜに誘わさそわれた雨あめが四五しご筋すじ、窓まど硝子がらすに当っあたって砕けくだけた。
「降りふり出しだしましたね」 母ははは返事へんじをせずに三さん足あしほど部屋へやの中なかに進んすすんで来きた。
すかすように欽吾きんごを見みて、「寒けれさむければ、石炭せきたんを焼かやかせようか」と云っいった。
めらめらと燃えもえた火ひは、揺ぐゆるぐ紫むらさきの舌したの立ちたち騰るあがる後あとから、ぱっと一度いちどに消えきえた。
煖炉だんろの中なかは真黒まっくろである。
「もうたくさんです。もう消えきえました」 云いいい終っおわった欽吾きんごは、煖炉だんろに背中せなかを向けむけた。
時じに亡父ぼうふの眼玉めだまが壁かべの上うえからぴかりと落ちおちて来きた。
雨あめの音おとがざあっとする。
「おやおや、手紙てがみが大変たいへん散らばっちらばって――みんな要らいらないのかい」 欽吾きんごは床ゆかの上うえを眺めながめた。
裂きさき棄てすてた書面しょめんは見事みごとに乱れみだれている。
あるいは二三にさん行こう、あるいは五六ごろく行こう、はなはだしいのは一行いっこうの半分はんぶんで引き千切っひきちぎったのがある。
「みんな要りいりません」「それじゃ、ちっと片づけようかたづけよう。紙かみ屑籠くずかごはどこにあるの」 欽吾きんごは答えこたえなかった。
母ははは机つくえの下したを覗き込むのぞきこむ。
西洋せいよう流りゅうの籃製の屑籠くずかごが、足あし掛かかりの向むかいに仄そくに見えるみえる。
母ははは屈んかがんで手てを伸しのした。
紺こん緞子どんすの帯おびが、窓まどからさす明あきらをまともに受けうけた。
欽吾きんごは腕うでを右みぎへ真直まっすぐに、日ひ蔽へいのかかった椅子いすの背せ頸くびを握っにぎった。
瘠せやせた肩かたを斜しゃにして、ずるずると机つくえの傍そばまで引いひいて来きた。
母ははは机つくえの奥おくから屑籠くずかごを引きひき擦り出しすりだした。
手紙てがみの断片だんぺんを一いちつ一いちつ床ゆかから拾っじゅうって籠かごの中なかへ入れるいれる。
捩じ曲げねじまげたのを丹念たんねんに引き延ばしひきのばして見るみる。
「いずれ拝眉はいびの上うえ……」と云ういうのを投げ込むなげこむ。
「……御免ごめん蒙りこうむり度ど候こう。もっとも事情じじょうの許すゆるす場合ばあいには御ご……」と云ういうのを投げ込むなげこむ。
「……はとうてい辛抱しんぼう致しいたしかね……」と云ういうのを裏返しうらがえして見るみる。
欽吾きんごは尻しり眼めに母ははをじろりと眺めながめた。
机つくえの角かくに引き寄せひきよせた椅子いすの背せに、うんと腕うでの力ちからを入れいれた。
ひらりと紺こん足袋たびが白いしろい日ひ蔽へいの上うえに揃っそろった。
揃っそろった紺こん足袋たびはすぐ机つくえの上うえに飛び上るとびあがる。
「おや、何なんをするの」と母ははは手紙てがみの断片だんぺんを持っもったまま、下したから仰向いあおむいた。
眼めと眼めの間まに怖こわの色いろが明かあきらかに読まよまれた。
「額がくを卸しおろします」と上うえから落ちついおちついて云ういう。
「額がくを?」 怖こわは愕と変じへんじた。
欽吾きんごは鍍金ときんの枠わくに右みぎの手てを懸けかけた。
「ちょいと御ご待ちまち」「何なんですか」と右みぎの手てはやはり枠わくに懸っかかっている。
「額がくを外しはずして何なんにする気きだい」「持っもって行くいくんです」「どこへ」「家いえを出るでるから、額がくだけ持っもって行くいくんです」「出るでるなんて、まあ。――出るでるにしても、もっと緩かん外しはずしたら宜さよろしさそうなもんじゃないか」「悪いわるいですか」「悪くわるくはないよ。御前ごぜんが欲しけれほしければ持っもって行くいくが、いいけれども。何なんもそんなに急がいそがなくっても好いよいんだろう」「だって今いま外さはずさなくっちゃ、時間じかんがありません」 母ははは変へんな顔かおをして呆然ぼうぜんとして立ったった。
欽吾きんごは両手りょうてを額がくに掛けるかける。
「出るでるって、御前ごぜん本当ほんとうに出るでる気きなのかい」「出るでる気きです」 欽吾きんごは後ろうしろ向むかいに答えこたえた。
「いつ」「これから、出るでるんです」 欽吾きんごは両手りょうてで一度いちど上うえへ揺り上げゆりあげた額がくを、折おり釘くぎから外しはずして、下したへさげた。
細いほそい糸いと一いち本ほんで額がくは壁かべとつながっている。
手てを放すはなすと、糸いとが切れきれて落ちおちそうだ。
両手りょうてで恭しくうやうやしく捧げささげたままである。
母ははは下したから云ういう。
「こんな雨あめの降るふるのに」「雨あめが降っふっても構わかまわないです」「せめて藤尾ふじおに暇乞いとまごいでもして行っいってやっておくれな」「藤尾ふじおはいないでしょう」「だから待っまっておくれと云ういうのだあね。藪やぶから棒ぼうに出るでるなんて、御ご母さんははさんを困らこまらせるようなもんじゃないか」「困らこまらせるつもりじゃありません」「御前ごぜんがその気きでなくっても、世間せけんと云ういうものがあります。出るでるなら出るでるようにして出でてくれないと、御ご母さんははさんが恥はじを掻きかきます」「世間せけんが……」と云いいいかけて額がくを持ちもちながら、首くびだけ後あとへ向けむけた時じ、細長くほそながく切れきれた欽吾きんごの眼めは一度いちどは母ははに落ちおちた。
やがて母ははから遠退いとおのいて戸口とぐちに至っいたってはたと動かうごかなくなった。
――母ははは気味きみ悪わるそうに振返るふりかえる。
「おや」 天てんから降っふったように、静かしずかに立ったっていた糸子いとこは、ゆるやかに頭あたまを下げさげた。
鷹揚おうように膨まふくらました廂ひさし髪かみが故こに帰るかえると、糸子いとこは机つくえの傍そばまで歩あゆみを移しうつして来るくる。
白足袋しろたびが両方りょうほう揃っそろった時じ、「御ご迎むかえに参りまいりました」と真直まっすぐに欽吾きんごを見上げみあげた。
「鋏はさみを取っとって下さいください」と欽吾きんごは上うえから頼むたのむ。
顎あごで差図さしずをした、レオパルジの傍そばに、鋏はさみがある。
――ぷつりと云ういう音おとと共ともに額がくは壁かべを離れはなれた。
鋏はさみはかちゃりと床ゆかの上うえに落ちおちた。
両手りょうてに額がくを捧げささげた欽吾きんごは、机つくえの上うえでくるりと正面しょうめんに向き直っむきなおった。
「兄あにが欽吾きんごさんを連れつれて来いこいと申しもうしましたから参りまいりました」 欽吾きんごは捧げささげた額がくを眼め八はち分ぶんから、そろりそろりと下したの方ほうへ移すうつす。
「受取っうけとって下さいください」 糸子いとこは確としかと受取っうけとった。
欽吾きんごは机つくえから飛び下りるとびおりる。
「行きいきましょう。――車くるまで来きたんですか」「ええ」「この額がくが乗りのりますか」「乗りのります」「じゃあ」と再びふたたび額がくを受取っうけとって、戸口とぐちの方ほうへ行くいく。
糸子いとこも行くいく。
母ははは呼びとめよびとめた。
「少しすこし御ご待ちまちよ。――糸子いとこさんも少しすこし待っまってちょうだい。何なんが気きに入らはいらないで、親おやの家いえを出るでるんだか知らしらないが、少しすこしは私わたくしの心持こころもちにもなって見みてくれないと、私わたくしが世間せけんへ対したいして面目めんぼくがないじゃないか」「世間せけんはどうでも構わかまわないです」「そんな聞きき訳わけのない事ことを云っいって、――頑是がんぜない小供こどもみたように」「小供こどもなら結構けっこうです。小供こどもになれれば結構けっこうです」「またそんな。――せっかく、小供こどもから大人おとなになったんじゃないか。これまでに丹精たんせいするのは、一いちと通りとおりや二にた通りとおりの事ことじゃないよ、御前ごぜん。少しすこしは考えかんがえて御覧ごらんな」「考えかんがえたから出るでるんです」「どうして、まあ、そんな無理むりを云ういうんだろうね。――それもこれもみんな私わたくしの不行届ふゆきとどきから起っおこった事ことだから、今更いまさら泣いないたって、口説いくどいたって仕方しかたがないけれども、――私わたくしは――亡くなっなくなった阿父あちちさんに――」「阿父あちちさんは大丈夫だいじょうぶです。何なんとも云やいやしません」「云やいやしませんたって――何なんも、そう、意地いじにかかって私わたくしを苛めいじめなくっても宜さよろしさそうなもんじゃないか」 甲野こうのさんは額がくを提げさげたまま、何なんとも返事へんじをしなくなった。
糸子いとこはおとなしく傍そばに着いついている。
雨あめは部屋へやを取り巻いとりまいて吹き寄せふきよせて来るくる。
遠いとおい所ところから風かぜが音おとを輳めてくる。
ざあっと云ういう高いたかい響ひびきである。
また広いひろい響ひびきである。
響ひびきの裡りに甲野こうのさんは黙然もくぜんとして立ったっている。
糸子いとこも黙然もくぜんとして立ったっている。
「少しすこしは分っわかったかい」と母ははが聞いきいた。
甲野こうのさんは依然いぜんとして黙しもくしている。
「これほど云っいっても、まだ分らわからないのかね」 甲野こうのさんはやはり口くちを開かひらかない。
「糸子いとこさん、こう云ういう体たらくていたらくなんですから。どうぞ御ご宅たくへ御ご帰りかえりになったら、阿父あちちさんや兄さんあにさんに御覧ごらんの通りとおりを御ご話しはなし下さいください。――まことに、こんなところをあなた方ほうに御ご見せみせ申すもうすのは、何なんともかとも面目めんぼくしだいもございません」「御ご叔母おばさん。欽吾きんごさんは出でたいのですから、素直すなおに出しだして御ご上げあげなすったら好いよいでしょう。無理むりに引っ張っひっぱっても何になんにもならないと思いおもいます」「あなたまでそれじゃ仕方しかたがありませんね。――それは失礼しつれいながら、まだ御ご若いわかいから、そう云ういう奥底おくそこのない御ご考かんがえも出るでるんでしょうが。――いくら出でたいたって、山やまの中なかの一軒家いちけんやに住んすんでいる人間にんげんじゃなし、そう今いまが今いま思い立っおもいたって、今いま出でられちゃ、出るでる当人とうにんより、残っのこったものが困りこまりまさあね」「なぜ」「だって人ひとの口くちは五月蠅さばえじゃありませんか」「人ひとが何なんと云っいったって――それがなぜ悪いわるいんでしょう」「だって御ご互たがいに世間せけんに顔出しかおだしが出来ればできればこそ、こうやって今日きょうを送っおくっているんじゃありませんか。自分じぶんより世間せけんの義理ぎりの方ほうが大事だいじでさあね」「だって、こんなに出でたいとおっしゃるんですもの。御ご可哀想かわいそうじゃありませんか」「そこが義理ぎりですよ」「それが義理ぎりなの。つまらないのね」「つまらなかありませんやね」「だって欽吾きんごさんは、どうなっても構わかまわない……」「構わかまわなかないんです。それがやっぱり欽吾きんごのためになるんです」「欽吾きんごさんより御ご叔母おばさんのためになるんじゃないの」「世の中よのなかへの義理ぎりですよ」「分らわからないわ、私わたくしには。――出でたいものは世間せけんが何なんと云っいったって出でたいんですもの。それが御ご叔母おばさんの迷惑めいわくになるはずはないわ」「だって、こんな雨あめが降っふって……」「雨あめが降っふっても、御ご叔母おばさんは濡れぬれないんだから構わかまわないじゃありませんか」 汽車きしゃのない時じの事ことであった。
山やまの男おとこと海うみの男おとこが喧嘩けんかをした。
山やまの男おとこが魚さかなは塩辛いしおからいものだと云ういう。
海うみの男おとこが魚さかなに塩気しおけがあるものかと云ういう。
喧嘩けんかはいつまで立ったっても鎮まらしずまらなかった。
教育きょういくと名なくる汽車きしゃがかかって、理性りせいの楷かい段だんを自由じゆうに上下じょうげする方便ほうべんが開けあけないと、御ご互たがいの考かんがえは御ご互たがいに分らわからない。
ある時じは俗ぞく社会しゃかいの塩漬しおづけになり過ぎすぎて、ただ見みてさえも冥めい眩しまぶしそうな人間にんげんでないと、人間にんげんとして通用つうようしない事ことがある。
それは嘘うそだ偽にせだと説いといて聞かしきかしてもなかなか承知しょうちしない。
どこまでも塩漬しおづけ趣味しゅみを主張しゅちょうする。
――謎なぞの女おんなと糸子いとこの応対おうたいは、どこまで行っいっても並行へいこうするだけで一いち点てんには集まらあつまらない。
山やまの男おとこと海うみの男おとこが魚さかなに対したいして根本的こんぽんてきの観念かんねんを異ことにするごとく、謎なぞの女おんなと糸子いとことは、人間にんげんに対したいして冒頭ぼうとうから考かんがえが違うちがう。
海うみと山やまとを心得こころえた甲野こうのさんは黙っだまって二人ふたりを見下しみくだしている。
糸子いとこの云ういうところは弁護べんごの出来できぬほど簡単かんたんである。
母ははの主張しゅちょうは愛想あいそのつきるほど愚ぐにしてかつ俗ぞくである。
この二人ふたりの問答もんどうを前まえに控えひかえて、甲野こうのさんは阿爺あやの額がくを抱いいだいたまま立ったっている。
別段べつだん退屈たいくつした気色けしきも見えみえない。
焦慮しょうりょたそうな様子ようすもない。
困っこまったと云ういう風情ふぜいもない。
二人ふたりの問答もんどうが、日暮ひぐれまで続けつづけば、日暮ひぐれまで額がくを持っもって、同じおなじ姿勢しせいで、立ったっているだろうと思わおもわれる。
ところへ、雨あめの中なかの掛声かけごえがした。
車くるまが玄関げんかんで留っとめった。
玄関げんかんから足音あしおとが近づいちかづいて来きた。
真先まっさきに宗近むねちか君きみがあらわれた。
「やあ、まだ行かいかないのか」と甲野こうのさんに聞くきく。
「うん」と答えこたえたぎりである。
「御ご叔母おばさんもここか、ちょうど好いよい」と腰こしを掛けるかける。
後あとから小野おのさんが這入っはいって来るくる。
小野おのさんの影かげを一いち寸すんも出でないように小夜子さよこがついてくる。
「御ご叔母おばさん、雨あめの降るふるのに大入おおいりですよ。――小夜子さよこさん、これが僕ぼくの妹いもうとです」 活躍かつやくの児こは一句いっくにして挨拶あいさつと紹介しょうかいを兼るかねる。
宗近むねちか君きみは忙しいいそがしい。
甲野こうのさんは依然いぜんとして額がくを支えささえて立ったったままである。
小野おのさんも手持無沙汰てもちむさたに席せきに着かきかぬ。
小夜子さよこと糸子いとこはいたずらに丁寧ていねいな頭あたまを下げさげた。
打ち解けうちとけた言葉ことばは無論むろん交すかわす機会きかいがない。
「雨あめの降るふるのに、まあよく……」 母はははこれだけの愛嬌あいきょうを一いち面めんに振りふり蒔いまいた。
「よく降りふりますね」と宗近むねちか君きみはすぐ答えこたえた。
「小野おのさんは……」と母ははが云いいい懸けかけた時じ、宗近むねちか君きみがまた遮っさえぎった。
「小野おのさんは今日きょう藤尾ふじおさんと大森おおもりへ行くいく約束やくそくがあるんだそうですね。ところが行かいかれなくなって……」「そう――でも、藤尾ふじおはさっき出でましたよ」「まだ帰らかえらないですか」と宗近むねちか君きみは平気へいきに聞いきいた。
母ははは少しくすこしく不快ふかいな顔かおをする。
「どうして大森おおもりどころじゃない」と独語どくごのように云っいったが、ちょっと振り返っふりかえって、「みんな掛けかけないか。立ったってると草くさ臥るふせるぜ。もう直じか藤尾ふじおさんも帰るかえるだろう」と注意ちゅういを与えあたえた。
「さあ、どうぞ」と母ははが云ういう。
「小野おのさん、掛けかけたまえ。小夜子さよこさんも、どうです。――甲野こうのさん何なんだい、それは……」「父ちちの肖像しょうぞうを卸しおろしまして、あなた。持っもって出るでるとか申しもうして」「甲野こうのさん、少しすこし待ちまちたまえ。もう藤尾ふじおさんが帰っかえって来るくるから」 甲野こうのさんは別べつに返事へんじもしなかった。
「少しすこし私わたくしが持ちもちましょう」と糸子いとこが低いひくい声こえで云ういう。
「なに……」と甲野こうのさんは提げさげていた額がくを床ゆかの上うえへ卸しおろして壁かべへ立て掛けたてかけた。
小夜子さよこは俯向きうつむきながら、そっと額がくの方ほうを見るみる。
「なんぞ藤尾ふじおに、御用ごようでも御有ぎょゆうなさるんですか」 これは母ははの言葉ことばであった。
「ええ、あるんです」 これは宗近むねちかの答こたえであった。
あとは――雨あめが降るふる。
誰だれも何なんとも云わいわない。
この時じ一いち輛りょうの車くるまはクレオパトラくれおぱとらの怒どを乗せのせて韋駄天いだてんのごとく新橋しんばしから馳はせけて来るくる。
宗近むねちか君きみは胴衣どういの上うえで、ぱちりと云わしいわした。
「三さん時じ二十にじゅう分ぶん」 何なんとも応えるこたえるものがない。
車くるまは千筋せんすじの雨あめを、黒いくろい幌ほろに弾いひいて一散いっさんに飛んとんで来るくる。
クレオパトラくれおぱとらの怒どは布団ふとんの上うえで躍り上るおどりあがる。
「御ご叔母おばさん京都きょうとの話はなしでも、しましょうかね」 降るふる雨あめの地ちに落ちおちぬ間まを追い越せおいこせと、乗るのる怒どは車夫しゃふの背せを鞭むちって馳けつけるかけつける。
横よこに煽るあおる風かぜを真向まっこうに切っきって、歯はを逆ぎゃくに捩るもじると、甲野こうのの門内もんないに敷き詰めしきつめた砂利じゃりが、玄関先げんかんさきまで長くながく二に行こうに砕けくだけて来きた。
濃いこい紫むらさきの絹紐きぬひもに、怒どをあつめて、幌ほろを潜るもぐるときに颯さっとふるわしたクレオパトラくれおぱとらは、突然とつぜんと玄関げんかんに飛び上がっとびあがった。
「二十五にじゅうご分ぶん」と宗近むねちか君きみが云い切らいいきらぬうちに、怒どの権化ごんげは、辱しめはずかしめられたる女王じょおうのごとく、書斎しょさいの真中まなかに突っ立っつったった。
六ろく人ひとの目めはことごとく紫むらさきの絹紐きぬひもにあつまる。
「やあ、御ご帰りかえり」と宗近むねちか君きみが煙草たばこを啣えながら云ういう。
藤尾ふじおは一言ひとことの挨拶あいさつすら返すかえす事ことを屑くずとせぬ。
高いたかい背せを高くたかく反らしそらして、屹ときっと部屋へやのなかを見廻しみまわした。
見廻しみまわした眼めは、最後さいごに小野おのさんに至っいたって、ぐさりと刺さっささった。
小夜子さよこは背広せびろの肩かたにかくれた。
宗近むねちか君きみはぬっと立ったった。
呑みのみ掛けかけの煙草たばこを、青あお葡萄ぶどうの灰皿はいざらに放り込むほうりこむ。
「藤尾ふじおさん。小野おのさんは新橋しんばしへ行かいかなかったよ」「あなたに用ようはありません。――小野おのさん。なぜいらっしゃらなかったんです」「行っいっては済ますまん事ことになりました」 小野おのさんの句切りくぎりは例れいになく明暸めいりょうであった。
稲妻いなずまははたはたとクレオパトラくれおぱとらの眸ひとみから飛ぶとぶ。
何なんを猪子いのこ才さいなと小野おのさんの額がくを射いた。
「約束やくそくを守らまもらなければ、説明せつめいが要りいります」「約束やくそくを守るまもると大変たいへんな事ことになるから、小野おのさんはやめたんだよ」と宗近むねちか君きみが云ういう。
「黙っだまっていらっしゃい。――小野おのさん、なぜいらっしゃらなかったんです」 宗近むねちか君きみは二三にさん歩あゆみ大股おおまたに歩いあるいて来きた。
「僕ぼくが紹介しょうかいしてやろう」と一足いっそく小野おのさんを横よこへ押し退けるおしのけると、後あとから小さいちいさい小夜子さよこが出でた。
「藤尾ふじおさん、これが小野おのさんの妻君さいくんだ」 藤尾ふじおの表情ひょうじょうは忽然こつぜんとして憎悪ぞうおとなった。
憎悪ぞうおはしだいに嫉妬しっととなった。
嫉妬しっとの最ももっとも深くふかく刻み込まきざみこまれた時じ、ぴたりと化石かせきした。
「まだ妻君さいくんじゃない。ないが早晩そうばん妻君さいくんになる人ひとだ。五ご年ねん前まえからの約束やくそくだそうだ」 小夜子さよこは泣き腫らしなきはらした眼めを俯せうつぶせたまま、細いほそい首くびを下げるさげる。
藤尾ふじおは白いしろい拳こぶしを握っにぎったまま、動かうごかない。
「嘘うそです。嘘うそです」と二に遍へん云っいった。
「小野おのさんは私わたくしの夫おっとです。私わたくしの未来みらいの夫おっとです。あなたは何なんを云ういうんです。失礼しつれいな」と云っいった。
「僕ぼくはただ好意こうい上うえ事実じじつを報知ほうちするまでさ。ついでに小夜子さよこさんを紹介しょうかいしようと思っおもって」「わたしを侮辱ぶじょくする気きですね」 化石かせきした表情ひょうじょうの裏うらで急きゅうに血管けっかんが破裂はれつした。
紫色むらさきいろの血ちは再度さいどの怒どを満面まんめんに注ぐそそぐ。
「好意こういだよ。好意こういだよ。誤解ごかいしちゃ困るこまる」と宗近むねちか君きみはむしろ平然へいぜんとしている。
――小野おのさんはようやく口くちを開いひらいた。
――「宗近むねちか君きみの云ういうところは一々いちいち本当ほんとうです。これは私わたくしの未来みらいの妻つまに違いありません。――藤尾ふじおさん、今日きょうまでの私わたくしは全くまったく軽薄けいはくな人間にんげんです。あなたにも済みすみません。小夜子さよこにも済みすみません。宗近むねちか君きみにも済みすみません。今日きょうから改めあらためます。真面目まじめな人間にんげんになります。どうか許しゆるして下さいください。新橋しんばしへ行けいけばあなたのためにも、私わたくしのためにも悪いわるいです。だから行かいかなかったです。許しゆるして下さいください」 藤尾ふじおの表情ひょうじょうは三さんたび変っかわった。
破裂はれつした血管けっかんの血ちは真白まっしろに吸収きゅうしゅうされて、侮蔑ぶべつの色いろのみが深刻しんこくに残っのこった。
仮面かめんの形かたちは急きゅうに崩れるくずれる。
「ホホホホほほほほ」 歇私的まと里さと性せいの笑わらいは窓外そうがいの雨あめを衝いついて高くたかく迸ったばしった。
同時どうじに握るにぎる拳こぶしを厚板あついたの奥おくに差し込むさしこむ途端とたんにぬらぬらと長いながい鎖くさりを引き出しひきだした。
深紅しんくの尾おは怪しきあやしき光ひかりを帯びおびて、右みぎへ左ひだりへ揺くわななく。
「じゃ、これはあなたには不用ふようなんですね。ようござんす。――宗近むねちかさん、あなたに上げあげましょう。さあ」 白いしろい手ては腕うでをあらわに、すらりと延びのびた。
時計とけいは赭あか黒いくろい宗近むねちか君きみの掌てのひらに確としかと落ちおちた。
宗近むねちか君きみは一歩いちほを煖炉だんろに近くちかく大股おおまたに開いひらいた。
やっと云ういう掛声かけごえと共ともに赭あか黒いくろい拳こぶしが空そらに躍るおどる。
時計とけいは大理石だいりせきの角かくで砕けくだけた。
「藤尾ふじおさん、僕ぼくは時計とけいが欲しいほしいために、こんな酔興すいきょうな邪魔じゃまをしたんじゃない。小野おのさん、僕ぼくは人ひとの思おもうをかけた女おんなが欲しいほしいから、こんな悪戯いたずらをしたんじゃない。こう壊しこわしてしまえば僕ぼくの精神せいしんは君きみらに分るわかるだろう。これも第だい一いち義ぎの活動かつどうの一部分いちぶぶんだ。なあ甲野こうのさん」「そうだ」 呆然ぼうぜんとして立ったった藤尾ふじおの顔かおは急きゅうに筋肉きんにくが働かはたらかなくなった。
手てが硬くかたくなった。
足あしが硬くかたくなった。
中心ちゅうしんを失っうしなった石像せきぞうのように椅子いすを蹴返しけかえして、床ゆかの上うえに倒れたおれた。
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