虞美人草

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十四

第 14 章
電車でんしゃが赤いあかい札さつを卸しおろして、ぶうと鳴っなって来るくる。
入れ代っいれかわって後あとから町内ちょうないの風かぜを鉄軌てっきの上うえに追いおい捲くまくって去るさる。
按摩あんまが隙すきを見計っみはからって恐る恐るおそるおそる向側むかいがわへ渡るわたる。
茶屋ちゃやの小僧こぞうが臼うすを挽きひきながら笑うわらう。
旗はた振ぶりの着るきるヘルへる地ちの織目おりめは、埃ほこりがいっぱい溜ったまって、黄色きいろにぼけている。
古本屋ふるほんやから洋服ようふくが出でて来るくる。
鳥打帽とりうちぼうが寄席よせの前まえに立ったっている。
今晩こんばんの語り物かたりものが塗板とばんに白くしろくかいてある。
空そらは針はり線せんだらけである。
一いち羽はねの鳶とびも見えみえぬ。
上うえの静せいなるだけに下したはすこぶる雑駁ざっぱくな世界せかいである。
「おいおい」と大きなおおきな声こえで後あとから呼ぶよぶ。
二に十じゅう四よん五ごの夫人ふじんがちょっと振り向いふりむいたまま行くいく。
「おい」 今度こんどは印しるし絆きずな天てんが向いむかいた。
呼ばよばれた本人ほんにんは、知らしらぬ気きに、来るくる人ひとを避けさけて早足はやあしに行くいく。
抜きぬき競せりをして飛んとんで来きた二に輛りょうの人力じんりきに遮ぎらさえぎられて、間まはますます遠くとおくなる。
宗近むねちか君きみは胸むねを出しだして馳はせけ出しけだした。
寛くひろく着きた袷あわせと羽織はおりが、足あしを下すくだすたんびに躍を踊るおどる。
「おい」と後あとから手てを懸けるかける。
肩かたがぴたりと留まるとまると共ともに、小野おのさんの細面ほそおもてが斜めななめに見えみえた。
両手りょうては塞がっふさがっている。
「おい」と手てを懸けかけたまま肩かたをゆす振るふる。
小野おのさんはゆす振らふられながら向き直っむきなおった。
「誰だれかと思っおもったら……失敬しっけい」 小野おのさんは帽子ぼうしのまま鄭てい寧ねいに会釈えしゃくした。
両手りょうては塞がっふさがっている。
「何なんを考えかんがえてるんだ。いくら呼んよんでも聴えきこえない」「そうでしたか。ちっとも気きがつかなかった」「急いいそいでるようで、しかも地面じめんの上うえを歩いあるいていないようで、少しすこし妙みょうだよ」「何なんが」「君きみの歩行ほこう方ほうがさ」「二十にじゅう世紀せいきだから、ハハハハはははは」「それが新式しんしきの歩行ほこう方ほうか。何なんだか片足かたあしが新しんで片足かたあしが旧きゅうのようだ」「実際じっさいこう云ういうものを提げさげていると歩行ほこうにくいから……」 小野おのさんは両手りょうてを前まえの方ほうへ出しだして、この通りとおりと云わいわぬばかりに、自分じぶんから下したの方ほうへ眼めを着けつけて見せるみせる。
宗近むねちか君きみも自然しぜんと腰こしから下したへ視線しせんを移すうつす。
「何なんだい、それは」「こっちが紙かみ屑籠くずかご、こっちが洋灯ようとうの台だい」「そんなハイカラはいからな形姿けいしをして、大きなおおきな紙かみ屑籠くずかごなんぞを提げさげてるから妙みょうなんだよ」「妙みょうでも仕方しかたがない、頼またのまれものだから」「頼またのまれて妙みょうになるのは感心かんしんだ。君きみに紙かみ屑籠くずかごを提げさげて往来おうらいを歩くあるくだけの義侠ぎきょう心こころがあるとは思わおもわなかった」 小野おのさんは黙っだまって笑わらいながら御辞儀ごじぎをした。
「時じにどこへ行くいくんだね」「これを持っもって……」「それを持っもって帰るかえるのかね」「いいえ。頼またのまれたから買っかって行っいってやるんです。君きみは?」「僕ぼくはどっちへでも行くいく」 小野おのさんは内心ないしん少々しょうしょう当惑とうわくした。
急いいそいでいるようで、しかも地面じめんの上うえを歩行ほこうていないようだと、宗近むねちか君きみが云っいったのは、まさに現下げんかの状態じょうたいによく適てき合っあった小野おの評ひょうである。
靴くつに踏むふむ大地だいちは広くひろくもある、堅くかたくもある、しかし何なんとなく踏みふみ心地ここちが確かたしかでない。
にもかかわらず急ぎいそぎたい。
気楽きらくな宗近むねちか君きみなどに逢っあっては立話たちばなしをするのさえ難義なんぎである。
いっしょにあるこうと云わいわれるとなおさら困るこまる。
常つねでさえ宗近むねちか君きみに捕まるつかまると何なんとなく不安ふあんである。
宗近むねちか君きみと藤尾ふじおの関係かんけいを知るしるような知らしらぬような間まに、自分じぶんと藤尾ふじおとの関係かんけいは成り立っなりたってしまった。
表ひょう向むかい人ひとの許嫁いいなずけを盗んぬすんだほどの罪つみは犯さおかさぬつもりであるが、宗近むねちか君きみの心こころは聞かきかんでも知れしれている。
露骨ろこつな人ひとの立居たちい振舞ふるまいの折々おりおりにも、気きのあるところはそれと推測すいそくが出来るできる。
それを裏うらから壊しこわしに掛っかかったとまでは行かいかぬにしても、事実じじつは宗近むねちか君きみの望もちを、われ故こに、永久えいきゅうに鎖しとざした訳わけになる。
人情にんじょうとしては気の毒きのどくである。
気の毒きのどくはこれだけで気の毒きのどくである上うえに、宗近むねちか君きみが気楽きらくに構えかまえて、毫もごうも自分じぶんと藤尾ふじおの仲なかを苦くにしていないのがなおさらの気の毒きのどくになる。
逢えあえば隔意かくいなく話はなしをする。
冗談じょうだんを云ういう。
笑うわらう。
男子だんしの本領ほんりょうを説くとく。
東洋とうようの経綸けいりんを論ずるろんずる。
もっとも恋こいの事ことは余りあまり語らかたらぬ。
語らかたらぬと云わいわんよりむしろ語れかたれぬのかも知れしれぬ。
宗近むねちか君きみは恐らくおそらく恋こいの真相しんそうを解せげせぬ男おとこだろう。
藤尾ふじおの夫おっとには不足ふそくである。
それにもかかわらず気の毒きのどくは依然いぜんとして気の毒きのどくである。
気の毒きのどくとは自我じがを没しぼっした言葉ことばである。
自我じがを没しぼっした言葉ことばであるからありがたい。
小野おのさんは心こころのうちで宗近むねちか君きみに気の毒きのどくだと思っおもっている。
しかしこの気の毒きのどくのうちに大いなるおおいなる己おのれを含んふくんでいる。
悪戯いたずらをして親おやの前まえへ出るでるときの心持こころもちを考えかんがえて見るみるとわかる。
気の毒きのどくだったと親おやのために悔かいゆる了見りょうけんよりは何なんとなく物騒ぶっそうだと云ういう感じかんじが重じゅうである。
わが悪戯いたずらが、己れおのれと掛け離れかけはなれた別人べつじんの頭あたまの上うえに落しおとした迷惑めいわくはともかくも、この迷惑めいわくが反響はんきょうして自分じぶんの頭あたまががんと鳴るなるのが気味きみが悪いわるい。
雷かみなりの嫌いやなものが、雷かみなりを封じふうじた雲の峰くものみねの前まえへ出るでると、少しくすこしく逡巡しゅんじゅんするのと一般いっぱんである。
ただの気の毒きのどくとはよほど趣おもむきが違うちがう。
けれども小野おのさんはこれを称ししょうして気の毒きのどくと云っいっている。
小野おのさんは自分じぶんの感じかんじを気の毒きのどく以下いかに分解ぶんかいするのを好まこのまぬからであろう。
「散歩さんぽですか」と小野おのさんは鄭てい寧ねいに聞いきいた。
「うん。今いま、その角かくで電車でんしゃを下りくだりたばかりだ。だから、どっちへ行っいってもいい」 この答こたえは少々しょうしょう論理ろんりに叶わかなわないと、小野おのさんは思っおもった。
しかし論理ろんりはどうでも構わかまわない。
「僕ぼくは少しすこし急ぐいそぐから……」「僕ぼくも急いいそいで差支さしつかえない。少しすこし君きみの歩くあるく方角ほうがくへ急いいそいでいっしょに行こういこう。――その紙かみ屑籠くずかごを出せだせ。持っもってやるから」「なにいいです。見っともないみっともない」「まあ、出しだしなさい。なるほど嵩張るかさばる割わりに軽いかるいもんだね。見っともないみっともないと云ういうのは小野おのさんの事ことだ」と宗近むねちか君きみは屑籠くずかごを揺りゆすりながら歩きあるき出すだす。
「そう云ういう風かぜに提げるさげるとさも軽そうかるそうだ」「物ものは提げさげ様よう一いちつさ。ハハハハはははは。こりゃ勧工場かんこうじょうで買っかったのかい。だいぶ精巧せいこうなものだね。紙屑かみくずを入れるいれるのはもったいない」「だから、まあ往来おうらいを持っもって歩けるあるけるんだ。本当ほんとうの紙屑かみくずが這入っはいっていちゃ……」「なに持っもって歩けるあるけるよ。電車でんしゃは人ひと屑くずをいっぱい詰めつめて威張っいばって往来おうらいを歩いあるいてるじゃないか」「ハハハハははははすると君きみは屑籠くずかごの運転手うんてんしゅと云ういう事ことになる」「君きみが屑籠くずかごの社長しゃちょうで、頼んたのんだ男おとこは株主かぶぬしか。滅多めったな屑くずは入れいれられない」「歌うた反古ほごとか、五ご車くるま反古ほごと云ういうようなものを入れいれちゃ、どうです」「そんなものは要らいらない。紙幣しへいの反古ほごをたくさん入れいれて貰いもらいたい」「ただの反古ほごを入れいれて置いおいて、催眠術さいみんじゅつを掛けかけて貰うもらう方ほうが早はやそうだ」「まず人間にんげんの方ほうで先さきに反古ほごになる訳わけだな。乞うこう隗かいより始めよはじめよか。人間にんげんの反古ほごなら催眠術さいみんじゅつを掛けかけなくてもたくさんいる。なぜこう隗かいより始めはじめたがるのかな」「なかなか隗かいより始めはじめたがらないですよ。人間にんげんの反故ほごが自分じぶんで屑籠くずかごの中なかへ這入っはいってくれると都合つごうがいいんだけれども」「自働じどう屑籠くずかごを発明はつめいしたら好かろうよかろう。そうしたら人間にんげんの反故ほごがみんな自分じぶんで飛び込むとびこむだろう」「一いちつ専売せんばいでも取るとるか」「アハハハハあはははは好かろうよかろう。知っしったもののうちで飛び込ましとびこましたい人間にんげんでもあるかね」「あるかも知れしれません」と小野おのさんは切り抜けきりぬけた。
「時じに君きみは昨夕さくゆう妙みょうな伴ともとイルミネーションいるみねーしょんを見みに行っいったね」 見物けんぶつに行っいった事ことはさっき露見ろけんしてしまった。
今更いまさら隠すかくす必要ひつようはない。
「ええ、君きみらも行っいったそうですね」と小野おのさんは何気なんげなく答えこたえた。
甲野こうのさんは見つけみつけても知らしらぬ顔かおをしている。
藤尾ふじおは知らしらぬ顔かおをして、しかも是非ぜひ共ともこちらから白状はくじょうさせようとする。
宗近むねちか君きみは向むかいから正面しょうめんに質問しつもんしてくる。
小野おのさんは何気なんげなく答えこたえながら、心こころのうちになるほどと思っおもった。
「あれは君きみの何なんだい」「少しすこし猛烈もうれつですね。――故この先生せんせいです」「あの女おんなは、それじゃ恩師おんしの令嬢れいじょうだね」「まあ、そんなものです」「ああやって、いっしょに茶ちゃを飲んのんでいるところを見るみると、他人たにんとは見えみえない」「兄妹きょうだいと見えみえますか」「夫婦ふうふさ。好いよい夫婦ふうふだ」「恐れ入りおそれいります」と小野おのさんはちょっと笑っわらったがすぐ眼めを外しはずした。
向側むかいがわの硝子戸がらすとのなかに金きん文字もじ入いりの洋書ようしょが燦爛さんらんと詩人しじんの注意ちゅういを促がしうながしている。
「君きみ、あすこにだいぶ新刊しんかんの書物しょもつが来きているようだが、見ようみようじゃありませんか」「書物しょもつか。何なんか買うかうのかい」「面白いおもしろいものがあれば買っかってもいいが」「屑籠くずかごを買っかって、書物しょもつを買うかうのはすこぶるアイロニーあいろにーだ」「なぜ」 宗近むねちか君きみは返事へんじをする前まえに、屑籠くずかごを提げさげたまま、電車でんしゃの間まを向側むかいがわへ馳はせけ抜けぬけた。
小野おのさんも小走しょうそうに跟いて来るくる。
「はあだいぶ奇麗きれいな本ほんが陳列ちんれつしている。どうだい欲しいほしいものがあるかい」「さよう」と小野おのさんは腰こしを屈めかがめながら金縁きんぶちの眼鏡めがねを硝子窓がらすまどに擦り寄せすりよせて余念よねんなく見取れみとれている。
小羊こひつじの皮かわを柔らかやわらかに鞣しなめして、木賊色とくさいろの濃こき真中まなかに、水蓮すいれんを細くほそく金きんに描いえがいて、弁べんの尽じんくる萼がくのあたりから、直じかなる線せんを底そこまで通しとおして、ぐるりと表紙ひょうしの周囲しゅういを回らしまわらしたのがある。
背せを平らたいらに截っきって、深きふかき紅くれないに金髪きんぱつを一いち面めんに這わはわせたような模様もようがある。
堅けんき真鍮しんちゅう版ばんに、どっかと布ぬのの目めを潰しつぶして、重じゅうたき箔はくを楯たて形かたちに置いおいたのがある。
素気そっけなきカーフかーふの背せを鈍色にびいろに緑みどりに上下じょうげに区切っくぎって、双方そうほうに文字もじだけを鏤めちりばめたのがある。
ざら目ざらめの紙かみに、品しなよく朱しゅの書名しょめいを配置はいちした扉とびらも見えるみえる。
「みんな欲しほしそうだね」と宗近むねちか君きみは書物しょもつを見みずに、小野おのさんの眼鏡めがねばかり見みている。
「みんな新式しんしきな装釘そうていだ。どうも」「表紙ひょうしだけ奇麗きれいにして、内容ないようの保険ほけんをつけた気きなのかな」「あなた方ほうのほうと違っちがって文学書ぶんがくしょだから」「文学書ぶんがくしょだから上部じょうぶを奇麗きれいにする必要ひつようがあるのかね。それじゃ文学者ぶんがくしゃだから金縁きんぶちの眼鏡めがねを掛けるかける必要ひつようが起るおこるんだね」「どうも、きびしい。しかしある意味いみで云えいえば、文学者ぶんがくしゃも多少たしょう美術品びじゅつひんでしょう」と小野おのさんはようやく窓まどを離れはなれた。
「美術品びじゅつひんで結構けっこうだが、金縁きんぶち眼鏡めがねだけで保険ほけんをつけてるのは情ないなさけない」「とかく眼鏡めがねが祟るたたるようだ。――宗近むねちか君きみは近視眼きんしがんじゃないんですか」「勉強べんきょうしないから、なりたくてもなれない」「遠視えんし眼めでもないんですか」「冗談じょうだんを云っいっちゃいけない。――さあ好よしみ加減かげんに歩こうあるこう」 二人ふたりは肩かたを比べくらべてまた歩きあるき出しだした。
「君きみ、鵜うと云ういう鳥とりを知っしってるだろう」と宗近むねちか君きみが歩きあるきながら云ういう。
「ええ。鵜うがどうかしたんですか」「あの鳥とりは魚さかなをせっかく呑んのんだと思うおもうと吐いはいてしまう。つまらない」「つまらない。しかし魚さかなは漁夫ぎょふの魚籃びくの中なかに這入るはいるから、いいじゃないですか」「だからアイロニーあいろにーさ。せっかく本ほんを読むよむかと思うおもうとすぐ屑籠くずかごのなかへ入れいれてしまう。学者がくしゃと云ういうものは本ほんを吐いはいて暮しくらしている。なんにも自分じぶんの滋養じようにゃならない。得とくの行くいくのは屑籠くずかごばかりだ」「そう云わいわれると学者がくしゃも気の毒きのどくだ。何なんをしたら好いよいか分らわからなくなる」「行為こういさ。本ほんを読むよむばかりで何になんにも出来できないのは、皿さらに盛っもった牡丹餅ぼたもちを画がにかいた牡丹餅ぼたもちと間違えまちがえておとなしく眺めながめているのと同様どうようだ。ことに文学者ぶんがくしゃなんてものは奇麗きれいな事ことを吐くはく割わりに、奇麗きれいな事ことをしないものだ。どうだい小野おのさん、西洋せいようの詩人しじんなんかによくそんなのがあるようじゃないか」「さよう」と小野おのさんは間まを延ばしのばして答えこたえたが、「例えばたとえば」と聞き返しききかえした。
「名前なまえなんか忘れわすれたが、何なんでも女おんなをごまかしたり、女房にょうぼうをうっちゃったりしたのがいるぜ」「そんなのはいないでしょう」「なにいる、たしかにいる」「そうかな。僕ぼくもよく覚えおぼえていないが……」「専門家せんもんかが覚えおぼえていなくっちゃ困るこまる。――そりゃそうと昨夜さくやの女おんなね」 小野おのさんの腋の下わきのしたが何なんだかじめじめする。
「あれは僕ぼくよく知っしってるぜ」 琴ことの事件じけんなら糸子いとこから聞いきいた。
その外そとに何なんも知るしるはずがない。
「蔦屋つたやの裏うらにいたでしょう」と一躍いちやくして先さきへ出でてしまった。
「琴ことを弾いひいていた」「なかなか旨いうまいでしょう」と小野おのさんは容易よういに悄然しょうぜんない。
藤尾ふじおに逢っあった時じとは少々しょうしょう様子ようすが違うちがう。
「旨いうまいんだろう、何なんとなく眠気ねむけを催しもよおしたから」「ハハハハははははそれこそアイロニーあいろにーだ」と小野おのさんは笑っわらった。
小野おのさんの笑い声わらいごえはいかなる場合ばあいでも静せいの一いち字じを離れはなれない。
その上うえ色彩しきさいがある。
「冷やかすひやかすんじゃない。真面目まじめなところだ。かりそめにも君きみの恩師おんしの令嬢れいじょうを馬鹿ばかにしちゃ済ますまない」「しかし眠気ねむけを催しもよおしちゃ困りこまりますね」「眠気ねむけを催おすもよおすところが好いよいんだ。人間にんげんでもそうだ。眠気ねむけを催おすもよおすような人間にんげんはどこか尊みことといところがある」「古くふるくって尊みことといんでしょう」「君きみのような新式しんしきな男おとこはどうしても眠くねむくならない」「だから尊みこととくない」「ばかりじゃない。ことに依るよると、尊みこととい人間にんげんを時候じこう後れおくれだなどとけなしたがる」「今日きょうは何なんだか攻撃こうげきばかりされている。ここいらで御ご分れわかれにしましょうか」と小野おのさんは少しすこし苦しいくるしいところを、わざと笑っわらって、立ち留るたちどまる。
同時どうじに右みぎの手てを出すだす。
紙かみ屑籠くずかごを受取ろううけとろうと云ういう謎なぞである。
「いや、もう少しすこし持っもってやる。どうせ暇ひまなんだから」 二人ふたりはまた歩きあるき出すだす。
二人ふたりが二人ふたりの心こころを並べならべたままいっしょに歩きあるき出すだす。
双方そうほうで双方そうほうを軽蔑けいべつしている。
「君きみは毎日まいにち暇ひまのようですね」「僕ぼくか? 本ほんはあんまり読まよまないね」「ほかにだって、あまり忙がしいいそがしい事ことがありそうには見えみえませんよ」「そう忙がしいそがしがる必要ひつようを認めみとめないからさ」「結構けっこうです」「結構けっこうに出来るできる間まは結構けっこうにして置かおかんと、いざと云ういう時じに困るこまる」「臨時りんじ応急おうきゅうの結構けっこう。いよいよ結構けっこうですハハハハはははは」「君きみ、相そう変らかわらず甲野こうのへ行くいくかい」「今いま行っいって来きたんです」「甲野こうのへ行っいったり、恩師おんしを案内あんないしたり、忙がしいいそがしいだろう」「甲野こうのの方ほうは四五しご日ひ休みやすみました」「論文ろんぶんは」「ハハハハははははいつの事ことやら」「急いいそいで出すだすが好いよい。いつの事ことやらじゃせっかく忙がしいそがしがる甲斐かいがない」「まあ臨時りんじ応急おうきゅうにやりましょう」「時じにあの恩師おんしの令嬢れいじょうはね」「ええ」「あの令嬢れいじょうについてよっぽど面白いおもしろい話はなしがあるがね」 小野おのさんは急きゅうにどきんとした。
何なんの話はなしか分らわからない。
眼鏡めがねの縁えんから、斜めななめに宗近むねちか君きみを見るみると、相そう変らかわらず、紙かみ屑籠くずかごを揺っゆって、揚々ようようと正面しょうめんを向いむかいて歩いあるいている。
「どんな……」と聞き返しききかえした時じは何なんとなく勢いきおいがなかった。
「どんなって、よっぽど深いぶかい因縁いんねんと見えるみえる」「誰だれが」「僕ぼくらとあの令嬢れいじょうがさ」 小野おのさんは少しすこし安心あんしんした。
しかし何なんだか引っ掛っひっかかっている。
浅かれあさかれ深かれふかかれ宗近むねちか君きみと孤こ堂どう先生せんせいとの関係かんけいをぷすりと切っきって棄てすてたい。
しかし自然しぜんが結んむすんだものは、いくら能才のうさいでも天才てんさいでも、どうする訳わけにも行かいかない。
京きょうの宿屋やどやは何百なんびゃく軒のきとあるに、何なんで蔦屋つたやへ泊り込んとまりこんだものだろうと思うおもう。
泊らとまらんでも済むすむだろうにと思うおもう。
わざわざ三条さんじょうへ梶棒かじぼうを卸しおろして、わざわざ蔦屋つたやへ泊るとまるのはいらざる事ことだと思うおもう。
酔興すいきょうだと思うおもう。
余計よけいな悪戯いたずらだと思うおもう。
先方せんぽうに益えきもないのに好んこのんで人ひとを苦しめるくるしめる泊りとまり方ほうだと思うおもう。
しかしいくら、どう思っおもっても仕方しかたがないと思うおもう。
小野おのさんは返事へんじをする元気げんきも出でなかった。
「あの令嬢れいじょうがね。小野おのさん」「ええ」「あの令嬢れいじょうがねじゃいけない。あの令嬢れいじょうをだ。――見みたよ」「宿やどの二に階かいからですか」「二に階かいからも見みた」 もの字じが少しすこし気きになる。
春雨はるさめの欄らんに出でて、連翹れんぎょうの花はなもろともに古いふるい庭にわを見下さみくだされた事ことは、とくの昔むかしに知っしっている。
今更いまさら引合ひきあいに出さだされても驚ろきおどろきはしない。
しかし二に階かいからもとなると剣呑けんのんだ。
そのほかにまだ見みられた事ことがあるにきまっている。
不断ふだんなら進んすすんで聞くきくところだが、何なんとなく空景気そらけいきを着けるつけるような心持こころもちがして、どこでと押おうを強くつよく出で損なっそこなったまま、二三にさん歩あゆみあるく。
「嵐山あらしやまへ行くいくところも見みた」「見みただけですか」「知らしらない人ひとに話はなしは出来できない。見みただけさ」「話しはなして見れみれば好かっよかったのに」 小野おのさんは突然とつぜん冗談じょうだんを云ういう。
にわかに景気けいきが好くよくなった。
「団子だんごを食っしょくっているところも見みた」「どこで」「やっぱり嵐山あらしやまだ」「それっ切りっきりですか」「まだ有るある。京都きょうとから東京とうきょうまでいっしょに来きた」「なるほど勘定かんじょうして見るみると同じおなじ汽車きしゃでしたね」「君きみが停車場ていしゃじょうへ迎えむかえに行っいったところも見みた」「そうでしたか」と小野おのさんは苦笑くしょうした。
「あの人ひとは東京とうきょうものだそうだね」「誰だれが……」と云いいい掛けかけて、小野おのさんは、眼鏡めがねの珠たまのはずれから、変へんに相手あいての横顔よこがおを覗き込んのぞきこんだ。
「誰だれが? 誰だれがとは」「誰だれが話しはなしたんです」 小野おのさんの調子ちょうしは存外ぞんがい落おちついている。
「宿屋やどやの下女げじょが話しはなした」「宿屋やどやの下女げじょが? 蔦屋つたやの?」 念ねんを押しおしたような、後あとが聞きききたいような、後あとがないのを確かめたしかめたいような様子ようすである。
「うん」と宗近むねちか君きみは云っいった。
「蔦屋つたやの下女げじょは……」「そっちへ曲るまがるのかい」「もう少しすこし、どうです、散歩さんぽは」「もう好いよい加減かげんに引き返そうひきかえそう。さあ大事だいじの紙かみ屑籠くずかご。落さおとさないように持っもって行くいくがいい」 小野おのさんは恭しくうやうやしく屑籠くずかごを受取っうけとった。
宗近むねちか君きみは飄然ひょうぜんとして去るさる。
一人ひとりになると急ぎいそぎたくなる。
急げいそげば早くはやく孤こ堂どう先生せんせいの家いえへ着くつく。
着くつくのはありがたくない。
孤こ堂どう先生せんせいの家いえへ急ぎいそぎたいのではない。
小野おのさんは何なんだか急ぎいそぎたいのである。
両手りょうては塞っふさがっている。
足あしは動いうごいている。
恩賜おんしの時計とけいは胴衣どういのなかで鳴っなっている。
往来おうらいは賑かにぎやかである。
――すべてのものを忘れわすれて、小野おのさんの頭あたまは急いいそいでいる。
早くはやくしなければならん。
しかしどうして早くはやくして好いよいか分らわからない。
ただ一昼夜いちちゅうやが十二じゅうに時間じかんに縮まっちぢまって、運命うんめいの車くるまが思うおもう方角ほうがくへ全速力ぜんそくりょくで廻転かいてんしてくれるよりほかに致し方いたしかたはない。
進んすすんで自然しぜんの法則ほうそくを破るやぶるほどな不料簡ふりょうけんは起さおこさぬつもりである。
しかし自然しぜんの方ほうで、少しすこしは事情じじょうを斟酌しんしゃくして、自分じぶんの味方みかたになって働はたらけらいてくれても好さよさそうなものだ。
そうなる事ことは受合うけあいだと保証ほしょうがつけば、観音かんのん様ようへ御百度ごひゃくどを踏んふんでも構わかまわない。
不動ふどう様ようへ護摩ごまを上げあげても宜しいよろしい。
耶蘇教やそきょうの信者しんじゃには無論むろんなる。
小野おのさんは歩きあるきながら神かみの必要ひつようを感じかんじた。
宗近むねちかと云ういう男おとこは学問がくもんも出来できない、勉強べんきょうもしない。
詩趣ししゅも解しかいしない。
あれで将来しょうらい何なんになる気きかと不思議ふしぎに思うおもう事ことがある。
何なんが出来るできるものかと軽けい蔑むさげすむ事こともある。
露骨ろこつでいやになる事こともある。
しかし今更いまさらのように考えかんがえて見るみると、あの態度たいどは自分じぶんにはとうてい出来できない態度たいどである。
出来できないからこちらが劣っおとっていると結論けつろんはせん。
世の中よのなかには出来できもせぬが、またしたくもない事ことがある。
箸はしの先さきで皿さらを廻すまわす芸当げいとうは出来るできるより出来できない方ほうが上品じょうぼんだと思うおもう。
宗近むねちかの言語げんご動作どうさは無論むろん自分じぶんには出来できにくい。
しかし出来できにくいから、かえって自分じぶんの名誉めいよだと今までいままでは心得こころえていた。
あの男おとこの前まえへ出るでると何なんだか圧迫あっぱくを受けるうける。
不愉快ふゆかいである。
個人こじんの義務ぎむは相手あいてに愉快ゆかいを与えるあたえるが専一せんいつと思うおもう。
宗近むねちかは社交しゃこうの第だい一いち要義ようぎにも通じつうじておらん。
あんな男おとこはただの世の中よのなかでも成功せいこうは出来できん。
外交官がいこうかんの試験しけんに落第らくだいするのは当り前あたりまえである。
しかしあの男おとこの前まえへ出でて感じるかんじる圧迫あっぱくは一種いっしゅ妙みょうである。
露骨ろこつから来るくるのか、単調たんちょうから来るくるのか、いわゆる昔むかし風かぜの率直そっちょくから来るくるのか、いまだに解剖かいぼうして見ようみようと企てくわだてた事ことはないがとにかく妙みょうである。
故意こいに自分じぶんを圧しおしつけようとしている景色けしきが寸毫すんごうも先方せんぽうに見えみえないのにこちらは何なんとなく感じかんじてくる。
ただ会釈えしゃくもなく思うおもうままを随意ずいいに振舞っふるまっている自然しぜんのなかから、どうだと云わいわぬばかりに圧迫あっぱくが顔かおを出すだす。
自分じぶんはなんだか気きが引けるひける。
あの男おとこに対したいしては済ますまぬ裏面りめんの義理ぎりもあるから、それが祟ったたって、徳義とくぎが制裁せいさいを加えるくわえるとのみ思いおもい通しとおして来きたがそればかりではけっしてない。
例えばたとえば天てんを憚からはばからず地ちを憚からはばからぬ山やまの、無頓着むとんちゃくに聳えそびえて、面白おもしろからぬと云わいわんよりは、美びくしく思えおもえぬ感じかんじである。
星ほしから墜つる露ろを、蕊ずいに受けうけて、可憐かれんの弁べんを、折々おりおりは、風かぜの音信おんしんと小川おがわへ流すながす。
自分じぶんはこんな景色けしきでなければ楽しいたのしいとは思えおもえぬ。
要するようするに宗近むねちかと自分じぶんとは檜山ひやまと花圃かほの差さで、本来ほんらいから性せいが合わあわぬから妙みょうな感じかんじがするに違いない。
性せいが合わあわぬ人ひとを、合わあわねばそれまでと澄しすましていた事こともある。
気の毒きのどくだと考えかんがえた事こともある。
情ないなさけないと軽けい蔑んさげすんだ事こともある。
しかし今日きょうほど羨しくうらやましく感じかんじた事ことはない。
高尚こうしょうだから、上品じょうぼんだから、自分じぶんの理想りそうに近いちかいから、羨ましいうらやましいとは夢ゆめにも思わおもわぬ。
ただあんな気分きぶんになれたらさぞよかろうと、今いまの苦しみくるしみに引き較べひきくらべて、急きゅうに羨ましくうらやましくなった。
藤尾ふじおには小夜子さよこと自分じぶんの関係かんけいを云い切っいいきってしまった。
あるとは云い切らいいきらない。
世話せわになった昔むかしの人ひとに、心細くこころぼそく附き添うつきそう小しょうさき影かげを、逢わあわぬ五ご年ねんを霞かすみと隔てへだてて、再びふたたび逢うあうたばかりの朦朧もうろうした間柄あいだがらと云い切っいいきってしまった。
恩おんを着るきるは情じょうの肌はだ、師しに渥きは弟子でしの分ぶん、そのほかには鳥とりと魚さかなとの関係かんけいだにないと云い切っいいきってしまった。
できるならばと辛しん防ぼうして来きた嘘うそはとうとう吐いはいてしまった。
ようやくの思おもうで吐いはいた嘘うそは、嘘うそでも立てたてなければならぬ。
嘘うそを実じつと偽わるいつわる料簡りょうけんはなくとも、吐くはくからは嘘うそに対したいして義務ぎむがある、責任せきにんが出るでる。
あからさまに云えいえば嘘うそに対したいして一生いっしょうの利害りがいが伴なっともなって来るくる。
もう嘘うそは吐けはけぬ。
二に重じゅうの嘘うそは神かみも嫌いやだと聞くきく。
今日きょうからは是非ぜひ共とも嘘うそを実じつと通用つうようさせなければならぬ。
それが何なんとなく苦しいくるしい。
これから先生せんせいの所ところへ行けいけばきっと二に重じゅうの嘘うそを吐かはかねばならぬような話はなしを持ちかけもちかけられるに違いない。
切り抜けるきりぬける手てはいくらもあるが、手て詰つめに出でられると跳ねはねつける勇気ゆうきはない。
もう少しすこし冷れい刻こくに生れうまれていれば何なんの雑作ぞうさもない。
法律上ほうりつじょうの問題もんだいになるような不都合ふつごうはしておらんつもりだから、判然はんぜん断わっことわってしまえばそれまでである。
しかしそれでは恩人おんじんに済ますまぬ。
恩人おんじんから逼らせまられぬうちに、自分じぶんの嘘うそが発覚はっかくせぬうちに、自然しぜんが早くはやく廻転かいてんして、自分じぶんと藤尾ふじおが公然こうぜん結婚けっこんするように運ばはこばなければならん。
――後あとは?
後あとは後あとから考えるかんがえる。
事実じじつは何なんよりも有効ゆうこうである。
結婚けっこんと云ういう事実じじつが成立せいりつすれば、万事ばんじはこの新しん事実じじつを土台どだいにして考え直さかんがえなおさなければならん。
この新しん事実じじつを一般いっぱんから認めみとめられれば、あとはどんな不都合ふつごうな犠牲ぎせいでもする。
どんなにつらい考え直しかんがえなおし方ほうでもする。
ただ機き一髪いっぱつと云ういう間際まぎわで、煩悶はんもんする。
どうする事ことも出来できぬ心こころが急くせく。
進むすすむのが怖いこわい。
退ぞくしりぞくのが厭いやだ。
早くはやく事件じけんが発展はってんすればと念じねんじながら、発展はってんするのが不ふ安心あんしんである。
したがって気楽きらくな宗近むねちかが羨ましいうらやましい。
万事ばんじを商量しょうりょうするものは一本調子いちぽんちょうしの人ひとを羨ましうらやましがる。
春はるは行くいく。
行くいく春はるは暮れるくれる。
絹きぬのごとき浅黄あさぎの幕まくはふわりふわりと幾いく枚ばいも空そらを離れはなれて地ちの上うえに被さっかぶさってくる。
払い退けるはらいのける風かぜも見えみえぬ往来おうらいは、夕暮ゆうぐれのなすがままに静まり返っしずまりかえって、蒼然そうぜんたる大地だいちの色いろは刻々こっこくに蔓つるって来るくる。
西にしの果かに用ようもなく薄うす焼けやけていた雲くもはようやく紫むらさきに変っかわった。
蕎麦屋そばやの看板かんばんにおかめの顔かおが薄暗くうすぐらく膨れふくれて、後あとから点けるつける灯あかりを今いまやと赤いあかい頬ほおに待つまつ向むかい横町よこちょうは、二に間ま足らあしらずの狭いせまい往来おうらいになる。
黄昏たそがれは細長くほそながく家いえと家いえの間まに落ちおちて、鎖さささぬ門もんを戸とごとにくぐる。
部屋へやのなかはなおさら暗いくらいだろう。
曲っきょくって左側ひだりがわの三さん軒のき目めまで来きた。
門構もんがまえと云ういう名なはつけられない。
往来おうらいをわずかに仕切るしきる格子戸こうしとをそろりと明けるあけると、なかは、ほのくらく近づくちかづく宵よいを、一段いちだんと刻んきざんで下したへ降りふりたような心持こころもちがする。
「御免ごめん」と云ういう。
静かしずかな声こえは落つおついた春はるの調子ちょうしを乱さみださぬほどに穏おだやかである。
幅はば一いち尺さしの揚板あげいたに、菱形ひしがたの黒いくろい穴あなが、椽えんの下したへ抜けぬけているのを眺めながめながら取次とりつぎをおとなしく待つまつ。
返事へんじはやがてした。
うんと云ういうのか、ああと云ういうのかはいと云ういうのか、さらに要領ようりょうを得とくぬ声こえである。
小野おのさんはやはり菱形ひしがたの黒いくろい穴あなを覗きのぞきながら取次とりつぎを待っまっている。
やがて障子しょうじの向むかいでずしんと誰だれか跳ね起きはねおきた様子ようすである。
怪しいあやしい普請ふしんと見えみえて根太ねだの鳴るなる音おとが手てに取るとるように聞えるきこえる。
例れいの壁紙かべがみ模様もようの襖ふすまが開くひらく。
二に畳たたみの玄関げんかんへ出でて来きたなと思うおもう間まもなく、薄暗いうすぐらい障子しょうじの影かげに、肉にくの落ちおちた孤こ堂どう先生せんせいの顔かおが髯ひげもろともに現われあらわれた。
平生へいぜいからあまり丈夫じょうぶには見えみえない。
骨ほねが細くほそく、躯むくろが細くほそく、顔かおはことさら細くほそく出来上っできあがったうえに、取るとる年ねんは争わあらそわれぬ雨あめと風かぜと苦労くろうとを吹きつけふきつけて、辛いつらい浮世うきよに、辛くつらくも取り留めとりとめた心こころさえ細くほそくなるばかりである。
今日きょうは一層いっそう顔色かおいろが悪いわるい。
得意とくいの髯ひげさえも尋常じんじょうには見えみえぬ。
黒いくろい隙間すきまを白いしろいのが埋めうめて、白いしろい隙間すきまを風かぜが通るとおる。
古ふるの人ひとは顎あごの下したまで影かげが薄いうすい。
一いち本ほんずつ吟味ぎんみして見るみると先生せんせいの髯ひげは一いち本ほんごとにひょろひょろしている。
小野おのさんは鄭てい寧ねいに帽ぼうを脱いぬいで、無言むごんのまま挨拶あいさつをする。
英吉利いぎりす刈かりの新式しんしきな頭あたまは、眇びょう然さたる「過去かこ」の前まえに落ちおちた。
径けい何十なんじゅう尺さしの円えんを描いえがいて、周囲しゅういに鉄てつの格子こうしを嵌めはめた箱ばこをいくつとなくさげる。
運命うんめいの玩弄がんろう児こはわれ先さきにとこの箱ばこへ這入るはいる。
円えんは廻りまわり出すだす。
この箱ばこにいるものが青空あおぞらへ近くちかく昇るのぼる時じ、あの箱ばこにいるものは、すべてを吸いすい尽すつくす大地だいちへそろりそろりと落ちおちて行くいく。
観覧車かんらんしゃを発明はつめいしたものは皮肉ひにくな哲学者てつがくしゃである。
英吉利いぎりす式しきの頭あたまは、この箱ばこの中なかでこれから雲くもへ昇ろうのぼろうとする。
心細いこころぼそい髯ひげに、世よを佗び古ふるりた記念きねんのためと、大事だいじに胡麻塩ごましおを振りふり懸けかけている先生せんせいは、あの箱ばこの中なかでこれから暗いくらい所ところへ落ちつこうおちつこうとする。
片々へんぺんが一いち尺さし昇れのぼれば片々へんぺんは一いち尺さし下がるさがるように運命うんめいは出来上っできあがっている。
昇るのぼるものは、昇りのぼりつつある自覚じかくを抱いいだいて、降りふりつつ夜よるに行くいくものの前まえに鄭てい寧ねいな頭あたまを惜おし気きもなく下げさげた。
これを神かみの作れるつくれるアイロニーあいろにーと云ういう。
「やあ、これは」と先生せんせいは機嫌きげんが好いよい。
運命うんめいの車くるまで降りるおりるものが、昇るのぼるものに出合うであうと自然しぜんに機嫌きげんがよくなる。
「さあ御ご上りのぼり」とたちまち座敷ざしきへ取っとって返すかえす。
小野おのさんは靴くつの紐ひもを解くとく。
解きほどき終らおわらぬ先さきに先生せんせいはまた出でてくる。
「さあ御ご上りのぼり」 座敷ざしきの真中まなかに、昼ひるを厭わいとわず延べのべた床ゆかを、壁際かべぎわへ押しやっおしやったあとに、新調しんちょうの座布団ざふとんが敷いしいてある。
「どうか、なさいましたか」「何なんだか、今朝けさから心持こころもちが悪くわるくってね。それでも朝あさのうちは我慢がまんしていたが、午うまからとうとう寝ねてしまった。今いまちょうどうとうとしていたところへ君きみが来きたので、待たしまたして御ご気の毒きのどくだった」「いえ、今いま格子こうしを開けあけたばかりです」「そうかい。何なんでも誰だれか来きたようだから驚いおどろいて出でて見みた」「そうですか、それは御ご邪魔じゃまをしました。寝ねていらっしゃれば好かっよかったですね」「なに大したたいした事ことはないから。――それに小夜さよも婆ばあさんもいないものだから」「どこかへ……」「ちょっと風呂ふろに行っいった。買物かいものかたがた」 床ゆかの抜殻ぬけがらは、こんもり高くたかく、這い出しはいだした穴あなを障子しょうじに向けむけている。
影かげになった方ほうが、薄暗くうすぐらく夜着よぎの模様もようを暈すぼかす上うえに、投げなげ懸けかけた羽織はおりの裏うらが、乏とぼししき光線こうせんをきらきらと聚めるあつめる。
裏うらは鼠ねずみの甲斐かい絹きぬである。
「少しすこしぞくぞくするようだ。羽織はおりでも着ようきよう」と先生せんせいは立ち上がるたちあがる。
「寝ねていらしったら好いよいでしょう」「いや少しすこし起きおきて見ようみよう」「何なんですかね」「風邪かぜでもないようだが、――なに大したたいした事こともあるまい」「昨夕さくゆう御ご出でになったのが悪かっわるかったですかね」「いえ、なに。――時じに昨夕さくゆうは大きにおおきに御ご厄介やっかい」「いいえ」「小夜さよも大変たいへん喜んよろこんで。御蔭みかげで好いよい保養ほようをした」「もう少しすこし閑かんだと、方々かたがたへ御供ごくをする事ことが出来るできるんですが……」「忙がしいいそがしいだろうからね。いや忙がしいいそがしいのは結構けっこうだ」「どうも御ご気の毒きのどくで……」「いや、そんな心配しんぱいはちっとも要らいらない。君きみの忙がしいいそがしいのは、つまり我々われわれの幸福こうふくなんだから」 小野おのさんは黙っだまった。
部屋へやはしだいに暗くくらくなる。
「時じに飯めしは食っしょくったかね」と先生せんせいが聞くきく。
「ええ」「食っしょくった?――食わくわなければ御ご上りのぼり。何になんにもないが茶漬ちゃづけならあるだろう」とふらふらと立ちたち懸けるかける。
締め切っしめきった障子しょうじに黒いくろい長いながい影かげが出来るできる。
「先生せんせい、もう好いよいんです。飯めしは済ましすまして来きたんです」「本当ほんとうかい。遠慮えんりょしちゃいかん」「遠慮えんりょしやしません」 黒いくろい影かげは折れおれて故このごとく低くひくくなる。
えがらっぽい咳せきが二につ三さんつ出るでる。
「咳せきが出でますか」「から――からっ咳せきが出でて……」と云いいい懸けるかける途端とたんにまた二につ三さんつ込み上げるこみあげる。
小野おのさんは憮然ぶぜんとして咳せきの終るおわるを待つまつ。
「横よこになって温まっあたたまっていらしったら好いよいでしょう。冷えるひえると毒どくです」「いえ、もう大丈夫だいじょうぶ。出でだすと一時いちじいけないんだがね。――年ねんを取るとると意気地いきちがなくなって――何なんでも若いわかいうちの事ことだよ」 若いわかいうちの事ことだとは今までいままで毎度まいど聞いきいた言葉ことばである。
しかし孤こ堂どう先生せんせいの口くちから聞いきいたのは今いまが始めはじめてである。
骨ほねばかりこの世このよに取り残さとりのこされたかと思うおもう人ひとの、疎らまばらな髯ひげを風塵ふうじんに託したくして、残喘ざんぜんに一昔ひとむかしと二に昔むかしを、互たがい違いに呼吸こきゅうする口くちから聞いきいたのは、少なくすくなくとも今いまが始めはじめてである。
子この鐘かねは陰かげに響いひびいてぼうんと鳴るなる。
薄暗いうすぐらい部屋へやのなかで、薄暗いうすぐらい人ひとからこの言葉ことばを聞いきいた小野おのさんは、つくづく若いわかいうちの事ことだと思っおもった。
若いわかいうちは二に度どとないと思っおもった。
若いわかいうち旨くうまくやらないと生涯しょうがいの損そんだと思っおもった。
生涯しょうがいの損そんをしてこの先生せんせいのように老朽ろうきゅうした時じの心持こころもちは定めてさだめて淋しかろうさびしかろう。
よくよくつまらないだろう。
しかし恩おんのある人ひとに済ますまぬ不義理ふぎりをして死ぬしぬまで寝ね醒せいが悪いわるいのは、損そんをした昔むかしを思い出すおもいだすより欝陶しいうっとうしいかも知れしれぬ。
いずれにしても若いわかいうちは二に度どとは来きない。
二に度どと来きない若いわかいうちにきめた事ことは生涯しょうがいきまってしまう。
生涯しょうがいきまってしまう事ことを、自分じぶんは今いまどっちかにきめなければならぬ。
今日きょう藤尾ふじおに逢うあう前まえに先生せんせいの所ところへ来きたら、あの嘘うそを当分とうぶん見合せみあわせたかも知れしれぬ。
しかし嘘うそを吐いはいてしまった今いまとなって見るみると致し方いたしかたはない。
将来しょうらいの運命うんめいは藤尾ふじおに任せまかせたと云っいって差しさし支しない。
――小野おのさんは心中しんじゅうでこう云ういう言訳いいわけをした。
「東京とうきょうは変っかわったね」と先生せんせいが云ういう。
「烈しいはげしい所ところで、毎日まいにち変っかわっています」「恐ろしいおそろしいくらいだ。昨夜さくやもだいぶ驚いおどろいたよ」「随分ずいぶん人ひとが出でましたから」「出でたねえ。あれでも知っしった人ひとには滅多めったに逢わあわないだろうね」「そうですね」と瞹眛に受けるうける。
「逢うあうかね」 小野おのさんは「まあ……」と濁しにごしかけたが「まあ、逢わあわない方ほうですね」と思い切っおもいきってしまった。
「逢わあわない。なるほど広いひろい所ところに違いない」と先生せんせいは大いにおおいに感心かんしんしている。
なんだか田舎いなか染みしみて見えるみえる。
小野おのさんは光沢こうたくの悪いわるい先生せんせいの顔かおから眼めを放しはなして、自分じぶんの膝元ひざもとを眺めながめた。
カフスかふすは真白まっしろである。
七宝しっぽうの夫婦ふうふ釦ぼたんは滑なめな淡紅色あわべにいろを緑みどりの上うえに浮かしうかして、華奢きゃしゃな金縁きんぶちのなかに暖かくあたたかく包まつつまれている。
背広せびろの地ちは品しなの好いよい英吉利いぎりす織おりである。
自己じこをまのあたりに物色ぶっしょくした時じ、小野おのさんは自己じこの住むすむべき世界せかいを卒然そつぜんと自覚じかくした。
先生せんせいに釣り込まつりこまれそうな際どいきわどいところで急きゅうに忘れ物わすれものを思い出しおもいだしたような気分きぶんになる。
先生せんせいには無論むろん分らわからぬ。
「いっしょにあるいたのも久しぶりひさしぶりだね。今年ことしでちょうど五ご年ねん目めになるかい」とさも可懐なつかげに話しかけるはなしかける。
「ええ五ご年ねん目めです」「五ご年ねん目めでも、十じゅう年ねん目めでも、こうして一いちつ所ところに住むすむようになれば結構けっこうさ。――小夜さよも喜んよろこんでいる」と後あとから継ぎ足しつぎたしたように一句いっくを付け添えつけそえた。
小野おのさんは早速さっそくの返事へんじを忘れわすれて、暗いくらい部屋へやのなかに竦るような気きがした。
「さっき御嬢ごじょうさんが御ご出ででした」と仕方しかたがないから渡しわたし込むごむ。
「ああ、――なに急ぐいそぐ事ことでも無かっなかったんだが、もしや暇ひまがあったらいっしょに連れつれて行っいって買物かいものをして貰おうもらおうと思っおもってね」「あいにく出掛けでかけだったものですから」「そうだってね。飛んとんだ御邪魔ごじゃまをしたろう。どこぞ急用きゅうようでもあったのかい」「いえ――急用きゅうようでもなかったんですが」と相手あいては少々しょうしょう言い淀むいいよどむ。
先生せんせいは追窮ついきゅうしない。
「はあ、そうかい。そりゃあ」と漠々ばくばくたる挨拶あいさつをした。
挨拶あいさつが漠々ばくばくたると共ともに、部屋へやのなかも朦朧もうろうと取締とりしまりがなくなって来るくる。
今宵こよいは月つきだ。
月つきだが、まだ間まがある。
のに日ひは落ちおちた。
床ゆかは一間いちけんを申訳もうしわけのために濃いこい藍あいの砂壁すなかべに塗り立てぬりたてた奥おくには、先生せんせいが秘蔵ひぞうの義董ぎとうの幅はばが掛かっかかっていた。
唐代とうだいの衣冠いかんに蹣跚まんさんの履を危うくあやうく踏んふんで、だらしなく腕うでに巻きつけまきつけた長いながい袖そでを、童子どうじの肩かたに凭しもたした酔態すいたいは、この家いえの淋しさびしさに似にず、春王はるおうの四よん月つきに叶うかなう楽天家らくてんかである。
仰せおおせのごとく額がくをかくす冠かんの、黒いくろい色いろが著るきるしく目めについたのは今いま先さきの事ことであったに、ふと見るみると、纓えいか飾かざりか、紋切もんきり形かたちに左右さゆうに流すながす幅広はばひろの絹きぬさえ、ぼんやりと近づくちかづく宵よいを迎えむかえて、来るくる夜よるに紛れ込もうまぎれこもうとする。
先生せんせいも自分じぶんもぐずぐずすると一いちつ穴あなへはまって、影かげのように消えきえて行きいきそうだ。
「先生せんせい、御ご頼らいの洋灯ようとうの台だいを買っかって来きました」「それはありがたい。どれ」 小野おのさんは薄暗いうすぐらいなかを玄関げんかんへ出でて、台だいと屑籠くずかごを持っもってくる。
「はあ――何なんだか暗くくらくってよく見えみえない。灯火とうかを点けつけてから緩かんくり拝見はいけんしよう」「私わたくしが点けつけましょう。洋灯ようとうはどこにありますか」「気の毒きのどくだね。もう帰っかえって来るくる時分じぶんだが。じゃ椽えん側がわへ出るでると右みぎの戸袋とぶくろのなかにあるから頼もうたのもう。掃除そうじはもうしてあるはずだ」 薄暗いうすぐらい影かげが一いちつ立ったって、障子しょうじをすうと明けるあける。
残るのこる影かげはひそかに手てを拱いこまぬいて動かうごかぬほどを、夜よるは襲っおそって来るくる。
六ろく畳たたみの座敷ざしきは淋しいさびしい人ひとを陰気いんきに封じ込めふうじこめた。
ごほんごほんと咳せきをせく。
やがて椽えんの片隅かたすみで擦るする燐寸まっちの音おとと共ともに、咳せきはやんだ。
明るいあかるいものは室むろのなかに動いうごいて来るくる。
小野おのさんは洋よう袴はかまの膝ひざを折っおって、五ご分ぶん心こころを新らしいあたらしい台だいの上うえに載せるのせる。
「ちょうどよく合うあうね。据すえりがいい。紫檀したんかい」「模擬もぎでしょう」「模擬もぎでも立派りっぱなものだ。代だいは?」「何なんようござんす」「よくはない。いくらかね」「両方りょうほうで四よん円えん少しすこしです」「四よん円えん。なるほど東京とうきょうは物ものが高いたかいね。――少しすこしばかりの恩給おんきゅうでやって行くいくには京都きょうとの方ほうが遥かはるかに好いよいようだ」 二三にさん年ねん前まえと違っちがって、先生せんせいは些さ額がくの恩給おんきゅうとわずかな貯蓄ちょちくから上がるあがる利子りしとで生活せいかつして行かいかねばならぬ。
小野おのさんの世話せわをした時じとはだいぶ違うちがう。
事ことに依れよれば小野おのさんの方ほうから幾分いくぶんか貢いみついで貰いもらいたいようにも見えるみえる。
小野おのさんは畏まっかしこまって控えひかえている。
「なに小夜さよさえなければ、京都きょうとにいても差しさし支しないんだが、若いわかい娘むすめを持つもつとなかなか心配しんぱいなもので……」と途中とちゅうでちょっと休んやすんで見せるみせる。
小野おのさんは畏まっかしこまったまま応じおうじなかった。
「私わたくしなどはどこの果かで死のうしのうが同じおなじ事ことだが、後あとに残っのこった小夜さよがたった一人ひとりで可哀想かわいそうだからこの年ねんになって、わざわざ東京とうきょうまで出掛けでかけて来きたのさ。――いかな故郷こきょうでももう出でてから二十にじゅう年ねんにもなる。知合しりあいも交際こうさいもない。まるで他国たこくと同様どうようだ。それに来きて見るみると、砂すなが立つたつ、埃ほこりが立つたつ。雑沓ざっとうはする、物価ぶっかは貴しとうとし、けっして住みすみ好いよいとは思わおもわない。……」「住みすみ好いよい所ところではありませんね」「これでも昔むかしは親類しんるいも二三にさん軒のきはあったんだが、長いながい間ま音信おんしん不通ふつうにしていたものだから、今いまでは居所きょしょも分らわからない。不断ふだんはさほどにも思わおもわないが、こうやって、半日はんじつでも寝るねると考えるかんがえるね。何なんとなく心細いこころぼそい」「なるほど」「まあ御前ごぜんが傍そばにいてくれるのが何なんよりの依頼いらいだ」「御ご役やくにも立ちたちませんで……」「いえ、いろいろ親切しんせつにしてくれてまことにありがたい。忙しいいそがしいところを……」「論文ろんぶんの方ほうがないと、まだ閑かんなんですが」「論文ろんぶん。博士論文はかせろんぶんだね」「ええ、まあそうです」「いつ出すだすのかね」 いつ出すだすのか分らわからなかった。
早くはやく出さださなければならないと思うおもう。
こんな引っ掛りひっかかりがなければ、もうよほど書けかけたろうにと思うおもう。
口くちでは「今いま一生懸命いっしょうけんめいに書いかいてるところです」と云ういう。
先生せんせいは襦袢じゅばんの袖そでから手てを抜いぬいて、素肌すはだの懐ふところに肘ひじまで収めおさめたまま、二三にさん度ど肩かたをゆすって「どうも、ぞくぞくする」と細長いほそながい髯ひげを襟えりのなかに埋めうめた。
「御ご寝みやすみなさい。起きおきていらっしゃると毒どくですから。私わたくしはもう御ご暇ひまをします」「なに、まあ御ご話しはなし。もう小夜さよが帰るかえる時分じぶんだから。寝ねたければ私わたくしの方ほうで御免ごめん蒙っこうむって寝るねる。それにまだ話はなしも残っのこっているから」 先生せんせいは急きゅうに胸むねの中なかから、手てを出しだして膝ひざの上うえへ乗せのせて、双方そうほうを一度いちどに打っうった。
「まあ緩くゆるくりするが好いよい。今いま暮れくれたばかりだ」 迷惑めいわくのうちにも小野おのさんはさすが気の毒きのどくに思っおもった。
これほどまでに自分じぶんを引き留めひきとめたいのは、ただ当年とうねんの可懐なつか味あじや、一夕いっせきの無聊ぶりょうではない。
よくよく行く先ゆくさきが案じあんじられて、亡きなき後あとの安心あんしんを片時かたときも早くはやく、脈みゃくの打つうつ手てに握りにぎりたいからであろう。
実じつは夕食ゆうしょくもまだ食わくわない。
いれば耳みみを傾けかたむけたくない話はなしが出るでる。
腰こしだけはとうから宙ちゅうに浮いういている。
しかし先生せんせいの様子ようすを見るみると無理むりに洋よう袴はかまの膝ひざを伸すのばす訳わけにもいかない。
老人ろうじんは病やまいを力めりきめて、わがために強いてしいて元気げんきをつけている。
親しみしたしみやすき蒲団ふとんは片寄せかたよせられて、穴あなばかりになった。
温気うんきは昔むかしの事ことである。
「時じに小夜さよの事ことだがね」と先生せんせいは洋灯ようとうの灯あかりを見みながら云ういう。
五ご分ぶん心こころを蒲鉾形かまぼこがたに点るともる火屋ほやのなかは、壺つぼに充みつるる油あぶらを、物もの言わいわず吸い上げすいあげて、穏かおだやかな※の舌したが、暮れくれたばかりの春はるを、動かうごかず守るまもる。
人ひと佗てかこて淋しさびしき宵よいを、ただ一いち点てんの明きあきに償うつぐなう。
燈あかり灯あかりは希望きぼうの影かげを招くまねく。
「時じに小夜さよの事ことだがね。知っしっての通りとおりああ云ういう内気うちきな性質せいしつではあるし、今いまの女おんな学生がくせいのようにハイカラはいからな教育きょういくもないからとうてい気きにもいるまいが、……」まで来きて先生せんせいは洋灯ようとうから眼めを放しはなした。
眼めは小野おのさんの方ほうに向うむこう。
何なんとか取り合わとりあわなければならない。
「いいえ――どうして――」と受けうけて、ちょっと句くを切っきって見せみせたが、先生せんせいは依然いぜんとして、こっちの顔かおから眸ひとみを動かさうごかさない。
その上口のぼりぐちを開かひらかずに何なんだか待っまっている。
「気きにいらんなんて――そんな事ことが――あるはずがないですが」とぽつぽつに答えるこたえる。
ようやくに納得なっとくした先生せんせいは先さきへ進むすすむ。
「あれも不憫ふびんだからね」 小野おのさんは、そうだとも、そうでないとも云わいわなかった。
手ては膝ひざの上うえにある。
眼めは手ての上うえにある。
「私わたくしがこうして、どうかこうかしているうちは好いよい。好いよいがこの通りとおりの身体しんたいだから、いつ何時なんじどんな事ことがないとも限らかぎらない。その時じが困るこまる。兼てかねての約束やくそくはあるし、御前ごぜんも約束やくそくを反故ほごにするような軽薄けいはくな男おとこではないから、小夜さよの事ことは私わたくしがいない後あとでも世話せわはしてくれるだろうが……」「そりゃ勿論もちろんです」と云わいわなければならない。
「そこは私わたくしも安心あんしんしている。しかし女おんなは気きの狭いせまいものでね。アハハハハあはははは困るこまるよ」 何なんだか無理むりに笑っわらったように聞えるきこえる。
先生せんせいの顔かおは笑っわらったためにいよいよ淋しくさびしくなった。
「そんなに御ご心配しんぱいなさる事ことも要らいらんでしょう」と覚束なくおぼつかなく云ういう。
言葉ことばの腰こしがふらふらしている。
「私わたくしはいいが、小夜さよがさ」 小野おのさんは右みぎの手てで洋服ようふくの膝ひざを摩りすり始めはじめた。
しばらくは二人ふたりとも無言むごんである。
心こころなき灯火とうかが双方そうほうを半分はんぶんずつ照らすてらす。
「御前ごぜんの方ほうにもいろいろな都合つごうはあるだろう。しかし都合つごうはいくら立ったったって片づくかたづくものじゃない」「そうでも無いないです。もう少しすこしです」「だって卒業そつぎょうして二に年ねんになるじゃないか」「ええ。しかしもう少しすこしの間まは……」「少しすこしって、いつまでの事ことかい。そこが判然はんぜんしていれば待っまっても好いよいさ。小夜さよにも私わたくしからよく話しはなして置くおく。しかしただ少しすこしでは困るこまる。いくら親おやでも子こに対したいして幾分いくぶんか責任せきにんがあるから。――少しすこしって云ういうのは博士論文はかせろんぶんでも書き上げかきあげてしまうまでかい」「ええ、まずそうです」「だいぶ久しくひさしく書いかいているようだが、まあいつごろ済むすむつもりかね。大体だいたい」「なるべく早くはやく書いかいてしまおうと思っおもって骨ほねを折っおっているんですが。何分なんふん問題もんだいが大きいおおきいものですから」「しかし大体だいたいの見当けんとうは着くつくだろう」「もう少しすこしです」「来月らいげつくらいかい」「そう早くはやくは……」「来々らい月つきはどうだね」「どうも……」「じゃ、結婚けっこんをしてからにしたら好かろうよかろう、結婚けっこんをしたから論文ろんぶんが書けかけなくなったと云ういう理由りゆうも出でて来きそうにない」「ですが、責任せきにんが重くおもくなるから」「いいじゃないか、今までいままで通りとおりに働いはたらいてさえいれば。当分とうぶんの間ま、我々われわれは経済上けいざいじょう、君きみの世話せわにならんでもいいから」 小野おのさんは返事へんじのしようがなかった。
「収入しゅうにゅうは今いまどのくらいあるのかね」「わずかです」「わずかとは」「みんなで六十ろくじゅう円えんばかりです。一人ひとりがようようです」「下宿げしゅくをして?」「ええ」「そりゃ馬鹿ばか気きている。一人ひとりで六十ろくじゅう円えん使うつかうのはもったいない。家いえを持っもっても楽らくに暮せるくらせる」 小野おのさんはまた返事へんじのしようがなかった。
東京とうきょうは物価ぶっかが高いたかいと云いいいながら、東京とうきょうと京都きょうとの区別くべつを知らしらない。
鳴海なるみ絞しぼりの兵児帯へこおびを締めしめて芋粥いもがゆに寒ささむさを凌いしのいだ時代じだいと、大学だいがくを卒業そつぎょうして相当そうとうの尊敬そんけいを衣ころも帽ぼうの末すえに払わはらわねばならぬ今いまの境遇きょうぐうとを比較ひかくする事ことを知らしらない。
書物しょもつは学者がくしゃに取っとって命いのちから二に代目だいめである。
按摩あんまの杖つえと同じくおなじく、無くっなくっては世渡りよわたりが出来できぬほどに大切たいせつな道具どうぐである。
その書物しょもつは机つくえの上うえへ湧いわいてでも出るでる事ことか、中なかには人ひとの驚くおどろくような奮発ふんぱつをして集めあつめている。
先生せんせいはそんな費用ひようが、どれくらいかかるかまるで一切いっさい空そらである。
したがって、おいそれと簡単かんたんな返事へんじが出来できない。
小野おのさんは何なんを思っおもったか、左手ひだりてを畳たたみへつかえると、右みぎを伸しのして洋灯ようとうの心こころをぱっと出しだした。
六ろく畳たたみの小しょう地球ちきゅうが急きゅうに東ひがしの方ほうへ廻転かいてんしたように、一度いちどは明るくあかるくなる。
先生せんせいの世界観せかいかんが瞬まどかと共ともに変るかわるように明るくあかるくなる。
小野おのさんはまだ螺旋らせんから手てを放さはなさない。
「もう好いよい。そのくらいで好いよい。あんまり出すだすと危ないあぶない」と先生せんせいが云ういう。
小野おのさんは手てを放しはなした。
手てを引くひくときに、自分じぶんでカフスかふすの奥おくを腕うでまで覗いのぞいて見るみる。
やがて背広せびろの表ひょう隠いん袋ふくろから、真白まっしろな手巾しゅきんを撮み出しつまみだして丁寧ていねいに指頭しとうの油あぶらを拭き取っふきとった。
「少しすこし灯あかりが曲っきょくっているから……」と小野おのさんは拭き取っふきとった指頭しとうを鼻はなの先さきへ持っもって来きてふんふんと二三にさん度ど嗅いかいだ。
「あの婆ばあさんが切るきるといつでも曲るまがる」と先生せんせいは股またの開いひらいた灯あかりを見みながら云ういう。
「時じにあの婆ばあさんはどうです、御ご間に合いまにあいますか」「そう、まだ礼れいも云わいわなかったね。だんだん御ご手数てすうを掛けかけて……」「いいえ。実じつは年ねんを取っとってるから働はたらけらけるかと思っおもったんですが」「まあ、あれで結構けっこうだ。だんだん慣れなれてくる様子ようすだから」「そうですか、そりゃ好いよい按排あんばいでした。実じつはどうかと思っおもって心配しんぱいしていたんですが。その代りかわり人間にんげんはたしかだそうです。浅井あさいが受合っうけあって行っいったんですから」「そうかい。時じに浅井あさいと云えいえば、どうしたい。まだ帰らかえらないかい」「もう帰るかえる時分じぶんですが。ことに因るよると今日きょうくらいの汽車きしゃで帰っかえって来るくるかも知れしれません」「一昨いっさくかの手紙てがみには、二三にさん日ひ中なかに帰るかえるとあったよ」「はあ、そうでしたか」と云っいったぎり、小野おのさんは捩じ上げねじあげた五ご分ぶん心こころの頭あたまを無心むしんに眺めながめている。
浅井あさいの帰京ききょうと五ご分ぶん心こころの関係かんけいを見極めんみきわめんと思索しさくするごとくに眸子ぼうしは一いち点てんに集っつどった。
「先生せんせい」と云ういう。
顔かおは先生せんせいの方ほうへ向けむけ易えかえた。
例れいになく口くちの角かくにいささかの決心けっしんを齎しもたらしている。
「何なんだい」「今いまの御ご話はなしですね」「うん」「もう二三にさん日ひ待っまって下さいくださいませんか」「もう二三にさん日ひ」「つまり要領ようりょうを得とくた御ご返事へんじをする前まえにいろいろ考えかんがえて見みたいですから」「そりゃ好いよいとも。三さん日ひでも四よん日ひでも、――一いち週間しゅうかんでも好いよい。事ことが判然はんぜんさえすれば安心あんしんして待っまっている。じゃ小夜さよにもそう話しはなして置こうおこう」「ええ、どうか」と云いいいながら恩賜おんしの時計とけいを出すだす。
夏なつに向うむこう永いながい日影ひかげが落ちおちてから、夜よるの針はりは疾くとく回るまわるらしい。
「じゃ、今夜こんやは失礼しつれいします」「まあ好いよいじゃないか。もう帰っかえって来るくる」「また、すぐ来きますから」
「それでは――御ご疎まばら怱であった」 小野おのさんはすっきりと立つたつ。
先生せんせいは洋灯ようとうを執るとる。
「もう、どうぞ。分りわかります」と云いいいつつ玄関げんかんへ出るでる。
「やあ、月夜つきよだね」と洋灯ようとうを肩かたの高さたかさに支えささえた先生せんせいがいう。
「ええ穏おだやかな晩ばんです」と小野おのさんは靴くつの紐ひもを締めしめつつ格子こうしから往来おうらいを見るみる。
「京都きょうとはなお穏おだやかだよ」 屈んかがんでいた小野おのさんはようやく沓脱くつぬぎに立ったった。
格子こうしが明くあく。
華奢きゃしゃな体躯たいくが半分はんぶんばかり往来おうらいへ出るでる。
「清三せいぞう」と先生せんせいは洋灯ようとうの影かげから呼びよび留めとめた。
「ええ」と小野おのさんは月つきのさす方ほうから振り向いふりむいた。
「なに別段べつだん用ようじゃない。――こうして東京とうきょうへ出掛けでかけて来きたのは、小夜さよの事ことを早くはやく片づけかたづけてしまいたいからだと思っおもってくれ。分っわかったろうな」と云ういう。
小野おのさんは恭しくうやうやしく帽子ぼうしを脱ぐぬぐ。
先生せんせいの影かげは洋灯ようとうと共ともに消えきえた。
外そとは朧おぼろである。
半ばなかば世よを照らしてらし、半ばなかば世よを鎖すさす光ひかりが空そらに懸るかかる。
空そらは高きたかきがごとく低きひくきがごとく据すえらぬ腰こしを、更けふけぬ宵よいに浮かしうかしている。
懸るかかるものはなおさらふわふわする。
丸いまりい縁えんに黄きを帯びおびた輪わをぼんやり膨らましふくらまして輪廓りんかくも確かくでない。
黄きな帯おびは外囲がいいに近くちかく色いろを失っうしなって、黒ずんくろずんだ藍あいのなかに煮に染出すそめだす。
流れれながれれば月つきも消えきえそうに見えるみえる。
月つきは空そらに、人ひとは地ちに紛れまぎれやすい晩ばんである。
小野おのさんの靴くつは、湿っぽいしめっぽい光ひかりを憚かるはばかるごとく、地ちに落すおとす踵かかとを洋よう袴はかまの裾すそに隠しかくして、小路こうじを蕎麦屋そばやの行灯あんどんまで抜け出しぬけだして左ひだりへ折れおれた。
往来おうらいは人ひとの香こうがする。
地ちに※く影かげは長くながくはない。
丸まっまるまって動いうごいて来るくる。
こんもりと揺れゆれて去るさる。
下駄げたの音おとは朧おぼろに包まつつまれて、霜しものようには冴えさえぬ。
撫でなでて通るとおる電信柱でんしんはしらに白いしろい模様もようが見えみえた。
すかす眸ひとみを不審ふしんと据えるすえると白墨はくぼくの相々そう傘かさが映るうつる。
それほどの浅いあさい夜よるを、昼ひるから引っ越しひっこして来きた霞かすみが立てたて籠めるこめる。
行くいく人ひとも来るくる人ひとも何なんとなく要領ようりょうを得とくぬ。
逃れのがれば靄もやのなか、出れでれば月つきの世界せかいである。
小野おのさんは夢ゆめのように歩あゆみを移しうつして来きた。
※々として独りひとり行くいくと云ういう句くに似にている。
実じつは夕食ゆうしょくもまだ食わくわない。
いつもなら通りとおりへ出るでると、すぐ西洋せいよう料理りょうりへでも飛び込むとびこむ料簡りょうけんで、得意とくいな襞ひだの正しいただしい洋よう袴はかまを、誇り顔ほこりがおに運ぶはこぶはずである。
今宵こよいはいつまで立ったっても腹はらも減らへらない。
牛乳ぎゅうにゅうさえ飲むのむ気きにならん。
陽気ようきは暖かあたたか過ぎるすぎる。
胃いは重いおもい。
引くひく足あしは千鳥ちどりにはならんが、確としかと踏答えこたえがないような心持こころもちである。
そと卸すおろすせいかも知れしれぬ。
さればとて、こつりと大地だいちへ当てるあてる気きにはならん。
巡査じゅんさのようにあるけたなら世よに朧おぼろは要らいらぬ。
次つぎに心配しんぱいは要らいらぬ。
巡査じゅんさだから、ああも歩けるあるける。
小野おのさんには――ことに今夜こんやの小野おのさんには――巡査じゅんさの真似まねは出来できない。
なぜこう気きが弱いよわいだろう――小野おのさんは考えかんがえながら、ふらふら歩いあるいている。
――なぜこう気きが弱いよわいだろう。
頭脳ずのうも人ひとには負けまけぬ。
学問がくもんも級友きゅうゆうの倍ばいはある。
挙止きょし動作どうさから衣服いふくの着こなしきこなし方ほうに至っいたって、ことごとく粋いきを尽くしつくしていると自信じしんしている。
ただ気きが弱いよわい。
気きが弱いよわいために損そんをする。
損そんをするだけならいいが乗っのっ引きひきならぬ羽目はめに陥るおちいる。
水みずに溺れるおぼれるものは水みずを蹴るけると何なんかの本ほんにあった。
背せに腹はらは替えかえられぬ今いまの場合ばあい、と諦めあきらめて蹴っけってしまえばそれまでである。
が…… 女おんなの話し声はなしごえがする。
人影ひとかげは二につ、路みちの向う側むこうがわをこちらへ近づいちかづいて来るくる。
吾妻あずま下駄げたと駒下駄こまげたの音おとが調子ちょうしを揃えそろえて生温くなまぬるく宵よいを刻んきざんで寛ひろしなるなかに、話し声はなしごえは聞えるきこえる。
「洋灯ようとうの台だいを買っかって来きて下さっくださったでしょうか」と一人ひとりが云ういう。
「そうさね」と一人ひとりが応えるこたえる。
「今頃いまごろは来きていらっしゃるかも知れしれませんよ」と前まえの声こえがまた云ういう。
「どうだか」と後あとの声こえがまた応えるこたえる。
「でも買っかって行くいくとおっしゃったんでしょう」と押すおす。
「ああ。――何なんだか暖かあたたか過ぎるすぎる晩ばんだこと」と逃げるにげる。
「御ご湯ゆのせいでござんすよ。薬湯やくとうは温まりあたたまりますから」と説明せつめいする。
二人ふたりの話はなしはここで小野おのさんの向側むかいがわを通り越しとおりこした。
見送るみおくると並ぶならぶ軒下のきしたから頭あたまの影かげだけが斜しゃに出でて、蕎麦屋そばやの方ほうへ動いうごいて行くいく。
しばらく首くびを捩じ向けねじむけて、立ち留ったちどまっていた小野おのさんは、また歩きあるき出しだした。
浅井あさいのように気きの毒気どくけの少ないすくないものなら、すぐ片づけるかたづける事ことも出来るできる。
宗近むねちかのような平気へいきな男おとこなら、苦くもなくどうかするだろう。
甲野こうのなら超然ちょうぜんとして板挟みいたばさみになっているかも知れしれぬ。
しかし自分じぶんには出来できない。
向むかいへ行っいって一歩いちほ深くふかく陥りおちいり、こっちへ来きて一歩いちほ深くふかく陥るおちいる。
双方そうほうへ気兼きがねをして、片足かたあしずつ双方そうほうへ取らとられてしまう。
つまりは人情にんじょうに絡んからんで意思いしに乏しいとぼしいからである。
利害りがい?
利害りがいの念ねんは人情にんじょうの土台どだいの上うえに、後あとから被せかぶせた景気けいきの皮かわである。
自分じぶんを動かすうごかす第だい一いちの力ちからはと聞かきかれれば、すぐ人情にんじょうだと答えるこたえる。
利害りがいの念ねんは第だい三さんにも第だい四よんにも、ことによったら全くまったくなくっても、自分じぶんはやはり同様どうようの結果けっかに陥るおちいるだろうと思うおもう。
――小野おのさんはこう考えかんがえて歩いあるいて行くいく。
いかに人情にんじょうでも、こんなに優柔ゆうじゅうではいけまい。
手てを拱いこまぬいて、自然しぜんの為すなすがままにして置いおいたら、事件じけんはどう発展はってんするか分らわからない。
想像そうぞうすると怖しくおそろしくなる。
人情にんじょうに屈託くったくしていればいるほど、怖しいおそろしい発展はってんを、眼めのあたりに見るみるようになるかもしれぬ。
是非ぜひここで、どうかせねばならん。
しかし、まだ二三にさん日ひの余裕よゆうはある。
二三にさん日ひよく考えかんがえた上うえで決断けつだんしても遅くおそくはない。
二三にさん日ひ立ったって善いよい智慧ちえが出でなければ、その時じこそ仕方しかたがない。
浅井あさいを捕えとらえて、孤こ堂どう先生せんせいへの談判だんぱんを頼んたのんでしまう。
実じつはさっきもその考かんがえで、浅井あさいの帰りかえりを勘定かんじょうに入れいれて、二三にさん日ひの猶予ゆうよをと云っいった。
こんな事ことは人情にんじょうに拘泥こうでいしない浅井あさいに限るかぎる。
自分じぶんのような情じょうに篤いあちいものはとうてい断わりことわり切れきれない。
――小野おのさんはこう考えかんがえて歩いあるいて行くいく。
月つきはまだ天てんのなかにいる。
流れながれんとして流るるながるる気色けしきも見えみえぬ。
地ちに落つるおつる光ひかりは、冴さえゆる暇ひまなきを、重じゅうたき温気うんきに封じ込めふうじこめられて、限りなきかぎりなき大おお夢ゆめを半はん空そらに曳くひく。
乏しいとぼしい星ほしは雲くもを潜っもぐって向側むかいがわへ抜けぬけそうに見えるみえる。
綿めんのなかに砲弾ほうだんを打ち込んうちこんだのが辛うじてかろうじて輝やくかがやくようだ。
静かしずかに重いおもい宵よいである。
小野おのさんはこのなかを考えかんがえながら歩いあるいて行くいく。
今夜こんやは半鐘はんしょうも鳴るなるまい。
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