虞美人草

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六

第 6 章
丸顔まるがおに愁うれい少しすこし、颯さっと映るうつる襟えり地ちの中なかから薄うす鶯うぐいすの蘭らんの花はなが、幽ゆうなる香こうを肌はだに吐いはいて、着けつけたる人ひとの胸むねの上うえにこぼれかかる。
糸子いとこはこんな女おんなである。
人ひとに示すしめすときは指ゆびを用いるもちいる。
四よんつを掌てのひらに折っおって、余るあまる第だい二に指ゆびのありたけにあれぞと指すさす時じ、指すさす手てはただ一筋ひとすじの紛れまぎれなく明らかあきらかである。
五ご本ほんの指ゆびをあれ見よみよとことごとく伸ばすのばすならば、西東にしひがしは当るあたるとも、当るあたると思わおもわるる感じかんじは鈍くにぶくなる。
糸子いとこは五指ごしを並べならべたような女おんなである。
受けるうける感じかんじが間違っまちがっているとは云えいえぬ。
しかし変へんだ。
物もの足らあしらぬとは指点してんす指ゆびの短たんかきに過すぎぐる場合ばあいを云ういう。
足り余るたりあまるとは指点してんす指ゆびの長きながきに失するしっする時じであろう。
糸子いとこは五指ごしを同時どうじに並べならべたような女おんなである。
足るたるとも云えいえぬ。
足り余るたりあまるとも評さひょうされぬ。
人ひとに指点してんす指ゆびの、細ほそそりと爪先つまさきに肉にくを落すおとすとき、明かあきらかなる感じかんじは次第しだいに爪先つまさきに集まっあつまって焼点しょうてんを構かまえ成るなる。
藤尾ふじおの指ゆびは爪先つまさきの紅くれないを抜け出でぬけいでて縫針ぬいはりの尖がれとがれるに終るおわる。
見るみるものの眼めは一度いちどに痛いいたい。
要領ようりょうを得とくぬものは橋はしを渡らわたらぬ。
要領ようりょうを得とく過ぎすぎたものは欄干らんかんを渡るわたる。
欄干らんかんを渡るわたるものは水みずに落ちるおちる恐れおそれがある。
藤尾ふじおと糸子いとこは六ろく畳たたみの座敷ざしきで五指ごしと針はりの先さきとの戦争せんそうをしている。
すべての会話かいわは戦争せんそうである。
女おんなの会話かいわはもっとも戦争せんそうである。
「しばらく御ご目めに懸りかかりませんね。よくいらしった事こと」と藤尾ふじおは主人しゅじん役やくに云ういう。
「父ちち一人ひとりで忙がしいいそがしいものですから、つい御無沙汰ごむさたをして……」「博覧会はくらんかいへもいらっしゃらないの」「いいえ、まだ」「向島むこうじまは」「まだどこへも行かいかないの」 宅たくにばかりいて、よくこう満足まんぞくしていられると藤尾ふじおが思うおもう。
――糸子いとこの眼尻めじりには答えるこたえるたびに笑わらいの影かげが翳すかざす。
「そんなに御用ごようが御ご在りありなの」「なに大したたいした用ようじゃないんですけれども……」 糸子いとこの答こたえは大概たいがい半分はんぶんで切れきれてしまう。
「少しすこしは出でないと毒どくですよ。春はるは一いち年ねんに一度いちどしか来きませんわ」「そうね。わたしもそう思っおもってるんですけれども……」「一いち年ねんに一度いちどだけれども、死ねしねば今年ことしぎりじゃあありませんか」「ホホホホほほほほ死んしんじゃつまらないわね」 二人ふたりの会話かいわは互たがいに、死しと云ういう字じを貫いつらぬいて、左右さゆうに飛び離れとびはなれた。
上野うえのは浅草あさくさへ行くいく路みちである。
同時どうじに日本橋にほんばしへ行くいく路みちである。
藤尾ふじおは相手あいてを墓はかの向側むかいがわへ連れつれて行こういこうとした。
相手あいては墓はかに向側むかいがわのある事ことさえ知らしらなかった。
「今いまに兄あにが御ご嫁よめでも貰っもらったら、出でてあるきますわ」と糸子いとこが云ういう。
家庭的かていてきの婦女ふじょは家庭的かていてきの答えこたえをする。
男おとこの用ようを足すたすために生れうまれたと覚悟かくごをしている女おんなほど憐れあわれなものはない。
藤尾ふじおは内心ないしんにふんと思っおもった。
この眼めは、この袖そでは、この詩しとこの歌うたは、鍋なべ、炭取すみとりの類るいではない。
美びくしい世よに動くうごく、美しいうつくしい影かげである。
実用じつようの二に字じを冠らかぶらせられた時じ、女おんなは――美びくしい女おんなは――本来ほんらいの面目めんぼくを失っうしなって、無上むじょうの侮辱ぶじょくを受けるうける。
「一いちさんは、いつ奥さんおくさんを御ご貰いもらいなさるおつもりなんでしょう」と話しはなしだけは上うえ滑なめをして前まえへ進むすすむ。
糸子いとこは返事へんじをする前まえに顔かおを揚げあげて藤尾ふじおを見みた。
戦争せんそうはだんだん始まっはじまって来るくる。
「いつでも、来きて下さるくださる方ほうがあれば貰うもらうだろうと思いおもいますの」 今度こんどは藤尾ふじおの方ほうで、返事へんじをする前まえに糸子いとこを眤と見るみる。
針はりは真逆まさかの用意よういに、なかなか瞳ひとみの中なかには出でて来きない。
「ホホホホほほほほどんな立派りっぱな奥さんおくさんでも、すぐ出来できますわ」「本当ほんとうにそうなら、いいんですが」と糸子いとこは半分はんぶんほど裏うらへ絡まっからまってくる。
藤尾ふじおはちょっと逃げにげて置くおく必要ひつようがある。
「どなたか心当りこころあたりはないんですか。一いちさんが貰うもらうときまれば本気ほんきに捜さがせがしますよ」 黐竿もちざおは届いとどいたか、届かとどけかないか、分らわからぬが、鳥とりは確かたしかに逃げにげたようだ。
しかしもう一いち歩あゆみ進んすすんで見るみる必要ひつようがある。
「ええ、どうぞ捜さがせがしてちょうだい、私わたくしの姉さんあねさんのつもりで」 糸子いとこは際どいきわどいところを少しすこし出で過ぎすぎた。
二十にじゅう世紀せいきの会話かいわは巧妙こうみょうなる一種いっしゅの芸術げいじゅつである。
出でねば要領ようりょうを得とくぬ。
出で過ぎるすぎるとはたかれる。
「あなたの方ほうが姉さんあねさんよ」と藤尾ふじおは向うむこうで入れるいれる捜索そうさくの綱つなを、ぷつりと切っきって、逆さまさかさまに投げなげ帰しかえした。
糸子いとこはまだ悟らさとらぬ。
「なぜ?」と首くびを傾けるかたむける。
放つはなつ矢やのあたらぬはこちらの不手際ふてぎわである。
あたったのに手て答こたえもなく装わよそおわるるは不器量ふきりょうである。
女おんなは不手際ふてぎわよりは不器量ふきりょうを無念むねんに思うおもう。
藤尾ふじおはちょっと下唇したくちびるを噛んかんだ。
ここまで推しおして来きて停まるとまるは、ただ勝つかつ事ことを知るしる藤尾ふじおには出来できない。
「あなたは私わたくしの姉さんあねさんになりたくはなくって」と、素知らぬそしらぬ顔かおで云ういう。
「あらっ」と糸子いとこの頬ほおに吾われを忘れわすれた色いろが出るでる。
敵てきはそれ見ろみろと心こころの中なかで冷笑れいしょうって引き上げるひきあげる。
甲野こうのさんと宗近むねちか君きみと相談そうだんの上うえ取りきめとりきめた格言かくげんに云ういう。
――第だい一いち義ぎにおいて活動かつどうせざるものは肝胆かんたん相そう照らすてらすを得とくずと。
両人りょうにんの妹いもうとは肝胆かんたんの外廓がいかくで戦争せんそうをしている。
肝胆かんたんの中なかに引き入れるひきいれる戦争せんそうか、肝胆かんたんの外そとに追っ払うおっぱらう戦争せんそうか。
哲学者てつがくしゃは二十にじゅう世紀せいきの会話かいわを評しひょうして肝胆かんたん相そう曇らすくもらす戦争せんそうと云っいった。
ところへ小野おのさんが来るくる。
小野おのさんは過去かこに追い懸けおいかけられて、下宿げしゅくの部屋へやのなかをぐるぐると廻っまわった。
何度なんど廻っまわっても逃げ延びにげのびられそうもない時じ、過去かこの友達ともだちに逢っあって、過去かこと現在げんざいとの調停ちょうていを試みこころみた。
調停ちょうていは出来できたような、出来できないような訳わけで、自己じこは依然いぜんとして不安ふあんの状態じょうたいにある。
度胸どきょうを据えすえて、追っおっ懸けかけてくるものを取っとっ押えるおさえる勇気ゆうきは無論むろんない。
小野おのさんはやむを得とくず、未来みらいを望んのぞんで馳け込んかけこんで来きた。
袞竜こんりょうの袖そでに隠れるかくれると云ういう諺ことわざがある。
小野おのさんは未来みらいの袖そでに隠れようかくれようとする。
小野おのさんは蹌々踉々として来きた。
ただ蹌々踉々の意味いみを説明せつめいしがたいのが残念ざんねんである。
「どうか、なすったの」と藤尾ふじおが聞いきいた。
小野おのさんは心配しんぱいの上うえに被せるかぶせる従容しょうようの紋付もんつけを、まだ誂えあつらえていない。
二十にじゅう世紀せいきの人ひとは皆みなこの紋付もんつけを二三にさん着きずつ用意よういすべしと先さきの哲学者てつがくしゃが述べのべた事ことがある。
「大変たいへん御ご顔かおの色いろが悪いわるい事ことね」と糸子いとこが云っいった。
便るたよる未来みらいが戈かを逆ぎゃくまにして、過去かこをほじり出そうでそうとするのは情けないなさけない。
「二三にさん日ひ寝ねられないんです」「そう」と藤尾ふじおが云ういう。
「どう、なすって」と糸子いとこが聞くきく。
「近頃ちかごろ論文ろんぶんを書いかいていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾ふじおが答弁とうべんと質問しつもんを兼ねけんねた言葉使いことばづかいをする。
「ええ」と小野おのさんは渡りわたりに舟ふねの返事へんじをした。
小野おのさんは、どんな舟ふねでも御ご乗んのんなさいと云わいわれれば、乗らのらずにはいられない。
大抵たいていの嘘うそは渡頭わたしあたまの舟ふねである。
あるから乗るのる。
「そう」と糸子いとこは軽くかるく答えるこたえる。
いかなる論文ろんぶんを書こうかこうと家庭的かていてきの女子じょしは関係かんけいしない。
家庭的かていてきの女子じょしはただ顔色かおいろの悪いわるいところだけが気きにかかる。
「卒業そつぎょうなすっても御ご忙いのね」「卒業そつぎょうして銀時計ぎんとけいを御ご頂きいただきになったから、これから論文ろんぶんで金きん時計とけいを御ご取りとりになるんですよ」「結構けっこうね」「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野おのさん」 小野おのさんは微笑びしょうした。
「それじゃ、兄あにやこちらの欽吾きんごさんといっしょに京都きょうとへ遊びあそびにいらっしゃらないはずね。――兄あになんぞはそりゃ呑気のんきよ。少しすこし寝ねられなくなればいいと思うおもうわ」「ホホホホほほほほそれでも家いえの兄あにより好いよいでしょう」「欽吾きんごさんの方ほうがいくら好いよいか分かりゃわかりゃしない」と糸子いとこさんは、半分はんぶん無意識むいしきに言っいって退けしりぞけたが、急きゅうに気きがついて、羽二重はぶたえの手巾しゅきんを膝ひざの上うえでくちゃくちゃに丸めまるめた。
「ホホホホほほほほ」 唇くちびるの動くうごく間まから前歯まえばの角かくを彩どるいろどる金きんの筋すじがすっと外界がいかいに映るうつる。
敵てきは首尾しゅびよくわが術中じゅっちゅうに陥っおちいった。
藤尾ふじおは第だい二にの凱歌がいかを揚げるあげる。
「まだ京都きょうとから御ご音信おんしんはないですか」と今度こんどは小野おのさんが聞き出しききだした。
「いいえ」「だって端書はしがきぐらい来きそうなものですね」「でも鉄砲玉てっぽうたまだって云ういうじゃありませんか」「だれがです」「ほら、この間ま、母ははがそう云っいったでしょう。二人ふたり共とも鉄砲玉てっぽうたまだって――糸子いとこさん、ことに宗近むねちかは大おおの鉄砲玉てっぽうたまですとさ」「だれが? 御ご叔母おばさんが? 鉄砲玉てっぽうたまでたくさんよ。だから早くはやく御ご嫁よめを持たしもたしてしまわないとどこへ飛んとんで行くいくか、心配しんぱいでいけないんです」「早くはやく貰っもらって御ご上げあげなさいよ。ねえ、小野おのさん。二人ふたりで好いよいのを見つけみつけて上げようあげようじゃありませんか」 藤尾ふじおは意味いみ有りあり気きに小野おのさんを見みた。
小野おのさんの眼めと、藤尾ふじおの眼めが行き当っゆきあたってぶるぶると顫えるふるえる。
「ええ好いよいのを一人ひとり周旋しゅうせんしましょう」と小野おのさんは、手巾しゅきんを出しだして、薄いうすい口髭くちひげをちょっと撫でるなでる。
幽かかすかな香こうがぷんとする。
強いつよいのは下品げぼんだと云ういう。
「京都きょうとにはだいぶ御ご知合しりあいがあるでしょう。京都きょうとの方ほうを一いちさんに御世話ごせわなさいよ。京都きょうとには美人びじんが多いおおいそうじゃありませんか」 小野おのさんの手巾しゅきんはちょっと勢いきおいを失っうしなった。
「なに実際じっさい美しくうつくしくはないんです。――帰っかえったら甲野こうの君きみに聞いきいて見るみると分りわかります」「兄あにがそんな話はなしをするものですか」「それじゃ宗近むねちか君きみに」「兄あには大変たいへん美人びじんが多いおおいと申しもうしておりますよ」「宗近むねちか君きみは前まえにも京都きょうとへいらしった事ことがあるんですか」「いいえ、今度こんどが始めはじめてですけれども、手紙てがみをくれまして」「おや、それじゃ鉄砲玉てっぽうたまじゃないのね。手紙てがみが来きたの」「なに端書はしがきよ。都踊みやこおどりの端書はしがきをよこして、そのはじに京都きょうとの女おんなはみんな奇麗きれいだと書いかいてあるのよ」「そう。そんなに奇麗きれいなの」「何なんだか白いしろい顔かおがたくさん並んならんでてちっとも分らわからないわ。ただ見みたら好いよいかも知れしれないけれども」「ただ見みても白いしろい顔かおが並んならんどるばかりです。奇麗きれいは奇麗きれいですけれども、表情ひょうじょうがなくって、あまり面白くおもしろくはないです」「それから、まだ書いかいてあるんですよ」「無精むせいに似合わにあわない事ことね。何なんと」「隣家りんかの琴ことは御前ごぜんより旨いうまいって」「ホホホほほほ一いちさんに琴ことの批評ひひょうは出来できそうもありませんね」「私わたくしにあてつけたんでしょう。琴ことがまずいから」「ハハハハはははは宗近むねちか君きみもだいぶ人ひとの悪いわるい事ことをしますね」「しかも、御前ごぜんより別嬪べっぴんだと書いかいてあるんです。にくらしいわね」「一いちさんは何なんでも露骨ろこつなんですよ。私わたくしなんぞも一いちさんに逢っあっちゃ叶わかなわない」「でも、あなたの事ことは褒めほめてありますよ」「おや、何なんと」「御前ごぜんより別嬪べっぴんだ、しかし藤尾ふじおさんより悪いわるいって」「まあ、いやだ事こと」 藤尾ふじおは得意とくいと軽侮けいぶの念ねんを交えまじえたる眼めを輝かしかがやかして、すらりと首くびを後ろうしろに引くひく。
鬣たてがみに比ひすべきものの波なみを起すおこすばかりに見えみえたるなかに、玉虫たまむし貝かいの菫すみれのみが星ほしのごとく可憐かれんの光ひかりを放つはなつ。
小野おのさんの眼めと藤尾ふじおの眼めはこの時じ再びふたたび合っあった。
糸子いとこには意味いみが通ぜつうぜぬ。
「小野おのさん三さん条じょうに蔦屋つたやと云ういう宿屋やどやがござんすか」 底そこ知れしれぬ黒くろき眼めのなかに我われを忘れわすれて、縋るすがる未来みらいに全くまったく吸い込ますいこまれたる人ひとは、刹那せつなの戸板といた返しかえしにずどんと過去かこへ落ちおちた。
追い懸けおいかけて来るくる過去かこを逃とうがるるは雲くも紫むらさきに立ちたち騰るあがる袖そで香炉こうろの煙るけむる影かげに、縹緲ひょうびょうの楽しみたのしみをこれぞと見み極むるきわむるひまもなく、貪どんぼると云ういう名なさえつけがたき、眼めと眼めのひたと行き逢いゆきあいたる一いち拶さつに、結ばむすばぬ夢ゆめは醒めさめて、逆しまさかしまに、われは過去かこに向っむかって投げ返さなげかえされる。
草間くさま蛇へびあり、容易よういに青あおを踏むふむ事ことを許さゆるさずとある。
「蔦屋つたやがどうかしたの」と藤尾ふじおは糸子いとこに向うむこう。
「なにその蔦屋つたやにね、欽吾きんごさんと兄さんあにさんが宿っやどってるんですって。だから、どんな所ところかと思っおもって、小野おのさんに伺っうかがって見みたんです」「小野おのさん知っしっていらしって」「三条さんじょうですか。三条さんじょうの蔦屋つたやと。そうですね、有っあったようにも覚えおぼえていますが……」「それじゃ、そんな有名ゆうめいな旅たび屋やじゃないんですね」と糸子いとこは無邪気むじゃきに小野おのさんの顔かおを見るみる。
「ええ」と小野おのさんは切なせつなそうに答えこたえた。
今度こんどは藤尾ふじおの番ばんとなる。
「有名ゆうめいでなくったって、好いよいじゃありませんか。裏うら座敷ざしきで琴ことが聴えきこえて――もっとも兄あにと一いちさんじゃ駄目だめね。小野おのさんなら、きっと御ご気きに入るはいるでしょう。春雨はるさめがしとしと降っふってる静かしずかな日ひに、宿やどの隣家りんかで美人びじんが琴ことを弾いひいてるのを、気楽きらくに寝転んねころんで聴いきいているのは、詩的してきでいいじゃありませんか」 小野おのさんはいつになく黙っだまっている。
眼めさえ、藤尾ふじおの方ほうへは向けむけないで、床ゆかの山吹やまぶきを無意味むいみに眺めながめている。
「好いよいわね」と糸子いとこが代理だいりに答えるこたえる。
詩しを知らしらぬ人ひとが、趣味しゅみの問題もんだいに立ち入るたちいる権利けんりはない。
家庭的かていてきの女子じょしからいいわねぐらいの賛成さんせいを求めもとめて満足まんぞくするくらいなら始めはじめから、春雨はるさめも、奥座敷おくざしきも、琴ことの音おとも、口くちに出さださぬところであった。
藤尾ふじおは不平ふへいである。
「想像そうぞうすると面白いおもしろい画がが出来できますよ。どんな所ところとしたらいいでしょう」 家庭的かていてきの女子じょしには、なぜこんな質問しつもんが出でてくるのか、とんとその意いを解しかいしかねる。
要らいらぬ事ことと黙っだまって控えひかえているより仕方しかたがない。
小野おのさんは是非ぜひ共とも口くちを開かひらかねばならぬ。
「あなたは、どんな所ところがいいと思いおもいます」「私わたくし? 私わたくしはね、そうね――裏うら二に階かいがいいわ――廻りまわり椽えんで、加茂川かもがわがすこし見えみえて――三条さんじょうから加茂川かもがわが見えみえても好いよいんでしょう」「ええ、所ところによれば見えみえます」「加茂川かもがわの岸きしには柳やなぎがありますか」「ええ、あります」「その柳やなぎが、遠くとおくに煙るけむるように見えるみえるんです。その上うえに東山ひがしやまが――東山ひがしやまでしたね奇麗きれいな丸いまりい山やまは――あの山やまが、青いあおい御供ごくのように、こんもりと霞んかすんでるんです。そうして霞かすみのなかに、薄くうすく五重の塔ごじゅうのとうが――あの塔とうの名なは何なんと云いいいますか」「どの塔とうです」「どの塔とうって、東山ひがしやまの右みぎの角かくに見えるみえるじゃありませんか」「ちょっと覚えおぼえませんね」と小野おのさんは首くびを傾げるかしげる。
「有るあるんです、きっとあります」と藤尾ふじおが云ういう。
「だって琴ことは隣りとなりよ、あなた」と糸子いとこが口くちを出すだす。
女おんな詩人しじんの空想くうそうはこの一句いっくで破れやぶれた。
家庭的かていてきの女おんなは美びくしい世よをぶち壊しぶちこわしに生れうまれて来きたも同様どうようである。
藤尾ふじおは少しくすこしく眉まゆを寄せるよせる。
「大変たいへん御ご急ぎいそぎだ事こと」「なに、面白くおもしろく伺っうかがってるのよ。それからその五重の塔ごじゅうのとうがどうかするの」 五重の塔ごじゅうのとうがどうもする訳わけはない。
刺身さしみを眺めながめただけで台所だいどころへ下げるさげる人ひともある。
五重の塔ごじゅうのとうをどうかしたがる連中れんちゅうは、刺身さしみを食わくわなければ我慢がまんの出来できぬように教育きょういくされた実用じつよう主義しゅぎの人間にんげんである。
「それじゃ五重の塔ごじゅうのとうはやめましょう」「面白いおもしろいんですよ。五重の塔ごじゅうのとうが面白いおもしろいのよ。ねえ小野おのさん」 御機嫌ごきげんに逆っぎゃくった時じは、必ずかならず人ひとをもって詫わびを入れるいれるのが世間せけんである。
女王じょおうの逆鱗げきりんは鍋なべ、釜かま、味あじ噌漉の御ご供物くもつでは直せなおせない。
役やくにも立たたたぬ五重の塔ごじゅうのとうを霞かすみのうちに腫物しゅもつのように安置あんちしなければならぬ。
「五重の塔ごじゅうのとうはそれっきりよ。五重の塔ごじゅうのとうがどうするものですかね」 藤尾ふじおの眉まゆはぴくりと動いうごいた。
糸子いとこは泣きなきたくなる。
「御ご気きに障っさわったの――私わたくしが悪るかっわるかったわ。本当ほんとうに五重の塔ごじゅうのとうは面白いおもしろいのよ。御世辞ごせじじゃない事ことよ」 針鼠はりねずみは撫でれなでれば撫でるなでるほど針はりを立てるたてる。
小野おのさんは、破裂はれつせぬ前まえにどうかしなければならぬ。
五重の塔ごじゅうのとうを持ち出せもちだせばなお怒らおこられる。
琴ことの音おとは自分じぶんに取っとって禁物きんもつである。
小野おのさんはどうして調停ちょうていしたら好かろうよかろうかと考えかんがえた。
話はなしが京都きょうとを離れれはなれれば自分じぶんには好都合こうつごうだが、むやみに縁えんのない離しはなし方ほうをすると、糸子いとこさん同様どうように軽蔑けいべつを招くまねく。
向うむこうの話題わだいに着いついて廻っまわって、しかも自分じぶんに苦痛くつうのないように発展はってんさせなければならぬ。
銀時計ぎんとけいの手際てぎわではちとむずかし過ぎるすぎるようだ。
「小野おのさん、あなたには分るわかるでしょう」と藤尾ふじおの方ほうから切っきって出るでる。
糸子いとこは分らわからず屋やとして取り除けとりのぞけられた。
女おんな二人ふたりを調停ちょうていするのは眼めの前まえに快かいからぬ言葉ことばの果しはてし合あわせを見るみるのが厭いやだからである。
文ぶん錦にしきやさしき眉まゆに切り結ぶきりむすぶ火花ひばなの相手あいてが、相手あいてにならぬと見下げみさげられれば、手てを出すだす必要ひつようはない。
取とり除じょ者ものを仲間なかまに入れいれてやる親切しんせつは、取とり除じょ者ものの方ほうで、うるさく絡っまとってくる時じに限るかぎる。
おとなしくさえしていれば、取り除けとりのぞけられようが、見下げみさげられようが、当分とうぶん自分じぶんの利害りがいには関係かんけいせぬ。
小野おのさんは糸子いとこを眼中がんちゅうに置くおく必要ひつようがなくなった。
切っきって出でた藤尾ふじおにさえ調子ちょうしを合せあわせていれば間ま違いはない。
「分りわかりますとも。――詩しの命いのちは事実じじつより確かたしかです。しかしそう云ういう事ことが分らわからない人ひとが世間せけんにはだいぶありますね」と云っいった。
小野おのさんは糸子いとこを軽蔑けいべつする料簡りょうけんではない、ただ藤尾ふじおの御機嫌ごきげんに重きおもきを置いおいたまでである。
しかもその答こたえは真理しんりである。
ただ弱いよわいものにつらく当るあたる真理しんりである。
小野おのさんは詩しのために愛あいのためにそのくらいの犠牲ぎせいをあえてする。
道義どうぎは弱いよわいものの頭あたまに耀かかがやかず、糸子いとこは心細いこころぼそい気きがした。
藤尾ふじおの方ほうはようやく胸むねが隙すきく。
「それじゃ、その続つづくをあなたに話しはなして見みましょうか」 人ひとを呪わのろわば穴あな二につと云ういう。
小野おのさんは是非ぜひ共ともええと答えこたえなければならぬ。
「ええ」「二に階かいの下したに飛石とびいしが三さんつばかり筋違すじかいに見えみえて、その先さきに井桁いげたがあって、小米こごめ桜さくらが擦れ擦れすれすれに咲いさいていて、釣瓶つるべが触るさわるとほろほろ、井戸いどの中なかへこぼれそうなんです。……」 糸子いとこは黙っだまって聴いきいている。
小野おのさんも黙っだまって聴いきいている。
花曇りはなぐもりの空そらがだんだん擦り落ちすりおちて来るくる。
重いおもい雲くもがかさなり合っあって、弥生やよいをどんよりと抑えつけるおさえつける。
昼ひるはしだいに暗くくらくなる。
戸袋とぶくろを五ご尺さし離れはなれて、袖垣そでがきのはずれに幣へい辛夷こぶしの花はなが怪しいあやしい色いろを併べならべて立ったっている。
木立こだちに透かしすかしてよく見るみると、折々おりおりは二に筋すじ、三筋みすじ雨あめの糸いとが途切れ途切れとぎれとぎれに映るうつる。
斜めななめにすうと見えみえたかと思うおもうと、はや消えるきえる。
空そらの中なかから降るふるとは受け取れうけとれぬ、地ちの上うえに落つるおつるとはなおさら思えおもえぬ。
糸いとの命いのちはわずかに尺さし余りあまりである。
居いは気きを移すうつす。
藤尾ふじおの想像そうぞうは空そらと共ともに濃こかになる。
「小米こごめ桜さくらを二に階かいの欄干らんかんから御覧ごらんになった事ことがあって」と云ういう。
「まだ、ありません」「雨あめの降るふる日ひに。――おや少しすこし降っふって来きたようですね」と庭にわの方ほうを見るみる。
空そらはなおさら暗くくらくなる。
「それからね。――小米こごめ桜さくらの後ろうしろは建仁けんにん寺てらの垣根かきねで、垣根かきねの向うむこうで琴ことの音おとがするんです」 琴ことはいよいよ出でて来きた。
糸子いとこはなるほどと思うおもう。
小野おのさんはこれはと思うおもう。
「二に階かいの欄干らんかんから、見下すみくだすと隣家りんかの庭にわがすっかり見えるみえるんです。――ついでにその庭にわの作りつくりも話しはなしましょうか。ホホホホほほほほ」と藤尾ふじおは高くたかく笑っわらった。
冷たいつめたい糸いとが辛夷こぶしの花はなをきらりと掠めるかすめる。
「ホホホホほほほほ御ご厭いやなの――何なんだか暗くくらくなって来きた事こと。花曇りはなぐもりが化けばけ出しだしそうね」 そこまで近寄っちかよって来きた暗いくらい雲くもは、そろそろ細いほそい糸いとに変化へんかする。
すいと木立こだちを横ぎっよこぎった、あとから直すなおすいと追つい懸けかけて来るくる。
見みているうちにすいすいと幾本いくぽんもいっしょに通っとおって行くいく。
雨あめはようやく繁くしげくなる。
「おや本ほん降こうになりそうだ事こと」「私わたくし失礼しつれいするわ、降っふって来きたから。御ご話しはなし中なかで失礼しつれいだけれども。大変たいへん面白かっおもしろかったわ」 糸子いとこは立ち上がるたちあがる。
話しはなしは春雨はるさめと共ともに崩れくずれた。
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