十
第 10 章
謎の女は宗近家へ乗り込んで来る。
謎の女のいる所には波が山となり炭団が水晶と光る。
禅家では柳は緑花は紅と云う。
あるいは雀はちゅちゅで烏はかあかあとも云う。
謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。
謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。
謎の女は近づく人を鍋の中へ入れて、方寸の杉箸に交ぜ繰り返す。
芋をもって自からおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。
謎の女は金剛石のようなものである。
いやに光る。
そしてその光りの出所が分らぬ。
右から見ると左に光る。
左から見ると右に光る。
雑多な光を雑多な面から反射して得意である。
神楽の面には二十通りほどある。
神楽の面を発明したものは謎の女である。
――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。
真率なる快活なる宗近家の大和尚は、かく物騒な女が天が下に生を享けて、しきりに鍋の底を攪き廻しているとは思いも寄らぬ。
唐木の机に唐刻の法帖を乗せて、厚い坐布団の上に、信濃の国に立つ煙、立つ煙と、大きな腹の中から鉢の木を謡っている。
謎の女はしだいに近づいてくる。
悲劇マクベスの妖婆は鍋の中に天下の雑物を攫い込んだ。
石の影に三十日の毒を人知れず吹く夜の蟇と、燃ゆる腹を黒き背に蔵す蠑※の胆と、蛇の眼と蝙蝠の爪と、――鍋はぐらぐらと煮える。
妖婆はぐるりぐるりと鍋を廻る。
枯れ果てて尖れる爪は、世を咀う幾代の錆に瘠せ尽くしたる鉄の火箸を握る。
煮え立った鍋はどろどろの波を泡と共に起す。
――読む人は怖ろしいと云う。
それは芝居である。
謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。
住むは都である。
時は二十世紀である。
乗り込んで来るのは真昼間である。
鍋の底からは愛嬌が湧いて出る。
漾うは笑の波だと云う。
攪き淆ぜるのは親切の箸と名づける。
鍋そのものからが品よく出来上っている。
謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。
手つきさえ能掛である。
大和尚の怖がらぬのも無理はない。
「いや。だいぶ御暖になりました。さあどうぞ」と布団の方へ大きな掌を出す。
女はわざと入口に坐ったまま両手を尋常につかえる。
「その後は……」「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。
「ちょっと出ますんでございますが、つい無人だもので、出よう出ようと思いながら、とうとう御無沙汰になりまして……」で少し句が切れたから大和尚が何か云おうとすると、謎の女はすぐ後をつける。
「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。
「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。
ある人が云う。
あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。
またある人が云う。
あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。
第三の人が云う。
人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。
いろいろな説がある。
ただし大和尚は迷惑党である。
黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。
「御宅でも皆様御変りもなく……毎々欽吾や藤尾が出まして、御厄介にばかりなりまして……せんだってはまた結構なものをちょうだい致しまして、とうに御礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」 頭はここでようやく上がる。
阿父はほっと気息をつく。
「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやく暖かになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが「どうです御宅の桜は。今頃はちょうど盛でしょう」で結んでしまった。
「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日前がちょうど観頃でございましたが、一昨日の風で、だいぶ傷められまして、もう……」「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え? 浅葱桜。そうそう。あの色が珍らしい」「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などは凄いような心持が致します」「そうですか、アハハハハ。荒川には緋桜と云うのがあるが、浅葱桜は珍らしい」「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」「ないですよ。もっとも桜も好事家に云わせると百幾種とかあるそうだから……」「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。
「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間も一が京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは呑気なものでアハハハハ。――どうです粗菓だが一つ御撮みなさい。岐阜の柿羊羹」「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」「あんまり、旨いものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人は箸を上げて皿の中から剥ぎ取った羊羹の一片を手に受けて、独りでむしゃむしゃ食う。
「嵐山と云えば」と甲野の母は切り出した。
「せんだって中は欽吾がまた、いろいろ御厄介になりまして、御蔭様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の我儘者でございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして朋友と申すものがただの一人もございませんそうで……」「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに附合が出来にくくなる。アハハハハ」「私には女でいっこう分りませんが、何だか欝いでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。家にさえいるとあなた、妹にばかりからかって――いや、あれでも困る」「いえ、誠に陽気で淡泊してて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人の病気のせいだから、今さら愚癡をこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」「ごもっともで」と宗近老人は真面目に答えたが、ついでに灰吹をぽんと敲いて、銀の延打の煙管を畳の上にころりと落す。
雁首から、余る煙が流れて出る。
「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」「御蔭様で……」「せんだって家へ見えた時などは皆と馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」「へええ」これは仔細らしく感心する。
「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。
「そりゃ、どうも」「彼人の病気では、今までどのくらい心配したか分りません」「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」 謎の女は自分の思う事を他に云わせる。
手を下しては落度になる。
向うで滑って転ぶのをおとなしく待っている。
ただ滑るような泥海を知らぬ間に用意するばかりである。
「その結婚の事を朝暮申すのでございますが――どう在っても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国で亡くなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか一日も早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭から撥ねつけられるのみで……」「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母だけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」「御親切にどうもありがとう存じます」「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人背負い込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。何歳になっても心配は絶えませんね」「此方様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で配偶に合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、阿母私はこんな身体で、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾に聟を貰って、阿母さんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」 謎の女は和尚をじっと見た。
和尚は大きな腹を出したまま考えている。
灰吹がぽんと鳴る。
紫檀の蓋を丁寧に被せる。
煙管は転がった。
「なるほど」 和尚の声は例に似ず沈んでいる。
「そうかと申して生の母でない私が圧制がましく、むやみに差出た口を利きますと、御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし……」「ふん、困るね」 和尚は手提の煙草盆の浅い抽出から欝金木綿の布巾を取り出して、鯨の蔓を鄭重に拭き出した。
「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云い悪ければ」「いろいろ御心配を掛けまして……」「そうして見るかね」「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」「なにそりゃ、承知しているから、当人の気に障らないように云うつもりですがね」「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそ後が大変な騒ぎになりますから……」「弱るね、そう、疳が高くなってちゃあ」「まるで腫物へ障るようで……」「ふうん」と和尚は腕組を始めた。
裄が短かいので太い肘が無作法に見える。
謎の女は人を迷宮に導いて、なるほどと云わせる。
ふうんと云わせる。
灰吹をぽんと云わせる。
しまいには腕組をさせる。
二十世紀の禁物は疾言と遽色である。
なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口を揃えて答えた。
――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。
――謎の女の鄭重なのはもっとも法律に触れ悪い。
和尚は腕組をしてふうんと云った。
「もし彼人が断然家を出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」「聟かね。聟となると……」「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」「そりゃ、そう」「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」「左様さね」と和尚は単純な首を傾けたが「藤尾さんは幾歳ですい」「もう、明けて四になります」「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげた掌を下から覗き込むようにする。
「いえもう、身体ばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」 話は放って置くとどこかへ流れて行きそうになる。
謎の女は引っ張らなければならぬ。
「こちらでも、糸子さんやら、一さんやらで、御心配のところを、こんな余計な話を申し上げて、さぞ人の気も知らない呑気な女だと覚し召すでございましょうが……」「いえ、どう致して、実は私の方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで――一も外交官になるとか、ならんとか云って騒いでいる最中だから、今日明日と云う訳にも行かないですが、晩かれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」「でございますとも」「ついては、その、藤尾さんなんですがね」「はい」「あの方なら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね」「はい」「どうでしょう、阿母の御考は」「あの通行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが……」「いいじゃ、ありませんか」「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」「御不足ならともかく、そうでなければ……」「不足どころじゃございません。願ったり叶ったりで、この上もない結構な事でございますが、ただ彼人に困りますので。一さんは宗近家を御襲ぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾が御気に入るか、入らないかは分りませんが、まず貰っていただいたと致したところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で……」「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」「そう云うものでございましょうかね」「それに御承知の通、阿父がいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなれば亡くなった人も満足だろう」「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに配偶さえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくっても宜しい――のでございますが」 謎の女の云う事はしだいに湿気を帯びて来る。
世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。
辛うじて謎の女の謎をここまで叙し来った時、筆は、一歩も前へ進む事が厭だと云う。
日を作り夜を作り、海と陸とすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。
謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。
日のあたる別世界には二人の兄妹が活動する。
六畳の中二階の、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽の鉢に、蟠まる根を盛りあげて、くの字の影を椽に伏せる。
一間の唐紙は白地に秦漢瓦鐺の譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。
つづく三尺の仮の床は、軸を嫌って、籠花活に軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。
糸子は床の間に縫物の五色を、彩と乱して、糸屑のこぼるるほどの抽出を二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。
縫うて行く糸の行方は、一針ごとに春を刻む幽かな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。
腹這は弥生の姿、寝ながらにして天下の春を領す。
物指の先でしきりに敷居を敲いている。
「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」「替えたげましょうか」「そうさ。替えて貰ったところで余り儲かりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」「何が?」「何がって、この松さ。こりゃたしか阿父が苔盛園で二十五円で売りつけられたんだろう」「ええ。大事な盆栽よ。転覆でもしようもんなら大変よ」「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる阿爺も阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちら担ぎ上げる御前も御前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ」「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」「おやいやだ。そりゃ私は無論馬鹿ですわ。馬鹿ですけれども、兄さんも馬鹿よ」「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」「だって証拠があるんですもの」「馬鹿の証拠がかい」「ええ」「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」「その盆栽はね」「うん、この盆栽は」「その盆栽はね――知らなくって」「知らないとは」「私大嫌よ」「へええ、今度こっちの大発明だ。ハハハハ。嫌なものを、なんでまた持って来たんだ。重いだろうに」「阿父さまが御自分で持っていらしったのよ」「何だって」「日が中って二階の方が松のために好いって」「阿爺も親切だな。そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。阿爺親切にして子は馬鹿になりか」「なに、そりゃ、ちょっと。発句?」「まあ発句に似たもんだ」「似たもんだって、本当の発句じゃないの」「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」「これ? これは伊勢崎でしょう」「いやに光つくじゃないか。兄さんのかい」「阿爺のよ」「阿爺のものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐の袖無以後御見限りだね」「あらいやだ。あんな嘘ばかり。今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ」「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」「おや、ひどい襟垢だ事、こないだ着たばかりだのに――兄さんは膏が多過ぎるんですよ」「何が多過ぎても、もう駄目だよ」「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」「新らしいんだろうね」「ええ、洗って張ったの」「あの親父の拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議な事があるがね」「何が」「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには御古ばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被って、おれには物置にある陣笠をかぶれと云うかも知れない」「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」「達者なのは口だけか。可哀想に」「まだ、あるのよ」 宗近君は返事をやめて、欄干の隙間から庭前の植込を頬杖に見下している。
「まだあるのよ。一寸」と針を離れぬ糸子の眼は、左の手につんと撮んだ合せ目を、見る間に括けて来て、いざと云う指先を白くふっくらと放した時、ようやく兄の顔を見る。
「まだあるのよ。兄さん」「何だい。口だけでたくさんだよ」「だって、まだあるんですもの」と針の針孔を障子へ向けて、可愛らしい二重瞼を細くする。
宗近君は依然として長閑な心を頬杖に託して庭を眺めている。
「云って見ましょうか」「う。うん」 下顎は頬杖で動かす事が出来ない。
返事は咽喉から鼻へ抜ける。
「あし。分ったでしょう」「う。うん」 紺の糸を唇に湿して、指先に尖らすは、射損なった針孔を通す女の計である。
「糸公、誰か御客があるのかい」「ええ、甲野の阿母が御出よ」「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい叶わない」「でも品がいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」「そう兄さんが嫌じゃ、世話の仕栄がない」「世話もしない癖に」「ハハハハ実は狐の袖無の御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」「いえ、上野や向島は駄目だが荒川は今が盛だよ。荒川から萱野へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に沢山はないぜ」「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指を借してちょうだい」「そうして裁縫を勉強すると、今に御嫁に行くときに金剛石の指環を買ってやる」「旨いのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」「あるのって、――今はないさ」「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」「えらいからさ」「まあ――どこかそこいらに鋏はなくって」「その蒲団の横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。洒落かい」「これ? 奇麗でしょう。縮緬の御申さん」「御前がこしらえたのかい。感心に旨く出来てる。御前は何にも出来ないが、こんなものは器用だね」「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな椽側へ煙草の灰を捨てるのは御廃しなさいよ。――これを借して上げるから」「なんだいこれは。へええ。板目紙の上へ千代紙を張り付けて。やっぱり御前がこしらえたのか。閑人だなあ。いったい何にするものだい。――糸を入れる? 糸の屑をかい。へええ」「兄さんは藤尾さんのような方が好きなんでしょう」「御前のようなのも好きだよ」「私は別物として――ねえ、そうでしょう」「嫌でもないね」「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の叔母はしきりに密談をしているね」「ことに因ると藤尾さんの事かも知れなくってよ」「そうか、それじゃ聴きに行こうか」「あら、御廃しなさいよ――わたし、火熨がいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから」「自分の家で、そう遠慮しちゃ有害だ。兄さんが取って来てやろうか」「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」「どうも剣呑だね。それじゃこっちも気息を殺して寝転んでるのか」「気息を殺さなくってもいいわ」「じゃ気息を活かして寝転ぶか」「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」 裁縫の手を休めて、火熨に逡巡っていた糸子は、入子菱に縢った指抜を抽いて、※色に銀の雨を刺す針差を裏に、如鱗木の塗美くしき蓋をはたと落した。
やがて日永の窓に赤くなった耳朶のあたりを、平手で支えて、右の肘を針箱の上に、取り広げたる縫物の下で、隠れた膝を斜めに崩した。
襦袢の袖に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なく滑って、くっきりと普通よりは明かなる肉の柱が、蝶と傾く絹紐の下に鮮かである。
「兄さん」「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」「藤尾さんは駄目よ」「駄目だ? 駄目とは」「だって来る気はないんですもの」「御前聞いて来たのか」「そんな事がまさか無躾に聞かれるもんですか」「聞かないでも分かるのか。まるで巫女だね。――御前がそう頬杖を突いて針箱へ靠たれているところは天下の絶景だよ。妹ながら天晴な姿勢だハハハハ」「沢山御冷やかしなさい。人がせっかく親切に言って上げるのに」 云いながら糸子は首を支えた白い腕をぱたりと倒した。
揃った指が針箱の角を抑えるように、前へ垂れる。
障子に近い片頬は、圧し付けられた手の痕を耳朶共にぽうと赤く染めている。
奇麗に囲う二重の瞼は、涼しい眸を、長い睫に隠そうとして、上の方から垂れかかる。
宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。
――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴を肘に撥ねて起き上がる。
「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。
派出な色の絹紐がちらりと前の方へ顔を出す。
「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」「そう」と俯目になった顔を半ば上げる。
危ぶむような、慰めるような笑が顔と共に浮いて来る。
「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」「今度の試験の結果はまだ分らないの」「もう直だろう」「今度は是非及第なさいよ」「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」「好かないわ。――藤尾さんはね。学問がよく出来て、信用のある方が好きなんですよ」「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあ例に云うと、あの小野さんと云う方があるでしょう」「うん」「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」「そうか。おやおや」「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉の至だ」「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」「あんまり気楽過ぎるよ」「ホホホホおかしいのね。何だかちっとも苦にならないようね」「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあ廃そう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」「そりゃ思うわ」「小野さんとどっちが好い」「そりゃ兄さんの方が好いわ」「甲野さんとは」「知らないわ」 深い日は障子を透して糸子の頬を暖かに射る。
俯向いた額の色だけがいちじるしく白く見えた。
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」「あら」と翻える襦袢の袖のほのめくうちを、二本の指に、ここと抑えて、軽く抜き取る。
「ハハハハ見えない所でも、旨く手が届くね。盲目にすると疳の好い按摩さんが出来るよ」「だって慣れてるんですもの」「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」「なに」「京都の宿屋の隣に琴を引く別嬪がいてね」「端書に書いてあったんでしょう」「ああ」「あれなら知っててよ」「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐山へ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚れて茶碗を落してしまってね」「あら、本当? まあ」「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」「嘘よ」「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」「それが何かの因縁だよ」「人を……」「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」「もうたくさん」「たくさんなら廃そう」「その女の方は何とおっしゃるの、名前は」「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」「教えたって好いじゃありませんか」「ハハハハそう真面目にならなくっても好い。実は嘘だ。全く兄さんの作り事さ」「悪らしい」 糸子はめでたく笑った。