虞美人草

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十

第 10 章
謎なぞの女おんなは宗近むねちか家いえへ乗り込んのりこんで来るくる。
謎なぞの女おんなのいる所ところには波なみが山やまとなり炭団たどんが水晶すいしょうと光るひかる。
禅家ぜんかでは柳やなぎは緑花みどりばなは紅くれないと云ういう。
あるいは雀すずめはちゅちゅで烏からすはかあかあとも云ういう。
謎なぞの女おんなは烏からすをちゅちゅにして、雀すずめをかあかあにせねばやまぬ。
謎なぞの女おんなが生れうまれてから、世界せかいが急きゅうにごたくさになった。
謎なぞの女おんなは近づくちかづく人ひとを鍋なべの中なかへ入れいれて、方寸ほうすんの杉箸すぎばしに交ぜまぜ繰り返すくりかえす。
芋いもをもって自からみずからおるものでなければ、謎なぞの女おんなに近づいちかづいてはならぬ。
謎なぞの女おんなは金剛石こんごうせきのようなものである。
いやに光るひかる。
そしてその光りひかりの出所しゅっしょが分らわからぬ。
右みぎから見るみると左ひだりに光るひかる。
左ひだりから見るみると右みぎに光るひかる。
雑多ざったな光ひかりを雑多ざったな面めんから反射はんしゃして得意とくいである。
神楽かぐらの面めんには二十にじゅう通りとおりほどある。
神楽かぐらの面めんを発明はつめいしたものは謎なぞの女おんなである。
――謎なぞの女おんなは宗近むねちか家いえへ乗り込んのりこんでくる。
真率しんそつなる快活かいかつなる宗近むねちか家いえの大和尚やまとなおは、かく物騒ぶっそうな女おんなが天が下あめがしたに生なまを享けうけて、しきりに鍋なべの底そこを攪き廻しかきまわしているとは思いおもいも寄らよらぬ。
唐木とうぼくの机つくえに唐とう刻こくの法帖ほうじょうを乗せのせて、厚いあつい坐ざ布団ふとんの上うえに、信濃しなのの国くにに立つたつ煙けむり、立つたつ煙けむりと、大きなおおきな腹はらの中なかから鉢ばちの木きを謡っうたっている。
謎なぞの女おんなはしだいに近づいちかづいてくる。
悲劇ひげきマクベスまくべすの妖婆ようばは鍋なべの中なかに天下てんかの雑物ざつぶつを攫いさらい込んこんだ。
石いしの影かげに三十日さんじゅうにちの毒どくを人ひと知れしれず吹くふく夜よるの蟇ひきと、燃ゆるもゆる腹はらを黒くろき背せに蔵すぞうす蠑※の胆たんと、蛇へびの眼めと蝙蝠かわほりの爪つめと、――鍋なべはぐらぐらと煮えるにえる。
妖婆ようばはぐるりぐるりと鍋なべを廻るまわる。
枯れかれ果てはてて尖れるとがれる爪つめは、世よを咀うのろう幾代いくよの錆さびに瘠せやせ尽くしつくしたる鉄てつの火箸ひばしを握るにぎる。
煮え立っにえたった鍋なべはどろどろの波なみを泡あわと共ともに起すおこす。
――読むよむ人ひとは怖ろしいおそろしいと云ういう。
それは芝居しばいである。
謎なぞの女おんなはそんな気味きみの悪いわるい事ことはせぬ。
住むすむは都とである。
時じは二十にじゅう世紀せいきである。
乗り込んのりこんで来るくるのは真昼間まひるまである。
鍋なべの底そこからは愛嬌あいきょうが湧いわいて出るでる。
漾うは笑わらいの波なみだと云ういう。
攪き淆ぜるのは親切しんせつの箸はしと名づけるなづける。
鍋なべそのものからが品しなよく出来上っできあがっている。
謎なぞの女おんなはそろりそろりと攪き淆ぜる。
手つきてつきさえ能のう掛かかりである。
大和尚やまとなおの怖こわがらぬのも無理むりはない。
「いや。だいぶ御ご暖だんになりました。さあどうぞ」と布団ふとんの方ほうへ大きなおおきな掌てのひらを出すだす。
女おんなはわざと入口いりぐちに坐っすわったまま両手りょうてを尋常じんじょうにつかえる。
「その後そのあとは……」「どうぞ御ご敷きしき……」と大きなおおきな手てはやっぱり前まえへ突き出しつきだしたままである。
「ちょっと出でますんでございますが、つい無人むじんだもので、出ようでよう出ようでようと思いおもいながら、とうとう御無沙汰ごむさたになりまして……」で少しすこし句くが切れきれたから大和尚やまとなおが何なんか云おういおうとすると、謎なぞの女おんなはすぐ後あとをつける。
「まことに相そう済みすみません」で黒いくろい頭あたまをぴたりと畳たたみへつけた。
「いえ、どう致しいたしまして……」ぐらいでは容易よういに頭あたまを上げるあげる女おんなではない。
ある人ひとが云ういう。
あまりしとやかに礼れいをする女おんなは気味きみがわるい。
またある人ひとが云ういう。
あまり丁寧ていねいに御辞儀ごじぎをする女おんなは迷惑めいわくだ。
第だい三さんの人ひとが云ういう。
人間にんげんの誠まことは下げるさげる頭あたまの時間じかんと正比例せいひれいするものだ。
いろいろな説せつがある。
ただし大和尚やまとなおは迷惑めいわく党とうである。
黒いくろい頭あたまは畳たたみの上うえに、声こえだけは口くちから出でて来るくる。
「御宅ごたくでも皆みな様よう御ご変りかわりもなく……毎々まいまい欽吾きんごや藤尾ふじおが出でまして、御ご厄介やっかいにばかりなりまして……せんだってはまた結構けっこうなものをちょうだい致しいたしまして、とうに御礼ごれいに上がらあがらなければならないんでございますが、つい手前てまえにかまけまして……」 頭あたまはここでようやく上がるあがる。
阿父あちちはほっと気息きそくをつく。
「いや、詰らなじらんもので……到来物とうらいぶつでね。アハハハハあははははようやく暖かあたたかになって」と突然とつぜん時候じこうをつけて庭にわの方ほうを見みたが「どうです御ご宅たくの桜さくらは。今頃いまごろはちょうど盛さかんでしょう」で結んむすんでしまった。
「本年ほんねんは陽気ようきのせいか、例年れいねんより少しすこし早目はやめで、四五しご日ひ前まえがちょうど観かん頃ころでございましたが、一昨いっさく日ひの風かぜで、だいぶ傷めいためられまして、もう……」「駄目だめですか。あの桜さくらは珍らしいめずらしい。何なんとか云いいいましたね。え? 浅葱あさぎ桜さくら。そうそう。あの色いろが珍らしいめずらしい」「少しすこし青味あおみを帯びおびて、何なんだか、こう、夕方ゆうがたなどは凄いすごいような心持こころもちが致しいたします」「そうですか、アハハハハあはははは。荒川あらかわには緋桜ひざくらと云ういうのがあるが、浅葱あさぎ桜さくらは珍らしいめずらしい」「みなさんがそうおっしゃいます。八重やえはたくさんあるが青いあおいのは滅多めったにあるまいってね……」「ないですよ。もっとも桜さくらも好事家こうずかに云わいわせると百ひゃく幾いく種しゅとかあるそうだから……」「へええ、まあ」と女おんなはさも驚ろいおどろいたように云ういう。
「アハハハあははは桜さくらでも馬鹿ばかには出来できない。この間まも一いちが京都きょうとから帰っかえって来きて嵐山あらしやまへ行っいったと云ういうから、どんな花はなだと聞いきいて見みたら、ただ一いち重じゅうだと云ういうだけでね、何になんにも知らしらない。今時いまどきのものは呑気のんきなものでアハハハハあはははは。――どうです粗菓そかだが一いちつ御ご撮みつまみなさい。岐阜ぎふの柿かき羊羹ようかん」「いえどうぞ。もう御構いおかまい下さいくださいますな……」「あんまり、旨いうまいものじゃない。ただ珍らしいめずらしいだけだ」と宗近むねちか老人ろうじんは箸はしを上げあげて皿さらの中なかから剥ぎ取っはぎとった羊羹ようかんの一いち片かたを手てに受けうけて、独りひとりでむしゃむしゃ食うくう。
「嵐山あらしやまと云えいえば」と甲野こうのの母ははは切り出しきりだした。
「せんだって中なかは欽吾きんごがまた、いろいろ御ご厄介やっかいになりまして、御蔭様みかげさまで方々かたがた見物けんぶつさせていただいたと申しもうして大変たいへん喜んよろこんでおります。まことにあの通つうの我儘わがまま者ものでございますから一いちさんもさぞ御ご迷惑めいわくでございましたろう」「いえ、一いちの方ほうでいろいろ御世話ごせわになったそうで……」「どう致しいたしまして、人ひと様ようの御世話ごせわなどの出来るできるような男おとこではございませんので。あの年ねんになりまして朋友ほうゆうと申すもうすものがただの一人ひとりもございませんそうで……」「あんまり学問がくもんをすると、そう誰だれでも彼かれでもむやみに附合ふごうが出来できにくくなる。アハハハハあはははは」「私わたくしには女おんなでいっこう分りわかりませんが、何なんだか欝うついでばかりいるようで――こちらの一いちさんにでも連れ出しつれだしていただかないと、誰だれも相手あいてにしてくれないようで……」「アハハハハあはははは一いちはまた正反対せいはんたい。誰だれでも相手あいてにする。家いえにさえいるとあなた、妹いもうとにばかりからかって――いや、あれでも困るこまる」「いえ、誠まことに陽気ようきで淡泊たんぱくしてて、結構けっこうでございますねえ。どうか一いちさんの半分はんぶんでいいから、欽吾きんごがもう少しすこし面白くおもしろくしてくれれば好いよいと藤尾ふじおにも不断ふだん申しもうしているんでございますが――それもこれもみんな彼かれ人ひとの病気びょうきのせいだから、今さらいまさら愚ぐ癡ちをこぼしたって仕方しかたがないとは思いおもいますが、なまじい自分じぶんの腹はらを痛めいためた子こでないだけに、世間せけんへ対したいしても心配しんぱいになりまして……」「ごもっともで」と宗近むねちか老人ろうじんは真面目まじめに答えこたえたが、ついでに灰吹はいふきをぽんと敲いたたいて、銀ぎんの延のべ打だの煙管きせるを畳たたみの上うえにころりと落すおとす。
雁首がんくびから、余るあまる煙けむりが流れながれて出るでる。
「どうです、京都きょうとから帰っかえってから少しすこしは好いよいようじゃありませんか」「御蔭様みかげさまで……」「せんだって家いえへ見えみえた時じなどは皆みなと馬鹿ばか話はなしをして、だいぶ愉快ゆかいそうでしたが」「へええ」これは仔細しさいらしく感心かんしんする。
「まことに困りこまり切りきります」これは困りこまり切っきったように長々ながながと引き延ばしひきのばして云ういう。
「そりゃ、どうも」「彼かれ人ひとの病気びょうきでは、今までいままでどのくらい心配しんぱいしたか分りわかりません」「いっそ結婚けっこんでもさせたら気きが変っかわって好いよいかも知れしれませんよ」 謎なぞの女おんなは自分じぶんの思うおもう事ことを他ほかに云わいわせる。
手てを下しおろしては落度おちどになる。
向うむこうで滑っすべって転ぶころぶのをおとなしく待っまっている。
ただ滑るすべるような泥海どろうみを知らしらぬ間まに用意よういするばかりである。
「その結婚けっこんの事ことを朝暮ちょうぼ申すもうすのでございますが――どう在っあっても、うんと云っいって承知しょうちしてくれません。私わたくしも御覧ごらんの通りとおり取るとる年ねんでございますし、それに甲野こうのもあんな風かぜに突然とつぜん外国がいこくで亡くなりなくなりますような仕儀しぎで、まことに心配しんぱいでなりませんから、どうか一いち日ひも早くはやく彼かれ人ひとのために身みの落おちつきをつけてやりたいと思いおもいまして……本当ほんとうに、今までいままで嫁よめの事ことを持ち出しもちだした事ことは何度なんどだか分りわかりません。が持ち出すもちだすたんびに頭あたまから撥ねつけはねつけられるのみで……」「実じつはこの間ま見えみえた時じも、ちょっとその話はなしをしたんですがね。君きみがいつまでも強情ごうじょを張るはると心配しんぱいするのは阿母あははだけで、可か愛想あいそだから、今いまのうちに早くはやく身みを堅めかためて安心あんしんさせたら善かろうよかろうってね」「御ご親切しんせつにどうもありがとう存じぞんじます」「いえ、心配しんぱいは御ご互たがいで、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人ふたり背負い込んしょいこんでるものだから、アハハハハあははははどうも何なんですね。何歳なんさいになっても心配しんぱいは絶えたえませんね」「此方こちら様ようなどは結構けっこうでいらっしゃいますが、私わたくしは――もし彼かれ人ひとがいつまでも病気びょうきだ病気びょうきだと申しもうして嫁よめを貰っもらってくれませんうちに、もしもの事ことがあったら、草葉くさばの陰かげで配偶はいぐうに合わすあわす顔かおがございません。まあどうして、あんなに聞ききき訳わけがないんでございましょう。何なんか云いいい出すだすと、阿母あはは私わたくしはこんな身体しんたいで、とても家いえの面倒めんどうは見みて行かいかれないから、藤尾ふじおに聟むこを貰っもらって、阿母あははさんの世話せわをさせて下さいください。私わたくしは財産ざいさんなんか一いち銭せんも入らはいらない。と、まあこうでござんすもの。私わたくしが本当ほんとうの親おやなら、それじゃ御前ごぜんの勝手にかってにおしと申すもうす事ことも出来できますが、御存じごぞんじの通りとおりなさぬ中なかの間柄あいだがらでございますから、そんな不義理ふぎりな事ことは人ひと様ように対したいしても出来できかねますし、じつに途方とほうに暮れくれます」 謎なぞの女おんなは和尚おしょうをじっと見みた。
和尚おしょうは大きなおおきな腹はらを出しだしたまま考えかんがえている。
灰吹はいふきがぽんと鳴るなる。
紫檀したんの蓋ふたを丁寧ていねいに被せるかぶせる。
煙管きせるは転がっころがった。
「なるほど」 和尚おしょうの声こえは例れいに似にず沈んしずんでいる。
「そうかと申しもうして生なまの母ははでない私わたくしが圧制あっせいがましく、むやみに差さ出でた口くちを利きききますと、御ご聞かきかせ申しもうしたくないようなごたごたも起りおこりましょうし……」「ふん、困るこまるね」 和尚おしょうは手提てさげの煙草盆たばこぼんの浅いあさい抽出ちゅうしゅつから欝金うこん木綿もめんの布巾ふきんを取り出しとりだして、鯨くじらの蔓つるを鄭重ていちょうに拭きふき出しだした。
「いっそ、私わたくしからとくと談じだんじて見みましょうか。あなたが云いいい悪けれわるければ」「いろいろ御ご心配しんぱいを掛けかけまして……」「そうして見るみるかね」「どんなものでございましょう。ああ云ういう神経しんけいが妙みょうになっているところへ、そんな事ことを聞かきかせましたら」「なにそりゃ、承知しょうちしているから、当人とうにんの気きに障らさわらないように云ういうつもりですがね」「でも、万一まんいち私わたくしがこなたへ出でてわざわざ御願いおねがい申しもうしたように取らとられると、それこそ後あとが大変たいへんな騒ぎさわぎになりますから……」「弱るよわるね、そう、疳かんが高くたかくなってちゃあ」「まるで腫物しゅもつへ障るさわるようで……」「ふうん」と和尚おしょうは腕組うでぐみを始めはじめた。
裄ゆきが短かいみじかいので太いふとい肘ひじが無作法むさほうに見えるみえる。
謎なぞの女おんなは人ひとを迷宮めいきゅうに導いみちびいて、なるほどと云わいわせる。
ふうんと云わいわせる。
灰吹はいふきをぽんと云わいわせる。
しまいには腕組うでぐみをさせる。
二十にじゅう世紀せいきの禁物きんもつは疾しつ言げんと遽にわか色いろである。
なぜかと、ある紳士しんし、ある淑女しゅくじょに尋ねたずねて見みたら、紳士しんしも淑女しゅくじょも口くちを揃えそろえて答えこたえた。
――疾しつ言げんと遽にわか色いろは、もっとも法律ほうりつに触れふれやすいからである。
――謎なぞの女おんなの鄭重ていちょうなのはもっとも法律ほうりつに触れふれ悪いわるい。
和尚おしょうは腕組うでぐみをしてふうんと云っいった。
「もし彼かれ人ひとが断然だんぜん家いえを出るでると云い張りいいはりますと――私わたくしがそれを見みて無論むろん黙っだまっている訳わけには参りまいりませんが――しかし当人とうにんがどうしても聞いきいてくれないとすると……」「聟むこかね。聟むことなると……」「いえ、そうなっては大変たいへんでございますが――万一まんいちの場合ばあいも考えかんがえて置かおかないと、いざと云ういう時じに困りこまりますから」「そりゃ、そう」「それを考えるかんがえると、あれが病気びょうきでもよくなって、もう少しすこししっかりしてくれないうちは、藤尾ふじおを片づけるかたづける訳わけに参りまいりません」「左様さようさね」と和尚おしょうは単純たんじゅんな首くびを傾けかたむけたが「藤尾ふじおさんは幾いく歳としですい」「もう、明けあけて四よんになります」「早いはやいものですね。えっ。ついこの間ままでこれっぱかりだったが」と大きなおおきな手てを肩かたとすれすれに出しだして、ひろげた掌てのひらを下したから覗き込むのぞきこむようにする。
「いえもう、身体しんたいばかり大きゅうおおきゅうございまして、から、役やくに立ちたちません」「……勘定かんじょうすると四よんになる訳わけだ。うちの糸いとが二にだから」 話はなしは放っはなって置くおくとどこかへ流れながれて行きいきそうになる。
謎なぞの女おんなは引っ張らひっぱらなければならぬ。
「こちらでも、糸子いとこさんやら、一いちさんやらで、御ご心配しんぱいのところを、こんな余計よけいな話はなしを申し上げもうしあげて、さぞ人ひとの気きも知らしらない呑気のんきな女おんなだと覚しさまし召すめすでございましょうが……」「いえ、どう致しいたして、実じつは私わたくしの方ほうからその事ことについてとくと御ご相談そうだんもしたいと思っおもっていたところで――一いちも外交官がいこうかんになるとか、ならんとか云っいって騒いさわいでいる最中さいちゅうだから、今日きょう明日あすと云ういう訳わけにも行かいかないですが、晩ばんかれ、早かれはやかれ嫁よめを貰わもらわなければならんので……」「でございますとも」「ついては、その、藤尾ふじおさんなんですがね」「はい」「あの方ほうなら、まあ気心きごころも知れしれているし、私わたくしも安心あんしんだし、一いちは無論むろん異存いぞんのある訳わけはなし――よかろうと思うおもうんですがね」「はい」「どうでしょう、阿母あははの御ご考かんがえは」「あの通つう行き届きゆきとどきませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるくださるのはまことにありがたい訳わけでございますが……」「いいじゃ、ありませんか」「そうなれば藤尾ふじおも仕合せしあわせ、私わたくしも安心あんしんで……」「御ご不足ふそくならともかく、そうでなければ……」「不足ふそくどころじゃございません。願っねがったり叶っかなったりで、この上うえもない結構けっこうな事ことでございますが、ただ彼かれ人ひとに困りこまりますので。一いちさんは宗近むねちか家いえを御ご襲かさねぎになる大事だいじな身体しんたいでいらっしゃる。藤尾ふじおが御ご気きに入るはいるか、入らはいらないかは分りわかりませんが、まず貰っもらっていただいたと致しいたしたところで、差し上げさしあげた後あとで、欽吾きんごがやはり今いまのようでは私わたくしも実じつのところはなはだ心細いこころぼそいような訳わけで……」「アハハハあはははそう心配しんぱいしちゃ際限さいげんがありませんよ。藤尾ふじおさんさえ嫁よめに行っいってしまえば欽吾きんごさんにも責任せきにんが出るでる訳わけだから、自然しぜんと考かんがえもちがってくるにきまっている。そうなさい」「そう云ういうものでございましょうかね」「それに御承知ごしょうちの通つう、阿父あちちがいつぞやおっしゃった事こともあるし。そうなれば亡くなっなくなった人ひとも満足まんぞくだろう」「いろいろ御ご親切しんせつにありがとう存じぞんじます。なに配偶はいぐうさえ生きいきておりますれば、一人ひとりで――こん――こんな心配しんぱいは致さいたさなくっても宜しいよろしい――のでございますが」 謎なぞの女おんなの云ういう事ことはしだいに湿気しっけを帯びおびて来るくる。
世よに疲れつかれたる筆ふではこの湿気しっけを嫌うきらう。
辛うじてかろうじて謎なぞの女おんなの謎なぞをここまで叙しじょし来きった時じ、筆ふでは、一いち歩あゆみも前まえへ進むすすむ事ことが厭いやだと云ういう。
日ひを作りつくり夜よるを作りつくり、海うみと陸りくとすべてを作りつくりたる神かみは、七なな日ひ目めに至っていたって休めやすめと言っいった。
謎なぞの女おんなを書きかきこなしたる筆ふでは、日ひのあたる別世界べつせかいに入っはいってこの湿気しっけを払わはらわねばならぬ。
日ひのあたる別世界べつせかいには二人ふたりの兄妹きょうだいが活動かつどうする。
六ろく畳たたみの中なか二に階かいの、南みなみを受けうけて明あきらるきを足れたれりとせず、小気味しょうきみよく開け放ちあけはなちたる障子しょうじの外そとには、二に尺さしの松まつが信楽しがらきの鉢ばちに、蟠とぐろまる根ねを盛りあげもりあげて、くの字じの影かげを椽えんに伏せるふせる。
一間いちけんの唐紙とうしは白地しろじに秦はた漢かん瓦かわら鐺こじりの譜ふを散らしちらしに張っちょうって、引手ひきてには波なみに千鳥ちどりが飛んとんでいる。
つづく三さん尺さしの仮かりの床ゆかは、軸じくを嫌っいやって、籠かご花はな活かつに軽いかるい一いち輪わをざっくばらんに投げ込んなげこんだ。
糸子いとこは床の間とこのまに縫物ぬいものの五色ごしきを、彩あやと乱しみだして、糸屑いとくずのこぼるるほどの抽出ちゅうしゅつを二につまであらわに抜いぬいた針箱はりばこを窓まど近くちかくに添えるそえる。
縫うぬうて行くいく糸いとの行方ゆくえは、一いち針はりごとに春はるを刻むきざむ幽かかすかな音おとに、聴かきかれるほどの静かしずかさを、兄あには大きなおおきな声こえで消しけしてしまう。
腹這はらばいは弥生やよいの姿すがた、寝ねながらにして天下てんかの春はるを領りょうす。
物指ものさしの先さきでしきりに敷居しきいを敲いたたいている。
「糸いと公こう。こりゃ御前ごぜんの座敷ざしきの方ほうが明かるくあかるくって上等じょうとうだね」「替えかえたげましょうか」「そうさ。替えかえて貰っもらったところで余りあまり儲かりもうかりそうでもないが――しかし御前ごぜんには上等じょうとう過ぎるすぎるよ」「上等じょうとう過ぎすぎたって誰だれも使わつかわないんだから好いよいじゃありませんか」「好いよいよ。好いよい事ことは好いよいが少しすこし上等じょうとう過ぎるすぎるよ。それにこの装飾そうしょく物ものがどうも――妙齢みょうれいの女子じょしには似合わしにあわしからんものがあるじゃないか」「何なんが?」「何なんがって、この松まつさ。こりゃたしか阿父あちちが苔こけ盛さかん園そので二十五にじゅうご円えんで売りつけうりつけられたんだろう」「ええ。大事だいじな盆栽ぼんさいよ。転覆てんぷくでもしようもんなら大変たいへんよ」「ハハハハははははこれを二十五にじゅうご円えんで売りつけうりつけられる阿爺あやも阿爺あやだが、それをまた二に階かいまで、えっちらおっちら担ぎ上げるかつぎあげる御前ごぜんも御前ごぜんだね。やっぱりいくら年ねんが違っちがっても親子おやこは爭われないものだ」「ホホホホほほほほ兄さんあにさんはよっぽど馬鹿ばかね」「馬鹿ばかだって糸いと公こうと同じおなじくらいな程度ていどだあね。兄弟きょうだいだもの」「おやいやだ。そりゃ私わたくしは無論むろん馬鹿ばかですわ。馬鹿ばかですけれども、兄さんあにさんも馬鹿ばかよ」「馬鹿ばかよか。だから御ご互たがいに馬鹿ばかよで好いよいじゃあないか」「だって証拠しょうこがあるんですもの」「馬鹿ばかの証拠しょうこがかい」「ええ」「そりゃ糸いと公こうの大おお発明はつめいだ。どんな証拠しょうこがあるんだね」「その盆栽ぼんさいはね」「うん、この盆栽ぼんさいは」「その盆栽ぼんさいはね――知らしらなくって」「知らしらないとは」「私大しだい嫌いやよ」「へええ、今度こんどこっちの大おお発明はつめいだ。ハハハハはははは。嫌いやなものを、なんでまた持っもって来きたんだ。重いおもいだろうに」「阿父あちちさまが御自分ごじぶんで持っもっていらしったのよ」「何なんだって」「日ひが中っちゅうって二に階かいの方ほうが松まつのために好いよいって」「阿爺あやも親切しんせつだな。そうかそれで兄さんあにさんが馬鹿ばかになっちまったんだね。阿爺あや親切しんせつにして子こは馬鹿ばかになりか」「なに、そりゃ、ちょっと。発句ほっく?」「まあ発句ほっくに似にたもんだ」「似にたもんだって、本当ほんとうの発句ほっくじゃないの」「なかなか追窮ついきゅうするね。それよりか御前ごぜん今日きょうは大変たいへん立派りっぱなものを縫っぬってるね。何なんだいそれは」「これ? これは伊勢崎いせさきでしょう」「いやに光ひかりつくじゃないか。兄さんあにさんのかい」「阿爺あやのよ」「阿爺あやのものばかり縫っぬって、ちっとも兄さんあにさんには縫っぬってくれないね。狐きつねの袖そで無む以後いご御ご見限りみかぎりだね」「あらいやだ。あんな嘘うそばかり。今いま着きていらっしゃるのも縫っぬって上げあげたんだわ」「これかい。これはもう駄目だめだ。こらこの通りとおり」「おや、ひどい襟えり垢あかだ事こと、こないだ着きたばかりだのに――兄さんあにさんは膏あぶらが多さわ過ぎるすぎるんですよ」「何なんが多さわ過ぎすぎても、もう駄目だめだよ」「じゃこれを縫い上げぬいあげたら、すぐ縫っぬって上げあげましょう」「新らしいあたらしいんだろうね」「ええ、洗っあらって張っちょうったの」「あの親父おやじの拝領はいりょうものか。ハハハハはははは。時じに糸いと公こう不思議ふしぎな事ことがあるがね」「何なんが」「阿爺あやは年寄としよりの癖くせに新らしいあたらしいものばかり着きて、年ねんの若いわかいおれには御古おふるばかり着せきせたがるのは、少しすこし妙みょうだよ。この調子ちょうしで行くいくとしまいには自分じぶんでパナマぱなまの帽子ぼうしを被っかぶって、おれには物置ものおきにある陣笠じんがさをかぶれと云ういうかも知れしれない」「ホホホホほほほほ兄さんあにさんは随分ずいぶん口くちが達者たっしゃね」「達者たっしゃなのは口くちだけか。可哀想かわいそうに」「まだ、あるのよ」 宗近むねちか君きみは返事へんじをやめて、欄干らんかんの隙間すきまから庭前ていぜんの植込うえこみを頬杖つらづえに見下しみくだしている。
「まだあるのよ。一寸ちょっと」と針はりを離れはなれぬ糸子いとこの眼めは、左ひだりの手てにつんと撮んつまんだ合せ目あわせめを、見るみる間まに括かつけて来きて、いざと云ういう指先ゆびさきを白くしろくふっくらと放しはなした時じ、ようやく兄あにの顔かおを見るみる。
「まだあるのよ。兄さんあにさん」「何なんだい。口くちだけでたくさんだよ」「だって、まだあるんですもの」と針はりの針はり孔あなを障子しょうじへ向けむけて、可愛らしいかわいらしい二重瞼にじゅうまぶたを細くほそくする。
宗近むねちか君きみは依然いぜんとして長閑のどかな心こころを頬杖つらづえに託したくして庭にわを眺めながめている。
「云っいって見みましょうか」「う。うん」 下顎かがくは頬杖つらづえで動かすうごかす事ことが出来できない。
返事へんじは咽喉のどから鼻はなへ抜けるぬける。
「あし。分っわかったでしょう」「う。うん」 紺こんの糸いとを唇くちびるに湿ししめして、指先ゆびさきに尖らすとがらすは、射い損なっそこなった針はり孔あなを通すとおす女おんなの計けいである。
「糸いと公こう、誰だれか御客ごきゃくがあるのかい」「ええ、甲野こうのの阿母あははが御ご出でよ」「甲野こうのの阿母あははか。あれこそ達者たっしゃだね、兄さんあにさんなんかとうてい叶わかなわない」「でも品しながいいわ。兄さんあにさん見みたように悪口わるぐちはおっしゃらないからいいわ」「そう兄さんあにさんが嫌いやじゃ、世話せわの仕し栄えいがない」「世話せわもしない癖くせに」「ハハハハはははは実じつは狐きつねの袖そで無むの御礼ごれいに、近日きんじつ御ご花見はなみにでも連れつれて行こういこうかと思っおもっていたところだよ」「もう花はなは散っちってしまったじゃありませんか。今時分いまじぶん御ご花見はなみだなんて」「いえ、上野うえのや向島むこうじまは駄目だめだが荒川あらかわは今いまが盛さかんだよ。荒川あらかわから萱野かやのへ行っいって桜草さくらそうを取っとって王子おうじへ廻っまわって汽車きしゃで帰っかえってくる」「いつ」と糸子いとこは縫うぬう手てをやめて、針はりを頭あたまへ刺すさす。
「でなければ、博覧会はくらんかいへ行っいって台湾たいわん館やかたで御ご茶ちゃを飲んのんで、イルミネーションいるみねーしょんを見みて電車でんしゃで帰るかえる。――どっちが好いよい」「わたし、博覧会はくらんかいが見みたいわ。これを縫っぬってしまったら行きいきましょう。ね」「うん。だから兄さんあにさんを大事だいじにしなくっちゃあ行けいけないよ。こんな親切しんせつな兄さんあにさんは日本にっぽん中なかに沢山たくさんはないぜ」「ホホホホほほほほへえ、大事だいじに致しいたします。――ちょっとその物指ものさしを借かりしてちょうだい」「そうして裁縫さいほうを勉強べんきょうすると、今いまに御ご嫁よめに行くいくときに金剛石こんごうせきの指環ゆびわを買っかってやる」「旨いうまいのねえ、口くちだけは。そんなに御ご金きんがあるの」「あるのって、――今いまはないさ」「いったい兄さんあにさんはなぜ落第らくだいしたんでしょう」「えらいからさ」「まあ――どこかそこいらに鋏はさみはなくって」「その蒲団ふとんの横よこにある。いや、もう少しすこし左ひだり。――その鋏はさみに猿さるが着いついてるのは、どう云ういう訳わけだ。洒落しゃれかい」「これ? 奇麗きれいでしょう。縮緬ちりめんの御ご申さるさん」「御前ごぜんがこしらえたのかい。感心かんしんに旨くうまく出来できてる。御前ごぜんは何になんにも出来できないが、こんなものは器用きようだね」「どうせ藤尾ふじおさんのようには参りまいりません――あらそんな椽えん側がわへ煙草たばこの灰はいを捨てるすてるのは御ご廃しはいしなさいよ。――これを借かりして上げるあげるから」「なんだいこれは。へええ。板目紙いためしの上うえへ千代紙ちよしを張り付けはりつけて。やっぱり御前ごぜんがこしらえたのか。閑人ひまじんだなあ。いったい何なんにするものだい。――糸いとを入れるいれる? 糸いとの屑くずをかい。へええ」「兄さんあにさんは藤尾ふじおさんのような方ほうが好きすきなんでしょう」「御前ごぜんのようなのも好きすきだよ」「私わたくしは別物べつものとして――ねえ、そうでしょう」「嫌いやでもないね」「あら隠しかくしていらっしゃるわ。おかしい事こと」「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野こうのの叔母おばはしきりに密談みつだんをしているね」「ことに因るよると藤尾ふじおさんの事ことかも知れしれなくってよ」「そうか、それじゃ聴きききに行こういこうか」「あら、御ご廃しはいしなさいよ――わたし、火ひ熨がいるんだけれども遠慮えんりょして取りとりに行かいかないんだから」「自分じぶんの家いえで、そう遠慮えんりょしちゃ有害ゆうがいだ。兄さんあにさんが取っとって来きてやろうか」「いいから御ご廃しはいしなさいよ。今いま下したへ行くいくとせっかくの話はなしをやめてしまってよ」「どうも剣呑けんのんだね。それじゃこっちも気息きそくを殺しころして寝転んねころんでるのか」「気息きそくを殺さころさなくってもいいわ」「じゃ気息きそくを活かしいかして寝転ぶねころぶか」「寝転ぶねころぶのはもう好いよい加減かげんになさいよ。そんなに行儀ぎょうぎがわるいから外交官がいこうかんの試験しけんに落第らくだいするのよ」「そうさな、あの試験官しけんかんはことによると御前ごぜんと同どう意見いけんかも知れしれない。困っこまったもんだ」「困っこまったもんだって、藤尾ふじおさんもやっぱり同どう意見いけんですよ」 裁縫さいほうの手てを休めやすめて、火ひ熨に逡巡しゅんじゅんっていた糸子いとこは、入子いれこ菱ひしに縢っかがった指ゆび抜ぬけを抽いて、※色いろに銀ぎんの雨あめを刺すさす針はり差さを裏うらに、如鱗じょりん木きの塗ぬり美びくしき蓋ふたをはたと落しおとした。
やがて日永ひながの窓まどに赤くあかくなった耳朶みみたぶのあたりを、平手ひらてで支えささえて、右みぎの肘ひじを針箱はりばこの上うえに、取り広げとりひろげたる縫物ぬいものの下したで、隠れかくれた膝ひざを斜めななめに崩しくずした。
襦袢じゅばんの袖そでに花はなと乱らんるる濃こき色きいろは、柔らかやわらかき腕うでを音おとなく滑っすべって、くっきりと普通ふつうよりは明かあきらかなる肉にくの柱はしらが、蝶ちょうと傾くかたむく絹紐きぬひもの下したに鮮かあざやかである。
「兄さんあにさん」「何なんだい。――仕事しごとはもうおやめか。何なんだかぼんやりした顔かおをしているね」「藤尾ふじおさんは駄目だめよ」「駄目だめだ? 駄目だめとは」「だって来るくる気きはないんですもの」「御前ごぜん聞いきいて来きたのか」「そんな事ことがまさか無躾ぶしつけに聞かきかれるもんですか」「聞かきかないでも分かるわかるのか。まるで巫女みこだね。――御前ごぜんがそう頬杖つらづえを突いついて針箱はりばこへ靠たれているところは天下てんかの絶景ぜっけいだよ。妹いもうとながら天晴あっぱれな姿勢しせいだハハハハはははは」「沢山たくさん御ご冷やかしひやかしなさい。人ひとがせっかく親切しんせつに言っいって上げるあげるのに」 云いいいながら糸子いとこは首くびを支えささえた白いしろい腕うでをぱたりと倒したおした。
揃っそろった指ゆびが針箱はりばこの角かくを抑えるおさえるように、前まえへ垂れるたれる。
障子しょうじに近いちかい片頬かたほおは、圧しおし付けつけられた手ての痕あとを耳朶みみたぶ共ともにぽうと赤くあかく染めそめている。
奇麗きれいに囲うかこう二に重じゅうの瞼まぶたは、涼しいすずしい眸ひとみを、長いながい睫まつげに隠そうかくそうとして、上うえの方ほうから垂れたれかかる。
宗近むねちか君きみはこの睫まつげの奥おくからしみじみと妹いもうとに見みられた。
――四角しかくな肩かたへ肉にくを入れいれて、倒したおした胴どうを肘ひじに撥ねはねて起き上がるおきあがる。
「糸いと公こう、おれは叔父おじさんの金きん時計とけいを貰うもらう約束やくそくがあるんだよ」「叔父おじさんの?」と軽くかるく聞き返しききかえして、急きゅうに声こえを落すおとすと「だって……」と云ういうや否いなや、黒いくろい眸ひとみは長いながい睫まつげの裏うらにかくれた。
派出はしゅつな色いろの絹紐きぬひもがちらりと前まえの方ほうへ顔かおを出すだす。
「大丈夫だいじょうぶだ。京都きょうとでも甲野こうのに話しはなして置いおいた」「そう」と俯目ふしめになった顔かおを半ばなかば上げるあげる。
危ぶむあやぶむような、慰めるなぐさめるような笑わらいが顔かおと共ともに浮いういて来るくる。
「兄さんあにさんが今いまに外国がいこくへ行っいったら、御前ごぜんに何なんか買っかって送っおくってやるよ」「今度こんどの試験しけんの結果けっかはまだ分らわからないの」「もう直じかだろう」「今度こんどは是非ぜひ及第きゅうだいなさいよ」「え、うん。アハハハハあはははは。まあ好いよいや」「好かよしみかないわ。――藤尾ふじおさんはね。学問がくもんがよく出来できて、信用しんようのある方ほうが好きすきなんですよ」「兄さんあにさんは学問がくもんが出来できなくって、信用しんようがないのかな」「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあ例れいに云ういうと、あの小野おのさんと云ういう方ほうがあるでしょう」「うん」「優等ゆうとうで銀時計ぎんとけいをいただいたって。今いま博士論文はかせろんぶんを書いかいていらっしゃるってね。――藤尾ふじおさんはああ云ういう方ほうが好よしみなのよ」「そうか。おやおや」「何なんがおやおやなの。だって名誉めいよですわ」「兄さんあにさんは銀時計ぎんとけいもいただけず、博士論文はかせろんぶんも書けかけず。落第らくだいはする。不名誉ふめいよの至いたりだ」「あら不名誉ふめいよだと誰だれも云やいやしないわ。ただあんまり気楽きらく過ぎるすぎるのよ」「あんまり気楽きらく過ぎるすぎるよ」「ホホホホほほほほおかしいのね。何なんだかちっとも苦くにならないようね」「糸いと公こう、兄さんあにさんは学問がくもんも出来できず落第らくだいもするが――まあ廃そうはいそう、どうでも好いよい。とにかく御前ごぜん兄さんあにさんを好いよい兄さんあにさんと思わおもわないかい」「そりゃ思うおもうわ」「小野おのさんとどっちが好いよい」「そりゃ兄さんあにさんの方ほうが好いよいわ」「甲野こうのさんとは」「知らしらないわ」 深いぶかい日ひは障子しょうじを透しとおして糸子いとこの頬ほおを暖かあたたかに射るいる。
俯向いうつむいた額がくの色いろだけがいちじるしく白くしろく見えみえた。
「おい頭あたまへ針はりが刺さっささってる。忘れるわすれると危ないあぶないよ」「あら」と翻えるひるがえる襦袢じゅばんの袖そでのほのめくうちを、二に本ほんの指ゆびに、ここと抑えおさえて、軽くかるく抜き取るぬきとる。
「ハハハハはははは見えみえない所ところでも、旨くうまく手てが届くとどくね。盲目もうもくにすると疳かんの好いよい按摩あんまさんが出来るできるよ」「だって慣れなれてるんですもの」「えらいもんだ。時じに糸いと公こう面白いおもしろい話はなしを聞かきかせようか」「なに」「京都きょうとの宿屋やどやの隣となりに琴ことを引くひく別嬪べっぴんがいてね」「端書はしがきに書いかいてあったんでしょう」「ああ」「あれなら知っしっててよ」「それがさ、世の中よのなかには不思議ふしぎな事ことがあるもんだね。兄さんあにさんと甲野こうのさんと嵐山あらしやまへ御ご花見はなみに行っいったら、その女おんなに逢っあったのさ。逢っあったばかりならいいが、甲野こうのさんがその女おんなに見惚れみとれて茶碗ちゃわんを落しおとしてしまってね」「あら、本当ほんとう? まあ」「驚ろいおどろいたろう。それから急行きゅうこうの夜よる汽車きしゃで帰るかえる時じに、またその女おんなと乗り合せのりあわせてね」「嘘うそよ」「ハハハハははははとうとう東京とうきょうまでいっしょに来きた」「だって京都きょうとの人ひとがそうむやみに東京とうきょうへくる訳わけがないじゃありませんか」「それが何なんかの因縁いんねんだよ」「人ひとを……」「まあ御ご聞きききよ。甲野こうのが汽車きしゃの中なかであの女おんなは嫁よめに行くいくんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配しんぱいして……」「もうたくさん」「たくさんなら廃そうはいそう」「その女おんなの方ほうは何なんとおっしゃるの、名前なまえは」「名前なまえかい――だってもうたくさんだって云ういうじゃないか」「教えおしえたって好いよいじゃありませんか」「ハハハハははははそう真面目まじめにならなくっても好いよい。実じつは嘘うそだ。全くまったく兄さんあにさんの作り事つくりごとさ」「悪わるらしい」 糸子いとこはめでたく笑っわらった。
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