虞美人草

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二

第 2 章
紅くれないを弥生やよいに包むつつむ昼ひる酣たけなわなるに、春はるを抽んずる紫むらさきの濃こき一いち点てんを、天地てんちの眠れるねむれるなかに、鮮やかあざやかに滴しずくたらしたるがごとき女おんなである。
夢ゆめの世よを夢ゆめよりも艶あでに眺めながめしむる黒髪くろかみを、乱らんるるなと畳めるたためる鬢びんの上うえには、玉虫たまむし貝かいを冴々さえざえと菫すみれに刻んきざんで、細ほそき金きん脚あしにはっしと打ち込んうちこんでいる。
静かしずかなる昼ひるの、遠きとおき世よに心こころを奪い去らうばいさらんとするを、黒くろき眸ひとみのさと動けうごけば、見るみる人ひとは、あなやと我われに帰るかえる。
半はん滴しずくのひろがりに、一瞬いっしゅんの短たんかきを偸んぬすんで、疾風しっぷうの威いを作さくすは、春はるにいて春はるを制するせいする深きふかき眼めである。
この瞳ひとみを遡っさかのぼって、魔力まりょくの境さかいを窮きゅうむるとき、桃源とうげんに骨ほねを白うしろうして、再びふたたび塵ごみ寰に帰るかえるを得とくず。
ただの夢ゆめではない。
糢糊もこたる夢ゆめの大いなるおおいなるうちに、燦さんたる一いち点てんの妖星ようせいが、死ぬしぬるまで我われを見よみよと、紫色むらさきいろの、眉まゆ近くちかく逼るせまるのである。
女おんなは紫色むらさきいろの着物きものを着きている。
静かしずかなる昼ひるを、静かしずかに栞しおりを抽いて、箔はくに重きおもき一いち巻まきを、女おんなは膝ひざの上うえに読むよむ。
「墓はかの前まえに跪ずいて云ういう。この手てにて――この手てにて君きみを埋めうめ参らまいらせしを、今いまはこの手ても自由じゆうならず。捕われとらわれて遠きとおき国くにに、行くいくほどもあらねば、この手てにて君きみが墓はかを掃いはい、この手てにて香こうを焚くたくべき折々おりおりの、長しながしえに尽きつきたりと思いおもいたまえ。生けいける時じは、莫ばく耶も我われらを割きさき難きがたきに、死しこそ無惨むざんなれ。羅馬ろーまの君きみは埃及えじぷとに葬むらほうむられ、埃及えじぷとなるわれは、君きみが羅馬ろーまに埋めうめられんとす。君きみが羅馬ろーまは――わが思うおもうほどの恩おんを、憂うれいきわれに拒めるこばめる、君きみが羅馬ろーまは、つれなき君きみが羅馬ろーまなり。されど、情じょうだにあらば、羅馬ろーまの神かみは、よも生きいきながらの辱かたじけなに、市しに引かひかるるわれを、雲くもの上うえよりよそに見みたまわざるべし。君きみが仇あだなる人ひとの勝利しょうりを飾るかざるわれを。埃及えじぷとの神かみに見離さみはなされたるわれを。君きみが片身かたみと残しのこしたまえるわが命いのちこそ仇あだなれ。情じょうある羅馬ろーまの神かみに祈るいのる。――われを隠しかくしたまえ。恥はじ見えみえぬ墓はかの底そこに、君きみとわれを永劫えいごうに隠しかくしたまえ。」
女おんなは顔かおを上げあげた。
蒼あお白きしろき頬ほおの締しめれるに、薄うすき化粧けしょうをほのかに浮かうきかせるは、一いち重じゅうの底そこに、余よれる何物なにものかを蔵くらせるがごとく、蔵くらせるものを見み極きょくわめんとあせる男おとこはことごとく虜とりことなる。
男おとこは眩まばゆげに半ばなかば口元くちもとを動かしうごかした。
口くちの居住きょじゅうの崩ほうるる時じ、この人ひとの意志いしはすでに相手あいての餌食えじきとならねばならぬ。
下唇したくちびるのわざとらしく色いろめいて、しかも判然はんぜんと口くちを切らきらぬ瞬間しゅんかんに、切り付けきりつけられたものは、必ずかならず受けうけ損うそこなう。
女おんなはただ隼しゅんの空そらを搏つうつがごとくちらと眸ひとみを動かしうごかしたのみである。
男おとこはにやにやと笑っわらった。
勝負しょうぶはすでについた。
舌したを※頭あたまに飛ばしとばして、泡あわ吹くふく蟹かにと、烏鷺うろを争うあらそうは策さくのもっとも拙つたななきものである。
風かぜ励鼓行こうして、やむなく城下じょうかの誓うけいをなさしむるは策さくのもっとも凡ぼんなるものである。
蜜みつを含んふくんで針はりを吹きふき、酒さけを強いつよいて毒どくを盛るもるは策さくのいまだ至らいたらざるものである。
最上さいじょうの戦いくさには一いち語ごをも交うかうる事ことを許さゆるさぬ。
拈華ねんげの一いち拶さつは、ここを去るさる八千はっせん里さとならざるも、ついに不言ふげんにしてまた不語ふごである。
ただ躊躇ちゅうちょする事こと刹那せつななるに、虚うつろをうつ悪魔あくまは、思うおもうつぼに迷めいと書きかき、惑と書きかき、失わうしなわれたる人ひとの子こ、と書いかいて、すわと云ういう間まに引き上げるひきあげる。
下界かかい万丈ばんじょうの鬼火おにびに、腥なまぐささき青あお燐りんを筆ふでの穂ほに吹いふいて、会釈えしゃくもなく描き出せるえがきだせる文字もじは、白髪はくはつをたわしにして洗っあらっても容易くたやすくは消えきえぬ。
笑っわらったが最後さいご、男おとこはこの笑わらいを引き戻すひきもどす訳わけには行くいくまい。
「小野おのさん」と女おんなが呼びかけよびかけた。
「え?」とすぐ応じおうじた男おとこは、崩れくずれた口元くちもとを立て直すたてなおす暇ひまもない。
唇くちびるに笑わらいを帯びおびたのは、半ばなかば無意識むいしきにあらわれたる、心こころの波なみを、手持無沙汰てもちむさたに草書そうしょに崩しくずしたまでであって、崩しくずしたものの尽きつきんとする間際まぎわに、崩すくずすべき第だい二にの波なみの来きぬのを煩っわずらっていた折おりであるから、渡りわたりに船ふねの「え?」は心安くこころやすく咽喉のどを滑り出すべりでたのである。
女おんなは固よりもとより曲者くせものである。
「え?」と云わいわせたまま、しばらくは何になんにも云わいわぬ。
「何なんですか」と男おとこは二の句にのくを継いつづいだ。
継がつぎがねばせっかくの呼吸こきゅうが合わあわぬ。
呼吸こきゅうが合わあわねば不安ふあんである。
相手あいてを眼中がんちゅうに置くおくものは、王侯おうこうといえども常つねにこの感かんを起すおこす。
いわんや今いま、紫むらさきの女おんなのほかに、何ものなにものも映らうつらぬ男おとこの眼めには、二の句にのくは固よりもとより愚かおろかである。
女おんなはまだ何になんにも言わいわぬ。
床ゆかに懸けかけた容斎ようさいの、小松こまつに交こうる稚子わくご髷まげの、太刀持たちもちこそ、昔むかししから長閑のどかである。
狩衣かりぎぬに、鹿毛かげなる駒こまの主人しゅじんは、事ことなきに慣れなれし殿上人てんじょうにんの常つねか、動くうごく景色けしきも見えみえぬ。
ただ男おとこだけは気きが気きでない。
一いちの矢やはあだに落ちおちた、二の矢にのやのあたった所ところは判然はんぜんせぬ。
これが外れれはずれれば、また継がつぎがねばならぬ。
男おとこは気息きそくを凝らしこらして女おんなの顔かおを見詰めみつめている。
肉にくの足らあしらぬ細面ほそおもてに予期よきの情じょうを漲らしみなぎらして、重きおもきに過すぎぐる唇くちびるの、奇きか偶たまかを疑がいうたがいつつも、手て答こたえのあれかしと念ずるねんずる様子ようすである。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女おんなは落ちついおちついた調子ちょうしで云ういう。
これは意外いがいな手て答こたえである。
天てんに向っむかって彎けるひける弓ゆみの、危うくあやうくも吾がわが頭あたまの上うえに、瓢箪ひょうたん羽はねを舞いまい戻しもどしたようなものである。
男おとこの我われを忘れわすれて、相手あいてを見守るみまもるに引きひき反はんえて、女おんなは始めはじめより、わが前まえに坐ざわれる人ひとの存在そんざいを、膝ひざに開けるあける一いち冊さつのうちに見失っみうしなっていたと見えるみえる。
その癖くせ、女おんなはこの書物しょもつを、箔はく美しうつくしと見つけみつけた時じ、今いま携えたずさえたる男おとこの手てから※ぎ取るとるようにして、読みよみ始めはじめたのである。
男おとこは「ええ」と申しもうしたぎりであった。
「この女おんなは羅馬ろーまへ行くいくつもりなんでしょうか」 女おんなは腑ふに落ちおちぬ不快ふかいの面持おももちで男おとこの顔かおを見みた。
小野おのさんは「クレオパトラくれおぱとら」の行為こういに対したいして責任せきにんを持たもたねばならぬ。
「行きいきはしませんよ。行きいきはしませんよ」と縁えんもない女王じょおうを弁護べんごしたような事ことを云ういう。
「行かいかないの? 私わたくしだって行かいかないわ」と女おんなはようやく納得なっとくする。
小野おのさんは暗いくらい隧道すいどうを辛うじてかろうじて抜け出しぬけだした。
「沙翁しゃおうの書いかいたものを見るみるとその女おんなの性格せいかくが非常ひじょうによく現われあらわれていますよ」 小野おのさんは隧道すいどうを出るでるや否いなや、すぐ自転車じてんしゃに乗っのって馳はせけ出そうけだそうとする。
魚さかなは淵ふちに躍るおどる、鳶とびは空そらに舞うまう。
小野おのさんは詩しの郷さとに住むすむ人ひとである。
稜りょう錐すい塔とうの空そらを燬く所ところ、獅身女おんなの砂すなを抱くいだく所ところ、長河ながかわの鰐魚がくぎょを蔵するぞうする所ところ、二千にせん年ねんの昔むかし妖姫ようきクレオパトラくれおぱとらの安図あんと尼にと相そう擁しようして、駝鳥だちょうの※※に軽くかるく玉たま肌はだを払えるはらえる所ところ、は好よしみ画題がだいであるまた好よしみ詩し料りょうである。
小野おのさんの本領ほんりょうである。
「沙翁しゃおうの描いえがいたクレオパトラくれおぱとらを見るみると一いち種しゅ妙みょうな心持ちこころもちになります」「どんな心持ちこころもちに?」「古いふるい穴あなの中なかへ引き込まひきこまれて、出るでる事ことが出来できなくなって、ぼんやりしているうちに、紫色むらさきいろのクレオパトラくれおぱとらが眼めの前まえに鮮やかあざやかに映っうつって来きます。剥げはげかかった錦絵にしきえのなかから、たった一人ひとりがぱっと紫むらさきに燃えもえて浮き出しうきだして来きます」「紫むらさき? よく紫むらさきとおっしゃるのね。なぜ紫むらさきなんです」「なぜって、そう云ういう感じかんじがするのです」「じゃ、こんな色いろですか」と女おんなは青きあおき畳たたみの上うえに半ばなかば敷けるしける、長きながき袖そでを、さっと捌いさばいて、小野おのさんの鼻はなの先さきに翻こぼしえす。
小野おのさんの眉間みけんの奥おくで、急きゅうにクレオパトラくれおぱとらの臭においがぷんとした。
「え?」と小野おのさんは俄然がぜんとして我われに帰るかえる。
空そらを掠めるかすめる子規しきの、駟しも及ばおよばぬに、降るふる雨あめの底そこを突き通しつきとおして過ぎすぎたるごとく、ちらと動けるうごける異ことしき色いろは、疾くとく収まっおさまって、美びくしい手ては膝頭ひざがしらに乗っのっている。
脈打つみゃくうつとさえ思えおもえぬほどに静かしずかに乗っのっている。
ぷんとしたクレオパトラくれおぱとらの臭においは、しだいに鼻はなの奥おくから逃げにげて行くいく。
二千にせん年ねんの昔むかしから不意ふいに呼び出さよびだされた影かげの、恋々れんれんと遠のくとおのく後あとを追うおうて、小野おのさんの心こころは杳よう窕の境さかいに誘わさそわれて、二千にせん年ねんのかなたに引き寄せひきよせらるる。
「そよと吹くふく風かぜの恋こいや、涙なみだの恋こいや、嘆息たんそくの恋こいじゃありません。暴風ぼうふう雨あめの恋こい、暦こよみにも録っとっていない大おお暴雨ぼううの恋こい。九きゅう寸すん五ご分ぶんの恋こいです」と小野おのさんが云ういう。
「九きゅう寸すん五ご分ぶんの恋こいが紫むらさきなんですか」「九きゅう寸すん五ご分ぶんの恋こいが紫むらさきなんじゃない、紫むらさきの恋こいが九きゅう寸すん五ご分ぶんなんです」「恋こいを斬るきると紫色むらさきいろの血ちが出るでるというのですか」「恋こいが怒るおこると九きゅう寸すん五ご分ぶんが紫色むらさきいろに閃るひかると云ういうのです」「沙翁しゃおうがそんな事ことを書いかいているんですか」「沙翁しゃおうが描いえがいた所ところを私わたくしが評しひょうしたのです。――安図あんと尼にが羅馬ろーまでオクテおくてヴィアゔぃあと結婚けっこんした時じに――使しのものが結婚けっこんの報道ほうどうを持っもって来きた時じに――クレオパトラくれおぱとらの……」「紫むらさきが嫉妬しっとで濃くこく染まっそまったんでしょう」「紫むらさきが埃及えじぷとの日ひで焦げるこげると、冷たいつめたい短刀たんとうが光りひかります」「このくらいの濃こさ加減かげんなら大丈夫だいじょうぶですか」と言うゆう間まもなく長いながい袖そでが再びふたたび閃いひらめいた。
小野おのさんはちょっと話はなしの腰こしを折らおられた。
相手あいてに求むるもとむるところがある時じでさえ、腰こしを折らおらねば承知しょうちをせぬ女おんなである。
毒気どくけを抜いぬいた女おんなは得意とくいに男おとこの顔かおを眺めながめている。
「そこでクレオパトラくれおぱとらがどうしました」と抑えおさえた女おんなは再びふたたび手綱たづなを緩めるゆるめる。
小野おのさんは馳はせけ出さけださなければならぬ。
「オクテヴィヤの事ことを根堀りねほり葉堀りはほり、使しのものに尋ねるたずねるんです。その尋ねたずね方ほうが、詰りなじり方ほうが、性格せいかくを活動かつどうさせているから面白いおもしろい。オクテヴィヤは自分じぶんのように背せが高いたかいかの、髪の毛かみのけはどんな色いろだの、顔かおが丸いまりいかの、声こえが低いひくいかの、年ねんはいくつだのと、どこまでも使者ししゃを追窮ついきゅうします。……」「全体ぜんたい追窮ついきゅうする人ひとの年ねんはいくつなんです」「クレオパトラくれおぱとらは三十さんじゅうばかりでしょう」「それじゃ私わたくしに似にてだいぶ御ご婆ばあさんね」 女おんなは首くびを傾けかたむけてホホほほと笑っわらった。
男おとこは怪しきあやしき靨えくぼのなかに捲き込ままきこまれたままちょっと途方とほうに暮れくれている。
肯定こうていすれば偽りいつわりになる。
ただ否定ひていするのは、あまりに平凡へいぼんである。
皓いしろい歯はに交こうる一筋ひとすじの金きんの耀いかがやいてまた消えんきえんとする間際まぎわまで、男おとこは何なんの返事へんじも出でなかった。
女おんなの年ねんは二十四にじゅうよんである。
小野おのさんは、自分じぶんと三さんつ違いである事ことを疾うとうから知っしっている。
美しきうつくしき女おんなの二十にじゅうを越えこえて夫おっとなく、空しくむなしく一二三いちにさんを数えかぞえて、二十四にじゅうよんの今日きょうまで嫁がよめがぬは不思議ふしぎである。
春はる院いんいたずらに更けふけて、花影はなかげ欄らんにたけなわなるを、遅日ちじつ早くはやく尽きつきんとする風情ふぜいと見みて、琴ことを抱いいだいて恨み顔うらみがおなるは、嫁ぎとつぎ後れおくれたる世よの常つねの女おんなの習なるに、麈尾しゅびに払うはらう折々おりおりの空音そらねに、琵琶びわらしき響ひびきを琴柱ことじに聴いきいて、本来ほんらいならぬ音色ねいろを興きょうあり気きに楽しむたのしむはいよいよ不思議ふしぎである。
仔細しさいは固よりもとより分らわからぬ。
この男おとことこの女おんなの、互たがいに語るかたる言葉ことばの影かげから、時々ときどきに覗き込んのぞきこんで、いらざる臆測おくそくに、うやむやなる恋こいの八卦はっけをひそかに占うらないなうばかりである。
「年ねんを取るとると嫉妬しっとが増しまして来るくるものでしょうか」と女おんなは改あらためたまって、小野おのさんに聞いきいた。
小野おのさんはまた面めん喰うくう。
詩人しじんは人間にんげんを知らしらねばならん。
女おんなの質問しつもんには当然とうぜん答こたえうべき義務ぎむがある。
けれども知らしらぬ事ことは答えこたえられる訳わけがない。
中年ちゅうねんの人ひとの嫉妬しっとを見みた事ことのない男おとこは、いくら詩人しじんでも文士ぶんしでも致し方いたしかたがない。
小野おのさんは文字もじに堪能たんのうなる文学者ぶんがくしゃである。
「そうですね。やっぱり人ひとに因るよるでしょう」 角かくを立てたてない代りかわりに挨拶あいさつは濁っにごっている。
それで済ますすます女おんなではない。
「私わたくしがそんな御ご婆ばあさんになったら――今いまでも御ご婆ばあさんでしたっけね。ホホホほほほ――しかしそのくらいな年ねんになったら、どうでしょう」「あなたが――あなたに嫉妬しっとなんて、そんなものは、今いまだって……」「有りありますよ」 女おんなの声こえは静かしずかなる春風しゅんぷうをひやりと斬っきった。
詩しの国くにに遊んあそんでいた男おとこは、急きゅうに足あしを外しはずして下界かかいに落ちおちた。
落ちおちて見れみればただの人ひとである。
相手あいては寄りつけよりつけぬ高いたかい崖がけの上うえから、こちらを見下しみくだしている。
自分じぶんをこんな所ところに蹴落しけおとしたのは誰だれだと考えるかんがえる暇ひまもない。
「清姫きよひめが蛇へびになったのは何歳なんさいでしょう」「左様さよう、やっぱり十じゅう代だいにしないと芝居しばいになりませんね。おおかた十じゅう八はち九きゅうでしょう」「安珍あんちんは」「安珍あんちんは二十五にじゅうごぐらいがよくはないでしょうか」「小野おのさん」「ええ」「あなたは御ご何歳なんさいでしたかね」「私わたくしですか――私わたくしはと……」「考えかんがえないと分らわからないんですか」「いえ、なに――たしか甲野こうの君きみと御ご同い年おないどしでした」「そうそう兄あにと御ご同い年おないどしですね。しかし兄あにの方ほうがよっぽど老けふけて見えみえますよ」「なに、そうでも有りありません」「本当ほんとうよ」「何なんか奢りおごりましょうか」「ええ、奢っおごってちょうだい。しかし、あなたのは顔かおが若いわかいのじゃない。気きが若いわかいんですよ」「そんなに見えみえますか」「まるで坊っぼっちゃんのようですよ」「可か愛想あいそに」「可愛らしいかわいらしいんですよ」 女おんなの二十四にじゅうよんは男おとこの三十さんじゅうにあたる。
理りも知らしらぬ、非ひも知らしらぬ、世の中よのなかがなぜ廻転かいてんして、なぜ落ちつくおちつくかは無論むろん知らしらぬ。
大いなるおおいなる古今ここんの舞台ぶたいの極まりなくきわまりなく発展はってんするうちに、自己じこはいかなる地位ちいを占めしめて、いかなる役割やくわりを演じえんじつつあるかは固よりもとより知らしらぬ。
ただ口くちだけは巧者こうしゃである。
天下てんかを相手あいてにする事ことも、国家こっかを向うむこうへ廻すまわす事ことも、一団いちだんの群衆ぐんしゅうを眼前がんぜんに、事ことを処するしょする事ことも、女おんなには出来できぬ。
女おんなはただ一人ひとりを相手あいてにする芸当げいとうを心得こころえている。
一人ひとりと一人ひとりと戦うたたかう時じ、勝つかつものは必ずかならず女おんなである。
男おとこは必ずかならず負けるまける。
具象ぐしょうの籠かごの中なかに飼わかわれて、個体こたいの粟ぞくを喙んでは嬉しうれしげに羽はね搏するものは女おんなである。
籠かごの中なかの小天地しょうてんちで女おんなと鳴くなく音おとを競うきそうものは必ずかならず斃れるたおれる。
小野おのさんは詩人しじんである。
詩人しじんだから、この籠かごの中なかに半分はんぶん首くびを突き込んつきこんでいる。
小野おのさんはみごとに鳴きなき損ねそこねた。
「可愛らしいかわいらしいんですよ。ちょうど安珍あんちんのようなの」「安珍あんちんは苛いむごい」 許せゆるせと云わいわぬばかりに、今度こんどは受け留めうけとめた。
「御ご不服ふふくなの」と女おんなは眼元めもとだけで笑うわらう。
「だって……」「だって、何なんが御ご厭いやなの」「私わたくしは安珍あんちんのように逃げにげやしません」 これを逃げにげ損ねそこねの受じゅ太刀たちと云ういう。
坊っぼっちゃんは機きを見みて奇麗きれいに引き上げるひきあげる事ことを知らしらぬ。
「ホホホほほほ私わたくしは清姫きよひめのように追っおっ懸けかけますよ」 男おとこは黙っだまっている。
「蛇へびになるには、少しすこし年ねんが老けふけ過ぎすぎていますかしら」 時じならぬ春はるの稲妻いなずまは、女おんなを出でででて男おとこの胸むねをするりと透しとおした。
色いろは紫むらさきである。
「藤尾ふじおさん」「何なんです」 呼んよんだ男おとこと呼ばよばれた女おんなは、面めんと向っむかって対座たいざしている。
六ろく畳たたみの座敷ざしきは緑みどりり濃こき植込うえこみに隔てへだてられて、往来おうらいに鳴るなる車くるまの響ひびきさえ幽かかすかである。
寂寞じゃくまくたる浮世うきよのうちに、ただ二人ふたりのみ、生きいきている。
茶縁ちゃえんの畳たたみを境さかいに、二に尺さしを隔てへだてて互たがいに顔かおを見合しみあいした時じ、社会しゃかいは彼かれらの傍そばを遠くとおく立ち退いたちのいた。
救世きゅうせい軍ぐんはこの時じ太鼓たいこを敲いたたいて市し中なかを練りねり歩あゆみるいている。
病院びょういんでは腹膜炎ふくまくえんで患者かんじゃが虫むしの気息きそくを引き取ろうひきとろうとしている。
露西亜ろしあでは虚無きょむ党とうが爆裂弾ばくれつだんを投げなげている。
停車場ていしゃじょうでは掏摸すりが捕まっつかまっている。
火事かじがある。
赤子あかごが生れうまれかかっている。
練兵れんぺい場ばで新兵しんぺいが叱らしかられている。
身みを投げなげている。
人ひとを殺しころしている。
藤尾ふじおの兄さんあにさんと宗近むねちか君きみは叡山えいざんに登っのぼっている。
花はなの香こうさえ重きおもきに過すぎぐる深きふかき巷ちまたに、呼び交わしよびかわしたる男おとこと女おんなの姿すがたが、死しの底そこに滅めつり込むごむ春はるの影かげの上うえに、明らかあきらかに躍りあがるおどりあがる。
宇宙うちゅうは二人ふたりの宇宙うちゅうである。
脈々みゃくみゃく三千さんぜん条じょうの血管けっかんを越すこす、若きわかき血潮ちしおの、寄せ来るよせくる心臓しんぞうの扉とびらは、恋こいと開きひらき恋こいと閉じとじて、動かうごかざる男女だんじょを、躍然と大おお空裏くうりに描き出しえがきだしている。
二人ふたりの運命うんめいはこの危うきあやうき刹那せつなに定まるさだまる。
東ひがしか西にしか、微塵みじんだに体からだを動かせうごかせばそれぎりである。
呼ぶよぶはただごとではない、呼ばよばれるのもただごとではない。
生死せいし以上いじょうの難関なんかんを互たがいの間まに控えひかえて、羃然たる爆発物ばくはつぶつが抛げなげ出さだされるか、抛げなげ出すだすか、動かうごかざる二人ふたりの身体しんたいは二に塊かたまりの※である。
「御ご帰りかえりいっ」と云ういう声こえが玄関げんかんに響くひびくと、砂利じゃりを軋るきしる車輪しゃりんがはたと行きいき留まっとまった。
襖ふすまを開けるあける音おとがする。
小走りこばしりに廊下ろうかを伝うつたう足音あしおとがする。
張り詰めはりつめた二人ふたりの姿勢しせいは崩れくずれた。
「母ははが帰っかえって来きたのです」と女おんなは坐っすわったまま、何気なんげなく云ういう。
「ああ、そうですか」と男おとこも何気なんげなく答えるこたえる。
心こころを判然はんぜんと外そとに露わあらわさぬうちは罪つみにはならん。
取り返しとりかえしのつく謎なぞは、法ほう庭にわの証拠しょうことしては薄弱はくじゃくである。
何なん気きなく、もてなしている二人ふたりは、互たがいに何気なんげのあった事ことを黙許もっきょしながら、何気なんげなく安心あんしんしている。
天下てんかは太平たいへいである。
何人なんにんも後指うしろゆびを指すさす事ことは出来できぬ。
出来ればできれば向うむこうが悪るいわるい。
天下てんかはあくまでも太平たいへいである。
「御ご母さんははさんは、どちらへか行かぎょうらしったんですか」「ええ、ちょっと買物かいものに出掛けでかけました」「だいぶ御ご邪魔じゃまをしました」と立ちたち懸けるかける前まえに居住きょじゅうをちょっと繕つくろいろい直すなおす。
洋よう袴はかまの襞ひだの崩れるくずれるのを気きにして、常つねは出来るだけできるだけ楽らくに坐るすわる男おとこである。
いざと云えいえば、突っかいつっかい棒ぼうに、尻しりを挙げるあげるための、膝頭ひざがしらに揃えそろえた両手りょうては、雪ゆきのようなカフスかふすに甲こうまで蔽わおおわれて、くすんだ鼠ねずみ縞しまの袖の下そでのしたから、七宝しっぽうの夫婦ふうふ釦ぼたんが、きらりと顔かおを出しだしている。
「まあ御ご緩かんくりなさい。母ははが帰っかえっても別べつに用事ようじはないんですから」と女おんなは帰っかえった人ひとを迎えるむかえる気色けしきもない。
男おとこはもとより尻しりを上げるあげるのは厭いやである。
「しかし」と云いいいながら、隠いん袋ふくろの中なかを捜さがせぐって、太いふとい巻煙草まきたばこを一いち本ほん取り出しとりだした。
煙草たばこの煙けむりは大抵たいていのものを紛らすまぎらす。
いわんやこれは金きんの吸口すいくちの着いついた埃及えじぷと産さんである。
輪わに吹きふき、山やまに吹きふき、雲くもに吹くふく濃こき色きいろのうちには、立ち掛けたちかけた腰こしを据え直しすえなおして、クレオパトラくれおぱとらと自分じぶんの間隔かんかくを少しすこしでも詰めるつめる便びんが出来できんとも限らかぎらぬ。
薄いうすい煙りけむりの、黒いくろい口髭くちひげを越しこして、ゆたかに流れ出しながれだした時じ、クレオパトラくれおぱとらは果然かぜん、「まあ、御坐りござり遊ばせあそばせ」と叮嚀ていねいな命令めいれいを下しおろした。
男おとこは無言むごんのまま再びふたたび膝ひざを崩すくずす。
御ご互たがいに春はるの日ひは永いながい。
「近頃ちかごろは女おんなばかりで淋しくさびしくっていけません」「甲野こうの君きみはいつ頃いつごろ御ご帰りかえりですか」「いつ頃いつごろ帰りかえりますか、ちっとも分りわかりません」「御ご音信おんしんが有りありますか」「いいえ」「時候じこうが好いよいから京都きょうとは面白いおもしろいでしょう」「あなたもいっしょに御ご出でになればよかったのに」「私わたくしは……」と小野おのさんは後あとを暈かしぼかしてしまう。
「なぜ行らやらっしゃらなかったの」「別べつに訳わけはないんです」「だって、古いふるい御ご馴染なじめじゃありませんか」「え?」 小野おのさんは、煙草たばこの灰はいを畳たたみの上うえに無遠慮むえんりょに落すおとす。
「え?」と云ういう時じ、不要ふよう意いに手てが動いうごいたのである。
「京都きょうとには長いながい事こと、いらしったんじゃありませんか」「それで御ご馴染なじめなんですか」「ええ」「あんまり古いふるい馴染なじめだから、もう行くいく気きにならんのです」「随分ずいぶん不人情ふにんじょうね」「なに、そんな事ことはないです」と小野おのさんは比較的ひかくてき真面目まじめになって、埃及えじぷと煙草たばこを肺はいの中なかまで吸い込んすいこんだ。
「藤尾ふじお、藤尾ふじお」と向うむこうの座敷ざしきで呼ぶよぶ声こえがする。
「御ご母さんははさんでしょう」と小野おのさんが聞くきく。
「ええ」「私わたくしはもう帰りかえります」「なぜです」「でも何なんか御用ごようが御ご在りありになるんでしょう」「あったって構わかまわないじゃありませんか。先生せんせいじゃありませんか。先生せんせいが教えおしえに来きているんだから、誰だれが帰っかえったって構わかまわないじゃありませんか」「しかしあんまり教えおしえないんだから」「教わっおそわっていますとも、これだけ教わっおそわっていればたくさんですわ」「そうでしょうか」「クレオパトラくれおぱとらや、何なんかたくさん教わっおそわってるじゃありませんか」「クレオパトラくれおぱとらぐらいで好けれよければ、いくらでもあります」「藤尾ふじお、藤尾ふじお」と御ご母さんははさんはしきりに呼ぶよぶ。
「失礼しつれいですがちょっと御免ごめん蒙りこうむります。――なにまだ伺いうかがいたい事ことがあるから待っまっていて下さいください」 藤尾ふじおは立ったった。
男おとこは六ろく畳たたみの座敷ざしきに取り残さとりのこされる。
平床ひらどこに据えすえた古ふる薩摩さつまの香炉こうろに、いつ焼きやき残しのこしたる煙けむりの迹か、こぼれた灰はいの、灰はいのままに崩れくずれもせず、藤尾ふじおの部屋へやは昨日きのうも今日きょうも静かしずかである。
敷きしき棄てすてた八はち反はんの座布団ざふとんに、主ぬしを待つまつ間まの温気うんきは、軽くかるく払うはらう春風しゅんぷうに、ひっそり閑ひっそりかんと吹かふかれている。
小野おのさんは黙然もくぜんと香炉こうろを見みて、また黙然もくぜんと布団ふとんを見みた。
崩しくずし格子こうしの、畳たたみから浮くうく角かくに、何なんやら光るひかるものが奥おくに挟まっはさまっている。
小野おのさんは少しすこし首くびを横よこにして輝やくかがやくものを物色ぶっしょくして考えかんがえた。
どうも時計とけいらしい。
今までいままでは頓とみと気きがつかなかった。
藤尾ふじおの立つたつ時じに、絹きぬ障さわりのしなやかに、布団ふとんが擦れすれて、隠しかくしたものが出で掛っかかったのかも知れしれぬ。
しかし布団ふとんの下したに時計とけいを隠すかくす必要ひつようはあるまい。
小野おのさんは再びふたたび布団ふとんの下したを覗いのぞいて見みた。
松葉まつば形かたちに繋ぎつなぎ合せあわせた鎖くさりの折れ曲っおれまがって、表ひょうに向いむかいている方ほうが、細くほそく光線こうせんを射返すいかえす奥おくに、盛り上がるもりあがる七子ななこの縁えんが幽かかすかに浮いういている。
たしかに時計とけいに違いない。
小野おのさんは首くびを傾けかたむけた。
金きんは色いろの純じゅんにして濃こきものである。
富貴ふうきを愛するあいするものは必ずかならずこの色いろを好むこのむ。
栄誉えいよを冀うこいねがうものは必ずかならずこの色いろを撰せんむ。
盛名せいめいを致すいたすものは必ずかならずこの色いろを飾るかざる。
磁石じしゃくの鉄てつを吸うすうごとく、この色いろはすべての黒くろき頭あたまを吸うすう。
この色いろの前まえに平身へいしんせざるものは、弾力だんりょくなき護謨ごむである。
一いち個この人ひととして世間せけんに通用つうようせぬ。
小野おのさんはいい色いろだと思っおもった。
折柄おりから向うむこう座敷ざしきの方角ほうがくから、絹きぬのざわつく音おとが、曲がりまがり椽えんを伝わっつたわって近づいちかづいて来るくる。
小野おのさんは覗き込んのぞきこんだ眼めを急きゅうに外らしそらして、素知らぬそしらぬ顔かおで、容斎ようさいの軸じくを真正面ましょうめんに眺めながめていると、二人ふたりの影かげが敷居しきい口くちにあらわれた。
黒くろ縮緬ちりめんの三つ紋みつもんを撫で肩なでがたに着きこなして、くすんだ半襟はんえりに、髷まげばかりを古風こふうにつやつやと光らしひからしている。
「おやいらっしゃい」と御ご母さんははさんは軽くかるく会釈えしゃくして、椽えんに近くちかく座ざを占めるしめる。
鶯うぐいすも鳴かなかぬ代りかわりに、目めに立つたつほどの塵ごみもなく掃除そうじの行き届いいきとどいた庭にわに、長なが過ぎるすぎるほどの松まつが、わが物もの顔かおに一いち本ほん控えひかえている。
この松まつとこの御ご母さんははさんは、何なんとなく同どう一体いったいのように思わおもわれる。
「藤尾ふじおが始終しじゅう御ご厄介やっかいになりまして――さぞわがままばかり申すもうす事ことでございましょう。まるで小供こどもでございますから――さあ、どうぞ御ご楽らくに――いつも御ご挨拶あいさつを申さもうさねばならんはずでございますが、つい年ねんを取っとっているものでございますから、失礼しつれいのみ致しいたします。――どうも実じつに赤児あかごで、困りこまり切りきります、駄々だだばかり捏ねこねまして――でも英語えいごだけは御蔭みかげさまで大変たいへん好きすきな模様もようで――近頃ちかごろではだいぶむずかしいものが読めるよめるそうで、自分じぶんだけはなかなか得意とくいでおります。――何なん兄あにがいるのでございますから、教えおしえて貰えもらえば好いよいのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟きょうだいは行かいかんものと見えみえまして――」 御ご母さんははさんの弁舌べんぜつは滾々こんこんとしてみごとである。
小野おのさんは一いち字じの間投詞かんとうしを挟むはさむ遑いとままなく、口車くちぐるまに乗っのって馳はせけて行くいく。
行く先ゆくさきは固よりもとより判然はんぜんせぬ。
藤尾ふじおは黙っだまって最前さいぜん小野おのさんから借りかりた書物しょもつを開いひらいて続つづくを読んよんでいる。
「花はなを墓はかに、墓はかに口くちを接吻せっぷんして、憂うれいきわれを、ひたふるに嘆きなげきたる女王じょおうは、浴湯よくとうをこそと召すめす。浴よくみしたる後あとは夕餉ゆうげをこそと召すめす。この時じ賤しずしき厠かわや卒そつありて小しょうさき籃に無花果いちじくを盛りもりて参らすまいらす。女王じょおうの該がい撒に送れるおくれる文ぶんに云ういう。願わくねがわくは安図あんと尼にと同じおなじ墓はかにわれを埋めうめたまえと。無花果いちじくの繁れしげれる青きあおき葉陰はかげにはナイルないるの泥どろの※の舌したを冷やしひやしたる毒蛇どくへびを、そっと忍ばせしのばせたり。該がい撒の使しは走るはしる。闥を排しはいして眼めを射れいれば――黄金おうごんの寝台しんだいに、位高いこうき装そうを今日きょうと凝らしこらして、女王じょおうの屍かばねは是非ぜひなく横わるよこたわる。アイリスあいりすと呼ぶよぶは女王じょおうの足あしのあたりにこの世このよを捨てすてぬ。チャーミオンと名づけなづけたるは、女王じょおうの頭あたまのあたりに、月つき黒くろき夜よるの露ろをあつめて、千せん顆の珠たまを鋳いたる冠かんの、今いま落ちんおちんとするを力なくちからなく支うかう。闥を排しはいしたる該がい撒の使しはこはいかにと云ういう。埃及えじぷとの御代みよしろし召すめす人ひとの最後さいごぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言いいい終っおわって、倒れたおれながらに目めを瞑るつぶる」
埃及えじぷとの御代みよしろし召すめす人ひとの最後さいごぞ、かくありてこそと云ういう最後さいごの一句いっくは、焚きたき罩むる錬れん香こうの尽きつきなんとして幽かかすかなる尾おを虚うつろ冥めいに曳くひくごとく、全ぜんき頁ぺーじが淡くあわく霞んかすんで見えるみえる。
「藤尾ふじお」と知らしらぬ御ご母さんははさんは呼ぶよぶ。
男おとこはやっと寛容かんようだ姿すがたで、呼ばよばれた方ほうへ視線しせんを向けるむける。
呼ばよばれた当人とうにんは俯向ている。
「藤尾ふじお」と御ご母さんははさんは呼びよび直すなおす。
女おんなの眼めはようやくに頁ぺーじを離れはなれた。
波なみを打つうつ廂ひさし髪かみの、白いしろい額がくに接せつく下したから、骨張らほねばらぬ細いほそい鼻はなを承けうけて、紅くれないを寸すんに織るおる唇くちびるが――唇くちびるをそと滑っすべって、頬ほおの末すえとしっくり落ち合うおちあう※が――※を棄てすててなよやかに退いしりぞいて行くいく咽喉のどが――しだいと現実世界げんじつせかいに競りせり出しだして来るくる。
「なに?」と藤尾ふじおは答えこたえた。
昼ひると夜よるの間まに立つたつ人ひとの、昼ひると夜よるの間まの返事へんじである。
「おや気楽きらくな人ひとだ事こと。そんなに面白いおもしろい御ご本ほんなのかい。――あとで御覧ごらんなさいな。失礼しつれいじゃないか。――この通りとおり世間せけん見みずのわがままもので、まことに困りこまり切りきります。――その御ご本ほんは小野おのさんから拝借はいしゃくしたのかい。大変たいへん奇麗きれいな――汚さきたなさないようになさいよ。本ほんなぞは大事だいじにしないと――」「大事だいじにしていますわ」「それじゃ、好いよいけれども、またこないだのように……」「だって、ありゃ兄さんあにさんが悪いわるいんですもの」「甲野こうの君きみがどうかしたんですか」と小野おのさんは始めはじめて口くちらしい口くちを開いひらいた。
「いえ、あなた、どうもわがまま者ものの寄り合いよりあいだもんでござんすから、始終しじゅう、小供こどものように喧嘩けんかばかり致しいたしまして――こないだも兄あにの本ほんを……」と御ご母さんははさんは藤尾ふじおの方ほうを見みて、言おういおうか、言うゆうまいかと云ういう態度たいどを取るとる。
同情どうじょうのある恐喝きょうかつ手段しゅだんは長者ちょうじゃの好んこのんで年少ねんしょうに対したいして用いるもちいる遊戯ゆうぎである。
「甲野こうの君きみの書物しょもつをどうなすったんです」と小野おのさんは恐る恐るおそるおそる聞きききたがる。
「言いいいましょうか」と老人ろうじんは半ばなかば笑いわらいながら、控えひかえている。
玩具がんぐの九きゅう寸すん五ご分ぶんを突き付けつきつけたような気合きあいである。
「兄あにの本ほんを庭にわへ抛げなげたんですよ」と藤尾ふじおは母ははを差し置いさしおいて、鋭どいするどい返事へんじを小野おのさんの眉間みけんへ向けむけて抛げなげつけた。
御ご母さんははさんは苦笑いにがわらいをする。
小野おのさんは口くちを開くひらく。
「これの兄あにも御存じごぞんじの通りとおり随分ずいぶん変人へんじんですから」と御ご母さんははさんは遠廻しとおまわしに棄鉢になった娘むすめの御機嫌ごきげんをとる。
「甲野こうのさんはまだ御ご帰りかえりにならんそうですね」と小野おのさんは、うまいところで話頭わとうを転換てんかんした。
「まるであなた鉄砲玉てっぽうたまのようで――あれも、始終しじゅう身体しんたいが悪いわるいとか申しもうして、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行りょこうでもして判然はんぜんしたらよかろうと申しもうしましてね――でも、まだ、何なんだかだと駄々だだを捏ねこねて、動かうごかないのを、ようやく宗近むねちかに頼んたのんで連れ出しつれだして貰いもらいました。ところがまるで鉄砲玉てっぽうたまで。若いわかいものと申すもうすものは……」「若いわかいって兄さんあにさんは特別とくべつですよ。哲学てつがくで超絶ちょうぜつしているんだから特別とくべつですよ」「そうかね、御ご母さんははさんには何なんだか分らわからないけれども――それにあなた、あの宗近むねちかと云ういうのが大おおの呑気のんき屋やで、あれこそ本当ほんとうの鉄砲玉てっぽうたまで、随分ずいぶんの困りものこまりものでしてね」「アハハハあははは快活かいかつな面白いおもしろい人ひとですな」「宗近むねちかと云えいえば、御前ごぜんさっきのものはどこにあるのかい」と御ご母さんははさんは、きりりとした眼めを上げあげて部屋へやのうちを見み廻わすまわす。
「ここです」と藤尾ふじおは、軽くかるく諸膝もろひざを斜めななめに立てたてて、青畳あおだたみの上うえに、八はち反はんの座布団ざふとんをさらりと滑べらすべらせる。
富貴ふうきの色いろは蜷にな局きょくを三さん重じゅうに巻いまいた鎖くさりの中なかに、堆くうずたかく七なな子この蓋ふたを盛り上げもりあげている。
右手みぎてを伸べのべて、輝くかがやくものを戛然かつぜんと鳴らすならすよと思うおもう間まに、掌てのひらより滑るすべる鎖くさりが、やおら畳たたみに落ちんおちんとして、一いち尺さしの長さながさに喰いくい留めとめられると、余るあまる力ちからを横よこに抜いぬいて、端はしにつけた柘榴ざくろ石いしの飾りかざりと共ともに、長いながいものがふらりふらりと二三にさん度ど揺れるゆれる。
第だい一いちの波なみは紅くれないの珠たまに女おんなの白きしろき腕うでを打つうつ。
第だい二にの波なみは観世かんぜに動いうごいて、軽くかるく袖口そでぐちにあたる。
第だい三さんの波なみのまさに静まらしずまらんとするとき、女おんなは衝しょうと立ち上がったちあがった。
奇麗きれいな色いろが、二色にしょく、三さん色いろ入り乱れいりみだれて、疾くとく動くうごく景色けしきを、茫然ぼうぜんと眺めながめていた小野おのさんの前まえへぴたりと坐っすわった藤尾ふじおは「御ご母さんははさん」と後あとを顧みかえりみながら、「こうすると引き立ちひきたちますよ」と云っいって故この席せきに返るかえる。
小野おのさんの胴衣どういの胸むねには松葉まつば形かたちに組んくんだ金きんの鎖くさりが、釦ぼたんの穴あなを左右さゆうに抜けぬけて、黒ずんくろずんだメルトンめるとん地ちを背景はいけいに燦爛さんらんと耀やいている。
「どうです」と藤尾ふじおが云ういう。
「なるほど善くよく似合いにあいますね」と御ご母さんははさんが云ういう。
「全体ぜんたいどうしたんです」と小野おのさんは煙けむりに巻かまきかれながら聞くきく。
御ご母さんははさんはホホホほほほと笑うわらう。
「上げあげましょうか」と藤尾ふじおは流し目ながしめに聞いきいた。
小野おのさんは黙っだまっている。
「じゃ、まあ、止しよしましょう」と藤尾ふじおは再びふたたび立ったって小野おのさんの胸むねから金きん時計とけいを外しはずしてしまった。
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