明暗

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その一重瞼の中に輝やく瞳子は漆黒であった。だから非常によく働らいた。或時は専横と云ってもいいくらいに表情を恣ままにした。津田は我知らずこの小さい眼から出る光に牽きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳ね返される事もないではなかった。

第 1 章
彼かれがふと眼めを上げあげて細君さいくんを見みた時じ、彼かれは刹那的せつなてきに彼女かのじょの眼めに宿るやどる一種いっしゅの怪しいあやしい力ちからを感じかんじた。
それは今までいままで彼女かのじょの口くちにしつつあった甘いあまい言葉ことばとは全くまったく釣り合わつりあわない妙みょうな輝やきかがやきであった。
相手あいての言葉ことばに対したいして返事へんじをしようとした彼かれの心こころの作用さようがこの眼つきめつきのためにちょっと遮断しゃだんされた。
すると彼女かのじょはすぐ美びくしい歯はを出しだして微笑びしょうした。
同時どうじに眼めの表情ひょうじょうがあとかたもなく消えきえた。
「嘘うそよ。あたし芝居しばいなんか行かいかなくってもいいのよ。今いまのはただ甘ったれあまったれたのよ」 黙っだまった津田つだはなおしばらく細君さいくんから眼めを放さはなさなかった。
「何なんだってそんなむずかしい顔かおをして、あたしを御覧ごらんになるの。――芝居しばいはもうやめるから、この次つぎの日曜にちように小林こばやしさんに行っいって手術しゅじゅつを受けうけていらっしゃい。それで好いよいでしょう。岡本おかもとへは二三にさん日ひ中なかに端書はしがきを出すだすか、でなければ私わたくしがちょっと行っいって断わっことわって来きますから」「御前ごぜんは行っいってもいいんだよ。せっかく誘っさそってくれたもんだから」「いえ私わたくしも止しよしにするわ。芝居しばいよりもあなたの健康けんこうの方ほうが大事だいじですもの」 津田つだは自分じぶんの受けうけべき手術しゅじゅつについてなお詳しいくわしい話はなしを細君さいくんにしなければならなかった。
「手術しゅじゅつってたって、そう腫物しゅもつの膿のうを出すだすように簡単かんたんにゃ行かいかないんだよ。最初さいしょ下剤げざいをかけてまず腸ちょうを綺麗きれいに掃除そうじしておいて、それからいよいよ切開せっかいすると、出血しゅっけつの危険きけんがあるかも知れしれないというので、創口そうこうへガーゼがーぜを詰めつめたまま、五六ごろく日ひの間まはじっとして寝ねているんだそうだから。だからたといこの次つぎの日曜にちように行くいくとしたところで、どうせ日曜にちよう一いち日ひじゃ済ますまないんだ。その代りかわり日曜にちようが延びのびて月曜げつようになろうとも火曜かようになろうとも大したたいした違いにゃならないし、また日曜にちようを繰り上げくりあげて明日あすにしたところで、明後日みょうごにちにしたところで、やっぱり同じおなじ事ことなんだ。そこへ行くいくとまあ楽らくな病気びょうきだね」「あんまり楽らくでもないわあなた、一いち週間しゅうかんも寝ねたぎりで動くうごく事ことができなくっちゃ」 細君さいくんはまたぴくぴくと眉まゆを動かしうごかして見せみせた。
津田つだはそれに全くまったく無頓着むとんちゃくであると云っいった風かぜに、何なんか考えかんがえながら、二人ふたりの間まに置かおかれた長火鉢ながひばちの縁えんに右みぎの肘ひじを靠たせて、その中なかに掛けかけてある鉄瓶てつびんの葢おおいを眺めながめた。
朱銅しゅどうの葢おおいの下したでは湯ゆの沸るたぎる音おとが高くたかくした。
「じゃどうしても御ご勤めつとめを一いち週間しゅうかんばかり休まやすまなくっちゃならないわね」「だから吉川よしかわさんに会っかいって訳わけを話しはなして見みた上うえで、日ひ取とりをきめようかと思っおもっているところだ。黙っだまって休んやすんでも構わかまわないようなもののそうも行かいかないから」「そりゃあなた御ご話しはなしになる方ほうがいいわ。平生へいぜいからあんなに御世話ごせわになっているんですもの」「吉川よしかわさんに話しはなしたら明日あすからすぐ入院にゅういんしろって云ういうかも知れしれない」 入院にゅういんという言葉ことばを聞いきいた細君さいくんは急きゅうに細いほそい眼めを広げるひろげるようにした。
「入院にゅういん? 入院にゅういんなさるんじゃないでしょう」「まあ入院にゅういんさ」「だって小林こばやしさんは病院びょういんじゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来がいらいの患者かんじゃばかりだって」「病院びょういんというほどの病院びょういんじゃないが、診察しんさつ所ところの二に階かいが空いむなしいてるもんだから、そこへ入いりいる事こともできるようになってるんだ」「綺麗きれい?」 津田つだは苦笑くしょうした。
「自宅じたくよりは少しすこしあ綺麗きれいかも知れしれない」 今度こんどは細君さいくんが苦笑くしょうした。
五ご
寝るねる前まえの一いち時間じかんか二に時間じかんを机つくえに向っむかって過ごすすごす習慣しゅうかんになっていた津田つだはやがて立ち上ったちのぼった。
細君さいくんは今までいままで通りとおりの楽らくな姿勢しせいで火鉢ひばちに倚りよりかかったまま夫おっとを見上げみあげた。
「また御ご勉強べんきょう?」 細君さいくんは時々ときどき立ち上がるたちあがる夫おっとに向っむかってこう云っいった。
彼女かのじょがこういう時じには、いつでもその語調ごちょうのうちに或ある物もの足らあしらなさがあるように津田つだの耳みみに響いひびいた。
ある時じの彼かれは進んすすんでそれに媚びようこびようとした。
ある時じの彼かれはかえって反感はんかん的まとにそれから逃れのがれたくなった。
どちらの場合ばあいにも、彼かれの心こころの奥底おくそこには、「そう御前ごぜんのような女おんなとばかり遊んあそんじゃいられない。おれにはおれでする事ことがあるんだから」という相手あいてを見縊っみくびった自覚じかくがぼんやり働はたらけらいていた。
彼かれが黙っだまって間まの襖ふすまを開けあけて次つぎの室むろへ出でて行こういこうとした時じ、細君さいくんはまた彼かれの背後はいごから声こえを掛けかけた。
「じゃ芝居しばいはもうおやめね。岡本おかもとへは私わたくしから断っことわっておきましょうね」 津田つだはちょっとふり向いふりむいた。
「だから御前ごぜんはおいでよ、行きいきたければ。おれは今いまのような訳わけで、どうなるか分らわからないんだから」 細君さいくんは下したを向いむかいたぎり夫おっとを見返さみかえさなかった。
返事へんじもしなかった。
津田つだはそれぎり勾配こうばいの急きゅうな階子段はしごだんをぎしぎし踏んふんで二に階かいへ上っのぼった。
彼かれの机つくえの上うえには比較的ひかくてき大きなおおきな洋書ようしょが一いち冊さつ載せのせてあった。
彼かれは坐るすわるなりそれを開いひらいて枝折しおりの挿んはさんである頁ぺーじを目標もくひょうにそこから読みよみにかかった。
けれども三四さんよん日ひ等閑なおざりにしておいた咎とがが祟ったたって、前後ぜんごの続きつづき具合ぐあいがよく解らわからなかった。
それを考え出そうかんがえだそうとするためには勢いいきおい前まえの所ところをもう一遍いちぺん読み返さよみかえさなければならないので、気きの差しさした彼かれは、読むよむ事ことの代りかわりに、ただ頁ぺーじをばらばらと翻しひるがえして書物しょもつの厚味あつみばかりを苦くにするように眺めながめた。
すると前途ぜんと遼遠りょうえんという気きが自からみずから起っおこった。
彼かれは結婚後けっこんご三四さんよんカ月かげつ目めに始めはじめてこの書物しょもつを手てにした事ことを思い出しおもいだした。
気きがついて見るみるとそれから今日きょうまでにもう二にカ月かげつ以上いじょうも経っきょうっているのに、彼かれの読んよんだ頁ぺーじはまだ全体ぜんたいの三さん分ぶんの二ににも足らあしらなかった。
彼かれは平生へいぜいから世間せけんへ出るでる多くおおくの人ひとが、出るでるとすぐ書物しょもつに遠ざかっとおざかってしまうのを、さも下らしたらない愚物ぐぶつのように細君さいくんの前まえで罵っののしっていた。
それを夫おっとの口癖くちぐせとして聴かさきかされた細君さいくんはまた彼かれを本当ほんとうの勉強家べんきょうかとして認めみとめなければならないほど比較的ひかくてき多くおおくの時間じかんが二に階かいで費やさついやされた。
前途ぜんと遼遠りょうえんという気きと共ともに、面目めんぼくないという心持こころもちがどこからか出でて来きて、意地いじ悪くわるく彼かれの自尊心じそんしんを擽っくすぐった。
しかし今いま彼かれが自分じぶんの前まえに拡げひろげている書物しょもつから吸収きゅうしゅうしようと力めりきめている知識ちしきは、彼かれの日々ひびの業務上ぎょうむじょうに必要ひつようなものではなかった。
それにはあまりに専門的せんもんてきで、またあまりに高尚こうしょう過ぎすぎた。
学校がっこうの講義こうぎから得とくた知識ちしきですら滅多めったに実際じっさいの役やくに立ったった例れいのない今いまの勤めつとめ向きむきとはほとんど没交渉ぼつこうしょうと云っいってもいいくらいのものであった。
彼かれはただそれを一種いっしゅの自信じしん力ちからとして貯えたくわえておきたかった。
他ほかの注意ちゅういを惹くひく粧飾しょうしょくとしても身みに着けつけておきたかった。
その困難こんなんが今いまの彼かれに朧気おぼろきながら見えみえて来きた時じ、彼かれは彼かれの己おのれ惚ぼけに訊いきいて見みた。
「そう旨くうまくは行かいかないものかな」 彼かれは黙っだまって煙草たばこを吹かしふかした。
それから急きゅうに気きがついたように書物しょもつを伏せふせて立ち上ったちのぼった。
そうして足早あしばやに階子段はしごだんをまたぎしぎし鳴らしならして下したへ降りふりた。
六ろく
「おいお延のべ」 彼かれは襖越しふすまごしに細君さいくんの名なを呼びよびながら、すぐ唐紙とうしを開けあけて茶の間ちゃのまの入口いりぐちに立ったった。
すると長火鉢ながひばちの傍そばに坐っすわっている彼女かのじょの前まえに、いつの間まにか取りとり拡げひろげられた美びくしい帯おびと着物きものの色いろがたちまち彼かれの眼めに映っうつった。
暗いくらい玄関げんかんから急きゅうに明るいあかるい電灯でんとうの点いついた室むろを覗いのぞいた彼かれの眼めにそれが常つねよりも際立っきわだって華麗かれいに見えみえた時じ、彼かれはちょっと立ち留まったちどまって細君さいくんの顔かおと派出はしゅつやかな模様もようとを等分とうぶんに見較べみくらべた。
「今時分いまじぶんそんなものを出しだしてどうするんだい」 お延のべは檜扇ひおうぎ模様もようの丸帯まるおびの端はしを膝ひざの上うえに載せのせたまま、遠くとおくから津田つだを見やっみやった。
「ただ出しだして見みたのよ。あたしこの帯おびまだ一いち遍へんも締めしめた事ことがないんですもの」「それで今度こんどその服装ふくそうで芝居しばいに出かけようでかけようと云ういうのかね」 津田つだの言葉ことばには皮肉ひにくに伴うともなう或ある冷やかひややかさがあった。
お延のべは何になんにも答えこたえずに下したを向いむかいた。
そうしていつもする通りとおり黒いくろい眉まゆをぴくりと動かしうごかして見せみせた。
彼女かのじょに特異とくいなこの所作しょさは時じとして変へんに津田つだの心こころを唆かすそそのかすと共ともに、時じとして妙みょうに彼かれの気持きもちを悪くわるくさせた。
彼かれは黙っだまって縁側えんがわへ出でて厠かわやの戸とを開けあけた。
それからまた二に階かいへ上がろうあがろうとした。
すると今度こんどは細君さいくんの方ほうから彼かれを呼びとめよびとめた。
「あなた、あなた」 同時どうじに彼女かのじょは立ったって来きた。
そうして彼かれの前まえを塞ぐふさぐようにして訊いきいた。
「何なんか御用ごようなの」 彼かれの用事ようじは今いまの彼かれにとって細君さいくんの帯おびよりも長襦袢ながじゅばんよりもむしろ大事だいじなものであった。
「御ご父さんちちさんからまだ手紙てがみは来きなかったかね」「いいえ来れこればいつもの通りとおり御机おつくえの上うえに載せのせておきますわ」 津田つだはその予期よきした手紙てがみが机つくえの上うえに載っのっていなかったから、わざわざ下りくだりて来きたのであった。
「郵便ゆうびん函ばこの中なかを探ささがさせましょうか」「来れこれば書留かきとめだから、郵便ゆうびん函ばこの中なかへ投げ込んなげこんで行くいくはずはないよ」「そうね、だけど念ねんのためだから、あたしちょいと見みて来るくるわ」 御ご延のべは玄関げんかんの障子しょうじを開けあけて沓脱くつぬぎへ下りようおりようとした。
「駄目だめだよ。書留かきとめがそんな中なかに入っはいってる訳わけがないよ」「でも書留かきとめでなくってただのが入っはいってるかも知れしれないから、ちょっと待っまっていらっしゃい」 津田つだはようやく茶の間ちゃのまへ引き返しひきかえして、先刻せんこく飯めしを食うくう時じに坐っすわった座蒲団ざふとんが、まだ火鉢ひばちの前まえに元もとの通りとおり据えすえてある上うえに胡坐こざをかいた。
そうしてそこに燦爛さんらんと取り乱さとりみだされた濃いこい友染ともそめ模様もようの色いろを見守っみまもった。
すぐ玄関げんかんから取っとって返しかえしたお延のべの手てにははたして一いち通つうの書状しょじょうがあった。
「あってよ、一いち本ほん。ことによると御ご父さまちちさまからかも知れしれないわ」 こう云いいいながら彼女かのじょは明るいあかるい電灯でんとうの光ひかりに白いしろい封筒ふうとうを照らしてらした。
「ああ、やっぱりあたしの思っおもった通りとおり、御ご父さまちちさまからよ」「何なんだ書留かきとめじゃないのか」 津田つだは手紙てがみを受け取るうけとるなり、すぐ封ふうを切っきって読み下しよみくだした。
しかしそれを読んよんでしまって、また封筒ふうとうへ収めるおさめるために巻き返しまきかえした時じには、彼かれの手てがただ器械きかい的まとに動くうごくだけであった。
彼かれは自分じぶんの手元てもとも見みなければ、またお延のべの顔かおも見みなかった。
ぼんやり細君さいくんのよそ行こう着きの荒いあらい御ご召めしの縞柄しまがらを眺めながめながら独りごとひとりごとのように云っいった。
「困るこまるな」「どうなすったの」「なに大したたいした事ことじゃない」 見栄みえの強いつよい津田つだは手紙てがみの中なかに書いかいてある事ことを、結婚けっこんしてまだ間まもない細君さいくんに話しはなしたくなかった。
けれどもそれはまた細君さいくんに話さはなさなければならない事ことでもあった。
七なな
「今月こんげつはいつも通りとおり送金そうきんができないからそっちでどうか都合つごうしておけというんだ。年寄としよりはこれだから困るこまるね。そんならそうともっと早くはやく云っいってくれればいいのに、突然とつぜん金きんの要るいる間際まぎわになって、こんな事ことを云っいって来きて……」「いったいどういう訳わけなんでしょう」 津田つだはいったん巻き収めまきおさめた手紙てがみをまた封筒ふうとうから出しだして膝ひざの上うえで繰り拡げくりひろげた。
「貸家かしやが二に軒のき先月末せんげつまつに空いむなしいちまったんだそうだ。それから塞がっふさがってる分ぶんからも家賃やちんが入っはいって来きないんだそうだ。そこへ持っもって来きて、庭にわの手入ていれだの垣根かきねの繕いつくろいだので、だいぶ臨時りんじ費ひが嵩んかさんだから今月こんげつは送れおくれないって云ういうんだ」 彼かれは開いひらいた手紙てがみを、そのまま火鉢ひばちの向う側むこうがわにいるお延のべの手てに渡しわたした。
御ご延のべはまた何なんも云わいわずにそれを受取っうけとったぎり、別べつに読もうよもうともしなかった。
この冷れいかな細君さいくんの態度たいどを津田つだは最初さいしょから恐れおそれていたのであった。
「なにそんな家賃やちんなんぞ当にまさにしないだって、送っおくってさえくれようと思えおもえばどうにでも都合つごうはつくのさ。垣根かきねを繕うつくろうたっていくらかかるものかね。煉瓦れんがの塀へいを一丁いちちょうも拵えこしらえやしまいし」 津田つだの言葉ことばに偽にせはなかった。
彼かれの父ちちはよし富裕ふゆうでないまでも、毎月まいつき息子むすこ夫婦ふうふのためにその生計せいけいの不足ふそくを補っおぎなってやるくらいの出費しゅっぴに窮するきゅうする身分みぶんではなかった。
ただ彼かれは地味じみな人ひとであった。
津田つだから云えいえば地味じみ過ぎるすぎるぐらい質素しっそであった。
津田つだよりもずっと派出はしゅつ好きすきな細君さいくんから見れみればほとんど無意味むいみに近いちかい節倹せっけん家いえであった。
「御ご父さまちちさまはきっと私達わたくしたちが要らいらない贅沢ぜいたくをして、むやみに御ご金きんをぱっぱっと遣うつかうようにでも思っおもっていらっしゃるのよ。きっとそうよ」「うんこの前まえ京都きょうとへ行っいった時じにも何なんだかそんな事ことを云っいってたじゃないか。年寄としよりはね、何なんでも自分じぶんの若いわかい時じの生計せいけいを覚えおぼえていて、同年輩どうねんぱいの今いまの若いわかいものも、万事ばんじ自分じぶんのして来きた通りとおりにしなければならないように考えるかんがえるんだからね。そりゃ御ご父さんちちさんの三十さんじゅうもおれの三十さんじゅうも年歯ねんしに変りかわりはないかも知れしれないが、周囲しゅういはまるで違っちがっているんだからそうは行かいかないさ。いつかも会かいへ行くいく時じ会費かいひはいくらだと訊くきくから五ご円えんだって云っいったら、驚ろいおどろいて恐ろしいおそろしいような顔かおをした事ことがあるよ」 津田つだは平生へいぜいからお延のべが自分じぶんの父ちちを軽蔑けいべつする事ことを恐れおそれていた。
それでいて彼かれは彼女かのじょの前まえにわが父ちちに対するたいする非難ひなんがましい言葉ことばを洩らさもらさなければならなかった。
それは本当ほんとうに彼かれの感じかんじた通りとおりの言葉ことばであった。
同時どうじにお延のべの批判ひはんに対したいして先手せんてを打つうつという点てんで、自分じぶんと父ちちの言訳いいわけにもなった。
「で今月こんげつはどうするの。ただでさえ足りたりないところへ持っもって来きて、あなたが手術しゅじゅつのために一いち週間しゅうかんも入院にゅういんなさると、またそっちの方ほうでもいくらかかかるでしょう」 夫おっとの手前てまえ老人ろうじんに対するたいする批評ひひょうを憚かっはばかった細君さいくんの話頭わとうは、すぐ実際じっさい問題もんだいの方ほうへ入っはいって来きた。
津田つだの答こたえは用意よういされていなかった。
しばらくして彼かれは小声こごえで独語どくごのように云っいった。
「藤井ふじいの叔父おじに金きんがあると、あすこへ行くいくんだが……」 お延のべは夫おっとの顔かおを見つめみつめた。
「もう一遍いちぺん御ご父さまちちさまのところへ云っいって上げるあげる訳わけにゃ行かいかないの。ついでに病気びょうきの事ことも書いかいて」「書いかいてやれない事こともないが、また何なんとかかとか云っいって来きられると面倒めんどうだからね。御ご父さんちちさんに捕まるつかまると、そりゃなかなか埒らちは開かひらかないよ」「でもほかに当とうがなければ仕方しかたなかないの」「だから書かかかないとは云わいわない。こっちの事情じじょうが好くよく向うむこうへ通じるつうじるようにする事ことはするつもりだが、何しろなにしろすぐの間まには合わあわないからな」「そうね」 その時じ津田つだは真ともまともにお延のべの方ほうを見みた。
そうして思い切っおもいきったような口調くちょうで云っいった。
「どうだ御前ごぜん岡本おかもとさんへ行っいってちょっと融通ゆうずうして貰っもらって来きないか」
八はち
「厭いやよ、あたし」 お延のべはすぐ断っことわった。
彼女かのじょの言葉ことばには何なんの淀みよどみもなかった。
遠慮えんりょと斟酌しんしゃくを通り越しとおりこしたその語気ごきが津田つだにはあまりに不意ふい過ぎすぎた。
彼かれは相当そうとうの速力そくりょくで走っはしっている自動車じどうしゃを、突然とつぜん停めとめられた時じのような衝撃しょうげきを受けうけた。
彼かれは自分じぶんに同情どうじょうのない細君さいくんに対したいして気きを悪くわるくする前まえに、まず驚ろいおどろいた。
そうして細君さいくんの顔かおを眺めながめた。
「あたし、厭いやよ。岡本おかもとへ行っいってそんな話はなしをするのは」 お延のべは再びふたたび同じおなじ言葉ことばを夫おっとの前まえに繰り返しくりかえした。
「そうかい。それじゃ強いてしいて頼またのまないでもいい。しかし……」 津田つだがこう云いいいかけた時じ、お延のべは冷れいかな(けれども落ちついおちついた)夫おっとの言葉ことばを、掬っすくって追い退けるおいしりぞけるように遮っさえぎった。
「だって、あたしきまりが悪いわるいんですもの。いつでも行くいくたんびに、お延のべは好いよい所ところへ嫁よめに行っいって仕合せしあわせだ、厄介やっかいはなし、生計せいけいに困るこまるんじゃなしって云わいわれつけているところへ持っもって来きて、不意ふいにそんな御ご金きんの話はなしなんかすると、きっと変へんな顔かおをされるにきまっているわ」 お延のべが一概いちがいに津田つだの依頼いらいを斥けしりぞけたのは、夫おっとに同情どうじょうがないというよりも、むしろ岡本おかもとに対するたいする見栄みえに制せせいせられたのだという事ことがようやく津田つだの腑ふに落ちおちた。
彼かれの眼めのうちに宿っやどった冷やかひややかな光ひかりが消えきえた。
「そんなに楽らくな身分みぶんのように吹聴ふいちょうしちゃ困るこまるよ。買い被らかいかぶられるのもいいが、時じによるとかえってそれがために迷惑めいわくしないとも限らかぎらないからね」「あたし吹聴ふいちょうした覚さとしなんかないわ。ただ向うむこうでそうきめているだけよ」 津田つだは追窮ついきゅうもしなかった。
お延のべもそれ以上いじょう説明せつめいする面倒めんどうを取らとらなかった。
二人ふたりはちょっと会話かいわを途と切らしきらした後あとでまた実際じっさい問題もんだいに立ち戻ったちもどった。
しかし今までいままで自分じぶんの経済けいざいに関しかんして余りあまり心こころを痛めいためた事ことのない津田つだには、別べつにどうしようという分別ぶんべつも出でなかった。
「御ご父さんちちさんにも困っこまっちまうな」というだけであった。
お延のべは偶然ぐうぜん思いついおもいついたように、今までいままでそっちのけにしてあった、自分じぶんの晴着はれぎと帯おびに眼めを移しうつした。
「これどうかしましょうか」 彼女かのじょは金きんの入っはいった厚いあつい帯おびの端はしを手てに取っとって、夫おっとの眼めに映るうつるように、電灯でんとうの光ひかりに翳しかざした。
津田つだにはその意味いみがちょっと呑み込めのみこめなかった。
「どうかするって、どうするんだい」「質屋しちやへ持っもってったら御ご金きんを貸しかしてくれるでしょう」 津田つだは驚ろかさおどろかされた。
自分じぶんがいまだかつて経験けいけんした事ことのないようなやりくり算段さんだんを、嫁よめに来きたての若いわかい細君さいくんが、疾くとくの昔むかしから承知しょうちしているとすれば、それは彼かれにとって驚ろくおどろくべき価値かちのある発見はっけんに相違そういなかった。
「御前ごぜん自分じぶんの着物きものかなんか質しつに入れいれた事ことがあるのかい」「ないわ、そんな事こと」 お延のべは笑いわらいながら、軽蔑けいべつむような口調くちょうで津田つだの問もんを打ち消しうちけした。
「じゃ質しつに入れるいれるにしたところで様子ようすが分らわからないだろう」「ええ。だけどそんな事こと何なんでもないでしょう。入れるいれると事ことがきまれば」 津田つだは極端きょくたんな場合ばあいのほか、自分じぶんの細君さいくんにそうした下卑げびた真似まねをさせたくなかった。
お延のべは弁解べんかいした。
「時じが知っしってるのよ。あの婢おんなは宅たくにいる時分じぶんよく風呂敷ふろしき包つつみを抱えかかえて質屋しちやへ使いつかいに行っいった事ことがあるんですって。それから近頃ちかごろじゃ端書はしがきさえ出せだせば、向うむこうから品物しなものを受取りうけとりに来きてくれるっていうじゃありませんか」 細君さいくんが大事だいじな着物きものや帯おびを自分じぶんのために提供ていきょうしてくれるのは津田つだにとって嬉しいうれしい事実じじつであった。
しかしそれをあえてさせるのはまた彼かれにとっての苦痛くつうにほかならなかった。
細君さいくんに対したいして気の毒きのどくというよりもむしろ夫おっとの矜りほこりを傷けるきずつけるという意味いみにおいて彼かれは躊躇ちゅうちょした。
「まあよく考えかんがえて見ようみよう」 彼かれは金策きんさく上うえ何なんらの解決かいけつも与えあたえずにまた二に階かいへ上っのぼって行っいった。
九きゅう
翌日よくじつ津田つだは例れいのごとく自分じぶんの勤め先つとめさきへ出でた。
彼かれは午前ごぜんに一回いちかいひょっくり階子段はしごだんの途中とちゅうで吉川よしかわに出会っであった。
しかし彼かれは下りくだりがけ、向むかいは上りのぼりがけだったので、擦れすれ違いに叮嚀ていねいな御辞儀ごじぎをしたぎり、彼かれは何になんにも云わいわなかった。
もう午飯ごはんに間まもないという頃ころ、彼かれはそっと吉川よしかわの室むろの戸とを敲いたたいて、遠慮えんりょがちな顔かおを半分はんぶんほど中なかへ出しだした。
その時じ吉川よしかわは煙草たばこを吹かしふかしながら客きゃくと話はなしをしていた。
その客きゃくは無論むろん彼かれの知らしらない人ひとであった。
彼かれが戸とを半分はんぶんほど開けあけた時じ、今までいままで調子ちょうしづいていたらしい主客しゅきゃくの会話かいわが突然とつぜん止まっとまった。
そうして二人ふたりともこっちを向いむかいた。
「何なんか用ようかい」 吉川よしかわから先さきへ言葉ことばをかけられた津田つだは室むろの入口いりぐちで立ちどまったちどまった。
「ちょっと……」「君きみ自身じしんの用事ようじかい」 津田つだは固よりもとより表ひょう向むかいの用事ようじで、この室むろへ始終しじゅう出入でいりすべき人ひとではなかった。
跋ばつの悪わるそうな顔つきかおつきをした彼かれは答えこたえた。
「そうです。ちょっと……」「そんなら後あとにしてくれたまえ。今いま少しすこし差支えるさしつかえるから」「はあ。気きがつかない事ことをして失礼しつれいしました」 音おとのしないように戸とを締めしめた津田つだはまた自分じぶんの机つくえの前まえに帰っかえった。
午後ごごになってから彼かれは二に返かえしばかり同じおなじ戸との前まえに立ったった。
しかし二に返かえし共とも吉川よしかわの姿すがたはそこに見えみえなかった。
「どこかへ行かいかれたのかい」 津田つだは下したへ降りふりたついでに玄関げんかんにいる給きゅう使しに訊いきいた。
眼鼻めはなだちの整っととのったその少年しょうねんは、石段いしだんの下したに寝ねている毛けの長いながい茶色ちゃいろの犬いぬの方ほうへ自分じぶんの手てを長くながく出しだして、それを段上だんじょうへ招き寄せるまねきよせる魔術まじゅつのごとくに口笛くちぶえを鳴らしならしていた。
「ええ先刻せんこく御客ごきゃくさまといっしょに御ご出かけでかけになりました。ことによると今日きょうはもうこちらへは御ご帰りかえりにならないかも知れしれませんよ」 毎日まいにち人ひとの出入でいりの番ばんばかりして暮しくらしているこの給きゅう使しは、少なくすくなくともこの点てんにかけて、津田つだよりも確かくな予言者よげんしゃであった。
津田つだはだれが伴れつれて来きたか分らわからない茶色ちゃいろの犬いぬと、それからその犬いぬを友達ともだちにしようとして大いにおおいに骨ほねを折っおっているこの給きゅう使しとをそのままにしておいて、また自分じぶんの机つくえの前まえに立ち戻ったちもどった。
そうしてそこで定刻ていこくまで例れいのごとく事務じむを執っとった。
時間じかんになった時じ、彼かれはほかの人ひとよりも一足いっそく後れおくれて大きなおおきな建物たてものを出でた。
彼かれはいつもの通りとおり停留所ていりゅうしょの方ほうへ歩きあるきながら、ふと思い出しおもいだしたように、また隠いん袋ふくろから時計とけいを出しだして眺めながめた。
それは精密せいみつな時刻じこくを知るしるためよりもむしろ自分じぶんの歩いあるいて行くいく方向ほうこうを決するけっするためであった。
帰りかえりに吉川よしかわの私宅したくへ寄っよったものか、止しよしたものかと考えかんがえて、無意味むいみに時計とけいと相談そうだんしたと同じおなじ事ことであった。
彼かれはとうとう自分じぶんの家いえとは反対はんたいの方角ほうがくに走るはしる電車でんしゃに飛び乗っとびのった。
吉川よしかわの不在ふざい勝かちな事ことをよく知りしり抜いぬいている彼かれは、宅たくまで行っいったところで必ずかならず会えるあえるとも思っおもっていなかった。
たまさかいたにしたところで、都合つごうが悪けれわるければ会わあわずに帰さきされるだけだという事ことも承知しょうちしていた。
しかし彼かれとしては時々ときどき吉川よしかわ家いえの門もんを潜るもぐる必要ひつようがあった。
それは礼儀れいぎのためでもあった。
義理ぎりのためでもあった。
また利害りがいのためでもあった。
最後さいごには単なるたんなる虚栄心きょえいしんのためでもあった。
「津田つだは吉川よしかわと特別とくべつの知りしり合あわせである」 彼かれは時々ときどきこういう事実じじつを背中せなかに背負っせおって見みたくなった。
それからその荷にを背負っせおったままみんなの前まえに立ちたちたくなった。
しかも自らみずから重んずるおもんずるといった風かぜの彼かれの平生へいぜいの態度たいどを毫もごうも崩さくずさずに、この事実じじつを背負っせおっていたかった。
物ものをなるべく奥おくの方ほうへ押し隠しおしかくしながら、その押し隠しおしかくしているところを、かえって他ほかに見せみせたがるのと同じおなじような心理しんり作用さようの下したに、彼かれは今いま吉川よしかわの玄関げんかんに立ったった。
そうして彼かれ自身じしんは飽くまであくまでも用事ようじのためにわざわざここへ来きたものと自分じぶんを解釈かいしゃくしていた。
十じゅう
厳めしいいかめしい表玄関ひょうげんかんの戸とはいつもの通りとおり締まっしまっていた。
津田つだはその上うえ半部はんぶに透し彫すかしぼりのように篏めはめ込まこまれた厚いあつい格子こうしの中なかを何気なんげなく覗いのぞいた。
中なかには大きなおおきな花崗かこう石いしの沓脱くつぬぎが静かしずかに横たわっよこたわっていた。
それから天井てんじょうの真中まなかから蒼黒いあおぐろい色いろをした鋳物いものの電灯でんとう笠かさが下がっさがっていた。
今までいままでついぞここに足あしを踏み込んふみこんだ例れいのない彼かれはわざとそこを通り越しとおりこして横手よこてへ廻っまわった。
そうして書生しょせい部屋へやのすぐ傍そばにある内玄関ないげんかんから案内あんないを頼んたのんだ。
「まだ御ご帰りかえりになりません」 小倉おぐらの袴はかまを着けつけて彼かれの前まえに膝ひざをついた書生しょせいの返事へんじは簡単かんたんであった。
それですぐ相手あいてが帰るかえるものと呑み込んのみこんでいるらしい彼かれの様子ようすが少しすこし津田つだを弱らよわらせた。
津田つだはとうとう折り返しおりかえして訊いきいた。
「奥さんおくさんはおいでですか」「奥さんおくさんはいらっしゃいます」 事実じじつを云ういうと津田つだは吉川よしかわよりもかえって細君さいくんの方ほうと懇意こんいであった。
足あしをここまで運んはこんで来るくる途中とちゅうの彼かれの頭あたまの中なかには、すでに最初さいしょから細君さいくんに会おうあおうという気分きぶんがだいぶ働はたらけらいていた。
「ではどうぞ奥さんおくさんに」 彼かれはまだ自分じぶんの顔かおを知らしらないこの新らしいあたらしい書生しょせいに、もう一いち返かえし取次とりつぎを頼みたのみ直しなおした。
書生しょせいは厭いやな顔かおもせずに奥おくへ入っはいった。
それからまた出でて来きた時じ、少しすこし改まっあらたまった口調くちょうで、「奥さんおくさんが御ご目めにおかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云っいって彼かれを西洋せいよう建けんの応接間おうせつかんへ案内あんないした。
彼かれがそこにある椅子いすに腰こしをかけるや否いなや、まだ茶ちゃも莨たばこ盆ぼんも運ばはこばれない先さきに、細君さいくんはすぐ顔かおを出しだした。
「今いま御ご帰りがけかえりがけ?」 彼かれはおろした腰こしをまた立てたてなければならなかった。
「奥さんおくさんはどうなすって」 津田つだの挨拶あいさつに軽いかるい会釈えしゃくをしたなり席せきに着いついた細君さいくんはすぐこう訊いきいた。
津田つだはちょっと苦笑くしょうした。
何なんと返事へんじをしていいか分らわからなかった。
「奥さんおくさんができたせいか近頃ちかごろはあんまり宅たくへいらっしゃらなくなったようね」 細君さいくんの言葉ことばには遠慮えんりょも何なんもなかった。
彼女かのじょは自分じぶんの前まえに年齢ねんれい下したの男おとこを見るみるだけであった。
そうしてその年齢ねんれい下したの男おとこはかねて眼下がんかの男おとこであった。
「まだ嬉しいうれしいんでしょう」 津田つだは軽くかるく砂すなを揚げあげて来るくる風かぜを、じっとしてやり過ごすやりすごす時じのように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚けっこんなすってから」「ええもう半歳はんとしと少しすこしになります」「早いはやいものね、ついこの間まだと思っおもっていたのに。――それでどうなのこの頃このごろは」「何なんがです」「御ご夫婦仲ふうふなかがよ」「別べつにどうという事こともありません」「じゃもう嬉しいうれしいところは通り越しとおりこしちまったの。嘘うそをおっしゃい」「嬉しいうれしいところなんか始めはじめからないんですから、仕方しかたがありません」「じゃこれからよ。もし始めはじめからないなら、これからよ、嬉しいうれしいところの出でて来るくるのは」「ありがとう、じゃ楽しみたのしみにして待っまっていましょう」「時じにあなた御ごいくつ?」「もうたくさんです」「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いうかがいたいから伺っうかがったんだから、正直しょうじきに淡泊たんぱくとおっしゃいよ」「じゃ申し上げもうしあげます。実じつは三十さんじゅうです」「すると来年らいねんはもう一いちね」「順じゅんに行けいけばまあそうなる勘定かんじょうです」「お延おのべさんは?」「あいつは三さんです」「来年らいねん?」「いえ今年ことし」
十一じゅういち
吉川よしかわの細君さいくんはこんな調子ちょうしでよく津田つだに調ちょう戯たわむれった。
機嫌きげんの好いよい時じはなおさらであった。
津田つだも折々おりおりは向うむこうを調ちょう戯たわむれい返しかえした。
けれども彼かれの見みた細君さいくんの態度たいどには、笑談しょうだんとも真面目まじめとも片かたのつかない或ある物ものが閃めくひらめく事ことがたびたびあった。
そんな場合ばあいに出会うであうと、根強いねづよい性質せいしつに出来上っできあがっている彼かれは、談話だんわの途中とちゅうでよく拘泥っこうでいった。
そうしてもし事情じじょうが許すゆるすならば、どこまでも話はなしの根ねを掘ほりじって、相手あいての本意ほんいを突き留めようつきとめようとした。
遠慮えんりょのためにそこまで行けいけない時じは、黙っだまって相手あいての顔色かおいろだけを注視ちゅうしした。
その時じの彼かれの眼めには必然ひつぜんの結果けっかとしていつでも軽いかるい疑いうたがいの雲くもがかかった。
それが臆病おくびょうにも見えみえた。
注意ちゅうい深くふかくも見えみえた。
または自衛じえい的まとに慢まんぶる神経しんけいの光ひかりを放つはなつかのごとくにも見えみえた。
最後さいごに、「思慮しりょに充ちみちた不安ふあん」とでも形容けいようしてしかるべき一種いっしゅの匂においも帯びおびていた。
吉川よしかわの細君さいくんは津田つだに会うあうたんびに、一度いちどか二に度どきっと彼かれをそこまで追い込んおいこんだ。
津田つだはまたそれと自覚じかくしながらいつの間まにかそこへ引き摺りひきずり込まこまれた。
「奥さんおくさんはずいぶん意地いじが悪いわるいですね」「どうして? あなた方ほうの御ご年歯ねんしを伺っうかがったのが意地いじが悪いわるいの」「そう云ういう訳わけでもないですが、何なんだか意味いみのあるような、またないような訊ききき方ほうをしておいて、わざとその後そのあとをおっしゃらないんだから」「後あとなんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家けんきゅうかだから駄目だめね。学問がくもんをするには研究けんきゅうが必要ひつようかも知れしれないけれども、交際こうさいに研究けんきゅうは禁物きんもつよ。あなたがその癖くせをやめると、もっと人ひと好よしみのする好いよい男おとこになれるんだけれども」 津田つだは少しすこし痛かっいたかった。
けれどもそれは彼かれの胸むねに来るくる痛いたさで、彼かれの頭あたまに応えるこたえる痛いたさではなかった。
彼かれの頭あたまはこの露骨ろこつな打撃だげきの前まえに冷然れいぜんとして相手あいてを見下しみくだしていた。
細君さいくんは微笑びしょうした。
「嘘うそだと思うおもうなら、帰っかえってあなたの奥さんおくさんに訊いきいて御覧ごらん遊ばあそばせ。お延おのべさんもきっと私わたくしと同どう意見いけんだから。お延おのべさんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人ひとりあるはずよ、きっと」 津田つだの顔かおが急きゅうに堅くかたくなった。
唇くちびるの肉にくが少しすこし動いうごいた。
彼かれは眼めを自分じぶんの膝ひざの上うえに落しおとしたぎり何なんも答えこたえなかった。
「解っわかったでしょう、誰だれだか」 細君さいくんは彼かれの顔かおを覗き込むのぞきこむようにして訊いきいた。
彼かれは固よりもとよりその誰だれであるかをよく承知しょうちしていた。
けれども細君さいくんの云ういう事ことを肯定こうていする気きは毫もごうもなかった。
再びふたたび顔かおを上げあげた時じ、彼かれは沈黙ちんもくの眼めを細君さいくんの方ほうに向けむけた。
その眼めが無言むごんの裡りに何なんを語っごっているか、細君さいくんには解らわからなかった。
「御ご気きに障っさわったら堪忍かんにんしてちょうだい。そう云ういうつもりで云っいったんじゃないんだから」「いえ何なんとも思っおもっちゃいません」「本当ほんとうに?」「本当ほんとうに何なんとも思っおもっちゃいません」「それでやっと安心あんしんした」 細君さいくんはすぐ元もとの軽いかるい調子ちょうしを恢復かいふくした。
「あなたまだどこか子供こども子供こどもしたところがあるのね、こうして話しはなしていると。だから男おとこは損そんなようでやっぱり得とくなのね。あなたはそら今いまおっしゃった通りとおりちょうどでしょう、それからお延のべさんが今年ことし三さんになるんだから、年歯ねんしでいうと、よっぽど違うちがうんだけれども、様子ようすからいうと、かえって奥さんおくさんの方ほうが更けふけてるくらいよ。更けふけてると云っいっちゃ失礼しつれいに当るあたるかも知れしれないけれども、何なんと云っいったらいいでしょうね、まあ……」 細君さいくんは津田つだを前まえに置いおいてお延のべの様子ようすを形容けいようする言葉ことばを思案しあんするらしかった。
津田つだは多少たしょうの好奇心こうきしんをもって、それを待ち受けまちうけた。
「まあ老成ろうせいよ。本当ほんとうに怜悧れいりな方ほうね、あんな怜悧れいりな方ほうは滅多めったに見みた事ことがない。大事だいじにして御ご上げあげなさいよ」 細君さいくんの語勢ごせいからいうと、「大事だいじにしてやれ」という代りかわりに、「よく気きをつけろ」と云っいっても大したたいした変りかわりはなかった。
十二じゅうに
その時じ二人ふたりの頭あたまの上うえに下っしたっている電灯でんとうがぱっと点いついた。
先刻せんこく取次とりつぎに出でた書生しょせいがそっと室むろの中なかへ入っはいって来きて、音おとのしないようにブラインドぶらいんどを卸おろしろして、また無言むごんのまま出でて行っいった。
瓦斯がす煖炉だんろの色いろのだんだん濃くこくなって来るくるのを、最前さいぜんから注意ちゅういして見みていた津田つだは、黙っだまって書生しょせいの後姿うしろすがたを目送もくそうした。
もう好いよい加減かげんに話はなしを切り上げきりあげて帰らかえらなければならないという気きがした。
彼かれは自分じぶんの前まえに置かおかれた紅茶こうちゃ茶碗ちゃわんの底そこに冷たくつめたく浮いういている檸檬れもんの一切いっさいを除けるのけるようにしてその余りあまりを残りのこりなく啜っすすった。
そうしてそれを相図あいずに、自分じぶんの持っもって来きた用事ようじを細君さいくんに打ち明けうちあけた。
用事ようじは固よりもとより単簡たんかんであった。
けれども細君さいくんの諾否だくひだけですぐ決定けっていされべき性質せいしつのものではなかった。
彼かれの自由じゆうに使用しようしたいという一いち週間しゅうかん前後ぜんごの時日じじつを、月つきのどこへ置いおいていいか、そこは彼女かのじょにもまるで解らわからなかった。
「いつだって構かまえやしないんでしょう。繰合せくりあわせさえつけば」 彼女かのじょはさも無雑むざつ作さくな口くちぶりで津田つだに好意こういを表しあらわしてくれた。
「無論むろん繰合せくりあわせはつくようにしておいたんですが……」「じゃ好いよいじゃありませんか。明日あすから休んやすんだって」「でもちょっと伺っうかがった上うえでないと」「じゃ帰っかえったら私わたくしからよく話しはなしておきましょう。心配しんぱいする事ことも何になんにもないわ」 細君さいくんは快よくこころよく引き受けひきうけた。
あたかも自分じぶんが他ほかのために働はたらけらいてやる用事ようじがまた一いちつできたのを喜こぶよろこぶようにも見えみえた。
津田つだはこの機嫌きげんのいい、そして同情どうじょうのある夫人ふじんを自分じぶんの前まえに見るみるのが嬉しかっうれしかった。
自分じぶんの態度たいどなり所作しょさなりが原動力げんどうりょくになって、相手あいてをそうさせたのだという自覚じかくが彼かれをなおさら嬉しくうれしくした。
彼かれはある意味いみにおいて、この細君さいくんから子供こども扱いあつかいにされるのを好いよいていた。
それは子供こども扱いあつかいにされるために二人ふたりの間まに起るおこる一種いっしゅの親しみしたしみを自分じぶんが握るにぎる事ことができたからである。
そうしてその親しみしたしみをよくよく立ちたち割わりって見るみると、やはり男女だんじょ両性りょうせいの間まにしか起りおこり得とくない特殊とくしゅな親しみしたしみであった。
例えたとえて云ういうと、或人あるひとが茶屋ちゃや女おんななどに突然とつぜん背中せなかを打だやされた刹那せつなに受けるうける快感かいかんに近いちかい或ある物ものであった。
同時どうじに彼かれは吉川よしかわの細君さいくんなどがどうしても子供こども扱いあつかいにする事ことのできない自己じこを裕ひろしにもっていた。
彼かれはその自己じこをわざと押しおし蔵しぞうして細君さいくんの前まえに立つたつ用意よういを忘れわすれなかった。
かくして彼かれは心こころ置おけなく細君さいくんから嬲らなぶられる時じの軽いかるい感じかんじを前まえに受けうけながら、背後はいごはいつでも自分じぶんの築いきずいた厚いあつい重いおもい壁かべに倚りよりかかっていた。
彼かれが用事ようじを済ましすまして椅子いすを離れようはなれようとした時じ、細君さいくんは突然とつぜん口くちを開いひらいた。
「また子供こどものように泣いないたり唸っうなったりしちゃいけませんよ。大きなおおきな体からだをして」 津田つだは思わおもわず去年きょねんの苦痛くつうを思い出しおもいだした。
「あの時じは実際じっさい弱りよわりました。唐紙とうしの開閉かいへいが局部きょくぶに応えこたえて、そのたんびにぴくんぴくんと身体しんたい全体ぜんたいが寝床ねどこの上うえで飛び上っとびあがったくらいなんですから。しかし今度こんどは大丈夫だいじょうぶです」「そう? 誰だれが受合っうけあってくれたの。何なんだか解っわかったもんじゃないわね。あんまり口幅ったいくちはばったい事ことをおっしゃると、見届けみとどけに行きいきますよ」「あなたに見舞みまいに来きていただけるような所ところじゃありません。狭くせまくって汚なくきたなくって変へんな部屋へやなんですから」「いっこう構わかまわないわ」 細君さいくんの様子ようすは本気ほんきなのか調ちょう戯たわむれうのかちょっと要領ようりょうを得とくなかった。
医者いしゃの専門せんもんが、自分じぶんの病気びょうき以外いがいの或ある方面ほうめんに属するぞくするので、婦人ふじんなどはあまりそこへ近づかちかづかない方ほうがいいと云おういおうとした津田つだは、少しすこし口籠っくちごもって躊躇ちゅうちょした。
細君さいくんは虚うつろに乗じじょうじて肉薄にくはくした。
「行きいきますよ、少しすこしあなたに話すはなす事ことがあるから。お延おのべさんの前まえじゃ話しはなしにくい事ことなんだから」「じゃそのうちまた私わたくしの方ほうから伺いうかがいます」 細君さいくんは逃げるにげるようにして立ったった津田つだを、笑い声わらいごえと共ともに応接間おうせつかんから送り出しおくりだした。
十三じゅうさん
往来おうらいへ出でた津田つだの足あしはしだいに吉川よしかわの家いえを遠ざかっとおざかった。
けれども彼かれの頭あたまは彼かれの足あしほど早くはやく今までいままでいた応接間おうせつかんを離れるはなれる訳わけに行かいかなかった。
彼かれは比較的ひかくてき人通りひとどおりの少ないすくない宵闇よいやみの町まちを歩きあるきながら、やはり明るいあかるい室内しつないの光景こうけいをちらちら見みた。
冷たつめたそうに燦さんつく肌合はだあいの七宝しっぽう製せいの花瓶かびん、その花瓶かびんの滑らかなめらかな表面ひょうめんに流れるながれる華麗かれいな模様もようの色いろ、卓上たくじょうに運ばはこばれた銀ぎんきせの丸盆まるぼん、同じおなじ色いろの角砂糖かくさとう入いりと牛乳ぎゅうにゅう入いり、蒼黒いあおぐろい地ちの中なかに茶ちゃの唐草からくさ模様もようを浮かしうかした重じゅうそうな窓掛まどかけ、三隅みすみに金箔きんぱくを置いおいた装飾そうしょく用ようのアルバムあるばむ、――こういうものの強いつよい刺戟しげきが、すでに明るいあかるい電灯でんとうの下したを去っさって、暗いくらい戸外こがいへ出でた彼かれの眼めの中なかを不ふ秩序ちつじょに往来おうらいした。
彼かれは無論むろんこの渦まくうずまく色いろの中なかに坐っすわっている女おんな主人公しゅじんこうの幻影げんえいを忘れるわすれる事ことができなかった。
彼かれは歩きあるきながら先刻せんこく彼女かのじょと取りとり換かえわせた会話かいわを、ぽつりぽつり思い出しおもいだした。
そうしてその或ある部分ぶぶんに来るくると、あたかも炒豆いりまめを口くちに入れいれた人ひとのように、咀嚼そしゃくしつつ味わっあじわった。
「あの細君さいくんはことによると、まだあの事件じけんについて、おれに何なんか話はなしをする気きかも知れしれない。その話はなしを実じつはおれは聞きききたくないのだ。しかしまた非常ひじょうに聞きききたいのだ」 彼かれはこの矛盾むじゅんした両面りょうめんを自分じぶんの胸むねの中なかで自分じぶんに公言こうげんした時じ、たちまちわが弱点じゃくてんを曝露ばくろした人ひとのように、暗いくらい路みちの上うえで赤面せきめんした。
彼かれはその赤面せきめんを通り抜けるとおりぬけるために、わざとすぐ先さきへ出でた。
「もしあの細君さいくんがあの事件じけんについておれに何なんか云いいい出すだす気きがあるとすると、その主意しゅいははたしてどこにあるだろう」 今いまの津田つだはけっしてこの問題もんだいに解決かいけつを与えるあたえる事ことができなかった。
「おれに調ちょう戯たわむれうため?」 それは何なんとも云えいえなかった。
彼女かのじょは元来がんらい他ほかに調ちょう戯たわむれう事ことの好よしみな女おんなであった。
そうして二人ふたりの間柄あいだがらはその方面ほうめんの自由じゆうを彼女かのじょに与えるあたえるに充分じゅうぶんであった。
その上うえ彼女かのじょの地位ちいは知らしらず知らしらずの間まに今いまの彼女かのじょを放ほう慢まんにした。
彼かれを焦らすじらす事ことから受けうけ得とくられる単なるたんなる快感かいかんのために、遠慮えんりょの埒らちを平気へいきで跨ぐまたぐかも知れしれなかった。
「もしそうでないとしたら、……おれに対するたいする同情どうじょうのため? おれを贔負にし過ぎるすぎるため?」 それも何なんとも云えいえなかった。
今までいままでの彼女かのじょは実際じっさい彼かれに対したいして親切しんせつでもあり、また贔負にもしてくれた。
彼かれは広いひろい通りとおりへ来きてそこから電車でんしゃへ乗っのった。
堀端ほりばたを沿うそうて走るはしるその電車でんしゃの窓まど硝子がらすの外そとには、黒いくろい水みずと黒いくろい土手どてと、それからその土手どての上うえに蟠とぐろまる黒いくろい松まつの木きが見えるみえるだけであった。
車内しゃないの片隅かたすみに席せきを取っとった彼かれは、窓まどを透しとおしてこのさむざむしい秋あきの夜よるの景色けしきにちょっと眼めを注いそそいだ後あと、すぐまたほかの事ことを考えかんがえなければならなかった。
彼かれは面倒めんどうになって昨夕さくゆうはそのままにしておいた金きんの工面くめんをどうかしなければならない位地いちにあった。
彼かれはすぐまた吉川よしかわの細君さいくんの事ことを思い出しおもいだした。
「先刻せんこく事情じじょうを打ち明けうちあけてこっちから云いいい出しだしさえすれば訳わけはなかったのに」 そう思うおもうと、自分じぶんが気きを利かしきかしたつもりで、こう早くはやく席せきを立ったって来きてしまったのが残り惜しくのこりおしくなった。
と云っいって、今さらいまさらその用事ようじだけで、また彼女かのじょに会いあいに行くいく勇気ゆうきは彼かれには全くまったくなかった。
電車でんしゃを下りくだりて橋はしを渡るわたる時じ、彼かれは暗いくらい欄干らんかんの下したに蹲踞まるうずくまる乞食こじきを見みた。
その乞食こじきは動くうごく黒いくろい影かげのように彼かれの前まえに頭あたまを下げさげた。
彼かれは身みに薄いうすい外套がいとうを着けつけていた。
季節きせつからいうとむしろ早はや過ぎるすぎる瓦斯がす煖炉だんろの温かいあたたかい※をもう見みて来きた。
けれども乞食こじきと彼かれとの懸隔けんかくは今いまの彼かれの眼中がんちゅうにはほとんど入るはいる余地よちがなかった。
彼かれは窮しきゅうした人ひとのように感じかんじた。
父ちちが例月れいげつの通りとおり金きんを送っおくってくれないのが不都合ふつごうに思わおもわれた。
十四じゅうよん
津田つだは同じおなじ気分きぶんで自分じぶんの宅たくの門前もんぜんまで歩いあるいた。
彼かれが玄関げんかんの格子こうしへ手てを掛けようかけようとすると、格子こうしのまだ開かひらかない先さきに、障子しょうじの方ほうがすうと開いひらいた。
そうしてお延のべの姿すがたがいつの間まにか彼かれの前まえに現われあらわれていた。
彼かれは吃驚びっくりしたように、薄化粧うすけしょうを施こしこした彼女かのじょの横顔よこがおを眺めながめた。
彼かれは結婚後けっこんごこんな事ことでよく自分じぶんの細君さいくんから驚ろかさおどろかされた。
彼女かのじょの行為こういは時じとして夫おっとの先さきを越すこすという悪いわるい結果けっかを生むうむ代りかわりに、時じとしては非常ひじょうに気きの利いきいた証拠しょうこをも挙げあげた。
日常にちじょう瑣末さまつの事件じけんのうちに、よくこの特色とくしょくを発揮はっきする彼女かのじょの所作しょさを、津田つだは時々ときどき自分じぶんの眼め先さきにちらつく洋刀ようとうの光ひかりのように眺めるながめる事ことがあった。
小さいちいさいながら冴えさえているという感じかんじと共ともに、どこか気味きみの悪いわるいという心持こころもちも起っおこった。
咄嗟とっさの場合ばあい津田つだはお延のべが何なんかの力ちからで自分じぶんの帰りかえりを予感よかんしたように思っおもった。
けれどもその訳わけを訊くきく気きにはならなかった。
訳わけを訊いきいて笑いわらいながらはぐらかされるのは、夫おっとの敗北はいぼくのように見えみえた。
彼かれは澄ましすまして玄関げんかんから上うえへ上がっあがった。
そうしてすぐ着物きものを着換えきかえた。
茶の間ちゃのまの火鉢ひばちの前まえには黒塗くろぬりの足あしのついた膳ぜんの上うえに布巾ふきんを掛けかけたのが、彼かれの帰りかえりを待ち受けるまちうけるごとくに据えすえてあった。
「今日きょうもどこかへ御ご廻りまわり?」 津田つだが一定いっていの時刻じこくに宅たくへ帰らかえらないと、お延のべはきっとこういう質問しつもんを掛けかけた。
勢いいきおい津田つだは何なんとか返事へんじをしなければならなかった。
しかしそう用事ようじばかりで遅くおそくなるとも限らかぎらないので、時じによると彼かれの答こたえは変へんに曖昧あいまいなものになった。
そんな場合ばあいの彼かれは、自分じぶんのために薄化粧うすけしょうをしたお延のべの顔かおをわざと見みないようにした。
「あてて見みましょうか」「うん」 今日きょうの津田つだはいかにも平気へいきであった。
「吉川よしかわさんでしょう」「よくあたるね」「たいてい容子ようこで解りわかりますわ」「そうかね。もっとも昨夜さくや吉川よしかわさんに話はなしをしてから手術しゅじゅつの日ひ取とりをきめる事ことにしようって云っいったんだから、あたる訳わけは訳わけだね」「そんな事ことがなくったって、妾めかけあてるわ」「そうか。偉いえらいね」 津田つだは吉川よしかわの細君さいくんに頼んたのんで来きた要点ようてんだけをお延のべに伝えつたえた。
「じゃいつから、その治療ちりょうに取りかかるとりかかるの」「そういう訳わけだから、まあいつからでも構わかまわないようなもんだけれども……」 津田つだの腹はらには、その治療ちりょうにとりかかる前まえに、是非ぜひ金きんの工面くめんをしなければならないという屈託くったくがあった。
その額がくは無論むろん大したたいしたものではなかった。
しかし大したたいした額がくでないだけに、これという簡便かんべんな調達ちょうたつ方ほうの胸むねに浮ばうかばない彼かれを、なお焦しょうつかせた。
彼かれは神田かんだにいる妹いもうとの事ことをちょっと思い浮べおもいうかべて見みたが、そこへ足あしを向けるむける気きにはどうしてもなれなかった。
彼かれが結婚後けっこんご家計かけい膨脹ぼうちょうという名義めいぎの下したに、毎月まいつきの不足ふそくを、京都きょうとにいる父ちちから填補てんぽして貰うもらう事ことになった一面いちめんには、盆暮ぼんくれの賞与しょうよで、その何分なんふんかを返済へんさいするという条件じょうけんがあった。
彼かれはいろいろの事情じじょうから、この夏なつその条件じょうけんを履行りこうしなかったために、彼かれの父ちちはすでに感情かんじょうを害しがいしていた。
それを知っしっている妹いもうとはまた大体だいたいの上うえにおいてむしろ父ちちの同情どうじょう者ものであった。
妹いもうとの夫おっとの手前てまえ、金きんの問題もんだいなどを彼女かのじょの前まえに持ち出すもちだすのを最初さいしょから屑くずよしとしなかった彼かれは、この事情じじょうのために、なおさら堅くかたくなった。
彼かれはやむをえなければ、お延のべの忠告ちゅうこく通りとおり、もう一いち返かえし父ちちに手紙てがみを出しだして事情じじょうを訴えるうったえるよりほかに仕方しかたがないと思っおもった。
それには今いまの病気びょうきを、少しすこし手重ておもに書くかくのが得策とくさくだろうとも考えかんがえた。
父母ふぼに心配しんぱいをかけない程度ていどで、実際じっさいの事実じじつに多少たしょうの光沢こうたくを着けるつけるくらいの事ことは、良心りょうしんの苦痛くつうを忍ばしのばないで誰だれにでもできる手加減てかげんであった。
「お延のべ昨夜さくやお前おまえの云っいった通りとおりもう一遍いちぺん御ご父さんちちさんに手紙てがみを出そうでそうよ」「そう。でも……」 お延のべは「でも」と云っいったなり津田つだを見みた。
津田つだは構わかまわず二に階かいへ上っのぼって机つくえの前まえに坐っすわった。
十五じゅうご
西洋せいよう流りゅうのレターペーパーれたーぺーぱーを使いつかいつけた彼かれは、机つくえの抽斗ひきだしからラヴェンダーらゔぇんだー色いろの紙かみと封筒ふうとうとを取り出しとりだして、その紙かみの上うえへ万年筆まんねんひつで何心なにごころなく二三にさん行こう書きかきかけた時じ、ふと気きがついた。
彼かれの父ちちは洋よう筆ふでや万年筆まんねんひつでだらしなく綴らつづられた言文げんぶん一致いっちの手紙てがみなどを、自分じぶんの伜せがれから受け取るうけとる事ことは平生へいぜいからあまり喜こんよろこんでいなかった。
彼かれは遠くとおくにいる父ちちの顔かおを眼めの前まえに思い浮べおもいうかべながら、苦笑くしょうして筆ふでを擱いおいた。
手紙てがみを書いかいてやったところでとうてい効能こうのうはあるまいという気きが続いつづいて起っおこった。
彼かれは木炭紙もくたんしに似にたざらつく厚いあつい紙かみの余りあまりへ、山羊髯やぎひげを生やしはやした細面ほそおもての父ちちの顔かおをいたずらにスケッチすけっちして、どうしようかと考えかんがえた。
やがて彼かれは決心けっしんして立ち上ったちのぼった。
襖ふすまを開けあけて、二に階かいの上り口あがりぐちの所ところに出でて、そこから下したにいる細君さいくんを呼んよんだ。
「お延のべお前おまえの所ところに日本にっぽんの巻紙まきがみと状袋じょうぶくろがあるかね。あるならちょいとお貸しかし」「日本にっぽんの?」 細君さいくんの耳みみにはこの形容詞けいようしが変へんに滑稽こっけいに聞こえきこえた。
「女おんなのならあるわ」 津田つだはまた自分じぶんの前まえに粋いきな模様もよう入いりの半切はんせつを拡げひろげて見みた。
「これなら気きに入るはいるかしら」「中なかさえよく解るわかるように書いかいて上げあげたら紙かみなんかどうでもよかないの」「そうは行かいかないよ。御ご父さんちちさんはあれでなかなかむずかしいんだからね」 津田つだは真面目まじめな顔かおをしてなお半切はんせつを見つめみつめていた。
お延のべの口元くちもとには薄笑いうすわらいの影かげが差しさした。
「時じをちょいと買わかわせにやりましょうか」「うん」 津田つだは生返事なまへんじをした。
白いしろい巻紙まきがみと無地むじの封筒ふうとうさえあれば、必ずかならず自分じぶんの希望きぼうが成功せいこうするという訳わけにも行かいかなかった。
「待っまっていらっしゃい。じきだから」 お延のべはすぐ下したへ降りふりた。
やがて潜り戸くぐりどが開いひらいて下女げじょの外そとへ出るでる足音あしおとが聞こえきこえた。
津田つだは必要ひつようの品物しなものが自分じぶんの手てに入るはいるまで、何なんもせずに、ただ机つくえの前まえに坐っすわって煙草たばこを吹かしふかした。
彼かれの頭あたまは勢いいきおい彼かれの父ちちを離れはなれなかった。
東京とうきょうに生れうまれて東京とうきょうに育っそだったその父ちちは、何なんぞというとすぐ上方かみがたの悪口わるぐちを云いいいたがる癖くせに、いつか永住えいじゅうの目的もくてきをもって京都きょうとに落ちついおちついてしまった。
彼かれがその土地とちを余りあまり好まこのまない母ははに同情どうじょうして多少たしょう不賛成ふさんせいの意いを洩らしもらした時じ、父ちちは自分じぶんで買っかった土地とちと自分じぶんが建てたてた家いえとを彼かれに示ししめして、「これをどうする気きか」と云っいった。
今いまよりもまだ年ねんの若かっわかかった彼かれは、父ちちの言葉ことばの意味いみさえよく解らわからなかった。
所ところ置おけはどうでもできるのにと思っおもった。
父ちちは時々ときどき彼かれに向っむかって、「誰だれのためでもない、みんな御前ごぜんのためだ」と云っいった。
「今いまはそのありがた味あじが解らわからないかも知れしれないが、おれが死んしんで見ろみろ、きっと解るわかる時じが来るくるから」とも云っいった。
彼かれは頭あたまの中なかで父ちちの言葉ことばと、その言葉ことばを口くちにする時じの父ちちの態度たいどとを描き出しえがきだした。
子供こどもの未来みらいの幸福こうふくを一手いってに引き受けひきうけたような自信じしんに充ちみちたその様子ようすが、近づくちかづくべからざる予言者よげんしゃのように、彼かれには見えみえた。
彼かれは想像そうぞうの眼めで見るみる父ちちに向っむかって云いいいたくなった。
「御ご父さんちちさんが死んしんだ後あとで、一度いちどに御ご父さんちちさんのありがた味あじが解るわかるよりも、お父さんおちちさんが生きいきているうちから、毎月まいつき正確せいかくにお父さんおちちさんのありがた味あじが少しすこしずつ解るわかる方ほうが、どのくらい楽らくだか知れしれやしません」 彼かれが父ちちの機嫌きげんを損ないそこないような巻紙まきがみの上うえへ、なるべく金きんを送っおくってくれそうな文句もんくを、堅苦しいかたくるしい候文そうろうぶんで認めみとめ出しだしたのは、それから約やく十じゅう分ぶん後あとであった。
彼かれはぎごちない思いおもいをして、ようやくそれを書き上げかきあげた後あとで、もう一遍いちぺん読み返しよみかえした時じに、自分じぶんの字じの拙いつたない事ことにつくづく愛想あいそを尽かしつかした。
文句もんくはとにかく、こんな字じではとうてい成功せいこうする資格しかくがないようにも思っおもった。
最後さいごに、よし成功せいこうしても、こっちで要るいる期日きじつまでに金きんはとても来きないような気きがした。
下女げじょにそれを投函とうかんさせた後あと、彼かれは黙っだまって床ゆかの中なかへ潜り込みもぐりこみながら、腹はらの中なかで云っいった。
「その時じはその時じの事ことだ」
十六じゅうろく
翌日よくじつの午後ごご津田つだは呼び付けよびつけられて吉川よしかわの前まえに立ったった。
「昨日きのう宅たくへ来きたってね」「ええちょっと御ご留守るすへ伺っうかがって、奥さんおくさんに御ご目めにかかって参りまいりました」「また病気びょうきだそうじゃないか」「ええ少しすこし……」「困るこまるね。そうよく病気びょうきをしちゃ」「何なん実じつはこの前まえの続きつづきです」 吉川よしかわは少しすこし意外いがいそうな顔かおをして、今までいままで使っつかっていた食後しょくごの小しょう楊子ようじを口くちから吐き出しはきだした。
それから内うち隠いん袋ふくろを探っさぐって莨たばこ入いりを取り出そうとりだそうとした。
津田つだはすぐ灰皿はいざらの上うえにあった燐寸まっちを擦っすった。
あまり気きを利かそうきかそうとして急いいそいたものだから、一いち本ほん目めは役やくに立たたたないで直ぐすぐ消えきえた。
彼かれは周章てあわてて二に本ほん目めを擦っすって、それを大事だいじそうに吉川よしかわの鼻はなの先さきへ持っもって行っいった。
「何しろなにしろ病気びょうきなら仕方しかたがない、休んやすんでよく養生ようじょうしたらいいだろう」 津田つだは礼れいを云っいって室むろを出ようでようとした。
吉川よしかわは煙りけむりの間まから訊いきいた。
「佐々木ささきには断っことわったろうね」「ええ佐々木ささきさんにもほかの人ひとにも話しはなして、繰り合せくりあわせをして貰うもらう事ことにしてあります」 佐々木ささきは彼かれの上役うわやくであった。
「どうせ休むやすむなら早いはやい方ほうがいいね。早くはやく養生ようじょうして早くはやく好くよくなって、そうしてせっせと働はたらけらかなくっちゃ駄目だめだ」 吉川よしかわの言葉ことばはよく彼かれの気性きしょうを現わしあらわしていた。
「都合つごうがよければ明日あすからにしたまえ」「へえ」 こう云わいわれた津田つだは否応いやおうなしに明日あすから入院にゅういんしなければならないような心持こころもちがした。
彼かれの身体しんたいが半分はんぶん戸との外そとへ出かかっでかかった時じ、彼かれはまた後あとから呼びとめよびとめられた。
「おい君きみ、お父さんおちちさんは近頃ちかごろどうしたね。相そう変らかわらずお丈夫じょうぶかね」 ふり返っふりかえった津田つだの鼻はなを葉巻はまきの好いよい香こうが急きゅうに冒しおかした。
「へえ、ありがとう、お蔭さまおかげさまで達者たっしゃでございます」「大方おおかた詩しでも作っつくって遊んあそんでるんだろう。気楽きらくで好いよいね。昨夕さくゆうも岡本おかもとと或ある所ところで落ち合っおちあって、君きみのお父さんおちちさんの噂うわさをしたがね。岡本おかもとも羨ましうらやましがってたよ。あの男おとこも近頃ちかごろ少しすこし閑暇かんかになったようなもののやっぱり、君きみのお父さんおちちさんのようにゃ行かいかないからね」 津田つだは自分じぶんの父ちちがけっしてこれらの人ひとから羨やましうらやましがられているとは思わおもわなかった。
もし父ちちの境遇きょうぐうに彼かれらをおいてやろうというものがあったなら、彼かれらは苦笑くしょうして、少なくすくなくとももう十じゅう年ねんはこのままにしておいてくれと頼むたのむだろうと考えかんがえた。
それは固よりもとより自分じぶんの性格せいかくから割り出しわりだした津田つだの観察かんさつに過ぎすぎなかった。
同時どうじに彼かれらの性格せいかくから割り出しわりだした津田つだの観察かんさつでもあった。
「父ちちはもう時勢じせい後れおくれですから、ああでもして暮らしくらしているよりほかに仕方しかたがございません」 津田つだはいつの間まにかまた室むろの中なかに戻っもどって、元もと通りとおりの位置いちに立ったっていた。
「どうして時勢じせい後れおくれどころじゃない、つまり時勢じせいに先だっさきだっているから、ああした生活せいかつが送れるおくれるんだ」 津田つだは挨拶あいさつに窮しきゅうした。
向うむこうの口くちの重宝ちょうほうなのに比べくらべて、自分じぶんの口くちの不ふ重宝ちょうほうさが荷にになった。
彼かれは手持無沙汰てもちむさたの気味きみで、緩くゆるく消えきえて行くいく葉巻はまきの煙りけむりを見つめみつめた。
「お父さんおちちさんに心配しんぱいを掛けかけちゃいけないよ。君きみの事ことは何なんでもこっちに分っわかってるから、もし悪いわるい事ことがあると、僕ぼくからお父さんおちちさんの方ほうへ知らしらせてやるぜ、好いよいかね」 津田つだはこの子供こどもに対するたいするような、笑談しょうだんとも訓戒くんかいとも見分けんぶんのつかない言葉ことばを、苦笑くしょうしながら聞いきいた後あとで、ようやく室外しつがいに逃れ出のがれでた。
十七じゅうなな
その日ひの帰りがけかえりがけに津田つだは途中とちゅうで電車でんしゃを下りくだりて、停留所ていりゅうしょから賑やかにぎやかな通りとおりを少しすこし行っいった所ところで横よこへ曲っきょくった。
質屋しちやの暖簾のれんだの碁会所ごかいしょの看板かんばんだの鳶とびの頭あたまのいそうな格子戸こうしと作りつくりだのを左右さゆうに見みながら、彼かれは彎曲わんきょくした小路こうじの中ほどなかほどにある擦硝子がらす張ちょうの扉とびらを外そとから押しおして内うちへ入っはいった。
扉とびらの上部じょうぶに取り付けとりつけられた電鈴でんれいが鋭どいするどい音おとを立てたてた時じ、彼かれは玄関げんかんの突き当りつきあたりの狭いせまい部屋へやから出るでる四五しご人ひとの眼めの光ひかりを一度いちどに浴びあびた。
窓まどのないその室むろは狭いせまいばかりでなく実際じっさい暗かっくらかった。
外部がいぶから急きゅうに入っはいって来きた彼かれにはまるで穴蔵あなぐらのような感じかんじを与えあたえた。
彼かれは寒かんそうに長椅子ちょういすの片隅かたすみへ腰こしをおろして、たった今いま暗いくらい中なかから眼めを光らしひからして自分じぶんの方ほうを見みた人ひと達とおるを見返しみかえした。
彼かれらの多くおおくは室むろの真中まなかに出しだしてある大きなおおきな瀬戸せと物もの火鉢ひばちの周囲しゅういを取り巻くとりまくようにして坐っすわっていた。
そのうちの二人ふたりは腕組うでぐみのまま、二人ふたりは火鉢ひばちの縁えんに片手かたてを翳しかざしたまま、ずっと離れはなれた一人ひとりはそこに取り散らしとりちらした新聞紙しんぶんしの上うえへ甜めるなめるように顔かおを押し付けおしつけたまま、また最後さいごの一人ひとりは彼かれの今いま腰こしをおろした長なが椅子いすの反対はんたいの隅すみに、心持こころもち身体しんたいを横よこにして洋よう袴はかまの膝頭ひざがしらを重ねかさねたまま。
電鈴でんれいの鳴っなった時じ申し合せもうしあわせたように戸口とぐちをふり向いふりむいた彼かれらは、一瞥いちべつの後あとまた申し合せもうしあわせたように静かしずかになってしまった。
みんな黙っだまって何事なにごとをか考え込んかんがえこんでいるらしい態度たいどで坐っすわっていた。
その様子ようすが津田つだの存在そんざいに注意ちゅういを払わはらわないというよりも、かえって津田つだから注意ちゅういされるのを回避かいひするのだとも取れとれた。
単にたんに津田つだばかりでなく、お互たがいに注意ちゅういされ合うあう苦痛くつうを憚かっはばかって、わざとそっぽへ眼めを落しおとしているらしくも見えみえた。
この陰気いんきな一群いちぐんの人々ひとびとは、ほとんど例外れいがいなしに似にたり寄っよったりの過去かこをもっているものばかりであった。
彼かれらはこうして暗いくらい控室ひかえしつの中なかで、静かしずかに自分じぶんの順番じゅんばんの来るくるのを待っまっている間まに、むしろ華やかはなやかに彩らいろどられたその過去かこの断片だんぺんのために、急きゅうに黒いくろい影かげを投げかけなげかけられるのである。
そうして明るいあかるい所ところへ眼めを向けるむける勇気ゆうきがないので、じっとその黒いくろい影かげの中なかに立ち竦むたちすくむようにして閉じ籠っとじこもっているのである。
津田つだは長椅子ちょういすの肱掛ひじかけに腕うでを載せのせて手てを額がくにあてた。
彼かれは黙祷もくとうを神かみに捧げるささげるようなこの姿勢しせいのもとに、彼かれが去年きょねんの暮くれ以来いらいこの医者いしゃの家いえで思いがけおもいがけなく会っかいった二人ふたりの男おとこの事ことを考えかんがえた。
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