その一重瞼の中に輝やく瞳子は漆黒であった。だから非常によく働らいた。或時は専横と云ってもいいくらいに表情を恣ままにした。津田は我知らずこの小さい眼から出る光に牽きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳ね返される事もないではなかった。
第 1 章
彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。
それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。
相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断された。
すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。
同時に眼の表情があとかたもなく消えた。
「嘘よ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」 黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中に端書を出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」「いえ私も止しにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」 津田は自分の受けべき手術についてなお詳しい話を細君にしなければならなかった。
「手術ってたって、そう腫物の膿を出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初下剤をかけてまず腸を綺麗に掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口へガーゼを詰めたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、また日曜を繰り上げて明日にしたところで、明後日にしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」 細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。
津田はそれに全く無頓着であると云った風に、何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢の縁に右の肘を靠たせて、その中に掛けてある鉄瓶の葢を眺めた。
朱銅の葢の下では湯の沸る音が高くした。
「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」「だから吉川さんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。平生からあんなに御世話になっているんですもの」「吉川さんに話したら明日からすぐ入院しろって云うかも知れない」 入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。
「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」「まあ入院さ」「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が空いてるもんだから、そこへ入いる事もできるようになってるんだ」「綺麗?」 津田は苦笑した。
「自宅よりは少しあ綺麗かも知れない」 今度は細君が苦笑した。
五
寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。
細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢に倚りかかったまま夫を見上げた。
「また御勉強?」 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。
彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。
ある時の彼は進んでそれに媚びようとした。
ある時の彼はかえって反感的にそれから逃れたくなった。
どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見縊った自覚がぼんやり働らいていた。
彼が黙って間の襖を開けて次の室へ出て行こうとした時、細君はまた彼の背後から声を掛けた。
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」 津田はちょっとふり向いた。
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」 細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。
返事もしなかった。
津田はそれぎり勾配の急な階子段をぎしぎし踏んで二階へ上った。
彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊載せてあった。
彼は坐るなりそれを開いて枝折の挿んである頁を目標にそこから読みにかかった。
けれども三四日等閑にしておいた咎が祟って、前後の続き具合がよく解らなかった。
それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気の差した彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらと翻して書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。
すると前途遼遠という気が自から起った。
彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。
気がついて見るとそれから今日までにもう二カ月以上も経っているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。
彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物のように細君の前で罵っていた。
それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。
前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心を擽った。
しかし今彼が自分の前に拡げている書物から吸収しようと力めている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。
それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。
学校の講義から得た知識ですら滅多に実際の役に立った例のない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。
彼はただそれを一種の自信力として貯えておきたかった。
他の注意を惹く粧飾としても身に着けておきたかった。
その困難が今の彼に朧気ながら見えて来た時、彼は彼の己惚に訊いて見た。
「そう旨くは行かないものかな」 彼は黙って煙草を吹かした。
それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。
そうして足早に階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。
六
「おいお延」 彼は襖越しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙を開けて茶の間の入口に立った。
すると長火鉢の傍に坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。
暗い玄関から急に明るい電灯の点いた室を覗いた彼の眼にそれが常よりも際立って華麗に見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出やかな模様とを等分に見較べた。
「今時分そんなものを出してどうするんだい」 お延は檜扇模様の丸帯の端を膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締めた事がないんですもの」「それで今度その服装で芝居に出かけようと云うのかね」 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。
お延は何にも答えずに下を向いた。
そうしていつもする通り黒い眉をぴくりと動かして見せた。
彼女に特異なこの所作は時として変に津田の心を唆かすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。
彼は黙って縁側へ出て厠の戸を開けた。
それからまた二階へ上がろうとした。
すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。
「あなた、あなた」 同時に彼女は立って来た。
そうして彼の前を塞ぐようにして訊いた。
「何か御用なの」 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢よりもむしろ大事なものであった。
「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。
「郵便函の中を探させましょうか」「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」 御延は玄関の障子を開けて沓脱へ下りようとした。
「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」 津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻飯を食う時に坐った座蒲団が、まだ火鉢の前に元の通り据えてある上に胡坐をかいた。
そうしてそこに燦爛と取り乱された濃い友染模様の色を見守った。
すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。
「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」 こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。
「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」「何だ書留じゃないのか」 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。
しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。
彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。
ぼんやり細君のよそ行着の荒い御召の縞柄を眺めながら独りごとのように云った。
「困るな」「どうなすったの」「なに大した事じゃない」 見栄の強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。
けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。
七
「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の要る間際になって、こんな事を云って来て……」「いったいどういう訳なんでしょう」 津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出して膝の上で繰り拡げた。
「貸家が二軒先月末に空いちまったんだそうだ。それから塞がってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。そこへ持って来て、庭の手入だの垣根の繕いだので、だいぶ臨時費が嵩んだから今月は送れないって云うんだ」 彼は開いた手紙を、そのまま火鉢の向う側にいるお延の手に渡した。
御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。
この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。
「なにそんな家賃なんぞ当にしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。煉瓦の塀を一丁も拵えやしまいし」 津田の言葉に偽はなかった。
彼の父はよし富裕でないまでも、毎月息子夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。
ただ彼は地味な人であった。
津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。
津田よりもずっと派出好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。
「御父さまはきっと私達が要らない贅沢をして、むやみに御金をぱっぱっと遣うようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計を覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯に変りはないかも知れないが、周囲はまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだと訊くから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」 津田は平生からお延が自分の父を軽蔑する事を恐れていた。
それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩らさなければならなかった。
それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。
同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。
「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」 夫の手前老人に対する批評を憚かった細君の話頭は、すぐ実際問題の方へ入って来た。
津田の答は用意されていなかった。
しばらくして彼は小声で独語のように云った。
「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」 お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか埒は開かないよ」「でもほかに当がなければ仕方なかないの」「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」「そうね」 その時津田は真ともにお延の方を見た。
そうして思い切ったような口調で云った。
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」
八
「厭よ、あたし」 お延はすぐ断った。
彼女の言葉には何の淀みもなかった。
遠慮と斟酌を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。
彼は相当の速力で走っている自動車を、突然停められた時のような衝撃を受けた。
彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。
そうして細君の顔を眺めた。
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」 お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃ強いて頼まないでもいい。しかし……」 津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬って追い退けるように遮った。
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」 お延が一概に津田の依頼を斥けたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄に制せられたのだという事がようやく津田の腑に落ちた。
彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。
「そんなに楽な身分のように吹聴しちゃ困るよ。買い被られるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」「あたし吹聴した覚なんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」 津田は追窮もしなかった。
お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。
二人はちょっと会話を途切らした後でまた実際問題に立ち戻った。
しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別も出なかった。
「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。
お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」 彼女は金の入った厚い帯の端を手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光に翳した。
津田にはその意味がちょっと呑み込めなかった。
「どうかするって、どうするんだい」「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」 津田は驚ろかされた。
自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段を、嫁に来たての若い細君が、疾くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」「ないわ、そんな事」 お延は笑いながら、軽蔑むような口調で津田の問を打ち消した。
「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」 津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑た真似をさせたくなかった。
お延は弁解した。
「時が知ってるのよ。あの婢は宅にいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書さえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」 細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって嬉しい事実であった。
しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。
細君に対して気の毒というよりもむしろ夫の矜りを傷けるという意味において彼は躊躇した。
「まあよく考えて見よう」 彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ上って行った。
九
翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。
彼は午前に一回ひょっくり階子段の途中で吉川に出会った。
しかし彼は下りがけ、向は上りがけだったので、擦れ違に叮嚀な御辞儀をしたぎり、彼は何にも云わなかった。
もう午飯に間もないという頃、彼はそっと吉川の室の戸を敲いて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。
その時吉川は煙草を吹かしながら客と話をしていた。
その客は無論彼の知らない人であった。
彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。
そうして二人ともこっちを向いた。
「何か用かい」 吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」「君自身の用事かい」 津田は固より表向の用事で、この室へ始終出入すべき人ではなかった。
跋の悪そうな顔つきをした彼は答えた。
「そうです。ちょっと……」「そんなら後にしてくれたまえ。今少し差支えるから」「はあ。気がつかない事をして失礼しました」 音のしないように戸を締めた津田はまた自分の机の前に帰った。
午後になってから彼は二返ばかり同じ戸の前に立った。
しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。
「どこかへ行かれたのかい」 津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使に訊いた。
眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「ええ先刻御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」 毎日人の出入の番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。
津田はだれが伴れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。
そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執った。
時間になった時、彼はほかの人よりも一足後れて大きな建物を出た。
彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋から時計を出して眺めた。
それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。
帰りに吉川の私宅へ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。
彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。
吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、宅まで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。
たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。
しかし彼としては時々吉川家の門を潜る必要があった。
それは礼儀のためでもあった。
義理のためでもあった。
また利害のためでもあった。
最後には単なる虚栄心のためでもあった。
「津田は吉川と特別の知り合である」 彼は時々こういう事実を背中に背負って見たくなった。
それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。
しかも自ら重んずるといった風の彼の平生の態度を毫も崩さずに、この事実を背負っていたかった。
物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえって他に見せたがるのと同じような心理作用の下に、彼は今吉川の玄関に立った。
そうして彼自身は飽くまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。
十
厳めしい表玄関の戸はいつもの通り締まっていた。
津田はその上半部に透し彫のように篏め込まれた厚い格子の中を何気なく覗いた。
中には大きな花崗石の沓脱が静かに横たわっていた。
それから天井の真中から蒼黒い色をした鋳物の電灯笠が下がっていた。
今までついぞここに足を踏み込んだ例のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。
そうして書生部屋のすぐ傍にある内玄関から案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」 小倉の袴を着けて彼の前に膝をついた書生の返事は簡単であった。
それですぐ相手が帰るものと呑み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。
津田はとうとう折り返して訊いた。
「奥さんはおいでですか」「奥さんはいらっしゃいます」 事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。
足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。
書生は厭な顔もせずに奥へ入った。
それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。
彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」 彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」 津田の挨拶に軽い会釈をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊いた。
津田はちょっと苦笑した。
何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまり宅へいらっしゃらなくなったようね」 細君の言葉には遠慮も何もなかった。
彼女は自分の前に年齢下の男を見るだけであった。
そうしてその年齢下の男はかねて眼下の男であった。
「まだ嬉しいんでしょう」 津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」「ええもう半歳と少しになります」「早いものね、ついこの間だと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」「何がです」「御夫婦仲がよ」「別にどうという事もありません」「じゃもう嬉しいところは通り越しちまったの。嘘をおっしゃい」「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」「時にあなた御いくつ?」「もうたくさんです」「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊とおっしゃいよ」「じゃ申し上げます。実は三十です」「すると来年はもう一ね」「順に行けばまあそうなる勘定です」「お延さんは?」「あいつは三です」「来年?」「いえ今年」
十一
吉川の細君はこんな調子でよく津田に調戯った。
機嫌の好い時はなおさらであった。
津田も折々は向うを調戯い返した。
けれども彼の見た細君の態度には、笑談とも真面目とも片のつかない或物が閃めく事がたびたびあった。
そんな場合に出会うと、根強い性質に出来上っている彼は、談話の途中でよく拘泥った。
そうしてもし事情が許すならば、どこまでも話の根を掘じって、相手の本意を突き留めようとした。
遠慮のためにそこまで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。
その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。
それが臆病にも見えた。
注意深くも見えた。
または自衛的に慢ぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。
最後に、「思慮に充ちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂も帯びていた。
吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼をそこまで追い込んだ。
津田はまたそれと自覚しながらいつの間にかそこへ引き摺り込まれた。
「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」「どうして? あなた方の御年歯を伺ったのが意地が悪いの」「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないような訊き方をしておいて、わざとその後をおっしゃらないんだから」「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物よ。あなたがその癖をやめると、もっと人好のする好い男になれるんだけれども」 津田は少し痛かった。
けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭に応える痛さではなかった。
彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下していた。
細君は微笑した。
「嘘だと思うなら、帰ってあなたの奥さんに訊いて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人あるはずよ、きっと」 津田の顔が急に堅くなった。
唇の肉が少し動いた。
彼は眼を自分の膝の上に落したぎり何も答えなかった。
「解ったでしょう、誰だか」 細君は彼の顔を覗き込むようにして訊いた。
彼は固よりその誰であるかをよく承知していた。
けれども細君の云う事を肯定する気は毫もなかった。
再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。
その眼が無言の裡に何を語っているか、細君には解らなかった。
「御気に障ったら堪忍してちょうだい。そう云うつもりで云ったんじゃないんだから」「いえ何とも思っちゃいません」「本当に?」「本当に何とも思っちゃいません」「それでやっと安心した」 細君はすぐ元の軽い調子を恢復した。
「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱり得なのね。あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方が更けてるくらいよ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と云ったらいいでしょうね、まあ……」 細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。
津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。
「まあ老成よ。本当に怜悧な方ね、あんな怜悧な方は滅多に見た事がない。大事にして御上げなさいよ」 細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。
十二
その時二人の頭の上に下っている電灯がぱっと点いた。
先刻取次に出た書生がそっと室の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸ろして、また無言のまま出て行った。
瓦斯煖炉の色のだんだん濃くなって来るのを、最前から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送した。
もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。
彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬の一切を除けるようにしてその余りを残りなく啜った。
そうしてそれを相図に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。
用事は固より単簡であった。
けれども細君の諾否だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。
彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。
「いつだって構やしないんでしょう。繰合せさえつけば」 彼女はさも無雑作な口ぶりで津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」「じゃ好いじゃありませんか。明日から休んだって」「でもちょっと伺った上でないと」「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」 細君は快よく引き受けた。
あたかも自分が他のために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。
津田はこの機嫌のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉しかった。
自分の態度なり所作なりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。
彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好いていた。
それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。
そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。
例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中を打やされた刹那に受ける快感に近い或物であった。
同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕にもっていた。
彼はその自己をわざと押し蔵して細君の前に立つ用意を忘れなかった。
かくして彼は心置なく細君から嬲られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁に倚りかかっていた。
彼が用事を済まして椅子を離れようとした時、細君は突然口を開いた。
「また子供のように泣いたり唸ったりしちゃいけませんよ。大きな体をして」 津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙の開閉が局部に応えて、そのたんびにぴくんぴくんと身体全体が寝床の上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度は大丈夫です」「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅ったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」「あなたに見舞に来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」「いっこう構わないわ」 細君の様子は本気なのか調戯うのかちょっと要領を得なかった。
医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠って躊躇した。
細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」「じゃそのうちまた私の方から伺います」 細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。
十三
往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。
けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。
彼は比較的人通りの少ない宵闇の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
冷たそうに燦つく肌合の七宝製の花瓶、その花瓶の滑らかな表面に流れる華麗な模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒い地の中に茶の唐草模様を浮かした重そうな窓掛、三隅に金箔を置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟が、すでに明るい電灯の下を去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。
彼は無論この渦まく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。
彼は歩きながら先刻彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。
そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆を口に入れた人のように、咀嚼しつつ味わった。
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」 彼はこの矛盾した両面を自分の胸の中で自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露した人のように、暗い路の上で赤面した。
彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。
「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」 今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。
「おれに調戯うため?」 それは何とも云えなかった。
彼女は元来他に調戯う事の好な女であった。
そうして二人の間柄はその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。
その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。
彼を焦らす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮の埒を平気で跨ぐかも知れなかった。
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負にし過ぎるため?」 それも何とも云えなかった。
今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。
彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。
堀端を沿うて走るその電車の窓硝子の外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上に蟠まる黒い松の木が見えるだけであった。
車内の片隅に席を取った彼は、窓を透してこのさむざむしい秋の夜の景色にちょっと眼を注いだ後、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。
彼は面倒になって昨夕はそのままにしておいた金の工面をどうかしなければならない位地にあった。
彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。
「先刻事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」 そう思うと、自分が気を利かしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。
と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。
電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干の下に蹲踞まる乞食を見た。
その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。
彼は身に薄い外套を着けていた。
季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉の温かい※をもう見て来た。
けれども乞食と彼との懸隔は今の彼の眼中にはほとんど入る余地がなかった。
彼は窮した人のように感じた。
父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。
十四
津田は同じ気分で自分の宅の門前まで歩いた。
彼が玄関の格子へ手を掛けようとすると、格子のまだ開かない先に、障子の方がすうと開いた。
そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。
彼は吃驚したように、薄化粧を施こした彼女の横顔を眺めた。
彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。
彼女の行為は時として夫の先を越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気の利いた証拠をも挙げた。
日常瑣末の事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作を、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀の光のように眺める事があった。
小さいながら冴えているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。
咄嗟の場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。
けれどもその訳を訊く気にはならなかった。
訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。
彼は澄まして玄関から上へ上がった。
そうしてすぐ着物を着換えた。
茶の間の火鉢の前には黒塗の足のついた膳の上に布巾を掛けたのが、彼の帰りを待ち受けるごとくに据えてあった。
「今日もどこかへ御廻り?」 津田が一定の時刻に宅へ帰らないと、お延はきっとこういう質問を掛けた。
勢い津田は何とか返事をしなければならなかった。
しかしそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変に曖昧なものになった。
そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。
「あてて見ましょうか」「うん」 今日の津田はいかにも平気であった。
「吉川さんでしょう」「よくあたるね」「たいてい容子で解りますわ」「そうかね。もっとも昨夜吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって云ったんだから、あたる訳は訳だね」「そんな事がなくったって、妾あてるわ」「そうか。偉いね」 津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。
「じゃいつから、その治療に取りかかるの」「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」 津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の工面をしなければならないという屈託があった。
その額は無論大したものではなかった。
しかし大した額でないだけに、これという簡便な調達方の胸に浮ばない彼を、なお焦つかせた。
彼は神田にいる妹の事をちょっと思い浮べて見たが、そこへ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。
彼が結婚後家計膨脹という名義の下に、毎月の不足を、京都にいる父から填補して貰う事になった一面には、盆暮の賞与で、その何分かを返済するという条件があった。
彼はいろいろの事情から、この夏その条件を履行しなかったために、彼の父はすでに感情を害していた。
それを知っている妹はまた大体の上においてむしろ父の同情者であった。
妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初から屑よしとしなかった彼は、この事情のために、なおさら堅くなった。
彼はやむをえなければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるよりほかに仕方がないと思った。
それには今の病気を、少し手重に書くのが得策だろうとも考えた。
父母に心配をかけない程度で、実際の事実に多少の光沢を着けるくらいの事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでもできる手加減であった。
「お延昨夜お前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」「そう。でも……」 お延は「でも」と云ったなり津田を見た。
津田は構わず二階へ上って机の前に坐った。
十五
西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の抽斗からラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。
彼の父は洋筆や万年筆でだらしなく綴られた言文一致の手紙などを、自分の伜から受け取る事は平生からあまり喜こんでいなかった。
彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆を擱いた。
手紙を書いてやったところでとうてい効能はあるまいという気が続いて起った。
彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯を生やした細面の父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。
やがて彼は決心して立ち上った。
襖を開けて、二階の上り口の所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」「日本の?」 細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽に聞こえた。
「女のならあるわ」 津田はまた自分の前に粋な模様入の半切を拡げて見た。
「これなら気に入るかしら」「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」 津田は真面目な顔をしてなお半切を見つめていた。
お延の口元には薄笑いの影が差した。
「時をちょいと買わせにやりましょうか」「うん」 津田は生返事をした。
白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。
「待っていらっしゃい。じきだから」 お延はすぐ下へ降りた。
やがて潜り戸が開いて下女の外へ出る足音が聞こえた。
津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐って煙草を吹かした。
彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。
東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方の悪口を云いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。
彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意を洩らした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。
今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。
所置はどうでもできるのにと思った。
父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と云った。
「今はそのありがた味が解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも云った。
彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。
子供の未来の幸福を一手に引き受けたような自信に充ちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。
彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。
「御父さんが死んだ後で、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方が、どのくらい楽だか知れやしません」 彼が父の機嫌を損ないような巻紙の上へ、なるべく金を送ってくれそうな文句を、堅苦しい候文で認め出したのは、それから約十分後であった。
彼はぎごちない思いをして、ようやくそれを書き上げた後で、もう一遍読み返した時に、自分の字の拙い事につくづく愛想を尽かした。
文句はとにかく、こんな字ではとうてい成功する資格がないようにも思った。
最後に、よし成功しても、こっちで要る期日までに金はとても来ないような気がした。
下女にそれを投函させた後、彼は黙って床の中へ潜り込みながら、腹の中で云った。
「その時はその時の事だ」
十六
翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。
「昨日宅へ来たってね」「ええちょっと御留守へ伺って、奥さんに御目にかかって参りました」「また病気だそうじゃないか」「ええ少し……」「困るね。そうよく病気をしちゃ」「何実はこの前の続きです」 吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後の小楊子を口から吐き出した。
それから内隠袋を探って莨入を取り出そうとした。
津田はすぐ灰皿の上にあった燐寸を擦った。
あまり気を利かそうとして急いたものだから、一本目は役に立たないで直ぐ消えた。
彼は周章てて二本目を擦って、それを大事そうに吉川の鼻の先へ持って行った。
「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したらいいだろう」 津田は礼を云って室を出ようとした。
吉川は煙りの間から訊いた。
「佐々木には断ったろうね」「ええ佐々木さんにもほかの人にも話して、繰り合せをして貰う事にしてあります」 佐々木は彼の上役であった。
「どうせ休むなら早い方がいいね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃ駄目だ」 吉川の言葉はよく彼の気性を現わしていた。
「都合がよければ明日からにしたまえ」「へえ」 こう云われた津田は否応なしに明日から入院しなければならないような心持がした。
彼の身体が半分戸の外へ出かかった時、彼はまた後から呼びとめられた。
「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」 ふり返った津田の鼻を葉巻の好い香が急に冒した。
「へえ、ありがとう、お蔭さまで達者でございます」「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。昨夕も岡本と或所で落ち合って、君のお父さんの噂をしたがね。岡本も羨ましがってたよ。あの男も近頃少し閑暇になったようなもののやっぱり、君のお父さんのようにゃ行かないからね」 津田は自分の父がけっしてこれらの人から羨やましがられているとは思わなかった。
もし父の境遇に彼らをおいてやろうというものがあったなら、彼らは苦笑して、少なくとももう十年はこのままにしておいてくれと頼むだろうと考えた。
それは固より自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。
同時に彼らの性格から割り出した津田の観察でもあった。
「父はもう時勢後れですから、ああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません」 津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。
「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」 津田は挨拶に窮した。
向うの口の重宝なのに比べて、自分の口の不重宝さが荷になった。
彼は手持無沙汰の気味で、緩く消えて行く葉巻の煙りを見つめた。
「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」 津田はこの子供に対するような、笑談とも訓戒とも見分のつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、ようやく室外に逃れ出た。
十七
その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から賑やかな通りを少し行った所で横へ曲った。
質屋の暖簾だの碁会所の看板だの鳶の頭のいそうな格子戸作りだのを左右に見ながら、彼は彎曲した小路の中ほどにある擦硝子張の扉を外から押して内へ入った。
扉の上部に取り付けられた電鈴が鋭どい音を立てた時、彼は玄関の突き当りの狭い部屋から出る四五人の眼の光を一度に浴びた。
窓のないその室は狭いばかりでなく実際暗かった。
外部から急に入って来た彼にはまるで穴蔵のような感じを与えた。
彼は寒そうに長椅子の片隅へ腰をおろして、たった今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。
彼らの多くは室の真中に出してある大きな瀬戸物火鉢の周囲を取り巻くようにして坐っていた。
そのうちの二人は腕組のまま、二人は火鉢の縁に片手を翳したまま、ずっと離れた一人はそこに取り散らした新聞紙の上へ甜めるように顔を押し付けたまま、また最後の一人は彼の今腰をおろした長椅子の反対の隅に、心持身体を横にして洋袴の膝頭を重ねたまま。
電鈴の鳴った時申し合せたように戸口をふり向いた彼らは、一瞥の後また申し合せたように静かになってしまった。
みんな黙って何事をか考え込んでいるらしい態度で坐っていた。
その様子が津田の存在に注意を払わないというよりも、かえって津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。
単に津田ばかりでなく、お互に注意され合う苦痛を憚かって、わざとそっぽへ眼を落しているらしくも見えた。
この陰気な一群の人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。
彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろ華やかに彩られたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。
そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ち竦むようにして閉じ籠っているのである。
津田は長椅子の肱掛に腕を載せて手を額にあてた。
彼は黙祷を神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。