その一角において突き崩すのは、自分で自分に打撲傷を与えるようなものであった。お延に気の毒だからという意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。そのくらいの事をと他から笑われるようなこんな小さな場合ですら、彼はすぐ動く気になれなかった。家には現に金がある、お延に対して自己の体面を保つには有余るほどの金がある。のにという勝手な事実の方がどうしても先に立った。
第 6 章
その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。
己れを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事のできない性質に父母から生みつけられていた。
「できなければ死ぬまでさ」と放り出すように云った後で、彼はまだお秀の様子を窺っていた。
腹の中に言葉通りの断乎たる何物も出て来ないのが恥ずかしいとも何とも思えなかった。
彼はむしろ冷やかに胸の天秤を働かし始めた。
彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量した。
そうしていっそ二つのうちで後の方を冒したらどんなものだろうかと考えた。
それに応ずる力を充分もっていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのを慊らなく思った。
兄の後に御本尊のお延が澄まして控えているのを悪んだ。
夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚して、京都の父が遠廻しに持ちかけて来るのがいかにも業腹であった。
そんなこんなの蟠まりから、津田の意志が充分見え透いて来た後でも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。
同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心に充ちていた。
彼は成上りものに近いある臭味を結婚後のこの妹に見出した。
あるいは見出したと思った。
いつか兄という厳めしい具足を着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。
だから彼といえども妄りにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。
二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。
そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。
その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の拵らえかけていた局面を、一度に崩してしまったのである。
九十八
しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。
彼は階子段の途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。
彼はお秀との対話をちょっとやめて、「どこからです」と訊き返した。
薬局生は下りながら、「おおかたお宅からでしょう」と云った。
冷笑なこの挨拶が、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着にした。
芝居へ行ったぎり、昨日も今日も姿を見せないお延の仕うちを暗に快よく思っていなかった彼をなお不愉快にした。
「電話で釣るんだ」 彼はすぐこう思った。
昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると明日の朝も電話だけかけておいて、さんざん人の心を自分の方に惹き着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。
お延の彼に対する平生の素振から推して見ると、この類測に満更な無理はなかった。
彼は不用意の際に、突然としてしかも静粛に自分を驚ろかしに這入って来るお延の笑顔さえ想像した。
その笑顔がまた変に彼の心に影響して来る事も彼にはよく解っていた。
彼女は一刹那に閃めかすその鋭どい武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。
今まで持ち応えに持ち応え抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、見す見す彼女の術中に落ち込むようなものであった。
彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。
「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。放っておけ」 この挨拶がまたお秀にはまるで意外であった。
第一はズボラを忌む兄の性質に釣り合わなかった。
第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。
彼女は兄が自分の手前を憚かって、不断の甘いところを押し隠すために、わざと嫂に対して無頓着を粧うのだと解釈した。
心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。
彼女はわざわざ下まで降りて行った。
しかしそれは何の役にも立たなかった。
薬局生が好い加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。
形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の緒口を取り上げた時、一方では急込んだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自働電話を棄てて電車に乗ったのである。
それから十五分と経たないうちに、津田はまた予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。
お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。
小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅に押しかけて来て、それほど懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わなかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、また考えざるを得なかった。
それは外套をやるやらないの問題ではなかった。
問題は、外套とはまるで縁のない、しかし他の外套を、平気でよく知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。
もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。
もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らきかけるかが彼の問題であった。
そこには突飛があった。
自暴があった。
満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。
新らしく結婚した彼ら二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択される恐れがあった。
平生から彼を軽蔑する事において、何の容赦も加えなかった津田には、またそういう素地を作っておいた自覚が充分あった。
「何をいうか分らない」 津田の心には突然一種の恐怖が湧いた。
お秀はまた反対に笑い出した。
いつまでもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女にはほとんど通じなかった。
「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」 お秀も小林の一面をよく知っていた。
しかしそれは多く彼が藤井の叔父の前で出す一面だけに限られていた。
そうして