明暗

9/19

その一行さえ読む気にならなかった。批評を加える勇気などはどこからも出て来なかった。彼は黙っていた。お延はその間にまたお秀と二言三言ほど口を利いた。それもみんな彼女の方から話しかけて、必要な返事だけを、云わば相手の咽喉から圧し出したようなものであった。

第 9 章
お延のべはまた懐中かいちゅうから一いち通つうの手紙てがみを出しだした。
「今来こんらいがけに郵便ゆうびん函ばこの中なかを見みたら入っはいっておりましたから、持っもって参りまいりました」 お延のべの言葉ことばは几帳面きちょうめんに改あらためたまっていた。
津田つだと差向いさしむかいの時じに比べるくらべると、まるで別人べつじんのように礼儀れいぎ正しかっただしかった。
彼女かのじょはその形式的けいしきてきなよそよそしいところを暗にあんに嫌っいやっていた。
けれども他人たにんの前まえ、ことにお秀おひでの前まえでは、そうした不自然ふしぜんな言葉遣いことばづかいを、一種いっしゅの意味いみから余儀よぎなくされるようにも思っおもった。
手紙てがみは夫婦ふうふの間まに待ち受けまちうけられた京都きょうとの父ちちからのものであった。
これも前便ぜんびんと同じおなじように書留かきとめになっていないので、眼前がんぜんの用ようを弁ずるべんずる中味なかみに乏しいとぼしいのは、お秀おひでからまだ何になんにも聞かきかせられないお延のべにもほぼ見当けんとうだけはついていた。
津田つだは封筒ふうとうを切るきる前まえに彼女かのじょに云っいった。
「お延のべ駄目だめだとさ」「そう、何なんが」「お父さんおちちさんはいくら頼んたのんでももうお金おかねをくれないんだそうだ」 津田つだの云いいい方ほうは珍らしくめずらしく真摯しんしの気きに充ちみちていた。
お秀おひでに対するたいする反抗心はんこうしんから、彼かれはいつの間まにかお延のべに対したいして平たいひらたい旦那だんな様ようになっていた。
しかもそこに自分じぶんはまるで気きがつかずにいた。
衒いてらい気きのないその態度たいどがお延のべには嬉しかっうれしかった。
彼女かのじょは慰さめるなぐさめるような温おん味あじのある調子ちょうしで答えこたえた。
言葉遣いことばづかいさえ吾われ知らしらず、平生へいぜいの自分じぶんに戻っもどってしまった。
「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」 津田つだは黙っだまって封ふうを切っきった。
中なかから出でた父ちちの手紙てがみはさほど長いながいものではなかった。
その上うえ一目いちもく見れみればすぐ要領ようりょうを得とくられるくらいな大きなおおきな字じで書いかいてあった。
それでも女おんな二人ふたりは滑稽本こっけいほんの場合ばあいのように口くちを利き合わききあわなかった。
ひとしく注意ちゅういの視線しせんを巻紙まきがみの上うえに向けむけているだけであった。
だから津田つだがそれを読みよみ了っしまって、元もと通りとおりに封筒ふうとうの中なかへ入れいれたのを、そのまま枕元まくらもとへ投げ出しなげだした時じには、二人ふたりにも大体だいたいの意味いみはもう呑み込めのみこめていた。
それでもお秀おひではわざと訊いきいた。
「何なんと書いかいてありますか、兄さんあにさん」 気きのない顔かおをしていた津田つだは軽くかるく「ふん」と答えこたえた。
お秀おひではちょっとよそを向いむかいた。
それからまた訊いきいた。
「あたしの云っいった通りとおりでしょう」 手紙てがみにははたして彼女かのじょの推察すいさつする通りとおりの事ことが書いかいてあった。
しかしそれ見みた事ことかといったような妹いもうとの態度たいどが、津田つだにはいかにも気きに喰わくわなかった。
それでなくっても先刻せんこくからの行こうがかり上うえ、彼かれは天然てんねん自然しぜんの返事へんじをお秀おひでに与えるあたえるのが業腹ごうはらであった。
百五ひゃくご
お延のべには夫おっとの気持きもちがありありと読めよめた。
彼女かのじょは心こころの中なかで再度さいどの衝突しょうとつを惧れおそれた。
と共ともに、夫おっとの本意ほんいをも疑っうたがった。
彼女かのじょの見みた平生へいぜいの夫おっとには自制じせいの念ねんがどこへでもついて廻っまわった。
自制じせいばかりではなかった。
腹はらの奥おくで相手あいてを下したに見るみる時じの冷かさひやかさが、それにいつでも付け加わっつけくわわっていた。
彼女かのじょは夫おっとのこの特色とくしょく中なかに、まだ自分じぶんの手てに余るあまる或ある物ものが潜んひそんでいる事ことをも信じしんじていた。
それはいまだに彼女かのじょにとっての未知数みちすうであるにもかかわらず、そこさえ明暸めいりょうに抑えれおさえれば、苦くもなく彼かれを満足まんぞくに扱こきかい得るうるものとまで彼女かのじょは思い込んおもいこんでいた。
しかし外部がいぶに現われるあらわれるだけの夫おっとなら一口ひとくちで評するひょうするのもそれほどむずかしい事ことではなかった。
彼かれは容易よういに怒らおこらない人ひとであった。
英語えいごで云えいえば、テンパーてんぱーを失なわうしなわない例れいにもなろうというその人ひとが、またどうして自分じぶんの妹いもうとの前まえにこう破裂はれつしかかるのだろう。
もっと、厳密げんみつに云えいえば、彼女かのじょが室むろに入っはいって来るくる前まえに、どうしてあれほど露骨ろこつに破裂はれつしたのだろう。
とにかく彼女かのじょは退きしりぞきかけた波なみが再びふたたび寄せ返すよせかえす前まえに、二人ふたりの間まに割り込まわりこまなければならなかった。
彼女かのじょは喧嘩けんかの相手あいてを自分じぶんに引き受けようひきうけようとした。
「秀子ひでこさんの方ほうへもお父さまおちちさまから何なんかお音信おんしんがあったんですか」「いいえ母ははから」「そう、やっぱりこの事ことについて」「ええ」 お秀おひではそれぎり何になんにも云わいわなかった。
お延のべは後あとをつけた。
「京都きょうとでもいろいろお物もの費ひが多いおおいでしょうからね。それに元々もともとこちらが悪いわるいんですから」 お秀おひでにはこの時じほどお延のべの指ゆびにある宝石ほうせきが光っひかりって見えみえた事ことはなかった。
そうしてお延のべはまたさも無邪気むじゃきらしくその光るひかる指輪ゆびわをお秀おひでの前まえに出しだしていた。
お秀おひでは云っいった。
「そういう訳わけでもないんでしょうけれどもね。年寄としよりは変へんなもので、兄さんあにさんを信じしんじているんですよ。そのくらいの工面くめんはどうにでもできるぐらいに考えかんがえて」 お延のべは微笑びしょうした。
「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」 こう云っいって津田つだの方ほうを見みたお延のべは、「早くはやくなるとおっしゃい」という意味いみを眼めで知らしらせた。
しかし津田つだには、彼女かのじょのして見せるみせる眼めの働らきはたらきが解っわかっても、意味いみは全くまったく通じつうじなかった。
彼かれはいつも繰り返すくりかえす通りとおりの事ことを云っいった。
「ならん事こともあるまいがね、おれにはどうもお父さんおちちさんの云ういう事ことが変へんでならないんだ。垣根かきねを繕つくろいろったの、家賃やちんが滞っとどこおったのって、そんな費用ひようは元来がんらい些細ささいなものじゃないか」「そうも行かいかないでしょう、あなた。これで自分じぶんの家いえを一いち軒のき持っもって見るみると」「我々われわれだって一いち軒のき持っもってるじゃないか」 お延のべは彼女かのじょに特有とくゆうな微笑びしょうを今度こんどはお秀おひでの方ほうに見せみせた。
お秀おひでも同どう程度ていどの愛嬌あいきょうを惜まおしまずに答えこたえた。
「兄さんあにさんはその底そこに何なんか魂胆こんたんがあるかと思っおもって、疑っうたがっていらっしゃるんですよ」「そりゃあなた悪いわるいわ、お父さまおちちさまを疑ぐるうたぐるなんて。お父さまおちちさまに魂胆こんたんのあるはずはないじゃありませんか、ねえ秀子ひでこさん」「いいえ、父ちちや母ははよりもね、ほかにまだ魂胆こんたんがあると思っおもってるんですのよ」「ほかに?」 お延のべは意外いがいな顔かおをした。
「ええ、ほかにあると思っおもってるに違いないのよ」 お延のべは再びふたたび夫おっとの方ほうに向っむかった。
「あなた、そりゃまたどういう訳わけなの」「お秀おひでがそう云ういうんだから、お秀おひでに訊いきいて御覧ごらんよ」 お延のべは苦笑くしょうした。
お秀おひでの口くちを利くきく順番じゅんばんがまた廻っまわって来きた。
「兄さんあにさんはあたし達あたしたちが陰かげで、京都きょうとを突とっッっついたと思っおもってるんですよ」「だって――」 お延のべはそれより以上いじょう云ういう事ことができなかった。
そうしてその云っいった事ことはほとんど意味いみをなさなかった。
お秀おひではすぐその虚うつろを充たしみたした。
「それで先刻せんこくから大変たいへん御機嫌ごきげんが悪いわるいのよ。もっともあたしと兄さんあにさんと寄るよるときっと喧嘩けんかになるんですけれどもね。ことにこの事件じけんこのかた」「困るこまるのね」とお延のべは溜息ためいき交りまじわりに答えこたえた後あとで、また津田つだに訊きききかけた。
「しかしそりゃ本当ほんとうの事ことなの、あなた。あなただって真逆まさかそんな男おとこらしくない事ことを考えかんがえていらっしゃるんじゃないでしょう」「どうだか知らしらないけれども、お秀おひでにはそう見えるみえるんだろうよ」「だって秀子ひでこさん達とおるがそんな事ことをなさるとすれば、いったい何なんの役やくに立つたつと、あなた思っおもっていらっしゃるの」「おおかた見せしめみせしめのためだろうよ。おれにはよく解らわからないけれども」「何なんの見せしめみせしめなの? いったいどんな悪いわるい事ことをあなたなすったの」「知らしらないよ」 津田つだは蒼蠅さばえそうにこう云っいった。
お延のべは取りつくとりつく島しまもないといった風かぜにお秀おひでを見みた。
どうか助けたすけて下さいくださいという表情ひょうじょうが彼女かのじょの細いほそい眼めと眉まゆの間まに現われあらわれた。
百六ひゃくろく
「なに兄さんあにさんが強情ごうじょなんですよ」とお秀おひでが云いいい出しだした。
嫂ねーに対したいして何なんとか説明せつめいしなければならない位地いちに追いつめおいつめられた彼女かのじょは、こう云いいいながら腹はらの中なかでなおの事ことその嫂ねーを憎んにくんだ。
彼女かのじょから見みたその時じのお延のべほど、空々しいそらぞらしいまたずうずうしい女おんなはなかった。
「ええ良人おっとは強情ごうじょよ」と答えこたえたお延のべはすぐ夫おっとの方ほうを向いむかいた。
「あなた本当ほんとうに強情ごうじょよ。秀子ひでこさんのおっしゃる通りとおりよ。そのくせだけは是非ぜひおやめにならないといけませんわ」「いったい何なんが強情ごうじょなんだ」「そりゃあたしにもよく解らわからないけれども」「何なんでもかでもお父さんおちちさんから金きんを取ろうとろうとするからかい」「そうね」「取ろうとろうとも何なんとも云っいっていやしないじゃないか」「そうね。そんな事ことおっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで効目ききめがなければ仕方しかたがありませんからね」「じゃどこが強情ごうじょなんだ」「どこがってお聴きききになっても駄目だめよ。あたしにもよく解らわからないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情ごうじょなところが」「馬鹿ばか」 馬鹿ばかと云わいわれたお延のべはかえって心持ちこころもち好さよさそうに微笑びしょうした。
お秀おひではたまらなくなった。
「兄さんあにさん、あなたなぜあたしの持っもって来きたものを素直すなおにお取りとりにならないんです」「素直すなおにも義剛よしたけにも、取るとるにも取らとらないにも、お前おまえの方ほうでてんから出さださないんじゃないか」「あなたの方ほうでお取りとりになるとおっしゃらないから、出せだせないんです」「こっちから云えいえば、お前おまえの方ほうで出さださないから取らとらないんだ」「しかし取るとるようにして取っとって下さらくださらなければ、あたしの方ほうだって厭いやですもの」「じゃどうすればいいんだ」「解っわかってるじゃありませんか」 三さん人ひとはしばらく黙っだまっていた。
突然とつぜん津田つだが云いいい出しだした。
「お延のべお前おまえお秀おひでに詫わびまったらどうだ」 お延のべは呆れあきれたように夫おっとを見みた。
「なんで」「お前おまえさえ詫わびまったら、持っもって来きたものを出すだすというつもりなんだろう。お秀おひでの料簡りょうけんでは」「あたしが詫わびまるのは何なんでもないわ。あなたが詫わびまれとおっしゃるなら、いくらでも詫わびまるわ。だけど――」 お延のべはここで訴えうったえの眼めをお秀おひでに向けむけた。
お秀おひではその後そのあとを遮っさえぎった。
「兄さんあにさん、あなた何なんをおっしゃるんです。あたしがいつ嫂ねーさんに詫わびまって貰いもらいたいと云いいいました。そんな言げんがかりを捏造でつぞうされては、あたしが嫂ねーさんに対したいして面目めんぼくなくなるだけじゃありませんか」 沈黙ちんもくがまた三さん人ひとの上うえに落ちおちた。
津田つだはわざと口くちを利かりかなかった。
お延のべには利くきく必要ひつようがなかった。
お秀おひでは利くきく準備じゅんびをした。
「兄さんあにさん、あたしはこれでもあなた方ほうに対したいして義務ぎむを尽しつくしているつもりです。――」 お秀おひでがやっとこれだけ云いいいかけた時じ、津田つだは急きゅうに質問しつもんを入れいれた。
「ちょっとお待ちまち。義務ぎむかい、親切しんせつかい、お前おまえの云おういおうとする言葉ことばの意味いみは」「あたしにはどっちだって同どうなじ事ことです」「そうかい。そんなら仕方しかたがない。それで」「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方ほうの陰かげへ廻っまわって、お父さんおちちさんやお母さんおははさんを突とっッっついた結果けっか、兄さんあにさんや嫂ねーさんに不自由ふじゆうをさせるのだと思わおもわれるのが、あたしにはいかにも辛いつらいんです。だからその額がくだけをどうかして上げようあげようと云ういう好意こういから、今日きょうわざわざここへ持っもって来きたと云ういうんです。実じつは昨日きのう嫂ねーさんから電話でんわがかかった時じ、すぐ来ようこようと思っおもったんですけれども、朝あさのうちは宅たくに用ようがあったし、午うまからはその用ようで銀行ぎんこうへ行くいく必要ひつようができたものですから、つい来き損なっそこなっちまったんです。元々もともとわずかな金額きんがくですから、それについてとやかく云ういう気きはちっともありませんけれども、あたしの方ほうの心遣いこころづかいは、まるで兄さんあにさんに通じつうじていないんだから、それがただ残念ざんねんだと云いいいたいんです」 お延のべはなお黙っだまっている津田つだの顔かおを覗き込んのぞきこんだ。
「あなた何なんとかおっしゃいよ」「何なんて」「何なんてって、お礼おれいをよ。秀子ひでこさんの親切しんせつに対したいしてのお礼おれいよ」「たかがこれしきの金きんを貰うもらうのに、そんなに恩おんに着せきせられちゃ厭いやだよ」「恩おんに着せきせやしないって今いま云っいったじゃありませんか」とお秀おひでが少しすこし癇かん走っはしった声こえで弁解べんかいした。
お延のべは元もと通りとおりの穏やかおだやかな調子ちょうしを崩さくずさなかった。
「だから強情ごうじょを張らちょうらずに、お礼おれいをおっしゃいと云ういうのに。もしお金おかねを拝借はいしゃくするのがお厭いやなら、お金おかねはいただかないでいいから、ただお礼おれいだけをおっしゃいよ」 お秀おひでは変へんな顔かおをした。
津田つだは馬鹿ばかを云ういうなという態度たいどを示ししめした。
百七ひゃくなな
三さん人ひとは妙みょうな羽目はめに陥っおちいった。
行こうがかり上うえ一種いっしゅの関係かんけいで因果いんがづけられた彼かれらはしだいに話はなしをよそへ持っもって行くいく事ことが困難こんなんになってきた。
席せきを外すはずす事ことは無論むろんできなくなった。
彼かれらはそこへ坐っすわったなり、どうでもこうでも、この問題もんだいを解決かいけつしなければならなくなった。
しかも傍そばから見みたその問題もんだいはけっして重要じゅうようなものとは云えいえなかった。
遠くとおくから冷静れいせいに彼かれらの身分みぶんと境遇きょうぐうを眺めるながめる事ことのできる地位ちいに立つたつ誰だれの眼めにも、小さくちいさく映らうつらなければならない程度ていどのものに過ぎすぎなかった。
彼かれらは他ほかから注意ちゅういを受けるうけるまでもなくよくそれを心得こころえていた。
けれども彼かれらは争わあらそわなければならなかった。
彼かれらの背後はいごに背負っせおっている因縁いんねんは、他人たにんに解らわからない過去かこから複雑ふくざつな手てを延ばしのばして、自由じゆうに彼かれらを操っあやつった。
しまいに津田つだとお秀おひでの間まに下したのような問答もんどうが起っおこった。
「始めはじめから黙っだまっていれば、それまでですけれども、いったん云いいい出しだしておきながら、持っもって来きた物ものを渡さわたさずにこのまま帰るかえるのも心持こころもちが悪うわるうござんすから、どうか取っとって下さいくださいよ。兄さんあにさん」「置いおいて行きいきたければ置いおいといでよ」「だから取るとるようにして取っとって下さいくださいな」「いったいどうすればお前おまえの気きに入るはいるんだか、僕ぼくには解らわからないがね、だからその条件じょうけんをもっと淡泊たんぱくに云っいっちまったらいいじゃないか」「あたし条件じょうけんなんてそんなむずかしいものを要求ようきゅうしてやしません。ただ兄さんあにさんが心持こころもちよく受取っうけとって下されくだされば、それでいいんです。つまり兄妹きょうだいらしくして下されくだされば、それでいいというだけです。それからお父さんおちちさんにすまなかったと本気ほんきに一口ひとくちおっしゃりさえすれば、何なんでもないんです」「お父さんおちちさんには、とっくの昔むかしにもうすまなかったと云っいっちまったよ。お前おまえも知っしってるじゃないか。しかも一口ひとくちや二口ふたくちじゃないやね」「けれどもあたしの云ういうのは、そんな形式的けいしきてきのお詫わびじゃありません。心こころからの後悔こうかいです」 津田つだはたかがこれしきの事ことにと考えかんがえた。
後悔こうかいなどとは思いおもいも寄らよらなかった。
「僕ぼくの詫わび様ようが空々しいそらぞらしいとでも云ういうのかね、なんぼ僕ぼくが金きんを欲しほしがるったって、これでも一人前いちにんまえの男おとこだよ。そうぺこぺこ頭あたまを下げさげられるものか、考えかんがえても御覧ごらんな」「だけれども、兄さんあにさんは実際じっさいお金おかねが欲しいほしいんでしょう」「欲しくほしくないとは云わいわないさ」「それでお父さんおちちさんに謝罪しゃざいったんでしょう」「でなければ何なんも詫るあやまる必要ひつようはないじゃないか」「だからお父さんおちちさんが下さらくださらなくなったんですよ。兄さんあにさんはそこに気きがつかないんですか」 津田つだは口くちを閉じとじた。
お秀おひではすぐ乗しのしかかって行っいった。
「兄さんあにさんがそういう気きでいらっしゃる以上いじょう、お父さんおちちさんばかりじゃないわ、あたしだって上げあげられないわ」「じゃお止しよしよ。何なんも無理むりに貰おうもらおうとは云わいわないんだから」「ところが無理むりにでも貰おうもらおうとおっしゃるじゃありませんか」「いつ」「先刻せんこくからそう云っいっていらっしゃるんです」「言げんがかりを云ういうな、馬鹿ばか」「言げんがかりじゃありません。先刻せんこくから腹はらの中なかでそう云いいい続けつづけに云っいってるじゃありませんか。兄さんあにさんこそ淡泊たんぱくでないから、それが口くちへ出しだして云えいえないんです」 津田つだは一種いっしゅ嶮しいけわしい眼めをしてお秀おひでを見みた。
その中なかには憎悪ぞうおが輝やいかがやいた。
けれども良心りょうしんに対したいして恥ずかしいはずかしいという光ひかりはどこにも宿らやどらなかった。
そうして彼かれが口くちを利いきいた時じには、お延のべでさえその意外いがいなのに驚ろかさおどろかされた。
彼かれは彼かれに支配しはいできる最ももっとも冷静れいせいな調子ちょうしで、彼女かのじょの予期よきとはまるで反対はんたいの事ことを云っいった。
「お秀おひでお前おまえの云ういう通りとおりだ。兄さんあにさんは今いま改めてあらためて自白じはくする。兄さんあにさんにはお前おまえの持っもって来きた金きんが絶対ぜったいに入用にゅうようだ。兄さんあにさんはまた改めてあらためて公言こうげんする。お前おまえは妹いもうとらしい情愛じょうあいの深いぶかい女おんなだ。兄さんあにさんはお前おまえの親切しんせつを感謝かんしゃする。だからどうぞその金きんをこの枕元まくらもとへ置いおいて行っいってくれ」 お秀おひでの手先てさきが怒りいかりで顫えふるえた。
両方りょうほうの頬ほおに血ちが差しさした。
その血ちは心こころのどこからか一度いちどに顔かおの方ほうへ向けむけて動いうごいて来るくるように見えみえた。
色いろが白いしろいのでそれが一層いっそう鮮やかあざやかであった。
しかし彼女かのじょの言葉遣いことばづかいだけはそれほど変らかわらなかった。
怒りいかりの中なかに微笑びしょうさえ見せみせた彼女かのじょは、不意ふいに兄あにを捨てすてて、輝やいかがやいた眼めをお延のべの上うえに注いそそいだ。
「嫂ねーさんどうしましょう。せっかく兄さんあにさんがああおっしゃるものですから、置いおいて行っいって上げあげましょうか」「そうね、そりゃ秀子ひでこさんの御ご随意ずいいでよござんすわ」「そう。でも兄さんあにさんは絶対ぜったいに必要ひつようだとおっしゃるのね」「ええ良人おっとには絶対ぜったいに必要ひつようかも知れしれませんわ。だけどあたしには必要ひつようでも何なんでもないのよ」「じゃ兄さんあにさんと嫂ねーさんとはまるで別べつッっこなのね」「それでいて、ちっとも別べつッっこじゃないのよ。これでも夫婦ふうふだから、何なんから何なんまでいっしょくたよ」「だって――」 お延のべは皆みなまで云わいわせなかった。
「良人おっとに絶対ぜったいに必要ひつようなものは、あたしがちゃんと拵えるこしらえるだけなのよ」 彼女かのじょはこう云いいいながら、昨日きのう岡本おかもとの叔父おじに貰っもらって来きた小切手こぎってを帯おびの間まから出しだした。
百八ひゃくはち
彼女かのじょがわざとらしくそれをお秀おひでに見せるみせるように取扱いとりあつかいながら、津田つだの手てに渡しわたした時じ、彼女かのじょには夫おっとに対するたいする一種いっしゅの注文ちゅうもんがあった。
前後ぜんごの行こうがかりと自分じぶんの性格せいかくから割り出さわりだされたその注文ちゅうもんというのはほかでもなかった。
彼女かのじょは夫おっとが自分じぶんとしっくり呼吸こきゅうを合わせあわせて、それを受け取っうけとってくれれば好いよいがと心こころの中なかで祈っいのったのである。
会心かいしんの微笑びしょうを洩らしもらしながら首肯しゅこうずいて、それを鷹揚おうように枕元まくらもとへ放り出すほうりだすか、でなければ、ごく簡単かんたんな、しかし細君さいくんに対したいして最ももっとも満足まんぞくしたらしい礼れいをただ一口ひとくち述べのべて、再びふたたびそれをお延のべの手てに戻すもどすか、いずれにしてもこの小切手こぎっての出所しゅっしょについて、夫婦ふうふの間まに夫婦ふうふらしい気脈きみゃくが通じつうじているという事実じじつを、お秀おひでに見せれみせればそれで足りたりたのである。
不幸ふこうにして津田つだにはお延のべの所作しょさも小切手こぎってもあまりに突然とつぜん過ぎすぎた。
その上うえこんな場合ばあいにやる彼かれの戯曲ぎきょく的まと技巧ぎこうが、細君さいくんとは少しすこし趣おもむきを異ことにしていた。
彼かれは不思議ふしぎそうに小切手こぎってを眺めながめた。
それからゆっくり訊いきいた。
「こりゃいったいどうしたんだい」 この冷やかひややかな調子ちょうしと、等しくひとしく冷やかひややかな反問はんもんとが、登場とうじょうの第だい一いち歩あゆみにおいてすでにお延のべの意気いき込こみを恨めしくうらめしく摧いくだいた。
彼女かのじょの予期よきは外れはずれた。
「どうしもしないわ。ただ要るいるから拵えこしらえただけよ」 こう云っいった彼女かのじょは、腹はらの中なかでひやひやした。
彼女かのじょは津田つだが真面目くさっまじめくさってその後そのあとを訊くきく事ことを非常ひじょうに恐れおそれた。
それは夫婦ふうふの間まに何なんらの気脈きみゃくが通じつうじていない証拠しょうこを、お秀おひでの前まえに暴露ばくろするに過ぎすぎなかった。
「訳わけなんか病気びょうき中なかに訊かきかなくってもいいのよ。どうせ後あとで解るわかる事ことなんだから」 これだけ云っいった後あとでもまだ不ふ安心あんしんでならなかったお延のべは、津田つだがまだ何なんとも答えこたえない先さきに、すぐその次つぎを付け加えつけくわえてしまった。
「よし解らわからなくったって構わかまわないじゃないの。たかがこのくらいのお金おかねなんですもの、拵えようこしらえようと思えおもえば、どこからでも出でて来るくるわ」 津田つだはようやく手てに持っもった小切手こぎってを枕元まくらもとへ投げ出しなげだした。
彼かれは金きんを欲しほしがる男おとこであった。
しかし金きんを珍重ちんちょうする男おとこではなかった。
使うつかうために金きんの必要ひつようを他人たにんより余計よけい痛切つうせつに感ずるかんずる彼かれは、その金きんを軽蔑けいべつする点てんにおいて、お延のべの言葉ことばを心こころから肯定こうていするような性質せいしつをもっていた。
それで彼かれは黙っだまっていた。
しかしそれだからまたお延のべに一口ひとくちの礼れいも云わいわなかった。
彼女かのじょは物もの足らあしらなかった。
たとい自分じぶんに何なんとも云わいわないまでも、お秀おひでには溜飲りゅういんの下るくだるような事ことを一口ひとくちでいいから云っいってくれればいいのにと、腹はらの中なかで思っおもった。
先刻せんこくから二人ふたりの様子ようすを見みていたそのお秀おひではこの時じ急きゅうに「兄さんあにさん」と呼んよんだ。
そうして懐ふところから綺麗きれいな女持おんなもちの紙入かみいれを出しだした。
「兄さんあにさん、あたし持っもって来きたものをここへ置いおいて行きいきます」 彼女かのじょは紙入かみいれの中なかから白紙はくしで包んつつんだものを抜いぬいて小切手こぎっての傍そばへ置いおいた。
「こうしておけばそれでいいでしょう」 津田つだに話しかけはなしかけたお秀おひでは暗にあんにお延のべの返事へんじを待ち受けるまちうけるらしかった。
お延のべはすぐ応じおうじた。
「秀子ひでこさんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配しんぱいはしないでおいて下さいください。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合っまにあったんですから」「だけどそれじゃあたしの方ほうがまた心持こころもちが悪いわるいのよ。こうしてせっかく包んつつんでまで持っもって来きたんですから、どうかそんな事ことを云わいわずに受取っうけとっておいて下さいくださいよ」 二人ふたりは譲り合っゆずりあった。
同じおなじような問答もんどうを繰り返しくりかえし始めはじめた。
津田つだはまた辛しん防ぼう強くつよくいつまでもそれを聴いきいていた。
しまいに二人ふたりはとうとう兄あにに向わむかわなければならなくなった。
「兄さんあにさん取っとっといて下さいください」「あなたいただいてもよくって」 津田つだはにやにやと笑っわらった。
「お秀おひで妙みょうだね。先刻せんこくはあんなに強硬きょうこうだったのに、今度こんどはまた馬鹿ばかに安っぽくやすっぽく貰わもらわせようとするんだね。いったいどっちが本当ほんとうなんだい」 お秀おひでは屹ときっとなった。
「どっちも本当ほんとうです」 この答こたえは津田つだに突然とつぜんであった。
そうしてその強いつよい調子ちょうしが、どこまでも冷笑れいしょう的まとに構えようかまえようとする彼かれの機鋒きほうを挫いくじいた。
お延のべにはなおさらであった。
彼女かのじょは驚ろいおどろいてお秀おひでを見みた。
その顔かおは先刻せんこくと同じおなじように火ひ熱っねつっていた。
けれども涼しいすずしい彼女かのじょの眼めに宿るやどる光りひかりは、ただの怒りいかりばかりではなかった。
口惜しいくやしいとか無念むねんだとかいう敵意てきいのほかに、まだ認めみとめなければならない或ある物ものがそこに陽炎かげろうった。
しかしそれが何なんであるかは、彼女かのじょの口くちを通しとおして聴くきくよりほかに途とがなかった。
二人ふたりは惹きつけひきつけられた。
今までいままで持続じぞくして来きた心こころの態度たいどに角度かくどの転換てんかんが必要ひつようになった。
彼かれらは遮ぎるさえぎる事ことなしに、その輝やきかがやきの説明せつめいを、彼女かのじょの言葉ことばから聴こうきこうとした。
彼かれらの予期よきと同時どうじに、その言葉ことばはお秀おひでの口くちを衝いついて出でた。
百九ひゃくきゅう
「実じつは先刻せんこくから云おういおうか止そうよそうかと思っおもって、考えかんがえていたんですけれども、そんな風かぜに兄さんあにさんから冷笑れいしょうかされて見るみると、私わたくしだって黙っだまって帰るかえるのが厭いやになります。だから云ういうだけの事ことはここで云っいってしまいます。けれども一応いちおうお断りことわりしておきますが、これから申し上げるもうしあげる事ことは今までいままでのとは少しすこし意味いみが違いちがいますよ。それを今までいままで通りとおりの態度たいどで聴いきいていられると、私わたくしだって少しすこし迷惑めいわくするかも知れしれません、というのは、ただ私わたくしが誤解ごかいされるのが厭いやだという意味いみでなくって、私わたくしの心持こころもちがあなた方ほうに通じつうじなくなるという訳合わけあいからです」 お秀おひでの説明せつめいはこういう言葉ことばで始まっはじまった。
それがすでに自分じぶんの態度たいどを改めあらためかかっている二人ふたりの予期よきに一倍いちばいの角度かくどを与えあたえた。
彼かれらは黙っだまってその後そのあとを待っまった。
しかしお秀おひではもう一遍いちぺん念ねんを押しおした。
「少しすこしや真面目まじめに聴いきいて下さるくださるでしょうね。私わたくしの方ほうが真面目まじめになったら」 こう云っいったお秀おひではその強いつよい眼めを津田つだの上うえからお延のべに移しうつした。
「もっとも今までいままでが不真面目ふまじめという訳わけでもありませんけれどもね。何しろなにしろ嫂ねーさんさえここにいて下されくだされば、まあ大丈夫だいじょうぶでしょう。いつもの兄妹きょうだい喧嘩けんかになったら、その時じに止めとめていただけばそれまでですから」 お延のべは微笑びしょうして見せみせた。
しかしお秀おひでは応じおうじなかった。
「私わたくしはいつかっから兄さんあにさんに云おういおう云おういおうと思っおもっていたんです。嫂ねーさんのいらっしゃる前まえでですよ。だけど、その機会きかいがなかったから、今日きょうまで云わいわずにいました。それを今いま改めてあらためてあなた方ほうのお揃いおそろいになったところで申しもうしてしまうのです。それはほかでもありません。よござんすか、あなた方ほうお二人ふたりは御自分ごじぶん達とおるの事ことよりほかに何になんにも考えかんがえていらっしゃらない方ほうだという事ことだけなんです。自分じぶん達とおるさえよければ、いくら他ほかが困ろうこまろうが迷惑めいわくしようが、まるでよそを向いむかいて取り合わとりあわずにいられる方ほうだというだけなんです」 この断案だんあんを津田つだはむしろ冷静れいせいに受けるうける事ことができた。
彼かれはそれを自分じぶんの特色とくしょくと認めるみとめる上うえに、一般いっぱん人間にんげんの特色とくしょくとも認めみとめて疑わうたがわなかったのだから。
しかしお延のべにはまたこれほど意外いがいな批評ひひょうはなかった。
彼女かのじょはただ呆れるあきれるばかりであった。
幸みゆきか不幸ふこうかお秀おひでは彼女かのじょの口くちを開くひらく前まえにすぐ先さきへ行っいった。
「兄さんあにさんは自分じぶんを可愛かわいがるだけなんです。嫂ねーさんはまた兄さんあにさんに可愛かわいがられるだけなんです。あなた方ほうの眼めにはほかに何になんにもないんです。妹いもうとなどは無論むろんの事こと、お父さんおちちさんもお母さんおははさんももうないんです」 ここまで来きたお秀おひでは急きゅうに後あとを継ぎ足しつぎたした。
二人ふたりの中なかの一人ひとりが自分じぶんを遮ぎりさえぎりはしまいかと恐れおそれでもするような様子ようすを見せみせて。
「私わたくしはただ私わたくしの眼めに映っうつった通りとおりの事実じじつを云ういうだけです。それをどうして貰いもらいたいというのではありません。もうその時機じきは過ぎすぎました。有体ありていにいうと、その時機じきは今日きょう過ぎすぎたのです。実じつはたった今いま過ぎすぎました。あなた方ほうの気きのつかないうちに、過ぎすぎました。私わたくしは何事なにごとも因縁いんねんずくと諦たいらめるよりほかに仕方しかたがありません。しかしその事実じじつから割り出さわりだされる結果けっかだけは是非ぜひ共ともあなた方ほうに聴いきいていただきたいのです」 お秀おひではまた津田つだからお延のべの方ほうに眼めを移しうつした。
二人ふたりはお秀おひでのいわゆる結果けっかなるものについて、判然はんぜんした観念かんねんがなかった。
したがってそれを聴くきく好奇心こうきしんがあった。
だから黙っだまっていた。
「結果けっかは簡単かんたんです」とお秀おひでが云っいった。
「結果けっかは一口ひとくちで云えるいえるほど簡単かんたんです。しかし多分たぶんあなた方ほうには解らわからないでしょう。あなた方ほうはけっして他ほかの親切しんせつを受けるうける事ことのできない人ひとだという意味いみに、多分たぶん御自分ごじぶんじゃ気きがついていらっしゃらないでしょうから。こう云っいっても、あなた方ほうにはまだ通じつうじないかも知れしれないから、もう一遍いちぺん繰り返しくりかえします。自分じぶんだけの事ことしか考えかんがえられないあなた方ほうは、人間にんげんとして他ほかの親切しんせつに応ずるおうずる資格しかくを失なっうしなっていらっしゃるというのが私わたくしの意味いみなのです。つまり他ほかの好意こういに感謝かんしゃする事ことのできない人間にんげんに切り下げきりさげられているという事ことなのです。あなた方ほうはそれでたくさんだと思っおもっていらっしゃるかも知れしれません。どこにも不足ふそくはないと考えかんがえておいでなのかも分りわかりません。しかし私わたくしから見るみると、それはあなた方ほう自身じしんにとってとんでもない不幸ふこうになるのです。人間にんげんらしく嬉しうれしがる能力のうりょくを天てんから奪わうばわれたと同様どうように見えるみえるのです。兄さんあにさん、あなたは私わたくしの出しだしたこのお金おかねは欲しいほしいとおっしゃるのでしょう。しかし私わたくしのこのお金おかねを出すだす親切しんせつは不用ふようだとおっしゃるのでしょう。私わたくしから見れみればそれがまるで逆ぎゃくです。人間にんげんとしてまるで逆ぎゃくなのです。だから大変たいへんな不幸ふこうなのです。そうして兄さんあにさんはその不幸ふこうに気きがついていらっしゃらないのです。嫂ねーさんはまた私わたくしの持っもって来きたこのお金おかねを兄さんあにさんが貰わもらわなければいいと思っおもっていらっしゃるんです。さっきから貰わもらわせまい貰わもらわせまいとしていらっしゃるんです。つまりこのお金おかねを断ることわることによって、併せあわせて私わたくしの親切しんせつをも排斥はいせきしようとなさるのです。そうしてそれが嫂ねーさんには大変たいへんなお得意おとくいになるのです。嫂ねーさんも逆ぎゃくです。嫂ねーさんは妹いもうとの実意じついを素直すなおに受けるうけるために感じかんじられる好いよい心持こころもちが、今いまのお得意おとくいよりも何なん層倍そうばい人間にんげんとして愉快ゆかいだか、まるで御存じごぞんじない方ほうなのです」 お延のべは黙っだまっていられなくなった。
しかしお秀おひではお延のべよりなお黙っだまっていられなかった。
彼女かのじょを遮ぎろうさえぎろうとするお延のべの出鼻でばなを抑えつけるおさえつけるような熱しねっした語気ごきで、自分じぶんの云いいいたい事ことだけ云っいってしまわなければ気きがすまなかった。
百十ひゃくとお
「嫂ねーさん何なんかおっしゃる事ことがあるなら、後あとでゆっくり伺いうかがいますから、御ご迷惑めいわくでも我慢がまんして私わたくしに云ういうだけ云わいわせてしまって下さいください。なにもう直じかです。そんなに長くながくかかりゃしません」 お秀おひでの断りことわり方ほうは妙みょうに落ちついおちついていた。
先刻せんこく津田つだと衝突しょうとつした時じに比べるくらべると、彼女かのじょはまるで反対はんたいの傾向けいこうを帯びおびて、激昂げっこうから沈静ちんせいの方ほうへ推し移っおしうつって来きた。
それがこの場合ばあいいかにも案外あんがいな現象げんしょうとして二人ふたりの眼めに映っうつった。
「兄さんあにさん」とお秀おひでが云っいった。
「私わたくしはなぜもっと早くはやくこの包んつつんだ物ものを兄さんあにさんの前まえに出さださなかったのでしょう。そうして今いまになってまた何なんできまりが悪くわるくもなく、それをあなた方ほうの前まえに出さだされたのでしょう。考えかんがえて下さいください。嫂ねーさんも考えかんがえて下さいください」 考えるかんがえるまでもなく、二人ふたりにはそれがお秀おひでの詭弁きべんとしか受取れうけとれなかった。
ことにお延のべにはそう見えみえた。
しかしお秀おひでは真面目まじめであった。
「兄さんあにさん私わたくしはこれであなたを兄さんあにさんらしくしたかったのです。たかがそれほどの金きんでかと兄さんあにさんはせせら笑うせせらわらうでしょう。しかし私わたくしから云えいえば金額きんがくは問題もんだいじゃありません。少しすこしでも兄さんあにさんを兄さんあにさんらしくできる機会きかいがあれば、私わたくしはいつでもそれを利用りようする気きなのです。私わたくしは今日きょうここでできるだけの努力どりょくをしました。そうしてみごとに失敗しっぱいしました。ことに嫂ねーさんがおいでになってから以後いご、私わたくしの失敗しっぱいは急きゅうに目立っめだって来きました。私わたくしが妹いもうととして兄さんあにさんに対するたいする執着しゅうちゃくを永久えいきゅうに放り出さほうりださなければならなくなったのはその時じです。――嫂ねーさん、後生こうせいですから、もう少しすこし我慢がまんして聴いきいていて下さいください」 お秀おひではまたこう云っいって何なんか云おういおうとするお延のべを制しせいした。
「あなた方ほうの態度たいどはよく私わたくしに解りわかりました。あなた方ほうから一いち時間じかん二に時間じかんの説明せつめいを伺ううかがうより、今いまここで拝見はいけんしただけで、私わたくしが勝手にかってに判断はんだんする方ほうが、かえってよく解るわかるように思わおもわれますから、私わたくしはもう何になんにも伺いうかがいません。しかし私わたくしには自分じぶんを説明せつめいする必要ひつようがまだあります。そこは是非ぜひ聴いきいていただかなければなりません」 お延のべはずいぶん手前勝手てまえかってな女おんなだと思いおもいながら黙っだまっていた。
しかし初手しょてから勝利者しょうりしゃの余裕よゆうが附着ふちゃくしている彼女かのじょには、黙っだまっていても大したたいした不足ふそくはなかった。
「兄さんあにさん」とお秀おひでが云っいった。
「これを見みて下さいください。ちゃんと紙かみに包んつつんであります。お秀おひでが宅たくから用意よういして持っもって来きたという証拠しょうこにはなるでしょう。そこにお秀おひでの意味いみはあるのです」 お秀おひではわざわざ枕元まくらもとの紙包かみづつみを取り上げとりあげて見せみせた。
「これが親切しんせつというものです。あなた方ほうにはどうしてもその意味いみがお解りわかりにならないから、仕方なししかたなしに私わたくしが自分じぶんで説明せつめいします。そうして兄さんあにさんが兄さんあにさんらしくして下さらくださらなくっても、私わたくしは宅たくから持っもって来きた親切しんせつをここへ置いおいて行くいくよりほかに途とはないのだという事こともいっしょに説明せつめいします。兄さんあにさん、これは妹いもうとの親切しんせつですか義務ぎむですか。兄さんあにさんは先刻せんこくそういう問もんを私わたくしにおかけになりました。私わたくしはどっちも同じおなじだと云いいいました。兄さんあにさんが妹いもうとの親切しんせつを受けうけて下さらくださらないのに、妹いもうとはまだその親切しんせつを尽くすつくす気きでいたら、その親切しんせつは義務ぎむとどこが違うちがうんでしょう。私わたくしの親切しんせつを兄さんあにさんの方ほうで義務ぎむに変化へんかさせてしまうだけじゃありませんか」「お秀おひでもう解っわかったよ」と津田つだがようやく云いいい出しだした。
彼かれの頭あたまに妹いもうとのいう意味いみは判然はんぜん入っはいった。
けれども彼女かのじょの予期よきする感情かんじょうは少しすこしも起らおこらなかった。
彼かれは先刻せんこくから蒼蠅さばえさいのを我慢がまんして彼女かのじょの云いいい草くさを聴いきいていた。
彼かれから見みた妹いもうとは、親切しんせつでもなければ、誠実せいじつでもなかった。
愛嬌あいきょうもなければ気高くけだかくもなかった。
ただ厄介やっかいなだけであった。
「もう解っわかったよ。それでいいよ。もうたくさんだよ」 すでに諦たいらめていたお秀おひでは、別べつに恨めしうらめしそうな顔かおもしなかった。
ただこう云っいった。
「これは良人おっとが立て替えたてかえて上げるあげるお金おかねではありませんよ、兄さんあにさん。良人おっとが京都きょうとへ保証ほしょうして成り立っなりたった約束やくそくを、兄さんあにさんがお破りやぶりになったために、良人おっとではお父さんおちちさんの方ほうへ義理ぎりができて、仕方なししかたなしに立て替えたてかえた事ことになるとしたら、なんぼ兄さんあにさんだって、心持こころもちよく受け取るうけとる気きにはなれないでしょう。私わたくしもそんな事ことで良人おっとを煩わせるわずらわせるのは厭いやです。だからお断りことわりをしておきますが、これは良人おっととは関係かんけいのないお金おかねです。私わたくしのです。だから兄さんあにさんも黙っだまってお取りとりになれるでしょう。私わたくしの親切しんせつはお受けうけにならないでも、お金おかねだけはお取りとりになれるでしょう。今いまの私わたくしはなまじいお礼おれいを云っいっていただくより、ただ黙っだまって受取っうけとっておいて下さるくださる方ほうが、かえって心持こころもちが好くよくなっているのです。問題もんだいはもう兄さんあにさんのためじゃなくなっているんです。単にたんに私わたくしのためです。兄さんあにさん、私わたくしのためにどうぞそれを受取っうけとって下さいください」 お秀おひではこれだけ云っいって立ち上ったちのぼった。
お延のべは津田つだの顔かおを見みた。
その顔かおには何なんという合図あいずの表情ひょうじょうも見えみえなかった。
彼女かのじょは仕方なししかたなしにお秀おひでを送っおくって階子段はしごだんを降りふりた。
二人ふたりは玄関先げんかんさきで尋常じんじょうの挨拶あいさつを交りまじわり換かえせて別れわかれた。
百十一ひゃくじゅういち
単にたんに病院びょういんでお秀おひでに出会うであうという事ことは、お延のべにとって意外いがいでも何なんでもなかった。
けれども出会っであった結果けっかからいうと、また意外いがい以上いじょうの意外いがいに帰着きちゃくした。
自分じぶんに対するたいするお秀おひでの態度たいどを平生へいぜいから心得こころえていた彼女かのじょも、まさかこんな場面ばめんでその相手あいてになろうとは思わおもわなかった。
相手あいてになった後あとでも、それが偶然ぐうぜんの廻り合せめぐりあわせのように解釈かいしゃくされるだけであった。
その必然性ひつぜんせいを認めるみとめるために、過去かこの因果いんがを迹付けつけて見ようみようという気きさえ起らおこらなかった。
この心理状態しんりじょうたいをもっと砕けくだけた言葉ことばで云いいい直すなおすと、事件じけんの責任せきにんは全くまったく自分じぶんにないという事ことに過ぎすぎなかった。
すべてお秀おひでが背負っせおって立たたたなければならないという意味いみであった。
したがってお延のべの心こころは存外ぞんがい平静へいせいであった。
少くすくなくとも、良心りょうしんに対したいして疚ましい点てんは容易よういに見出ださみいだされなかった。
この会見かいけんからお延のべの得とくた収獲しゅうかくは二につあった。
一いちつは事後じごに起るおこる不愉快ふゆかいさであった。
その不愉快ふゆかいさのうちには、お秀おひでを通しとおして今後こんご自分じぶん達とおるの上うえに持ちもち来さきされそうに見えるみえる葛藤かっとうさえ織り込まおりこまれていた。
彼女かのじょは充分じゅうぶんそれを切り抜けきりぬけて行くいく覚悟かくごをもっていた。
ただしそれには、津田つだが飽くまであくまで自分じぶんの肩かたを持っもってくれなければ駄目だめだという条件じょうけんが附帯ふたいしていた。
そこへ行くいくと彼女かのじょには七なな分ぶん通りとおりの安心あんしんと、三さん分ぶん方ほうの不安ふあんがあった。
9/19