その一行さえ読む気にならなかった。批評を加える勇気などはどこからも出て来なかった。彼は黙っていた。お延はその間にまたお秀と二言三言ほど口を利いた。それもみんな彼女の方から話しかけて、必要な返事だけを、云わば相手の咽喉から圧し出したようなものであった。
第 9 章
お延はまた懐中から一通の手紙を出した。
「今来がけに郵便函の中を見たら入っておりましたから、持って参りました」 お延の言葉は几帳面に改たまっていた。
津田と差向いの時に比べると、まるで別人のように礼儀正しかった。
彼女はその形式的なよそよそしいところを暗に嫌っていた。
けれども他人の前、ことにお秀の前では、そうした不自然な言葉遣いを、一種の意味から余儀なくされるようにも思った。
手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであった。
これも前便と同じように書留になっていないので、眼前の用を弁ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にもほぼ見当だけはついていた。
津田は封筒を切る前に彼女に云った。
「お延駄目だとさ」「そう、何が」「お父さんはいくら頼んでももうお金をくれないんだそうだ」 津田の云い方は珍らしく真摯の気に充ちていた。
お秀に対する反抗心から、彼はいつの間にかお延に対して平たい旦那様になっていた。
しかもそこに自分はまるで気がつかずにいた。
衒い気のないその態度がお延には嬉しかった。
彼女は慰さめるような温味のある調子で答えた。
言葉遣いさえ吾知らず、平生の自分に戻ってしまった。
「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」 津田は黙って封を切った。
中から出た父の手紙はさほど長いものではなかった。
その上一目見ればすぐ要領を得られるくらいな大きな字で書いてあった。
それでも女二人は滑稽本の場合のように口を利き合わなかった。
ひとしく注意の視線を巻紙の上に向けているだけであった。
だから津田がそれを読み了って、元通りに封筒の中へ入れたのを、そのまま枕元へ投げ出した時には、二人にも大体の意味はもう呑み込めていた。
それでもお秀はわざと訊いた。
「何と書いてありますか、兄さん」 気のない顔をしていた津田は軽く「ふん」と答えた。
お秀はちょっとよそを向いた。
それからまた訊いた。
「あたしの云った通りでしょう」 手紙にははたして彼女の推察する通りの事が書いてあった。
しかしそれ見た事かといったような妹の態度が、津田にはいかにも気に喰わなかった。
それでなくっても先刻からの行がかり上、彼は天然自然の返事をお秀に与えるのが業腹であった。
百五
お延には夫の気持がありありと読めた。
彼女は心の中で再度の衝突を惧れた。
と共に、夫の本意をも疑った。
彼女の見た平生の夫には自制の念がどこへでもついて廻った。
自制ばかりではなかった。
腹の奥で相手を下に見る時の冷かさが、それにいつでも付け加わっていた。
彼女は夫のこの特色中に、まだ自分の手に余る或物が潜んでいる事をも信じていた。
それはいまだに彼女にとっての未知数であるにもかかわらず、そこさえ明暸に抑えれば、苦もなく彼を満足に扱かい得るものとまで彼女は思い込んでいた。
しかし外部に現われるだけの夫なら一口で評するのもそれほどむずかしい事ではなかった。
彼は容易に怒らない人であった。
英語で云えば、テンパーを失なわない例にもなろうというその人が、またどうして自分の妹の前にこう破裂しかかるのだろう。
もっと、厳密に云えば、彼女が室に入って来る前に、どうしてあれほど露骨に破裂したのだろう。
とにかく彼女は退きかけた波が再び寄せ返す前に、二人の間に割り込まなければならなかった。
彼女は喧嘩の相手を自分に引き受けようとした。
「秀子さんの方へもお父さまから何かお音信があったんですか」「いいえ母から」「そう、やっぱりこの事について」「ええ」 お秀はそれぎり何にも云わなかった。
お延は後をつけた。
「京都でもいろいろお物費が多いでしょうからね。それに元々こちらが悪いんですから」 お秀にはこの時ほどお延の指にある宝石が光って見えた事はなかった。
そうしてお延はまたさも無邪気らしくその光る指輪をお秀の前に出していた。
お秀は云った。
「そういう訳でもないんでしょうけれどもね。年寄は変なもので、兄さんを信じているんですよ。そのくらいの工面はどうにでもできるぐらいに考えて」 お延は微笑した。
「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」 こう云って津田の方を見たお延は、「早くなるとおっしゃい」という意味を眼で知らせた。
しかし津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解っても、意味は全く通じなかった。
彼はいつも繰り返す通りの事を云った。
「ならん事もあるまいがね、おれにはどうもお父さんの云う事が変でならないんだ。垣根を繕ろったの、家賃が滞ったのって、そんな費用は元来些細なものじゃないか」「そうも行かないでしょう、あなた。これで自分の家を一軒持って見ると」「我々だって一軒持ってるじゃないか」 お延は彼女に特有な微笑を今度はお秀の方に見せた。
お秀も同程度の愛嬌を惜まずに答えた。
「兄さんはその底に何か魂胆があるかと思って、疑っていらっしゃるんですよ」「そりゃあなた悪いわ、お父さまを疑ぐるなんて。お父さまに魂胆のあるはずはないじゃありませんか、ねえ秀子さん」「いいえ、父や母よりもね、ほかにまだ魂胆があると思ってるんですのよ」「ほかに?」 お延は意外な顔をした。
「ええ、ほかにあると思ってるに違ないのよ」 お延は再び夫の方に向った。
「あなた、そりゃまたどういう訳なの」「お秀がそう云うんだから、お秀に訊いて御覧よ」 お延は苦笑した。
お秀の口を利く順番がまた廻って来た。
「兄さんはあたし達が陰で、京都を突ッついたと思ってるんですよ」「だって――」 お延はそれより以上云う事ができなかった。
そうしてその云った事はほとんど意味をなさなかった。
お秀はすぐその虚を充たした。
「それで先刻から大変御機嫌が悪いのよ。もっともあたしと兄さんと寄るときっと喧嘩になるんですけれどもね。ことにこの事件このかた」「困るのね」とお延は溜息交りに答えた後で、また津田に訊きかけた。
「しかしそりゃ本当の事なの、あなた。あなただって真逆そんな男らしくない事を考えていらっしゃるんじゃないでしょう」「どうだか知らないけれども、お秀にはそう見えるんだろうよ」「だって秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、いったい何の役に立つと、あなた思っていらっしゃるの」「おおかた見せしめのためだろうよ。おれにはよく解らないけれども」「何の見せしめなの? いったいどんな悪い事をあなたなすったの」「知らないよ」 津田は蒼蠅そうにこう云った。
お延は取りつく島もないといった風にお秀を見た。
どうか助けて下さいという表情が彼女の細い眼と眉の間に現われた。
百六
「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。
嫂に対して何とか説明しなければならない位地に追いつめられた彼女は、こう云いながら腹の中でなおの事その嫂を憎んだ。
彼女から見たその時のお延ほど、空々しいまたずうずうしい女はなかった。
「ええ良人は強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。
「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」「いったい何が強情なんだ」「そりゃあたしにもよく解らないけれども」「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」「そうね」「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで効目がなければ仕方がありませんからね」「じゃどこが強情なんだ」「どこがってお聴きになっても駄目よ。あたしにもよく解らないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」「馬鹿」 馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。
お秀はたまらなくなった。
「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを素直にお取りにならないんです」「素直にも義剛にも、取るにも取らないにも、お前の方でてんから出さないんじゃないか」「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって厭ですもの」「じゃどうすればいいんだ」「解ってるじゃありませんか」 三人はしばらく黙っていた。
突然津田が云い出した。
「お延お前お秀に詫まったらどうだ」 お延は呆れたように夫を見た。
「なんで」「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の料簡では」「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」 お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。
お秀はその後を遮った。
「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。あたしがいつ嫂さんに詫まって貰いたいと云いました。そんな言がかりを捏造されては、あたしが嫂さんに対して面目なくなるだけじゃありませんか」 沈黙がまた三人の上に落ちた。
津田はわざと口を利かなかった。
お延には利く必要がなかった。
お秀は利く準備をした。
「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」 お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。
「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」「あたしにはどっちだって同なじ事です」「そうかい。そんなら仕方がない。それで」「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッついた結果、兄さんや嫂さんに不自由をさせるのだと思われるのが、あたしにはいかにも辛いんです。だからその額だけをどうかして上げようと云う好意から、今日わざわざここへ持って来たと云うんです。実は昨日嫂さんから電話がかかった時、すぐ来ようと思ったんですけれども、朝のうちは宅に用があったし、午からはその用で銀行へ行く必要ができたものですから、つい来損なっちまったんです。元々わずかな金額ですから、それについてとやかく云う気はちっともありませんけれども、あたしの方の心遣いは、まるで兄さんに通じていないんだから、それがただ残念だと云いたいんです」 お延はなお黙っている津田の顔を覗き込んだ。
「あなた何とかおっしゃいよ」「何て」「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」「たかがこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃ厭だよ」「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し癇走った声で弁解した。
お延は元通りの穏やかな調子を崩さなかった。
「だから強情を張らずに、お礼をおっしゃいと云うのに。もしお金を拝借するのがお厭なら、お金はいただかないでいいから、ただお礼だけをおっしゃいよ」 お秀は変な顔をした。
津田は馬鹿を云うなという態度を示した。
百七
三人は妙な羽目に陥った。
行がかり上一種の関係で因果づけられた彼らはしだいに話をよそへ持って行く事が困難になってきた。
席を外す事は無論できなくなった。
彼らはそこへ坐ったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。
しかも傍から見たその問題はけっして重要なものとは云えなかった。
遠くから冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のものに過ぎなかった。
彼らは他から注意を受けるまでもなくよくそれを心得ていた。
けれども彼らは争わなければならなかった。
彼らの背後に背負っている因縁は、他人に解らない過去から複雑な手を延ばして、自由に彼らを操った。
しまいに津田とお秀の間に下のような問答が起った。
「始めから黙っていれば、それまでですけれども、いったん云い出しておきながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪うござんすから、どうか取って下さいよ。兄さん」「置いて行きたければ置いといでよ」「だから取るようにして取って下さいな」「いったいどうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと淡泊に云っちまったらいいじゃないか」「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それでいいんです。つまり兄妹らしくして下されば、それでいいというだけです。それからお父さんにすまなかったと本気に一口おっしゃりさえすれば、何でもないんです」「お父さんには、とっくの昔にもうすまなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のお詫じゃありません。心からの後悔です」 津田はたかがこれしきの事にと考えた。
後悔などとは思いも寄らなかった。
「僕の詫様が空々しいとでも云うのかね、なんぼ僕が金を欲しがるったって、これでも一人前の男だよ。そうぺこぺこ頭を下げられるものか、考えても御覧な」「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」「欲しくないとは云わないさ」「それでお父さんに謝罪ったんでしょう」「でなければ何も詫る必要はないじゃないか」「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんはそこに気がつかないんですか」 津田は口を閉じた。
お秀はすぐ乗しかかって行った。
「兄さんがそういう気でいらっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」「じゃお止しよ。何も無理に貰おうとは云わないんだから」「ところが無理にでも貰おうとおっしゃるじゃありませんか」「いつ」「先刻からそう云っていらっしゃるんです」「言がかりを云うな、馬鹿」「言がかりじゃありません。先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」 津田は一種嶮しい眼をしてお秀を見た。
その中には憎悪が輝やいた。
けれども良心に対して恥ずかしいという光はどこにも宿らなかった。
そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚ろかされた。
彼は彼に支配できる最も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対の事を云った。
「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用だ。兄さんはまた改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行ってくれ」 お秀の手先が怒りで顫えた。
両方の頬に血が差した。
その血は心のどこからか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。
色が白いのでそれが一層鮮やかであった。
しかし彼女の言葉遣いだけはそれほど変らなかった。
怒りの中に微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。
「嫂さんどうしましょう。せっかく兄さんがああおっしゃるものですから、置いて行って上げましょうか」「そうね、そりゃ秀子さんの御随意でよござんすわ」「そう。でも兄さんは絶対に必要だとおっしゃるのね」「ええ良人には絶対に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別ッこなのね」「それでいて、ちっとも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何までいっしょくたよ」「だって――」 お延は皆まで云わせなかった。
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵えるだけなのよ」 彼女はこう云いながら、昨日岡本の叔父に貰って来た小切手を帯の間から出した。
百八
彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。
前後の行がかりと自分の性格から割り出されたその注文というのはほかでもなかった。
彼女は夫が自分としっくり呼吸を合わせて、それを受け取ってくれれば好いがと心の中で祈ったのである。
会心の微笑を洩らしながら首肯ずいて、それを鷹揚に枕元へ放り出すか、でなければ、ごく簡単な、しかし細君に対して最も満足したらしい礼をただ一口述べて、再びそれをお延の手に戻すか、いずれにしてもこの小切手の出所について、夫婦の間に夫婦らしい気脈が通じているという事実を、お秀に見せればそれで足りたのである。
不幸にして津田にはお延の所作も小切手もあまりに突然過ぎた。
その上こんな場合にやる彼の戯曲的技巧が、細君とは少し趣を異にしていた。
彼は不思議そうに小切手を眺めた。
それからゆっくり訊いた。
「こりゃいったいどうしたんだい」 この冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩においてすでにお延の意気込を恨めしく摧いた。
彼女の予期は外れた。
「どうしもしないわ。ただ要るから拵えただけよ」 こう云った彼女は、腹の中でひやひやした。
彼女は津田が真面目くさってその後を訊く事を非常に恐れた。
それは夫婦の間に何らの気脈が通じていない証拠を、お秀の前に暴露するに過ぎなかった。
「訳なんか病気中に訊かなくってもいいのよ。どうせ後で解る事なんだから」 これだけ云った後でもまだ不安心でならなかったお延は、津田がまだ何とも答えない先に、すぐその次を付け加えてしまった。
「よし解らなくったって構わないじゃないの。たかがこのくらいのお金なんですもの、拵えようと思えば、どこからでも出て来るわ」 津田はようやく手に持った小切手を枕元へ投げ出した。
彼は金を欲しがる男であった。
しかし金を珍重する男ではなかった。
使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を軽蔑する点において、お延の言葉を心から肯定するような性質をもっていた。
それで彼は黙っていた。
しかしそれだからまたお延に一口の礼も云わなかった。
彼女は物足らなかった。
たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には溜飲の下るような事を一口でいいから云ってくれればいいのにと、腹の中で思った。
先刻から二人の様子を見ていたそのお秀はこの時急に「兄さん」と呼んだ。
そうして懐から綺麗な女持の紙入を出した。
「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」 彼女は紙入の中から白紙で包んだものを抜いて小切手の傍へ置いた。
「こうしておけばそれでいいでしょう」 津田に話しかけたお秀は暗にお延の返事を待ち受けるらしかった。
お延はすぐ応じた。
「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」 二人は譲り合った。
同じような問答を繰り返し始めた。
津田はまた辛防強くいつまでもそれを聴いていた。
しまいに二人はとうとう兄に向わなければならなくなった。
「兄さん取っといて下さい」「あなたいただいてもよくって」 津田はにやにやと笑った。
「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。いったいどっちが本当なんだい」 お秀は屹となった。
「どっちも本当です」 この答は津田に突然であった。
そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の機鋒を挫いた。
お延にはなおさらであった。
彼女は驚ろいてお秀を見た。
その顔は先刻と同じように火熱っていた。
けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、ただの怒りばかりではなかった。
口惜しいとか無念だとかいう敵意のほかに、まだ認めなければならない或物がそこに陽炎った。
しかしそれが何であるかは、彼女の口を通して聴くよりほかに途がなかった。
二人は惹きつけられた。
今まで持続して来た心の態度に角度の転換が必要になった。
彼らは遮ぎる事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聴こうとした。
彼らの予期と同時に、その言葉はお秀の口を衝いて出た。
百九
「実は先刻から云おうか止そうかと思って、考えていたんですけれども、そんな風に兄さんから冷笑かされて見ると、私だって黙って帰るのが厭になります。だから云うだけの事はここで云ってしまいます。けれども一応お断りしておきますが、これから申し上げる事は今までのとは少し意味が違いますよ。それを今まで通りの態度で聴いていられると、私だって少し迷惑するかも知れません、というのは、ただ私が誤解されるのが厭だという意味でなくって、私の心持があなた方に通じなくなるという訳合からです」 お秀の説明はこういう言葉で始まった。
それがすでに自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。
彼らは黙ってその後を待った。
しかしお秀はもう一遍念を押した。
「少しや真面目に聴いて下さるでしょうね。私の方が真面目になったら」 こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
「もっとも今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。何しろ嫂さんさえここにいて下されば、まあ大丈夫でしょう。いつもの兄妹喧嘩になったら、その時に止めていただけばそれまでですから」 お延は微笑して見せた。
しかしお秀は応じなかった。
「私はいつかっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、今日まで云わずにいました。それを今改めてあなた方のお揃いになったところで申してしまうのです。それはほかでもありません。よござんすか、あなた方お二人は御自分達の事よりほかに何にも考えていらっしゃらない方だという事だけなんです。自分達さえよければ、いくら他が困ろうが迷惑しようが、まるでよそを向いて取り合わずにいられる方だというだけなんです」 この断案を津田はむしろ冷静に受ける事ができた。
彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑わなかったのだから。
しかしお延にはまたこれほど意外な批評はなかった。
彼女はただ呆れるばかりであった。
幸か不幸かお秀は彼女の口を開く前にすぐ先へ行った。
「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんはまた兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼にはほかに何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」 ここまで来たお秀は急に後を継ぎ足した。
二人の中の一人が自分を遮ぎりはしまいかと恐れでもするような様子を見せて。
「私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。それをどうして貰いたいというのではありません。もうその時機は過ぎました。有体にいうと、その時機は今日過ぎたのです。実はたった今過ぎました。あなた方の気のつかないうちに、過ぎました。私は何事も因縁ずくと諦らめるよりほかに仕方がありません。しかしその事実から割り出される結果だけは是非共あなた方に聴いていただきたいのです」 お秀はまた津田からお延の方に眼を移した。
二人はお秀のいわゆる結果なるものについて、判然した観念がなかった。
したがってそれを聴く好奇心があった。
だから黙っていた。
「結果は簡単です」とお秀が云った。
「結果は一口で云えるほど簡単です。しかし多分あなた方には解らないでしょう。あなた方はけっして他の親切を受ける事のできない人だという意味に、多分御自分じゃ気がついていらっしゃらないでしょうから。こう云っても、あなた方にはまだ通じないかも知れないから、もう一遍繰り返します。自分だけの事しか考えられないあなた方は、人間として他の親切に応ずる資格を失なっていらっしゃるというのが私の意味なのです。つまり他の好意に感謝する事のできない人間に切り下げられているという事なのです。あなた方はそれでたくさんだと思っていらっしゃるかも知れません。どこにも不足はないと考えておいでなのかも分りません。しかし私から見ると、それはあなた方自身にとってとんでもない不幸になるのです。人間らしく嬉しがる能力を天から奪われたと同様に見えるのです。兄さん、あなたは私の出したこのお金は欲しいとおっしゃるのでしょう。しかし私のこのお金を出す親切は不用だとおっしゃるのでしょう。私から見ればそれがまるで逆です。人間としてまるで逆なのです。だから大変な不幸なのです。そうして兄さんはその不幸に気がついていらっしゃらないのです。嫂さんはまた私の持って来たこのお金を兄さんが貰わなければいいと思っていらっしゃるんです。さっきから貰わせまい貰わせまいとしていらっしゃるんです。つまりこのお金を断ることによって、併せて私の親切をも排斥しようとなさるのです。そうしてそれが嫂さんには大変なお得意になるのです。嫂さんも逆です。嫂さんは妹の実意を素直に受けるために感じられる好い心持が、今のお得意よりも何層倍人間として愉快だか、まるで御存じない方なのです」 お延は黙っていられなくなった。
しかしお秀はお延よりなお黙っていられなかった。
彼女を遮ぎろうとするお延の出鼻を抑えつけるような熱した語気で、自分の云いたい事だけ云ってしまわなければ気がすまなかった。
百十
「嫂さん何かおっしゃる事があるなら、後でゆっくり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもう直です。そんなに長くかかりゃしません」 お秀の断り方は妙に落ちついていた。
先刻津田と衝突した時に比べると、彼女はまるで反対の傾向を帯びて、激昂から沈静の方へ推し移って来た。
それがこの場合いかにも案外な現象として二人の眼に映った。
「兄さん」とお秀が云った。
「私はなぜもっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。そうして今になってまた何できまりが悪くもなく、それをあなた方の前に出されたのでしょう。考えて下さい。嫂さんも考えて下さい」 考えるまでもなく、二人にはそれがお秀の詭弁としか受取れなかった。
ことにお延にはそう見えた。
しかしお秀は真面目であった。
「兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。たかがそれほどの金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。しかし私から云えば金額は問題じゃありません。少しでも兄さんを兄さんらしくできる機会があれば、私はいつでもそれを利用する気なのです。私は今日ここでできるだけの努力をしました。そうしてみごとに失敗しました。ことに嫂さんがおいでになってから以後、私の失敗は急に目立って来ました。私が妹として兄さんに対する執着を永久に放り出さなければならなくなったのはその時です。――嫂さん、後生ですから、もう少し我慢して聴いていて下さい」 お秀はまたこう云って何か云おうとするお延を制した。
「あなた方の態度はよく私に解りました。あなた方から一時間二時間の説明を伺うより、今ここで拝見しただけで、私が勝手に判断する方が、かえってよく解るように思われますから、私はもう何にも伺いません。しかし私には自分を説明する必要がまだあります。そこは是非聴いていただかなければなりません」 お延はずいぶん手前勝手な女だと思いながら黙っていた。
しかし初手から勝利者の余裕が附着している彼女には、黙っていても大した不足はなかった。
「兄さん」とお秀が云った。
「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀が宅から用意して持って来たという証拠にはなるでしょう。そこにお秀の意味はあるのです」 お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
「これが親切というものです。あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても、私は宅から持って来た親切をここへ置いて行くよりほかに途はないのだという事もいっしょに説明します。兄さん、これは妹の親切ですか義務ですか。兄さんは先刻そういう問を私におかけになりました。私はどっちも同じだと云いました。兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに、妹はまだその親切を尽くす気でいたら、その親切は義務とどこが違うんでしょう。私の親切を兄さんの方で義務に変化させてしまうだけじゃありませんか」「お秀もう解ったよ」と津田がようやく云い出した。
彼の頭に妹のいう意味は判然入った。
けれども彼女の予期する感情は少しも起らなかった。
彼は先刻から蒼蠅さいのを我慢して彼女の云い草を聴いていた。
彼から見た妹は、親切でもなければ、誠実でもなかった。
愛嬌もなければ気高くもなかった。
ただ厄介なだけであった。
「もう解ったよ。それでいいよ。もうたくさんだよ」 すでに諦らめていたお秀は、別に恨めしそうな顔もしなかった。
ただこう云った。
「これは良人が立て替えて上げるお金ではありませんよ、兄さん。良人が京都へ保証して成り立った約束を、兄さんがお破りになったために、良人ではお父さんの方へ義理ができて、仕方なしに立て替えた事になるとしたら、なんぼ兄さんだって、心持よく受け取る気にはなれないでしょう。私もそんな事で良人を煩わせるのは厭です。だからお断りをしておきますが、これは良人とは関係のないお金です。私のです。だから兄さんも黙ってお取りになれるでしょう。私の親切はお受けにならないでも、お金だけはお取りになれるでしょう。今の私はなまじいお礼を云っていただくより、ただ黙って受取っておいて下さる方が、かえって心持が好くなっているのです。問題はもう兄さんのためじゃなくなっているんです。単に私のためです。兄さん、私のためにどうぞそれを受取って下さい」 お秀はこれだけ云って立ち上った。
お延は津田の顔を見た。
その顔には何という合図の表情も見えなかった。
彼女は仕方なしにお秀を送って階子段を降りた。
二人は玄関先で尋常の挨拶を交り換せて別れた。
百十一
単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。
けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。
自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面でその相手になろうとは思わなかった。
相手になった後でも、それが偶然の廻り合せのように解釈されるだけであった。
その必然性を認めるために、過去の因果を迹付けて見ようという気さえ起らなかった。
この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。
すべてお秀が背負って立たなければならないという意味であった。
したがってお延の心は存外平静であった。
少くとも、良心に対して疚ましい点は容易に見出だされなかった。
この会見からお延の得た収獲は二つあった。
一つは事後に起る不愉快さであった。
その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に持ち来されそうに見える葛藤さえ織り込まれていた。
彼女は充分それを切り抜けて行く覚悟をもっていた。
ただしそれには、津田が飽くまで自分の肩を持ってくれなければ駄目だという条件が附帯していた。
そこへ行くと彼女には七分通りの安心と、三分方の不安があった。