明暗

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その一軒というのはどこの事だか、君に想像がつくか」 津田には想像がつかなかった。少なくともこの事件について彼女が足を運びそうな所は、藤井以外にあるはずがなかった。

第 12 章
「そんな所ところは東京とうきょうにないよ」「いやあるんだ」 津田つだは仕方なししかたなしに、頭あたまの中なかでまたあれかこれかと物色ぶっしょくして見みた。
しかしいくら考えかんがえても、見当らみあたらないものはやッぱりやっぱり見当らみあたらなかった。
しまいに小林こばやしが笑いわらいながら、その宅たくの名なを云っいった時じに、津田つだははたして驚ろいおどろいたように大きなおおきな声こえを出しだした。
「吉川よしかわ? 吉川よしかわさんへまたどうして行っいったんだろう。何になんにも関係かんけいがないじゃないか」 津田つだは不思議ふしぎがらざるを得とくなかった。
ただ吉川よしかわと堀ほりを結びつけるむすびつけるだけの事ことなら、津田つだにも容易よういにできた。
強いつよい空想くうそうの援えんに依るよる必要ひつようも何になんにもなかった。
津田つだ夫婦ふうふの結婚けっこんするとき、表ひょう向むかい媒妁ばいしゃくの労ろうを取っとってくれた吉川よしかわ夫婦ふうふと、彼かれの妹いもうとにあたるお秀おひでと、その夫おっとの堀ほりとが社交的しゃこうてきに関係かんけいをもっているのは、誰だれの眼めにも明らかあきらかであった。
しかしその縁故えんこで、この問題もんだいを提ひさげさげたお秀おひでが、とくに吉川よしかわの門もんに向うむこう理由りゆうはどこにも発見はっけんできなかった。
「ただ訪問ほうもんのために行っいっただけだろう。単にたんに敬意けいいを払っはらったんだろう」「ところがそうでないらしいんだ。お秀おひでさんの話はなしを聴いきいていると」 津田つだはにわかにその話はなしが聴きききたくなった。
小林こばやしは彼かれを満足まんぞくさせる代りかわりに注意ちゅういした。
「しかし君きみという男おとこは、非常ひじょうに用意ようい周到しゅうとうなようでどこか抜けぬけてるね。あんまり抜けぬけまい抜けぬけまいとするから、自然しぜん手てが廻りまわりかねる訳わけかね。今度こんどの事ことだって、そうじゃないか、第一だいいちお秀おひでさんを怒らおこらせる法ほうはないよ、君きみの立場たちばとして。それから怒らおこらせた以上いじょう、吉川よしかわの方ほうへ突とっッっ走らはしらせるのは愚ぐだよ。その上吉川うえよしかわの方ほうへ向いむかいて行くいくはずがないと思い込んおもいこんで、初手しょてから高こうを括っくくっているなんぞは、君きみの平生へいぜいにも似合わにあわないじゃないか」 結果けっかの上うえから見みた津田つだの隙間すきまを探し出すさがしだす事ことは小林こばやしにも容易よういであった。
「いったい君きみのファーザーふぁーざーと吉川よしかわとは友達ともだちだろう。そうして君きみの事ことはファーザーふぁーざーから吉川よしかわに万事ばんじ宜しくよろしく願っねがってあるんだろう。そこへお秀おひでさんが馳け込むかけこむのは当り前あたりまえじゃないか」 津田つだは病院びょういんへ来るくる前まえ、社しゃの重役室じゅうやくしつで吉川よしかわから聴かさきかされた「年寄としよりに心配しんぱいをかけてはいけない。君きみが東京とうきょうで何なんをしているか、ちゃんとこっちで解っわかってるんだから、もし不都合ふつごうな事ことがあれば、京都きょうとへ知らしらせてやるだけだ。用心ようじんしろ」という意味いみの言葉ことばを思い出しおもいだした。
それは今いまから解釈かいしゃくして見みても冗談じょうだん半分はんぶんの訓戒くんかいに過ぎすぎなかった。
しかしもしそれをここで真面目まじめ一式いっしきな文句もんくに転倒てんとうするものがあるとすれば、その作者さくしゃはお秀おひでであった。
「ずいぶん突飛とっぴな奴やつだな」 突飛とっぴという性格せいかくが彼かれの家伝かでんにないだけ彼かれの批評ひひょうには意外いがいという観念かんねんが含まふくまれていた。
「いったい何なんを云やいやがったろう、吉川よしかわさんで。――彼奴きゃつの云ういう事ことを真向まっこうに受けうけていると、いいのは自分じぶんだけで、ほかのものはみんな悪くわるくなっちまうんだから困るこまるよ」 津田つだの頭あたまには直接ちょくせつの影響えいきょう以上いじょうに、もっと遠くとおくの方ほうにある大事だいじな結果けっかがちらちらした。
吉川よしかわに対するたいする自分じぶんの信用しんよう、吉川よしかわと岡本おかもととの関係かんけい、岡本おかもととお延のべとの縁えん合あわせ、それらのものがお秀おひでの遣けん口くち一いちつでどう変化へんかして行くいくか分らわからなかった。
「女おんなはあさはかなもんだからな」 この言葉ことばを聴いきいた小林こばやしは急きゅうに笑いわらい出しだした。
今までいままで笑っわらったうちで一番いちばん大きなおおきなその笑いわらい方ほうが、津田つだをはっと思わおもわせた。
彼かれは始めはじめて自分じぶんが何なんを云っいっているかに気きがついた。
「そりゃどうでもいいが、お秀おひでが吉川よしかわへ行っいってどんな事ことをしゃべったのか、叔父おじに話しはなしていたところを君きみが聴いきいたのなら、教えおしえてくれたまえ」「何なんかしきりに云っいってたがね。実じつをいうと、僕ぼくは面倒めんどうだから碌にろくに聴いきいちゃいなかったよ」 こう云っいった小林こばやしは肝心かんじんなところへ来きて、知らしらん顔かおをして圏外けんがいへ出でてしまった。
津田つだは失望しつぼうした。
その失望しつぼうをしばらく味わっあじわった後あとで、小林こばやしはまた圏内けんないへ帰っかえって来きた。
「しかしもう少しすこし待っまってたまえ。否いなでも応おうでも聴かさきかされるよ」 津田つだはまさかお秀おひでがまた来るくる訳わけでもなかろうと思っおもった。
「なにお秀おひでさんじゃない。お秀おひでさんは直じかに来きやしない。その代りかわりに吉川よしかわの細君さいくんが来るくるんだ。嘘うそじゃないよ。この耳みみでたしかに聴いきいて来きたんだもの。お秀おひでさんは細君さいくんの来るくる時間じかんまで明言めいげんしたくらいだ。おおかたもう少しすこししたら来るくるだろう」 お延のべの予言よげんはあたった。
津田つだがどうかして呼びつけよびつけたいと思っおもっている吉川よしかわ夫人ふじんは、いつの間まにか来るくる事ことになっていた。
百二十一ひゃくにじゅういち
津田つだの頭あたまに二につのものが相そう継いつづいで閃めいひらめいた。
一いちつはこれからここへ来るくるその吉川よしかわ夫人ふじんを旨くうまく取扱わとりあつかわなければならないという事前じぜんの暗示あんじであった。
彼女かのじょの方ほうから病院びょういんまで足あしを運んはこんでくれる事ことは、予定よていの計画けいかくから見みて、彼かれの最ももっとも希望きぼうするところには違いなかったが、来訪らいほうの意味いみがここに新らしくあたらしく付け加えつけくわえられた以上いじょう、それに対するたいする彼かれの応答おうとうぶりも変えかえなければならなかった。
この場合ばあいにおける夫人ふじんの態度たいどを想像そうぞうに描いえがいて見みた彼かれは、多少たしょうの不安ふあんを感じかんじた。
お秀おひでから偏見へんけんを注ぎ込まそそぎこまれた後あとの夫人ふじんと、まだ反感はんかんを煽らあおられない前まえの夫人ふじんとは、彼かれの眼めに映るうつるところだけでも、だいぶ違っちがっていた。
けれどもそこには平生へいぜいの自信じしんもまた伴なっともなっていた。
彼かれには夫人ふじんの持っもってくる偏見へんけんと反感はんかんを、一場いちじょうの会見かいけんで、充分じゅうぶん引いん繰り返しくりかえして見せるみせるという覚悟かくごがあった。
少くすくなくともここでそれだけの事ことをしておかなければ、自分じぶんの未来みらいが危なかっあぶなかった。
彼かれは三さん分ぶんの不安ふあんと七なな分ぶんの信力しんりきをもって、彼女かのじょの来訪らいほうを待ち受けまちうけた。
残るのこる一いちつの閃めきひらめきが、お延のべに対するたいする態度たいどを、もう一遍いちぺん臨時りんじに変更へんこうする便宜べんぎを彼かれに教えおしえた。
先刻せんこくまでの彼かれは退屈たいくつのあまり彼女かのじょの姿すがたを刻々こっこくに待ち設けまちもうけていた。
しかし今いまの彼かれには別途べっとの緊張きんちょうがあった。
彼かれは全然ぜんぜん異なっことなった方面ほうめんの刺戟しげきを予想よそうした。
お延のべはもう不用ふようであった。
というよりも、来きられてはかえって迷惑めいわくであった。
その上うえ彼かれはただ二人ふたり、夫人ふじんと差向いさしむかいで話しはなしてみたい特殊とくしゅな問題もんだいも控えひかえていた。
彼かれはお延のべと夫人ふじんがここでいっしょに落ち合うおちあう事ことを、是非ぜひ共とも防がふせがなければならないと思い定めおもいさだめた。
附帯ふたい条件じょうけんとして、小林こばやしを早くはやく追払うおいはらう手段しゅだんも必要ひつようになって来きた。
しかるにその小林こばやしは今いまにも吉川よしかわ夫人ふじんが見えるみえるような事ことを云いいいながら、自分じぶんの帰るかえる気色けしきをどこにも現わさあらわさなかった。
彼かれは他ほかの邪魔じゃまになる自分じぶんを苦くにする男おとこではなかった。
時じと場合ばあいによると、それと知っしって、わざわざ邪魔じゃままでしかねない人間にんげんであった。
しかもそこまで行っいって、実際じっさい気きがつかずに迷惑めいわくがらせるのか、または心得こころえがあって故意こいに困らこまらせるのか、その判断はんだんを確としかと他ほかに与えあたえずに平気へいきで切り抜けきりぬけてしまうじれったい人物じんぶつであった。
津田つだは欠伸あくびをして見せみせた。
彼かれの心持こころもちと全くまったく釣り合わつりあわないこの所作しょさが彼かれを二につに割っわりった。
どこかそわそわしながら、いかにも所在しょざいなさそうに小林こばやしと応対おうたいするところに、中断ちゅうだんされた気分きぶんの特色とくしょくが斑ぶちになって出でた。
それでも小林こばやしはすましていた。
枕元まくらもとにある時計とけいをまた取り上げとりあげた津田つだは、それを置くおくと同時どうじに、やむをえず質問しつもんをかけた。
「君きみ何なんか用ようがあるのか」「ない事こともないんだがね。なにそりゃ今いまに限っかぎった訳わけでもないんだ」 津田つだには彼かれの意味いみがほぼ解っわかった。
しかしまだ降参こうさんする気きにはなれなかった。
と云っいって、すぐ撃退げきたいする勇気ゆうきはなおさらなかった。
彼かれは仕方なししかたなしに黙っだまっていた。
すると小林こばやしがこんな事ことを云いいい出しだした。
「僕ぼくも吉川よしかわの細君さいくんに会っかいって行こういこうかな」 冗談じょうだんじゃないと津田つだは腹はらの中なかで思っおもった。
「何なんか用ようがあるのかい」「君きみはよく用々ようって云ういうが、何なんも用ようがあるから人ひとに会うあうとは限るかぎるまい」「しかし知らしらない人ひとだからさ」「知らしらない人ひとだからちょっと会っかいって見みたいんだ。どんな様子ようすだろうと思っおもってね。いったい僕ぼくは金持かねもちの家庭かていへ入っはいった事こともないし、またそんな人ひとと交際こうさいった例れいもない男おとこだから、ついこういう機会きかいに、ちょっとでもいいから、会っかいっておきたくなるのさ」「見世物みせものじゃあるまいし」「いや単なるたんなる好奇心こうきしんだ。それに僕ぼくは閑かんだからね」 津田つだは呆れあきれた。
彼かれは小林こばやしのようなみすぼらしい男おとこを、友達ともだちの内うちにもっているという証拠しょうこを、夫人ふじんに見せるみせるのが厭いやでならなかった。
あんな人ひとと付合っふごうっているのかと軽蔑けいべつされた日ひには、自分じぶんの未来みらいにまで関係かんけいすると考えかんがえた。
「君きみもよほど呑気のんきだね。吉川よしかわの奥さんおくさんが今日きょうここへ何なんしに来るくるんだか、君きみだって知っしってるじゃないか」「知っしってる。――邪魔じゃまかね」 津田つだは最後さいごの引導いんどうを渡すわたすよりほかに途とがなくなった。
「邪魔じゃまだよ。だから来きないうちに早くはやく帰っかえってくれ」 小林こばやしは別べつに怒っどった様子ようすもしなかった。
「そうか、じゃ帰っかえってもいい。帰っかえってもいいが、その代りかわり用ようだけは云っいって行こういこう、せっかく来きたものだから」 面倒めんどうになった津田つだは、とうとう自分じぶんの方ほうからその用ようを云っいってしまった。
「金きんだろう。僕ぼくに相当そうとうの御用ごようなら承っうけたまわってもいい。しかしここには一いち文ぶんも持っもっていない。と云っいって、また外套がいとうのように留守るすへ取りとりに行かいかれちゃ困るこまる」 小林こばやしはにやにや笑いわらいながら、じゃどうすればいいんだという問もんを顔色かおいろでかけた。
まだ小林こばやしに聴くきく事ことの残っのこっている津田つだは、出立しゅったつ前まえもう一遍いちぺん彼かれに会っかいっておく方ほうが便宜べんぎであった。
けれども彼かれとお延のべと落ち合うおちあう掛かかり念ねんのある病院びょういんでは都合つごうが悪かっわるかった。
津田つだは送別会そうべつかいという名なの下したに、彼かれらの出会うであうべき日ひと時じと場所ばしょとを指定していした後あとで、ようやくこの厄介者やっかいしゃを退去たいきょさせた。
百二十二ひゃくにじゅうに
津田つだはすぐ第だい二にの予防策よぼうさくに取りかかっとりかかった。
彼かれは床ゆかの上うえに置かおかれた小型こがたの化粧箱けしょうばこを取り除けとりのぞけて、その下したから例れいのレターペーパーれたーぺーぱーを同じおなじラヴェンダーらゔぇんだー色いろの封筒ふうとうを引き抜くひきぬくや否いなや、すぐ万年筆まんねんひつを走らはしらせた。
今日きょうは少しすこし都合つごうがあるから、見舞みまいに来るくるのを見合せみあわせてくれという意味いみを、簡単かんたんに書き下しかきおろした手紙てがみは一いち分ぶんかかるかかからないうちに出来上っできあがった。
気きの急いいそいた彼かれには、それを読み直すよみなおす暇ひまさえ惜かっおしかった。
彼かれはすぐ封ふうをしてしまった。
そうして中味なかみの不完全ふかんぜんなために、お延のべがどんな疑いうたがいを起すおこすかも知れしれないという事ことには、少しすこしの顧慮こりょも払わはらわなかった。
平生へいぜいの用心ようじんを彼かれから奪っうばったこの場合ばあいは、彼かれを怱卒そうそつしくしたのみならず彼かれの心こころを一直線いちちょくせんにしなければやまなかった。
彼かれは手紙てがみを持っもったまま、すぐ二に階かいを下りくだりて看護婦かんごふを呼んよんだ。
「ちょっと急きゅうな用事ようじだから、すぐこれを持たもたせて車夫しゃふを宅たくまでやって下さいください」 看護婦かんごふは「へえ」と云っいって封書ふうしょを受け取っうけとったなり、どこに急きゅうな用事ようじができたのだろうという顔かおをして、宛名あてなを眺めながめた。
津田つだは腹はらの中なかで往復おうふくに費やすついやす車夫しゃふの時間じかんさえ考えかんがえた。
「電車でんしゃで行くいくようにして下さいください」 彼かれは行き違いいきちがいになる事ことを恐れおそれた。
手紙てがみを受け取らうけとらない前まえにお延のべが病院びょういんへ来きてはせっかくの努力どりょくも無駄むだになるだけであった。
二に階かいへ帰っかえって来きた後あとでも、彼かれはそればかりが苦くになった。
そう思うおもうと、お延のべがもう宅たくを出でて、電車でんしゃへ乗っのって、こっちの方角ほうがくへ向いむかいて動いうごいて来るくるような気きさえした。
自然しぜんそれといっしょに頭あたまの中なかに纏まとい付るつけるのは小林こばやしであった。
もし自分じぶんの目的もくてきが達せたっせられない先さきに、細君さいくんが階子段はしごだんの上うえに、すらりとしたその姿すがたを現わすあらわすとすれば、それは全くまったく小林こばやしの罪つみに相違そういないと彼かれは考えかんがえた。
貴重きちょうな時間じかんを無駄むだに費やさついやさせられたあげく、頼むたのむようにして帰っかえって貰っもらった彼かれの後姿うしろすがたを見送っみおくった津田つだは、それでももう少しすこしで刻下こっかの用ようを弁ずるべんずるために、小林こばやしを利用りようするところであった。
「面倒めんどうでも帰りかえりにちょっと宅たくへ寄っよって、今日きょう来きてはいけないとお延のべに注意ちゅういしてくれ」。
こういう言葉ことばがつい口くちの先さきへ出かかっでかかったのを、彼かれは驚ろいおどろいて、引いんッっ込まこましてしまったのである。
もしこれが小林こばやしでなかったなら、この際さいどんなに都合つごうがよかったろうにとさえ実じつは思っおもったのである。
津田つだが神経しんけいを鋭どくするどくして、今いま来るくるか今いま来るくるかという細かいこまかい予期よきに支配しはいされながら、吉川よしかわ夫人ふじんを刻々こっこくに待ち受けまちうけている間まに、彼かれの看護婦かんごふに渡しわたしたお延のべへの手紙てがみは、また彼かれのいまだ想いおもいいたらない運命うんめいに到着とうちゃくすべく余儀よぎなくされた。
手紙てがみは彼かれの命令めいれい通りとおり時じを移さうつさず車夫しゃふの手てに渡っわたった。
車夫しゃふはまた看護婦かんごふの命令めいれい通りとおり、それを手てに持っもったまますぐ電車でんしゃへ乗っのった。
それから教えおしえられた通りとおりの停留所ていりゅうしょで下りくだりた。
そこを少しすこし行っいって、大通りおおどおりを例れいの細いほそい往来おうらいへ切れきれた彼かれは、何なんの苦くもなくまた名宛なあての苗字みょうじを小綺麗しょうきれいな二に階かい建けんの一いち軒のきの門札もんさつに見出しみだした。
彼かれは玄関げんかんへかかった。
そこで手てに持っもった手紙てがみを取次とりつぎに出でたお時じに渡しわたした。
ここまではすべての順序じゅんじょが津田つだの思いおもい通りとおりに行っいった。
しかしその後そのあとには、書面しょめんを認めるみとめる時じ、まるで彼かれの頭あたまの中なかに入っはいっていなかった事実じじつが横わっよこたわっていた。
手紙てがみはすぐお延のべの手てに落ちおちなかった。
しかし津田つだの懸念けねんしたように、宅たくにいなかったお延のべは、彼かれの懸念けねんしたように病院びょういんへ出かけでかけたのではなかった。
彼女かのじょは別べつに行先いきさきを控えひかえていた。
しかもそれは際どいきわどい機会きかいを旨くうまく利用りようしようとする敏捷びんしょうな彼女かのじょの手腕しゅわんを充分じゅうぶんに発揮はっきした結果けっかであった。
その日ひのお延のべは朝あさから通例つうれいのお延のべであった。
彼女かのじょは不断ふだんのように起きおきて、不断ふだんのように動いうごいた。
津田つだのいる時じと万事ばんじ変りかわりなく働はたらけらいた彼女かのじょは、それでも夫おっとの留守るすから必然的ひつぜんてきに起るおこる、時間じかんの余裕よゆうを持て余すもてあますほど楽らくな午前ごぜんを過ごしすごした。
午飯ごはんを食べたべた後あとで、彼女かのじょは洗湯せんとうに行っいった。
病院びょういんへ顔かおを出すだす前まえちょっと綺麗きれいになっておきたい考えかんがえのあった彼女かのじょは、そこでずいぶん念ねん入いりに時間じかんを費やしついやした後あと、晴々はればれした好いよい心持こころもちを湯上りゆあがりの光沢こうたくしい皮膚ひふに包みつつみながら帰っかえって来るくると、お時じから嘘うそではないかと思わおもわれるような報告ほうこくを聴いきいた。
「堀ほりの奥さんおくさんがいらっしゃいました」 お延のべは下女げじょの言葉ことばを信ずるしんずる事ことができないくらいに驚ろいおどろいた。
昨日きのうの今日きょう、お秀おひでの方ほうからわざわざ自分じぶんを尋ねたずねて来るくる。
そんな意外いがいな訪問ほうもんがあり得とくべきはずはなかった。
彼女かのじょは二に遍へんも三さん遍へんも下女げじょの口くちを確かめたしかめた。
何なんで来きたかをさえ訊かきかなければ気きがすまなかった。
なぜ待たまたせておかなかったかも問題もんだいになった。
しかし下女げじょは何になんにも知らしらなかった。
ただ藤井ふじいの帰りかえりに通り路とおりみちだからちょっと寄っよったまでだという事ことだけが、お秀おひでの下女げじょに残しのこして行っいった言葉ことばで解っわかった。
お延のべは既定きていのプログラムぷろぐらむをとっさの間まに変更へんこうした。
病院びょういんは抜いぬいて、お秀おひでの方ほうへ行先いきさきを転換てんかんしなければならないという覚悟かくごをきめた。
それは津田つだと自分じぶんとの間まに取りとり換かえわされた約束やくそくに過ぎすぎなかった。
何なんらの不自然ふしぜんに陥いるおちいる痕迹こんせきなしにその約束やくそくを履行りこうするのは今いまであった。
彼女かのじょはお秀おひでの後あとを追かけるおいかけるようにして宅たくを出でた。
百二十三ひゃくにじゅうさん
堀ほりの家いえは大略たいりゃくの見当けんとうから云っいって、病院びょういんと同じおなじ方角ほうがくにあるので、電車でんしゃを二につばかり手前てまえの停留所ていりゅうしょで下りくだりて、下りくだりた処ところから、すぐ右みぎへ切れきれさえすれば、つい四五しご町まちの道みちを歩くあるくだけで、すぐ門前もんぜんへ出でられた。
藤井ふじいや岡本おかもとの住居じゅうきょと違っちがって、郊外こうがいに遠いとおい彼かれの邸やしきには、ほとんど庭にわというものがなかった。
車くるま廻しまわし、馬車ばしゃ廻しまわしは無論むろんの事ことであった。
往来おうらいに面しめんして建てたてられたと云っいってもいい
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