その三人のうちで一番先に択ばれたものは、やはり津田であった。しかし自分で電話口へ立つ事のできない横臥状態にある彼の消息は、間接に取次の口から聞くよりほかに仕方がなかった。ただ別に異状のあるはずはないと思っていた彼女の予期は外れなかった。彼女は「順当でございます、お変りはございません」という保証の言葉を、看護婦らしい人の声から聞いた後で、どのくらい津田が自分を待ち受けているかを知るために、今日は見舞に行かなくってもいいかと尋ねて貰った。すると津田がなぜかと云って看護婦に訊き返させた。夫の声も顔も分らないお延は、判断に苦しんで電話口で首を傾けた。こんな場合に、彼は是非来てくれと頼むような男ではなかった。しかし行かないと、機嫌を悪くする男であった。それでは行けば喜こぶかというとそうでもなかった。彼はお延に親切の仕損をさせておいて、それが女の義務じゃないかといった風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかった。ふとこんな事を考えた彼女は、昨夕吉川夫人から受け取ったらしく自分では思っている、夫に対する一種の感情を、つい電話口で洩らしてしまった。
第 4 章
「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって云って下さい」 それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へかけ易えて、今に行ってもいいかと聞き合せた。
そうして最後に呼び出した津田の妹へは、彼の現状を一口報告的に通じただけで、また宅へ帰った。
五十九
お時の御給仕で朝食兼帯の午の膳に着くのも、お延にとっては、結婚以来始めての経験であった。
津田の不在から起るこの変化が、女王らしい気持を新らしく彼女に与えると共に、毎日の習慣に反して貪ぼり得たこの自由が、いつもよりはかえって彼女を囚えた。
身体のゆっくりした割合に、心の落ちつけなかった彼女は、お時に向って云った。
「旦那様がいらっしゃらないと何だか変ね」「へえ、御淋しゅうございます」 お延はまだ云い足りなかった。
「こんな寝坊をしたのは始めてね」「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、宜しゅうございましょう」「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」「誰がでございます」「お前がさ」「飛んでもない」 お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味に応えた。
彼女はすぐ黙ってしまった。
三十分ほど経って、お時の沓脱に揃えたよそゆきの下駄を穿いてまた表へ出る時、お延は玄関まで送って来た彼女を顧みた。
「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」 お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。
「あんなに遅くはならないつもりだがね」 たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。
「なるたけ早く帰って来て上げるよ」 こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。
岡本の住居は藤井の家とほぼ同じ見当にあるので、途中までは例の川沿の電車を利用する事ができた。
終点から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、そこに掛け渡した小さい木の橋を横切って、向う側の通りを少し歩いた。
その通りは二三日前の晩、酒場を出た津田と小林とが、二人の境遇や性格の差違から来る縺れ合った感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた往来であった。
それを津田の口から聞かされていなかった彼女は、二人の様子を想像するまでもなく、彼らとは反対の方角に無心で足を運ばせた後で、叔父の宅へ行くには是非共上らなければならない細長い坂へかかった。
すると偶然向うから来た継子に言葉をかけられた。
「昨日は」「どこへ行くの」「お稽古」 去年女学校を卒業したこの従妹は、余暇に任せていろいろなものを習っていた。
ピアノだの、茶だの、花だの、水彩画だの、料理だの、何へでも手を出したがるその人の癖を知っているので、お稽古という言葉を聞いた時、お延は、つい笑いたくなった。
「何のお稽古? トーダンス?」 彼らはこんな楽屋落の笑談をいうほど親しい間柄であった。
しかしお延から見れば、自分より余裕のある相手の境遇に対して、多少の皮肉を意味しないとも限らないこの笑談が、肝心の当人には、いっこう諷刺としての音響を伝えずにすむらしかった。
「まさか」 彼女はただこう云って機嫌よく笑った。
そうして彼女の笑は、いかに鋭敏なお延でも、無邪気その物だと許さない訳に行かなかった。
けれども彼女はついにどこへ何の稽古に行くかをお延に告げなかった。
「冷かすから厭よ」「また何か始めたの」「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」 稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の宅では隠れない事実であった。
最初妹からつけられて、たちまち家族のうちに伝播したこの悪口は、近頃彼女自身によって平気に使用されていた。
「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」 軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度ふり返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とを搗き交ぜたその人に対するいつもの感じが起った。
六十
岡本の邸宅へ着いた時、お延はまた偶然叔父の姿を玄関前に見出した。
羽織も着ずに、兵児帯をだらりと下げて、その結び目の所に、後へ廻した両手を重ねた彼は、傍で鍬を動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。
「来たね。今庭いじりをやってるところだ」 植木屋の横には、大きな通草の蔓が巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。
「そいつを今その庭の入口の門の上へ這わせようというんだ。ちょっと好いだろう」 お延は網代組の竹垣の中程にあるその茅門を支えている釿なぐりの柱と丸太の桁を見較べた。
「へえ。あの袖垣の所にあったのを抜いて来たの」「うんその代りあすこへは玉縁をつけた目関垣を拵えたよ」 近頃身体に暇ができて、自分の意匠通り住居を新築したこの叔父の建築に関する単語は、いつの間にか急に殖えていた。
言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と云って応答っているよりほかに仕方がなかった。
「食後の運動には好いわね。お腹が空いて」「笑談じゃない、叔父さんはまだ午飯前なんだ」 お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「住、住」と大きな声で叔母を呼んだ。
「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」「だから先刻みんなといっしょに召上がれば好いのに」「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一物に区切のあるという事をあなたは御承知ですか」 自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶も相変らずであった。
久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対の老夫婦と、結婚してからまだ一年と経たない、云わば新生活の門出にある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。
自分達も長の月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場も末始終まで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。
お延は今の津田に満足してはいなかった。
しかし未来の自分も、この叔母のように膏気が抜けて行くだろうとは考えられなかった。
もしそれが自分の未来に横わる必然の運命だとすれば、いつまでも現在の光沢を持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。
女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、真に恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。
そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に湧いているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前に据えられた膳に向って胡坐を掻きながら、彼女を見た。
「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」 お延はすぐ答えた。
「久しぶりにお給仕でもしましょう」 飯櫃があいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。
「御給仕をしたくったって、麺麭だからできないよ」 下女が皿の上に狐色に焦げたトーストを持って来た。
「お延、叔父さんは情けない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想だろう」 糖尿病の叔父は既定の分量以外に澱粉質を摂取する事を主治医から厳禁されてしまったのである。
「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」 叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が生のままで供えられた。
むくむくと肥え太った叔父の、わざとする情なさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。
「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」 叔父は叔母を顧みた。
「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」
六十一
小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度で出没するこの叔父の特色を他人よりよく承知していた。
肥った身体に釣り合わない神経質の彼には、時々自分の室に入ったぎり、半日ぐらい黙って口を利かずにいる癖がある代りに、他の顔さえ見ると、また何かしらしゃべらないでは片時もいられないといった気作な風があった。
それが元気のやり場所に困るからというよりも、なるべく相手を不愉快にしたくないという対人的な想いやりや、または客を前に置いて、ただのつそつとしている自分の手持無沙汰を避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心がけから来る一種の興味的中心があった。
彼の成効に少なからぬ貢献をもたらしたらしく思われる、社交上極めて有利な彼のこの話術は、その所有者の天から稟けた諧謔趣味のために、一層派出な光彩を放つ事がしばしばあった。
そうしてそれが子供の時分から彼の傍にいたお延の口に、いつの間にか乗り移ってしまった。
機嫌のいい時に、彼を向うへ廻して軽口の吐き競をやるくらいは、今の彼女にとって何の努力も要らない第二の天性のようなものであった。
しかし津田に嫁いでからの彼女は、嫁ぐとすぐにこの態度を改めた。
ところが最初慎みのために控えた悪口は、二カ月経っても、三カ月経ってもなかなか出て来なかった。
彼女はついにこの点において、岡本にいた時の自分とは別個の人間になって、彼女の夫に対しなければならなくなった。
彼女は物足らなかった。
同時に夫を欺むいているような気がしてならなかった。
たまに来て、もとに変らない叔父の様子を見ると、そこに昔しの自由を憶い出させる或物があった。
彼女は生豆腐を前に、胡坐を掻いている剽軽な彼の顔を、過去の記念のように懐かし気に眺めた。
「だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込じゃないの。津田に教わった覚なんか、ありゃしないわ」「ふん、そうでもあるめえ」 わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくに忌み嫌う叔母の方を見た。
傍から注意するとなお面白がって使いたがる癖をよく知っているので、叔母は素知らぬ顔をして取り合わなかった。
すると目標が外れた人のように叔父はまたお延に向った。
「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」 お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。
「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」「何がよ」「何がよって、そんなに白ばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を真面目くさってお訊きになるの」「少しこっちにも料簡があるんだ、返答次第では」「おお怖い事。じゃ云っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」「本当にかい」「ええ。ずいぶん叔父さんも苦呶いのね」「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」 こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、頷でしゃくって見せた。
「この叔母さんなら、ちょうどお誂らえ向かも知れないがね」 淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を撫でた。
彼女は急に悲しい気分に囚えられた自分を見て驚ろいた。
「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」 津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、調戯半分の叔父の笑談を、ただ座興から来た出鱈目として笑ってしまうには、お延の心にあまり隙があり過ぎた。
と云って、その隙を飽くまで取り繕ろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由をもっていなかった。
もう少しで涙が眼の中に溜まろうとしたところを、彼女は瞬きでごまかした。
「いくらお誂らえ向でも、こう年を取っちゃ仕方がない。ねえお延」 年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々した光沢のある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも云わなかった。
けれども自分の感情を隠すために、第一の機会を利用する事は忘れなかった。
彼女はただ面白そうに声を出して笑った。
六十二
親身の叔母よりもかえって義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別に可愛がられているという信念を常にもっていた。
洒落でありながら神経質に生れついた彼の気合をよく呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分違わず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、いつでも年齢の若さから来る柔軟性が伴っていたので、ほとんど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、また自分に満足を与える事ができた。
叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作を眺めていてくれるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。
いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば成効するに違ないと信じていた。
津田といっしょになった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、なるほどという眼つきで眺めた。
彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間に熟しつけるか、またはすでに出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、どっちかにしなければならない場合によく出合った。
彼女の愛は津田の上にあった。
しかし彼女の同情はむしろ叔父型の人間に注がれた。
こんな時に、叔父なら嬉しがってくれるものをと思う事がしばしば出て来た。
すると自然の勢いが彼女にそれを逐一叔父に話してしまえと命令した。
その命令に背くほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気にはとてもなれなかった。
こうして叔父夫婦を欺むいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の掛念もなく彼女のために騙されているという自信があった。
同時に敏感な彼女は、叔父の方でもまた彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度ぐらいなある秘密をもっているという事をよく承知していた。
有体に見透した叔父の腹の中を、お延に云わせると、彼はけっして彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。
それが二人の間に横わる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。
少くとも結婚後のお延はじきそこに気がついた。
しかし彼女はまだその上に材料をもっていた。
粗放のようで一面に緻密な、無頓着のようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、すでに直観的に津田を嫌っていたらしかった。
「お前はああいう人が好きなのかね」と訊かれた裏側に、「じゃおれのようなものは嫌だったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。
しかし「叔父さんの御意見は」とこっちから問い返した時の彼は、もうその気下味い関を通り越していた。
「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮は要らないから」と親切に云ってくれた。
お延の材料はまだ一つ残っていた。
自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。
「あの男は日本中の女がみんな自分に惚れなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」 不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。
彼女には自分が津田を精一杯愛し得るという信念があった。
同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。
また叔父の例の悪口が始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。
そうして、この悪口はつまり嫉妬から来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。
叔母も「自分の若い時の己惚は、もう忘れているんだからね」と云って、彼女に相槌を打ってくれた。
…… 叔父の前に坐ったお延は自分の後にあるこんな過去を憶い出さない訳に行かなかった。
すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼の笑談のうちに、何か真面目な意味があるのではなかろうかという気さえ起った。
「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」 お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。
六十三
感傷的の気分を笑に紛らした彼女は、その苦痛から逃れるために、すぐ自分の持って来た話題を叔父叔母の前に切り出した。
「昨日の事は全体どういう意味なの」 彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。
すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。
「お前はどう思う」 特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような眼遣いをして彼女をじっと見た。
「解らないわ。藪から棒にそんな事訊いたって。ねえ叔母さん」 叔母はにやりと笑った。
「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気が利いてるからっておっしゃるんだよ」 お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。
彼女の頭には無論朧気ながらある臆測があった。
けれども強いられないのに、悧巧ぶってそれを口外するほど、彼女の教育は蓮葉でなかった。
「あたしにだって解りっこないわ」「まああてて御覧。たいてい見当はつくだろう」 どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父の気色を見て取った彼女は、二三度押問答の末、とうとう推察の通りを云った。
「見合じゃなくって」「どうして。――お前にはそう見えるかね」 お延の推測を首肯う前に、彼女の叔父から受けた反問がそれからそれへと続いた。
しまいに彼は大きな声を出して笑った。
「あたった、あたった。やっぱりお前の方が住より悧巧だね」 こんな事で、二人の間に優劣をつける気楽な叔父を、お住とお延が馬鹿にして冷評した。
「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」「お前も御賞にあずかったって、あんまり嬉しくないだろう」「ええちっともありがたかないわ」 お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の斡旋ぶりがまた描き出された。
「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが始終継子さんと、それからあの三好さんて方を、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折っていらっしゃるんですもの」「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事夥しいんだからな。引き立てようとすれば、かえって引き下がるだけで、まるで紙袋を被った猫見たいだね。そこへ行くと、お延のようなのはどうしても得だよ。少くとも当世向だ」「厭にしゃあしゃあしているからでしょう。何だか賞められてるんだか、悪く云われてるんだか分らないわね。あたし継子さんのようなおとなしい人を見ると、どうかしてあんなになりたいと思うわ」 こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろ不成効に終った、昨夕の会合を、不愉快と不満足の眼で眺めた。
「何でまたあたしがあの席に必要だったの」「お前は継子の従姉じゃないか」 ただ親類だからというのが唯一の理由だとすれば、お延のほかにも出席しなければならない人がまだたくさんあった。
その上相手の方では当人がたった一人出て来ただけで、紹介者の吉川夫婦を除くと、向うを代表するものは誰もいなかった。
「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」 叔父の目的中には、昨夕の機会を利用して、津田とお延を、一度でも余計吉川夫婦に接近させてやろうという好意が含まれていたのである。
それを叔父の口から判切聴かされた時、お延は日頃自分が考えている通りの叔父の気性がそこに現われているように思って、暗に彼の親切を感謝すると共に、そんならなぜあの吉川夫人ともっと親しくなれるように仕向けてくれなかったのかと恨んだ。
二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果はかえって近づけない前より悪くなるかも知れないという特殊な心理を、叔父はまるで承知していないらしかった。
お延はいくら行き届いても男はやっぱり男だと批評したくなった。
しかしその後から、吉川夫人と自分との間に横わる一種微妙な関係を知らない以上は、誰が出て来ても畢竟どうする事もできないのだから仕方がないという、嘆息を交えた寛恕の念も起って来た。
六十四
お延はその問題をそこへ放り出したまま、まだ自分の腑に落ちずに残っている要点を片づけようとした。
「なるほどそういう意味合だったの。あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。だけどまだほかに何かあるんでしょう」「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ価値は充分あるだろう」「ええ、有るには有るわ」 お延はこう答えなければならなかった。
しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。
叔父は果して最後の一物を胸に蔵い込んでいた。
「実はお前にお婿さんの眼利をして貰おうと思ったのさ。お前はよく人を見抜く力をもってるから相談するんだが、どうだろうあの男は。お継の未来の夫としていいだろうか悪いだろうか」 叔父の平生から推して、お延はどこまでが真面目な相談なのか、ちょっと判断に迷った。
「まあ大変な御役目を承わったのね。光栄の至りだ事」 こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子を抑えた。
「あたしのようなものが眼利をするなんて、少し生意気よ。それにただ一時間ぐらいああしていっしょに坐っていただけじゃ、誰だって解りっこないわ。千里眼ででもなくっちゃ」「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だから皆なが訊きたがるんだよ」「冷評しちゃ厭よ」 お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。
しかし腹の中では自分に媚びる一種の快感を味わった。
それは自分が実際他にそう思われているらしいという把捉から来る得意にほかならなかった。
けれどもそれは同時に彼女を失意にする覿面の事実で破壊されべき性質のものであった。
彼女は反対に近い例証としてその裏面にすぐ自分の夫を思い浮べなければならなかった。
結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後今日に至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違い疳違の痕迹で、すでにそこここ汚れていた。
畢竟夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、ようやく頭を下げかけていた彼女は、叔父に煽られてすぐ図に乗るほど若くもなかった。
「人間はよく交際って見なければ実際解らないものよ、叔父さん」「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」「だからよ。一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ」「そりゃ男の云い草だろう。女は一眼見ても、すぐ何かいうじゃないか。またよく旨い事を云うじゃないか。それを云って御覧というのさ、ただ叔父さんの参考までに。なにもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」 叔母はいつものようにお延に加勢しなかった。
さればと云って、叔父の味方にもならなかった。
彼女の予言を強いる気色を見せない代りに、叔父の悪強いもとめなかった。
始めて嫁にやる可愛い長女の未来の夫に関する批判の材料なら、それがどんなに軽かろうと、耳を傾むける値打は充分あるといった風も見えた。
お延は当り障りのない事を一口二口云っておくよりほかに仕方がなかった。
「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」 その後を待っていた叔父は、お延が何にも云わないので、また催促するように訊いた。
「それっきりかね」「だって、あたしあの方の一軒置いてお隣へ坐らせられて、ろくろくお顔も拝見しなかったんですもの」「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ一言で、ずばりと向うの急所へあたるような……」「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」「云えないわ」「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚が擦り減らされてしまったの。近頃は直覚じゃなくって鈍覚だけよ」
六十五
口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。
彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。
けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の好悪を改めるはずがないという事もよく承知していた。
だから睦しそうな津田と自分とを、彼は始終不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。
それを他の言葉で云い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父はいつでも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。
人間を見損なったのは、自分でなくて、かえってお延なのだという断定が、時機を待って外部に揺曳するために、彼の心に下層にいつも沈澱しているらしかった。
「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなに執濃く聴こうとするのだろう」 お延は解しかねた。
すでに自分の夫を見損なったものとして、暗に叔父から目指されているらしい彼女に、その自覚を差しおいて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。
仕方がないので、彼女はしまいに黙ってしまった。
しかし年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象にほかならなかった。
彼はお延を措いて叔母の方を向いた。
「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱり旦那様の感化かな。不思議なもんだな」「あなたがあんまり苛めるからですよ。さあ云え、さあ云えって、責めるように催促されちゃ、誰だって困りますよ」 叔母の態度は、叔父を窘めるよりもむしろお延を庇護う方に傾いていた。
しかしそれを嬉しがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、いっぱいになり過ぎていた。
「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」 お延は自分で自分の夫を択んだ当時の事を憶い起さない訳に行かなかった。
津田を見出した彼女はすぐ彼を愛した。
彼を愛した彼女はすぐ彼の許に嫁ぎたい希望を保護者に打ち明けた。
そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。
冒頭から結末に至るまで、彼女はいつでも彼女の主人公であった。
また責任者であった。
自分の料簡をよそにして、他人の考えなどを頼りたがった覚はいまだかつてなかった。
「いったい継子さんは何とおっしゃるの」「何とも云わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」「肝心の当人がそれじゃ、仕方がないじゃありませんか」「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」「どっちにしたって仕方がない、何にも云わないんだから。あるいは何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」 そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸に横わる深い疑問であった。
「自分の結婚ですらこうだのに」という論理がすぐ彼女の頭に閃めいた。
「自分の結婚だって畢竟は似たり寄ったりなんだから」という風に、この場合を眺める事のできなかった彼女は、一直線に自分の眼をつけた方ばかり見た。
馬鹿らしいよりも恐ろしい気になった。
なんという気楽な人だろうとも思った。
「叔父さん」と呼びかけた彼女は、呆れたように細い眼を強く張って彼を見た。
「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」「だってあたしが立ち合えばどうするの」「とにかく継が是非そうしてくれっておれ達に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方をよっぽど悧巧だと思ってるんだ。そうしてたとい自分は解らなくっても、お前なら後からいろいろ云ってくれる事があるに違ないと思い込んでいるんだ」「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」「ところがまたそれは厭だというんだ。是非黙っててくれというんだ」「なぜでしょう」 お延はちょっと叔母の方を向いた。
「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父は遮った。
「なにきまりが悪いばかりじゃない。成心があっちゃ、好い批評ができないというのが、あいつの主意なんだ。つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう」 お延は初めて叔父に強いられる意味を理解した。
六十六
お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。
こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。
自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。
その代り血統上の親和力や、異性に基く牽引性以外に、年齢の相似から来る有利な接触面をもっていた。
若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味に充ちた眼を見張る時、自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、継子に近づかなければならなかった。
そうしてその場合における彼女は、天分から云って、いつでも継子の優者であった。
経験から推せば、もちろん継子の先輩に違なかった。
少なくともそういう人として、継子から一段上に見られているという事を、彼女はよく承知していた。
この小さい嘆美者には、お延のいうすべてを何でも真に受ける癖があった。
お延の自覚から云えば、一つ家に寝起を共にしている長い間に、自分の優越を示す浮誇の心から、柔軟性に富んだこの従妹を、いつの間にかそう育て上げてしまったのである。
「女は一目見て男を見抜かなければいけない」 彼女はかつてこんな事を云って、無邪気な継子を驚ろかせた。
彼女はまた充分それをやり終せるだけの活きた眼力を自分に具えているものとして継子に対した。
そうして相手の驚きが、羨みから嘆賞に変って、しまいに崇拝の間際まで近づいた時、偶然彼女の自信を実現すべき、津田と彼女との間に起った相思の恋愛事件が、あたかも神秘の※のごとく、継子の前に燃え上った。
彼女の言葉は継子にとってついに永久の真理その物になった。
一般の世間に向って得意であった彼女は、とくに継子に向って得意でなければならなかった。
お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。
日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外に食み出している未知の部分を、すべて彼女から与えられた間接の知識で補なって、容易に津田という理想的な全体を造り上げた。
結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。
けれども継子の彼に対する考えは毫も変らなかった。
彼女は飽くまでもお延を信じていた。
お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。
どこまでも先見の明によって、天の幸福を享ける事のできた少数の果報者として、継子の前に自分を標榜していた。
過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台に躍らせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、辛いよりもむしろ快よくなかった。
それは皆んなが寄ってたかって、今まで糊塗して来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。
こっちの「我」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。
「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」 彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。
けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向って叩きつける事のできないものであった。
もし叩きつけるとすれば、彼ら三人を無心に使嗾して、自分に当擦りをやらせる天に向ってするよりほかに仕方がなかった。
膳を引かせて、叔母の新らしく淹れて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんな交み入った蟠まりが蜿蜒っていようと思うはずがなかった。
造りたての平庭を見渡しながら、晴々した顔つきで、叔母と二言三言、自分の考案になった樹や石の配置について批評しあった。
「来年はあの松の横の所へ楓を一本植えようと思うんだ。何だかここから見ると、あすこだけ穴が開いてるようでおかしいからね」 お延は何の気なしに叔父の指している見当を見た。
隣家と地続きになっている塀際の土をわざと高く盛り上げて、そこへ小さな孟宗藪をこんもり繁らした根の辺が、叔父のいう通り疎らに隙いていた。
先刻から問題を変えよう変えようと思って、暗に機会を待っていた彼女は、すぐ気転を利かした。
「本当ね。あすこを塞がないと、さもさも藪を拵えましたって云うようで変ね」 談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。
しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。
六十七
それは叔父が先刻玄関先で鍬を動かしていた出入の植木屋に呼ばれて、ちょっと席を外した後、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。
まだ学校から帰らない百合子や一の噂に始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方に滑り込みつつあった。
「慾張屋さん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」 叔母はわざわざ百合子の命けた渾名で継子を呼んだ。
お延はすぐその慾張屋の様子を思い出した。
自分に許された小天地のうちでは飽くまで放恣なくせに、そこから一歩踏み出すと、急に謹慎の模型見たように竦んでしまう彼女は、まるで父母の監督によって仕切られた家庭という籠の中で、さも愉快らしく囀る小鳥のようなもので、いったん戸を開けて外へ出されると、かえってどう飛んでいいか、どう鳴いていいか解らなくなるだけであった。
「今日は何のお稽古に行ったの」 叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。
しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて従妹の多慾に驚ろかされた。
そんなにいろいろなものに手を出していったい何にするつもりだろうという気さえした。
「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」 叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。
それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前殊勝らしい顔をしてなるほどと首肯かなければならなかった。
夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の良人に対する親切に違なかった。
あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。
けれども継子にはまだそれ以上に、人間としてまた細君としての大事な稽古がいくらでも残っていた。
お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女を善くするものではなかった。
しかし女を鋭敏にするものであった。
悪く摩擦するには相違なかった。
しかし怜悧に研ぎ澄すものであった。
彼女はその初歩を叔母から習った。
叔父のお蔭でそれを今日に発達させて来た。
二人はそういう意味で育て上げられた彼女を、満足の眼で眺めているらしかった。
「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」 従妹のどこにも不平らしい素振さえ見せた事のない叔父叔母は、この点においてお延に不可解であった。
強いて解釈しようとすれば、彼らは姪と娘を見る眼に区別をつけているとでも云うよりほかに仕方がなかった。
こういう考えに襲われると、お延は突然口惜しくなった。
そういう考えがまた時々発作のようにお延の胸を掴んだ。
しかし城府を設けない行き届いた叔父の態度や、取扱いに公平を欠いた事のない叔母の親切で、それはいつでも燃え上る前に吹き消された。
彼女は人に見えない袖を顔へあてて内部の赤面を隠しながら、やっぱり不思議な眼をして、二人の心持を解けない謎のように不断から見つめていた。
「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいに心配性でないから」「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ宅にいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」「そりゃお前と継とは……」 中途で止めた叔母は何をいう気か解らなかった。
性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。
それは今まで気のつかなかった或物に、突然ぶつかったような動悸がしたからである。
「昨日の見合に引き出されたのは、容貌の劣者として暗に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」 お延の頭に石火のようなこの暗示が閃めいた時、彼女の意志も平常より倍以上の力をもって彼女に逼った。
彼女はついに自分を抑えつけた。
どんな色をも顔に現さなかった。
「継子さんは得な方ね。誰にでも好かれるんだから」「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々だからね。あんな馬鹿でも……」 叔父が縁側へ上ったのと、叔母がこう云いかけたのとは、ほとんど同時であった。
彼は大きな声で「継がどうしたって」と云いながらまた座敷へ入って来た。
六十八
すると今まで抑えつけていた一種の感情がお延の胸に盛り返して来た。
飽くまで機嫌の好い、飽くまで元気に充ちた、そうして飽くまで楽天的に肥え太ったその顔が、瞬間のお延をとっさに刺戟した。
「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」 彼女は藪から棒にこう云わなければならなかった。
今日まで二人の間に何百遍となく取り換わされたこの常套な言葉を使ったお延の声は、いつもと違っていた。
表情にも特殊なところがあった。
けれども先刻からお延の腹の中にどんな潮の満干があったか、そこにまるで気のつかずにいた叔父は、平生の細心にも似ず、全く無邪気であった。
「そんなに人が悪うがすかな」 例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄まして刻煙草を雁首へ詰めた。
「おれの留守にまた叔母さんから何か聴いたな」 お延はまだ黙っていた。
叔母はすぐ答えた。
「あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ」「なるほどね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって、彼はそれを犢鼻褌のミツへ挟んでいるか、または胴巻へ入れて臍の上に乗っけているか、ちゃんと見分ける女なんだから、なかなか油断はできないよ」 叔父の笑談はけっして彼の予期したような結果を生じなかった。
お延は下を向いて眉と睫毛をいっしょに動かした。
その睫毛の先には知らない間に涙がいっぱい溜った。
勝手を違えた叔父の悪口もぱたりととまった。
変な圧迫が一度に三人を抑えつけた。
「お延どうかしたのかい」 こう云った叔父は無言の空虚を充たすために、煙管で灰吹を叩いた。
叔母も何とかその場を取り繕ろわなければならなくなった。
「何だね小供らしい。このくらいな事で泣くものがありますか。いつもの笑談じゃないか」 叔母の小言は、義理のある叔父の手前を兼た挨拶とばかりは聞えなかった。
二人の関係を知り抜いた彼女の立場を認める以上、どこから見ても公平なものであった。
お延はそれをよく承知していた。
けれども叔母の小言をもっともと思えば思うほど、彼女はなお泣きたくなった。
彼女の唇が顫えた。
抑えきれない涙が後から後からと出た。
それにつれて、今まで堰きとめていた口の関も破れた。
彼女はついに泣きながら声を出した。
「何もそんなにまでして、あたしを苛めなくったって……」 叔父は当惑そうな顔をした。
「苛めやしないよ。賞めてるんだ。そらお前が由雄さんの所へ行く前に、あの人を評した言葉があるだろう。あれを皆な蔭で感心しているんだ。だから……」「そんな事承わなくっても、もうたくさんです。つまりあたしが芝居へ行ったのが悪いんだから。……」 沈黙がすこし続いた。
「何だかとんだ事になっちまったんだね。叔父さんの調戯い方が悪かったのかい」「いいえ。皆んなあたしが悪いんでしょう」「そう皮肉を云っちゃいけない。どこが悪いか解らないから訊くんだ」「だから皆なあたしが悪いんだって云ってるじゃありませんか」「だが訳を云わないからさ」「訳なんかないんです」「訳がなくって、ただ悲しいのかい」 お延はなお泣き出した。
叔母は苦々しい顔をした。
「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。宅にいた時分、いくら叔父さんに調戯われたって、そんなに泣いた事なんか、ありゃしないくせに。お嫁に行きたてで、少し旦那から大事にされると、すぐそうなるから困るんだよ、若い人は」 お延は唇を噛んで黙った。
すべての原因が自分にあるものとのみ思い込んだ叔父はかえって気の毒そうな様子を見せた。
「そんなに叱ったってしようがないよ。おれが少し冷評し過ぎたのが悪かったんだ。――ねえお延そうだろう。きっとそうに違ない。よしよし叔父さんが泣かした代りに、今に好い物をやる」 ようやく発作の去ったお延は、叔父からこんな風に小供扱いにされる自分をどう取り扱って、跋の悪いこの場面に、平静な一転化を与えたものだろうと考えた。
六十九
ところへ何にも知らない継子が、語学の稽古から帰って来て、ひょっくり顔を出した。
「ただいま」 和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを見出した人のように喜こんだ。
そうしてほとんど同時に挨拶を返した。
「お帰んなさい」「遅かったのね。先刻から待ってたのよ」「いや大変なお待兼だよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」 神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層快豁であった。
「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」 こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上に逆まに投げておきながら、彼はかえって得意になっているらしかった。
しかし下女が襖越に手を突いて、風呂の沸いた事を知らせに来た時、彼は急に思いついたように立ち上った。
「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」 彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。
けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。
「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」 こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。
お延は頭のよく働くその世話しない様子を、いかにも彼の特色らしく感心して眺めた。
「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」 職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。
これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別に嬉しいと思う気にもなれなかった。
藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるか余計に、彼女は彼らより離れていた。
「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。
「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」 叔母は婉曲に自己を表現した。
「おおかたいらっしゃらないでしょう」「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃ止すか。――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい」 お延は笑い出した。
「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」 手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。
叔母も「じゃあたしは御免蒙ってお先へお湯に入ろう」と云いながら立ち上った。
叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行して顧みない叔母の態度は、お延にとって羨ましいものであった。
また忌わしいものであった。
女らしくない厭なものであると同時に、男らしい好いものであった。
ああできたらさぞ好かろうという感じと、いくら年をとってもああはやりたくないという感じが、彼女の心にいつもの通り交錯した。
立って行く叔母の後姿を彼女がぼんやり目送していると、一人残った継子が突然誘った。
「あたしのお部屋へ来なくって」 二人は火鉢や茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。
七十
継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。
そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも天井にも残っていた。
硝子戸を篏めた小さい棚の上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。
薔薇の花を刺繍にした籃入のピンクッションもそのままであった。
二人してお対に三越から買って来た唐草模様の染付の一輪挿もそのままであった。
四方を見廻したお延は、従妹と共に暮した処女時代の匂を至る所に嗅いだ。
甘い空想に充ちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、忽然鮮やかな※に変化した自己の感情の前に抃舞したのは彼女であった。
眼に見えないでも、瓦斯があったから、ぱっと火が点いたのだと考えたのは彼女であった。
空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。
顧みるとその時からもう半年以上経過していた。
いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。
どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。
あるいは極めて現実化され悪いものらしくなって来た。
お延の胸の中には微かな溜息さえ宿った。
「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」 彼女はこういう観念の眼で、自分の前に坐っている従妹を見た。
多分は自分と同じ径路を踏んで行かなければならない、またひょっとしたら自分よりもっと予期に外れた未来に突き当らなければならないこの処女の運命は、叔父の手にある諾否の賽が、畳の上に転がり次第、今明日中にでも、永久に片づけられてしまうのであった。
お延は微笑した。
「継子さん、今日はあたしがお神籤を引いて上げましょうか」「なんで?」「何でもないのよ。ただよ」「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」 継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。
お延の方からむやみに云い出されるのも苦痛らしかった。
けれども間接にどこかでそこに触れて貰いたい様子がありありと見えた。
お延は従妹を喜こばせてやりたかった。
と云って、後で自分の迷惑になるような責任を持つのは厭であった。
「じゃあたしが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」 お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。
すると継子が急にその手を抑えた。
「厭よ」 お延は手を引込めなかった。
「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」 神籤に何の執着もなかったお延は、突然こうして継子と戯れたくなった。
それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女に憶い起させる良い媒介であった。
弱いものの虚を衝くために用いられる腕の力が、彼女を男らしく活溌にした。
抑えられた手を跳ね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。
ただ神籤箱を継子の机の上から奪い取りたかった。
もしくはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。
二人は争った。
同時に女性の本能から来るわざとらしい声を憚りなく出して、遊技的な戦いに興を添えた。
二人はついに硯箱の前に飾ってある大事な一輪挿を引っ繰り返した。
紫檀の台からころころと転がり出したその花瓶は、中にある水を所嫌わず打ち空けながら畳の上に落ちた。
二人はようやく手を引いた。
そうして自然の位置から不意に放り出された可愛らしい花瓶を、同じように黙って眺めた。
それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事のできない衝動を受けた人のように、一度に笑い出した。
七十一
偶然の出来事がお延をなお小供らしくした。
津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。
彼女は全く現在の自分を忘れた。
「継子さん早く雑巾を取っていらっしゃい」「厭よ。あなたが零したんだから、あなた取っていらっしゃい」 二人はわざと譲り合った。
わざと押問答をした。
「じゃジャン拳よ」と云い出したお延は、繊い手を握って勢よく継子の前に出した。
継子はすぐ応じた。
宝石の光る指が二人の間にちらちらした。
二人はそのたんびに笑った。
「狡猾いわ」「あなたこそ狡猾いわ」 しまいにお延が負けた時には零れた水がもう机掛と畳の目の中へ綺麗に吸い込まれていた。
彼女は落ちつき払って袂から出した手巾で、濡れた所を上から抑えつけた。
「雑巾なんか要りゃしない。こうしておけば、それでたくさんよ。水はもう引いちまったんだから」 彼女は転がった花瓶を元の位置に直して、摧けかかった花を鄭寧にその中へ挿し込んだ。
そうして今までの頓興をまるで忘れた人のように澄まし返った。
それがまたたまらなくおかしいと見えて、継子はいつまでも一人で笑っていた。
発作が静まった時、継子は帯の間に隠した帙入の神籤を取り出して、傍にある本箱の抽斗へしまい易えた。
しかもその上からぴちんと錠を下して、わざとお延の方を見た。
けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。
ひとしきり我を忘れた彼女は、従妹より早く醒めてしまった。
「継子さんはいつでも気楽で好いわね」 彼女はこう云って継子を見返した。
当り障りのない彼女の言葉はとても継子に通じなかった。
「じゃ延子さんは気楽でないの」 自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされる兼ての不平も交っていた。
「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」 二人は年齢が違った。
性質も違った。
しかし気兼苦労という点にかけて二人のどこにどんな違があるか、それは継子のまだ考えた事のない問題であった。
「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」「心配なんかないわ」「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」「どうしてでしょう」 お延は説明する訳に行かなかった。
また説明する気になれなかった。
「今に解るわ」「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」 継子は結婚前と結婚後の差違をまるで勘定に入れていなかった。
「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまた旦那様を亡くなして、未亡人になるとか」 継子は少し怪訝な顔をしてお延を見た。
「延子さんは宅にいた時と、由雄さんの所へ行ってからと、どっちが気楽なの」「そりゃ……」 お延は口籠った。
継子は彼女に返答を拵える余地を与えなかった。
「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」 お延は仕方なしに答えた。
「そうばかりにも行かないわ。これで」「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」「ええ、だからあたし幸福よ」「幸福でも気楽じゃないの」「気楽な事も気楽よ」「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」「そう継子さんのように押しつめて来ちゃ敵わないわね」「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」
七十二
だんだん勾配の急になって来た会話は、いつの間にか継子の結婚問題に滑り込んで行った。
なるべくそれを避けたかったお延には、今までの行きがかり上、またそれを避ける事のできない義理があった。
経験に乏しい処女の期待するような予言はともかくも、男女関係に一日の長ある年上の女として、相当の注意を与えてやりたい親切もないではなかった。
彼女は差し障りのない際どい筋の上を婉曲に渡って歩いた。
「そりゃ駄目よ。津田の時は自分の事だから、自分によく解ったんだけれども、他の事になるとまるで勝手が違って、ちっとも解らなくなるのよ」「そんなに遠慮しないだってよかないの」「遠慮じゃないのよ」「じゃ冷淡なの」 お延は答える前にしばらく間をおいた。
「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。眼が一秒で十年以上の手柄をするのは、その時に限るのよ。しかもそんな場合は誰だって生涯にそうたんとありゃしないわ。ことによると生涯に一返も来ないですんでしまうかも分らないわ。だからあたしなんかの眼はまあ盲目同然よ。少なくとも平生は」「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの」「使わないんじゃない、使えないのよ」「だって岡目八目って云うじゃありませんか。傍にいるあなたには、あたしより余計公平に分るはずだわ」「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」 お延はまたしばらく黙っていた。
それから少し前よりは改った態度で口を利き出した。
「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」「ええ」「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」 お延はそこで句切をおいた。
そうして継子の何かいう前に、すぐ後を継ぎ足した。
「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫を択ぶ事ができたからよ。岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。解って」 継子は心細そうな顔をした。
「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」 お延は何とか云わなければならなかった。
しかしすぐは何とも云えなかった。
しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口から迸しり出した。
「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」 こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。
彼女は継子に話しかけながら、ほとんど三好の影さえ思い浮べなかった。
幸いそれを自分のためとのみ解釈した継子は、真ともにお延の調子を受けるほど感激しなかった。
「誰を」と云った彼女は少し呆れたようにお延の顔を見た。
「昨夕お目にかかったあの方の事?」「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」 平生包み蔵しているお延の利かない気性が、しだいに鋒鋩を露わして来た。
おとなしい継子はそのたびに少しずつ後へ退った。
しまいに近寄りにくい二人の間の距離を悟った時、彼女は微かな溜息さえ吐いた。
するとお延が忽然また調子を張り上げた。
「あなたあたしの云う事を疑っていらっしゃるの。本当よ。あたし嘘なんか吐いちゃいないわ。本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」 こう云って絶対に継子を首肯わせた彼女は、後からまた独り言のように付け足した。
「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の料簡一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」 お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ漠然と自分の身の上に応用して考えなければならなかった。
しかしいくら考えてもその意味はほとんど解らなかった。
七十三
その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音の主ががらりと室の入口を開けた。
そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。
彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「ただいま」と云って姉に挨拶した。
彼女の机を据えた場所は、ちょうどもとお延の坐っていた右手の隅であった。
お延が津田へ片づくや否や、すぐその後へ入る事のできた彼女は、従姉のいなくなったのを、自分にとって大変な好都合のように喜こんだ。
お延はそれを知ってるので、わざと言葉をかけた。
「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」 百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。
机の角へ右の足を載せて、少し穴の開きそうになった黒い靴足袋の親指の先を、手で撫でていたが、足を畳の上へおろすと共に答えた。
「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少し間をおいてから、また彼女を相手にした。
「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相だと思って下さるでしょう」「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」「そうね」 百合子は少し考える様子をした。
「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」 こう云った百合子は年上の二人と共に声を揃えて笑った。
そうして袴も脱がずに、火鉢の傍へ来てその間に坐りながら、下女の持ってきた木皿を受取って、すぐその中にある餅菓子を食べ出した。
「今頃お八ツ? このお皿を見ると思い出すのね」 お延は自分が百合子ぐらいであった当時を回想した。
学校から帰ると、待ちかねて各自の前に置かれる木皿へ手を出したその頃の様子がありありと目に浮かんだ。
旨そうに食べる妹の顔を微笑して見ていた継子も同じ昔を思い出すらしかった。
「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのは億劫だし、そうかって宅に何かあっても、昔しのように旨しくないのね、もう」「運動が足りないからでしょう」 二人が話しているうちに、百合子は綺麗に木皿を空にした。
そうして木に竹を接いだような調子で、二人の間に割り込んで来た。
「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」「そう、どこへいらっしゃるの」「どこだか知らないけれども行く事は行くのよ」「じゃ何という方の所へいらっしゃるの」「何という名だか知らないけれども、行くのよ」 お延は根気よく三度目の問を掛けた。
「それはどんな方なの」 百合子は平気で答えた。
「おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云う通りになって、大変好い人だって、そう云っててよ」 薄赤くなった継子は急に妹の方へかかって行った。
百合子は頓興な声を出してすぐそこを飛び退いた。
「おお大変大変」 入口の所でちょっと立ちどまってこう云った彼女は、お延と継子をそこへ残したまま、一人で室を逃げ出して行った。
七十四
お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それから間もなくであった。
一家のものは明るい室に晴々した顔を揃えた。
先刻何かに拗ねて縁の下へ這入ったなり容易に出て来なかったという一さえ、機嫌よく叔父と話をしていた。
「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹から、彼がぱくりと口を開いて上から鼻の先へ出された餅菓子に食いついたという話を聞いたのであった。
お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。
「お父さま彗星が出ると何か悪い事があるんでしょう」「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問が開けたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」「西洋では」 西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。
「西洋? 西洋にゃ昔からない」「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。
「ありゃ羅馬の時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」 一はそれで納得して黙った。
しかしすぐ第二の質問をかけた。
前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。
井戸を掘って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面は落こちなければならない。
しかるに地面はなぜ落こちないか。
これが彼の要旨であった。
それに対する叔父の答弁がまたすこぶるしどろもどろなので、傍のものはみんなおかしがった。
「そりゃお前落ちないさ」「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」「そう旨くは行かないよ」 女連が一度に笑い出すと、一はたちまち第三の問題に飛び移った。
「お父さま、僕この宅が軍艦だと好いな。お父さまは?」「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」「だって地震の時宅なら潰れるじゃないの」「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」 本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。
先刻藤井を晩餐に招待するといった彼は、もうその事を念頭においていないらしかった。
叔母も忘れたように澄ましていた。
お延はつい一に訊いて見たくなった。
「一さん藤井の真事さんと同級なんでしょう」「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。
彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。
食卓は一時彼の力で賑わった。
みんなを笑わせた真事の逸話の中に、下のようなのがあった。
ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴を覗き込んだ。
土木工事のために深く掘り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。
一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円やると云った。
すると無鉄砲な真事は、背嚢を背負って、尨犬の皮で拵えたといわれる例の靴を穿いたまま、「きっとくれる?」と云いながら、ほとんど平たい幅をもっていない、つるつる滑りそうな材木を渡り始めた。
最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩一歩と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急に怖くなった。
彼は深い穴の真上にある友達をそこへ置き去りにして、どんどん逃げだした。
真事はまた始終足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一がどこへ行ったか全く知らずにいた。
ようやく冒険を仕遂げて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手はいつの間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなかったというのである。
「一の方が少し小悧巧のようだな」と叔父が評した。
「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。
七十五
小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。
否でも顔を合せなければならない祝儀不祝儀の席を未来に控えている彼らは、事情の許す限り、双方から接近しておく便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。
ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。
その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種の如才なさがあった。
持って生れた楽天的な広い横断面もあった。
神経質な彼はまた誤解を恐れた。
ことに生計向に不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大不遜の誤解を恐れた。
多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地についた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。
その時間の空虚なところを、自分の趣味に適う模細工で毎日埋めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物にだんだん接近して見ようという意志ももっていた。
これらの原因が困絡がって、叔父は時々藤井の宅へ自分の方から出かけて行く事があった。
排外的に見える藤井は、律義に叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと云って彼を厭がる様子も見せなかった。
彼らはむしろ快よく談じた。
底まで打ち解けた話はできないにしたところで、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。
その世界はまた妙に食い違っていた。
一方から見るといかにも迂濶なものが、他方から眺めるといかにも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりするところに、思わざる発見がひょいひょい出て来た。
「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」 お延は批評家という意味をよく理解しなかった。
実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云って他をごまかすんだろうと思った。
「仕事ができなくって、ただ理窟を弄んでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。
これ以上進む事のできなかった彼女は微笑しながら訊いた。
「近頃藤井さんへいらしって」「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。草臥れた時、休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからね、あすこは」「また何か面白いお話しでもあって」「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」「あら厭だ」「馬鹿らしい、好い年をして」 お延と叔母はこもごも呆れたような言葉を出す間に、継子だけはよそを向いた。
「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこの宅でも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう云えば、そうだね」 親身の叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目になった。
「それでどうしたの」「それでこうなんだ。男と女は始終引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしても充たす訳に行かないんだ」 お延の興味は急に退きかけた。
叔父の云う事は、自分の疾うに知っている事実に過ぎなかった。
「昔から陰陽和合っていうじゃありませんか」「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」「どうして」「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」「ええ」「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」「ええ」「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」 叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。
お延は負けなかった。
「だけどそりゃ理窟よ」「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟よ」 お延は叔父をやり込める事ができなかった。
けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。
またどうあっても信ずるのは厭であった。
七十六
叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。
男が女を得て成仏する通りに、女も男を得て成仏する。
しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。
一度夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。
すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。
女も男から離れなければ成仏し悪くなる。
今までの牽引力がたちまち反撥性に変化する。
そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺を永久に認めたくなる。
つまり人間が陰陽和合の実を挙げるのは、やがて来るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。
…… 叔父の言葉のどこまでが藤井の受売で、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目で、どこからが笑談なのか、お延にはよく分らなかった。
筆を持つ術を知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。
ちょっとした心棒があると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。
俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。
お延が反対すればするほど、膏が乗ってとめどなく出て来た。
お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。
「ずいぶんのべつね、叔父さんも」「口じゃとても敵いっこないからお止しよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」「ええ、わざわざ陰陽不和を醸すように仕向けるのね」 お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切れるのを待って、徐ろに宣告を下した。
「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したで宜しい。敗けたものを追窮はしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものを憐れむという美点があるんだからな、こう見えても」 彼はさも勝利者らしい顔を粧って立ち上がった。
障子を開けて室の外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。
しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。
「おいお延好いものを持って来た。お前明日にでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」「何よ」 お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。
英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。
彼女は拾い読にぽつぽつ読み下した。
ブック・オフ・ジョークス。
イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。
……「へええ」「みんな滑稽なもんだ。洒落だとか、謎だとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩が凝らなくってね」「なるほど叔父さん向のものね」「叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支えあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」「怒るなんて、……」「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」 お延が礼を云って書物を膝の上に置くと、叔父はまた片々の手に持った小さい紙片を彼女の前に出した。
「これは先刻お前を泣かした賠償金だ。約束だからついでに持っておいで」 お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。
叔父はことさらにそれをふり廻した。
「お延、これは陰陽不和になった時、一番よく利く薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒する妙薬だ」 お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。
「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして身体はいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」 叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱい溜った。
七十七
お延は叔父の送らせるという俥を断った。
しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。
二人はついに連れ立って長い坂を河縁の方へ下りて行った。
「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」 肥っていて呼息が短いので、坂を上るときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。
二人は途々夜の更けた昨夕の話をした。
仮寝をして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。
もと叔父の家にいたという縁故で、新夫婦二人ぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。
「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。留守なんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。だが独りで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだ年歯が年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」 いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこの想いやりをただ笑いながら聴いていた。
彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日の結果を、今度は繰り返させたくないという主意からであった。
彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。
そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。
叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。
二人が辛うじて別れの挨拶を交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。
車内のお延は別に纏まった事を考えなかった。
入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日からの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。
しかし彼女はそうして目眩しい影像を一貫している或物を心のうちに認めた。
もしくはその或物が根調で、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。
彼女はその或物を拈定しなければならなかった。
しかし彼女の努力は容易に成効をもって酬いられなかった。
団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いている串を見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。
玄関の格子を開ける音と共に、台所の方から駈け出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、鄭寧な頭を畳の上に押し付けた。
お延は昨日に違った下女の判切した態度を、さも自分の手柄ででもあるように感じた。
「今日は早かったでしょう」 下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。
得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。
「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」 自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女に訊いた。
「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」 お時は「いいえ」と答えた。
お延は念のためもう一遍問を改めた。
「誰も来やしなかったろうね」 するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高な返事をした。
「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」 夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。
彼女には二三度その人と口を利いた記憶があった。
しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。
彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。
「何しに来たんだろう」 こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」「ええあの外套を取りにいらっしゃいました」 夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」 周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。
けれどもそれは全くの徒労であった。
お延が訊けば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。
しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。
津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生えった。
「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。
発作のように込み上げてくる滑稽感に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中から持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。
七十八
お延はその晩京都にいる自分の両親へ宛てて手紙を書いた。
一昨日も昨日も書きかけて止めにしたその音信を、今日は是非とも片づけてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、けっして両親の事ばかり働いているのではなかった。
彼女は落ちつけなかった。
不安から逃れようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。
先刻からの疑問を解決したいという切な希望もあった。
要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持を纏めて見る事ができそうに思えたのである。
筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶から始めて、無沙汰の申し訳までを器械的に書き了った後で、しばらく考えた。
京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息を的におかなければならなかった。
それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。
どの娘もまた生家の父母に知らせなくってはすまない事項であった。
それを差し措いて里へ手紙をやる必要はほとんどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田との間柄は、はたしてどんなところにどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。
彼女はありのままその物を父母に報知する必要に逼られてはいなかった。
けれどもある男に嫁いだ一個の妻として、それを見極めておく要求を痛切に感じた。
彼女はじっと考え込んだ。
筆はそこでとまったぎり動かなくなった。
その動かなくなった筆の事さえ忘れて、彼女は考えなければならなかった。
しかも知ろうとすればするほど、確としたところは手に掴めなかった。
手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。
手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。
そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。
先刻電車の中で、ちらちら眼先につき出したいろいろの影像は、みんなこの一点に向って集注するのだという事を、前後両様の比較から発見した彼女は、やっと自分を苦しめる不安の大根に辿りついた。
けれどもその大根の正体はどうしても分らなかった。
勢い彼女は問題を未来に繰り越さなければならなかった。
「今日解決ができなければ、明日解決するよりほかに仕方がない。明日解決ができなければ明後日解決するよりほかに仕方がない。明後日解決ができなければ……」 これが彼女の論法であった。
また希望であった。
最後の決心であった。
そうしてその決心を彼女はすでに継子の前で公言していたのである。
「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人を飽くまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければやまない」 彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。
ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。
彼女の気分は少し軽くなった。
彼女は再び筆を動かした。
なるべく父母の喜こびそうな津田と自分の現況を憚りなく書き連ねた。
幸福そうに暮している二人の趣が、それからそれへと描出された。
感激に充ちた筆の穂先がさらさらと心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かった。
長い手紙がただ一息に出来上った。