明暗

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その三人のうちで一番先に択ばれたものは、やはり津田であった。しかし自分で電話口へ立つ事のできない横臥状態にある彼の消息は、間接に取次の口から聞くよりほかに仕方がなかった。ただ別に異状のあるはずはないと思っていた彼女の予期は外れなかった。彼女は「順当でございます、お変りはございません」という保証の言葉を、看護婦らしい人の声から聞いた後で、どのくらい津田が自分を待ち受けているかを知るために、今日は見舞に行かなくってもいいかと尋ねて貰った。すると津田がなぜかと云って看護婦に訊き返させた。夫の声も顔も分らないお延は、判断に苦しんで電話口で首を傾けた。こんな場合に、彼は是非来てくれと頼むような男ではなかった。しかし行かないと、機嫌を悪くする男であった。それでは行けば喜こぶかというとそうでもなかった。彼はお延に親切の仕損をさせておいて、それが女の義務じゃないかといった風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかった。ふとこんな事を考えた彼女は、昨夕吉川夫人から受け取ったらしく自分では思っている、夫に対する一種の感情を、つい電話口で洩らしてしまった。

第 4 章
「今日きょうは岡本おかもとへ行かいかなければならないから、そちらへは参りまいりませんって云っいって下さいください」 それで病院びょういんの方ほうを切っきった彼女かのじょは、すぐ岡本おかもとへかけ易えかえて、今いまに行っいってもいいかと聞き合せききあわせた。
そうして最後さいごに呼び出しよびだした津田つだの妹いもうとへは、彼かれの現状げんじょうを一口ひとくち報告ほうこく的まとに通じつうじただけで、また宅たくへ帰っかえった。
五十九ごじゅうきゅう
お時じの御ご給仕きゅうじで朝食ちょうしょく兼帯けんたいの午うまの膳ぜんに着くつくのも、お延のべにとっては、結婚けっこん以来いらい始めはじめての経験けいけんであった。
津田つだの不在ふざいから起るおこるこの変化へんかが、女王じょおうらしい気持きもちを新らしくあたらしく彼女かのじょに与えるあたえると共ともに、毎日まいにちの習慣しゅうかんに反しはんして貪どんぼり得とくたこの自由じゆうが、いつもよりはかえって彼女かのじょを囚えとらえた。
身体しんたいのゆっくりした割合わりあいに、心こころの落ちつけおちつけなかった彼女かのじょは、お時じに向っむかって云っいった。
「旦那だんな様ようがいらっしゃらないと何なんだか変へんね」「へえ、御ご淋しゅうさびしゅうございます」 お延のべはまだ云いいい足りたりなかった。
「こんな寝坊ねぼうをしたのは始めはじめてね」「ええ、その代りかわりいつでもお早いはやいんだから、たまには朝あさとお午うまといっしょでも、宜しゅうよろしゅうございましょう」「旦那だんな様ようがいらっしゃらないと、すぐあの通りとおりだなんて、思おもうやしなくって」「誰だれがでございます」「お前おまえがさ」「飛んとんでもない」 お時じのわざとらしい大きなおおきな声こえは、下手へたな話しはなし相手あいてよりもひどくお延のべの趣味しゅみに応えこたえた。
彼女かのじょはすぐ黙っだまってしまった。
三十さんじゅう分ぶんほど経っきょうって、お時じの沓脱くつぬぎに揃えそろえたよそゆきの下駄げたを穿いはいてまた表ひょうへ出るでる時じ、お延のべは玄関げんかんまで送っおくって来きた彼女かのじょを顧みかえりみた。
「よく気きをつけておくれよ。昨夕さくゆう見みたいに寝ねてしまうと、不用心ふようじんだからね」「今夜こんやも遅くおそく御ご帰りかえりになるんでございますか」 お延のべはいつ帰るかえるかまるで考えかんがえていなかった。
「あんなに遅くおそくはならないつもりだがね」 たまさかの夫おっとの留守るすに、ゆっくり岡本おかもとで遊んあそんで来きたいような気きが、お延のべの胸むねのどこかでした。
「なるたけ早くはやく帰っかえって来きて上げるあげるよ」 こう云い捨ていいすてて通りとおりへ出でた彼女かのじょの足あしは、すぐ約束やくそくの方角ほうがくへ向っむかった。
岡本おかもとの住居じゅうきょは藤井ふじいの家いえとほぼ同じおなじ見当けんとうにあるので、途中とちゅうまでは例れいの川沿かわそいの電車でんしゃを利用りようする事ことができた。
終点しゅうてんから一いちつか二につ手前てまえの停留所ていりゅうしょで下りくだりたお延のべは、そこに掛け渡しかけわたした小さいちいさい木きの橋はしを横切っよこぎって、向う側むこうがわの通りとおりを少しすこし歩いあるいた。
その通りとおりは二三にさん日ひ前まえの晩ばん、酒場さかばを出でた津田つだと小林こばやしとが、二人ふたりの境遇きょうぐうや性格せいかくの差違さいから来るくる縺れ合っもつれあった感情かんじょうを互たがいに抱きいだきながら、朝鮮ちょうせん行きいきだの、お金おかねさんだのを問題もんだいにして歩いあるいた往来おうらいであった。
それを津田つだの口くちから聞かさきかされていなかった彼女かのじょは、二人ふたりの様子ようすを想像そうぞうするまでもなく、彼かれらとは反対はんたいの方角ほうがくに無心むしんで足あしを運ばはこばせた後あとで、叔父おじの宅たくへ行くいくには是非ぜひ共とも上らのぼらなければならない細長いほそながい坂さかへかかった。
すると偶然ぐうぜん向うむこうから来きた継子けいしに言葉ことばをかけられた。
「昨日きのうは」「どこへ行くいくの」「お稽古けいこ」 去年きょねん女学校じょがっこうを卒業そつぎょうしたこの従妹じゅうまいは、余暇よかに任せまかせていろいろなものを習っならっていた。
ピアノぴあのだの、茶ちゃだの、花はなだの、水彩画すいさいがだの、料理りょうりだの、何なんへでも手てを出しだしたがるその人ひとの癖くせを知っしっているので、お稽古けいこという言葉ことばを聞いきいた時じ、お延のべは、つい笑いわらいたくなった。
「何なんのお稽古けいこ? トーダンスとーだんす?」 彼かれらはこんな楽屋がくや落おちの笑談しょうだんをいうほど親しいしたしい間柄あいだがらであった。
しかしお延のべから見れみれば、自分じぶんより余裕よゆうのある相手あいての境遇きょうぐうに対したいして、多少たしょうの皮肉ひにくを意味いみしないとも限らかぎらないこの笑談しょうだんが、肝心かんじんの当人とうにんには、いっこう諷刺ふうしとしての音響おんきょうを伝えつたえずにすむらしかった。
「まさか」 彼女かのじょはただこう云っいって機嫌きげんよく笑っわらった。
そうして彼女かのじょの笑わらいは、いかに鋭敏えいびんなお延のべでも、無邪気むじゃきその物ものだと許さゆるさない訳わけに行かいかなかった。
けれども彼女かのじょはついにどこへ何なんの稽古けいこに行くいくかをお延のべに告げつげなかった。
「冷かすひやかすから厭いやよ」「また何なんか始めはじめたの」「どうせ慾よく張ちょうだから何なんを始めるはじめるか分らわからないわ」 稽古事けいこじの上うえで、継子けいしが慾よく張ちょうという異名いみょうを取っとっている事ことも、彼女かのじょの宅たくでは隠れかくれない事実じじつであった。
最初さいしょ妹いもうとからつけられて、たちまち家族かぞくのうちに伝播でんぱしたこの悪口わるぐちは、近頃ちかごろ彼女かのじょ自身じしんによって平気へいきに使用しようされていた。
「待っまっていらっしゃい。じき帰っかえって来るくるから」 軽いかるい足あしでさっさと坂さかを下りくだりて行くいく継子けいしの後姿うしろすがたを一度いちどふり返っふりかえって見みたお延のべの胸むねに、また尊敬そんけいと軽侮けいぶとを搗きつき交ぜまぜたその人ひとに対するたいするいつもの感じかんじが起っおこった。
六十ろくじゅう
岡本おかもとの邸宅ていたくへ着いついた時じ、お延のべはまた偶然ぐうぜん叔父おじの姿すがたを玄関げんかん前まえに見出しみだした。
羽織はおりも着きずに、兵児帯へこおびをだらりと下げさげて、その結び目むすびめの所ところに、後あとへ廻しまわした両手りょうてを重ねかさねた彼かれは、傍そばで鍬くわを動かしうごかしている植木屋うえきやとしきりに何なんか話はなしをしていたが、お延のべを見るみるや否いなや、すぐ向うむこうから声こえを掛けかけた。
「来きたね。今いま庭いじりにわいじりをやってるところだ」 植木屋うえきやの横よこには、大きなおおきな通草あけびの蔓つるが巻いまいたまま、地面じめんの上うえに投げ出さなげだされてあった。
「そいつを今いまその庭にわの入口いりぐちの門もんの上うえへ這わはわせようというんだ。ちょっと好いよいだろう」 お延のべは網代あじろ組くみの竹垣たけがきの中程なかほどにあるその茅門かやもんを支えささえている釿なぐりの柱はしらと丸太まるたの桁けたを見較べみくらべた。
「へえ。あの袖垣そでがきの所ところにあったのを抜いぬいて来きたの」「うんその代りかわりあすこへは玉縁たまぶちをつけた目関めぜき垣かきを拵えこしらえたよ」 近頃ちかごろ身体しんたいに暇ひまができて、自分じぶんの意匠いしょう通りとおり住居じゅうきょを新築しんちくしたこの叔父おじの建築けんちくに関するかんする単語たんごは、いつの間まにか急きゅうに殖えふえていた。
言葉ことばを聴いきいただけではとても解らわからないその目関めぜき垣かきというものを、お延のべはただ「へえ」と云っいって応答おうとうっているよりほかに仕方しかたがなかった。
「食後しょくごの運動うんどうには好いよいわね。お腹おなかが空いむなしいて」「笑談しょうだんじゃない、叔父おじさんはまだ午飯ごはん前まえなんだ」 お延のべを引張っひっぱって、わざわざ庭先にわさきから座敷ざしきへ上っのぼった叔父おじは「住じゅう、住じゅう」と大きなおおきな声こえで叔母おばを呼んよんだ。
「腹はらが減っへって仕方しかたがない、早くはやく飯めしにしてくれ」「だから先刻せんこくみんなといっしょに召上がれめしあがれば好いよいのに」「ところが、そう勝手かって元もとの御都合ごつごうのいいようにばかりは参らまいらんです、世の中よのなかというものはね。第一だいいち物ものに区切くぎりのあるという事ことをあなたは御承知ごしょうちですか」 自業自得じごうじとくな夫おっとに対するたいする叔母おばの態度たいどが澄ましすましたものであると共ともに、叔父おじの挨拶あいさつも相そう変らかわらずであった。
久しぶりひさしぶりで故郷こきょうの空気くうきを吸っすったような感じかんじのしたお延のべは、心こころのうちで自分じぶんの目めの前まえにいるこの一いち対たいの老夫婦ろうふうふと、結婚けっこんしてからまだ一いち年ねんと経たへたない、云わいわば新生活しんせいかつの門出かどでにある彼かれら二人ふたりとを比較ひかくして見みなければならなかった。
自分じぶん達とおるも長ながの月日つきひさえ踏んふんで行けいけば、こうなるのが順当じゅんとうなのだろうか、またはいくら永くながくいっしょに暮らしくらしたところで、性格せいかくが違えちがえば、互いたがいの立場たちばも末すえ始終しじゅうまで変っかわって行かいかなければならないのか、年ねんの若いわかいお延のべには、それが智恵ちえと想像そうぞうで解けとけない一種いっしゅの疑問ぎもんであった。
お延のべは今いまの津田つだに満足まんぞくしてはいなかった。
しかし未来みらいの自分じぶんも、この叔母おばのように膏あぶら気きが抜けぬけて行くいくだろうとは考えかんがえられなかった。
もしそれが自分じぶんの未来みらいに横わるよこたわる必然ひつぜんの運命うんめいだとすれば、いつまでも現在げんざいの光沢こうたくを持ちもち続けつづけて行こういこうとする彼女かのじょは、いつか一度いちど悲しいかなしいこの打撃だげきを受けうけなければならなかった。
女おんならしいところがなくなってしまったのに、まだ女おんなとしてこの世の中よのなかに生存せいぞんするのは、真しんに恐ろしいおそろしい生存せいぞんであるとしか若いわかい彼女かのじょには見えみえなかった。
そんな距離きょりの遠いとおい感想かんそうが、この若いわかい細君さいくんの胸むねに湧いわいているとは夢ゆめにも気きのつきようはずのない叔父おじは、自分じぶんの前まえに据えすえられた膳ぜんに向っむかって胡坐こざを掻きかきながら、彼女かのじょを見みた。
「おい何なんをぼんやりしているんだ。しきりに考え込んかんがえこんでいるじゃないか」 お延のべはすぐ答えこたえた。
「久しぶりひさしぶりにお給仕きゅうじでもしましょう」 飯櫃いいびつがあいにくそこにないので、彼女かのじょが座ざを立ちたちかけると叔母おばが呼びとめよびとめた。
「御ご給仕きゅうじをしたくったって、麺めん麭だからできないよ」 下女げじょが皿さらの上うえに狐色きつねいろに焦げこげたトーストとーすとを持っもって来きた。
「お延のべ、叔父おじさんは情けないなさけない事ことになっちまったよ。日本にっぽんに生れうまれて米べいの飯めしが食えくえないんだから可哀想かわいそうだろう」 糖尿病とうにょうびょうの叔父おじは既定きていの分量ぶんりょう以外いがいに澱粉でんぷん質しつを摂取せっしゅする事ことを主治医しゅじいから厳禁げんきんされてしまったのである。
「こうして豆腐とうふばかり食っしょくってるんだがね」 叔父おじの膳ぜんにはとても一人ひとりでは平らげたいらげ切れきれないほどの白いしろい豆腐とうふが生なまのままで供えそなえられた。
むくむくと肥え太っこえふとった叔父おじの、わざとする情なじょうなさそうな顔かおを見みたお延のべは、大してたいして気の毒きのどくにならないばかりか、かえって笑いわらいたくなった。
「少すくなしゃ断しゃだん食しょくでもした方ほうがいいんでしょう。叔父おじさんみたいに肥っふとって生きいきてるのは、誰だれだって苦痛くつうに違いないから」 叔父おじは叔母おばを顧みかえりみた。
「お延のべは元もとから悪口わるぐちやだったが、嫁よめに行っいってから一層いっそう達者たっしゃになったようだね」
六十一ろくじゅういち
小さいちいさいうちから彼かれの世話せわになって成長せいちょうしたお延のべは、いろいろの角度かくどで出没しゅつぼつするこの叔父おじの特色とくしょくを他人たにんよりよく承知しょうちしていた。
肥っふとった身体しんたいに釣り合わつりあわない神経質しんけいしつの彼かれには、時々ときどき自分じぶんの室むろに入っはいったぎり、半日はんじつぐらい黙っだまって口くちを利かりかずにいる癖くせがある代りかわりに、他ほかの顔かおさえ見るみると、また何なんかしらしゃべらないでは片時かたときもいられないといった気き作さくな風かぜがあった。
それが元気げんきのやり場やりば所ところに困るこまるからというよりも、なるべく相手あいてを不愉快ふゆかいにしたくないという対人たいじん的まとな想いおもいやりや、または客きゃくを前まえに置いおいて、ただのつそつとしている自分じぶんの手持無沙汰てもちむさたを避けるさけるためから起るおこる場合ばあいが多いおおいので、用件ようけん以外いがいの彼かれの談話だんわには、彼かれの平生へいぜいの心がけこころがけから来るくる一種いっしゅの興味きょうみ的まと中心ちゅうしんがあった。
彼かれの成せい効かいに少なからすくなからぬ貢献こうけんをもたらしたらしく思わおもわれる、社交しゃこう上うえ極めてきわめて有利ゆうりな彼かれのこの話術わじゅつは、その所有者しょゆうしゃの天てんから稟けた諧謔かいぎゃく趣味しゅみのために、一層いっそう派出はしゅつな光彩こうさいを放つはなつ事ことがしばしばあった。
そうしてそれが子供こどもの時分じぶんから彼かれの傍そばにいたお延のべの口くちに、いつの間まにか乗り移っのりうつってしまった。
機嫌きげんのいい時じに、彼かれを向うむこうへ廻しまわして軽口かるくちの吐きはき競せりをやるくらいは、今いまの彼女かのじょにとって何なんの努力どりょくも要らいらない第だい二にの天性てんせいのようなものであった。
しかし津田つだに嫁いよめいでからの彼女かのじょは、嫁ぐとつぐとすぐにこの態度たいどを改めあらためた。
ところが最初さいしょ慎みつつしみのために控えひかえた悪口わるぐちは、二にカ月かげつ経っきょうっても、三さんカ月かげつ経っきょうってもなかなか出でて来きなかった。
彼女かのじょはついにこの点てんにおいて、岡本おかもとにいた時じの自分じぶんとは別個べっこの人間にんげんになって、彼女かのじょの夫おっとに対したいしなければならなくなった。
彼女かのじょは物もの足らあしらなかった。
同時どうじに夫おっとを欺ぎむいているような気きがしてならなかった。
たまに来きて、もとに変らかわらない叔父おじの様子ようすを見るみると、そこに昔むかししの自由じゆうを憶い出さおもいださせる或ある物ものがあった。
彼女かのじょは生なま豆腐とうふを前まえに、胡坐こざを掻いかいている剽軽ひょうきんな彼かれの顔かおを、過去かこの記念きねんのように懐かしなつかし気きに眺めながめた。
「だってあたしの悪口わるぐちは叔父おじさんのお仕込しこみじゃないの。津田つだに教わっおそわった覚さとしなんか、ありゃしないわ」「ふん、そうでもあるめえめー」 わざと江戸っ子えどっこを使っつかった叔父おじは、そういう種類しゅるいの言葉ことばを、いっさい家庭かていに入れいれてはならないもののごとくに忌み嫌ういみきらう叔母おばの方ほうを見みた。
傍そばから注意ちゅういするとなお面白おもしろがって使いつかいたがる癖くせをよく知っしっているので、叔母おばは素知らぬそしらぬ顔かおをして取り合わとりあわなかった。
すると目標もくひょうが外れはずれた人ひとのように叔父おじはまたお延のべに向っむかった。
「いったい由雄よしおさんはそんなに厳格げんかくな人ひとかね」 お延のべは返事へんじをしずに、ただにやにやしていた。
「ははあ、笑っわらってるところを見るみると、やっぱり嬉しいうれしいんだな」「何なんがよ」「何なんがよって、そんなに白しろばっくれなくっても、分っわかっていらあな。――だが本当ほんとうに由雄よしおさんはそんなに厳格げんかくな人ひとかい」「どうだかあたしよく解らわからないわ。なぜまたそんな事ことを真面目くさっまじめくさってお訊きききになるの」「少しすこしこっちにも料簡りょうけんがあるんだ、返答へんとう次第しだいでは」「おお怖いこわい事こと。じゃ云っいっちまうわ。由雄よしおは御ご察しさっしの通りとおり厳格げんかくな人ひとよ。それがどうしたの」「本当ほんとうにかい」「ええ。ずいぶん叔父おじさんも苦く呶いのね」「じゃこっちでも簡潔かんけつに結論けつろんを云っいっちまう。はたして由雄よしおさんが、お前おまえのいう通りとおり厳格げんかくな人ひとならばだ。とうてい悪口わるぐちの達者たっしゃなお前おまえには向かむかないね」 こう云いいいながら叔父おじは、そこに黙っだまって坐っすわっている叔母おばの方ほうを、頷でしゃくって見せみせた。
「この叔母おばさんなら、ちょうどお誂あつらえらえ向むかいかも知れしれないがね」 淋しいさびしい心持こころもちが遠くとおくから来きた風かぜのように、不意ふいにお延のべの胸むねを撫でなでた。
彼女かのじょは急きゅうに悲しいかなしい気分きぶんに囚えとらえられた自分じぶんを見みて驚ろいおどろいた。
「叔父おじさんはいつでも気楽きらくそうで結構けっこうね」 津田つだと自分じぶんとを、好よしみ過ぎるすぎるほど仲なかの好いよい夫婦ふうふと仮定かていしてかかった、調ちょう戯たわむれ半分はんぶんの叔父おじの笑談しょうだんを、ただ座興ざきょうから来きた出鱈目でたらめとして笑っわらってしまうには、お延のべの心こころにあまり隙すきがあり過ぎすぎた。
と云っいって、その隙すきを飽くまであくまで取りとり繕つくろいろって、他人たにんの前まえに、何なん一いちつ不足ふそくのない夫おっとを持っもった妻つまとしての自分じぶんを示さしめさなければならないとのみ考えかんがえている彼女かのじょは、心こころに感じかんじた通りとおりの何物なにものをも叔父おじの前まえに露出ろしゅつする自由じゆうをもっていなかった。
もう少しすこしで涙なみだが眼めの中なかに溜まろうたまろうとしたところを、彼女かのじょは瞬きまばたきでごまかした。
「いくらお誂あつらえらえ向むかいでも、こう年ねんを取っとっちゃ仕方しかたがない。ねえお延のべ」 年ねんの割わりにどこへ行っいっても若くわかく見みられる叔母おばが、こう云っいって水々しみずみずした光沢こうたくのある眼めをお延のべの方ほうに向けむけた時じ、お延のべは何になんにも云わいわなかった。
けれども自分じぶんの感情かんじょうを隠すかくすために、第だい一いちの機会きかいを利用りようする事ことは忘れわすれなかった。
彼女かのじょはただ面白おもしろそうに声こえを出しだして笑っわらった。
六十二ろくじゅうに
親身しんみの叔母おばよりもかえって義理ぎりの叔父おじの方ほうを、心こころの中なかで好いよいていたお延のべは、その報酬ほうしゅうとして、自分じぶんもこの叔父おじから特別とくべつに可愛かわいがられているという信念しんねんを常つねにもっていた。
洒落しゃれでありながら神経質しんけいしつに生れうまれついた彼かれの気合きあいをよく呑み込んのみこんで、その両面りょうめんに行きいき渡っわたった自分じぶんの行動こうどうを、寸分すんぶん違わちがわず叔父おじの思いおもい通りとおりに楽々らくらくと運んはこんで行くいく彼女かのじょには、いつでも年齢ねんれいの若わかさから来るくる柔軟性じゅうなんせいが伴っともなっていたので、ほとんど苦痛くつうというものなしに、叔父おじを喜こばよろこばし、また自分じぶんに満足まんぞくを与えるあたえる事ことができた。
叔父おじが鑑賞かんしょうの眼めを向けむけて、常つねに彼女かのじょの所作しょさを眺めながめていてくれるように考えかんがえた彼女かのじょは、時じとすると、変化へんかに乏しいとぼしい叔母おばの骨ほねはどうしてあんなに堅いかたいのだろうと怪しむあやしむ事ことさえあった。
いかにして異性いせいを取り扱うとりあつかうべきかの修養しゅうようを、こうして叔父おじからばかり学んまなんだ彼女かのじょは、どこへ嫁よめに行っいっても、それをそのまま夫おっとに応用おうようすれば成せい効するこうするに違いないと信じしんじていた。
津田つだといっしょになった時じ、始めはじめて少しすこし勝手かっての違うちがうような感じかんじのした彼女かのじょは、この生れうまれて始めてはじめての経験けいけんを、なるほどという眼つきめつきで眺めながめた。
彼女かのじょの努力どりょくは、新らしいあたらしい夫おっとを叔父おじのような人間にんげんに熟しじゅくしつけるか、またはすでに出来上っできあがった自分じぶんの方ほうを、新らしいあたらしい夫おっとに合うあうように改造かいぞうするか、どっちかにしなければならない場合ばあいによく出合っであった。
彼女かのじょの愛あいは津田つだの上うえにあった。
しかし彼女かのじょの同情どうじょうはむしろ叔父おじ型かたの人間にんげんに注がちゅうがれた。
こんな時じに、叔父おじなら嬉しうれしがってくれるものをと思うおもう事ことがしばしば出でて来きた。
すると自然しぜんの勢いいきおいが彼女かのじょにそれを逐一ちくいち叔父おじに話しはなしてしまえと命令めいれいした。
その命令めいれいに背くそむくほど意地いじの強いつよい彼女かのじょは、今までいままでどうかこうか我慢がまんして通しとおして来きたものを、今更いまさら告白こくはくする気きにはとてもなれなかった。
こうして叔父おじ夫婦ふうふを欺ぎむいてきたお延のべには、叔父おじ夫婦ふうふがまた何なんの掛かかり念ねんもなく彼女かのじょのために騙さだまされているという自信じしんがあった。
同時どうじに敏感びんかんな彼女かのじょは、叔父おじの方ほうでもまた彼女かのじょに打ち明けうちあけたくって、しかも打ち明けうちあけられない、津田つだに対するたいする、自分じぶんのと同どう程度ていどぐらいなある秘密ひみつをもっているという事ことをよく承知しょうちしていた。
有体ありていに見透しみとおした叔父おじの腹はらの中なかを、お延のべに云わいわせると、彼かれはけっして彼女かのじょに大切たいせつな夫おっととしての津田つだを好いよいていなかったのである。
それが二人ふたりの間まに横わるよこたわる気質きしつの相違そういから来るくる事ことは、たとい二人ふたりを比較ひかくして見みた上うえでなくても、あまり想像そうぞうに困難こんなんのかからない仮定かていであった。
少くすくなくとも結婚後けっこんごのお延のべはじきそこに気きがついた。
しかし彼女かのじょはまだその上うえに材料ざいりょうをもっていた。
粗放そほうのようで一面いちめんに緻密ちみつな、無頓着むとんちゃくのようで同時どうじに鋭敏えいびんな、口先くちさきは冷淡れいたんでも腹はらの中なかには親切気しんせつきのあるこの叔父おじは、最初さいしょ会見かいけんの当時とうじから、すでに直観的ちょっかんてきに津田つだを嫌っいやっていたらしかった。
「お前おまえはああいう人ひとが好きすきなのかね」と訊かきかれた裏側うらがわに、「じゃおれのようなものは嫌いやだったんだね」という言葉ことばが、ともに響いひびいたらしく感じかんじた時じ、お延のべは思わおもわずはっとした。
しかし「叔父おじさんの御ご意見いけんは」とこっちから問い返しといかえした時じの彼かれは、もうその気き下した味いあじわい関せきを通り越しとおりこしていた。
「おいでよ、お前おまえさえ行くいく気きなら、誰だれにも遠慮えんりょは要らいらないから」と親切しんせつに云っいってくれた。
お延のべの材料ざいりょうはまだ一いちつ残っのこっていた。
自分じぶんに対したいして何になんにも云わいわなかった叔父おじの、津田つだに関するかんするもっと露骨ろこつな批評ひひょうを、彼女かのじょは叔母おばの口くちを通しとおして聞くきく事ことができたのである。
「あの男おとこは日本にっぽん中なかの女おんながみんな自分じぶんに惚れほれなくっちゃならないような顔つきかおつきをしているじゃないか」 不思議ふしぎにもこの言葉ことばはお延のべにとって意外いがいでも何なんでもなかった。
彼女かのじょには自分じぶんが津田つだを精せい一いち杯さかずき愛しあいし得るうるという信念しんねんがあった。
同時どうじに、津田つだから精一杯せいいっぱい愛さあいされ得るうるという期待きたいも安心あんしんもあった。
また叔父おじの例れいの悪口わるぐちが始まっはじまったという気きが何なんより先さきに起っおこったので、彼女かのじょは声こえを出しだして笑っわらった。
そうして、この悪口わるぐちはつまり嫉妬しっとから来きたのだと一人ひとり腹はらの中なかで解釈かいしゃくして得意とくいになった。
叔母おばも「自分じぶんの若いわかい時じの己おのれ惚ぼけは、もう忘れわすれているんだからね」と云っいって、彼女かのじょに相槌あいづちを打っうってくれた。
…… 叔父おじの前まえに坐っすわったお延のべは自分じぶんの後あとにあるこんな過去かこを憶い出さおもいださない訳わけに行かいかなかった。
すると「厳格げんかく」な津田つだの妻つまとして、自分じぶんが向くむくとか向かむかないとかいう下らしたらない彼かれの笑談しょうだんのうちに、何なんか真面目まじめな意味いみがあるのではなかろうかという気きさえ起っおこった。
「おれの云っいった通りとおりじゃないかね。なければ仕合せしあわせだ。しかし万一まんいち何なんかあるなら、また今いまないにしたところで、これから先さきひょっと出でて来きたなら遠慮えんりょなく打ち明けうちあけなけりゃいけないよ」 お延のべは叔父おじの眼めの中なかに、こうした慈愛じあいの言葉ことばさえ読んよんだ。
六十三ろくじゅうさん
感傷的かんしょうてきの気分きぶんを笑わらいに紛らしまぎらした彼女かのじょは、その苦痛くつうから逃れるのがれるために、すぐ自分じぶんの持っもって来きた話題わだいを叔父叔母おじおばの前まえに切り出しきりだした。
「昨日きのうの事ことは全体ぜんたいどういう意味いみなの」 彼女かのじょは約束やくそく通りとおり叔父おじに説明せつめいを求めもとめなければならなかった。
すると返答へんとうを与えるあたえるはずの叔父おじがかえって彼女かのじょに反問はんもんした。
「お前おまえはどう思うおもう」 特にとくに「お前おまえ」という言葉ことばに力ちからを入れいれた叔父おじは、お延のべの腹はらでも読むよむような眼め遣いつかいをして彼女かのじょをじっと見みた。
「解らわからないわ。藪やぶから棒ぼうにそんな事こと訊いきいたって。ねえ叔母おばさん」 叔母おばはにやりと笑っわらった。
「叔父おじさんはね、あたしのようなうっかりものには解らわからないが、お延のべにならきっと解るわかる。あいつは貴様きさまより気きが利いきいてるからっておっしゃるんだよ」 お延のべは苦笑くしょうするよりほかに仕方なかっしかたなかった。
彼女かのじょの頭あたまには無論むろん朧気おぼろきながらある臆測おくそくがあった。
けれども強いつよいられないのに、悧巧りこうぶってそれを口外こうがいするほど、彼女かのじょの教育きょういくは蓮葉はすはでなかった。
「あたしにだって解りわかりっこないわ」「まああてて御覧ごらん。たいてい見当けんとうはつくだろう」 どうしてもお延のべの方ほうから先さきに何なんか云わいわせようとする叔父おじの気色けしきを見みて取っとった彼女かのじょは、二三にさん度ど押問答おしもんどうの末すえ、とうとう推察すいさつの通りとおりを云っいった。
「見合みあいじゃなくって」「どうして。――お前おまえにはそう見えるみえるかね」 お延のべの推測すいそくを首肯しゅこうう前まえに、彼女かのじょの叔父おじから受けうけた反問はんもんがそれからそれへと続いつづいた。
しまいに彼かれは大きなおおきな声こえを出しだして笑っわらった。
「あたった、あたった。やっぱりお前おまえの方ほうが住じゅうより悧巧りこうだね」 こんな事ことで、二人ふたりの間まに優劣ゆうれつをつける気楽きらくな叔父おじを、お住じゅうとお延のべが馬鹿ばかにして冷評れいひょうした。
「ねえ、叔母おばさんだってそのくらいの事ことならたいてい見当けんとうがつくわね」「お前おまえも御ご賞しょうにあずかったって、あんまり嬉しくうれしくないだろう」「ええちっともありがたかないわ」 お延のべの頭あたまに、一座いちざを切りきり舞わしまわした吉川よしかわ夫人ふじんの斡旋あっせんぶりがまた描き出さえがきだされた。
「どうもあたしそうだろうと思っおもったの。あの奥さんおくさんが始終しじゅう継子けいしさんと、それからあの三好みよしさんて方ほうを、引き立てようひきたてよう、引き立てようひきたてようとして、骨ほねを折っおっていらっしゃるんですもの」「ところがあのお継つぎと来きたら、また引き立たひきたたない事こと夥しいおびただしいんだからな。引き立てようひきたてようとすれば、かえって引き下がるひきさがるだけで、まるで紙袋かみぶくろを被っかぶった猫ねこ見みたいだね。そこへ行くいくと、お延のべのようなのはどうしても得とくだよ。少くすくなくとも当世とうせい向むかいだ」「厭いやにしゃあしゃあしているからでしょう。何なんだか賞めほめられてるんだか、悪くわるく云わいわれてるんだか分らわからないわね。あたし継子けいしさんのようなおとなしい人ひとを見るみると、どうかしてあんなになりたいと思うおもうわ」 こう答えこたえたお延のべは、叔父おじのいわゆる当世とうせい向むかいを発揮はっきする余地よちの自分じぶんに与えあたえられなかった、したがって自分じぶんから見れみればむしろ不成ふなり効かいに終っおわった、昨夕さくゆうの会合かいごうを、不愉快ふゆかいと不満足ふまんぞくの眼めで眺めながめた。
「何なんでまたあたしがあの席せきに必要ひつようだったの」「お前おまえは継子けいしの従姉じゅうしじゃないか」 ただ親類しんるいだからというのが唯一ゆいいつの理由りゆうだとすれば、お延のべのほかにも出席しゅっせきしなければならない人ひとがまだたくさんあった。
その上うえ相手あいての方ほうでは当人とうにんがたった一人ひとり出でて来きただけで、紹介者しょうかいしゃの吉川よしかわ夫婦ふうふを除くのぞくと、向うむこうを代表だいひょうするものは誰だれもいなかった。
「何なんだか変へんじゃないの。そうするともし津田つだが病気びょうきでなかったら、やっぱり親類しんるいとして是非ぜひ出席しゅっせきしなければ悪いわるい訳わけになるのね」「それゃまた別口べつくちだ。ほかに意味いみがあるんだ」 叔父おじの目的もくてき中なかには、昨夕さくゆうの機会きかいを利用りようして、津田つだとお延のべを、一度いちどでも余計よけい吉川よしかわ夫婦ふうふに接近せっきんさせてやろうという好意こういが含まふくまれていたのである。
それを叔父おじの口くちから判はん切せつ聴かさきかされた時じ、お延のべは日頃ひごろ自分じぶんが考えかんがえている通りとおりの叔父おじの気性きしょうがそこに現われあらわれているように思っおもって、暗にあんに彼かれの親切しんせつを感謝かんしゃすると共ともに、そんならなぜあの吉川よしかわ夫人ふじんともっと親しくしたしくなれるように仕向けしむけてくれなかったのかと恨んうらんだ。
二人ふたりを近づけるちかづけるために同じおなじ食卓しょくたくに坐らすわらせたには坐らすわらせたが、結果けっかはかえって近づけちかづけない前まえより悪くわるくなるかも知れしれないという特殊とくしゅな心理しんりを、叔父おじはまるで承知しょうちしていないらしかった。
お延のべはいくら行き届いいきとどいても男おとこはやっぱり男おとこだと批評ひひょうしたくなった。
しかしその後そのあとから、吉川よしかわ夫人ふじんと自分じぶんとの間まに横わるよこたわる一種いっしゅ微妙びみょうな関係かんけいを知らしらない以上いじょうは、誰だれが出でて来きても畢竟ひっきょうどうする事こともできないのだから仕方しかたがないという、嘆息たんそくを交えまじえた寛恕かんじょの念ねんも起っおこって来きた。
六十四ろくじゅうよん
お延のべはその問題もんだいをそこへ放り出しほうりだしたまま、まだ自分じぶんの腑ふに落ちおちずに残っのこっている要点ようてんを片づけようかたづけようとした。
「なるほどそういう意味合いみごうだったの。あたし叔父おじさんに感謝かんしゃしなくっちゃならないわね。だけどまだほかに何なんかあるんでしょう」「あるかも知れしれないが、たといないにしたところで、単にたんにそれだけでも、ああしてお前おまえを呼ぶよぶ価値かちは充分じゅうぶんあるだろう」「ええ、有るあるには有るあるわ」 お延のべはこう答えこたえなければならなかった。
しかしそれにしては勧誘かんゆうの仕方しかたが少しすこし猛烈もうれつ過ぎるすぎると腹はらの中なかで思っおもった。
叔父おじは果してはたして最後さいごの一物いちぶつを胸むねに蔵いしまい込んこんでいた。
「実じつはお前おまえにお婿むこさんの眼め利りをして貰おうもらおうと思っおもったのさ。お前おまえはよく人ひとを見抜くみぬく力ちからをもってるから相談そうだんするんだが、どうだろうあの男おとこは。お継つぎの未来みらいの夫おっととしていいだろうか悪いわるいだろうか」 叔父おじの平生へいぜいから推しおして、お延のべはどこまでが真面目まじめな相談そうだんなのか、ちょっと判断はんだんに迷っまよった。
「まあ大変たいへんな御ご役目やくめを承わっうけたまわったのね。光栄こうえいの至りいたりだ事こと」 こう云いいいながら、笑っわらって自分じぶんの横よこにいる叔母おばを見みたが、叔母おばの様子ようすが案外あんがい沈着ちんちゃくなので、彼女かのじょはすぐ調子ちょうしを抑えおさえた。
「あたしのようなものが眼め利りをするなんて、少しすこし生意気なまいきよ。それにただ一いち時間じかんぐらいああしていっしょに坐っすわっていただけじゃ、誰だれだって解りわかりっこないわ。千里眼せんりがんででもなくっちゃ」「いやお前おまえにはちょっと千里眼せんりがんらしいところがあるよ。だから皆みななが訊きききたがるんだよ」「冷評れいひょうしちゃ厭いやよ」 お延のべはわざと叔父おじを相手あいてにしないふりをした。
しかし腹はらの中なかでは自分じぶんに媚びるこびる一種いっしゅの快感かいかんを味わっあじわった。
それは自分じぶんが実際じっさい他ほかにそう思わおもわれているらしいという把捉はそくから来るくる得意とくいにほかならなかった。
けれどもそれは同時どうじに彼女かのじょを失意しついにする覿面てきめんの事実じじつで破壊はかいされべき性質せいしつのものであった。
彼女かのじょは反対はんたいに近いちかい例証れいしょうとしてその裏面りめんにすぐ自分じぶんの夫おっとを思い浮べおもいうかべなければならなかった。
結婚けっこん前まえ千里眼せんりがん以上いじょうに彼かれの性質せいしつを見抜きみぬき得とくたとばかり考えかんがえていた彼女かのじょの自信じしんは、結婚後けっこんご今日きょうに至るいたるまでの間まに、明らかあきらかな太陽たいように黒いくろい斑点はんてんのできるように、思い違いおもいちがい疳かん違いの痕迹こんせきで、すでにそこここ汚れよごれていた。
畢竟ひっきょう夫おっとに対するたいする自分じぶんの直覚ちょっかくは、長いながい月日つきひの経験けいけんによって、訂正ていせいされべく、補修ほしゅうされべきものかも知れしれないという心細いこころぼそい真理しんりに、ようやく頭あたまを下げさげかけていた彼女かのじょは、叔父おじに煽らあおられてすぐ図ずに乗るのるほど若くわかくもなかった。
「人間にんげんはよく交際こうさいって見みなければ実際じっさい解らわからないものよ、叔父おじさん」「そのくらいな事ことは御前ごぜんに教わらおそわらないだって、誰だれだって知っしってらあ」「だからよ。一度いちど会っかいったぐらいで何になんにも云えるいえる訳わけがないっていうのよ」「そりゃ男おとこの云いいい草くさだろう。女おんなは一いち眼め見みても、すぐ何なんかいうじゃないか。またよく旨いうまい事ことを云ういうじゃないか。それを云っいって御覧ごらんというのさ、ただ叔父おじさんの参考さんこうまでに。なにもお前おまえに責任せきにんなんか持たもたせやしないから大丈夫だいじょうぶだよ」「だって無理むりですもの。そんな予言者よげんしゃみたいな事こと。ねえ叔母おばさん」 叔母おばはいつものようにお延のべに加勢かせいしなかった。
さればと云っいって、叔父おじの味方みかたにもならなかった。
彼女かのじょの予言よげんを強いるしいる気色けしきを見せみせない代りかわりに、叔父おじの悪わる強いつよいもとめなかった。
始めはじめて嫁よめにやる可愛いかわいい長女ちょうじょの未来みらいの夫おっとに関するかんする批判ひはんの材料ざいりょうなら、それがどんなに軽かろうかるかろうと、耳みみを傾むけるかたむける値打ねうちは充分じゅうぶんあるといった風かぜも見えみえた。
お延のべは当り障りあたりさわりのない事ことを一口ひとくち二に口くち云っいっておくよりほかに仕方しかたがなかった。
「立派りっぱな方ほうじゃありませんか。そうして若いわかい割わりに大変たいへん落ちついおちついていらっしゃるのね。……」 その後そのあとを待っまっていた叔父おじは、お延のべが何になんにも云わいわないので、また催促さいそくするように訊いきいた。
「それっきりかね」「だって、あたしあの方ほうの一いち軒のき置いおいてお隣となりへ坐らすわらせられて、ろくろくお顔かおも拝見はいけんしなかったんですもの」「予言者よげんしゃをそんな所ところへ坐らすわらせるのは悪かっわるかったかも知れしれないがね。――何なんかありそうなもんじゃないか、そんな平凡へいぼんな観察かんさつでなしに、もっとお前おまえの特色とくしょくを発揮はっきするような、ただ一言ひとことで、ずばりと向うむこうの急所きゅうしょへあたるような……」「むずかしいのね。――何しろなにしろ一度いちどぐらいじゃ駄目だめよ」「しかし一度いちどだけで何なんか云わいわなければならない必要ひつようがあるとしたらどうだい。何なんか云えるいえるだろう」「云えいえないわ」「云えいえない? じゃお前おまえの直覚ちょっかくは近頃ちかごろもう役やくに立たたたなくなったんだね」「ええ、お嫁よめに行っいってから、だんだん直覚ちょっかくが擦り減らさすりへらされてしまったの。近頃ちかごろは直覚ちょっかくじゃなくって鈍なまくら覚さとしだけよ」
六十五ろくじゅうご
口先くちさきでこんな押問答おしもんどうを長たらしくながたらしく繰り返しくりかえしていたお延のべの頭あたまの中なかには、また別べつの考えかんがえが絶えたえず並行へいこうして流れながれていた。
彼女かのじょは夫婦ふうふ和合わごうの適例てきれいとして、叔父おじから認めみとめられている津田つだと自分じぶんを疑わうたがわなかった。
けれども初対面はつたいめんの時じから津田つだを好いよいてくれなかった叔父おじが、その後そのあと彼かれの好悪こうおを改めるあらためるはずがないという事こともよく承知しょうちしていた。
だから睦ぼくしそうな津田つだと自分じぶんとを、彼かれは始終しじゅう不思議ふしぎな眼めで、眺めながめているに違いないと思っおもっていた。
それを他ほかの言葉ことばで云い換えるいいかえると、どうしてお延のべのような女おんなが、津田つだを愛しあいし得るうるのだろうという疑問ぎもんの裏うらに、叔父おじはいつでも、彼かれ自身じしんの先見せんけんに対するたいする自信じしんを持ちもち続けつづけていた。
人間にんげんを見み損なっそこなったのは、自分じぶんでなくて、かえってお延のべなのだという断定だんていが、時機じきを待っまって外部がいぶに揺曳ようえいするために、彼かれの心こころに下層かそうにいつも沈澱ちんでんしているらしかった。
「それだのに叔父おじはなぜ三好みよしに対するたいする自分じぶんの評ひょうを、こんなに執濃くこく聴こうきこうとするのだろう」 お延のべは解しかいしかねた。
すでに自分じぶんの夫おっとを見み損なっそこなったものとして、暗にあんに叔父おじから目指さめざされているらしい彼女かのじょに、その自覚じかくを差しさしおいて、おいそれと彼かれの要求ようきゅうに応ずるおうずる勇気ゆうきはなかった。
仕方しかたがないので、彼女かのじょはしまいに黙っだまってしまった。
しかし年来ねんらい遠慮えんりょのなさ過ぎるすぎる彼女かのじょを見み慣れなれて来きた叔父おじから見るみると、この際さい彼女かのじょの沈黙ちんもくは、不思議ふしぎに近いちかい現象げんしょうにほかならなかった。
彼かれはお延のべを措いおいて叔母おばの方ほうを向いむかいた。
「この子こは嫁よめに行っいってから、少しすこし人間にんげんが変っかわって来きたようだね。だいぶ臆病おくびょうになった。それもやっぱり旦那だんな様ようの感化かんかかな。不思議ふしぎなもんだな」「あなたがあんまり苛めるいじめるからですよ。さあ云えいえ、さあ云えいえって、責めるせめるように催促さいそくされちゃ、誰だれだって困りこまりますよ」 叔母おばの態度たいどは、叔父おじを窘めるたしなめるよりもむしろお延のべを庇護ひごう方ほうに傾いかたむいていた。
しかしそれを嬉しうれしがるには、彼女かのじょの胸むねが、あまり自分じぶんの感想かんそうで、いっぱいになり過ぎすぎていた。
「だけどこりゃ第だい一いちが継子けいしさんの問題もんだいじゃなくって。継子けいしさんの考えかんがえ一いちつできまるだけだとあたし思うおもうわ、あたしなんかが余計よけいな口くちを出さださないだって」 お延のべは自分じぶんで自分じぶんの夫おっとを択んえらんだ当時とうじの事ことを憶い起さおもいおこさない訳わけに行かいかなかった。
津田つだを見出しみだした彼女かのじょはすぐ彼かれを愛しあいした。
彼かれを愛しあいした彼女かのじょはすぐ彼かれの許もとに嫁ぎとつぎたい希望きぼうを保護者ほごしゃに打ち明けうちあけた。
そうしてその許諾きょだくと共ともにすぐ彼かれに嫁いよめいだ。
冒頭ぼうとうから結末けつまつに至るいたるまで、彼女かのじょはいつでも彼女かのじょの主人公しゅじんこうであった。
また責任者せきにんしゃであった。
自分じぶんの料簡りょうけんをよそにして、他人たにんの考えかんがえなどを頼りたよりたがった覚さとしはいまだかつてなかった。
「いったい継子けいしさんは何なんとおっしゃるの」「何なんとも云わいわないよ。あいつはお前おまえよりなお臆病おくびょうだからね」「肝心かんじんの当人とうにんがそれじゃ、仕方しかたがないじゃありませんか」「うん、ああ臆病おくびょうじゃ実際じっさい仕方しかたがない」「臆病おくびょうじゃないのよ、おとなしいのよ」「どっちにしたって仕方しかたがない、何になんにも云わいわないんだから。あるいは何になんにも云えいえないのかも知れしれないね、種しゅがなくって」 そういう二人ふたりが漫然まんぜんとして結びついむすびついた時じに、夫婦ふうふらしい関係かんけいが、はたして両者りょうしゃの間まに成立せいりつし得るうるものかというのが、お延のべの胸むねに横わるよこたわる深いぶかい疑問ぎもんであった。
「自分じぶんの結婚けっこんですらこうだのに」という論理ろんりがすぐ彼女かのじょの頭あたまに閃めいひらめいた。
「自分じぶんの結婚けっこんだって畢竟ひっきょうは似にたり寄っよったりなんだから」という風かぜに、この場合ばあいを眺めるながめる事ことのできなかった彼女かのじょは、一直線いちちょくせんに自分じぶんの眼めをつけた方ほうばかり見みた。
馬鹿ばからしいよりも恐ろしいおそろしい気きになった。
なんという気楽きらくな人ひとだろうとも思っおもった。
「叔父おじさん」と呼びかけよびかけた彼女かのじょは、呆れあきれたように細いほそい眼めを強くつよく張っちょうって彼かれを見みた。
「駄目だめだよ。あいつは初めはじめっから何になんにも云ういう気きがないんだから。元来がんらいはそれでお前おまえに立ち合ったちあって貰っもらったような訳わけなんだ、実じつを云ういうとね」「だってあたしが立ち合えたちあえばどうするの」「とにかく継つぎが是非ぜひそうしてくれっておれ達とおるに頼んたのんだんだ。つまりあいつは自分じぶんよりお前おまえの方ほうをよっぽど悧巧りこうだと思っおもってるんだ。そうしてたとい自分じぶんは解らわからなくっても、お前おまえなら後あとからいろいろ云っいってくれる事ことがあるに違いないと思い込んおもいこんでいるんだ」「じゃ最初さいしょからそうおっしゃれば、あたしだってその気きで行くいくのに」「ところがまたそれは厭いやだというんだ。是非ぜひ黙っだまっててくれというんだ」「なぜでしょう」 お延のべはちょっと叔母おばの方ほうを向いむかいた。
「きまりが悪いわるいからだよ」と答えるこたえる叔母おばを、叔父おじは遮っさえぎった。
「なにきまりが悪いわるいばかりじゃない。成心せいしんがあっちゃ、好いよい批評ひひょうができないというのが、あいつの主意しゅいなんだ。つまりお延のべの公平こうへいに得とくた第一印象だいいちいんしょうを聞かしきかして貰いもらいたいというんだろう」 お延のべは初めてはじめて叔父おじに強いつよいられる意味いみを理解りかいした。
六十六ろくじゅうろく
お延のべから見みた継子けいしは特殊とくしゅの地位ちいを占めしめていた。
こちらの利害りがいを心こころにかけてくれるという点てんにおいて、彼女かのじょは叔母おばに及ばおよばなかった。
自分じぶんと気きが合うあうという意味いみでは叔父おじよりもずっと縁えんが遠かっとおかった。
その代りかわり血統けっとう上うえの親和力しんわりょくや、異性いせいに基くもとづく牽引けんいん性せい以外いがいに、年齢ねんれいの相似そうじから来るくる有利ゆうりな接触せっしょく面めんをもっていた。
若いわかい女おんなの心こころを共通きょうつうに動かすうごかすいろいろな問題もんだいの前まえに立ったって、興味きょうみに充ちみちた眼めを見張るみはる時じ、自然しぜんの勢いきおいとして、彼女かのじょは叔父おじよりも叔母おばよりも、継子けいしに近づかちかづかなければならなかった。
そうしてその場合ばあいにおける彼女かのじょは、天分てんぶんから云っいって、いつでも継子けいしの優ゆう者ものであった。
経験けいけんから推せおせば、もちろん継子けいしの先輩せんぱいに違いなかった。
少なくすくなくともそういう人ひととして、継子けいしから一段いちだん上うえに見みられているという事ことを、彼女かのじょはよく承知しょうちしていた。
この小さいちいさい嘆美たんび者ものには、お延のべのいうすべてを何なんでも真しんに受けるうける癖くせがあった。
お延のべの自覚じかくから云えいえば、一いちつ家いえに寝ね起きを共ともにしている長いながい間まに、自分じぶんの優越ゆうえつを示すしめす浮うき誇ほこりの心こころから、柔軟性じゅうなんせいに富んとんだこの従妹じゅうまいを、いつの間まにかそう育て上げそだてあげてしまったのである。
「女おんなは一目いちもく見みて男おとこを見抜かみぬかなければいけない」 彼女かのじょはかつてこんな事ことを云っいって、無邪気むじゃきな継子けいしを驚ろかおどろかせた。
彼女かのじょはまた充分じゅうぶんそれをやり終おわりせるだけの活きつきた眼力がんりきを自分じぶんに具えそなえているものとして継子けいしに対したいした。
そうして相手あいての驚きおどろきが、羨みうらやみから嘆賞たんしょうに変っかわって、しまいに崇拝すうはいの間際まぎわまで近づいちかづいた時じ、偶然ぐうぜん彼女かのじょの自信じしんを実現じつげんすべき、津田つだと彼女かのじょとの間まに起っおこった相思そうしの恋愛れんあい事件じけんが、あたかも神秘しんぴの※のごとく、継子けいしの前まえに燃え上っもえあがった。
彼女かのじょの言葉ことばは継子けいしにとってついに永久えいきゅうの真理しんりその物ものになった。
一般いっぱんの世間せけんに向っむかって得意とくいであった彼女かのじょは、とくに継子けいしに向っむかって得意とくいでなければならなかった。
お延のべの見みた通りとおりの津田つだが、すぐ継子けいしに伝えつたえられた。
日常にちじょう接触せっしょくの機会きかいを自分自身じぶんじしんにもっていない継子けいしは、わが眼めわが耳みみの範囲はんい外そとに食み出しはみだしている未知みちの部分ぶぶんを、すべて彼女かのじょから与えあたえられた間接かんせつの知識ちしきで補なっおぎなって、容易よういに津田つだという理想的りそうてきな全体ぜんたいを造り上げつくりあげた。
結婚後けっこんご半年はんとし以上いじょうを経過けいかした今いまのお延のべの津田つだに対するたいする考えかんがえは変っかわっていた。
けれども継子けいしの彼かれに対するたいする考えかんがえは毫もごうも変らかわらなかった。
彼女かのじょは飽くまであくまでもお延のべを信じしんじていた。
お延のべも今更いまさら前言ぜんげんを取り消すとりけすような女おんなではなかった。
どこまでも先見せんけんの明あきらによって、天てんの幸福こうふくを享けるうける事ことのできた少数しょうすうの果報者かほうしゃとして、継子けいしの前まえに自分じぶんを標榜ひょうぼうしていた。
過去かこから持ち越しもちこしたこういう二人ふたりの関係かんけいを、余儀よぎなく記憶きおくの舞台ぶたいに躍らおどらせて、この事件じけんの前まえに坐らすわらなければならなくなったお延のべは、辛いつらいよりもむしろ快よくこころよくなかった。
それは皆んなみんなが寄っよってたかって、今までいままで糊塗ことして来きた自分じぶんの弱点じゃくてんを、早くはやく自白じはくしろと間接かんせつに責めるせめるように思えおもえたからである。
こっちの「我われ」以上いじょうに相手あいてが意地いじの悪いわるい事ことをするように見えみえたからである。
「自分じぶんの過失かしつに対したいしては、自分じぶんが苦しみくるしみさえすればそれでたくさんだ」 彼女かのじょの腹はらの中なかには、平生へいぜいから貯蔵ちょぞうしてあるこういう弁解べんかいがあった。
けれどもそれは何事なにごとも知らしらない叔父おじや叔母おばや継子けいしに向っむかって叩きつけるたたきつける事ことのできないものであった。
もし叩きつけるたたきつけるとすれば、彼かれら三さん人ひとを無心むしんに使嗾しそうして、自分じぶんに当とう擦りすりをやらせる天てんに向っむかってするよりほかに仕方しかたがなかった。
膳ぜんを引かひかせて、叔母おばの新らしくあたらしく淹れいれて来きた茶ちゃをがぶがぶ飲みのみ始めはじめた叔父おじは、お延のべの心こころにこんな交こうみ入っはいった蟠とぐろまりが蜿蜒えんえんっていようと思うおもうはずがなかった。
造りつくりたての平たいら庭にわを見渡しみわたしながら、晴々はればれした顔つきかおつきで、叔母おばと二言にごん三さん言げん、自分じぶんの考案こうあんになった樹きや石いしの配置はいちについて批評ひひょうしあった。
「来年らいねんはあの松まつの横よこの所ところへ楓ふうを一いち本ほん植えよううえようと思うおもうんだ。何なんだかここから見るみると、あすこだけ穴あなが開いひらいてるようでおかしいからね」 お延のべは何なんの気きなしに叔父おじの指しさしている見当けんとうを見みた。
隣家りんかと地続きじつづきになっている塀際へいぎわの土つちをわざと高くたかく盛り上げもりあげて、そこへ小さなちいさな孟宗もうそう藪やぶをこんもり繁らしげらした根ねの辺へんが、叔父おじのいう通りとおり疎らまばらに隙すきいていた。
先刻せんこくから問題もんだいを変えようかえよう変えようかえようと思っおもって、暗にあんに機会きかいを待っまっていた彼女かのじょは、すぐ気転きてんを利かしきかした。
「本当ほんとうね。あすこを塞がさいがないと、さもさも藪やぶを拵えこしらえましたって云ういうようで変へんね」 談話だんわは彼女かのじょの予期よきした通りとおりよその溝みぞへ流れ込んながれこんだ。
しかしそれが再びふたたびもとの道みちへ戻っもどって来きた時じは、前まえより急きゅうな傾斜けいしゃ面めんを通らとおらなければならなかった。
六十七ろくじゅうなな
それは叔父おじが先刻せんこく玄関先げんかんさきで鍬くわを動かしうごかしていた出入でいりの植木屋うえきやに呼ばよばれて、ちょっと席せきを外しはずした後あと、また庭口にわぐちから座敷ざしきへ上っのぼって来きた時じの事ことであった。
まだ学校がっこうから帰らかえらない百合子ゆりこや一いちの噂うわさに始まっはじまった叔母おばとお延のべの談話だんわは、その時じまた偶然ぐうぜんにも継子けいしの方ほうに滑り込みすべりこみつつあった。
「慾よく張ちょう屋やさん、もう好いよい加減かげんに帰りかえりそうなもんだのにね、何なんをしているんだろう」 叔母おばはわざわざ百合子ゆりこの命いのちけた渾名あだなで継子けいしを呼んよんだ。
お延のべはすぐその慾よく張ちょう屋やの様子ようすを思い出しおもいだした。
自分じぶんに許さゆるされた小天地しょうてんちのうちでは飽くまであくまで放恣ほうしなくせに、そこから一歩いちほ踏み出すふみだすと、急きゅうに謹慎きんしんの模型もけい見みたように竦んすくんでしまう彼女かのじょは、まるで父母ふぼの監督かんとくによって仕切らしきられた家庭かていという籠かごの中なかで、さも愉快ゆかいらしく囀るさえずる小鳥ことりのようなもので、いったん戸とを開けあけて外そとへ出さだされると、かえってどう飛んとんでいいか、どう鳴いないていいか解らわからなくなるだけであった。
「今日きょうは何なんのお稽古けいこに行っいったの」 叔母おばは「あてて御覧ごらん」と云っいった後あとで、すぐ坂さかの途中とちゅうから持っもって来きたお延のべの好奇心こうきしんを満足まんぞくさせてくれた。
しかしその稽古けいこの題目だいもくが近頃ちかごろ熱心ねっしんに始めはじめ出しだした語ご学がくだと聞いきいた時じに、彼女かのじょはまた改めてあらためて従妹じゅうまいの多さわ慾よくに驚ろかさおどろかされた。
そんなにいろいろなものに手てを出しだしていったい何なんにするつもりだろうという気きさえした。
「それでも語ご学がくだけには少しすこし特別とくべつの意味いみがあるんだよ」 叔母おばはこう云っいって、弁護べんごかたがた継子けいしの意味いみをお延のべに説明せつめいした。
それが間接かんせつながらやはり今度こんどの結婚けっこん問題もんだいに関係かんけいしているので、お延のべは叔母おばの手前てまえ殊勝しゅしょうらしい顔かおをしてなるほどと首肯かしゅこうかなければならなかった。
夫おっとの好むこのむもの、でなければ夫おっとの職業しょくぎょう上うえ妻つまが知っしっていると都合つごうの好いよいもの、それらを予想よそうして結婚けっこん前まえに習っならっておこうという女おんなの心がけこころがけは、未来みらいの良人おっとに対するたいする親切しんせつに違いなかった。
あるいは単にたんに男おとこの気きに入るはいるためとしても有利ゆうりな手段しゅだんに違いなかった。
けれども継子けいしにはまだそれ以上いじょうに、人間にんげんとしてまた細君さいくんとしての大事だいじな稽古けいこがいくらでも残っのこっていた。
お延のべの頭あたまに描き出さえがきだされたその稽古けいこは、不幸ふこうにして女おんなを善くよくするものではなかった。
しかし女おんなを鋭敏えいびんにするものであった。
悪くわるく摩擦まさつするには相違そういなかった。
しかし怜悧れいりに研ぎ澄すとぎすますものであった。
彼女かのじょはその初歩しょほを叔母おばから習っならった。
叔父おじのお蔭おかげでそれを今日きょうに発達はったつさせて来きた。
二人ふたりはそういう意味いみで育て上げそだてあげられた彼女かのじょを、満足まんぞくの眼めで眺めながめているらしかった。
「それと同じおなじ眼めがどうしてあの継子けいしに満足まんぞくできるだろう」 従妹じゅうまいのどこにも不平ふへいらしい素もと振ぶりさえ見せみせた事ことのない叔父叔母おじおばは、この点てんにおいてお延のべに不可解ふかかいであった。
強いてしいて解釈かいしゃくしようとすれば、彼かれらは姪めいと娘むすめを見るみる眼めに区別くべつをつけているとでも云ういうよりほかに仕方しかたがなかった。
こういう考えかんがえに襲わおそわれると、お延のべは突然とつぜん口惜しくくやしくなった。
そういう考えかんがえがまた時々ときどき発作ほっさのようにお延のべの胸むねを掴んつかんだ。
しかし城府じょうふを設けもうけない行き届いいきとどいた叔父おじの態度たいどや、取扱いとりあつかいに公平こうへいを欠いかいた事ことのない叔母おばの親切しんせつで、それはいつでも燃え上るもえあがる前まえに吹き消さふきけされた。
彼女かのじょは人ひとに見えみえない袖そでを顔かおへあてて内部ないぶの赤面せきめんを隠しかくしながら、やっぱり不思議ふしぎな眼めをして、二人ふたりの心持こころもちを解けとけない謎なぞのように不断ふだんから見つめみつめていた。
「でも継子けいしさんは仕合せしあわせね。あたし見みたいに心配性しんぱいせいでないから」「あの子こはお前おまえよりもずっと心配性しんぱいせいだよ。ただ宅たくにいると、いくら心配しんぱいしたくっても心配しんぱいする種しゅがないもんだから、ああして平気へいきでいられるだけなのさ」「でもあたしなんか、叔父おじさんや叔母おばさんのお世話おせわになってた時分じぶんから、もっと心配性しんぱいせいだったように思うおもうわ」「そりゃお前おまえと継つぎとは……」 中途ちゅうとで止めとめた叔母おばは何なんをいう気きか解らわからなかった。
性質せいしつが違うちがうという意味いみにも、身分みぶんが違うちがうという意味いみにも、また境遇きょうぐうが違うちがうという意味いみにも取れるとれる彼女かのじょの言葉ことばを追究ついきゅうする前まえに、お延のべははっと思っおもった。
それは今までいままで気きのつかなかった或ある物ものに、突然とつぜんぶつかったような動悸どうきがしたからである。
「昨日きのうの見合みあいに引き出さひきだされたのは、容貌ようぼうの劣者れっしゃとして暗にあんに従妹じゅうまいの器量きりょうを引き立てるひきたてるためではなかったろうか」 お延のべの頭あたまに石火せっかのようなこの暗示あんじが閃めいひらめいた時じ、彼女かのじょの意志いしも平常へいじょうより倍ばい以上いじょうの力ちからをもって彼女かのじょに逼っせまった。
彼女かのじょはついに自分じぶんを抑えつけおさえつけた。
どんな色いろをも顔かおに現さあらわさなかった。
「継子けいしさんは得とくな方ほうね。誰だれにでも好かよしみかれるんだから」「そうも行かいかないよ。けれどもこれは人ひとの好々こうこうだからね。あんな馬鹿ばかでも……」 叔父おじが縁側えんがわへ上っのぼったのと、叔母おばがこう云いいいかけたのとは、ほとんど同時どうじであった。
彼かれは大きなおおきな声こえで「継つぎがどうしたって」と云いいいながらまた座敷ざしきへ入っはいって来きた。
六十八ろくじゅうはち
すると今までいままで抑えつけおさえつけていた一種いっしゅの感情かんじょうがお延のべの胸むねに盛り返しもりかえして来きた。
飽くまであくまで機嫌きげんの好いよい、飽くまであくまで元気げんきに充ちみちた、そうして飽くまであくまで楽天的らくてんてきに肥え太っこえふとったその顔かおが、瞬間しゅんかんのお延のべをとっさに刺戟しげきした。
「叔父おじさんもずいぶん人ひとが悪いわるいのね」 彼女かのじょは藪やぶから棒ぼうにこう云わいわなければならなかった。
今日きょうまで二人ふたりの間まに何百なんびゃく遍へんとなく取りとり換かえわされたこの常套じょうとうな言葉ことばを使っつかったお延のべの声こえは、いつもと違っちがっていた。
表情ひょうじょうにも特殊とくしゅなところがあった。
けれども先刻せんこくからお延のべの腹はらの中なかにどんな潮しおの満干まんかんがあったか、そこにまるで気きのつかずにいた叔父おじは、平生へいぜいの細心さいしんにも似にず、全くまったく無邪気むじゃきであった。
「そんなに人ひとが悪うわるうがすかな」 例れいの調子ちょうしでわざと空っそらっとぼけた彼かれは、澄ましすまして刻こく煙草たばこを雁首がんくびへ詰めつめた。
「おれの留守るすにまた叔母おばさんから何なんか聴いきいたな」 お延のべはまだ黙っだまっていた。
叔母おばはすぐ答えこたえた。
「あなたの人ひとの悪いわるいぐらい今さらいまさら私わたくしから聴かきかないでもよく承知しょうちしてるそうですよ」「なるほどね。お延のべは直覚ちょっかく派はだからな。そうかも知れしれないよ。何しろなにしろ一目いちもく見みてこの男おとこの懐中かいちゅうには金きんがいくらあって、彼かれはそれを犢鼻褌ふんどしのミツみつへ挟んはさんでいるか、または胴巻どうまきへ入れいれて臍へその上うえに乗っけのっけているか、ちゃんと見分けるみわける女おんななんだから、なかなか油断ゆだんはできないよ」 叔父おじの笑談しょうだんはけっして彼かれの予期よきしたような結果けっかを生じしょうじなかった。
お延のべは下したを向いむかいて眉まゆと睫毛まつげをいっしょに動かしうごかした。
その睫毛まつげの先さきには知らしらない間まに涙なみだがいっぱい溜ったまった。
勝手かってを違えちがえた叔父おじの悪口わるぐちもぱたりととまった。
変へんな圧迫あっぱくが一度いちどに三さん人ひとを抑えつけおさえつけた。
「お延のべどうかしたのかい」 こう云っいった叔父おじは無言むごんの空虚くうきょを充たすみたすために、煙管きせるで灰吹はいふきを叩いたたいた。
叔母おばも何なんとかその場ばを取りとり繕つくろいろわなければならなくなった。
「何なんだね小供こどもらしい。このくらいな事ことで泣くなくものがありますか。いつもの笑談しょうだんじゃないか」 叔母おばの小言こごとは、義理ぎりのある叔父おじの手前てまえを兼けんた挨拶あいさつとばかりは聞えきこえなかった。
二人ふたりの関係かんけいを知りしり抜いぬいた彼女かのじょの立場たちばを認めるみとめる以上いじょう、どこから見みても公平こうへいなものであった。
お延のべはそれをよく承知しょうちしていた。
けれども叔母おばの小言こごとをもっともと思えおもえば思うおもうほど、彼女かのじょはなお泣きなきたくなった。
彼女かのじょの唇くちびるが顫えふるえた。
抑えおさえきれない涙なみだが後あとから後あとからと出でた。
それにつれて、今までいままで堰きとめせきとめていた口くちの関せきも破れやぶれた。
彼女かのじょはついに泣きなきながら声こえを出しだした。
「何なんもそんなにまでして、あたしを苛めいじめなくったって……」 叔父おじは当惑とうわくそうな顔かおをした。
「苛めいじめやしないよ。賞めほめてるんだ。そらお前おまえが由雄よしおさんの所ところへ行くいく前まえに、あの人ひとを評しひょうした言葉ことばがあるだろう。あれを皆みなな蔭かげで感心かんしんしているんだ。だから……」「そんな事こと承しょうわなくっても、もうたくさんです。つまりあたしが芝居しばいへ行っいったのが悪いわるいんだから。……」 沈黙ちんもくがすこし続いつづいた。
「何なんだかとんだ事ことになっちまったんだね。叔父おじさんの調ちょう戯たわむれい方ほうが悪かっわるかったのかい」「いいえ。皆んなみんなあたしが悪いわるいんでしょう」「そう皮肉ひにくを云っいっちゃいけない。どこが悪いわるいか解らわからないから訊くきくんだ」「だから皆みななあたしが悪いわるいんだって云っいってるじゃありませんか」「だが訳わけを云わいわないからさ」「訳わけなんかないんです」「訳わけがなくって、ただ悲しいかなしいのかい」 お延のべはなお泣きなき出しだした。
叔母おばは苦々しいにがにがしい顔かおをした。
「何なんだねこの人ひとは。駄々だだッ子っこじゃあるまいし。宅たくにいた時分じぶん、いくら叔父おじさんに調ちょう戯たわむれわれたって、そんなに泣いないた事ことなんか、ありゃしないくせに。お嫁よめに行きいきたてで、少しすこし旦那だんなから大事だいじにされると、すぐそうなるから困るこまるんだよ、若いわかい人ひとは」 お延のべは唇くちびるを噛んかんで黙っだまった。
すべての原因げんいんが自分じぶんにあるものとのみ思い込んおもいこんだ叔父おじはかえって気の毒きのどくそうな様子ようすを見せみせた。
「そんなに叱っしかったってしようがないよ。おれが少しすこし冷評れいひょうし過ぎすぎたのが悪かっわるかったんだ。――ねえお延そうのべそうだろう。きっとそうに違いない。よしよし叔父おじさんが泣かしなかした代りかわりに、今いまに好いよい物ものをやる」 ようやく発作ほっさの去っさったお延のべは、叔父おじからこんな風かぜに小供こども扱いあつかいにされる自分じぶんをどう取り扱っとりあつかって、跋ばつの悪いわるいこの場面ばめんに、平静へいせいな一転いってん化ばけを与えあたえたものだろうと考えかんがえた。
六十九ろくじゅうきゅう
ところへ何になんにも知らしらない継子けいしが、語学ごがくの稽古けいこから帰っかえって来きて、ひょっくり顔かおを出しだした。
「ただいま」 和解わかいの心棒しんぼうを失っうしなって困っこまっていた三さん人ひとは、突然とつぜんそれを見出しみだした人ひとのように喜こんよろこんだ。
そうしてほとんど同時どうじに挨拶あいさつを返しかえした。
「お帰んかえんなさい」「遅かっおそかったのね。先刻せんこくから待っまってたのよ」「いや大変たいへんなお待兼まちかねだよ。継子けいしさんはどうしたろう、どうしたろうって」 神経質しんけいしつな叔父おじの態度たいどは、先刻せんこくの失敗しっぱいを取り戻すとりもどす意味いみを帯びおびているので、平生へいぜいよりは一層いっそう快かい豁であった。
「何なんでも継子けいしさんに逢っあって、是非ぜひ話しはなしたい事ことがあるんだそうだ」 こんな余計よけいな事ことまで云っいって、自分じぶんの目的もくてきとは反対はんたいな影かげを、お延のべの上うえに逆ぎゃくまに投げなげておきながら、彼かれはかえって得意とくいになっているらしかった。
しかし下女げじょが襖ふすま越こしに手てを突いついて、風呂ふろの沸いわいた事ことを知らしらせに来きた時じ、彼かれは急きゅうに思いついおもいついたように立ち上ったちのぼった。
「まだ湯ゆなんかに入っはいっちゃいられない。少しすこし庭にわに用ようが残っのこってるから。――お前おまえ達とおる先さきへ入るはいるなら入るはいるがいい」 彼かれは気きに入りいりの植木屋うえきやを相手あいてに、残りのこりの秋あきの日ひを土つちの上うえに費やすついやすべく、再びふたたび庭にわへ下り立っおりたった。
けれどもいったん背中せなかを座敷ざしきの方ほうへ向けむけた後あとでまたふり返っふりかえった。
「お延のべ、湯ゆに入っはいって晩飯ばんめしでも食べたべておいで」 こう云っいって二三にさん間歩かんぽいたかと思うおもうと彼かれはまた引き返しひきかえして来きた。
お延のべは頭あたまのよく働くはたらくその世話せわしない様子ようすを、いかにも彼かれの特色とくしょくらしく感心かんしんして眺めながめた。
「お延のべが来きたから晩ばんに藤井ふじいでも呼んよんでやろうか」 職業しょくぎょうが違っちがっても同じおなじ学校がっこう出でだけに古くふるくから知りしり合あわせの藤井ふじいは、津田つだとの関係かんけい上うえ、今いまでは以前いぜんよりよほど叔父おじに縁えんの近いちかい人ひとであった。
これも自分じぶんに対するたいする好意こういからだと解釈かいしゃくしながら、お延のべは別べつに嬉しいうれしいと思うおもう気きにもなれなかった。
藤井ふじい一家いっかと津田つだ、二につのものが離れはなれているよりも、はるか余計よけいに、彼女かのじょは彼かれらより離れはなれていた。
「しかし来るくるかな」といった叔父おじの顔かおは、まさにお延のべの腹はらの中なかを物語っものがたりっていた。
「近頃ちかごろみんなおれの事ことを隠居いんきょ隠居いんきょっていうが、あの男おとこの隠居いんきょ主義しゅぎと来きたら、遠いとおい昔むかしからの事ことで、とうていおれなどの及ぶおよぶところじゃないんだからな。ねえ、お延のべ、藤井ふじいの叔父おじさんは飯めしを食いくいに来いこいったら、来るくるかい」「そりゃどうだかあたしにゃ解らわからないわ」 叔母おばは婉曲えんきょくに自己じこを表現ひょうげんした。
「おおかたいらっしゃらないでしょう」「うん、なかなかおいそれとやって来きそうもないね。じゃ止すよすか。――だがまあ試しためしにちょっと掛けかけてみるがいい」 お延のべは笑いわらい出しだした。
「掛けかけてみるったって、あすこにゃ電話でんわなんかありゃしないわ」「じゃ仕方しかたがない。使しでもやるんだ」 手紙てがみを書くかくのが面倒めんどうだったのか、時間じかんが惜しかっおしかったのか、叔父おじはそう云っいったなりさっさと庭口にわぐちの方ほうへ歩いあるいて行っいった。
叔母おばも「じゃあたしは御免ごめん蒙っこうむってお先さきへお湯ゆに入ろうはいろう」と云いいいながら立ち上ったちのぼった。
叔父おじの潔癖けっぺきを知っしって、みんなが遠慮えんりょするのに、自分じぶんだけは平気へいきで、こんな場合ばあいに、叔父おじの言葉ことば通りとおり断行だんこうして顧みかえりみない叔母おばの態度たいどは、お延のべにとって羨ましいうらやましいものであった。
また忌わしいいまわしいものであった。
女おんならしくない厭いやなものであると同時どうじに、男おとこらしい好いよいものであった。
ああできたらさぞ好かろうよかろうという感じかんじと、いくら年ねんをとってもああはやりたくないという感じかんじが、彼女かのじょの心こころにいつもの通りとおり交錯こうさくした。
立ったって行くいく叔母おばの後姿うしろすがたを彼女かのじょがぼんやり目送もくそうしていると、一人ひとり残っのこった継子けいしが突然とつぜん誘っさそった。
「あたしのお部屋へやへ来きなくって」 二人ふたりは火鉢ひばちや茶器ちゃきで取り散らさとりちらされた座敷ざしきをそのままにして外そとへ出でた。
七十ななじゅう
継子けいしの居間いまはとりも直さなおさず津田つだに行くいく前まえのお延のべの居間いまであった。
そこに机つくえを並べならべて二人ふたりいた昔むかしの心持こころもちが、まだ壁かべにも天井てんじょうにも残っのこっていた。
硝子戸がらすとを篏めはめた小さいちいさい棚たなの上うえに行儀ぎょうぎよく置かおかれた木彫もくちょうの人形にんぎょうもそのままであった。
薔薇ばらの花はなを刺繍ししゅうにした籃入のピンクッションぴんくっしょんもそのままであった。
二人ふたりしてお対たいに三越みつこしから買っかって来きた唐草からくさ模様もようの染付そめつけの一いち輪わ挿そうもそのままであった。
四方しほうを見廻しみまわしたお延のべは、従妹じゅうまいと共ともに暮しくらした処女しょじょ時代じだいの匂においを至る所いたるところに嗅いかいだ。
甘いあまい空想くうそうに充ちみちたその匂においが津田つだという対象たいしょうを得とくてついに実現じつげんされた時じ、忽然こつぜん鮮やかあざやかな※に変化へんかした自己じこの感情かんじょうの前まえに抃舞べんぶしたのは彼女かのじょであった。
眼めに見えみえないでも、瓦斯がすがあったから、ぱっと火ひが点いついたのだと考えかんがえたのは彼女かのじょであった。
空想くうそうと現実げんじつの間まには何なんらの差違さいを置くおく必要ひつようがないと論断ろんだんしたのは彼女かのじょであった。
顧みるかえりみるとその時じからもう半年はんとし以上いじょう経過けいかしていた。
いつか空想くうそうはついに空想くうそうにとどまるらしく見えみえ出しだして来きた。
どこまで行っいっても現実化げんじつかされないものらしく思わおもわれた。
あるいは極めてきわめて現実化げんじつかされ悪いわるいものらしくなって来きた。
お延のべの胸むねの中なかには微かかすかな溜息ためいきさえ宿っやどった。
「昔むかしは淡いあわい夢ゆめのように、しだいしだいに確実かくじつな自分じぶんから遠ざかっとおざかって行くいくのではなかろうか」 彼女かのじょはこういう観念かんねんの眼めで、自分じぶんの前まえに坐っすわっている従妹じゅうまいを見みた。
多分たぶんは自分じぶんと同じおなじ径路けいろを踏んふんで行かいかなければならない、またひょっとしたら自分じぶんよりもっと予期よきに外れはずれた未来みらいに突き当らつきあたらなければならないこの処女しょじょの運命うんめいは、叔父おじの手てにある諾否だくひの賽さいが、畳たたみの上うえに転がりころがり次第しだい、今いま明日あす中なかにでも、永久えいきゅうに片づけかたづけられてしまうのであった。
お延のべは微笑びしょうした。
「継子けいしさん、今日きょうはあたしがお神籤みくじを引いひいて上げあげましょうか」「なんで?」「何なんでもないのよ。ただよ」「だってただじゃつまらないわ。何なんかきめなくっちゃ」「そう。じゃきめましょう。何なんがいいでしょうね」「何なんがいいか、そりゃあたしにゃ解らわからないわ。あなたがきめて下さらくださらなくっちゃ」 継子けいしは容易よういに結婚けっこん問題もんだいを口くちへ出さださなかった。
お延のべの方ほうからむやみに云いいい出さだされるのも苦痛くつうらしかった。
けれども間接かんせつにどこかでそこに触れふれて貰いもらいたい様子ようすがありありと見えみえた。
お延のべは従妹じゅうまいを喜こばよろこばせてやりたかった。
と云っいって、後あとで自分じぶんの迷惑めいわくになるような責任せきにんを持つもつのは厭いやであった。
「じゃあたしが引くひくから、あなた自分じぶんでおきめなさい、ね。何なんでも今いまあなたのお腹おなかの中なかで、一番いちばん知りしりたいと思っおもってる事ことがあるでしょう。それにするのよ、あなたの方ほうで、自分勝手じぶんかってに。よくって」 お延のべは例れいの通りとおり継子けいしの机つくえの上うえに乗っのっている彼かれら夫婦ふうふの贈物おくりものを取ろうとろうとした。
すると継子けいしが急きゅうにその手てを抑えおさえた。
「厭いやよ」 お延のべは手てを引込めひっこめなかった。
「何なんが厭いやなの。いいからちょいとお貸しかしなさいよ。あなたの嬉しうれしがるのを出しだして上げるあげるから」 神籤みくじに何なんの執着しゅうちゃくもなかったお延のべは、突然とつぜんこうして継子けいしと戯れたわむれたくなった。
それは結婚けっこん以前いぜんの処女しょじょらしい自分じぶんを、彼女かのじょに憶い起さおもいおこさせる良いよい媒介ばいかいであった。
弱いよわいものの虚うつろを衝くつくために用いもちいられる腕うでの力ちからが、彼女かのじょを男おとこらしく活溌かっぱつにした。
抑えおさえられた手てを跳ね返しはねかえした彼女かのじょは、もう最初さいしょの目的もくてきを忘れわすれていた。
ただ神籤みくじ箱ばこを継子けいしの机つくえの上うえから奪い取りうばいとりたかった。
もしくはそれを言いいい前まえに、ただ継子けいしと争いあらそいたかった。
二人ふたりは争っあらそった。
同時どうじに女性じょせいの本能ほんのうから来るくるわざとらしい声こえを憚りはばかりなく出しだして、遊技ゆうぎ的まとな戦いたたかいに興きょうを添えそえた。
二人ふたりはついに硯箱すずりばこの前まえに飾っかざってある大事だいじな一いち輪わ挿そうを引っ繰り返しひっくりかえした。
紫檀したんの台だいからころころと転がりころがり出しだしたその花瓶かびんは、中なかにある水みずを所ところ嫌わいやわず打ち空けうちあけながら畳たたみの上うえに落ちおちた。
二人ふたりはようやく手てを引いひいた。
そうして自然しぜんの位置いちから不意ふいに放り出さほうりだされた可愛らしいかわいらしい花瓶かびんを、同じおなじように黙っだまって眺めながめた。
それから改めてあらためて顔かおを見合せるみあわせるや否いなや、急きゅうに抵抗ていこうする事ことのできない衝動しょうどうを受けうけた人ひとのように、一度いちどに笑いわらい出しだした。
七十一ななじゅういち
偶然ぐうぜんの出来事できごとがお延のべをなお小供こどもらしくした。
津田つだの前まえでかつて感じかんじた事ことのない自由じゆうが瞬間しゅんかんに復活ふっかつした。
彼女かのじょは全くまったく現在げんざいの自分じぶんを忘れわすれた。
「継子けいしさん早くはやく雑巾ぞうきんを取っとっていらっしゃい」「厭いやよ。あなたが零しこぼしたんだから、あなた取っとっていらっしゃい」 二人ふたりはわざと譲り合っゆずりあった。
わざと押問答おしもんどうをした。
「じゃジャンじゃん拳こぶしよ」と云いいい出しだしたお延のべは、繊せんい手てを握っにぎって勢いきおいよく継子けいしの前まえに出しだした。
継子けいしはすぐ応じおうじた。
宝石ほうせきの光るひかる指ゆびが二人ふたりの間まにちらちらした。
二人ふたりはそのたんびに笑っわらった。
「狡猾こうかついわ」「あなたこそ狡猾こうかついわ」 しまいにお延のべが負けまけた時じには零れこぼれた水みずがもう机つくえ掛かかりと畳たたみの目めの中なかへ綺麗きれいに吸い込ますいこまれていた。
彼女かのじょは落ちつきおちつき払っはらって袂たもとから出しだした手巾しゅきんで、濡れぬれた所ところを上うえから抑えつけおさえつけた。
「雑巾ぞうきんなんか要りゃいりゃしない。こうしておけば、それでたくさんよ。水みずはもう引いひいちまったんだから」 彼女かのじょは転がっころがった花瓶かびんを元もとの位置いちに直しなおして、摧けくだけかかった花はなを鄭てい寧ねいにその中なかへ挿しさし込んこんだ。
そうして今までいままでの頓とみ興きょうをまるで忘れわすれた人ひとのように澄まし返っすましかえった。
それがまたたまらなくおかしいと見えみえて、継子けいしはいつまでも一人ひとりで笑っわらっていた。
発作ほっさが静まっしずまった時じ、継子けいしは帯おびの間まに隠しかくした帙ちつ入いりの神籤みくじを取り出しとりだして、傍そばにある本箱ほんばこの抽斗ひきだしへしまい易えかえた。
しかもその上うえからぴちんと錠じょうを下しおろして、わざとお延のべの方ほうを見みた。
けれども継子けいしにとっていつまでも続くつづく事ことのできるらしいこの無意味むいみな遊技ゆうぎ的まと感興かんきょうは、そう長くながくお延のべを支配しはいする訳わけに行かいかなかった。
ひとしきり我われを忘れわすれた彼女かのじょは、従妹じゅうまいより早くはやく醒めさめてしまった。
「継子けいしさんはいつでも気楽きらくで好いよいわね」 彼女かのじょはこう云っいって継子けいしを見返しみかえした。
当り障りあたりさわりのない彼女かのじょの言葉ことばはとても継子けいしに通じつうじなかった。
「じゃ延子のぶこさんは気楽きらくでないの」 自分じぶんだって気楽きらくな癖くせにと云わいわんばかりの語気ごきのうちには、誰だれからでも、世間せけん見みずの御嬢ごじょうさん扱いあつかいにされる兼てかねての不平ふへいも交っかっていた。
「あなたとあたしといったいどこが違うちがうんでしょう」 二人ふたりは年齢ねんれいが違っちがった。
性質せいしつも違っちがった。
しかし気兼きがね苦労くろうという点てんにかけて二人ふたりのどこにどんな違いがあるか、それは継子けいしのまだ考えかんがえた事ことのない問題もんだいであった。
「じゃ延子のぶこさんどんな心配しんぱいがあるの。少しすこし話しはなしてちょうだいな」「心配しんぱいなんかないわ」「そら御覧ごらんなさい。あなただってやっぱり気楽きらくじゃないの」「そりゃ気楽きらくは気楽きらくよ。だけどあなたの気楽きらくさとは少しすこし訳わけが違うちがうのよ」「どうしてでしょう」 お延のべは説明せつめいする訳わけに行かいかなかった。
また説明せつめいする気きになれなかった。
「今いまに解るわかるわ」「だけど延子のぶこさんとあたしとは三さんつ違いよ、たった」 継子けいしは結婚けっこん前まえと結婚後けっこんごの差違さいをまるで勘定かんじょうに入れいれていなかった。
「ただ年齢ねんれいばかりじゃないのよ。境遇きょうぐうの変化へんかよ。娘むすめが人ひとの奥さんおくさんになるとか、奥さんおくさんがまた旦那だんな様ようを亡くなしなくなして、未亡人みぼうじんになるとか」 継子けいしは少しすこし怪訝けげんな顔かおをしてお延のべを見みた。
「延子のぶこさんは宅たくにいた時じと、由雄よしおさんの所ところへ行っいってからと、どっちが気楽きらくなの」「そりゃ……」 お延のべは口籠っくちごもった。
継子けいしは彼女かのじょに返答へんとうを拵えるこしらえる余地よちを与えあたえなかった。
「今いまの方ほうが気楽きらくなんでしょう。それ御覧ごらんなさい」 お延のべは仕方なししかたなしに答えこたえた。
「そうばかりにも行かいかないわ。これで」「だってあなたが御自分ごじぶんで望んのぞんでいらしった方ほうじゃないの、津田つださんは」「ええ、だからあたし幸福こうふくよ」「幸福こうふくでも気楽きらくじゃないの」「気楽きらくな事ことも気楽きらくよ」「じゃ気楽きらくは気楽きらくだけれども、心配しんぱいがあるの」「そう継子けいしさんのように押しつめおしつめて来きちゃ敵わかなわないわね」「押しつめるおしつめる気きじゃないけれども、解らわからないから、ついそうなるのよ」
七十二ななじゅうに
だんだん勾配こうばいの急きゅうになって来きた会話かいわは、いつの間まにか継子けいしの結婚けっこん問題もんだいに滑り込んすべりこんで行っいった。
なるべくそれを避けさけたかったお延のべには、今までいままでの行きがかりいきがかり上うえ、またそれを避けるさける事ことのできない義理ぎりがあった。
経験けいけんに乏しいとぼしい処女しょじょの期待きたいするような予言よげんはともかくも、男女だんじょ関係かんけいに一いち日ひの長ながある年上としうえの女おんなとして、相当そうとうの注意ちゅういを与えあたえてやりたい親切しんせつもないではなかった。
彼女かのじょは差し障りさしさわりのない際どいきわどい筋すじの上うえを婉曲えんきょくに渡っわたって歩いあるいた。
「そりゃ駄目だめよ。津田つだの時じは自分じぶんの事ことだから、自分じぶんによく解っわかったんだけれども、他ほかの事ことになるとまるで勝手かってが違っちがって、ちっとも解らわからなくなるのよ」「そんなに遠慮えんりょしないだってよかないの」「遠慮えんりょじゃないのよ」「じゃ冷淡れいたんなの」 お延のべは答えるこたえる前まえにしばらく間まをおいた。
「継子けいしさん、あなた知っしってて。女おんなの眼めは自分じぶんに一番いちばん縁故えんこの近いちかいものに出会っであった時じ、始めはじめてよく働はたらけらく事ことができるのだという事ことを。眼めが一いち秒びょうで十じゅう年ねん以上いじょうの手柄てがらをするのは、その時じに限るかぎるのよ。しかもそんな場合ばあいは誰だれだって生涯しょうがいにそうたんとありゃしないわ。ことによると生涯しょうがいに一いち返かえしも来きないですんでしまうかも分らわからないわ。だからあたしなんかの眼めはまあ盲目もうもく同然どうぜんよ。少なくすくなくとも平生へいぜいは」「だって延子のぶこさんはそういう明るいあかるい眼めをちゃんと持っもっていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれをあたしの場合ばあいに使っつかって下さらくださらなかったの」「使わつかわないんじゃない、使えつかえないのよ」「だって岡目八目おかめやつめって云ういうじゃありませんか。傍そばにいるあなたには、あたしより余計よけい公平こうへいに分るわかるはずだわ」「じゃ継子けいしさんは岡目八目おかめやつめで生涯しょうがいの運命うんめいをきめてしまう気きなの」「そうじゃないけれども、参考さんこうにゃなるでしょう。ことに延子のぶこさんを信用しんようしているあたしには」 お延のべはまたしばらく黙っだまっていた。
それから少しすこし前まえよりは改っあらたまった態度たいどで口くちを利ききき出しだした。
「継子けいしさん、あたし今いまあなたにお話しはなししたでしょう、あたしは幸福こうふくだって」「ええ」「なぜあたしが幸福こうふくだかあなた知っしってて」 お延のべはそこで句切くぎりをおいた。
そうして継子けいしの何なんかいう前まえに、すぐ後あとを継ぎ足しつぎたした。
「あたしが幸福こうふくなのは、ほかに何になんにも意味いみはないのよ。ただ自分じぶんの眼めで自分じぶんの夫おっとを択ぶえらぶ事ことができたからよ。岡目八目おかめやつめでお嫁よめに行かいかなかったからよ。解っわかって」 継子けいしは心細こころぼそそうな顔かおをした。
「じゃあたしのようなものは、とても幸福こうふくになる望もちはないのね」 お延のべは何なんとか云わいわなければならなかった。
しかしすぐは何なんとも云えいえなかった。
しまいに突然とつぜん興奮こうふんしたらしい急きゅうな調子ちょうしが思わおもわず彼女かのじょの口くちから迸しり出しだした。
「あるのよ、あるのよ。ただ愛するあいするのよ、そうして愛さあいさせるのよ。そうさえすれば幸福こうふくになる見込みこみはいくらでもあるのよ」 こう云っいったお延のべの頭あたまの中なかには、自分じぶんの相手あいてとしての津田つだばかりが鮮明せんめいに動いうごいた。
彼女かのじょは継子けいしに話しかけはなしかけながら、ほとんど三好みよしの影かげさえ思い浮べおもいうかべなかった。
幸いさいわいそれを自分じぶんのためとのみ解釈かいしゃくした継子けいしは、真ともまともにお延のべの調子ちょうしを受けるうけるほど感激かんげきしなかった。
「誰だれを」と云っいった彼女かのじょは少しすこし呆れあきれたようにお延のべの顔かおを見みた。
「昨夕さくゆうお目めにかかったあの方ほうの事こと?」「誰だれでも構わかまわないのよ。ただ自分じぶんでこうと思い込んおもいこんだ人ひとを愛するあいするのよ。そうして是非ぜひその人ひとに自分じぶんを愛さあいさせるのよ」 平生へいぜい包みつつみ蔵しぞうしているお延のべの利かりかない気性きしょうが、しだいに鋒鋩ほうぼうを露わあらわして来きた。
おとなしい継子けいしはそのたびに少しすこしずつ後あとへ退っしさった。
しまいに近寄りちかよりにくい二人ふたりの間まの距離きょりを悟っさとった時じ、彼女かのじょは微かかすかな溜息ためいきさえ吐いはいた。
するとお延のべが忽然こつぜんまた調子ちょうしを張り上げはりあげた。
「あなたあたしの云ういう事ことを疑っうたがっていらっしゃるの。本当ほんとうよ。あたし嘘うそなんか吐いはいちゃいないわ。本当ほんとうよ。本当ほんとうにあたし幸福こうふくなのよ。解っわかったでしょう」 こう云っいって絶対ぜったいに継子けいしを首くび肯わうけがわせた彼女かのじょは、後あとからまた独り言ひとりごとのように付け足しつけたした。
「誰だれだってそうよ。たとい今いまその人ひとが幸福こうふくでないにしたところで、その人ひとの料簡りょうけん一いちつで、未来みらいは幸福こうふくになれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるみせるのよ。ねえ継子けいしさん、そうでしょう」 お延のべの腹はらの中なかを知らしらない継子けいしは、この予言よげんをただ漠然ばくぜんと自分じぶんの身の上みのうえに応用おうようして考えかんがえなければならなかった。
しかしいくら考えかんがえてもその意味いみはほとんど解らわからなかった。
七十三ななじゅうさん
その時じ廊下ろうか伝いつたいに聞こえきこえた忙がしいいそがしい足音あしおとの主ぬしががらりと室むろの入口いりぐちを開けあけた。
そうして学校がっこうから帰っかえった百合子ゆりこが、遠慮えんりょなくつかつか入っはいって来きた。
彼女かのじょは重じゅうそうに肩かたから釣るつるした袋ふくろを取っとって、自分じぶんの机つくえの上うえに置きおきながら、ただ一口ひとくち「ただいま」と云っいって姉あねに挨拶あいさつした。
彼女かのじょの机つくえを据えすえた場所ばしょは、ちょうどもとお延のべの坐っすわっていた右手みぎての隅すみであった。
お延のべが津田つだへ片づくかたづくや否いなや、すぐその後そのあとへ入るはいる事ことのできた彼女かのじょは、従姉じゅうしのいなくなったのを、自分じぶんにとって大変たいへんな好都合こうつごうのように喜こんよろこんだ。
お延のべはそれを知っしってるので、わざと言葉ことばをかけた。
「百合子ゆりこさん、あたしまたお邪魔おじゃまに上りのぼりましたよ。よくって」 百合子ゆりこは「よくいらっしゃいました」とも云わいわなかった。
机つくえの角かくへ右みぎの足あしを載せのせて、少しすこし穴あなの開きひらきそうになった黒いくろい靴足袋くつたびの親指おやゆびの先さきを、手てで撫でなでていたが、足あしを畳たたみの上うえへおろすと共ともに答えこたえた。
「好いよいわ、来きても。追い出さおいだされたんでなければ」「まあひどい事こと」と云っいって笑っわらったお延のべは、少しすこし間まをおいてから、また彼女かのじょを相手あいてにした。
「百合子ゆりこさん、もしあたしが津田つだを追い出さおいだされたら、少しすこしは可哀相かわいそうだと思っおもって下さるくださるでしょう」「ええ、そりゃ可哀相かわいそうだと思っおもって上げあげてもいいわ」「そんなら、その時じはまたこのお部屋へやへおいて下すっくだすって」「そうね」 百合子ゆりこは少しすこし考えるかんがえる様子ようすをした。
「いいわ、おいて上げあげても。お姉あねさまがお嫁よめに行っいった後あとなら」「いえ継子けいしさんがお嫁よめにいらっしゃる前まえよ」「前まえに追い出さおいだされるの? そいつは少しすこし――まあ我慢がまんしてなるべく追い出さおいだされないようにしたらいいでしょう、こっちの都合つごうもある事ことだから」 こう云っいった百合子ゆりこは年上としうえの二人ふたりと共ともに声こえを揃えそろえて笑っわらった。
そうして袴はかまも脱がぬがずに、火鉢ひばちの傍そばへ来きてその間まに坐りすわりながら、下女げじょの持っもってきた木皿きさらを受取っうけとって、すぐその中なかにある餅菓子もちかしを食べたべ出しだした。
「今頃いまごろお八はちツ? このお皿さらを見るみると思い出すおもいだすのね」 お延のべは自分じぶんが百合子ゆりこぐらいであった当時とうじを回想かいそうした。
学校がっこうから帰るかえると、待ちまちかねて各自かくじの前まえに置かおかれる木皿きさらへ手てを出しだしたその頃ころの様子ようすがありありと目めに浮かんうかんだ。
旨むねそうに食べるたべる妹いもうとの顔かおを微笑びしょうして見みていた継子けいしも同じおなじ昔むかしを思い出すおもいだすらしかった。
「延子のぶこさんあなた今いまでもお八はちツ召しゃめしゃがって」「食べたべたり食べたべなかったりよ。わざわざ買うかうのは億劫おっくうだし、そうかって宅たくに何なんかあっても、昔むかししのように旨むねしくないのね、もう」「運動うんどうが足りたりないからでしょう」 二人ふたりが話しはなしているうちに、百合子ゆりこは綺麗きれいに木皿きさらを空そらにした。
そうして木きに竹たけを接いはいだような調子ちょうしで、二人ふたりの間まに割り込んわりこんで来きた。
「本当ほんとうよ、お姉あねさまはもうじきお嫁よめに行くいくのよ」「そう、どこへいらっしゃるの」「どこだか知らしらないけれども行くいく事ことは行くいくのよ」「じゃ何なんという方ほうの所ところへいらっしゃるの」「何なんという名なだか知らしらないけれども、行くいくのよ」 お延のべは根気こんきよく三さん度目どめの問もんを掛けかけた。
「それはどんな方ほうなの」 百合子ゆりこは平気へいきで答えこたえた。
「おおかた由雄よしおさんみたいな方ほうなんでしょう。お姉あねさまは由雄よしおさんが大好きだいすきなんだから。何なんでも延子のぶこさんの云ういう通りとおりになって、大変たいへん好いよい人ひとだって、そう云っいっててよ」 薄赤くうすあかくなった継子けいしは急きゅうに妹いもうとの方ほうへかかって行っいった。
百合子ゆりこは頓とみ興きょうな声こえを出しだしてすぐそこを飛び退いとびのいた。
「おお大変たいへん大変たいへん」 入口いりぐちの所ところでちょっと立ちどまったちどまってこう云っいった彼女かのじょは、お延のべと継子けいしをそこへ残しのこしたまま、一人ひとりで室むろを逃げ出しにげだして行っいった。
七十四ななじゅうよん
お延のべが下女げじょから食事しょくじの催促さいそくを受けうけて、二に返かえし目めに継子けいしと共ともに席せきを立ったったのは、それから間まもなくであった。
一家いっかのものは明るいあかるい室むろに晴々はればれした顔かおを揃えそろえた。
先刻せんこく何なんかに拗ねすねて縁の下えんのしたへ這入っはいったなり容易よういに出でて来きなかったという一いちさえ、機嫌きげんよく叔父おじと話はなしをしていた。
「一いちさんは犬いぬみたいよ」と百合子ゆりこがわざわざ知らしらせに来きた時じ、お延のべはこの小さいちいさい従妹じゅうまいから、彼かれがぱくりと口くちを開いひらいて上うえから鼻はなの先さきへ出さだされた餅菓子もちかしに食いついくいついたという話はなしを聞いきいたのであった。
お延のべは微笑びしょうしながらいわゆる犬いぬみたいな男の子おとこのこの談話だんわに耳みみを傾けかたむけた。
「お父さまおちちさま彗星すいせいが出るでると何なんか悪いわるい事ことがあるんでしょう」「うん昔むかしの人ひとはそう思っおもっていた。しかし今いまは学問がくもんが開けあけたから、そんな事ことを考えるかんがえるものは、もう一人ひとりもなくなっちまった」「西洋せいようでは」 西洋せいようにも同じおなじ迷信めいしんが古代こだいに行わおこなわれたものかどうだか、叔父おじは知らしらないらしかった。
「西洋せいよう? 西洋せいようにゃ昔むかしからない」「でもシーザーしーざーの死ぬしぬ前まえに彗星すいせいが出でたっていうじゃないの」「うんシーザーしーざーの殺さころされる前まえか」と云っいった彼かれは、ごまかすよりほかに仕方しかたがないらしかった。
「ありゃ羅馬ろーまの時代じだいだからな。ただの西洋せいようとは訳わけが違うちがうよ」 一いちはそれで納得なっとくして黙っだまった。
しかしすぐ第だい二にの質問しつもんをかけた。
前まえよりは一層いっそう奇抜きばつなその質問しつもんは立派りっぱに三さん段だん論法ろんぽうの形式けいしきを具えそなえていた。
井戸いどを掘っほって水みずが出るでる以上いじょう、地面じめんの下したは水みずでなければならない、地面じめんの下したが水みずである以上いじょう、地面じめんは落おちこちなければならない。
しかるに地面じめんはなぜ落おちこちないか。
これが彼かれの要旨ようしであった。
それに対するたいする叔父おじの答弁とうべんがまたすこぶるしどろもどろなので、傍そばのものはみんなおかしがった。
「そりゃお前おまえ落ちおちないさ」「だって下したが水みずなら落ちるおちる訳わけじゃないの」「そう旨くうまくは行かいかないよ」 女連おんなれんが一度いちどに笑いわらい出すだすと、一いちはたちまち第だい三さんの問題もんだいに飛び移っとびうつった。
「お父さまおちちさま、僕ぼくこの宅たくが軍艦ぐんかんだと好いよいな。お父さまおちちさまは?」「お父さまおちちさまは軍艦ぐんかんよりただの宅たくの方ほうが好いよいね」「だって地震じしんの時じ宅たくなら潰れるつぶれるじゃないの」「ははあ軍艦ぐんかんならいくら地震じしんがあっても潰れつぶれないか。なるほどこいつは気きがつかなかった。ふうん、なるほど」 本式ほんしきに感服かんぷくしている叔父おじの顔かおを、お延のべは微笑びしょうしながら眺めながめた。
先刻せんこく藤井ふじいを晩餐ばんさんに招待しょうたいするといった彼かれは、もうその事ことを念頭ねんとうにおいていないらしかった。
叔母おばも忘れわすれたように澄ましすましていた。
お延のべはつい一いちに訊いきいて見みたくなった。
「一いちさん藤井ふじいの真事しんじさんと同級どうきゅうなんでしょう」「ああ」と云っいった一いちは、すぐ真事しんじについてお延のべの好奇心こうきしんを満足まんぞくさせた。
彼かれの話はなしは、とうてい子供こどもでなくては云えいえない、観察かんさつだの、批評ひひょうだの、事実じじつだのに富んとんでいた。
食卓しょくたくは一時いちじ彼かれの力ちからで賑わっにぎわった。
みんなを笑わわらわせた真事しんじの逸話いつわの中なかに、下したのようなのがあった。
ある時じ学校がっこうの帰りかえりに、彼かれは一いちといっしょに大きなおおきな深いぶかい穴あなを覗き込んのぞきこんだ。
土木どぼく工事こうじのために深くふかく掘り返さほりかえされて、往来おうらいの真中まなかに出来上っできあがったその穴あなの上うえには、一いち本ほんの杉すぎ丸太まるたが掛け渡しかけわたしてあった。
一いちは真事しんじに、その丸太まるたの上うえを渡っわたったら百ひゃく円えんやると云っいった。
すると無鉄砲むてっぽうな真事しんじは、背嚢はいのうを背負っせおって、尨犬むくいぬの皮かわで拵えこしらえたといわれる例れいの靴くつを穿いはいたまま、「きっとくれる?」と云いいいながら、ほとんど平たいひらたい幅はばをもっていない、つるつる滑りすべりそうな材木ざいもくを渡りわたり始めはじめた。
最初さいしょは今いまに落ちるおちるだろうと思っおもって見みていた一いちは、相手あいてが一歩いちほ一歩いちほと、危ないあぶないながらゆっくりゆっくり自分じぶんに近づいちかづいて来るくるのを見みて、急きゅうに怖くこわくなった。
彼かれは深いぶかい穴あなの真上まうえにある友達ともだちをそこへ置き去りおきざりにして、どんどん逃げだしにげだした。
真事しんじはまた始終しじゅう足元あしもとに気きを取らとられなければならないので、丸太まるたを渡りわたり切っきってしまうまでは、一いちがどこへ行っいったか全くまったく知らしらずにいた。
ようやく冒険ぼうけんを仕遂げしとげて、約束やくそく通りとおり百ひゃく円えん貰おうもらおうと思っおもって始めてはじめて眼めを上げるあげると、相手あいてはいつの間まにか逃げにげてしまって、一いちの影かげも形かたちもまるで見えみえなかったというのである。
「一いちの方ほうが少しすこし小しょう悧巧りこうのようだな」と叔父おじが評しひょうした。
「藤井ふじいさんは近頃ちかごろあんまり遊びあそびに来きないようね」と叔母おばが云っいった。
七十五ななじゅうご
小供こどもが一いちつ学校がっこうの同級どうきゅうにいる事ことのほかに、お延のべの関係かんけいから近頃ちかごろ岡本おかもとと藤井ふじいの間まに起っおこった交際こうさいには多少たしょうの特色とくしょくがあった。
否いなでも顔かおを合せあわせなければならない祝儀しゅうぎ不祝儀ふしゅうぎの席せきを未来みらいに控えひかえている彼かれらは、事情じじょうの許すゆるす限りかぎり、双方そうほうから接近せっきんしておく便宜べんぎを、平生へいぜいから認めみとめない訳わけに行かいかなかった。
ことに女おんなの利害りがいを代表だいひょうする岡本おかもとの方ほうは、藤井ふじいよりも余計よけいこの必要ひつようを認めみとめなければならない地位ちいに立ったっていた。
その上うえ岡本おかもとの叔父おじには普通ふつうの成功者せいこうしゃに附随ふずいする一種いっしゅの如才じょさいなさがあった。
持っもって生れうまれた楽天的らくてんてきな広いひろい横断面おうだんめんもあった。
神経質しんけいしつな彼かれはまた誤解ごかいを恐れおそれた。
ことに生計せいけい向むかいに不自由ふじゆうのないものが、比較的ひかくてき貧しいまずしい階級かいきゅうから受けうけがちな尊大そんだい不遜ふそんの誤解ごかいを恐れおそれた。
多年たねんの多忙たぼうと勉強べんきょうのために損なわそこなわれた健康けんこうを回復かいふくするために、当分とうぶん閑地かんちについた昨今さっこんの彼かれには、時間じかんの余裕よゆうも充分じゅうぶんあった。
その時間じかんの空虚くうきょなところを、自分じぶんの趣味しゅみに適うかなう模かたぎ細工さいくで毎日まいにち埋めうめて行くいく彼かれは、今までいままで自分じぶんと全くまったく縁故えんこのないものとして、平気へいきで通り過ぎとおりすぎた人ひとや物ものにだんだん接近せっきんして見ようみようという意志いしももっていた。
これらの原因げんいんが困絡こんらくがって、叔父おじは時々ときどき藤井ふじいの宅たくへ自分じぶんの方ほうから出かけでかけて行くいく事ことがあった。
排外的はいがいてきに見えるみえる藤井ふじいは、律義りちぎに叔父おじの訪問ほうもんを返そうかえそうともしなかったが、そうかと云っいって彼かれを厭いやがる様子ようすも見せみせなかった。
彼かれらはむしろ快よくこころよく談じだんじた。
底そこまで打ち解けうちとけた話はなしはできないにしたところで、ただ相互そうごの世界せかいを交換こうかんするだけでも、多少たしょうの興味きょうみにはなった。
その世界せかいはまた妙みょうに食い違っくいちがっていた。
一方いっぽうから見るみるといかにも迂濶うかつなものが、他方たほうから眺めるながめるといかにも高尚こうしょうであったり、片側かたがわで卑俗ひぞくと解釈かいしゃくしなければならないものを、向うむこうでは是非ぜひとも実際的じっさいてきに考えかんがえたがったりするところに、思わおもわざる発見はっけんがひょいひょい出でて来きた。
「つまり批評家ひひょうかって云ういうんだろうね、ああ云ういう人ひとの事ことを。しかしあれじゃ仕事しごとはできない」 お延のべは批評家ひひょうかという意味いみをよく理解りかいしなかった。
実際じっさいの役やくに立たたたないから、口先くちさきで偉えらそうな事ことを云っいって他ほかをごまかすんだろうと思っおもった。
「仕事しごとができなくって、ただ理窟りくつを弄んもてあそんでいる人ひと、そういう人ひとに世間せけんはどんな用ようがあるだろう。そういう人ひとが物質ぶっしつ上うえ相当そうとうの報酬ほうしゅうを得とくないで困るこまるのは当然とうぜんではないか」。
これ以上いじょう進むすすむ事ことのできなかった彼女かのじょは微笑びしょうしながら訊いきいた。
「近頃ちかごろ藤井ふじいさんへいらしって」「うんこないだもちょっと散歩さんぽの帰りかえりに寄っよったよ。草臥れくたびれた時じ、休むやすむにはちょうど都合つごうの好いよい所ところにある宅たくだからね、あすこは」「また何なんか面白いおもしろいお話しはなしでもあって」「相そう変らかわらず妙みょうな事ことを考えかんがえてるね、あの男おとこは。こないだは、男おとこが女おんなを引張りひっぱり、女おんながまた男おとこを引張るひっぱるって話はなしをさかんにやって来きた」「あら厭いやだ」「馬鹿ばからしい、好いよい年ねんをして」 お延のべと叔母おばはこもごも呆れあきれたような言葉ことばを出すだす間まに、継子けいしだけはよそを向いむかいた。
「いや妙みょうな事ことがあるんだよ。大将たいしょうなかなか調べしらべているから感心かんしんだ。大将たいしょうのいうところによると、こうなんだ。どこの宅たくでも、男の子おとこのこは女親おんなおやを慕いしたい、女の子おんなのこはまた反対はんたいに男親おとこおやを慕うしたうのが当り前あたりまえだというんだが、なるほどそう云えいえば、そうだね」 親身しんみの叔母おばよりも義理ぎりの叔父おじを好いよいていたお延のべは少しすこし真面目まじめになった。
「それでどうしたの」「それでこうなんだ。男おとこと女おんなは始終しじゅう引張りひっぱり合わあわないと、完全かんぜんな人間にんげんになれないんだ。つまり自分じぶんに不足ふそくなところがどこかにあって、一人ひとりじゃそれをどうしても充たすみたす訳わけに行かいかないんだ」 お延のべの興味きょうみは急きゅうに退きしりぞきかけた。
叔父おじの云ういう事ことは、自分じぶんの疾うとうに知っしっている事実じじつに過ぎすぎなかった。
「昔むかしから陰陽おんみょう和合わごうっていうじゃありませんか」「ところが陰陽おんみょう和合わごうが必然ひつぜんでありながら、その反対はんたいの陰陽おんみょう不和ふわがまた必然ひつぜんなんだから面白いおもしろいじゃないか」「どうして」「いいかい。男おとこと女おんなが引張りひっぱり合うあうのは、互たがいに違っちがったところがあるからだろう。今いま云っいった通りとおり」「ええ」「じゃその違っちがったところは、つまり自分じぶんじゃない訳わけだろう。自分じぶんとは別物べつものだろう」「ええ」「それ御覧ごらん。自分じぶんと別物べつものなら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経っきょうったって、離れはなれているよりほかに仕方しかたがないじゃないか」 叔父おじはお延のべを征服せいふくした人ひとのようにからからと笑っわらった。
お延のべは負けまけなかった。
「だけどそりゃ理窟りくつよ」「無論むろん理窟りくつさ。どこへ出でても立派りっぱに通るとおる理窟りくつさ」「駄目だめよ、そんな理窟りくつは。何なんだか変へんですよ。ちょうど藤井ふじいの叔父おじさんがふり廻しふりまわしそうな屁へ理窟りくつよ」 お延のべは叔父おじをやり込めるやりこめる事ことができなかった。
けれども叔父おじのいう通りとおりを信ずるしんずる気きにはなれなかった。
またどうあっても信ずるしんずるのは厭いやであった。
七十六ななじゅうろく
叔父おじは面白おもしろ半分はんぶんまだいろいろな事ことを云っいった。
男おとこが女おんなを得とくて成仏じょうぶつする通りとおりに、女おんなも男おとこを得とくて成仏じょうぶつする。
しかしそれは結婚けっこん前まえの善男ぜんなん善女ぜんにょに限らかぎられた真理しんりである。
一いち度ど夫婦関係ふうふかんけいが成立せいりつするや否いなや、真理しんりは急きゅうに寝返りねがえりを打っうって、今までいままでとは正反対せいはんたいの事実じじつを我々われわれの眼めの前まえに突きつけるつきつける。
すなわち男おとこは女おんなから離れはなれなければ成仏じょうぶつできなくなる。
女おんなも男おとこから離れはなれなければ成仏じょうぶつし悪くわるくなる。
今までいままでの牽引けんいん力ちからがたちまち反撥はんぱつ性せいに変化へんかする。
そうして、昔むかしから云いいい習わしならわして来きた通りとおり、男おとこはやっぱり男同志おとこどうし、女おんなはどうしても女おんな同志どうしという諺ことわざを永久えいきゅうに認めみとめたくなる。
つまり人間にんげんが陰陽おんみょう和合わごうの実じつを挙げるあげるのは、やがて来るくるべき陰陽おんみょう不和ふわの理りを悟るさとるために過ぎすぎない。
…… 叔父おじの言葉ことばのどこまでが藤井ふじいの受売うけうりで、どこからが自分じぶんの考えかんがえなのか、またその考えかんがえのどこまでが真面目まじめで、どこからが笑談しょうだんなのか、お延のべにはよく分らわからなかった。
筆ふでを持つもつ術じゅつを知らしらない叔父おじは恐ろしくおそろしく口くちの達者たっしゃな人ひとであった。
ちょっとした心棒しんぼうがあると、その上うえに幾いく枚ばいでも手製てせいの着物きものを着せるきせる事ことのできる人ひとであった。
俗ぞくにいう警句けいくという種類しゅるいのものが、いくらでも彼かれの口くちから出でた。
お延のべが反対はんたいすればするほど、膏あぶらが乗っのってとめどなく出でて来きた。
お延のべはとうとう好いよい加減かげんにして切り上げきりあげなければならなかった。
「ずいぶんのべつね、叔父おじさんも」「口くちじゃとても敵いかないっこないからお止しよしよ。こっちで何なんかいうと、なお意地いじになるんだから」「ええ、わざわざ陰陽おんみょう不和ふわを醸すかもすように仕向けるしむけるのね」 お延のべが叔母おばとこんな批評ひひょうを取りとり換かえわせている間ま、叔父おじはにこにこして二人ふたりを眺めながめていたが、やがて会話かいわの途切れるとぎれるのを待っまって、徐ろにおもむろに宣告せんこくを下しおろした。
「とうとう降参こうさんしましたかな。降参こうさんしたなら、降参こうさんしたで宜しいよろしい。敗けまけたものを追窮ついきゅうはしないから。――そこへ行くいくと男おとこにはまた弱いよわいものを憐れむあわれむという美点びてんがあるんだからな、こう見えみえても」 彼かれはさも勝利者しょうりしゃらしい顔かおを粧っつくって立ち上がったちあがった。
障子しょうじを開けあけて室むろの外そとへ出るでると、もったいぶった足音あしおとが書斎しょさいの方ほうに向いむかいてだんだん遠ざかっとおざかって行っいった。
しばらくして戻っもどって来きた時じ、彼かれは片手かたてに小型こがたの薄っぺらうすっぺらな書物しょもつを四五しご冊さつ持っもっていた。
「おいお延のべ好いよいものを持っもって来きた。お前おまえ明日あすにでも病院びょういんへ行くいくなら、これを由雄よしおさんの所ところへ持っもってッてっておやり」「何なんよ」 お延のべはすぐ書物しょもつを受け取っうけとって表紙ひょうしを見みた。
英語えいごの標題ひょうだいが、外国語がいこくごに熟しじゅくしない彼女かのじょの眼めを少しすこし悩まなやませた。
彼女かのじょは拾いひろい読よみにぽつぽつ読み下しよみくだした。
ブックぶっく・オフおふ・ジョークスじょーくす。
イングリッシ・ウィットうぃっと・エンドえんど・ヒュモア。
……「へええ」「みんな滑稽こっけいなもんだ。洒落しゃれだとか、謎なぞだとかね。寝ねていて読むよむにはちょうど手頃てごろで好いよいよ、肩かたが凝らこらなくってね」「なるほど叔父おじさん向むかいのものね」「叔父おじさん向むかいでもこのくらいな程度ていどなら差支えさしつかえあるまい。いくら由雄よしおさんが厳格げんかくだって、まさか怒りゃおこりゃしまい」「怒るおこるなんて、……」「まあいいや、これも陰陽おんみょう和合わごうのためだ。試しためしに持っもってッてってみるさ」 お延のべが礼れいを云っいって書物しょもつを膝ひざの上うえに置くおくと、叔父おじはまた片々へんぺんの手てに持っもった小さいちいさい紙片しへんを彼女かのじょの前まえに出しだした。
「これは先刻せんこくお前おまえを泣かしなかした賠償金ばいしょうきんだ。約束やくそくだからついでに持っもっておいで」 お延のべは叔父おじの手てから紙片しへんを受取らうけとらない先さきに、その何なんであるかを知っしった。
叔父おじはことさらにそれをふり廻しふりまわした。
「お延のべ、これは陰陽おんみょう不和ふわになった時じ、一番いちばんよく利くきく薬くすりだよ。たいていの場合ばあいには一服いっぷく呑むのむとすぐ平癒へいゆする妙薬みょうやくだ」 お延のべは立ったっている叔父おじを見上げみあげながら、弱いよわい調子ちょうしで抵抗ていこうした。
「陰陽おんみょう不和ふわじゃないのよ。あたし達あたしたちのは本当ほんとうの和合わごうなのよ」「和合わごうならなお結構けっこうだ。和合わごうの時じに呑めのめば、精神せいしんがますます健全けんぜんになる。そうして身体しんたいはいよいよ強壮きょうそうになる。どっちへ転んころんでも間ま違いのない妙薬みょうやくだよ」 叔父おじの手てから小切手こぎってを受け取っうけとって、じっとそれを見つめみつめていたお延のべの眼めに涙なみだがいっぱい溜ったまった。
七十七ななじゅうなな
お延のべは叔父おじの送らおくらせるという俥くるまを断っことわった。
しかし停留所ていりゅうしょまで自身じしんで送っおくってやるという彼かれの好意こういを断りことわりかねた。
二人ふたりはついに連れ立っつれだって長いながい坂さかを河縁かわえんの方ほうへ下りくだりて行っいった。
「叔父おじさんの病気びょうきには運動うんどうが一番いちばんいいんだからね。――なに歩くあるくのは自分じぶんの勝手かってさ」 肥っふとっていて呼息こそくが短いみじかいので、坂さかを上るのぼるときおかしいほど苦しくるしがる彼かれは、まるで帰りかえりを忘れわすれたような事ことを云っいった。
二人ふたりは途々と夜よるの更けふけた昨夕さくゆうの話はなしをした。
仮寝かりねをして突とっッっ伏しふしていたお時じの様子ようすなどがお延のべの口くちに上っのぼった。
もと叔父おじの家いえにいたという縁故えんこで、新しん夫婦ふうふ二人ふたりぎりの家庭かていに住み込んすみこんだこの下女げじょに対したいして、叔父おじは幾分いくぶんか周旋しゅうせん者ものの責任せきにんを感じかんじなければならなかった。
「ありゃ叔母おばさんがよく知っしってるが、正直しょうじきで好いよい女おんななんだよ。留守るすなんぞさせるには持っもって来いこいだって受合っうけあったくらいだからね。だが独りひとりで寝ねちまっちゃ困るこまるね、不用心ふようじんで。もっともまだ年歯ねんしが年歯ねんしだからな。眠いねむい事ことも眠いねむいだろうよ」 いくら若くわかくっても、自分じぶんならそんな場合ばあいにぐっすり寝込まねこまれる訳わけのものでないという事ことをよく承知しょうちしていたお延のべは、叔父おじのこの想いおもいやりをただ笑いわらいながら聴いきいていた。
彼女かのじょに云わいわせれば、こうして早くはやく帰るかえるのも、あんなに遅くおそくなった昨日きのうの結果けっかを、今度こんどは繰り返さくりかえさせたくないという主意しゅいからであった。
彼女かのじょは急いいそいでそこへ来きた電車でんしゃに乗っのった。
そうして車くるまの中なかから叔父おじに向っむかって「さよなら」といった。
叔父おじは「さよなら、由雄よしおさんによろしく」といった。
二人ふたりが辛うじてかろうじて別れわかれの挨拶あいさつを交換こうかんするや否いなや、一種いっしゅの音おとと動揺どうようがすぐ彼女かのじょを支配しはいし始めはじめた。
車内しゃないのお延のべは別べつに纏まっまとまった事ことを考えかんがえなかった。
入れ替りいれかわり立ち替りたちかわり彼女かのじょの眼めの前まえに浮ぶうかぶ、昨日きのうからの関係者かんけいしゃの顔かおや姿すがたは、自分じぶんの乗っのっている電車でんしゃのように早くはやく廻転かいてんするだけであった。
しかし彼女かのじょはそうして目め眩しいまぶしい影像えいぞうを一貫いっかんしている或ある物ものを心こころのうちに認めみとめた。
もしくはその或ある物ものが根ね調ちょうで、そうした断片的だんぺんてきな影像えいぞうが眼めの前まえに飛び廻るとびまわるのだとも云えいえた。
彼女かのじょはその或ある物ものを拈定しなければならなかった。
しかし彼女かのじょの努力どりょくは容易よういに成せい効かいをもって酬いむくいられなかった。
団子だんごを認めみとめた彼女かのじょは、ついに個々ここを貫いつらぬいている串くしを見定めるみさだめる事ことのできないうちに電車でんしゃを下りくだりてしまった。
玄関げんかんの格子こうしを開けるあける音おとと共ともに、台所だいどころの方ほうから駈けかけ出しだして来きたお時じは、彼女かのじょの予期よき通りとおり「お帰りかえり」と云っいって、鄭てい寧ねいな頭あたまを畳たたみの上うえに押し付けおしつけた。
お延のべは昨日きのうに違っちがった下女げじょの判はん切せつした態度たいどを、さも自分じぶんの手柄てがらででもあるように感じかんじた。
「今日きょうは早かっはやかったでしょう」 下女げじょはそれほど早いはやいとも思っおもっていないらしかった。
得意とくいなお延のべの顔かおを見みて、仕方なさしかたなさそうに、「へえ」と答えこたえたので、お延のべはまた譲歩じょうほした。
「もっと早くはやく帰ろうかえろうと思っおもったんだけれどもね、つい日ひが短かいみじかいもんだから」 自分じぶんの脱ぎ棄てぬぎすてた着物きものをお時じに畳またたませる時じ、お延のべは彼女かのじょに訊いきいた。
「あたしのいない留守るすに何になんにも用ようはなかったろうね」 お時おときは「いいえ」と答えこたえた。
お延のべは念ねんのためもう一遍いちぺん問もんを改めあらためた。
「誰だれも来きやしなかったろうね」 するとお時おときが急きゅうに忘れわすれたものを思い出しおもいだしたように調子ちょうし高こうな返事へんじをした。
「あ、いらっしゃいました。あの小林こばやしさんとおっしゃる方ほうが」 夫おっとの知人ちじんとしての小林こばやしの名なはお延のべの耳みみに始めはじめてではなかった。
彼女かのじょには二三にさん度どその人ひとと口くちを利いきいた記憶きおくがあった。
しかし彼女かのじょはあまり彼かれを好いよいていなかった。
彼かれが夫おっとからはなはだ軽くかるく見みられているという事こともよく呑み込んのみこんでいた。
「何なんしに来きたんだろう」 こんなぞんざいな言葉ことばさえ、つい口先くちさきへ出でそうになった彼女かのじょは、それでも尋常じんじょうな調子ちょうしで、お時じに訊き返しききかえした。
「何なんか御用ごようでもおありだったの」「ええあの外套がいとうを取りとりにいらっしゃいました」 夫おっとから何になんにも聞かさきかされていないお延のべに、この言葉ことばはまるで通じつうじなかった。
「外套がいとう? 誰だれの外套がいとう?」 周密しゅうみつなお延のべはいろいろな問もんをお時じにかけて、小林こばやしの意味いみを知ろうしろうとした。
けれどもそれは全くまったくの徒労とろうであった。
お延のべが訊けきけば訊くきくほど、お時じが答えれこたえれば答えるこたえるほど、二人ふたりは迷宮めいきゅうに入るはいるだけであった。
しまいに自分じぶん達とおるより小林こばやしの方ほうが変へんだという事ことに気きのついた二人ふたりは、声こえを出しだして笑っわらった。
津田つだの時々ときどき使うつかうノンセンスのんせんすと云ういう英語えいごがお延のべの記憶きおくに蘇生そせいえった。
「小林こばやしとノンセンスのんせんす」こう結びつけむすびつけて考えるかんがえると、お延のべはたまらなくおかしくなった。
発作ほっさのように込み上げこみあげてくる滑稽こっけい感かんに遠慮えんりょなく自己じこを託したくした彼女かのじょは、電車でんしゃの中なかから持ち越しもちこして帰っかえって来きた、気がかりきがかりな宿題しゅくだいを、しばらく忘れわすれていた。
七十八ななじゅうはち
お延のべはその晩ばん京都きょうとにいる自分じぶんの両親りょうしんへ宛てあてて手紙てがみを書いかいた。
一昨いっさく日ひも昨日きのうも書きかきかけて止めとめにしたその音信おんしんを、今日きょうは是非ぜひとも片づけかたづけてしまわなければならないと思い立っおもいたった彼女かのじょの頭あたまの中なかには、けっして両親りょうしんの事ことばかり働いはたらいているのではなかった。
彼女かのじょは落ちつけおちつけなかった。
不安ふあんから逃れようのがれようとする彼女かのじょには注意ちゅういを一いちつ所ところに集めるあつめる必要ひつようがあった。
先刻せんこくからの疑問ぎもんを解決かいけつしたいという切せつな希望きぼうもあった。
要するようするに京都きょうとへ手紙てがみを書けかけば、ざわざわしがちな自分じぶんの心持こころもちを纏めまとめて見るみる事ことができそうに思えおもえたのである。
筆ふでを取り上げとりあげた彼女かのじょは、例れいの通りとおり時候じこうの挨拶あいさつから始めはじめて、無沙汰むさたの申し訳もうしわけまでを器械きかい的まとに書きかき了っしまった後あとで、しばらく考えかんがえた。
京都きょうとへ何なんか書いかいてやる以上いじょうは、是非ぜひとも自分じぶんと津田つだとの消息しょうそくを的まとにおかなければならなかった。
それはどの親おやも新婚しんこんの娘むすめから聞きききたがる事項じこうであった。
どの娘むすめもまた生家せいかの父母ふぼに知らしらせなくってはすまない事項じこうであった。
それを差しさし措いおいて里さとへ手紙てがみをやる必要ひつようはほとんどあるまいとまで平生へいぜいから信じしんじていたお延のべは、筆ふでを持っもったまま、目下めした自分じぶんと津田つだとの間柄あいだがらは、はたしてどんなところにどういう風かぜに関係かんけいしているかを考えかんがえなければならなかった。
彼女かのじょはありのままその物ものを父母ふぼに報知ほうちする必要ひつように逼らせまられてはいなかった。
けれどもある男おとこに嫁いよめいだ一いち個この妻つまとして、それを見極めみきわめておく要求ようきゅうを痛切つうせつに感じかんじた。
彼女かのじょはじっと考え込んかんがえこんだ。
筆ふではそこでとまったぎり動かうごかなくなった。
その動かうごかなくなった筆ふでの事ことさえ忘れわすれて、彼女かのじょは考えかんがえなければならなかった。
しかも知ろうしろうとすればするほど、確としかとしたところは手てに掴めつかめなかった。
手紙てがみを書くかくまでの彼女かのじょは、ざわざわした散漫さんまんな不安ふあんに悩まさなやまされていた。
手紙てがみを書きかき始めはじめた今いまの彼女かのじょは、ようやく一いちつ所ところに落ちついおちついた。
そうしてまた一いちつ所ところに落ちついおちついた不安ふあんに悩まさなやまされ始めはじめた。
先刻せんこく電車でんしゃの中なかで、ちらちら眼め先さきにつき出しつきだしたいろいろの影像えいぞうは、みんなこの一いち点てんに向っむかって集注しっちゅうするのだという事ことを、前後ぜんご両様りょうようの比較ひかくから発見はっけんした彼女かのじょは、やっと自分じぶんを苦しめるくるしめる不安ふあんの大根だいこんに辿りついたどりついた。
けれどもその大根だいこんの正体しょうたいはどうしても分らわからなかった。
勢いいきおい彼女かのじょは問題もんだいを未来みらいに繰り越さくりこさなければならなかった。
「今日きょう解決かいけつができなければ、明日あす解決かいけつするよりほかに仕方しかたがない。明日あす解決かいけつができなければ明後日みょうごにち解決かいけつするよりほかに仕方しかたがない。明後日みょうごにち解決かいけつができなければ……」 これが彼女かのじょの論法ろんぽうであった。
また希望きぼうであった。
最後さいごの決心けっしんであった。
そうしてその決心けっしんを彼女かのじょはすでに継子けいしの前まえで公言こうげんしていたのである。
「誰だれでも構わかまわない、自分じぶんのこうと思い込んおもいこんだ人ひとを飽くまであくまで愛するあいする事ことによって、その人ひとに飽くまであくまで自分じぶんを愛さあいさせなければやまない」 彼女かのじょはここまで行くいく事ことを改めてあらためて心こころに誓っちかった。
ここまで行っいって落ちつくおちつく事ことを自分じぶんの意志いしに命令めいれいした。
彼女かのじょの気分きぶんは少しすこし軽くかるくなった。
彼女かのじょは再びふたたび筆ふでを動かしうごかした。
なるべく父母ふぼの喜こびよろこびそうな津田つだと自分じぶんの現況げんきょうを憚りはばかりなく書き連ねかきつらねた。
幸福こうふくそうに暮しくらしている二人ふたりの趣おもむきが、それからそれへと描出びょうしゅつされた。
感激かんげきに充ちみちた筆ふでの穂先ほさきがさらさらと心持こころもちよく紙かみの上うえを走るはしるのが彼女かのじょには面白かっおもしろかった。
長いながい手紙てがみがただ一息ひといきに出来上っできあがった。
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