その一の学校友達という連想から、また自分の親戚の方へ逆戻りをして、甥の真事だの、いろいろな名がたくさん並べられた。初手から気がついていながら、最後まで名を書かなかったのは小林だけであった。他の意味は別として、ただ在所を嗅ぎつけられるという恐れから、津田はどうしてもこの旅行先を彼に知らせたくなかったのである。その小林は不日朝鮮へ行くべき人であった。無検束をもって自ら任ずる彼は、海を渡る覚悟ですでにもう汽車に揺られているかも知れなかった。同時に不規律な彼はまた出立と公言した日が来ても動かずにいないとも限らなかった。絵端書を見て、(もし津田がそれを出すとすると、)すぐここへやって来ないという事はけっして断言できなかった。
第 19 章
津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介なこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙だてた。
するといったん緒口の開いた想像の光景はそこでとまらなかった。
彼を拉してずんずん先へ進んだ。
彼は突然玄関へ馬車を横付にする、そうして怒鳴り込むような大きな声を出して彼の室へ入ってくる小林の姿を眼前に髣髴した。
「何しに来た」「何しにでもない、貴様を厭がらせに来たんだ」「どういう理由で」「理由も糸瓜もあるもんか。貴様がおれを厭がる間は、いつまで経ってもどこへ行っても、ただ追かけるんだ」「畜生ッ」 津田は突然拳を固めて小林の横ッ面を撲らなければならなかった。
小林は抵抗する代りに、たちまち大の字になって室の真中へ踏ん反り返らなければならなかった。
「撲ったな、この野郎。さあどうでもしろ」 まるで舞台の上でなければ見られないような活劇が演ぜられなければならなかった。
そうしてそれが宿中の視聴を脅かさなければならなかった。
その中には是非とも清子が交っていなければならなかった。
万事は永久に打ち砕かれなければならなかった。
事実よりも明暸な想像の一幕を、描くともなく頭の中に描き出した津田は、突然ぞっとして我に返った。
もしそんな馬鹿げた立ち廻りが実際生活の表面に現われたらどうしようと考えた。
彼は羞恥と屈辱を遠くの方に感じた。
それを象徴するために、頬の内側が熱って来るような気さえした。
しかし彼の批判はそれぎり先へ進めなかった。
他に対して面目を失う事、万一そんな不始末をしでかしたら大変だ。
これが彼の倫理観の根柢に横わっているだけであった。
それを切りつめると、ついに外聞が悪いという意味に帰着するよりほかに仕方がなかった。
だから悪い奴はただ小林になった。
「おれに何の不都合がある。彼奴さえいなければ」 彼はこう云って想像の幕に登場した小林を責めた。
そうして自分を不面目にするすべての責任を相手に背負わせた。
夢のような罪人に宣告を下した後の彼は、すぐ心の調子を入れ代えて、紙入の中から一枚の名刺を出した。
その裏に万年筆で、「僕は静養のため昨夜ここへ来ました」と書いたなり首を傾けた。
それから「あなたがおいでの事を今朝聴きました」と付け足してまた考えた。
「これじゃ空々しくっていけない、昨夜会った事も何とか書かなくっちゃ」 しかし当り障りのないようにそこへ触れるのはちょっと困難であった。
第一書く事が複雑になればなるほど、文字が多くなって一枚の名刺では事が足りなくなるだけであった。
彼はなるべく淡泊した口上を伝えたかった。
したがって小面倒な封書などは使いたくなかった。
思いついたように違い棚の上を眺めた彼は、まだ手をつけなかった吉川夫人の贈物が、昨日のままでちゃんと載せてあるのを見て、すぐそれを下へ卸した。
彼は果物籃の葢の間へ、「御病気はいかがですか。これは吉川の奥さんからのお見舞です」と書いた名刺を挿し込んだ後で、下女を呼んだ。
「宅に関さんという方がおいでだろう」 今朝給仕をしたのと同じ下女は笑い出した。
「関さんが先刻お話した奥さんの事ですよ」「そうか。じゃその奥さんでいいから、これを持って行って上げてくれ。そうしてね、もしお差支えがなければちょっとお目にかかりたいって」「へえ」 下女はすぐ果物籃を提げて廊下へ出た。
百八十二
返事を待ち受ける間の津田は居据りの悪い置物のように落ちつかなかった。
ことにすぐ帰って来べきはずの下女が思った通りすぐ帰って来ないので、彼はなおの事心を遣った。
「まさか断るんじゃあるまいな」 彼が吉川夫人の名を利用したのは、すでに万一を顧慮したからであった。
夫人とそうして彼女の見舞品、この二つは、それを届ける津田に対して、清子の束縛を解く好い方便に違なかった。
単に彼と応接する煩わしさ、もしくはそれから起り得る嫌疑を避けようとするのが彼女の当体であったにしたところで、果物籃の礼はそれを持って来た本人に会って云うのが、順であった。
誰がどう考えても無理のない名案を工夫したと信ずるだけに、下女の遅いのを一層苦にしなければならなかった彼は、ふかしかけた煙草を捨てて、縁側へ出たり、何のためとも知れず、黙って池の中を動いている緋鯉を眺めたり、そこへしゃがんで、軒下に寝ている犬の鼻面へ手を延ばして見たりした。
やっとの事で、下女の足音が廊下の曲り角に聴えた時に、わざと取り繕った余裕を外側へ示したくなるほど、彼の心はそわそわしていた。
「どうしたね」「お待遠さま。大変遅かったでしょう」「なにそうでもないよ」「少しお手伝いをしていたもんですから」「何の?」「お部屋を片づけてね、それから奥さんの御髪を結って上げたんですよ。それにしちゃ早いでしょう」 津田は女の髷がそんなに雑作なく結える訳のものでないと思った。
「銀杏返しかい、丸髷かい」 下女は取り合わずにただ笑い出した。
「まあ行って御覧なさい」「行って御覧なさいって、行っても好いのかい。その返事を先刻からこうして待ってるんじゃないか」「おやどうもすみません、肝心のお返事を忘れてしまって。――どうぞおいで下さいましって」 やっと安心した津田は、立上りながらわざと冗談半分に駄目を押した。
「本当かい。迷惑じゃないかね。向へ行ってから気の毒な思いをさせられるのは厭だからね」「旦那様はずいぶん疑り深い方ですね。それじゃ奥さんもさぞ――」「奥さんとは誰だい、関の奥さんかい、それとも僕の奥さんかい」「どっちだか解ってるじゃありませんか」「いや解らない」「そうでございますか」 兵児帯を締め直した津田の後ろへ廻った下女は、室を出ようとする背中から羽織をかけてくれた。
「こっちかい」「今御案内を致します」 下女は先へ立った。
夢遊病者として昨夕彷徨った記憶が、例の姿見の前へ出た時、突然津田の頭に閃めいた。
「ああここだ」 彼は思わずこう云った。
事情を知らない下女は無邪気に訊き返した。
「何がです」 津田はすぐごまかした。
「昨夕僕が幽霊に出会ったのはここだというのさ」 下女は変な顔をした。
「馬鹿をおっしゃい。宅に幽霊なんか出るもんですか。そんな事をおっしゃると――」 客商売をする宿に対して悪い洒落を云ったと悟った津田は、賢こく二階を見上げた。
「この上だろう、関さんのお室は」「ええ、よく知ってらっしゃいますね」「うん、そりゃ知ってるさ」「天眼通ですね」「天眼通じゃない、天鼻通と云って万事鼻で嗅ぎ分けるんだ」「まるで犬見たいですね」 階子段の途中で始まったこの会話は、上り口の一番近くにある清子の部屋からもう聴き取れる距離にあった。
津田は暗にそれを意識した。
「ついでに僕が関さんの室を嗅ぎ分けてやるから見ていろ」 彼は清子の室の前へ来て、ぱたりとスリッパーの音を止めた。
「ここだ」 下女は横眼で津田の顔を睨めるように見ながら吹き出した。
「どうだ当ったろう」「なるほどあなたの鼻はよく利きますね。猟犬よりたしかですよ」 下女はまた面白そうに笑ったが、室の中からはこの賑やかさに対する何の反応も出て来なかった。
人がいるかいないかまるで分らない内側は、始めと同じように索寞していた。
「お客さまがいらっしゃいました」 下女は外部から清子に話しかけながら、建てつけの好い障子をすうと開けてくれた。
「御免下さい」 一言の挨拶と共に室の中に入った津田はおやと思った。
彼は自分の予期通り清子をすぐ眼の前に見出し得なかった。
百八十三
室は二間続きになっていた。
津田の足を踏み込んだのは、床のない控えの間の方であった。
黒柿の縁と台の付いた長方形の鏡の前に横竪縞の厚い座蒲団を据えて、その傍に桐で拵らえた小型の長火鉢が、普通の家庭に見る茶の間の体裁を、小規模ながら髣髴せしめた。
隅には黒塗の衣桁があった。
異性に附着する花やかな色と手触りの滑こそうな絹の縞が、折り重なってそこに投げかけられていた。
間の襖は開け放たれたままであった。
津田は正面に当る床の間に活立らしい寒菊の花を見た。
前には座蒲団が二つ向い合せに敷いてあった。
濃茶に染めた縮緬のなかに、牡丹か何かの模様をたった一つ丸く白に残したその敷物は、品柄から云っても、また来客を待ち受ける準備としても、物々しいものであった。
津田は席につかない先にまず直感した。
「すべてが改まっている。これが今日会う二人の間に横わる運命の距離なのだろう」 突然としてここに気のついた彼は、今この室へ入り込んで来た自分をとっさに悔いようとした。
しかしこの距離はどこから起ったのだろう?
考えれば起るのが当り前であった。
津田はただそれを忘れていただけであった。
では、なぜそれを忘れていたのだろう?
考えれば、これも忘れているのが当り前かも知れなかった。
津田がこんな感想に囚えられて、控の間に立ったまま、室を出るでもなし、席につくでもなし、うっかり眼前の座蒲団を眺めている時に、主人側の清子は始めてその姿を縁側の隅から現わした。
それまで彼女がそこで何をしていたのか、津田にはいっこう解せなかった。
また何のために彼女がわざわざそこへ出ていたのか、それも彼には通じなかった。
あるいは室を片づけてから、彼の来るのを待ち受ける間、欄干の隅に倚りかかりでもして、山に重なる黄葉の色でも眺めていたのかも知れなかった。
それにしても様子が変であった。
有体に云えば、客を迎えるというより偶然客に出喰わしたというのが、この時の彼女の態度を評するには適当な言葉であった。
しかし不思議な事に、この態度は、しかつめらしく彼の着席を待ち受ける座蒲団や、二人の間を堰くためにわざと真中に置かれたように見える角火鉢ほど彼の気色に障らなかった。
というのは、それが元から彼の頭に描き出されている清子と、全く釣り合わないまでにかけ離れた態度ではなかったからである。
津田の知っている清子はけっしてせせこましい女でなかった。
彼女はいつでも優悠していた。
どっちかと云えばむしろ緩漫というのが、彼女の気質、またはその気質から出る彼女の動作について下し得る特色かも知れなかった。
彼は常にその特色に信を置いていた。
そうしてその特色に信を置き過ぎたため、かえって裏切られた。
少くとも彼はそう解釈した。
そう解釈しつつも当時に出来上った信はまだ不自覚の間に残っていた。
突如として彼女が関と結婚したのは、身を翻がえす燕のように早かったかも知れないが、それはそれ、これはこれであった。
二つのものを結びつけて矛盾なく考えようとする時、悩乱は始めて起るので、離して眺めれば、甲が事実であったごとく、乙もやッぱり本当でなければならなかった。
「あの緩い人はなぜ飛行機へ乗った。彼はなぜ宙返りを打った」 疑いはまさしくそこに宿るべきはずであった。
けれども疑おうが疑うまいが、事実はついに事実だから、けっしてそれ自身に消滅するものでなかった。
反逆者の清子は、忠実なお延よりこの点において仕合せであった。
もし津田が室に入って来た時、彼の気合を抜いて、間の合わない時分に、わざと縁側の隅から顔を出したものが、清子でなくって、お延だったなら、それに対する津田の反応ははたしてどうだろう。
「また何か細工をするな」 彼はすぐこう思うに違なかった。
ところがお延でなくって、清子によって同じ所作が演ぜられたとなると結果は全然別になった。
「相変らず緩漫だな」 緩漫と思い込んだあげく、現に眼覚しい早技で取って投げられていながら、津田はこう評するよりほかに仕方がなかった。
その上清子はただ間を外しただけではなかった。
彼女は先刻津田が吉川夫人の名前で贈りものにした大きな果物籃を両手でぶら提げたまま、縁側の隅から出て来たのである。
どういうつもりか、今までそれを荷厄介にしているという事自身が、津田に対しての冷淡さを示す度盛にならないのは明かであった。
それからその重い物を今まで縁側の隅で持っていたとすれば無論、いったん下へ置いてさらに取り上げたと解釈しても、彼女の所作は変に違なかった。
少くとも不器用であった。
何だか子供染みていた。
しかし彼女の平生をよく知っている津田は、そこにいかにも清子らしい或物を認めざるを得なかった。
「滑稽だな。いかにもあなたらしい滑稽だ。そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ」 重そうに籃を提げている清子の様子を見た津田は、ほとんどこう云いたくなった。
百八十四
すると清子はその籃をすぐ下女に渡した。
下女はどうしていいか解らないので、器械的に手を出してそれを受取ったなり、黙っていた。
この単純な所作が双方の間に行われるあいだ、津田は依然として立っていなければならなかった。
しかし普通の場合に起る手持無沙汰の感じの代りに、かえって一種の気楽さを味わった彼には何の苦痛も来ずにすんだ。
彼はただ間の延びた挙動の引続きとして、平生の清子と矛盾しない意味からそれを眺めた。
だから昨夜の記憶からくる不審も一倍に強かった。
この逼らない人が、どうしてあんなに蒼くなったのだろう。
どうしてああ硬く見えたのだろう。
あの驚ろき具合とこの落ちつき方、それだけはどう考えても調和しなかった。
彼は夜と昼の区別に生れて初めて気がついた人のような心持がした。
彼は招ぜられない先に、まず自分から設けの席に着いた。
そうして立ちながら果物を皿に盛るべく命じている清子を見守った。
「どうもお土産をありがとう」 これが始めて彼女の口を洩れた挨拶であった。
話頭はそのお土産を持って来た人から、その土産をくれた人の好意に及ばなければならなかった。
もとより嘘を吐く覚悟で吉川夫人の名前を利用したその時の津田には、もうごまかすという意識すらなかった。
「道伴になったお爺さんに、もう少しで蜜柑をやっちまうところでしたよ」「あらどうして」 津田は何と答えようが平気であった。
「あんまり重くって荷になって困るからです」「じゃ来る途中始終手にでも提げていらしったの」 津田にはこの質問がいかにも清子らしく無邪気に聴えた。
「馬鹿にしちゃいけません。あなたじゃあるまいし、こんなものを提げて、縁側をあっちへ行ったりこっちへ来たりしていられるもんですか」 清子はただ微笑しただけであった。
その微笑には弁解がなかった。
云い換えれば一種の余裕があった。
嘘から出立した津田の心はますます平気になるばかりであった。
「相変らずあなたはいつでも苦がなさそうで結構ですね」「ええ」「ちっとももとと変りませんね」「ええ、だって同なじ人間ですもの」 この挨拶を聞くと共に、津田は急に何か皮肉を云いたくなった。
その時皿の中へ問題の蜜柑を盛り分けていた下女が突然笑い出した。
「何を笑うんだ」「でも、奥さんのおっしゃる事がおかしいんですもの」と弁解した彼女は、真面目な津田の様子を見て、後からそれを具体的に説明すべく余儀なくされた。
「なるほど、そうに違いございませんね。生きてるうちはどなたも同なじ人間で、生れ変りでもしなければ、誰だって違った人間になれっこないんだから」「ところがそうでないよ。生きてるくせに生れ変る人がいくらでもあるんだから」「へえそうですかね、そんな人があったら、ちっとお目にかかりたいもんだけれども」「お望みなら逢わせてやってもいいがね」「どうぞ」といった下女はまたげらげら笑い出した。
「またこれでしょう」 彼女は人指指を自分の鼻の先へ持って行った。
「旦那様のこれにはとても敵いません。奥さまのお部屋をちゃんと臭で嗅ぎ分ける方なんですから」「部屋どころじゃないよ。お前の年齢から原籍から、生れ故郷から、何から何まであてるんだよ。この鼻一つあれば」「へえ恐ろしいもんでございますね。――どうも敵わない、旦那様に会っちゃ」 下女はこう云って立ち上った。
しかし室を出がけにまた一句の揶揄を津田に浴びせた。
「旦那様はさぞ猟がお上手でいらっしゃいましょうね」 日当りの好い南向の座敷に取り残された二人は急に静かになった。
津田は縁側に面して日を受けて坐っていた。
清子は欄干を背にして日に背いて坐っていた。
津田の席からは向うに見える山の襞が、幾段にも重なり合って、日向日裏の区別を明らさまに描き出す景色が手に取るように眺められた。
それを彩どる黄葉の濃淡がまた鮮やかな陰影の等差を彼の眸中に送り込んだ。
しかし眼界の豁い空間に対している津田と違って、清子の方は何の見るものもなかった。
見れば北側の障子と、その障子の一部分を遮ぎる津田の影像だけであった。
彼女の視線は窮屈であった。
しかし彼女はあまりそれを苦にする様子もなかった。
お延ならすぐ姿勢を改めずにはいられないだろうというところを、彼女はむしろ落ちついていた。
彼女の顔は、昨夕と反対に、津田の知っている平生の彼女よりも少し紅かった。
しかしそれは強い秋の光線を直下に受ける生理作用の結果とも解釈された。
山を眺めた津田の眼が、端なく上気した時のように紅く染った清子の耳朶に落ちた時、彼は腹のうちでそう考えた。
彼女の耳朶は薄かった。
そうして位置の関係から、肉の裏側に差し込んだ日光が、そこに寄った彼女の血潮を通過して、始めて津田の眼に映ってくるように思われた。
百八十五
こんな場合にどっちが先へ口を利き出すだろうか、もし相手がお延だとすると、事実は考えるまでもなく明暸であった。
彼女は津田に一寸の余裕も与えない女であった。
その代り自分にも五分の寛ぎさえ残しておく事のできない性質に生れついていた。
彼女はただ随時随所に精一杯の作用をほしいままにするだけであった。
勢い津田は始終受身の働きを余儀なくされた。
そうして彼女に応戦すべく緊張の苦痛と努力の窮屈さを甞めなければならなかった。
ところが清子を前へ据えると、そこに全く別種の趣が出て来た。
段取は急に逆になった。
相撲で云えば、彼女はいつでも津田の声を受けて立った。
だから彼女を向うへ廻した津田は、必ず積極的に作用した。
それも十が十まで楽々とできた。
二人取り残された時の彼は、取り残された後で始めてこの特色に気がついた。
気がつくと昔の女に対する過去の記憶がいつの間にか蘇生していた。
今まで彼の予想しつつあった手持無沙汰の感じが、ちょうどその手持無沙汰の起らなければならないと云う間際へ来て、不思議にも急に消えた。
彼は伸び伸びした心持で清子の前に坐っていた。
そうしてそれは彼が彼女の前で、事件の起らない過去に経験したものと大して変っていなかった。
少くとも同じ性質のものに違ないという自覚が彼の胸のうちに起った。
したがって談話の途切れた時積極的に動き始めたものは、昔の通り彼であった。
しかも昔しの通りな気分で動けるという事自身が、彼には思いがけない満足になった。
「関君はどうしました。相変らず御勉強ですか。その後御無沙汰をしていっこうお目にかかりませんが」 津田は何の気もつかなかった。
会話の皮切に清子の夫を問題にする事の可否は、利害関係から見ても、今日まで自分ら二人の間に起った感情の行掛り上から考えても、またそれらの纏綿した情実を傍に置いた、自然不自然の批判から云っても、実は一思案しなければならない点であった。
それを平生の細心にも似ず、一顧の掛念さえなく、ただ無雑作に話頭に上せた津田は、まさに居常お延に対する時の用意を取り忘れていたに違なかった。
しかし相手はすでにお延でなかった。
津田がその用心を忘れても差支えなかったという証拠は、すぐ清子の挨拶ぶりで知れた。
彼女は微笑して答えた。
「ええありがとう。まあ相変らずです。時々二人してあなたのお噂を致しております」「ああそうですか。僕も始終忙がしいもんですから、方々へ失礼ばかりして……」「良人も同なじよ、あなた。近頃じゃ閑暇な人は、まるで生きていられないのと同なじ事ね。だから自然御互いに遠々しくなるんですわ。だけどそれは仕方がないわ、自然の成行だから」「そうですね」 こう答えた津田は、「そうですね」という代りに「そうですか」と訊いて見たいような気がした。
「そうですか、ただそれだけで疎遠になったんですか。それがあなたの本音ですか」という詰問はこの時すでに無言の文句となって彼の腹の中に蔵れていた。
しかも彼はほとんど以前と同じように単純な、もしくは単純とより解釈のできない清子を眼前に見出した。
彼女の態度には二人の間に関を話題にするだけの余裕がちゃんと具っていた。
それを口にして苦にならないほどの淡泊さが現われていた。
ただそれは津田の暗に予期して掛ったところのもので、同時に彼のかつて予想し得なかったところのものに違なかった。
昔のままの女主人公に再び会う事ができたという満足は、彼女がその昔しのままの鷹揚な態度で、関の話を平気で津田の前にし得るという不満足といっしょに来なければならなかった。
「どうしてそれが不満足なのか」 津田は面と向ってこの質問に対するだけの勇気がなかった。
関が現に彼女の夫である以上、彼は敬意をもって彼女のこの態度を認めなければならなかった。
けれどもそれは表通りの沙汰であった。
偶然往来を通る他人のする批評に過ぎなかった。
裏には別な見方があった。
そこには無関心な通りがかりの人と違った自分というものが頑張っていた。
そうしてその自分に「私」という名を命ける事のできなかった津田は、飽くまでもそれを「特殊な人」と呼ぼうとしていた。
彼のいわゆる特殊な人とはすなわち素人に対する黒人であった。
無知者に対する有識者であった。
もしくは俗人に対する専門家であった。
だから通り一遍のものより余計に口を利く権利をもっているとしか、彼には思えなかった。
表で認めて裏で首肯わなかった津田の清子に対する心持は、何かの形式で外部へ発現するのが当然であった。
百八十六
「昨夕は失礼しました」 津田は突然こう云って見た。
それがどんな風に相手を動かすだろうかというのが、彼の覘いどころであった。
「私こそ」 清子の返事はすらすらと出た。
そこに何の苦痛も認められなかった時に津田は疑った。
「この女は今朝になってもう夜の驚ろきを繰り返す事ができないのかしら」 もしそれを憶い起す能力すら失っているとすると、彼の使命は善にもあれ悪にもあれ、はかないものであった。
「実はあなたを驚ろかした後で、すまない事をしたと思ったのです」「じゃ止して下さればよかったのに」「止せばよかったのです。けれども知らなければ仕方がないじゃありませんか。あなたがここにいらっしゃろうとは夢にも思いがけなかったのですもの」「でも私への御土産を持って、わざわざ東京から来て下すったんでしょう」「それはそうです。けれども知らなかった事も事実です。昨夕は偶然お眼にかかっただけです」「そうですか知ら」 故意を昨夕の津田に認めているらしい清子の口吻が、彼を驚ろかした。
「だって、わざとあんな真似をする訳がないじゃありませんか、なんぼ僕が酔興だって」「だけどあなたはだいぶあすこに立っていらしったらしいのね」 津田は水盤に溢れる水を眺めていたに違なかった。
姿見に映るわが影を見つめていたに違なかった。
最後にそこにある櫛を取って頭まで梳いてぐずぐずしていたに違なかった。
「迷児になって、行先が分らなくなりゃ仕方がないじゃありませんか」「そう。そりゃそうね。けれども私にはそう思えなかったんですもの」「僕が待ち伏せをしていたとでも思ってるんですか、冗談じゃない。いくら僕の鼻が万能だって、あなたの湯泉に入る時間まで分りゃしませんよ」「なるほど、そりゃそうね」 清子の口にしたなるほどという言葉が、いかにもなるほどと合点したらしい調子を帯びているので、津田は思わず吹き出した。
「いったい何だって、そんな事を疑っていらっしゃるんです」「そりゃ申し上げないだって、お解りになってるはずですわ」「解りっこないじゃありませんか」「じゃ解らないでも構わないわ。説明する必要のない事だから」 津田は仕方なしに側面から向った。
「それでは、僕が何のためにあなたを廊下の隅で待ち伏せていたんです。それを話して下さい」「そりゃ話せないわ」「そう遠慮しないでもいいから、是非話して下さい」「遠慮じゃないのよ、話せないから話せないのよ」「しかし自分の胸にある事じゃありませんか。話そうと思いさえすれば、誰にでも話せるはずだと思いますがね」「私の胸に何にもありゃしないわ」 単純なこの一言は急に津田の機鋒を挫いた。
同時に、彼の語勢を飛躍させた。
「なければどこからその疑いが出て来たんです」「もし疑ぐるのが悪ければ、謝まります。そうして止します」「だけど、もう疑ったんじゃありませんか」「だってそりゃ仕方がないわ。疑ったのは事実ですもの。その事実を白状したのも事実ですもの。いくら謝まったってどうしたって事実を取り消す訳には行かないんですもの」「だからその事実を聴かせて下さればいいんです」「事実はすでに申し上げたじゃないの」「それは事実の半分か、三分一です。僕はその全部が聴きたいんです」「困るわね。何といってお返事をしたらいいんでしょう」「訳ないじゃありませんか、こういう理由があるから、そういう疑いを起したんだって云いさえすれば、たった一口で済んじまう事です」 今まで困っていたらしい清子は、この時急に腑に落ちたという顔つきをした。
「ああ、それがお聴きになりたいの」「無論です。先刻からそれが伺いたければこそ、こうしてしつこくあなたを煩わせているんじゃありませんか。それをあなたが隠そうとなさるから――」「そんならそうと早くおっしゃればいいのに、私隠しも何にもしませんわ、そんな事。理由は何でもないのよ。ただあなたはそういう事をなさる方なのよ」「待伏せをですか」「ええ」「馬鹿にしちゃいけません」「でも私の見たあなたはそういう方なんだから仕方がないわ。嘘でも偽りでもないんですもの」「なるほど」 津田は腕を拱いて下を向いた。
百八十七
しばらくして津田はまた顔を上げた。
「何だか話が議論のようになってしまいましたね。僕はあなたと問答をするために来たんじゃなかったのに」 清子は答えた。
「私にもそんな気はちっともなかったの。つい自然そこへ持って行かれてしまったんだから故意じゃないのよ」「故意でない事は僕も認めます。つまり僕があんまりあなたを問いつめたからなんでしょう」「まあそうね」 清子はまた微笑した。
津田はその微笑のうちに、例の通りの余裕を認めた時、我慢しきれなくなった。
「じゃ問答ついでに、もう一つ答えてくれませんか」「ええ何なりと」 清子はあらゆる津田の質問に応ずる準備を整えている人のような答えぶりをした。
それが質問をかけない前に、少なからず彼を失望させた。
「何もかももう忘れているんだ、この人は」 こう思った彼は、同時にそれがまた清子の本来の特色である事にも気がついた。
彼は駄目を押すような心持になって訊いた。
「しかし昨夕階子段の上で、あなたは蒼くなったじゃありませんか」「なったでしょう。自分の顔は見えないから分りませんけれども、あなたが蒼くなったとおっしゃれば、それに違ないわ」「へえ、するとあなたの眼に映ずる僕はまだ全くの嘘吐でもなかったんですね、ありがたい。僕の認めた事実をあなたも承認して下さるんですね」「承認しなくっても、実際蒼くなったら仕方がないわ、あなた」「そう。――それから硬くなりましたね」「ええ、硬くなったのは自分にも分っていましたわ。もう少しあのままで我慢していたら倒れたかも知れないと思ったくらいですもの」「つまり驚ろいたんでしょう」「ええずいぶん吃驚したわ」「それで」と云いかけた津田は、俯向加減になって鄭寧に林檎の皮を剥いている清子の手先を眺めた。
滴るように色づいた皮が、ナイフの刃を洩れながら、ぐるぐると剥けて落ちる後に、水気の多そうな薄蒼い肉がしだいに現われて来る変化は彼に一年以上経った昔を憶い起させた。
「あの時この人は、ちょうどこういう姿勢で、こういう林檎を剥いてくれたんだっけ」 ナイフの持ち方、指の運び方、両肘を膝とすれすれにして、長い袂を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、ただ一つ違うところのある点に津田は気がついた。
それは彼女の指を飾る美くしい二個の宝石であった。
もしそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、そのぎらぎらした小さい光ほど、津田と彼女の間を鋭どく遮ぎるものはなかった。
柔婉に動く彼女の手先を見つめている彼の眼は、当時を回想するうっとりとした夢の消息のうちに、燦然たる警戒の閃めきを認めなければならなかった。
彼はすぐ清子の手から眼を放して、その髪を見た。
しかし今朝下女が結ってやったというその髪は通例の庇であった。
何の奇も認められない黒い光沢が、櫛の歯を入れた痕を、行儀正しく竪に残しているだけであった。
津田は思い切って、いったん捨てようとした言葉をまた取り上げた。
「それで僕の訊きたいのはですね――」 清子は顔を上げなかった。
津田はそれでも構わずに後を続けた。
「昨夕そんなに驚ろいたあなたが、今朝はまたどうしてそんなに平気でいられるんでしょう」 清子は俯向いたまま答えた。
「なぜ」「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」 清子はやっぱり津田を見ずに答えた。
「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」「説明はそれだけなんですか」「ええそれだけよ」 もし芝居をする気なら、津田はここで一つ溜息を吐くところであった。
けれども彼には押し切ってそれをやる勇気がなかった。
この女の前にそんな真似をしても始まらないという気が、技巧に走ろうとする彼をどことなく抑えつけた。
「しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか」 清子はこの問をかけるや否や顔を上げた。
「あらどうしてそんな事を御承知なの」「ちゃんと知ってるんです」 清子はちょっと津田を見た眼をすぐ下へ落した。
そうして綺麗に剥いた林檎に刃を入れながら答えた。
「なるほどあなたは天眼通でなくって天鼻通ね。実際よく利くのね」 冗談とも諷刺とも真面目とも片のつかないこの一言の前に、津田は退避いだ。
清子はようやく剥き終った林檎を津田の前へ押しやった。
「あなたいかが」
百八十八
津田は清子の剥いてくれた林檎に手を触れなかった。
「あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ」「そうね、そうしてあなたがまたわざわざそれをここまで持って来て下すったんですね。その御親切に対してもいただかなくっちゃ悪いわね」 清子はこう云いながら、二人の間にある林檎の一片を手に取った。
しかしそれを口へ持って行く前にまた訊いた。
「しかし考えるとおかしいわね、いったいどうしたんでしょう」「何がどうしたんです」「私吉川の奥さんにお見舞をいただこうとは思わなかったのよ。それからそのお見舞をまたあなたが持って来て下さろうとはなおさら思わなかったのよ」 津田は口のうちで「そうでしょう、僕でさえそんな事は思わなかったんだから」と云った。
その顔をじっと見守った清子の眼に、判然した答を津田から待ち受けるような予期の光が射した。
彼はその光に対する特殊な記憶を呼び起した。
「ああこの眼だっけ」 二人の間に何度も繰り返された過去の光景が、ありありと津田の前に浮き上った。
その時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じていた。
だからすべての知識を彼から仰いだ。
あらゆる疑問の解決を彼に求めた。
自分に解らない未来を挙げて、彼の上に投げかけるように見えた。
したがって彼女の眼は動いても静であった。
何か訊こうとするうちに、信と平和の輝きがあった。
彼はその輝きを一人で専有する特権をもって生れて来たような気がした。
自分があればこそこの眼も存在するのだとさえ思った。
二人はついに離れた。
そうしてまた会った。
自分を離れた以後の清子に、昔のままの眼が、昔と違った意味で、やっぱり存在しているのだと注意されたような心持のした時、津田は一種の感慨に打たれた。
「それはあなたの美くしいところです。けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなったのですか。判然教えて下さい」 津田の疑問と清子の疑問が暫時視線の上で行き合った後、最初に眼を引いたものは清子であった。
津田はその退き方を見た。
そうしてそこにも二人の間にある意気込の相違を認めた。
彼女はどこまでも逼らなかった。
どうでも構わないという風に、眼をよそへ持って行った彼女は、それを床の間に活けてある寒菊の花の上に落した。
眼で逃げられた津田は、口で追かけなければならなかった。
「なんぼ僕だってただ吉川の奥さんの使に来ただけじゃありません」「でしょう、だから変なのよ」「ちっとも変な事はありませんよ。僕は僕で独立してここへ来ようと思ってるところへ、奥さんに会って、始めてあなたのここにいらっしゃる事を聴かされた上に、ついお土産まで頼まれちまったんです」「そうでしょう。そうでもなければ、どう考えたって変ですからね」「いくら変だって偶然という事も世の中にはありますよ。そうあなたのように……」「だからもう変じゃないのよ。訳さえ伺えば、何でも当り前になっちまうのね」 津田はつい「こっちでもその訳を訊きに来たんだ」と云いたくなった。
しかし何にもそこに頓着していないらしい清子の質問は正直であった。
「それであなたもどこかお悪いの」 津田は言葉少なに病気の顛末を説明した。
清子は云った。
「でも結構ね、あなたは。そういう時に会社の方の御都合がつくんだから。そこへ行くと良人なんか気の毒なものよ、朝から晩まで忙がしそうにして」「関君こそ酔興なんだから仕方がない」「可哀想に、まさか」「いや僕のいうのは善い意味での酔興ですよ。つまり勉強家という事です」「まあ、お上手だ事」 この時下から急ぎ足で階子段を上って来る草履の音が聴えたので、何か云おうとした津田は黙って様子を見た。
すると先刻とは違った下女がそこへ顔を出した。
「あの浜のお客さまが、奥さまにお午から滝の方へ散歩においでになりませんか、伺って来いとおっしゃいました」「お供しましょう」清子の返事を聴いた下女は、立ち際に津田の方を見ながら「旦那様もいっしょにいらっしゃいまし」と云った。
「ありがとう。時にもうお午なのかい」「ええただいま御飯を持って参ります」「驚ろいたな」 津田はようやく立ち上った。
「奥さん」と云おうとして、云い損なった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。
「あなたはいつごろまでおいでです」「予定なんかまるでないのよ。宅から電報が来れば、今日にでも帰らなくっちゃならないわ」 津田は驚ろいた。
「そんなものが来るんですか」「そりゃ何とも云えないわ」 清子はこう云って微笑した。
津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰った。
――未完――