明暗

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その六だけを首肯った津田の挨拶は、自然どこかに曖昧な節を残さなければならなかった。それがこの場合誤解の種になるのは見やすい道理であった。夫人はどこまでも同じ言葉を繰り返して、津田を自分の好きな方角へのみ追い込んだ。

第 14 章
「隠しかくしちゃ駄目だめよ。あなたが隠すかくすと後あとが云えいえなくなるだけだから」 津田つだは是非ぜひその後そのあとを聴きききたかった。
その後そのあとを聴こうきこうとすれば、夫人ふじんの認定にんていを一いちから十じゅうまで承知しょうちするよりほかに仕方しかたがなかった。
夫人ふじんは「それ御覧ごらんなさい」と津田つだをやりこめた後あとで歩あゆみを進めすすめた。
「あなたにはてんから誤解ごかいがあるのよ。あなたは私わたくしを良人おっとといっしょに見みているんでしょう。それから良人おっとと岡本おかもとをまたいっしょに見みているんでしょう。それが大間おおま違いよ。岡本おかもとと良人おっとをいっしょに見るみるのはまだしも、私わたくしを良人おっとや岡本おかもとといっしょにするのはおかしいじゃありませんか、この事件じけんについて。学問がくもんをした方ほうにも似合わにあわないのねあなたも、そんなところへ行くいくと」 津田つだはようやく夫人ふじんの立場たちばを知るしる事ことができた。
しかしその立場たちばの位置いち及びおよびそれが自分じぶんに対したいしてどんな関係かんけいになっているのかまだ解らわからなかった。
夫人ふじんは云っいった。
「解りわかり切っきってるじゃありませんか。私わたくしだけはあなたと特別とくべつの関係かんけいがあるんですもの」 特別とくべつの関係かんけいという言葉ことばのうちに、どんな内容ないようが盛らもられているか、津田つだにはよく解っわかった。
しかしそれは目下めしたの問題もんだいではなかった。
なぜと云えいえば、その特別とくべつな関係かんけいをよく呑み込んのみこんでいればこそ、今日きょうまでの自分じぶんの行動こうどうにも、それ相当そうとうな一種いっしゅの色いろと調子ちょうしを与えあたえて来きたつもりだと彼かれは信じしんじていたのだから。
この特別とくべつな関係かんけいが夫人ふじんをどう支配しはいしているか、そこをもっと明らかあきらかに突きとめつきとめたところに、新らしいあたらしい問題もんだいは始めはじめて起るおこるのだと気きがついた彼かれは、ただ自分じぶんの誤解ごかいを認めるみとめるだけではすまされなかった。
夫人ふじんは一口ひとくちに云いいい払っはらった。
「私わたくしはあなたの同情どうじょう者ものよ」 津田つだは答えこたえた。
「それは今までいままでついぞ疑っうたがって見みた例れいもありません。私わたくしは信じしんじ切っきっています。そうしてその点てんで深くふかくあなたに感謝かんしゃしているものです。しかしどういう意味いみで? どういう意味いみで同情どうじょう者ものになって下さるくださるつもりなんですか、この場合ばあい。私わたくしは迂濶うかつものだから奥さんおくさんの意味いみがよく呑み込めのみこめません。だからもっと判然はんぜんり話しはなして下さいください」「この場合ばあいに同情どうじょう者ものとして私わたくしがあなたにして上げるあげる事ことがただ一いちつあると思うおもうんです。しかしあなたは多分たぶん――」 夫人ふじんはこれだけ云っいって津田つだの顔かおを見みた。
津田つだはまた焦らさじらされるのかと思っおもった。
しかしそうでないと断言だんげんした夫人ふじんの問もんは急きゅうに変っかわった。
「私わたくしの云ういう事ことを聴きききますか、聴きききませんか」 津田つだにはまだ常識じょうしきが残っのこっていた。
彼かれはここへ押しつめおしつめられた何人なんにんも考えかんがえなければならない事ことを考えかんがえた。
しかし考えかんがえた通りとおりを夫人ふじんの前まえで公然こうぜん明言めいげんする勇気ゆうきはなかった。
勢いいきおい彼かれの態度たいどは煮えにえ切らきらないものであった。
聴くきくとも聴かきかないとも云いいいかねた彼かれは躊躇ちゅうちょした。
「まあ云っいって見みて下さいください」「まあじゃいけません。あなたがもっと判はん切せつしなくっちゃ、私わたくしだって云ういう気きにはなれません」「だけれども――」「だけれどもでも駄目だめよ。聴きききますと男おとこらしく云わいわなくっちゃ」
百三十七ひゃくさんじゅうなな
どんな注文ちゅうもんが夫人ふじんの口くちから出るでるか見当けんとうのつかない津田つだは、ひそかに恐れおそれた。
受け合っうけあった後あとで撤回てっかいしなければならないような窮地きゅうちに陥いれおちいればそれぎりであった。
彼かれはその場合ばあいの夫人ふじんを想像そうぞうしてみた。
地位ちいから云っいっても、性質せいしつから見みても、また彼かれに対するたいする特別とくべつな関係かんけいから判断はんだんしても、夫人ふじんはけっして彼かれを赦すゆるす人ひとではなかった。
永久えいきゅう夫人ふじんの前まえに赦さゆるされない彼かれは、あたかも蘇生そせいの活かつ手段しゅだんを奪わうばわれた仮死かしの形骸けいがいと一般いっぱんであった。
用心ようじん深いぶかい彼かれは生還せいかんの望もちの確としかとしない危地きちに入り込むはいりこむ勇気ゆうきをもたなかった。
その上うえ普通ふつうの人ひとと違っちがって夫人ふじんはどんな難題なんだいを持ち出すもちだすか解らわからなかった。
自由じゆうの利ききき過ぎるすぎる境遇きょうぐう、そこに長くながく住みすみ馴れなれた彼女かのじょの眼めには、ほとんど自分じぶんの無理むりというものが映らうつらなかった。
云えいえばたいていの事ことは通っとおった。
たまに通らとおらなければ、意地いじで通すとおすだけであった。
ことに困るこまるのは、自分じぶんの動機どうきを明暸めいりょうに解剖かいぼうして見るみる必要ひつように逼らせまられない彼女かのじょの余裕よゆうであった。
余裕よゆうというよりもむしろ放ほう慢まんな心こころの持もち方ほうであった。
他ほかの世話せわを焼くやく時じにする自分じぶんの行動こうどうは、すべて親切しんせつと好意こういの発現はつげんで、そのほかに何なんの私わたくしもないものと、てんからきめてかかる彼女かのじょに、不安ふあんの来るくるはずはなかった。
自分じぶんの批判ひはんはほとんど当初とうしょから働はたらけらかないし、他ほかの批判ひはんは耳みみへ入らはいらず、また耳みみへ入れよういれようとするものもないとなると、ここへ落ちおちて来るくるのは自然しぜんの結果けっかでもあった。
夫人ふじんの前まえに押しつめおしつめられた時じ、津田つだの胸むねに、これだけの考えかんがえが蜿蜒えんえんり廻っまわったので、埒らちはますます開かひらかなかった。
彼かれの様子ようすを見みた夫人ふじんは、ついに笑いわらい出しだした。
「何なんをそんなにむずかしく考えかんがえてるんです。おおかた私わたくしがまた無理むりでも云いいい出すだすんだと思っおもってるんでしょう。なんぼ私わたくしだってあなたにできっこないような不法ふほうは考えかんがえやしませんよ。あなたがやろうとさえ思えおもえば、訳わけなくできる事ことなんです。そうして結果けっかはあなたの得とくになるだけなんです」「そんなに雑作ぞうさなくできるんですか」「ええまあ笑談しょうだんみたいなものです。ごくごく大袈裟おおげさに云っいったところで、面白おもしろ半分はんぶんの悪戯いたずらよ。だから思い切っおもいきってやるとおっしゃい」 津田つだにはすべてが謎なぞであった。
けれどもたかが悪戯いたずらならという気きがようやく彼かれの腹はらに起っおこった。
彼かれはついに決心けっしんした。
「何なんだか知らしらないがまあやってみましょう。話しはなしてみて下さいください」 しかし夫人ふじんはすぐその悪戯いたずらの性質せいしつを説明せつめいしなかった。
津田つだの保証ほしょうを掴んつかんだ後あとで、また話題わだいを変えかえた。
ところがそれは、あらゆる意味いみで悪戯いたずらとは全くまったくかけ離れかけはなれたものであった。
少くすくなくとも津田つだには重大じゅうだいな関係かんけいをもっていた。
夫人ふじんは下したのような言葉ことばで、まずそれを二人ふたりの間まに紹介しょうかいした。
「あなたはその後そのあと清子きよこさんにお会いあいになって」「いいえ」 津田つだの少しすこし吃驚びっくりしたのは、ただ問題もんだいの唐突とうとつなばかりではなかった。
不意ふいに自分じぶんをふり棄てすてた女おんなの名なが、逃がしにがした責任せきにんを半分はんぶん背負っせおっている夫人ふじんの口くちから急きゅうに洩れもれたからである。
夫人ふじんは語ごを継いつづいだ。
「じゃ今いまどうしていらっしゃるか、御存知ごぞんじないでしょう」「まるで知りしりません」「まるで知らしらなくっていいの」「よくないったって仕方しかたがないじゃありませんか。もうよそへ嫁よめに行っいってしまったんだから」「清子きよこさんの結婚けっこんの御ご披露ひろうの時じにあなたはおいでになったんでしたかね」「行きいきません。行こういこうたってちょっと行きいき悪いわるいですからね」「招待状しょうたいじょうは来きたの」「招待状しょうたいじょうは来きました」「あなたの結婚けっこんの御ご披露ひろうの時じに、清子きよこさんはいらっしゃらなかったようね」「ええ来きやしません」「招待状しょうたいじょうは出しだしたの」「招待状しょうたいじょうだけは出しだしました」「じゃそれっきりなのね、両方りょうほう共とも」「無論むろんそれっきりです。もしそれっきりでなかったら問題もんだいですもの」「そうね。しかし問題もんだいにも寄り切りよりきりでしょう」 津田つだには夫人ふじんの云ういう意味いみがよく解らわからなかった。
夫人ふじんはそれを説明せつめいする前まえにまたほかの道みちへ移っうつった。
「いったい延子のぶこさんは清子きよこさんの事ことを知っしってるの」 津田つだは塞さいえた。
小林こばやしを研究けんきゅうし尽しつくした上うえでなければ確としかとした返事へんじは与えあたえられなかった。
夫人ふじんは再びふたたび訊き直しききなおした。
「あなたが自分じぶんで話しはなした事ことはなくって」「ありゃしません」「じゃ延子のぶこさんはまるで知らしらずにいるのね、あの事ことを」「ええ、少くすくなくとも私わたくしからは何になんにも聴かさきかされちゃいません」「そう。じゃ全くまったく無邪気むじゃきなのね。それとも少しすこしは癇かんづいているところがあるの」「そうですね」 津田つだは考えかんがえざるを得とくなかった。
考えかんがえても断案だんあんは控えひかえざるを得とくなかった。
百三十八ひゃくさんじゅうはち
話しはなしているうちに、津田つだはまた思いがけおもいがけない相手あいての心理しんりに突き当っつきあたった。
今までいままで清子きよこの事ことをお延のべに知らしらせないでおく方ほうが、自分じぶんの都合つごうでもあり、また夫人ふじんの意志いしでもあるとばかり解釈かいしゃくして疑わうたがわなかった彼かれは、この時じ始めはじめて気きがついた。
夫人ふじんはどう考えかんがえてもお延のべにそれを気どっきどっていて貰いもらいたいらしかったからである。
「たいていの見当けんとうはつきそうなものですがね」と夫人ふじんは云っいった。
津田つだはお延のべの性質せいしつを知っしっているだけになお答えこたえ悪くわるくなった。
「そこが分らわからないといけないんですか」「ええ」 津田つだはなぜだか知らしらなかった。
けれども答えこたえた。
「もし必要ひつようなら話しはなしても好よしみござんすが……」 夫人ふじんは笑いわらい出しだした。
「今さらいまさらあなたがそんな事ことをしちゃぶち壊しぶちこわしよ。あなたはしまいまで知らしらん顔かおをしていなくっちゃ」 夫人ふじんはこれだけ云っいって、言葉ことばに区切くぎりを付けつけた後あとで、新たあらたに出直しでなおした。
「私わたくしの判断はんだんを云いいいましょうか。延子のぶこさんはああいう怜俐れいな方ほうだから、もうきっと感づいかんづいているに違いないと思うおもうのよ。何なん、みんな判るわかるはずもないし、またみんな判っわかっちゃこっちが困るこまるんです。判っわかったようでまた判らわからないようなのが、ちょうど持っもって来いこいという一番いちばん結構けっこうな頃合ころあいなんですからね。そこで私わたくしの鑑定かんていから云ういうと、今いまの延子のぶこさんは、都合つごうよく私わたくしのお誂えあつらえ通りとおりのところにいらっしゃるに違いないのよ」 津田つだは「そうですか」というよりほかに仕方しかたがなかった。
しかしそういう結論けつろんを夫人ふじんに与えるあたえる材料ざいりょうはほとんどなかろうにと、腹はらの中なかでは思っおもった。
しかるに夫人ふじんはあると云いいい出しだした。
「でなければ、ああ虚勢きょせいを張るはる訳わけがありませんもの」 お延のべの態度たいどを虚勢きょせいと評しひょうしたのは、夫人ふじんが始めはじめてであった。
この二に字じの前まえに怪訝けげんな思いおもいをしなければならなかった津田つだは、一方いっぽうから見みて、またその皮肉ひにくを第だい一いちに首くび肯わうけがわなければならない人ひとであった。
それにもかかわらず彼かれは躊躇ちゅうちょなしに応諾おうだくを与えるあたえる事ことができなかった。
夫人ふじんはまた事こともなげに笑っわらった。
「なに構わかまわないのよ。万一まんいち全くまったく気きがつかずにいるようなら、その時じはまたその時じでこっちにいくらでも手てがあるんだから」 津田つだは黙っだまってその後そのあとを待っまった。
すると後あとは出でずに、急きゅうに清子きよこの方ほうへ話はなしが逆転ぎゃくてんして来きた。
「あなたは清子きよこさんにまだ未練みれんがおありでしょう」「ありません」「ちっとも?」「ちっともありません」「それが男おとこの嘘うそというものです」 嘘うそを云ういうつもりでもなかった津田つだは、全然ぜんぜん本当ほんとうを云っいっているのでもないという事ことに気きがついた。
「これでも未練みれんがあるように見えみえますか」「そりゃ見えみえないわ、あなた」「じゃどうしてそう鑑定かんていなさるんです」「だからよ。見えみえないからそう鑑定かんていするのよ」 夫人ふじんの論議ろんぎは普通ふつうのそれとまるで反対はんたいであった。
と云っいって、支離滅裂しりめつれつはどこにも含まふくまれていなかった。
彼女かのじょは得意とくいにそれを引き延ばしひきのばした。
「ほかの人ひとには外側そとがわも内側うちがわも同どうなじとしか見えみえないでしょう。しかし私わたくしには外側そとがわへ出でられないから、仕方なししかたなしに未練みれんが内うちへ引込んひきこんでいるとしか考えかんがえられませんもの」「奥さんおくさんは初手しょてから私わたくしに未練みれんがあるものとして、きめてかかっていらっしゃるから、そうおっしゃるんでしょう」「きめてかかるのにどこに無理むりがありますか」「そう勝手にかってに認定にんていされてしまっちゃたまりません」「私わたくしがいつ勝手にかってに認定にんていしました。私わたくしのは認定にんていじゃありませんよ。事実じじつですよ。あなたと私わたくしだけに知れしれている事実じじつを云ういうのですよ。事実じじつですもの、それをちゃんと知っしってる私わたくしに隠せるかくせる訳わけがないじゃありませんか、いくらほかの人ひとを騙すだます事ことができたって。それもあなただけの事実じじつならまだしも、二人ふたりに共通きょうつうな事実じじつなんだから、両方りょうほうで相談そうだんの上うえ、どこかへ埋めうめちまわないうちは、記憶きおくのある限りかぎり、消えきえっこないでしょう」「じゃ相談そうだんずくでここで埋めうめちゃどうです」「なぜ埋めるうめるんです。埋めるうめる必要ひつようがどこかにあるんですか。それよりなぜそれを活かしいかして使わつかわないんです」「活かしいかして使うつかう? 私わたくしはこれでもまだ罪悪ざいあくには近寄りちかよりたくありません」「罪悪ざいあくとは何なんです。そんな手荒てあらな事ことをしろと私わたくしがいつ云いいいました」「しかし……」「あなたはまだ私わたくしの云ういう事ことをしまいまで聴かきかないじゃありませんか」 津田つだの眼めは好奇心こうきしんをもって輝やいかがやいた。
百三十九ひゃくさんじゅうきゅう
夫人ふじんはもう未練みれんのある証拠しょうこを眼めの前まえに突きつけつきつけて津田つだを抑えおさえたと同じおなじ事ことであった。
自白じはく後あとに等しいひとしい彼かれの態度たいどは二人ふたりの仕合しあいに一段落いちだんらくをつけたように夫人ふじんを強くつよくした。
けれども彼女かのじょは津田つだが最初さいしょに考えかんがえたほどこの点てんにおいて独断どくだん的まとな暴君ぼうくんではなかった。
彼女かのじょは思っおもったより細緻さいちな注意ちゅういを払っはらって、津田つだの心理状態しんりじょうたいを観察かんさつしているらしかった。
彼女かのじょはその実じつ券けんを、いったん勝っかった後あとで彼かれに示ししめした。
「ただ未練みれん未練みれんって、雲くもを掴むつかむような騒ぎさわぎをやるんじゃありませんよ。私わたくしには私わたくしでまたちゃんと握っにぎってるところがあるんですからね。これでもあなたの未練みれんをこんなものだといって他ほかに説明せつめいする事ことができるつもりでいるんですよ」 津田つだには何なんが何なんだかさっぱり訳わけが解らわからなかった。
「ちょっと説明せつめいして見みて下さいくださいませんか」「お望みのぞみなら説明せつめいしてもよござんす。けれどもそうするとつまりあなたを説明せつめいする事ことになるんですよ」「ええ構いかまいません」 夫人ふじんは笑いわらい出しだした。
「そう他ほかの云ういう事ことが通じつうじなくっちゃ困るこまるのね。現在げんざい自分じぶんがちゃんとそこに控えひかえていながら、その自分じぶんが解らわからないで、他ほかに説明せつめいして貰うもらうなんてえのは馬鹿ばか気きているじゃありませんか」 はたして夫人ふじんの云ういう通りとおりなら馬鹿ばか気きているに違いなかった。
津田つだは首くびを傾けかたむけた。
「しかし解りわかりませんよ」「いいえ解っわかってるのよ」「じゃ気きがつかないんでしょう」「いいえ気きもついているのよ」「じゃどうしたんでしょう。――つまり私わたくしが隠しかくしている事ことにでも帰着きちゃくするんですか」「まあそうよ」 津田つだは投げ出しなげだした。
ここまで追いつめおいつめられながら、まだ隠しかくし立たてをしようとはさすがの自分じぶんにも道理どうりと思えおもえなかった。
「馬鹿ばかでも仕方しかたがありません。馬鹿ばかの非難ひなんは甘んじあまんじて受けうけますから、どうぞ説明せつめいして下さいください」 夫人ふじんは微かかすかに溜息ためいきを吐いはいた。
「ああああ張合はりあいがないのね、それじゃ。せっかく私わたくしが丹精たんせいして拵えこしらえて来きて上げあげたのに、肝心かんじんのあなたがそれじゃ、まるで無駄骨むだぼねを折っおったと同然どうぜんね。いっそ何になんにも話さはなさずに帰ろうかえろうか知らかしら」 津田つだは迷宮めいきゅうに引き込まひきこまれるだけであった。
引き込まひきこまれると知りしりながら、彼かれは夫人ふじんの後あとを追かけおいかけなければならなかった。
そこには自分じぶんの好奇心こうきしんが強くつよく働いはたらいた。
夫人ふじんに対するたいする義理ぎりと気兼きがねも、けっして軽いかるい因子いんしではなかった。
彼かれは何度なんども同じおなじ言葉ことばを繰り返しくりかえして夫人ふじんの説明せつめいを促がしうながした。
「じゃ云いいいましょう」と最後さいごに応じおうじた時じの夫人ふじんの様子ようすはむしろ得意とくいであった。
「その代りかわり訊きききますよ」と断っことわった彼女かのじょは、はたして劈頭へきとうに津田つだの毒気どくけを抜いぬいた。
「あなたはなぜ清子きよこさんと結婚けっこんなさらなかったんです」 問もんは不意ふいに来きた。
津田つだはにわかに息いき塞っふさがった。
黙っだまっている彼かれを見みた上うえで夫人ふじんは言葉ことばを改めあらためた。
「じゃ質問しつもんを易えかえましょう。――清子きよこさんはなぜあなたと結婚けっこんなさらなかったんです」 今度こんどは津田つだが響ひびきの声こえに応ずるおうずるごとくに答えこたえた。
「なぜだかちっとも解らわからないんです。ただ不思議ふしぎなんです。いくら考えかんがえても何になんにも出でて来きないんです」「突然とつぜん関せきさんへ行っいっちまったのね」「ええ、突然とつぜん。本当ほんとうを云ういうと、突然とつぜんなんてものは疾しつの昔むかしに通り越しとおりこしていましたね。あっと云っいって後あとを向いむかいたら、もう結婚けっこんしていたんです」「誰だれがあっと云っいったの」 この質問しつもんほど津田つだにとって無意味むいみなものはなかった。
誰だれがあっと云おういおうと余計よけいなお世話おせわとしか彼かれには見えみえなかった。
然るしかるに夫人ふじんはそこへとまって動かうごかなかった。
「あなたがあっと云っいったんですか。清子きよこさんがあっと云っいったんですか。あるいは両方りょうほうであっと云っいったんですか」「さあ」 津田つだはやむなく考えかんがえさせられた。
夫人ふじんは彼かれより先さきへ出でた。
「清子きよこさんの方ほうは平気へいきだったんじゃありませんか」「さあ」「さあじゃ仕方しかたがないわ、あなた。あなたにはどう見えみえたのよ、その時じの清子きよこさんが。平気へいきには見えみえなかったの」「どうも平気へいきのようでした」 夫人ふじんは軽蔑けいべつの眼めを彼かれの上うえに向けむけた。
「ずいぶん気楽きらくね、あなたも。清子きよこさんの方ほうが平気へいきだったから、あなたがあっと云わいわせられたんじゃありませんか」「あるいはそうかも知れしれません」「そんならその時じのあっの始末しまつはどうつける気きなの」「別べつにつけようがないんです」「つけようがないけれども、実じつはつけたいんでしょう」「ええ。だからいろいろ考えかんがえたんです」「考えかんがえて解っわかったの」「解らわからないんです。考えれかんがえれば考えるかんがえるほど解らわからなくなるだけなんです」「それだから考えるかんがえるのはもうやめちまったの」「いいえやっぱりやめられないんです」「じゃ今いまでもまだ考えかんがえてるのね」「そうです」「それ御覧ごらんなさい。それがあなたの未練みれんじゃありませんか」 夫人ふじんはとうとう津田つだを自分じぶんの思うおもうところへ押し込めおしこめた。
百四十ひゃくよんじゅう
準備じゅんびはほぼ出来上っできあがった。
要点ようてんはそろそろ津田つだの前まえに展開てんかいされなければならなかった。
夫人ふじんは機きを見みてしだいにそこへ入っはいって行っいった。
「そんならもっと男おとこらしくしちゃどうです」という漠然ばくぜんたる言葉ことばが、最初さいしょに夫人ふじんの口くちを出でた。
その時じ津田つだはまたかと思っおもった。
先刻せんこくから「男おとこらしくしろ」とか「男おとこらしくない」とかいう文句もんくを聴かさきかされるたびに、彼かれは心こころの中なかで暗にあんに夫人ふじんを冷笑れいしょうした。
夫人ふじんの男おとこらしいという意味いみははたしてどこにあるのだろうと疑ぐっうたぐった。
批判的ひはんてきな眼めを拭っぬぐって見るみるまでもなく、彼女かのじょは自分じぶんの都合つごうばかりを考えかんがえて、津田つだをやり込めるやりこめるために、勝手かってなところへやたらにこの言葉ことばを使うつかうとしか解釈かいしゃくできなかった。
彼かれは苦笑くしょうしながら訊いきいた。
「男おとこらしくするとは?――どうすれば男おとこらしくなれるんですか」「あなたの未練みれんを晴らすはらすだけでさあね。分りわかり切っきってるじゃありませんか」「どうして」「全体ぜんたいどうしたら晴らさはらされると思っおもってるんです、あなたは」「そりゃ私わたくしには解りわかりません」 夫人ふじんは急きゅうに勢い込んいきおいこんだ。
「あなたは馬鹿ばかね。そのくらいの事ことが解らわからないでどうするんです。会っかいって訊くきくだけじゃありませんか」 津田つだは返事へんじができなかった。
会うあうのがそれほど必要ひつようにしたところで、どんな方法ほうほうでどこでどうして会うあうのか。
その方ほうが先決せんけつ問題もんだいでなければならなかった。
「だから私わたくしが今日きょうわざわざここへ来きたんじゃありませんか」と夫人ふじんが云っいった時じ、津田つだは思わおもわず彼女かのじょの顔かおを見みた。
「実じつは疾うとうから、あなたの料簡りょうけんをよく伺っうかがって見みたいと思っおもってたところへね、今朝けさお秀おひでさんがあの事ことで来きたもんだから、それでちょうど好いよい機会きかいだと思っおもって出でて来きたような訳わけなんですがね」 腹はらに支度したくの整わととのわない津田つだの頭あたまはただまごまごするだけであった。
夫人ふじんはそれを見澄みきよししてこういった。
「誤解ごかいしちゃいけませんよ。私わたくしは私わたくし、お秀おひでさんはお秀おひでさんなんだから。何なんもお秀おひでさんに頼またのまれて来きたからって、きっとあの方ほうの肩かたばかり持つもつとは限らかぎらないぐらいは、あなたにだって解るわかるでしょう。先刻せんこくも云っいった通りとおり、私わたくしはこれでもあなたの同情どうじょう者ものですよ」「ええそりゃよく心得こころえています」 ここで問答もんどうに一区いちく切せつを付けつけた夫人ふじんは、時じを移さうつさず要点ようてんに達するたっする第だい二にの段落だんらくに這入りはいり込んこんで行っいった。
「清子きよこさんが今いまどこにいらっしゃるか、あなた知っしってらっしって」「関せきの所ところにいるじゃありませんか」「そりゃ不断ふだんの話はなしよ。私わたくしのいうのは今いまの事ことよ。今いまどこにいらっしゃるかっていうのよ。東京とうきょうか東京とうきょうでないか」「存じぞんじません」「あてて御覧ごらんなさい」 津田つだはあてっこをしたってつまらないという風かぜをして黙っだまっていた。
すると思いがけおもいがけない場所ばしょの名前なまえが突然とつぜん夫人ふじんの口くちから点てん出さだされた。
一いち日ひがかりで東京とうきょうから行かいかれるかなり有名ゆうめいなその温泉場おんせんじょうの記憶きおくは、津田つだにとってもそれほど旧いふりいものではなかった。
急きゅうにその辺へんの景色けしきを思い出しおもいだした彼かれは、ただ「へええ」と云っいったぎり、後あとをいう智恵ちえが出でなかった。
夫人ふじんは津田つだのために親切しんせつな説明せつめいを加えくわえてくれた。
彼女かのじょの云ういうところによると、目的もくてきの人ひとは静養せいようのため、当分とうぶんそこに逗留とうりゅうしているのであった。
夫人ふじんは何なんで静養せいようがその人ひとに必要ひつようであるかをさえ知っしっていた。
流産りゅうざん後あとの身体しんたいを回復かいふくするのが主眼しゅがんだと云っいって聴かきかせた夫人ふじんは、津田つだを見みて意味いみありげに微笑びしょうした。
津田つだは腹はらの中なかでほぼその微笑びしょうを解釈かいしゃくし得とくたような気きがした。
けれどもそんな事ことは、夫人ふじんにとっても彼かれにとっても、目前もくぜんの問題もんだいではなかった。
一口ひとくちの批評ひひょうを加えるくわえる気きにもならなかった彼かれは、黙っだまって夫人ふじんの聴き手ききてになるつもりでおとなしくしていた。
同時どうじに夫人ふじんは第だい三さんの段落だんらくに飛び移っとびうつった。
「あなたもいらっしゃいな」 津田つだの心こころはこの言葉ことばを聴くきく前まえからすでに揺いわなないていた。
しかし行こういこうという決心けっしんは、この言葉ことばを聴いきいた後あとでもつかなかった。
夫人ふじんは一いち煽りあおりに煽っあおった。
「いらっしゃいよ。行っいったって誰だれの迷惑めいわくになる事ことでもないじゃありませんか。行っいって澄ましすましていればそれまででしょう」「それはそうです」「あなたはあなたで始めはじめっから独立どくりつなんだから構っかまった事ことはないのよ。遠慮えんりょだの気兼きがねだのって、なまじ余計よけいなものを荷ににし出すだすと、事ことが面倒めんどうになるだけですわ。それにあなたの病気びょうきには、ここを出でた後あとで、ああいう所ところへちょっと行っいって来るくる方ほうがいいんです。私わたくしに云わいわせれば、病気びょうきの方ほうだけでも行くいく必要ひつようは充分じゅうぶんあると思うおもうんです。だから是非ぜひいらっしゃい。行っいって天然てんねん自然しぜん来きたような顔かおをして澄ましすましているんです。そうして男おとこらしく未練みれんの片かたをつけて来るくるんです」 夫人ふじんは旅費りょひさえ出しだしてやると云っいって津田つだを促がしうながした。
百四十一ひゃくよんじゅういち
旅費りょひを貰っもらって、勤きん向むかいの都合つごうをつけて貰っもらって、病後びょうごの身体しんたいを心持こころもちの好いよい温泉場おんせんじょうで静養せいようするのは、誰だれにとっても望ましいのぞましい事ことに違いなかった。
ことに自己じこの快楽かいらくを人間にんげんの主題しゅだいにして生活せいかつしようとする津田つだには滅多めったにない誂え向きあつらえむきの機会きかいであった。
彼かれに云わいわせると、見す見すみすみすそれを取り外すとりはずすのは愚ぐの極きょくであった。
しかしこの場合ばあいに附帯ふたいしている一種いっしゅの条件じょうけんはけっして尋常じんじょうのものではなかった。
彼かれは顧慮こりょした。
彼かれを引きとめるひきとめる心理しんり作用さようの性質せいしつは一目いちもく暸然であった。
けれども彼かれはその働きはたらきの顕著けんちょな力ちからに気きがついているだけで、その意味いみを返照へんしょうする遑いとまがなかった。
この点てんにおいても夫人ふじんの方ほうが、彼かれ自身じしんよりもかえってしっかりした心理しんりの観察かんさつ者ものであった。
二につ返事へんじで断行だんこうを誓うちかうと思っおもった津田つだのどこか渋っしぶっている様子ようすを見みた夫人ふじんはこう云っいった。
「あなたは内心ないしん行きいきたがってるくせに、もじもじしていらっしゃるのね。それが私わたくしに云わいわせると、男おとこらしくないあなたの一番いちばん悪いわるいところなんですよ」 男おとこらしくないと評さひょうされても大したたいした苦痛くつうを感じかんじない津田つだは答えこたえた。
「そうかも知れしれませんけれども、少しすこし考えかんがえて見みないと……」「その考えるかんがえる癖くせがあなたの人格じんかくに祟ったたって来るくるんです」 津田つだは「へえ?」と云っいって驚ろいおどろいた。
夫人ふじんは澄ましすましたものであった。
「女おんなは考えかんがえやしませんよ。そんな時じに」「じゃ考えるかんがえる私わたくしは男おとこらしい訳わけじゃありませんか」 この答えこたえを聴いきいた時じ、夫人ふじんの態度たいどが急きゅうに嶮しくけわしくなった。
「そんな生意気なまいきな口応えくちごたえをするもんじゃありません。言葉ことばだけで他ほかをやり込めれやりこめればどこがどうしたというんです、馬鹿ばからしい。あなたは学校がっこうへ行っいったり学問がくもんをしたりした方ほうのくせに、まるで自分じぶんが見えみえないんだからお気の毒きのどくよ。だから畢竟ひっきょう清子きよこさんに逃げにげられちまったんです」 津田つだはまた「えッえっ?」と云っいった。
夫人ふじんは構わかまわなかった。
「あなたに分らわからなければ、私わたくしが云っいって聴かきかせて上げあげます。あなたがなぜ行きいきたがらないか、私わたくしにはちゃんと分っわかってるんです。あなたは臆病おくびょうなんです。清子きよこさんの前まえへ出でられないんです」「そうじゃありません。私わたくしは……」「お待ちまちなさい。――あなたは勇気ゆうきはあるという気きなんでしょう。しかし出るでるのは見識けんしきに拘わるかかわるというんでしょう。私わたくしから云えいえば、そう見識けんしきばるのが取りとりも直さなおさずあなたの臆病おくびょうなところなんですよ、好よしみござんすか。なぜと云っいって御覧ごらんなさい。そんな見識けんしきはただの見栄みえじゃありませんか。よく云っいったところで、上っ面うわっつらの体裁ていさいじゃありませんか。世間せけんに対するたいする手前てまえと気兼きがねを引いひいたら後あとに何なんが残るのこるんです。花嫁はなよめさんが誰だれも何なんとも云わいわないのに、自分じぶんできまりを悪くわるくして、三さん度どの御飯ごはんを控えるひかえるのと同どうなじ事ことよ」 津田つだは呆気あっけに取らとられた。
夫人ふじんの小言こごとはまだ続いつづいた。
「つまり色気いろけが多さわ過ぎるすぎるから、そんな入らはいらざるところに我われを立てたてて見みたくなるんでしょう。そうしてそれがあなたの己おのれ惚ぼけに生れ変っうまれかわって変へんなところへ出でて来るくるんです」 津田つだは仕方なししかたなしに黙っだまっていた。
夫人ふじんは容赦ようしゃなく一いち歩あゆみ進んすすんでその己おのれ惚ぼけを説明せつめいした。
「あなたはいつまでも品しなよく黙っだまっていようというんです。じっと動かうごかずにすまそうとなさるんです。それでいて内心ないしんではあの事ことが始終しじゅう苦くになるんです。そこをもう少しすこし押しおして御覧ごらんなさいな。おれがこうしているうちには、今いまに清子きよこの方ほうから何なんか説明せつめいして来るくるだろう来るくるだろうと思っおもって――」「そんな事ことを思っおもってるもんですか、なんぼ私わたくしだって」「いえ、思っおもっているのと同どうなじだというのです。実際じっさいどこにも変りかわりがなければ、そう云わいわれたってしようがないじゃありませんか」 津田つだにはもう反抗はんこうする勇気ゆうきがなかった。
機敏きびんな夫人ふじんはそこへつけ込んつけこんだ。
「いったいあなたはずうずうしい性質せいしつじゃありませんか。そうしてずうずうしいのも世渡りよわたりの上うえじゃ一徳いっとくだぐらいに考えかんがえているんです」「まさか」「いえ、そうです。そこがまだ私わたくしに解らわからないと思っおもったら、大間おおま違いです。好いよいじゃありませんか、ずうずうしいで、私わたくしはずうずうしいのが好きすきなんだから。だからここで持前もちまえのずうずうしいところを男おとこらしく充分じゅうぶん発揮はっきなさいな。そのために私わたくしがせっかく骨ほねを折っおって拵えこしらえて来きたんだから」「ずうずうしさの活用かつようですか」と云っいった津田つだは言葉ことばを改めあらためた。
「あの人ひとは一人ひとりで行っいってるんですか」「無論むろん一人ひとりです」「関せきは?」「関せきさんはこっちよ。こっちに用ようがあるんですもの」 津田つだはようやく行くいく事ことに覚悟かくごをきめた。
百四十二ひゃくよんじゅうに
しかし夫人ふじんと津田つだの間まには結末けつまつのつかないまだ一いちつの問題もんだいが残っのこっていた。
二人ふたりはそこをふり返らふりかえらないで話はなしを切り上げるきりあげる訳わけに行かいかなかった。
夫人ふじんが踵かかとを回らさまわらさないうちに、津田つだは帰っかえった。
「それで私わたくしが行くいくとしたら、どうなるんです、先刻せんこくおっしゃった事ことは」「そこです。そこを今いま云おういおうと思っおもっていたのよ。私わたくしに云わいわせると、これほど好いほどよい療治りょうじはないんですがね。どうでしょう、あなたのお考えかんがえは」 津田つだは答えこたえなかった。
夫人ふじんは念ねんを押しおした。
「解っわかったでしょう。後あとは云わいわなくっても」 夫人ふじんの意味いみは説明せつめいを待たまたないでもほぼ津田つだに呑み込めのみこめた。
しかしそれをどんな風かぜにして、お延のべの上うえに影響えいきょうさせるつもりなのか、そこへ行くいくと彼かれには確としかとした観念かんねんがなかった。
夫人ふじんは笑いわらい出しだした。
「あなたは知らしらん顔かおをしていればいいんですよ。後あとは私わたくしの方ほうでやるから」「そうですか」と答えこたえた津田つだの頭あたまには疑惑ぎわくがあった。
後あとを挙げあげて夫人ふじんに一任いちにんするとなると、お延のべの運命うんめいを他人たにんに委ねるゆだねると同じおなじ事ことであった。
多少たしょう夫人ふじんの手腕しゅわんを恐れおそれている彼かれは危ぶんあやぶんだ。
何なんをされるか解らわからないという掛かかり念ねんに制せせいせられた。
「お任せおまかせしてもいいんですが、手段しゅだんや方法ほうほうが解っわかっているなら伺っうかがっておく方ほうが便利べんりかと思いおもいます」「そんな事ことはあなたが知らしらないでもいいのよ。まあ見みていらっしゃい、私わたくしがお延のべさんをもっと奥さんおくさんらしい奥さんおくさんにきっと育て上げそだてあげて見せるみせるから」 津田つだの眼めに映るうつるお延のべは無論むろん不完全ふかんぜんであった。
けれども彼かれの気きに入らはいらない欠点けってんが、必ずかならずしも夫人ふじんの難なんの打ち所うちどころとは限らかぎらなかった。
それをちゃんぽんに混同こんどうしているらしい夫人ふじんは、少くすくなくとも自分じぶんに都合つごうのいいお延のべを鍛え上げるきたえあげる事ことが、すなわち津田つだのために最ももっとも適当てきとうな細君さいくんを作り出すつくりだす所以ゆえんだと誤解ごかいしているらしかった。
それのみか、もう一いち歩あゆみ夫人ふじんの胸中きょうちゅうに立ち入ったちいって、その真底しんそこを探るさぐると、とんでもない結論けつろんになるかも知れしれなかった。
彼女かのじょはただお延のべを好かよしみかないために、ある手段しゅだんを拵えこしらえて、相手あいてを苛めいじめにかかるのかも分らわからなかった。
気きに喰わくわないだけの根拠こんきょで、敵てきを打ちうち懲らすこらす方法ほうほうを講じこうじているのかも分らわからなかった。
幸みゆきに自分じぶんでそこを認めみとめなければならないほどに、世間せけんからも己れおのれからも反省はんせいを強いつよいられていない境遇きょうぐうにある彼女かのじょは、気楽きらくであった。
お延のべの教育きょういく。
――こういう言葉ことばが臆面おくめんなく彼女かのじょの口くちを洩れもれた。
夫人ふじんとお延のべの間柄あいだがらを、内面ないめんから看破るみやぶる機会きかいに出会っであった事ことのない津田つだにはまたその言葉ことばを疑ううたがう資格しかくがなかった。
彼かれは大体だいたいの上うえで夫人ふじんの実意じついを信じしんじてかかった。
しかし実意じついの作用さように至るいたると、勢いいきおい危惧きぐの念ねんが伴なわともなわざるを得とくなかった。
「心配しんぱいする事ことがあるもんですか。細工さいくはりゅうりゅう仕上しあげを御覧ごらんうじろって云ういうじゃありませんか」 いくら津田つだが訊いきいても詳しいくわしい話しはなしをしなかった夫人ふじんは、こんな高こうを括っくくった挨拶あいさつをした後あとで、教えるおしえるように津田つだに云っいった。
「あの方ほうは少しすこし己惚れうぬぼれ過ぎすぎてるところがあるのよ。それから内側うちがわと外側そとがわがまだ一致いっちしないのね。上部じょうぶは大変たいへん鄭てい寧ねいで、お腹おなかの中なかはしっかりし過ぎるすぎるくらいしっかりしているんだから。それに利巧りこうだから外そとへは出さださないけれども、あれでなかなか慢まん気きが多いおおいのよ。だからそんなものを皆んなみんな取っとっちまわなくっちゃ……」 夫人ふじんが無遠慮むえんりょな評ひょうをお延のべに加えくわえている最中さいちゅうに、階子段はしごだんの中途ちゅうとで足あしを止めとめた看護婦かんごふの声こえが二人ふたりの耳みみに入っはいった。
「吉川よしかわの奥さんおくさんへ堀ほりさんとおっしゃる方ほうから電話でんわでございます」 夫人ふじんは「はい」と応じおうじてすぐ立ったったが、敷居しきいの所ところで津田つだを顧みかえりみた。
「何なんの用ようでしょう」 津田つだにも解らわからなかったその用ようを足すたすために下したへ降りふりて行っいった夫人ふじんは、すぐまた上っのぼって来きていきなり云っいった。
「大変たいへん大変たいへん」「何なんが? どうかしたんですか」 夫人ふじんは笑いわらいながら落ちついおちついて答えこたえた。
「秀子ひでこさんがわざわざ注意ちゅういしてくれたの」「何なんをです」「今までいままで延子のぶこさんが秀子ひでこさんの所ところへ来きて話しはなしていたんですって。帰りかえりに病院びょういんの方ほうへ廻るまわるかも知れしれないから、ちょっとお知らせおしらせするって云ういうのよ。今いま秀子ひでこさんの門もんを出でたばかりのところだって。――まあ好かっよかった。悪口わるぐちでも云っいってるところへ来きられようもんなら、大恥おおはじを掻かかかなくっちゃならない」 いったん坐っすわった夫人ふじんは、間まもなくまた立ったった。
「じゃ私わたくしはもうお暇ひまにしますからね」 こんな打ち合せうちあわせをした後あとでお延のべの顔かおを見るみるのは、彼女かのじょにとってもきまりが好くよくないらしかった。
「いらっしゃらないうちに、早くはやく退却たいきゃくしましょう。どうぞよろしく」 一言ひとことの挨拶あいさつを彼女かのじょに残しのこしたまま、夫人ふじんはついに病室びょうしつを出でた。
百四十三ひゃくよんじゅうさん
この時じお延のべの足あしはすでに病院びょういんに向っむかって動いうごいていた。
堀ほりの宅たくから医者いしゃの所ところへ行くいくには、門もんを出でて一二いちに丁てい町東まちひがしへ歩いあるいて、そこに丁字ていじ形かたちを描いえがいている大きなおおきな往来おうらいをまた一いちつ向うむこうへ越さこさなければならなかった。
彼女かのじょがこの曲り角まがりかどへかかった時じ、北きたから来きた一いち台だいの電車でんしゃがちょうど彼女かのじょの前まえ、方角ほうがくから云えいえば少しすこし筋違すじかいの所ところでとまった。
何なん気きなく首くびを上げあげた彼女かのじょは見るみるともなしにこちら側こちらがわの窓まどを見みた。
すると窓まど硝子がらすを通しとおして映るうつる乗客じょうきゃくの中なかに一人ひとりの女おんながいた。
位地いちの関係かんけいから、お延のべはただその女おんなの横顔よこがおの半分はんぶんもしくは三さん分ぶんの一いちを見みただけであったが、見みただけですぐはっと思っおもった。
吉川よしかわ夫人ふじんじゃないかという気きがたちまち彼女かのじょの頭あたまを刺戟しげきしたからである。
電車でんしゃはじきに動きうごき出しだした。
お延のべは自分じぶんの物色ぶっしょくに満足まんぞくな時間じかんを与えあたえずに走り去っはしりさったその後影うしろかげをしばらく見送っみおくったあとで、通りとおりを東側ひがしがわへ横切っよこぎった。
彼女かのじょの歩くあるく往来おうらいはもう横町よこちょうだけであった。
その辺へんの地理ちりに詳しいくわしい彼女かのじょは、いくつかの小路こうじを右みぎへ折れおれたり左ひだりへ曲っきょくったりして、一番いちばん近いちかい道みちをはやく病院びょういんへ行き着くいきつくつもりであった。
けれども電車でんしゃに会っかいった後あとの彼女かのじょの足あしは急きゅうに重くおもくなった。
距離きょりにすればもう二三にさん丁ていという所ところまで来きた時じ、彼女かのじょは病院びょういんへ寄らよらずに、いったん宅たくへ帰ろうかえろうかと思い出しおもいだした。
彼女かのじょの心こころは堀ほりの門もんを出でた折おりからすでに重かっおもかった。
彼女かのじょはむやみにお秀おひでを突とっッっ付いついて、かえってやり損なっそこなった不快ふかいを胸むねに包んつつんでいた。
そこには大事だいじを明らさまあからさまに握るにぎる事ことができずに、裏うらからわざわざ匂わにおわせられた羽はね痒かゆゆさがあった。
なまじいそれを嗅ぎつけかぎつけた不安ふあんの色いろも、前まえよりは一層いっそう濃くこく染めそめつけられただけであった。
何なんよりも先だつさきだつのは、こっちの弱点じゃくてんを見抜かみぬかれて、逆ぎゃくまに相手あいてから翻弄ほんろうされはしなかったかという疑惑ぎわくであった。
お延のべはそれ以上いじょうにまだ敏いさとい気きを遠くとおくの方ほうまで廻しまわしていた。
彼女かのじょは自分じぶんに対したいして仕組ましくまれた謀計ぼうけいが、内密ないみつにどこかで進行しんこうしているらしいとまで癇かんづいた。
首謀しゅぼう者ものは誰だれにしろ、お秀おひでが
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