その六だけを首肯った津田の挨拶は、自然どこかに曖昧な節を残さなければならなかった。それがこの場合誤解の種になるのは見やすい道理であった。夫人はどこまでも同じ言葉を繰り返して、津田を自分の好きな方角へのみ追い込んだ。
第 14 章
「隠しちゃ駄目よ。あなたが隠すと後が云えなくなるだけだから」 津田は是非その後を聴きたかった。
その後を聴こうとすれば、夫人の認定を一から十まで承知するよりほかに仕方がなかった。
夫人は「それ御覧なさい」と津田をやりこめた後で歩を進めた。
「あなたにはてんから誤解があるのよ。あなたは私を良人といっしょに見ているんでしょう。それから良人と岡本をまたいっしょに見ているんでしょう。それが大間違よ。岡本と良人をいっしょに見るのはまだしも、私を良人や岡本といっしょにするのはおかしいじゃありませんか、この事件について。学問をした方にも似合わないのねあなたも、そんなところへ行くと」 津田はようやく夫人の立場を知る事ができた。
しかしその立場の位置及びそれが自分に対してどんな関係になっているのかまだ解らなかった。
夫人は云った。
「解り切ってるじゃありませんか。私だけはあなたと特別の関係があるんですもの」 特別の関係という言葉のうちに、どんな内容が盛られているか、津田にはよく解った。
しかしそれは目下の問題ではなかった。
なぜと云えば、その特別な関係をよく呑み込んでいればこそ、今日までの自分の行動にも、それ相当な一種の色と調子を与えて来たつもりだと彼は信じていたのだから。
この特別な関係が夫人をどう支配しているか、そこをもっと明らかに突きとめたところに、新らしい問題は始めて起るのだと気がついた彼は、ただ自分の誤解を認めるだけではすまされなかった。
夫人は一口に云い払った。
「私はあなたの同情者よ」 津田は答えた。
「それは今までついぞ疑って見た例もありません。私は信じ切っています。そうしてその点で深くあなたに感謝しているものです。しかしどういう意味で? どういう意味で同情者になって下さるつもりなんですか、この場合。私は迂濶ものだから奥さんの意味がよく呑み込めません。だからもっと判然り話して下さい」「この場合に同情者として私があなたにして上げる事がただ一つあると思うんです。しかしあなたは多分――」 夫人はこれだけ云って津田の顔を見た。
津田はまた焦らされるのかと思った。
しかしそうでないと断言した夫人の問は急に変った。
「私の云う事を聴きますか、聴きませんか」 津田にはまだ常識が残っていた。
彼はここへ押しつめられた何人も考えなければならない事を考えた。
しかし考えた通りを夫人の前で公然明言する勇気はなかった。
勢い彼の態度は煮え切らないものであった。
聴くとも聴かないとも云いかねた彼は躊躇した。
「まあ云って見て下さい」「まあじゃいけません。あなたがもっと判切しなくっちゃ、私だって云う気にはなれません」「だけれども――」「だけれどもでも駄目よ。聴きますと男らしく云わなくっちゃ」
百三十七
どんな注文が夫人の口から出るか見当のつかない津田は、ひそかに恐れた。
受け合った後で撤回しなければならないような窮地に陥いればそれぎりであった。
彼はその場合の夫人を想像してみた。
地位から云っても、性質から見ても、また彼に対する特別な関係から判断しても、夫人はけっして彼を赦す人ではなかった。
永久夫人の前に赦されない彼は、あたかも蘇生の活手段を奪われた仮死の形骸と一般であった。
用心深い彼は生還の望の確としない危地に入り込む勇気をもたなかった。
その上普通の人と違って夫人はどんな難題を持ち出すか解らなかった。
自由の利き過ぎる境遇、そこに長く住み馴れた彼女の眼には、ほとんど自分の無理というものが映らなかった。
云えばたいていの事は通った。
たまに通らなければ、意地で通すだけであった。
ことに困るのは、自分の動機を明暸に解剖して見る必要に逼られない彼女の余裕であった。
余裕というよりもむしろ放慢な心の持方であった。
他の世話を焼く時にする自分の行動は、すべて親切と好意の発現で、そのほかに何の私もないものと、てんからきめてかかる彼女に、不安の来るはずはなかった。
自分の批判はほとんど当初から働らかないし、他の批判は耳へ入らず、また耳へ入れようとするものもないとなると、ここへ落ちて来るのは自然の結果でもあった。
夫人の前に押しつめられた時、津田の胸に、これだけの考えが蜿蜒り廻ったので、埒はますます開かなかった。
彼の様子を見た夫人は、ついに笑い出した。
「何をそんなにむずかしく考えてるんです。おおかた私がまた無理でも云い出すんだと思ってるんでしょう。なんぼ私だってあなたにできっこないような不法は考えやしませんよ。あなたがやろうとさえ思えば、訳なくできる事なんです。そうして結果はあなたの得になるだけなんです」「そんなに雑作なくできるんですか」「ええまあ笑談みたいなものです。ごくごく大袈裟に云ったところで、面白半分の悪戯よ。だから思い切ってやるとおっしゃい」 津田にはすべてが謎であった。
けれどもたかが悪戯ならという気がようやく彼の腹に起った。
彼はついに決心した。
「何だか知らないがまあやってみましょう。話してみて下さい」 しかし夫人はすぐその悪戯の性質を説明しなかった。
津田の保証を掴んだ後で、また話題を変えた。
ところがそれは、あらゆる意味で悪戯とは全くかけ離れたものであった。
少くとも津田には重大な関係をもっていた。
夫人は下のような言葉で、まずそれを二人の間に紹介した。
「あなたはその後清子さんにお会いになって」「いいえ」 津田の少し吃驚したのは、ただ問題の唐突なばかりではなかった。
不意に自分をふり棄てた女の名が、逃がした責任を半分背負っている夫人の口から急に洩れたからである。
夫人は語を継いだ。
「じゃ今どうしていらっしゃるか、御存知ないでしょう」「まるで知りません」「まるで知らなくっていいの」「よくないったって仕方がないじゃありませんか。もうよそへ嫁に行ってしまったんだから」「清子さんの結婚の御披露の時にあなたはおいでになったんでしたかね」「行きません。行こうたってちょっと行き悪いですからね」「招待状は来たの」「招待状は来ました」「あなたの結婚の御披露の時に、清子さんはいらっしゃらなかったようね」「ええ来やしません」「招待状は出したの」「招待状だけは出しました」「じゃそれっきりなのね、両方共」「無論それっきりです。もしそれっきりでなかったら問題ですもの」「そうね。しかし問題にも寄り切りでしょう」 津田には夫人の云う意味がよく解らなかった。
夫人はそれを説明する前にまたほかの道へ移った。
「いったい延子さんは清子さんの事を知ってるの」 津田は塞えた。
小林を研究し尽した上でなければ確とした返事は与えられなかった。
夫人は再び訊き直した。
「あなたが自分で話した事はなくって」「ありゃしません」「じゃ延子さんはまるで知らずにいるのね、あの事を」「ええ、少くとも私からは何にも聴かされちゃいません」「そう。じゃ全く無邪気なのね。それとも少しは癇づいているところがあるの」「そうですね」 津田は考えざるを得なかった。
考えても断案は控えざるを得なかった。
百三十八
話しているうちに、津田はまた思いがけない相手の心理に突き当った。
今まで清子の事をお延に知らせないでおく方が、自分の都合でもあり、また夫人の意志でもあるとばかり解釈して疑わなかった彼は、この時始めて気がついた。
夫人はどう考えてもお延にそれを気どっていて貰いたいらしかったからである。
「たいていの見当はつきそうなものですがね」と夫人は云った。
津田はお延の性質を知っているだけになお答え悪くなった。
「そこが分らないといけないんですか」「ええ」 津田はなぜだか知らなかった。
けれども答えた。
「もし必要なら話しても好ござんすが……」 夫人は笑い出した。
「今さらあなたがそんな事をしちゃぶち壊しよ。あなたはしまいまで知らん顔をしていなくっちゃ」 夫人はこれだけ云って、言葉に区切を付けた後で、新たに出直した。
「私の判断を云いましょうか。延子さんはああいう怜俐な方だから、もうきっと感づいているに違ないと思うのよ。何、みんな判るはずもないし、またみんな判っちゃこっちが困るんです。判ったようでまた判らないようなのが、ちょうど持って来いという一番結構な頃合なんですからね。そこで私の鑑定から云うと、今の延子さんは、都合よく私のお誂え通りのところにいらっしゃるに違ないのよ」 津田は「そうですか」というよりほかに仕方がなかった。
しかしそういう結論を夫人に与える材料はほとんどなかろうにと、腹の中では思った。
しかるに夫人はあると云い出した。
「でなければ、ああ虚勢を張る訳がありませんもの」 お延の態度を虚勢と評したのは、夫人が始めてであった。
この二字の前に怪訝な思いをしなければならなかった津田は、一方から見て、またその皮肉を第一に首肯わなければならない人であった。
それにもかかわらず彼は躊躇なしに応諾を与える事ができなかった。
夫人はまた事もなげに笑った。
「なに構わないのよ。万一全く気がつかずにいるようなら、その時はまたその時でこっちにいくらでも手があるんだから」 津田は黙ってその後を待った。
すると後は出ずに、急に清子の方へ話が逆転して来た。
「あなたは清子さんにまだ未練がおありでしょう」「ありません」「ちっとも?」「ちっともありません」「それが男の嘘というものです」 嘘を云うつもりでもなかった津田は、全然本当を云っているのでもないという事に気がついた。
「これでも未練があるように見えますか」「そりゃ見えないわ、あなた」「じゃどうしてそう鑑定なさるんです」「だからよ。見えないからそう鑑定するのよ」 夫人の論議は普通のそれとまるで反対であった。
と云って、支離滅裂はどこにも含まれていなかった。
彼女は得意にそれを引き延ばした。
「ほかの人には外側も内側も同なじとしか見えないでしょう。しかし私には外側へ出られないから、仕方なしに未練が内へ引込んでいるとしか考えられませんもの」「奥さんは初手から私に未練があるものとして、きめてかかっていらっしゃるから、そうおっしゃるんでしょう」「きめてかかるのにどこに無理がありますか」「そう勝手に認定されてしまっちゃたまりません」「私がいつ勝手に認定しました。私のは認定じゃありませんよ。事実ですよ。あなたと私だけに知れている事実を云うのですよ。事実ですもの、それをちゃんと知ってる私に隠せる訳がないじゃありませんか、いくらほかの人を騙す事ができたって。それもあなただけの事実ならまだしも、二人に共通な事実なんだから、両方で相談の上、どこかへ埋めちまわないうちは、記憶のある限り、消えっこないでしょう」「じゃ相談ずくでここで埋めちゃどうです」「なぜ埋めるんです。埋める必要がどこかにあるんですか。それよりなぜそれを活かして使わないんです」「活かして使う? 私はこれでもまだ罪悪には近寄りたくありません」「罪悪とは何です。そんな手荒な事をしろと私がいつ云いました」「しかし……」「あなたはまだ私の云う事をしまいまで聴かないじゃありませんか」 津田の眼は好奇心をもって輝やいた。
百三十九
夫人はもう未練のある証拠を眼の前に突きつけて津田を抑えたと同じ事であった。
自白後に等しい彼の態度は二人の仕合に一段落をつけたように夫人を強くした。
けれども彼女は津田が最初に考えたほどこの点において独断的な暴君ではなかった。
彼女は思ったより細緻な注意を払って、津田の心理状態を観察しているらしかった。
彼女はその実券を、いったん勝った後で彼に示した。
「ただ未練未練って、雲を掴むような騒ぎをやるんじゃありませんよ。私には私でまたちゃんと握ってるところがあるんですからね。これでもあなたの未練をこんなものだといって他に説明する事ができるつもりでいるんですよ」 津田には何が何だかさっぱり訳が解らなかった。
「ちょっと説明して見て下さいませんか」「お望みなら説明してもよござんす。けれどもそうするとつまりあなたを説明する事になるんですよ」「ええ構いません」 夫人は笑い出した。
「そう他の云う事が通じなくっちゃ困るのね。現在自分がちゃんとそこに控えていながら、その自分が解らないで、他に説明して貰うなんてえのは馬鹿気ているじゃありませんか」 はたして夫人の云う通りなら馬鹿気ているに違なかった。
津田は首を傾けた。
「しかし解りませんよ」「いいえ解ってるのよ」「じゃ気がつかないんでしょう」「いいえ気もついているのよ」「じゃどうしたんでしょう。――つまり私が隠している事にでも帰着するんですか」「まあそうよ」 津田は投げ出した。
ここまで追いつめられながら、まだ隠し立をしようとはさすがの自分にも道理と思えなかった。
「馬鹿でも仕方がありません。馬鹿の非難は甘んじて受けますから、どうぞ説明して下さい」 夫人は微かに溜息を吐いた。
「ああああ張合がないのね、それじゃ。せっかく私が丹精して拵えて来て上げたのに、肝心のあなたがそれじゃ、まるで無駄骨を折ったと同然ね。いっそ何にも話さずに帰ろうか知ら」 津田は迷宮に引き込まれるだけであった。
引き込まれると知りながら、彼は夫人の後を追かけなければならなかった。
そこには自分の好奇心が強く働いた。
夫人に対する義理と気兼も、けっして軽い因子ではなかった。
彼は何度も同じ言葉を繰り返して夫人の説明を促がした。
「じゃ云いましょう」と最後に応じた時の夫人の様子はむしろ得意であった。
「その代り訊きますよ」と断った彼女は、はたして劈頭に津田の毒気を抜いた。
「あなたはなぜ清子さんと結婚なさらなかったんです」 問は不意に来た。
津田はにわかに息塞った。
黙っている彼を見た上で夫人は言葉を改めた。
「じゃ質問を易えましょう。――清子さんはなぜあなたと結婚なさらなかったんです」 今度は津田が響の声に応ずるごとくに答えた。
「なぜだかちっとも解らないんです。ただ不思議なんです。いくら考えても何にも出て来ないんです」「突然関さんへ行っちまったのね」「ええ、突然。本当を云うと、突然なんてものは疾の昔に通り越していましたね。あっと云って後を向いたら、もう結婚していたんです」「誰があっと云ったの」 この質問ほど津田にとって無意味なものはなかった。
誰があっと云おうと余計なお世話としか彼には見えなかった。
然るに夫人はそこへとまって動かなかった。
「あなたがあっと云ったんですか。清子さんがあっと云ったんですか。あるいは両方であっと云ったんですか」「さあ」 津田はやむなく考えさせられた。
夫人は彼より先へ出た。
「清子さんの方は平気だったんじゃありませんか」「さあ」「さあじゃ仕方がないわ、あなた。あなたにはどう見えたのよ、その時の清子さんが。平気には見えなかったの」「どうも平気のようでした」 夫人は軽蔑の眼を彼の上に向けた。
「ずいぶん気楽ね、あなたも。清子さんの方が平気だったから、あなたがあっと云わせられたんじゃありませんか」「あるいはそうかも知れません」「そんならその時のあっの始末はどうつける気なの」「別につけようがないんです」「つけようがないけれども、実はつけたいんでしょう」「ええ。だからいろいろ考えたんです」「考えて解ったの」「解らないんです。考えれば考えるほど解らなくなるだけなんです」「それだから考えるのはもうやめちまったの」「いいえやっぱりやめられないんです」「じゃ今でもまだ考えてるのね」「そうです」「それ御覧なさい。それがあなたの未練じゃありませんか」 夫人はとうとう津田を自分の思うところへ押し込めた。
百四十
準備はほぼ出来上った。
要点はそろそろ津田の前に展開されなければならなかった。
夫人は機を見てしだいにそこへ入って行った。
「そんならもっと男らしくしちゃどうです」という漠然たる言葉が、最初に夫人の口を出た。
その時津田はまたかと思った。
先刻から「男らしくしろ」とか「男らしくない」とかいう文句を聴かされるたびに、彼は心の中で暗に夫人を冷笑した。
夫人の男らしいという意味ははたしてどこにあるのだろうと疑ぐった。
批判的な眼を拭って見るまでもなく、彼女は自分の都合ばかりを考えて、津田をやり込めるために、勝手なところへやたらにこの言葉を使うとしか解釈できなかった。
彼は苦笑しながら訊いた。
「男らしくするとは?――どうすれば男らしくなれるんですか」「あなたの未練を晴らすだけでさあね。分り切ってるじゃありませんか」「どうして」「全体どうしたら晴らされると思ってるんです、あなたは」「そりゃ私には解りません」 夫人は急に勢い込んだ。
「あなたは馬鹿ね。そのくらいの事が解らないでどうするんです。会って訊くだけじゃありませんか」 津田は返事ができなかった。
会うのがそれほど必要にしたところで、どんな方法でどこでどうして会うのか。
その方が先決問題でなければならなかった。
「だから私が今日わざわざここへ来たんじゃありませんか」と夫人が云った時、津田は思わず彼女の顔を見た。
「実は疾うから、あなたの料簡をよく伺って見たいと思ってたところへね、今朝お秀さんがあの事で来たもんだから、それでちょうど好い機会だと思って出て来たような訳なんですがね」 腹に支度の整わない津田の頭はただまごまごするだけであった。
夫人はそれを見澄してこういった。
「誤解しちゃいけませんよ。私は私、お秀さんはお秀さんなんだから。何もお秀さんに頼まれて来たからって、きっとあの方の肩ばかり持つとは限らないぐらいは、あなたにだって解るでしょう。先刻も云った通り、私はこれでもあなたの同情者ですよ」「ええそりゃよく心得ています」 ここで問答に一区切を付けた夫人は、時を移さず要点に達する第二の段落に這入り込んで行った。
「清子さんが今どこにいらっしゃるか、あなた知ってらっしって」「関の所にいるじゃありませんか」「そりゃ不断の話よ。私のいうのは今の事よ。今どこにいらっしゃるかっていうのよ。東京か東京でないか」「存じません」「あてて御覧なさい」 津田はあてっこをしたってつまらないという風をして黙っていた。
すると思いがけない場所の名前が突然夫人の口から点出された。
一日がかりで東京から行かれるかなり有名なその温泉場の記憶は、津田にとってもそれほど旧いものではなかった。
急にその辺の景色を思い出した彼は、ただ「へええ」と云ったぎり、後をいう智恵が出なかった。
夫人は津田のために親切な説明を加えてくれた。
彼女の云うところによると、目的の人は静養のため、当分そこに逗留しているのであった。
夫人は何で静養がその人に必要であるかをさえ知っていた。
流産後の身体を回復するのが主眼だと云って聴かせた夫人は、津田を見て意味ありげに微笑した。
津田は腹の中でほぼその微笑を解釈し得たような気がした。
けれどもそんな事は、夫人にとっても彼にとっても、目前の問題ではなかった。
一口の批評を加える気にもならなかった彼は、黙って夫人の聴き手になるつもりでおとなしくしていた。
同時に夫人は第三の段落に飛び移った。
「あなたもいらっしゃいな」 津田の心はこの言葉を聴く前からすでに揺いていた。
しかし行こうという決心は、この言葉を聴いた後でもつかなかった。
夫人は一煽りに煽った。
「いらっしゃいよ。行ったって誰の迷惑になる事でもないじゃありませんか。行って澄ましていればそれまででしょう」「それはそうです」「あなたはあなたで始めっから独立なんだから構った事はないのよ。遠慮だの気兼だのって、なまじ余計なものを荷にし出すと、事が面倒になるだけですわ。それにあなたの病気には、ここを出た後で、ああいう所へちょっと行って来る方がいいんです。私に云わせれば、病気の方だけでも行く必要は充分あると思うんです。だから是非いらっしゃい。行って天然自然来たような顔をして澄ましているんです。そうして男らしく未練の片をつけて来るんです」 夫人は旅費さえ出してやると云って津田を促がした。
百四十一
旅費を貰って、勤向の都合をつけて貰って、病後の身体を心持の好い温泉場で静養するのは、誰にとっても望ましい事に違なかった。
ことに自己の快楽を人間の主題にして生活しようとする津田には滅多にない誂え向きの機会であった。
彼に云わせると、見す見すそれを取り外すのは愚の極であった。
しかしこの場合に附帯している一種の条件はけっして尋常のものではなかった。
彼は顧慮した。
彼を引きとめる心理作用の性質は一目暸然であった。
けれども彼はその働きの顕著な力に気がついているだけで、その意味を返照する遑がなかった。
この点においても夫人の方が、彼自身よりもかえってしっかりした心理の観察者であった。
二つ返事で断行を誓うと思った津田のどこか渋っている様子を見た夫人はこう云った。
「あなたは内心行きたがってるくせに、もじもじしていらっしゃるのね。それが私に云わせると、男らしくないあなたの一番悪いところなんですよ」 男らしくないと評されても大した苦痛を感じない津田は答えた。
「そうかも知れませんけれども、少し考えて見ないと……」「その考える癖があなたの人格に祟って来るんです」 津田は「へえ?」と云って驚ろいた。
夫人は澄ましたものであった。
「女は考えやしませんよ。そんな時に」「じゃ考える私は男らしい訳じゃありませんか」 この答えを聴いた時、夫人の態度が急に嶮しくなった。
「そんな生意気な口応えをするもんじゃありません。言葉だけで他をやり込めればどこがどうしたというんです、馬鹿らしい。あなたは学校へ行ったり学問をしたりした方のくせに、まるで自分が見えないんだからお気の毒よ。だから畢竟清子さんに逃げられちまったんです」 津田はまた「えッ?」と云った。
夫人は構わなかった。
「あなたに分らなければ、私が云って聴かせて上げます。あなたがなぜ行きたがらないか、私にはちゃんと分ってるんです。あなたは臆病なんです。清子さんの前へ出られないんです」「そうじゃありません。私は……」「お待ちなさい。――あなたは勇気はあるという気なんでしょう。しかし出るのは見識に拘わるというんでしょう。私から云えば、そう見識ばるのが取りも直さずあなたの臆病なところなんですよ、好ござんすか。なぜと云って御覧なさい。そんな見識はただの見栄じゃありませんか。よく云ったところで、上っ面の体裁じゃありませんか。世間に対する手前と気兼を引いたら後に何が残るんです。花嫁さんが誰も何とも云わないのに、自分できまりを悪くして、三度の御飯を控えるのと同なじ事よ」 津田は呆気に取られた。
夫人の小言はまだ続いた。
「つまり色気が多過ぎるから、そんな入らざるところに我を立てて見たくなるんでしょう。そうしてそれがあなたの己惚に生れ変って変なところへ出て来るんです」 津田は仕方なしに黙っていた。
夫人は容赦なく一歩進んでその己惚を説明した。
「あなたはいつまでも品よく黙っていようというんです。じっと動かずにすまそうとなさるんです。それでいて内心ではあの事が始終苦になるんです。そこをもう少し押して御覧なさいな。おれがこうしているうちには、今に清子の方から何か説明して来るだろう来るだろうと思って――」「そんな事を思ってるもんですか、なんぼ私だって」「いえ、思っているのと同なじだというのです。実際どこにも変りがなければ、そう云われたってしようがないじゃありませんか」 津田にはもう反抗する勇気がなかった。
機敏な夫人はそこへつけ込んだ。
「いったいあなたはずうずうしい性質じゃありませんか。そうしてずうずうしいのも世渡りの上じゃ一徳だぐらいに考えているんです」「まさか」「いえ、そうです。そこがまだ私に解らないと思ったら、大間違です。好いじゃありませんか、ずうずうしいで、私はずうずうしいのが好きなんだから。だからここで持前のずうずうしいところを男らしく充分発揮なさいな。そのために私がせっかく骨を折って拵えて来たんだから」「ずうずうしさの活用ですか」と云った津田は言葉を改めた。
「あの人は一人で行ってるんですか」「無論一人です」「関は?」「関さんはこっちよ。こっちに用があるんですもの」 津田はようやく行く事に覚悟をきめた。
百四十二
しかし夫人と津田の間には結末のつかないまだ一つの問題が残っていた。
二人はそこをふり返らないで話を切り上げる訳に行かなかった。
夫人が踵を回らさないうちに、津田は帰った。
「それで私が行くとしたら、どうなるんです、先刻おっしゃった事は」「そこです。そこを今云おうと思っていたのよ。私に云わせると、これほど好い療治はないんですがね。どうでしょう、あなたのお考えは」 津田は答えなかった。
夫人は念を押した。
「解ったでしょう。後は云わなくっても」 夫人の意味は説明を待たないでもほぼ津田に呑み込めた。
しかしそれをどんな風にして、お延の上に影響させるつもりなのか、そこへ行くと彼には確とした観念がなかった。
夫人は笑い出した。
「あなたは知らん顔をしていればいいんですよ。後は私の方でやるから」「そうですか」と答えた津田の頭には疑惑があった。
後を挙げて夫人に一任するとなると、お延の運命を他人に委ねると同じ事であった。
多少夫人の手腕を恐れている彼は危ぶんだ。
何をされるか解らないという掛念に制せられた。
「お任せしてもいいんですが、手段や方法が解っているなら伺っておく方が便利かと思います」「そんな事はあなたが知らないでもいいのよ。まあ見ていらっしゃい、私がお延さんをもっと奥さんらしい奥さんにきっと育て上げて見せるから」 津田の眼に映るお延は無論不完全であった。
けれども彼の気に入らない欠点が、必ずしも夫人の難の打ち所とは限らなかった。
それをちゃんぽんに混同しているらしい夫人は、少くとも自分に都合のいいお延を鍛え上げる事が、すなわち津田のために最も適当な細君を作り出す所以だと誤解しているらしかった。
それのみか、もう一歩夫人の胸中に立ち入って、その真底を探ると、とんでもない結論になるかも知れなかった。
彼女はただお延を好かないために、ある手段を拵えて、相手を苛めにかかるのかも分らなかった。
気に喰わないだけの根拠で、敵を打ち懲らす方法を講じているのかも分らなかった。
幸に自分でそこを認めなければならないほどに、世間からも己れからも反省を強いられていない境遇にある彼女は、気楽であった。
お延の教育。
――こういう言葉が臆面なく彼女の口を洩れた。
夫人とお延の間柄を、内面から看破る機会に出会った事のない津田にはまたその言葉を疑う資格がなかった。
彼は大体の上で夫人の実意を信じてかかった。
しかし実意の作用に至ると、勢い危惧の念が伴なわざるを得なかった。
「心配する事があるもんですか。細工はりゅうりゅう仕上を御覧うじろって云うじゃありませんか」 いくら津田が訊いても詳しい話しをしなかった夫人は、こんな高を括った挨拶をした後で、教えるように津田に云った。
「あの方は少し己惚れ過ぎてるところがあるのよ。それから内側と外側がまだ一致しないのね。上部は大変鄭寧で、お腹の中はしっかりし過ぎるくらいしっかりしているんだから。それに利巧だから外へは出さないけれども、あれでなかなか慢気が多いのよ。だからそんなものを皆んな取っちまわなくっちゃ……」 夫人が無遠慮な評をお延に加えている最中に、階子段の中途で足を止めた看護婦の声が二人の耳に入った。
「吉川の奥さんへ堀さんとおっしゃる方から電話でございます」 夫人は「はい」と応じてすぐ立ったが、敷居の所で津田を顧みた。
「何の用でしょう」 津田にも解らなかったその用を足すために下へ降りて行った夫人は、すぐまた上って来ていきなり云った。
「大変大変」「何が? どうかしたんですか」 夫人は笑いながら落ちついて答えた。
「秀子さんがわざわざ注意してくれたの」「何をです」「今まで延子さんが秀子さんの所へ来て話していたんですって。帰りに病院の方へ廻るかも知れないから、ちょっとお知らせするって云うのよ。今秀子さんの門を出たばかりのところだって。――まあ好かった。悪口でも云ってるところへ来られようもんなら、大恥を掻かなくっちゃならない」 いったん坐った夫人は、間もなくまた立った。
「じゃ私はもうお暇にしますからね」 こんな打ち合せをした後でお延の顔を見るのは、彼女にとってもきまりが好くないらしかった。
「いらっしゃらないうちに、早く退却しましょう。どうぞよろしく」 一言の挨拶を彼女に残したまま、夫人はついに病室を出た。
百四十三
この時お延の足はすでに病院に向って動いていた。
堀の宅から医者の所へ行くには、門を出て一二丁町東へ歩いて、そこに丁字形を描いている大きな往来をまた一つ向うへ越さなければならなかった。
彼女がこの曲り角へかかった時、北から来た一台の電車がちょうど彼女の前、方角から云えば少し筋違の所でとまった。
何気なく首を上げた彼女は見るともなしにこちら側の窓を見た。
すると窓硝子を通して映る乗客の中に一人の女がいた。
位地の関係から、お延はただその女の横顔の半分もしくは三分の一を見ただけであったが、見ただけですぐはっと思った。
吉川夫人じゃないかという気がたちまち彼女の頭を刺戟したからである。
電車はじきに動き出した。
お延は自分の物色に満足な時間を与えずに走り去ったその後影をしばらく見送ったあとで、通りを東側へ横切った。
彼女の歩く往来はもう横町だけであった。
その辺の地理に詳しい彼女は、いくつかの小路を右へ折れたり左へ曲ったりして、一番近い道をはやく病院へ行き着くつもりであった。
けれども電車に会った後の彼女の足は急に重くなった。
距離にすればもう二三丁という所まで来た時、彼女は病院へ寄らずに、いったん宅へ帰ろうかと思い出した。
彼女の心は堀の門を出た折からすでに重かった。
彼女はむやみにお秀を突ッ付いて、かえってやり損なった不快を胸に包んでいた。
そこには大事を明らさまに握る事ができずに、裏からわざわざ匂わせられた羽痒ゆさがあった。
なまじいそれを嗅ぎつけた不安の色も、前よりは一層濃く染めつけられただけであった。
何よりも先だつのは、こっちの弱点を見抜かれて、逆まに相手から翻弄されはしなかったかという疑惑であった。
お延はそれ以上にまだ敏い気を遠くの方まで廻していた。
彼女は自分に対して仕組まれた謀計が、内密にどこかで進行しているらしいとまで癇づいた。
首謀者は誰にしろ、お秀が