その二階作りと門の間には、ただ三間足らずの余地があるだけであった。しかもそれが石で敷き詰められているので、地面の色はどこにも見えなかった。
第 13 章
市区改正の結果、よほど以前に取り広げられた往来には、比較的よそで見られない幅があった。
それでいて商売をしている店は、町内にほとんど一軒も見当らなかった。
弁護士、医者、旅館、そんなものばかりが並んでいるので、四辺が繁華な割に、通りはいつも閑静であった。
その上路の左右には柳の立木が行儀よく植えつけられていた。
したがって時候の好い時には、殺風景な市内の風も、両側に揺く緑りの裡に一種の趣を見せた。
中で一番大きいのが、ちょうど堀の塀際から斜めに門の上へ長い枝を差し出しているので、よそ目にはそれが家と調子を取るために、わざとそこへ移されたように体裁が好かった。
その他の特色を云うと、玄関の前に大きな鉄の天水桶があった。
まるで下町の質屋か何かを聯想させるこの長物と、そのすぐ横にある玄関の構とがまたよく釣り合っていた。
比較的間口の広いその玄関の入口はことごとく細い格子で仕切られているだけで、唐戸だの扉だのの装飾はどこにも見られなかった。
一口でいうと、ハイカラな仕舞うた屋と評しさえすれば、それですぐ首肯かれるこの家の職業は、少なくとも系統的に、家の様子を見ただけで外部から判断する事ができるのに、不思議なのはその主人であった。
彼は自分がどんな宅へ入っているかいまだかつて知らなかった。
そんな事を苦にする神経をもたない彼は、他から自分の家業柄を何とあげつらわれてもいっこう平気であった。
道楽者だが、満更無教育なただの金持とは違って、人柄からいえば、こんな役者向の家に住うのはむしろ不適当かも知れないくらいな彼は、極めて我の少ない人であった。
悪く云えば自己の欠乏した男であった。
何でも世間の習俗通りにして行く上に、わが家庭に特有な習俗もまた改めようとしない気楽ものであった。
かくして彼は、彼の父、彼の母に云わせるとすなわち先代、の建てた土蔵造りのような、そうしてどこかに芸人趣味のある家に住んで満足しているのであった。
もし彼の美点がそこにもあるとすれば、わざとらしく得意がっていない彼の態度を賞めるよりほかに仕方がなかった。
しかし彼はまた得意がるはずもなかった。
彼の眼に映る彼の住宅は、得意がるにしては、彼にとってあまりに陳腐過ぎた。
お延は堀の家を見るたびに、自分と家との間に存在する不調和を感じた。
家へ入いってからもその距離を思い出す事がしばしばあった。
お延の考えによると、一番そこに落ちついてぴたりと坐っていられるものは堀の母だけであった。
ところがこの母は、家族中でお延の最も好かない女であった。
好かないというよりも、むしろ応対しにくい女であった。
時代が違う、残酷に云えば隔世の感がある、もしそれが当らないとすれば、肌が合わない、出が違う、その他評する言葉はいくらでもあったが、結果はいつでも同じ事に帰着した。
次には堀その人が問題であった。
お延から見たこの主人は、この家に釣り合うようでもあり、また釣り合わないようでもあった。
それをもう一歩進めていうと、彼はどんな家へ行っても、釣り合うようでもあり、釣り合わないようでもあるというのとほとんど同じ意味になるので、始めから問題にしないのと、大した変りはなかった。
この曖昧なところがまたお延の堀に対する好悪の感情をそのままに現わしていた。
事実をいうと、彼女は堀を好いているようでもあり、また好いていないようでもあった。
最後に来るお秀に関しては、ただ要領を一口でいう事ができた。
お延から見ると、彼女はこの家の構造に最も不向に育て上げられていた。
この断案にもう少しもったいをつけ加えて、心理的に翻訳すると、彼女とこの家庭の空気とはいつまで行っても一致しっこなかった。
堀の母とお秀、お延は頭の中にこの二人を並べて見るたびに一種の矛盾を強いられた。
しかし矛盾の結果が悲劇であるか喜劇であるかは容易に判断ができなかった。
家と人とをこう組み合せて考えるお延の眼に、不思議と思われる事がただ一つあった。
「一番家と釣り合の取れている堀の母が、最も彼女を手古摺らせると同時に、その反対に出来上っているお秀がまた別の意味で、最も彼女に苦痛を与えそうな相手である」 玄関の格子を開けた時、お延の頭に平生からあったこんな考えを一度に蘇えらさせるべく号鈴がはげしく鳴った。
百二十四
昨日孫を伴れて横浜の親類へ行ったという堀の母がまだ帰っていなかったのは、座敷へ案内されたお延にとって、意外な機会であった。
見方によって、好い都合にもなり、また悪い跋にもなるこの機会は、彼女から話しのしにくい年寄を追い除けてくれたと同時に、ただ一人面と向き合って、当の敵のお秀と応対しなければならない不利をも与えた。
お延に知れていないこの情実は、訪問の最初から彼女の勝手を狂わせた。
いつもなら何をおいても小さな髷に結った母が一番先へ出て来て、義理ずぐめにちやほやしてくれるところを、今日に限って、劈頭にお秀が顔を出したばかりか、待ち設けた老女はその後からも現われる様子をいっこう見せないので、お延はいつもの予期から出てくる自然の調子をまず外させられた。
その時彼女はお秀を一目見た眼の中に、当惑の色を示した。
しかしそれはすまなかったという後悔の記念でも何でもなかった。
単に昨日の戦争に勝った得意の反動からくる一種のきまり悪さであった。
どんな敵を打たれるかも知れないという微かな恐怖であった。
この場をどう切り抜けたらいいか知らという思慮の悩乱でもあった。
お延はこの一瞥をお秀に与えた瞬間に、もう今日の自分を相手に握られたという気がした。
しかしそれは自分のもっている技巧のどうする事もできない高い源からこの一瞥が突如として閃めいてしまった後であった。
自分の手の届かない暗中から不意に来たものを、喰い止める威力をもっていない彼女は、甘んじてその結果を待つよりほかに仕方がなかった。
一瞥ははたしてお秀の上によく働いた。
しかしそれに反応してくる彼女の様子は、またいかにも予想外であった。
彼女の平生、その平生が破裂した昨日、津田と自分と寄ってたかってその破裂を料理した始末、これらの段取を、不断から一貫して傍の人の眼に着く彼女の性格に結びつけて考えると、どうしても無事に納まるはずはなかった。
大なり小なり次の波瀾が呼び起されずに片がつこうとは、いかに自分の手際に重きをおくお延にも信ぜられなかった。
だから彼女は驚ろいた。
座に着いたお秀が案に相違していつもより愛嬌の好い挨拶をした時には、ほとんどわれを疑うくらいに驚ろいた。
その疑いをまた少しも後へ繰り越させないように、手抜りなく仕向けて来る相手の態度を眼の前に見た時、お延はむしろ気味が悪くなった。
何という変化だろうという驚ろきの後から、どういう意味だろうという不審が湧いて起った。
けれども肝心なその意味を、お秀はまたいつまでもお延に説明しようとしなかった。
そればかりか、昨日病院で起った不幸な行き違についても、ついに一言も口を利く様子を見せなかった。
相手に心得があってわざと際どい問題を避けている以上、お延の方からそれを切り出すのは変なものであった。
第一好んで痛いところに触れる必要はどこにもなかった。
と云って、どこかで区切を付けて、双方さっぱりしておかないと、自分は何のために、今日ここまで足を運んだのか、主意が立たなくなった。
しかし和解の形式を通過しないうちに、もう和解の実を挙げている以上、それをとやかく表面へ持ち出すのも馬鹿げていた。
怜悧なお延は弱らせられた。
会話が滑らかにすべって行けば行くほど、一種の物足りなさが彼女の胸の中に頭を擡げて来た。
しまいに彼女は相手のどこかを突き破って、その内側を覗いて見ようかと思い出した。
こんな点にかけると、すこぶる冒険的なところのある彼女は、万一やり損なった暁に、この場合から起り得る危険を知らないではなかった。
けれどもそこには自分の腕に対する相当の自信も伴っていた。
その上もし機会が許すならば、お秀の胸の格別なある一点に、打診を試ろみたいという希望が、お延の方にはあった。
そこを敲かせて貰って局部から自然に出る本音を充分に聴く事は、津田と打ち合せを済ました訪問の主意でも何でもなかったけれども、お延自身からいうと、うまく媾和の役目をやり終せて帰るよりも遥かに重大な用向であった。
津田に隠さなければならないこの用向は、津田がお延にないしょにしなければならない事件と、その性質の上においてよく似通っていた。
そうして津田が自分のいない留守に、小林がお延に何を話したかを気にするごとく、お延もまた自分のいない留守に、お秀が津田に何を話したかを確と突きとめたかったのである。
どこに引かかりを拵えたものかと思案した末、彼女は仕方なしに、藤井の帰りに寄ってくれたというお秀の訪問をまた問題にした。
けれども座に着いた時すでに、「先刻いらしって下すったそうですが、あいにくお湯に行っていて」という言葉を、会話の口切に使った彼女が、今度は「何か御用でもおありだったの」という質問で、それを復活させにかかった時、お秀はただ簡単に「いいえ」と答えただけで、綺麗にお延を跳ねつけてしまった。
百二十五
お延は次に藤井から入って行こうとした。
今朝この叔父の所を訪ねたというお秀の自白が、話しをそっちへ持って行くに都合のいい便利を与えた。
けれどもお秀の門構は依然としてこの方面にも厳重であった。
彼女は必要の起るたびに、わざわざその門の外へ出て来て、愛想よくお延に応対した。
お秀がこの叔父の世話で人となった事実は、お延にもよく知れていた。
彼女が精神的にその感化を受けた点もお延に解っていた。
それでお延は順序としてまずこの叔父の人格やら生活やらについて、お秀の気に入りそうな言辞を弄さなければならなかった。
ところがお秀から見ると、それがまた一々誇張と虚偽の響きを帯びているので、彼女は真面目に取り合う緒口をどこにも見出す事ができないのみならず、長く同じ筋道を辿って行くうちには、自然気色を悪くした様子を外に現わさなければすまなくなった。
敏捷なお延は、相手を見縊り過ぎていた事に気がつくや否や、すぐ取って返した。
するとお秀の方で、今度は岡本の事を喋々し始めた。
お秀対藤井とちょうど同じ関係にあるその叔父は、お延にとって大事な人であると共に、お秀からいうと、親しみも何にも感じられない、あかの他人であった。
したがって彼女の言葉には滑っこい皮膚があるだけで、肝心の中味に血も肉も盛られていなかった。
それでもお延はお秀の手料理になるこのお世辞の返礼をさも旨そうに鵜呑にしなければならなかった。
しかし再度自分の番が廻って来た時、お延は二返目の愛嬌を手古盛りに盛り返して、悪くお秀に強いるほど愚かな女ではなかった。
時機を見て器用に切り上げた彼女は、次に吉川夫人から煽って行こうとした。
しかし前と同じ手段を用いて、ただ賞めそやすだけでは、同じ不成蹟に陥いるかも知れないという恐れがあった。
そこで彼女は善悪の標準を度外に置いて、ただ夫人の名前だけを二人の間に点出して見た。
そうしてその影響次第で後の段取をきめようと覚悟した。
彼女はお秀が自分の風呂の留守へ藤井の帰りがけに廻って来た事を知っていた。
けれども藤井へ行く前に、彼女がもうすでに吉川夫人を訪問している事にはまるで想い到らなかった。
しかも昨日病院で起った波瀾の結果として、彼女がわざわざそこまで足を運んでいようとは、夢にも知らなかった。
この一点にかけると、津田と同じ程度に無邪気であった彼女は、津田が小林から驚ろかされたと同じ程度に、またお秀から驚ろかされなければならなかった。
しかし驚ろかせられ方は二人共まるで違っていた。
小林のは明らさまな事実の報告であった。
お秀のは意味のありそうな無言であった。
無言と共に来た薄赤い彼女の顔色であった。
最初夫人の名前がお延の唇から洩れた時、彼女は二人の間に一滴の霊薬が天から落されたような気がした。
彼女はすぐその効果を眼の前に眺めた。
しかし不幸にしてそれは彼女にとって何の役にも立たない効果に過ぎなかった。
少くともどう利用していいか解らない効果であった。
その予想外な性質は彼女をはっと思わせるだけであった。
彼女は名前を口へ出すと共に、あるいはその場ですぐ失言を謝さなければならないかしらとまで考えた。
すると第二の予想外が継いで起った。
お秀がちょっと顔を背けた様子を見た時に、お延はどうしても最初に受けた印象を改正しなければならなくなった。
血色の変化はけっして怒りのためでないという事がその時始めて解った。
年来陳腐なくらい見飽きている単純なきまりの悪さだと評するよりほかに仕方のないこの表情は、お延をさらに驚ろかさざるを得なかった。
彼女はこの表情の意味をはっきり確かめた。
しかしその意味の因って来るところは、お秀の説明を待たなければまた確かめられるはずがなかった。
お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹を接いだように、突然話題を変化した。
行がかり上全然今までと関係のないその話題は、三度目にまたお延を驚ろかせるに充分なくらい突飛であった。
けれどもお延には自信があった。
彼女はすぐそれを受けて立った。
百二十六
お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打ったのは「愛」という言葉であった。
この陳腐なありきたりの一語が、いかにお延の前に伏兵のような新らし味をもって起ったかは、前後の連絡を欠いて単独に突発したというのが重な原因に相違なかったが、一つにはまた、そんな言葉がまだ会話の材料として、二人の間に使われていなかったからである。
お延に比べるとお秀は理窟っぽい女であった。
けれどもそういう結論に達するまでには、多少の説明が要った。
お延は自分で自分の理窟を行為の上に運んで行く女であった。
だから平生彼女の議論をしないのは、できないからではなくって、する必要がないからであった。
その代り他から注ぎ込まれた知識になると、大した貯蓄も何にもなかった。
女学生時代に読み馴れた雑誌さえ近頃は滅多に手にしないくらいであった。
それでいて彼女はいまだかつて自分を貧弱と認めた事がなかった。
虚栄心の強い割に、その方面の欲望があまり刺戟されずにすんでいるのは、暇が乏しいからでもなく、競争の話し相手がないからでもなく、全く自分に大した不足を感じないからであった。
ところがお秀は教育からしてが第一違っていた。
読書は彼女を彼女らしくするほとんどすべてであった。
少なくとも、すべてでなければならないように考えさせられて来た。
書物に縁の深い叔父の藤井に教育された結果は、善悪両様の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。
彼女は自分より書物に重きをおくようになった。
しかしいくら自分を書物より軽く見るにしたところで、自分は自分なりに、書物と独立したまんまで、活きて働らいて行かなければならなかった。
だから勢い本と自分とは離れ離れになるだけであった。
それをもっと適切な言葉で云い現わすと、彼女は折々柄にもない議論を主張するような弊に陥った。
しかし自分が議論のために議論をしているのだからつまらないと気がつくまでには、彼女の反省力から見て、まだ大分の道程があった。
意地の方から行くと、あまりに我が強過ぎた。
平たく云えば、その我がつまり自分の本体であるのに、その本体に副ぐわないような理窟を、わざわざ自分の尊敬する書物の中から引張り出して来て、そこに書いてある言葉の力で、それを守護するのと同じ事に帰着した。
自然弾丸を込めて打ち出すべき大砲を、九寸五分の代りに、振り廻して見るような滑稽も時々は出て来なければならなかった。
問題ははたして或雑誌から始まった。
月の発行にかかるその雑誌に発表された諸家の恋愛観を読んだお秀の質問は、実をいうとお延にとってそれほど興味のあるものでもなかった。
しかしまだ眼を通していない事実を自白した時に、彼女の好奇心が突然起った。
彼女はこの抽象的な問題を、どこかで自分の思い通り活かしてやろうと決心した。
彼女はややともすると空論に流れやすい相手の弱点をかなりよく呑み込んでいた。
際どい実際問題にこれから飛び込んで行こうとする彼女に、それほど都合の悪い態度はなかった。
ただ議論のために議論をされるくらいなら、最初から取り合わない方がよっぽどましだった。
それで彼女にはどうしても相手を地面の上に縛りつけておく必要があった。
ところが不幸にしてこの場合の相手は、最初からもう地面の上にいなかった。
お秀の口にする愛は、津田の愛でも、堀の愛でも、乃至お延、お秀の愛でも何でもなかった。
ただ漫然として空裏に飛揚する愛であった。
したがってお延の努力は、風船玉のようなお秀の話を、まず下へ引き摺りおろさなければならなかった。
子供がすでに二人もあって、万事自分より世帯染みているお秀が、この意味において、遥かに自分より着実でない事を発見した時に、お延は口ではいはい向うのいう通りを首肯いながら、腹の中では、じれったがった。
「そんな言葉の先でなく、裸でいらっしゃい、実力で相撲を取りますから」と云いたくなった彼女は、どうしたらこの議論家を裸にする事ができるだろうと思案した。
やがてお延の胸に分別がついた。
分別とはほかでもなかった。
この問題を活かすためには、お秀を犠牲にするか、または自分を犠牲にするか、どっちかにしなければ、とうてい思う壺に入って来る訳がないという事であった。
相手を犠牲にするのに困難はなかった。
ただどこからか向うの弱点を突ッ付きさえすれば、それで事は足りた。
その弱点が事実であろうとも仮説的であろうとも、それはお延の意とするところではなかった。
単に自然の反応を目的にして試みる刺戟に対して、真偽の吟味などは、要らざる斟酌であった。
しかしそこにはまたそれ相応の危険もあった。
お秀は怒るに違なかった。
ところがお秀を怒らせるという事は、お延の目的であって、そうして目的でなかった。
だからお延は迷わざるを得なかった。
最後に彼女はある時機を掴んで起った。
そうしてその起った時には、もう自分を犠牲にする方に決心していた。
百二十七
「そう云われると、何と云っていいか解らなくなるわね、あたしなんか。津田に愛されているんだか、愛されていないんだか、自分じゃまるで夢中でいるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。最初から御自分にちゃんとした保証がついていらっしゃるんだから」 お秀の器量望みで貰われた事は、津田といっしょにならない前から、お延に知れていた。
それは一般の女、ことにお延のような女にとっては、羨やましい事実に違なかった。
始めて津田からその話を聴かされた時、お延はお秀を見ない先に、まず彼女に対する軽い嫉妬を感じた。
中味の薄っぺらな事実に過ぎなかったという意味があとで解った時には、淡い冷笑のうちに、復讐をしたような快感さえ覚えた。
それより以後、愛という問題について、お秀に対するお延の態度は、いつも軽蔑であった。
それを表向さも嬉しい消息ででもあるように取扱かって、彼我に共通するごとくに見せかけたのは、無論一片のお世辞に過ぎなかった。
もっと悪く云えば、一種の嘲弄であった。
幸いお秀はそこに気がつかなかった。
そうして気がつかない訳であった。
と云うのは、言葉の上はとにかく、実際に愛を体得する上において、お秀はとてもお延の敵でなかった。
猛烈に愛した経験も、生一本に愛された記憶ももたない彼女は、この能力の最大限がどのくらい強く大きなものであるかという事をまだ知らずにいる女であった。
それでいて夫に満足している細君であった。
知らぬが仏という諺がまさにこの場合の彼女をよく説明していた。
結婚の当時、自分の未来に夫の手で押しつけられた愛の判を、普通の証文のようなつもりで、いつまでも胸の中へしまい込んでいた彼女は、お延の言葉を、その胸の中で、真面目に受けるほど無邪気だったのである。
本当に愛の実体を認めた事のないお秀は、彼女のいたずらに使う胡乱な言葉を通して、鋭どいお延からよく見透かされたのみではなかった。
彼女は津田とお延の関係を、自分達夫婦から割り出して平気でいた。
それはお延の言葉を聴いた彼女が実際驚ろいた顔をしたのでも解った。
津田がお延を愛しているかいないかが今頃どうして問題になるのだろう。
しかもそれが細君自身の口から出るとは何事だろう。
ましてそれを夫の妹の前へ出すに至っては、どこにどんな意味があるのだろう。
――これがお秀の表情であった。
実際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に満足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んでおきながら、わざとそこに気のつかないようなふりをする、空々しい女に過ぎなかった。
彼女は「あら」と云った。
「まだその上に愛されてみたいの」 この挨拶は平生のお延の注文通りに来た。
しかし今の場合におけるお延に満足を与えるはずはなかった。
彼女はまた何とか云って、自分の意志を明らかにしなければならなかった。
ところがそれを判然表現すると、「津田があたしのほかにまだ思っている人が別にあるとするなら、あたしだってとうてい今のままで満足できる訳がないじゃありませんか」という露骨な言葉になるよりほかに途はなかった。
思い切って、そう打って出れば、自分で自分の計画をぶち毀すのと一般だと感づいた彼女は、「だって」と云いかけたまま、そこで逡巡ったなり動けなくなった。
「まだ何か不足があるの」 こう云ったお秀は眼を集めてお延の手を見た。
そこには例の指環が遠慮なく輝やいていた。
しかしお秀の鋭どい一瞥は何の影響もお延に与える事ができなかった。
指輪に対する彼女の無邪気さは昨日と毫も変るところがなかった。
お秀は少しもどかしくなった。
「だって延子さんは仕合せじゃありませんか。欲しいものは、何でも買って貰えるし、行きたい所へは、どこへでも連れていって貰えるし――」「ええ。そこだけはまあ仕合せよ」 他に向って自分の仕合せと幸福を主張しなければ、わが弱味を外へ現わすようになって、不都合だとばかり考えつけて来たお延は、平生から持ち合せの挨拶をついこの場合にも使ってしまった。
そうしてまた行きつまった。
芝居に行った翌日、岡本へ行って継子と話をした時用いた言葉を、そのまま繰り返した後で、彼女は相手のお秀であるという事に気がついた。
そのお秀は「そこだけが仕合せなら、それでたくさんじゃないか」という顔つきをした。
お延は自分がかりそめにも津田を疑っているという形迹をお秀に示したくなかった。
そうかと云って、何事も知らない風を粧って、見す見すお秀から馬鹿にされるのはなお厭だった。
したがって応対に非常な呼吸が要った。
目的地へ漕ぎつけるまでにはなかなか骨が折れると思った。
しかし彼女はとても見込のない無理な努力をしているという事には、ついに気がつかなかった。
彼女はまた態度を一変した。
百二十八
彼女は思い切って一足飛びに飛んだ。
情実に絡まれた窮屈な云い廻し方を打ちやって、面と向き合ったままお秀に相見しようとした。
その代り言葉はどうしても抽象的にならなければならなかった。
それでも論戦の刺撃で、事実の面影を突きとめる方が、まだましだと彼女は思った。
「いったい一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事ができるものでしょうか」 この質問を基点として歩を進めにかかった時、お秀はそれに対してあらかじめ準備された答を一つももっていなかった。
書物と雑誌から受けた彼女の知識は、ただ一般恋愛に関するだけで、毫もこの特殊な場合に利用するに足らなかった。
腹に何の貯えもない彼女は、考える風をした。
そうして正直に答えた。
「そりゃちょっと解らないわ」 お延は気の毒になった。
「この人は生きた研究の材料として、堀という夫をすでにもっているではないか。その夫の婦人に対する態度も、朝夕傍にいて、見ているではないか」。
お延がこう思う途端に、第二句がお秀の口から落ちた。
「解らないはずじゃありませんか。こっちが女なんですもの」 お延はこれも愚答だと思った。
もしお秀のありのままがこうだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減が想いやられた。
しかしお延はすぐこの愚答を活かしにかかった。
「じゃ女の方から見たらどうでしょう。自分の夫が、自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか」「延子さんにはそれができないの?」と云われた時、お延はおやと思った。
「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか」「そりゃ大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合った。
お延は直ちに相手の言葉を繰り返した。
「大丈夫※」 疑問とも間投詞とも片のつかないその語尾は、お延にも何という意味だか解らなかった。
「大丈夫よ」 お秀も再び同じ言葉を繰り返した。
その瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀の唇のあたりに認めた。
しかし彼女はすぐそれを切って捨てた。
「そりゃ秀子さんは大丈夫にきまってるわ。もともと堀さんへいらっしゃる時の条件が条件ですもの」「じゃ延子さんはどうなの。やっぱり津田に見込まれたんじゃなかったの」「嘘よ。そりゃあなたの事よ」 お秀は急に応じなくなった。
お延も獲物のない同じ脈をそれ以上掘る徒労を省いた。
「いったい津田は女に関してどんな考えをもっているんでしょう」「それは妹より奥さんの方がよく知ってるはずだわ」 お延は叩きつけられた後で、自分もお秀と同じような愚問をかけた事に気がついた。
「だけど兄妹としての津田は、あたしより秀子さんの方によく解ってるでしょう」「ええ、だけど、いくら解ってたって、延子さんの参考にゃならないわ」「参考に無論なるのよ。しかしその事ならあたしだって疾うから知ってるわ」 お延の鎌は際どいところで投げかけられた。
お秀ははたしてかかった。
「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」「大丈夫だけれども危険いのよ。どうしても秀子さんから詳しい話しを聴かしていただかないと」「あら、あたし何にも知らないわ」 こういったお秀は急に赧くなった。
それが何の羞恥のために起ったのかは、いくら緊張したお延の神経でも揣摩できなかった。
しかも彼女はこの訪問の最初に、同じ現象から受けた初度の記憶をまだ忘れずにいた。
吉川夫人の名前を点じた時に見たその薄赧い顔と、今彼女の面前に再現したこの赤面の間にどんな関係があるのか、それはいくら物の異同を嗅ぎ分ける事に妙を得た彼女にも見当がつかなかった。
彼女はこの場合無理にも二つのものを繋いでみたくってたまらなかった。
けれどもそれを繋ぎ合せる綱は、どこをどう探したって、金輪際出て来っこなかった。
お延にとって最も不幸な点は、現在の自分の力に余るこの二つのものの間に、きっと或る聯絡が存在しているに相違ないという推測であった。
そうしてその聯絡が、今の彼女にとって、すこぶる重大な意味をもっているに相違ないという一種の予覚であった。
自然彼女はそこをもっと突ッついて見るよりほかに仕方がなかった。
百二十九
とっさの衝動に支配されたお延は、自分の口を衝いて出る嘘を抑える事ができなかった。
「吉川の奥さんからも伺った事があるのよ」 こう云った時、お延は始めて自分の大胆さに気がついた。
彼女はそこへとまって、冒険の結果を眺めなければならなかった。
するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながら訊き返した。
「あら何を」「その事よ」「その事って、どんな事なの」 お延にはもう後がなかった。
お秀には先があった。
「嘘でしょう」「嘘じゃないのよ。津田の事よ」 お秀は急に応じなくなった。
その代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。
それが先刻より著るしく目立って外へ現われた時、お延は路を誤まって一歩深田の中へ踏み込んだような気がした。
彼女に特有な負け嫌いな精神が強く働らかなかったなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、もう救を求めていたかも知れなかった。
お秀は云った。
「変ね。津田の事なんか、吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。どうしたんでしょう」「でも本当よ、秀子さん」 お秀は始めて声を出して笑った。
「そりゃ本当でしょうよ。誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。だけどどんな事なの、いったい」「津田の事よ」「だから兄の何よ」「そりゃ云えないわ。あなたの方から云って下さらなくっちゃ」「ずいぶん無理な御注文ね。云えったって、見当がつかないんですもの」 お秀はどこからでもいらっしゃいという落ちつきを見せた。
お延の腋の下から膏汗が流れた。
彼女は突然飛びかかった。
「秀子さん、あなたは基督教信者じゃありませんか」 お秀は驚ろいた様子を現わした。
「いいえ」「でなければ、昨日のような事をおっしゃる訳がないと思いますわ」 昨日と今日の二人は、まるで地位を易えたような形勢に陥った。
お秀はどこまでも優者の余裕を示した。
「そう。じゃそれでもいいわ。延子さんはおおかた基督教がお嫌いなんでしょう」「いいえ好きなのよ。だからお願いするのよ。だから昨日のような気高い心持になって、この小さいお延を憐れんでいただきたいのよ。もし昨日のあたしが悪かったら、こうしてあなたの前に手を突いて詫まるから」 お延は光る宝石入の指輪を穿めた手を、お秀の前に突いて、口で云った通り、実際に頭を下げた。
「秀子さん、どうぞ隠さずに正直にして下さい。そうしてみんな打ち明けて下さい。お延はこの通り正直にしています。この通り後悔しています」 持前の癖を見せて、眉を寄せた時、お延の細い眼から涙が膝の上へ落ちた。
「津田はあたしの夫です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なように、津田はあたしにも大事です。ただ津田のためです。津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛しています。津田が妹としてあなたを愛しているように、妻としてあたしを愛しているのです。だから津田から愛されているあたしは津田のためにすべてを知らなければならないのです。津田から愛されているあなたもまた、津田のために万ずをあたしに打ち明けて下さるでしょう。それが妹としてのあなたの親切です。あなたがあたしに対する親切を、この場合お感じにならないでも、あたしはいっこう恨みとは思いません。けれども兄さんとしての津田には、まだ尽して下さる親切をもっていらっしゃるでしょう。あなたがそれを充分もっていらっしゃるのは、あなたの顔つきでよく解ります。あなたはそんな冷刻な人ではけっしてないのです。あなたはあなたが昨日御自分でおっしゃった通り親切な方に違いないのです」 お延がこれだけ云って、お秀の顔を見た時、彼女はそこに特別な変化を認めた。
お秀は赧くなる代りに少し蒼白くなった。
そうして度外れに急き込んだ調子で、お延の言葉を一刻も早く否定しなければならないという意味に取れる言葉遣いをした。
「あたしはまだ何にも悪い事をした覚はないんです。兄さんに対しても嫂さんに対しても、もっているのは好意だけです。悪意はちっとも有りません。どうぞ誤解のないようにして下さい」
百三十
お秀の言訳はお延にとって意外であった。
また突然であった。
その言訳がどこから出て来たのか、また何のためであるかまるで解らなかった。
お延はただはっと思った。
天恵のごとく彼女の前に露出されたこの時のお秀の背後に何が潜んでいるのだろう。
お延はすぐその暗闇を衝こうとした。
三度目の嘘が安々と彼女の口を滑って出た。
「そりゃ解ってるのよ。あなたのなすった事も、あなたのなすった精神も、あたしにはちゃんと解ってるのよ。だから隠しだてをしないで、みんな打ち明けてちょうだいな。お厭?」 こう云った時、お延は出来得る限りの愛嬌をその細い眼に湛えて、お秀を見た。
しかし異性に対する場合の効果を予想したこの所作は全く外れた。
お秀は驚ろかされた人のように、卒爾な質問をかけた。
「延子さん、あなた今日ここへおいでになる前、病院へ行っていらしったの」「いいえ」「じゃどこか外から廻っていらしったの」「いいえ。宅からすぐ上ったの」 お秀はようやく安心したらしかった。
その代り後は何にも云わなかった。
お延はまだ縋りついた手を放さなかった。
「よう、秀子さんどうぞ話してちょうだいよ」 その時お秀の涼しい眼のうちに残酷な光が射した。
「延子さんはずいぶん勝手な方ね。御自分独り精一杯愛されなくっちゃ気がすまないと見えるのね」「無論よ。秀子さんはそうでなくっても構わないの」「良人を御覧なさい」 お秀はすぐこう云って退けた。
お延は話頭からわざと堀を追い除けた。
「堀さんは問題外よ。堀さんはどうでもいいとして、正直の云いっ競よ。なんぼ秀子さんだって、気の多い人が好きな訳はないでしょう」「だって自分よりほかの女は、有れども無きがごとしってような素直な夫が世の中にいるはずがないじゃありませんか」 雑誌や書物からばかり知識の供給を仰いでいたお秀は、この時突然卑近な実際家となってお延の前に現われた。
お延はその矛盾を注意する暇さえなかった。
「あるわよ、あなた。なけりゃならないはずじゃありませんか、いやしくも夫と名がつく以上」「そう、どこにそんな好い人がいるの」 お秀はまた冷笑の眼をお延に向けた。
お延はどうしても津田という名前を大きな声で叫ぶ勇気がなかった。
仕方なしに口の先で答えた。
「それがあたしの理想なの。そこまで行かなくっちゃ承知ができないの」 お秀が実際家になった通り、お延もいつの間にか理論家に変化した。
今までの二人の位地は顛倒した。
そうして二人ともまるでそこに気がつかずに、勢の運ぶがままに前の方へ押し流された。
あとの会話は理論とも実際とも片のつかない、出たとこ勝負になった。
「いくら理想だってそりゃ駄目よ。その理想が実現される時は、細君以外の女という女がまるで女の資格を失ってしまわなければならないんですもの」「しかし完全の愛はそこへ行って始めて味わわれるでしょう。そこまで行き尽さなければ、本式の愛情は生涯経ったって、感ずる訳に行かないじゃありませんか」「そりゃどうだか知らないけれども、あなた以外の女を女と思わないで、あなただけを世の中に存在するたった一人の女だと思うなんて事は、理性に訴えてできるはずがないでしょう」 お秀はとうとうあなたという字に点火した。
お延はいっこう構わなかった。
「理性はどうでも、感情の上で、あたしだけをたった一人の女と思っていてくれれば、それでいいんです」「あなただけを女と思えとおっしゃるのね。そりゃ解るわ。けれどもほかの女を女と思っちゃいけないとなるとまるで自殺と同じ事よ。もしほかの女を女と思わずにいられるくらいな夫なら、肝心のあなただって、やッぱり女とは思わないでしょう。自分の宅の庭に咲いた花だけが本当の花で、世間にあるのは花じゃない枯草だというのと同じ事ですもの」「枯草でいいと思いますわ」「あなたにはいいでしょう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、あなたが一番好かれている方が、嫂さんにとってもかえって満足じゃありませんか。それが本当に愛されているという意味なんですもの」「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めから嫌いなんだから」 お秀の顔に軽蔑の色が現われた。
その奥には何という理解力に乏しい女だろうという意味がありありと見透かされた。
お延はむらむらとした。
「あたしはどうせ馬鹿だから理窟なんか解らないのよ」「ただ実例をお見せになるだけなの。その方が結構だわね」 お秀は冷然として話を切り上げた。
お延は胸の奥で地団太を踏んだ。
せっかくの努力はこれ以上何物をも彼女に与える事ができなかった。
留守に彼女を待つ津田の手紙が来ているとも知らない彼女は、そのまま堀の家を出た。
百三十一
お延とお秀が対坐して戦っている間に、病院では病院なりに、また独立した予定の事件が進行した。
津田の待ち受けた吉川夫人がそこへ顔を出したのは、お延宛で書いた手紙を持たせてやった車夫がまだ帰って来ないうちで、時間からいうと、ちょうど小林の出て行った十分ほど後であった。
彼は看護婦の口から夫人の名前を聴いた時、この異人種に近い二人が、狭い室で鉢合せをしずにすんだ好都合を、何より先にまず祝福した。
その時の彼はこの都合をつけるために払うべく余儀なくされた物質上の犠牲をほとんど顧みる暇さえなかった。
彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返ろうとした。
夫人は立ちながら、それを止めた。
そうして彼女を案内した看護婦の両手に、抱えるようにして持たせた植木鉢をちょっとふり返って見て、「どこへ置きましょう」と相談するように訊いた。
津田は看護婦の白い胸に映る紅葉の色を美くしく眺めた。
小さい鉢の中で、窮屈そうに三本の幹が調子を揃えて並んでいる下に、恰好の好い手頃な石さえあしらったその盆栽が床の間の上に置かれた後で、夫人は始めて席に着いた。
「どうです」 先刻から彼女の様子を見ていた津田は、この時始めて彼に対する夫人の態度を確かめる事ができた。
もしやと思って、暗に心配していた彼の掛念の半分は、この一語で吹き晴らされたと同じ事であった。
夫人はいつもほど陽気ではなかった。
その代りいつもほど上っ調子でもなかった。
要するに彼女は、津田がいまだかつて彼女において発見しなかった一種の気分で、彼の室に入って来たらしかった。
それは一方で彼女の落ちつきを極度に示していると共に、他方では彼女の鷹揚さをやはり最高度に現わすものらしく見えた。
津田は少し驚ろかされた。
しかし好い意味で驚ろかされただけに、気味も悪くしなければならなかった。
たといこの態度が、彼に対する反感を代表していないにせよ、その奥には何があるか解らなかった。
今その奥に恐るべき何物がないにしても、これから先話をしているうちに、向うの心持はどう変化して来るか解らなかった。
津田は他から機嫌を取られつけている夫人の常として、手前勝手にいくらでも変って行く、もしくは変って行っても差支えないと自分で許している、この夫人を、一種の意味で、女性の暴君と奉つらなければならない地位にあった。
漢語でいうと彼女の一顰一笑が津田にはことごとく問題になった。
この際の彼にはことにそうであった。
「今朝秀子さんがいらしってね」 お秀の訪問はまず第一の議事のごとくに彼女の口から投げ出された。
津田は固より相手に応じなければならなかった。
そうしてその応じ方は夫人の来ない前からもう考えていた。
彼はお秀の夫人を尋ねた事を知って、知らない風をするつもりであった。
誰から聴いたと問われた場合に、小林の名を出すのが厭だったからである。
「へえ、そうですか。平生あんまり御無沙汰をしているので、たまにはお詫に上らないと悪いとでも思ったのでしょう」「いえそうじゃないの」 津田は夫人の言葉を聴いた後で、すぐ次の嘘を出した。
「しかしあいつに用のある訳もないでしょう」「ところがあったんです」「へええ」 津田はこう云ったなりその後を待った。
「何の用だかあてて御覧なさい」 津田は空っ惚けて、考える真似をした。
「そうですね、お秀の用事というと、――さあ何でしょうかしら」「分りませんか」「ちょっとどうも。――元来私とお秀とは兄妹でいながら、だいぶん質が違いますから」 津田はここで余計な兄妹関係をわざと仄めかした。
それは事の来る前に、自分を遠くから弁護しておくためであった。
それから自分の言葉を、夫人がどう受けてくれるか、その反響をちょっと聴いてみるためであった。
「少し理窟ッぽいのね」 この一語を聞くや否や、津田は得たり賢こしと虚につけ込んだ。
「あいつの理窟と来たら、兄の私でさえ悩まされるくらいですもの。誰だって、とてもおとなしく辛抱して聴いていられたものじゃございません。だから私はあいつと喧嘩をすると、いつでも好い加減にして投げてしまいます。するとあいつは好い気になって、勝ったつもりか何かで、自分の都合の好い事ばかりを方々へ行って触れ散らかすのです」 夫人は微笑した。
津田はそれを確かに自分の方に同情をもった微笑と解釈する事ができた。
すると夫人の言葉が、かえって彼の思わくとは逆の見当を向いて出た。
「まさかそうでもないでしょうけれどもね。――しかしなかなか筋の通った好い頭をもった方じゃありませんか。あたしあの方は好よ」 津田は苦笑した。
「そりゃお宅なんぞへ上って、むやみに地金を出すほどの馬鹿でもないでしょうがね」「いえ正直よ、秀子さんの方が」 誰よりお秀が正直なのか、夫人は説明しなかった。
百三十二
津田の好奇心は動いた。
想像もほぼついた。
けれどもそこへ折れ曲って行く事は彼の主意に背いた。
彼はただ夫人対お秀の関係を掘り返せばよかった。
病気見舞を兼た夫人の用向も、無論それについての懇談にきまっていた。
けれども彼女にはまた彼女に特有な趣があった。
時間に制限のない彼女は、頼まれるまでもなく、機会さえあれば、他の内輪に首を突ッ込んで、なにかと眼下、ことに自分の気に入った眼下の世話を焼きたがる代りに、到るところでまた道楽本位の本性を露わして平気であった。
或時の彼女はむやみに急いて事を纏めようとあせった。
そうかと思うと、ある時の彼女は、また正反対であった。
わざわざべんべんと引ッ張るところに、さも興味でもあるらしい様子を見せてすましていた。
鼠を弄そぶ猫のようなこの時の彼女の態度が、たとい傍から見てどうあろうとも、自分では、閑散な時間に曲折した波瀾を与えるために必要な優者の特権だと解釈しているらしかった。
この手にかかった時の相手には、何よりも辛防が大切であった。
その代り辛防をし抜いた御礼はきっと来た。
また来る事をもって彼女は相手を奨励した。
のみならずそれを自分の倫理上の誇りとした。
彼女と津田の間に取り換わされたこの黙契のために、津田の蒙った重大な損失が、今までにたった一つあった。
その点で彼女が腹の中でいかに彼に対する責任を感じているかは、怜俐な津田の見逃すところでなかった。
何事にも夫人の御意を主眼に置いて行動する彼といえども、暗にこの強味だけは恃みにしていた。
しかしそれはいざという万一の場合に保留された彼の利器に過ぎなかった。
平生の彼は甘んじて猫の前の鼠となって、先方の思う通りにじゃらされていなければならなかった。
この際の夫人もなかなか要点へ来る前に時間を費やした。
「昨日秀子さんが来たでしょう。ここへ」「ええ。参りました」「延子さんも来たでしょう」「ええ」「今日は?」「今日はまだ参りません」「今にいらっしゃるんでしょう」 津田にはどうだか分らなかった。
先刻来るなという手紙を出した事も、夫人の前では云えなかった。
返事を受け取らなかった勝手違も、実は気にかかっていた。
「どうですかしら」「いらっしゃるか、いらっしゃらないか分らないの」「ええ、よく分りません。多分来ないだろうとは思うんですが」「大変冷淡じゃありませんか」 夫人は嘲けるような笑い方をした。
「私がですか」「いいえ、両方がよ」 苦笑した津田が口を閉じるのを待って、夫人の方で口を開いた。
「延子さんと秀子さんは昨日ここで落ち合ったでしょう」「ええ」「それから何かあったのね、変な事が」「別に……」「空ッ惚けちゃいけません。あったらあったと、判然おっしゃいな、男らしく」 夫人はようやく持前の言葉遣いと特色とを、発揮し出した。
津田は挨拶に困った。
黙って少し様子を見るよりほかに仕方がないと思った。
「秀子さんをさんざん苛めたって云うじゃありませんか。二人して」「そんな事があるものですか。お秀の方が怒ってぷんぷん腹を立てて帰って行ったのです」「そう。しかし喧嘩はしたでしょう。喧嘩といったって殴り合じゃないけれども」「それだってお秀のいうような大袈裟なものじゃないんです」「かも知れないけれども、多少にしろ有ったには有ったんですね」「そりゃちょっとした行違ならございました」「その時あなた方は二人がかりで秀子さんを苛めたでしょう」「苛めやしません。あいつが耶蘇教のような気※を吐いただけです」「とにかくあなたがたは二人、向うは一人だったに違ないでしょう」「そりゃそうかも知れません」「それ御覧なさい。それが悪いじゃありませんか」 夫人の断定には意味も理窟もなかった。
したがってどこが悪いんだか津田にはいっこう通じなかった。
けれどもこういう場合にこんな風になって出て来る夫人の特色は、けっして逆らえないものとして、もう津田の頭に叩き込まれていた。
素直に叱られているよりほかに彼の途はなかった。
「そういうつもりでもなかったんですけれども、自然の勢で、いつかそうなってしまったんでしょう」「でしょうじゃいけません。ですと判然おっしゃい。いったいこういうと失礼なようですが、あなたがあんまり延子さんを大事になさり過ぎるからよ」 津田は首を傾けた。
百三十三
怜俐な性分に似合わず夫人対お延の関係は津田によく呑み込めていなかった。
夫人に津田の手前があるように、お延にも津田におく気兼があったので、それが真向に双方を了解できる聡明な彼の頭を曇らせる原因になった。
女の挨拶に相当の割引をして見る彼も、そこにはつい気がつかなかったため、彼は自分の前でする夫人のお延評を真に受けると同時に、自分の耳に聴こえるお延の夫人評もまた疑がわなかった。
そうしてその評は双方共に美くしいものであった。
二人の女性が二人だけで心の内に感じ合いながら、今までそれを外に現わすまいとのみ力めて来た微妙な軋轢が、必然の要求に逼られて、しだいしだいに晴れ渡る靄のように、津田の前に展開されなければならなくなったのはこの時であった。
津田は夫人に向って云った。
「別段大事にするほどの女房でもありませんから、その辺の御心配は御無用です」「いいえそうでないようですよ。世間じゃみんなそう思ってますよ」 世間という仰山な言葉が津田を驚ろかせた。
夫人は仕方なしに説明した。
「世間って、みんなの事よ」 津田にはそのみんなさえ明暸に意識する事ができなかった。
しかし世間だのみんなだのという誇張した言葉を強める夫人の意味は、けっして推察に困難なものではなかった。
彼女はどうしてもその点を津田の頭に叩き込もうとするつもりらしかった。
津田はわざと笑って見せた。
「みんなって、お秀の事なんでしょう」「秀子さんは無論そのうちの一人よ」「そのうちの一人でそうしてまた代表者なんでしょう」「かも知れないわ」 津田は再び大きな声を出して笑った。
しかし笑った後ですぐ気がついた。
悪い結果になって夫人の上に反響して来たその笑いはもう取り返せなかった。
文句を云わずに伏罪する事の便宜を悟った彼は、たちまち容ちを改ためた。
「とにかくこれからよく気をつけます」 しかし夫人はそれでもまだ満足しなかった。
「秀子さんばかりだと思うと間違いですよ。あなたの叔父さんや叔母さんも、同なじ考えなんだからそのつもりでいらっしゃい」「はあそうですか」 藤井夫婦の消息が、お秀の口から夫人に伝えられたのも明らかであった。
「ほかにもまだあるんです」と夫人がまた付け加えた。
津田はただ「はあ」と云って相手の顔を見た拍子に、彼の予期した通りの言葉がすぐ彼女の口から洩れた。
「実を云うと、私も皆さんと同なじ意見ですよ」 権威ででもあるような調子で、最後にこう云った夫人の前に、彼はもちろん反抗の声を揚げる勇気を出す必要を認めなかった。
しかし腹の中では同時に妙な思わく違に想いいたった。
彼は疑った。
「何でこの人が急にこんな態度になったのだろう。自分のお延を鄭重に取扱い過ぎるのが悪いといって非難する上に、お延自身をもその非難のうちに含めているのではなかろうか」 この疑いは津田にとって全く新らしいものであった。
夫人の本意に到着する想像上の過程を描き出す事さえ彼には困難なくらい新らしいものであった。
彼はこの疑問に立ち向う前に、まだ自分の頭の中に残っている一つの質問を掛けた。
「岡本さんでも、そんな評判があるんでしょうか」「岡本は別よ。岡本の事なんか私の関係するところじゃありません」 夫人がすましてこう云い切った時、津田は思わずおやと思った。
「じゃ岡本とあなたの方は別っこだったんですか」という次の問が、自然の順序として、彼の咽喉まで出かかった。
実を云うと、彼は「世間」の取沙汰通り、お延を大事にするのではなかった。
誤解交りのこの評判が、どこからどうして起ったかを、他に説明しようとすれば、ずいぶん複雑な手数がかかるにしても、彼の頭の中にはちゃんとした明晰な観念があって、それを一々掌に指す事のできるほどに、事実の縞柄は解っていた。
第一の責任者はお延その人であった。
自分がどのくらい津田から可愛がられ、また津田をどのくらい自由にしているかを、最も曲折の多い角度で、あらゆる方面に反射させる手際をいたるところに発揮して憚からないものは彼女に違なかった。
第二の責任者はお秀であった。
すでに一種の誇張がある彼女の眼を、一種の嫉妬が手伝って染めた。
その嫉妬がどこから出て来るのか津田は知らなかった。
結婚後始めて小姑という意味を悟った彼は、せっかく悟った意味を、解釈のできないために持て余した。
第三の責任者は藤井の叔父夫婦であった。
ここには誇張も嫉妬もない代りに、浮華に対する嫌悪があまり強く働らき過ぎた。
だから結果はやはり誤解と同じ事に帰着した。
百三十四
津田にはこの誤解を誤解として通しておく特別な理由があった。
そうしてその理由はすでに小林の看破した通りであった。
だから彼はこの誤解から生じやすい岡本の好意を、できるだけ自分の便宜になるように保留しようと試みた。
お延を鄭寧に取扱うのは、つまり岡本家の機嫌を取るのと同じ事で、その岡本と吉川とは、兄弟同様に親しい間柄である以上、彼の未来は、お延を大事にすればするほど確かになって来る道理であった。
利害の論理に抜目のない機敏さを誇りとする彼は、吉川夫妻が表向の媒妁人として、自分達二人の結婚に関係してくれた事実を、単なる名誉として喜こぶほどの馬鹿ではなかった。
彼はそこに名誉以外の重大な意味を認めたのである。
しかしこれはむしろ一般的の内情に過ぎなかった。
もう一皮剥いて奥へ入ると、底にはまだ底があった。
津田と吉川夫人とは、事件がここへ来るまでに、他人の関知しない因果でもう結びつけられていた。
彼らにだけ特有な内外の曲折を経過して来た彼らは、他人より少し複雑な眼をもって、半年前に成立したこの新らしい関係を眺めなければならなかった。
有体にいうと、お延と結婚する前の津田は一人の女を愛していた。
そうしてその女を愛させるように仕向けたものは吉川夫人であった。
世話好な夫人は、この若い二人を喰っつけるような、また引き離すような閑手段を縦ままに弄して、そのたびにまごまごしたり、または逆せ上ったりする二人を眼の前に見て楽しんだ。
けれども津田は固く夫人の親切を信じて疑がわなかった。
夫人も最後に来るべき二人の運命を断言して憚からなかった。
のみならず時機の熟したところを見計って、二人を永久に握手させようと企てた。
ところがいざという間際になって、夫人の自信はみごとに鼻柱を挫かれた。
津田の高慢も助かるはずはなかった。
夫人の自信と共に一棒に撲殺された。
肝心の鳥はふいと逃げたぎり、ついに夫人の手に戻って来なかった。
夫人は津田を責めた。
津田は夫人を責めた。
夫人は責任を感じた。
しかし津田は感じなかった。
彼は今日までその意味が解らずに、まだ五里霧中に彷徨していた。
そこへお延の結婚問題が起った。
夫人は再び第二の恋愛事件に関係すべく立ち上った。
そうして夫と共に、表向の媒妁人として、綺麗な段落をそこへつけた。
その時の夫人の様子を細かに観察した津田はなるほどと思った。
「おれに対する賠償の心持だな」 彼はこう考えた。
彼は未来の方針を大体の上においてこの心持から割り出そうとした。
お延と仲善く暮す事は、夫人に対する義務の一端だと思い込んだ。
喧嘩さえしなければ、自分の未来に間違はあるまいという鑑定さえ下した。
こういう心得に万遺※のあるはずはないと初手からきめてかかって吉川夫人に対している津田が、たとい遠廻しにでもお延を非難する相手の匂いを嗅ぎ出した以上、おやと思うのは当然であった。
彼は夫人に気に入るように自分の立場を改める前に、まず確かめる必要があった。
「私がお延を大事にし過ぎるのが悪いとおっしゃるほかに、お延自身に何か欠点でもあるなら、御遠慮なく忠告していただきたいと思います」「実はそれで上ったのよ、今日は」 この言葉を聴いた時、津田の胸は夫人の口から何が出て来るかの好奇心に充ちた。
夫人は語を継いだ。
「これは私でないと面と向って誰もあなたに云えない事だと思うから云いますがね。――お秀さんに智慧をつけられて来たと思っては困りますよ。また後でお秀さんに迷惑をかけるようだと、私がすまない事になるんだから、よござんすか。そりゃお秀さんもその事でわざわざ来たには違ないのよ。しかし主意は少し違うんです。お秀さんは重に京都の方を心配しているの。無論京都はあなたから云えばお父さんだから、けっして疎略にはできますまい。ことに良人でもああしてお父さんにあなたの世話を頼まれていて見ると、黙って放ってもおく訳にも行かないでしょう。けれどもね、つまりそっちは枝で、根は別にあるんだから、私は根から先へ療治した方が遥かに有効だと思うんです。でないと今度のような行違がまたきっと出て来ますよ。ただ出て来るだけならよござんすけれども、そのたんびにお秀さんがやって来るようだと、私も口を利くのに骨が折れるだけですからね」 夫人のいう禍の根というのはたしかにお延の事に違なかった。
ではその根をどうして療治しようというのか。
肉体上の病気でもない以上、離別か別居を除いて療治という言葉はたやすく使えるものでもないのにと津田は考えた。
百三十五
津田はやむをえず訊いた。
「要するにどうしたらいいんです」 夫人はこの子供らしい質問の前に母らしい得意の色を見せた。
けれどもすぐ要点へは来なかった。
彼女はそこだと云わぬばかりにただ微笑した。
「いったいあなたは延子さんをどう思っていらっしゃるの」 同じ問が同じ言葉で昨日かけられた時、お秀に何と答えたかを津田は思い出した。
彼は夫人に対する特別な返事を用意しておかなかった。
その代り何とでも答えられる自由な地位にあった。
腹蔵のないところをいうと、どうなりとあなたの好きなお返事を致しますというのが彼の胸中であった。
けれども夫人の頭にあるその好きな返事は、全く彼の想像のほかにあった。
彼はへどもどするうちににやにやした。
勢い夫人は一歩前へ進んで来る事になった。
「あなたは延子さんを可愛がっていらっしゃるでしょう」 ここでも津田の備えは手薄であった。
彼は冗談半分に夫人をあしらう事なら幾通でもできた。
しかし真面目に改まった、責任のある答を、夫人の気に入るような形で与えようとすると、その答はけっしてそうすらすら出て来なかった。
彼にとって最も都合の好い事で、また最も都合の悪い事は、どっちにでも自由に答えられる彼の心の状態であった。
というのは、事実彼はお延を愛してもいたし、またそんなに愛してもいなかったからである。
夫人はいよいよ真剣らしく構えた。
そうして三度目の質問をのっぴきさせぬ調子で掛けた。
「私とあなただけの間の秘密にしておくから正直に云っとしまいなさい。私の聴きたいのは何でもないんです。ただあなたの思った通りのところを一口伺えばそれでいいんです」 見当の立たない津田はいよいよ迷ついた。
夫人は云った。
「あなたもずいぶんじれったい方ね。云える事は男らしく、さっさと云っちまったらいいでしょう。そんなむずかしい事を誰も訊いていやしないんだから」 津田はとうとう口を開くべく余儀なくされた。
「お返事ができない訳でもありませんけれども、あんまり問題が漠然としているものですから……」「じゃ仕方がないから私の方で云いましょうか。よござんすか」「どうぞそう願います」「あなたは」と云いかけた夫人はこの時ちょっと言葉を切ってまた継いだ。
「本当によござんすか。――あたしはこういう無遠慮な性分だから、よく自分の思ったままをずばずば云っちまった後で、取り返しのつかない事をしたと後悔する場合がよくあるんですが」「なに構いません」「でももしか、あなたに怒られるとそれっきりですからね。後でいくら詫まっても追つかないなんて馬鹿はしたくありませんもの」「しかし私の方で何とも思わなければそれでいいでしょう」「そこさえ確かなら無論いいのよ」「大丈夫です。偽だろうが本当だろうが、奥さんのおっしゃる事ならけっして腹は立てませんから、遠慮なさらずに云って下さい」 すべての責任を向うに背負わせてしまう方が遥かに楽だと考えた津田は、こう受け合った後で、催促するように夫人を見た。
何度となく駄目を押して保険をつけた夫人はその時ようやく口を開いた。
「もし間違ったら御免遊ばせよ。あなたはみんなが考えている通り、腹の中ではそれほど延子さんを大事にしていらっしゃらないでしょう。秀子さんと違って、あたしは疾うからそう睨んでいるんですが、どうです、あたしの観測はあたりませんかね」 津田は何ともなかった。
「無論です。だから先刻申し上げたじゃありませんか。そんなにお延を大事にしちゃいませんて」「しかしそれは御挨拶におっしゃっただけね」「いいえ私は本当のところを云ったつもりです」 夫人は断々乎として首肯わなかった。
「ごまかしっこなしよ。じゃ後を云ってもよござんすか」「ええどうぞ」「あなたは延子さんをそれほど大事にしていらっしゃらないくせに、表ではいかにも大事にしているように、他から思われよう思われようとかかっているじゃありませんか」「お延がそんな事でも云ったんですか」「いいえ」と夫人はきっぱり否定した。
「あなたが云ってるだけよ。あなたの様子なり態度なりがそれだけの事をちゃんとあたしに解るようにして下さるだけよ」 夫人はそこでちょっと休んだ。
それから後を付けた。
「どうですあたったでしょう。あたしはあなたがなぜそんな体裁を作っているんだか、その原因までちゃんと知ってるんですよ」
百三十六
津田は今日までこういう種類の言葉をまだ夫人の口から聴いた事がなかった。
自分達夫婦の仲を、夫人が裏側からどんな眼で観察しているだろうという問題について、さほど神経を遣っていなかった彼は、ようやくそこに気がついた。
そんならそうと早く注意してくれればいいのにと思いながら、彼はとにかく夫人の鑑定なり料簡なりをおとなしく結末まで聴くのが上分別だと考えた。
「どうぞ御遠慮なく何でもみんな云って下さい。私の向後の心得にもなる事ですから」 途中まで来た夫人は、たとい津田から誘われないでも、もうそこで止まる訳に行かないので、すぐ残りのものを津田の前に投げ出した。
「あなたは良人や岡本の手前があるので、それであんなに延子さんを大事になさるんでしょう。もっと露骨なのがお望みなら、まだ露骨にだって云えますよ。あなたは表向延子さんを大事にするような風をなさるのね、内側はそれほどでなくっても。そうでしょう」 津田は相手の観察が真逆これほど皮肉な点まで切り込んで来ていようとは思わなかった「私の性質なり態度なりが奥さんにそう見えますか」「見えますよ」 津田は一刀で斬られたと同じ事であった。
彼は斬られた後でその理由を訊いた。
「どうして? どうしてそう見えるんですか」「隠さないでもいいじゃありませんか」「別に隠すつもりでもないんですが……」 夫人は自分の推定が十の十まであたったと信じてかかった。
心の中で