明暗

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その二階作りと門の間には、ただ三間足らずの余地があるだけであった。しかもそれが石で敷き詰められているので、地面の色はどこにも見えなかった。

第 13 章
市し区く改正かいせいの結果けっか、よほど以前いぜんに取り広げとりひろげられた往来おうらいには、比較的ひかくてきよそで見みられない幅はばがあった。
それでいて商売しょうばいをしている店みせは、町内ちょうないにほとんど一いち軒のきも見当らみあたらなかった。
弁護士べんごし、医者いしゃ、旅館りょかん、そんなものばかりが並んならんでいるので、四辺しへんが繁華はんかな割わりに、通りとおりはいつも閑静かんせいであった。
その上うえ路みちの左右さゆうには柳やなぎの立木たちきが行儀ぎょうぎよく植えつけうえつけられていた。
したがって時候じこうの好いよい時じには、殺風景さっぷうけいな市し内うちの風かぜも、両側りょうがわに揺くわななく緑みどりりの裡りに一種いっしゅの趣おもむきを見せみせた。
中なかで一番いちばん大きいおおきいのが、ちょうど堀ほりの塀際へいぎわから斜めななめに門もんの上うえへ長いながい枝えだを差し出しさしだしているので、よそ目よそめにはそれが家いえと調子ちょうしを取るとるために、わざとそこへ移さうつされたように体裁ていさいが好かっよかった。
その他ほかの特色とくしょくを云ういうと、玄関げんかんの前まえに大きなおおきな鉄てつの天水桶てんすいおけがあった。
まるで下町したまちの質屋しちやか何なんかを聯想れんそうさせるこの長物ちょうぶつと、そのすぐ横よこにある玄関げんかんの構かまえとがまたよく釣り合っつりあっていた。
比較的ひかくてき間口まぐちの広いひろいその玄関げんかんの入口いりぐちはことごとく細いほそい格子こうしで仕切らしきられているだけで、唐戸からとだの扉とびらだのの装飾そうしょくはどこにも見みられなかった。
一口ひとくちでいうと、ハイカラはいからな仕舞しまいうた屋やと評しひょうしさえすれば、それですぐ首肯かしゅこうかれるこの家いえの職業しょくぎょうは、少なくすくなくとも系統的けいとうてきに、家いえの様子ようすを見みただけで外部がいぶから判断はんだんする事ことができるのに、不思議ふしぎなのはその主人しゅじんであった。
彼かれは自分じぶんがどんな宅たくへ入っはいっているかいまだかつて知らしらなかった。
そんな事ことを苦くにする神経しんけいをもたない彼かれは、他ほかから自分じぶんの家業かぎょう柄がらを何なんとあげつらわれてもいっこう平気へいきであった。
道楽者どうらくしゃだが、満更まんざら無む教育きょういくなただの金持かねもちとは違っちがって、人柄ひとがらからいえば、こんな役者やくしゃ向むかいの家いえに住うすまうのはむしろ不適当ふてきとうかも知れしれないくらいな彼かれは、極めてきわめて我われの少ないすくない人ひとであった。
悪くわるく云えいえば自己じこの欠乏けつぼうした男おとこであった。
何なんでも世間せけんの習俗しゅうぞく通りとおりにして行くいく上うえに、わが家庭かていに特有とくゆうな習俗しゅうぞくもまた改めようあらためようとしない気楽きらくものであった。
かくして彼かれは、彼かれの父ちち、彼かれの母ははに云わいわせるとすなわち先代せんだい、の建てたてた土蔵どぞう造りつくりのような、そうしてどこかに芸人げいにん趣味しゅみのある家いえに住んすんで満足まんぞくしているのであった。
もし彼かれの美点びてんがそこにもあるとすれば、わざとらしく得意とくいがっていない彼かれの態度たいどを賞めるほめるよりほかに仕方しかたがなかった。
しかし彼かれはまた得意とくいがるはずもなかった。
彼かれの眼めに映るうつる彼かれの住宅じゅうたくは、得意とくいがるにしては、彼かれにとってあまりに陳腐ちんぷ過ぎすぎた。
お延のべは堀ほりの家いえを見るみるたびに、自分じぶんと家いえとの間まに存在そんざいする不調和ふちょうわを感じかんじた。
家いえへ入いりいってからもその距離きょりを思い出すおもいだす事ことがしばしばあった。
お延のべの考えかんがえによると、一番いちばんそこに落ちついおちついてぴたりと坐っすわっていられるものは堀ほりの母ははだけであった。
ところがこの母ははは、家族かぞく中なかでお延のべの最ももっとも好かよしみかない女おんなであった。
好かよしみかないというよりも、むしろ応対おうたいしにくい女おんなであった。
時代じだいが違うちがう、残酷ざんこくに云えいえば隔世かくせいの感かんがある、もしそれが当らあたらないとすれば、肌はだが合わあわない、出でが違うちがう、その他ほか評するひょうする言葉ことばはいくらでもあったが、結果けっかはいつでも同じおなじ事ことに帰着きちゃくした。
次つぎには堀ほりその人ひとが問題もんだいであった。
お延のべから見みたこの主人しゅじんは、この家いえに釣り合うつりあうようでもあり、また釣り合わつりあわないようでもあった。
それをもう一歩いちほ進めすすめていうと、彼かれはどんな家いえへ行っいっても、釣り合うつりあうようでもあり、釣り合わつりあわないようでもあるというのとほとんど同じおなじ意味いみになるので、始めはじめから問題もんだいにしないのと、大したたいした変りかわりはなかった。
この曖昧あいまいなところがまたお延のべの堀ほりに対するたいする好悪こうおの感情かんじょうをそのままに現わしあらわしていた。
事実じじつをいうと、彼女かのじょは堀ほりを好いよいているようでもあり、また好いよいていないようでもあった。
最後さいごに来るくるお秀おひでに関しかんしては、ただ要領ようりょうを一口ひとくちでいう事ことができた。
お延のべから見るみると、彼女かのじょはこの家いえの構造こうぞうに最ももっとも不ふ向むかいに育て上げそだてあげられていた。
この断案だんあんにもう少しすこしもったいをつけ加えつけくわえて、心理的しんりてきに翻訳ほんやくすると、彼女かのじょとこの家庭かていの空気くうきとはいつまで行っいっても一致いっちしっこなかった。
堀ほりの母ははとお秀おひで、お延のべは頭あたまの中なかにこの二人ふたりを並べならべて見るみるたびに一種いっしゅの矛盾むじゅんを強いつよいられた。
しかし矛盾むじゅんの結果けっかが悲劇ひげきであるか喜劇きげきであるかは容易よういに判断はんだんができなかった。
家いえと人ひととをこう組み合せくみあわせて考えるかんがえるお延のべの眼めに、不思議ふしぎと思わおもわれる事ことがただ一いちつあった。
「一番いちばん家いえと釣り合つりあいの取れとれている堀ほりの母ははが、最ももっとも彼女かのじょを手古摺らてこずらせると同時どうじに、その反対はんたいに出来上っできあがっているお秀おひでがまた別べつの意味いみで、最ももっとも彼女かのじょに苦痛くつうを与えあたえそうな相手あいてである」 玄関げんかんの格子こうしを開けあけた時じ、お延のべの頭あたまに平生へいぜいからあったこんな考えかんがえを一度いちどに蘇そえらさせるべく号ごう鈴すずがはげしく鳴っなった。
百二十四ひゃくにじゅうよん
昨日きのう孫まごを伴れつれて横浜よこはまの親類しんるいへ行っいったという堀ほりの母ははがまだ帰っかえっていなかったのは、座敷ざしきへ案内あんないされたお延のべにとって、意外いがいな機会きかいであった。
見方みかたによって、好いよい都合つごうにもなり、また悪いわるい跋ばつにもなるこの機会きかいは、彼女かのじょから話しはなしのしにくい年寄としよりを追いおい除けよけてくれたと同時どうじに、ただ一いち人面じんめんと向き合っむきあって、当とうの敵てきのお秀おひでと応対おうたいしなければならない不利ふりをも与えあたえた。
お延のべに知れしれていないこの情実じょうじつは、訪問ほうもんの最初さいしょから彼女かのじょの勝手かってを狂わくるわせた。
いつもなら何なんをおいても小さなちいさな髷まげに結っけつった母ははが一番いちばん先さきへ出でて来きて、義理ぎりずぐめにちやほやしてくれるところを、今日きょうに限っかぎって、劈頭へきとうにお秀おひでが顔かおを出しだしたばかりか、待ち設けまちもうけた老女ろうじょはその後そのあとからも現われるあらわれる様子ようすをいっこう見せみせないので、お延のべはいつもの予期よきから出でてくる自然しぜんの調子ちょうしをまず外さはずさせられた。
その時じ彼女かのじょはお秀おひでを一目いちもく見みた眼めの中なかに、当惑とうわくの色いろを示ししめした。
しかしそれはすまなかったという後悔こうかいの記念きねんでも何なんでもなかった。
単にたんに昨日きのうの戦争せんそうに勝っかった得意とくいの反動はんどうからくる一種いっしゅのきまり悪きまりわるさであった。
どんな敵てきを打たうたれるかも知れしれないという微かかすかな恐怖きょうふであった。
この場ばをどう切り抜けきりぬけたらいいか知らかしらという思慮しりょの悩乱のうらんでもあった。
お延のべはこの一瞥いちべつをお秀おひでに与えあたえた瞬間しゅんかんに、もう今日きょうの自分じぶんを相手あいてに握らにぎられたという気きがした。
しかしそれは自分じぶんのもっている技巧ぎこうのどうする事こともできない高いたかい源みなもとからこの一瞥いちべつが突如とつじょとして閃めいひらめいてしまった後あとであった。
自分じぶんの手ての届かとどけかない暗中あんちゅうから不意ふいに来きたものを、喰い止めるくいとめる威力いりょくをもっていない彼女かのじょは、甘んじあまんじてその結果けっかを待つまつよりほかに仕方しかたがなかった。
一瞥いちべつははたしてお秀おひでの上うえによく働いはたらいた。
しかしそれに反応はんのうしてくる彼女かのじょの様子ようすは、またいかにも予想外よそうがいであった。
彼女かのじょの平生へいぜい、その平生へいぜいが破裂はれつした昨日きのう、津田つだと自分じぶんと寄っよってたかってその破裂はれつを料理りょうりした始末しまつ、これらの段取だんどりを、不断ふだんから一貫いっかんして傍そばの人ひとの眼めに着くつく彼女かのじょの性格せいかくに結びつけむすびつけて考えるかんがえると、どうしても無事ぶじに納まるおさまるはずはなかった。
大なりおおなり小しょうなり次つぎの波瀾はらんが呼び起さよびおこされずに片かたがつこうとは、いかに自分じぶんの手際てぎわに重きおもきをおくお延のべにも信ぜしんぜられなかった。
だから彼女かのじょは驚ろいおどろいた。
座ざに着いついたお秀おひでが案あんに相違そういしていつもより愛嬌あいきょうの好いよい挨拶あいさつをした時じには、ほとんどわれを疑ううたがうくらいに驚ろいおどろいた。
その疑いうたがいをまた少しすこしも後あとへ繰り越さくりこさせないように、手て抜ぬけりなく仕向けしむけて来るくる相手あいての態度たいどを眼めの前まえに見みた時じ、お延のべはむしろ気味きみが悪くわるくなった。
何なんという変化へんかだろうという驚ろきおどろきの後あとから、どういう意味いみだろうという不審ふしんが湧いわいて起っおこった。
けれども肝心かんじんなその意味いみを、お秀おひではまたいつまでもお延のべに説明せつめいしようとしなかった。
そればかりか、昨日きのう病院びょういんで起っおこった不幸ふこうな行きいき違いについても、ついに一言ひとことも口くちを利くきく様子ようすを見せみせなかった。
相手あいてに心得こころえがあってわざと際どいきわどい問題もんだいを避けさけている以上いじょう、お延のべの方ほうからそれを切り出すきりだすのは変へんなものであった。
第一だいいち好んこのんで痛いいたいところに触れるふれる必要ひつようはどこにもなかった。
と云っいって、どこかで区切くぎりを付けつけて、双方そうほうさっぱりしておかないと、自分じぶんは何なんのために、今日きょうここまで足あしを運んはこんだのか、主意しゅいが立たたたなくなった。
しかし和解わかいの形式けいしきを通過つうかしないうちに、もう和解わかいの実じつを挙げあげている以上いじょう、それをとやかく表面ひょうめんへ持ち出すもちだすのも馬鹿げばかげていた。
怜悧れいりなお延のべは弱らよわらせられた。
会話かいわが滑らかなめらかにすべって行けいけば行くいくほど、一種いっしゅの物もの足りたりなさが彼女かのじょの胸むねの中なかに頭あたまを擡げもたげて来きた。
しまいに彼女かのじょは相手あいてのどこかを突き破っつきやぶって、その内側うちがわを覗いのぞいて見ようみようかと思い出しおもいだした。
こんな点てんにかけると、すこぶる冒険ぼうけん的まとなところのある彼女かのじょは、万一まんいちやり損なっそこなった暁あかつきに、この場合ばあいから起りおこり得るうる危険きけんを知らしらないではなかった。
けれどもそこには自分じぶんの腕うでに対するたいする相当そうとうの自信じしんも伴っともなっていた。
その上うえもし機会きかいが許すゆるすならば、お秀おひでの胸むねの格別かくべつなある一いち点てんに、打診だしんを試ろみろみたいという希望きぼうが、お延のべの方ほうにはあった。
そこを敲かたたきかせて貰っもらって局部きょくぶから自然しぜんに出るでる本音ほんねを充分じゅうぶんに聴くきく事ことは、津田つだと打ち合せうちあわせを済ましすました訪問ほうもんの主意しゅいでも何なんでもなかったけれども、お延のべ自身じしんからいうと、うまく媾和こうわの役目やくめをやり終おわりせて帰るかえるよりも遥かはるかに重大じゅうだいな用よう向むかいであった。
津田つだに隠さかくさなければならないこの用よう向むかいは、津田つだがお延のべにないしょにしなければならない事件じけんと、その性質せいしつの上うえにおいてよく似通っにかよっていた。
そうして津田つだが自分じぶんのいない留守るすに、小林こばやしがお延のべに何なんを話しはなしたかを気きにするごとく、お延のべもまた自分じぶんのいない留守るすに、お秀おひでが津田つだに何なんを話しはなしたかを確としかと突きとめつきとめたかったのである。
どこに引いんかかりを拵えこしらえたものかと思案しあんした末すえ、彼女かのじょは仕方なししかたなしに、藤井ふじいの帰りかえりに寄っよってくれたというお秀おひでの訪問ほうもんをまた問題もんだいにした。
けれども座ざに着いついた時じすでに、「先刻せんこくいらしって下すっくだすったそうですが、あいにくお湯ゆに行っいっていて」という言葉ことばを、会話かいわの口切くちきりに使っつかった彼女かのじょが、今度こんどは「何なんか御用ごようでもおありだったの」という質問しつもんで、それを復活ふっかつさせにかかった時じ、お秀おひではただ簡単かんたんに「いいえ」と答えこたえただけで、綺麗きれいにお延のべを跳ねはねつけてしまった。
百二十五ひゃくにじゅうご
お延のべは次つぎに藤井ふじいから入っはいって行こういこうとした。
今朝けさこの叔父おじの所ところを訪ねたずねたというお秀おひでの自白じはくが、話しはなしをそっちへ持っもって行くいくに都合つごうのいい便利べんりを与えあたえた。
けれどもお秀おひでの門構もんがまえは依然いぜんとしてこの方面ほうめんにも厳重げんじゅうであった。
彼女かのじょは必要ひつようの起るおこるたびに、わざわざその門もんの外そとへ出でて来きて、愛想あいそよくお延のべに応対おうたいした。
お秀おひでがこの叔父おじの世話せわで人ひととなった事実じじつは、お延のべにもよく知れしれていた。
彼女かのじょが精神的せいしんてきにその感化かんかを受けうけた点てんもお延のべに解っわかっていた。
それでお延のべは順序じゅんじょとしてまずこの叔父おじの人格じんかくやら生活せいかつやらについて、お秀おひでの気きに入りいりそうな言辞げんじを弄さろうさなければならなかった。
ところがお秀おひでから見るみると、それがまた一々いちいち誇張こちょうと虚偽きょぎの響きひびきを帯びおびているので、彼女かのじょは真面目まじめに取り合うとりあう緒口いとぐちをどこにも見み出すだす事ことができないのみならず、長くながく同じおなじ筋道すじみちを辿ったどって行くいくうちには、自然しぜん気色けしきを悪くわるくした様子ようすを外そとに現わさあらわさなければすまなくなった。
敏捷びんしょうなお延のべは、相手あいてを見縊りみくびり過ぎすぎていた事ことに気きがつくや否いなや、すぐ取っとって返しかえした。
するとお秀おひでの方ほうで、今度こんどは岡本おかもとの事ことを喋々ちょうちょうし始めはじめた。
お秀おひで対たい藤井ふじいとちょうど同じおなじ関係かんけいにあるその叔父おじは、お延のべにとって大事だいじな人ひとであると共ともに、お秀おひでからいうと、親しみしたしみも何になんにも感じかんじられない、あかの他人たにんであった。
したがって彼女かのじょの言葉ことばには滑っこいすべっこい皮膚ひふがあるだけで、肝心かんじんの中味なかみに血ちも肉にくも盛らもられていなかった。
それでもお延のべはお秀おひでの手料理てりょうりになるこのお世辞おせじの返礼へんれいをさも旨むねそうに鵜う呑どんにしなければならなかった。
しかし再度さいど自分じぶんの番ばんが廻っまわって来きた時じ、お延のべは二に返かえし目めの愛嬌あいきょうを手古ていにしえ盛りもりに盛り返しもりかえして、悪くわるくお秀おひでに強いるしいるほど愚かおろかな女おんなではなかった。
時機じきを見みて器用きように切り上げきりあげた彼女かのじょは、次つぎに吉川よしかわ夫人ふじんから煽っあおって行こういこうとした。
しかし前まえと同じおなじ手段しゅだんを用いもちいて、ただ賞めほめそやすだけでは、同じおなじ不成ふなり蹟に陥いるおちいるかも知れしれないという恐れおそれがあった。
そこで彼女かのじょは善悪ぜんあくの標準ひょうじゅんを度外どがいに置いおいて、ただ夫人ふじんの名前なまえだけを二人ふたりの間まに点てん出しだして見みた。
そうしてその影響えいきょう次第しだいで後あとの段取だんどりをきめようと覚悟かくごした。
彼女かのじょはお秀おひでが自分じぶんの風呂ふろの留守るすへ藤井ふじいの帰りがけかえりがけに廻っまわって来きた事ことを知っしっていた。
けれども藤井ふじいへ行くいく前まえに、彼女かのじょがもうすでに吉川よしかわ夫人ふじんを訪問ほうもんしている事ことにはまるで想い到らおもいいたらなかった。
しかも昨日きのう病院びょういんで起っおこった波瀾はらんの結果けっかとして、彼女かのじょがわざわざそこまで足あしを運んはこんでいようとは、夢ゆめにも知らしらなかった。
この一いち点てんにかけると、津田つだと同じおなじ程度ていどに無邪気むじゃきであった彼女かのじょは、津田つだが小林こばやしから驚ろかさおどろかされたと同じおなじ程度ていどに、またお秀おひでから驚ろかさおどろかされなければならなかった。
しかし驚ろかおどろかせられ方ほうは二人ふたり共ともまるで違っちがっていた。
小林こばやしのは明らさまあからさまな事実じじつの報告ほうこくであった。
お秀おひでのは意味いみのありそうな無言むごんであった。
無言むごんと共ともに来きた薄赤いうすあかい彼女かのじょの顔色かおいろであった。
最初さいしょ夫人ふじんの名前なまえがお延のべの唇くちびるから洩れもれた時じ、彼女かのじょは二人ふたりの間まに一いち滴しずくの霊薬れいやくが天てんから落さおとされたような気きがした。
彼女かのじょはすぐその効果こうかを眼めの前まえに眺めながめた。
しかし不幸ふこうにしてそれは彼女かのじょにとって何なんの役やくにも立たたたない効果こうかに過ぎすぎなかった。
少くすくなくともどう利用りようしていいか解らわからない効果こうかであった。
その予想外よそうがいな性質せいしつは彼女かのじょをはっと思わおもわせるだけであった。
彼女かのじょは名前なまえを口くちへ出すだすと共ともに、あるいはその場ばですぐ失言しつげんを謝しゃさなければならないかしらとまで考えかんがえた。
すると第だい二にの予想外よそうがいが継いつづいで起っおこった。
お秀おひでがちょっと顔かおを背けそむけた様子ようすを見みた時じに、お延のべはどうしても最初さいしょに受けうけた印象いんしょうを改正かいせいしなければならなくなった。
血色けっしょくの変化へんかはけっして怒りいかりのためでないという事ことがその時じ始めはじめて解っわかった。
年来ねんらい陳腐ちんぷなくらい見飽きみあきている単純たんじゅんなきまりの悪わるさだと評するひょうするよりほかに仕方しかたのないこの表情ひょうじょうは、お延のべをさらに驚ろかさおどろかさざるを得とくなかった。
彼女かのじょはこの表情ひょうじょうの意味いみをはっきり確かめたしかめた。
しかしその意味いみの因っよって来るくるところは、お秀おひでの説明せつめいを待たまたなければまた確かめたしかめられるはずがなかった。
お延のべがどうしようかと迷っまよっているうちに、お秀おひではまるで木きに竹たけを接いはいだように、突然とつぜん話題わだいを変化へんかした。
行こうがかり上うえ全然ぜんぜん今までいままでと関係かんけいのないその話題わだいは、三さん度目どめにまたお延のべを驚ろかおどろかせるに充分じゅうぶんなくらい突飛とっぴであった。
けれどもお延のべには自信じしんがあった。
彼女かのじょはすぐそれを受けうけて立ったった。
百二十六ひゃくにじゅうろく
お秀おひでの口くちを洩れもれた意外いがいな文句もんくのうちで、一番いちばん初めはじめにお延のべの耳みみを打っうったのは「愛あい」という言葉ことばであった。
この陳腐ちんぷなありきたりの一いち語ごが、いかにお延のべの前まえに伏兵ふくへいのような新らしあたらし味あじをもって起っおこったかは、前後ぜんごの連絡れんらくを欠いかいて単独たんどくに突発とっぱつしたというのが重なおもな原因げんいんに相違そういなかったが、一いちつにはまた、そんな言葉ことばがまだ会話かいわの材料ざいりょうとして、二人ふたりの間まに使わつかわれていなかったからである。
お延のべに比べるくらべるとお秀おひでは理窟りくつっぽい女おんなであった。
けれどもそういう結論けつろんに達するたっするまでには、多少たしょうの説明せつめいが要っいった。
お延のべは自分じぶんで自分じぶんの理窟りくつを行為こういの上うえに運んはこんで行くいく女おんなであった。
だから平生へいぜい彼女かのじょの議論ぎろんをしないのは、できないからではなくって、する必要ひつようがないからであった。
その代りかわり他ほかから注ぎ込まそそぎこまれた知識ちしきになると、大したたいした貯蓄ちょちくも何になんにもなかった。
女おんな学生時代がくせいじだいに読みよみ馴れなれた雑誌ざっしさえ近頃ちかごろは滅多めったに手てにしないくらいであった。
それでいて彼女かのじょはいまだかつて自分じぶんを貧弱ひんじゃくと認めみとめた事ことがなかった。
虚栄心きょえいしんの強いつよい割わりに、その方面ほうめんの欲望よくぼうがあまり刺戟しげきされずにすんでいるのは、暇ひまが乏しいとぼしいからでもなく、競争きょうそうの話しはなし相手あいてがないからでもなく、全くまったく自分じぶんに大したたいした不足ふそくを感じかんじないからであった。
ところがお秀おひでは教育きょういくからしてが第一だいいち違っちがっていた。
読書どくしょは彼女かのじょを彼女かのじょらしくするほとんどすべてであった。
少なくすくなくとも、すべてでなければならないように考えかんがえさせられて来きた。
書物しょもつに縁えんの深いぶかい叔父おじの藤井ふじいに教育きょういくされた結果けっかは、善悪ぜんあく両様りょうようの意味いみで、彼女かのじょの上うえに妙みょうな結果けっかを生じしょうじた。
彼女かのじょは自分じぶんより書物しょもつに重きおもきをおくようになった。
しかしいくら自分じぶんを書物しょもつより軽くかるく見るみるにしたところで、自分じぶんは自分じぶんなりに、書物しょもつと独立どくりつしたまんまで、活きつきて働はたらけらいて行かいかなければならなかった。
だから勢いいきおい本ほんと自分じぶんとは離れ離れはなればなれになるだけであった。
それをもっと適切てきせつな言葉ことばで云いいい現わすあらわすと、彼女かのじょは折々おりおり柄がらにもない議論ぎろんを主張しゅちょうするような弊へいに陥っおちいった。
しかし自分じぶんが議論ぎろんのために議論ぎろんをしているのだからつまらないと気きがつくまでには、彼女かのじょの反省はんせい力ちからから見みて、まだ大分おおいたの道程どうていがあった。
意地いじの方ほうから行くいくと、あまりに我がわが強きょう過ぎすぎた。
平たくひらたく云えいえば、その我がわがつまり自分じぶんの本体ほんたいであるのに、その本体ほんたいに副ふくぐわないような理窟りくつを、わざわざ自分じぶんの尊敬そんけいする書物しょもつの中なかから引張りひっぱり出しだして来きて、そこに書いかいてある言葉ことばの力ちからで、それを守護しゅごするのと同じおなじ事ことに帰着きちゃくした。
自然しぜん弾丸だんがんを込めこめて打ち出すうちだすべき大砲たいほうを、九きゅう寸すん五ご分ぶんの代りかわりに、振り廻しふりまわして見るみるような滑稽こっけいも時々ときどきは出でて来きなければならなかった。
問題もんだいははたして或ある雑誌ざっしから始まっはじまった。
月つきの発行はっこうにかかるその雑誌ざっしに発表はっぴょうされた諸家しょかの恋愛れんあい観かんを読んよんだお秀おひでの質問しつもんは、実じつをいうとお延のべにとってそれほど興味きょうみのあるものでもなかった。
しかしまだ眼めを通しとおしていない事実じじつを自白じはくした時じに、彼女かのじょの好奇心こうきしんが突然とつぜん起っおこった。
彼女かのじょはこの抽象的ちゅうしょうてきな問題もんだいを、どこかで自分じぶんの思いおもい通りとおり活かしいかしてやろうと決心けっしんした。
彼女かのじょはややともすると空論くうろんに流れながれやすい相手あいての弱点じゃくてんをかなりよく呑み込んのみこんでいた。
際どいきわどい実際じっさい問題もんだいにこれから飛び込んとびこんで行こういこうとする彼女かのじょに、それほど都合つごうの悪いわるい態度たいどはなかった。
ただ議論ぎろんのために議論ぎろんをされるくらいなら、最初さいしょから取り合わとりあわない方ほうがよっぽどましだった。
それで彼女かのじょにはどうしても相手あいてを地面じめんの上うえに縛りつけしばりつけておく必要ひつようがあった。
ところが不幸ふこうにしてこの場合ばあいの相手あいては、最初さいしょからもう地面じめんの上うえにいなかった。
お秀おひでの口くちにする愛あいは、津田つだの愛あいでも、堀ほりの愛あいでも、乃至ないしお延のべ、お秀おひでの愛あいでも何なんでもなかった。
ただ漫然まんぜんとして空裏くうりに飛揚ひようする愛あいであった。
したがってお延のべの努力どりょくは、風船ふうせん玉たまのようなお秀しゅうの話はなしを、まず下したへ引き摺りひきずりおろさなければならなかった。
子供こどもがすでに二人ふたりもあって、万事ばんじ自分じぶんより世帯せたい染みしみているお秀おひでが、この意味いみにおいて、遥かはるかに自分じぶんより着実ちゃくじつでない事ことを発見はっけんした時じに、お延のべは口くちではいはい向うむこうのいう通りとおりを首肯いうなずいながら、腹はらの中なかでは、じれったがった。
「そんな言葉ことばの先さきでなく、裸はだかでいらっしゃい、実力じつりょくで相撲すもうを取りとりますから」と云いいいたくなった彼女かのじょは、どうしたらこの議論ぎろん家いえを裸はだかにする事ことができるだろうと思案しあんした。
やがてお延のべの胸むねに分別ぶんべつがついた。
分別ぶんべつとはほかでもなかった。
この問題もんだいを活かすいかすためには、お秀おひでを犠牲ぎせいにするか、または自分じぶんを犠牲ぎせいにするか、どっちかにしなければ、とうてい思うおもう壺つぼに入っはいって来るくる訳わけがないという事ことであった。
相手あいてを犠牲ぎせいにするのに困難こんなんはなかった。
ただどこからか向うむこうの弱点じゃくてんを突とっッっ付きつきさえすれば、それで事ことは足りたりた。
その弱点じゃくてんが事実じじつであろうとも仮説かせつ的まとであろうとも、それはお延のべの意いとするところではなかった。
単にたんに自然しぜんの反応はんのうを目的もくてきにして試みるこころみる刺戟しげきに対したいして、真偽しんぎの吟味ぎんみなどは、要らいらざる斟酌しんしゃくであった。
しかしそこにはまたそれ相応そうおうの危険きけんもあった。
お秀おひでは怒るおこるに違いなかった。
ところがお秀おひでを怒らおこらせるという事ことは、お延のべの目的もくてきであって、そうして目的もくてきでなかった。
だからお延のべは迷わまよわざるを得とくなかった。
最後さいごに彼女かのじょはある時機じきを掴んつかんで起っおこった。
そうしてその起っおこった時じには、もう自分じぶんを犠牲ぎせいにする方ほうに決心けっしんしていた。
百二十七ひゃくにじゅうなな
「そう云わいわれると、何なんと云っいっていいか解らわからなくなるわね、あたしなんか。津田つだに愛さあいされているんだか、愛さあいされていないんだか、自分じぶんじゃまるで夢中むちゅうでいるんですもの。秀子ひでこさんは仕合せしあわせね、そこへ行くいくと。最初さいしょから御自分ごじぶんにちゃんとした保証ほしょうがついていらっしゃるんだから」 お秀おひでの器量きりょう望みのぞみで貰わもらわれた事ことは、津田つだといっしょにならない前まえから、お延のべに知れしれていた。
それは一般いっぱんの女おんな、ことにお延のべのような女おんなにとっては、羨やましいうらやましい事実じじつに違いなかった。
始めはじめて津田つだからその話はなしを聴かさきかされた時じ、お延のべはお秀おひでを見みない先さきに、まず彼女かのじょに対するたいする軽いかるい嫉妬しっとを感じかんじた。
中味なかみの薄っぺらうすっぺらな事実じじつに過ぎすぎなかったという意味いみがあとで解っわかった時じには、淡いあわい冷笑れいしょうのうちに、復讐ふくしゅうをしたような快感かいかんさえ覚えおぼえた。
それより以後いご、愛あいという問題もんだいについて、お秀おひでに対するたいするお延のべの態度たいどは、いつも軽蔑けいべつであった。
それを表ひょう向むかいさも嬉しいうれしい消息しょうそくででもあるように取扱とりあつかいかって、彼我ひがに共通きょうつうするごとくに見せかけみせかけたのは、無論むろん一いち片かたのお世辞おせじに過ぎすぎなかった。
もっと悪くわるく云えいえば、一種いっしゅの嘲弄ちょうろうであった。
幸いさいわいお秀おひではそこに気きがつかなかった。
そうして気きがつかない訳わけであった。
と云ういうのは、言葉ことばの上うえはとにかく、実際じっさいに愛あいを体得たいとくする上うえにおいて、お秀おひではとてもお延のべの敵てきでなかった。
猛烈もうれつに愛しあいした経験けいけんも、生一本なまいちぽんに愛さあいされた記憶きおくももたない彼女かのじょは、この能力のうりょくの最大限さいだいげんがどのくらい強くつよく大きなおおきなものであるかという事ことをまだ知らしらずにいる女おんなであった。
それでいて夫おっとに満足まんぞくしている細君さいくんであった。
知らしらぬが仏ふつという諺ことわざがまさにこの場合ばあいの彼女かのじょをよく説明せつめいしていた。
結婚けっこんの当時とうじ、自分じぶんの未来みらいに夫おっとの手てで押しつけおしつけられた愛あいの判はんを、普通ふつうの証文しょうもんのようなつもりで、いつまでも胸むねの中なかへしまい込んしまいこんでいた彼女かのじょは、お延のべの言葉ことばを、その胸むねの中なかで、真面目まじめに受けるうけるほど無邪気むじゃきだったのである。
本当ほんとうに愛あいの実体じったいを認めみとめた事ことのないお秀おひでは、彼女かのじょのいたずらに使うつかう胡乱うろんな言葉ことばを通しとおして、鋭どいするどいお延のべからよく見透かさみすかされたのみではなかった。
彼女かのじょは津田つだとお延のべの関係かんけいを、自分じぶん達とおる夫婦ふうふから割り出しわりだして平気へいきでいた。
それはお延のべの言葉ことばを聴いきいた彼女かのじょが実際じっさい驚ろいおどろいた顔かおをしたのでも解っわかった。
津田つだがお延のべを愛しあいしているかいないかが今頃いまごろどうして問題もんだいになるのだろう。
しかもそれが細君さいくん自身じしんの口くちから出るでるとは何事なにごとだろう。
ましてそれを夫おっとの妹いもうとの前まえへ出すだすに至っいたっては、どこにどんな意味いみがあるのだろう。
――これがお秀おひでの表情ひょうじょうであった。
実際じっさいお秀おひでから見みたお延のべは、現在げんざいの津田つだの愛あいに満足まんぞくする事ことを知らしらない横着おうちゃく者ものか、さもなければ、自分じぶんが充分じゅうぶん津田つだを手ての中なかへ丸め込んまるめこんでおきながら、わざとそこに気きのつかないようなふりをする、空々しいそらぞらしい女おんなに過ぎすぎなかった。
彼女かのじょは「あら」と云っいった。
「まだその上うえに愛さあいされてみたいの」 この挨拶あいさつは平生へいぜいのお延のべの注文ちゅうもん通りとおりに来きた。
しかし今いまの場合ばあいにおけるお延のべに満足まんぞくを与えるあたえるはずはなかった。
彼女かのじょはまた何なんとか云っいって、自分じぶんの意志いしを明らかあきらかにしなければならなかった。
ところがそれを判然はんぜん表現ひょうげんすると、「津田つだがあたしのほかにまだ思っおもっている人ひとが別べつにあるとするなら、あたしだってとうてい今いまのままで満足まんぞくできる訳わけがないじゃありませんか」という露骨ろこつな言葉ことばになるよりほかに途とはなかった。
思い切っおもいきって、そう打っうって出れでれば、自分じぶんで自分じぶんの計画けいかくをぶち毀すぶちこわすのと一般いっぱんだと感づいかんづいた彼女かのじょは、「だって」と云いいいかけたまま、そこで逡巡しゅんじゅんったなり動けうごけなくなった。
「まだ何なんか不足ふそくがあるの」 こう云っいったお秀おひでは眼めを集めあつめてお延のべの手てを見みた。
そこには例れいの指環ゆびわが遠慮えんりょなく輝やいかがやいていた。
しかしお秀おひでの鋭どいするどい一瞥いちべつは何なんの影響えいきょうもお延のべに与えるあたえる事ことができなかった。
指輪ゆびわに対するたいする彼女かのじょの無邪気むじゃきさは昨日きのうと毫もごうも変るかわるところがなかった。
お秀おひでは少しすこしもどかしくなった。
「だって延子のぶこさんは仕合せしあわせじゃありませんか。欲しいほしいものは、何なんでも買っかって貰えるもらえるし、行きいきたい所ところへは、どこへでも連れつれていって貰えるもらえるし――」「ええ。そこだけはまあ仕合しあいせよ」 他ほかに向っむかって自分じぶんの仕合せしあわせと幸福こうふくを主張しゅちょうしなければ、わが弱味よわみを外そとへ現わすあらわすようになって、不都合ふつごうだとばかり考えつけかんがえつけて来きたお延のべは、平生へいぜいから持ち合せもちあわせの挨拶あいさつをついこの場合ばあいにも使っつかってしまった。
そうしてまた行きつまっいきつまった。
芝居しばいに行っいった翌日よくじつ、岡本おかもとへ行っいって継子けいしと話はなしをした時じ用いもちいた言葉ことばを、そのまま繰り返しくりかえした後あとで、彼女かのじょは相手あいてのお秀おひでであるという事ことに気きがついた。
そのお秀おひでは「そこだけが仕合せしあわせなら、それでたくさんじゃないか」という顔つきかおつきをした。
お延のべは自分じぶんがかりそめにも津田つだを疑っうたがっているという形迹けいせきをお秀おひでに示ししめしたくなかった。
そうかと云っいって、何事なにごとも知らしらない風かぜを粧っつくって、見す見すみすみすお秀おひでから馬鹿ばかにされるのはなお厭いやだった。
したがって応対おうたいに非常ひじょうな呼吸こきゅうが要っいった。
目的地もくてきちへ漕ぎつけるこぎつけるまでにはなかなか骨ほねが折れるおれると思っおもった。
しかし彼女かのじょはとても見込みこみのない無理むりな努力どりょくをしているという事ことには、ついに気きがつかなかった。
彼女かのじょはまた態度たいどを一変いっぺんした。
百二十八ひゃくにじゅうはち
彼女かのじょは思い切っおもいきって一足いっそく飛びとびに飛んとんだ。
情実じょうじつに絡まからまれた窮屈きゅうくつな云い廻しいいまわし方ほうを打ちうちやって、面めんと向き合っむきあったままお秀おひでに相見あいみしようとした。
その代りかわり言葉ことばはどうしても抽象的ちゅうしょうてきにならなければならなかった。
それでも論戦ろんせんの刺さし撃げきで、事実じじつの面影おもかげを突きとめるつきとめる方ほうが、まだましだと彼女かのじょは思っおもった。
「いったい一人ひとりの男おとこが、一人ひとり以上いじょうの女おんなを同時どうじに愛するあいする事ことができるものでしょうか」 この質問しつもんを基点きてんとして歩あゆみを進めすすめにかかった時じ、お秀おひではそれに対したいしてあらかじめ準備じゅんびされた答こたえを一いちつももっていなかった。
書物しょもつと雑誌ざっしから受けうけた彼女かのじょの知識ちしきは、ただ一般いっぱん恋愛れんあいに関するかんするだけで、毫もごうもこの特殊とくしゅな場合ばあいに利用りようするに足らあしらなかった。
腹はらに何なんの貯えたくわえもない彼女かのじょは、考えるかんがえる風かぜをした。
そうして正直しょうじきに答えこたえた。
「そりゃちょっと解らわからないわ」 お延のべは気の毒きのどくになった。
「この人ひとは生きいきた研究けんきゅうの材料ざいりょうとして、堀ほりという夫おっとをすでにもっているではないか。その夫おっとの婦人ふじんに対するたいする態度たいども、朝夕あさゆう傍そばにいて、見みているではないか」。
お延のべがこう思うおもう途端とたんに、第だい二に句くがお秀おひでの口くちから落ちおちた。
「解らわからないはずじゃありませんか。こっちが女おんななんですもの」 お延のべはこれも愚答ぐとうだと思っおもった。
もしお秀おひでのありのままがこうだとすれば、彼女かのじょの心こころの働らきはたらきの鈍なまくらさ加減かげんが想いおもいやられた。
しかしお延のべはすぐこの愚答ぐとうを活かしいかしにかかった。
「じゃ女おんなの方ほうから見みたらどうでしょう。自分じぶんの夫おっとが、自分じぶん以外いがいの女おんなを愛しあいしているという事ことが想像そうぞうできるでしょうか」「延子のぶこさんにはそれができないの?」と云わいわれた時じ、お延のべはおやと思っおもった。
「あたしは今いまそんな事ことを想像そうぞうしなければならない地位ちいにいるんでしょうか」「そりゃ大丈夫だいじょうぶよ」とお秀おひではすぐ受け合っうけあった。
お延のべは直ちにただちに相手あいての言葉ことばを繰り返しくりかえした。
「大丈夫だいじょうぶ※」 疑問ぎもんとも間投詞かんとうしとも片かたのつかないその語尾ごびは、お延のべにも何なんという意味いみだか解らわからなかった。
「大丈夫だいじょうぶよ」 お秀おひでも再びふたたび同じおなじ言葉ことばを繰り返しくりかえした。
その瞬間しゅんかんにお延のべは冷笑れいしょうの影かげをちらりとお秀おひでの唇くちびるのあたりに認めみとめた。
しかし彼女かのじょはすぐそれを切っきって捨てすてた。
「そりゃ秀子ひでこさんは大丈夫だいじょうぶにきまってるわ。もともと堀ほりさんへいらっしゃる時じの条件じょうけんが条件じょうけんですもの」「じゃ延子のぶこさんはどうなの。やっぱり津田つだに見込まみこまれたんじゃなかったの」「嘘うそよ。そりゃあなたの事ことよ」 お秀おひでは急きゅうに応じおうじなくなった。
お延のべも獲物えもののない同じおなじ脈みゃくをそれ以上いじょう掘るほる徒労とろうを省いはぶいた。
「いったい津田つだは女おんなに関しかんしてどんな考えかんがえをもっているんでしょう」「それは妹いもうとより奥さんおくさんの方ほうがよく知っしってるはずだわ」 お延のべは叩きつけたたきつけられた後あとで、自分じぶんもお秀おひでと同じおなじような愚問ぐもんをかけた事ことに気きがついた。
「だけど兄妹きょうだいとしての津田つだは、あたしより秀子ひでこさんの方ほうによく解っわかってるでしょう」「ええ、だけど、いくら解っわかってたって、延子のぶこさんの参考さんこうにゃならないわ」「参考さんこうに無論むろんなるのよ。しかしその事ことならあたしだって疾うとうから知っしってるわ」 お延のべの鎌かまは際どいきわどいところで投げかけなげかけられた。
お秀おひでははたしてかかった。
「けれども大丈夫だいじょうぶよ。延子のぶこさんなら大丈夫だいじょうぶよ」「大丈夫だいじょうぶだけれども危き険いけわしいのよ。どうしても秀子ひでこさんから詳しいくわしい話しはなしを聴かしきかしていただかないと」「あら、あたし何になんにも知らしらないわ」 こういったお秀おひでは急きゅうに赧くあかくなった。
それが何なんの羞恥しゅうちのために起っおこったのかは、いくら緊張きんちょうしたお延のべの神経しんけいでも揣摩しまできなかった。
しかも彼女かのじょはこの訪問ほうもんの最初さいしょに、同じおなじ現象げんしょうから受けうけた初度しょどの記憶きおくをまだ忘れわすれずにいた。
吉川よしかわ夫人ふじんの名前なまえを点じてんじた時じに見みたその薄うす赧いあかい顔かおと、今いま彼女かのじょの面前めんぜんに再現さいげんしたこの赤面せきめんの間まにどんな関係かんけいがあるのか、それはいくら物ものの異同いどうを嗅ぎ分けるかぎわける事ことに妙みょうを得とくた彼女かのじょにも見当けんとうがつかなかった。
彼女かのじょはこの場合ばあい無理むりにも二につのものを繋いつないでみたくってたまらなかった。
けれどもそれを繋ぎつなぎ合せるあわせる綱つなは、どこをどう探しさがしたって、金輪際こんりんざい出でて来きっこなかった。
お延のべにとって最ももっとも不幸ふこうな点てんは、現在げんざいの自分じぶんの力ちからに余るあまるこの二につのものの間まに、きっと或るある聯絡れんらくが存在そんざいしているに相違そういないという推測すいそくであった。
そうしてその聯絡れんらくが、今いまの彼女かのじょにとって、すこぶる重大じゅうだいな意味いみをもっているに相違そういないという一種いっしゅの予覚よかくであった。
自然しぜん彼女かのじょはそこをもっと突とっッっついて見るみるよりほかに仕方しかたがなかった。
百二十九ひゃくにじゅうきゅう
とっさの衝動しょうどうに支配しはいされたお延のべは、自分じぶんの口くちを衝いついて出るでる嘘うそを抑えるおさえる事ことができなかった。
「吉川よしかわの奥さんおくさんからも伺っうかがった事ことがあるのよ」 こう云っいった時じ、お延のべは始めはじめて自分じぶんの大胆だいたんさに気きがついた。
彼女かのじょはそこへとまって、冒険ぼうけんの結果けっかを眺めながめなければならなかった。
するとお秀おひでが今までいままでの赤面せきめんとは打っうって変っかわった不思議ふしぎそうな顔かおをしながら訊き返しききかえした。
「あら何なんを」「その事ことよ」「その事ことって、どんな事ことなの」 お延のべにはもう後あとがなかった。
お秀おひでには先さきがあった。
「嘘うそでしょう」「嘘うそじゃないのよ。津田つだの事ことよ」 お秀おひでは急きゅうに応じおうじなくなった。
その代りかわり冷笑れいしょうの影かげを締りしまりの好いよい口元くちもとにわざと寄せよせて見せみせた。
それが先刻せんこくより著るきるしく目立っめだって外そとへ現われあらわれた時じ、お延のべは路みちを誤まっあやまって一歩いちほ深田ふかたの中なかへ踏み込んふみこんだような気きがした。
彼女かのじょに特有とくゆうな負け嫌いまけぎらいな精神せいしんが強くつよく働はたらけらかなかったなら、彼女かのじょはお秀おひでの前まえに頭あたまを下げさげて、もう救を求めもとめていたかも知れしれなかった。
お秀おひでは云っいった。
「変へんね。津田つだの事ことなんか、吉川よしかわの奥さんおくさんがお話しはなしになる訳わけがないのにね。どうしたんでしょう」「でも本当ほんとうよ、秀子ひでこさん」 お秀おひでは始めはじめて声こえを出しだして笑っわらった。
「そりゃ本当ほんとうでしょうよ。誰だれも嘘うそだと思うおもうものなんかありゃしないわ。だけどどんな事ことなの、いったい」「津田つだの事ことよ」「だから兄あにの何なんよ」「そりゃ云えいえないわ。あなたの方ほうから云っいって下さらくださらなくっちゃ」「ずいぶん無理むりな御ご注文ちゅうもんね。云えいえったって、見当けんとうがつかないんですもの」 お秀おひではどこからでもいらっしゃいという落ちつきおちつきを見せみせた。
お延のべの腋の下わきのしたから膏あぶら汗あせが流れながれた。
彼女かのじょは突然とつぜん飛びかかっとびかかった。
「秀子ひでこさん、あなたは基督教きりすときょう信者しんじゃじゃありませんか」 お秀おひでは驚ろいおどろいた様子ようすを現わしあらわした。
「いいえ」「でなければ、昨日きのうのような事ことをおっしゃる訳わけがないと思いおもいますわ」 昨日きのうと今日きょうの二人ふたりは、まるで地位ちいを易えかえたような形勢けいせいに陥っおちいった。
お秀おひではどこまでも優ゆう者ものの余裕よゆうを示ししめした。
「そう。じゃそれでもいいわ。延子のぶこさんはおおかた基督教きりすときょうがお嫌いきらいなんでしょう」「いいえ好きすきなのよ。だからお願いおねがいするのよ。だから昨日きのうのような気高いけだかい心持こころもちになって、この小さいちいさいお延のべを憐れんあわれんでいただきたいのよ。もし昨日きのうのあたしが悪かっわるかったら、こうしてあなたの前まえに手てを突いついて詫わびまるから」 お延のべは光るひかる宝石ほうせき入いりの指輪ゆびわを穿めた手てを、お秀おひでの前まえに突いついて、口くちで云っいった通りとおり、実際じっさいに頭あたまを下げさげた。
「秀子ひでこさん、どうぞ隠さかくさずに正直しょうじきにして下さいください。そうしてみんな打ち明けうちあけて下さいください。お延のべはこの通りとおり正直しょうじきにしています。この通りとおり後悔こうかいしています」 持前もちまえの癖くせを見せみせて、眉まゆを寄せよせた時じ、お延のべの細いほそい眼めから涙なみだが膝ひざの上うえへ落ちおちた。
「津田つだはあたしの夫おっとです。あなたは津田つだの妹いもうとです。あなたに津田つだが大事だいじなように、津田つだはあたしにも大事だいじです。ただ津田つだのためです。津田つだのために、みんな打ち明けうちあけて話しはなして下さいください。津田つだはあたしを愛しあいしています。津田つだが妹いもうととしてあなたを愛しあいしているように、妻つまとしてあたしを愛しあいしているのです。だから津田つだから愛さあいされているあたしは津田つだのためにすべてを知らしらなければならないのです。津田つだから愛さあいされているあなたもまた、津田つだのために万まんずをあたしに打ち明けうちあけて下さるくださるでしょう。それが妹いもうととしてのあなたの親切しんせつです。あなたがあたしに対するたいする親切しんせつを、この場合ばあいお感じかんじにならないでも、あたしはいっこう恨みうらみとは思いおもいません。けれども兄さんあにさんとしての津田つだには、まだ尽しつくして下さるくださる親切しんせつをもっていらっしゃるでしょう。あなたがそれを充分じゅうぶんもっていらっしゃるのは、あなたの顔つきかおつきでよく解りわかります。あなたはそんな冷れい刻こくな人ひとではけっしてないのです。あなたはあなたが昨日きのう御自分ごじぶんでおっしゃった通りとおり親切しんせつな方ほうに違いちがいないのです」 お延のべがこれだけ云っいって、お秀おひでの顔かおを見みた時じ、彼女かのじょはそこに特別とくべつな変化へんかを認めみとめた。
お秀おひでは赧くあかくなる代りかわりに少しすこし蒼白くあおじろくなった。
そうして度外れどはずれに急き込んせきこんだ調子ちょうしで、お延のべの言葉ことばを一刻いっこくも早くはやく否定ひていしなければならないという意味いみに取れるとれる言葉遣いことばづかいをした。
「あたしはまだ何になんにも悪いわるい事ことをした覚さとしはないんです。兄さんあにさんに対したいしても嫂ねーさんに対したいしても、もっているのは好意こういだけです。悪意あくいはちっとも有りありません。どうぞ誤解ごかいのないようにして下さいください」
百三十ひゃくさんじゅう
お秀おひでの言訳いいわけはお延のべにとって意外いがいであった。
また突然とつぜんであった。
その言訳いいわけがどこから出でて来きたのか、また何なんのためであるかまるで解らわからなかった。
お延のべはただはっと思っおもった。
天恵てんけいのごとく彼女かのじょの前まえに露出ろしゅつされたこの時じのお秀おひでの背後はいごに何なんが潜んひそんでいるのだろう。
お延のべはすぐその暗闇くらやみを衝こうつこうとした。
三さん度目どめの嘘うそが安々やすやすと彼女かのじょの口くちを滑っすべって出でた。
「そりゃ解っわかってるのよ。あなたのなすった事ことも、あなたのなすった精神せいしんも、あたしにはちゃんと解っわかってるのよ。だから隠しだてかくしだてをしないで、みんな打ち明けうちあけてちょうだいな。お厭いや?」 こう云っいった時じ、お延のべは出来でき得るうる限りかぎりの愛嬌あいきょうをその細いほそい眼めに湛えたたえて、お秀おひでを見みた。
しかし異性いせいに対するたいする場合ばあいの効果こうかを予想よそうしたこの所作しょさは全くまったく外れはずれた。
お秀おひでは驚ろかさおどろかされた人ひとのように、卒爾そつじな質問しつもんをかけた。
「延子のぶこさん、あなた今日きょうここへおいでになる前まえ、病院びょういんへ行っいっていらしったの」「いいえ」「じゃどこか外そとから廻っまわっていらしったの」「いいえ。宅たくからすぐ上っのぼったの」 お秀おひではようやく安心あんしんしたらしかった。
その代りかわり後あとは何になんにも云わいわなかった。
お延のべはまだ縋りついすがりついた手てを放さはなさなかった。
「よう、秀子ひでこさんどうぞ話しはなしてちょうだいよ」 その時じお秀おひでの涼しいすずしい眼めのうちに残酷ざんこくな光ひかりが射ししゃした。
「延子のぶこさんはずいぶん勝手かってな方ほうね。御自分ごじぶん独りひとり精一杯せいいっぱい愛さあいされなくっちゃ気きがすまないと見えるみえるのね」「無論むろんよ。秀子ひでこさんはそうでなくっても構わかまわないの」「良人おっとを御覧ごらんなさい」 お秀おひではすぐこう云っいって退けしりぞけた。
お延のべは話頭わとうからわざと堀ほりを追いおい除けよけた。
「堀ほりさんは問題外もんだいがいよ。堀ほりさんはどうでもいいとして、正直しょうじきの云いいいっ競せりよ。なんぼ秀子ひでこさんだって、気きの多いおおい人ひとが好きすきな訳わけはないでしょう」「だって自分じぶんよりほかの女おんなは、有れあれども無きなきがごとしってような素直すなおな夫おっとが世の中よのなかにいるはずがないじゃありませんか」 雑誌ざっしや書物しょもつからばかり知識ちしきの供給きょうきゅうを仰いおっしゃいでいたお秀おひでは、この時じ突然とつぜん卑近ひきんな実際じっさい家いえとなってお延のべの前まえに現われあらわれた。
お延のべはその矛盾むじゅんを注意ちゅういする暇ひまさえなかった。
「あるわよ、あなた。なけりゃならないはずじゃありませんか、いやしくも夫おっとと名ながつく以上いじょう」「そう、どこにそんな好いよい人ひとがいるの」 お秀おひではまた冷笑れいしょうの眼めをお延のべに向けむけた。
お延のべはどうしても津田つだという名前なまえを大きなおおきな声こえで叫ぶさけぶ勇気ゆうきがなかった。
仕方なししかたなしに口くちの先さきで答えこたえた。
「それがあたしの理想りそうなの。そこまで行かいかなくっちゃ承知しょうちができないの」 お秀おひでが実際じっさい家いえになった通りとおり、お延のべもいつの間まにか理論家りろんかに変化へんかした。
今までいままでの二人ふたりの位地いちは顛倒てんとうした。
そうして二人ふたりともまるでそこに気きがつかずに、勢いきおいの運ぶはこぶがままに前まえの方ほうへ押し流さおしながされた。
あとの会話かいわは理論りろんとも実際じっさいとも片かたのつかない、出でたとこ勝負しょうぶになった。
「いくら理想りそうだってそりゃ駄目だめよ。その理想りそうが実現じつげんされる時じは、細君さいくん以外いがいの女おんなという女おんながまるで女おんなの資格しかくを失っうしなってしまわなければならないんですもの」「しかし完全かんぜんの愛あいはそこへ行っいって始めてはじめて味わわあじわわれるでしょう。そこまで行きいき尽さつくさなければ、本式ほんしきの愛情あいじょうは生涯しょうがい経っきょうったって、感ずるかんずる訳わけに行かいかないじゃありませんか」「そりゃどうだか知らしらないけれども、あなた以外いがいの女おんなを女おんなと思わおもわないで、あなただけを世の中よのなかに存在そんざいするたった一人ひとりの女おんなだと思うおもうなんて事ことは、理性りせいに訴えうったえてできるはずがないでしょう」 お秀おひではとうとうあなたという字じに点火てんかした。
お延のべはいっこう構わかまわなかった。
「理性りせいはどうでも、感情かんじょうの上うえで、あたしだけをたった一人ひとりの女おんなと思っおもっていてくれれば、それでいいんです」「あなただけを女おんなと思えおもえとおっしゃるのね。そりゃ解るわかるわ。けれどもほかの女おんなを女おんなと思っおもっちゃいけないとなるとまるで自殺じさつと同じおなじ事ことよ。もしほかの女おんなを女おんなと思わおもわずにいられるくらいな夫おっとなら、肝心かんじんのあなただって、やッぱりやっぱり女おんなとは思わおもわないでしょう。自分じぶんの宅たくの庭にわに咲いさいた花はなだけが本当ほんとうの花はなで、世間せけんにあるのは花はなじゃない枯草かれくさだというのと同じおなじ事ことですもの」「枯草かれくさでいいと思いおもいますわ」「あなたにはいいでしょう。けれども男おとこには枯草かれくさでないんだから仕方しかたがありませんわ。それよりか好きすきな女おんなが世の中よのなかにいくらでもあるうちで、あなたが一番いちばん好かよしみかれている方ほうが、嫂ねーさんにとってもかえって満足まんぞくじゃありませんか。それが本当ほんとうに愛さあいされているという意味いみなんですもの」「あたしはどうしても絶対ぜったいに愛さあいされてみたいの。比較ひかくなんか始めはじめから嫌いきらいなんだから」 お秀おひでの顔かおに軽蔑けいべつの色いろが現われあらわれた。
その奥おくには何なんという理解力りかいりょくに乏しいとぼしい女おんなだろうという意味いみがありありと見透かさみすかされた。
お延のべはむらむらとした。
「あたしはどうせ馬鹿ばかだから理窟りくつなんか解らわからないのよ」「ただ実例じつれいをお見せみせになるだけなの。その方ほうが結構けっこうだわね」 お秀おひでは冷然れいぜんとして話はなしを切り上げきりあげた。
お延のべは胸むねの奥おくで地団太じだんだを踏んふんだ。
せっかくの努力どりょくはこれ以上いじょう何物なにものをも彼女かのじょに与えるあたえる事ことができなかった。
留守るすに彼女かのじょを待つまつ津田つだの手紙てがみが来きているとも知らしらない彼女かのじょは、そのまま堀ほりの家いえを出でた。
百三十一ひゃくさんじゅういち
お延のべとお秀おひでが対坐たいざして戦ったたかっている間まに、病院びょういんでは病院びょういんなりに、また独立どくりつした予定よていの事件じけんが進行しんこうした。
津田つだの待ち受けまちうけた吉川よしかわ夫人ふじんがそこへ顔かおを出しだしたのは、お延のべ宛ずつで書いかいた手紙てがみを持たもたせてやった車夫しゃふがまだ帰っかえって来きないうちで、時間じかんからいうと、ちょうど小林こばやしの出でて行っいった十じゅう分ぶんほど後あとであった。
彼かれは看護婦かんごふの口くちから夫人ふじんの名前なまえを聴いきいた時じ、この異こと人種じんしゅに近いちかい二人ふたりが、狭いせまい室むろで鉢合せはちあわせをしずにすんだ好都合こうつごうを、何なんより先さきにまず祝福しゅくふくした。
その時じの彼かれはこの都合つごうをつけるために払うはらうべく余儀よぎなくされた物質ぶっしつ上うえの犠牲ぎせいをほとんど顧みるかえりみる暇ひまさえなかった。
彼かれは夫人ふじんの姿すがたを見るみるや否いなや、すぐ床ゆかの上うえに起き返ろうおきかえろうとした。
夫人ふじんは立ちたちながら、それを止めとめた。
そうして彼女かのじょを案内あんないした看護婦かんごふの両手りょうてに、抱えるかかえるようにして持たもたせた植木鉢うえきばちをちょっとふり返っふりかえって見みて、「どこへ置きおきましょう」と相談そうだんするように訊いきいた。
津田つだは看護婦かんごふの白いしろい胸むねに映るうつる紅葉こうようの色いろを美びくしく眺めながめた。
小さいちいさい鉢ばちの中なかで、窮屈きゅうくつそうに三さん本ほんの幹みきが調子ちょうしを揃えそろえて並んならんでいる下したに、恰好かっこの好いよい手頃てごろな石いしさえあしらったその盆栽ぼんさいが床の間とこのまの上うえに置かおかれた後あとで、夫人ふじんは始めはじめて席せきに着いついた。
「どうです」 先刻せんこくから彼女かのじょの様子ようすを見みていた津田つだは、この時じ始めはじめて彼かれに対するたいする夫人ふじんの態度たいどを確かめるたしかめる事ことができた。
もしやと思っおもって、暗にあんに心配しんぱいしていた彼かれの掛かかり念ねんの半分はんぶんは、この一いち語ごで吹き晴らさふきはらされたと同じおなじ事ことであった。
夫人ふじんはいつもほど陽気ようきではなかった。
その代りかわりいつもほど上っ調子うえっちょうしでもなかった。
要するようするに彼女かのじょは、津田つだがいまだかつて彼女かのじょにおいて発見はっけんしなかった一種いっしゅの気分きぶんで、彼かれの室むろに入っはいって来きたらしかった。
それは一方いっぽうで彼女かのじょの落ちつきおちつきを極度きょくどに示ししめしていると共ともに、他方たほうでは彼女かのじょの鷹揚おうようさをやはり最高さいこう度どに現わすあらわすものらしく見えみえた。
津田つだは少しすこし驚ろかさおどろかされた。
しかし好いよい意味いみで驚ろかさおどろかされただけに、気味きみも悪くわるくしなければならなかった。
たといこの態度たいどが、彼かれに対するたいする反感はんかんを代表だいひょうしていないにせよ、その奥おくには何なんがあるか解らわからなかった。
今いまその奥おくに恐るおそるべき何物なにものがないにしても、これから先さき話はなしをしているうちに、向うむこうの心持こころもちはどう変化へんかして来るくるか解らわからなかった。
津田つだは他ほかから機嫌きげんを取らとられつけている夫人ふじんの常つねとして、手前てまえ勝手にかってにいくらでも変っかわって行くいく、もしくは変っかわって行っいっても差支えさしつかえないと自分じぶんで許しゆるしている、この夫人ふじんを、一種いっしゅの意味いみで、女性じょせいの暴君ぼうくんと奉つらなければならない地位ちいにあった。
漢語かんごでいうと彼女かのじょの一顰いっぴん一笑いっしょうが津田つだにはことごとく問題もんだいになった。
この際さいの彼かれにはことにそうであった。
「今朝けさ秀子ひでこさんがいらしってね」 お秀おひでの訪問ほうもんはまず第だい一いちの議事ぎじのごとくに彼女かのじょの口くちから投げ出さなげだされた。
津田つだは固よりもとより相手あいてに応じおうじなければならなかった。
そうしてその応じおうじ方ほうは夫人ふじんの来きない前まえからもう考えかんがえていた。
彼かれはお秀おひでの夫人ふじんを尋ねたずねた事ことを知っしって、知らしらない風かぜをするつもりであった。
誰だれから聴いきいたと問わとわれた場合ばあいに、小林こばやしの名なを出すだすのが厭いやだったからである。
「へえ、そうですか。平生へいぜいあんまり御無沙汰ごむさたをしているので、たまにはお詫わびに上らのぼらないと悪いわるいとでも思っおもったのでしょう」「いえそうじゃないの」 津田つだは夫人ふじんの言葉ことばを聴いきいた後あとで、すぐ次つぎの嘘うそを出しだした。
「しかしあいつに用ようのある訳わけもないでしょう」「ところがあったんです」「へええ」 津田つだはこう云っいったなりその後そのあとを待っまった。
「何なんの用ようだかあてて御覧ごらんなさい」 津田つだは空っ惚けそらっとぼけて、考えるかんがえる真似まねをした。
「そうですね、お秀おひでの用事ようじというと、――さあ何なんでしょうかしら」「分りわかりませんか」「ちょっとどうも。――元来がんらい私わたくしとお秀おひでとは兄妹きょうだいでいながら、だいぶん質しつが違いちがいますから」 津田つだはここで余計よけいな兄妹きょうだい関係かんけいをわざと仄めかしほのめかした。
それは事ことの来るくる前まえに、自分じぶんを遠くとおくから弁護べんごしておくためであった。
それから自分じぶんの言葉ことばを、夫人ふじんがどう受けうけてくれるか、その反響はんきょうをちょっと聴いきいてみるためであった。
「少しすこし理窟りくつッっぽいのね」 この一いち語ごを聞くきくや否いなや、津田つだは得とくたり賢こかしこしと虚うつろにつけ込んつけこんだ。
「あいつの理窟りくつと来きたら、兄あにの私わたくしでさえ悩まさなやまされるくらいですもの。誰だれだって、とてもおとなしく辛抱しんぼうして聴いきいていられたものじゃございません。だから私わたくしはあいつと喧嘩けんかをすると、いつでも好いよい加減かげんにして投げなげてしまいます。するとあいつは好いよい気きになって、勝っかったつもりか何なんかで、自分じぶんの都合つごうの好いよい事ことばかりを方々かたがたへ行っいって触れふれ散らかすちらかすのです」 夫人ふじんは微笑びしょうした。
津田つだはそれを確かたしかに自分じぶんの方ほうに同情どうじょうをもった微笑びしょうと解釈かいしゃくする事ことができた。
すると夫人ふじんの言葉ことばが、かえって彼かれの思わくおもわくとは逆ぎゃくの見当けんとうを向いむかいて出でた。
「まさかそうでもないでしょうけれどもね。――しかしなかなか筋すじの通っとおった好いよい頭あたまをもった方ほうじゃありませんか。あたしあの方ほうは好よしみよ」 津田つだは苦笑くしょうした。
「そりゃお宅おたくなんぞへ上っのぼって、むやみに地金じがねを出すだすほどの馬鹿ばかでもないでしょうがね」「いえ正直しょうじきよ、秀子ひでこさんの方ほうが」 誰だれよりお秀おひでが正直しょうじきなのか、夫人ふじんは説明せつめいしなかった。
百三十二ひゃくさんじゅうに
津田つだの好奇心こうきしんは動いうごいた。
想像そうぞうもほぼついた。
けれどもそこへ折れ曲っおれまがって行くいく事ことは彼かれの主意しゅいに背いそむいた。
彼かれはただ夫人ふじん対たいお秀おひでの関係かんけいを掘り返せほりかえせばよかった。
病気びょうき見舞みまいを兼けんた夫人ふじんの用よう向むかいも、無論むろんそれについての懇談こんだんにきまっていた。
けれども彼女かのじょにはまた彼女かのじょに特有とくゆうな趣おもむきがあった。
時間じかんに制限せいげんのない彼女かのじょは、頼またのまれるまでもなく、機会きかいさえあれば、他ほかの内輪うちわに首くびを突とっッっ込んこんで、なにかと眼下がんか、ことに自分じぶんの気きに入っはいった眼下がんかの世話せわを焼きやきたがる代りかわりに、到るいたるところでまた道楽どうらく本位ほんいの本性ほんしょうを露わあらわして平気へいきであった。
或ある時じの彼女かのじょはむやみに急いいそいて事ことを纏めようまとめようとあせった。
そうかと思うおもうと、ある時じの彼女かのじょは、また正反対せいはんたいであった。
わざわざべんべんと引いんッっ張るはるところに、さも興味きょうみでもあるらしい様子ようすを見せみせてすましていた。
鼠ねずみを弄そろうそぶ猫ねこのようなこの時じの彼女かのじょの態度たいどが、たとい傍そばから見みてどうあろうとも、自分じぶんでは、閑散かんさんな時間じかんに曲折きょくせつした波瀾はらんを与えるあたえるために必要ひつような優ゆう者ものの特権とっけんだと解釈かいしゃくしているらしかった。
この手てにかかった時じの相手あいてには、何なんよりも辛しん防ぼうが大切たいせつであった。
その代りかわり辛しん防ぼうをし抜いぬいた御礼ごれいはきっと来きた。
また来るくる事ことをもって彼女かのじょは相手あいてを奨励しょうれいした。
のみならずそれを自分じぶんの倫理りんり上うえの誇りほこりとした。
彼女かのじょと津田つだの間まに取りとり換かえわされたこの黙契もっけいのために、津田つだの蒙っこうむった重大じゅうだいな損失そんしつが、今までいままでにたった一いちつあった。
その点てんで彼女かのじょが腹はらの中なかでいかに彼かれに対するたいする責任せきにんを感じかんじているかは、怜俐れいな津田つだの見逃すみのがすところでなかった。
何事なにごとにも夫人ふじんの御意ぎょいを主眼しゅがんに置いおいて行動こうどうする彼かれといえども、暗にあんにこの強味つよみだけは恃みたのみにしていた。
しかしそれはいざという万一まんいちの場合ばあいに保留ほりゅうされた彼かれの利器りきに過ぎすぎなかった。
平生へいぜいの彼かれは甘んじあまんじて猫ねこの前まえの鼠ねずみとなって、先方せんぽうの思うおもう通りとおりにじゃらされていなければならなかった。
この際さいの夫人ふじんもなかなか要点ようてんへ来るくる前まえに時間じかんを費やしついやした。
「昨日きのう秀子ひでこさんが来きたでしょう。ここへ」「ええ。参りまいりました」「延子のぶこさんも来きたでしょう」「ええ」「今日きょうは?」「今日きょうはまだ参りまいりません」「今いまにいらっしゃるんでしょう」 津田つだにはどうだか分らわからなかった。
先刻せんこく来るくるなという手紙てがみを出しだした事ことも、夫人ふじんの前まえでは云えいえなかった。
返事へんじを受け取らうけとらなかった勝手かって違いも、実じつは気きにかかっていた。
「どうですかしら」「いらっしゃるか、いらっしゃらないか分らわからないの」「ええ、よく分りわかりません。多分たぶん来きないだろうとは思うおもうんですが」「大変たいへん冷淡れいたんじゃありませんか」 夫人ふじんは嘲けるあざけるような笑いわらい方ほうをした。
「私わたくしがですか」「いいえ、両方りょうほうがよ」 苦笑くしょうした津田つだが口くちを閉じるとじるのを待っまって、夫人ふじんの方ほうで口くちを開いひらいた。
「延子のぶこさんと秀子ひでこさんは昨日きのうここで落ち合っおちあったでしょう」「ええ」「それから何なんかあったのね、変へんな事ことが」「別べつに……」「空そらッっ惚けぼけちゃいけません。あったらあったと、判然はんぜんおっしゃいな、男おとこらしく」 夫人ふじんはようやく持前もちまえの言葉遣いことばづかいと特色とくしょくとを、発揮はっきし出しだした。
津田つだは挨拶あいさつに困っこまった。
黙っだまって少しすこし様子ようすを見るみるよりほかに仕方しかたがないと思っおもった。
「秀子ひでこさんをさんざん苛めいじめたって云ういうじゃありませんか。二人ふたりして」「そんな事ことがあるものですか。お秀おひでの方ほうが怒っどってぷんぷん腹はらを立てたてて帰っかえって行っいったのです」「そう。しかし喧嘩けんかはしたでしょう。喧嘩けんかといったって殴りなぐり合あわせじゃないけれども」「それだってお秀しゅうのいうような大袈裟おおげさなものじゃないんです」「かも知れしれないけれども、多少たしょうにしろ有っあったには有っあったんですね」「そりゃちょっとした行違ゆきちがいならございました」「その時じあなた方ほうは二人ふたりがかりで秀子ひでこさんを苛めいじめたでしょう」「苛めいじめやしません。あいつが耶蘇教やそきょうのような気き※を吐いはいただけです」「とにかくあなたがたは二人ふたり、向うむこうは一人ひとりだったに違いないでしょう」「そりゃそうかも知れしれません」「それ御覧ごらんなさい。それが悪いわるいじゃありませんか」 夫人ふじんの断定だんていには意味いみも理窟りくつもなかった。
したがってどこが悪いわるいんだか津田つだにはいっこう通じつうじなかった。
けれどもこういう場合ばあいにこんな風かぜになって出でて来るくる夫人ふじんの特色とくしょくは、けっして逆らえさからえないものとして、もう津田つだの頭あたまに叩き込またたきこまれていた。
素直すなおに叱らしかられているよりほかに彼かれの途とはなかった。
「そういうつもりでもなかったんですけれども、自然しぜんの勢いきおいで、いつかそうなってしまったんでしょう」「でしょうじゃいけません。ですと判然はんぜんおっしゃい。いったいこういうと失礼しつれいなようですが、あなたがあんまり延子のぶこさんを大事だいじになさり過ぎるすぎるからよ」 津田つだは首くびを傾けかたむけた。
百三十三ひゃくさんじゅうさん
怜俐れいな性分しょうぶんに似合わにあわず夫人ふじん対たいお延のべの関係かんけいは津田つだによく呑み込めのみこめていなかった。
夫人ふじんに津田つだの手前てまえがあるように、お延のべにも津田つだにおく気兼きがねがあったので、それが真向まっこうに双方そうほうを了解りょうかいできる聡明そうめいな彼かれの頭あたまを曇らくもらせる原因げんいんになった。
女おんなの挨拶あいさつに相当そうとうの割引わりびきをして見るみる彼かれも、そこにはつい気きがつかなかったため、彼かれは自分じぶんの前まえでする夫人ふじんのお延のべ評ひょうを真しんに受けるうけると同時どうじに、自分じぶんの耳みみに聴こえるきこえるお延のべの夫人ふじん評ひょうもまた疑がわうたがわなかった。
そうしてその評ひょうは双方そうほう共ともに美びくしいものであった。
二人ふたりの女性じょせいが二人ふたりだけで心こころの内うちに感じ合いかんじあいながら、今までいままでそれを外そとに現わすあらわすまいとのみ力めりきめて来きた微妙びみょうな軋轢あつれきが、必然ひつぜんの要求ようきゅうに逼らせまられて、しだいしだいに晴れはれ渡るわたる靄もやのように、津田つだの前まえに展開てんかいされなければならなくなったのはこの時じであった。
津田つだは夫人ふじんに向っむかって云っいった。
「別段べつだん大事だいじにするほどの女房にょうぼうでもありませんから、その辺へんの御ご心配しんぱいは御ご無用むようです」「いいえそうでないようですよ。世間せけんじゃみんなそう思っおもってますよ」 世間せけんという仰山ぎょうさんな言葉ことばが津田つだを驚ろかおどろかせた。
夫人ふじんは仕方なししかたなしに説明せつめいした。
「世間せけんって、みんなの事ことよ」 津田つだにはそのみんなさえ明暸めいりょうに意識いしきする事ことができなかった。
しかし世間せけんだのみんなだのという誇張こちょうした言葉ことばを強めるつよめる夫人ふじんの意味いみは、けっして推察すいさつに困難こんなんなものではなかった。
彼女かのじょはどうしてもその点てんを津田つだの頭あたまに叩き込もうたたきこもうとするつもりらしかった。
津田つだはわざと笑っわらって見せみせた。
「みんなって、お秀おひでの事ことなんでしょう」「秀子ひでこさんは無論むろんそのうちの一人ひとりよ」「そのうちの一人ひとりでそうしてまた代表者だいひょうしゃなんでしょう」「かも知れしれないわ」 津田つだは再びふたたび大きなおおきな声こえを出しだして笑っわらった。
しかし笑っわらった後あとですぐ気きがついた。
悪いわるい結果けっかになって夫人ふじんの上うえに反響はんきょうして来きたその笑いわらいはもう取り返せとりかえせなかった。
文句もんくを云わいわずに伏ふく罪つみする事ことの便宜べんぎを悟っさとった彼かれは、たちまち容すがたちを改あらためためた。
「とにかくこれからよく気きをつけます」 しかし夫人ふじんはそれでもまだ満足まんぞくしなかった。
「秀子ひでこさんばかりだと思うおもうと間違いまちがいですよ。あなたの叔父おじさんや叔母おばさんも、同どうなじ考えかんがえなんだからそのつもりでいらっしゃい」「はあそうですか」 藤井ふじい夫婦ふうふの消息しょうそくが、お秀おひでの口くちから夫人ふじんに伝えつたえられたのも明らかあきらかであった。
「ほかにもまだあるんです」と夫人ふじんがまた付け加えつけくわえた。
津田つだはただ「はあ」と云っいって相手あいての顔かおを見みた拍子ひょうしに、彼かれの予期よきした通りとおりの言葉ことばがすぐ彼女かのじょの口くちから洩れもれた。
「実じつを云ういうと、私わたくしも皆みなさんと同どうなじ意見いけんですよ」 権威けんいででもあるような調子ちょうしで、最後さいごにこう云っいった夫人ふじんの前まえに、彼かれはもちろん反抗はんこうの声こえを揚げるあげる勇気ゆうきを出すだす必要ひつようを認めみとめなかった。
しかし腹はらの中なかでは同時どうじに妙みょうな思わくおもわく違いに想いおもいいたった。
彼かれは疑っうたがった。
「何なんでこの人ひとが急きゅうにこんな態度たいどになったのだろう。自分じぶんのお延のべを鄭重ていちょうに取扱いとりあつかい過ぎるすぎるのが悪いわるいといって非難ひなんする上うえに、お延のべ自身じしんをもその非難ひなんのうちに含めふくめているのではなかろうか」 この疑いうたがいは津田つだにとって全くまったく新らしいあたらしいものであった。
夫人ふじんの本意ほんいに到着とうちゃくする想像そうぞう上うえの過程かていを描き出すえがきだす事ことさえ彼かれには困難こんなんなくらい新らしいあたらしいものであった。
彼かれはこの疑問ぎもんに立ち向うたちむかう前まえに、まだ自分じぶんの頭あたまの中なかに残っのこっている一いちつの質問しつもんを掛けかけた。
「岡本おかもとさんでも、そんな評判ひょうばんがあるんでしょうか」「岡本おかもとは別べつよ。岡本おかもとの事ことなんか私わたくしの関係かんけいするところじゃありません」 夫人ふじんがすましてこう云い切っいいきった時じ、津田つだは思わおもわずおやと思っおもった。
「じゃ岡本おかもととあなたの方ほうは別べつっこだったんですか」という次つぎの問もんが、自然しぜんの順序じゅんじょとして、彼かれの咽喉のどまで出かかっでかかった。
実じつを云ういうと、彼かれは「世間せけん」の取とり沙汰さた通りとおり、お延のべを大事だいじにするのではなかった。
誤解ごかい交りまじわりのこの評判ひょうばんが、どこからどうして起っおこったかを、他ほかに説明せつめいしようとすれば、ずいぶん複雑ふくざつな手数てすうがかかるにしても、彼かれの頭あたまの中なかにはちゃんとした明晰めいせきな観念かんねんがあって、それを一々いちいち掌てのひらに指すさす事ことのできるほどに、事実じじつの縞柄しまがらは解っわかっていた。
第だい一いちの責任者せきにんしゃはお延のべその人ひとであった。
自分じぶんがどのくらい津田つだから可愛かわいがられ、また津田つだをどのくらい自由じゆうにしているかを、最ももっとも曲折きょくせつの多いおおい角度かくどで、あらゆる方面ほうめんに反射はんしゃさせる手際てぎわをいたるところに発揮はっきして憚からはばからないものは彼女かのじょに違いなかった。
第だい二にの責任者せきにんしゃはお秀おひでであった。
すでに一種いっしゅの誇張こちょうがある彼女かのじょの眼めを、一種いっしゅの嫉妬しっとが手伝ってつだって染めそめた。
その嫉妬しっとがどこから出でて来るくるのか津田つだは知らしらなかった。
結婚後けっこんご始めはじめて小しょう姑しゅうとめという意味いみを悟っさとった彼かれは、せっかく悟っさとった意味いみを、解釈かいしゃくのできないために持て余しもてあました。
第だい三さんの責任者せきにんしゃは藤井ふじいの叔父おじ夫婦ふうふであった。
ここには誇張こちょうも嫉妬しっともない代りかわりに、浮華ふかに対するたいする嫌悪けんおがあまり強くつよく働らきはたらき過ぎすぎた。
だから結果けっかはやはり誤解ごかいと同じおなじ事ことに帰着きちゃくした。
百三十四ひゃくさんじゅうよん
津田つだにはこの誤解ごかいを誤解ごかいとして通しとおしておく特別とくべつな理由りゆうがあった。
そうしてその理由りゆうはすでに小林こばやしの看破かんぱした通りとおりであった。
だから彼かれはこの誤解ごかいから生じしょうじやすい岡本おかもとの好意こういを、できるだけ自分じぶんの便宜べんぎになるように保留ほりゅうしようと試みこころみた。
お延のべを鄭てい寧ねいに取扱うとりあつかうのは、つまり岡本おかもと家いえの機嫌きげんを取るとるのと同じおなじ事ことで、その岡本おかもとと吉川よしかわとは、兄弟きょうだい同様どうように親しいしたしい間柄あいだがらである以上いじょう、彼かれの未来みらいは、お延のべを大事だいじにすればするほど確かたしかになって来るくる道理どうりであった。
利害りがいの論理ろんりに抜目ぬけめのない機敏きびんさを誇りほこりとする彼かれは、吉川よしかわ夫妻ふさいが表ひょう向むかいの媒妁ばいしゃく人ひととして、自分じぶん達とおる二人ふたりの結婚けっこんに関係かんけいしてくれた事実じじつを、単なるたんなる名誉めいよとして喜こぶよろこぶほどの馬鹿ばかではなかった。
彼かれはそこに名誉めいよ以外いがいの重大じゅうだいな意味いみを認めみとめたのである。
しかしこれはむしろ一般的いっぱんてきの内情ないじょうに過ぎすぎなかった。
もう一皮ひとかわ剥いむいて奥おくへ入るはいると、底そこにはまだ底そこがあった。
津田つだと吉川よしかわ夫人ふじんとは、事件じけんがここへ来るくるまでに、他人たにんの関知かんちしない因果いんがでもう結びつけむすびつけられていた。
彼かれらにだけ特有とくゆうな内外ないがいの曲折きょくせつを経過けいかして来きた彼かれらは、他人たにんより少しすこし複雑ふくざつな眼めをもって、半年はんとし前まえに成立せいりつしたこの新らしいあたらしい関係かんけいを眺めながめなければならなかった。
有体ありていにいうと、お延のべと結婚けっこんする前まえの津田つだは一人ひとりの女おんなを愛しあいしていた。
そうしてその女おんなを愛さあいさせるように仕向けしむけたものは吉川よしかわ夫人ふじんであった。
世話せわ好よしみな夫人ふじんは、この若いわかい二人ふたりを喰っくっつけるような、また引き離すひきはなすような閑かん手段しゅだんを縦たてままに弄しろうして、そのたびにまごまごしたり、または逆ぎゃくせ上っのぼったりする二人ふたりを眼めの前まえに見みて楽しんたのしんだ。
けれども津田つだは固くかたく夫人ふじんの親切しんせつを信じしんじて疑がわうたがわなかった。
夫人ふじんも最後さいごに来るくるべき二人ふたりの運命うんめいを断言だんげんして憚からはばからなかった。
のみならず時機じきの熟しじゅくしたところを見計っみはからって、二人ふたりを永久えいきゅうに握手あくしゅさせようと企てくわだてた。
ところがいざという間際まぎわになって、夫人ふじんの自信じしんはみごとに鼻柱はなばしらを挫かくじかれた。
津田つだの高慢こうまんも助かるたすかるはずはなかった。
夫人ふじんの自信じしんと共ともに一いち棒ぼうに撲殺ぼくさつされた。
肝心かんじんの鳥とりはふいと逃げにげたぎり、ついに夫人ふじんの手てに戻っもどって来きなかった。
夫人ふじんは津田つだを責めせめた。
津田つだは夫人ふじんを責めせめた。
夫人ふじんは責任せきにんを感じかんじた。
しかし津田つだは感じかんじなかった。
彼かれは今日きょうまでその意味いみが解らわからずに、まだ五ご里さと霧中むちゅうに彷徨ほうこうしていた。
そこへお延のべの結婚けっこん問題もんだいが起っおこった。
夫人ふじんは再びふたたび第だい二にの恋愛れんあい事件じけんに関係かんけいすべく立ち上ったちのぼった。
そうして夫おっとと共ともに、表ひょう向むかいの媒妁ばいしゃく人ひととして、綺麗きれいな段落だんらくをそこへつけた。
その時じの夫人ふじんの様子ようすを細かこまかに観察かんさつした津田つだはなるほどと思っおもった。
「おれに対するたいする賠償ばいしょうの心持こころもちだな」 彼かれはこう考えかんがえた。
彼かれは未来みらいの方針ほうしんを大体だいたいの上うえにおいてこの心持こころもちから割り出そうわりだそうとした。
お延のべと仲なか善くよく暮すくらす事ことは、夫人ふじんに対するたいする義務ぎむの一端いっぱしだと思い込んおもいこんだ。
喧嘩けんかさえしなければ、自分じぶんの未来みらいに間ま違いはあるまいという鑑定かんていさえ下しおろした。
こういう心得こころえに万まん遺い※のあるはずはないと初手しょてからきめてかかって吉川よしかわ夫人ふじんに対したいしている津田つだが、たとい遠廻しとおまわしにでもお延のべを非難ひなんする相手あいての匂いにおいを嗅ぎ出しかぎだした以上いじょう、おやと思うおもうのは当然とうぜんであった。
彼かれは夫人ふじんに気きに入るはいるように自分じぶんの立場たちばを改めるあらためる前まえに、まず確かめるたしかめる必要ひつようがあった。
「私わたくしがお延のべを大事だいじにし過ぎるすぎるのが悪いわるいとおっしゃるほかに、お延のべ自身じしんに何なんか欠点けってんでもあるなら、御ご遠慮えんりょなく忠告ちゅうこくしていただきたいと思いおもいます」「実じつはそれで上っのぼったのよ、今日きょうは」 この言葉ことばを聴いきいた時じ、津田つだの胸むねは夫人ふじんの口くちから何なんが出でて来るくるかの好奇心こうきしんに充ちみちた。
夫人ふじんは語ごを継いつづいだ。
「これは私わたくしでないと面めんと向っむかって誰だれもあなたに云えいえない事ことだと思うおもうから云いいいますがね。――お秀おひでさんに智慧ちえをつけられて来きたと思っおもっては困りこまりますよ。また後あとでお秀おひでさんに迷惑めいわくをかけるようだと、私わたくしがすまない事ことになるんだから、よござんすか。そりゃお秀おひでさんもその事ことでわざわざ来きたには違いないのよ。しかし主意しゅいは少しすこし違うちがうんです。お秀おひでさんは重じゅうに京都きょうとの方ほうを心配しんぱいしているの。無論むろん京都きょうとはあなたから云えいえばお父さんおちちさんだから、けっして疎略そりゃくにはできますまい。ことに良人おっとでもああしてお父さんおちちさんにあなたの世話せわを頼またのまれていて見るみると、黙っだまって放っはなってもおく訳わけにも行かいかないでしょう。けれどもね、つまりそっちは枝えだで、根ねは別べつにあるんだから、私わたくしは根ねから先さきへ療治りょうじした方ほうが遥かはるかに有効ゆうこうだと思うおもうんです。でないと今度こんどのような行違ゆきちがいがまたきっと出でて来きますよ。ただ出でて来るくるだけならよござんすけれども、そのたんびにお秀おひでさんがやって来るくるようだと、私わたくしも口くちを利くきくのに骨ほねが折れるおれるだけですからね」 夫人ふじんのいう禍かの根ねというのはたしかにお延のべの事ことに違いなかった。
ではその根ねをどうして療治りょうじしようというのか。
肉体にくたい上うえの病気びょうきでもない以上いじょう、離別りべつか別居べっきょを除いのぞいて療治りょうじという言葉ことばはたやすく使えるつかえるものでもないのにと津田つだは考えかんがえた。
百三十五ひゃくさんじゅうご
津田つだはやむをえず訊いきいた。
「要するようするにどうしたらいいんです」 夫人ふじんはこの子供こどもらしい質問しつもんの前まえに母ははらしい得意とくいの色いろを見せみせた。
けれどもすぐ要点ようてんへは来きなかった。
彼女かのじょはそこだと云わいわぬばかりにただ微笑びしょうした。
「いったいあなたは延子のぶこさんをどう思っおもっていらっしゃるの」 同じおなじ問もんが同じおなじ言葉ことばで昨日きのうかけられた時じ、お秀おひでに何なんと答えこたえたかを津田つだは思い出しおもいだした。
彼かれは夫人ふじんに対するたいする特別とくべつな返事へんじを用意よういしておかなかった。
その代りかわり何なんとでも答えこたえられる自由じゆうな地位ちいにあった。
腹蔵ふくぞうのないところをいうと、どうなりとあなたの好きすきなお返事へんじを致しいたしますというのが彼かれの胸中きょうちゅうであった。
けれども夫人ふじんの頭あたまにあるその好きすきな返事へんじは、全くまったく彼かれの想像そうぞうのほかにあった。
彼かれはへどもどするうちににやにやした。
勢いいきおい夫人ふじんは一歩いちほ前まえへ進んすすんで来るくる事ことになった。
「あなたは延子のぶこさんを可愛かわいがっていらっしゃるでしょう」 ここでも津田つだの備えそなえは手薄てうすであった。
彼かれは冗談じょうだん半分はんぶんに夫人ふじんをあしらう事ことなら幾いく通つうでもできた。
しかし真面目まじめに改まっあらたまった、責任せきにんのある答こたえを、夫人ふじんの気きに入るはいるような形かたちで与えようあたえようとすると、その答こたえはけっしてそうすらすら出でて来きなかった。
彼かれにとって最ももっとも都合つごうの好いよい事ことで、また最ももっとも都合つごうの悪いわるい事ことは、どっちにでも自由じゆうに答えこたえられる彼かれの心こころの状態じょうたいであった。
というのは、事実じじつ彼かれはお延のべを愛しあいしてもいたし、またそんなに愛しあいしてもいなかったからである。
夫人ふじんはいよいよ真剣しんけんらしく構えかまえた。
そうして三さん度目どめの質問しつもんをのっぴきさせぬ調子ちょうしで掛けかけた。
「私わたくしとあなただけの間まの秘密ひみつにしておくから正直しょうじきに云っいっとしまいなさい。私わたくしの聴きききたいのは何なんでもないんです。ただあなたの思っおもった通りとおりのところを一口ひとくち伺えうかがえばそれでいいんです」 見当けんとうの立たたたない津田つだはいよいよ迷めいついた。
夫人ふじんは云っいった。
「あなたもずいぶんじれったい方ほうね。云えるいえる事ことは男おとこらしく、さっさと云っいっちまったらいいでしょう。そんなむずかしい事ことを誰だれも訊いきいていやしないんだから」 津田つだはとうとう口くちを開くひらくべく余儀よぎなくされた。
「お返事へんじができない訳わけでもありませんけれども、あんまり問題もんだいが漠然ばくぜんとしているものですから……」「じゃ仕方しかたがないから私わたくしの方ほうで云いいいましょうか。よござんすか」「どうぞそう願いねがいます」「あなたは」と云いいいかけた夫人ふじんはこの時じちょっと言葉ことばを切っきってまた継いつづいだ。
「本当ほんとうによござんすか。――あたしはこういう無遠慮むえんりょな性分しょうぶんだから、よく自分じぶんの思っおもったままをずばずば云っいっちまった後あとで、取り返しとりかえしのつかない事ことをしたと後悔こうかいする場合ばあいがよくあるんですが」「なに構いかまいません」「でももしか、あなたに怒らおこられるとそれっきりですからね。後あとでいくら詫わびまっても追つおつかないなんて馬鹿ばかはしたくありませんもの」「しかし私わたくしの方ほうで何なんとも思わおもわなければそれでいいでしょう」「そこさえ確かたしかなら無論むろんいいのよ」「大丈夫だいじょうぶです。偽にせだろうが本当ほんとうだろうが、奥さんおくさんのおっしゃる事ことならけっして腹はらは立てたてませんから、遠慮えんりょなさらずに云っいって下さいください」 すべての責任せきにんを向うむこうに背負わせおわせてしまう方ほうが遥かはるかに楽らくだと考えかんがえた津田つだは、こう受け合っうけあった後あとで、催促さいそくするように夫人ふじんを見みた。
何度なんどとなく駄目だめを押しおして保険ほけんをつけた夫人ふじんはその時じようやく口くちを開いひらいた。
「もし間違っまちがったら御免ごめん遊ばせあそばせよ。あなたはみんなが考えかんがえている通りとおり、腹はらの中なかではそれほど延子のぶこさんを大事だいじにしていらっしゃらないでしょう。秀子ひでこさんと違っちがって、あたしは疾うとうからそう睨んにらんでいるんですが、どうです、あたしの観測かんそくはあたりませんかね」 津田つだは何なんともなかった。
「無論むろんです。だから先刻せんこく申し上げもうしあげたじゃありませんか。そんなにお延のべを大事だいじにしちゃいませんて」「しかしそれは御ご挨拶あいさつにおっしゃっただけね」「いいえ私わたくしは本当ほんとうのところを云っいったつもりです」 夫人ふじんは断々乎だんだんことして首くび肯わうけがわなかった。
「ごまかしっこなしよ。じゃ後あとを云っいってもよござんすか」「ええどうぞ」「あなたは延子のぶこさんをそれほど大事だいじにしていらっしゃらないくせに、表ひょうではいかにも大事だいじにしているように、他ほかから思わおもわれよう思わおもわれようとかかっているじゃありませんか」「お延のべがそんな事ことでも云っいったんですか」「いいえ」と夫人ふじんはきっぱり否定ひていした。
「あなたが云っいってるだけよ。あなたの様子ようすなり態度たいどなりがそれだけの事ことをちゃんとあたしに解るわかるようにして下さるくださるだけよ」 夫人ふじんはそこでちょっと休んやすんだ。
それから後あとを付けつけた。
「どうですあたったでしょう。あたしはあなたがなぜそんな体裁ていさいを作っつくっているんだか、その原因げんいんまでちゃんと知っしってるんですよ」
百三十六ひゃくさんじゅうろく
津田つだは今日きょうまでこういう種類しゅるいの言葉ことばをまだ夫人ふじんの口くちから聴いきいた事ことがなかった。
自分じぶん達とおる夫婦ふうふの仲なかを、夫人ふじんが裏側うらがわからどんな眼めで観察かんさつしているだろうという問題もんだいについて、さほど神経しんけいを遣っつかっていなかった彼かれは、ようやくそこに気きがついた。
そんならそうと早くはやく注意ちゅういしてくれればいいのにと思いおもいながら、彼かれはとにかく夫人ふじんの鑑定かんていなり料簡りょうけんなりをおとなしく結末けつまつまで聴くきくのが上分じょうぶん別べつだと考えかんがえた。
「どうぞ御ご遠慮えんりょなく何なんでもみんな云っいって下さいください。私わたくしの向後こうごの心得こころえにもなる事ことですから」 途中とちゅうまで来きた夫人ふじんは、たとい津田つだから誘わさそわれないでも、もうそこで止まるとまる訳わけに行かいかないので、すぐ残りのこりのものを津田つだの前まえに投げ出しなげだした。
「あなたは良人おっとや岡本おかもとの手前てまえがあるので、それであんなに延子のぶこさんを大事だいじになさるんでしょう。もっと露骨ろこつなのがお望みのぞみなら、まだ露骨ろこつにだって云えいえますよ。あなたは表ひょう向むかい延子のぶこさんを大事だいじにするような風かぜをなさるのね、内側うちがわはそれほどでなくっても。そうでしょう」 津田つだは相手あいての観察かんさつが真逆まさかこれほど皮肉ひにくな点てんまで切り込んきりこんで来きていようとは思わおもわなかった「私わたくしの性質せいしつなり態度たいどなりが奥さんおくさんにそう見えみえますか」「見えみえますよ」 津田つだは一刀いちとうで斬らきられたと同じおなじ事ことであった。
彼かれは斬らきられた後あとでその理由りゆうを訊いきいた。
「どうして? どうしてそう見えるみえるんですか」「隠さかくさないでもいいじゃありませんか」「別べつに隠すかくすつもりでもないんですが……」 夫人ふじんは自分じぶんの推定すいていが十じゅうの十じゅうまであたったと信じしんじてかかった。
心こころの中なかで
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