その二組は双方ともに相当の扮装をした婦人づれなので、室内は存外静かであった。ことに一間ほど隔てて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉の火の色が、白いものの目立つ清楚な室の空気に、恰好な温もりを与えた。
第 16 章
津田の心には、変な対照が描き出された。
この間の晩小林のお蔭で無理に引っ張り込まれた怪しげな酒場の光景がありありと彼の眼に浮んだ。
その時の相手を今度は自分の方でここへ案内したという事が、彼には一種の意味で得意であった。
「どうだね、ここの宅は。ちょっと綺麗で心持が好いじゃないか」 小林は気がついたように四辺を見廻した。
「うん。ここには探偵はいないようだね」「その代り美くしい人がいるだろう」 小林は急に大きな声を出した。
「ありゃみんな芸者なんか君」 ちょっときまりの悪い思いをさせられた津田は叱るように云った。
「馬鹿云うな」「いや何とも限らないからね。どこにどんなものがいるか分らない世の中だから」 津田はますます声を低くした。
「だって芸者はあんな服装をしやしないよ」「そうか。君がそう云うなら確だろう。僕のような田舎ものには第一その区別が分らないんだから仕方がないよ。何でも綺麗な着物さえ着ていればすぐ芸者だと思っちまうんだからね」「相変らず皮肉るな」 津田は少し悪い気色を外へ出した。
小林は平気であった。
「いや皮肉るんじゃないよ。実際僕は貧乏の結果そっちの方の眼がまだ開いていないんだ。ただ正直にそう思うだけなんだ」「そんならそれでいいさ」「よくなくっても仕方がない訳だがね。しかし事実どうだろう君」「何が」「事実当世にいわゆるレデーなるものと芸者との間に、それほど区別があるのかね」 津田は空っ惚ける事の得意なこの相手の前に、真面目な返事を与える子供らしさを超越して見せなければならなかった。
同時に何とかして、ゴツンと喰わしてやりたいような気もした。
けれども彼は遠慮した。
というよりも、ゴツンとやるだけの言葉が口へ出て来なかった。
「笑談じゃない」「本当に笑談じゃない」と云った小林はひょいと眼を上げて津田の顔を見た。
津田はふと気がついた。
しかし相手に何か考えがあるんだなと悟った彼は、あまりに怜俐過ぎた。
彼には澄ましてそこを通り抜けるだけの腹がなかった。
それでいて当らず障らず話を傍へ流すくらいの技巧は心得ていた。
彼は小林に捕まらなければならなかった。
彼は云った。
「どうだ君ここの料理は」「ここの料理もどこの料理もたいてい似たもんだね。僕のような味覚の発達しないものには」「不味いかい」「不味かない、旨いよ」「そりゃ好い案配だ。亭主が自分でクッキングをやるんだから、ほかよりゃ少しはましかも知れない」「亭主がいくら腕を見せたって、僕のような口に合っちゃ敵わないよ。泣くだけだあね」「だけど旨けりゃそれでいいんだ」「うん旨けりゃそれでいい訳だ。しかしその旨さが十銭均一の一品料理と同なじ事だと云って聞かせたら亭主も泣くだろうじゃないか」 津田は苦笑するよりほかに仕方がなかった。
小林は一人でしゃべった。
「いったい今の僕にゃ、仏蘭西料理だから旨いの、英吉利料理だから不味いのって、そんな通をふり廻す余裕なんかまるでないんだ。ただ口へ入るから旨いだけの事なんだ」「だってそれじゃなぜ旨いんだか、理由が解らなくなるじゃないか」「解り切ってるよ。ただ飢じいから旨いのさ。その他に理窟も糸瓜もあるもんかね」 津田はまた黙らせられた。
しかし二人の間に続く無言が重く胸に応えるようになった時、彼はやむをえずまた口を開こうとして、たちまち小林のために機先を制せられた。
百五十七
「君のような敏感者から見たら、僕ごとき鈍物は、あらゆる点で軽蔑に値しているかも知れない。僕もそれは承知している、軽蔑されても仕方がないと思っている。けれども僕には僕でまた相当の云草があるんだ。僕の鈍は必ずしも天賦の能力に原因しているとは限らない。僕に時を与えよだ、僕に金を与えよだ。しかる後、僕がどんな人間になって君らの前に出現するかを見よだ」 この時小林の頭には酒がもう少し廻っていた。
笑談とも真面目とも片のつかない彼の気※には、わざと酔の力を藉ろうとする欝散の傾きが見えて来た。
津田は相手の口にする言葉の価値を正面から首肯うべく余儀なくされた上に、多少彼の歩き方につき合う必要を見出した。
「そりゃ君のいう通りだ。だから僕は君に同情しているんだ。君だってそのくらいの事は心得ていてくれるだろう。でなければ、こうやって、わざわざ会食までして君の朝鮮行を送る訳がないからね」「ありがとう」「いや嘘じゃないよ。現にこの間もお延にその訳をよく云って聴かせたくらいだもの」 胡散臭いなという眼が小林の眉の下で輝やいた。
「へええ。本当かい。あの細君の前で僕を弁護してくれるなんて、君にもまだ昔の親切が少しは残ってると見えるね。しかしそりゃ……。細君は何と云ったね」 津田は黙って懐へ手を入れた。
小林はその所作を眺めながら、わざとそれを止めさせるように追加した。
「ははあ。弁護の必要があったんだな。どうも変だと思ったら」 津田は懐へ入れた手を、元の通り外へ出した。
「お延の返事はここにある」といって、綺麗に持って来た金を彼に渡すつもりでいた彼は躊躇した。
その代り話頭を前へ押し戻した。
「やはり人間は境遇次第だね」「僕は余裕次第だというつもりだ」 津田は逆らわなかった。
「そうさ余裕次第とも云えるね」「僕は生れてから今日までぎりぎり決着の生活をして来たんだ。まるで余裕というものを知らず生きて来た僕が、贅沢三昧わがまま三昧に育った人とどう違うと君は思う」 津田は薄笑いをした。
小林は真面目であった。
「考えるまでもなくここにいるじゃないか。君と僕さ。二人を見較べればすぐ解るだろう、余裕と切迫で代表された生活の結果は」 津田は心の中でその幾分を点頭いた。
けれども今さらそんな不平を聴いたって仕方がないと思っているところへ後が来た。
「それでどうだ。僕は始終君に軽蔑される、君ばかりじゃない、君の細君からも、誰からも軽蔑される。――いや待ちたまえまだいう事があるんだ。――それは事実さ、君も承知、僕も承知の事実さ。すべて先刻云った通りさ。だが君にも君の細君にもまだ解らない事がここに一つあるんだ。もちろん今さらそれを君に話したってお互いの位地が変る訳でもないんだから仕方がないようなものの、これから朝鮮へ行けば、僕はもう生きて再び君に会う折がないかも知れないから……」 小林はここまで来て少し昂奮したような気色を見せたが、すぐその後から「いや僕の事だから、行って見ると朝鮮も案外なので、厭になってまたすぐ帰って来ないとも限らないが」と正直なところを付け加えたので、津田は思わず笑い出してしまった。
小林自身もいったん頓挫してからまた出直した。
「まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。実を云うと、君が僕を軽蔑している通りに、僕も君を軽蔑しているんだ」「そりゃ解ってるよ」「いや解らない。軽蔑の結果はあるいは解ってるかも知れないが、軽蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じていないよ。だから君の今夕の好意に対して、僕はまた留別のために、それを説明して行こうてんだ。どうだい」「よかろう」「よくないたって、僕のような一文なしじゃほかに何も置いて行くものがないんだから仕方がなかろう」「だからいいよ」「黙って聴くかい。聴くなら云うがね。僕は今君の御馳走になって、こうしてぱくぱく食ってる仏蘭西料理も、この間の晩君を御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場の酒も、どっちも無差別に旨いくらい味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだろう。しかるに僕はかえってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。いいかね、その意味が君に解ったかね。考えて見たまえ、君と僕がこの点においてどっちが窮屈で、どっちが自由だか。どっちが幸福で、どっちが束縛を余計感じているか。どっちが太平でどっちが動揺しているか。僕から見ると、君の腰は始終ぐらついてるよ。度胸が坐ってないよ。厭なものをどこまでも避けたがって、自分の好きなものをむやみに追かけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由が利くためさ。贅沢をいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落されて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」 津田はてんから相手を見縊っていた。
けれども事実を認めない訳には行かなかった。
小林はたしかに彼よりずうずうしく出来上っていた。
百五十八
しかし小林の説法にはまだ後があった。
津田の様子を見澄ました彼は突然思いがけない所へ舞い戻って来た。
それは会見の最初ちょっと二人の間に点綴されながら、前後の勢ですぐどこかへ流されてしまった問題にほかならなかった。
「僕の意味はもう君に通じている。しかし君はまだなるほどという心持になれないようだ。矛盾だね。僕はその訳を知ってるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が、聡明な君を煩わしているんだ。もしこれが吉川夫人か誰かの口から出るなら、それがもっとずっとつまらない説でも、君は襟を正して聴くに違ないんだ。いや僕の僻でも何でもない、争うべからざる事実だよ。けれども君考えなくっちゃいけないぜ。僕だからこれだけの事が云えるんだという事を。先生だって奥さんだって、そこへ行くと駄目だという事も心得ておきたまえ。なぜだ? なぜでもないよ。いくら先生が貧乏したって、僕だけの経験は甞めていないんだからね。いわんや先生以上に楽をして生きて来た彼輩においてをやだ」 彼輩とは誰の事だか津田にもよく解らなかった。
彼はただ腹の中で、おおかた吉川夫人だの岡本だのを指すのだろうと思ったぎりであった。
実際小林は相手にそんな質問をかけさせる余地を与えないで、さっさと先へ行った。
「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云ったような助言――だか忠告だか、または単なる知識の供給だか、それは何でも構わないが、とにかくそんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。頭では解る、しかし胸では納得しない、これが現在の君なんだ。つまり君と僕とはそれだけ懸絶しているんだから仕方がないと跳ねつけられればそれまでだが、そこに君の注意を払わせたいのが、実は僕の目的だ、いいかね。人間の境遇もしくは位地の懸絶といったところで大したものじゃないよ。本式に云えば十人が十人ながらほぼ同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。それをもっと判然云うとね、僕は僕で、僕に最も切実な眼でそれを見るし、君はまた君で、君に最も適当な眼でそれを見る、まあそのくらいの違だろうじゃないか。だからさ、順境にあるものがちょっと面喰うか、迷児つくか、蹴爪ずくかすると、そらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。しかしいくら眼の球の色が変ったって、急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。つまり君に一朝事があったとすると、君は僕のこの助言をきっと思い出さなければならなくなるというだけの事さ」「じゃよく気をつけて忘れないようにしておくよ」「うん忘れずにいたまえ、必ず思い当る事が出て来るから」「よろしい。心得たよ」「ところがいくら心得たって駄目なんだからおかしいや」 小林はこう云って急に笑い出した。
津田にはその意味が解らなかった。
小林は訊かれない先に説明した。
「その時ひょっと気がつくとするぜ、いいかね。そうしたらその時の君が、やっという掛声と共に、早変りができるかい。早変りをしてこの僕になれるかい」「そいつは解らないよ」「解らなかない、解ってるよ。なれないにきまってるんだ。憚りながらここまで来るには相当の修業が要るんだからね。いかに痴鈍な僕といえども、現在の自分に対してはこれで血の代を払ってるんだ」 津田は小林の得意が癪に障った。
此奴が狗のような毒血を払ってはたして何物を掴んでいる?
こう思った彼はわざと軽蔑の色を面に現わして訊いて見た。
「それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。たとい僕が覚えていたって、いざという場合の役にゃ立たないじゃないか」「役にゃ立つまいよ。しかし聴かないよりましじゃないか」「聴かない方がましなくらいだ」 小林は嬉しそうに身体を椅子の背に靠せかけてまた笑い出した。
「そこだ。そう来るところがこっちの思う壺なんだ」「何をいうんだ」「何も云やしない、ただ事実を云うのさ。しかし説明だけはしてやろう。今に君がそこへ追いつめられて、どうする事もできなくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ。思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行はできないんだ。これならなまじいあんな事を聴いておかない方がよかったという気になるんだ」 津田は厭な顔をした。
「馬鹿、そうすりゃどこがどうするんだ」「どうしもしないさ。つまり君の軽蔑に対する僕の復讐がその時始めて実現されるというだけさ」 津田は言葉を改めた。
「それほど君は僕に敵意をもってるのか」「どうして、どうして、敵意どころか、好意精一杯というところだ。けれども君の僕を軽蔑しているのはいつまで行っても事実だろう。僕がその裏を指摘して、こっちから見るとその君にもまた軽蔑すべき点があると注意しても、君は乙に高くとまって平気でいるじゃないか。つまり口じゃ駄目だ、実戦で来いという事になるんだから、僕の方でもやむをえずそこまで行って勝負を決しようというだけの話だあね」「そうか、解った。――もうそれぎりかい、君のいう事は」「いやどうして。これからいよいよ本論に入ろうというんだ」 津田は一気に洋盃を唇へあてがって、ぐっと麦酒を飲み干した小林の様子を、少し呆れながら眺めた。
百五十九
小林は言葉を継ぐ前に、洋盃を下へ置いて、まず室内を見渡した。
女伴の客のうち、一組の相手は洗指盆の中へ入れた果物を食った後の手を、袂から出した美くしい手帛で拭いていた。
彼の筋向うに席を取って、先刻から時々自分達の方を偸むようにして見る二十五六の方は、※※茶碗を手にしながら、男の吹かす煙草の煙を眺めて、しきりに芝居の話をしていた。
両方とも彼らより先に来ただけあって、彼らより先に席を立つ順序に、食事の方の都合も進行しているらしく見えた時、小林は云った。
「やあちょうど好い。まだいる」 津田はまたはっと思った。
小林はきっと彼らの気を悪くするような事を、彼らに聴こえようがしに云うに違なかった。
「おいもう好い加減に止せよ」「まだ何にも云やしないじゃないか」「だから注意するんだ。僕の攻撃はいくらでも我慢するが、縁もゆかりもない人の悪口などは、ちっと慎しんでくれ、こんな所へ来て」「厭に小心だな。おおかた場末の酒場とここといっしょにされちゃたまらないという意味なんだろう」「まあそうだ」「まあそうだなら、僕のごとき無頼漢をこんな所へ招待するのが間違だ」「じゃ勝手にしろ」「口で勝手にしろと云いながら、内心ひやひやしているんだろう」 津田は黙ってしまった。
小林は面白そうに笑った。
「勝ったぞ、勝ったぞ。どうだ降参したろう」「それで勝ったつもりなら、勝手に勝ったつもりでいるがいい」「その代り今後ますます貴様を軽蔑してやるからそう思えだろう。僕は君の軽蔑なんか屁とも思っちゃいないよ」「思わなけりゃ思わないでもいいさ。五月蠅い男だな」 小林はむっとした津田の顔を覗き込むようにして見つめながら云った。
「どうだ解ったか、おい。これが実戦というものだぜ。いくら余裕があったって、金持に交際があったって、いくら気位を高く構えたって、実戦において敗北すりゃそれまでだろう。だから僕が先刻から云うんだ、実地を踏んで鍛え上げない人間は、木偶の坊と同なじ事だって」「そうだそうだ。世の中で擦れっ枯らしと酔払いに敵うものは一人もないんだ」 何か云うはずの小林は、この時返事をする代りにまた女伴の方を一順見廻した後で、云った。
「じゃいよいよ第三だ。あの女の立たないうちに話してしまわないと気がすまない。好いかね、君、先刻の続きだぜ」 津田は黙って横を向いた。
小林はいっこう構わなかった。
「第三にはだね。すなわち換言すると、本論に入って云えばだね。僕は先刻あすこにいる女達を捕まえて、ありゃ芸者かって君に聴いて叱られたね。君は貴婦人に対する礼義を心得ない野人として僕を叱ったんだろう。よろしい僕は野人だ。野人だから芸者と貴婦人との区別が解らないんだ。それで僕は君に訊いたね、いったい芸者と貴婦人とはどこがどう違うんだって」 小林はこう云いながら、三度目の視線をまた女伴の方に向けた。
手帛で手を拭いていた人は、それを合図のように立ち上った。
残る一人も給仕を呼んで勘定を払った。
「とうとう立っちまった。もう少し待ってると面白いところへ来るんだがな、惜しい事に」 小林は出て行く女伴の後影を見送った。
「おやおやもう一人も立つのか。じゃ仕方がない、相手はやっぱり君だけだ」 彼は再び津田の方へ向き直った。
「問題はそこだよ、君。僕が仏蘭西料理と英吉利料理を食い分ける事ができずに、糞と味噌をいっしょにして自慢すると、君は相手にしない。たかが口腹の問題だという顔をして高を括っている。しかし内容は一つものだぜ、君。この味覚が発達しないのも、芸者と貴婦人を混同するのも」 津田はそれがどうしたと云わぬばかりの眼を翻がえして小林を見た。
「だから結論も一つ所へ帰着しなければならないというのさ。僕は味覚の上において、君に軽蔑されながら、君より幸福だと主張するごとく、婦人を識別する上においても、君に軽蔑されながら、君より自由な境遇に立っていると断言して憚からないのだ。つまり、あれは芸者だ、これは貴婦人だなんて鑑識があればあるほど、その男の苦痛は増して来るというんだ。なぜと云って見たまえ。しまいには、あれも厭、これも厭だろう。あるいはこれでなくっちゃいけない、あれでなくっちゃいけないだろう。窮屈千万じゃないか」「しかしその窮屈千万が好きなら仕方なかろう」「来たな、とうとう。食物だと相手にしないが、女の事になると、やっぱり黙っていられなくなると見えるね。そこだよ、そこを実際問題について、これから僕が論じようというんだ」「もうたくさんだ」「いやたくさんじゃないらしいぜ」 二人は顔を見合わせて苦笑した。
百六十
小林は旨く津田を釣り寄せた。
それと知った津田は考えがあるので、小林にわざと釣り寄せられた。
二人はとうとう際どい所へ入り込まなければならなくなった。
「例えばだね」と彼が云い出した。
「君はあの清子さんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」「結果は今のごとくさ」「大変淡泊りしているじゃないか」「だってほかにしようがなかろう」「いや、あるんだろう。あっても乙に気取って澄ましているんだろう。でなければ僕に隠して今でも何かやってるんだろう」「馬鹿いうな。そんな出鱈目をむやみに口走るととんだ間違になる。少し気をつけてくれ」「実は」と云いかけた小林は、その後を知ってるかと云わぬばかりの様子をした。
津田はすぐ訊きたくなった。
「実はどうしたんだ」「実はこの間君の細君にすっかり話しちまったんだ」 津田の表情がたちまち変った。
「何を?」 小林は相手の調子と顔つきを、噛んで味わいでもするように、しばらく間をおいて黙っていた。
しかし返事を表へ出した時は、もう態度を一変していた。
「嘘だよ。実は嘘だよ。そう心配する事はないよ」「心配はしない。今になってそのくらいの事を云つけられたって」「心配しない? そうか、じゃこっちも本当だ。実は本当だよ。みんな話しちまったんだよ」「馬鹿ッ」 津田の声は案外大きかった。
行儀よく椅子に腰をかけていた給仕の女が、ちょっと首を上げて眼をこっちへ向けたので、小林はすぐそれを材料にした。
「貴婦人が驚ろくから少し静かにしてくれ。君のような無頼漢といっしょに酒を飲むと、どうも外聞が悪くていけない」 彼は給使の女の方を見て微笑して見せた。
女も微笑した。
津田一人怒る訳に行かなかった。
小林はまたすぐその機に付け込んだ。
「いったいあの顛末はどうしたのかね。僕は詳しい事を聴かなかったし、君も話さなかった、のじゃない、僕が忘れちまったのか。そりゃどうでも構わないが、ありゃ向うで逃げたのかね、あるいは君の方で逃げたのかね」「それこそどうでも構わないじゃないか」「うん僕としては構わないのが当然だ。また実際構っちゃいない。が、君としてはそうは行くまい。君は大構いだろう」「そりゃ当り前さ」「だから先刻から僕が云うんだ。君には余裕があり過ぎる。その余裕が君をしてあまりに贅沢ならしめ過ぎる。その結果はどうかというと、好きなものを手に入れるや否や、すぐその次のものが欲しくなる。好きなものに逃げられた時は、地団太を踏んで口惜しがる」「いつそんな様を僕がした」「したともさ。それから現にしつつあるともさ。それが君の余裕に祟られている所以だね。僕の最も痛快に感ずるところだね。貧賤が富貴に向って復讐をやってる因果応報の理だね」「そう頭から自分の拵えた型で、他を評価する気ならそれまでだ。僕には弁解の必要がないだけだから」「ちっとも自分で型なんか拵えていやしないよ僕は。これでも実際の君を指摘しているつもりなんだから。分らなけりゃ、事実で教えてやろうか」 教えろとも教えるなとも云わなかった津田は、ついに教えられなければならなかった。
「君は自分の好みでお延さんを貰ったろう。だけれども今の君はけっしてお延さんに満足しているんじゃなかろう」「だって世の中に完全なもののない以上、それもやむをえないじゃないか」「という理由をつけて、もっと上等なのを探し廻る気だろう」「人聞の悪い事を云うな、失敬な。君は実際自分でいう通りの無頼漢だね。観察の下卑て皮肉なところから云っても、言動の無遠慮で、粗野なところから云っても」「そうしてそれが君の軽蔑に値する所以なんだ」「もちろんさ」「そらね。そう来るから畢竟口先じゃ駄目なんだ。やッぱり実戦でなくっちゃ君は悟れないよ。僕が予言するから見ていろ。今に戦いが始まるから。その時ようやく僕の敵でないという意味が分るから」「構わない、擦れっ枯らしに負けるのは僕の名誉だから」「強情だな。僕と戦うんじゃないぜ」「じゃ誰と戦うんだ」「君は今すでに腹の中で戦いつつあるんだ。それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るだけなんだ。余裕が君を煽動して無役の負戦をさせるんだ」 津田はいきなり懐中から紙入を取り出して、お延と相談の上、餞別の用意に持って来た金を小林の前へ突きつけた。
「今渡しておくから受取っておけ。君と話していると、だんだんこの約束を履行するのが厭になるだけだから」 小林は新らしい十円紙幣の二つに折れたのを広げて丁寧に、枚数を勘定した。
「三枚あるね」
百六十一
小林は受け取ったものを、赤裸のまま無雑作に背広の隠袋の中へ投げ込んだ。
彼の所作が平淡であったごとく、彼の礼の云い方も横着であった。
「サンクス。僕は借りる気だが、君はくれるつもりだろうね。いかんとなれば、僕に返す手段のない事を、また返す意志のない事を、君は最初から軽蔑の眼をもって、認めているんだから」 津田は答えた。
「無論やったんだ。しかし貰ってみたら、いかな君でも自分の矛盾に気がつかずにはいられまい」「いやいっこう気がつかない。矛盾とはいったい何だ。君から金を貰うのが矛盾なのか」「そうでもないがね」と云った津田は上から下を見下すような態度をとった。
「まあ考えて見たまえ。その金はつい今まで僕の紙入の中にあったんだぜ。そうして転瞬の間に君の隠袋の裏に移転してしまったんだぜ。そんな小説的の言葉を使うのが厭なら、もっと判然云おうか。その金の所有権を急に僕から君に移したものは誰だ。答えて見ろ」「君さ。君が僕にくれたのさ」「いや僕じゃないよ」「何を云うんだな禅坊主の寝言見たいな事を。じゃ誰だい」「誰でもない、余裕さ。君の先刻から攻撃している余裕がくれたんだ。だから黙ってそれを受け取った君は、口でむちゃくちゃに余裕をぶちのめしながら、その実余裕の前にもう頭を下げているんだ。矛盾じゃないか」 小林は眼をぱちぱちさせた後でこう云った。
「なるほどな、そう云えばそんなものか知ら。しかし何だかおかしいよ。実際僕はちっともその余裕なるものの前に、頭を下げてる気がしないんだもの」「じゃ返してくれ」 津田は小林の鼻の先へ手を出した。
小林は女のように柔らかそうなその掌を見た。
「いや返さない。余裕は僕に返せと云わないんだ」 津田は笑いながら手を引き込めた。
「それみろ」「何がそれみろだ。余裕は僕に返せと云わないという意味が君にはよく解らないと見えるね。気の毒なる貴公子よだ」 小林はこう云いながら、横を向いて戸口の方を見つつ、また一句を付け加えた。
「もう来そうなものだな」 彼の様子をよく見守った津田は、少し驚ろかされた。
「誰が来るんだ」「誰でもない、僕よりもまだ余裕の乏しい人が来るんだ」 小林は裸のまま紙幣をしまい込んだ自分の隠袋を、わざとらしく軽く叩いた。
「君から僕にこれを伝えた余裕は、再びこれを君に返せとは云わないよ。僕よりもっと余裕の足りない方へ順送りに送れと命令するんだよ。余裕は水のようなものさ。高い方から低い方へは流れるが、下から上へは逆行しないよ」 津田はほぼ小林の言葉を、意解する事ができた。
しかし事解する事はできなかった。
したがって半醒半酔のような落ちつきのない状態に陥った。
そこへ小林の次の挨拶がどさどさと侵入して来た。
「僕は余裕の前に頭を下げるよ、僕の矛盾を承認するよ、君の詭弁を首肯するよ。何でも構わないよ。礼を云うよ、感謝するよ」 彼は突然ぽたぽたと涙を落し始めた。
この急劇な変化が、少し驚ろいている津田を一層不安にした。
せんだっての晩手古摺らされた酒場の光景を思い出さざるを得なくなった彼は、眉をひそめると共に、相手を利用するのは今だという事に気がついた。
「僕が何で感謝なんぞ予期するものかね、君に対して。君こそ昔を忘れているんだよ。僕の方が昔のままでしている事を、君はみんな逆に解釈するから、交際がますます面倒になるんじゃないか。例えばだね、君がこの間僕の留守へ外套を取りに行って、そのついでに何か妻に云ったという事も――」 津田はこれだけ云って暗に相手の様子を窺った。
しかし小林が下を向いているので、彼はまるでその心持の転化作用を忖度する事ができなかった。
「何も好んで友達の夫婦仲を割くような悪戯をしなくってもいい訳じゃないか」「僕は君に関して何も云った覚はないよ」「しかし先刻……」「先刻は笑談さ。君が冷嘲すから僕も冷嘲したんだ」「どっちが冷嘲し出したんだか知らないが、そりゃどうでもいいよ。ただ本当のところを僕に云ってくれたって好さそうなものだがね」「だから云ってるよ。何にも君に関して云った覚はないと何遍も繰り返して云ってるよ。細君を訊き糺して見れば解る事じゃないか」「お延は……」「何と云ったい」「何とも云わないから困るんだ。云わないで腹の中で思っていられちゃ、弁解もできず説明もできず、困るのは僕だけだからね」「僕は何にも云わないよ。ただ君がこれから夫らしくするかしないかが問題なんだ」「僕は――」 津田がこう云いかけた時、近寄る足音と共に新らしく入って来た人が、彼らの食卓の傍に立った。
百六十二
それが先刻大通りの角で、小林と立談をしていた長髪の青年であるという事に気のついた時、津田はさらに驚ろかされた。
けれどもその驚ろきのうちには、暗にこの男を待ち受けていた期待も交っていた。
明らさまな津田の感じを云えば、こんな人がここへ来るはずはないという断案と、もしここへ誰か来るとすれば、この人よりほかにあるまいという予想の矛盾であった。
実を云うと、自働車の燭光で照らされた時、彼の眸の裏に映ったこの人の影像は津田にとって奇異なものであった。
自分から小林、小林からこの青年、と順々に眼を移して行くうちには、階級なり、思想なり、職業なり、服装なり、種々な点においてずいぶんな距離があった。
勢い津田は彼を遠くに眺めなければならなかった。
しかし遠くに眺めれば眺めるほど、強く彼を記憶しなければならなかった。
「小林はああいう人と交際ってるのかな」 こう思った津田は、その時そういう人と交際っていない自分の立場を見廻して、まあ仕合せだと考えた後なので、新来者に対する彼の態度も自ずから明白であった。
彼は突然胡散臭い人間に挨拶をされたような顔をした。
上へ反っ繰り返った細い鍔の、ぐにゃぐにゃした帽子を脱って手に持ったまま、小林の隣りへ腰をおろした青年の眼には異様の光りがあった。
彼は津田に対して現に不安を感じているらしかった。
それは一種の反感と、恐怖と、人馴れない野育ちの自尊心とが錯雑して起す神経的な光りに見えた。
津田はますます厭な気持になった。
小林は青年に向って云った。
「おいマントでも取れ」 青年は黙って再び立ち上った。
そうして釣鐘のような長い合羽をすぽりと脱いで、それを椅子の背に投げかけた。
「これは僕の友達だよ」 小林は始めて青年を津田に紹介せた。
原という姓と芸術家という名称がようやく津田の耳に入った。
「どうした。旨く行ったかね」 これが小林の次にかけた質問であった。
しかしこの質問は充分な返事を得る暇がなかった。
小林は後からすぐこう云ってしまった。
「駄目だろう。駄目にきまってるさ、あんな奴。あんな奴に君の芸術が分ってたまるものか。いいからまあゆっくりして何か食いたまえ」 小林はたちまちナイフを倒さまにして、やけに食卓を叩いた。
「おいこの人の食うものを持って来い」 やがて原の前にあった洋盃の中に麦酒がなみなみと注がれた。
この様子を黙って眺めていた津田は、自分の持って来た用事のもう済んだ事にようやく気がついた。
こんなお付合を長くさせられては大変だと思った彼は、機を見て好い加減に席を切り上げようとした。
すると小林が突然彼の方を向いた。
「原君は好い絵を描くよ、君。一枚買ってやりたまえ。今困ってるんだから、気の毒だ」「そうか」「どうだ、この次の日曜ぐらいに、君の家へ持って行って見せる事にしたら」 津田は驚ろいた。
「僕に絵なんか解らないよ」「いや、そんなはずはない、ねえ原。何しろ持って行って見せてみたまえ」「ええ御迷惑でなければ」 津田の迷惑は無論であった。
「僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですから、どうぞ」 青年は傷けられたような顔をした。
小林はすぐ応援に出た。
「嘘を云うな。君ぐらい鑑賞力の豊富な男は実際世間に少ないんだ」 津田は苦笑せざるを得なかった。
「また下らない事を云って、――馬鹿にするな」「事実を云うんだ、馬鹿にするものか。君のように女を鑑賞する能力の発達したものが、芸術を粗末にする訳がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、芸術も好きにきまってるね。いくら隠したって駄目だよ」 津田はだんだん辛防し切れなくなって来た。
「だいぶ話が長くなりそうだから、僕は一足先へ失敬しよう、――おい姉さん会計だ」 給仕が立ちそうにするところを、小林は大きな声を出して止めながら、また津田の方へ向き直った。
「ちょうど今一枚素敵に好いのが描いてあるんだ。それを買おうという望手の所へ価値の相談に行った帰りがけに、原君はここへ寄ったんだから、旨い機会じゃないか。是非買いたまえ。芸術家の足元へ付け込んで、むやみに価切り倒すなんて失敬な奴へは売らないが好いというのが僕の意見なんだ。その代りきっと買手を周旋してやるから、帰りにここへ寄るがいいと、先刻あすこの角で約束しておいたんだ、実を云うと。だから一つ買ってやるさ、訳ゃないやね」「他に絵も何にも見せないうちから、勝手にそんな約束をしたってしようがないじゃないか」「絵は見せるよ。――君今日持って帰らなかったのか」「もう少し待ってくれっていうから置いて来た」「馬鹿だな、君は。しまいにロハで捲き上げられてしまうだけだぜ」 津田はこの問答を聴いてほっと一息吐いた。
百六十三
二人は津田を差し置いて、しきりに絵画の話をした。
時々耳にする三角派とか未来派とかいう奇怪な名称のほかに、彼は今までかつて聴いた事のないような片仮名をいくつとなく聴かされた。
その何処にも興味を見出だし得なかった彼は、会談の圏外へ放逐されるまでもなく、自分から埒を脱け出したと同じ事であった。
これだけでも一通り以上の退屈である上に、津田を厭がらせる積極的なものがまだ一つあった。
彼は自分の眼前に見るこの二人、ことに小林を、むやみに新らしい芸術をふり廻したがる半可通として、最初から取扱っていた。
彼はこの偏見の上へ、乙に識者ぶる彼らの態度を追加して眺めた。
この点において無知な津田を羨やましがらせるのが、ほとんど二人の目的ででもあるように見え出した時、彼は無理にいったん落ちつけた腰をまた浮かしにかかった。
すると小林がまた抑留した。
「もう直だ、いっしょに行くよ、少し待ってろ」「いやあんまり遅くなるから……」「何もそんなに他に恥を掻かせなくってもよかろう。それとも原君が食っちまうまで待ってると、紳士の体面に関わるとでも云うのか」 原は刻んだサラドをハムの上へ載せて、それを肉叉で突き差した手を止めた。
「どうぞお構いなく」 津田が軽く会釈を返して、いよいよ立ち上がろうとした時、小林はほとんど独りごとのように云った。
「いったいこの席を何と思ってるんだろう。送別会と号して他を呼んでおきながら、肝心のお客さんを残して、先へ帰っちまうなんて、侮辱を与える奴が世の中にいるんだから厭になるな」「そんなつもりじゃないよ」「つもりでなければ、もう少いろよ」「少し用があるんだ」「こっちにも少し用があるんだ」「絵なら御免だ」「絵も無理に買えとは云わないよ。吝な事を云うな」「じゃ早くその用を片づけてくれ」「立ってちゃ駄目だ。紳士らしく坐らなくっちゃ」 仕方なしにまた腰をおろした津田は、袂から煙草を出して火を点けた。
ふと見ると、灰皿は敷島の残骸でもういっぱいになっていた。
今夜の記念としてこれほど適当なものはないという気が、偶然津田の頭に浮かんだ。
これから呑もうとする一本も、三分経つか経たないうちに、灰と煙と吸口だけに変形して、役にも立たない冷たさを皿の上にとどめるに過ぎないと思うと、彼は何となく厭な心持がした。
「何だい、その用事というのは。まさか無心じゃあるまいね、もう」「だから吝な事を云うなと、先刻から云ってるじゃないか」 小林は右の手で背広の右前を掴んで、左の手を隠袋の中へ入れた。
彼は暗闇で物を探るように、しばらく入れた手を、背広の裏側で動かしながら、その間始終眼を津田の顔へぴったり付けていた。
すると急に突飛な光景が、津田の頭の中に描き出された。
同時に変な妄想が、今呑んでいる煙草の煙のように、淡く彼の心を掠めて過ぎた。
「此奴は懐から短銃を出すんじゃないだろうか。そうしてそれをおれの鼻の先へ突きつけるつもりじゃないかしら」 芝居じみた一刹那が彼の予感を微かに揺ぶった時、彼の神経の末梢は、眼に見えない風に弄られる細い小枝のように顫動した。
それと共に、妄りに自分で拵えたこの一場の架空劇をよそ目に見て、その荒誕を冷笑う理智の力が、もう彼の中心に働らいていた。
「何を探しているんだ」「いやいろいろなものがいっしょに入ってるからな、手の先でよく探しあてた上でないと、滅多に君の前へは出されないんだ」「間違えて先刻放り込んだ札でも出すと、厄介だろう」「なに札は大丈夫だ。ほかの紙片と違って活きてるから。こうやって、手で障って見るとすぐ分るよ。隠袋の中で、ぴちぴち跳ねてる」 小林は減らず口を利きながら、わざと空しい手を出した。
「おやないぞ。変だな」 彼は左胸部にある表隠袋へ再び右の手を突き込んだ。
しかしそこから彼の撮み出したものは皺だらけになった薄汚ない手帛だけであった。
「何だ手品でも使う気なのか、その手帛で」 小林は津田の言葉を耳にもかけなかった。
真面目な顔をして、立ち上りながら、両手で腰の左右を同時に叩いた後で、いきなり云った。
「うんここにあった」 彼の洋袴の隠袋から引き摺り出したものは、一通の手紙であった。
「実は此奴を君に読ませたいんだ。それももう当分君に会う機会がないから、今夜に限るんだ。僕と原君と話している間に、ちょっと読んでくれ。何訳ゃないやね、少し長いけれども」 封書を受取った津田の手は、ほとんど器械的に動いた。
百六十四
ペンで原稿紙へ書きなぐるように認められたその手紙は、長さから云っても、無論普通の倍以上あった。
のみならず宛名は小林に違なかったけれども、差出人は津田の見た事も聴いた事もない全く未知の人であった。
津田は封筒の裏表を読んだ後で、それがはたして自分に何の関係があるのだろうと思った。
けれども冷やかな無関心の傍に起った一種の好奇心は、すぐ彼の手を誘った。
封筒から引き抜いた十行二十字詰の罫紙の上へ眼を落した彼は一気に読み下した。
「僕はここへ来た事をもう後悔しなければならなくなったのです。あなたは定めて飽っぽいと思うでしょう、しかしこれはあなたと僕の性質の差違から出るのだから仕方がないのです。またかと云わずに、まあ僕の訴えを聞いて下さい。女ばかりで夜が不用心だから銀行の整理のつくまで泊りに来て留守番をしてくれ、小説が書きたければ自由に書くがいい、図書館へ行くなら弁当を持って行くがいい、午後は画を習いに行くがいい。今に銀行を東京へ持って来ると外国語学校へ入れてやる、家の始末は心配するな、転居の金は出してやる。――僕はこんなありがたい条件に誘惑されたのです。もっとも一から十まで当にした訳でもないんですが、その何割かは本当に違いないと思い込んだのです。ところが来て見ると、本当は一つもないんです、頭から尻まで嘘の皮なんです。叔父は東京にいる方が多いばかりか、僕は書生代りに朝から晩まで使い歩きをさせられるだけなのです。叔父は僕の事を「宅の書生」といいます、しかも客の前でです、僕のいる前でです。
こんな訳で酒一合の使から縁側の拭き掃除までみんな僕の役になってしまうのです。
金はまだ一銭も貰ったことがありません。
僕の穿いていた一円の下駄が割れたら十二銭のやつを買って穿かせました。
叔父は明日金をやると云って、僕の家族を姉の所へ転居させたのですが、越してしまったら、金の事は噫にも出さないので、僕は帰る宅さえなくなりました。
叔父の仕事はまるで山です。
金なんか少しもないのです。
そうして彼ら夫婦は極めて冷やかな極めて吝嗇な人達です。
だから来た当座僕は空腹に堪えかねて、三日に一遍ぐらい姉の家へ帰って飯を食わして貰いました。
兵糧が尽きて焼芋や馬鈴薯で間に合せていたこともあります。
もっともこれは僕だけです。
叔母は極めて感じの悪い女です。
万事が打算的で、体裁ばかりで、いやにこせこせ突ッ付き廻したがるんで、僕はちくちく刺されどうしに刺されているんです。
叔父は金のないくせに酒だけは飲みます。
そうして田舎へ行けば殿様だなどと云って威張るんです。
しかし裏側へ入ってみると驚ろく事ばかりです。
訴訟事件さえたくさん起っているくらいです。
出発のたびに汽車賃がなくって、質屋へ駈けつけたり、姉の家へ行って、苦しいところを算段して来てやったりしていますが、叔父の方じゃ、僕の食費と差引にする気か何かで澄ましているのです。
叔母は最初から僕が原稿を書いて食扶持でも入れるものとでも思ってるんでしょう、僕がペンを持っていると、そんなにして書いたものはいったいどうなるの、なんて当擦りを云います。
新聞の職業案内欄に出ている「事務員募集」の広告を突きつけて謎をかけたりします。
こういう事が繰り返されて見ると、僕は何しにここへ来たんだか、まるで訳が解らなくなるだけです。
僕は変に考えさせられるのです。
全く形をなさないこの家の奇怪な生活と、変幻窮りなきこの妙な家庭の内情が、朝から晩まで恐ろしい夢でも見ているような気分になって、僕の頭に祟ってくるんです。
それを他に話したって、とうてい通じっこないと思うと、世界のうちで自分だけが魔に取り巻かれているとしか考えられないので、なお心細くなるのです、そうして時々は気が狂いそうになるのです。
というよりももう気が狂っているのではないかしらと疑がい出すと、たまらなく恐くなって来るのです。
土の牢の中で苦しんでいる僕には、日光がないばかりか、もう手も足もないような気がします。
何となれば、手を挙げても足を動かしても、四方は真黒だからです。
いくら訴えても、厚い冷たい壁が僕の声を遮ぎって世の中へ聴えさせないようにするからです。
今の僕は天下にたった一人です。
友達はないのです。
あっても無いと同じ事なのです。
幽霊のような僕の心境に触れてくれる事のできる頭脳をもったものは、有るべきはずがないからです。
僕は苦しさの余りにこの手紙を書きました。
救を求めるために書いたのではありません。
僕はあなたの境遇を知っています。
物質上の補助、そんなものをあなたの方角から受け取る気は毛頭ないのです。
ただこの苦痛の幾分が、あなたの脈管の中に流れている人情の血潮に伝わって、そこに同情の波を少しでも立ててくれる事ができるなら、僕はそれで満足です。
僕はそれによって、僕がまだ人間の一員として社会に存在しているという確証を握る事ができるからです。
この悪魔の重囲の中から、広々した人間の中へ届く光線は一縷もないのでしょうか。
僕は今それさえ疑っているのです。
そうして僕はあなたから返事が来るか来ないかで、その疑いを決したいのです」 手紙はここで終っていた。
百六十五
その時先刻火を点けて吸い始めた巻煙草の灰が、いつの間にか一寸近くの長さになって、ぽたりと罫紙の上に落ちた。
津田は竪横に走る藍色の枠の上に崩れ散ったこの粉末に視覚を刺撃されて、ふと気がついて見ると、彼は煙草を持った手をそれまで動かさずにいた。
というより彼の口と手がいつか煙草の存在を忘れていた。
その上手紙を読み終ったのと煙草の灰を落したのとは同時でないのだから、二つの間にはさまるぼんやりしたただの時間を認めなければならなかった。
その空虚な時間ははたして何のために起ったのだろう。
元来をいうと、この手紙ほど津田に縁の遠いものはなかった。
第一に彼はそれを書いた人を知らなかった。
第二にそれを書いた人と小林との関係がどうなっているのか皆目解らなかった。
中に述べ立ててある事柄に至ると、まるで別世界の出来事としか受け取れないくらい、彼の位置及び境遇とはかけ離れたものであった。
しかし彼の感想はそこで尽きる訳に行かなかった。
彼はどこかでおやと思った。
今まで前の方ばかり眺めて、ここに世の中があるのだときめてかかった彼は、急に後をふり返らせられた。
そうして自分と反対な存在を注視すべく立ちどまった。
するとああああこれも人間だという心持が、今日までまだ会った事もない幽霊のようなものを見つめているうちに起った。
極めて縁の遠いものはかえって縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。
彼はそこでとまった。
そうして※徊した。
けれどもそれより先へは一歩も進まなかった。
彼は彼相応の意味で、この気味の悪い手紙を了解したというまでであった。
彼が原稿紙から煙草の灰を払い落した時、原を相手に何か話し続けていた小林はすぐ彼の方を向いた。
用談を切り上げるためらしい言葉がただ一句彼の耳に響いた。
「なに大丈夫だ。そのうちどうにかなるよ、心配しないでもいいや」 津田は黙って手紙を小林の方へ出した。
小林はそれを受け取る前に訊いた。
「読んだか」「うん」「どうだ」 津田は何とも答えなかった。
しかし一応相手の主意を確かめて見る必要を感じた。
「いったい何のためにそれを僕に読ませたんだ」 小林は反問した。
「いったい何のために読ませたと思う」「僕の知らない人じゃないか、それを書いた人は」「無論知らない人さ」「知らなくってもいいとして、僕に何か関係があるのか」「この男がか、この手紙がか」「どっちでも構わないが」「君はどう思う」 津田はまた躊躇した。
実を云うと、それは手紙の意味が彼に通じた証拠であった。
もっと明暸にいうと、自分は自分なりにその手紙を解釈する事ができたという自覚が彼の返事を鈍らせたのと同様であった。
彼はしばらくして云った。
「君のいう意味なら、僕には全く無関係だろう」「僕のいう意味とは何だ?」「解らないか」「解らない。云って見ろ」「いや、――まあ止そう」 津田は先刻の絵と同じ意味で、小林がこの手紙を自分の前に突きつけるのではなかろうかと疑った。
何でもかでも彼を物質上の犠牲者にし終せた上で、後からざまを見ろ、とうとう降参したじゃないかという態度に出られるのは、彼にとって忍ぶべからざる侮辱であった。
いくら貧乏の幽霊で威嚇したってその手に乗るものかという彼の気慨が、自然小林の上に働らきかけた。
「それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したらいいじゃないか」「男らしく? ふん」と云っていったん言葉を句切った小林は、後から付け足した。
「じゃ説明してやろう。この人もこの手紙も、乃至この手紙の中味も、すべて君には無関係だ。ただし世間的に云えばだぜ、いいかね。世間的という意味をまた誤解するといけないから、ついでにそれも説明しておこう。君はこの手紙の内容に対して、俗社会にいわゆる義務というものを帯びていないのだ」「当り前じゃないか」「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。しかし君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい」「いくら大きくしたって、金をやらなければならないという義務なんか感じやしないよ」「そうだろう、君の事だから。しかし同情心はいくらか起るだろう」「そりゃ起るにきまってるじゃないか」「それでたくさんなんだ、僕の方は。同情心が起るというのはつまり金がやりたいという意味なんだから。それでいて実際は金がやりたくないんだから、そこに良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ」 こう云った小林は、手紙を隠袋へしまい込むと同時に、同じ場所から先刻の紙幣を三枚とも出して、それを食卓の上へ並べた。
「さあ取りたまえ。要るだけ取りたまえ」 彼はこう云って原の方を見た。
百六十六
小林の所作は津田にとって全くの意外であった。
突然毒気を抜かれたところに十分以上の皮肉を味わわせられた彼の心は、相手に向って躍った。
憎悪の電流とでも云わなければ形容のできないものが、とっさの間に彼の身体を通過した。
同時に聡明な彼の頭に一種の疑が閃めいた。
「此奴ら二人は共謀になって先刻からおれを馬鹿にしているんじゃないかしら」 こう思うのと、大通りの角で立談をしていた二人の姿と、ここへ来てからの小林の挙動と、途中から入って来た原の様子と、その後三人の間に起った談話の遣取とが、どれが原因ともどれが結果とも分らないような迅速の度合で、津田の頭の中を仕懸花火のようにくるくると廻転した。
彼は白い食卓布の上に、行儀よく順次に並べられた新らしい三枚の十円紙幣を見て、思わず腹の中で叫んだ。
「これがこの摺れッ枯らしの拵え上げた狂言の落所だったのか。馬鹿奴、そう貴様の思わく通りにさせてたまるものか」 彼は傷けられた自分のプライドに対しても、この不名誉な幕切に一転化を与えた上で、二人と別れなければならないと考えた。
けれどもどうしたらこう最後まで押しつめられて来た不利な局面を、今になって、旨くどさりと引繰り返す事ができるかの問題になると、あらかじめその辺の準備をしておかなかった彼は、全くの無能力者であった。
外観上の落ちつきを比較的平気そうに保っていた彼の裏側には、役にも立たない機智の作用が、はげしく往来した。
けれどもその混雑はただの混雑に終るだけで、何らの帰着点を彼に示してくれないので、むらむらとした後の彼の心は、いたずらにわくわくするだけであった。
そのわくわくがいつの間にか狼狽の姿に進化しつつある事さえ、残念ながら彼には意識された。
この危機一髪という間際に、彼はまた思いがけない現象に逢着した。
それは小林の並べた十円紙幣が青年芸術家に及ぼした影響であった。
紙幣の上に落された彼の眼から出る異様の光であった。
そこには驚ろきと喜びがあった。
一種の飢渇があった。
掴みかかろうとする慾望の力があった。
そうしてその驚ろきも喜びも、飢渇も慾望も、一々真その物の発現であった。
作りもの、拵え事、馴れ合いの狂言とは、どうしても受け取れなかった。
少くとも津田にはそうとしか思えなかった。
その上津田のこの判断を確めるに足る事実が後から継いで起った。
原はそれほど欲しそうな紙幣へ手を出さなかった。
と云って断然小林の親切を斥ぞける勇気も示さなかった。
出したそうな手を遠慮して出さずにいる苦痛の色が、ありありと彼の顔つきで読まれた。
もしこの蒼白い青年が、ついに紙幣の方へ手を出さないとすると、小林の拵えたせっかくの狂言も半分はぶち壊しになる訳であった。
もしまた小林がいったん隠袋から出した紙幣を、当初の宣告通り、幾分でも原の手へ渡さずに、再びもとへ収めたなら、結果は一層の喜劇に変化する訳であった。
どっちにしても自分の体面を繕うのには便宜な方向へ発展して行きそうなので、そこに一縷の望を抱いた津田は、もう少し黙って事の成行を見る事にきめた。
やがて二人の間に問答が起った。
「なぜ取らないんだ、原君」「でもあんまり御気の毒ですから」「僕は僕でまた君の方を気の毒だと思ってるんだ」「ええ、どうもありがとう」「君の前に坐ってるその男は男でまた僕の方を気の毒だと思ってるんだ」「はあ」 原はさっぱり通じないらしい顔をして津田を見た。
小林はすぐ説明した。
「その紙幣は三枚共、僕が今その男から貰ったんだ。貰い立てのほやほやなんだ」「じゃなおどうも……」「なおどうもじゃない。だからだ。だから僕も安々と君にやれるんだ。僕が安々と君にやれるんだから、君も安々と取れるんだ」「そういう論理になるかしら」「当り前さ。もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら、何ぼ僕だって、少しは執着が出るだろうじゃないか。額からぽたぽた垂れる膏汗に対しても済まないよ。しかしこれは何でもないんだ。余裕が空間に吹き散らしてくれる浄財だ。拾ったものが功徳を受ければ受けるほど余裕は喜こぶだけなんだ。ねえ津田君そうだろう」 忌々しい関所をもう通り越していた津田は、かえって好いところで相談をかけられたと同じ事であった。
鷹揚な彼の一諾は、今夜ここに落ち合った不調和な三人の会合に、少くとも形式上体裁の好い結末をつけるのに充分であった。
彼は醜陋に見える自分の退却を避けるために眼前の機会を捕えた。
「そうだね。それが一番いいだろう」 小林は押問答の末、とうとう三枚のうち一枚を原の手に渡した。
残る二枚を再びもとの隠袋へ収める時、彼は津田に云った。
「珍らしく余裕が下から上へ流れた。けれどもここから上へはもう逆戻りをしないそうだ。だからやっぱり君に対してサンクスだ」 表へ出た三人は濠端へ来て、電車を待ち合せる間大きな星月夜を仰いだ。
百六十七
間もなく三人は離れ離れになった。
「じゃ失敬、僕は停車場へ送って行かないよ」「そうか、来たってよさそうなものだがね。君の旧友が朝鮮へ行くんだぜ」「朝鮮でも台湾でも御免だ」「情合のない事夥だしいものだ。そんなら立つ前にもう一遍こっちから暇乞に行くよ、いいかい」「もうたくさんだ、来てくれなくっても」「いや行く。でないと何だか気がすまないから」「勝手にしろ。しかし僕はいないよ、来ても。明日から旅行するんだから」「旅行? どこへ」「少し静養の必要があるんでね」「転地か、洒落てるな」「僕に云わせると、これも余裕の賜物だ。僕は君と違って飽くまでもこの余裕に感謝しなければならないんだ」「飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね」「正直のところを云えば、まあそこいらだろうよ」「よろしい、どっちが勝つかまあ見ていろ。小林に啓発されるよりも、事実その物に戒飭される方が、遥かに覿面で切実でいいだろう」 これが別れる時二人の間に起った問答であった。
しかしそれは宵から持ち越した悪感情、津田が小林に対して日暮以来貯蔵して来た悪感情、の発現に過ぎなかった。
これで幾分か溜飲が下りたような気のした津田には、相手の口から出た最後の言葉などを考える余地がなかった。
彼は理非の如何に関わらず、意地にも小林ごときものの思想なり議論なりを、切って棄てなければならなかった。
一人になった彼は、電車の中ですぐ温泉場の様子などを想像に描き始めた。
明る朝は風が吹いた。
その風が疎らな雨の糸を筋違に地面の上へ運んで来た。
「厄介だな」 時間通りに起きた津田は、縁鼻から空を見上げて眉を寄せた。
空には雲があった。
そうしてその雲は眼に見える風のように断えず動いていた。
「ことによると、お午ぐらいから晴れるかも知れないわね」 お延は既定の計画を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。
「だって一日後れると一日徒為になるだけですもの。早く行って早く帰って来ていただく方がいいわ」「おれもそのつもりだ」 冷たい雨によって乱されなかった夫婦間の取極は、出立間際になって、始めて少しの行違を生じた。
箪笥の抽斗から自分の衣裳を取り出したお延は、それを夫の洋服と並べて渋紙の上へ置いた。
津田は気がついた。
「お前は行かないでもいいよ」「なぜ」「なぜって訳もないが、この雨の降るのに御苦労千万じゃないか」「ちっとも」 お延の言葉があまりに無邪気だったので、津田は思わず失笑した。
「来て貰うのが迷惑だから断るんじゃないよ。気の毒だからだよ。たかが一日とかからない所へ行くのに、わざわざ送って貰うなんて、少し滑稽だからね。小林が朝鮮へ立つんでさえ、おれは送って行かないって、昨夜断っちまったくらいだ」「そう、でもあたし宅にいたって、何にもする事がないんですもの」「遊んでおいでよ。構わないから」 お延がとうとう苦笑して、争う事をやめたので、津田は一人俥を駆って宅を出る事ができた。
周囲の混雑と対照を形成る雨の停車場の佗しい中に立って、津田が今買ったばかりの中等切符を、ぼんやり眺めていると、一人の書生が突然彼の前へ来て、旧知己のような挨拶をした。
「あいにくなお天気で」 それはこの間始めて見た吉川の書生であった。
取次に出た時玄関で会ったよそよそしさに引き換えて、今日は鳥打を脱ぐ態度からしてが丁寧であった。
津田は何の意味だかいっこう気がつかなかった。
「どなたかどちらへかいらっしゃるんですか」「いいえ、ちょっとお見送りに」「だからどなたを」 書生は弱らせられたような様子をした。
「実は奥さまが、今日は少し差支えがあるから、これを持って代りに行って来てくれとおっしゃいました」 書生は手に持った果物の籃を津田に示した。
「いやそりゃどうも、恐れ入りました」 津田はすぐその籃を受け取ろうとした。
しかし書生は渡さなかった。
「いえ私が列車の中まで持って参ります」 汽車が出る時、黙って丁寧に会釈をした書生に、「どうぞ宜しく」と挨拶を返した津田は、比較的込み合わない車室の一隅に、ゆっくりと腰をおろしながら、「やっぱりお延に来て貰わない方がよかったのだ」と思った。
百六十八
お延の気を利かして外套の隠袋へ入れてくれた新聞を津田が取り出して、いつもより念入りに眼を通している頃に、窓外の空模様はだんだん悪くなって来た。
先刻まで疎らに眺められた雨の糸が急に数を揃えて、見渡す限の空間を一度に充たして来る様子が、比較的展望に便利な汽車の窓から見ると、一層凄まじく感ぜられた。
雨の上には濃い雲があった。
雨の横にも限界の遮ぎられない限りは雲があった。
雲と雨との隙間なく連続した広い空間が、津田の視覚をいっぱいに冒した時、彼は荒涼なる車外の景色と、その反対に心持よく設備の行き届いた車内の愉快とを思い較べた。
身体を安逸の境に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は、この雨を衝いて外部へ出なければならない午後の心持を想像しながら、独り肩を竦めた。
すると隣りに腰をかけて、ぽつりぽつりと窓硝子を打つたびに、点滴の珠を表面に残して砕けて行く雨の糸を、ぼんやり眺めていた四十恰好の男が少し上半身を前へ屈めて、向側に胡坐を掻いている伴侶に話しかけた。
しかし雨の音と汽車の音が重なり合うので、彼の言葉は一度で相手に通じなかった。
「ひどく降って来たね。この様子じゃまた軽便の路が壊れやしないかね」 彼は仕方なしに津田の耳へも入るような大きな声を出してこう云った。
「なに大丈夫だよ。なんぼ名前が軽便だって、そう軽便に壊れられた日にゃ乗るものが災難だあね」 これが相手の答であった。
相手というのは羅紗の道行を着た六十恰好の爺さんであった。
頭には唐物屋を探しても見当りそうもない変な鍔なしの帽子を被っていた。
煙草入だの、唐桟の小片だの、古代更紗だの、そんなものを器用にきちんと並べ立てて見世を張る袋物屋へでも行って、わざわざ注文しなければ、とうてい頭へ載せる事のできそうもないその帽子の主人は、彼の言葉遣いで東京生れの証拠を充分に挙げていた。
津田は服装に似合わない思いのほか濶達なこの爺さんの元気に驚ろくと同時に、どっちかというと、ベランメーに接近した彼の口の利き方にも意外を呼んだ。
この挨拶のうちに偶然使用された軽便という語は、津田にとってたしかに一種の暗示であった。
彼は午後の何時間かをその軽便に揺られる転地者であった。
ことによると同じ方角へ遊びに行く連中かも知れないと思った津田の耳は、彼らの談話に対して急に鋭敏になった。
転席の余地がないので、不便な姿勢と図抜けた大声を忍ばなければならなかった二人の云う事は一々津田に聴こえた。
「こんな天気になろうとは思わなかったね。これならもう一日延ばした方が楽だった」 中折に駱駝の外套を着た落ちつきのある男の方がこういうと、爺さんはすぐ答えた。
「何たかが雨だあね。濡れると思やあ、何でもねえ」「だが荷物が厄介だよ。あの軽便へ雨曝しのまま載せられる事を考えると、少し心細くなるから」「じゃおいらの方が雨曝しになって、荷物だけを室の中へ入れて貰う事にしよう」 二人は大きな声を出して笑った。
その後で爺さんがまた云った。
「もっともこの前のあの騒ぎがあるからね。途中で汽缶へ穴が開いて動けなくなる汽車なんだから、全くのところ心細いにゃ違ない」「あの時ゃどうして向うへ着いたっけ」「なにあっちから来る奴を山の中ほどで待ち合せてさ。その方の汽缶で引っ張り上げて貰ったじゃないか」「なるほどね、だが汽缶を取り上げられた方の車はどうしたっけね」「違えねえ、こっちで取り上げりゃ、向うは困らあ」「だからさ、取り残された方の車はどうしたろうっていうのさ。まさか他を救って、自分は立往生って訳もなかろう」「今になって考えりゃ、それもそうだがね、あの時ゃ、てんで向うの車の事なんか考えちゃいられなかったからね。日は暮れかかるしさ、寒さは身に染みるしさ。顫えちまわあね」 津田の推測はだんだんたしかになって来た。
二人はその軽便の通じている線路の左右にある三カ所の温泉場のうち、どこかへ行くに違ないという鑑定さえついた。
それにしてもこれから自分の身を二時間なり三時間なり委せようとするその軽便が、彼らのいう通り乱暴至極のものならば、この雨中どんな災難に会わないとも限らなかった。
けれどもそこには東京ものの持って生れた誇張というものがあった。
そんなに不完全なものですかと訊いてみようとしてそこに気のついた津田は、腹の中で苦笑しながら、質問をかける手数を省いた。
そうして今度は清子とその軽便とを聯結して「女一人でさえ楽々往来ができる所だのに」と思いながら、面白半分にする興味本位の談話には、それぎり耳を貸さなかった。
百六十九
汽車が目的の停車場に着く少し前から、三人によって気遣われた天候がしだいに穏かになり始めた時、津田は雨の収まり際の空を眺めて、そこに忙がしそうな雲の影を認めた。
その雲は汽車の走る方角と反対の側に向って、ずんずん飛んで行った。
そうして後から後からと、あたかも前に行くものを追かけるように、隙間なく詰め寄せた。
そのうち動く空の中に、やや明るい所ができてきた。
ほかの部分より比較的薄く見える箇所がしだいに多くなった。
就中一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしそうな気配を示した。
思ったより自分に好意をもってくれた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、そこからすぐ乗り換えた電車の中で、また先刻会った二人伴の男を見出した。
はたして彼の思わく通り、自分と同じ見当へ向いて、同じ交通機関を利用する連中だと知れた時、津田は気をつけて彼らの手荷物を注意した。
けれども彼らの雨曝しになるのを苦に病んだほどの大嵩なものはどこにも見当らなかった。
のみならず、爺さんは自分が先刻云った事さえもう忘れているらしかった。
「ありがたい、大当りだ。だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これでぐずぐずして東京にいて御覧な。ああつまらねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね」「そうさ。だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか」「そいつあ行って見なけりゃ、ちょいと分らねえ。何なら電話で訊いてみるんだ。だが大体間違はないよ。空は日本中どこへ行ったって続いてるんだから」 津田は少しおかしくなった。
すると爺さんがすぐ話しかけた。
「あなたも湯治場へいらっしゃるんでしょう。どうもおおかたそうだろうと思いましたよ、先刻から」「なぜですか」「なぜって、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」 彼はこう云って隣りにいる自分の伴侶を顧みた。
中折の人は仕方なしに「ああ」と答えた。
この天眼通に苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとしたところ、快豁な爺さんの方でなかなか彼を放さなかった。
「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも身体一つ動かせばたくさんなんですから、ありがたい訳さ。ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向だあね。今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋とこの大将のあの鞄を差し引くと、残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将」 大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。
これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。
そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。
電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。
彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝らした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食を認ためた。
時間から云って、平常より一時間以上も後れていたその昼食は、膳を貪ぼる人としての彼を思う存分に発揮させた。
けれども発車は目前に逼っていた。
彼は箸を投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。
基点に当る停車場は、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。
彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭を受取ってすぐ表へ出た。
切符に鋏を入れて貰う所と、プラットフォームとの間には距離というものがほとんどなかった。
五六歩動くとすぐ足をかける階段へ届いてしまった。
彼は車室のなかで、また先刻の二人連れと顔を合せた。
「やあお早うがす。こっちへおかけなさい」 爺さんは腰をずらして津田のために、彼の腕に抱えて来た膝かけを敷く余地を拵えてくれた。
「今日は空いてて結構です」 爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へかけて、それから七八二月に渉って、この線路に集ってくる湯治客の、どんなに雑沓するかをさも面白そうに例の調子で話して聴かせた後で、自分の同伴者を顧みた。
「あんな時に女なんか伴れてくるのは実際罪だよ。尻が大きいから第一乗り切れねえやね。そうしてすぐ酔うから困らあ。鮨のように押しつめられてる中で、吐いたり戻したりさ。見っともねえ事ったら」 彼は自分の傍に腰をかけている婦人の存在をまるで忘れているらしい口の利き方をした。
百七十
軽便の中でも、津田の平和はややともすると年を取ったこの楽天家のために乱されそうになった。
これから目的地へ着いた時の様子、その様子しだいで取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅館だの山だの渓流だのの光景のうちに、取りとめもなくちらちら動いている際などに、老人は急に彼を夢の裡から叩き起した。
「まだ仮橋のままでやってるんだから、呑気なものさね。御覧なさい、土方があんなに働らいてるから」 本式の橋が去年の出水で押し流されたまままだ出来上らないのを、老人はさも会社の怠慢ででもあるように罵った後で、海へ注ぐ河の出口に、新らしく作られた一構の家を指して、また津田の注意を誘い出そうとした。
「あの家も去年波で浚われちまったんでさあ。でもすぐあんなに建てやがったから、軽便より少しゃ感心だ」「この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう」「ここいらで一夏休むと、だいぶ応えるからね。やっぱり慾がなくっちゃ、何でも手っ取り早く仕事は片づかないものさね。この軽便だってそうでしょう、あなた、なまじいあの仮橋で用が足りてるもんだから、会社の方で、いつまでも横着をきめ込みやがって、掛けかえねえんでさあ」 津田は老人の人世観に一も二もなく調子を合すべく余儀なくされながら、談話の途切れ目には、眼を眠るように構えて、自分自身に勝手な事を考えた。
彼の頭の中は纏まらない断片的な映像のために絶えず往来された。
その中には今朝見たお延の顔もあった。
停車場まで来てくれた吉川の書生の姿も動いた。
彼の車室内へ運んでくれた果物の籃もあった。
その葢を開けて、二人の伴侶に夫人の贈物を配とうかという意志も働いた。
その所作から起る手数だの煩わしさだの、こっちの好意を受け取る時、相手のやりかねない仰山な挨拶も鮮やかに描き出された。
すると爺さんも中折も急に消えて、その代り肥った吉川夫人の影法師が頭の闥を排してつかつか這入って来た。
連想はすぐこれから行こうとする湯治場の中心点になっている清子に飛び移った。
彼の心は車と共に前後へ揺れ出した。
汽車という名をつけるのはもったいないくらいな車は、すぐ海に続いている勾配の急な山の中途を、危なかしくがたがた云わして駆けるかと思うと、いつの間にか山と山の間に割り込んで、幾度も上ったり下ったりした。
その山の多くは隙間なく植付けられた蜜柑の色で、暖かい南国の秋を、美くしい空の下に累々と点綴していた。
「あいつは旨そうだね」「なに根っから旨くないんだ、ここから見ている方がよっぽど綺麗だよ」 比較的嶮しい曲りくねった坂を一つ上った時、車はたちまちとまった。
停車場でもないそこに見えるものは、多少の霜に彩どられた雑木だけであった。
「どうしたんだ」 爺さんがこう云って窓から首を出していると、車掌だの運転手だのが急に車から降りて、しきりに何か云い合った。
「脱線です」 この言葉を聞いた時、爺さんはすぐ津田と自分の前にいる中折を見た。
「だから云わねえこっちゃねえ。きっと何かあるに違ねえと思ってたんだ」 急に予言者らしい口吻を洩らした彼は、いよいよ自分の駄弁を弄する時機が来たと云わぬばかりにはしゃぎ出した。
「どうせ家を出る時に、水盃は済まして来たんだから、覚悟はとうからきめてるようなものの、いざとなって見ると、こんな所で弁慶の立往生は御免蒙りたいからね。といっていつまでこうやって待ってたって、なかなか元へ戻してくれそうもなしと。何しろ日の短かい上へ持って来て、気が短かいと来てるんだから、安閑としちゃいられねえ。――どうです皆さん一つ降りて車を押してやろうじゃありませんか」 爺さんはこう云いながら元気よく真先に飛び降りた。
残るものは苦笑しながら立ち上った。
津田も独り室内に坐っている訳に行かなくなったので、みんなといっしょに地面の上へ降り立った。
そうして黄色に染められた芝草の上に、あっけらかんと立っている婦人を後にして、うんうん車を押した。
「や、いけねえ、行き過ぎちゃった」 車はまた引き戻された。
それからまた前へ押し出された。
押し出したり引き戻したり二三度するうちに、脱線はようやく片づいた。
「また後れちまったよ、大将、お蔭で」「誰のお蔭でさ」「軽便のお蔭でさ。だがこんな事でもなくっちゃ眠くっていけねえや」「せっかく遊びに来た甲斐がないだろう」「全くだ」 津田は後れた時間を案じながら、教えられた停車場で、この元気の好い老人と別れて、一人薄暮の空気の中に出た。
百七十一
靄とも夜の色とも片づかないものの中にぼんやり描き出された町の様はまるで寂寞たる夢であった。
自分の四辺にちらちらする弱い電灯の光と、その光の届かない先に横わる大きな闇の姿を見較べた時の津田にはたしかに夢という感じが起った。
「おれは今この夢見たようなものの続きを辿ろうとしている。東京を立つ前から、もっと几帳面に云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、いやもっと深く突き込んで云えば、お延と結婚する前から、――それでもまだ云い足りない、実は突然清子に背中を向けられたその刹那から、自分はもうすでにこの夢のようなものに祟られているのだ。そうして今ちょうどその夢を追かけようとしている途中なのだ。顧みると過去から持ち越したこの一条の夢が、これから目的地へ着くと同時に、からりと覚めるのかしら。それは吉川夫人の意見であった。したがって夫人の意見に賛成し、またそれを実行する今の自分の意見でもあると云わなければなるまい。しかしそれははたして事実だろうか。自分の夢ははたして綺麗に拭い去られるだろうか。自分ははたしてそれだけの信念をもって、この夢のようにぼんやりした寒村の中に立っているのだろうか。眼に入る低い軒、近頃砂利を敷いたらしい狭い道路、貧しい電灯の影、傾むきかかった藁屋根、黄色い幌を下した一頭立の馬車、――新とも旧とも片のつけられないこの一塊の配合を、なおの事夢らしく粧っている肌寒と夜寒と闇暗、――すべて朦朧たる事実から受けるこの感じは、自分がここまで運んで来た宿命の象徴じゃないだろうか。今までも夢、今も夢、これから先も夢、その夢を抱いてまた東京へ帰って行く。それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はそうなりそうだ。じゃ何のために雨の東京を立ってこんな所まで出かけて来たのだ。畢竟馬鹿だから? いよいよ馬鹿と事がきまりさえすれば、ここからでも引き返せるんだが」 この感想は一度に来た。
半分とかからないうちに、これだけの順序と、段落と、論理と、空想を具えて、抱き合うように彼の頭の中を通過した。
しかしそれから後の彼はもう自分の主人公ではなかった。
どこから来たとも知れない若い男が突然現われて、彼の荷物を受け取った。
一分の猶予なく彼をすぐ前にある茶店の中へ引き込んで、彼の行こうとする宿屋の名を訊いたり、馬車に乗るか俥にするかを確かめたりした上に、彼の予期していないような愛嬌さえ、自由自在に忙がしい短時間の間に操縦して退けた。
彼はやがて否応なしにズックの幌を下した馬車の上へ乗せられた。
そうして御免といいながら自分の前に腰をかける先刻の若い男を見出すべく驚ろかされた。
「君もいっしょに行くのかい」「へえ、お邪魔でも、どうか」 若い男は津田の目指している宿屋の手代であった。
「ここに旗が立っています」 彼は首を曲げて御者台の隅に挿し込んである赤い小旗を見た。
暗いので中に染め抜かれた文字は津田の眼に入らなかった。
旗はただ馬車の速力で起す風のために、彼の座席の方へはげしく吹かれるだけであった。
彼は首を縮めて外套の襟を立てた。
「夜中はもうだいぶお寒くなりました」 御者台を背中に背負ってる手代は、位地の関係から少しも風を受けないので、この云い草は何となく小賢しく津田の耳に響いた。
道は左右に田を控えているらしく思われた。
そうして道と田の境目には小河の流れが時々聞こえるように感ぜられた。
田は両方とも狭く細く山で仕切られているような気もした。
津田は帽子と外套の襟で隠し切れない顔の一部分だけを風に曝して、寒さに抵抗でもするように黙想の態度を手代に示した。
手代もその方が便利だと見えて、強いて向うから口を利こうともしなかった。
すると突然津田の心が揺いた。
「お客はたくさんいるかい」「へえありがとう、お蔭さまで」「何人ぐらい」 何人とも答えなかった手代は、かえって弁解がましい返事をした。
「ただいまはあいにく季節が季節だもんでげすから、あんまりおいでがございません。寒い時は暮からお正月へかけまして、それから夏場になりますと、まあ七八二月ですな、繁昌するのは。そんな時にゃ臨時のお客さまを御断りする事が、毎日のようにございます」「じゃ今がちょうど閑な時なんだね、そうか」「へえ、どうぞごゆっくり」「ありがとう」「やっぱり御病気のためにわざわざおいでなんで」「うんまあそうだ」 清子の事を訊く目的で話し始めた津田は、ここへ来て急に痞えた。
彼は気がさした。
彼女の名前を口にするに堪えなかった。
その上後で面倒でも起ると悪いとも思い返した。
手代から顔を離して馬車の背に倚りかかり直した彼は、再び沈黙の姿勢を回復した。
百七十二
馬車はやがて黒い大きな岩のようなものに突き当ろうとして、その裾をぐるりと廻り込んだ。
見ると反対の側にも同じ岩の破片とも云うべきものが不行儀に路傍を塞いでいた。
台上から飛び下りた御者はすぐ馬の口を取った。
一方には空を凌ぐほどの高い樹が聳えていた。
星月夜の光に映る物凄い影から判断すると古松らしいその木と、突然一方に聞こえ出した奔湍の音とが、久しく都会の中を出なかった津田の心に不時の一転化を与えた。
彼は忘れた記憶を思い出した時のような気分になった。
「ああ世の中には、こんなものが存在していたのだっけ、どうして今までそれを忘れていたのだろう」 不幸にしてこの述懐は孤立のまま消滅する事を許されなかった。
津田の頭にはすぐこれから会いに行く清子の姿が描き出された。
彼は別れて以来一年近く経つ今日まで、いまだこの女の記憶を失くした覚がなかった。
こうして夜路を馬車に揺られて行くのも、有体に云えば、その人の影を一図に追かけている所作に違なかった。
御者は先刻から時間の遅くなるのを恐れるごとく、止せばいいと思うのに、濫りなる鞭を鳴らして、しきりに痩馬の尻を打った。
失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩馬ではないか。
では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐れな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう。
吉川夫人?
いや、そう一概に断言する訳には行かなかった。
ではやっぱり彼自身?
この点で精確な解決をつける事を好まなかった津田は、問題をそこで投げながら、依然としてそれより先を考えずにはいられなかった。
「彼女に会うのは何のためだろう。永く彼女を記憶するため? 会わなくても今の自分は忘れずにいるではないか。では彼女を忘れるため? あるいはそうかも知れない。けれども会えば忘れられるだろうか。あるいはそうかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。松の色と水の音、それは今全く忘れていた山と渓の存在を憶い出させた。全く忘れていない彼女、想像の眼先にちらちらする彼女、わざわざ東京から後を跟けて来た彼女、はどんな影響を彼の上に起すのだろう」 冷たい山間の空気と、その山を神秘的に黒くぼかす夜の色と、その夜の色の中に自分の存在を呑み尽された津田とが一度に重なり合った時、彼は思わず恐れた。
ぞっとした。
御者は馬の轡を取ったなり、白い泡を岩角に吹き散らして鳴りながら流れる早瀬の上に架け渡した橋の上をそろそろ通った。
すると幾点の電灯がすぐ津田の眸に映ったので、彼はたちまちもう来たなと思った。
あるいはその光の一つが、今清子の姿を照らしているのかも知れないとさえ考えた。
「運命の宿火だ。それを目標に辿りつくよりほかに途はない」 詩に乏しい彼は固よりこんな言葉を口にする事を知らなかった。
けれどもこう形容してしかるべき気分はあった。
彼は首を手代の方へ延ばした。
「着いたようじゃないか。君の家はどれだい」「へえ、もう一丁ほど奥になります」 ようやく馬車の通れるくらいな温泉の町は狭かった。
おまけに不規則な故意とらしい曲折を描いて、御者をして再び車台の上に鞭を鳴らす事を許さなかった。
それでも宿へ着くまでに五六分しかかからなかった。
山と谷がそれほど広いという意味で、町はそれほど狭かったのである。
宿は手代の云った通り森閑としていた。
夜のためばかりでもなく、家の広いためばかりでもなく、全く客の少ないためとしか受け取れないほどの静かさのうちに、自分の室へ案内された彼は、好時季に邂逅せてくれたこの偶然に感謝した。
性質から云えばむしろ人中を択ぶべきはずの彼には都合があった。
彼は膳の向うに坐っている下女に訊いた。
「昼間もこの通りかい」「へえ」「何だかお客はどこにもいないようじゃないか」 下女は新館とか別館とか本館とかいう名前を挙げて、津田の不審を説明した。
「そんなに広いのか。案内を知らないものは迷児にでもなりそうだね」 彼は清子のいる見当を確かめなければならなかった。
けれども手代に露骨な質問がかけられなかった通り、下女にも卒直な尋ね方はできなかった。
「一人で来る人は少ないだろうね、こんな所へ」「そうでもございません」「だが男だろう、そりゃ。まさか女一人で逗留しているなんてえのはなかろう」「一人いらっしゃいます、今」「へえ、病気じゃないか。そんな人は」「そうかも知れません」「何という人だい」 受持が違うので下女は名前を知らなかった。
「若い人かね」「ええ、若いお美くしい方です」「そうか、ちょっと見せて貰いたいな」「お湯にいらっしゃる時、この室の横をお通りになりますから、御覧になりたければ、いつでも――」「拝見できるのか、そいつはありがたい」 津田は女のいる方角だけ教わって、膳を下げさせた。
百七十三
寝る前に一風呂浴びるつもりで、下女に案内を頼んだ時、津田は始めて先刻彼女から聴かされたこの家の広さに気がついた。
意外な廊下を曲ったり、思いも寄らない階子段を降りたりして、目的の湯壺を眼の前に見出した彼は、実際一人で自分の座敷へ帰れるだろうかと疑った。
風呂場は板と硝子戸でいくつにか仕切られていた。
左右に三つずつ向う合せに並んでいる小型な浴槽のほかに、一つ離れて大きいのは、普通の洗湯に比べて倍以上の尺があった。
「これが一番大きくって心持がいいでしょう」と云った下女は、津田のために擦硝子の篏った戸をがらがらと開けてくれた。
中には誰もいなかった。
湯気が籠るのを防ぐためか、座敷で云えば欄間と云ったような部分にも、やはり硝子戸の設けがあって、半分ほど隙かされた