明暗

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その二組は双方ともに相当の扮装をした婦人づれなので、室内は存外静かであった。ことに一間ほど隔てて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉の火の色が、白いものの目立つ清楚な室の空気に、恰好な温もりを与えた。

第 16 章
津田つだの心こころには、変へんな対照たいしょうが描き出さえがきだされた。
この間まの晩ばん小林こばやしのお蔭おかげで無理むりに引っ張りひっぱり込まこまれた怪しあやしげな酒場さかばの光景こうけいがありありと彼かれの眼めに浮んうかんだ。
その時じの相手あいてを今度こんどは自分じぶんの方ほうでここへ案内あんないしたという事ことが、彼かれには一種いっしゅの意味いみで得意とくいであった。
「どうだね、ここの宅たくは。ちょっと綺麗きれいで心持こころもちが好いよいじゃないか」 小林こばやしは気きがついたように四辺しへんを見廻しみまわした。
「うん。ここには探偵たんていはいないようだね」「その代りかわり美びくしい人ひとがいるだろう」 小林こばやしは急きゅうに大きなおおきな声こえを出しだした。
「ありゃみんな芸者げいしゃなんか君きみ」 ちょっときまりの悪いわるい思いおもいをさせられた津田つだは叱るしかるように云っいった。
「馬鹿ばか云ういうな」「いや何なんとも限らかぎらないからね。どこにどんなものがいるか分らわからない世の中よのなかだから」 津田つだはますます声こえを低くひくくした。
「だって芸者げいしゃはあんな服装ふくそうをしやしないよ」「そうか。君きみがそう云ういうなら確かくだろう。僕ぼくのような田舎いなかものには第一だいいちその区別くべつが分らわからないんだから仕方しかたがないよ。何なんでも綺麗きれいな着物きものさえ着きていればすぐ芸者げいしゃだと思っおもっちまうんだからね」「相そう変らかわらず皮肉るひにくるな」 津田つだは少しすこし悪いわるい気色けしきを外そとへ出しだした。
小林こばやしは平気へいきであった。
「いや皮肉るひにくるんじゃないよ。実際じっさい僕ぼくは貧乏びんぼうの結果けっかそっちの方ほうの眼めがまだ開いひらいていないんだ。ただ正直しょうじきにそう思うおもうだけなんだ」「そんならそれでいいさ」「よくなくっても仕方しかたがない訳わけだがね。しかし事実じじつどうだろう君きみ」「何なんが」「事実じじつ当世とうせいにいわゆるレデーでーなるものと芸者げいしゃとの間まに、それほど区別くべつがあるのかね」 津田つだは空っ惚けるそらっとぼける事ことの得意とくいなこの相手あいての前まえに、真面目まじめな返事へんじを与えるあたえる子供こどもらしさを超越ちょうえつして見せみせなければならなかった。
同時どうじに何なんとかして、ゴツンごつんと喰わしくわしてやりたいような気きもした。
けれども彼かれは遠慮えんりょした。
というよりも、ゴツンごつんとやるだけの言葉ことばが口くちへ出でて来きなかった。
「笑談しょうだんじゃない」「本当ほんとうに笑談しょうだんじゃない」と云っいった小林こばやしはひょいと眼めを上げあげて津田つだの顔かおを見みた。
津田つだはふと気きがついた。
しかし相手あいてに何なんか考えかんがえがあるんだなと悟っさとった彼かれは、あまりに怜俐れい過ぎすぎた。
彼かれには澄ましすましてそこを通り抜けるとおりぬけるだけの腹はらがなかった。
それでいて当らあたらず障らさわらず話はなしを傍そばへ流すながすくらいの技巧ぎこうは心得こころえていた。
彼かれは小林こばやしに捕まらつかまらなければならなかった。
彼かれは云っいった。
「どうだ君きみここの料理りょうりは」「ここの料理りょうりもどこの料理りょうりもたいてい似にたもんだね。僕ぼくのような味覚みかくの発達はったつしないものには」「不味いまじいかい」「不味ふみかない、旨いうまいよ」「そりゃ好いよい案配あんばいだ。亭主ていしゅが自分じぶんでクッキングくっきんぐをやるんだから、ほかよりゃ少しすこしはましかも知れしれない」「亭主ていしゅがいくら腕うでを見せみせたって、僕ぼくのような口くちに合っあっちゃ敵わかなわないよ。泣くなくだけだあね」「だけど旨けりゃうまけりゃそれでいいんだ」「うん旨けりゃうまけりゃそれでいい訳わけだ。しかしその旨むねさが十じゅう銭せん均一きんいつの一いち品しな料理りょうりと同どうなじ事ことだと云っいって聞かきかせたら亭主ていしゅも泣くなくだろうじゃないか」 津田つだは苦笑くしょうするよりほかに仕方しかたがなかった。
小林こばやしは一人ひとりでしゃべった。
「いったい今いまの僕ぼくにゃ、仏蘭西ふらんす料理りょうりだから旨いうまいの、英吉利いぎりす料理りょうりだから不味いまじいのって、そんな通つうをふり廻すふりまわす余裕よゆうなんかまるでないんだ。ただ口くちへ入るはいるから旨いうまいだけの事ことなんだ」「だってそれじゃなぜ旨いうまいんだか、理由りゆうが解らわからなくなるじゃないか」「解りわかり切っきってるよ。ただ飢うえじいから旨いうまいのさ。その他ほかに理窟りくつも糸瓜へちまもあるもんかね」 津田つだはまた黙らだまらせられた。
しかし二人ふたりの間まに続くつづく無言むごんが重くおもく胸むねに応えるこたえるようになった時じ、彼かれはやむをえずまた口くちを開こうひらこうとして、たちまち小林こばやしのために機先きせんを制せせいせられた。
百五十七ひゃくごじゅうなな
「君きみのような敏感びんかん者ものから見みたら、僕ぼくごとき鈍物どんぶつは、あらゆる点てんで軽蔑けいべつに値あたいしているかも知れしれない。僕ぼくもそれは承知しょうちしている、軽蔑けいべつされても仕方しかたがないと思っおもっている。けれども僕ぼくには僕ぼくでまた相当そうとうの云草があるんだ。僕ぼくの鈍なまくらは必ずかならずしも天賦てんぷの能力のうりょくに原因げんいんしているとは限らかぎらない。僕ぼくに時じを与えよあたえよだ、僕ぼくに金きんを与えよあたえよだ。しかる後あと、僕ぼくがどんな人間にんげんになって君きみらの前まえに出現しゅつげんするかを見よみよだ」 この時じ小林こばやしの頭あたまには酒さけがもう少しすこし廻っまわっていた。
笑談しょうだんとも真面目まじめとも片かたのつかない彼かれの気き※には、わざと酔よいの力ちからを藉せきろうとする欝うつ散さんの傾きかたむきが見えみえて来きた。
津田つだは相手あいての口くちにする言葉ことばの価値かちを正面しょうめんから首肯しゅこううべく余儀よぎなくされた上うえに、多少たしょう彼かれの歩きあるき方ほうにつき合うつきあう必要ひつようを見出しみだした。
「そりゃ君きみのいう通りとおりだ。だから僕ぼくは君きみに同情どうじょうしているんだ。君きみだってそのくらいの事ことは心得こころえていてくれるだろう。でなければ、こうやって、わざわざ会食かいしょくまでして君きみの朝鮮ちょうせん行こうを送るおくる訳わけがないからね」「ありがとう」「いや嘘うそじゃないよ。現にげんにこの間このまもお延のべにその訳わけをよく云っいって聴かきかせたくらいだもの」 胡散うさん臭いくさいなという眼めが小林こばやしの眉まゆの下したで輝やいかがやいた。
「へええ。本当ほんとうかい。あの細君さいくんの前まえで僕ぼくを弁護べんごしてくれるなんて、君きみにもまだ昔むかしの親切しんせつが少しすこしは残っのこってると見えるみえるね。しかしそりゃ……。細君さいくんは何なんと云っいったね」 津田つだは黙っだまって懐ふところへ手てを入れいれた。
小林こばやしはその所作しょさを眺めながめながら、わざとそれを止めとめさせるように追加ついかした。
「ははあ。弁護べんごの必要ひつようがあったんだな。どうも変へんだと思っおもったら」 津田つだは懐ふところへ入れいれた手てを、元もとの通りとおり外そとへ出しだした。
「お延のべの返事へんじはここにある」といって、綺麗きれいに持っもって来きた金きんを彼かれに渡すわたすつもりでいた彼かれは躊躇ちゅうちょした。
その代りかわり話頭わとうを前まえへ押し戻しおしもどした。
「やはり人間にんげんは境遇きょうぐう次第しだいだね」「僕ぼくは余裕よゆう次第しだいだというつもりだ」 津田つだは逆らわさからわなかった。
「そうさ余裕よゆう次第しだいとも云えるいえるね」「僕ぼくは生れうまれてから今日きょうまでぎりぎり決着けっちゃくの生活せいかつをして来きたんだ。まるで余裕よゆうというものを知らしらず生きいきて来きた僕ぼくが、贅沢ぜいたく三昧さんまいわがまま三昧さんまいに育っそだった人ひととどう違うちがうと君きみは思うおもう」 津田つだは薄笑いうすわらいをした。
小林こばやしは真面目まじめであった。
「考えるかんがえるまでもなくここにいるじゃないか。君きみと僕ぼくさ。二人ふたりを見較べれみくらべればすぐ解るわかるだろう、余裕よゆうと切迫せっぱくで代表だいひょうされた生活せいかつの結果けっかは」 津田つだは心こころの中なかでその幾分いくぶんを点頭いうなずいた。
けれども今さらいまさらそんな不平ふへいを聴いきいたって仕方しかたがないと思っおもっているところへ後あとが来きた。
「それでどうだ。僕ぼくは始終しじゅう君きみに軽蔑けいべつされる、君きみばかりじゃない、君きみの細君さいくんからも、誰だれからも軽蔑けいべつされる。――いや待ちまちたまえまだいう事ことがあるんだ。――それは事実じじつさ、君きみも承知しょうち、僕ぼくも承知しょうちの事実じじつさ。すべて先刻せんこく云っいった通りとおりさ。だが君きみにも君きみの細君さいくんにもまだ解らわからない事ことがここに一いちつあるんだ。もちろん今さらいまさらそれを君きみに話しはなしたってお互いたがいの位地いちが変るかわる訳わけでもないんだから仕方しかたがないようなものの、これから朝鮮ちょうせんへ行けいけば、僕ぼくはもう生きいきて再びふたたび君きみに会うあう折おりがないかも知れしれないから……」 小林こばやしはここまで来きて少しすこし昂奮こうふんしたような気色けしきを見せみせたが、すぐその後そのあとから「いや僕ぼくの事ことだから、行っいって見るみると朝鮮ちょうせんも案外あんがいなので、厭いやになってまたすぐ帰っかえって来きないとも限らかぎらないが」と正直しょうじきなところを付け加えつけくわえたので、津田つだは思わおもわず笑いわらい出しだしてしまった。
小林こばやし自身じしんもいったん頓挫とんざしてからまた出直しでなおした。
「まあ未来みらいの生活せいかつ上うえ君きみの参考さんこうにならないとも限らかぎらないから聴きききたまえ。実じつを云ういうと、君きみが僕ぼくを軽蔑けいべつしている通りとおりに、僕ぼくも君きみを軽蔑けいべつしているんだ」「そりゃ解っわかってるよ」「いや解らわからない。軽蔑けいべつの結果けっかはあるいは解っわかってるかも知れしれないが、軽蔑けいべつの意味いみは君きみにも君きみの細君さいくんにもまだ通じつうじていないよ。だから君きみの今夕こんゆうの好意こういに対したいして、僕ぼくはまた留別りゅうべつのために、それを説明せつめいして行こういこうてんだ。どうだい」「よかろう」「よくないたって、僕ぼくのような一いち文なしもんなしじゃほかに何なんも置いおいて行くいくものがないんだから仕方しかたがなかろう」「だからいいよ」「黙っだまって聴くきくかい。聴くきくなら云ういうがね。僕ぼくは今いま君きみの御馳走ごちそうになって、こうしてぱくぱく食っしょくってる仏蘭西ふらんす料理りょうりも、この間まの晩ばん君きみを御ご招待しょうたい申しもうして叱らしかられたあの汚ならしいきたならしい酒場さかばの酒さけも、どっちも無差別むさべつに旨いうまいくらい味覚みかくの発達はったつしない男おとこなんだ。そこを君きみは軽蔑けいべつするだろう。しかるに僕ぼくはかえってそこを自慢じまんにして、軽蔑けいべつする君きみを逆ぎゃくに軽蔑けいべつしているんだ。いいかね、その意味いみが君きみに解っわかったかね。考えかんがえて見みたまえ、君きみと僕ぼくがこの点てんにおいてどっちが窮屈きゅうくつで、どっちが自由じゆうだか。どっちが幸福こうふくで、どっちが束縛そくばくを余計よけい感じかんじているか。どっちが太平たいへいでどっちが動揺どうようしているか。僕ぼくから見るみると、君きみの腰こしは始終しじゅうぐらついてるよ。度胸どきょうが坐っすわってないよ。厭いやなものをどこまでも避けさけたがって、自分じぶんの好きすきなものをむやみに追かけおいかけたがってるよ。そりゃなぜだ。なぜでもない、なまじいに自由じゆうが利くきくためさ。贅沢ぜいたくをいう余地よちがあるからさ。僕ぼくのように窮地きゅうちに突き落さつきおとされて、どうでも勝手にかってにしやがれという気分きぶんになれないからさ」 津田つだはてんから相手あいてを見縊っみくびっていた。
けれども事実じじつを認めみとめない訳わけには行かいかなかった。
小林こばやしはたしかに彼かれよりずうずうしく出来上っできあがっていた。
百五十八ひゃくごじゅうはち
しかし小林こばやしの説法せっぽうにはまだ後あとがあった。
津田つだの様子ようすを見澄ましみすました彼かれは突然とつぜん思いがけおもいがけない所ところへ舞い戻っまいもどって来きた。
それは会見かいけんの最初さいしょちょっと二人ふたりの間まに点綴てんていされながら、前後ぜんごの勢いきおいですぐどこかへ流さながされてしまった問題もんだいにほかならなかった。
「僕ぼくの意味いみはもう君きみに通じつうじている。しかし君きみはまだなるほどという心持こころもちになれないようだ。矛盾むじゅんだね。僕ぼくはその訳わけを知っしってるよ。第だい一いちに相手あいてが身分みぶんも地位ちいも財産ざいさんも一定いっていの職業しょくぎょうもない僕ぼくだという事ことが、聡明そうめいな君きみを煩わしわずらわしているんだ。もしこれが吉川よしかわ夫人ふじんか誰だれかの口くちから出るでるなら、それがもっとずっとつまらない説せつでも、君きみは襟えりを正しただして聴くきくに違いないんだ。いや僕ぼくの僻でも何なんでもない、争うあらそうべからざる事実じじつだよ。けれども君きみ考えかんがえなくっちゃいけないぜ。僕ぼくだからこれだけの事ことが云えるいえるんだという事ことを。先生せんせいだって奥さんおくさんだって、そこへ行くいくと駄目だめだという事ことも心得こころえておきたまえ。なぜだ? なぜでもないよ。いくら先生せんせいが貧乏びんぼうしたって、僕ぼくだけの経験けいけんは甞めていないんだからね。いわんや先生せんせい以上いじょうに楽らくをして生きいきて来きた彼かれ輩やからにおいてをやだ」 彼かれ輩やからとは誰だれの事ことだか津田つだにもよく解らわからなかった。
彼かれはただ腹はらの中なかで、おおかた吉川よしかわ夫人ふじんだの岡本おかもとだのを指すさすのだろうと思っおもったぎりであった。
実際じっさい小林こばやしは相手あいてにそんな質問しつもんをかけさせる余地よちを与えあたえないで、さっさと先さきへ行っいった。
「第だい二ににはだね。君きみの目下めしたの境遇きょうぐうが、今いま僕ぼくの云っいったような助言じょげん――だか忠告ちゅうこくだか、または単なるたんなる知識ちしきの供給きょうきゅうだか、それは何なんでも構わかまわないが、とにかくそんなものに君きみの注意ちゅういを向けるむける必要ひつようを感じかんじさせないのだ。頭あたまでは解るわかる、しかし胸むねでは納得なっとくしない、これが現在げんざいの君きみなんだ。つまり君きみと僕ぼくとはそれだけ懸絶けんぜつしているんだから仕方しかたがないと跳ねはねつけられればそれまでだが、そこに君きみの注意ちゅういを払わはらわせたいのが、実じつは僕ぼくの目的もくてきだ、いいかね。人間にんげんの境遇きょうぐうもしくは位地いちの懸絶けんぜつといったところで大したたいしたものじゃないよ。本式ほんしきに云えいえば十人じゅうにんが十人じゅうにんながらほぼ同じおなじ経験けいけんを、違っちがった形式けいしきで繰り返しくりかえしているんだ。それをもっと判然はんぜん云ういうとね、僕ぼくは僕ぼくで、僕ぼくに最ももっとも切実せつじつな眼めでそれを見るみるし、君きみはまた君きみで、君きみに最ももっとも適当てきとうな眼めでそれを見るみる、まあそのくらいの違いだろうじゃないか。だからさ、順境じゅんきょうにあるものがちょっと面めん喰うくうか、迷児まいごつくか、蹴爪けづめずくかすると、そらすぐ眼めの球たまの色いろが変っかわって来るくるんだ。しかしいくら眼めの球たまの色いろが変っかわったって、急きゅうに眼めの位置いちを変えるかえる訳わけには行かいかないだろう。つまり君きみに一朝いっちょう事ことがあったとすると、君きみは僕ぼくのこの助言じょげんをきっと思い出さおもいださなければならなくなるというだけの事ことさ」「じゃよく気きをつけて忘れわすれないようにしておくよ」「うん忘れわすれずにいたまえ、必ずかならず思い当るおもいあたる事ことが出でて来るくるから」「よろしい。心得こころえたよ」「ところがいくら心得こころえたって駄目だめなんだからおかしいや」 小林こばやしはこう云っいって急きゅうに笑いわらい出しだした。
津田つだにはその意味いみが解らわからなかった。
小林こばやしは訊かきかれない先さきに説明せつめいした。
「その時じひょっと気きがつくとするぜ、いいかね。そうしたらその時じの君きみが、やっという掛声かけごえと共ともに、早変りはやがわりができるかい。早変りはやがわりをしてこの僕ぼくになれるかい」「そいつは解らわからないよ」「解らわからなかない、解っわかってるよ。なれないにきまってるんだ。憚りはばかりながらここまで来るくるには相当そうとうの修業しゅぎょうが要るいるんだからね。いかに痴鈍なまくらな僕ぼくといえども、現在げんざいの自分じぶんに対したいしてはこれで血ちの代だいを払っはらってるんだ」 津田つだは小林こばやしの得意とくいが癪しゃくに障っさわった。
此奴こいつが狗いぬのような毒血どくちを払っはらってはたして何物なにものを掴んつかんでいる?
こう思っおもった彼かれはわざと軽蔑けいべつの色いろを面めんに現わしあらわして訊いきいて見みた。
「それじゃ何なんのためにそんな話はなしを僕ぼくにして聴かきかせるんだ。たとい僕ぼくが覚えおぼえていたって、いざという場合ばあいの役やくにゃ立たたたないじゃないか」「役やくにゃ立つたつまいよ。しかし聴かきかないよりましじゃないか」「聴かきかない方ほうがましなくらいだ」 小林こばやしは嬉しうれしそうに身体しんたいを椅子いすの背せに靠せかけてまた笑いわらい出しだした。
「そこだ。そう来るくるところがこっちの思うおもう壺つぼなんだ」「何なんをいうんだ」「何なんも云やいやしない、ただ事実じじつを云ういうのさ。しかし説明せつめいだけはしてやろう。今いまに君きみがそこへ追いつめおいつめられて、どうする事こともできなくなった時じに、僕ぼくの言葉ことばを思い出すおもいだすんだ。思い出すおもいだすけれども、ちっとも言葉ことば通りとおりに実行じっこうはできないんだ。これならなまじいあんな事ことを聴いきいておかない方ほうがよかったという気きになるんだ」 津田つだは厭いやな顔かおをした。
「馬鹿ばか、そうすりゃどこがどうするんだ」「どうしもしないさ。つまり君きみの軽蔑けいべつに対するたいする僕ぼくの復讐ふくしゅうがその時じ始めはじめて実現じつげんされるというだけさ」 津田つだは言葉ことばを改めあらためた。
「それほど君きみは僕ぼくに敵意てきいをもってるのか」「どうして、どうして、敵意てきいどころか、好意こうい精一杯せいいっぱいというところだ。けれども君きみの僕ぼくを軽蔑けいべつしているのはいつまで行っいっても事実じじつだろう。僕ぼくがその裏うらを指摘してきして、こっちから見るみるとその君きみにもまた軽蔑けいべつすべき点てんがあると注意ちゅういしても、君きみは乙おつに高くたかくとまって平気へいきでいるじゃないか。つまり口くちじゃ駄目だめだ、実戦じっせんで来いこいという事ことになるんだから、僕ぼくの方ほうでもやむをえずそこまで行っいって勝負しょうぶを決しようけっしようというだけの話はなしだあね」「そうか、解っわかった。――もうそれぎりかい、君きみのいう事ことは」「いやどうして。これからいよいよ本論ほんろんに入ろうはいろうというんだ」 津田つだは一気いっきに洋盃こっぷを唇くちびるへあてがって、ぐっと麦酒びーるを飲み干しのみほした小林こばやしの様子ようすを、少しすこし呆れあきれながら眺めながめた。
百五十九ひゃくごじゅうきゅう
小林こばやしは言葉ことばを継ぐつぐ前まえに、洋盃こっぷを下したへ置いおいて、まず室内しつないを見渡しみわたした。
女おんな伴ともの客きゃくのうち、一いち組くみの相手あいては洗あらい指ゆび盆ぼんの中なかへ入れいれた果物くだものを食っしょくった後あとの手てを、袂たもとから出しだした美びくしい手帛はんけちで拭いぬぐいていた。
彼かれの筋向うすじむこうに席せきを取っとって、先刻せんこくから時々ときどき自分じぶん達とおるの方ほうを偸むぬすむようにして見るみる二に十じゅう五ご六ろくの方ほうは、※※茶碗ちゃわんを手てにしながら、男おとこの吹かすふかす煙草たばこの煙けむりを眺めながめて、しきりに芝居しばいの話はなしをしていた。
両方りょうほうとも彼かれらより先さきに来きただけあって、彼かれらより先さきに席せきを立つたつ順序じゅんじょに、食事しょくじの方ほうの都合つごうも進行しんこうしているらしく見えみえた時じ、小林こばやしは云っいった。
「やあちょうど好いよい。まだいる」 津田つだはまたはっと思っおもった。
小林こばやしはきっと彼かれらの気きを悪くわるくするような事ことを、彼かれらに聴こえようきこえようがしに云ういうに違いなかった。
「おいもう好いよい加減かげんに止せよせよ」「まだ何になんにも云やいやしないじゃないか」「だから注意ちゅういするんだ。僕ぼくの攻撃こうげきはいくらでも我慢がまんするが、縁えんもゆかりもない人ひとの悪口わるぐちなどは、ちっと慎しんつつしんでくれ、こんな所ところへ来きて」「厭いやに小心しあおしんだな。おおかた場末ばすえの酒場さかばとここといっしょにされちゃたまらないという意味いみなんだろう」「まあそうだ」「まあそうだなら、僕ぼくのごとき無頼漢ぶらいかんをこんな所ところへ招待しょうたいするのが間ま違いだ」「じゃ勝手にかってにしろ」「口くちで勝手にかってにしろと云いいいながら、内心ないしんひやひやしているんだろう」 津田つだは黙っだまってしまった。
小林こばやしは面白おもしろそうに笑っわらった。
「勝っかったぞ、勝っかったぞ。どうだ降参こうさんしたろう」「それで勝っかったつもりなら、勝手にかってに勝っかったつもりでいるがいい」「その代りかわり今後こんごますます貴様きさまを軽蔑けいべつしてやるからそう思えおもえだろう。僕ぼくは君きみの軽蔑けいべつなんか屁へとも思っおもっちゃいないよ」「思わおもわなけりゃ思わおもわないでもいいさ。五月蠅いうるさい男おとこだな」 小林こばやしはむっとした津田つだの顔かおを覗き込むのぞきこむようにして見つめみつめながら云っいった。
「どうだ解っわかったか、おい。これが実戦じっせんというものだぜ。いくら余裕よゆうがあったって、金持かねもちに交際こうさいがあったって、いくら気位きぐらいを高くたかく構えかまえたって、実戦じっせんにおいて敗北はいぼくすりゃそれまでだろう。だから僕ぼくが先刻せんこくから云ういうんだ、実地じっちを踏んふんで鍛え上げきたえあげない人間にんげんは、木偶の坊でくのぼうと同どうなじ事ことだって」「そうだそうだ。世の中よのなかで擦れっ枯らしすれっからしと酔払いよっぱらいに敵うかなうものは一人ひとりもないんだ」 何なんか云ういうはずの小林こばやしは、この時じ返事へんじをする代りかわりにまた女おんな伴ともの方ほうを一いち順じゅん見廻しみまわした後あとで、云っいった。
「じゃいよいよ第だい三さんだ。あの女おんなの立たたたないうちに話しはなしてしまわないと気きがすまない。好いよいかね、君きみ、先刻せんこくの続きつづきだぜ」 津田つだは黙っだまって横よこを向いむかいた。
小林こばやしはいっこう構わかまわなかった。
「第だい三さんにはだね。すなわち換言かんげんすると、本論ほんろんに入っはいって云えいえばだね。僕ぼくは先刻せんこくあすこにいる女おんな達とおるを捕まえつかまえて、ありゃ芸者げいしゃかって君きみに聴いきいて叱らしかられたね。君きみは貴婦人きふじんに対するたいする礼れい義ぎを心得こころえない野人やじんとして僕ぼくを叱っしかったんだろう。よろしい僕ぼくは野人やじんだ。野人やじんだから芸者げいしゃと貴婦人きふじんとの区別くべつが解らわからないんだ。それで僕ぼくは君きみに訊いきいたね、いったい芸者げいしゃと貴婦人きふじんとはどこがどう違うちがうんだって」 小林こばやしはこう云いいいながら、三さん度目どめの視線しせんをまた女おんな伴ともの方ほうに向けむけた。
手帛はんけちで手てを拭いぬぐいていた人ひとは、それを合図あいずのように立ち上ったちのぼった。
残るのこる一人ひとりも給仕きゅうじを呼んよんで勘定かんじょうを払っはらった。
「とうとう立ったっちまった。もう少しすこし待っまってると面白いおもしろいところへ来るくるんだがな、惜しいおしい事ことに」 小林こばやしは出でて行くいく女おんな伴ともの後影うしろかげを見送っみおくった。
「おやおやもう一人ひとりも立つたつのか。じゃ仕方しかたがない、相手あいてはやっぱり君きみだけだ」 彼かれは再びふたたび津田つだの方ほうへ向き直っむきなおった。
「問題もんだいはそこだよ、君きみ。僕ぼくが仏蘭西ふらんす料理りょうりと英吉利いぎりす料理りょうりを食いくい分けるわける事ことができずに、糞ふんと味噌みそをいっしょにして自慢じまんすると、君きみは相手あいてにしない。たかが口腹こうふくの問題もんだいだという顔かおをして高こうを括っくくっている。しかし内容ないようは一いちつものだぜ、君きみ。この味覚みかくが発達はったつしないのも、芸者げいしゃと貴婦人きふじんを混同こんどうするのも」 津田つだはそれがどうしたと云わいわぬばかりの眼めを翻がえしひるがえして小林こばやしを見みた。
「だから結論けつろんも一いちつ所ところへ帰着きちゃくしなければならないというのさ。僕ぼくは味覚みかくの上うえにおいて、君きみに軽蔑けいべつされながら、君きみより幸福こうふくだと主張しゅちょうするごとく、婦人ふじんを識別しきべつする上うえにおいても、君きみに軽蔑けいべつされながら、君きみより自由じゆうな境遇きょうぐうに立ったっていると断言だんげんして憚からはばからないのだ。つまり、あれは芸者げいしゃだ、これは貴婦人きふじんだなんて鑑識かんしきがあればあるほど、その男おとこの苦痛くつうは増しまして来るくるというんだ。なぜと云っいって見みたまえ。しまいには、あれも厭いや、これも厭いやだろう。あるいはこれでなくっちゃいけない、あれでなくっちゃいけないだろう。窮屈きゅうくつ千万せんまんじゃないか」「しかしその窮屈きゅうくつ千万せんまんが好きすきなら仕方なかろうしかたなかろう」「来きたな、とうとう。食物しょくもつだと相手あいてにしないが、女おんなの事ことになると、やっぱり黙っだまっていられなくなると見えるみえるね。そこだよ、そこを実際じっさい問題もんだいについて、これから僕ぼくが論じようろんじようというんだ」「もうたくさんだ」「いやたくさんじゃないらしいぜ」 二人ふたりは顔かおを見合わせみあわせて苦笑くしょうした。
百六十ひゃくろくじゅう
小林こばやしは旨くうまく津田つだを釣りつり寄せよせた。
それと知っしった津田つだは考えかんがえがあるので、小林こばやしにわざと釣りつり寄せよせられた。
二人ふたりはとうとう際どいきわどい所ところへ入り込まはいりこまなければならなくなった。
「例えばたとえばだね」と彼かれが云いいい出しだした。
「君きみはあの清子きよこさんという女おんなに熱中ねっちゅうしていたろう。ひとしきりは、何なんでもかでもあの女おんなでなけりゃならないような事ことを云っいってたろう。そればかりじゃない、向うむこうでも天下てんかに君きみ一人ひとりよりほかに男おとこはないと思っおもってるように解釈かいしゃくしていたろう。ところがどうだい結果けっかは」「結果けっかは今いまのごとくさ」「大変たいへん淡泊たんぱくりしているじゃないか」「だってほかにしようがなかろう」「いや、あるんだろう。あっても乙おつに気取っきどって澄ましすましているんだろう。でなければ僕ぼくに隠しかくして今いまでも何なんかやってるんだろう」「馬鹿ばかいうな。そんな出鱈目でたらめをむやみに口走るくちばしるととんだ間ま違いになる。少しすこし気きをつけてくれ」「実じつは」と云いいいかけた小林こばやしは、その後そのあとを知っしってるかと云わいわぬばかりの様子ようすをした。
津田つだはすぐ訊きききたくなった。
「実じつはどうしたんだ」「実じつはこの間ま君きみの細君さいくんにすっかり話しはなしちまったんだ」 津田つだの表情ひょうじょうがたちまち変っかわった。
「何なんを?」 小林こばやしは相手あいての調子ちょうしと顔つきかおつきを、噛んかんで味わいあじわいでもするように、しばらく間まをおいて黙っだまっていた。
しかし返事へんじを表ひょうへ出しだした時じは、もう態度たいどを一変いっぺんしていた。
「嘘うそだよ。実じつは嘘うそだよ。そう心配しんぱいする事ことはないよ」「心配しんぱいはしない。今いまになってそのくらいの事ことを云ついつけられたって」「心配しんぱいしない? そうか、じゃこっちも本当ほんとうだ。実じつは本当ほんとうだよ。みんな話しはなしちまったんだよ」「馬鹿ばかッっ」 津田つだの声こえは案外あんがい大きかっおおきかった。
行儀ぎょうぎよく椅子いすに腰こしをかけていた給仕きゅうじの女おんなが、ちょっと首くびを上げあげて眼めをこっちへ向けむけたので、小林こばやしはすぐそれを材料ざいりょうにした。
「貴婦人きふじんが驚ろくおどろくから少しすこし静かしずかにしてくれ。君きみのような無頼漢ぶらいかんといっしょに酒さけを飲むのむと、どうも外聞がいぶんが悪くわるくていけない」 彼かれは給きゅう使しの女おんなの方ほうを見みて微笑びしょうして見せみせた。
女おんなも微笑びしょうした。
津田つだ一いち人ひと怒るおこる訳わけに行かいかなかった。
小林こばやしはまたすぐその機きに付け込んつけこんだ。
「いったいあの顛末てんまつはどうしたのかね。僕ぼくは詳しいくわしい事ことを聴かきかなかったし、君きみも話さはなさなかった、のじゃない、僕ぼくが忘れわすれちまったのか。そりゃどうでも構わかまわないが、ありゃ向うむこうで逃げにげたのかね、あるいは君きみの方ほうで逃げにげたのかね」「それこそどうでも構わかまわないじゃないか」「うん僕ぼくとしては構わかまわないのが当然とうぜんだ。また実際じっさい構っかまっちゃいない。が、君きみとしてはそうは行くいくまい。君きみは大おお構いかまいだろう」「そりゃ当り前あたりまえさ」「だから先刻せんこくから僕ぼくが云ういうんだ。君きみには余裕よゆうがあり過ぎるすぎる。その余裕よゆうが君きみをしてあまりに贅沢ぜいたくならしめ過ぎるすぎる。その結果けっかはどうかというと、好きすきなものを手てに入れるいれるや否いなや、すぐその次つぎのものが欲しくほしくなる。好きすきなものに逃げにげられた時じは、地団太じだんだを踏んふんで口惜しくやしがる」「いつそんな様ようを僕ぼくがした」「したともさ。それから現にげんにしつつあるともさ。それが君きみの余裕よゆうに祟らたたられている所以ゆえんだね。僕ぼくの最ももっとも痛快つうかいに感ずるかんずるところだね。貧賤ひんせんが富貴ふうきに向っむかって復讐ふくしゅうをやってる因果応報いんがおうほうの理りだね」「そう頭あたまから自分じぶんの拵えこしらえた型かたで、他ほかを評価ひょうかする気きならそれまでだ。僕ぼくには弁解べんかいの必要ひつようがないだけだから」「ちっとも自分じぶんで型かたなんか拵えこしらえていやしないよ僕ぼくは。これでも実際じっさいの君きみを指摘してきしているつもりなんだから。分らわからなけりゃ、事実じじつで教えおしえてやろうか」 教えろおしえろとも教えるおしえるなとも云わいわなかった津田つだは、ついに教えおしえられなければならなかった。
「君きみは自分じぶんの好みこのみでお延のべさんを貰っもらったろう。だけれども今いまの君きみはけっしてお延おのべさんに満足まんぞくしているんじゃなかろう」「だって世の中よのなかに完全かんぜんなもののない以上いじょう、それもやむをえないじゃないか」「という理由りゆうをつけて、もっと上等じょうとうなのを探し廻るさがしまわる気きだろう」「人ひと聞ききの悪いわるい事ことを云ういうな、失敬しっけいな。君きみは実際じっさい自分じぶんでいう通りとおりの無頼漢ぶらいかんだね。観察かんさつの下卑げびて皮肉ひにくなところから云っいっても、言動げんどうの無遠慮むえんりょで、粗野そやなところから云っいっても」「そうしてそれが君きみの軽蔑けいべつに値あたいする所以ゆえんなんだ」「もちろんさ」「そらね。そう来るくるから畢竟ひっきょう口先くちさきじゃ駄目だめなんだ。やッぱりやっぱり実戦じっせんでなくっちゃ君きみは悟れさとれないよ。僕ぼくが予言よげんするから見みていろ。今いまに戦いたたかいが始まるはじまるから。その時じようやく僕ぼくの敵てきでないという意味いみが分るわかるから」「構わかまわない、擦れっ枯らしすれっからしに負けるまけるのは僕ぼくの名誉めいよだから」「強情ごうじょだな。僕ぼくと戦うたたかうんじゃないぜ」「じゃ誰だれと戦うたたかうんだ」「君きみは今いますでに腹はらの中なかで戦いたたかいつつあるんだ。それがもう少しすこしすると実際じっさいの行為こういになって外そとへ出るでるだけなんだ。余裕よゆうが君きみを煽動せんどうして無役むやくの負戦まけいくさをさせるんだ」 津田つだはいきなり懐中かいちゅうから紙入かみいれを取り出しとりだして、お延のべと相談そうだんの上うえ、餞別せんべつの用意よういに持っもって来きた金きんを小林こばやしの前まえへ突きつけつきつけた。
「今いま渡しわたしておくから受取っうけとっておけ。君きみと話しはなしていると、だんだんこの約束やくそくを履行りこうするのが厭いやになるだけだから」 小林こばやしは新らしいあたらしい十じゅう円えん紙幣しへいの二につに折れおれたのを広げひろげて丁寧ていねいに、枚数まいすうを勘定かんじょうした。
「三さん枚ばいあるね」
百六十一ひゃくろくじゅういち
小林こばやしは受け取っうけとったものを、赤裸あかはだかのまま無む雑作ぞうさに背広せびろの隠いん袋ふくろの中なかへ投げ込んなげこんだ。
彼かれの所作しょさが平淡へいたんであったごとく、彼かれの礼れいの云いいい方ほうも横着おうちゃくであった。
「サンクスさんくす。僕ぼくは借りるかりる気きだが、君きみはくれるつもりだろうね。いかんとなれば、僕ぼくに返すかえす手段しゅだんのない事ことを、また返すかえす意志いしのない事ことを、君きみは最初さいしょから軽蔑けいべつの眼めをもって、認めみとめているんだから」 津田つだは答えこたえた。
「無論むろんやったんだ。しかし貰っもらってみたら、いかな君きみでも自分じぶんの矛盾むじゅんに気きがつかずにはいられまい」「いやいっこう気きがつかない。矛盾むじゅんとはいったい何なんだ。君きみから金きんを貰うもらうのが矛盾むじゅんなのか」「そうでもないがね」と云っいった津田つだは上うえから下したを見下すみくだすような態度たいどをとった。
「まあ考えかんがえて見みたまえ。その金きんはつい今までいままで僕ぼくの紙入かみいれの中なかにあったんだぜ。そうして転瞬てんしゅんの間まに君きみの隠いん袋ふくろの裏うらに移転いてんしてしまったんだぜ。そんな小説しょうせつ的まとの言葉ことばを使うつかうのが厭いやなら、もっと判然はんぜん云おういおうか。その金きんの所有権しょゆうけんを急きゅうに僕ぼくから君きみに移しうつしたものは誰だれだ。答えこたえて見ろみろ」「君きみさ。君きみが僕ぼくにくれたのさ」「いや僕ぼくじゃないよ」「何なんを云ういうんだな禅ぜん坊主ぼうずの寝言ねごと見みたいな事ことを。じゃ誰だれだい」「誰だれでもない、余裕よゆうさ。君きみの先刻せんこくから攻撃こうげきしている余裕よゆうがくれたんだ。だから黙っだまってそれを受け取っうけとった君きみは、口くちでむちゃくちゃに余裕よゆうをぶちのめしながら、その実じつ余裕よゆうの前まえにもう頭あたまを下げさげているんだ。矛盾むじゅんじゃないか」 小林こばやしは眼めをぱちぱちさせた後あとでこう云っいった。
「なるほどな、そう云えいえばそんなものか知らかしら。しかし何なんだかおかしいよ。実際じっさい僕ぼくはちっともその余裕よゆうなるものの前まえに、頭あたまを下げさげてる気きがしないんだもの」「じゃ返しかえしてくれ」 津田つだは小林こばやしの鼻はなの先さきへ手てを出しだした。
小林こばやしは女おんなのように柔らかやわらかそうなその掌てのひらを見みた。
「いや返さかえさない。余裕よゆうは僕ぼくに返せかえせと云わいわないんだ」 津田つだは笑いわらいながら手てを引き込めひきこめた。
「それみろ」「何なんがそれみろだ。余裕よゆうは僕ぼくに返せかえせと云わいわないという意味いみが君きみにはよく解らわからないと見えるみえるね。気の毒きのどくなる貴公子きこうしよだ」 小林こばやしはこう云いいいながら、横よこを向いむかいて戸口とぐちの方ほうを見みつつ、また一句いっくを付け加えつけくわえた。
「もう来きそうなものだな」 彼かれの様子ようすをよく見守っみまもった津田つだは、少しすこし驚ろかさおどろかされた。
「誰だれが来るくるんだ」「誰だれでもない、僕ぼくよりもまだ余裕よゆうの乏しいとぼしい人ひとが来るくるんだ」 小林こばやしは裸はだかのまま紙幣しへいをしまい込んしまいこんだ自分じぶんの隠いん袋ふくろを、わざとらしく軽くかるく叩いたたいた。
「君きみから僕ぼくにこれを伝えつたえた余裕よゆうは、再びふたたびこれを君きみに返せかえせとは云わいわないよ。僕ぼくよりもっと余裕よゆうの足りたりない方ほうへ順送りじゅんおくりに送れおくれと命令めいれいするんだよ。余裕よゆうは水みずのようなものさ。高いたかい方ほうから低いひくい方ほうへは流れるながれるが、下したから上うえへは逆行ぎゃっこうしないよ」 津田つだはほぼ小林こばやしの言葉ことばを、意い解するかいする事ことができた。
しかし事こと解するかいする事ことはできなかった。
したがって半はん醒半せいはん酔よいのような落ちつきおちつきのない状態じょうたいに陥っおちいった。
そこへ小林こばやしの次つぎの挨拶あいさつがどさどさと侵入しんにゅうして来きた。
「僕ぼくは余裕よゆうの前まえに頭あたまを下げるさげるよ、僕ぼくの矛盾むじゅんを承認しょうにんするよ、君きみの詭弁きべんを首肯しゅこうするよ。何なんでも構わかまわないよ。礼れいを云ういうよ、感謝かんしゃするよ」 彼かれは突然とつぜんぽたぽたと涙なみだを落しおとし始めはじめた。
この急劇きゅうげきな変化へんかが、少しすこし驚ろいおどろいている津田つだを一層いっそう不安ふあんにした。
せんだっての晩ばん手古摺らさてこずらされた酒場さかばの光景こうけいを思い出さおもいださざるを得とくなくなった彼かれは、眉まゆをひそめると共ともに、相手あいてを利用りようするのは今いまだという事ことに気きがついた。
「僕ぼくが何なんで感謝かんしゃなんぞ予期よきするものかね、君きみに対したいして。君きみこそ昔むかしを忘れわすれているんだよ。僕ぼくの方ほうが昔むかしのままでしている事ことを、君きみはみんな逆ぎゃくに解釈かいしゃくするから、交際こうさいがますます面倒めんどうになるんじゃないか。例えばたとえばだね、君きみがこの間ま僕ぼくの留守るすへ外套がいとうを取りとりに行っいって、そのついでに何なんか妻つまに云っいったという事ことも――」 津田つだはこれだけ云っいって暗にあんに相手あいての様子ようすを窺っうかがった。
しかし小林こばやしが下したを向いむかいているので、彼かれはまるでその心持こころもちの転化てんか作用さようを忖度そんたくする事ことができなかった。
「何なんも好んこのんで友達ともだちの夫婦仲ふうふなかを割くさくような悪戯いたずらをしなくってもいい訳わけじゃないか」「僕ぼくは君きみに関しかんして何なんも云っいった覚さとしはないよ」「しかし先刻せんこく……」「先刻せんこくは笑談しょうだんさ。君きみが冷れい嘲あざけりすから僕ぼくも冷れい嘲あざけりしたんだ」「どっちが冷れい嘲あざけりし出しだしたんだか知らしらないが、そりゃどうでもいいよ。ただ本当ほんとうのところを僕ぼくに云っいってくれたって好さよさそうなものだがね」「だから云っいってるよ。何になんにも君きみに関しかんして云っいった覚さとしはないと何なん遍へんも繰り返しくりかえして云っいってるよ。細君さいくんを訊ききき糺しただして見れみれば解るわかる事ことじゃないか」「お延のべは……」「何なんと云っいったい」「何なんとも云わいわないから困るこまるんだ。云わいわないで腹はらの中なかで思っおもっていられちゃ、弁解べんかいもできず説明せつめいもできず、困るこまるのは僕ぼくだけだからね」「僕ぼくは何になんにも云わいわないよ。ただ君きみがこれから夫おっとらしくするかしないかが問題もんだいなんだ」「僕ぼくは――」 津田つだがこう云いいいかけた時じ、近寄るちかよる足音あしおとと共ともに新らしくあたらしく入っはいって来きた人ひとが、彼かれらの食卓しょくたくの傍そばに立ったった。
百六十二ひゃくろくじゅうに
それが先刻せんこく大通りおおどおりの角かくで、小林こばやしと立たて談だんをしていた長髪ちょうはつの青年せいねんであるという事ことに気きのついた時じ、津田つだはさらに驚ろかさおどろかされた。
けれどもその驚ろきおどろきのうちには、暗にあんにこの男おとこを待ち受けまちうけていた期待きたいも交っかっていた。
明らさまあからさまな津田つだの感じかんじを云えいえば、こんな人ひとがここへ来るくるはずはないという断案だんあんと、もしここへ誰だれか来るくるとすれば、この人ひとよりほかにあるまいという予想よそうの矛盾むじゅんであった。
実じつを云ういうと、自働じどう車くるまの燭光しょっこうで照らさてらされた時じ、彼かれの眸ひとみの裏うらに映っうつったこの人ひとの影像えいぞうは津田つだにとって奇異きいなものであった。
自分じぶんから小林こばやし、小林こばやしからこの青年せいねん、と順々じゅんじゅんに眼めを移しうつして行くいくうちには、階級かいきゅうなり、思想しそうなり、職業しょくぎょうなり、服装ふくそうなり、種々しゅじゅな点てんにおいてずいぶんな距離きょりがあった。
勢いいきおい津田つだは彼かれを遠くとおくに眺めながめなければならなかった。
しかし遠くとおくに眺めれながめれば眺めるながめるほど、強くつよく彼かれを記憶きおくしなければならなかった。
「小林こばやしはああいう人ひとと交際こうさいってるのかな」 こう思っおもった津田つだは、その時じそういう人ひとと交際こうさいっていない自分じぶんの立場たちばを見廻しみまわして、まあ仕合せしあわせだと考えかんがえた後あとなので、新しん来者らいしゃに対するたいする彼かれの態度たいども自ずからおのずから明白めいはくであった。
彼かれは突然とつぜん胡散うさん臭いくさい人間にんげんに挨拶あいさつをされたような顔かおをした。
上うえへ反っ繰り返っそっくりかえった細いほそい鍔つばの、ぐにゃぐにゃした帽子ぼうしを脱だつって手てに持っもったまま、小林こばやしの隣りとなりへ腰こしをおろした青年せいねんの眼めには異様いようの光りひかりがあった。
彼かれは津田つだに対したいして現にげんに不安ふあんを感じかんじているらしかった。
それは一種いっしゅの反感はんかんと、恐怖きょうふと、人馴れひとなれない野育ちのそだちの自尊心じそんしんとが錯雑さくざつして起すおこす神経的しんけいてきな光りひかりに見えみえた。
津田つだはますます厭いやな気持きもちになった。
小林こばやしは青年せいねんに向っむかって云っいった。
「おいマントまんとでも取れとれ」 青年せいねんは黙っだまって再びふたたび立ち上ったちのぼった。
そうして釣鐘つりがねのような長いながい合羽かっぱをすぽりと脱いぬいで、それを椅子いすの背せに投げかけなげかけた。
「これは僕ぼくの友達ともだちだよ」 小林こばやしは始めはじめて青年せいねんを津田つだに紹介しょうかいせた。
原はらという姓せいと芸術家げいじゅつかという名称めいしょうがようやく津田つだの耳みみに入っはいった。
「どうした。旨くうまく行っいったかね」 これが小林こばやしの次つぎにかけた質問しつもんであった。
しかしこの質問しつもんは充分じゅうぶんな返事へんじを得るうる暇ひまがなかった。
小林こばやしは後あとからすぐこう云っいってしまった。
「駄目だめだろう。駄目だめにきまってるさ、あんな奴やつ。あんな奴やつに君きみの芸術げいじゅつが分っわかってたまるものか。いいからまあゆっくりして何なんか食いくいたまえ」 小林こばやしはたちまちナイフないふを倒さたおさまにして、やけに食卓しょくたくを叩いたたいた。
「おいこの人ひとの食うくうものを持っもって来いこい」 やがて原はらの前まえにあった洋盃こっぷの中なかに麦酒びーるがなみなみと注がちゅうがれた。
この様子ようすを黙っだまって眺めながめていた津田つだは、自分じぶんの持っもって来きた用事ようじのもう済んすんだ事ことにようやく気きがついた。
こんなお付合ふごうを長くながくさせられては大変たいへんだと思っおもった彼かれは、機きを見みて好いよい加減かげんに席せきを切り上げようきりあげようとした。
すると小林こばやしが突然とつぜん彼かれの方ほうを向いむかいた。
「原はら君きみは好いよい絵えを描くえがくよ、君きみ。一いち枚ばい買っかってやりたまえ。今いま困っこまってるんだから、気の毒きのどくだ」「そうか」「どうだ、この次つぎの日曜にちようぐらいに、君きみの家いえへ持っもって行っいって見せるみせる事ことにしたら」 津田つだは驚ろいおどろいた。
「僕ぼくに絵えなんか解らわからないよ」「いや、そんなはずはない、ねえ原はら。何しろなにしろ持っもって行っいって見せみせてみたまえ」「ええ御ご迷惑めいわくでなければ」 津田つだの迷惑めいわくは無論むろんであった。
「僕ぼくは絵えだの彫刻ちょうこくだのの趣味しゅみのまるでない人間にんげんなんですから、どうぞ」 青年せいねんは傷けきずつけられたような顔かおをした。
小林こばやしはすぐ応援おうえんに出でた。
「嘘うそを云ういうな。君きみぐらい鑑賞かんしょう力ちからの豊富ほうふな男おとこは実際じっさい世間せけんに少ないすくないんだ」 津田つだは苦笑くしょうせざるを得とくなかった。
「また下らしたらない事ことを云っいって、――馬鹿ばかにするな」「事実じじつを云ういうんだ、馬鹿ばかにするものか。君きみのように女おんなを鑑賞かんしょうする能力のうりょくの発達はったつしたものが、芸術げいじゅつを粗末そまつにする訳わけがないんだ。ねえ原はら、女おんなが好きすきな以上いじょう、芸術げいじゅつも好きすきにきまってるね。いくら隠しかくしたって駄目だめだよ」 津田つだはだんだん辛しん防ぼうし切れきれなくなって来きた。
「だいぶ話はなしが長くながくなりそうだから、僕ぼくは一足先いちそくさきへ失敬しっけいしよう、――おい姉さんあねさん会計かいけいだ」 給仕きゅうじが立ちたちそうにするところを、小林こばやしは大きなおおきな声こえを出しだして止めとめながら、また津田つだの方ほうへ向き直っむきなおった。
「ちょうど今いま一いち枚ばい素敵すてきに好いよいのが描いえがいてあるんだ。それを買おうかおうという望もち手ての所ところへ価値かちの相談そうだんに行っいった帰りがけかえりがけに、原はら君きみはここへ寄っよったんだから、旨いうまい機会きかいじゃないか。是非ぜひ買いかいたまえ。芸術家げいじゅつかの足元あしもとへ付け込んつけこんで、むやみに価あたい切り倒すきりたおすなんて失敬しっけいな奴やつへは売らうらないが好いよいというのが僕ぼくの意見いけんなんだ。その代りかわりきっと買手かいてを周旋しゅうせんしてやるから、帰りかえりにここへ寄るよるがいいと、先刻せんこくあすこの角かくで約束やくそくしておいたんだ、実じつを云ういうと。だから一いちつ買っかってやるさ、訳わけゃないやね」「他ほかに絵えも何になんにも見せみせないうちから、勝手にかってにそんな約束やくそくをしたってしようがないじゃないか」「絵えは見せるみせるよ。――君きみ今日きょう持っもって帰らかえらなかったのか」「もう少しすこし待っまってくれっていうから置いおいて来きた」「馬鹿ばかだな、君きみは。しまいにロハろはで捲き上げまきあげられてしまうだけだぜ」 津田つだはこの問答もんどうを聴いきいてほっと一息ひといき吐いはいた。
百六十三ひゃくろくじゅうさん
二人ふたりは津田つだを差し置いさしおいて、しきりに絵画かいがの話はなしをした。
時々ときどき耳みみにする三角さんかく派はとか未来派みらいはとかいう奇怪きっかいな名称めいしょうのほかに、彼かれは今までいままでかつて聴いきいた事ことのないような片仮名かたかなをいくつとなく聴かさきかされた。
その何処どこにも興味きょうみを見出だしみいだし得とくなかった彼かれは、会談かいだんの圏外けんがいへ放逐ほうちくされるまでもなく、自分じぶんから埒らちを脱け出しぬけだしたと同じおなじ事ことであった。
これだけでも一通りひととおり以上いじょうの退屈たいくつである上うえに、津田つだを厭いやがらせる積極的せっきょくてきなものがまだ一いちつあった。
彼かれは自分じぶんの眼前がんぜんに見るみるこの二人ふたり、ことに小林こばやしを、むやみに新らしいあたらしい芸術げいじゅつをふり廻しふりまわしたがる半可通はんかつうとして、最初さいしょから取扱っとりあつかっていた。
彼かれはこの偏見へんけんの上うえへ、乙おつに識者しきしゃぶる彼かれらの態度たいどを追加ついかして眺めながめた。
この点てんにおいて無知むちな津田つだを羨やましうらやましがらせるのが、ほとんど二人ふたりの目的もくてきででもあるように見えみえ出しだした時じ、彼かれは無理むりにいったん落ちつけおちつけた腰こしをまた浮かしうかしにかかった。
すると小林こばやしがまた抑留よくりゅうした。
「もう直じかだ、いっしょに行くいくよ、少しすこし待っまってろ」「いやあんまり遅くおそくなるから……」「何なんもそんなに他ほかに恥はじを掻かかかせなくってもよかろう。それとも原はら君きみが食っしょくっちまうまで待っまってると、紳士しんしの体面たいめんに関わるかかわるとでも云ういうのか」 原はらは刻んきざんだサラドさらどをハムはむの上うえへ載せのせて、それを肉にく叉またで突き差しつきさした手てを止めとめた。
「どうぞお構いおかまいなく」 津田つだが軽くかるく会釈えしゃくを返しかえして、いよいよ立ち上がろうたちあがろうとした時じ、小林こばやしはほとんど独りごとひとりごとのように云っいった。
「いったいこの席せきを何なんと思っおもってるんだろう。送別会そうべつかいと号しごうして他ほかを呼んよんでおきながら、肝心かんじんのお客さんおきゃくさんを残しのこして、先さきへ帰っかえっちまうなんて、侮辱ぶじょくを与えるあたえる奴やつが世の中よのなかにいるんだから厭いやになるな」「そんなつもりじゃないよ」「つもりでなければ、もう少いすくないろよ」「少しすこし用ようがあるんだ」「こっちにも少しすこし用ようがあるんだ」「絵えなら御免ごめんだ」「絵えも無理むりに買えかえとは云わいわないよ。吝けちな事ことを云ういうな」「じゃ早くはやくその用ようを片づけかたづけてくれ」「立ったってちゃ駄目だめだ。紳士しんしらしく坐らすわらなくっちゃ」 仕方なししかたなしにまた腰こしをおろした津田つだは、袂たもとから煙草たばこを出しだして火ひを点けつけた。
ふと見るみると、灰皿はいざらは敷島しきしまの残骸ざんがいでもういっぱいになっていた。
今夜こんやの記念きねんとしてこれほど適当てきとうなものはないという気きが、偶然ぐうぜん津田つだの頭あたまに浮かんうかんだ。
これから呑もうのもうとする一いち本ほんも、三さん分ぶん経つたつか経たへたないうちに、灰はいと煙けむりと吸口すいくちだけに変形へんけいして、役やくにも立たたたない冷たつめたさを皿さらの上うえにとどめるに過ぎすぎないと思うおもうと、彼かれは何なんとなく厭いやな心持こころもちがした。
「何なんだい、その用事ようじというのは。まさか無心むしんじゃあるまいね、もう」「だから吝けちな事ことを云ういうなと、先刻せんこくから云っいってるじゃないか」 小林こばやしは右みぎの手てで背広せびろの右前うぜんを掴んつかんで、左ひだりの手てを隠いん袋ふくろの中なかへ入れいれた。
彼かれは暗闇くらやみで物ものを探るさぐるように、しばらく入れいれた手てを、背広せびろの裏側うらがわで動かしうごかしながら、その間ま始終しじゅう眼めを津田つだの顔かおへぴったり付けつけていた。
すると急きゅうに突飛とっぴな光景こうけいが、津田つだの頭あたまの中なかに描き出さえがきだされた。
同時どうじに変へんな妄想もうそうが、今いま呑んのんでいる煙草たばこの煙けむりのように、淡くあわく彼かれの心こころを掠めかすめて過ぎすぎた。
「此奴こいつは懐ふところから短銃たんじゅうを出すだすんじゃないだろうか。そうしてそれをおれの鼻はなの先さきへ突きつけるつきつけるつもりじゃないかしら」 芝居しばいじみた一いち刹那せつなが彼かれの予感よかんを微かかすかに揺ぶっゆさぶった時じ、彼かれの神経しんけいの末梢まっしょうは、眼めに見えみえない風かぜに弄らいじられる細いほそい小枝こえだのように顫動せんどうした。
それと共ともに、妄りみだりに自分じぶんで拵えこしらえたこの一場いちじょうの架空かくう劇げきをよそ目よそめに見みて、その荒誕こうたんを冷笑れいしょうう理智りちの力ちからが、もう彼かれの中心ちゅうしんに働はたらけらいていた。
「何なんを探しさがしているんだ」「いやいろいろなものがいっしょに入っはいってるからな、手ての先さきでよく探しあてさがしあてた上うえでないと、滅多めったに君きみの前まえへは出さだされないんだ」「間違えまちがえて先刻せんこく放り込んほうりこんだ札さつでも出すだすと、厄介やっかいだろう」「なに札さつは大丈夫だいじょうぶだ。ほかの紙片しへんと違っちがって活きつきてるから。こうやって、手てで障っさわって見るみるとすぐ分るわかるよ。隠いん袋ふくろの中なかで、ぴちぴち跳ねはねてる」 小林こばやしは減らへらず口くちを利きききながら、わざと空しいむなしい手てを出しだした。
「おやないぞ。変へんだな」 彼かれは左ひだり胸部きょうぶにある表ひょう隠いん袋ふくろへ再びふたたび右みぎの手てを突き込んつきこんだ。
しかしそこから彼かれの撮み出しつまみだしたものは皺しわだらけになった薄うす汚ないきたない手帛はんけちだけであった。
「何なんだ手品てじなでも使うつかう気きなのか、その手帛はんけちで」 小林こばやしは津田つだの言葉ことばを耳みみにもかけなかった。
真面目まじめな顔かおをして、立ち上りたちあがりながら、両手りょうてで腰こしの左右さゆうを同時どうじに叩いたたいた後あとで、いきなり云っいった。
「うんここにあった」 彼かれの洋よう袴はかまの隠いん袋ふくろから引き摺りひきずり出しだしたものは、一いち通つうの手紙てがみであった。
「実じつは此奴こいつを君きみに読まよませたいんだ。それももう当分とうぶん君きみに会うあう機会きかいがないから、今夜こんやに限るかぎるんだ。僕ぼくと原はら君きみと話しはなしている間まに、ちょっと読んよんでくれ。何なん訳わけゃないやね、少しすこし長いながいけれども」 封書ふうしょを受取っうけとった津田つだの手ては、ほとんど器械きかい的まとに動いうごいた。
百六十四ひゃくろくじゅうよん
ペンぺんで原稿げんこう紙かみへ書きなぐるかきなぐるように認めみとめられたその手紙てがみは、長さながさから云っいっても、無論むろん普通ふつうの倍ばい以上いじょうあった。
のみならず宛名あてなは小林こばやしに違いなかったけれども、差出人さしだしにんは津田つだの見みた事ことも聴いきいた事こともない全くまったく未知みちの人ひとであった。
津田つだは封筒ふうとうの裏表うらおもてを読んよんだ後あとで、それがはたして自分じぶんに何なんの関係かんけいがあるのだろうと思っおもった。
けれども冷やかひややかな無関心むかんしんの傍そばに起っおこった一種いっしゅの好奇心こうきしんは、すぐ彼かれの手てを誘っさそった。
封筒ふうとうから引き抜いひきぬいた十じゅう行こう二に十字じゅうじ詰つめの罫紙けいしの上うえへ眼めを落しおとした彼かれは一気いっきに読み下しよみくだした。
「僕ぼくはここへ来きた事ことをもう後悔こうかいしなければならなくなったのです。あなたは定めさだめて飽っぽいと思うおもうでしょう、しかしこれはあなたと僕ぼくの性質せいしつの差違さいから出るでるのだから仕方しかたがないのです。またかと云わいわずに、まあ僕ぼくの訴えうったえを聞いきいて下さいください。女おんなばかりで夜よるが不用心ふようじんだから銀行ぎんこうの整理せいりのつくまで泊りとまりに来きて留守番るすばんをしてくれ、小説しょうせつが書きかきたければ自由じゆうに書くかくがいい、図書館としょかんへ行くいくなら弁当べんとうを持っもって行くいくがいい、午後ごごは画がを習いならいに行くいくがいい。今いまに銀行ぎんこうを東京とうきょうへ持っもって来るくると外国語がいこくご学校がっこうへ入れいれてやる、家いえの始末しまつは心配しんぱいするな、転居てんきょの金きんは出しだしてやる。――僕ぼくはこんなありがたい条件じょうけんに誘惑ゆうわくされたのです。もっとも一いちから十じゅうまで当にまさにした訳わけでもないんですが、その何なん割わりかは本当ほんとうに違いちがいないと思い込んおもいこんだのです。ところが来きて見るみると、本当ほんとうは一いちつもないんです、頭あたまから尻しりまで嘘うその皮かわなんです。叔父おじは東京とうきょうにいる方ほうが多いおおいばかりか、僕ぼくは書生しょせい代りかわりに朝あさから晩ばんまで使い歩きつかいあるきをさせられるだけなのです。叔父おじは僕ぼくの事ことを「宅たくの書生しょせい」といいます、しかも客きゃくの前まえでです、僕ぼくのいる前まえでです。
こんな訳わけで酒さけ一いち合あわせの使しから縁側えんがわの拭き掃除ふきそうじまでみんな僕ぼくの役やくになってしまうのです。
金きんはまだ一いち銭せんも貰っもらったことがありません。
僕ぼくの穿いはいていた一いち円えんの下駄げたが割れわれたら十二じゅうに銭せんのやつを買っかって穿かはかせました。
叔父おじは明日あす金きんをやると云っいって、僕ぼくの家族かぞくを姉あねの所ところへ転居てんきょさせたのですが、越しこしてしまったら、金きんの事ことは噫ああにも出さださないので、僕ぼくは帰るかえる宅たくさえなくなりました。
叔父おじの仕事しごとはまるで山やまです。
金きんなんか少しすこしもないのです。
そうして彼かれら夫婦ふうふは極めてきわめて冷やかひややかな極めてきわめて吝嗇りんしょくな人ひと達とおるです。
だから来きた当座とうざ僕ぼくは空腹くうふくに堪えこらえかねて、三さん日ひに一遍いちぺんぐらい姉あねの家いえへ帰っかえって飯めしを食わしくわして貰いもらいました。
兵糧ひょうろうが尽きつきて焼芋やきいもや馬鈴薯じゃがいもで間まに合せあわせていたこともあります。
もっともこれは僕ぼくだけです。
叔母おばは極めてきわめて感じかんじの悪いわるい女おんなです。
万事ばんじが打算的ださんてきで、体裁ていさいばかりで、いやにこせこせ突とっッっ付きつき廻しまわしたがるんで、僕ぼくはちくちく刺ささされどうしに刺ささされているんです。
叔父おじは金きんのないくせに酒さけだけは飲みのみます。
そうして田舎いなかへ行けいけば殿様とのさまだなどと云っいって威張るいばるんです。
しかし裏側うらがわへ入っはいってみると驚ろくおどろく事ことばかりです。
訴訟そしょう事件じけんさえたくさん起っおこっているくらいです。
出発しゅっぱつのたびに汽車きしゃ賃ちんがなくって、質屋しちやへ駈けつけかけつけたり、姉あねの家いえへ行っいって、苦しいくるしいところを算段さんだんして来きてやったりしていますが、叔父おじの方ほうじゃ、僕ぼくの食費しょくひと差引さしひきにする気きか何なんかで澄ましすましているのです。
叔母おばは最初さいしょから僕ぼくが原稿げんこうを書いかいて食しょく扶持ふちでも入れるいれるものとでも思っおもってるんでしょう、僕ぼくがペンぺんを持っもっていると、そんなにして書いかいたものはいったいどうなるの、なんて当とう擦りすりを云いいいます。
新聞しんぶんの職業しょくぎょう案内あんない欄らんに出でている「事務員じむいん募集ぼしゅう」の広告こうこくを突きつけつきつけて謎なぞをかけたりします。
こういう事ことが繰り返さくりかえされて見るみると、僕ぼくは何なんしにここへ来きたんだか、まるで訳わけが解らわからなくなるだけです。
僕ぼくは変へんに考えかんがえさせられるのです。
全くまったく形かたちをなさないこの家いえの奇怪きっかいな生活せいかつと、変幻へんげん窮きゅうりなきこの妙みょうな家庭かていの内情ないじょうが、朝あさから晩ばんまで恐ろしいおそろしい夢ゆめでも見みているような気分きぶんになって、僕ぼくの頭あたまに祟ったたってくるんです。
それを他ほかに話しはなしたって、とうてい通じつうじっこないと思うおもうと、世界せかいのうちで自分じぶんだけが魔まに取り巻かとりまかれているとしか考えかんがえられないので、なお心細くこころぼそくなるのです、そうして時々ときどきは気きが狂いくるいそうになるのです。
というよりももう気きが狂っくるっているのではないかしらと疑がいうたがい出すだすと、たまらなく恐くこわくなって来るくるのです。
土つちの牢ろうの中なかで苦しんくるしんでいる僕ぼくには、日光にっこうがないばかりか、もう手ても足あしもないような気きがします。
何なんとなれば、手てを挙げあげても足あしを動かしうごかしても、四方しほうは真黒まっくろだからです。
いくら訴えうったえても、厚いあつい冷たいつめたい壁かべが僕ぼくの声こえを遮ぎっさえぎって世の中よのなかへ聴えきこえさせないようにするからです。
今いまの僕ぼくは天下てんかにたった一人ひとりです。
友達ともだちはないのです。
あっても無いないと同じおなじ事ことなのです。
幽霊ゆうれいのような僕ぼくの心境しんきょうに触れふれてくれる事ことのできる頭脳ずのうをもったものは、有るあるべきはずがないからです。
僕ぼくは苦しくるしさの余りあまりにこの手紙てがみを書きかきました。
救を求めるもとめるために書いかいたのではありません。
僕ぼくはあなたの境遇きょうぐうを知っしっています。
物質ぶっしつ上うえの補助ほじょ、そんなものをあなたの方角ほうがくから受け取るうけとる気きは毛頭もうとうないのです。
ただこの苦痛くつうの幾分いくぶんが、あなたの脈管みゃっかんの中なかに流れながれている人情にんじょうの血潮ちしおに伝わっつたわって、そこに同情どうじょうの波なみを少しすこしでも立てたててくれる事ことができるなら、僕ぼくはそれで満足まんぞくです。
僕ぼくはそれによって、僕ぼくがまだ人間にんげんの一員いちいんとして社会しゃかいに存在そんざいしているという確証かくしょうを握るにぎる事ことができるからです。
この悪魔あくまの重囲じゅういの中なかから、広々ひろびろした人間にんげんの中なかへ届くとどく光線こうせんは一縷いちるもないのでしょうか。
僕ぼくは今いまそれさえ疑っうたがっているのです。
そうして僕ぼくはあなたから返事へんじが来るくるか来きないかで、その疑いうたがいを決しけっしたいのです」 手紙てがみはここで終っおわっていた。
百六十五ひゃくろくじゅうご
その時じ先刻せんこく火ひを点けつけて吸いすい始めはじめた巻煙草まきたばこの灰はいが、いつの間まにか一いち寸すん近くちかくの長さながさになって、ぽたりと罫紙けいしの上うえに落ちおちた。
津田つだは竪たて横よこに走るはしる藍色あいいろの枠わくの上うえに崩れくずれ散っちったこの粉末ふんまつに視覚しかくを刺さし撃げきされて、ふと気きがついて見るみると、彼かれは煙草たばこを持っもった手てをそれまで動かさうごかさずにいた。
というより彼かれの口くちと手てがいつか煙草たばこの存在そんざいを忘れわすれていた。
その上うえ手紙てがみを読みよみ終っおわったのと煙草たばこの灰はいを落しおとしたのとは同時どうじでないのだから、二につの間まにはさまるぼんやりしたただの時間じかんを認めみとめなければならなかった。
その空虚くうきょな時間じかんははたして何なんのために起っおこったのだろう。
元来がんらいをいうと、この手紙てがみほど津田つだに縁えんの遠いとおいものはなかった。
第だい一いちに彼かれはそれを書いかいた人ひとを知らしらなかった。
第だい二ににそれを書いかいた人ひとと小林こばやしとの関係かんけいがどうなっているのか皆目かいもく解らわからなかった。
中なかに述べ立てのべたててある事柄ことがらに至るいたると、まるで別世界べつせかいの出来事できごととしか受け取れうけとれないくらい、彼かれの位置いち及びおよび境遇きょうぐうとはかけ離れかけはなれたものであった。
しかし彼かれの感想かんそうはそこで尽きるつきる訳わけに行かいかなかった。
彼かれはどこかでおやと思っおもった。
今までいままで前まえの方ほうばかり眺めながめて、ここに世の中よのなかがあるのだときめてかかった彼かれは、急きゅうに後あとをふり返らふりかえらせられた。
そうして自分じぶんと反対はんたいな存在そんざいを注視ちゅうしすべく立ちどまったちどまった。
するとああああこれも人間にんげんだという心持こころもちが、今日きょうまでまだ会っかいった事こともない幽霊ゆうれいのようなものを見つめみつめているうちに起っおこった。
極めてきわめて縁えんの遠いとおいものはかえって縁えんの近いちかいものだったという事実じじつが彼かれの眼前がんぜんに現われあらわれた。
彼かれはそこでとまった。
そうして※徊した。
けれどもそれより先さきへは一歩いちほも進ますすまなかった。
彼かれは彼かれ相応そうおうの意味いみで、この気味きみの悪いわるい手紙てがみを了解りょうかいしたというまでであった。
彼かれが原稿げんこう紙かみから煙草たばこの灰はいを払い落しはらいおとした時じ、原はらを相手あいてに何なんか話しはなし続けつづけていた小林こばやしはすぐ彼かれの方ほうを向いむかいた。
用談ようだんを切り上げるきりあげるためらしい言葉ことばがただ一句いっく彼かれの耳みみに響いひびいた。
「なに大丈夫だいじょうぶだ。そのうちどうにかなるよ、心配しんぱいしないでもいいや」 津田つだは黙っだまって手紙てがみを小林こばやしの方ほうへ出しだした。
小林こばやしはそれを受け取るうけとる前まえに訊いきいた。
「読んよんだか」「うん」「どうだ」 津田つだは何なんとも答えこたえなかった。
しかし一応いちおう相手あいての主意しゅいを確かめたしかめて見るみる必要ひつようを感じかんじた。
「いったい何なんのためにそれを僕ぼくに読まよませたんだ」 小林こばやしは反問はんもんした。
「いったい何なんのために読まよませたと思うおもう」「僕ぼくの知らしらない人ひとじゃないか、それを書いかいた人ひとは」「無論むろん知らしらない人ひとさ」「知らしらなくってもいいとして、僕ぼくに何なんか関係かんけいがあるのか」「この男おとこがか、この手紙てがみがか」「どっちでも構わかまわないが」「君きみはどう思うおもう」 津田つだはまた躊躇ちゅうちょした。
実じつを云ういうと、それは手紙てがみの意味いみが彼かれに通じつうじた証拠しょうこであった。
もっと明暸めいりょうにいうと、自分じぶんは自分じぶんなりにその手紙てがみを解釈かいしゃくする事ことができたという自覚じかくが彼かれの返事へんじを鈍らにぶらせたのと同様どうようであった。
彼かれはしばらくして云っいった。
「君きみのいう意味いみなら、僕ぼくには全くまったく無関係むかんけいだろう」「僕ぼくのいう意味いみとは何なんだ?」「解らわからないか」「解らわからない。云っいって見ろみろ」「いや、――まあ止そうよそう」 津田つだは先刻せんこくの絵えと同じおなじ意味いみで、小林こばやしがこの手紙てがみを自分じぶんの前まえに突きつけるつきつけるのではなかろうかと疑っうたがった。
何なんでもかでも彼かれを物質ぶっしつ上うえの犠牲者ぎせいしゃにし終おわりせた上うえで、後あとからざまを見ろみろ、とうとう降参こうさんしたじゃないかという態度たいどに出でられるのは、彼かれにとって忍ぶしのぶべからざる侮辱ぶじょくであった。
いくら貧乏びんぼうの幽霊ゆうれいで威嚇いかくしたってその手てに乗るのるものかという彼かれの気き慨がいが、自然しぜん小林こばやしの上うえに働らきはたらきかけた。
「それより君きみの方ほうでその主意しゅいを男おとこらしく僕ぼくに説明せつめいしたらいいじゃないか」「男おとこらしく? ふん」と云っいっていったん言葉ことばを句切っくぎりった小林こばやしは、後あとから付け足しつけたした。
「じゃ説明せつめいしてやろう。この人ひともこの手紙てがみも、乃至ないしこの手紙てがみの中味なかみも、すべて君きみには無関係むかんけいだ。ただし世間せけん的まとに云えいえばだぜ、いいかね。世間せけん的まとという意味いみをまた誤解ごかいするといけないから、ついでにそれも説明せつめいしておこう。君きみはこの手紙てがみの内容ないように対したいして、俗ぞく社会しゃかいにいわゆる義務ぎむというものを帯びおびていないのだ」「当り前あたりまえじゃないか」「だから世間せけん的まとには無関係むかんけいだと僕ぼくの方ほうでも云ういうんだ。しかし君きみの道徳どうとく観かんをもう少しすこし大きくおおきくして眺めながめたらどうだい」「いくら大きくおおきくしたって、金きんをやらなければならないという義務ぎむなんか感じかんじやしないよ」「そうだろう、君きみの事ことだから。しかし同情どうじょう心こころはいくらか起るおこるだろう」「そりゃ起るおこるにきまってるじゃないか」「それでたくさんなんだ、僕ぼくの方ほうは。同情どうじょう心こころが起るおこるというのはつまり金きんがやりたいという意味いみなんだから。それでいて実際じっさいは金きんがやりたくないんだから、そこに良心りょうしんの闘いたたかいから来るくる不安ふあんが起るおこるんだ。僕ぼくの目的もくてきはそれでもう充分じゅうぶん達せたっせられているんだ」 こう云っいった小林こばやしは、手紙てがみを隠いん袋ふくろへしまい込むしまいこむと同時どうじに、同じおなじ場所ばしょから先刻せんこくの紙幣しへいを三さん枚ばいとも出しだして、それを食卓しょくたくの上うえへ並べならべた。
「さあ取りとりたまえ。要るいるだけ取りとりたまえ」 彼かれはこう云っいって原はらの方ほうを見みた。
百六十六ひゃくろくじゅうろく
小林こばやしの所作しょさは津田つだにとって全くまったくの意外いがいであった。
突然とつぜん毒気どくけを抜かぬかれたところに十分じゅうふん以上いじょうの皮肉ひにくを味わわあじわわせられた彼かれの心こころは、相手あいてに向っむかって躍っおどった。
憎悪ぞうおの電流でんりゅうとでも云わいわなければ形容けいようのできないものが、とっさの間まに彼かれの身体しんたいを通過つうかした。
同時どうじに聡明そうめいな彼かれの頭あたまに一種いっしゅの疑ぎが閃めいひらめいた。
「此奴こいつら二人ふたりは共謀きょうぼうになって先刻せんこくからおれを馬鹿ばかにしているんじゃないかしら」 こう思うおもうのと、大通りおおどおりの角かくで立たて談だんをしていた二人ふたりの姿すがたと、ここへ来きてからの小林こばやしの挙動きょどうと、途中とちゅうから入っはいって来きた原はらの様子ようすと、その後あと三さん人ひとの間まに起っおこった談話だんわの遣けん取とりとが、どれが原因げんいんともどれが結果けっかとも分らわからないような迅速じんそくの度合どあいで、津田つだの頭あたまの中なかを仕懸しかけ花火はなびのようにくるくると廻転かいてんした。
彼かれは白いしろい食卓しょくたく布ぬのの上うえに、行儀ぎょうぎよく順次じゅんじに並べならべられた新らしいあたらしい三さん枚ばいの十じゅう円えん紙幣しへいを見みて、思わおもわず腹はらの中なかで叫んさけんだ。
「これがこの摺れすれッっ枯らしからしの拵えこしらえ上げあげた狂言きょうげんの落おち所ところだったのか。馬鹿ばか奴やつ、そう貴様きさまの思わくおもわく通りとおりにさせてたまるものか」 彼かれは傷けきずつけられた自分じぶんのプライドぷらいどに対したいしても、この不名誉ふめいよな幕まく切にせつに一転いってん化ばけを与えあたえた上うえで、二人ふたりと別れわかれなければならないと考えかんがえた。
けれどもどうしたらこう最後さいごまで押しつめおしつめられて来きた不利ふりな局面きょくめんを、今いまになって、旨くうまくどさりと引いん繰り返すくりかえす事ことができるかの問題もんだいになると、あらかじめその辺へんの準備じゅんびをしておかなかった彼かれは、全くまったくの無む能力者のうりょくしゃであった。
外観がいかん上うえの落ちつきおちつきを比較的ひかくてき平気へいきそうに保ったもっていた彼かれの裏側うらがわには、役やくにも立たたたない機智きちの作用さようが、はげしく往来おうらいした。
けれどもその混雑こんざつはただの混雑こんざつに終るおわるだけで、何なんらの帰着きちゃく点てんを彼かれに示ししめしてくれないので、むらむらとした後あとの彼かれの心こころは、いたずらにわくわくするだけであった。
そのわくわくがいつの間まにか狼狽ろうばいの姿すがたに進化しんかしつつある事ことさえ、残念ざんねんながら彼かれには意識いしきされた。
この危機一髪ききいっぱつという間際まぎわに、彼かれはまた思いがけおもいがけない現象げんしょうに逢着ほうちゃくした。
それは小林こばやしの並べならべた十じゅう円えん紙幣しへいが青年せいねん芸術家げいじゅつかに及ぼしおよぼした影響えいきょうであった。
紙幣しへいの上うえに落さおとされた彼かれの眼めから出るでる異様いようの光ひかりであった。
そこには驚ろきおどろきと喜びよろこびがあった。
一種いっしゅの飢渇きかつがあった。
掴みかかろうつかみかかろうとする慾望よくぼうの力ちからがあった。
そうしてその驚ろきおどろきも喜びよろこびも、飢渇きかつも慾望よくぼうも、一々いちいち真しんその物ものの発現はつげんであった。
作りものつくりもの、拵え事こしらえごと、馴れ合いなれあいの狂言きょうげんとは、どうしても受け取れうけとれなかった。
少くすくなくとも津田つだにはそうとしか思えおもえなかった。
その上津田かみつでんのこの判断はんだんを確めるたしかめるに足るたる事実じじつが後あとから継いつづいで起っおこった。
原はらはそれほど欲しほしそうな紙幣しへいへ手てを出さださなかった。
と云っいって断然だんぜん小林こばやしの親切しんせつを斥ぞける勇気ゆうきも示さしめさなかった。
出しだしたそうな手てを遠慮えんりょして出さださずにいる苦痛くつうの色いろが、ありありと彼かれの顔つきかおつきで読まよまれた。
もしこの蒼白いあおじろい青年せいねんが、ついに紙幣しへいの方ほうへ手てを出さださないとすると、小林こばやしの拵えこしらえたせっかくの狂言きょうげんも半分はんぶんはぶち壊しぶちこわしになる訳わけであった。
もしまた小林こばやしがいったん隠いん袋ふくろから出しだした紙幣しへいを、当初とうしょの宣告せんこく通りとおり、幾分いくぶんでも原はらの手てへ渡さわたさずに、再びふたたびもとへ収めおさめたなら、結果けっかは一層いっそうの喜劇きげきに変化へんかする訳わけであった。
どっちにしても自分じぶんの体面たいめんを繕うつくろうのには便宜べんぎな方向ほうこうへ発展はってんして行きいきそうなので、そこに一縷いちるの望もちを抱いいだいた津田つだは、もう少しすこし黙っだまって事ことの成行なりゆきを見るみる事ことにきめた。
やがて二人ふたりの間まに問答もんどうが起っおこった。
「なぜ取らとらないんだ、原はら君きみ」「でもあんまり御ご気の毒きのどくですから」「僕ぼくは僕ぼくでまた君きみの方ほうを気の毒きのどくだと思っおもってるんだ」「ええ、どうもありがとう」「君きみの前まえに坐っすわってるその男おとこは男おとこでまた僕ぼくの方ほうを気の毒きのどくだと思っおもってるんだ」「はあ」 原はらはさっぱり通じつうじないらしい顔かおをして津田つだを見みた。
小林こばやしはすぐ説明せつめいした。
「その紙幣しへいは三さん枚ばい共とも、僕ぼくが今いまその男おとこから貰っもらったんだ。貰いもらい立てたてのほやほやなんだ」「じゃなおどうも……」「なおどうもじゃない。だからだ。だから僕ぼくも安々やすやすと君きみにやれるんだ。僕ぼくが安々やすやすと君きみにやれるんだから、君きみも安々やすやすと取れるとれるんだ」「そういう論理ろんりになるかしら」「当り前あたりまえさ。もしこれが徹夜てつやして書き上げかきあげた一いち枚ばい三十五さんじゅうご銭せんの原稿げんこうから生れうまれて来きた金きんなら、何ぼなんぼ僕ぼくだって、少しすこしは執着しゅうちゃくが出るでるだろうじゃないか。額がくからぽたぽた垂れるたれる膏あぶら汗あせに対したいしても済ますまないよ。しかしこれは何なんでもないんだ。余裕よゆうが空間くうかんに吹き散らしふきちらしてくれる浄財じょうざいだ。拾っじゅうったものが功徳くどくを受けれうければ受けるうけるほど余裕よゆうは喜こぶよろこぶだけなんだ。ねえ津田つだ君きみそうだろう」 忌々しいいまいましい関所せきしょをもう通り越しとおりこしていた津田つだは、かえって好いよいところで相談そうだんをかけられたと同じおなじ事ことであった。
鷹揚おうような彼かれの一諾いちだくは、今夜こんやここに落ち合っおちあった不調和ふちょうわな三さん人ひとの会合かいごうに、少くすくなくとも形式上けいしきじょう体裁ていさいの好いよい結末けつまつをつけるのに充分じゅうぶんであった。
彼かれは醜しゅう陋に見えるみえる自分じぶんの退却たいきゃくを避けるさけるために眼前がんぜんの機会きかいを捕えとらえた。
「そうだね。それが一番いちばんいいだろう」 小林こばやしは押問答おしもんどうの末すえ、とうとう三さん枚ばいのうち一いち枚ばいを原はらの手てに渡しわたした。
残るのこる二に枚ばいを再びふたたびもとの隠いん袋ふくろへ収めるおさめる時じ、彼かれは津田つだに云っいった。
「珍らしくめずらしく余裕よゆうが下したから上うえへ流れながれた。けれどもここから上うえへはもう逆戻りぎゃくもどりをしないそうだ。だからやっぱり君きみに対したいしてサンクスさんくすだ」 表ひょうへ出でた三さん人ひとは濠端ほりばたへ来きて、電車でんしゃを待ち合せるまちあわせる間ま大きなおおきな星月夜ほしつきよを仰いおっしゃいだ。
百六十七ひゃくろくじゅうなな
間まもなく三さん人ひとは離れ離れはなればなれになった。
「じゃ失敬しっけい、僕ぼくは停車場ていしゃじょうへ送っおくって行かいかないよ」「そうか、来きたってよさそうなものだがね。君きみの旧友きゅうゆうが朝鮮ちょうせんへ行くいくんだぜ」「朝鮮ちょうせんでも台湾たいわんでも御免ごめんだ」「情合じょうあいのない事こと夥だしいおびただしいものだ。そんなら立つたつ前まえにもう一遍いちぺんこっちから暇乞いとまごいに行くいくよ、いいかい」「もうたくさんだ、来きてくれなくっても」「いや行くいく。でないと何なんだか気きがすまないから」「勝手にかってにしろ。しかし僕ぼくはいないよ、来きても。明日あすから旅行りょこうするんだから」「旅行りょこう? どこへ」「少しすこし静養せいようの必要ひつようがあるんでね」「転地てんちか、洒落しゃれてるな」「僕ぼくに云わいわせると、これも余裕よゆうの賜物たまものだ。僕ぼくは君きみと違っちがって飽くまであくまでもこの余裕よゆうに感謝かんしゃしなければならないんだ」「飽くまであくまでも僕ぼくの注意ちゅういを無意味むいみにして見せるみせるという気きなんだね」「正直しょうじきのところを云えいえば、まあそこいらだろうよ」「よろしい、どっちが勝つかつかまあ見みていろ。小林こばやしに啓発けいはつされるよりも、事実じじつその物ものに戒飭かいしょくされる方ほうが、遥かはるかに覿面てきめんで切実せつじつでいいだろう」 これが別れるわかれる時じ二人ふたりの間まに起っおこった問答もんどうであった。
しかしそれは宵よいから持ち越しもちこした悪感情あくかんじょう、津田つだが小林こばやしに対したいして日暮ひぐれ以来いらい貯蔵ちょぞうして来きた悪感情あくかんじょう、の発現はつげんに過ぎすぎなかった。
これで幾分いくぶんか溜飲りゅういんが下りくだりたような気きのした津田つだには、相手あいての口くちから出でた最後さいごの言葉ことばなどを考えるかんがえる余地よちがなかった。
彼かれは理非りひの如何いかがに関わらかかわらず、意地いじにも小林こばやしごときものの思想しそうなり議論ぎろんなりを、切っきって棄てすてなければならなかった。
一人ひとりになった彼かれは、電車でんしゃの中なかですぐ温泉場おんせんじょうの様子ようすなどを想像そうぞうに描きえがき始めはじめた。
明るあかる朝あさは風かぜが吹いふいた。
その風かぜが疎らまばらな雨あめの糸いとを筋違すじかいに地面じめんの上うえへ運んはこんで来きた。
「厄介やっかいだな」 時間通りじかんとおりに起きおきた津田つだは、縁えん鼻はなから空そらを見上げみあげて眉まゆを寄せよせた。
空そらには雲くもがあった。
そうしてその雲くもは眼めに見えるみえる風かぜのように断だんえず動いうごいていた。
「ことによると、お午うまぐらいから晴れるはれるかも知れしれないわね」 お延のべは既定きていの計画けいかくを遂行すいこうする方ほうに賛成さんせいするらしい言葉つきことばつきを見せみせた。
「だって一日いちにち後れるおくれると一いち日ひ徒為といになるだけですもの。早くはやく行っいって早くはやく帰っかえって来きていただく方ほうがいいわ」「おれもそのつもりだ」 冷たいつめたい雨あめによって乱さみだされなかった夫婦間ふうふかんの取極とりきめは、出立しゅったつ間際まぎわになって、始めはじめて少しすこしの行違ゆきちがいを生じしょうじた。
箪笥たんすの抽斗ひきだしから自分じぶんの衣裳いしょうを取り出しとりだしたお延のべは、それを夫おっとの洋服ようふくと並べならべて渋紙しぶがみの上うえへ置いおいた。
津田つだは気きがついた。
「お前おまえは行かいかないでもいいよ」「なぜ」「なぜって訳わけもないが、この雨あめの降るふるのに御苦労ごくろう千万せんまんじゃないか」「ちっとも」 お延のべの言葉ことばがあまりに無邪気むじゃきだったので、津田つだは思わおもわず失笑しっしょうした。
「来きて貰うもらうのが迷惑めいわくだから断ることわるんじゃないよ。気の毒きのどくだからだよ。たかが一日いちにちとかからない所ところへ行くいくのに、わざわざ送っおくって貰うもらうなんて、少しすこし滑稽こっけいだからね。小林こばやしが朝鮮ちょうせんへ立つたつんでさえ、おれは送っおくって行かいかないって、昨夜さくや断っことわっちまったくらいだ」「そう、でもあたし宅たくにいたって、何になんにもする事ことがないんですもの」「遊んあそんでおいでよ。構わかまわないから」 お延のべがとうとう苦笑くしょうして、争うあらそう事ことをやめたので、津田つだは一人ひとり俥くるまを駆っかって宅たくを出るでる事ことができた。
周囲しゅういの混雑こんざつと対照たいしょうを形かたち成るなる雨あめの停車場ていしゃじょうの佗しいわびしい中なかに立ったって、津田つだが今いま買っかったばかりの中等ちゅうとう切符きっぷを、ぼんやり眺めながめていると、一人ひとりの書生しょせいが突然とつぜん彼かれの前まえへ来きて、旧きゅう知己ちきのような挨拶あいさつをした。
「あいにくなお天気てんきで」 それはこの間ま始めはじめて見みた吉川よしかわの書生しょせいであった。
取次とりつぎに出でた時じ玄関げんかんで会っかいったよそよそしさに引き換えひきかえて、今日きょうは鳥打とりうちを脱ぐぬぐ態度たいどからしてが丁寧ていねいであった。
津田つだは何なんの意味いみだかいっこう気きがつかなかった。
「どなたかどちらへかいらっしゃるんですか」「いいえ、ちょっとお見送りみおくりに」「だからどなたを」 書生しょせいは弱らよわらせられたような様子ようすをした。
「実じつは奥さまおくさまが、今日きょうは少しすこし差支えさしつかえがあるから、これを持っもって代りかわりに行っいって来きてくれとおっしゃいました」 書生しょせいは手てに持っもった果物くだものの籃を津田つだに示ししめした。
「いやそりゃどうも、恐れ入りおそれいりました」 津田つだはすぐその籃を受け取ろううけとろうとした。
しかし書生しょせいは渡さわたさなかった。
「いえ私わたくしが列車れっしゃの中なかまで持っもって参りまいります」 汽車きしゃが出るでる時じ、黙っだまって丁寧ていねいに会釈えしゃくをした書生しょせいに、「どうぞ宜しくよろしく」と挨拶あいさつを返しかえした津田つだは、比較的ひかくてき込み合わこみあわない車室しゃしつの一隅いちぐうに、ゆっくりと腰こしをおろしながら、「やっぱりお延のべに来きて貰わもらわない方ほうがよかったのだ」と思っおもった。
百六十八ひゃくろくじゅうはち
お延のべの気きを利かしきかして外套がいとうの隠いん袋ふくろへ入れいれてくれた新聞しんぶんを津田つだが取り出しとりだして、いつもより念入りねんいりに眼めを通しとおしている頃ころに、窓外そうがいの空模様そらもようはだんだん悪くわるくなって来きた。
先刻せんこくまで疎らまばらに眺めながめられた雨あめの糸いとが急きゅうに数すうを揃えそろえて、見渡すみわたす限かぎりの空間くうかんを一度いちどに充たしみたして来るくる様子ようすが、比較的ひかくてき展望てんぼうに便利べんりな汽車きしゃの窓まどから見るみると、一層いっそう凄まじくすさまじく感ぜかんぜられた。
雨あめの上うえには濃いこい雲くもがあった。
雨あめの横よこにも限界げんかいの遮ぎらさえぎられない限りかぎりは雲くもがあった。
雲くもと雨あめとの隙間すきまなく連続れんぞくした広いひろい空間くうかんが、津田つだの視覚しかくをいっぱいに冒しおかした時じ、彼かれは荒涼こうりょうなる車外しゃがいの景色けしきと、その反対はんたいに心持こころもちよく設備せつびの行き届いいきとどいた車内しゃないの愉快ゆかいとを思い較べおもいくらべた。
身体しんたいを安逸あんいつの境さかいに置くおくという事ことを文明ぶんめい人ひとの特権とっけんのように考えかんがえている彼かれは、この雨あめを衝いついて外部がいぶへ出でなければならない午後ごごの心持こころもちを想像そうぞうしながら、独りひとり肩かたを竦めすくめた。
すると隣りとなりに腰こしをかけて、ぽつりぽつりと窓まど硝子がらすを打つうつたびに、点滴てんてきの珠たまを表面ひょうめんに残しのこして砕けくだけて行くいく雨あめの糸いとを、ぼんやり眺めながめていた四十よんじゅう恰好かっこの男おとこが少しすこし上半身じょうはんしんを前まえへ屈めかがめて、向側むかいがわに胡坐こざを掻いかいている伴侶はんりょに話しかけはなしかけた。
しかし雨あめの音おとと汽車きしゃの音おとが重なり合うかさなりあうので、彼かれの言葉ことばは一度いちどで相手あいてに通じつうじなかった。
「ひどく降っふって来きたね。この様子ようすじゃまた軽便けいべんの路みちが壊れこわれやしないかね」 彼かれは仕方なししかたなしに津田つだの耳みみへも入るはいるような大きなおおきな声こえを出しだしてこう云っいった。
「なに大丈夫だいじょうぶだよ。なんぼ名前なまえが軽便けいべんだって、そう軽便けいべんに壊れこわれられた日ひにゃ乗るのるものが災難さいなんだあね」 これが相手あいての答こたえであった。
相手あいてというのは羅紗らしゃの道行みちゆきを着きた六十ろくじゅう恰好かっこの爺じいさんであった。
頭あたまには唐物とうぶつ屋やを探しさがしても見当りみあたりそうもない変へんな鍔つばなしの帽子ぼうしを被っかぶっていた。
煙草たばこ入いりだの、唐桟とうざんの小片しょうへんだの、古代こだい更紗さらさだの、そんなものを器用きようにきちんと並べ立てならべたててて見世みせを張るはる袋物ふくろもの屋やへでも行っいって、わざわざ注文ちゅうもんしなければ、とうてい頭あたまへ載せるのせる事ことのできそうもないその帽子ぼうしの主人しゅじんは、彼かれの言葉遣いことばづかいで東京とうきょう生れうまれの証拠しょうこを充分じゅうぶんに挙げあげていた。
津田つだは服装ふくそうに似合わにあわない思いおもいのほか濶達かったつなこの爺じいさんの元気げんきに驚ろくおどろくと同時どうじに、どっちかというと、ベランメーに接近せっきんした彼かれの口くちの利ききき方ほうにも意外いがいを呼んよんだ。
この挨拶あいさつのうちに偶然ぐうぜん使用しようされた軽便けいべんという語ごは、津田つだにとってたしかに一種いっしゅの暗示あんじであった。
彼かれは午後ごごの何時間なんじかんかをその軽便けいべんに揺られるゆられる転地てんち者ものであった。
ことによると同じおなじ方角ほうがくへ遊びあそびに行くいく連中れんちゅうかも知れしれないと思っおもった津田つだの耳みみは、彼かれらの談話だんわに対したいして急きゅうに鋭敏えいびんになった。
転席てんせきの余地よちがないので、不便ふべんな姿勢しせいと図抜けずぬけた大声おおごえを忍ばしのばなければならなかった二人ふたりの云ういう事ことは一々いちいち津田つだに聴こえきこえた。
「こんな天気てんきになろうとは思わおもわなかったね。これならもう一日いちにち延ばしのばした方ほうが楽らくだった」 中折なかおれに駱駝らくだの外套がいとうを着きた落ちつきおちつきのある男おとこの方ほうがこういうと、爺じいさんはすぐ答えこたえた。
「何なんたかが雨あめだあね。濡れるぬれると思おもうやあ、何なんでもねえ」「だが荷物にもつが厄介やっかいだよ。あの軽便けいべんへ雨曝しあまざらしのまま載せのせられる事ことを考えるかんがえると、少しすこし心細くこころぼそくなるから」「じゃおいらの方ほうが雨曝しあまざらしになって、荷物にもつだけを室むろの中なかへ入れいれて貰うもらう事ことにしよう」 二人ふたりは大きなおおきな声こえを出しだして笑っわらった。
その後そのあとで爺じいさんがまた云っいった。
「もっともこの前まえのあの騒ぎさわぎがあるからね。途中とちゅうで汽缶きかんへ穴あなが開いひらいて動けうごけなくなる汽車きしゃなんだから、全くまったくのところ心細いこころぼそいにゃ違いない」「あの時じゃどうして向うむこうへ着いついたっけ」「なにあっちから来るくる奴やつを山やまの中ほどなかほどで待ち合せまちあわせてさ。その方ほうの汽缶きかんで引っ張りひっぱり上げあげて貰っもらったじゃないか」「なるほどね、だが汽缶きかんを取り上げとりあげられた方ほうの車くるまはどうしたっけね」「違えちがえねえ、こっちで取り上げりゃとりあげりゃ、向うむこうは困らこまらあ」「だからさ、取り残さとりのこされた方ほうの車くるまはどうしたろうっていうのさ。まさか他ほかを救っすくって、自分じぶんは立往生りっおうじょうって訳わけもなかろう」「今いまになって考えりゃかんがえりゃ、それもそうだがね、あの時じゃ、てんで向うむこうの車くるまの事ことなんか考えかんがえちゃいられなかったからね。日ひは暮れくれかかるしさ、寒ささむさは身みに染みるしみるしさ。顫えふるえちまわあね」 津田つだの推測すいそくはだんだんたしかになって来きた。
二人ふたりはその軽便けいべんの通じつうじている線路せんろの左右さゆうにある三さんカ所かしょの温泉場おんせんじょうのうち、どこかへ行くいくに違いないという鑑定かんていさえついた。
それにしてもこれから自分じぶんの身みを二に時間じかんなり三さん時間じかんなり委せようまかせようとするその軽便けいべんが、彼かれらのいう通りとおり乱暴らんぼう至極しごくのものならば、この雨中うちゅうどんな災難さいなんに会わあわないとも限らかぎらなかった。
けれどもそこには東京とうきょうものの持っもって生れうまれた誇張こちょうというものがあった。
そんなに不完全ふかんぜんなものですかと訊いきいてみようとしてそこに気きのついた津田つだは、腹はらの中なかで苦笑くしょうしながら、質問しつもんをかける手数てすうを省いはぶいた。
そうして今度こんどは清子きよことその軽便けいべんとを聯結して「女おんな一人ひとりでさえ楽々らくらく往来おうらいができる所ところだのに」と思いおもいながら、面白おもしろ半分はんぶんにする興味きょうみ本位ほんいの談話だんわには、それぎり耳みみを貸さかさなかった。
百六十九ひゃくろくじゅうきゅう
汽車きしゃが目的もくてきの停車場ていしゃじょうに着くつく少しすこし前まえから、三さん人ひとによって気遣わきづかわれた天候てんこうがしだいに穏かおだやかになり始めはじめた時じ、津田つだは雨あめの収まりおさまり際さいの空そらを眺めながめて、そこに忙がしいそがしそうな雲くもの影かげを認めみとめた。
その雲くもは汽車きしゃの走るはしる方角ほうがくと反対はんたいの側がわに向っむかって、ずんずん飛んとんで行っいった。
そうして後あとから後あとからと、あたかも前まえに行くいくものを追かけるおいかけるように、隙間すきまなく詰め寄せつめよせた。
そのうち動くうごく空そらの中なかに、やや明るいあかるい所ところができてきた。
ほかの部分ぶぶんより比較的ひかくてき薄くうすく見えるみえる箇所かしょがしだいに多くおおくなった。
就中なかんずく一角いっかくはもう少しすこしすると風かぜに吹き破らふきやぶられて、破れやぶれた穴あなから青いあおい輝きかがやきを洩らしもらしそうな気配けはいを示ししめした。
思っおもったより自分じぶんに好意こういをもってくれた天候てんこうの前まえに感謝かんしゃして、汽車きしゃを下りくだりた津田つだは、そこからすぐ乗り換えのりかえた電車でんしゃの中なかで、また先刻せんこく会っかいった二人ふたり伴ともの男おとこを見出しみだした。
はたして彼かれの思わくおもわく通りとおり、自分じぶんと同じおなじ見当けんとうへ向いむかいて、同じおなじ交通機関こうつうきかんを利用りようする連中れんちゅうだと知れしれた時じ、津田つだは気きをつけて彼かれらの手荷物てにもつを注意ちゅういした。
けれども彼かれらの雨曝しあまざらしになるのを苦くに病んやんだほどの大嵩おおかさなものはどこにも見当らみあたらなかった。
のみならず、爺じいさんは自分じぶんが先刻せんこく云っいった事ことさえもう忘れわすれているらしかった。
「ありがたい、大当りおおあたりだ。だからやっぱり行こういこうと思っおもった時じに立ったっちまうに限るかぎるよ。これでぐずぐずして東京とうきょうにいて御覧ごらんな。ああつまらねえ、こうと知っしったら、思い切っおもいきって今朝けさ立ったっちまえばよかったと後悔こうかいするだけだからね」「そうさ。だが東京とうきょうも今頃いまごろはこのくらい好いよい天気てんきになってるんだろうか」「そいつあ行っいって見みなけりゃ、ちょいと分らわからねえ。何なんなら電話でんわで訊いきいてみるんだ。だが大体だいたい間ま違いはないよ。空そらは日本にっぽん中なかどこへ行っいったって続いつづいてるんだから」 津田つだは少しすこしおかしくなった。
すると爺じいさんがすぐ話しかけはなしかけた。
「あなたも湯治とうじ場ばへいらっしゃるんでしょう。どうもおおかたそうだろうと思いおもいましたよ、先刻せんこくから」「なぜですか」「なぜって、そういう所ところへ遊びあそびに行くいく人ひとは、様子ようすを見るみると、すぐ分りわかりますよ。ねえ」 彼かれはこう云っいって隣りとなりにいる自分じぶんの伴侶はんりょを顧みかえりみた。
中折なかおれの人ひとは仕方なししかたなしに「ああ」と答えこたえた。
この天眼てんがん通つうに苦笑くしょうを禁じきんじ得とくなかった津田つだは、それぎり会話かいわを切り上げようきりあげようとしたところ、快かい豁な爺じいさんの方ほうでなかなか彼かれを放さはなさなかった。
「だが旅行りょこうも近頃ちかごろは便利べんりになりましたね。どこへ行くいくにも身体しんたい一いちつ動かせうごかせばたくさんなんですから、ありがたい訳わけさ。ことにこちとら見みたいな気きの早いはやいものにはお誂あつらえ向むかいだあね。今度こんどだって荷物にもつなんか何になんにも持っもって来きやしませんや、この合切がっさい袋ふくろとこの大将たいしょうのあの鞄かばんを差し引くさしひくと、残るのこるのは命いのちばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将たいしょう」 大将たいしょうの名なをもって呼ばよばれた人ひとはまた「ああ」と答えこたえたぎりであった。
これだけの手荷物てにもつを車室しゃしつ内うちへ持ち込めもちこめないとすれば、彼かれらのいわゆる「軽便けいべん」なるものは、よほど込み合うこみあうのか、さもなければ、常識じょうしきをもって測るはかるべからざる程度ていどにおいて不完全ふかんぜんでなければならなかった。
そこを確かめたしかめて見ようみようかと思っおもった津田つだは、すぐ確かめたしかめても仕方しかたがないという気きを起しおこして黙っだまってしまった。
電車でんしゃを下りくだりた時じ、津田つだは二人ふたりの影かげを見失っみうしなった。
彼かれは停留所ていりゅうしょの前まえにある茶店ちゃみせで、写真しゃしん版ばんだの石版せきばんだのと、思い思いおもいおもいに意匠いしょうを凝らしこらした温泉場おんせんじょうの広告こうこく絵えを眺めながめながら、昼食ちゅうしょくを認にんためた。
時間じかんから云っいって、平常へいじょうより一いち時間じかん以上いじょうも後れおくれていたその昼食ちゅうしょくは、膳ぜんを貪どんぼる人ひととしての彼かれを思うおもう存分ぞんぶんに発揮はっきさせた。
けれども発車はっしゃは目前もくぜんに逼っせまっていた。
彼かれは箸はしを投げるなげると共ともにすぐまた軽便けいべんに乗り移らのりうつらなければならなかった。
基点きてんに当るあたる停車場ていしゃじょうは、彼かれの休んやすんだ茶店ちゃみせのすぐ前まえにあった。
彼かれは電車でんしゃよりも狭いせまいその車くるまを眼めの前まえに見みつつ、下女げじょから支度したく料りょうの剰あまつさえ銭せんを受取っうけとってすぐ表ひょうへ出でた。
切符きっぷに鋏はさみを入れいれて貰うもらう所ところと、プラットフォームぷらっとふぉーむとの間まには距離きょりというものがほとんどなかった。
五六ごろく歩あゆみ動くうごくとすぐ足あしをかける階段かいだんへ届いとどいてしまった。
彼かれは車室しゃしつのなかで、また先刻せんこくの二人ふたり連れつれと顔かおを合せあわせた。
「やあお早うおはようがす。こっちへおかけなさい」 爺じいさんは腰こしをずらして津田つだのために、彼かれの腕うでに抱えかかえて来きた膝かけひざかけを敷くしく余地よちを拵えこしらえてくれた。
「今日きょうは空いむなしいてて結構けっこうです」 爺じいさんは避寒ひかん避暑ひしょ二に様ようの意味いみで、暮くれから正月しょうがつへかけて、それから七八二ななはちに月つきに渉っわたって、この線路せんろに集っつどってくる湯治とうじ客きゃくの、どんなに雑沓ざっとうするかをさも面白おもしろそうに例れいの調子ちょうしで話しはなして聴かきかせた後あとで、自分じぶんの同伴者どうはんしゃを顧みかえりみた。
「あんな時じに女おんななんか伴れつれてくるのは実際じっさい罪つみだよ。尻しりが大きいおおきいから第一だいいち乗り切れのりきれねえやね。そうしてすぐ酔うようから困らこまらあ。鮨すしのように押しつめおしつめられてる中なかで、吐いはいたり戻しもどしたりさ。見っともねえみっともねえ事ことったら」 彼かれは自分じぶんの傍そばに腰こしをかけている婦人ふじんの存在そんざいをまるで忘れわすれているらしい口くちの利ききき方ほうをした。
百七十ひゃくななじゅう
軽便けいべんの中なかでも、津田つだの平和へいわはややともすると年ねんを取っとったこの楽天家らくてんかのために乱さみだされそうになった。
これから目的地もくてきちへ着いついた時じの様子ようす、その様子ようすしだいで取るとるべき自分じぶんの態度たいど、そんなものが想像そうぞうに描き出さえがきだされた旅館りょかんだの山やまだの渓流けいりゅうだのの光景こうけいのうちに、取りとめとりとめもなくちらちら動いうごいている際さいなどに、老人ろうじんは急きゅうに彼かれを夢ゆめの裡りから叩き起したたきおこした。
「まだ仮橋かりばしのままでやってるんだから、呑気のんきなものさね。御覧ごらんなさい、土方ひじかたがあんなに働はたらけらいてるから」 本式ほんしきの橋はしが去年きょねんの出水しゅっすいで押し流さおしながされたまままだ出来上らできあがらないのを、老人ろうじんはさも会社かいしゃの怠慢たいまんででもあるように罵っののしった後あとで、海うみへ注ぐそそぐ河かわの出口でぐちに、新らしくあたらしく作らつくられた一いち構かまえの家いえを指しさして、また津田つだの注意ちゅういを誘い出そうさそいだそうとした。
「あの家いえも去年きょねん波なみで浚わさらわれちまったんでさあ。でもすぐあんなに建てたてやがったから、軽便けいべんより少すくなしゃ感心かんしんだ」「この夏なつの避暑ひしょ客きゃくを取り逃さとりにがさないためでしょう」「ここいらで一夏ひとなつ休むやすむと、だいぶ応えるこたえるからね。やっぱり慾よくがなくっちゃ、何なんでも手っ取りてっとり早くはやく仕事しごとは片づかかたづかないものさね。この軽便けいべんだってそうでしょう、あなた、なまじいあの仮橋かりばしで用ようが足りたりてるもんだから、会社かいしゃの方ほうで、いつまでも横着おうちゃくをきめ込みきめこみやがって、掛けかけかえねえんでさあ」 津田つだは老人ろうじんの人世じんせい観かんに一いちも二にもなく調子ちょうしを合すあわすべく余儀よぎなくされながら、談話だんわの途切れ目とぎれめには、眼めを眠るねむるように構えかまえて、自分自身じぶんじしんに勝手かってな事ことを考えかんがえた。
彼かれの頭あたまの中なかは纏まらまとまらない断片的だんぺんてきな映像えいぞうのために絶えたえず往来おうらいされた。
その中なかには今朝けさ見みたお延のべの顔かおもあった。
停車場ていしゃじょうまで来きてくれた吉川よしかわの書生しょせいの姿すがたも動いうごいた。
彼かれの車室しゃしつ内うちへ運んはこんでくれた果物くだものの籃もあった。
その葢おおいを開けあけて、二人ふたりの伴侶はんりょに夫人ふじんの贈物おくりものを配はいとうかという意志いしも働いはたらいた。
その所作しょさから起るおこる手数てすうだの煩わしわずらわしさだの、こっちの好意こういを受け取るうけとる時じ、相手あいてのやりかねない仰山ぎょうさんな挨拶あいさつも鮮やかあざやかに描き出さえがきだされた。
すると爺じいさんも中折なかおれも急きゅうに消えきえて、その代りかわり肥っふとった吉川よしかわ夫人ふじんの影法師かげほうしが頭あたまの闥を排しはいしてつかつか這入っはいって来きた。
連想れんそうはすぐこれから行こういこうとする湯治とうじ場ばの中心ちゅうしん点てんになっている清子きよこに飛び移っとびうつった。
彼かれの心こころは車くるまと共ともに前後ぜんごへ揺れゆれ出しだした。
汽車きしゃという名なをつけるのはもったいないくらいな車くるまは、すぐ海うみに続いつづいている勾配こうばいの急きゅうな山やまの中途ちゅうとを、危なかしくあぶなかしくがたがた云わしいわして駆けるかけるかと思うおもうと、いつの間まにか山やまと山やまの間まに割り込んわりこんで、幾度いくども上っのぼったり下っしたったりした。
その山やまの多くおおくは隙間すきまなく植付けうえつけられた蜜柑みかんの色いろで、暖かいあたたかい南国なんごくの秋あきを、美びくしい空そらの下したに累々るいるいと点綴てんていしていた。
「あいつは旨むねそうだね」「なに根ねっから旨くうまくないんだ、ここから見みている方ほうがよっぽど綺麗きれいだよ」 比較的ひかくてき嶮しいけわしい曲りくねっまがりくねった坂さかを一いちつ上っのぼった時じ、車くるまはたちまちとまった。
停車場ていしゃじょうでもないそこに見えるみえるものは、多少たしょうの霜しもに彩どらいろどられた雑木ぞうきだけであった。
「どうしたんだ」 爺じいさんがこう云っいって窓まどから首くびを出しだしていると、車掌しゃしょうだの運転手うんてんしゅだのが急きゅうに車くるまから降りふりて、しきりに何なんか云い合っいいあった。
「脱線だっせんです」 この言葉ことばを聞いきいた時じ、爺じいさんはすぐ津田つだと自分じぶんの前まえにいる中折なかおれを見みた。
「だから云わいわねえこっちゃねえ。きっと何なんかあるに違いねえと思っおもってたんだ」 急きゅうに予言者よげんしゃらしい口吻こうふんを洩らしもらした彼かれは、いよいよ自分じぶんの駄弁だべんを弄するろうする時機じきが来きたと云わいわぬばかりにはしゃぎ出しだした。
「どうせ家いえを出るでる時じに、水盃みずさかずきは済ましすまして来きたんだから、覚悟かくごはとうからきめてるようなものの、いざとなって見るみると、こんな所ところで弁慶べんけいの立往生りっおうじょうは御免ごめん蒙りこうむりたいからね。といっていつまでこうやって待っまってたって、なかなか元もとへ戻しもどしてくれそうもなしと。何しろなにしろ日ひの短かいみじかい上うえへ持っもって来きて、気きが短かいみじかいと来きてるんだから、安閑あんかんとしちゃいられねえ。――どうです皆みなさん一いちつ降りふりて車くるまを押しおしてやろうじゃありませんか」 爺じいさんはこう云いいいながら元気げんきよく真先まっさきに飛び降りとびおりた。
残るのこるものは苦笑くしょうしながら立ち上ったちのぼった。
津田つだも独りひとり室内しつないに坐っすわっている訳わけに行かいかなくなったので、みんなといっしょに地面じめんの上うえへ降り立っおりたった。
そうして黄色きいろに染めそめられた芝草しばくさの上うえに、あっけらかんと立ったっている婦人ふじんを後あとにして、うんうん車くるまを押しおした。
「や、いけねえ、行きいき過ぎすぎちゃった」 車くるまはまた引き戻さひきもどされた。
それからまた前まえへ押し出さおしだされた。
押し出しおしだしたり引き戻しひきもどしたり二三にさん度どするうちに、脱線だっせんはようやく片づいかたづいた。
「また後れおくれちまったよ、大将たいしょう、お蔭おかげで」「誰だれのお蔭おかげでさ」「軽便けいべんのお蔭おかげでさ。だがこんな事ことでもなくっちゃ眠くねむくっていけねえや」「せっかく遊びあそびに来きた甲斐かいがないだろう」「全くまったくだ」 津田つだは後れおくれた時間じかんを案じあんじながら、教えおしえられた停車場ていしゃじょうで、この元気げんきの好いよい老人ろうじんと別れわかれて、一人ひとり薄暮はくぼの空気くうきの中なかに出でた。
百七十一ひゃくななじゅういち
靄もやとも夜よるの色いろとも片づかかたづかないものの中なかにぼんやり描き出さえがきだされた町まちの様ようはまるで寂寞じゃくまくたる夢ゆめであった。
自分じぶんの四辺しへんにちらちらする弱いよわい電灯でんとうの光ひかりと、その光ひかりの届かとどけかない先さきに横わるよこたわる大きなおおきな闇やみの姿すがたを見較べみくらべた時じの津田つだにはたしかに夢ゆめという感じかんじが起っおこった。
「おれは今いまこの夢見ゆめみたようなものの続きつづきを辿ろうたどろうとしている。東京とうきょうを立つたつ前まえから、もっと几帳面きちょうめんに云えいえば、吉川よしかわ夫人ふじんにこの温泉おんせん行こうを勧めすすめられない前まえから、いやもっと深くふかく突き込んつきこんで云えいえば、お延のべと結婚けっこんする前まえから、――それでもまだ云いいい足りたりない、実じつは突然とつぜん清子きよこに背中せなかを向けむけられたその刹那せつなから、自分じぶんはもうすでにこの夢ゆめのようなものに祟らたたられているのだ。そうして今いまちょうどその夢ゆめを追かけようおいかけようとしている途中とちゅうなのだ。顧みるかえりみると過去かこから持ち越しもちこしたこの一いち条じょうの夢ゆめが、これから目的地もくてきちへ着くつくと同時どうじに、からりと覚めるさめるのかしら。それは吉川よしかわ夫人ふじんの意見いけんであった。したがって夫人ふじんの意見いけんに賛成さんせいし、またそれを実行じっこうする今いまの自分じぶんの意見いけんでもあると云わいわなければなるまい。しかしそれははたして事実じじつだろうか。自分じぶんの夢ゆめははたして綺麗きれいに拭い去らぬぐいさられるだろうか。自分じぶんははたしてそれだけの信念しんねんをもって、この夢ゆめのようにぼんやりした寒村かんそんの中なかに立ったっているのだろうか。眼めに入るはいる低いひくい軒のき、近頃ちかごろ砂利じゃりを敷いしいたらしい狭いせまい道路どうろ、貧しいまずしい電灯でんとうの影かげ、傾けいむきかかった藁屋根わらやね、黄色いきいろい幌ほろを下しおろした一いち頭あたま立たての馬車ばしゃ、――新しんとも旧きゅうとも片かたのつけられないこの一塊いっかいの配合はいごうを、なおの事こと夢ゆめらしく粧っつくっている肌寒はださむと夜寒よさむと闇やみ暗あん、――すべて朦朧もうろうたる事実じじつから受けるうけるこの感じかんじは、自分じぶんがここまで運んはこんで来きた宿命しゅくめいの象徴しょうちょうじゃないだろうか。今までいままでも夢ゆめ、今いまも夢ゆめ、これから先さきも夢ゆめ、その夢ゆめを抱いいだいてまた東京とうきょうへ帰っかえって行くいく。それが事件じけんの結末けつまつにならないとも限らかぎらない。いや多分たぶんはそうなりそうだ。じゃ何なんのために雨あめの東京とうきょうを立ったってこんな所ところまで出かけでかけて来きたのだ。畢竟ひっきょう馬鹿ばかだから? いよいよ馬鹿ばかと事ことがきまりさえすれば、ここからでも引き返せるひきかえせるんだが」 この感想かんそうは一度いちどに来きた。
半分はんぶんとかからないうちに、これだけの順序じゅんじょと、段落だんらくと、論理ろんりと、空想くうそうを具えそなえて、抱き合うだきあうように彼かれの頭あたまの中なかを通過つうかした。
しかしそれから後あとの彼かれはもう自分じぶんの主人公しゅじんこうではなかった。
どこから来きたとも知れしれない若いわかい男おとこが突然とつぜん現われあらわれて、彼かれの荷物にもつを受け取っうけとった。
一いち分ぶんの猶予ゆうよなく彼かれをすぐ前まえにある茶店ちゃみせの中なかへ引き込んひきこんで、彼かれの行こういこうとする宿屋やどやの名なを訊いきいたり、馬車ばしゃに乗るのるか俥くるまにするかを確かめたしかめたりした上うえに、彼かれの予期よきしていないような愛嬌あいきょうさえ、自由自在じゆうじざいに忙がしいいそがしい短時間たんじかんの間まに操縦そうじゅうして退けしりぞけた。
彼かれはやがて否応いやおうなしにズックずっくの幌ほろを下しおろした馬車ばしゃの上うえへ乗せのせられた。
そうして御免ごめんといいながら自分じぶんの前まえに腰こしをかける先刻せんこくの若いわかい男おとこを見出すみだすべく驚ろかさおどろかされた。
「君きみもいっしょに行くいくのかい」「へえ、お邪魔おじゃまでも、どうか」 若いわかい男おとこは津田つだの目指しめざしている宿屋やどやの手代てだいであった。
「ここに旗はたが立ったっています」 彼かれは首くびを曲げまげて御者ぎょしゃ台だいの隅すみに挿しさし込んこんである赤いあかい小旗しょうきを見みた。
暗いくらいので中なかに染め抜かそめぬかれた文字もじは津田つだの眼めに入らはいらなかった。
旗はたはただ馬車ばしゃの速力そくりょくで起すおこす風かぜのために、彼かれの座席ざせきの方ほうへはげしく吹かふかれるだけであった。
彼かれは首くびを縮めちぢめて外套がいとうの襟えりを立てたてた。
「夜中よなかはもうだいぶお寒くさむくなりました」 御者ぎょしゃ台だいを背中せなかに背負っせおってる手代てだいは、位地いちの関係かんけいから少しすこしも風かぜを受けうけないので、この云いいい草くさは何なんとなく小賢しくこざかしく津田つだの耳みみに響いひびいた。
道みちは左右さゆうに田たを控えひかえているらしく思わおもわれた。
そうして道みちと田たの境目さかいめには小河おがわの流れながれが時々ときどき聞こえるきこえるように感ぜかんぜられた。
田たは両方りょうほうとも狭くせまく細くほそく山やまで仕切らしきられているような気きもした。
津田つだは帽子ぼうしと外套がいとうの襟えりで隠しかくし切れきれない顔かおの一部分いちぶぶんだけを風かぜに曝しさらして、寒ささむさに抵抗ていこうでもするように黙想もくそうの態度たいどを手代てだいに示ししめした。
手代てだいもその方ほうが便利べんりだと見えみえて、強いてしいて向うむこうから口くちを利こうきこうともしなかった。
すると突然とつぜん津田つだの心こころが揺いわなないた。
「お客おきゃくはたくさんいるかい」「へえありがとう、お蔭さまおかげさまで」「何人なんにんぐらい」 何人なんにんとも答えこたえなかった手代てだいは、かえって弁解べんかいがましい返事へんじをした。
「ただいまはあいにく季節きせつが季節きせつだもんでげすから、あんまりおいでがございません。寒いさむい時じは暮くれからお正月しょうがつへかけまして、それから夏場なつばになりますと、まあ七八二ななはちに月つきですな、繁昌はんじょうするのは。そんな時じにゃ臨時りんじのお客さまおきゃくさまを御ご断りことわりする事ことが、毎日まいにちのようにございます」「じゃ今いまがちょうど閑かんな時じなんだね、そうか」「へえ、どうぞごゆっくり」「ありがとう」「やっぱり御ご病気びょうきのためにわざわざおいでなんで」「うんまあそうだ」 清子きよこの事ことを訊くきく目的もくてきで話しはなし始めはじめた津田つだは、ここへ来きて急きゅうに痞えつかえた。
彼かれは気きがさした。
彼女かのじょの名前なまえを口くちにするに堪えこらえなかった。
その上うえ後あとで面倒めんどうでも起るおこると悪いわるいとも思い返しおもいかえした。
手代てだいから顔かおを離しはなして馬車ばしゃの背せに倚りよりかかり直しなおした彼かれは、再びふたたび沈黙ちんもくの姿勢しせいを回復かいふくした。
百七十二ひゃくななじゅうに
馬車ばしゃはやがて黒いくろい大きなおおきな岩いわのようなものに突き当ろうつきあたろうとして、その裾すそをぐるりと廻りまわり込んこんだ。
見るみると反対はんたいの側がわにも同じおなじ岩いわの破片はへんとも云ういうべきものが不行儀ふぎょうぎに路傍ろぼうを塞いせいでいた。
台上だいじょうから飛び下りとびおりた御者ぎょしゃはすぐ馬うまの口くちを取っとった。
一方いっぽうには空そらを凌ぐしのぐほどの高いたかい樹きが聳えそびえていた。
星月夜ほしつきよの光ひかりに映るうつる物凄いものすごい影かげから判断はんだんすると古松こまつらしいその木きと、突然とつぜん一方いっぽうに聞こえきこえ出しだした奔湍ほんたんの音おととが、久しくひさしく都会とかいの中なかを出でなかった津田つだの心こころに不時ふじの一転いってん化ばけを与えあたえた。
彼かれは忘れわすれた記憶きおくを思い出しおもいだした時じのような気分きぶんになった。
「ああ世の中よのなかには、こんなものが存在そんざいしていたのだっけ、どうして今までいままでそれを忘れわすれていたのだろう」 不幸ふこうにしてこの述懐じゅっかいは孤立こりつのまま消滅しょうめつする事ことを許さゆるされなかった。
津田つだの頭あたまにはすぐこれから会いあいに行くいく清子きよこの姿すがたが描き出さえがきだされた。
彼かれは別れわかれて以来いらい一いち年ねん近くちかく経つたつ今日きょうまで、いまだこの女おんなの記憶きおくを失くしなくした覚さとしがなかった。
こうして夜よる路みちを馬車ばしゃに揺られゆられて行くいくのも、有体ありていに云えいえば、その人ひとの影かげを一いち図ずに追かけおいかけている所作しょさに違いなかった。
御者ぎょしゃは先刻せんこくから時間じかんの遅くおそくなるのを恐れるおそれるごとく、止せよせばいいと思うおもうのに、濫りみだりなる鞭むちを鳴らしならして、しきりに痩やせ馬うまの尻しりを打っうった。
失わうしなわれた女おんなの影かげを追うおう彼かれの心こころ、その心こころを無遠慮むえんりょに翻訳ほんやくすれば、取りとりも直さなおさず、この痩やせ馬うまではないか。
では、彼かれの眼前がんぜんに鼻はなから息いきを吹いふいている憐れあわれな動物どうぶつが、彼かれ自身じしんで、それに手荒てあらな鞭むちを加えるくわえるものは誰だれなのだろう。
吉川よしかわ夫人ふじん?
いや、そう一概いちがいに断言だんげんする訳わけには行かいかなかった。
ではやっぱり彼かれ自身じしん?
この点てんで精確せいかくな解決かいけつをつける事ことを好まこのまなかった津田つだは、問題もんだいをそこで投げなげながら、依然いぜんとしてそれより先さきを考えかんがえずにはいられなかった。
「彼女かのじょに会うあうのは何なんのためだろう。永くながく彼女かのじょを記憶きおくするため? 会わあわなくても今いまの自分じぶんは忘れわすれずにいるではないか。では彼女かのじょを忘れるわすれるため? あるいはそうかも知れしれない。けれども会えあえば忘れわすれられるだろうか。あるいはそうかも知れしれない。あるいはそうでないかも知れしれない。松まつの色いろと水みずの音おと、それは今いま全くまったく忘れわすれていた山やまと渓けいの存在そんざいを憶い出さおもいださせた。全くまったく忘れわすれていない彼女かのじょ、想像そうぞうの眼め先さきにちらちらする彼女かのじょ、わざわざ東京とうきょうから後あとを跟けつけて来きた彼女かのじょ、はどんな影響えいきょうを彼かれの上うえに起すおこすのだろう」 冷たいつめたい山間さんかんの空気くうきと、その山やまを神秘的しんぴてきに黒くくろくぼかす夜よるの色いろと、その夜よるの色いろの中なかに自分じぶんの存在そんざいを呑みのみ尽さつくされた津田つだとが一度いちどに重なり合っかさなりあった時じ、彼かれは思わおもわず恐れおそれた。
ぞっとした。
御者ぎょしゃは馬うまの轡くつわを取っとったなり、白いしろい泡あわを岩角いわかどに吹き散らしふきちらして鳴りなりながら流れるながれる早瀬はやせの上うえに架け渡しかけわたした橋はしの上うえをそろそろ通っとおった。
すると幾いく点てんの電灯でんとうがすぐ津田つだの眸ひとみに映っうつったので、彼かれはたちまちもう来きたなと思っおもった。
あるいはその光ひかりの一いちつが、今いま清子きよこの姿すがたを照らしてらしているのかも知れしれないとさえ考えかんがえた。
「運命うんめいの宿やど火ひだ。それを目標もくひょうに辿りつくたどりつくよりほかに途とはない」 詩しに乏しいとぼしい彼かれは固よりもとよりこんな言葉ことばを口くちにする事ことを知らしらなかった。
けれどもこう形容けいようしてしかるべき気分きぶんはあった。
彼かれは首くびを手代てだいの方ほうへ延ばしのばした。
「着いついたようじゃないか。君きみの家いえはどれだい」「へえ、もう一いち丁ていほど奥おくになります」 ようやく馬車ばしゃの通れるとおれるくらいな温泉おんせんの町まちは狭かっせまかった。
おまけに不規則ふきそくな故意こいとらしい曲折きょくせつを描いえがいて、御者ぎょしゃをして再びふたたび車台しゃだいの上うえに鞭むちを鳴らすならす事ことを許さゆるさなかった。
それでも宿やどへ着くつくまでに五六ごろく分ぶんしかかからなかった。
山やまと谷たにがそれほど広いひろいという意味いみで、町まちはそれほど狭かっせまかったのである。
宿やどは手代てだいの云っいった通りとおり森閑しんかんとしていた。
夜よるのためばかりでもなく、家いえの広いひろいためばかりでもなく、全くまったく客きゃくの少ないすくないためとしか受け取れうけとれないほどの静かしずかさのうちに、自分じぶんの室むろへ案内あんないされた彼かれは、好よしみ時季じきに邂逅かいこうせてくれたこの偶然ぐうぜんに感謝かんしゃした。
性質せいしつから云えいえばむしろ人中ひとなかを択ぶえらぶべきはずの彼かれには都合つごうがあった。
彼かれは膳ぜんの向うむこうに坐っすわっている下女げじょに訊いきいた。
「昼間ひるまもこの通りとおりかい」「へえ」「何なんだかお客おきゃくはどこにもいないようじゃないか」 下女げじょは新館しんかんとか別館べっかんとか本館ほんかんとかいう名前なまえを挙げあげて、津田つだの不審ふしんを説明せつめいした。
「そんなに広いひろいのか。案内あんないを知らしらないものは迷児まいごにでもなりそうだね」 彼かれは清子きよこのいる見当けんとうを確かめたしかめなければならなかった。
けれども手代てだいに露骨ろこつな質問しつもんがかけられなかった通りとおり、下女げじょにも卒直そっちょくな尋ねたずね方ほうはできなかった。
「一人ひとりで来るくる人ひとは少ないすくないだろうね、こんな所ところへ」「そうでもございません」「だが男おとこだろう、そりゃ。まさか女おんな一人ひとりで逗留とうりゅうしているなんてえのはなかろう」「一人ひとりいらっしゃいます、今いま」「へえ、病気びょうきじゃないか。そんな人ひとは」「そうかも知れしれません」「何なんという人ひとだい」 受持うけもちが違うちがうので下女げじょは名前なまえを知らしらなかった。
「若いわかい人ひとかね」「ええ、若いわかいお美びくしい方ほうです」「そうか、ちょっと見せみせて貰いもらいたいな」「お湯ゆにいらっしゃる時じ、この室むろの横よこをお通りとおりになりますから、御覧ごらんになりたければ、いつでも――」「拝見はいけんできるのか、そいつはありがたい」 津田つだは女おんなのいる方角ほうがくだけ教わっおそわって、膳ぜんを下げさげさせた。
百七十三ひゃくななじゅうさん
寝るねる前まえに一いち風呂ふろ浴びるあびるつもりで、下女げじょに案内あんないを頼んたのんだ時じ、津田つだは始めはじめて先刻せんこく彼女かのじょから聴かさきかされたこの家いえの広さひろさに気きがついた。
意外いがいな廊下ろうかを曲っきょくったり、思いおもいも寄らよらない階子段はしごだんを降りふりたりして、目的もくてきの湯壺ゆつぼを眼めの前まえに見出しみだした彼かれは、実際じっさい一人ひとりで自分じぶんの座敷ざしきへ帰れるかえれるだろうかと疑っうたがった。
風呂場ふろばは板いたと硝子戸がらすとでいくつにか仕切らしきられていた。
左右さゆうに三さんつずつ向うむこう合せあわせに並んならんでいる小型こがたな浴槽よくそうのほかに、一いちつ離れはなれて大きいおおきいのは、普通ふつうの洗湯せんとうに比べくらべて倍ばい以上いじょうの尺さしがあった。
「これが一番いちばん大きくおおきくって心持こころもちがいいでしょう」と云っいった下女げじょは、津田つだのために擦硝子がらすの篏った戸とをがらがらと開けあけてくれた。
中なかには誰だれもいなかった。
湯気ゆげが籠るこもるのを防ぐふせぐためか、座敷ざしきで云えいえば欄間らんまと云っいったような部分ぶぶんにも、やはり硝子戸がらすとの設けもうけがあって、半分はんぶんほど隙すきかされた
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