明暗

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その一人である事は確であった。吉川夫人が関係しているのも明かに推測された。――こう考えた彼女は急に心細くなった。知らないうちに重囲のうちに自分を見出した孤軍のような心境が、遠くから彼女を襲って来た。彼女は周囲を見廻した。しかしそこには夫を除いて依りになるものは一人もいなかった。彼女は何をおいてもまず津田に走らなければならなかった。その津田を疑ぐっている彼女にも、まだ信力は残っていた。どんな事があろうとも、夫だけは共謀者の仲間入はよもしまいと念じた彼女の足は、堀の門を出るや否や、ひとりでにすぐ病院の方へ向いたのである。

第 15 章
その心理しんり作用さようが今いま喰いとめくいとめられなければならなくなった時じ、通りとおりで会っかいった電車でんしゃの影かげをお延のべは腹はらの底そこから呪っのろった。
もし車中しゃちゅうの人ひとが吉川よしかわ夫人ふじんであったとすれば、もし吉川よしかわ夫人ふじんが津田つだの所ところへ見舞みまいに行っいったとすれば、もし見舞みまいに行っいったついでに、――。
いかに怜俐れいなお延のべにも考えるかんがえる自由じゆうの与えあたえられていないその後そのあとは容易よういに出でて来きなかった。
けれども結果けっかは一いちつであった。
彼女かのじょの頭あたまは急きゅうにお秀おひでから、吉川よしかわ夫人ふじん、吉川よしかわ夫人ふじんから津田つだへと飛び移っとびうつった。
彼女かのじょは何なんがなしに、この三さん人ひとを巴ともえのように眺めながめ始めはじめた。
「ことによると三さん人ひとは自分じぶんに感じかんじさせない一種いっしゅの電気でんきを通わかよわせ合っあっているかも知れしれない」 今までいままで避難ひなん場ばのつもりで夫おっとの所ところへ駈け込もうかけこもうとばかり思っおもっていた彼女かのじょは考えかんがえざるを得とくなかった。
「この分ぶんじゃ、ただ行っいったっていけない。行っいってどうしよう」 彼女かのじょはどうしようという分別ぶんべつなしに歩いあるいて来きた事ことに気きがついた。
するとどんな態度たいどで、どんな風かぜに津田つだに会うあうのが、この場合ばあい最ももっとも有効ゆうこうだろうという問題もんだいが、さも重要じゅうようらしく彼女かのじょに見えみえ出しだして来きた。
夫婦ふうふのくせに、そんなよそ行こうの支度したくなんぞして何なんになるという非難ひなんをどこにも聴かきかなかったので、いったん宅たくへ帰っかえって、よく気きを落ちつけおちつけて、それからまた出直すでなおすのが一番いちばんの上策じょうさくだと思い極めおもいきわめた彼女かのじょは、ついにもう五六ごろく分ぶんで病院びょういんへ行き着こういきつこうという小路こうじの中ほどなかほどから取っとって返しかえした。
そうして柳やなぎの木きの植っうわっている大通りおおどおりから賑やかにぎやかな往来おうらいまで歩いあるいてすぐ電車でんしゃへ乗っのった。
百四十四ひゃくよんじゅうよん
お延のべは日ひのとぼとぼ頃ころに宅たくへ帰っかえった。
電車でんしゃから降りふりて一いち丁ていほどの所ところを、身みに染みるしみるような夕暮ゆうぐれの靄もやに包まつつまれた後あとの彼女かのじょには、何なんよりも火鉢ひばちの傍そばが恋しかっこいしかった。
彼女かのじょはコートこーとを脱ぐぬぐなりまずそこへ坐っすわって手てを翳しかざした。
しかし彼女かのじょにはほとんど一いち分ぶんの休憩時間きゅうけいじかんも与えあたえられなかった。
坐るすわるや否いなや彼女かのじょはお時じの手てから津田つだの手紙てがみを受け取っうけとった。
手紙てがみの文句もんくは固よりもとより簡単かんたんであった。
彼女かのじょは封ふうを切るきる手数てすうとほとんど同じおなじ時間じかんで、それを読み下すよみくだす事ことができた。
けれども読んよんだ後あとの彼女かのじょは、もう読むよむ前まえの彼女かのじょではなかった。
わずか三さん行こうばかりの言葉ことばは一いち冊さつの書物しょもつより強くつよく彼女かのじょを動かしうごかした。
一度いちどに外そとから持っもって帰っかえった気分きぶんに火ひを点けつけたその書翰しょかんの前まえに彼女かのじょの心こころは躍っおどった。
「今日きょう病院びょういんへ来きていけないという意味いみはどこにあるだろう」 それでなくっても、もう一遍いちぺん出直すでなおすはずであった彼女かのじょは、時間じかんに関せきう余裕よゆうさえなかった。
彼女かのじょは台所だいどころから膳ぜんを運んはこんで来きたお時じを驚ろかしおどろかして、すぐ立ち上がったちあがった。
「御飯ごはんは帰っかえってからにするよ」 彼女かのじょは今いま脱いぬいだばかりのコートこーとをまた羽織っはおって、門もんを出でた。
しかし電車でんしゃ通りとおりまで歩いあるいて来きた時じ、彼女かのじょの足あしは、また小路こうじの角かくでとまった。
彼女かのじょはなぜだか病院びょういんへ行くいくに堪えこらえないような気きがした。
この様子ようすでは行っいったところで、役やくに立たたたないという思慮しりょが不意ふいに彼女かのじょに働らきはたらきかけた。
「夫おっとの性質せいしつでは、とても卒直そっちょくにこの手紙てがみの意味いみさえ説明せつめいしてはくれまい」 彼女かのじょは心細くこころぼそくなって、自分じぶんの前まえを右みぎへ行っいったり左ひだりへ行っいったりする電車でんしゃを眺めながめていた。
その電車でんしゃを右みぎへ利用りようすれば病院びょういんで、左ひだりへ乗れのれば岡本おかもとの宅たくであった。
いっそ当初とうしょの計画けいかくをやめて、叔父おじの所ところへでも行こういこうかと考えついかんがえついた彼女かのじょは、考えつくかんがえつくや否いなや、すぐその方面ほうめんに横わるよこたわる困難こんなんをも想像そうぞうした。
岡本おかもとへ行っいって相談そうだんする以上いじょう、彼女かのじょは打ち明けうちあけ話はなしをしなければならなかった。
今までいままで隠しかくしていた夫婦関係ふうふかんけいの奥底おくそこを、曝け出ささらけださなければ、一いち歩あゆみも前まえへ出るでる訳わけには行かいかなかった。
叔父おじと叔母おばの前まえに、自分じぶんの眼めが利かりかなかった自白じはくを綺麗きれいにしなければならなかった。
お延のべはまだそれほどの恥はじを忍ぶしのぶまでに事件じけんは逼っせまっていないと考えかんがえた。
復活ふっかつの見込みこみが充分じゅうぶん立たたたないのに、酔興すいきょうで自分じぶんの虚栄心きょえいしんを打ち殺すうちころすような正直しょうじきは、彼女かのじょの最ももっとも軽蔑けいべつするところであった。
彼女かのじょは決しけっしかねて右みぎと左ひだりへ少しすこしずつ揺れゆれた。
彼女かのじょがこんなに迷っまよっているとはまるで気きのつかない津田つだは、この時じ床ゆかの上うえに起き上っおきあがって、平気へいきで看護婦かんごふの持っもって来きた膳ぜんに向いむかいつつあった。
先刻せんこくお秀おひでから電話でんわのかかった時じ、すでにお延のべの来訪らいほうを予想よそうした彼かれは、吉川よしかわ夫人ふじんと入れ代りいれかわりに細君さいくんの姿すがたを病室びょうしつに見るみるべく暗にあんに心こころの調子ちょうしを整えととのえていたところが、その細君さいくんは途中とちゅうから引き返しひきかえしてしまったので、軽いかるい失望しつぼうの間まに、夕食ゆうしょくの時間じかんが来るくるまで、待ち草臥れまちくたびれたせいか、看護婦かんごふの顔かおを見るみるや否いなや、すぐ話しかけはなしかけた。
「ようやく飯めしか。どうも一人ひとりでいると日ひが長くながくって困るこまるな」 看護婦かんごふは体からだの小さいちいさい血色けっしょくの好くよくない女おんなであった。
しかし年頃としごろはどうしても津田つだに鑑定かんていのつかない妙みょうな顔かおをしていた。
いつでも白いしろい服ふくを着けつけているのが、なおさら彼女かのじょを普通ふつうの女おんなの群ぐんから遠ざけとおざけた。
津田つだはつねに疑っうたがった。
――この人ひとが通常つうじょうの着物きものを着るきる時じに、まだ肩上かたうえを付けつけているだろうか、または除じょっているだろうか。
彼かれはいつか真面目まじめにこんな質問しつもんを彼女かのじょにかけて見みた事ことがあった。
その時じ彼女かのじょはにやりと笑っわらって、「私わたくしはまだ見習みならいです」と答えこたえたので、津田つだはおおよその見当けんとうを立てたてたくらいであった。
膳ぜんを彼かれの枕元まくらもとへ置いおいた彼女かのじょはすぐ下したへ降りふりなかった。
「御ご退屈たいくつさま」と云っいって、にやにや笑っわらった彼女かのじょは、すぐ後あとを付け足しつけたした。
「今日きょうは奥さんおくさんはお見えみえになりませんね」「うん、来きないよ」 津田つだの口くちの中なかにはもう焦げこげた麺めん麭がいっぱい入っはいっていた。
彼かれはそれ以上いじょう何なんも云ういう事ことができなかった。
しかし看護婦かんごふの方ほうは自由じゆうであった。
「その代りかわり外そとのお客さまおきゃくさまがいらっしゃいましたね」「うん。あのお婆ばあさんだろう。ずいぶん肥っふとってるね、あの奥さんおくさんは」 看護婦かんごふが悪口わるぐちの相槌あいづちを打つうつ気色けしきを見せみせないので、津田つだは一人ひとりでしゃべらなければならなかった。
「もっと若いわかい綺麗きれいな人ひとが、どんどん見舞みまいに来きてくれると病気びょうきも早くはやく癒るなおるんだがな」と云っいって看護婦かんごふを笑わわらわせた彼かれは、すぐ彼女かのじょから冷れい嘲あざけりかし返さしかえされた。
「でも毎日まいにち女おんなの方ほうばかりいらっしゃいますね。よっぽど間まがいいと見えみえて」 彼女かのじょは小林こばやしの来きた事ことを知らしらないらしかった。
「昨日きのういらしった奥さんおくさんは大変たいへんお綺麗きれいですね」「あんまり綺麗きれいでもないよ。あいつは僕ぼくの妹いもうとだからね。どこか似にているかね、僕ぼくと」 看護婦かんごふは似にているとも似にていないとも答えこたえずに、やっぱりにやにやしていた。
百四十五ひゃくよんじゅうご
それは看護婦かんごふにとって意外いがいな儲けもうけ日ひであった。
下痢げりの気味きみでいつもの通りとおり診察しんさつ場ばに出でられなかった医者いしゃに、代理だいりを頼またのまれた彼かれの友人ゆうじんは、午前ごぜんの都合つごうを付けつけてくれただけで、午後ごごから夜よるへかけての時間じかんには、もう顔かおを出さださなかった。
「今日きょうは当直とうちょくだから晩ばんには来きられないんだそうです」 彼女かのじょはこう云っいって、不断ふだんのような忙がしいいそがしい様子ようすをどこにも見せみせずに、ゆっくり津田つだの膳ぜんの前まえに坐っすわっていた。
退屈凌ぎたいくつしのぎに好いよい相手あいてのできた気きになった津田つだの舌したには締りしまりがなかった。
彼かれは面白おもしろ半分はんぶんいろいろな事ことを訊いきいた。
「君きみの国くにはどこかね」「栃木県とちぎけんです」「なるほどそう云わいわれて見るみると、そうかな」「名前なまえは何なんと云っいったっけね」「名前なまえは知りしりません」 看護婦かんごふはなかなか名前なまえを云わいわなかった。
津田つだはそこに発見はっけんされた抵抗ていこうが愉快ゆかいなので、わざわざ何なん遍へんも同じおなじ事ことを繰り返しくりかえして訊いきいた。
「じゃこれから君きみの事ことを栃木県とちぎけん、栃木県とちぎけんって呼ぶよぶよ。いいかね」「ええよござんす」 彼女かのじょの名前なまえの頭文字あたまもじはつであった。
「露ろか」「いいえ」「なるほど露ろじゃあるまいな。じゃ土つちか」「いいえ」「待ちまちたまえよ、露ろでもなし、土つちでもないとすると。――ははあ、解っわかった。つやだろう。でなければ、常つねか」 津田つだはいくらでもでたらめを云っいった。
云ういうたびに看護婦かんごふは首くびを振っふって、にやにや笑っわらった。
笑うわらうたびに、津田つだはまた彼女かのじょを追窮ついきゅうした。
しまいに彼女かのじょの名ながつきだと判然はんぜんった時じ、彼かれはこの珍らしいめずらしい名なをまだ弄んもてあそんだ。
「お月つきさんだね、すると。お月つきさんは好いよい名なだ。誰だれが命いのちけた」 看護婦かんごふは返答へんとうを与えるあたえる代りかわりに突然とつぜん逆襲ぎゃくしゅうした。
「あなたの奥さんおくさんの名なは何なんとおっしゃるんですか」「あてて御覧ごらん」 看護婦かんごふはわざと二につ三さんつ女おんならしい名なを並べならべた後あとで云っいった。
「お延おのべさんでしょう」 彼女かのじょは旨くうまくあてた。
というよりも、いつの間まにかお延のべの名なを聴いきいて覚えおぼえていた。
「お月つきさんはどうも油断ゆだんがならないなあ」 津田つだがこう云っいって興じきょうじているところへ、本人ほんにんのお延のべがひょっくり顔かおを出しだしたので、ふり返っふりかえった看護婦かんごふは驚ろいおどろいて、すぐ膳ぜんを持っもったなり立ち上ったちのぼった。
「ああ、とうとういらしった」 看護婦かんごふと入れ代りいれかわりに津田つだの枕元まくらもとへ坐っすわったお延のべはたちまち津田つだを見みた。
「来きないと思っおもっていらしったんでしょう」「いやそうでもない。しかし今日きょうはもう遅いおそいからどうかとも思っおもっていた」 津田つだの言葉ことばに偽りいつわりはなかった。
お延のべにはそれを認めるみとめるだけの眼めがあった。
けれどもそうすれば事ことの矛盾むじゅんはなお募るつのるばかりであった。
「でも先刻せんこく手紙てがみをお寄こしよこしになったのね」「ああやったよ」「今日きょう来きちゃいけないと書いかいてあるのね」「うん、少しすこし都合つごうの悪いわるい事ことがあったから」「なぜあたしが来きちゃ御都合ごつごうが悪いわるいの」 津田つだはようやく気きがついた。
彼かれはお延のべの様子ようすを見みながら答えこたえた。
「なに何なんでもないんだ。下らしたらない事ことなんだ」「でも、わざわざ使しに持たもたせてお寄こしよこしになるくらいだから、何なんかあったんでしょう」 津田つだはごまかしてしまおうとした。
「下らしたらない事ことだよ。何なんでまたそんな事ことを気きにかけるんだ。お前おまえも馬鹿ばかだね」 慰藉いしゃのつもりで云っいった津田つだの言葉ことばはかえって反対はんたいの結果けっかをお延のべの上うえに生じしょうじた。
彼女かのじょは黒いくろい眉まゆを動かしうごかした。
無言むごんのまま帯おびの間まへ手てを入れいれて、そこから先刻せんこくの書翰しょかんを取り出しとりだした。
「これをもう一いち遍へん見みてちょうだい」 津田つだは黙っだまってそれを受け取っうけとった。
「別段べつだん何になんにも書いかいちゃないじゃないか」と云っいった時じ、彼かれの腹はらはようやく彼かれの口くちを否定ひていした。
手紙てがみは簡単かんたんであった。
けれどもお延のべの疑いうたがいを惹くひくには充分じゅうぶんであった。
すでに疑わうたがわれるだけの弱味よわみをもっている彼かれは、やり損なっそこなったと思っおもった。
「何になんにも書いかいてないから、その理由りゆうを伺ううかがうんです」とお延のべは云っいった。
「話しはなして下すっくだすってもいいじゃありませんか。せっかく来きたんだから」「お前おまえはそれを聴きききに来きたのかい」「ええ」「わざわざ?」「ええ」 お延のべはどこまで行っいっても動かうごかなかった。
相手あいての手剛てごわさを悟っさとった時じ、津田つだは偶然ぐうぜん好いよい嘘うそを思いついおもいついた。
「実じつは小林こばやしが来きたんだ」 小林こばやしの二に字じはたしかにお延のべの胸むねに反響はんきょうした。
しかしそれだけではすまなかった。
彼かれはお延のべを満足まんぞくさせるために、かえってそこを説明せつめいしてやらなければならなくなった。
百四十六ひゃくよんじゅうろく
「小林こばやしなんかに逢うあうのはお前おまえも厭いやだろうと思っおもってね。それで気きがついたからわざわざ知らししらしてやったんだよ」 こう云っいってもお延のべはまだ得心とくしんした様子ようすを見せみせなかったので、津田つだはやむをえず慰藉いしゃの言葉ことばを延ばさのばさなければならなかった。
「お前おまえが厭いやでないにしたところで、おれが厭いやなんだ、あんな男おとこにお前おまえを合わせるあわせるのは。それにあいつがまたお前おまえに聴かきかせたくないような厭いやな用事ようじを持ち込んもちこんで来きたもんだからね」「あたしの聴いきいて悪いわるい用事ようじ? じゃお二人ふたりの間まの秘密ひみつなの?」「そんな訳わけのものじゃないよ」と云っいった津田つだは、自分じぶんの上うえに寸分すんぶんの油断ゆだんなく据えすえられたお延のべの細いほそい眼めを見みた時じに、周章てあわてて後あとを付け足しつけたした。
「また金きんを強きょう乞こつりに来きたんだ。ただそれだけさ」「じゃあたしが聴いきいてなぜ悪いわるいの」「悪いわるいとは云やいやしない。聴かきかせたくないというまでさ」「するとただ親切しんせつずくで寄こしよこして下すっくだすった手紙てがみなのね、これは」「まあそうだ」 今までいままで夫おっとに見入っみいっていたお延のべの細いほそい眼めがなお細くほそくなると共ともに、微かかすかな笑わらいが唇くちびるを洩れもれた。
「まあありがたい事こと」 津田つだは澄ましすましていられなくなった。
彼かれは用意よういを欠いかいた文句もんくを択りより除けるのける余裕よゆうを失っうしなった。
「お前おまえだって、あんな奴やつに会うあうのは厭いやなんじゃないか」「いいえ、ちっとも」「そりゃ嘘うそだ」「どうして嘘うそなの」「だって小林こばやしは何なんかお前おまえに云っいったそうじゃないか」「ええ」「だからさ。それでお前おまえもあいつに会うあうのは厭いやだろうと云ういうんだ」「じゃあなたはあたしが小林こばやしさんからどんな事ことを聴いきいたか知っしっていらっしゃるの」「そりゃ知らしらないよ。だけどどうせあいつのことだから碌なろくな事ことは云やいやしなかろう。いったいどんな事ことを云っいったんだ」 お延のべは口くちへ出かかっでかかった言葉ことばを殺しころしてしまった。
そうして反問はんもんした。
「ここで小林こばやしさんは何なんとおっしゃって」「何なんとも云やいやしないよ」「それこそ嘘うそです。あなたは隠しかくしていらっしゃるんです」「お前おまえの方ほうが隠しかくしているんじゃないかね。小林こばやしから好いよい加減かげんな事ことを云わいわれて、それを真しんに受けうけていながら」「そりゃ隠しかくしているかも知れしれません。あなたが隠し立てかくしだてをなさる以上いじょう、あたしだって仕方しかたがないわ」 津田つだは黙っだまった。
お延のべも黙っだまった。
二人ふたりとも相手あいての口くちを開くひらくのを待っまった。
しかしお延のべの辛しん防ぼうは津田つだよりも早くはやく切れきれた。
彼女かのじょは急きゅうに鋭どいするどい声こえを出しだした。
「嘘うそよ、あなたのおっしゃる事ことはみんな嘘うそよ。小林こばやしなんて人ひとはここへ来きた事ことも何になんにもないのに、あなたはあたしをごまかそうと思っおもって、わざわざそんな拵え事こしらえごとをおっしゃるのよ」「拵えこしらえたって、別べつにおれの利益りえきになる訳わけでもなかろうじゃないか」「いいえほかの人ひとが来きたのを隠すかくすために、小林こばやしなんて人ひとを、わざわざ引張りひっぱり出すだすにきまってるわ」「ほかの人ひと? ほかの人ひととは」 お延のべの眼めは床ゆかの上うえに載せのせてある楓ふうの盆栽ぼんさいに落ちおちた。
「あれはどなたが持っもっていらしったんです」 津田つだは失敗っしっぱいったと思っおもった。
なぜ早くはやく吉川よしかわ夫人ふじんの来きた事ことを自白じはくしてしまわなかったかと後悔こうかいした。
彼かれが最初さいしょそれを口くちにしなかったのは分別ぶんべつの結果けっかであった。
話すはなすのに訳わけはなかったけれども、夫人ふじんと相談そうだんした事柄ことがらの内容ないようが、お延のべに対するたいする彼かれを自然しぜん臆病おくびょうにしたので、気きの咎めるとがめる彼かれは、まあ遠慮えんりょしておく方ほうが得策とくさくだろうと思案しあんしたのである。
盆栽ぼんさいをふり返っふりかえった彼かれが吉川よしかわ夫人ふじんの名なを云おういおうとして、ちょっと口籠っくちごもった時じ、お延のべは機先きせんを制しせいした。
「吉川よしかわの奥さんおくさんがいらしったじゃありませんか」 津田つだは思わおもわず云っいった。
「どうして知っしってるんだ」「知っしってますわ。そのくらいの事こと」 お延のべの様子ようすに注意ちゅういしていた津田つだはようやく度胸どきょうを取り返しとりかえした。
「ああ来きたよ。つまりお前おまえの予言よげんがあたった訳わけになるんだ」「あたしは奥さんおくさんが電車でんしゃに乗っのっていらしった事ことまでちゃんと知っしってるのよ」 津田つだはまた驚ろいおどろいた。
ことによると自動車じどうしゃが大通りおおどおりに待っまっていたのかも知れしれないと思っおもっただけで、彼かれは夫人ふじんの乗物のりものにそれ以上いじょう細かいこまかい注意ちゅういを払わはらわなかった。
「お前おまえどこかで会っかいったのかい」「いいえ」「じゃどうして知っしってるんだ」 お延のべは答えるこたえる代りかわりに訊き返しききかえした。
「奥さんおくさんは何なんしにいらしったんです」 津田つだは何気なんげなく答えこたえた。
「そりゃ今いま話そうはなそうと思っおもってたところだ。――しかし誤解ごかいしちゃ困るこまるよ。小林こばやしはたしかに来きたんだからね。最初さいしょに小林こばやしが来きて、その後そのあとへ奥さんおくさんが来きたんだ。だからちょうど入れいれ違いになった訳わけだ」
百四十七ひゃくよんじゅうなな
お延のべは夫おっとより自分じぶんの方ほうが急き込んせきこんでいる事ことに気きがついた。
この調子ちょうしで乗しのしかかって行っいったところで、夫おっとはもう圧し潰さおしつぶされないという見み切せつをつけた時じ、彼女かのじょは自分じぶんの破綻はたんを出すだす前まえに身みを翻がえしひるがえした。
「そう、そんならそれでもいいわ。小林こばやしさんが来きたって来きなくったって、あたしの知っしった事ことじゃないんだから。その代りかわり吉川よしかわの奥さんおくさんの用事ようじを話しはなして聴かしきかしてちょうだい。無論むろんただのお見舞おみまいでない事ことはあたしにも判っわかってるけれども」「といったところで、大したたいした用事ようじで来きた訳わけでもないんだよ。そんなに期待きたいしていると、また聴いきいてから失望しつぼうするかも知れしれないから、ちょっと断っことわっとくがね」「構いかまいません、失望しつぼうしても。ただありのままを伺いうかがいさえすれば、それで念晴しねんばらしになるんだから」「本来ほんらいが見舞みまいで、用事ようじはつけたりなんだよ、いいかね」「いいわ、どっちでも」 津田つだは夫人ふじんの齎しもたらした温泉おんせん行こうの助言じょげんだけをごく淡泊たんぱくり話しはなした。
お延のべにお延のべ流りゅうの機略きりゃくがある通りとおり、彼かれには彼かれ相当そうとうの懸引けんいんがあるので、都合つごうの悪いわるいところを巧みたくみに省略しょうりゃくした、誰だれの耳みみにも真しん卒そつで合理的ごうりてきな説明せつめいがたやすく彼かれの口くちからお延のべの前まえに描き出さえがきだされた。
彼女かのじょは表ひょう向むかいそれに対したいして一言ひとことの非難ひなんを挟きょうさむ余地よちがなかった。
ただ落ちつかおちつかないのは互たがいの腹はらであった。
お延のべはこの単純たんじゅんな説明せつめいを透しとおして、その奥おくを覗き込もうのぞきこもうとした。
津田つだは飽くまであくまでもそれを見せみせまいと覚悟かくごした。
極めてきわめて平和へいわな暗闘あんとうが度胸どきょう比べくらべと技巧ぎこう比べくらべで演出えんしゅつされなければならなかった。
しかし守るまもる夫おっとに弱点じゃくてんがある以上いじょう、攻めるせめる細君さいくんにそれだけの強味つよみが加わるくわわるのは自然しぜんの理りであった。
だから二人ふたりの天賦てんぷを度外どがいにおいて、ただ二人ふたりの位地いち関係かんけいから見るみると、お延のべは戦いくさかわない先さきにもう優ゆう者ものであった。
正味しょうみの曲直きょくちょくを標準ひょうじゅんにしても、競り合わせりあわない前まえに、彼女かのじょはすでに勝っかっていた。
津田つだにはそういう自覚じかくがあった。
お延のべにもこれとほぼ同じおなじ意味いみで大体だいたいの見当けんとうがついていた。
戦争せんそうは、この内部ないぶの事実じじつを、そのまま表面ひょうめんへ追い出すおいだす事ことができるかできないかで、一段落いちだんらくつかなければならない道理どうりであった。
津田つださえ正直しょうじきならばこれほどたやすい勝負しょうぶはない訳わけでもあった。
しかしもし一いち点てん不正直ふしょうじきなところが津田つだに残っのこっているとすると、これほどまた落しおとし悪いわるい城しろはけっしてないという事ことにも帰着きちゃくした。
気の毒きのどくなお延のべは、否応いやおうなしに津田つだを追い出すおいだすだけの武器ぶきをまだ造り上げつくりあげていなかった。
向うむこうに開門かいもんを逼るせまるよりほかに何なんの手段しゅだんも講じこうじ得とくない境遇きょうぐうにある現在げんざいの彼女かのじょは、結果けっかから見みてほとんど無能むのう力者りきしゃと択ぶえらぶところがなかった。
なぜ心こころに勝っかっただけで、彼女かのじょは美びくしく切り上げきりあげられないのだろうか。
なぜ凱歌がいかを形かたちの上うえにまで運び出さはこびださなければ気きがすまないのだろうか。
今いまの彼女かのじょにはそんな余裕よゆうがなかったのである。
この勝負しょうぶ以上いじょうに大事だいじなものがまだあったのである。
第だい二に第だい三さんの目的もくてきをまだ後あとに控えひかえていた彼女かのじょは、ここを突き破らつきやぶらなければ、その後そのあとをどうする訳わけにも行かいかなかったのである。
それのみか、実じつをいうと、勝負しょうぶは彼女かのじょにとって、一義かずよしの位くらいをもっていなかった。
本当ほんとうに彼女かのじょの目指すめざすところは、むしろ真実しんじつ相そうであった。
夫おっとに勝つかつよりも、自分じぶんの疑ぎを晴らすはらすのが主眼しゅがんであった。
そうしてその疑いうたがいを晴らすはらすのは、津田つだの愛あいを対象たいしょうに置くおく彼女かのじょの生存せいぞん上うえ、絶対ぜったいに必要ひつようであった。
それ自身じしんがすでに大きなおおきな目的もくてきであった。
ほとんど方便ほうべんとも手段しゅだんとも云わいわれないほど重いおもい意味いみを彼女かのじょの眼め先さきへ突きつけつきつけていた。
彼女かのじょは前後ぜんごの関係かんけいから、思量しりょう分別ぶんべつの許すゆるす限りかぎり、全身ぜんしんを挙げあげてそこへ拘泥らこだわらなければならなかった。
それが彼女かのじょの自然しぜんであった。
しかし不幸ふこうな事ことに、自然しぜん全体ぜんたいは彼女かのじょよりも大きかっおおきかった。
彼女かのじょの遥かはるか上うえにも続いつづいていた。
公平こうへいな光りひかりを放っはなって、可憐かれんな彼女かのじょを殺そうころそうとしてさえ憚からはばからなかった。
彼女かのじょが一口ひとくち拘泥るこだわるたびに、津田つだは一足いっそく彼女かのじょから退ぞいしりぞいた。
二口ふたくち拘泥れこだわれば、二に足あし退いしりぞいた。
拘泥るこだわるごとに、津田つだと彼女かのじょの距離きょりはだんだん増しまして行っいった。
大きなおおきな自然しぜんは、彼女かのじょの小さいちいさい自然しぜんから出でた行為こういを、遠慮えんりょなく蹂躙じゅうりんした。
一歩いちほごとに彼女かのじょの目的もくてきを破壊はかいして悔いくいなかった。
彼女かのじょは暗にあんにそこへ気きがついた。
けれどもその意味いみを悟るさとる事ことはできなかった。
彼女かのじょはただそんなはずはないとばかり思いつめおもいつめた。
そうしてついにまた心こころの平静へいせいを失っうしなった。
「あたしがこれほどあなたの事ことばかり考えかんがえているのに、あなたはちっとも察しさっして下さらくださらない」 津田つだはやりきれないという顔かおをした。
「だからおれは何になんにもお前おまえを疑っうたがってやしないよ」「当り前あたりまえですわ。この上うえあなたに疑ぐらうたぐられるくらいなら、死んしんだ方ほうがよっぽどましですもの」「死ぬしぬなんて大袈裟おおげさな言葉ことばは使わつかわないでもいいやね。第一だいいち何になんにもないじゃないか、どこにも。もしあるなら云っいって御覧ごらんな。そうすればおれの方ほうでも弁解べんかいもしようし、説明せつめいもしようけれども、初手しょてから根ねのない苦情くじょうじゃ手てのつけようがないじゃないか」「根ねはあなたのお腹おなかの中なかにあるはずですわ」「困るこまるなそれだけじゃ。――お前おまえ小林こばやしから何なんかしゃくられたね。きっとそうに違いない。小林こばやしが何なんを云っいったかそこで話しはなして御覧ごらんよ。遠慮えんりょは要らいらないから」
百四十八ひゃくよんじゅうはち
津田つだの言葉つきことばつきなり様子ようすなりからして、お延のべは彼かれの心こころを明暸めいりょうに推察すいさつする事ことができた。
――夫おっとは彼かれの留守るすに小林こばやしの来きた事ことを苦くにしている。
その小林こばやしが自分じぶんに何なんを話しはなしたかをなお気きに病んやんでいる。
そうしてその話はなしの内容ないようは、まだ判然はんぜん掴んつかんでいない。
だから鎌かまをかけて自分じぶんを釣り出そうつりだそうとする。
そこに明らかあきらかな秘密ひみつがあった。
材料ざいりょうとして彼女かのじょの胸むねに蓄わえたくわえられて来きたこれまでのいっさいは、疑ぎもなく矛盾むじゅんもなく、ことごとく同じおなじ方角ほうがくに向っむかって注ぎ込んそそぎこんでいた。
秘密ひみつは確実かくじつであった。
青天白日せいてんはくじつのように明らかあきらかであった。
同時どうじに青天白日せいてんはくじつと同じおなじ事ことで、どこにもその影かげを宿さしゅくさなかった。
彼女かのじょはそれを見つめるみつめるだけであった。
手てを出すだす術じゅつを知らしらなかった。
悩乱のうらんのうちにまだ一いち分ぶんの商量しょうりょうを余しよした利巧りこうな彼女かのじょは、夫おっとのかけた鎌かまを外さはずさずに、すぐ向うむこうへかけ返しかえした。
「じゃ本当ほんとうを云いいいましょう。実じつは小林こばやしさんから詳しいくわしい話はなしをみんな聴いきいてしまったんです。だから隠しかくしたってもう駄目だめよ。あなたもずいぶんひどい方ほうね」 彼女かのじょの云いいい草くさはほとんどでたらめに近かっちかかった。
けれどもそれを口くちにする気持きもちからいうと、全くまったくの真剣しんけん沙汰さたと何なんの異なることなるところはなかった。
彼女かのじょは熱ねつを籠めこめた語気ごきで、津田つだを「ひどい方ほう」と呼ばよばなければならなかった。
反響はんきょうはすぐ夫おっとの上うえに来きた。
津田つだはこのでたらめの前まえに退避たいひろぐ気色けしきを見せみせた。
お秀おひでの所ところで遣りやり損なっそこなった苦いにがい経験けいけんにも懲りこりず、また同じおなじ冒険ぼうけんを試みこころみたお延のべの度胸どきょうは酬いむくいられそうになった。
彼女かのじょは一躍いちやくして進んすすんだ。
「なぜこうならない前まえに、打ち明けうちあけて下さらくださらなかったんです」「こうならない前まえ」という言葉ことばは曖昧あいまいであった。
津田つだはその意味いみを捕捉ほそくするに苦しんくるしんだ。
肝心かんじんのお延のべにはなお解らわからなかった。
だから訊かきかれても説明せつめいしなかった。
津田つだはただぼんやりと念ねんを押しおした。
「まさか温泉おんせんへ行くいく事ことをいうんじゃあるまいね。それが不都合ふつごうだと云ういうんなら、やめても構わかまわないが」 お延のべは意外いがいな顔かおをした。
「誰だれがそんな無理むりをいうもんですか。会社かいしゃの方ほうの都合つごうがついて、病後びょうごの身体しんたいを回復かいふくする事ことができれば、それほど結構けっこうな事ことはないじゃありませんか。それが悪いわるいなんてむちゃくちゃを云い募るいいつのるあたしだと思っおもっていらっしゃるの、馬鹿ばからしい。ヒステリーひすてりーじゃあるまいし」「じゃ行っいってもいいかい」「よござんすとも」と云っいった時じ、お延のべは急きゅうに袂たもとから手帛はんけちを出しだして顔かおへ当てあてたと思うおもうと、しくしく泣きなき出しだした。
あとの言葉ことばは、啜り上げるすすりあげる声こえの間まから、句くをなさずに、途切れ途切れとぎれとぎれに、毀れ物こわれもののような形かたちで出でて来きた。
「いくらあたしが、……わがままだって、……あなたの療養りょうようの……邪魔じゃまをするような、……そんな……あたしは不断ふだんからあなたがあたしに許しゆるして下さるくださる自由じゆうに対したいして感謝かんしゃの念ねんをもっているんです……のにあたしがあなたの転地てんち療養りょうようを……妨げるさまたげるなんて……」 津田つだはようやく安心あんしんした。
けれどもお延のべにはまだ先さきがあった。
発作ほっさが静まるしずまると共ともに、その先さきは比較的ひかくてきすらすら出でた。
「あたしはそんな小さなちいさな事ことを考えかんがえているんじゃないんです。いくらあたしが女おんなだって馬鹿ばかだって、あたしにはまたあたしだけの体面たいめんというものがあります。だから女おんななら女おんななり、馬鹿ばかなら馬鹿ばかなりに、その体面たいめんを維持いじして行きいきたいと思うおもうんです。もしそれを毀損きそんされると……」 お延のべはこれだけ云いいいかけてまた泣きなき出しだした。
あとはまた切れ切れきれぎれになった。
「万一まんいち……もしそんな事ことがあると……岡本おかもとの叔父おじに対したいしても……叔母おばに対したいしても……面目めんぼくなくて、合わすあわす顔かおがなくなるんです。……それでなくっても、あたしはもう秀子ひでこさんなんぞから馬鹿ばかにされ切っきっているんです。……それをあなたは傍そばで見みていながら、……すまして……すまして……知らしらん顔かおをしていらっしゃるんです」 津田つだは急きゅうに口くちを開いひらいた。
「お秀おひでがお前おまえを馬鹿ばかにしたって? いつ? 今日きょうお前おまえが行っいった時じにかい」 津田つだは我われ知らしらずとんでもない事ことを云っいってしまった。
お延のべが話さはなさない限りかぎり、彼かれはその会見かいけんを知るしるはずがなかったのである。
お延のべの眼めははたして閃めいひらめいた。
「それ御覧ごらんなさい。あたしが今日きょう秀子ひでこさんの所ところへ行っいった事ことが、あなたにはもうちゃんと知れしれているじゃありませんか」「お秀おひでが電話でんわをかけたよ」という返事へんじがすぐ津田つだの咽喉のどから外そとへ滑りすべり出さださなかった。
彼かれは云おういおうか止そうよそうかと思っおもって迷っまよった。
けれども時じに一いち寸すんの容赦ようしゃもなかった。
反吐へどもどしていればいるほど形勢けいせいは危うくあやうくなるだけであった。
彼かれはほとんど行きつまっいきつまった。
しかし間髪かんぱつを容れいれずという際どいきわどい間際まぎわに、旨いうまい口実こうじつが天てんから降っふって来きた。
「車夫しゃふが帰っかえって来きてそう云っいったもの。おおかたお時じが車夫しゃふに話しはなしたんだろう」 幸いさいわいお延のべがお秀おひでの後あとを追かけおいかけて出でた事ことは、下女げじょにも解っわかっていた。
偶発ぐうはつの言訳いいわけが偶たま中なかの功こうを奏しそうした時じ、津田つだは再度さいどの胸むねを撫で下しなでおろした。
百四十九ひゃくよんじゅうきゅう
遮二無二しゃにむに津田つだを突き破ろうつきやぶろうとしたお延のべは立ちどまったちどまった。
夫おっとがそれほど自分じぶんをごまかしていたのでないと考えるかんがえる拍子ひょうしに気きが抜けぬけたので、一息ひといきに進むすすむつもりの彼女かのじょは進めすすめなくなった。
津田つだはそこを覘った。
「お秀おひでなんぞが何なんを云っいったって構わかまわないじゃないか。お秀おひではお秀おひで、お前おまえはお前おまえなんだから」 お延のべは答えこたえた。
「そんなら小林こばやしなんぞがあたしに何なんを云っいったって構わかまわないじゃありませんか。あなたはあなた、小林こばやしは小林こばやしなんだから」「そりゃ構わかまわないよ。お前おまえさえしっかりしていてくれれば。ただ疑ぐりうたぐりだの誤解ごかいだのを起しおこして、それをむやみに振り廻さふりまわされると迷惑めいわくするから、こっちだって黙っだまっていられなくなるだけさ」「あたしだって同じおなじ事ことですわ。いくらお秀おひでさんが馬鹿ばかにしようと、いくら藤井ふじいの叔母おばさんが疎外そがいしようと、あなたさえしっかりしていて下されくだされば、苦くになるはずはないんです。それを肝心かんじんのあなたが……」 お延のべは行きつまっいきつまった。
彼女かのじょには明暸めいりょうな事実じじつがなかった。
したがって明暸めいりょうな言葉ことばが口くちへ出でて来きなかった。
そこを津田つだがまた一いち掬いすくい掬っすくった。
「おおかたお前おまえの体面たいめんに関わるかかわるような不始末ふしまつでもすると思っおもってるんだろう。それよりか、もう少しすこしおれに憑りうつりかかって安心あんしんしていたらいいじゃないか」 お延のべは急きゅうに大きなおおきな声こえを揚げあげた。
「あたしは憑りうつりかかりたいんです。安心あんしんしたいんです。どのくらい憑りうつりかかりたがっているか、あなたには想像そうぞうがつかないくらい、憑りうつりかかりたいんです」「想像そうぞうがつかない?」「ええ、まるで想像そうぞうがつかないんです。もしつけば、あなたも変っかわって来きなくっちゃならないんです。つかないから、そんなに澄ましすましていらっしゃられるんです」「澄ましすましてやしないよ」「気の毒きのどくだとも可哀相かわいそうだとも思っおもって下さらくださらないんです」「気の毒きのどくだとも、可哀相かわいそうだとも……」 これだけ繰り返しくりかえした津田つだはいったん塞さいえた。
その後そのあとで継ぎ足しつぎたした文句もんくはむしろ蹣跚まんさんとして揺めいゆらめいていた。
「思っおもって下さらくださらないたって。――いくら思おうおもおうと思っおもっても。――思うおもうだけの因縁いんねんがあれば、いくらでも思うおもうさ。しかしなけりゃ仕方しかたがないじゃないか」 お延のべの声こえは緊張きんちょうのために顫えふるえた。
「あなた。あなた」 津田つだは黙っだまっていた。
「どうぞ、あたしを安心あんしんさせて下さいください。助けるたすけると思っおもって安心あんしんさせて下さいください。あなた以外いがいにあたしは憑りうつりかかり所ところのない女おんななんですから。あなたに外さはずされると、あたしはそれぎり倒れたおれてしまわなければならない心細いこころぼそい女おんななんですから。だからどうぞ安心あんしんしろと云っいって下さいください。たった一口ひとくちでいいから安心あんしんしろと云っいって下さいください」 津田つだは答えこたえた。
「大丈夫だいじょうぶだよ。安心あんしんおしよ」「本当ほんとう?」「本当ほんとうに安心あんしんおしよ」 お延のべは急きゅうに破裂はれつするような勢いきおいで飛びかかっとびかかった。
「じゃ話しはなしてちょうだい。どうぞ話しはなしてちょうだい。隠さかくさずにみんなここで話しはなしてちょうだい。そうして一いち思いおもいに安心あんしんさせてちょうだい」 津田つだは面めん喰っくった。
彼かれの心こころは波なみのように前後ぜんごへ揺きわななき始めはじめた。
彼かれはいっその事こと思い切っおもいきって、何なんもかもお延のべの前まえに浚け出しけだしてしまおうかと思っおもった。
と共ともに、自分じぶんはただ疑がわうたがわれているだけで、実証じっしょうを握らにぎられているのではないとも推断すいだんした。
もしお延のべが事実じじつを知っしっているなら、ここまで押しおして来きて、それを彼かれの顔かおに叩きつけたたきつけないはずはあるまいとも考えかんがえた。
彼かれは気の毒きのどくになった。
同時どうじに逃げるにげる余地よちは彼かれにまだ残っのこっていた。
道みち義心ぎしんと利り害心がいしんが高低こうていを描いえがいて彼かれの心こころを上下じょうげへ動かしうごかした。
するとその片方かたほうに温泉おんせん行こうの重みおもみが急きゅうに加わっくわわった。
約束やくそくを断行だんこうする事ことは吉川よしかわ夫人ふじんに対するたいする彼かれの義務ぎむであった。
必然ひつぜんから起るおこる彼かれの要求ようきゅうでもあった。
少くすくなくともそれを済ますすますまで打ち明けうちあけずにいるのが得策とくさくだという気きが勝かちを制しせいした。
「そんなくだくだしい事ことを云っいってたって、お互いたがいに顔かおを赤くあかくするだけで、際限さいげんがないから、もう止そうよそうよ。その代りかわりおれが受け合っうけあったらいいだろう」「受け合ううけあうって」「受け合ううけあうのさ。お前おまえの体面たいめんに対したいして、大丈夫だいじょうぶだという証書しょうしょを入れるいれるのさ」「どうして」「どうしてって、ほかに証文しょうもんの入れよういれようもないから、ただ口くちで誓うちかうのさ」 お延のべは黙っだまっていた。
「つまりお前おまえがおれを信用しんようすると云いいいさえすれば、それでいいんだ。万一まんいちの場合ばあいが出でて来きた時じは引き受けひきうけて下さいくださいって云えいえばいいんだ。そうすればおれの方ほうじゃ、よろしい受け合っうけあったと、こう答えるこたえるのさ。どうだねその辺へんのところで妥協だきょうはできないかね」
百五十ひゃくごじゅう
妥協だきょうという漢語かんごがこの場合ばあいいかに不ふ釣合つりあいに聞こえようきこえようとも、その時じの津田つだの心事しんじを説明せつめいするには極めてきわめて穏当おんとうであった。
実際じっさいこの言葉ことばによって代表だいひょうされる最ももっとも適切てきせつな意味いみが彼かれの肚はらにあった事ことはたしかであった。
明敏めいびんなお延のべの眼めにそれが映っうつった時じ、彼女かのじょの昂奮こうふんはようやく喰いとめくいとめられた。
感情かんじょうの潮しおがまだ上りのぼりはしまいかという掛かかり念ねんで、暗にあんに頭あたまを悩まなやませていた津田つだは助かったすかった。
次つぎの彼かれには喰いとめくいとめた潮しおの勢いきおいを、反対はんたいな方向ほうこうへ逆用ぎゃくようする手段しゅだんを講ずるこうずるだけの余裕よゆうができた。
彼かれはお延のべを慰めなぐさめにかかった。
彼女かのじょの気きに入りいりそうな文句もんくを多量たりょうに使用しようした。
沈着ちんちゃくな態度たいどを外部がいぶ側がわにもっている彼かれは、また臨機りんきに自分じぶんを相手あいてなりに順応じゅんのうさせて行くいく巧者こうしゃも心得こころえていた。
彼かれの努力どりょくははたして空しくむなしくなかった。
お延のべは久しぶりひさしぶりに結婚けっこん以前いぜんの津田つだを見みた。
婚約こんやく当時とうじの記憶きおくが彼女かのじょの胸むねに蘇そえった。
「夫おっとは変っかわってるんじゃなかった。やっぱり昔むかしの人ひとだったんだ」 こう思っおもったお延のべの満足まんぞくは、津田つだを窮地きゅうちから救うすくうに充分じゅうぶんであった。
暴風ぼうふう雨あめになろうとして、なり損ねそこねた波瀾はらんはようやく収まっおさまった。
けれども事前じぜんの夫婦ふうふは、もう事後じごの夫婦ふうふではなかった。
彼かれらはいつの間まにか吾われ知らしらず相互そうごの関係かんけいを変えかえていた。
波瀾はらんの収まるおさまると共ともに、津田つだは悟っさとった。
「畢竟ひっきょう女おんなは慰撫いぶしやすいものである」 彼かれは一場いちじょうの風波ふうはが彼かれに齎しもたらしたこの自信じしんを抱いいだいてひそかに喜こんよろこんだ。
今までいままでの彼かれは、お延のべに対するたいするごとに、苦手にがての感かんをどこかに起さおこさずにいられた事ことがなかった。
女おんなだと見下ろしみおろしながら、底気味ていきみの悪いわるい思いおもいをしなければならない場合ばあいが、日ごとひごとに現前げんぜんした。
それは彼女かのじょの直覚ちょっかくであるか、または直覚ちょっかくの活かつ作用さようとも見傚さみなされる彼女かのじょの機略きりゃくであるか、あるいはそれ以外いがいの或ある物ものであるか、たしかな解剖かいぼうは彼かれにもまだできていなかったが、何しろなにしろ事実じじつは事実じじつに違いちがいなかった。
しかも彼かれ自身じしん自分じぶんの胸むねに畳み込んたたみこんでおくぎりで、いまだかつて他ほかに洩らしもらした事ことのない事実じじつに違いちがいなかった。
だから事実じじつと云いいい条じょう、その実じつは一いち個この秘密ひみつでもあった。
それならばなぜ彼かれがこの明白めいはくな事実じじつをわざと秘密ひみつに附しふしていたのだろう。
簡単かんたんに云えいえば、彼かれはなるべく己れおのれを尊くとうとく考かんがえがえたかったからである。
愛あいの戦争せんそうという眼めで眺めながめた彼かれらの夫婦ふうふ生活せいかつにおいて、いつでも敗者はいしゃの位地いちに立ったった彼かれには、彼かれでまた相当そうとうの慢心まんしんがあった。
ところがお延のべのために征服せいふくされる彼かれはやむをえず征服せいふくされるので、心こころから帰服きふくするのではなかった。
堂々どうどうと愛あいの擒とりこになるのではなくって、常つねに騙しだまし打だに会っかいっているのであった。
お延のべが夫おっとの慢心まんしんを挫くくじくところに気きがつかないで、ただ彼かれを征服せいふくする点てんにおいてのみ愛あいの満足まんぞくを感ずるかんずる通りとおりに、負けるまけるのが嫌いやな津田つだも、残念ざんねんだとは思いおもいながら、力ちから及ばおよばず組み敷かくみしかれるたびに降参こうさんするのであった。
この特殊とくしゅな関係かんけいを、一夜いちやの苦く説せつが逆ぎゃくにしてくれた時じ、彼かれのお延のべに対するたいする考えかんがえは変るかわるのが至当しとうであった。
彼かれは今までいままでこれほど猛烈もうれつに、また真正面ましょうめんに、上手じょうずを引くひくように見えみえて、実じつは偽りいつわりのない下手へたに出でたお延のべという女おんなを見みた例れいがなかった。
弱点じゃくてんを抱いいだいて逃げまわりにげまわりながら彼かれは始めはじめてお延のべに勝つかつ事ことができた。
結果けっかは明暸めいりょうであった。
彼かれはようやく彼女かのじょを軽蔑けいべつする事ことができた。
同時どうじに以前いぜんよりは余計よけいに、彼女かのじょに同情どうじょうを寄せるよせる事ことができた。
お延のべにはまたお延のべで波瀾はらん後あとの変化へんかが起りおこりつつあった。
今までいままでかつてこういう態度たいどで夫おっとに向っむかった事ことのない彼女かのじょは、一気いっきに津田つだの弱点じゃくてんを衝くつく方ほうに心こころを奪わうばわれ過ぎすぎたため、ついぞ露わあらわした事ことのない自分じぶんの弱点じゃくてんを、かえって夫おっとに示ししめしてしまったのが、何なんより先さきに残念ざんねんの種しゅになった。
夫おっとに愛さあいされたいばかりの彼女かのじょには平常へいじょうからわが腕うでに依頼いらいする信念しんねんがあった。
自分じぶんは自分じぶんの見識けんしきを立て通したてとおして見せるみせるという覚悟かくごがあった。
もちろんその見識けんしきは複雑ふくざつとは云えいえなかった。
夫おっとの愛あいが自分じぶんの存在そんざい上うえ、いかに必要ひつようであろうとも、頭あたまを下げさげて憐みあわれみを乞うこうような見苦しいみぐるしい真似まねはできないという意地いじに過ぎすぎなかった。
もし夫おっとが自分じぶんの思うおもう通りとおり自分じぶんを愛さあいさないならば、腕うでの力ちからで自由じゆうにして見せるみせるという堅いかたい決心けっしんであった。
のべつにこの決心けっしんを実行じっこうして来きた彼女かのじょは、つまりのべつに緊張きんちょうしていると同じおなじ事ことであった。
そうしてその緊張きんちょうの極度きょくどはどこかで破裂はれつするにきまっていた。
破裂はれつすれば、自分じぶんで自分じぶんの見識けんしきをぶち壊すぶちこわすのと同じおなじ結果けっかに陥いるおちいるのは明暸めいりょうであった。
不幸ふこうな彼女かのじょはこの矛盾むじゅんに気きがつかずに邁進まいしんした。
それでとうとう破裂はれつした。
破裂はれつした後あとで彼女かのじょはようやく悔いくいた。
仕合せしあわせな事ことに自然しぜんは思っおもったより残酷ざんこくでなかった。
彼女かのじょは自分じぶんの弱点じゃくてんを浚け出すけだすと共ともに一種いっしゅの報酬ほうしゅうを得とくた。
今までいままでどんなに勝ち誇っかちほこっても物もの足りたりた例れいのなかった夫おっとの様子ようすが、少しすこし変っかわった。
彼かれは自分じぶんの満足まんぞくする見当けんとうに向いむかいて一歩いちほ近づいちかづいて来きた。
彼かれは明らかあきらかに妥協だきょうという字じを使っつかった。
その裏うらに彼女かのじょの根限りこんかぎり掘り返そうほりかえそうと力めりきめた秘密ひみつの潜在せんざいする事ことを暗にあんに自白じはくした。
自白じはく?
。
彼女かのじょはよく自分じぶんに念ねんを押しおして見みた。
そうしてそれが黙認もくにんに近いちかい自白じはくに違いちがいないという事ことを確かめたしかめた時じ、彼女かのじょは口惜しくやしがると同時どうじに喜こんよろこんだ。
彼女かのじょはそれ以上いじょう夫おっとを押さおさなかった。
津田つだが彼女かのじょに対したいして気の毒きのどくという念ねんを起しおこしたように、彼女かのじょもまた津田つだに対したいして気の毒きのどくという感じかんじを持ちもち得とくたからである。
百五十一ひゃくごじゅういち
けれども自然しぜんは思っおもったより頑愚がんぐであった。
二人ふたりはこれだけで別れるわかれる事ことができなかった。
妙みょうな機みはずみからいったん収まりおさまりかけた風波ふうはがもう少しすこしで盛り返さもりかえされそうになった。
それは昂奮こうふんしたお延のべの心持こころもちがやや平静へいせいに復しふくした時じの事ことであった。
今いま切り抜けきりぬけて来きた波瀾はらんの結果けっかはすでに彼女かのじょの気分きぶんに働らきはたらきかけていた。
酔よいを感ずるかんずる人ひとが、その酔よいを利用りようするような態度たいどで彼女かのじょは津田つだに向っむかった。
「じゃいつごろその温泉おんせんへいらっしゃるの」「ここを出でたらすぐ行こういこうよ。身体しんたいのためにもその方ほうが都合つごうがよさそうだから」「そうね。なるべく早くはやくいらしった方ほうがいいわ。行くいくと事ことがきまった以上いじょう」 津田つだはこれでまずよしと安心あんしんした。
ところへお延のべは不意ふいに出でた。
「あたしもいっしょに行っいっていいんでしょう」 気きの緩んゆるんだ津田つだは急きゅうにひやりとした。
彼かれは答えるこたえる前まえにまず考えかんがえなければならなかった。
連れつれて行くいく事ことは最初さいしょから問題もんだいにしていなかった。
と云っいって、断ることわる事ことはなおむずかしかった。
断りことわり方ほう一いちつで、相手あいてはどう変化へんかするかも分らわからなかった。
彼かれが何なんと返事へんじをしたものだろうと思っおもって分別ぶんべつするうちに大切たいせつの機きは過ぎすぎた。
お延のべは催促さいそくした。
「ね、行っいってもいいんでしょう」「そうだね」「いけないの」「いけない訳わけもないがね……」 津田つだは連れつれて行きいきたくない心こころの内うちを、しだいしだいに外そとへ押し出さおしだされそうになった。
もし猜疑さいぎの眸ひとみが一度いちどお延のべの眼めの中なかに動いうごいたら事ことはそれぎりであると見みてとった彼かれは、実じつを云ういうと、お延のべと同じおなじ心理状態しんりじょうたいの支配しはいを受けうけていた。
先刻せんこくの波瀾はらんから来きた影響えいきょうは彼かれにもう憑りうつり移っうつっていた。
彼かれは彼かれでそれを利用りようするよりほかに仕方しかたがなかった。
彼かれはすぐ「慰撫いぶ」の二に字じを思い出しおもいだした。
「慰撫いぶに限るかぎる。女おんなは慰撫いぶさえすればどうにかなる」。
彼かれは今いま得とくたばかりのこの新らしいあたらしい断案だんあんを提ひさげさげて、お延のべに向っむかった。
「行っいってもいいんだよ。いいどころじゃない、実じつは行っいって貰いもらいたいんだ。第だい一一いちいち人ひとじゃ不自由ふじゆうだからね。世話せわをして貰うもらうだけでも、その方ほうが都合つごうがいいにきまってるからね」「ああ嬉しいうれしい、じゃ行くいくわ」「ところがだね。……」 お延のべは厭いやな顔かおをした。
「ところがどうしたの」「ところがさ。宅たくはどうする気きかね」「宅たくは時じがいるから好いよいわ」「好いよいわって、そんな子供こども見みたいな呑気のんきな事ことを云っいっちゃ困るこまるよ」「なぜ。どこが呑気のんきなの。もし時じだけで不用心ふようじんなら誰だれか頼んたのんで来るくるわ」 お延のべは続けざまつづけざまに留守るす居いとして適当てきとうな人ひとの名なを二三にさん挙げあげた。
津田つだは拒めるこばめるだけそれを拒んこばんだ。
「若いわかい男おとこは駄目だめだよ。時じと二人ふたりぎり置くおく訳わけにゃ行かいかないからね」 お延のべは笑いわらい出しだした。
「まさか。――間ま違いなんか起りおこりっこないわ、わずかの間まですもの」「そうは行かいかないよ。けっしてそうは行かいかないよ」 津田つだは断乎だんこたる態度たいどを示すしめすと共ともに、考えるかんがえる風かぜもして見せみせた。
「誰だれか適当てきとうな人ひとはないもんかね。手頃てごろなお婆ばあさんか何なんかあるとちょうど持っもって来いこいだがな」 藤井ふじいにも岡本おかもとにもその他ほかの方面ほうめんにも、そんな都合つごうの好いよい手ての空いむなしいた人ひとは一人ひとりもなかった。
「まあよく考えかんがえて見るみるさ」 この辺へんで話はなしを切り上げようきりあげようとした津田つだは的まとが外れはずれた。
お延のべは掴んつかんだ袖そでをなかなか放さはなさなかった。
「考えかんがえてない時じには、どうするの。もしお婆ばあさんがいなければ、あたしはどうしても行っいっちゃ悪いわるいの」「悪いわるいとは云やいやしないよ」「だってお婆ばあさんなんかいる訳わけがないじゃありませんか。考えかんがえないだってそのくらいな事ことは解っわかってますわ。それより行っいって悪いわるいなら悪いわるいと判然はんぜん云っいってちょうだいよ」 せっぱつまった津田つだはこの時じ不思議ふしぎにまた好いよい云訳を思いついおもいついた。
「そりゃいざとなれば留守番るすばんなんかどうでも構わかまわないさ。しかし時じ一人ひとりを置いおいて行くいくにしたところで、まだ困るこまる事ことがあるんだ。おれは吉川よしかわの奥さんおくさんから旅費りょひを貰うもらうんだからね。他ほかの金きんを貰っもらって夫婦ふうふ連れつれで遊んあそんで歩くあるくように思わおもわれても、あんまりよくないじゃないか」「そんなら吉川よしかわの奥さんおくさんからいただかないでも構わかまわないわ。あの小切手こぎってがあるから」「そうすると今月こんげつ分ぶんの払はらいの方ほうが差支えるさしつかえるよ」「それは秀子ひでこさんの置いおいて行っいったのがあるのよ」 津田つだはまた行きつまっいきつまった。
そうしてまた危いあぶない血路けつろを開いひらいた。
「少しすこし小林こばやしに貸しかしてやらなくっちゃならないんだぜ」「あんな人ひとに」「お前おまえはあんな人ひとにと云ういうがね、あれでも今度こんど遠いとおい朝鮮ちょうせんへ行くいくんだからね。可哀想かわいそうだよ。それにもう約束やくそくしてしまったんだから、どうする訳わけにも行かいかないんだ」 お延のべは固よりもとより満足まんぞくな顔かおをするはずがなかった。
しかし津田つだはこれでどうかこうかその場ばだけを切り抜けるきりぬける事ことができた。
百五十二ひゃくごじゅうに
後あとは話はなしが存外ぞんがい楽らくに進行しんこうしたので、ほどなく第だい二にの妥協だきょうが成立せいりつした。
小林こばやしに対するたいする友誼ゆうぎを満足まんぞくさせるため、かつはいったん約束やくそくした言責げんせきを果すはたすため、津田つだはお延のべの貰っもらって来きた小切手こぎっての中なかから、その幾分いくぶんを割いさいて朝鮮ちょうせん行こうの贐はなむけとして小林こばやしに贈るおくる事ことにした。
名義めいぎは固よりもとより貸すかすのであったが、相手あいてに返すかえす腹はらのない以上いじょう、それを予算よさんに組み込んくみこんで今後こんごの的まとにする訳わけには行かいかないので、結果けっかはつまりやる事ことになったのである。
もちろんそこへ行き着くいきつくまでにはお延のべにも多少たしょうの難色なんしょくがあった。
小林こばやしのような横着おうちゃくな男おとこに金銭きんせんを恵むめぐむのはおろか、ちゃんとした証書しょうしょを入れいれさせて、一時いちじの用ようを足したしてやる好意こういすら、彼女かのじょの胸むねのどの隅すみからも出るでるはずはなかった。
のみならず彼女かのじょはややともすると、強いてしいてそれを断行だんこうしようとする夫おっとの裏側うらがわを覗き込むのぞきこむので、津田つだはそのたびに少なからすくなからず冷々ひやひやした。
「あんな人ひとに何なんだってそんな親切しんせつを尽しつくしておやりになるんだか、あたしにはまるで解らわからないわ」 こういう意味いみの言葉ことばが二に度ども三さん度ども彼女かのじょによって繰り返さくりかえされた。
津田つだが人情にんじょう一いち点てん張ちょうでそれを相手あいてにする気色けしきを見せみせないと、彼女かのじょはもう一いち歩あゆみ先さきの事ことまで云っいった。
「だから訳わけをおっしゃいよ。こういう訳わけがあるから、こうしなければ義理ぎりが悪いわるいんだという事情じじょうさえ明暸めいりょうになれば、あの小切手こぎってをみんな上げあげても構わかまわないんだから」 津田つだにはここが何なんより大事だいじな関所せきしょなので、どうしてもお延のべを通さとおさせる訳わけに行かいかなかった。
彼かれは小林こばやしを弁護べんごする代りかわりに、二人ふたりの過去かこにある旧いふりい交際こうさいと、その交際こうさいから出るでる懐かしいなつかしい記憶きおくとを挙げあげた。
懐かしいなつかしいという字じを使っつかって非難ひなんされた時じには、仕方なししかたなしに、昔むかしの小林こばやしと今いまの小林こばやしの相違そういにまで、説明せつめいの手てを拡げひろげた。
それでも腑ふに落ちおちないお延のべの顔かおを見みた時じには、急きゅうに談話だんわの調子ちょうしを高尚こうしょうにして、人道じんどうまで云々うんぬんした。
しかし彼かれの口くちにする人道じんどうはついに一いち個この功利こうり説せつに帰着きちゃくするので、彼かれは吾われ知らしらず自分じぶんの拵えこしらえた陥穽かんせいに向っむかって進んすすんでいながら気きがつかず、危うくあやうくお延のべから足あしを取らとられて、突き落さつきおとされそうになる場合ばあいも出でて来きた。
それを代表的だいひょうてきな言葉ことばでごく簡単かんたんに例れいで現わすあらわすと下したのようになった。
「とにかく困っこまってるんだからね、内地ないちにいたたまれずに、朝鮮ちょうせんまで落ちおちて行こういこうてんだから、少しすこしは同情どうじょうしてやってもよかろうじゃないか。それにお前おまえはあいつの人格じんかくをむやみに攻撃こうげきするが、そこに少しすこし無理むりがあるよ。なるほどあいつはしようのない奴やつさ。しようのない奴やつには違いないけれども、あいつがこうなった因りよりをよく考えかんがえて見るみると、何なんでもないんだ。ただ不平ふへいだからだ。じゃなぜ不平ふへいだというと、金きんが取れとれないからだ。ところがあいつは愚図ぐずでもなし、馬鹿ばかでもなし、相当そうとうな頭あたまを持っもってるんだからね。不幸ふこうにして正則まさのりの教育きょういくを受けうけなかったために、ああなったと思うおもうと、そりゃ気の毒きのどくになるよ。つまりあいつが悪いわるいんじゃない境遇きょうぐうが悪いわるいんだと考えかんがえさえすればそれまでさ。要するようするに不幸ふこうな人ひとなんだ」 これだけなら口先くちさきだけとしてもまず立派りっぱなのであるが、彼かれはついにそこで止まるとまる事ことができないのである。
「それにまだこういう事ことも考えかんがえなければならないよ。ああ自暴じぼう糞ふんになってる人間にんげんに逆らうさからうと何なんをするか解らわからないんだ。誰だれとでも喧嘩けんかがしたい、誰だれと喧嘩けんかをしても自分じぶんの得とくになるだけだって、現にげんにここへ来きて公言こうげんして威張っいばってるんだからね、実際じっさい始末しまつに了えしまえないよ。だから今いまもしおれがあいつの要求ようきゅうを跳ねはねつけるとすると、あいつは怒るおこるよ。ただ怒るおこるだけならいいが、きっと何なんかするよ。復讐ふくしゅうをやるにきまってるよ。ところがこっちには世間体せけんたいがあり、向うむこうにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵いかないっこないんだ。解っわかったかね」 ここまで来るくると最初さいしょの人道じんどう主義しゅぎはもうだいぶ崩れくずれてしまう。
しかしそれにしても、ここで切り上げきりあげさえすれば、お延のべは黙っだまって点頭くうなずくよりほかに仕方しかたがないのである。
ところが彼かれはまだ先さきへ出るでるのである。
「それもあいつが主義しゅぎとしてただ上流社会じょうりゅうしゃかいを攻撃こうげきしたり、または一般いっぱんの金持かねもちを悪口わるぐちするだけならいいがね。あいつのは、そうじゃないんだ、もっと実際的じっさいてきなんだ。まず最初さいしょに自分じぶんの手ての届くとどく所ところからだんだんに食い込んくいこんで行こういこうというんだ。だから一番いちばん災難さいなんなのはこのおれだよ。どう考えかんがえてもここでおれ相当そうとうの親切しんせつを見せみせて、あいつの感情かんじょうを美びくして、そうして一いち日ひも早くはやく朝鮮ちょうせんへ立ったって貰うもらうのが上策じょうさくなんだ。でないといつどんな目めに逢うあうか解っわかったもんじゃない」 こうなるとお延のべはどうしてもまた云いいいたくなるのである。
「いくら小林こばやしが乱暴らんぼうだって、あなたの方ほうにも何なんかなくっちゃ、そんなに怖こわがる因縁いんねんがないじゃありませんか」 二人ふたりがこんな押問答おしもんどうをして、小切手こぎっての片かたをつけるだけでも、ものの十じゅう分ぶんはかかった。
しかし小林こばやしの方ほうがきまると共ともに、残りのこりの所ところ置おけはすぐついた。
それを自分じぶんの小遣こづかいとして、任意にんいに自分じぶんの嗜慾を満足まんぞくするという彼女かのじょの条件じょうけんは直ちにただちに成立せいりつした。
その代りかわり彼女かのじょは津田つだといっしょに温泉おんせんへ行かいかない事ことになった。
そうして温泉おんせん行こうの費用ひようは吉川よしかわ夫人ふじんの好意こういを受けるうけるという案あんに同意どういさせられた。
うそ寒うそさむの宵よいに、若いわかい夫婦間ふうふかんに起っおこった波瀾はらんの消長しょうちょうはこれでようやく尽きつきた。
二人ふたりはひとまず別れわかれた。
百五十三ひゃくごじゅうさん
津田つだの辛しん防ぼうしなければならない手術しゅじゅつ後あとの経過けいかは良好りょうこうであった。
というよりもむしろ順当じゅんとうに行っいった。
五ご日ひ目めが来きた時じ、医者いしゃは予定よてい通りとおり彼かれのために全部ぜんぶのガーゼがーぜを取り替えとりかえてくれた後あとで、それを保証ほしょうした。
「至極しごく好いよい具合ぐあいです。出血しゅっけつも口元くちもとだけです。内部ないぶの方ほうは何なんともありません」 六ろく日ひ目めにも同じおなじ治療ちりょう法ほうが繰り返さくりかえされた。
けれども局部きょくぶは前日ぜんじつよりは健全けんぜんになっていた。
「出血しゅっけつはどうです。まだ止まりとまりませんか」「いや、もうほとんど止まりとまりました」 出血しゅっけつの意味いみを解しかいし得とくない津田つだは、この返事へんじの意味いみをも解しかいし得とくなかった。
好いよい加減かげんに「もう癒りなおりました」という解釈かいしゃくをそれに付けつけて大変たいへん喜こんよろこんだ。
しかし本式ほんしきの事実じじつは彼かれの考えるかんがえる通りとおりにも行かいかなかった。
彼かれと医者いしゃの間まに起っおこった一場いちじょうの問答もんどうがその辺へんの消息しょうそくを明らかあきらかにした。
「これが癒りなおり損なっそこなったらどうなるんでしょう」「また切るきるんです。そうして前まえよりも軽くかるく穴あなが残るのこるんです」「心細いこころぼそいですな」「なに十じゅう中なか八九はちきゅうは癒るなおるにきまってます」「じゃ本当ほんとうの意味いみで全癒ぜんゆというと、まだなかなか時間じかんがかかるんですね」「早くはやくて三さん週間しゅうかん遅くおそくて四よん週間しゅうかんです」「ここを出るでるのは?」「出るでるのは明後日みょうごにちぐらいで差支えさしつかえありません」 津田つだはありがたがった。
そうして出でたらすぐ温泉おんせんに行こういこうと覚悟かくごした。
なまじい医者いしゃに相談そうだんして転地てんちを禁じきんじられでもすると、かえって神経しんけいを悩ますなやますだけが損そんだと打算ださんした彼かれはわざと黙っだまっていた。
それはほとんど平生へいぜいの彼かれに似合わにあわない粗忽そこつな遣けん口くちであった。
彼かれは甘んじあまんじてこの不謹慎ふきんしんを断行だんこうしようと決心けっしんしながら、肚はらの中なかですでに自分じぶんの矛盾むじゅんを承知しょうちしているので、何なんだか不安ふあんであった。
彼かれは訊かきかないでもいい質問しつもんを医者いしゃにかけてみたりした。
「括約筋かつやくすじを切り残しきりのこしたとおっしゃるけれども、それでどうして下したからガーゼがーぜが詰めつめられるんですか」「括約筋かつやくすじはとば口とばぐちにゃありません。五ご分ぶんほど引っ込んひっこんでます。それを下したから斜しゃに三さん分ぶんほど削りけずり上げあげた所ところがあるのです」 津田つだはその晩ばんから粥かゆを食いくい出しだした。
久しくひさしく麺めん麭だけで我慢がまんしていた彼かれの口くちには水みずッっぽい米べいの味あじも一種いっしゅの新らしあたらしみであった。
趣味しゅみとして夜寒よさむの粥かゆを感ずるかんずる能力のうりょくを持たもたない彼かれは、秋あきの宵よいの冷たつめたさを対照たいしょうに置くおく薄粥うすがゆの暖かさあたたかさを普通ふつうの俳人はいじん以上いじょうに珍重ちんちょうして啜るすする事ことができた。
療治りょうじの必要ひつよう上うえ、長いながい事こと止めとめられていた便びんの疎通そつうを計るはかるために、彼かれはまた軽いかるい下剤げざいを飲まのまなければならなかった。
さほど苦くにもならなかった腹はらの中なかが軽くかるくなるに従っしたがって、彼かれの気分きぶんもいつか軽くかるくなった。
身体しんたいの楽らくになった彼かれは、寝転ろねころがろんでただ退院たいいんの日ひを待つまつだけであった。
その日ひも一いち晩ばん明けるあけるとすぐに来きた。
彼かれは車くるまを持っもって迎いむかいに来きたお延のべの顔かおを見るみるや否いなや云っいった。
「やっと帰れるかえれる事ことになった訳わけかな。まあありがたい」「あんまりありがたくもないでしょう」「いやありがたいよ」「宅たくの方ほうが病院びょういんよりはまだましだとおっしゃるんでしょう」「まあその辺へんかも知れしれないがね」 津田つだはいつもの調子ちょうしでこう云っいった後あとで、急きゅうに思い出しおもいだしたように付け足しつけたした。
「今度こんどはお前おまえの拵えこしらえてくれた※袍ほうで助かったすかったよ。綿めんが新らしいあたらしいせいか大変たいへん着心地きごこちが好いよいね」 お延のべは笑いわらいながら夫おっとを冷れい嘲あざけりした。
「どうなすったの。なんだか急きゅうにお世辞おせじが旨くうまくおなりね。だけど、違っちがってるのよ、あなたの鑑定かんていは」 お延のべは問題もんだいの※袍ほうを畳みたたみながら、新らしいあたらしい綿めんばかりを入れいれなかった事実じじつを夫おっとに白状はくじょうした。
津田つだはその時じ着物きものを着換えきかえていた。
絞りしぼりの模様もようの入っはいった縮緬ちりめんの兵児帯へこおびをぐるぐる腰こしに巻くまく方ほうが、彼かれにはむしろ大事だいじな所作しょさであった。
それほど軽くかるく※袍ほうの中味なかみを見みていた彼かれの愛嬌あいきょうは、正直しょうじきなお延のべの返事へんじを待ち受けるまちうけるのでも何なんでもなかった。
彼かれはただ「はあそうかい」と云っいったぎりであった。
「お気きに召しめしたらどうぞ温泉おんせんへも持っもっていらしって下さいください」「そうして時々ときどきお前おまえの親切しんせつでも思い出すおもいだすかな」「しかし宿屋やどやで貸しかしてくれる※袍ほうの方ほうがずっとよかったり何なんかすると、いい恥はじっ掻きかきね、あたしの方ほうは」「そんな事ことはないよ」「いえあるのよ。品質ひんしつが悪いわるいとどうしても損ねそこね、そういう時じには。親切しんせつなんかすぐどこかへ飛んとんでっちまうんだから」 無邪気むじゃきなお延のべの言葉ことばは、彼女かのじょの意味いみする通りとおりの単純たんじゅんさで津田つだの耳みみへは響かひびきかなかった。
そこには一種いっしゅのアイロニーあいろにーが顫動せんどうしていた。
※袍ほうは何なんかの象徴しょうちょうであるらしく受け取れうけとれた。
多少たしょう気味きみの悪くわるくなった津田つだは、お延のべに背中せなかを向けむけたままで、兵児帯へこおびの先さきをこま結びこまむすびに結んむすんだ。
やがて二人ふたりは看護婦かんごふに送らおくられて玄関げんかんに出るでると、すぐそこに待たしまたしてある車くるまに乗っのった。
「さよなら」 多事たじな一いち週間しゅうかんの病院びょういん生活せいかつは、この一いち語ごでようやく幕まくになった。
百五十四ひゃくごじゅうよん
目的もくてきの温泉場おんせんじょうへ立つたつ前まえの津田つだは、既定きていされたプログラムぷろぐらむの順序じゅんじょとして、まず小林こばやしに会わあわなければならなかった。
約束やくそくの日ひが来きた時じ、お延のべから入用にゅうようの金きんを受け取っうけとった彼かれは笑いわらいながら細君さいくんを顧みかえりみた。
「何なんだか惜しいおしいな、あいつにこれだけ取らとられるのは」「じゃ止しよした方ほうが好いよいわ」「おれも止しよしたいよ」「止しよしたいのになぜ止せよせないの。あたしが代りかわりに行っいって断っことわって来きて上げあげましょうか」「うん、頼んたのんでもいいね」「どこであの人ひとにお逢いあいになるの。場所ばしょさえおっしゃれば、あたし行っいって上げるあげるわ」 お延のべが本気ほんきかどうかは津田つだにも分らわからなかった。
けれどもこういう場合ばあいに、大丈夫だいじょうぶだと思っおもってつい笑談しょうだんに押すおすと、押しおしたこっちがかえって手古摺らてこずらせられるくらいの事ことは、彼かれに困難こんなんな想像そうぞうではなかった。
お延のべはいざとなると口くちで云っいった通りとおりを真面しんめんに断行だんこうする女おんなであった。
たとい違約いやくであろうとあるまいと、津田つだを代表だいひょうして、小林こばやしを撃退げきたいする役割やくわりなら進んすすんで引き受けひきうけないとも限らかぎらなかった。
彼かれは危険区域きけんくいきへ踏み込まふみこまない用心ようじんをして、わざと話はなしを不真面目ふまじめな方角ほうがくへ流しながしてしまった。
「お前おまえは見かけみかけに寄らよらない勇気ゆうきのある女おんなだね」「これでも自分じぶんじゃあると思っおもってるのよ。けれどもまだ出しだした例れいがないから、実際じっさいどのくらいあるか自分じぶんにも分らわからないわ」「いやお前おまえに分らわからなくっても、おれにはちゃんと分っわかってるから、それでたくさんだよ。女おんなのくせにそうむやみに勇気ゆうきなんか出さだされた日ひにゃ、亭主ていしゅが困るこまるだけだからね」「ちっとも困りゃこまりゃしないわ。御ご亭主ていしゅのために出すだす勇気ゆうきなら、男おとこだって困るこまるはずがないじゃないの」「そりゃありがたい場合ばあいもたまには出でて来るくるだろうがね」と云っいった津田つだには固よりもとより本気ほんきに受け答えうけこたえをするつもりもなかった。
「今日きょうまでそれほど感服かんぷくに値あたいする勇気ゆうきを拝見はいけんした覚さとしもないようだね」「そりゃその通りとおりよ。だってちっとも外そとへ出さださずにいるんですもの。これでも内側うちがわへ入っはいって御覧ごらんなさい。なんぼあたしだってあなたの考えかんがえていらっしゃるほど太平たいへいじゃないんだから」 津田つだは答えこたえなかった。
しかしお延のべはやめなかった。
「あたしがそんなに気楽きらくそうに見えるみえるの、あなたには」「ああ見えるみえるよ。大いにおおいに気楽きらくそうだよ」 この好いよい加減かげんな無駄口むだぐちの前まえに、お延のべは微かかすかな溜息ためいきを洩らしもらした後あとで云っいった。
「つまらないわね、女おんななんて。あたし何なんだって女おんなに生れうまれて来きたんでしょう」「そりゃおれにかけ合っかけあったって駄目だめだ。京都きょうとにいるお父さんおちちさんかお母さんおははさんへ尻しりを持ち込むもちこむよりほかに、苦情くじょうの持っもってきどころはないんだから」 苦笑くしょうしたお延のべはまだ黙らだまらなかった。
「いいから、今いまに見みていらっしゃい」「何なんを」と訊き返しききかえした津田つだは少しすこし驚ろかさおどろかされた。
「何なんでもいいから、今いまに見みていらっしゃい」「見みているが、いったい何なんだよ」「そりゃ実際じっさいに問題もんだいが起っおこって来きなくっちゃ云えいえないわ」「云えいえないのはつまりお前おまえにも解らわからないという意味いみなんじゃないか」「ええそうよ」「何なんだ下らしたらない。それじゃまるで雲くもを掴むつかむような予言よげんだ」「ところがその予言よげんが今いまにきっとあたるから見みていらっしゃいというのよ」 津田つだは鼻はなの先さきでふんと云っいった。
それと反対はんたいにお延のべの態度たいどはだんだん真剣しんけんに近づいちかづいて来きた。
「本当ほんとうよ。何なんだか知らしらないけれども、あたし近頃ちかごろ始終しじゅうそう思っおもってるの、いつか一度いちどこのお肚はらの中なかにもってる勇気ゆうきを、外そとへ出さださなくっちゃならない日ひが来るくるに違いないって」「いつか一度いちど? だからお前おまえのは妄想もうそうと同どうなじ事ことなんだよ」「いいえ生涯しょうがいのうちでいつか一度いちどじゃないのよ。近いちかいうちなの。もう少しすこししたらのいつか一度いちどなの」「ますます悪くわるくなるだけだ。近きちかき将来しょうらいにおいて蛮勇ばんゆうなんか亭主ていしゅの前まえで発揮はっきされた日ひにゃ敵わかなわない」「いいえ、あなたのためによ。だから先刻せんこくから云っいってるじゃないの、夫おっとのために出すだす勇気ゆうきだって」 真面目まじめなお延のべの顔かおを見みていると、津田つだもしだいしだいに釣り込まつりこまれるだけであった。
彼かれの性格せいかくにはお延のべほどの詩しがなかった。
その代りかわり多少たしょう気味きみの悪いわるい事実じじつが遠くとおくから彼かれを威圧いあつしていた。
お延のべの詩し、彼かれのいわゆる妄想もうそうは、だんだん活躍かつやくし始めはじめた。
今までいままで死んしんでいるとばかり思っおもって、弄りいじり廻しまわしていた鳥とりの翅はねが急きゅうに動きうごき出すだすように見えみえた時じ、彼かれは変へんな気持きもちがして、すぐ会話かいわを切り上げきりあげてしまった。
彼かれは帯おびの間まから時計とけいを出しだして見みた。
「もう時間じかんだ、そろそろ出かけでかけなくっちゃ」 こう云っいって立ち上がったちあがった彼かれの後あとを送っおくって玄関げんかんに出でたお延のべは、帽子ぼうしかけから茶ちゃの中折なかおれを取っとって彼かれの手てに渡しわたした。
「行っいっていらっしゃい。小林こばやしさんによろしくってお延のべが云っいってたと忘れわすれずに伝えつたえて下さいください」 津田つだは振り向かふりむかないで夕方ゆうがたの冷たいつめたい空気くうきの中なかに出でた。
百五十五ひゃくごじゅうご
小林こばやしと会見かいけんの場所ばしょは、東京とうきょうで一番いちばん賑やかにぎやかな大通りおおどおりの中なかほどを、ちょっと横よこへ切れきれた所ところにあった。
向うむこうから宅たくへ誘いさそいに寄っよって貰うもらう不快ふかいを避けるさけるため、またこっちで彼かれの下宿げしゅくを訪ねたずねてやる面倒めんどうを省くはぶくため、津田つだは時間じかんをきめてそこで彼かれに落ち合うおちあう手順てじゅんにしたのである。
その時間じかんは彼かれが電車でんしゃに乗っのっているうちに過ぎすぎてしまった。
しかし着物きものを着換えきかえて、お延のべから金きんを受け取っうけとって、少しすこしの間坐まざ談だんをしていたために起っおこったこの遅刻ちこくは、何なんらの痛痒つうようを彼かれに与えるあたえるに足りたりなかった。
有体ありていに云えいえば、彼かれは小林こばやしに対したいして克明こくめいに律義りちぎを守るまもる細心さいしんの程度ていどを示ししめしたくなかった。
それとは反対はんたいに、少しすこし時間じかんを後らせおくらせても、放縦ほうしょうな彼かれの鼻柱はなばしらを挫いくじいてやりたかった。
名前なまえは送別会そうべつかいだろうが何なんだろうが、その実金じつきんをやるものと貰うもらうものとが顔かおを合せるあわせる席せきにきまっている以上いじょう、津田つだはたしかに優ゆう者ものであった。
だからその優ゆう者ものの特権とっけんをできるだけ緊張きんちょうさせて、主客しゅきゃくの位地いちをあらかじめ作っつくっておく方ほうが、相手あいての驕慢きょうまんを未ひつじ前まえに防ぐふせぐ手段しゅだんとして、彼かれには得策とくさくであった。
利害りがいを離れはなれた単なるたんなる意趣いしゅ返しかえしとしてもその方ほうが面白かっおもしろかった。
彼かれはごうごう鳴るなる電車でんしゃの中なかで、時計とけいを見みながら、ことによるとこれでもまだ横着おうちゃくな小林こばやしには早はや過ぎるすぎるかも知れしれないと考えかんがえた。
もしあまり早くはやく行き着いいきついたら、一通りひととおり夜店よみせでも素見しひやかして、慾よくの皮かわで硬くかたく張っちょうった小林こばやしの予期よきを、もう少しすこし焦らしじらしてやろうとまで思案しあんした。
停留所ていりゅうしょで降りふりた時じ、彼かれの眼めの中なかを通り過ぎとおりすぎた燭光しょっこうの数すうは、夜よるの都との活動かつどうを目覚しくめざましく物語るものがたるに充分じゅうぶんなくらい、右往左往うおうさおうへちらちらした。
彼かれはその間まに立ったって、目的もくてきの横町よこちょうへ曲るまがる前まえに、これらの燭光しょっこうと共ともに十じゅう分ぶんぐらい動いうごいて歩こうあるこうか歩くあるくまいかと迷っまよった。
ところが顔かおの先さきへ押し付けおしつけられた夕刊ゆうかんを除けよけて、四辺しへんを見廻しみまわした彼かれは、急きゅうにおやと思わおもわざるを得とくなかった。
もうだいぶ待ち草臥れまちくたびれているに違いないと仮定かていしてかかった小林こばやしは、案外あんがいにも向う側むこうがわに立ったっていた。
位地いちは津田つだの降りふりた舗ほ床ゆかと車道しゃどうを一いちつ隔てへだてた四つ角よつかどの一端いっぱしなので、二人ふたりの視線しせんが調子ちょうしよく合わあわない以上いじょう、夜よると人ひととちらちらする燭光しょっこうが、相互そうごの認識にんしきを遮ぎるさえぎる便利べんりがあった。
のみならず小林こばやしは真面しんめんにこっちを向いむかいていなかった。
彼かれは津田つだのまだ見知らみしらない青年せいねんと立たて談だんをしていた。
青年せいねんの顔かおは三さん分ぶんの二にほど、小林こばやしのは三さん分ぶんの一いちほど、津田つだの方角ほうがくから見えるみえるだけなので、彼かれはほぼ露見ろけんの恐れおそれなしに、自分じぶんの足あしの停まっとまった所ところから、二人ふたりの模様もようを注意ちゅういして観察かんさつする事ことができた。
二人ふたりはけっして余所見よそみをしなかった。
顔かおと顔かおを向きむき合せあわせたまま、いつまでも同じおなじ姿勢しせいを崩さくずさない彼かれらの体からだが、ありありと津田つだの眼めに映るうつるにつれて、真面目まじめな用談ようだんの、互いたがいの間まに取りとり換かえわされている事ことは明暸めいりょうに解っわかった。
二人ふたりの後あとには壁かべがあった。
あいにく横側よこがわに窓まどが付いついていないので、強いつよい光ひかりはどこからも射さささなかった。
ところへ南みなみから来きた自働じどう車くるまが、大きなおおきな音おとを立てたてて四つ角よつかどを曲ろうまがろうとした。
その時じ二人ふたりは自働じどう車くるまの前側まえがわに装置そうちしてある巨大きょだいな灯光とうこうを満身まんしんに浴びあびて立ったった。
津田つだは始めはじめて青年せいねんの容貌ようぼうを明かあきらかに認めるみとめる事ことができた。
蒼白いあおじろい血色けっしょくは、帽子ぼうしの下したから左右さゆうに垂れたれている、幾いくカ月かげつとなく刈り込まかりこまない※々たる髪の毛かみのけと共ともに、彼かれの視覚しかくを冒しおかした。
彼かれは自働じどう車くるまの過ぎ去るすぎさると同時どうじに踵かかとを回らしまわらした。
そうして二人ふたりの立ったっている舗道ほどうを避けるさけるように、わざと反対はんたいの方向ほうこうへ歩きあるき出しだした。
彼かれには何なんの目的もくてきもなかった。
はなやかに電灯でんとうで照らさてらされた店みせを一いち軒のきごとに見みて歩くあるく興味きょうみは、ただ都会的とかいてきで美びくしいというだけに過ぎすぎなかった。
商しょう買かいが違うちがうにつれて品物しなものが変化へんかする以外いがいに、何なんらの複雑ふくざつな趣おもむきは見出さみだしされなかった。
それにもかかわらず彼かれは到るいたる処ところに視覚しかくの満足まんぞくを味わっあじわった。
しまいに或ある唐物とうぶつ屋やの店先みせさきに飾っかざってあるハイカラはいからな襟えり飾かざりを見みた時じに、彼かれはとうとうその家いえの中なかへ入っはいって、自分じぶんの欲しいほしいと思うおもうものを手てに取っとって、ひねくり廻しひねくりまわしたりなどした。
もうよかろうという時分じぶんに、彼かれは再びふたたび取っとって返しかえした。
舗道ほどうの上うえに立ったっていた二人ふたりの影かげははたしてどこかへ行っいってしまった。
彼かれは少しすこし歩調ほちょうを早めはやめた。
約束やくそくの家いえの窓まどからは暖かあたたかそうな光ひかりが往来おうらいへ射ししゃしていた。
煉瓦れんが作りつくりで窓まどが高いたかいのと、模様もようのある玉子たまご色いろの布ぬのに遮ぎらさえぎられて、間接かんせつに夜よるの中なかへ光線こうせんが放射ほうしゃされるので、通りとおり際さいに見上げみあげた津田つだの頭あたまに描き出さえがきだされたのは、穏やかおだやかな瓦斯がす煖炉だんろを供えそなえた品しなの好いよい食堂しょくどうであった。
大きなおおきなブロックぶろっくの片隅かたすみに、形容けいようした言葉ことばでいうと、むしろひっそり構えかまえているその食堂しょくどうは、大してたいして広いひろいものではなかった。
津田つだがそこを知りしり出しだしたのもつい近頃ちかごろであった。
長いながい間ま仏蘭西ふらんすとかに公使こうしをしていた人ひとの料理りょうり番ばんが開いひらいた店みせだから旨いうまいのだと友人ゆうじんに教えおしえられたのが原はらで、四五しご遍へん食いくいに来きた因縁いんねんを措くおくと、小林こばやしをそこへ招き寄せるまねきよせる理由りゆうは他ほかに何になんにもなかった。
彼かれは容赦ようしゃなく扉とびらを押しおして内うちへ入っはいった。
そうしてそこに案あんのごとく少しすこし手持無沙汰てもちむさたででもあるような風かぜをして、真面目まじめな顔かおを夕刊ゆうかんか何なんかの前まえに向けむけている小林こばやしを見出しみだした。
百五十六ひゃくごじゅうろく
小林こばやしは眼めを上げあげてちょっと入口いりぐちの方ほうを見みたが、すぐその眼めを新聞しんぶんの上うえに落しおとしてしまった。
津田つだは仕方なししかたなしに無言むごんのまま、彼かれの坐っすわっている食卓しょくたくの傍そばまで近寄っちかよって行っいってこっちから声こえをかけた。
「失敬しっけい。少しすこし遅くおそくなった。よっぽど待たしまたしたかね」 小林こばやしはようやく新聞しんぶんを畳んたたんだ。
「君きみ時計とけいをもってるだろう」 津田つだはわざと時計とけいを出さださなかった。
小林こばやしは振り返っふりかえって正面しょうめんの壁かべの上うえに掛っかかっている大きなおおきな柱時計はしらとけいを見みた。
針はりは指定していの時間じかんより四十よんじゅう分ぶんほど先さきへ出でていた。
「実じつは僕ぼくも今いま来きたばかりのところなんだ」 二人ふたりは向い合っむかいあって席せきについた。
周囲しゅういには二に組くみばかりの客きゃくがいるだけなので、そうして
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