その一人である事は確であった。吉川夫人が関係しているのも明かに推測された。――こう考えた彼女は急に心細くなった。知らないうちに重囲のうちに自分を見出した孤軍のような心境が、遠くから彼女を襲って来た。彼女は周囲を見廻した。しかしそこには夫を除いて依りになるものは一人もいなかった。彼女は何をおいてもまず津田に走らなければならなかった。その津田を疑ぐっている彼女にも、まだ信力は残っていた。どんな事があろうとも、夫だけは共謀者の仲間入はよもしまいと念じた彼女の足は、堀の門を出るや否や、ひとりでにすぐ病院の方へ向いたのである。
第 15 章
その心理作用が今喰いとめられなければならなくなった時、通りで会った電車の影をお延は腹の底から呪った。
もし車中の人が吉川夫人であったとすれば、もし吉川夫人が津田の所へ見舞に行ったとすれば、もし見舞に行ったついでに、――。
いかに怜俐なお延にも考える自由の与えられていないその後は容易に出て来なかった。
けれども結果は一つであった。
彼女の頭は急にお秀から、吉川夫人、吉川夫人から津田へと飛び移った。
彼女は何がなしに、この三人を巴のように眺め始めた。
「ことによると三人は自分に感じさせない一種の電気を通わせ合っているかも知れない」 今まで避難場のつもりで夫の所へ駈け込もうとばかり思っていた彼女は考えざるを得なかった。
「この分じゃ、ただ行ったっていけない。行ってどうしよう」 彼女はどうしようという分別なしに歩いて来た事に気がついた。
するとどんな態度で、どんな風に津田に会うのが、この場合最も有効だろうという問題が、さも重要らしく彼女に見え出して来た。
夫婦のくせに、そんなよそ行の支度なんぞして何になるという非難をどこにも聴かなかったので、いったん宅へ帰って、よく気を落ちつけて、それからまた出直すのが一番の上策だと思い極めた彼女は、ついにもう五六分で病院へ行き着こうという小路の中ほどから取って返した。
そうして柳の木の植っている大通りから賑やかな往来まで歩いてすぐ電車へ乗った。
百四十四
お延は日のとぼとぼ頃に宅へ帰った。
電車から降りて一丁ほどの所を、身に染みるような夕暮の靄に包まれた後の彼女には、何よりも火鉢の傍が恋しかった。
彼女はコートを脱ぐなりまずそこへ坐って手を翳した。
しかし彼女にはほとんど一分の休憩時間も与えられなかった。
坐るや否や彼女はお時の手から津田の手紙を受け取った。
手紙の文句は固より簡単であった。
彼女は封を切る手数とほとんど同じ時間で、それを読み下す事ができた。
けれども読んだ後の彼女は、もう読む前の彼女ではなかった。
わずか三行ばかりの言葉は一冊の書物より強く彼女を動かした。
一度に外から持って帰った気分に火を点けたその書翰の前に彼女の心は躍った。
「今日病院へ来ていけないという意味はどこにあるだろう」 それでなくっても、もう一遍出直すはずであった彼女は、時間に関う余裕さえなかった。
彼女は台所から膳を運んで来たお時を驚ろかして、すぐ立ち上がった。
「御飯は帰ってからにするよ」 彼女は今脱いだばかりのコートをまた羽織って、門を出た。
しかし電車通りまで歩いて来た時、彼女の足は、また小路の角でとまった。
彼女はなぜだか病院へ行くに堪えないような気がした。
この様子では行ったところで、役に立たないという思慮が不意に彼女に働らきかけた。
「夫の性質では、とても卒直にこの手紙の意味さえ説明してはくれまい」 彼女は心細くなって、自分の前を右へ行ったり左へ行ったりする電車を眺めていた。
その電車を右へ利用すれば病院で、左へ乗れば岡本の宅であった。
いっそ当初の計画をやめて、叔父の所へでも行こうかと考えついた彼女は、考えつくや否や、すぐその方面に横わる困難をも想像した。
岡本へ行って相談する以上、彼女は打ち明け話をしなければならなかった。
今まで隠していた夫婦関係の奥底を、曝け出さなければ、一歩も前へ出る訳には行かなかった。
叔父と叔母の前に、自分の眼が利かなかった自白を綺麗にしなければならなかった。
お延はまだそれほどの恥を忍ぶまでに事件は逼っていないと考えた。
復活の見込が充分立たないのに、酔興で自分の虚栄心を打ち殺すような正直は、彼女の最も軽蔑するところであった。
彼女は決しかねて右と左へ少しずつ揺れた。
彼女がこんなに迷っているとはまるで気のつかない津田は、この時床の上に起き上って、平気で看護婦の持って来た膳に向いつつあった。
先刻お秀から電話のかかった時、すでにお延の来訪を予想した彼は、吉川夫人と入れ代りに細君の姿を病室に見るべく暗に心の調子を整えていたところが、その細君は途中から引き返してしまったので、軽い失望の間に、夕食の時間が来るまで、待ち草臥れたせいか、看護婦の顔を見るや否や、すぐ話しかけた。
「ようやく飯か。どうも一人でいると日が長くって困るな」 看護婦は体の小さい血色の好くない女であった。
しかし年頃はどうしても津田に鑑定のつかない妙な顔をしていた。
いつでも白い服を着けているのが、なおさら彼女を普通の女の群から遠ざけた。
津田はつねに疑った。
――この人が通常の着物を着る時に、まだ肩上を付けているだろうか、または除っているだろうか。
彼はいつか真面目にこんな質問を彼女にかけて見た事があった。
その時彼女はにやりと笑って、「私はまだ見習です」と答えたので、津田はおおよその見当を立てたくらいであった。
膳を彼の枕元へ置いた彼女はすぐ下へ降りなかった。
「御退屈さま」と云って、にやにや笑った彼女は、すぐ後を付け足した。
「今日は奥さんはお見えになりませんね」「うん、来ないよ」 津田の口の中にはもう焦げた麺麭がいっぱい入っていた。
彼はそれ以上何も云う事ができなかった。
しかし看護婦の方は自由であった。
「その代り外のお客さまがいらっしゃいましたね」「うん。あのお婆さんだろう。ずいぶん肥ってるね、あの奥さんは」 看護婦が悪口の相槌を打つ気色を見せないので、津田は一人でしゃべらなければならなかった。
「もっと若い綺麗な人が、どんどん見舞に来てくれると病気も早く癒るんだがな」と云って看護婦を笑わせた彼は、すぐ彼女から冷嘲かし返された。
「でも毎日女の方ばかりいらっしゃいますね。よっぽど間がいいと見えて」 彼女は小林の来た事を知らないらしかった。
「昨日いらしった奥さんは大変お綺麗ですね」「あんまり綺麗でもないよ。あいつは僕の妹だからね。どこか似ているかね、僕と」 看護婦は似ているとも似ていないとも答えずに、やっぱりにやにやしていた。
百四十五
それは看護婦にとって意外な儲け日であった。
下痢の気味でいつもの通り診察場に出られなかった医者に、代理を頼まれた彼の友人は、午前の都合を付けてくれただけで、午後から夜へかけての時間には、もう顔を出さなかった。
「今日は当直だから晩には来られないんだそうです」 彼女はこう云って、不断のような忙がしい様子をどこにも見せずに、ゆっくり津田の膳の前に坐っていた。
退屈凌ぎに好い相手のできた気になった津田の舌には締りがなかった。
彼は面白半分いろいろな事を訊いた。
「君の国はどこかね」「栃木県です」「なるほどそう云われて見ると、そうかな」「名前は何と云ったっけね」「名前は知りません」 看護婦はなかなか名前を云わなかった。
津田はそこに発見された抵抗が愉快なので、わざわざ何遍も同じ事を繰り返して訊いた。
「じゃこれから君の事を栃木県、栃木県って呼ぶよ。いいかね」「ええよござんす」 彼女の名前の頭文字はつであった。
「露か」「いいえ」「なるほど露じゃあるまいな。じゃ土か」「いいえ」「待ちたまえよ、露でもなし、土でもないとすると。――ははあ、解った。つやだろう。でなければ、常か」 津田はいくらでもでたらめを云った。
云うたびに看護婦は首を振って、にやにや笑った。
笑うたびに、津田はまた彼女を追窮した。
しまいに彼女の名がつきだと判然った時、彼はこの珍らしい名をまだ弄んだ。
「お月さんだね、すると。お月さんは好い名だ。誰が命けた」 看護婦は返答を与える代りに突然逆襲した。
「あなたの奥さんの名は何とおっしゃるんですか」「あてて御覧」 看護婦はわざと二つ三つ女らしい名を並べた後で云った。
「お延さんでしょう」 彼女は旨くあてた。
というよりも、いつの間にかお延の名を聴いて覚えていた。
「お月さんはどうも油断がならないなあ」 津田がこう云って興じているところへ、本人のお延がひょっくり顔を出したので、ふり返った看護婦は驚ろいて、すぐ膳を持ったなり立ち上った。
「ああ、とうとういらしった」 看護婦と入れ代りに津田の枕元へ坐ったお延はたちまち津田を見た。
「来ないと思っていらしったんでしょう」「いやそうでもない。しかし今日はもう遅いからどうかとも思っていた」 津田の言葉に偽りはなかった。
お延にはそれを認めるだけの眼があった。
けれどもそうすれば事の矛盾はなお募るばかりであった。
「でも先刻手紙をお寄こしになったのね」「ああやったよ」「今日来ちゃいけないと書いてあるのね」「うん、少し都合の悪い事があったから」「なぜあたしが来ちゃ御都合が悪いの」 津田はようやく気がついた。
彼はお延の様子を見ながら答えた。
「なに何でもないんだ。下らない事なんだ」「でも、わざわざ使に持たせてお寄こしになるくらいだから、何かあったんでしょう」 津田はごまかしてしまおうとした。
「下らない事だよ。何でまたそんな事を気にかけるんだ。お前も馬鹿だね」 慰藉のつもりで云った津田の言葉はかえって反対の結果をお延の上に生じた。
彼女は黒い眉を動かした。
無言のまま帯の間へ手を入れて、そこから先刻の書翰を取り出した。
「これをもう一遍見てちょうだい」 津田は黙ってそれを受け取った。
「別段何にも書いちゃないじゃないか」と云った時、彼の腹はようやく彼の口を否定した。
手紙は簡単であった。
けれどもお延の疑いを惹くには充分であった。
すでに疑われるだけの弱味をもっている彼は、やり損なったと思った。
「何にも書いてないから、その理由を伺うんです」とお延は云った。
「話して下すってもいいじゃありませんか。せっかく来たんだから」「お前はそれを聴きに来たのかい」「ええ」「わざわざ?」「ええ」 お延はどこまで行っても動かなかった。
相手の手剛さを悟った時、津田は偶然好い嘘を思いついた。
「実は小林が来たんだ」 小林の二字はたしかにお延の胸に反響した。
しかしそれだけではすまなかった。
彼はお延を満足させるために、かえってそこを説明してやらなければならなくなった。
百四十六
「小林なんかに逢うのはお前も厭だろうと思ってね。それで気がついたからわざわざ知らしてやったんだよ」 こう云ってもお延はまだ得心した様子を見せなかったので、津田はやむをえず慰藉の言葉を延ばさなければならなかった。
「お前が厭でないにしたところで、おれが厭なんだ、あんな男にお前を合わせるのは。それにあいつがまたお前に聴かせたくないような厭な用事を持ち込んで来たもんだからね」「あたしの聴いて悪い用事? じゃお二人の間の秘密なの?」「そんな訳のものじゃないよ」と云った津田は、自分の上に寸分の油断なく据えられたお延の細い眼を見た時に、周章てて後を付け足した。
「また金を強乞りに来たんだ。ただそれだけさ」「じゃあたしが聴いてなぜ悪いの」「悪いとは云やしない。聴かせたくないというまでさ」「するとただ親切ずくで寄こして下すった手紙なのね、これは」「まあそうだ」 今まで夫に見入っていたお延の細い眼がなお細くなると共に、微かな笑が唇を洩れた。
「まあありがたい事」 津田は澄ましていられなくなった。
彼は用意を欠いた文句を択り除ける余裕を失った。
「お前だって、あんな奴に会うのは厭なんじゃないか」「いいえ、ちっとも」「そりゃ嘘だ」「どうして嘘なの」「だって小林は何かお前に云ったそうじゃないか」「ええ」「だからさ。それでお前もあいつに会うのは厭だろうと云うんだ」「じゃあなたはあたしが小林さんからどんな事を聴いたか知っていらっしゃるの」「そりゃ知らないよ。だけどどうせあいつのことだから碌な事は云やしなかろう。いったいどんな事を云ったんだ」 お延は口へ出かかった言葉を殺してしまった。
そうして反問した。
「ここで小林さんは何とおっしゃって」「何とも云やしないよ」「それこそ嘘です。あなたは隠していらっしゃるんです」「お前の方が隠しているんじゃないかね。小林から好い加減な事を云われて、それを真に受けていながら」「そりゃ隠しているかも知れません。あなたが隠し立てをなさる以上、あたしだって仕方がないわ」 津田は黙った。
お延も黙った。
二人とも相手の口を開くのを待った。
しかしお延の辛防は津田よりも早く切れた。
彼女は急に鋭どい声を出した。
「嘘よ、あなたのおっしゃる事はみんな嘘よ。小林なんて人はここへ来た事も何にもないのに、あなたはあたしをごまかそうと思って、わざわざそんな拵え事をおっしゃるのよ」「拵えたって、別におれの利益になる訳でもなかろうじゃないか」「いいえほかの人が来たのを隠すために、小林なんて人を、わざわざ引張り出すにきまってるわ」「ほかの人? ほかの人とは」 お延の眼は床の上に載せてある楓の盆栽に落ちた。
「あれはどなたが持っていらしったんです」 津田は失敗ったと思った。
なぜ早く吉川夫人の来た事を自白してしまわなかったかと後悔した。
彼が最初それを口にしなかったのは分別の結果であった。
話すのに訳はなかったけれども、夫人と相談した事柄の内容が、お延に対する彼を自然臆病にしたので、気の咎める彼は、まあ遠慮しておく方が得策だろうと思案したのである。
盆栽をふり返った彼が吉川夫人の名を云おうとして、ちょっと口籠った時、お延は機先を制した。
「吉川の奥さんがいらしったじゃありませんか」 津田は思わず云った。
「どうして知ってるんだ」「知ってますわ。そのくらいの事」 お延の様子に注意していた津田はようやく度胸を取り返した。
「ああ来たよ。つまりお前の予言があたった訳になるんだ」「あたしは奥さんが電車に乗っていらしった事までちゃんと知ってるのよ」 津田はまた驚ろいた。
ことによると自動車が大通りに待っていたのかも知れないと思っただけで、彼は夫人の乗物にそれ以上細かい注意を払わなかった。
「お前どこかで会ったのかい」「いいえ」「じゃどうして知ってるんだ」 お延は答える代りに訊き返した。
「奥さんは何しにいらしったんです」 津田は何気なく答えた。
「そりゃ今話そうと思ってたところだ。――しかし誤解しちゃ困るよ。小林はたしかに来たんだからね。最初に小林が来て、その後へ奥さんが来たんだ。だからちょうど入れ違になった訳だ」
百四十七
お延は夫より自分の方が急き込んでいる事に気がついた。
この調子で乗しかかって行ったところで、夫はもう圧し潰されないという見切をつけた時、彼女は自分の破綻を出す前に身を翻がえした。
「そう、そんならそれでもいいわ。小林さんが来たって来なくったって、あたしの知った事じゃないんだから。その代り吉川の奥さんの用事を話して聴かしてちょうだい。無論ただのお見舞でない事はあたしにも判ってるけれども」「といったところで、大した用事で来た訳でもないんだよ。そんなに期待していると、また聴いてから失望するかも知れないから、ちょっと断っとくがね」「構いません、失望しても。ただありのままを伺いさえすれば、それで念晴しになるんだから」「本来が見舞で、用事はつけたりなんだよ、いいかね」「いいわ、どっちでも」 津田は夫人の齎した温泉行の助言だけをごく淡泊り話した。
お延にお延流の機略がある通り、彼には彼相当の懸引があるので、都合の悪いところを巧みに省略した、誰の耳にも真卒で合理的な説明がたやすく彼の口からお延の前に描き出された。
彼女は表向それに対して一言の非難を挟さむ余地がなかった。
ただ落ちつかないのは互の腹であった。
お延はこの単純な説明を透して、その奥を覗き込もうとした。
津田は飽くまでもそれを見せまいと覚悟した。
極めて平和な暗闘が度胸比べと技巧比べで演出されなければならなかった。
しかし守る夫に弱点がある以上、攻める細君にそれだけの強味が加わるのは自然の理であった。
だから二人の天賦を度外において、ただ二人の位地関係から見ると、お延は戦かわない先にもう優者であった。
正味の曲直を標準にしても、競り合わない前に、彼女はすでに勝っていた。
津田にはそういう自覚があった。
お延にもこれとほぼ同じ意味で大体の見当がついていた。
戦争は、この内部の事実を、そのまま表面へ追い出す事ができるかできないかで、一段落つかなければならない道理であった。
津田さえ正直ならばこれほどたやすい勝負はない訳でもあった。
しかしもし一点不正直なところが津田に残っているとすると、これほどまた落し悪い城はけっしてないという事にも帰着した。
気の毒なお延は、否応なしに津田を追い出すだけの武器をまだ造り上げていなかった。
向うに開門を逼るよりほかに何の手段も講じ得ない境遇にある現在の彼女は、結果から見てほとんど無能力者と択ぶところがなかった。
なぜ心に勝っただけで、彼女は美くしく切り上げられないのだろうか。
なぜ凱歌を形の上にまで運び出さなければ気がすまないのだろうか。
今の彼女にはそんな余裕がなかったのである。
この勝負以上に大事なものがまだあったのである。
第二第三の目的をまだ後に控えていた彼女は、ここを突き破らなければ、その後をどうする訳にも行かなかったのである。
それのみか、実をいうと、勝負は彼女にとって、一義の位をもっていなかった。
本当に彼女の目指すところは、むしろ真実相であった。
夫に勝つよりも、自分の疑を晴らすのが主眼であった。
そうしてその疑いを晴らすのは、津田の愛を対象に置く彼女の生存上、絶対に必要であった。
それ自身がすでに大きな目的であった。
ほとんど方便とも手段とも云われないほど重い意味を彼女の眼先へ突きつけていた。
彼女は前後の関係から、思量分別の許す限り、全身を挙げてそこへ拘泥らなければならなかった。
それが彼女の自然であった。
しかし不幸な事に、自然全体は彼女よりも大きかった。
彼女の遥か上にも続いていた。
公平な光りを放って、可憐な彼女を殺そうとしてさえ憚からなかった。
彼女が一口拘泥るたびに、津田は一足彼女から退ぞいた。
二口拘泥れば、二足退いた。
拘泥るごとに、津田と彼女の距離はだんだん増して行った。
大きな自然は、彼女の小さい自然から出た行為を、遠慮なく蹂躙した。
一歩ごとに彼女の目的を破壊して悔いなかった。
彼女は暗にそこへ気がついた。
けれどもその意味を悟る事はできなかった。
彼女はただそんなはずはないとばかり思いつめた。
そうしてついにまた心の平静を失った。
「あたしがこれほどあなたの事ばかり考えているのに、あなたはちっとも察して下さらない」 津田はやりきれないという顔をした。
「だからおれは何にもお前を疑ってやしないよ」「当り前ですわ。この上あなたに疑ぐられるくらいなら、死んだ方がよっぽどましですもの」「死ぬなんて大袈裟な言葉は使わないでもいいやね。第一何にもないじゃないか、どこにも。もしあるなら云って御覧な。そうすればおれの方でも弁解もしようし、説明もしようけれども、初手から根のない苦情じゃ手のつけようがないじゃないか」「根はあなたのお腹の中にあるはずですわ」「困るなそれだけじゃ。――お前小林から何かしゃくられたね。きっとそうに違ない。小林が何を云ったかそこで話して御覧よ。遠慮は要らないから」
百四十八
津田の言葉つきなり様子なりからして、お延は彼の心を明暸に推察する事ができた。
――夫は彼の留守に小林の来た事を苦にしている。
その小林が自分に何を話したかをなお気に病んでいる。
そうしてその話の内容は、まだ判然掴んでいない。
だから鎌をかけて自分を釣り出そうとする。
そこに明らかな秘密があった。
材料として彼女の胸に蓄わえられて来たこれまでのいっさいは、疑もなく矛盾もなく、ことごとく同じ方角に向って注ぎ込んでいた。
秘密は確実であった。
青天白日のように明らかであった。
同時に青天白日と同じ事で、どこにもその影を宿さなかった。
彼女はそれを見つめるだけであった。
手を出す術を知らなかった。
悩乱のうちにまだ一分の商量を余した利巧な彼女は、夫のかけた鎌を外さずに、すぐ向うへかけ返した。
「じゃ本当を云いましょう。実は小林さんから詳しい話をみんな聴いてしまったんです。だから隠したってもう駄目よ。あなたもずいぶんひどい方ね」 彼女の云い草はほとんどでたらめに近かった。
けれどもそれを口にする気持からいうと、全くの真剣沙汰と何の異なるところはなかった。
彼女は熱を籠めた語気で、津田を「ひどい方」と呼ばなければならなかった。
反響はすぐ夫の上に来た。
津田はこのでたらめの前に退避ろぐ気色を見せた。
お秀の所で遣り損なった苦い経験にも懲りず、また同じ冒険を試みたお延の度胸は酬いられそうになった。
彼女は一躍して進んだ。
「なぜこうならない前に、打ち明けて下さらなかったんです」「こうならない前」という言葉は曖昧であった。
津田はその意味を捕捉するに苦しんだ。
肝心のお延にはなお解らなかった。
だから訊かれても説明しなかった。
津田はただぼんやりと念を押した。
「まさか温泉へ行く事をいうんじゃあるまいね。それが不都合だと云うんなら、やめても構わないが」 お延は意外な顔をした。
「誰がそんな無理をいうもんですか。会社の方の都合がついて、病後の身体を回復する事ができれば、それほど結構な事はないじゃありませんか。それが悪いなんてむちゃくちゃを云い募るあたしだと思っていらっしゃるの、馬鹿らしい。ヒステリーじゃあるまいし」「じゃ行ってもいいかい」「よござんすとも」と云った時、お延は急に袂から手帛を出して顔へ当てたと思うと、しくしく泣き出した。
あとの言葉は、啜り上げる声の間から、句をなさずに、途切れ途切れに、毀れ物のような形で出て来た。
「いくらあたしが、……わがままだって、……あなたの療養の……邪魔をするような、……そんな……あたしは不断からあなたがあたしに許して下さる自由に対して感謝の念をもっているんです……のにあたしがあなたの転地療養を……妨げるなんて……」 津田はようやく安心した。
けれどもお延にはまだ先があった。
発作が静まると共に、その先は比較的すらすら出た。
「あたしはそんな小さな事を考えているんじゃないんです。いくらあたしが女だって馬鹿だって、あたしにはまたあたしだけの体面というものがあります。だから女なら女なり、馬鹿なら馬鹿なりに、その体面を維持して行きたいと思うんです。もしそれを毀損されると……」 お延はこれだけ云いかけてまた泣き出した。
あとはまた切れ切れになった。
「万一……もしそんな事があると……岡本の叔父に対しても……叔母に対しても……面目なくて、合わす顔がなくなるんです。……それでなくっても、あたしはもう秀子さんなんぞから馬鹿にされ切っているんです。……それをあなたは傍で見ていながら、……すまして……すまして……知らん顔をしていらっしゃるんです」 津田は急に口を開いた。
「お秀がお前を馬鹿にしたって? いつ? 今日お前が行った時にかい」 津田は我知らずとんでもない事を云ってしまった。
お延が話さない限り、彼はその会見を知るはずがなかったのである。
お延の眼ははたして閃めいた。
「それ御覧なさい。あたしが今日秀子さんの所へ行った事が、あなたにはもうちゃんと知れているじゃありませんか」「お秀が電話をかけたよ」という返事がすぐ津田の咽喉から外へ滑り出さなかった。
彼は云おうか止そうかと思って迷った。
けれども時に一寸の容赦もなかった。
反吐もどしていればいるほど形勢は危うくなるだけであった。
彼はほとんど行きつまった。
しかし間髪を容れずという際どい間際に、旨い口実が天から降って来た。
「車夫が帰って来てそう云ったもの。おおかたお時が車夫に話したんだろう」 幸いお延がお秀の後を追かけて出た事は、下女にも解っていた。
偶発の言訳が偶中の功を奏した時、津田は再度の胸を撫で下した。
百四十九
遮二無二津田を突き破ろうとしたお延は立ちどまった。
夫がそれほど自分をごまかしていたのでないと考える拍子に気が抜けたので、一息に進むつもりの彼女は進めなくなった。
津田はそこを覘った。
「お秀なんぞが何を云ったって構わないじゃないか。お秀はお秀、お前はお前なんだから」 お延は答えた。
「そんなら小林なんぞがあたしに何を云ったって構わないじゃありませんか。あなたはあなた、小林は小林なんだから」「そりゃ構わないよ。お前さえしっかりしていてくれれば。ただ疑ぐりだの誤解だのを起して、それをむやみに振り廻されると迷惑するから、こっちだって黙っていられなくなるだけさ」「あたしだって同じ事ですわ。いくらお秀さんが馬鹿にしようと、いくら藤井の叔母さんが疎外しようと、あなたさえしっかりしていて下されば、苦になるはずはないんです。それを肝心のあなたが……」 お延は行きつまった。
彼女には明暸な事実がなかった。
したがって明暸な言葉が口へ出て来なかった。
そこを津田がまた一掬い掬った。
「おおかたお前の体面に関わるような不始末でもすると思ってるんだろう。それよりか、もう少しおれに憑りかかって安心していたらいいじゃないか」 お延は急に大きな声を揚げた。
「あたしは憑りかかりたいんです。安心したいんです。どのくらい憑りかかりたがっているか、あなたには想像がつかないくらい、憑りかかりたいんです」「想像がつかない?」「ええ、まるで想像がつかないんです。もしつけば、あなたも変って来なくっちゃならないんです。つかないから、そんなに澄ましていらっしゃられるんです」「澄ましてやしないよ」「気の毒だとも可哀相だとも思って下さらないんです」「気の毒だとも、可哀相だとも……」 これだけ繰り返した津田はいったん塞えた。
その後で継ぎ足した文句はむしろ蹣跚として揺めいていた。
「思って下さらないたって。――いくら思おうと思っても。――思うだけの因縁があれば、いくらでも思うさ。しかしなけりゃ仕方がないじゃないか」 お延の声は緊張のために顫えた。
「あなた。あなた」 津田は黙っていた。
「どうぞ、あたしを安心させて下さい。助けると思って安心させて下さい。あなた以外にあたしは憑りかかり所のない女なんですから。あなたに外されると、あたしはそれぎり倒れてしまわなければならない心細い女なんですから。だからどうぞ安心しろと云って下さい。たった一口でいいから安心しろと云って下さい」 津田は答えた。
「大丈夫だよ。安心おしよ」「本当?」「本当に安心おしよ」 お延は急に破裂するような勢で飛びかかった。
「じゃ話してちょうだい。どうぞ話してちょうだい。隠さずにみんなここで話してちょうだい。そうして一思いに安心させてちょうだい」 津田は面喰った。
彼の心は波のように前後へ揺き始めた。
彼はいっその事思い切って、何もかもお延の前に浚け出してしまおうかと思った。
と共に、自分はただ疑がわれているだけで、実証を握られているのではないとも推断した。
もしお延が事実を知っているなら、ここまで押して来て、それを彼の顔に叩きつけないはずはあるまいとも考えた。
彼は気の毒になった。
同時に逃げる余地は彼にまだ残っていた。
道義心と利害心が高低を描いて彼の心を上下へ動かした。
するとその片方に温泉行の重みが急に加わった。
約束を断行する事は吉川夫人に対する彼の義務であった。
必然から起る彼の要求でもあった。
少くともそれを済ますまで打ち明けずにいるのが得策だという気が勝を制した。
「そんなくだくだしい事を云ってたって、お互いに顔を赤くするだけで、際限がないから、もう止そうよ。その代りおれが受け合ったらいいだろう」「受け合うって」「受け合うのさ。お前の体面に対して、大丈夫だという証書を入れるのさ」「どうして」「どうしてって、ほかに証文の入れようもないから、ただ口で誓うのさ」 お延は黙っていた。
「つまりお前がおれを信用すると云いさえすれば、それでいいんだ。万一の場合が出て来た時は引き受けて下さいって云えばいいんだ。そうすればおれの方じゃ、よろしい受け合ったと、こう答えるのさ。どうだねその辺のところで妥協はできないかね」
百五十
妥協という漢語がこの場合いかに不釣合に聞こえようとも、その時の津田の心事を説明するには極めて穏当であった。
実際この言葉によって代表される最も適切な意味が彼の肚にあった事はたしかであった。
明敏なお延の眼にそれが映った時、彼女の昂奮はようやく喰いとめられた。
感情の潮がまだ上りはしまいかという掛念で、暗に頭を悩ませていた津田は助かった。
次の彼には喰いとめた潮の勢を、反対な方向へ逆用する手段を講ずるだけの余裕ができた。
彼はお延を慰めにかかった。
彼女の気に入りそうな文句を多量に使用した。
沈着な態度を外部側にもっている彼は、また臨機に自分を相手なりに順応させて行く巧者も心得ていた。
彼の努力ははたして空しくなかった。
お延は久しぶりに結婚以前の津田を見た。
婚約当時の記憶が彼女の胸に蘇えった。
「夫は変ってるんじゃなかった。やっぱり昔の人だったんだ」 こう思ったお延の満足は、津田を窮地から救うに充分であった。
暴風雨になろうとして、なり損ねた波瀾はようやく収まった。
けれども事前の夫婦は、もう事後の夫婦ではなかった。
彼らはいつの間にか吾知らず相互の関係を変えていた。
波瀾の収まると共に、津田は悟った。
「畢竟女は慰撫しやすいものである」 彼は一場の風波が彼に齎したこの自信を抱いてひそかに喜こんだ。
今までの彼は、お延に対するごとに、苦手の感をどこかに起さずにいられた事がなかった。
女だと見下ろしながら、底気味の悪い思いをしなければならない場合が、日ごとに現前した。
それは彼女の直覚であるか、または直覚の活作用とも見傚される彼女の機略であるか、あるいはそれ以外の或物であるか、たしかな解剖は彼にもまだできていなかったが、何しろ事実は事実に違いなかった。
しかも彼自身自分の胸に畳み込んでおくぎりで、いまだかつて他に洩らした事のない事実に違いなかった。
だから事実と云い条、その実は一個の秘密でもあった。
それならばなぜ彼がこの明白な事実をわざと秘密に附していたのだろう。
簡単に云えば、彼はなるべく己れを尊く考がえたかったからである。
愛の戦争という眼で眺めた彼らの夫婦生活において、いつでも敗者の位地に立った彼には、彼でまた相当の慢心があった。
ところがお延のために征服される彼はやむをえず征服されるので、心から帰服するのではなかった。
堂々と愛の擒になるのではなくって、常に騙し打に会っているのであった。
お延が夫の慢心を挫くところに気がつかないで、ただ彼を征服する点においてのみ愛の満足を感ずる通りに、負けるのが嫌な津田も、残念だとは思いながら、力及ばず組み敷かれるたびに降参するのであった。
この特殊な関係を、一夜の苦説が逆にしてくれた時、彼のお延に対する考えは変るのが至当であった。
彼は今までこれほど猛烈に、また真正面に、上手を引くように見えて、実は偽りのない下手に出たお延という女を見た例がなかった。
弱点を抱いて逃げまわりながら彼は始めてお延に勝つ事ができた。
結果は明暸であった。
彼はようやく彼女を軽蔑する事ができた。
同時に以前よりは余計に、彼女に同情を寄せる事ができた。
お延にはまたお延で波瀾後の変化が起りつつあった。
今までかつてこういう態度で夫に向った事のない彼女は、一気に津田の弱点を衝く方に心を奪われ過ぎたため、ついぞ露わした事のない自分の弱点を、かえって夫に示してしまったのが、何より先に残念の種になった。
夫に愛されたいばかりの彼女には平常からわが腕に依頼する信念があった。
自分は自分の見識を立て通して見せるという覚悟があった。
もちろんその見識は複雑とは云えなかった。
夫の愛が自分の存在上、いかに必要であろうとも、頭を下げて憐みを乞うような見苦しい真似はできないという意地に過ぎなかった。
もし夫が自分の思う通り自分を愛さないならば、腕の力で自由にして見せるという堅い決心であった。
のべつにこの決心を実行して来た彼女は、つまりのべつに緊張していると同じ事であった。
そうしてその緊張の極度はどこかで破裂するにきまっていた。
破裂すれば、自分で自分の見識をぶち壊すのと同じ結果に陥いるのは明暸であった。
不幸な彼女はこの矛盾に気がつかずに邁進した。
それでとうとう破裂した。
破裂した後で彼女はようやく悔いた。
仕合せな事に自然は思ったより残酷でなかった。
彼女は自分の弱点を浚け出すと共に一種の報酬を得た。
今までどんなに勝ち誇っても物足りた例のなかった夫の様子が、少し変った。
彼は自分の満足する見当に向いて一歩近づいて来た。
彼は明らかに妥協という字を使った。
その裏に彼女の根限り掘り返そうと力めた秘密の潜在する事を暗に自白した。
自白?
。
彼女はよく自分に念を押して見た。
そうしてそれが黙認に近い自白に違いないという事を確かめた時、彼女は口惜しがると同時に喜こんだ。
彼女はそれ以上夫を押さなかった。
津田が彼女に対して気の毒という念を起したように、彼女もまた津田に対して気の毒という感じを持ち得たからである。
百五十一
けれども自然は思ったより頑愚であった。
二人はこれだけで別れる事ができなかった。
妙な機みからいったん収まりかけた風波がもう少しで盛り返されそうになった。
それは昂奮したお延の心持がやや平静に復した時の事であった。
今切り抜けて来た波瀾の結果はすでに彼女の気分に働らきかけていた。
酔を感ずる人が、その酔を利用するような態度で彼女は津田に向った。
「じゃいつごろその温泉へいらっしゃるの」「ここを出たらすぐ行こうよ。身体のためにもその方が都合がよさそうだから」「そうね。なるべく早くいらしった方がいいわ。行くと事がきまった以上」 津田はこれでまずよしと安心した。
ところへお延は不意に出た。
「あたしもいっしょに行っていいんでしょう」 気の緩んだ津田は急にひやりとした。
彼は答える前にまず考えなければならなかった。
連れて行く事は最初から問題にしていなかった。
と云って、断る事はなおむずかしかった。
断り方一つで、相手はどう変化するかも分らなかった。
彼が何と返事をしたものだろうと思って分別するうちに大切の機は過ぎた。
お延は催促した。
「ね、行ってもいいんでしょう」「そうだね」「いけないの」「いけない訳もないがね……」 津田は連れて行きたくない心の内を、しだいしだいに外へ押し出されそうになった。
もし猜疑の眸が一度お延の眼の中に動いたら事はそれぎりであると見てとった彼は、実を云うと、お延と同じ心理状態の支配を受けていた。
先刻の波瀾から来た影響は彼にもう憑り移っていた。
彼は彼でそれを利用するよりほかに仕方がなかった。
彼はすぐ「慰撫」の二字を思い出した。
「慰撫に限る。女は慰撫さえすればどうにかなる」。
彼は今得たばかりのこの新らしい断案を提さげて、お延に向った。
「行ってもいいんだよ。いいどころじゃない、実は行って貰いたいんだ。第一一人じゃ不自由だからね。世話をして貰うだけでも、その方が都合がいいにきまってるからね」「ああ嬉しい、じゃ行くわ」「ところがだね。……」 お延は厭な顔をした。
「ところがどうしたの」「ところがさ。宅はどうする気かね」「宅は時がいるから好いわ」「好いわって、そんな子供見たいな呑気な事を云っちゃ困るよ」「なぜ。どこが呑気なの。もし時だけで不用心なら誰か頼んで来るわ」 お延は続けざまに留守居として適当な人の名を二三挙げた。
津田は拒めるだけそれを拒んだ。
「若い男は駄目だよ。時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね」 お延は笑い出した。
「まさか。――間違なんか起りっこないわ、わずかの間ですもの」「そうは行かないよ。けっしてそうは行かないよ」 津田は断乎たる態度を示すと共に、考える風もして見せた。
「誰か適当な人はないもんかね。手頃なお婆さんか何かあるとちょうど持って来いだがな」 藤井にも岡本にもその他の方面にも、そんな都合の好い手の空いた人は一人もなかった。
「まあよく考えて見るさ」 この辺で話を切り上げようとした津田は的が外れた。
お延は掴んだ袖をなかなか放さなかった。
「考えてない時には、どうするの。もしお婆さんがいなければ、あたしはどうしても行っちゃ悪いの」「悪いとは云やしないよ」「だってお婆さんなんかいる訳がないじゃありませんか。考えないだってそのくらいな事は解ってますわ。それより行って悪いなら悪いと判然云ってちょうだいよ」 せっぱつまった津田はこの時不思議にまた好い云訳を思いついた。
「そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。しかし時一人を置いて行くにしたところで、まだ困る事があるんだ。おれは吉川の奥さんから旅費を貰うんだからね。他の金を貰って夫婦連れで遊んで歩くように思われても、あんまりよくないじゃないか」「そんなら吉川の奥さんからいただかないでも構わないわ。あの小切手があるから」「そうすると今月分の払の方が差支えるよ」「それは秀子さんの置いて行ったのがあるのよ」 津田はまた行きつまった。
そうしてまた危い血路を開いた。
「少し小林に貸してやらなくっちゃならないんだぜ」「あんな人に」「お前はあんな人にと云うがね、あれでも今度遠い朝鮮へ行くんだからね。可哀想だよ。それにもう約束してしまったんだから、どうする訳にも行かないんだ」 お延は固より満足な顔をするはずがなかった。
しかし津田はこれでどうかこうかその場だけを切り抜ける事ができた。
百五十二
後は話が存外楽に進行したので、ほどなく第二の妥協が成立した。
小林に対する友誼を満足させるため、かつはいったん約束した言責を果すため、津田はお延の貰って来た小切手の中から、その幾分を割いて朝鮮行の贐として小林に贈る事にした。
名義は固より貸すのであったが、相手に返す腹のない以上、それを予算に組み込んで今後の的にする訳には行かないので、結果はつまりやる事になったのである。
もちろんそこへ行き着くまでにはお延にも多少の難色があった。
小林のような横着な男に金銭を恵むのはおろか、ちゃんとした証書を入れさせて、一時の用を足してやる好意すら、彼女の胸のどの隅からも出るはずはなかった。
のみならず彼女はややともすると、強いてそれを断行しようとする夫の裏側を覗き込むので、津田はそのたびに少なからず冷々した。
「あんな人に何だってそんな親切を尽しておやりになるんだか、あたしにはまるで解らないわ」 こういう意味の言葉が二度も三度も彼女によって繰り返された。
津田が人情一点張でそれを相手にする気色を見せないと、彼女はもう一歩先の事まで云った。
「だから訳をおっしゃいよ。こういう訳があるから、こうしなければ義理が悪いんだという事情さえ明暸になれば、あの小切手をみんな上げても構わないんだから」 津田にはここが何より大事な関所なので、どうしてもお延を通させる訳に行かなかった。
彼は小林を弁護する代りに、二人の過去にある旧い交際と、その交際から出る懐かしい記憶とを挙げた。
懐かしいという字を使って非難された時には、仕方なしに、昔の小林と今の小林の相違にまで、説明の手を拡げた。
それでも腑に落ちないお延の顔を見た時には、急に談話の調子を高尚にして、人道まで云々した。
しかし彼の口にする人道はついに一個の功利説に帰着するので、彼は吾知らず自分の拵えた陥穽に向って進んでいながら気がつかず、危うくお延から足を取られて、突き落されそうになる場合も出て来た。
それを代表的な言葉でごく簡単に例で現わすと下のようになった。
「とにかく困ってるんだからね、内地にいたたまれずに、朝鮮まで落ちて行こうてんだから、少しは同情してやってもよかろうじゃないか。それにお前はあいつの人格をむやみに攻撃するが、そこに少し無理があるよ。なるほどあいつはしようのない奴さ。しようのない奴には違ないけれども、あいつがこうなった因りをよく考えて見ると、何でもないんだ。ただ不平だからだ。じゃなぜ不平だというと、金が取れないからだ。ところがあいつは愚図でもなし、馬鹿でもなし、相当な頭を持ってるんだからね。不幸にして正則の教育を受けなかったために、ああなったと思うと、そりゃ気の毒になるよ。つまりあいつが悪いんじゃない境遇が悪いんだと考えさえすればそれまでさ。要するに不幸な人なんだ」 これだけなら口先だけとしてもまず立派なのであるが、彼はついにそこで止まる事ができないのである。
「それにまだこういう事も考えなければならないよ。ああ自暴糞になってる人間に逆らうと何をするか解らないんだ。誰とでも喧嘩がしたい、誰と喧嘩をしても自分の得になるだけだって、現にここへ来て公言して威張ってるんだからね、実際始末に了えないよ。だから今もしおれがあいつの要求を跳ねつけるとすると、あいつは怒るよ。ただ怒るだけならいいが、きっと何かするよ。復讐をやるにきまってるよ。ところがこっちには世間体があり、向うにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵いっこないんだ。解ったかね」 ここまで来ると最初の人道主義はもうだいぶ崩れてしまう。
しかしそれにしても、ここで切り上げさえすれば、お延は黙って点頭くよりほかに仕方がないのである。
ところが彼はまだ先へ出るのである。
「それもあいつが主義としてただ上流社会を攻撃したり、または一般の金持を悪口するだけならいいがね。あいつのは、そうじゃないんだ、もっと実際的なんだ。まず最初に自分の手の届く所からだんだんに食い込んで行こうというんだ。だから一番災難なのはこのおれだよ。どう考えてもここでおれ相当の親切を見せて、あいつの感情を美くして、そうして一日も早く朝鮮へ立って貰うのが上策なんだ。でないといつどんな目に逢うか解ったもんじゃない」 こうなるとお延はどうしてもまた云いたくなるのである。
「いくら小林が乱暴だって、あなたの方にも何かなくっちゃ、そんなに怖がる因縁がないじゃありませんか」 二人がこんな押問答をして、小切手の片をつけるだけでも、ものの十分はかかった。
しかし小林の方がきまると共に、残りの所置はすぐついた。
それを自分の小遣として、任意に自分の嗜慾を満足するという彼女の条件は直ちに成立した。
その代り彼女は津田といっしょに温泉へ行かない事になった。
そうして温泉行の費用は吉川夫人の好意を受けるという案に同意させられた。
うそ寒の宵に、若い夫婦間に起った波瀾の消長はこれでようやく尽きた。
二人はひとまず別れた。
百五十三
津田の辛防しなければならない手術後の経過は良好であった。
というよりもむしろ順当に行った。
五日目が来た時、医者は予定通り彼のために全部のガーゼを取り替えてくれた後で、それを保証した。
「至極好い具合です。出血も口元だけです。内部の方は何ともありません」 六日目にも同じ治療法が繰り返された。
けれども局部は前日よりは健全になっていた。
「出血はどうです。まだ止まりませんか」「いや、もうほとんど止まりました」 出血の意味を解し得ない津田は、この返事の意味をも解し得なかった。
好い加減に「もう癒りました」という解釈をそれに付けて大変喜こんだ。
しかし本式の事実は彼の考える通りにも行かなかった。
彼と医者の間に起った一場の問答がその辺の消息を明らかにした。
「これが癒り損なったらどうなるんでしょう」「また切るんです。そうして前よりも軽く穴が残るんです」「心細いですな」「なに十中八九は癒るにきまってます」「じゃ本当の意味で全癒というと、まだなかなか時間がかかるんですね」「早くて三週間遅くて四週間です」「ここを出るのは?」「出るのは明後日ぐらいで差支えありません」 津田はありがたがった。
そうして出たらすぐ温泉に行こうと覚悟した。
なまじい医者に相談して転地を禁じられでもすると、かえって神経を悩ますだけが損だと打算した彼はわざと黙っていた。
それはほとんど平生の彼に似合わない粗忽な遣口であった。
彼は甘んじてこの不謹慎を断行しようと決心しながら、肚の中ですでに自分の矛盾を承知しているので、何だか不安であった。
彼は訊かないでもいい質問を医者にかけてみたりした。
「括約筋を切り残したとおっしゃるけれども、それでどうして下からガーゼが詰められるんですか」「括約筋はとば口にゃありません。五分ほど引っ込んでます。それを下から斜に三分ほど削り上げた所があるのです」 津田はその晩から粥を食い出した。
久しく麺麭だけで我慢していた彼の口には水ッぽい米の味も一種の新らしみであった。
趣味として夜寒の粥を感ずる能力を持たない彼は、秋の宵の冷たさを対照に置く薄粥の暖かさを普通の俳人以上に珍重して啜る事ができた。
療治の必要上、長い事止められていた便の疎通を計るために、彼はまた軽い下剤を飲まなければならなかった。
さほど苦にもならなかった腹の中が軽くなるに従って、彼の気分もいつか軽くなった。
身体の楽になった彼は、寝転ろんでただ退院の日を待つだけであった。
その日も一晩明けるとすぐに来た。
彼は車を持って迎いに来たお延の顔を見るや否や云った。
「やっと帰れる事になった訳かな。まあありがたい」「あんまりありがたくもないでしょう」「いやありがたいよ」「宅の方が病院よりはまだましだとおっしゃるんでしょう」「まあその辺かも知れないがね」 津田はいつもの調子でこう云った後で、急に思い出したように付け足した。
「今度はお前の拵えてくれた※袍で助かったよ。綿が新らしいせいか大変着心地が好いね」 お延は笑いながら夫を冷嘲した。
「どうなすったの。なんだか急にお世辞が旨くおなりね。だけど、違ってるのよ、あなたの鑑定は」 お延は問題の※袍を畳みながら、新らしい綿ばかりを入れなかった事実を夫に白状した。
津田はその時着物を着換えていた。
絞りの模様の入った縮緬の兵児帯をぐるぐる腰に巻く方が、彼にはむしろ大事な所作であった。
それほど軽く※袍の中味を見ていた彼の愛嬌は、正直なお延の返事を待ち受けるのでも何でもなかった。
彼はただ「はあそうかい」と云ったぎりであった。
「お気に召したらどうぞ温泉へも持っていらしって下さい」「そうして時々お前の親切でも思い出すかな」「しかし宿屋で貸してくれる※袍の方がずっとよかったり何かすると、いい恥っ掻きね、あたしの方は」「そんな事はないよ」「いえあるのよ。品質が悪いとどうしても損ね、そういう時には。親切なんかすぐどこかへ飛んでっちまうんだから」 無邪気なお延の言葉は、彼女の意味する通りの単純さで津田の耳へは響かなかった。
そこには一種のアイロニーが顫動していた。
※袍は何かの象徴であるらしく受け取れた。
多少気味の悪くなった津田は、お延に背中を向けたままで、兵児帯の先をこま結びに結んだ。
やがて二人は看護婦に送られて玄関に出ると、すぐそこに待たしてある車に乗った。
「さよなら」 多事な一週間の病院生活は、この一語でようやく幕になった。
百五十四
目的の温泉場へ立つ前の津田は、既定されたプログラムの順序として、まず小林に会わなければならなかった。
約束の日が来た時、お延から入用の金を受け取った彼は笑いながら細君を顧みた。
「何だか惜しいな、あいつにこれだけ取られるのは」「じゃ止した方が好いわ」「おれも止したいよ」「止したいのになぜ止せないの。あたしが代りに行って断って来て上げましょうか」「うん、頼んでもいいね」「どこであの人にお逢いになるの。場所さえおっしゃれば、あたし行って上げるわ」 お延が本気かどうかは津田にも分らなかった。
けれどもこういう場合に、大丈夫だと思ってつい笑談に押すと、押したこっちがかえって手古摺らせられるくらいの事は、彼に困難な想像ではなかった。
お延はいざとなると口で云った通りを真面に断行する女であった。
たとい違約であろうとあるまいと、津田を代表して、小林を撃退する役割なら進んで引き受けないとも限らなかった。
彼は危険区域へ踏み込まない用心をして、わざと話を不真面目な方角へ流してしまった。
「お前は見かけに寄らない勇気のある女だね」「これでも自分じゃあると思ってるのよ。けれどもまだ出した例がないから、実際どのくらいあるか自分にも分らないわ」「いやお前に分らなくっても、おれにはちゃんと分ってるから、それでたくさんだよ。女のくせにそうむやみに勇気なんか出された日にゃ、亭主が困るだけだからね」「ちっとも困りゃしないわ。御亭主のために出す勇気なら、男だって困るはずがないじゃないの」「そりゃありがたい場合もたまには出て来るだろうがね」と云った津田には固より本気に受け答えをするつもりもなかった。
「今日までそれほど感服に値する勇気を拝見した覚もないようだね」「そりゃその通りよ。だってちっとも外へ出さずにいるんですもの。これでも内側へ入って御覧なさい。なんぼあたしだってあなたの考えていらっしゃるほど太平じゃないんだから」 津田は答えなかった。
しかしお延はやめなかった。
「あたしがそんなに気楽そうに見えるの、あなたには」「ああ見えるよ。大いに気楽そうだよ」 この好い加減な無駄口の前に、お延は微かな溜息を洩らした後で云った。
「つまらないわね、女なんて。あたし何だって女に生れて来たんでしょう」「そりゃおれにかけ合ったって駄目だ。京都にいるお父さんかお母さんへ尻を持ち込むよりほかに、苦情の持ってきどころはないんだから」 苦笑したお延はまだ黙らなかった。
「いいから、今に見ていらっしゃい」「何を」と訊き返した津田は少し驚ろかされた。
「何でもいいから、今に見ていらっしゃい」「見ているが、いったい何だよ」「そりゃ実際に問題が起って来なくっちゃ云えないわ」「云えないのはつまりお前にも解らないという意味なんじゃないか」「ええそうよ」「何だ下らない。それじゃまるで雲を掴むような予言だ」「ところがその予言が今にきっとあたるから見ていらっしゃいというのよ」 津田は鼻の先でふんと云った。
それと反対にお延の態度はだんだん真剣に近づいて来た。
「本当よ。何だか知らないけれども、あたし近頃始終そう思ってるの、いつか一度このお肚の中にもってる勇気を、外へ出さなくっちゃならない日が来るに違ないって」「いつか一度? だからお前のは妄想と同なじ事なんだよ」「いいえ生涯のうちでいつか一度じゃないのよ。近いうちなの。もう少ししたらのいつか一度なの」「ますます悪くなるだけだ。近き将来において蛮勇なんか亭主の前で発揮された日にゃ敵わない」「いいえ、あなたのためによ。だから先刻から云ってるじゃないの、夫のために出す勇気だって」 真面目なお延の顔を見ていると、津田もしだいしだいに釣り込まれるだけであった。
彼の性格にはお延ほどの詩がなかった。
その代り多少気味の悪い事実が遠くから彼を威圧していた。
お延の詩、彼のいわゆる妄想は、だんだん活躍し始めた。
今まで死んでいるとばかり思って、弄り廻していた鳥の翅が急に動き出すように見えた時、彼は変な気持がして、すぐ会話を切り上げてしまった。
彼は帯の間から時計を出して見た。
「もう時間だ、そろそろ出かけなくっちゃ」 こう云って立ち上がった彼の後を送って玄関に出たお延は、帽子かけから茶の中折を取って彼の手に渡した。
「行っていらっしゃい。小林さんによろしくってお延が云ってたと忘れずに伝えて下さい」 津田は振り向かないで夕方の冷たい空気の中に出た。
百五十五
小林と会見の場所は、東京で一番賑やかな大通りの中ほどを、ちょっと横へ切れた所にあった。
向うから宅へ誘いに寄って貰う不快を避けるため、またこっちで彼の下宿を訪ねてやる面倒を省くため、津田は時間をきめてそこで彼に落ち合う手順にしたのである。
その時間は彼が電車に乗っているうちに過ぎてしまった。
しかし着物を着換えて、お延から金を受け取って、少しの間坐談をしていたために起ったこの遅刻は、何らの痛痒を彼に与えるに足りなかった。
有体に云えば、彼は小林に対して克明に律義を守る細心の程度を示したくなかった。
それとは反対に、少し時間を後らせても、放縦な彼の鼻柱を挫いてやりたかった。
名前は送別会だろうが何だろうが、その実金をやるものと貰うものとが顔を合せる席にきまっている以上、津田はたしかに優者であった。
だからその優者の特権をできるだけ緊張させて、主客の位地をあらかじめ作っておく方が、相手の驕慢を未前に防ぐ手段として、彼には得策であった。
利害を離れた単なる意趣返しとしてもその方が面白かった。
彼はごうごう鳴る電車の中で、時計を見ながら、ことによるとこれでもまだ横着な小林には早過ぎるかも知れないと考えた。
もしあまり早く行き着いたら、一通り夜店でも素見して、慾の皮で硬く張った小林の予期を、もう少し焦らしてやろうとまで思案した。
停留所で降りた時、彼の眼の中を通り過ぎた燭光の数は、夜の都の活動を目覚しく物語るに充分なくらい、右往左往へちらちらした。
彼はその間に立って、目的の横町へ曲る前に、これらの燭光と共に十分ぐらい動いて歩こうか歩くまいかと迷った。
ところが顔の先へ押し付けられた夕刊を除けて、四辺を見廻した彼は、急におやと思わざるを得なかった。
もうだいぶ待ち草臥れているに違ないと仮定してかかった小林は、案外にも向う側に立っていた。
位地は津田の降りた舗床と車道を一つ隔てた四つ角の一端なので、二人の視線が調子よく合わない以上、夜と人とちらちらする燭光が、相互の認識を遮ぎる便利があった。
のみならず小林は真面にこっちを向いていなかった。
彼は津田のまだ見知らない青年と立談をしていた。
青年の顔は三分の二ほど、小林のは三分の一ほど、津田の方角から見えるだけなので、彼はほぼ露見の恐れなしに、自分の足の停まった所から、二人の模様を注意して観察する事ができた。
二人はけっして余所見をしなかった。
顔と顔を向き合せたまま、いつまでも同じ姿勢を崩さない彼らの体が、ありありと津田の眼に映るにつれて、真面目な用談の、互いの間に取り換わされている事は明暸に解った。
二人の後には壁があった。
あいにく横側に窓が付いていないので、強い光はどこからも射さなかった。
ところへ南から来た自働車が、大きな音を立てて四つ角を曲ろうとした。
その時二人は自働車の前側に装置してある巨大な灯光を満身に浴びて立った。
津田は始めて青年の容貌を明かに認める事ができた。
蒼白い血色は、帽子の下から左右に垂れている、幾カ月となく刈り込まない※々たる髪の毛と共に、彼の視覚を冒した。
彼は自働車の過ぎ去ると同時に踵を回らした。
そうして二人の立っている舗道を避けるように、わざと反対の方向へ歩き出した。
彼には何の目的もなかった。
はなやかに電灯で照らされた店を一軒ごとに見て歩く興味は、ただ都会的で美くしいというだけに過ぎなかった。
商買が違うにつれて品物が変化する以外に、何らの複雑な趣は見出されなかった。
それにもかかわらず彼は到る処に視覚の満足を味わった。
しまいに或唐物屋の店先に飾ってあるハイカラな襟飾を見た時に、彼はとうとうその家の中へ入って、自分の欲しいと思うものを手に取って、ひねくり廻したりなどした。
もうよかろうという時分に、彼は再び取って返した。
舗道の上に立っていた二人の影ははたしてどこかへ行ってしまった。
彼は少し歩調を早めた。
約束の家の窓からは暖かそうな光が往来へ射していた。
煉瓦作りで窓が高いのと、模様のある玉子色の布に遮ぎられて、間接に夜の中へ光線が放射されるので、通り際に見上げた津田の頭に描き出されたのは、穏やかな瓦斯煖炉を供えた品の好い食堂であった。
大きなブロックの片隅に、形容した言葉でいうと、むしろひっそり構えているその食堂は、大して広いものではなかった。
津田がそこを知り出したのもつい近頃であった。
長い間仏蘭西とかに公使をしていた人の料理番が開いた店だから旨いのだと友人に教えられたのが原で、四五遍食いに来た因縁を措くと、小林をそこへ招き寄せる理由は他に何にもなかった。
彼は容赦なく扉を押して内へ入った。
そうしてそこに案のごとく少し手持無沙汰ででもあるような風をして、真面目な顔を夕刊か何かの前に向けている小林を見出した。
百五十六
小林は眼を上げてちょっと入口の方を見たが、すぐその眼を新聞の上に落してしまった。
津田は仕方なしに無言のまま、彼の坐っている食卓の傍まで近寄って行ってこっちから声をかけた。
「失敬。少し遅くなった。よっぽど待たしたかね」 小林はようやく新聞を畳んだ。
「君時計をもってるだろう」 津田はわざと時計を出さなかった。
小林は振り返って正面の壁の上に掛っている大きな柱時計を見た。
針は指定の時間より四十分ほど先へ出ていた。
「実は僕も今来たばかりのところなんだ」 二人は向い合って席についた。
周囲には二組ばかりの客がいるだけなので、そうして