その二枚の間から、冷たい一道の夜気が、※袍を脱ぎにかかった津田の身体を、山里らしく襲いに来た。
第 17 章
「ああ寒い」 津田はざぶんと音を立てて湯壺の中へ飛び込んだ。
「ごゆっくり」 戸を閉めて出ようとした下女はいったんこう云った後で、また戻って来た。
「まだ下にもお風呂場がございますから、もしそちらの方がお気に入るようでしたら、どうぞ」 来る時もう階子段を一つか二つ下りている津田には、この浴槽の階下がまだあろうとは思えなかった。
「いったい何階なのかね、この家は」 下女は笑って答えなかった。
しかし用事だけは云い残さなかった。
「ここの方が新らしくって綺麗は綺麗ですが、お湯は下の方がよく利くのだそうです。だから本当に療治の目的でおいでの方はみんな下へ入らっしゃいます。それから肩や腰を滝でお打たせになる事も下ならできます」 湯壺から首だけ出したままで津田は答えた。
「ありがとう。じゃ今度そっちへ入るから連れてってくれたまえ」「ええ。旦那様はどこかお悪いんですか」「うん、少し悪いんだ」 下女が去った後の津田は、しばらくの間、「本当に療治の目的で来た客」といった彼女の言葉を忘れる事ができなかった。
「おれははたしてそういう種類の客なんだろうか」 彼は自分をそう思いたくもあり、またそう思いたくもなかった。
どっち本位で来たのか、それは彼の心がよく承知していた。
けれども雨を凌いでここまで来た彼には、まだ商量の隙間があった。
躊躇があった。
幾分の余裕が残っていた。
そうしてその余裕が彼に教えた。
「今のうちならまだどうでもできる。本当に療治の目的で来た客になろうと思えばなれる。なろうとなるまいと今のお前は自由だ。自由はどこまで行っても幸福なものだ。その代りどこまで行っても片づかないものだ、だから物足りないものだ。それでお前はその自由を放り出そうとするのか。では自由を失った暁に、お前は何物を確と手に入れる事ができるのか。それをお前は知っているのか。御前の未来はまだ現前しないのだよ。お前の過去にあった一条の不可思議より、まだ幾倍かの不可思議をもっているかも知れないのだよ。過去の不可思議を解くために、自分の思い通りのものを未来に要求して、今の自由を放り出そうとするお前は、馬鹿かな利巧かな」 津田は馬鹿とも利巧とも判断する訳に行かなかった。
万事が結果いかんできめられようという矢先に、その結果を疑がい出した日には、手も足も動かせなくなるのは自然の理であった。
彼には最初から三つの途があった。
そうして三つよりほかに彼の途はなかった。
第一はいつまでも煮え切らない代りに、今の自由を失わない事、第二は馬鹿になっても構わないで進んで行く事、第三すなわち彼の目指すところは、馬鹿にならないで自分の満足の行くような解決を得る事。
この三カ条のうち彼はただ第三だけを目的にして東京を立った。
ところが汽車に揺られ、馬車に揺られ、山の空気に冷やされ、煙の出る湯壺に漬けられ、いよいよ目的の人は眼前にいるという事実が分り、目的の主意は明日からでも実行に取りかかれるという間際になって、急に第一が顔を出した。
すると第二もいつの間にか、微笑して彼の傍に立った。
彼らの到着は急であった。
けれども騒々しくはなかった。
眼界を遮ぎる靄が、風の音も立てずにすうと晴れ渡る間から、彼は自分の視野を着実に見る事ができたのである。
思いのほかに浪漫的であった津田は、また思いのほかに着実であった。
そうして彼はその両面の対照に気がついていなかった。
だから自己の矛盾を苦にする必要はなかった。
彼はただ決すればよかった。
しかし決するまでには胸の中で一戦争しなければならなかった。
――馬鹿になっても構わない、いや馬鹿になるのは厭だ、そうだ馬鹿になるはずがない。
――戦争でいったん片づいたものが、またこういう風に三段となって、最後まで落ちて来た時、彼は始めて立ち上れるのである。
人のいない大きな浴槽のなかで、洗うとも摩るとも片のつかない手を動かして、彼はしきりに綺麗な温泉をざぶざぶ使った。
百七十四
その時不意にがらがらと開けられた硝子戸の音が、周囲をまるで忘れて、自分の中にばかり頭を突込んでいた津田をはっと驚ろかした。
彼は思わず首を上げて入口を見た。
そうしてそこに半身を現わしかけた婦人の姿を湯気のうちに認めた時、彼の心臓は、合図の警鐘のように、どきんと打った。
けれども瞬間に起った彼の予感は、また瞬間に消える事ができた。
それは本当の意味で彼を驚ろかせに来た人ではなかった。
生れてからまだ一度も顔を合せた覚のないその婦人は、寝掛と見えて、白昼なら人前を憚かるような慎しみの足りない姿を津田の前に露わした。
尋常の場合では小袖の裾の先にさえ出る事を許されない、長い襦袢の派手な色が、惜気もなく津田の眼をはなやかに照した。
婦人は温泉煙の中に乞食のごとく蹲踞る津田の裸体姿を一目見るや否や、いったん入りかけた身体をすぐ後へ引いた。
「おや、失礼」 津田は自分の方で詫まるべき言葉を、相手に先へ奪られたような気がした。
すると階子段を下りる上靴の音がまた聴こえた。
それが硝子戸の前でとまったかと思うと男女の会話が彼の耳に入った。
「どうしたんだ」「誰か入ってるの」「塞がってるのか。好いじゃないか、こんでさえいなければ」「でも……」「じゃ小さい方へ入るさ。小さい方ならみんな空いてるだろう」「勝さんはいないかしら」 津田はこの二人づれのために早く出てやりたくなった。
同時に是非彼の入っている風呂へ入らなければ承知ができないといった調子のどこかに見える婦人の態度が気に喰わなかった。
彼はここへ入りたければ御勝手にお入んなさい、御遠慮には及びませんからという度胸を据えて、また浴槽の中へ身体を漬けた。
彼は背の高い男であった。
長い足を楽に延ばして、それを温泉の中で上下へ動かしながら、透き徹るもののうちに、浮いたり沈んだりする肉体の下肢を得意に眺めた。
時に突然婦人の要する勝さんらしい人の声がし出した。
「今晩は。大変お早うございますね」 勝さんのこの挨拶には男の答があった。
「うん、あんまり退屈だから今日は早く寝ようと思ってね」「へえ、もうお稽古はお済みですか」「お済みって訳でもないが」 次には女の言葉が聴こえた。
「勝さん、そこは塞がってるのね」「おやそうですか」「どこか新らしく拵えたのはないの」「ございます。その代り少し熱いかも知れませんよ」 二人を案内したらしい風呂場の戸の開く音が、向うの方でした。
かと思うと、また津田の浴槽の入口ががらりと鳴った。
「今晩は」 四角な顔の小作りな男が、またこう云いながら入って来た。
「旦那流しましょう」 彼はすぐ流しへ下り立って、小判なりの桶へ湯を汲んだ。
津田は否応なしに彼に背中を向けた。
「君が勝さんてえのかい」「ええ旦那はよく御承知ですね」「今聴いたばかりだ」「なるほど。そう云えば旦那も今見たばかりですね」「今来たばかりだもの」 勝さんはははあと云って笑い出した。
「東京からおいでですか」「そうだ」 勝さんは何時の下りだの、上りだのという言葉を遣って、津田に正確な答えをさせた。
それから一人で来たのかとか、なぜ奥さんを伴れて来なかったのかとか、今の夫婦ものは浜の生糸屋さんだとか、旦那が細君に毎晩義太夫を習っているんだとか、宅のお上さんは長唄が上手だとか、いろいろの問をかけると共に、いろいろの知識を供給した。
聴かないでもいい事まで聴かされた津田には、勝さんの触れないものが、たった一つしかないように思われた。
そうしてその触れないものは取も直さず清子という名前であった。
偶然から来たこの結果には、津田にとって多少の物足らなさが含まれていた。
もちろん津田の方でも水を向ける用意もなかった。
そんな暇のないうちに、勝さんはさっさとしゃべるだけしゃべって、洗う方を切り上げてしまった。
「どうぞごゆっくり」 こう云って出て行った勝さんの後影を見送った津田にも、もうゆっくりする必要がなかった。
彼はすぐ身体を拭いて硝子戸の外へ出た。
しかし濡手拭をぶら下げて、風呂場の階子段を上って、そこにある洗面所と姿見の前を通り越して、廊下を一曲り曲ったと思ったら、はたしてどこへ帰っていいのか解らなくなった。
百七十五
最初の彼はほとんど気がつかずに歩いた。
これが先刻下女に案内されて通った路なのだろうかと疑う心さえ、淡い夢のように、彼の記憶を暈すだけであった。
しかし廊下を踏んだ長さに比較して、なかなか自分の室らしいものの前に出られなかった時に、彼はふと立ちどまった。
「はてな、もっと後かしら。もう少し先かしら」 電灯で照らされた廊下は明るかった。
どっちの方角でも行こうとすれば勝手に行かれた。
けれども人の足音はどこにも聴えなかった。
用事で往来をする下女の姿も見えなかった。
手拭と石鹸をそこへ置いた津田は、宅の書斎でお延を呼ぶ時のように手を鳴らして見た。
けれども返事はどこからも響いて来なかった。
不案内な彼は、第一下女の溜りのある見当を知らなかった。
個人の住宅とほとんど区別のつかない、植込の突当りにある玄関から上ったので、勝手口、台所、帳場などの所在は、すべて彼にとっての秘密と何の択ぶところもなかった。
手を鳴らす所作を一二度繰り返して見て、誰も応ずるもののないのを確かめた時、彼は苦笑しながらまた石鹸と手拭を取り上げた。
これも一興だという気になった。
ぐるぐる廻っているうちには、いつか自分の室の前に出られるだろうという酔興も手伝った。
彼は生れて以来旅館における始めての経験を故意に味わう人のような心になってまた歩き出した。
廊下はすぐ尽きた。
そこから筋違に二三度上るとまた洗面所があった。
きらきらする白い金盥が四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓の口から流れる山水だか清水だか、絶えずざあざあ落ちるので、金盥は四つが四つともいっぱいになっているばかりか、縁を溢れる水晶のような薄い水の幕の綺麗に滑って行く様が鮮やかに眺められた。
金盥の中の水は後から押されるのと、上から打たれるのとの両方で、静かなうちに微細な震盪を感ずるもののごとくに揺れた。
水道ばかりを使い慣れて来た津田の眼は、すぐ自分の居場所を彼に忘れさせた。
彼はただもったいないと思った。
手を出して栓を締めておいてやろうかと考えた時、ようやく自分の迂濶さに気がついた。
それと同時に、白い瀬戸張のなかで、大きくなったり小さくなったりする不定な渦が、妙に彼を刺戟した。
あたりは静かであった。
膳に向った時下女の云った通りであった。
というよりも事実は彼女の言葉を一々首肯って、おおかたこのくらいだろうと暗に想像したよりも遥かに静かであった。
客がどこにいるのかと怪しむどころではなく、人がどこにいるのかと疑いたくなるくらいであった。
その静かさのうちに電灯は隈なく照り渡った。
けれどもこれはただ光るだけで、音もしなければ、動きもしなかった。
ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。
渦らしい形を描いた。
そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。
彼はすぐ水から視線を外した。
すると同じ視線が突然人の姿に行き当ったので、彼ははっとして、眼を据えた。
しかしそれは洗面所の横に懸けられた大きな鏡に映る自分の影像に過ぎなかった。
鏡は等身と云えないまでも大きかった。
少くとも普通床屋に具えつけてあるものぐらいの尺はあった。
そうして位地の都合上、やはり床屋のそれのごとくに直立していた。
したがって彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。
彼は相手の自分である事に気がついた後でも、なお鏡から眼を放す事ができなかった。
湯上りの彼の血色はむしろ蒼かった。
彼にはその意味が解せなかった。
久しく刈込を怠った髪は乱れたままで頭に生い被さっていた。
風呂で濡らしたばかりの色が漆のように光った。
なぜだかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。
彼は眼鼻立の整った好男子であった。
顔の肌理も男としてはもったいないくらい濃かに出来上っていた。
彼はいつでもそこに自信をもっていた。
鏡に対する結果としてはこの自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に残っていた。
だからいつもと違った不満足な印象が鏡の中に現われた時に、彼は少し驚ろいた。
これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気がまず彼の心を襲った。
凄くなった彼には、抵抗力があった。
彼は眼を大きくして、なおの事自分の姿を見つめた。
すぐ二足ばかり前へ出て鏡の前にある櫛を取上げた。
それからわざと落ちついて綺麗に自分の髪を分けた。
しかし彼の所作は櫛を投げ出すと共に尽きてしまった。
彼は再び自分の室を探すもとの我に立ち返った。
彼は洗面所と向い合せに付けられた階子段を見上げた。
そうしてその階子段には一種の特徴のある事を発見した。
第一に、それは普通のものより幅が約三分一ほど広かった。
第二に象が乗っても音がしまいと思われるくらい巌丈にできていた。
第三に尋常のものと違って、擬いの西洋館らしく、一面に仮漆が塗っていた。
胡乱なうちにも、この階子段だけはけっして先刻下りなかったというたしかな記憶が彼にあった。
そこを上っても自分の室へは帰れないと気がついた彼は、もう一遍後戻りをする覚悟で、鏡から離れた身体を横へ向け直した。
百七十六
すると